今日(4月30日)は、「30年にわたるベトナム戦争が終結 した日」
1975年の今日(4月30日)、ベトナム戦争開始から30年、 ついに、南ベトナムの首都・サイゴンが陥落した。ズオン・バン・ミン大統領が無条件降伏を発表。北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線の兵士が無血入城」する。強大なアメリカを後ろ盾にした南ベトナム軍事政権とのベトナムの独立・統一をめぐる30年にわたった戦争は、ベトナム共和国(南ベトナム)の消滅で終わった。
ベトナム戦争(1960年 ~ 1975年)は、インドシナ戦争後に、ベトナムの南北統一をめぐって戦われた戦争である。宣戦布告なき戦争であるためベトナム紛争とも呼ばれる。第二次インドシナ戦争ともいう。共産主義勢力の拡大を防ぐため、北ベトナムと対峙する南ベトナムを支援するアメリカ合衆国が中心となり大規模な軍事介入を行ったが、目的を達せずに撤退した。
形式的には北ベトナムと南ベトナムの戦争であったが、実質的に共産主義勢力(ソビエト連邦、中華人民共和国)と資本主義勢力(アメリカ)が背後にあっての戦いであった。その為、「代理戦争」と呼ばれた。
この戦争では、南北ベトナム、ラオス、カンボジアの計400万人以上の犠牲者を出した。また、アメリカ、韓国、オーストラリア、中国などの軍人達が7万人近くも戦死したといわれる。戦争の原因は、民族自決と東南アジアに於ける共産主義拡大の動きが重なり合ったもので、最終的にはインドシナ3国(ヴエトナム、ラオス、カンボデイア)のすべてが社会主義化される。アメリカは、最盛期には50万人を超す大兵力を派遣し南ベトナムを支援していたが、それでも南ベトナム民族解放戦線(ベトコン=越共、正しい略称は「NLF」でNational Liberation Frontの略)や侵入してくる北ベトナム軍を制圧できなかった。そのうえ1968年1月29日深夜南ベトナム解放民族戦線の大規模な「テト攻勢」(ここ参照)を受けた。しかしすぐに体勢を立て直した南ベトナム政府軍とアメリカ軍の反撃により、南ベトナム解放民族戦線は事実上壊滅したことにより、その後のベトナム戦争は、アメリカ軍・南ベトナム政府軍と北ベトナム正規軍中心の戦いとなっていった。
従って、このテト攻勢は軍事的には大きな失敗であったが、このとき、南ベトナム解放民族戦線のゲリラ兵により南ベトナムの首都・サイゴンにあるアメリカ軍の放送局が占拠され爆破された他、わずか20人の南ベトナム解放民族戦線のゲリラ兵が、「要塞」とも称されたサイゴンのアメリカ大使館を一時占拠し、その一部始終がアメリカ全土で生中継されるなど、北側勢力にとってその政治的効果は高いものとなった。
また、このテト攻勢の最中に、サイゴン市警によって逮捕された南ベトナム解放民族戦線の将校、グエン・バン・レムを路上で射殺する瞬間がテレビで全世界に流された。そして、ベトコンによるテロが増加する。アメリカ軍は解放戦線のゲリラを無力化するため、サイゴン周辺を主として度々村落の焼き討ち、虐殺を繰り返した(ソンミの虐殺参照)が、1968年3月に起こったアメリカ軍兵士によるソンミの虐殺はベトナム反戦運動のシンボルとなってしまった。そして、国外でも大きな批判の声が起こり、アメリカ軍が支持を失うきっかけとなったものである。
このベトナム戦争中、1968年を頂点として世界中に反戦、平和の大波が起こった。欧米、日本の若者たちも、街頭に出てデモを繰り返した。とくにアメリカ国内では、1967年4月には、ニューヨークで大規模な反戦デモ行進が、10月21日には首都ワシントンで最大規模の反戦大会が催されたが、このテト攻勢以降、反戦運動が大きく盛り上がった。そして、作家や芸能人などによる反戦運動も盛んに行われ、多数の徴兵拒否者も出るなど、国論を2分するほどの激しさとなった。そして、前大統領・ケネディから受け継いだかたとなったベトナム戦争に対し必ずしも積極的でなかったにもかかわらず、戦闘の拡大を招いてしまったジョンソン大統領は、マスコミから連日のようにベトナム戦争への対応のまずさを批判されるようになり、3月にはにジョンソン大統領は、テレビ放送によって北爆の部分的中止と、ベトナム戦争に対する反戦運動などによる国内世論分裂の拡大を理由に、この年に行われる民主党大統領候補としての再指名を求めないことを発表した。しかし、それでも反戦集会は連日全米各地で巻き起こっていた。また、この盛り上がりに大きな影響を与えた公民権運動指導者のマーティン・ルーサー・キング牧師が4月4日に暗殺される。さらに、ジョン・F・ケネディ前大統領の弟で司法長官を務めていたロバート・ケネディは公民権運動団体などを中心とした支持を受けて大統領選に出馬、民主党は分裂するが、カリフォルニア州で遊説中の6月5日に暗殺される。8月には民主党候補を決定するための党大会が行われていたシカゴ市内で学生を中心に反戦デモが行われたが、ベトナム戦争推進派のデモと衝突した上、市警官隊が徹底的な弾圧を行い多数が逮捕されるなど、国内情勢が混沌とする中、政権末期のジョンソンは10月に北爆を全面停止させた。そしてニクソン政権が誕生すると、地上戦が泥沼化(ゲリラ戦化)しつつある中で、人的損害の多い地上軍を削減してアメリカ国内の反戦世論を沈静化させようとヴェトナムからの撤退も本格的に始まり、反戦デモも沈静化した。また、11月からは米ソ戦略兵器削減交渉が開始され、1970年に入って米ソの冷戦も緊張を緩和し、いわゆるデタントの時代に入た。
同時に、パリでキッシンジャー補佐官と北ベトナム側の間で秘密裏に進められていた平和交渉が、1972年の北爆の再開(理由などはここ参照)などにより交渉は難航を重ねてたが、秘密交渉開始から4年8ヶ月経った1973年1月23日、北ベトナムのレ・ドク・ト特別顧問とキッシンジャー大統領補佐官の間で和平協定案の仮調印にこぎつけ、4日後の1月27日、米国、ベトナム民主共和国、ベトナム共和国、南ベトナム共和国の4者間で「ベトナム和平協定」に調印をし停戦協定が成立したが、その数日後には戦闘が再開している。もともと北ベトナム軍に協定を順守する意志はなかったが、厭戦気分のアメリカは戦争から手を引きたく、3月29日、ニクソン大統領がベトナム戦争終結を宣言し、米軍は南ベトナムから最後の撤退をした。この後、南ベトナム政府軍と北ベトナム軍のベトナム人どうしの戦争ということになるが、北ベトナム軍は、アメリカ軍による北爆が停止されると、補給路を確保しその体勢を立て直し、一気に勢力を拡大していた。そして、しばらくは、アメリカ軍の再介入を恐れ、南ベトナム軍側に対し大規模な攻勢は行わなかったが、アメリカの再介入の恐れがないと判断した1975年3月10日、北ベトナム軍は、パリ協定に違反して南ベトナム軍に対し全面攻撃を開始。しかし、アメリカの支援もなく、1975年の今日(4月30日)、南ベトナムのズオン・バン・ミン大統領の無条件降伏をによって、長く続いた泥沼常態のベトナム戦争が終結したのである。
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続・30年にわたるベトナム戦争が終結 した日
(画像は、1970年2月6日発行「アサヒグラフ」特集:虚殺・ベトナム戦争。表紙より。この人たちはこの撮影の直後いっせいに撃ち殺された〔クワンガイ省ソンミ村〕とさびタイトルに書かれている)
1975年の今日(4月30日)、ベトナム戦争開始から30年、 ついに、南ベトナムの首都・サイゴンが陥落した。ズオン・バン・ミン大統領が無条件降伏を発表。北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線の兵士が無血入城」する。強大なアメリカを後ろ盾にした南ベトナム軍事政権とのベトナムの独立・統一をめぐる30年にわたった戦争は、ベトナム共和国(南ベトナム)の消滅で終わった。
ベトナム戦争(1960年 ~ 1975年)は、インドシナ戦争後に、ベトナムの南北統一をめぐって戦われた戦争である。宣戦布告なき戦争であるためベトナム紛争とも呼ばれる。第二次インドシナ戦争ともいう。共産主義勢力の拡大を防ぐため、北ベトナムと対峙する南ベトナムを支援するアメリカ合衆国が中心となり大規模な軍事介入を行ったが、目的を達せずに撤退した。
形式的には北ベトナムと南ベトナムの戦争であったが、実質的に共産主義勢力(ソビエト連邦、中華人民共和国)と資本主義勢力(アメリカ)が背後にあっての戦いであった。その為、「代理戦争」と呼ばれた。
この戦争では、南北ベトナム、ラオス、カンボジアの計400万人以上の犠牲者を出した。また、アメリカ、韓国、オーストラリア、中国などの軍人達が7万人近くも戦死したといわれる。戦争の原因は、民族自決と東南アジアに於ける共産主義拡大の動きが重なり合ったもので、最終的にはインドシナ3国(ヴエトナム、ラオス、カンボデイア)のすべてが社会主義化される。アメリカは、最盛期には50万人を超す大兵力を派遣し南ベトナムを支援していたが、それでも南ベトナム民族解放戦線(ベトコン=越共、正しい略称は「NLF」でNational Liberation Frontの略)や侵入してくる北ベトナム軍を制圧できなかった。そのうえ1968年1月29日深夜南ベトナム解放民族戦線の大規模な「テト攻勢」(ここ参照)を受けた。しかしすぐに体勢を立て直した南ベトナム政府軍とアメリカ軍の反撃により、南ベトナム解放民族戦線は事実上壊滅したことにより、その後のベトナム戦争は、アメリカ軍・南ベトナム政府軍と北ベトナム正規軍中心の戦いとなっていった。
従って、このテト攻勢は軍事的には大きな失敗であったが、このとき、南ベトナム解放民族戦線のゲリラ兵により南ベトナムの首都・サイゴンにあるアメリカ軍の放送局が占拠され爆破された他、わずか20人の南ベトナム解放民族戦線のゲリラ兵が、「要塞」とも称されたサイゴンのアメリカ大使館を一時占拠し、その一部始終がアメリカ全土で生中継されるなど、北側勢力にとってその政治的効果は高いものとなった。
また、このテト攻勢の最中に、サイゴン市警によって逮捕された南ベトナム解放民族戦線の将校、グエン・バン・レムを路上で射殺する瞬間がテレビで全世界に流された。そして、ベトコンによるテロが増加する。アメリカ軍は解放戦線のゲリラを無力化するため、サイゴン周辺を主として度々村落の焼き討ち、虐殺を繰り返した(ソンミの虐殺参照)が、1968年3月に起こったアメリカ軍兵士によるソンミの虐殺はベトナム反戦運動のシンボルとなってしまった。そして、国外でも大きな批判の声が起こり、アメリカ軍が支持を失うきっかけとなったものである。
このベトナム戦争中、1968年を頂点として世界中に反戦、平和の大波が起こった。欧米、日本の若者たちも、街頭に出てデモを繰り返した。とくにアメリカ国内では、1967年4月には、ニューヨークで大規模な反戦デモ行進が、10月21日には首都ワシントンで最大規模の反戦大会が催されたが、このテト攻勢以降、反戦運動が大きく盛り上がった。そして、作家や芸能人などによる反戦運動も盛んに行われ、多数の徴兵拒否者も出るなど、国論を2分するほどの激しさとなった。そして、前大統領・ケネディから受け継いだかたとなったベトナム戦争に対し必ずしも積極的でなかったにもかかわらず、戦闘の拡大を招いてしまったジョンソン大統領は、マスコミから連日のようにベトナム戦争への対応のまずさを批判されるようになり、3月にはにジョンソン大統領は、テレビ放送によって北爆の部分的中止と、ベトナム戦争に対する反戦運動などによる国内世論分裂の拡大を理由に、この年に行われる民主党大統領候補としての再指名を求めないことを発表した。しかし、それでも反戦集会は連日全米各地で巻き起こっていた。また、この盛り上がりに大きな影響を与えた公民権運動指導者のマーティン・ルーサー・キング牧師が4月4日に暗殺される。さらに、ジョン・F・ケネディ前大統領の弟で司法長官を務めていたロバート・ケネディは公民権運動団体などを中心とした支持を受けて大統領選に出馬、民主党は分裂するが、カリフォルニア州で遊説中の6月5日に暗殺される。8月には民主党候補を決定するための党大会が行われていたシカゴ市内で学生を中心に反戦デモが行われたが、ベトナム戦争推進派のデモと衝突した上、市警官隊が徹底的な弾圧を行い多数が逮捕されるなど、国内情勢が混沌とする中、政権末期のジョンソンは10月に北爆を全面停止させた。そしてニクソン政権が誕生すると、地上戦が泥沼化(ゲリラ戦化)しつつある中で、人的損害の多い地上軍を削減してアメリカ国内の反戦世論を沈静化させようとヴェトナムからの撤退も本格的に始まり、反戦デモも沈静化した。また、11月からは米ソ戦略兵器削減交渉が開始され、1970年に入って米ソの冷戦も緊張を緩和し、いわゆるデタントの時代に入た。
同時に、パリでキッシンジャー補佐官と北ベトナム側の間で秘密裏に進められていた平和交渉が、1972年の北爆の再開(理由などはここ参照)などにより交渉は難航を重ねてたが、秘密交渉開始から4年8ヶ月経った1973年1月23日、北ベトナムのレ・ドク・ト特別顧問とキッシンジャー大統領補佐官の間で和平協定案の仮調印にこぎつけ、4日後の1月27日、米国、ベトナム民主共和国、ベトナム共和国、南ベトナム共和国の4者間で「ベトナム和平協定」に調印をし停戦協定が成立したが、その数日後には戦闘が再開している。もともと北ベトナム軍に協定を順守する意志はなかったが、厭戦気分のアメリカは戦争から手を引きたく、3月29日、ニクソン大統領がベトナム戦争終結を宣言し、米軍は南ベトナムから最後の撤退をした。この後、南ベトナム政府軍と北ベトナム軍のベトナム人どうしの戦争ということになるが、北ベトナム軍は、アメリカ軍による北爆が停止されると、補給路を確保しその体勢を立て直し、一気に勢力を拡大していた。そして、しばらくは、アメリカ軍の再介入を恐れ、南ベトナム軍側に対し大規模な攻勢は行わなかったが、アメリカの再介入の恐れがないと判断した1975年3月10日、北ベトナム軍は、パリ協定に違反して南ベトナム軍に対し全面攻撃を開始。しかし、アメリカの支援もなく、1975年の今日(4月30日)、南ベトナムのズオン・バン・ミン大統領の無条件降伏をによって、長く続いた泥沼常態のベトナム戦争が終結したのである。
このブログの字数制限上この続きは以下にページに書いています。面倒ですが以下で見てください。このページの下に表示されます。
続・30年にわたるベトナム戦争が終結 した日
(画像は、1970年2月6日発行「アサヒグラフ」特集:虚殺・ベトナム戦争。表紙より。この人たちはこの撮影の直後いっせいに撃ち殺された〔クワンガイ省ソンミ村〕とさびタイトルに書かれている)