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米国のテレビドラマ『ローハイド』(西部劇)が日本で放送開始された日

2015-11-28 | 歴史
ローハイド』(Rawhide)は、1959年1月9日~1965年12月7日までアメリカCBSで制作・放送されたドラマ(テレビ映画西部劇)である。
日本では、10ヶ月後の1959(昭和34)年の11月28日~1965(昭和40)年10月14日まで、NET(現:テレビ朝日)系で放送された。その後、数度再放送が行われ、最近では2006(平成18)年にNHK-BS1でも放送された。


「INCIDENT OF THE CALICO GUN(おとりの女)」は、『ローハイド』第1シーズン[1-15]、1959年4月24日(日本放映日1960/3/5)のものである(*2参照)。

西部劇(Westernの訳語)は、アメリカの映画とともに歴史を歩んできた。そして西部劇はハリウッドが築き上げた独自のジャンルであり、西部開拓の歴史を持つアメリカだからこそ生まれたとも言える。
19世紀後半の特に1860年代から1890年代にかけてアメリカの西部開拓時代に、フロンティアと呼ばれた未開拓地であったアメリカ西部を舞台にした西部劇は、開拓者魂を持つ白人の主人公が西部の荒野で、逆境にも立ち向かい、無法者や先住民と対決するというプロット(物語)が、アメリカ人の開拓者精神と合致し、大きな人気を得て、20世紀前半のアメリカ映画の興隆とともに映画の1つのジャンルとして形成されたもので、第二次世界大戦が終わる頃まで、アメリカ映画の中でも確固とした地位を築いていた。
そして、戦後はテレビの登場とともに数多くのテレビ西部劇が製作され、それらは1960年代初頭まで隆盛を誇っていた。
テレビの実験放送が日本で開始されたのは1939(昭和14)年3月のことであるが、日本放送協会(NHK)のテレビ放送開始(日本での地上波テレビ放送の開始)は、戦後の1953(昭和28)年2月1日のこと。そして同年8月28日に、日本テレビが、放送を開始、これが、民放での、初めてのテレビ放送開始である。
続いて、1955(昭和30)年4月1日 、 ラジオ東京(KRT・KRテレビ、現:TBSテレビ)がテレビ放送を開始以降、次々と、特に 1958(昭和33)年から1959(昭和34)年にかけて多くの局が開設された。
当時の主な番組は大相撲、プロレス、プロ野球などのスポーツ中継や、記録映画など。まだ放送が開始された当初のテレビは高価なものであり、一般人には買えないため、多くの大衆は繁華街や主要駅などに設置された街頭テレビや、喫茶店、そば屋などが客寄せに設置したテレビ、また、一部の富裕世帯宅で見ていたが1959(昭和34)年4月10日の皇太子明仁親王今上天皇)御成婚の中継をきっかけにテレビ受像機が一般に普及し始めた(ミッチーブームが起こる)。これは、1950年代の映画黄金期(第二黄金時代)以降年々縮小傾向にあった、日本の映画業界には大きな打撃を与えた。
そのため、この頃より、東映を除く映画会社が、テレビへの作品販売や所属俳優の出演を拒否したため、代替として、アメリカ製のホームドラマや当時アメリカで隆盛を誇っていた西部劇などが多く輸入され、当時のテレビ番組の主力として高い人気を博していた。このような、傾向は1970年頃まで続いたが、これが、アメリカ的生活様式を日本の家庭に浸透させる要因にもなったといえる(アメリカ合衆国のテレビドラマ一覧〔年代順〕参照)。
1959(昭和34)年2月1日に教育テレビ局としてスタートしたばかりのNET(現:テレビ朝日)が、当時、単発番組を除いてテレビ映画としては初の一時間枠の西部劇『ローハイド』『ララミー牧場』をゴールデンタイムにぶつけて、他局に対抗した(当時の西部劇は30分ものばかり)。
ブラウン管白黒テレビが、やっと日本の家庭に普及し始めたころ、茶の間に人気を博したのが、先行した「ローハイド」であった。それに続き放送された「ララミー牧場」も1959年から1963年にかけてアメリカのNBCで放送されたものであり、60年代前半のテレビ西部劇の黄金期にローハイドと並んでもっとも視聴率が高かった番組であった(「ララミー牧場」の日本での放送は、1960年6月30日から)。

勇壮なメロディーとフランキー・レーンの力強い唄いっぷり。ネッド・ワシントン(ここ参照)作詞、ディミトリー・ティオムキン作曲によるテーマ曲「Rawhide」は、ポピュラー音楽としても大ヒットした。

ローレン、ローレン、ロレーン・・・・ローハイド! ♪

歌の冒頭部分は確かに、ローレンローレンローレン・・・と、聞こえるが英語の歌詞を見るとRollin' Rollin' Rollinとなっている。日本語読みではローレンではなくローリングなのだが、の意味がよく分からなかったが、これは、どうも、牛をあやつる掛け声のようで、進め!とか 行け! という感じらしい(ここ参照)。
この歌の合間には牛を追う掛け声やピシッ! ピシッ!と鳴り響く鞭の音も入っている。
英語の"Rawhide"(ローハイド) は、直訳すれば「ロウ(raw、生の)」+「ハイド(hide、皮)」、つまり「生皮(きかわ)」「生皮の鞭」「生皮の鞭で打つ」などを意味するが、そこから派生してカウボーイ達のズボンの上から着用する革製のズボンカバー(チャップス)のことを指す言葉でもあり、更にはそこから、カウボーイ達そのものを指す言葉ともなっているようだ。
したがって、タイトルの『ローハイド』の意味するところには、荒野の中を牛の大群を追うカウボーイといったところでもあるようだ。CBSで制作開始時の仮タイトルは「アウトライダー」(牛の群れの外側から牛を追い立てるカウボーイの意味)だったらしいが、CBSのウィリアム・S・ペイリー会長が反対し、「生皮」を意味する「ローハイド」と名付けたのだという(*2参照)。
『ローハイド』、は、南北戦争後の1870年代のアメリカ西部を舞台に、テキサス州サンアントニオからミズーリ州のセデリア(ローハイドの中ではセデリアと言っているが地名は“SEDALIA”と書き、カタカナ書きではセダリアだが?)まで、約3000頭の牛を運ぶカウボーイ達の牛を狙うインディアンや強盗、あるいは、日照りや雷雨・砂嵐といった自然との戦い、また、仲間同士のトラブルなどの克服といった長い道中ロングドライブで起こる,様々な出来事や事件を描いた物語である。
この物語の魅力は、運ばれる牛の大群が画面いっぱいに咆哮する迫力ある映像もさることながら、汗と誇りにまみれた衣服のカウボーイたちの生活をリアルに描いたところにあったのではないか。
テキサス州は今でも家畜生産量では合衆国内で最大級であり、牛が最も収益を上げる生産物となっている。当時、南北戦争後に、牛が不足し、東部での食肉価格が高騰していたため、高く売れる牛を、東部への運送拠点である鉄道のターミナル駅のあるセダリアまで牛を運んだのである。最寄りの駅といっても、テキサスからは約1300Km離れたところであり、途中で牛に草を食べさせ、太らせながらの旅だったようだから、3~4ヶ月かかるのが普通だったようだ。  

こんなロングドライブを描いた映画にハワード・ホークス監督、ジョン・ウェイン主演による『赤い河( Red River。)』があった。
『ローハイド』よりちょうど10年ほど前の1948年に、ニュース雑誌『サタディ・イヴニング・ポスト』に掲載されたボーデン・チェイスの史実に基づいて執筆した小説"Blazing Guns on the Chisholm Trail"(『チザム・トレイル(英語版)』)を映画化したもので、アカデミー賞2部門(アカデミー原案賞:ボーデン・チェイス、アカデミー編集賞:クリスチャン・ナイビー)にノミネートされた、西部劇映画の傑作の一つであるが、この映画はハワード・ホークスにとっての初めての西部劇映画でもあった。
チザム・トレイルとは、1877年にジェシー・チゾルム(Jesse Chisholm)が開発した、テキサスからオクラホマ州を北へ縦断しカンザス鉄道へと向かう連絡路(cattle drive=キャトルドライブ=集めた牛を他の場所に移動させる。)のことで、映画では牧場主のトーマス・ダンソン(架空の人物。ジョン・ウェイが演じている)とカウボーイたちが1万頭の牛を率いて、1000マイル/100日をドライヴ(旅)する過程が描かれる。
赤い河(Red River)とは、テキサス州北西部よりルイジアナ州へと流れミシシッピー河に合流する延長1200マイルの大河のことである。当時新人のモンゴメリー・クリフトは、本作に出演した事によりスターの仲間入りを果たした。
『ローハイド』は『赤い河』をテレビドラマ化したのではないかとも思えるところがある。もし、時間があれば映画評論家町山智浩の『赤い河』の解説をしているものがあり、これを見ると当時の「チザム・トレイル」(キャトルドライブ)のことや当時のカーボーイなどのことがよく分かり、『ローハイド』を見るうえでも参考になるので、見られるとよい(少し長いので、後で見てもよい)。


『ローハイド』の主演は隊長ギル・フェイバー役のエリック・フレミングである。
彼の俳優としてのキャリアは1950年代前半にテレビ映画の単発での出演が多く、映画はB級映画の「宇宙征服」((1955年米国。*4、*5参照)などに準主役として出演しているが、彼をスターにしたのは、まさにこの「ローハイド」であり、日本でもこの番組の主演で一気に俳優として知られた存在になった。
『ローハイ』では1966年までの全8シーズン217話のうち、7シーズン203話まで、3000頭の牛を運ぶ長旅の隊長ギル・フェイバーを演じている。
当時は助演格でレギュラー出演して、まだ若く好奇心旺盛で女に甘い相棒の副隊長ロディ・イェーツ役を演じていたのが、今では大ス ターのクリント・イーストウッドであり、ローハイド撮影時は、エリック・フレミングの方が格が上であった。
これに堅実な仕事ぶりの斥候(せっこう patrol)役ピート・ノーランをシェブ・ウーリー、メンバ最年長の頑固だが料理自慢のコックであるウィッシュボン役のポール・ブラインガーらが絡んで一話完結方式で毎回展開された。
主演のエリック・フレミングは隊長であることから他のメンバーは日本語版では「フェイバーさん」と尊敬を込めて呼び、それがそのまま彼のイメージとなった。そしてドラマの中ではイーストウッドに助言したり諭したりする人生の先輩としての役割を果たしていた。

上掲の画像:前列髭の男性がポール・ブラインガー、後列左より、エリック・フレミング、グ、クリント・イーストウッド、シェブ・ウーリー
1959(昭和34)年11月からNETテレビ(現在のテレビ朝日)の土曜日夜10時から放送を開始し、その後月曜日そして木曜日に移って1965(昭和40)年10月まで同局で放送された。エリック・フレミングが最後の第8シーズンを降板したので、最後のシーズンは相棒であったクリント・イーストウッドが主演し、隊長格になったが、このシーズン限りで製作を中止している(各シーズンの詳細等は※:2を参照)。そして日本ではこの最後のシーズンの作品は放送されていないが、のちにDVD化されている。このころにはさすがに成長し、初期の副隊長役時からは随分と貫禄が出ている。上掲の画像と以下を比較してみるとよい。

クリント・イーストウッドは、1950年代初めにユニバーサル映画と契約を結ぶが、当初は『半魚人の逆襲』(*5 参照)『世紀の怪物/タランチュラの襲撃』(*5参照)といったB級映画の端役しか与えられないという、不遇の時代を過ごしたが1959年からCBSで放映されたテレビ西部劇『ローハイド』が約7年間に亘り220話近く製作された人気シリーズとなったおかげでイーストウッドの知名度と人気も世界的に高まった。
1964年にはセルジオ・レオーネ監督にイタリアに招かれ、マカロニ・ウェスタンの嚆矢でありかつそれを代表する作品となった『荒野の用心棒』に出演。その後も『ローハイド』の撮影の合間を縫って『夕陽のガンマン』、『続・夕陽のガンマン/地獄の決斗』と都合3作のレオーネ作品に出演した。これらの映画の人気により、イーストウッドの映画俳優としての評価はヨーロッパが先行し、アメリカに逆輸入された形となった。
『ローハイド』は初期には冒頭で隊長ギル・フェイバーの独白で始まっている。隊長の任務、西部を旅する者の心得、カウボーイの生きがい、頭にかぶるテンガロンハットの使い方などを語り、最後は「私の名はギル・フェイバー。この隊の隊長である」で終わって、ストーリーが始まる(フェイバーの「オープニング語り」は*2のここを参照)。
そして毎回ラストでは3000頭の牛を出発させる合図となる掛け声「さあ~行くぞ~。しゅっぱ~つ(出発)」の掛け声とともにフランキー・レーンの主題歌が流れるが、日本語版でのフェイバー役小林修の渋い声がぴったりで、その後のフランキー・レーンのローハイドの唄とともにいつまでも私たちの記憶に残っている。とにかく、日本の時代劇とともにアメリカの時代劇ともいえる西部劇が大好きであった私には忘れられない作品である。
歌を歌っているフランキー・レイン(Frankie Laine)はアメリカ・イリノイ州出身の歌手・俳優で、本名はフランチェスコ・パオロ・ロヴェッキオ(Francesco Paolo LoVecchio)。イタリアシシリー島の移民の子で、1952年のフレッド・ジンネマン監督の西部劇映画で「真昼の決闘」(主演:ゲイリー・クーパー)のテーマ曲「ハイ・ヌーン」(音楽を担当したディミトリ・ティオムキンアカデミー歌曲賞を受賞)や「ローハイド」のテーマ曲のほか、1957年ジョン・スタージェス監督の西部劇映画『OK牧場の決斗( Gunfight at the O.K. Corral)』(主演:バート・ランカスター」のテーマ曲(作曲は「ローハイド」同様ディミトリ・ティオムキン)もヒットさせている。
「ハイ・ヌーン」は映画「真昼の決闘」のサウンド・トラックでは、テックス・リッターの歌で流れ、テックス・リッターのレコードも発売されたが、全米では12位止まりだったが、フランキー・レインのカヴァー盤が全米5位のミリオン・セラー・ヒットを出し本命盤を上回ったそうだ(*6参照)。
また、「ローハイド」や「OK牧場の決斗」のテーマ曲はアメリカではヒットではなかったそうだが、日本ではヒット(*5参照)。どちらも私自身は大好きな曲である。
ところで、「ハイ・ヌーン」。テックス・リッターの歌とフランキー・レインの歌どちらが好きですか。



上掲のものテックス・リッターの、「ハイ・ヌーン」、下がフランキー・レインのものです。


この下はフランキー・レインの「OK牧場の決闘」です。



どうでした。この映画『真昼の決闘』の最大の特徴は、それまでの西部劇では悪漢に立ち向かう主役の保安官は無敵のヒーローとして描くのが普通であったが、そのイメージに反して、暴力を恐れる普通の人間として描かれている事にある。主演が>ゲイリー・クーパーで、歳を重ねて渋味のある中年男の孤独と苦悩を演じてアカデミー賞の主演男優賞を獲得し、後にモナコ王妃となったグレイス・ケリーが妻役を演じていた。きれいな人だったな~。
そういえば、『ローハイド』で乗馬が颯爽としていた斥候ピート・ノーラン役のシェブ・ウーリ-は、この『真昼の決闘』で悪役の一人として出演し、親玉と並んでゲーリー・クーパーと対峙した際、4人の悪党の中では真っ先に撃たれ、声もなく死んでいたが、彼は、非常に多芸でカントリー歌手でもあった。彼の歌っているものを探していたら、一つ見つかった。以下参照。

『OK牧場の決斗』は史実として名高い1881年10月26日、ワイアット・アープらを始めとする市保安官たちと、クラントン兄弟をはじめとするカウボーイズと呼ばれる土着の牧童達とがアリゾナ州トゥームストーンの町で撃ち合い銃撃戦となったこと(『OK牧場の決斗』)を題材にした西部劇映画である。しかし、これは正式な意味での決闘ではなく、表面的には市保安官が銃所持者を武装解除しようとした際に発生した銃撃戦と言える。そして実際にはアープ組とカウボーイズ組とのさまざまな確執の結果であるというのが今日の見方だそうである。ここでのカーボーイなど、先に紹介した映画評論家町山智浩の『赤い河』の解説を見ていない人は、それを見れば、当時のカーボーイが私たちが今想像しているようなカーボーイではないことがよくわかるだろう。史実では決闘後、アープ組は殺人罪で起訴されたが、全員無罪となったもののその後、アープ組はカウボーイズの追及を受け、いろいろ事件を起こしているようだ。映画では恰好いい保安官とされているアープも実際には元は無頼のギャンブラー(賭博師)だったのだ。
また、アープに味方してクラントン一家と撃ち合ったドク・ホリデイも歯学博士の称号を持っていたため、"ドク"と呼ばれていたが、アメリカ開拓時代のガンマンであり、ギャンブラーだったのである。
私は主演のアープ役のバート・ランカスターのファンだったがドク・ホリデイを演じていたカーク・ダグラス)も好きであった。

ところで、『ローハイド』がNETテレビで放送された当時、このテレビ番組のスポンサーは”トリスウィスキー”の「洋酒の寿屋」(今の)だったのを覚えていますか。
まだ安酒のトリスが販売の主軸であった時代、サントリーはこのマスコットキャラクターのアンクルトリスで成功を収めたといってもいいくらい。
洋酒天国というサントリーの発刊する雑誌や、トリスバーというウィスキーバーにもアンクルトリスを起用した。 洋酒天国にはアンクルトリスのイラストが表紙に起用され、トリスバーの看板や壁にもアンクルトリスのポスターが張られていたのを覚えている。
柳原良平がデザインしたイメージキャラクター「アンクルトリス」は、中年の男性をユーモラスに表現したキャラクターで、1960年代の酒類の広告キャラクターの中でも認知度が一番高い。なつかしいな~このCM。以下でどうぞ。


最近は、ソフトバンクの西部劇のCMテレビ映画「ローハイド」の主題歌が使われている。以下参照。、
いろいろ話題の多いテレビ映画「ローハイドであったが、私にとっては、今でも忘れられないとても懐かしいテレビ番組であった。それにしても、最近はこのような西部劇が普通のテレビでは見られなくなっってしまったのが寂しいな~。

三原山の噴火に伴い全島民が一時島を脱出した日(2-1)

2015-11-21 | 歴史
今から29年前の1986(昭和61)年11月15日、伊豆大島の中心にある三原山が、1974(昭和49)年以来12年ぶりに噴火した。山頂火口での噴火から割れ目噴火に移るなど、態様を変えながら3回の噴火を繰り返した。割れ目火口から流れ出た溶岩が人口密集地に向かい、1万300人の全島民は観光客と船で脱出し、1か月間の避難生活を余儀なくされた。
三原山は過去1500年の間に、約150年の周期で大規模噴火を起こし、その間に、中規模噴火を繰り返して来た。
11月15日の最初の噴火は山頂火口で起きた。オレンジ色のマグマのしぶきを激しく噴き上げる、珍しい「ファイアファウンテン」(英:fire fountain。火の噴水また溶岩噴泉とも。)と呼ばれる現象が見られた。このタイプの噴火はハワイ島キラウエア火山などにみられるものである。
19日火口にたまった溶岩はカルデラ内輪山(内輪山=中央火口丘のこと。外輪山の内側にあるのでいう。)の縁を超え溶岩流となって流れ出した。この時の溶岩流は外輪山を超えることはなく火山活動の脅威の景観に見物人が列をなしたという。
21日夕方小康状態にあった三原山は再び大噴火した。今度は1421(応永28)年以来の「割れ目噴火」であった。カルデラ内の内側と外輪山の北側で突然次々と地面に亀裂が走り、そこからマグマが火のカーテンのように噴出したのである。
●冒頭の画像は、11月21日の「割れ目噴火」とそれを見ている人たち。
割れ目の長さはカルデラの内外でいずれも1㎞にわたった。外輪山の新しい火口列から流れ出る溶岩流は、午後にはカルデラ外の噴火口から、人口が密集しているふもとの、元町市街地区に溶岩が向かったため、同日深夜になって、全島民1万3千人と観光客2000人に避難命令が出た。溶岩流は最終的に民家から300m付近にまで達したところがある。
●上掲の画像は、11月22日午前5時東京竹芝桟橋(ここ参照)に着いた避難民たち。大島を出た船は静岡県伊東港、東伊豆の稲取港へも向かい、家族が離散したケースもあったという。戸締りもせず、簡単な手荷物、あるいは着のみ着のままで非難した人たちもいた。島民が島に帰ったのは12月19日以降のことである。この時は、その後一カ月も避難生活が続くとは思いもよらなかっただろう。
この3回の噴火について、火山噴火予知連絡会は、正確な直前予知情報を出すことに失敗したようだ。
火山性微動(マグマや水蒸気が火山の地下を移動したり、沸騰して気泡が発生することなどによって起こる地表の微弱な振動。)は7月下旬からあった。しかし、予知連は10月30日、「将来の噴火の可能性が否定されたわけではない」「大規模噴火が切迫している兆候は認められない」とのあいまいなコメントを出して、まず1回目の空振り。
噴火直後には、下鶴大輔・予知連会長が「大規模な噴火はない。溶岩が外輪山の外へ流れることはないだろう」とコメントしたが、割れ目噴火でこれも覆された。12月12日には、「火山活動は短期的に見れば休止に向かいつつある」との統一見解をまとめ、こうした判断に基づいて同日、東京都の災害対策本部(ここ参照)が全員帰島を決定した。ところが帰島開始の前日の18日になってまたしても噴火が起きた。同日夜、下鶴会長は「いいわけはしません。」「この程度の噴火の余地は難しい」と、敗北を認めざるを得なかったという。
溶岩流が山を下るという危機感の中で、全島民の避難は整然と行われた。しかし、それをいつ、どういう状況で、解除するのかが当時問題となった。
避難した島民は東京都内の小中学校、スポーツセンター、福祉会館などに分散して収容された。急な脱出行だっただけに、着の身着のままの人も多く、日がたつにつれて体の不調を訴える人が増えていった。火山はその後小康状態を続けたが、科学には「もう大丈夫」と断言できるほどの予知能力はない。結局帰島は、中曽根康弘首相ら政治の強いリーダーシップで判断された。「解除」には政治が関与せざるを得ないことを印象付けたのだが・・・・(画像、文等『アサヒクロニクル週刊20世紀』1986年号参照)。

火山活動と地震活動の間には, 密接な関係があることが古くから知られているようだが、ここのところ日本列島で火山の噴火が相次いでいる。
最近では、2013年に小笠原諸島西之島が噴火以降、現在も活発な火山活動が続いている。西之島は海底火山の活動により生じた火山島(無人島)であるが、現在も活発な噴火活動が見られ、大量の溶岩流や噴出物が海面上まで堆積して西之島(旧島)付近に新しい陸地を形成しており、この陸地は「西之島新島」と命名され、「新島ブーム」とマスコミにも報道され、大きな話題となった。これなど、人的被害がなく島が大きくなるのだから日本にとっては結構な話ではあるが、昨2014年9月には御嶽山(長野、岐阜県)が噴火し、戦後最悪となる噴火による犠牲者63人(死者。内行方不明者5人)を出した。
今年2015(平成27)年に入ってから5月には、屋久島の西方約12kmに位置する口永良部島新岳で爆発的噴火を起こし、火砕流が海岸まで到達した。噴火による避難は日頃からの訓練のおかげで、1人の被害者も出さず見事にできたが、今も噴火警戒レベル5が続き、屋久島に避難している避難民の方は未だに帰島のめどが立たずに困っておられると聞く(*1参照)。この後何年避難生活をしなくてはならないのか・・・。三原山の噴火の時以上に避難生活が長引いており、帰島の時期についてはやはり政治家がしなくてはならないのだろう。
そのほか、頻繁に噴火を繰り返している鹿児島県の桜島諏訪之瀬島を除いて6月には長野県と群馬県堺にある浅間山、8月には、小笠原諸島南端近くの硫黄島、9月には、神奈川県と静岡県にまたがる箱根山、熊本の阿蘇山、10月には 北海道の雌阿寒岳霧島山えびの高原〔硫黄山〕周辺での火山性地震頻発)など火山活動が活発化したり、噴火に至るケースが相次いでおり、2011年3月11日の東日本大震災以降、火山噴火が多いと感じている人は少なくないだろう。
20世紀以降に世界で起きたマグニチュード(M)9級の巨大地震後には、周辺で例外なく噴火が発生しているようだが、東北地方太平洋沖地震だけが、これまで噴火が起きておらず、例外的だと思われていたのだが、昨年9月に、御嶽山が噴火して以降、日本の火山も今後、活動期に入る可能性があると指摘している専門家もいるようだ。
ただ詳しいデーターがないが、「長い目で見ると実は、この100年のあいだ、日本列島は異常なほど静かだっただけと言える。
火山の噴火はさまざまなタイプと規模があるが、火山学者は東京ドーム約250杯分以上の噴出物があったものを「大噴火」と定義している。この「大噴火」は日本の場合、100年間に4~6回ほどは必ず起きていた。それが20世紀に入って以降、1914年の桜島と、1929年の北海道駒ヶ岳で「大噴火」があっただけで、ずっと静かな状態が続いている。そう考えれば、3.11以降、むしろ普段に戻っただけとも言えるわけで、今世紀に4~6回の「大噴火」が起きても、何の不思議もない。」・・という(*2参照)。
日本が誇る富士山は、2013(平成25)年6月には関連する文化財群とともに「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の名で世界文化遺産にも登録され、近年アベノミクスの円安政策なども引き金となり、日本を訪れる外国人観光客も激増し、富士登山客もこれにより、激増している(ただ昨年は天候不順で少し減少 ここ参照)。これは結構なことなのだが、その富士山がいつ噴火してもおかしくないとも言われている。
もし実際に富士山で噴火が起こったら、・・・、首都東京はどうなる・・・? 日本は大変なことになってしまうだろう。心配はないのだろうか?
【最悪のシナリオ】富士山が噴火したら東京はどうなる?? - NAVER まとめ
こんなことには何の知識のない私などがいくら考えても仕方がないことなのでこれ以上詮索しないようにしよう。
ところで、三原山は、伊豆大島の大半を占める複式活火山(複式火山参照)であり、その最高点は三原新山(764m)である。富士火山帯に属し、玄武岩安山岩(火成岩の種)。ここ参照)からなり、40あまりの寄生火山(側火山参照)がある。
狭義の三原山は外輪山に囲まれた直径 3~4kmのカルデラ内にある円錐状の中央火口丘をいっている。1777年に始まった安永噴火で誕生(*3の伊豆大島 有史以降の火山活動参照)し、頂部に直径300 m、深さ200 m以上の切り立 った竪坑状の火口が口を開けている。
日本の活火山の中でも玄武岩質マグマの活発なこと で知られており、およそ35年以内に一度は比較的大きな噴火を行い、少しずつ姿を変えている。
その間に起こる小噴火も含めて、吹き上がる火柱や火映は古来御神火とあがめられてきた。


●1951年の噴火。


●1957年噴火。


三原山の噴火は、戦後では、1950(昭和25)年7月15日に突如活動を開始し、その後しばらくなりを潜めていたが、1951(昭和26)年2月4日再び噴火を始め溶岩流がラクダに乗って歩く砂漠地帯の大半をうめたという。いずれも中規模噴ではあったが、これに、続き1957(昭和32)年10月13日にも1950以来の大規模な噴火をし、この時の爆発で火口付近の観光客のうち1名が、火山弾によって死亡し、53人が重軽傷者を負ったという(*3の伊豆大島 有史以降の火山活動参照)。そして、この1986(昭和61)年11月15日の大噴火では全島民が避難する騒ぎになったのだがこの噴火以来静けさを保ち、まじかに火口周辺の絶景を見ることができ、振り向けばカルデラ内外に四季折々のすばらしい景観がひろがり、さらに海原を越えて伊豆の島々から伊豆半島・富士山までグルリと見渡すことも出来る。1998(平成10)年5月には三原山噴火口を一周する『おはち巡りコース』が開通し三原山の雄大さを間近に見る事が出来る様になった。特にここから見る噴火口は、まさに圧巻である。
この三原山が自殺の名所になったのは1933(昭和8)年のことである。三原山の自然に引かれて火口に身を投じた文学好きの女子学生、東京の実践高等女子学校専門部の学生らが投身、2月にも同行の国文科2年の学生が投身これらがマスコミで大々的に報じられて以降、三原山は自殺の名所になった。これらの事件のあと自殺志願者が相次ぎ、大島署では挙動不審なものを保護したり、自殺防止に努めたが一時は留置場の扉も閉まらないほどに満員状態になってしまったという。島民も自殺防止に必死で、郵便局員が「動く看板」を背負い、志願者に思いとどまるようにした。しかし、流行は衰えず、『明治・大正・昭和世相史』(社会思想社刊)によるとこの年は4月までに三原山での自殺者は60人、未遂者は160人にも上ったという(『アサヒクロニクル週刊20世紀』1933-34年号、参照、)。島民の方にとっては迷惑な話でしたね~。

●自殺防止のため「動く看板」を背負って歩く郵便局員。


その三原山のある伊豆大島の。面積は91.06平方キロm。行政区域は、東京都の町大島町であり、都はるみの歌「アンコ椿は恋の花」で知られる。
東京都の区域内には気象庁が、火山災害軽減のため、監視し、噴火警報・予報を発表している全国110の活火山(*3参照)のうち、21の火山が存在している。これらの火山は全て島嶼(とうしょ)地域に存在し、住民が居住している火山島は8つある(大島、利島、新島、神津島、三宅島、御蔵島、八丈島、青ヶ島)。このうち特に活発に活動しているのが大島と三宅島で、この100年間で大島が3回(36~38年間隔)、三宅島が4回(17~22年間隔)噴火しており、噴石、火山灰、溶岩流及び火山ガスによる直接・間接の被害や住民の避難が発生しているいう(*4参照)。
大島と名のつく島は日本各地にあるが、国土地理院では伊豆大島と表記する。
伊豆大島は、本州で最も近い伊豆半島からは南東方約25kmに位置する。
現在の伊豆大島の下には、岡田火山、行者窟火山、筆島火山の三つの古い火山が隠れている。乳ヶ崎~岡田~筆島にかけての海岸に急な崖があるのは、古い火山が露出しているからだそうだ。三つの火山が活動していたのは遥か昔、数十万年も前のこと。
伊豆大島火山は今から数万年前、次第に活動を終え、海水に侵食されていったこれら三つの火山の近くに海底火山として誕生した。誕生まもない伊豆大島火山の火口は海面近くにあり、地下から上がってきたマグマは水と接触して、激しい噴火を繰り返した。噴出物が火口のまわりに積もり、火口が海面から顔を出し、現在の大島の形がほぼ出来上がったのは約2万年前の事であった。つまり、伊豆大島はその噴き出たマグマによって三つの古い島(火山体)を覆って、形成された島…ということになる(*3のここまた* 5 参照)。三つの古い火山体は、大島北端の乳が崎から大島南東部の筆島まで続く海食崖において露出している。
このような歴史もあり、大島の水中は噴火により流れ出たマグマが形成したダイナミックな地形で溢れ、他にはない“生きている火山”を海からも堪能できる。
伊豆大島は地質学的にみた日本の貴重な自然資源として2007年には、日本の地質百選に選定され、2010年には日本ジオパークにも認定されている(その見事な地層は*6のここ参照)。

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三原山の噴火に伴い全島民が一時島を脱出した日(参考)へ

三原山の噴火に伴い全島民が一時島を脱出した日(2-2完)

2015-11-21 | 歴史
こう書いていて、ふと、現在の伊豆大島の下になっているという、行者窟火山の名前が気になって調べてみた。
この行者というのは、飛鳥時代から奈良時代の呪術者であり山伏(修験道)の開祖とされている役小角(えんのおづぬ)のことのようである。
日本書紀』に続く六国史の第二にあたる『続日本紀』(794年成立)の巻第一文武天皇三年五月丁丑の条には、役小角について以下のように記されている(*7参照)。
《文武三年(六九九)五月丁丑(廿四)》○丁丑。役君小角流于伊豆嶋。初小角住於葛木山。以呪術称。外従五位下韓国連広足師焉。後害其能。讒以妖惑。故
大意:文武天皇3年5月24日、役君小角を伊豆大島に配流した。そもそも、小角は葛城山に住み、呪術で称賛されていた。のちに外従五位下の韓国連広足が師と仰いでいたほどであったが, 後にその才能をねたんである人が彼の能力を妬み、妖惑のかどで讒言した((讒言者はこれを広足だとする説等解釈はいろいろあり)。それゆえ、彼を遠方に配流したのである。世間は相伝えて、「小角は鬼神を使役することができ、水を汲ませたり、薪を採らせたりした。もし鬼神が彼の命令に従わなければ、彼らを呪縛した」という。

上掲は、葛飾北斎北斎漫画』より、前鬼・後鬼を従えた役小角。
正史からわかるのはこれだけであるが、言い伝えでは、役行者は流刑先の伊豆大島で昼は行者窟(ぎょうじゃのいわや)に住んで修行し、夜になると富士山へ飛んで修行し赦免を願ったという。富士山麓の御殿場市にある青龍寺は役行者の建立といわれているようだ。
平安時代初期の説話集『日本霊異記』(日本現報善悪霊異記)には、佐渡に流されてから、昼だけ伊豆におり、夜には富士山に行って修行したとあるそうなのでそれに基づいているのだろう。「大島公園海岸遊歩道」の終点近くに、「役の行者」ゆかりの「行者窟」という聖なる場所がある(*8参照)。



日本の火山の分布(*3:気象庁HPの活火山分布図参照)は、千島、北海道、東北日本を経て伊豆諸島からマリアナ諸島に至る東日本火山帯と、山陰から九州を経て南西諸島に至る西日本火山帯に分けられる(火山帯参照)が東日本火山帯の火山フロント(火山前線。*3の火山噴火の仕組みも参照)は千島海溝日本海溝伊豆・小笠原海溝,に平行に走っており、西日本火山帯のうち九州から南西諸島に至る火山フロントは琉球海溝に平行に走っている。
そして、伊豆・小笠原島弧北部の火山フロントは、八ヶ岳から富士山・箱根火山を経て、日本列島の中央部の伊豆半島から伊豆大島、三宅島、御蔵島、八丈島とほぼ南北方向に連なっているが、伊豆・小笠原弧の北端部にある伊豆半島とその周辺陸域・海域は,プレート境界の近傍に位置する活発な地殻活動・火山活動の場として知られている。
1974(昭和49)年の伊豆半島沖地震以後、伊豆半島付近の地震活動が活発になり、1976(昭和51)年に河津地震(M5.4)、1978(昭和53)年に伊豆大島近海の地震(M7.0)などが発生し、1989(平成元)年7月13日には、静岡県伊東市の沖合3 kmで海底噴火が起こり、手石海丘という海底火山が誕生した(伊豆東部火山群)。
これは,伊豆東部火山群としては有史以来初の噴火と言われているが、伊豆半島の噴火の歴史を地質学的に調べると、1989((平成元)年の手石海丘の噴火と似た事件が伊豆半島の陸上で過去15万年間繰り返してきたことがわかるという。以下参照。
伊豆東部火山群の火山活動解説資料(平成 23 年9月)気象庁地震火山部火山監視・情報センター(Adobe PDF)
伊豆半島は、現在ある場所に最初からあったわけでも,本州につながる半島の形をしていたわけでもなく、約2千万年前は,本州から南に1500kmほどへだたった熱帯海域の海底火山であったと考えられているようだ。
その後フィリピン海プレートに載った伊豆の地殻は火山噴出部を積み増しながら北上を続けて約100万年前には本州沖に達し、海面上に火山島として出現し、本州に衝突して合体する時がきた。
本州と陸続きになったのは約60万年前で、伊豆火山島は本州から突き出た半島の形になり、現在見られる伊豆半島の原形ができあがった。陸地となった後の伊豆半島では、あちらこちらで噴火がはじまり、たくさんの大きな火山体ができたが、天城山(天城火山)や達磨山(達磨火山)は,この時さかんに噴火していた火山なのだという。(*9の伊豆半島の火山とテクトニクス、 伊豆半島の火山  参照)。
伊豆半島の南東部にある下田市爪木崎西側の海岸にある、「俵磯」と呼ばれる「柱状節理」(画像)は、伊豆地域が海底火山だった頃の火山活動で、地下のマグマが地層の隙間に入り込んで冷え固まったものであり、この柱状節理は静岡県の指定文化財ともなっている。
伊豆半島の東海岸沿いの陸地と海底では、現在も火山活動や地殻変動が続いているが、伊豆半島の東側付け根に位置する熱海市の熱海港から高速船で25分ほどの、相模灘に浮かぶ初島の平らな地形は、そこにあった浅瀬が隆起して島になったことを物語っている。
また、熱海市沖の海底には参道状の石畳や階段のような石積み、船着き場と思われる桟橋が眠っているという。2004(平成16)年にはマスコミ(朝日新聞)でも”謎の海底遺跡”と話題になっていた(*10参照)。そうだとすれば、ここがかつては陸地であったことを証明していることになる。
詳細の記録はないが、鎌倉時代後期の13世紀末頃に成立したとみられる『百錬抄』巻第十六 の後深草天皇の条には以下の通り記されている(*11の・第十六のコマ番号153参照)。
〔百練抄  十六 後深草〕
寶治元年正月十二日丙寅、此間風聞云、伊豆國長十二町、弘八町自十餘町行去、其跡如二湖水一云々
意訳:宝治元年(1247年) 1月12日 噂によれば、伊豆国で長さ1308m・巾872m (1町は60≒109m)程が沖に向かって1㎞程滑って沈んだのか失われて、その跡は湖水のようになった。・・・ということだが、『吾妻鏡』(*12参照)の寛元四年(1246年)11月27日に、「寅の刻、大地震」とあるので、これが百練抄の記事に該当するのだろう。
鎌倉時代中期に海底火山の噴火に伴って大規模な地殻変動が起こり伊豆山沖が陥没したのではないだろうか。
熱海は、古くからの湯治の地であり、平安、鎌倉時代には阿多美郷(あたみごう)といわれていたらしいが、海中から熱湯が噴き出し、「あつうみが崎」と呼ばれ、それが変じて「熱い海」であることから、熱海と名付けられたらしい。そのことは、熱海市のホームページ”あたみ昔ばなし”のページ(*13)の「熱海の由来」で、1枚の面白い画(「,万巻上人薬師の化現と逢図」)とともに書かれている。.
まずはそのページを見てください。→熱海の由来
スキューバダイビングのインストラクターで、熱海の海底遺跡第一発見者見者だといわれている國次秀紀氏は、熱海の海底遺跡保存会を設立し、独自・独創的な発想によって阿多美(熱海)の有様を調査し発表している(*14参照)。以下参照。YOUTUBE動画サイトへアップしている熱海の海底遺跡動画も見られる。
熱海の海底遺跡保存会
その中であつうみケ崎「万巻上人薬師の化現と逢図」の検証をしている(上記熱海の海底遺跡保存会参照)が、熱海の海底に眠る遺跡は熱海市の錦ヶ浦や熱海サンビーチ沖1キロの海底にあり、参道状の石畳や階段のような石積み、船着き場と思われる桟橋が眠っているという。そして、江戸時代以前、鎌倉中期、1247年頃に火山噴火と大地震で沈んだと見ている。つまり、『百練抄』『吾妻鏡』に出てくる時期ということのようだ。
鎌倉時代には『吾妻鏡』をはじめ鎌倉を中心とした地震の記録が多く現れる(*15のここ参照)が、政治の中心が鎌倉にあったためで、鎌倉だけに地震が多かったわけではない。この年代の11月26日にも鎌倉で大地震があるが、この地震の約50年後の、1293年5月20日(5月27日)(正応6年4月13日)に起こった鎌倉大地震(永仁の関東地震ともいう)では23,024人もの死者が発生したとされている。朝廷では、永仁への改元までしている。
しかし、熱海海底遺跡は、一体何の跡だったのだろうか?
『吾妻鏡』には壇ノ浦の戦いについて
寿永4年3月24日(1185年4 月24日)長 門の国赤間関の海上に於いて、八百四十余艘の兵船を浮かぶ。平氏また五百余艘を漕 ぎ向かい合戦す。午の刻逆党敗北す(**12参照)。
・・・とあるように、長門国彦島(山口県下関市)の平氏水軍を撃滅すべく、義経は摂津国の渡辺水軍、伊予国の河野水軍、紀伊国の熊野水軍などを味方につけて840艘(『吾妻鏡』)の水軍を編成している。
海底考古学会のすぺッシャリスト 茂在寅男東京海洋大学名誉教授は、
源頼朝は水軍族の頭領であり、当時の熱海は「鎌倉幕府の軍港」だった可能性があるという。それが鎌倉時代のある日突然、大地震か火山の噴火で沈んだという説を立てている。それが、この熱海の海底遺跡だろうとするのだが・・・。以下参照。
歴史ミステリー 熱海海底遺跡は鎌倉幕府の軍港だった?1
歴史ミステリー 熱海海底遺跡は鎌倉幕府の軍港だった?2

いずれにしても、伊豆半島の東海岸沿いの陸地と海底は、活発な火山活動を続けてきたし、「伊豆大島から一直線に伊豆大島にかけて火山列島は要監視地域でもあり、火山噴火後には必ず大地震が起きている」・・・という木村 政昭琉球大学名誉教授(*16参照)等の話は、気になるところではある。これを否定する学者もいるのだが、興味のある人は、一度以下のページを読んでみては・・・。

三原山噴火→富士山噴火へ着々 連続する小笠原深発地震の不気味
伊豆大島三原山の噴火の後には必ず大地震が起きている


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三原山の噴火に伴い全島民が一時島を脱出した日(参考)へ

三原山の噴火に伴い全島民が一時島を脱出した日(参考)

2015-11-21 | 歴史
参考:
*1:“全島避難”の後で~検証・口永良部島噴火
http://www.nhk.or.jp/fukuoka/frontier/back/back_150605.html
*2:次々噴火する火山-DIAMOND onlin
http://diamond.jp/articles/-/73271
*3:気象庁 |火山
http://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/STOCK/kaisetsu/vol_know.html
*4:東京都の火山|東京都防災ホームページ
http://www.bousai.metro.tokyo.jp/taisaku/1000064/1001579/index.html
5:伊豆大島- 国土地理院(Adobe PDF)
http://www1.gsi.go.jp/geowww/Volcano/map/condition-map/report/pdf/houkoku_izuoshima.pdf#search='%E5%9B%BD%E5%9C%9F%E5%9C%B0%E7%90%86%E9%99%A2+%E4%BC%8A%E8%B1%86%E5%A4%A7%E5%B3%B6+%E5%B2%A1%E7%94%B0%E7%81%AB%E5%B1%B1%E3%80%81%E8%A1%8C%E8%80%85%E7%AA%9F%E7%81%AB%E5%B1%B1%E3%80%81%E7%AD%86%E5%B3%B6%E7%81%AB%E5%B1%B1'
*6:伊豆大島ジオパーク・データ ミュージアム..
. http://oshima-gdm.jp/Front_Page
*7:続日本紀(朝日新聞社本)
http://www.j-texts.com/sheet/shoku.html
*8:役行者霊蹟札所会 * 開祖 役行者
http://www.ubasoku.jp/introduction/ennogyoja.htm
*9:静岡大学小山研究室ホームページ
http://sk01.ed.shizuoka.ac.jp/koyama/public_html/Welcome.html
*10:海底に眠る石の階段 熱海市沖で発見、鎌倉時代に水没か [朝日新聞〕ー阿修羅 昼休み2
http://www.asyura2.com/0311/lunchbreak2/msg/713.html
*11:近代デジタルライブラリー - 国史大系. 第14巻 百錬抄 愚管抄 元亨釈書
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991104/181?tocOpened=1
*12:吾妻鏡入門目次
http://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/azuma.html
*13:熱海市:あたみ昔ばなし
http://www.city.atami.shizuoka.jp/category.php?c_id=137
*14:熱海の海底遺跡
http://protecs.waterblue.ws/kaitei-iseki1.html
*15:聚史苑:天変地異年表 目次
http://www.nagai-bunko.com/shuushien/tenpen/ihen00.htm
*16:木村政昭ホームページ
http://kimuramasaaki.sakura.ne.jp/Site2/Home.html
熱海温泉図彙 - 西尾市
http://www.city.nishio.aichi.jp/nishio/kaforuda/40iwase/collection/2209atamionsen/atamionsenzui.html


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濱口雄幸首相が東京駅で右翼青年に狙撃され重傷を負った日

2015-11-14 | 歴史
1930(昭和5)年という年は、暗い年だった。
この頃は、古き良き日本がまだあった時代であるが、同時に軍国主義が台頭し、国際社会からの孤立を深めていった時代でもある。
1920年代、第一次世界大戦後から続く慢性的不況はバブル崩壊後の日本の状況にも似ているといわれる。
1929年10月、アメリカニューヨーク(ウォール街)で起こった株価の大暴落(「暗黒の木曜日(Black Thursday)」)に始まった世界恐慌の影響は、日本にもおよび、関東大震災や「金融恐慌」の痛手から十分回復していない我が国経済を直撃し不況のどん底に落ち込んでいた(昭和恐慌)。
物価と株価の下落によって中小企業の倒産や操業短縮が相次ぎ、賃下げ、解雇の嵐が吹き荒れ、失業者が増大、これに抵抗する労働者によるストライキなどの労働争議鐘紡争議など、*1も参照)や、小作争議、自殺者の増大(自殺者数|年次統計参照)と灰色の日々が続いていたが、この難局をなんとか乗り越えようと努力していた政治家がいた。第27代内閣総理大臣濱口雄幸立憲民政党総裁)である。
その濱口首相が、1930(昭和5)年11 月14日午前9 時ごろ、東京駅右翼青年に至近距離から狙撃され、重傷を負った。
岡山での陸軍大演習に向かうために、運航を開始して間もない神戸行きの超特急「燕(つばめ) 」号に乗り込む直前だった。この状況下、途切れがちな息の下で呟いたという「男子の本懐」が流行語にもなった。
一命はとりとめたものの翌1931(昭和6)年3月、野党の要求を受けて弾丸を抱えたまま登院したが、激しい論戦に病状が悪化し4月13日には内閣総辞職、8月26日に死去した(享年61)。
浜口死去の翌月(9月)、関東軍満州事変を起こし、十五年戦争に突入。翌々年の5.15事件では犬養毅首相が軍人によって射殺されている。濱口首相襲撃は、日本を破滅に向かわせる奔流が次第に勢いを増してゆくのを知らせる前兆でもあった。
浜口首相とその盟友で日本銀行総裁を務めたことのある大蔵大臣井上準之助は内閣発足当時から、死を覚悟していたらしい。                                          
痩せ馬に山又山や春がすみ

浜口首相が、1930(昭和5)年の正月に詠んだ句である(アサヒクロニクル『週刊20世紀』1930年号より)。痩せ馬どころか「ライオン宰相」と呼ばれた浜口首相。金解禁(第一次大戦時に停止した「金本位制」への復帰)、予算削減(軍縮)、対外協調路線を決行するには野党や、軍強硬派からの凄まじい反発がある・・・と二人は予測していた。折りしもロンドン海軍軍縮会議が海軍の軍縮を迫り、この受諾をめぐって統帥権干犯問題が起った。そして、やがて、締結に対する反対論は同条約に不満を持っていた海軍軍令部や右翼団体を巻き込むことになり、軍縮に反発する右翼青年に浜口が銃撃される事件が起ったのだが・・。
「軍部に媚びるな」「軍部が国際関係を無視して計画を進めれば国家は滅亡に瀕すべし」と論じた信念の政治家井上準之助も浜口が亡くなった2年後の1932(昭和 7)年、民政党の筆頭総務として選挙戦中、右翼に暗殺されている(血盟団事件参照)。
この事件以降日本の政党政治は弱体化。また、軍部が政府決定や方針を無視して暴走を始め、非難に対してはこの権利(統帥権)を行使され政府はそれを止める手段を失うことになった。

「男子の本懐」(「男としての本望」といった意味)・・・。なんと懐かしく感じられる言葉だろうか。この時代、浜口などの政治家には良かれ悪しかれ、まだ、武士道精神の残っている者もいた。
戦後、商売に失敗して貧乏のどん底にあったときの、私の親父の口癖も「武士は食わねど高楊枝痩せても枯れても武士は武士。」であった。昭和の時代に生きた父も、もとを辿れば紀州藩の武士の出であることに誇りを持っていたようだ。あだ名は石部金吉。商才はあったが商人としては、あまりにも生真面目すぎ、融通の利かないところが、戦中・戦後の混乱した世の中での商売には不向きであったようだ。ともあれ、私達がまだ若かった頃には、男子として生まれた者の生き甲斐としてよく使われたこの言葉も、万事「金々々」の今の世の中では、政治家の口からも聞かれることはなくなり、「死語」となっている。
城山三郎の『男子の本懐』(1980年、新潮社/1983年、新潮文庫)をもとに浜口雄幸(首相)と、井上準之助(蔵相)の二人を描いた同名のNHK長時間ドラマ(1981年)があった。北大路欣也(井上首相):近藤正臣(井上蔵相)が演じていた。
そのNHKアーカイブス(番組)はここで見れる。
また、NHKの歴史情報番組『その時歴史が動いた』(2002年9月11日 “昭和を揺るがした銃弾 〜ライオン宰相・浜口雄幸狙撃の時〜”)でも扱われていた。これを見ると浜口首相の簡単な経歴から暗殺に至るまでの経過が、わかりやすく要約されている。以下を見られるとよい。1 /5~5/5まである。

Historical test ( Lion prime minister ) -1 /5

上記を見てわかるように、深刻な不況の中、1928(昭和3)年、それまでの納税額による制限選挙が撤廃され、25歳以上の成年男性による初の普通選挙(第16回衆議院議員総選挙)が行われた。
この選挙では事実上2党の戦いとなった。つまり、対外強硬路線・公共投資の積極的拡大を政策に掲げた軍人出身の田中 義一率いる与党・立憲政友会と、憲政会政友本党が、旧憲政会幹部であった濱口雄幸を総裁として結成して出来たばかりの野党第1党立憲民政党協調外交緊縮財政で不況を乗り越えることを政策に掲げての戦いであった。
選挙結果は、立憲民政党が惜しくも与党政友会にわずか1票差で敗北したが、どちらも過半数を得られない「ハング・パーラメント」(宙ぶらりん議会)となり、残る32議席がキャスティングボートを握る情勢となった。
しかし、政友会はこの選挙での露骨な選挙妨害や、金権選挙で国民の反感を買い、その後のスキャンダルもあり、田中儀一内閣は、1929(昭和4)年7月2日総辞職に追い込まれた。
代わって政権についたのが謹厳実直な濱口雄幸であった。濱口内閣では、外務大臣に外務省から幣原喜重郎を起用し、その協調外交は幣原外交と呼ばれた。日本の国力、実力を知る濱口は、英米との対決は不可能であることを理解していた。このことは国民生活の負担の軽減と見事にリンクする。戦後不況、社会不安が増大する中で、軍拡から軍縮に転換し、その軍縮余剰金を財源に、国民負担を軽減する施策を提示したのである。
また財界から信任のある井上準之助蔵相を起用して金解禁、緊縮政策、産業合理化を断行した。また政友会の反対を排除してロンドン海軍軍縮条約を結んだことが右翼からの反感を買い、濱口首相が東京駅構内にて右翼青年に銃撃される結果になったことは先に書いた通りである。

さて、それでは、浜口雄幸内閣は経済面での目的を達成することができたのだろうか?結果的には、「緊縮財政での経済立て直し」は失敗に終わっている。
明治以来、軍備拡張が当たり前の空気がある中で、第一次大戦後、戦争から平和へ、軍拡より軍縮へ、積極財政から緊縮財政へという政治家の信念を貫き通す浜口の姿勢は高く評価する声がある一方で、反面デフレ不況を悪化させ、国民生活を圧迫し社会不安を増大させるなど、経済政策においては酷評されることもある。

濱口内閣(井上蔵相)の財政・経済政策の中心は金解禁(金輸出解禁策)であった。
日本は1897(明治30)年に金本位制を確立させ、金の輸出が行われていたが、第一次世界大戦中に欧米諸国が相次いで金の輸出を禁止したため、日本でも1917(大正6)年になって禁止していた。
ところが、欧米諸国は大戦後相次いで金本位制に復帰、日本もこれらに続こうとしたが、関東大震災や金融恐慌といった混乱のためかなわなかった。金解禁の主な目的は為替相場(為替レート)の安定と、輸出の拡大による国内産業の活性化である。
ただ、金輸出を解禁して円為替相場を安定させるとしても、どの水準で安定させるのかが問題であった。
第一次世界大戦前の日本では、金2分(1/5匁・0.75g)を1円相当(、1ドル=2.005円)としていた。しかし、金輸出が禁じられてから10年以上を経て、内外の経済状況は大きく変化しており、実際の為替相場は、関東大震災時1923年(大正12年)の100円=38ドル前後(1ドル=2.630円前後)を最安値として、1928年(昭和3年)当時には100円=44ドル前後(1ドル=2.300円前後)となっていた( Wikipedia)。このため、金解禁時の平価価の価値基準を禁止前の平価(旧平価、1ドル=2.005円)のまま解禁するのか、それとも実体経済に合わせた平価にするために通貨価値を落とす(平価切下げ)のか・・・その選択が問題となっていた。
旧平価は日本が不況に陥る前の平価であり、これによる金解禁は円高なり、円高は輸出には不利であり、せっかくの輸出活性策も相殺されてしまうことになる。そのため、東洋経済新報社高橋亀吉石橋湛山らはグスタフ・カッセルの提唱している購買力平価説に基づき、大戦や関東大震災後の日本経済の実力に合わせて、平価切下げを行った上で金解禁を行うべきであると、「新平価解禁論」(円安)を主張した(*2参照)が、濱口政権は「旧平価による金解禁」を実施した(1930年1月)。
しかし、なぜ、濱口政権が、円高になれば、輸出が減退し、輸入が増進し、貿易収支の悪化を招きかねない「旧平価による金解禁」を実施したのか?
本当のところはよくわからないが、当時、日本国内が長い不況に喘いでいる一方で、軍拡の動きも活発であった。そのような中、濱口政権は軍部の動きを抑え、同時に日本を不況から脱するためには、金解禁が不可欠であると考えていたようである。つまり、金解禁により、事実上の円切上げ(円高)にともなう貿易収支の悪化という効果が、
金流出の拡大=金保有高の減少→紙幣流通高の抑制→デフレ 
へとつながることを生かして、産業合理化,経済界の整理を促進したかったようだ。
濱口首相と井上蔵相は、その準備として、金解禁に見合った為替相場を維持するために、その前から緊縮財政を実施の上で財政支出を抑えたいわゆるデフレ政策(いわゆる「井上財政」)を取っていた。
そのため、金解禁から半年で日本の国内卸売物価は7%下落。また、対米為替相場は11.1%の円高、アメリカの国内卸売物価は2.3%下落していた。その結果、日本の国内市場は縮小し、輸出産業は円高によって国際競争力を失って不振に陥り、日本経済は二重の打撃を受けることとなった(Wikipedia)。
濱口や井上は、アメリカが恐慌に陥っても世界経済の中心であるイギリス・ロンドンのシティ,が安定していれば、恐慌はじきに収まるものと判断して、翌昭和6年度予算ではさらに大幅な歳出削減をした。これに対して政友会や産業界、一般国民からは、金輸出の再停止か平価切下げ、さらに景気対策を求める声が噴出していた。
しかも、アメリカは金ドル交換を停止していたことから、金解禁直前より投機筋の思惑買いによる円買いドル売りが行われ、解禁後の恐慌の深刻化に伴って貿易の決済資金確保のための需要が加わり、さらに金への兌換と正貨の海外移送が行われるようになった。このため、わずか半年間で2億3千万円もの金と正貨が国外に流れ、元から日本国外に保有していたものの流出分を加えると、2億8千5百万円もの金と正貨が失われてしまった(ドル買事件と金解禁の挫折参照)。
金解禁措置が国際的に円滑に機能すれば、金本位制本来の調節機能から見て、輸出が増え、輸入が減ってバランスが保たれるはずのものであり、大衆も歓迎した。が、それを旧平価により、世界恐慌の中で実施したことによって、いずれもが減少、逆に正価(金、金貨)が海外に流出することになった(為替レート変動と輸出の状況は*3参照)。そして、日本の大不況とその後の社会不安を生み出した原因ともなったのである。
実際には第一次世界大戦後に再建された新たな金本位制は、諸外国においても正貨不足から軒並みデフレの原因となっていたため不況から脱するどころか、むしろ各国を不況に追い込んでいた。FRB議長のベン・バーナンキも、のちにFRBが世界大恐慌への対応に失敗したのは、金本位制を維持しようとしたことが理由のひとつだと語っており、金本位制から早く離脱した国ほど経済パフォーマンスがいいことを証明している(*4参照)。
濱口亡き後、1931(昭和6)年末、政友会総裁・犬養毅が組閣した蔵相に就任した高橋是清は、直ちに、一般に「.高橋財政」と呼ばれる金輸出再禁止.・日銀引受による国債発行と財政支出(軍事予算)等の拡大を実施し、1932(昭和7)年以降は、こうした諸政策の効果もあって、景気は回復に向かった(リフレーション政策。*3も参照)。
当時、リフレーション政策はほぼ所期の目的を達していたが、これに伴い高率のインフレーションの発生が予見されたため、これを抑えるべく(出口戦略参照)軍事予算の縮小を図ったところ軍部の恨みを買い、二・二六事件( 1936〔昭和11〕年2月26日から2月29日)において、赤坂の自宅二階で反乱軍の青年将校らに暗殺された(*5参照)。五・一五事件 (1932〔昭和7〕年5月15日)で犬養が暗殺された日から4年後のことである。高橋在任中は主に積極財政政策をとり、井上準之助が行った緊縮財政としばしば対比されることが多い(*6「日本史のお話」の井上財政と高橋財政)。

まだまだ、政党政治の試験的時代と言わざるを得ない状況の中で、政治は最高の道徳と述べて、断固たる姿勢で軍縮を乗り切った濱口の姿勢スタイルは戦前の首相の中でも稀有な存在ではあるが、宮中からの援護や側近の根回しで中央突破を成功させたわけだが、これは、短期的に見て「平和」実現の成果にはなったが長期的に見ると強硬派内に宮中グループへの不満を増幅させることにもなり、後の二・二六事件へとつながった面もある。また、その経済面で失策が、後に禍根を残した。
今となっては果たして浜口が行ったデフレ政策や金解禁が正しかったか否かは歴史の検証が必要なところこであろうが、政治や経済を自分が正しいと思っって決めたことは命を懸けてでもやりぬくという政治家が日本の歴史の中にいたことを思い起こし、救われるような気がする。特に今の時代の政治家を見ていて・・・。


冒頭の画像は、浜口首相が東京駅で右翼青年に撃たれ、重傷を負い運ばれているところ。翌朝の東京朝日新聞。

参考:
*1:1930年籠城闘争・ストライキが先行した鐘紡争議
http://blogs.yahoo.co.jp/cyoosan1218/51970408.html
*2:連載/石橋湛山を語る - 東洋経済新報社 創立115周年
http://www.toyokeizai.net/115-anniversary/series/kosai2-1.html
*3:戦間期日本の為替レート変動と輸出 ―1930年代前半の為替レート急落
http://www.imes.boj.or.jp/research/papers/japanese/kk21-2-5.pdf#search='%E8%B2%BF%E6%98%93%E5%8F%8E%E6%94%AF+1930%E5%B9%B4'
*4:バーナンキFRB議長、米国の金本位制離脱を擁護
http://jp.wsj.com/public/page/0_0_WJPP_7000-412469.html
*5:【二・二六事件】犠牲となった高橋是清蔵相と日銀の国債引受政策
http://www.mag2.com/p/news/8118
*6:日本史のお話
http://www.ab.auone-net.jp/~tsuka21/theme.html
加藤久仁明Blogテーマ:城山三郎
http://ameblo.jp/3291038150/theme-10069472916.html
佐々木常夫 オフィシャルWEBサイト 20. 浜口雄幸 男子の本懐
http://sasakitsuneo.jp/leader/20.html
金解禁と井上準之助の評価―専門家すら騙した城山三郎の嘘―
https://www.kurayama.jp/modules/wordpress/index.php?p=126
デジタルアーカイブ - 新聞記事文庫 編年体一覧:1930年11月(昭和5)
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/directory/sinbun/ymlist/193011.html
0.25%の軍縮で狙撃された浜口雄幸首相
http://ktymtskz.my.coocan.jp/cabinet/hamaguti.htm   
:デジタルアーカイブ - 新聞記事文庫 編年体一覧:1930年11月(昭和5)
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/directory/sinbun/ymlist/193011.html
濱口雄幸 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BF%B1%E5%8F%A3%E9%9B%84%E5%B9%B8