今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

30年にわたるベトナム戦争が終結 した日

2007-04-30 | 歴史
今日(4月30日)は、「30年にわたるベトナム戦争が終結 した日」
1975年の今日(4月30日)、ベトナム戦争開始から30年、 ついに、南ベトナムの首都・サイゴンが陥落した。ズオン・バン・ミン大統領が無条件降伏を発表。北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線の兵士が無血入城」する。強大なアメリカを後ろ盾にした南ベトナム軍事政権とのベトナムの独立・統一をめぐる30年にわたった戦争は、ベトナム共和国(南ベトナム)の消滅で終わった。
ベトナム戦争(1960年 ~ 1975年)は、インドシナ戦争後に、ベトナムの南北統一をめぐって戦われた戦争である。宣戦布告なき戦争であるためベトナム紛争とも呼ばれる。第二次インドシナ戦争ともいう。共産主義勢力の拡大を防ぐため、北ベトナムと対峙する南ベトナムを支援するアメリカ合衆国が中心となり大規模な軍事介入を行ったが、目的を達せずに撤退した。
形式的には北ベトナムと南ベトナムの戦争であったが、実質的に共産主義勢力(ソビエト連邦中華人民共和国)と資本主義勢力(アメリカ)が背後にあっての戦いであった。その為、「代理戦争」と呼ばれた。
この戦争では、南北ベトナム、ラオス、カンボジアの計400万人以上の犠牲者を出した。また、アメリカ、韓国、オーストラリア、中国などの軍人達が7万人近くも戦死したといわれる。戦争の原因は、民族自決と東南アジアに於ける共産主義拡大の動きが重なり合ったもので、最終的にはインドシナ3国(ヴエトナム、ラオスカンボデイア)のすべてが社会主義化される。アメリカは、最盛期には50万人を超す大兵力を派遣し南ベトナムを支援していたが、それでも南ベトナム民族解放戦線(ベトコン=越共、正しい略称は「NLF」でNational Liberation Frontの略)や侵入してくる北ベトナム軍を制圧できなかった。そのうえ1968年1月29日深夜南ベトナム解放民族戦線の大規模な「テト攻勢」(ここ参照)を受けた。しかしすぐに体勢を立て直した南ベトナム政府軍とアメリカ軍の反撃により、南ベトナム解放民族戦線は事実上壊滅したことにより、その後のベトナム戦争は、アメリカ軍・南ベトナム政府軍と北ベトナム正規軍中心の戦いとなっていった。
従って、このテト攻勢は軍事的には大きな失敗であったが、このとき、南ベトナム解放民族戦線のゲリラ兵により南ベトナムの首都・サイゴンにあるアメリカ軍の放送局が占拠され爆破された他、わずか20人の南ベトナム解放民族戦線のゲリラ兵が、「要塞」とも称されたサイゴンのアメリカ大使館を一時占拠し、その一部始終がアメリカ全土で生中継されるなど、北側勢力にとってその政治的効果は高いものとなった。
また、このテト攻勢の最中に、サイゴン市警によって逮捕された南ベトナム解放民族戦線の将校、グエン・バン・レムを路上で射殺する瞬間がテレビで全世界に流された。そして、ベトコンによるテロが増加する。アメリカ軍は解放戦線のゲリラを無力化するため、サイゴン周辺を主として度々村落の焼き討ち、虐殺を繰り返した(ソンミの虐殺参照)が、1968年3月に起こったアメリカ軍兵士によるソンミの虐殺はベトナム反戦運動のシンボルとなってしまった。そして、国外でも大きな批判の声が起こり、アメリカ軍が支持を失うきっかけとなったものである。
このベトナム戦争中、1968年を頂点として世界中に反戦、平和の大波が起こった。欧米、日本の若者たちも、街頭に出てデモを繰り返した。とくにアメリカ国内では、1967年4月には、ニューヨークで大規模な反戦デモ行進が、10月21日には首都ワシントンで最大規模の反戦大会が催されたが、このテト攻勢以降、反戦運動が大きく盛り上がった。そして、作家や芸能人などによる反戦運動も盛んに行われ、多数の徴兵拒否者も出るなど、国論を2分するほどの激しさとなった。そして、前大統領・ケネディから受け継いだかたとなったベトナム戦争に対し必ずしも積極的でなかったにもかかわらず、戦闘の拡大を招いてしまったジョンソン大統領は、マスコミから連日のようにベトナム戦争への対応のまずさを批判されるようになり、3月にはにジョンソン大統領は、テレビ放送によって北爆の部分的中止と、ベトナム戦争に対する反戦運動などによる国内世論分裂の拡大を理由に、この年に行われる民主党大統領候補としての再指名を求めないことを発表した。しかし、それでも反戦集会は連日全米各地で巻き起こっていた。また、この盛り上がりに大きな影響を与えた公民権運動指導者のマーティン・ルーサー・キング牧師が4月4日に暗殺される。さらに、ジョン・F・ケネディ前大統領の弟で司法長官を務めていたロバート・ケネディは公民権運動団体などを中心とした支持を受けて大統領選に出馬、民主党は分裂するが、カリフォルニア州で遊説中の6月5日に暗殺される。8月には民主党候補を決定するための党大会が行われていたシカゴ市内で学生を中心に反戦デモが行われたが、ベトナム戦争推進派のデモと衝突した上、市警官隊が徹底的な弾圧を行い多数が逮捕されるなど、国内情勢が混沌とする中、政権末期のジョンソンは10月に北爆を全面停止させた。そしてニクソン政権が誕生すると、地上戦が泥沼化(ゲリラ戦化)しつつある中で、人的損害の多い地上軍を削減してアメリカ国内の反戦世論を沈静化させようとヴェトナムからの撤退も本格的に始まり、反戦デモも沈静化した。また、11月からは米ソ戦略兵器削減交渉が開始され、1970年に入って米ソの冷戦も緊張を緩和し、いわゆるデタントの時代に入た。
同時に、パリでキッシンジャー補佐官と北ベトナム側の間で秘密裏に進められていた平和交渉が、1972年の北爆の再開(理由などはここ参照)などにより交渉は難航を重ねてたが、秘密交渉開始から4年8ヶ月経った1973年1月23日、北ベトナムのレ・ドク・ト特別顧問とキッシンジャー大統領補佐官の間で和平協定案の仮調印にこぎつけ、4日後の1月27日、米国、ベトナム民主共和国ベトナム共和国南ベトナム共和国の4者間で「ベトナム和平協定」に調印をし停戦協定が成立したが、その数日後には戦闘が再開している。もともと北ベトナム軍に協定を順守する意志はなかったが、厭戦気分のアメリカは戦争から手を引きたく、3月29日、ニクソン大統領がベトナム戦争終結を宣言し、米軍は南ベトナムから最後の撤退をした。この後、南ベトナム政府軍と北ベトナム軍のベトナム人どうしの戦争ということになるが、北ベトナム軍は、アメリカ軍による北爆が停止されると、補給路を確保しその体勢を立て直し、一気に勢力を拡大していた。そして、しばらくは、アメリカ軍の再介入を恐れ、南ベトナム軍側に対し大規模な攻勢は行わなかったが、アメリカの再介入の恐れがないと判断した1975年3月10日、北ベトナム軍は、パリ協定に違反して南ベトナム軍に対し全面攻撃を開始。しかし、アメリカの支援もなく、1975年の今日(4月30日)、南ベトナムのズオン・バン・ミン大統領の無条件降伏をによって、長く続いた泥沼常態のベトナム戦争が終結したのである。
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続・30年にわたるベトナム戦争が終結 した日
(画像は、1970年2月6日発行「アサヒグラフ」特集:虚殺・ベトナム戦争。表紙より。この人たちはこの撮影の直後いっせいに撃ち殺された〔クワンガイ省ソンミ村〕とさびタイトルに書かれている)

続・30年にわたるベトナム戦争が終結 した日

2007-04-30 | 記念日
続・30年にわたるベトナム戦争が終結 した日
(画像は、「ベトコン協力者はこうなるんだ」と南ベトナム政府軍は、死体を積み重ねて、見せしめにした。1968年初め政府軍がカマウ掃討作戦をおこなった時に写真だが、ソンミ事件をきっかけに元兵士ジェフ・ラドフォード氏が米上院議員グーデル氏に提示したもの。WWP。1970年、アサヒグラフ・特集 虚殺・ベトナム戦争 より)
ホー・チ・ミンの考えは、ベトナムの独立と南北ベトナム統一を目指した民族民主革命で、ベトナムの共産化を考えていたわけではなかった 。しかし、それを、アメリカは、独立運動の指導母体が共産主義政権であったことから、共産主義の拡大というドミノ理論に怯え、フランスがインドシナ植民地支配を打ち切ると、その阻止のために介入したのである。そして、その介入の失敗に気付き中国との正常化へ向かったのである。アメリカ同時多発テロ以降、アメリカのブッシュ政権はイラクイラン北朝鮮と並ぶ「テロ支援国家」と名指しで批判。ついに、イラクが大量破壊兵器を廃棄せず保有し続けているという大義名分をかかげて、国連安保理決議1441を根拠としてイラク攻撃を仕掛け、フセイン大統領を捉え死刑にまでしているが、その後の調査でも大量破壊兵器は見付からず、これも、アメリカの誤った判断による戦争であったようだ。その結果、反米テロリストの反発により未だにイラクの国は混乱し多大なイラク国民、米国兵に犠牲者が出ている。そして、イラク内戦の様相を呈しだしている。ベトナム戦争では、日本でもアメリカ国内と同様に、ベトナム戦争に対する反戦デモも活発に行われたが、派兵はしなかった。しかし、アメリカ軍の強い味方として日本の沖縄、厚木等の基地がアメリカ軍の後方支援の重要な役割を果たしていた。イラク戦争では、アメリカの友好国として、戦争には参加しないが、自衛隊を派遣。アメリカに感謝されている。そして、日本国内でも、自衛隊の派遣についての反対の声はあったものもの、イラク戦争のときのような反戦デモみられず、話の良くわかったアメリカさんのお友達としての姿勢をとっている。今、憲法改正の検討がされている。今度は、友好国のためには、自衛隊は武器をも使えるようになるだろう。テロに攻撃されている米兵を助けるために自衛隊が大いに腕をはっきするかもしれないね~。私は、今のイラクの現状は、アメリカの現行政権が変わり政策の転換をしない限り、ベトナムと同じ様な・・いやもっと酷い情況になるのではないかと憂いている。
ベトナム戦争が開戦された当時から主にアメリカを中心にベトナム戦争を扱った映画が多数製作された。戦争中こそドキュメンタリーや、アメリカによる国威発揚のためのプロパガンダ映画もいくつか製作されたものの、戦争終結後はアメリカによる独善的かつ残虐的な行動や、(アメリカ軍の)ベトナム帰還兵の苦悩を描くものが多く製作された。『プラトーン』(『地獄の黙示録』『ランボー』などよく知られている。演劇では、ミュージカル『ミス・サイゴン』が、、イギリス、アメリカ、日本他で公演され、大ヒットしている。ベトナム戦争末期のサイゴンの売春バーで働くベトナム人少女キムとアメリカ大使館で軍属運転手を務めるクリスの悲恋が描かれている。キム役には、当時アイドルであった本田美奈子が当てられ、好演し話題を呼んだが、2005年11月6日急性骨髄性白血により、急逝した。惜しい人材が亡くなった。それにしてもアメリカは本当に懲りない国である。今度は、イラク戦争を題材とした、映画や演劇が多数作られるようになるかもね。
ベトナム戦争 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0%E6%88%A6%E4%BA%89
ベトナム雑学紀行
http://homepage1.nifty.com/Cafe_Saigon/03b8.htm
ベトナム戦争の概略
http://www.special-warfare.net/data_base/101_war_data/vietnam_war/vietnam01.html
ベトナム戦争のページ
http://page.freett.com/nishi/nam/vwar.html
アメリカ同時多発テロ事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%8C%E6%99%82%E5%A4%9A%E7%99%BA%E3%83%86%E3%83%AD
ベトナム帰還兵が語る 本当の戦争
http://homepage.mac.com/ehara_gen1/jealous_gay/real_war.html

羊肉の日

2007-04-29 | 記念日
今日(4月29日)は、「羊肉の日」
北海道の郷土料理・ジンギスカンを広くPRしようと、食肉業者や飲食店などでつくる「ジンギスカン食普及拡大促進協議会」(事務局・札幌)が2004(平成16)年に制定したもの。
「よう(4)に(2)く(9)」の語呂合せ。
(ヒツジ、”Sheep”)として十二支の一つに入っているように、中国では8,000年以上前から飼育されていた。(ヒツジ)の品種はとても多く、その数は1000を超えるとも言われているようだが、そのことは、ヒツジがイヌについで古い家畜であること、祖先種が複数存在すること、飼養目的が肉を食用にする以外に、毛(羊毛)を刈って衣料に利用する、乳を飲用または乳製品への加工に用いる、皮を原料とした羊皮紙は、パピルス、粘土板と共に、宗教関連の記録や重要な書類の作成に、長い間使用されていた。また、糞も肥料に使われるなど多岐にわたって利用されていた大きな原因である。そのようなヒツジが最初に家畜化されたのは、現在の中近東にいたアジアムフロンではないかと言われている。(以下参考に記載の「家畜ヒツジの祖先種」を参照)、また犬種にShetland Sheepdog(シェットランド・シープドッグ)の様に名前に”sheep”と付く犬((以下参考に記載の「ハーディング(牧畜犬)・グループ/犬種大百科」参照))があるが、これは牧羊犬に適した犬種であることを示しており、これらは、英語圏を初めとする欧州地域でも古くからヒツジが比較的身近な家畜であったことを示す顕著な例でもある。
羊肉は広い地域で食用とされているが、羊の年齢によって、生後1年未満をラム(lamb、子羊肉)・生後2年以上をマトン(mutton)と呼んで区別することが多い。マトンには独特の臭みがあるが、欧米などの海外ではこのヒツジ肉のくせを独特の香り(フレーバー)として楽しんでおり、牛肉よりも高価に取引されているという。マトンの脂肪に羊肉特有の臭みが集中しているため、臭みを取り除くには、その脂肪をそぎ落とすといいと言われている。他は、香りの強い香草と共に炒める、牛乳に付けておく等の方法がある。ラムには臭みが少なく、こちらは日本で近年人気が高まりつつある。海外では、飼育が盛んなオーストラリアニュージーランドをはじめ、豚肉を避けるイスラム教が広く普及した中東での消費量が多い。東アジアでも、モンゴル、中国西北部などでは、代表的な食肉となっており、さまざまな調理法が用いられている。
日本国内では、牛肉、豚肉、鶏肉に比べ、消費量は少なく、ジンギスカン鍋やラムしゃぶ、スペアリブ(骨付き肋肉)の香草焼きなど特定の料理でのみ使われることが多い。
カルニチンを他の食肉よりも豊富に含むことから、体脂肪の消費を助ける食材とされていることから、最近は、日本でも健康志向に乗って、ちょっとした羊肉ブームが起こっている。
日本人が,羊肉を食べるといっても、もっともポピュラーなのがジンギスカンだろう。このジンギスカンは、日本で考案された羊肉料理で、マトン(成羊肉)やラム(仔羊肉)を用いた焼肉料理の一種で、「成吉思汗」という漢字名で表記されることもある。
その名称から、モンゴルが生んだ英雄「ジンギスカン」(チンギス・ハーン)が遠征の陣営で好んで食べたなどともいわれているが、モンゴルが生んだ英雄の姿と、広大な草原のイメージが重なり、羊肉を常食するモンゴルにいかにもありそうな料理として拡大解釈されたものであるとみられる。しかし、モンゴルではもちろん羊肉を食べるが、内モンゴルの羊肉の料理は羊肉を焼いたものもあるが、塩味で煮たシュウパウロウがメーンで、いずれも日本のジンギスカンとはほど遠いものだという。
文献での「ジンギスカン」の初出は、1919(大正8)年に発行された『羊と山羊』(小谷武治農学士著)の中に、「羊鍋」「腑焼(肉を醤油にひたして網焼きにする)」など、ジンギスカンと似た料理についての記述もあるという。それが、「ジンギスカン」であるがどうかは不明。ただ、実際に「ジンギスカン」という料理名が文献に初出するのは1931(昭和6)年だという。
ジンギスカン鍋の起源として有名なのは、札幌農学校(北海道大学の前身)出身で、満洲国建国に深くかかわった駒井徳三が、1912(大正元)年から9年間の南満州鉄道社員時代に「ジンギスカン鍋」と命名したとする説があるが、この説については駒井徳三の娘の満洲野(ますの)が1963(昭和38)年に発表したエッセイ「父とジンギスカン鍋」における命名の推定以外に出典が発見されておらず、裏付けとなる確認はできていないようである。他にも色々ジンギスカン鍋の起源についての諸説があるようだが、どれが本当かはよく判らないようだ。以下参考に記載の「現場主義のジンパ学」の中の本当か駒井徳三名付け親説など読んで見られるとよい。
日本に残る最も古い緬羊の記録は、日本書紀に、「推古七年(西暦599年)の秋九月の癸亥の朔に、百済が駱駝一匹・驢(ロバ)一匹・羊二頭、白い雉一羽をたてまつった。」と記されているという。ただし産業として緬羊が飼育されるようになったのは、明治時代になってからのこと。明治維新後、欧米文化の流入とともに毛織物の需要が増大し、政府は羊毛の国内生産を目的として緬羊の飼養奨励に力を入れた。そして、1869(明治2)年に、アメリカからスパニッシュ・メリノを輸入したのを最初に、6000頭以上もの緬羊が輸入されたが、飼養管理技術や衛生対策の不備から頭数は減少し、1888(明治21)年には、第一次のこの奨励事業は失敗に終り、この事業を中止したそうだ。その後、第1次世界大戦の勃発によって羊毛が輸入できなくなったことから、1918(大正7)年に軍隊、警察、鉄道員用制服の素材となる羊毛自給をめざす「緬羊100万頭増殖計画」(第二次緬羊増殖計画)が立案されたものの、華々しい増え方はしなかったようである。それは、農家にすれば羊毛だけでは利益が少ないとみて二の足を踏んだからのようである。家庭で羊肉をたくさん食べるようになれば、つぶした羊の肉も売れるようになり、緬羊飼育での利益が増える。そうなれば農家は、本気で頭数をできるだけ増やそうとするだろう。軍隊で食べている牛肉の代わりに羊肉を食べさせるのが、羊肉の消費拡大の早道だというう意見もあったくらいだそうだ。昭和10年代には日華事変および第2次世界大戦による軍需羊毛の自給のための緬羊の飼養奨励が国策として行われた。その早期実現のために羊毛のみならず羊肉をも消費させることで、農家の収入増加と、飼育頭数増加を企図した。
しかし、日本人は従来、羊肉を食べる習慣がほとんどなかった。日本で受け入れられる羊肉料理を開発する必要に迫られ、農商務省は東京女子高等師範学校(お茶の水女子大学の前身)に料理研究を委託した(山田喜平著「緬羊と其飼ひ方」)。その流れの中からジンギスカンが出現したものと見られているようで、1920年代にはその原型となる料理が案出されていたようである。なお、最初のジンギスカン専門店は1936年(昭和11年)に食肉商の故松井初太郎氏が東京都杉並区に「成吉思荘」を開いたのが始まりともいわれている。
余談だが、不眠時羊が「一匹、二匹」と数を数える場合があるが、これは、もともと、sheep(ヒツジ)とsleep(睡眠)をかけた一種の駄洒落に由来するものだとか。私なども昔、寝つきの悪い時よくやったものだが、余計に目が冴えてしまったよ。こんな、駄洒落で、眠れる人はいいよね~。
そういえば、ジンギスカンの名前の元ともなったモンゴル建国の英雄チンギス・ハーンを描いた映画 「蒼き狼 ~地果て海尽きるまで」(日本 原作:森村誠一、主演:反町隆史) が、2007年3月3日に公開され評判のようだね。
(画像はジンギスカン)
ジンギスカン食普及拡大促進協議会
http://www11.ocn.ne.jp/~sapsheep/j_kyogikai.html
ヒツジ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%84%E3%82%B8
家畜ヒツジの祖先種/牛の博物館
http://www.isop.ne.jp/atrui/ushi/03_back/hitsuji-6_2.html
探偵団がたどる「ジンギスカン物語」(北海道新聞)
http://www5.hokkaido-np.co.jp/sapporokenbu/oh-sapporo/jingisukan/index.html
ハーディング(牧畜犬)・グループ/犬種大百科
http://www.animal-planet.jp/dogguide/directory/dir00010.html
ジンギスカンブームを思う。(前)
http://www.goodslee.com/column050807.html
ジンギスカンブームを思う。(後)
http://www.goodslee.com/column050815.html
東京ジンギス倶楽部 OFFICIAL SITE
http://www.to-jin.com/index.html
現場主義のジンパ学
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Circle/2248/jinpa12.html
第一次世界大戦 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6
国立国会図書館デジタルアーカイブ・タイトル: 羊と山羊 小谷武治著.
http://www.dap.ndl.go.jp/home/modules/dasearch/dirsearch.php?id=oai%3Akindai.ndl.go.jp%3A40063381-00000&cc=06_04_00&keyword=&and_or=AND
蒼き狼 地果て海尽きるまで - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD10225/index.html

象の日

2007-04-28 | 記念日
今日(4月28日)は「象の日」
1728(享保13)年、江戸幕府8代将軍徳川吉宗自らが注文したオス・メス2頭のが清の商人により広南(ベトナム)から連れてこられた。牝は上陸地の長崎にて死亡したが、牡ゾウは長崎から江戸に向かい、途中、京都では、1729(享保14)年の今日(4月28日=グレゴリオ暦5月25日) 中御門天皇の御前で披露された。
この際、天皇に「拝謁」する象が無位無官であるため参内の資格がないとの問題が起こり、急遽「広南従四位白象」との称号を与えて参内させたという。拝謁した象は前足を折って頭を下げる仕草をし、初めて象を見た天皇は、「時しあれは 人の国なるけたものも けふ九重に みるがうれしさ」・・・と感銘を和歌に表しているのだそうだが、お偉い人に見てもらうには象も骨がおれるよね~。
以下参考に記載の「描かれた動物・植物・江戸時代の博物誌(国立国会図書館)」によると、当時国際貿易の窓口だった長崎には、異国からの珍しい品々とともに珍獣や怪鳥も次々に舶来したそうだが、それを、買えるのは、幕府や大名であり、そのため、代々長崎代官を務めていた高木家では、珍しい鳥獣が舶来するたびにその絵図を作成し、江戸の幕府に送って御用伺いをしていたそうだ。幕府はその図を吟味して欲しいものだけを選び出し、取り寄せていたという。珍しい鳥獣は無料で幕府に献上されることもあり、わざわざ外国に発注することもあったという。この吉宗が注文したゾウは、1728(享保13)年6月に長崎港に到着後、牡象は翌・1729(享保14)年3月、長崎を出発。江戸に向けて徒歩の旅が始まる。同年4月に中御門天皇に拝謁後、また江戸への旅に出るが、5月、旅の疲れからか箱根で病気になるが、まもなく回復。 江戸に到着後、浜御殿で飼われ、吉宗に拝謁した後、 1730(享保15)年6月、早くも幕府から「御用済み」を申し渡されるが引き取り手がなく、ひきつづき浜御殿で飼われる。(この間、相当な飼育費がかかったらしい)。そして、1741(寛保元)年 4月、中野村の源助に下げ渡され、見世物になる。1742(寛保2)年 7月、暴れまわって騒ぎを起こすが、大事には至らなかったようだが、同年12月には21歳で死亡したというが、源助の管理が悪かったらしい。牡象は吉宗から中野の源助に厄介払いされたが、源助は源助で、当時はものめずらしかったこの象を利用して、金儲けに利用していたようだが、象は源助の思い通りにはならず、寒さとひもじさで衰弱し21才で病死しているが、象の平均寿命は人間とほぼ同じだそうであり、非常に早死にしたことになる。死んだ象の皮は、幕府におさめられ、頭の骨と2本の牙と鼻の皮は源助がもらいうけたらしいが、源助はその像の骨や牙をも見世物にして金儲けにしていたという。その後最終的には、宝仙寺の和尚が、源助の子孫が持っている象の頭の骨や牙のことを耳にし,参拝者を集めるため、買取り,宝仙寺の宝物として、保存されていたようだが、第二次世界大戦で、寺が焼け、象の骨や牙も消失したらしい。
貼付の画像「『[享保十四年渡来]象之図』 川鰭(かわばた)実利画 写本」 (国立国会図書館蔵より)の象が、将軍吉宗が注文した牡の子象で、江戸への道中に京都で描かれた烏丸 (からすま) 家蔵図の転写だそうだ。
8代将軍徳川吉宗は、増税と質素倹約による幕政改革新田開発など公共政策、公事方御定書の制定、目安箱の設置などの享保の改革を行iい、破綻しかけていた幕府財政を再建したことから江戸幕府中興の祖と呼ばれている。
一般的には、質素倹約の慎ましやかなイメージが強いのであるが、吉宗は海外のものに強い関心を持った進取果敢なところがあったようである。享保と言う時代は、鎖国体制下にありながらも日本人の海外への関心が高まり開明的な雰囲気のあった時代でもあったのである。
生きた象が日本に渡来したのはこのときが初めてではなく5回目である。以下参考に記載の「明治前動物渡来年表 」によれば、生きた象が日本に初渡来したのは、
1408(応永15)年6月22日で、足利義持の時代、南蛮船で若狭国に到着。孔雀2対などと共に像(インドゾウ)献上される。(後鑑)幕府は朝鮮国王に贈呈(李朝実録)。
2 度目の渡来は1575(天正3)年、明船が豊後・臼杵に到来し、博多に象と虎を持ち込み、大友宗麟に贈る。(長崎略史)
3度目は、1597(慶長2)年7月24日、ルソン総督が豊臣秀吉に送った象が大坂に到着(日本王国記、鹿苑日録)し、29日禁裏(きんり=皇居の事)でお目見え、30日には京都の人も見物する。(左大史亮記)
4度目は、1602(慶長7)年6月28日、交趾国から虎,1、孔雀2とともに象1が徳川家康に献上されている。家康はその虎と象を秀吉に贈った。(通航ー一覧171、時慶卿記)
そして、5度目の渡来が、1728(享保13)年のものである(通航ー一覧175、享保日記)が、今回は、海外の船が象を積んで日本にやってきたのではなく、徳川吉宗自らが「象が見たい」と発注し求めたものであるところが従来の場合と大いに異なるところである。そして、象が長崎から陸路で江戸まで運ばれて来る間には随分多くの人たちもが目にする事ができた。そのことにより、色々な書物や瓦版・錦絵などや歌舞伎等の分野に象ブームを巻き起こしたことだろう。
それにしても、「明治前動物渡来年表 」を見ていると、古くから海外からは、ずいぶんといろいろな鳥獣が入ってきていたのには驚かされるよ。
江戸時代に入ると、おびただしい量の薬物や砂糖などが輸入され、その代金として莫大な額の金銀が海外に流出するようになった。そこで吉宗は、国内で自給が可能な体制を整えようと、いくつかの方策を実行しているが、吉宗の物産政策として、①採薬使の派遣②全国的な動植物調査③海外産動植物の調査④海外産植物の国産化の4点が挙げられている。その中の③海外産動植物の調査では、漢名で記されている動植物が和産のどの品に当たるか、日本にもある品かない品かなどの疑問を解くために、実物を取り寄せての調査も行われたという。そのようなことが全国的に動植物への関心を高め広めることにもなり、特定のグループを扱う専書 (モノグラフ) や養禽書 (鳥類飼育書) 、異国産動植物の博物誌の登場。俳人のための図鑑なども刊行されるようになったという。
鎖国の時代、国際貿易の窓口であった長崎に、異国からの珍しい品々が次々に舶来したなかで、今まで見たことも聞いたことのないような珍獣や怪鳥を、代々長崎代官を務めていた高木家では、珍しい鳥獣が舶来するたびにその絵図を作成し、それを江戸の幕府に送って御用伺いをしていたそうだ。幕府はその絵図を吟味して欲しいものだけを選び出し、取り寄せていたわけであるから、吉宗もそのような絵図をみて象が見たいと注文したのだろう。最初は、吉宗らが単にお金と暇をもてあましていたから興味本位だけで見たいと思ったのだろうと思っていだが、それだけでなかったようだ。そこには、産業の育成という目的、そして何よりも、海外の産物などへのあふれんばかりの好奇心と博学の精神があったからのようだ。改めて、敬意を表することにしよう。ただ、吉宗の象を見たいとの意図は別として、象の飼いかたもわからないのに取り寄せられ、人間の好奇心や欲に翻弄され早死にした可愛そうな象の生涯を思うと、冥福を祈らずにはいられないよね。
(画像は、『[享保十四年渡来]象之図』 川鰭(かわばた)実利画 写本 。国立国会図書館蔵より)
ゾウ(象)- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%A1#.E5.B0.86.E8.BB.8D.E3.81.AB.E7.8C.AE.E4.B8.8A.E3.81.95.E3.82.8C.E3.81.9F.E3.82.BE.E3.82.A6宝仙寺
http://www.housen.org/index.html
[PDF] 明治前動物渡来年表 磯 野 直 秀
http://review.keio-up.co.jp/PaperFolder/pdf/06/2007/0604104.pdf
長崎から江戸まで歩き、六郷の船橋を渡った象の物語
http://www.photo-make.co.jp/hm_2/ma_16_5_1.html
「描かれた動物・植物・江戸時代の博物誌」(国立国会図書館)・・第参章珍獣奇獣異魚を参照
http://210.128.252.171/nature/index.html
「江戸の珍獣イメージ」-金沢美術工芸大学 -高田 智絵
http://www.kanazawa-bidai.ac.jp/www/contents/gallery/zuroku/07book/aesthetics/11.html
動物園へよーこそ・象史《日本に渡来した象》
http://members.jcom.home.ne.jp/ikuzou/frame2.html
[PDF] 「明治前動物渡来年表」 磯 野 直 秀
http://review.keio-up.co.jp/PaperFolder/pdf/06/2007/0604104.pdf
中野歴史館~中野に住んでいた象物語
http://sakaue.vis.ne.jp/sanpo/sakaue/nakasaka.elephant.html
戦国時代 (日本) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)


京都~東京間昼夜兼行の「東海道五十三次関東関西対抗駅伝競争」が行われた日。日本初「駅伝」。

2007-04-27 | 歴史
今日(4月27日)は、京都~東京間昼夜兼行の「東海道五十三次関東関西対抗駅伝競争」が行われた日。日本初「駅伝」。
駅伝(正式には駅伝競走)は、数人が長距離をリレー形式で走り、その速さを競う陸上競技である。国際陸上競技連盟が定める国際レースの基準では男女別にフルマラソンと同じ42.195kmを6区間で走るが、その他は、各走者が走る距離、総距離、区間数、性別などの組み合わせは、大会によってさまざまである。(日本で開催・施行される駅伝競走大会 参照。)
1917( 大正6 )年の今日( 4月27日)、東京奠都50周年を記念して、読売新聞が主催する「東海道五十三次駅伝徒歩競走」が開催された。4月27日、京都・三条大橋を午後2時にスタート。愛知県第一中学(現・愛知県立旭丘高等学校)で固めた西軍と東京高等師範学校(現・筑波大学)中心の東軍が争い、京都から東京までの23区間、約508kmを走り抜き、東軍のアンカー金栗四三がゴール地点である東京上野・不忍池(Mapion地図)の博覧会正面玄関へ到着したのは翌々日・29日の午前11時34分であったという。この競走のスタート地点である京都・三条大橋のたもとと、ゴール地点である東京・上野不忍池の東岸には「駅伝発祥の地」の碑が立っている。
また、以下参考に記載の「駅伝ひとくちメモ」にこのときのことが、詳しく書かれているがそれによると、”コースの総距離数23区間、508キロとあるが、実際は516キロあったという。また、最初の計画では〈東京〉〈名古屋・京都〉〈大阪〉という3団体による地域対抗で行われる予定だったが、大阪はチーム編成できず、関東組(東京)と関西組(名古屋・京都)の東西対抗になったようで、関東組が第一高等学校、東京高等師範、早稲田の学生が占めていたのに対し、関西組は名古屋の愛知第一中学が中心。中学2年から5年までの生徒が大半で、あとは卒業、職員たちが名を連ね、15歳の生徒から52歳の校長までが走ったのだという。中学生と高校・大学生の争いだったから勝負は明らかで、最終成績では関東組が1時間24分ほど先んじている。”・・・とある。それは、もう、勝負にならないだろうね。兎に角、この駅伝が評判となり、3年後の1920(大正9)年、第1回箱根駅伝(正式には、東京箱根間往復大学駅伝競走)開催へと繋がってゆくが、金栗はこの大会開催のために尽力し、この功績を讃え、箱根駅伝では2004年より、最優秀選手に対して金栗四三杯が贈呈されている。
この「海道道五十三次関東関西対抗駅伝競争」で、「駅伝」の名称が世界で初めて使われたが、その名づけ親は、当時大日本体育協会副会長、神宮皇學館館長武田千代三郎だそうである。
当時江戸時代における東海道五十三次における伝馬制からヒントを得たといわれている。
駅伝という言葉自体は、日本書紀に掲載されている大化の改新第2条に、駅馬・伝馬の制度を設置る旨の定めが見られるぐらい古いものである。この制度は、古代以来の中国の各王朝で設けられた駅制度を元にしたもので、 首都と地方の間の道路網に30(約16km)毎に置かれた中継所のことを「」(宿駅)といい、ここに宿泊施設や人、馬を配置していた。こうした制度は、後々に引き継がれ江戸時代に整備された五街道制度にも生かされている。
飛脚が、駅毎におり、駅から隣の駅までを走り(時には早馬を使うこともあった)、そこで次の飛脚にバトンタッチすることで、当時としては脅威のスピードで伝書などを渡していたのである。
公儀の飛脚である継飛脚(つぎびきゃく)は、書状・荷物を入れた「御状箱」を担ぎ、二人一組で宿駅ごとに引き継ぎながら運んだ。急を要する場合、江戸―京都間なら片道70時間ほどで運行できたと考えられているそうだ。
駅伝は、リレー方式で、各走者は走り終える毎に前の走者から受け継いだたすきを次の走者に渡していくが、公道使用上の制限から、遅れが大きいチームの場合、前の区間の走者が来ない内に予備のたすきを持って繰り上げスタートを余儀なくされる場合もある。テレビなど見ていても、時間が来て、たすきを受け取らないまま走る走者を見ていると、少し可哀想に思うが仕方のないことだろう。
1980年代以降、テレビ中継技術の発達とともに国内での駅伝人気は増す傾向にある。中でも、人気の高い毎年1月2日と3日の両日にかけて行われる 東京箱根間往復大学駅伝競走(通称「箱根駅伝」)や、元日に行われる「全日本実業団駅伝」(ニューイヤー駅伝)が正月の催事として定着している。その影響もあってか、名前を売り込む、もしくは企業の宣伝のために陸上部の強化に乗り出す大学・企業も多く、近年は駅伝の競技自体のスピード化も進んでいる。さらに、駅伝は日本にとどまらず世界的に行われる競技となっている。そのきっかけとなったのが、1983(昭和58)年に開かれた駅伝最初の国際大会である横浜国際女子駅伝だと言われている。その後、国際千葉駅伝で男女の国際大会も開設され、国際的な駅伝認知が高まった。特に元々マラソンや中距離トラック競技の強豪国であるエチオピアなどで盛んになってきており、国内でも駅伝大会が行われるほどである。
先にも述べたように駅伝は、日本の伝統的な駅制度がスポーツ競技化したものであるため、国際陸連では駅伝の国際名称を"road relay"としているが、日本発祥であることから日本の呼称と同じく"ekiden"と呼んでおり、説明的に”marathonrelay”と呼ばれることがある。
今では数々の駅伝があるが、わが地元兵庫県は、 男子、女子共に高校駅伝 が伝統的に強い。残念ながら昨年は、男女とも優勝を逃したが、それでも、男子は西脇工が3位に、女子は、須磨学園が2位に入った。今年・2007年1月に行われた女子の「全日本都道府県対抗駅伝」も、須磨学園などの高校生が頑張り「兵庫チーム」は総合3位となっている。地元選手が活躍しているので、今では私も、テレビで見るのを一番楽しみにしているスポーツである。やはり、地域大会のものは、地元チームがハッスルしてくれると見ている方も熱くなるよね~。
特に、駅伝では、区間毎に順位の大きなアップダウンがあり、ごぼう抜きが起きることも珍しくはない。これも駅伝ならでは楽しみの一つである。駅伝は、区間によって距離が違うので、マラソンを目指しているものは駅伝に出て、短距離から中距離へと距離を伸ばしながら力をつけてゆける。また、マラソンや、長距離ランナーは、スピードアップをするための場にもなる。日本の女子がマラソンで強いのもこのような駅伝で鍛えられていることも影響しているだろう。ただ、男子はここのところ、ひ弱であるが・・・。
(画像は、京都・三条大橋・駅伝発祥の地の碑)
参考:
駅伝競走 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A7%85%E4%BC%9D
駅伝の碑(東京) 
http://hamad.web.infoseek.co.jp/hass-col/sports/ekiden-tokyo.htm
駅伝ひとくちメモ 
http://www.mars.dti.ne.jp/~takefuku/e_memo/m_back.html
江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E3%83%B2%E7%A7%B0%E3%82%B7%E3%83%86%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%83%88%E7%82%BA%E3%82%B9%E3%83%8E%E8%A9%94%E6%9B%B8
駅 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A7%85
2006年度高校駅伝情報
http://www.geocities.co.jp/Athlete-Acropolis/6989/heki06/top.html