今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

「迷信暦」の発売を禁止した日

2006-05-31 | 歴史
1941(昭和16)年の今日は(5月31日)は、 内務省検閲課が「迷信暦」の発売を禁止。大安・仏滅などの日の縁起や暦に附随する迷信などを擬暦として取締る。
暦に記載されている友引、仏滅など「六曜(六輝)」や「1白水星」、「九紫火星」など「九星」は、長い間慣習として伝わっているが、内務省では、時代に逆行する迷信と、全国に偽暦記事掲載出版物取締まりを通達した。同時に東京高島易断所ほか2ヵ所から発行されている擬暦を発売禁止処分にした。通達は将来、いっさいの大陰暦を廃して、太陽暦一本にする方針を示したもので、干支五行、二十四節気以外の六曜、十二直、二十八宿、九星、その他方位吉凶の記事を載せることを禁止した。(6月1日付東京日日新聞)
家を建てるときの「上棟式を、日曜日は先負だから火曜日の大安の日にしよう」とか、結婚式の日取りを決めるときに「仏滅の日は避けて、大安の日に結婚式を挙げよう」又、「友引の日に葬式をしない」などといったことにとらわれている人が今日でも、多くいるのではないか・・・。
今でも、手帳やカレンダーには、堂々と「六曜迷信」が記載されているものが多い。そして、縁起を担ぐ人たちには、結婚式など色々な行事がある時にはこれらを参考に決めている人が多いと思うが、貴方は結婚の日取りなどそのようなこと何も気にせず決めましたか・・・・?このようなことは迷信であり、それを暦に附随するものは擬暦だとして、1941(昭和16)年の今日、全国に取締まりの通達が出、それらの暦の販売を禁止されていたのに、どうして、今でも、これらが堂々とまかり通っているのだろうね~。私の家も毎年、新聞配達所から高島易断所からその年の「暦」を貰っているよ・・・。
ではこの良い日悪い日、大安とか仏滅とかはいつ頃どんな理由で我々の生活の中に入ってきたのだろうね~。
暦のことなら、以下参考の国立国会図書館HP「日本の暦」を読めばわかるが、暦注のことについては、”昔の暦は1冊の本になっていて、方角の吉凶などの非科学的、迷信的な注が多く書かれていました。この注のことを暦注と言います。”・・・くらいの簡単なことしか触れていないので、色々以下の参考に記載のものなどをみた結果、以下のようである。
先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口とこの六つの日を順に並べていったのが、六曜星とか六輝とか呼ばれているものだが、この六曜なるものが我々の日常の暦に取り入れられたのは、実は、1873(明治6)年旧暦(太陰太陽暦)から現在使用している新暦(太陽暦・グレゴリオ歴)になってからだというから面白いね~。
その起こりは「諸葛孔明六壬の時の課だと思われ、六曜によるもので、1ヶ月を5分割し、6日を1周期とするもので、現在でいえば「日・月・火・水・木・金・土」の7日を1周期にしているようなもの。六曜の曜とは、「光り輝く」と言う意味だそうだ。このような考え方は暦と共に、奈良時代に中国から入って来た。
しかし、渡来した当初の「六曜」は、「大安(たいあん) 」「留連(「りゅうれん)」「 速喜(そっき) 」「赤ロ (「しゃっく)」「小吉 (「しょうきち)」「空亡 (くうもう)」といったもので、あったが、これを、江戸時代に、故意に名前や順序を変えて、現在あるような「六曜」がつくられたそうだ。本来は、旧歴の朔、つまり、月の第一日を順次この六曜にあてはめたもので、旧歴ではその仕組みが見通せたために「六曜」を迷信とは考えていなかった。しかし、旧歴には、ともすれば五行説や、九星とともに、人生の吉凶、運勢をみる暦注が伴っていたので、1941(昭和16)年5月31日 以前の807(大同2)年、1872(明治5)年にも暦注の禁止令が出ていたという。
暦注とは、古暦で日付など暦の本体の下に、2段に分けて記される注記事項。中段には十二直に関する事項が書かれ、下段には様々な日の吉凶に関する事項が書かれる。
五行説とは、中国古来の世界観。木・火・土・金・水の五つの要素によって自然現象、社会現象を解釈する説。(十方暮や丙午など)
九星とは、中国から伝わり、陰陽道を通じて広められた、性格や運勢、家相などの吉凶を占う基準。(五黄、土星、暗剣殺など)
1872(明治5)年、太陽歴を採用することになった理由の一つには、旧歴には、「五行説」や「九星」といった迷信の暦注が多くの弊害をもたらしたために、人心の一新をねらったものであることはよく知られており、かつては、迷信として考えていなかった六曜が、現代に至って迷信を助長させる結果になっているのはどうしてか・・・・?。
それは、日本人の多くの人たちが、人生を生きていくうえでの、確とした人生哲学や宗教を持っていないからだろうと思われる。自分の大事な一生をl迷信に頼らず。自身を持って生きれるようにしたいものだね。詳しく知りたい方は、以下参考に記載のHPを見られると良い。
(画像は、高島易断本暦)
参考:
日本の暦(国立国会図書館HP)
http://www.ndl.go.jp/koyomi/index2.html
大安吉日とは
http://www.chiba-jk.or.jp/a/kasou2/index.html
暦注について~大安・仏滅って何?平成の今に残るバカバカしい迷信
http://homepage2.nifty.com/o-tajima/rekidaso/calendara.htm
暦と迷信
http://www2u.biglobe.ne.jp/~gln/77/7740/774007.htm
浄土真宗 本願寺派 河久保同行の部屋:仏前結婚式のQ&A
http://www7.ocn.ne.jp/~kokubo/wedding5.htm

掃除機の日

2006-05-30 | 記念日
今日(5月30日)は、「掃除機の日」
日本電機工業会が1986(昭和61)年に制定。ダニやカビが多く発生する梅雨どきに向けて、掃除の大切さを呼びかける日だそうだ。
私のような年代のものは掃除機と聞くと、戦後間なしのアメリカのチャック・ヤングの漫画を思い出す。戦争でアメリカに負けたが、チャック・ヤングの漫画「ブロンディー」の世界は、悔しいがまぶしいものであった。その日の食べるものもままならない時代、漫画の主人公がぱくつくサンドイッチの特大の厚さに苛立ちを覚えながらもその世界に惹かれた人は多いのではないか。
アメリカの人気漫画「ブロンディー」が朝日新聞に連載されたのは、1949(昭和24)年1月から1951(昭和31)年4月まで。賢婦人のブロンディーと勤め人ダグウッド一家の平凡だが幸せな生活を描いた漫画は、敗戦で喘ぐ日本人に余りの豊かさを伝える「教材」ともなった。当時の日本の家庭から見れば超豪華な部屋と家具、それに家電製品をうらやましくみたものだ。例えばそこに登場する超大型の冷蔵庫や電気掃除機・洗濯機など。超大型冷蔵庫の中には溢れんばかりの食品がずらりと並んでいる。日本人が寒い寒中盥(タライ)に水を張り皸(あかぎれ)だらけになっているのに、電気洗濯機が勝手に洗濯をしてくれる。日本人が箒(ほうき)で誇りをたてながら部屋を掃除しているのに、広い部屋を電気掃除機でスイスイと掃除をしている。アメリカのごくありふれた家庭が、かくも豊かな生活をしているのかと日本人はオドロキの目をもって漫画を見た。まさに、ブロンディーの生活水準は高嶺の花。日本の家庭の戦前・戦後の生活レベルとアメリカのそれとの歴とした格差に一等国と四等国の違いを見、日本がアメリカに負けたことが、当然のこととして納得もさせられた。
そして、一日も早くそんな生活がしたいと、皆必至に頑張った。当時の日本人に、世界一の経済大国になろうといったような野望があったわけではなく、ブロンディーと同じ様な、小市民的で平和な生活への憧れをもっていただけなのではないか・・・。
1945(昭和20)年に終戦後1952(昭和32)年4月までGHQ(連合国軍総司令部)が日本に駐在していた。そして、その進駐軍のため日本の電機メーカーに電気洗濯機などを作らせた。日本も本格的に白物の電気製品をつくるきっかけになったのはここからである。掃除機について言えば、国産初の電気掃除機は1931(昭和6)年に、東芝より発売された。
以下参考の「東芝科学館 - 東芝一号機ものがたり:わが国初の電気掃除機」によれば、”「ほうき」に代わる電気掃除機はゴミも小さな塵も一緒に清掃したいという欧米で考案され、最も原始的な掃除機は1858年に米国のへリックが考案した絨毯用掃除機で、その後、1899年(明治32)、米国ゼネラルコンプレスト・エア&バキューム社の空気ポンプを利用したアップライト型真空掃除機が発明された。これは高速回転させた電動送風機を内部の空気の遠心力で移動させ、大気圧より低圧にしてゴミや小さな塵を吸引するという基本原理で、現在とほとんど変わらない画期的な製品だった。日本に輸入されたのは大正初期で、ごく一部の家庭でしか使用されなかった。そして、1931(昭和6)年、東芝の前身である芝浦製作所がGE社製をモデルに開発したアップライト型国産第一号のVC–A型を発売。価格は110円で当時の大卒初任給の約2ヶ月分に当たった。」とある。詳しくは、同HPを参照されたい。
しかし、当時の日本の住宅は畳みが殆どのためなかなか普及しなかった。1950(昭和25)年、日本は幸運にも、朝鮮動乱特需により、戦後の景気低迷から脱出することになる。1953(昭和33)年には、街頭テレビが人気を呼ぶようになり、蛍光灯が普及し始める。そして、1954(昭和29)年には、電気冷蔵庫・洗濯機・掃除機が「3種の神器」に挙げられ、その後の電気製品の普及の端緒となった。しかし、この「3種の神器」の中でも、当時「電気掃除機」の必要性はまだまだ低かった。それは、日本家屋ではまだ畳の部屋が多く、米国文化のように土足で家に上がることもないので、箒での掃除でも十分楽だったからである。だから、翌1955(昭和30)年に発売された電気釜の方が手間を省くという点では大きく貢献をしたといえるだろう。電気掃除機が一般家庭に普及し始めたのは、じゅんたんを敷いた洋室が増えはじめた1960(昭和35)年代以降のことである。電気釜は他のものと比較して価格そのものが安かったため発売以来普及は早かった。普及率の統計をとる時期そのものが遅かった電気掃除機が最初の統計の1960年において7.7%、であったのに対し、掃除機より後で発売された電気釜はそのとき31.0%にもなっていた。
しかし、その後の日本は飛躍的な経済成長をし、平均的な日本国民の生活は、あこがれていたブロンディーの生活水準以上になっているのではないか。アメリカ文化にあこがれていた日本の家屋は洋風化し、今では、畳敷きの和室よりも、絨毯やフローリングの洋室が増え、電気掃除機は家庭の必需品になったと言えるだろう。しかも、最近はロボット化が進み、お掃除ロボットまで出来ている。しかし、これだけ便利になっても、お掃除を余りしない人が大勢いるようだ。人間って、便利になれば、なったで、益々、怠け者になっていくようだね~。(画像は、「チャック・ヤングの漫画「ブロンディー」の賢婦人にブロンディー上と夫のダグウッド。朝日クロニクル・週刊20世紀より)
参考:
日本電機工業会
http://www.jema-net.or.jp/
掃除機 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%83%E9%99%A4%E6%A9%9F
消費革命(consumer revolution)
http://www.ec.kagawa-u.ac.jp/~hori/yomimono/c_revol.html
東芝科学館 - 東芝一号機ものがたり:わが国初の電気掃除機-
http://kagakukan.toshiba.co.jp/history/1goki/1931cleaner/index.html
家事調査まとめ
http://dr1.biglobe.ne.jp/business/report/re031217/001.html
間違いだらけの掃除機選び(食品と暮らしの安全基金HP)
http://www.tabemono.info/cleaner/
掃除機: ヨドバシ・ドット・コム
http://www.yodobashi.com/enjoy/more/cm/cat_162/180.html


エベレスト登頂記念日

2006-05-29 | 記念日
今日(5月29日)は、「エベレスト登頂記念日」
1953(昭和28)年5月29日、ニュージーランドのエドモンド・ヒラリーとシェルパ族のテンジン・ノルゲイが、世界で初めて世界最高峰のエベレストの登頂に成功した。
エベレストは、世界で最も高い山であり、最もよく知られた山の一つである。
標高については諸説あるが、1954年にインド測量局が周辺12ヶ所で測定し、その結果を平均して得られた8848mが一般に認められているようだ。なんでも、地殻変動、地球温暖化による影響などもあり、標高は年々変動しており、年々高くなっていると考えられているそうだ。英名のエベレストはヒマラヤ山脈を測量した時にインド測量局長官であったイギリス人のジョージ・エベレスト (George Everest) にちなむものであり、チベット名は、「チョモランマ(Chomo Langma) 」。
その高さゆえ、エベレストの頂上に到着することは困難で、20世紀前半、多くの人々が、エベレスト登頂に挑戦してきた。
英国山岳会が1921年に第一次遠征隊を派遣。エベレスト登山史の幕開けである。ジョージ・マロリー(George Mallory)も、そこに参加した者の一人である。翌1922年の登頂目的で編成された第二次遠征隊で登頂チームのメンバーとなった。5月20日のアタックで8,225mまで到達。人類史上初めて8,000mを越えた。しかしこの時は雪崩による死亡事故もあり、登頂は断念。
翌、1924年6月8日、イギリス第三次遠征で、第二次アタック隊としてマロリーとアーヴィンがチベット側から頂上に向かった。途中第2ステップと呼ばれる切り立った岩壁の難所を登るところまでは目撃されていたが、その後行方不明となった。第三次アタック隊がマロリーの登頂に懐疑的な立場を取ったため、マロリーらが登頂を果たしたかどうかはエベレスト登山史上最大の謎となっている。
1951年イギリス隊(隊長:エリック・シプトン)がネパール側よりアタック。難所アイスフォールを突破し、現在のノーマルルートの南東稜ルートを発見した。
そして、1953年の今日(5月29日)、イギリス登山隊のエドモンド・ヒラリーとシェルパのテンジン・ノルゲイが登頂に成功した。現時点ではこれが歴史上初のエベレスト登頂成功とされている。
1999年5月1日、アメリカのマロリー&アーヴィン捜索隊が、標高8,230m付近でジョージ・マロリーの遺体を発見。マロリー達はコダック社のカメラを持参していた。このカメラが発見されたならばエベレスト登山史上最大の謎が解けることになるが、未だ発見するに至っていない。しかし、登頂に成功した暁に置いてくるつもりだった彼の妻の写真が遺留品に無かった事から、ジョージ・マロリーが登頂に成功していたのではないかという説を唱える人も多いという。
エヴェレストの山頂をエドモンド・ヒラリーとシェルパ族のテンジン・ノルゲイによって制覇される約30年も前に、ジョージ・マロリーは山頂近くでその姿を確認されたまま行方不明となったものの、発見された当時の写真を見ると、ツイード・ジャケットにゲートルを巻いた程度の軽装で、現在であれば、富士山にも登れないような格好をしていたといわれ、そのような軽装備で約8,200mまで登った事自体が賞賛に値するといわれている。
又、マロリーが再度エベレストに登頂しようとしたその前年の1923年にニューヨーク・タイムズ紙のインタビューで、「なぜエベレストに登るのか?」という質問に対して、彼は"Because it is there."(そこにそれがあるから)と答えた。"it"(それ)とはエベレストを指すものであり、日本語では「そこに山があるから」と訳され、登山家の信念を表す名言として今日まで語り継がれているが、実はこれは意訳で、正確には、以下のように言ったというのである。
「なぜ、エヴェレストに登るのか?」との記者からのしつこい質問に対して、「そこに、それ(人類未踏の最高峰)があるからだ」・・・・と。彼は、死にゆくその瞬間まで絶対に登頂をあきらめようとしなかっただろう。意訳はどうあれ、登山家の信念を表す言葉には変りはない。
なお、エドモンド・ヒラリーの世界最高峰登頂に同行したシェルパ、テンジン・ノルゲイはネパール人と信じられていたが、実はチベット人だった。全世界で名高いシェルパは、実は本当のシェルパ(この場合シェルパ族)ではなかったというのだ。テンジンの国籍がどこかを明らかにすることについては、当時の周辺国家間の微妙な問題があったようだ。以下参考の「エベレスト初制覇した男の隠された過去(ダライラマ法王日本代表部事務所HP)」を見るとわかる。又、英名の「エベレスト」は、チベット人とシェルパ族は昔から「チョモランマ」と呼んでおり、テンジンの母が「高すぎていかなる鳥も超せない山」と言っていたが、一般的に「母なる大地の女神」と訳されてきたという。
とに角、「高すぎていかなる鳥も超せない山」を多くの人たちが色々な形で登頂に挑戦してきたが、日本人初登頂は、1970年5月11日-松浦輝夫・植村直己 。女性世界初登頂は、1975年5月16日- 田部井淳子 。そして、最年長登頂は、2003.5.22-三浦雄一郎 (70歳)が、二男豪太,33歳/プロスキーヤーと共に登頂等日本人も頑張っている。そして、「無酸素初登頂 」「最多登頂」「単独初登頂」「最年少登頂」「盲人初登頂」「最短時間登頂」「頂上最長時間滞在 」「登頂者数」の記録など、まるで、ヒマラヤのオリンピックとまで言われ、 今では、エベレストに登山者が詰め掛け、多くのキャンプ地と使用済みの固定ロープのゴミが散在しており、フランス人登山家シェリー・ルノーは息子のへその緒を頂上に納め、アメリカ人登山家がそこでカウボーイの格好をしてロデオの投げ縄を演じるなどして、いまやエベレストで珍事が行なわれるまでになっているそうだ。
そんな中で、エベレスト頂上の最初の登山者であるエドモンド・ヒラリー卿は、エベレスト登頂後は、イギリスの南極横断遠征隊に参加し、1958年トラクターで南極点に到達。1953年7月16日にイギリス王室より騎士叙勲を受け、1995年4月23日にはイギリスよりガーター勲章を授与された。また慈善団体「ヒマラヤ基金」を創設し、ネパール・ナムチェバザール地区の開発に力を注いでいる。彼の息子・冒険家のピーター・ヒラリーは、2002年に、エベレスト登頂50周年を記念して、テンジン・ノルゲーの孫、タシ・ワンチュク・テンジンとともにエベレストの登頂に成功している。エドモンド・ヒラリーは現在、ニュージーランドで養蜂業を営んでおり、ヒマラヤン・アドベンチャー・トラストという組織をを設立。それは自然を保存することを目指し、時々清掃登山を行っているそうだ。
日本の富士山もマナーの悪い登山者の為に塵だらけで、世界遺産にも選ばれなかったといわれているが、ヒマラヤまでが、塵だらけになっているとは困ったものだね~。
(画像はヒマラヤ。フリー百科事典『ウィキペディアより)
参考:
エベレスト-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%99%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%88
エベレスト初制覇した男の隠された過去(ダライラマ法王日本代表部事務所HP)
http://www.tibethouse.jp/news_release/2000/Tenzin_Norgay_Dec24_2000.html
シェルパ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%91
何が、エベレスト山で起こっていますか?
http://www.asahi-net.or.jp/~nm3k-tgc/mountain/everest-j.html
日本人登頂者一覧
http://www.everest.co.jp/everest95/summiter-j.htm
三浦雄一郎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E9%9B%84%E4%B8%80%E9%83%8E

花火の日

2006-05-28 | 記念日
今日(5月28日)は、「花火の日」
1733(亨保18)年5月28日、隅田川で水神祭りの川開きが行われ、慰霊を兼ねた花火が打ち上げられた。他に 8月1日 も花火の日 らしい。
花火のルーツは古く、紀元前3世紀の古代中国では、すでに火薬の原料となる硝石が発見されていたので、その硝石を緊急連絡用の通信手段「狼煙(のろし)」として使ったのが、花火の起源だったようでだ。そして12世紀中期から後期、中国では花火の原型となる爆竹やねずみ花火に近い物が作られ、王侯貴族に限らず庶民が街頭で遊ぶ姿も見られたという。その後、1400年頃ヨーロッパ方面に伝えられ全土に広がり、火薬と花火製造がさかんに行われ、この時代、ヨーロッパの花火は主に王侯貴族のものであり、王の権力を誇示するため、王が催すイベントなどで上げられたという。
日本で花火が製造されるようになったのは16世紀の、鉄砲伝来以降である。
記録に残っている日本の花火第1号は大きく遅れて、1589(天正17)年に伊達正宗が米沢城でで花火を楽しんだものだとも、1613(慶長19)年に徳川家康が江戸城内で花火を見物したものだとも言われているが、こうしてようやく日本にも花火が登場したわけであるが、そのほとんどは外国製であり、大きな花火の大半は外国人によって打ち上げられていたようだ。江戸時代になり、戦がなくなると、1623(元和6)年には、徳川家光が花火を奨励し、1635(寛永12)年頃、各藩の砲術師達が火薬を平和利用して花火を揚げたのではないかと言われ、やがて花火は将軍家や諸大名など身分の高い人々の間で広まり、大川端(隅田川)の下屋敷では、花火を打ち上げるのが年中行事になったようだ。
当初の納涼花火は、諸大名が屋形船に、遊女を伴って酒をくみ交わしつつ涼をとったのが始まりで、花火を売る船が多数の屋形船の間を漕ぎまわり、客の注文に応じて花火を上げるという豪勢なものであった。花火の流行は江戸の町民にも広がり、市中でも花火を上げていたが、そのため、花火による火災も度々発生、ついには1648(慶安元)年 「花火禁止令」が出され、その後も、度々火災が発生したのだろう、度重なる禁上令が出ており、江戸市中での花火が禁じられ、大川端でのみ花火が許されるようになったため、夏の納涼期には花火舟が出て、かなり繁盛していたようだ。
1659(万治2)年、両国橋完成。このころ大和国(奈良)篠原村から鍵屋弥兵衛(初代鍵屋)が江戸花火の人気を聞き、堺、岡崎で火薬を学びながら、江戸にやってきて、日本橋横山町に「鍵屋」の看板をあげ、民間の花火専門業者としておもちゃとしての花火の製造を始める。そして、鍵屋がはじめて隅田川で花火を揚げたのは1711(正徳元)年だとされている。当時は、鍵屋のような花火専門業者の花火は町人花火と呼ばれ、これらに対して、大名らが配下の火薬職人らに命じてあげさせた花火は武家花火と呼ばれ、特に、火薬製造が規制されなかった尾張藩、紀州藩、水戸藩の3つの徳川家の花火は御三家花火と呼ばれ、江戸町人らに人気があったという。ただ、武家花火は、戦に用いる信号弾のようなものが進化したもので、色や形を楽しむ町人花火とは、方向性が若干異なるそうだ。しかし、1657(明暦3)年明暦の大火、いわゆる振紬火事で江戸は全くの焼野原になり、盛んだった舟遊びも一時姿を消していた。
そして、1733(亨保18)年、ひどい飢饉が起こったうえ、コレラが大流行し多数の死者が出た。この事態を重く見た八代将軍吉宗は、この年の今日(5月28日)、疫病死者の慰霊と悪霊退散を祈り、隅田川で水神祭りを行い、花火が打ち上げられた。これが後年、「両国川開き」として恒例化していき、毎年5月28日から8月28日まで隅田川に涼み船を出すことが許され、初日には花火を打ち上げることになった。その後商人達の間で花火がブームになり花火の文化が江戸に広まった。ただ、打ち上げ花火は、1751(寛延4年・宝暦元)年頃に開発されたとされており、それ以前の花火は、煙や炎が噴き出す花火であったと考えられている。
そして1810(文化7)年 、鍵屋にいた清七という腕の良い職人が、代々弥兵衛を名乗る鍵屋から暖簾をわけてもらい、両国吉川町に分家「玉屋」を興し、玉屋市弥兵衛を名乗ることになった。以降、大川端の川開きは「鍵屋」「玉屋」時代を迎える。花火が揚がると「かぎや~!」「たまや~!」と掛け声をあげるのは、この江戸時代の花火業者「玉屋」と「鍵屋」に由来している。ところが、1843(天保14)年、「玉屋」は火災をおこして全焼、江戸所払いになり、一代限りで栄光の座を失う。一方の 「鍵屋」は第二次世界大戦期に13代天野太道が花火製造を取りやめ、現在は打ち揚げ専業業者となっている由。
江戸時代の日本の花火の色の主体は、炭火色の、いわゆる「和火」と呼ばれているものだそうだ。硝石・硫黄・木炭を主として作られた火薬で、色は赤橙色であったという。当時書かれた浮世絵にも、花火の色は赤橙色一色である。
以下参考の「国立歴史博物館」にある「両国大花火夕涼之景 豊原国周作」及び、「両国花火之三曲 延一作」を見ると、その様子がよくわかるよ。
明治維新の頃になると、外国から様々な発色剤が輸入され、これらを使って花火作りに成功したのも、鍵屋だったそうだ。花火に色が加えられ観客を喜ばせた。この頃からの新しい色を『洋火』とよぶそうだ。今では隅田川花火大会として全国的に有名な行事となっている。花火に関しては特に江戸での記録が多く残っているが、これ以外の地方でも花火の製造はおこなわれていたわけであり、特に、外国と交易のあった九州と、長野、愛知などでは、江戸時代から花火がつくられていた。特に、三河国岡崎地方(現在の愛知県岡崎市付近)は徳川家康の出身地ということで、火薬に関する規制がゆるやかであり、江戸時代から町人が競って花火を製造していた。現在も岡崎周辺におもちゃ花火問屋が多いのはこの名残だといわれる。これ以外の現在の花火の主な産地は長野県、新潟県、秋田県、茨城県で、徳川家にゆかりのある地方が多いようだ。
今では、どこの地方でも夏になれば、花火大会が行われているようだが、もともとは、西洋のほうが歴史のある花火も、日本人の手によって、凄く、芸術的な花火になったよね~。花火でも、今までの日本人の技術力の高さが証明されているが・・・。これからはどうなんだろうね???
以下参考のものの中では、「花火~夜空を彩る大輪の華~(川の博物館HP)」が花火の画像も多くわかりやすいよ。
(画像は、歌川広重「名所江戸百景 両国花火」。江戸東京博物館蔵 )
参考:
花火 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E7%81%AB
屋形船 江戸屋たかはし丸:花火の歴史
http://www.takahashimaru.com/hanabihistory.html
花火の歴史
http://www.mof.co.jp/main/word/histry.html
花火の歴史
http://www.satoenka.jp/history/history.html
国立歴史博物館
http://www.rekihaku.ac.jp/index.html
花火~夜空を彩る大輪の華~(川の博物館HP)
http://www.river-museum.jp/tokuten/2003_hanabi/hanabi-top.htm


日本海海戦の日

2006-05-27 | 記念日
今日(5月27日)は、「日本海海戦の日」。
日露戦争でロシアのバルチック艦隊と東郷平八郎司令長官の率いる日本艦隊が日本海で海戦。
1905(明治38)年5月27日、ロシアはバルチック艦隊を大西洋、インド洋経由で日本海に送り込んできた。東郷平八郎を司令長官とする日本の連合艦隊はこれを対馬沖で発見。
「興国の興廃此の一戦に在り、各員一層奮励努力せよ」の檄に、旗艦「三笠」のマストに此の信号を意味するZ旗が揚がった。連合艦隊は、バルチック艦隊の攻撃を受けながら、後に「東郷ターン」と呼ばれる丁字型陣形をとり、敵前回頭して南下、そして、敵艦に対して一斉砲撃を開始。戦闘が始まって、1時間後にはバルチック艦隊の敗北が明らかになった。5月27~28日にかけての日本海大海戦で連合艦隊は圧倒的な勝利を収めた。
指揮した東郷平八郎の名は国民の脳裏に強く刻み込まれ、日本海海戦の名提督として世界に喧伝されることとなった。この海戦は、日本以外では、「対馬海戦 (Battle of Tsushima) 」と呼ばれている。又、日本海海戦の戦闘中、東郷はZ旗を掲げたが、この後日本海軍が重要な海戦においてZ旗を掲げるという先例となった。
日露戦争において、この年の3月に陸軍は奉天を陥落させ、5月に海軍はバルチック艦隊を撃滅した。同じ勝利であっても、陸軍での長く厳しい戦いに比べれば、海軍の戦いはあっけない勝利であった。そして、ロシア艦隊は戦力の大半をこの海戦で失った。《ロシア海軍側の損害は沈没19隻(うち戦艦6、装甲巡洋艦3)、捕獲・抑留7隻(うち戦艦2)》。一方、日本側の損失は水雷艇3隻沈没の軽微で、海戦史上極めてまれな一方的完勝となった。
しかし、勝ったとはいえ、なお戦うには、日本の戦力も限界に達していて、兵士も食料も弾薬も、なにもかもが足りなくなっていた。一方のロシアも、日本海海戦で全滅、さらに国内では革命機運が高揚し、戦争を続けられる状況ではなかった。
しかし、この海戦における日本の鮮やかな勝利は、世界を驚かせ、これを契機に当時のアメリカ大統領・セオドア・ルーズベルトの斡旋により、アメリカのポーツマスでの日露講和会議への道が開かれることになった。日本国内の各地では日本海海戦の祝勝会が催された。そして、同年9月5日、日比谷焼き討ち事件が調印が行われたこの日、東京・日比谷公園では講和に反対する国民大会が開かれた。日本はこの条約で占領下の樺太の北半分をロシアに返還することとなり、賠償金の要求も放棄することを余儀なくされた。日露戦争を大勝利と伝える報道を信じていた日本国民はこの条約での譲歩に納得できなかった。閉会後、憤懣やる方ない群集が警察署や新聞社などを襲う日比谷焼き討ち事件を起こすこととなったのである。しかし、この条約で日本の朝鮮支配の条件は整えられ、満州進出の地歩を固めることとなった。そして、ロシアから樺太の南半分を譲り受けた。日本にとっても、兎に角これで戦争は中止できたのである。なお、セオドア・ルーズベルト大統領はこの条約の功労が評価されて、後にノーベル平和賞を受賞している。
「ネルソン100年記念日」に当たる1905(明治38)年10月21日、東郷平八郎司令長官の率いる連合艦隊が東京湾に凱旋。ネルソンの名誉ある旗信を掲げて連合艦隊の勝利が祝福された。そして、東郷司令長官は、市民の歓迎を受けた後、翌日上京参内した。又、10月23日には、東京湾上での凱旋大観艦式が行われ、数万人の観客に祝福されたという。
この日本海海戦に因んで、この戦い以降、戦前は5月27日を「海軍記念日」としていたが戦後廃止されたが、現在でも日本海海戦記念式典が毎年開催されている。
日本海海戦時に連合艦隊旗艦だった「三笠」は横須賀の三笠記念公園に保存されている。昨2005年、そこで、は日本海海戦100周年記念式典が催されている。
「皇國興廃在此一戦」(皇國ノ興廃此ノ一戦ニ在リ)・・・港には、こんなプレートがさりげなく立っている。・・・もう、このような戦いはあってほしくないものだ・・・。
以下参考の「歴史記録映像-明治38年」の中に収められてい【日本海海戦】 では、日本の連合艦隊の海戦のようす。【ポーツマス条約】では、パレードする日本代表団、ホテルと会議場が対岸にあるため船に乗込む代表団の様子が見れるよ。
又、明治の末期になるとこの対露戦のために、海軍の演習が盛んに行われた。この当時の演習は殆どは私の地元神戸沖で行われている。開港後の神戸が華やかなりし頃である。
私のHPの別館CollectionRoomの「日露戦と観艦式」には私の絵葉書のコレクションの案内もしているので、興味のある人は見てね。
(画像は、コレクションの絵葉書「明治神宮外苑聖徳記念絵画館壁画」の1枚「日露役日本海海戦」の画である。)
参考:
日露戦と
日本海海戦 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%B5%B7%E6%B5%B7%E6%88%A6
ポーツマス条約 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%84%E3%83%9E%E3%82%B9%E6%9D%A1%E7%B4%84
ホレーショ・ネルソン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BB%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%B3
日本海海戦100周年記念式典
http://sakanouenokumo.hp.infoseek.co.jp/nihonkai100.htm
記念艦三笠 (公式サイト)
http://kinenkan-mikasa.or.jp/index.html
歴史記録映像-明治38年
http://www2.edu.ipa.go.jp/gz/p-rek1/p-mei1/p-m03/IPA-rek120.htm