今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

夏休み

2012-07-20 | ひとりごと

四国から関東甲信越地方で梅雨が明けた17日、群馬県館林市で39,2度を記録したほか、京都市で36,4度、大阪府枚方市で35,6度などと西日本でも今年一番の暑さを迎えた。

気象庁によると、全国930の観測点のうち75地点で35度以上、516地点で30度以上を記録し、急激な厳しい暑さに慣れていない人達が、熱中症で病院に次々搬送されていた。18・19日も暑い日が続いた。

こんな暑い中、私がパソコンをセットし使っている2階の部屋は、南向きで風通しも良いが、我が家で一番日当たりが良く、冬などは非常に過ごしやすいのだが、これからの真夏日は、自然の風も熱風のようなもので、かえって暑く、冷房を入れないと、遮光用のシートを張って扇風機を使ったぐらいでは、パソコンからの放熱だけでも鬱陶しくて、パソコンを使用する気がしなくなる。

それで、毎年、夏場はブログの作成を中止しているのだが、今年も、このブログを書いた後、明日から、8月一杯は、ブログを休止しようと思っている。

そこで、今日は何をテーマーに書こうかと、簡単に短文で書けるいいネタはないかと、日本記念日協会の7月20日の記念日をみていると「夏割りの日」があった。

いよいよ、本格的な暑い暑い夏を迎えて、もう、日中に屋外へ出かけることを考えただけで憂鬱ななこの時期だけに、「夏割り」と聞けば、夏の暑い中をわざわざ家族で旅行したり、買物に出かけてくれるのなら値段を特別に安く割引いてあげよう・・・という、ちょっと、気の利いた夏限定の割引セールの一種かと思っていたのだが、それは大違い。

 記念日を制定したのは、キリンビール株式会社。和酒や洋酒などを炭酸や好きな飲み物などで割って、夏らしいドリンクを楽しむ「夏割り」のPR(※1参照)のためのものだった。日付は7と20で「夏割り」と読む語呂合わせから・・・。

ま~、誰しも、暑い夏は食べ物も飲み物も冷たいものが欲しくなるし、冷たいビールなど最高だが、酒や洋酒なども好みの飲料で割って、夏らしいドリンクを楽しむ。それはそれでいいだろう。ただ、夏に余り冷たいものを摂りすぎると、内臓が急に冷やされ消化器官の機能が低下し、食欲が落ちたり、下痢、夏バテなどを引き起こす原因となってしまうのでご注意を・・・。

特に、甘み(糖)は冷たくすると感じにくくなり、糖質の含まれた冷たい食べ物や飲料を多く摂ると糖質過多にもなり易い。だから、冷たいといっても、キンキンに冷えているものではなく、「少し冷たい」と感じられる程度のものに抑え、糖質の余り含まれていないものがいいだろうね。

ところで、7月20日(金曜) の今日、神戸市の公立の小学校、中学校、高等学校などは、1学期の終業式が行なわれ、明日から第2学期の始業式のある9月3日まで、長い長い「夏休み」となる(※2)。

朝の登校時間の前ごろから神戸の私の家付近ではあいにくの大雨で、雷が近くでゴロゴロと鳴っている。折角の雨でずぶ濡れになっているのではないかな。しかし、子供達にとっては明日から嬉しい夏休み。だが、親にとっては、大変なのだろうな~。

例えば、今年の西日本の場合、記録的猛暑だった昨夏ほどではないが、8月は平年より低い:20%、平年並み:40%、平年より高い:40%となっており、8月に高温傾向が特に現れており太平洋高気圧の張り出しが強まって、暑い夏となりそうだ(※3)。

昨年3月11日の東日本大震による被害で福島第一原子力発電所事故を起こして以来、日本国内の原子力発電所稼動問題などから、この夏季以降も電力の供給不足が懸念され、料金のアップだけでなく、政府、電力会社から節電を強く要請されている。許容量を超えると計画停電も止む無しなどと脅されると、厭でも節電しなければ仕方がない。

職場などでは、会社の節電対策で「エアコンの設定温度28度を厳守する」などといわれ、うだるような暑さに耐えながらの仕事をしている人も多いことだろう。事務所でのエアコンの設定温度などについては、事務所衛生基準規則 での定めもあり、それ以下の厳しい環境になっている場合は、健康上の問題もあり、参考※5:「節電と事務所衛生基準規則について」など一読し、改善すべき点などは会社に要望をしても良いだろう。

今年は、野田政権社会保障と税の一体改革を言いながら、社会保障は棚上げにしたまま、自・公・民三党合意(談合?)で消費税増税だけはあっさりと決めてしまった。(現在参院特別委員会で実質審議中、※4参照)。

所得の低い人は、先のことが心配で、せっかくの夏休みに家族旅行も中止し、費用のかからない近場のショッピングセンターなどでのイベントや海水浴などで過ごす人も増えているかも知れないし、家にいるとしても、節電でエアコンの使用もままならないないとなれば、今年は、本当に、暑い、辛い夏になりそうだ。

兎に角、この暑い夏は、ハードな運動はさけ、余り冷たいものは摂らないようにして、気温の低い朝の間などに、こまめに水分補給や休憩を行いながら適度な散歩や軽い運動をして、暑さに負けない体力づくりをすることが一番望ましいだろう。それと、熱中症の心配をしなければいけないほどの余り過度な節電はしないようにしよう(※6参照)。

熱中症は、自分で意識しないうちにかかるものだそうで、私も、朝急に足のこむら返りを起したりしてびっくりしたが、これも熱中症が原因だそうで、夜寝ている間に汗をかき水分不足になっているらしい。年をとると、喉の渇きも感じにくくなり、どうしても水分不足になるというので、私たち夫婦は家の中にいるときでもいつも水を入れたペットボトルをそれぞれが1本づつ手元においているのだが、ほっと気がつくと飲み忘れていると言うことが多い。相当意識をして飲むようにしないといけない。

上掲の画像は、私のコレクションである映画のチラシで、1994(平成6)年製作の金子修介監督の映画「毎日が夏休み」である。

この映画大島弓子の少女漫画が原作。昨年8月にNHKBSプレミアムでも放映されていた。“山田洋次監督が選んだ日本の映画家族編50作品”(※7)にも紹介されている名画である。

学校でのいじめが原因で登校拒否になっていた中学生のスギナ(佐伯日菜子)は、エリート会社員の義父成雪(佐野史郎)が時間をつぶすために行っていた公園でばったりと出会う。実は成雪も出社拒否(退職済)で、毎日が夏休みになっていたのだ。この出社拒否と登校拒否の親子が何でも屋をはじめるが、娘の成績優秀と夫のエリートぶりが自慢の種だったママ良子(風吹ジュン)は、ついにキレてクラブのホステスに……。

出社拒否と登校拒否の親子が、互いに協力して道を切り開いてゆき、実質上崩壊している家庭が、最後には見事に再生されてゆく。本来深刻な悩むべき問題を、コミックからの作品らしく、夢の有る明るく、前向きに描いたユニークな物語である。自分が思いがけなく必要とされていることのわくわく気分を演じた、13歳のヒロイン・スギナ役を佐伯が好演、佐野と風吹が佐伯を飄々とした味で支えている。映画をみた人達の感想はすこぶる良い(※7参照)。親子でこんな映画をDVDで見るというのも夏休みのいい過ごし方かも知れない。

今、大津市立中学2年の男子生徒(当時13)が昨年(2011年)10月に自殺した問題(いじめが原因であろうとされている)が連日マスコミで報道され話題となっている(※8)が、このような話を聞くと実に哀しくなる。

学校でのいじめや嫌がらせ、又、会社の職場や、地域社会など、集団の中では、昔から、多かれ少なかれ、いじめや嫌がらせはあったが、最近の学校などでのいじめの話を聞いていると昔のいじめとは大分違ってきたように感じる。

昔は、男の子の場合など、学校でも、住んでいる地域の中でも、何処にでもごんたくれ がいて、人をからかったり、仲間の者に使い走りをさせたりしているのを私なども多く見てきた。しかし、当時はかなりオープンに人前でも平気で堂々と単独で、威張ってやっていることが多く、今のように集団で影に隠れてこそこそ、しかも陰湿なことは余りしなかったと記憶をしている。女の子の場合は知らないが、・・逆に女のこの方が影で陰湿ないじめをしていたかもしれない。

私たち戦前産まれの年代の者だと、「男は男らしく」、「女は女らしく」というのが、躾や教育の基本であった。良くも悪くも、こういう決まりごとは世間の誰もが認知していたので、強いものが弱いものをいじめたり泣かせたりするのは男らしくないと回りから馬鹿にされるし、ましてや、陰に隠れて集団でいじめをするなんて男のすることとは考えられないことであった。だから、普通力の強い腕白なごんたくれたちが、たいたずらやからかい半分のいじめのようなことをしても、度が過ぎると回りの者が見ているので、大人の場合だと直接叱るし、学校などでも、見ている子どもたちが皆で注意し、それでもやめないと、「先生に言いつける」ぞと言うとやめるのが普通だった。それはどんなごんたくれにも、「わしも男だ」というプライドがあったからだろう。男が同じ男社会から認められないほど辛しことはないからね~。

戦後の民主化とともに男女同権運動の一層の広がりは良いのだが、それまでの、行動規範ともいえる「男の子は男の子らしく」とか「女の子は女の子らしく」と言ったことを口にすると、それは、ジェンダーだと非難されてしまう。戦後シームレスと女性は強くなったと云われるように、女性はあらゆる分野での束縛から解放され社会へ進出し、強く逞しく生きている。その反面、敗戦に打ちひしがれ、自信喪失した男性は、男としての生き方が見つからないまま、卑屈で、ひ弱になってきているように思えて仕方がない。それは戦後生まれの男子の教育のあり方になどにも関連していると思うのだが・・・。

ああ!非常に大きな雷がすぐ近くで鳴り出した。パソコンがやばいので、この話はこれまでとしよう。いじめ問題を考えているうちに、ついこんなことをぐちってしまった。

もう現役を退き、ブログを書くことぐらいしか特にしなければならないことのない私ですが、兎に角、暑い夏の期間はブログの方も、小・中学生並みに、明日7月21日から9月の上旬まで、夏休みとさせていただきます。今までの訪問有り難うございます。

暑い夏!くれぐれも熱中症には気をつけて、乗り切ってください。

再開の節は又の訪問、宜しく御願いします。

(冒頭の画像は、7月18日朝日新聞朝刊より借用)

参考:

※1:KIRIN_夏を冷やそう!夏割り

http://www.kirin.co.jp/about/natsuwari/index.html

※2:神戸市:神戸市立学校園式典一覧

http://www.city.kobe.lg.jp/child/education/ceremony/index.html

※3:Tenk.jp近畿から沖縄、暑い夏に

http://tenki.jp/forecaster/diary/detail-4714.html

※4:中国新聞

http://www.chugoku-np.co.jp/Syasetu/Sh201207190097.html

※5:節電と事務所衛生基準規則について - 現代の臥竜窟

http://blogs.yahoo.co.jp/taka_007jp/52327788.html

※6:「節電で熱中症」ご注意 専門家、注意呼びかけ - 朝日新聞デジタル

http://www.asahi.com/special/10005/TKY201106090218.html

※7:山田洋次監督が選んだ日本の名作100本 家族編::毎日が夏休み

http://www.nhk.or.jp/yamada100/review/review_mainichi.html

※8:朝日新聞デジタル:大津・中2自殺 教職員への聴き取り、記録残さず

http://www.asahi.com/national/update/0719/OSK201207190039.html

 毎日が夏休み - goo 映画

http://movie.goo.ne.jp/movies/p28324/index.html

民主党政権、モ~末期的!これが“離党予備軍”74人だ -

http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20120718/plt1207181810007-n1.htm

一体改革法案 3党合意ベースに議論深めよ読売新聞‎

http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20120719-OYT1T00027.htm

気象庁:サイトマップ

http://www.jma.go.jp/jma/kishou/sitemap.html

 夏休み - Wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%8F%E4%BC%91%E3%81%BF

日本記念日協会

http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html

 

 

 


なでしこジャパンがドイツW杯で米国を破り、初の世界一に

2012-07-18 | 歴史

2011(平成23)年、ドイツで開催された第6回 FIFA女子ワールドカップ最終日の7月18日(日本時間)、国際サッカー連盟(FIFA)ランキング4位の日本代表チームなでしこジャパン(※1)が、フランクフルトで、同ランキング1位の米国と決勝戦を戦った。

6度目の出場で初めて決勝に進んだ日本は、1点を追う後半36分に宮間あや岡山湯郷Belle所属)のゴールで追い付き、1 -2の延長後半12分にもCKから主将の沢穂希INAC神戸レオネッサ所属)が同点とした。日本は2―2からのPK戦ではGK海堀あゆみ(INAC)が1 、3 人目をセーブし、日本は米国を3―1で下して、初の世界一に輝いた。一方の米国は3大会ぶり3度目の世界一を逃した(詳細は「2011 FIFA女子ワールドカップ・決勝」を参照)。また、その時の感動は、以下でどうぞ。

[永久保存版] なでしこジャパン ドイツW杯ハイライト "Queen Yamato Nadeshiko" -YouTub

サッカーの国際大会で日本が優勝するのは男女を通じて初めての快挙であり、日本列島が歓喜に沸いたのは当然であった。

チームはフェアプレー賞、澤穂希が得点王とMVPを受賞。計6回開催されたFIFA女子ワールドカップのうち、アメリカ合衆国(1991, 1999)、ノルウェー(1995)、ドイツ(2003, 2007)に続いて、4ヶ国目の優勝国となった女子サッカー日本代表 の「なでしこジャパン」。

サッカー日本女子代表チームの愛称「なでしこジャパン」の由来は、2004年から。

アテネオリンピックアジア予選として行われた「AFC女子サッカー予選大会2004」の際、「やまとなでしこ」(大和撫子)」という言葉がよく使われていたためと、アテネ五輪出場を決め、注目度が高まっていた女子の人気定着を狙った日本サッカー協会が愛称を一般公募した中から選考し決定したもので、「世界に羽ばたき、世界に通用するように」との願いを込めて「なでしこ」と命名され、日本国の昔の呼び方「大和」が「ジャパン」となったものだそうであるが、2011年のドイツW杯ではそれが見事に実現したといえる。

「やまとなでしこ」は、日本女性の清楚な美しさをたたえていう言葉であるが、ほかに、秋の七草の一つナデシコ(撫子)の花に見立てて、可憐で繊細だが芯の強さや、ひたむきさといった日本女性にふさわしい思いが込められている。大柄な米国選手に立ち向かった小柄の日本選手は、「可憐」に走りつづけ「辛抱」強く戦って勝利をものにした。

ドイツW杯で世界一に輝いた「なでしこジャパン」を、世界が絶賛したのはその華麗な「パスサッカー」であったが、これは選手たち自身が議論を繰り返して作り上げてきた信頼関係に支えられてのものだったという。 日本女子サッカーリーグの加盟チームは、Jリーグ傘下のクラブチーム・実業団チーム・市民クラブ(NPO法人・株式会社等)・学校法人等様々な形態をとっている。また男子のトップリーグ(Jリーグ)が、ほぼプロ選手で構成されているのに対し、日本女子サッカーリーグは選手の多くがアマチュアである。1998年、第10回日本女子サッカーリーグ(L・リーグ)が開催されたが、このシーズンは相次ぐスポンサーの撤退などで、4チームが相次いで脱退を表明。

これによりL・リーグは存続の危機と直面するなど大変にショッキングな出来事が続いた(第11回日本女子サッカーリーグも参照)。さらに2000年シドニーオリンピックの出場を逃した後の人気低迷が続いた。 そして満を持して迎えた2008年北京オリンピックでのベストフォー進出…。この大会での健闘ぶりが世界に注目されるようになった。「結果を出さなければ、女子サッカーは忘れられる」という危機感を胸に成長してきたのが、なでしこジャパンであった。そんな危機感が、度重なるピンチに耐え、強豪アメリカとの激闘に競り勝ち優勝の栄冠を手にすることができたといえるだろう。

大会中、チームは試合後に同年3月11日に発生した東日本大震災に対する世界からの支援へ感謝を表す横断幕をかかげ、会場の大きな拍手を受けたが、各国メディアは復興への思いも勝利へのモチベーションとなっていると分析、なでしこジャパンの素早いパスサッカーとともに、その戦いぶりを賞賛した(※2、※3)。

2011年8月2日、日本政府から「国民に感動と勇気を与えた」として、団体では初となる国民栄誉賞受賞と女子サッカー支援充実の検討も発表された(※4)。又,同年9月、中国で行われたロンドンオリンピックアジア予選では4勝1分の1位でロンドンオリンピック出場権を獲得。11月3日、女子団体スポーツでは初の紫綬褒章が授与されている。

今年(2012年)1月、2011年度のFIFA年間表彰式において、澤穂希がFIFA女子最優秀選手賞を、監督の佐々木則夫がFIFA女子最優秀監督賞を受賞している。

W杯で世界一に輝いた「なでしこジャパン」。ロンドンオリンピックでは、追われる立場になった。各国チームが、日本の「パスサッカー」を徹底的に研究しているという。指揮官・佐々木監督も、ロンドンオりンピックで再び世界一になるためには更なるパスサッカーのレベルアップと、これまで以上に「攻撃」への意識付けを選手に徹底していると聞く。是非優勝し再び私たちに感動を与えて欲しいものだが、今大会では、米国とともに開催国イギリスが台風の目になるかも知れない。

オりンピック開催国イギリスのオリンピック委員会が、6月26日に、ロンドンオリンピックのサッカーイギリス女子代表18人を発表した。

近代フットボール/(サッカー)発祥の地でもあるイギリスは、国際サッカー連盟 (FIFA) から、ワールドカップなどの大会の際は、イギリス本土4協会(イングランドサッカー協会スコットランドサッカー協会北アイルランドサッカー協会ウェールズサッカー協会)のそれぞれが独立したチームとして参加することがみとめられていた。そのため、イギリス女子代表のFIFA主催の国際女子大会への出場はこれまでない。

夏季オリンピックのサッカー競技を主催する国際オリンピック委員会(IOC)は、オリンピックには、イギリとしての統一チームしか出場を認めていないが、イギリスでは、これまで、4地域の各協会の足並みがそろわず前回の2008年北京オリンピックを含め総て不参加であり、今回初めて、女子サッカーのイギリス統一チームを結成してのオリンピック初出場となる。このイギリス統一チームには、昨年ドイツでの第6回FIFA女子ワールドカップで、日本を唯一破ったイングランドから、FWのホワイトとヤンキー(いずれもアーセナルLFC)ら16人と、スコットランドから2人が入ったが、ウェールズと北アイルランドからは選出されなかった。

「近代サッカーの母国」イングランドでの最古の記録として1895年に北イングランドと南イングランドによる対抗試合が残っており、観客10,000人を集めたといわれるこの試合がきっかけとなり、サッカーは僅かな間に女性にも普及していったようだ。

この予想以上の盛り上がりに対し、イングランドサッカー協会(FA)は、1902年サッカーは「男のスポーツである」、「サッカーは女性の健康を損なう」として、傘下のクラブに対し女性チームとの試合を禁止。

こうした規制は1971年まで続くなど、英国では長い間、女子サッカーは超マイナースポーツだったこともあり、女子サッカーが盛んになった現在でも、英国民の間では、女子サッカーが不人気のようで、ロンドンオリンピックでの女子サッカーのチケットが売れ残り、「ガラガラのスタジアムで試合を行うより、いっそのこと無料で観客がたくさん入ったほうがいいじゃないか」といった意見が出るほどだという(※5、※6参照)。

男子サッカーと差別され、低く見られてきた女子サッカー選手の屈辱・・・それを晴らせるのが、ロンドンオリンピックだとしたら・・・。

そう思うと、昨年W盃で「なでしこジャパン」が初優勝したように、英国女子代表が決勝へ勝ち進み、もし、優勝を飾るると念願の「メジャー化」ひいては女子サッカーの「プロ化」への大きな起爆剤になるかもしれない・・・。以下は、「なでしこジャパン」が唯一負けたイングランドとの仕合風景である。

[FIFA女子ワールドカップグループリーグ 2011] イングランド女子代表 vs 日本女子代表(なでしこジャパン) 動画

今年(2012年)7月27日(サッカー競技は7/25)に開幕する「第30回オリンピック競技大会(2012/ロンドン)」に出場するサッカー日本女子代表(なでしこジャパン) のメンバー18名は7月2日に発表された。

金メダルを目指す「なでしこジャパン」は全員が、優勝した昨年のドイツW杯のメンバー。エースのMF沢穂希(33歳、所属:INAC神戸)は「年齢的にこれが最後かも」と自身4度目の大舞台に決意を燃やしていたが、これまで主将として、チームの先頭に立ってきた沢だが、今大会は宮間あや(岡山湯郷Belle)が主将としてチームを引っ張るなど世代交代が見られる。

なでしこジャパンが活躍し、世界の頂点に立ったことでにわかに注目を集めるようになった日本女子サッカー。

このなでしこジャパンのメンバー18名のうち、7名(沢穂希、海堀 あゆみ、近賀 ゆかり、川澄 奈穂美、田中 明日菜、大野 忍、高瀬 愛実)がINAC神戸レオネッサより選出された人達である(※1:なでしこジャパン公式サイト選手名鑑参照)。

INAC神戸レオネッサは、我が地元、兵庫県神戸市を本拠地とする女子サッカークラブである。

娯楽・飲食・スポーツ事業などを手掛ける「アスコホールディングス」(神戸市中央区。※7)が設立。アイナック(INAC)とはINternational Athletic Clubの略で、神戸市及び兵庫県におけるスポーツコミュニティの担い手を育成し、更には国際的な活動も展開していく総合スポーツクラブとして2001(平成13)年4月に設立され、女子サッカーチーム「レオネッサ」は同年11月に誕生た。チーム名の「レオネッサ」はイタリア語で雌ライオンを意味する。

神戸は日本サッカー発祥の地とされるなど、古くから日本サッカーの中心地であった。

1863年にイングランドでFA(フットボール・アソシエーション=イングランドサッカー協会)が設立され、ルールが統一されて世界に広まった“手を使わないフットボール”つまりサッカーは神戸にも明治開港(条約港)のころから持ち込まれと思われる。

明治3年、居留地住む外国人は早速KRAC(神戸 レガッタアンドアスレチッククラブ)を結成し、 フットボールなどの競技を楽しんでいたようだ。

1871(明治4)年の英字新聞『Hiogo Nwes』には「フットボールの試合が本日午後、居留地において開催される」との記事が見られるという。(※8:「神戸のサッカー」歴史参照)。

開放的だったKRACのグラウンド(現在の東遊園地)には、多くの市民が見物に訪れ、サッカーは神戸に根づいていったようだ。1888(明治21)年には、横浜外国人クラブ(YCAC)との間でのインターポートマッチ(港対抗戦)が開催されている。これが、日本最初の対抗試合だといわれている。

このサッカーが日本に伝えられた記録としてはっきりとしたものは、1873(明治6)年に、海軍兵学校の教官として、招かれた英国海軍教官団(※9参照)A.L.ダグラス少佐と海軍将兵により、日本の海軍軍人にサッカーを教えたというものがある(日本に初めて近代サッカーが伝わる)。

1870年代末になってようやく、富国強兵の一環として国民の健康な身体の維持、軍事教練の一環として「体育」、「体操」という概念の発芽が見られるようになると、1878(明治11)年、体操伝習所(のちの東京高等師範学校体操専修科)が創設され、教科の一つにサッカーが取り入れられた。

そして、1899(明治32)年には、神戸市の御影師範学で日本人だけのチームが結成されたのは、その後のサッカー界にとって重要なことであった。

近畿地方がサッカー先進地となり、師範学校の交流を通じて東京高等師範学校(以下、東京高師)をはじめ全国の師範学校もこれに追随する事に影響した。そして1917(大正6)年10月21日には、近畿の師範学校を中心として近畿蹴球大会が開催された。

この教員養成を行う師範学校で普及した事は、部員たちが卒業し各地で教員となることによって、波及的に全国の中等学校高等学校に広まって行くという事に影響した。大正から昭和初期にかけて、御影師範学校や神戸一中(現兵庫県立神戸高等学校の前身)など神戸勢が、日本のサッカー界の覇者として活躍していた。

以後、サッカーは野球と並んで人気スポーツとなった。しかし、長年サッカーは、男性だけのものというイメージが強かった。日本のサッカーにおける女子サッカーの歴史はそれほど長くなく、日本の女性がサッカーを始めた時期も、はっきりはしないが、日本で初めて女子サッカーチームが結成されたのは我が地元神戸であった。

”1966(昭和41)年12月23日の「朝日グラフ」特集に、同年11月に神戸市立福住小学校(※10)が全国で始めての女子サッカークラブを結成した・・ということを報じている。

上掲の画像は保存していた2011(平成23)年8月17日朝日新聞朝刊の「ますます勝手に関西遺産」の特集記事“キックオフは神戸から/なでしこの源流”で掲載されていた「福住小の女子サッカーチームを紹介した新聞記事。1967年3月29日付朝日新聞から」である。

同紙には今では、57~58歳となった、当時のメンバーを探し当て、彼女達から聞いた話を掲載しているが、同女子サッカークラブ「福住女子サッカースポーツ少年団」の結成は当時の女子の反発心がきっかけだったという。そのころ、女子のクラブと言えば手芸や料理、演劇であり、サッカー部を作る男子から「女子は入られへんで」と言われたことが悔しかった。「何で男子だけ?おかしいやん」ということで、数人で校長室に直談判。「みんながやるっていうなら、やろう」と、御影師範の名サッカー選手だった故・大橋真平校長の一言で、「憧れの先生に教えてもらえる」「運動がしたい」「兄がやっていた」と次々と6年生の女子が手を挙げたという。

チーム結成直後に、偶然、神戸女学院中学部(西宮市)にもサッカー部が誕生した。「女性の体に悪影響があるのでは」と難色を示す周囲を説得して、両チームは1967(昭和42)年3月19日に対戦。翌日の朝日新聞は、「後半中頃、1点をあげた福住小が、姉さんチームをふりきった」と報じているそうだ。(この新聞記事は、朝日新聞デジタルでも見られる。詳しく知りたい人は、参考※11参照)。

この試合が行われたのは、1964(昭和39)年の東京オリンピックの影響で急激に女性のスポーツ参加者が増えた時期とも一致する。

第二次大戦後、女性の社会経済的条件の向上、余暇、所得の増大、進学率の向上、加えて1960年代から70年代にかけてのウーマン・リブなど女性解放運動が高揚し、男女平等を求めて様々な分野で女性の活動がなされ始めたころ、このころから女性のスポーツへの参加も増えてきて、サッカー競技を行う女性も少しずつ見られようになる。

 しかし、サッカーをしたい活発な女子は、兄弟や友達と遊びとしてサッカーを行なうか、少年団やクラブチームで男子と一緒に練習をさせてもらい、人数が増えた場合のみ女子チームが作られるといた状況であったと推測される。

1972(昭和47)年には東京で、日本の女子サッカー初のクラブチーム「FCジンナン」が誕生。その後関東地方において、望月三起也が設立したワイルド・イレブン・レディース(横浜)、三菱重工女子サッカー部(三菱重工社員を中心としたクラブ)、三菱養和レディース(※12参照)、実践女子大学(※13参照)サッカー同好会などが誕生している。京浜女子リーグ、チキンフットボールリーグ (東京都)、横浜女子サッカーリーグなどのリーグも設立された。

一方で、1976(昭和51)年に、兵庫県神戸市を本拠とするアマチュアサッカークラブで、サッカー関連団体としては日本で初めて( JFA より4年早い)法人格を取得した本格的市民サッカークラブである神戸FC (※14)の女子チーム (神戸FCレディース)が、三重県上野市で、伊賀上野くノ一が設立された他、1978(昭和53)年には、静岡市(旧・清水市)に、清水第八スポーツクラブが、また大阪府高槻市では高槻女子フットボールクラブ スペランツァFC大阪高槻の前身とは別のチーム) が設立され、関西地区においては、関西女子サッカーリーグが設立されて、神戸女学院 (中学部・高等学部)や高槻女子FC、大阪FCレディース (現バニーズ京都SC ) などが参加した。

こうして、1970年代には、首都圏と京阪地区でリーグが行なわれていたようであるが、1979(昭和54)年に FIFA (国際サッカー連盟)が各国のサッカー協会宛てに、女子サッカーを管轄下において普及と発展に努める旨の通達を出した事を受けて、日本女子サッカー連盟が設立され、この団体が日本サッカー協会加盟団体となり、女子サッカーは正式に同協会の管轄下に入った。

そして、全日本女子サッカー選手権大会が開催され、男子サッカーの天皇杯全日本サッカー選手権大会にあたる大会として日本全国のチームを対象とするトーナメントが行われるようになったのは1980(昭和55)年になってからのことであった。

1980年代後半より、FIFA女子ワールドカップの新設を前提とする国際親善大会の開催 (1988年) や、1990年度アジア競技大会における女子サッカーの正式種目への採用など、国際状況が変化する中で、所属クラブにおける試合経験を積むための場所がない事が問題とされ、1989(平成1)年、日本女子サッカー連盟は全国リーグの設立という結論に達し、日本女子サッカーリーグが設立され現在に至っている。

なお、参考※15:「女子サッカーの変遷」によると、1970年代の、東京にチキンフットボールリーグ、横浜に横浜女子サッカーリーグ、関西に関西女子サッカーリーグができ活動していた時代、関東と関西のNO1同士が”日本一”を争う女子王座決定戦というものがあったそうだ。

又、兵庫県出身の元サッカー日本代表選手で、スポーツライター賀川浩のブログ(※16:「賀川浩の片言隻句」)には、先に書いた福住女子サッカースポーツ少年団と神戸女学院が1967(昭和42)年3月19日に対戦した女子チーム同士の試合は、神戸フットボールクラブの前身である兵庫サッカー友の会が開催したものらしい。、従がって、多くの観客の前で行なわれたこの試合こそが、日本の女子サッカー「なでしこ」の源流であるといっても過言ではないだろう。

 (冒頭の画像は、2012年5月26日熊本市で開かれたなでしこリーグの仕合で競り合う沢穂希[右]と宮間あや。2011年7月11日朝日新聞朝刊より借用

参考:

※1:なでしこジャパン公式サイト

http://nadeshikojapan.jp/

※2:なでしこ優勝に歓喜と称賛の声が続々世界が伝えた日本の快挙-スポーツナビ

http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/japan/2011/text/201107180006-spnavi.html

※3:なでしこ快挙の陰に隠れたアメリカの負けっぷりの良さとフェアネスの精神~日本称賛を続けた米メディア -ダイヤモンドオンライン

http://diamond.jp/articles/-/13194

※4:官房長官記者発表 平成23年8月2日(火)午前首相官邸サイト

http://www.kantei.go.jp/jp/tyoukanpress/201108/2_a.html

※5:【S・クーパー】ワールドカップ開幕直前~女子サッカーがたどった数奇な歴史

http://sportiva.shueisha.co.jp/clm/wfootball/2011/06/20/article287/

※6: 意外に不人気…五輪サッカー、チケット売れ残りの理由

http://megalodon.jp/2012-0528-1706-20/www.nikkei.com/article/DGXZZO41779780U2A520C1000000/?df=2

※7:株式会社アスコホールディングス

http://www.asco-holdings.co.jp/

※8:神戸のサッカー

http://www.kobe-fa.gr.jp/profile/

※9:ダグラス教官団 ‐ 通信用語の基礎知識

http://www.wdic.org/w/MILI/%E3%83%80%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%82%B9%E6%95%99%E5%AE%98%E5%9B%A3

※10:神戸市立福住小学校

http://www2.kobe-c.ed.jp/fkz-es/index.php?page_id=0

※11:朝日新聞デジタル:キックオフは神戸から

http://digital.asahi.com/articles/OSK201108170082.html?id1=3&id2=cabbaicc

※12:公益財団法人 三菱養和会

http://www.yowakai.org/

※13:実践女子学園

http://www.jissen.ac.jp/jpn/top/01/index.php

※14:神戸フットボールクラブ(神戸FC)

http://www.kobe-fc.com/

※15:女子サッカーの変遷

http://www.geocities.co.jp/colosseum/3652/gara06.html

※16:賀川浩の片言隻句: 女子サッカー草創の頃のエピソード

http://kagawa.footballjapan.jp/2011/07/post-3da1.html

女子サッカーの日米比較研究(Ⅱ)-日本女子サッカーの歴史と現状について- (PDF)

http://ir.lib.osaka-kyoiku.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/1766/1/KJ512400433.pdf

朝日新聞デジタルロンドンオリンピック2012サッカー

http://www.asahi.com/olympics/news/football2012/

なでしこジャパンW杯優勝(ニュース特集)

http://www.kyodonews.jp/feature/nadeshiko/

日本女子サッカーリーグ オフィシャルサイト

http://www.nadeshikoleague.jp/

サッカー日本女子代表 - Wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%A5%B3%E5%AD%90%E4%BB%A3%E8%A1%A8

 

 


蝉の初鳴きを聞いた

2012-07-15 | ひとりごと

今日は朝から蒸し暑い。
しかし、神戸の私の家は、少し小高いところにあるので、いつも少しは南風が吹いている。
又、ここのところその南風が冷たくて、家の中にいると以外に過ごしやすい。
今朝起きて、裏庭の木に水をやっていると地面に大きな穴がある。
ひょっとしたら蝉が孵化しているのではと思って、その辺の木を見ても見つからなかったのだが、私の家の庭の塀といった感じで建っている造成地で一段下の向かいの家の壁に蝉がしがみ付いていた。
その蝉は鳴きもしなかったが、食時後、整形へリハビリに行って11時半ごろ帰ってきたとき、家の直ぐ近くの児童公園でかすかな小さな蝉の鳴き声が聴こえた。
セミセミセミ・・と弱弱しい鳴き方だったが多分クマゼミではないかと思う。
急激に気温が上ったので慌てて出てきたもののまだ、地中から出てくるには少し早かったのだろうか・・・、数は少ない。
我が家の裏庭の先の家にしがみ付いていた蝉がどうしてるかと再度見たときにはもういなかった。
長い地中生活からやっと出てきた蝉の地上での命は短い。相手を見つけてくれるといいのだが・・・。
蝉の話は、少し、早すぎると思いながら、俳諧師松尾芭蕉が、山形市立石寺(山寺、正式には宝珠山阿所川院立石寺)に参詣した際に
「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の句を詠んだとされる、日付にちなんで、5月27日に書いた。
この句また蝉の話に興味のある人は以下で読んでください。

松尾芭蕉が「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の句を詠んだ日


潤滑油の日

2012-07-10 | 記念日

日本記念日協会の記念日に07 月10日「潤滑油の日」があった。
由来を見ると、“潤滑油は、産業活動から家庭生活まで広く使われている基礎資源。適切な使用によって省エネ、省資源効果も期待できることから、潤滑油についての知識の普及浸透を図ろうと全国石油工業協同組合(※1)が制定。日付は潤滑油の通称OIL(オイル)を半回転させると710=7(月)10(日)となることから。”・・・とあった。


潤滑とは、相対運動する二つの固体の接触面の間に、潤滑剤を供給して、摩擦力摩耗を低減させることをいう。
もしこの世の中に摩擦力というものが存在しなければ、折角、しっかり結わえたロープも、簡単にほどけてしまうし、また地面と足の裏にも摩擦力がないとなれば、人は歩くことすらできないこととなる。
このような摩擦は人間の生活に、必要不可欠なものであり、人類は、有史以前から火を起こすなど積極的に摩擦や摩耗を利用してきた。このような摩擦は人間の生活に、必要不可欠なものである一方、各種の機械や部品の側からすれば、「摩擦抵抗」によるエネルギーのロスや、部品の摩耗による「表面損傷」などが発生するため、面と面との間の直接接触を潤滑油によって防ぎ、摩擦の抵抗や摩耗などの軽減を図ることが重要となる。
しかし、産業革命が本格化する18世紀まで摩擦自体が学問として体系的に研究されることはほとんどなかったが、理論研究こそ最近まで行われなかったものの人類は経験則から油に潤滑効果があることを発見し、試行錯誤しながら潤滑油を作って来たようだ。

原油の歴史は古く、紀元前4000年のメソポタミアで彫刻の素材として使われていたという話もあれば、また、紀元前2500年の古代エジプトではミイラの腐敗防止用に用いられたという話もある・・・が、この辺のところは、正直、どこまで確信の持てる話かはよくわからないが、当時各地で黒い色をした燃える水があることは知られていたようで、これらが、建築物の詰め物のほか、一時的な灯火としても利用されたであろうことは推測できる。その際利用されたものは、いずれも、地表に染み出してきた暦世(瀝青、れきせい)油(アスファルト)などを採取してのものだったろう。


旧約聖書創世記ノアの方舟には、
「あなたは、いとすぎの木で箱舟を造り、箱舟の中に部屋を設け、アスファルトでそのうちそとを塗りなさい」(※2の創世記6-14参照)・・・・とある。
このように口語訳聖書では箱舟を造った木は、「いとすぎの木」としているが新改訳聖書新共同訳聖書ゴフェル(gopher)(またはゴフェルの木)と訳されているようだが実際どのような木であったかは、学者の間 でも異論があるようだ。それはさておき、口語訳聖書では上記のように防水にアスファルトの使用が記載されている。


上掲の画像向かって左:箱舟の建設を指揮するノア。右:150日の間洪水に耐えた箱舟はアララト山の上にとまっていた。洪水により地上の人間の大半が死に絶えたが、箱舟に避難したノアとその一族は無事だった(画像は、Wikipediaより)。
旧約聖書のノアの洪水の原型は、旧約聖書作成年代より1世紀ほど古い時代の『ギルガメッシュ叙事詩』に見られるが、この中で、神・ウトナピシュテムは「へマル」で舟を防水するよう命じている。
ここで、防水の該当部分ヘブライ語「へマル」は、日本語では「瀝青(れきせい)」「アスファルト」「タール」「ピッチ」「ヤニ」「樹脂」などと訳されているようで、「へマル」を「瀝青」の天然の「アスファルト」や「タール」などと解釈するか、「ヤニ」「樹脂」などと解釈するかはi意見の分かれるところであろうが、石油関係業界などでは、これを前者と解しているようであり、専門家でもない私は、一応この説をとることとしている。以下参考の※3:「ROOF-NET:防水図書館」の「聖書と防水」3部作や※4:「BeneDict地球博物館」の週刊スモールトーク(第144話)大洪水時代Ⅲ~ウトナピシュティムの洪水伝説~など非常に興味深いことが書かれているので興味のある方は覗かれるとよい。
又、古代エジプトでは巨石を運ぶ際、摩擦の発生する面に“ころ”を入れたり“さらに潤滑油(オリーブオイル?)を使ったとされており、紀元前 1880年頃のエルベルシエの洞窟には、そりで固定された巨大像を多くの人々によって運ばれている画像が描かれているが、そこには、士官が台座の前方に立ってそりのすぐ前の地面に壷から直接に潤滑剤を注いでいるところが描かれている(※5:参照)。

そういえば、「旧約聖書」の「出エジプト記」を原作として、制作されたスペクタクル映画「十戒」(1956年公開、米国)では、ヘブライ人がエジプトの奴隷とされていた紀元前13世紀ごろ、救世主の誕生を恐れたファラオ(セティ1世)は、ヘブライ人の男の子の幼児をすべて殺すように命ずる。
ヨシャベルは、難を逃れるため子を籠に入れ、ナイル川に流したが、沐浴していたエジプトの王女ベシアに拾われ、彼女の子として、モーゼと名づけられ育てられる。
モーゼは、武運に優れ知恵のある立派な青年に育ち、ファラオからもその優秀さを認められ、新都市建設を任せられるが、その後、モーゼは新都市建設でヘブライ人奴隷が重労働させられているのを知る。
そこでは、多くの奴隷が巨大な石の運搬に従事し、鞭に打たれロープを引いていたが、石のすべりを良くする為に石材の先端下で油を塗っていた老婆(ヨシャベル=モーゼ生みの母)が石に腰の紐がはさまれ潰されそうになっていたのを助けようとして、取り押さえられた石工のヨシュアを老婆とともに解放し、奴隷側にたって穀物などを分け与えてしまうシーンがあったのを思い出した(映画の解説は※6参照)。

紀元前1400年頃になると、馬がひく二輪の戦車(チャリオット)が広く使われるようになるが、エジプト古墳の中にあった戦車の車軸(車輪の軸。心棒)に牛や羊の油などが用いられたことが分析の結果からも知られている(※7)といわれ、このころには牛車の軸受けにグリース状の潤滑剤などが用いられていたようだ。
チャリオットと言えば、、映画「十戒」で、モーゼの役を演じていたチャールトン・ヘストンが、映画「ベン・ハー」(1959年公開、米国)では、ローマ帝国支配時代のユダヤ人貴族の主人公ベン・ハー役を演じていたが、4頭立ての馬が引っ張る二輪の戦車(チャリオット)での迫力ある競争シーンは最高の見せ場でもあった。

上掲の画像は、そのシーンであるが、以下では、映画「ベン・ハー」での迫力あるチャリオットでの競争シーンを見ることが出来る。
Ben Hur 戦車レース - YouTube


W・ワイラー がメガホンを取り、11部門でアカデミー賞を受賞したこの映画で、チャールトン・ヘストンは主演男優賞をとっている。
現在主力である石油系潤滑油の殆どは、油田が発掘された19世紀後半以降に開発されたが、紀元前400年代のヘロドトスの『歴史』には、すでに石油の精製法とその利用方法が記載されているという。
一方、摩擦の理論解析の歴史はレオナルド・ダビンチ(1452~1519)に始まるが、クーロンの摩擦法則(※8、※9参照)、あるいはアモントン=クーロンの摩擦法則(人物:アモントンについてはここを、クーロンについてはここを参照)といわれるものでさえ1760年代になってからであり、実験的証明や理論解明は遅れていた。

大きな変化は、1965(昭和40)年に、イギリスでまとめられた摩擦や摩耗による損害を推定した報告書(ジョスト報告)の中で、ピーター・ジョストが適正な潤滑を行なえば51,500万ポンドの節減が可能であると報告し、摩擦・摩耗・潤滑の技術の重要性が認識されるようになり、この分野がトライボロジー(Tribology)と命名され、以後、摩擦・摩耗・潤滑の技術分野はトライボロジーとよばれ、日本でも、日本潤滑学会が1992(平成4)年9月1日をもって日本トライボロジー学会(※10)と改称し活動しているようだ(トライボロジーについては、参考※11※12などを参照)。
この件について、参考※12:「Toshiba・機械システムの信頼性・性能向上に貢献するトライボロジー技術」の冒頭 [要旨]には、
 “機械には必ず"動く"部分がある。 二つの物体が相対運動することによって機械としての機能が生まれる。 この"動く"部分がひとたび、摩耗,焼付きを起こすと、 機械としての機能が失われるばかりでなく、 機械を部品として構成している機械システム自体の機能をも損なうことになる。 逆に、"動く"部分をうまく制御、利用することによって、今までにない新しい機械、 新しい機械システムの実現が可能となる。”・・・と書いてある。


この"動く"部分を制御、利用するための潤滑油の効率的な活用や利用を考える、又、新しい潤滑油の研究・開発などを行なうことによって、省エネ、省資源などの経済効果を期待しているのが「トライボロジー」の目的ということになるのであろうが、それではどうしたらよいかなど技術的なことは「トライボロジー」について、専門外の私などが論ずることでは出来ようはずもないので、そのようなことは参考の※12、※13ほかのHPを読まれるとよい。
ただ、「潤滑油」という言葉の意味には、機械の歯車などを、効率よく潤滑するための油などの意味とともに、 また、この化学的性質を例えとして、物事が円滑に運ばれるための仲立ちとなる物や人、ことなどを指す言葉としてもよく使われており、世の産業活動から個々の家庭生活に至るまで総ての活動分野において、潤滑油が、見落とすことの出来ない重要なものであることだけは良くわかる。
人と人とが摩擦や緊張感の多い、近頃において、夫婦間、恋人間、親子間の潤滑油として何が必要だろうか?
夫婦間の摩擦には子供が潤滑油となる事もあれば、共通の趣味を持つことが、年取ってからの夫婦の潤滑油になることもあるだろう。

阪神・淡路大震災東日本大震災などで、住む家も身内もなくし、生きる気力をなくしかけた人達に前向きに生きようとする力を与えてくれたのは、人と人の絆ではなかっただろうか。
その時の環境や時期、状況によって、どのようなものが潤滑油として必要かは違ってくるだろう。
例えば、今の日本のデフレ社会や経済状況下において、、マニフェスト(選挙公約)は、ほとんど実行しないままに、「社会保障と税の一体改革」(※14参照)を言いながら、社会保障は棚上げにしたままマニフェスト(選挙公約)ではしないとi言っていた消費税アップを自・公・民の三党合意(談合?)で強行することが、国民の不満を吸収 し、政権支持へと向かわせる上で、効果的な潤滑油の役割を果たしていると思っているのだろうか・・・。

「消費税増税前にやるべきことをやってから、消費税アップを国民に御願いすべきだ」と言って、民主党執行部を批判している小沢派を、まるで、造反者のように叩いているマスコミって、自分たちが言っていることが論理矛盾していることに気づかないのだろうか・・・?
自民党よりは頼りないだろうことは承知の上で、霞ヶ関のシロアリ(官僚)や経済団体とも癒着の少ないだろう民主党なら、自民党の出来なかったことをやってくれるかもしれないと淡い期待をもって、民主党へ投票もした私など、その裏切り行為に失望しているというより怒りを感じている。

今の政治は国民の思いとは違う方向へ歯車が空回りりしている。
又、先日(7月8日)、野田佳彦首相が突然に尖閣諸島の国有化に動き出した。
この野田首相の発言は、参考15:「goo ニュース(産経新聞)」にもあるように、国有化方針を表明した背景には、東京都が進めてきた尖閣諸島の購入計画に対する焦燥感があることは間違いなく、政権浮揚をにらんだ政治的思惑が透けてみえる。
尖閣諸島の領有を巡る1971年からの「尖閣諸島問題」は、2010年9月には中国漁船衝突事件が起き、日中関係が悪化している。

この問題に「弱腰」の政府に業を煮やした石原慎太郎都知事が、3ヶ月前に国が借り上げている3島の所有者から都が借り上げよることを発表したが、それを固有化して政府の管理下におこうが、いずれにしても、中国などが強く反発することは避けられないだろう。
ただ、都が所有し、有効活用しようとすることと、今の時期突然に、国が買い上げて管理下におこうとすることでは、政府がどのように説明しようとも、相手側の受け止め方は相当違ってくるだろうし、首相の思惑通りに事態は進まないだろう。
恐らく、中国の国内世論を抑えるためにも、強い対抗措置を取らざるを得なくなるだろうし、日本政府の尖閣国有化は、中国にとってはむしろ、口実をつけていろいろやりやすくなるのではないだろうか・・・。

私には、憲法違反である国会議員の定数是正(一票の格差参照)問題でさえ改めることの出来ない今の頼りない民主党政府に「政府による安定した管理」などできるとは到底考えられないし、中国漁船衝突事件ですらまともに処理できなかった民主党政権が、突然にこんなことを言い出して、中国を刺戟することが党の人気回復のための潤滑油になるなんて考えているとしたら、野田どじょう内閣は、国を潰してしまうことになるかもしれない。
消費税アップだけではなく、原発問題等、国民の前に何一つ信実を語らないまま、霞ヶ関の手先となりさがり、独断専行している野田内閣、は、今すぐに、内閣を解散し、国民の審判を受けるべきだろう。国民の思いとは違った方向へ進んでいる政治をまともな方向へ向かわせる潤滑油は、総選挙しかないだろう。

(冒頭の画像は、平歯車の動き。Wikipediaより)

参考:
※:1:全国石油工業協同組合
http://www.zensekiko.org/
※2:口語訳新約聖書(1954年版)
http://bible.salterrae.net/kougo/html/
※3:「ROOF-NET:防水図書館」
http://www.roof-net.jp/index.php?FrontPage
※4:「BeneDict地球博物館」
http://www.benedict.co.jp/index.htm
※5:すべり軸受の基礎[軸受の歴史的な背景] | 大同メタル工業
http://www.daidometal.com/technology/basic-02.html
※6:映画「The Ten Commandments(十戒)」解説
http://loyd-theater.com/movie-collect-3/favorite/ten-com/ten-commandments.html
※7:住鉱潤滑剤株式会社:潤滑剤のはなし:潤滑剤の歴史
http://www.sumico.co.jp/topic/history.html
※8:力学Ⅰの授業補助
http://physics.gep.kansai-u.ac.jp/~physics/jugyo/fujii/mechanics1/mechanics1.htm
※9:摩擦
http://www.crane-club.com/study/dynamics/friction.html
※10:一般社団法人 日本トライボロジー学会
http://www.tribology.jp/
※11:トライボメニュー
http://www.h7.dion.ne.jp/~kibus-2/index.htm
※12:Toshiba・機械システムの信頼性・性能向上に貢献するトライボロジー技術
http://www.toshiba.co.jp/tech/review/1998/09/b02/index_j.htm
※13: 「環境と潤滑油 →-省エネルギーとのかかわり2007-」PDF版(約4.9MB(Adobe PDF)
http://www.jalos.jp/jalos/paper/pdf/2007booklet02_all.pdf#search='潤滑油 省エネ 省資源効果'
※14:社会保障と税の一体改革の必要性と政府素案の問題点
http://www.yomiuri.co.jp/adv/chuo/opinion/20120123.htm
※ 15:goo ニュース(産経新聞)-尖閣国有化 都先行に焦り 上陸禁止継続狙う? http://news.goo.ne.jp/article/sankei/politics/snk20120708062.html
創造科学:宇宙と生命の起源
http://www.ne.jp/asahi/seven/angels/index.htm
第3章-5. プリニウス「博物誌」 | 科学/技術の総合化 ―小泉 健
http://seneca21st.eco.coocan.jp/working/koizumi/26_3_05.html
ニュース・トピックス 潤滑油業界
http://www.juntsu.co.jp/topics/topics_cate4.html
潤滑油- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BD%A4%E6%BB%91%E6%B2%B9


金閣寺炎上

2012-07-02 | 歴史
京都は東に比叡山を始めとした東山三十六峰が優美な姿をみせ、北には丹波高原に連なる愛宕山を始め北山があり、西の諸峰は保津川(桂川のうち、亀岡市保津町請田から京都市嵐山まで)を挟んで、嵐山、小倉山(右京区嵯峨にある山。保津川を隔てて嵐山と対する)が山渓をつくりだしているなど、風光明媚な自然環境に恵まれている。
794年(延暦13年)、桓武天皇がこうした東・北・西の三方を山に囲まれた地勢のもと、南に開いた内陸盆地に平安京を建設以来、武家政権が政治の中心を鎌倉 (鎌倉幕府)と江戸(江戸幕府)に移した時期以外、千有余年の間、政治・文化の中心として繁栄し、数多くの歴史上重要な文化的資産を現代に伝えているが、東山、北山、西山の山並みは、市街地の背景となっているばかりでなく、そこには史跡や歴史的建造物が集積し、恵まれた自然環境と見事にとけあっている。
しかし、平安京中央の平地部では、平安時代末期の皇位継承問題や摂関家の内紛などにより朝廷後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、双方の武力衝突に至った保元平治の乱(1156年、1160年)以降、鎌倉時代承久の乱(1221年)、元弘の変(1331年)、南北朝時代の、明徳の乱(1391年)と戦乱の舞台になった事も少なくなく、特に室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年( 1477年)までの約10年間にわたって継続した「応仁・文明の乱」(単に応仁の乱といわれることが多い)においては、町のほとんどが灰燼に帰し、戦火を免れた建物は、三十三間堂六波羅蜜寺、千本釈迦堂(正式名:大報恩寺)など数えるほどしかないという憂き目にあった。その為、洛中にはそれ以前にまで遡る建造物は極めて少なく、現存する建造物は桃山時代以降のものがほとんどである。
鎌倉幕府滅亡後の京都室町に置かれた室町幕府足利将軍家)によって、統治されていた時代、つまり、室町時代(足利時代などとも言われる)の文化は、一般に二つの山をもって語られている。すなわち、室町前期・十四世紀後半を北山文化、後期十五世紀後半を東山文化と呼ばれてきた。
そして、前者は、南北朝の合一(南北朝時代参照)を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させた三代将軍足利義満(1358年~1408年)が将軍職を退いた後に、建てた北山山荘の「金閣」を、後者は、5代後の八代将軍足利義政(1436年-1490年)が応仁の乱後に造営した東山山荘の「銀閣」(生前未完成)をその象徴としている。
両文化の特徴として、北山文化は、「それまで伝統的であった公家文化と、新興の武家文化の融合した華やかな文化」、「東山文化」は、「公家文化・武家文化に禅宗文化の影響を受け簡素で深みのある文化」であり、庭園・書院造り・華道・茶道・水墨画・能・連歌など各分野の発達が目覚ましく、近世文化の源流をなすものとされており、貴族的・華麗な義満の北山文化に対して、幽玄わびさびに通じる美意識に支えられている・・と評されている。
しかし、北山山荘に代表される北山文化と言う特別なものがあったわけではなく、室町時代の文化は、16世紀の後半東山殿義政が茶の湯(書院茶の湯)の大成者と言う点で注目されるようになり(『山上宗二記』等にて)、まず、東山文化の名の下に理解されるようになり、これに対応する形で北山文化が語られるようになった。
室町文化のピークをこのような義満と義政の二期に求めるこうした区分は、色々見直してみることも多いようだがそのことにはここでは触れない。ただ、この時代に高揚した武家中心の文化の特徴をよく現しているとはいるだろう。
中央の平地部(洛中)では、幾多の兵火に見舞われて火災が頻発し、多くの建物などが失われては再興されるという繰返しであったが、周辺の山麓部は災害を免れ、起伏に富んだ自然地形を利用して建てられた大寺院や山荘・庭園がいまでも多数残されている。
室町幕府三代将軍となった足利義満は、京都のど真ん中、邸宅としていた花の御所の隣接地に一大禅宗伽藍を建立することを発願し、至徳2年(1385年)相国寺を創建した。その翌年、 南禅寺を天下第一、五山の上とし、天龍寺・相国寺・建仁寺東福寺万寿寺京都五山と定めた。(※義満の意向により応永8年相国寺を京都五山第一位、天龍寺を第二位とする順位変更が行われたが、義満没後の応永17年に元に戻されている)。
義満と対立し、後小松天皇に譲位(譲位時6歳)し、院政を行なっていた後円融上皇が明徳4年(1393年)に死去したことにより、自己の権力を確固たるものにした義満は応永元年(1394年)には将軍職を嫡男の義持に譲って隠居したが、政治上の実権は握り続けていた。同年、従一位太政大臣にまで昇進。翌年には出家して道義と号した。この義満の出家は、征夷大将軍として武家の太政大臣・准三后として公家のそれぞれの頂点に達した義満が、残る寺社勢力を支配する地位をも得ようとしたためであると考えられている。
又、准三宮宣下を受けて日本国准后の外交称号遣明使を派遣し、日本国王封号朝貢貿易の許しを得ることに成功し、巨万の富を得る。
応永4年(1397年)、義満は、有力公卿西園寺公経の御願寺西園寺の堂舎(大小の建物、 特に社寺の建物をいう)群と山荘(別邸)北山第(きたやまてい) の地を西園寺家より譲り受け、西園寺以来の堂舎群を引き継ぐとともに、舎利殿(=金閣)を中心とする自身や夫人らの山荘(「北山第」または「北山殿」)へ造り替えられた。
邸宅とは言え、その規模は御所にも匹敵するこの地へ、翌・応永5年に移り、この地を政治・外交の中心とするとともに、後に北山文化と呼ばれるものをも花開させた。
応永15年(1408年)には後小松天皇を招いて宴を催したが、この年に義満は急死したらしい。・・・真実はわからないが、義満が皇位を簒奪し寵愛していた次男、義嗣を天皇にして自らは天皇の父親として天皇家を吸収しようとしていたとも言われ、その死は皇位簒奪を目論む朝廷側による暗殺だ・・とする説もあるようだ。
等持院で火葬された義満の遺骨は、相国寺塔頭鹿苑院に葬られた。以後相国寺は歴代将軍の位牌を祀る牌所になったが天明期に火災に遭うなどして衰微していた。
義満が没した後も、義満の室日野康子(北山院)はこの地に住み続けた。
義持は父と折り合いが悪く、また父・義満が二男の義嗣を溺愛したことなどから、根深い反発をもっていたようだ。将軍職に就いた義持は義満が行った諸政策を否定、明との勘合貿易も取りやめ、母・康子が応永26年 (1419年)11月に死去すると、翌月には、北山第も金閣を残して、解体され、南禅寺・建仁寺・等持院などに移築・寄進されたという。
義満の死後には朝廷から「鹿苑院太上法皇」の称号を贈られたが、四代将軍となった義持は,斯波義将らの反対もあり辞退しているらしい。その一方で、相国寺は受け入れたらしく、過去帳に「鹿苑院太上天皇」と記されており、夢窓国師を、名目上の開山(初代の住職)とし、法名から二字をとり、北山殿は、「鹿苑寺」と名づけら禅寺となったようだ。なにか、よく分からないが、非常に複雑な政治的理由がありそうだ。
通称「金閣寺」の由来となった「鹿苑寺」の「金閣」は、漆地に金箔を押した三層宝形造の建物「舎利殿」であり、寝殿造風の初層に、書院造風(武家造)の二層、禅宗様仏殿風の三層とそれぞれに異なる様式を採用した特異な建築は、公家文化、武家文化、仏教文化が調和し、和様、天竺様、唐様と当時の全ての手法を駆使した室町時代楼閣建築の代表的なものであり、この時代の文化を表したものとして特に北山文化と言っている。
この金閣が有名になり、「鹿苑寺」は通称「金閣寺」と呼ばれるようになった。

(上掲の画像は画像鏡湖池と金閣。Wikipediaより)
衣笠山を借景とし舎利殿〔金閣〕を水面に映しだす中心の鏡湖池に希代の見物といわれた名石や奇岩を配して九山八海(須弥山参照)
を表現する池泉回遊式庭園が広がり、極楽浄土をこの世に現したものとも言われる。
その後、応仁の乱で、舎利殿(金閣)他一部を残し焼失したが、桃山時代に相国寺の西笑承兌が復興に努め、ほぼ、現在の姿になったという。
一方、京都市左京区にある通称「銀閣寺」も、正式には慈照寺のことであり、金閣寺同様、相国寺の境外塔頭である。
銀閣と金閣は同じ室町時代の将軍が造ったものではあるが、金ぴかの金閣のあった北山第は、先にも書いたように、幕府はおろか朝廷まですべての権力を独り占めにした義満が対明貿易で得た財力にものを言わせて天皇の御所をも凌駕する政治、宗教、芸術の中心となる建物群を北山に築い北山第であったのに対して、銀閣のあった慈照寺は、政治的には全く無気力で、将軍職も投げ出した義政が応仁の乱後の1482年(文明14)に、自らの隠遁の場として、浄土寺跡(浄土院参照)に、西芳寺をモデルとして、池を囲むように東山に、造営した東山第と呼ばれる山荘(東山殿)をさしている。
この東山殿は、当時、義政が日常生活を営んでいた常御所、来客を応対していた会所、二層楼閣の観音堂など少なくとも十の独立した建物からなり、義満の北山殿ほどではないが、ある程度政治的機能ももってはいたが、会所や御所もそれらは殆ど政治向きなことには使われず、専ら義政の芸術志向のために使われた。延徳2年(1490年)正月、義政自身はその完成を見ることなく生涯を閉じるが、その間、東山殿を中心として東山文化が開花した。
十三代将軍足利義輝三好長慶が天文19年(1550)年と永禄元年(1558年)年に銀閣寺近辺で戦い、その戦火に巻き込まれて大半の建物が焼失し常御所、会所ともに現在は残っていないが、その中、奇跡的に残ったのが、今も見ることの出来る観音殿(=銀閣)と持仏堂(=東求堂)である。江戸初期に徳川家康より35石の寺領を与えられ、方丈・観音殿(銀閣)・東求堂・西指庵などの建設や修理を行い旧観を整えていき、荒廃していた庭園も修築された。
東山殿は、義政の死後相国寺派の禅寺として奉献され、義政の法号慈照院喜山道慶にちなんで慈照寺となった。特に、趣向を凝らしてつくった二層楼閣の観音殿が寺全体の象徴的な建物であったことから、「鹿苑寺」が金閣寺と呼ばれるのに対して、慈照寺が銀閣寺と通称されるようになったのは江戸時代になってからのことである。
応仁の乱で、西軍の陣となり建築物の多くが焼失した鹿苑寺も、江戸時代に主要な建物が再建され、舎利殿も慶安2年(1649年)に大修理された。金閣(舎利殿)も、古社寺保存法に基づき1897(明治30)年に「特別保護建造物」(文化財保護法における「重要 文化財」に相当)に指定され、1929(昭和4)年7月1日の国宝保存法施行に伴い(旧)国宝に指定された。また1904(明治37)年から1906(明治39)年には解体修理も行われている。
そして、第二次世界大戦でも幸いと京都では大規模な爆撃が行われず殆ど無傷だったため、現在でも多くの貴重な文化財が残っており、日本有数の観光地として栄えている。金閣寺は、そんな京都の観光スポットの代表格の1つでもある。
ところが、戦後5年目の1950(昭和25)年7月2日午前2時50分ごろ、鹿苑寺庭園内の舎利殿「金閣」から出火し、おりからの強風に煽られ、室町時代の代表建築であり、当時の国宝でもあった「金閣が骨組みを残して全焼、足利義満の木像など古美術品も焼失してしまった。
同寺の徒弟だった21歳の大学生が放火したものだが、折角の火災報知機も故障したままだった。前年に法隆寺金堂が焼失(※2)、1950(昭和25)年5月には文化財保護法が公布されたばかりのことで、貴重な文化財の保護のあり方が一層問題になった(※3参照)。
犯人は、服毒自殺を図ったが捕まり、同年12月懲役7年の判決を受け(判決文※4参照)、1955(昭和30)年に出所したが、すぐ病院に収容され、翌年26歳で死んだ(金閣寺放火事件参照)。冒頭掲載の画像が、7月2日、焼失後の金閣寺である(アサヒクロニクル週刊20世紀1950年号より)。
この放火事件があった頃は、私はまだ、中学生になる前だったので、難しいことはよく覚えていない。しかし、戦後復興をしている最中に国宝の金閣寺が放火により焼失したのだから、当時としては、大きな出来事であった。戦争中に敵国であったアメリカでさえ国宝・金閣寺を空爆しなかったのだから、それを放火した犯人の精神状態などが大いに議論され、その犯人を国賊と書きたてていた新聞もあったように聞いている。
しかし、なぜ貧乏寺とはいえ寺の住職の子として生まれ、幼少より父に小僧教育をされ大谷大学生としてと禅の勉強もし、金閣寺の価値も十分わかっていただろう青年僧が放火などしたのだろうか?新聞などが報じていたように、単に、精神異常者だったからだろうか・・・?
Wikipediaによれば、逮捕当初の取調べによる供述では、動機として「世間を騒がせたかった」や「社会への復讐のため」などとしていたが、実際には自身が病弱であること、重度の吃音であること、実家の母から過大な期待を寄せられていることのほか、同寺(金閣寺)が観光客の参観料で運営されており僧侶よりも事務方が幅を利かせていると見ていたこともあり、厭世感情からくる複雑な感情が入り乱れていたとされる・・・とある。
この事件を題材として、三島由紀夫が、『新潮』に小説『金閣寺』を連載し始めたのは、放火犯の青年が死亡した1956(昭和31)年 1 月からであった。それから6年後の1962(昭和37)年9月の「別冊文芸春秋」に水上 勉が 『五番町夕霧楼』を発表している。そして、相国寺塔頭、瑞春院や等持院で小僧の経験もあり、舞鶴市で教員をしていたころには、実際に犯人と会ったこともあるという水上は、事件に強い衝撃を受け、この事件に関して各方面への取材を重ね、「二十年越しの執念」で出版したというのが1979(昭和54)年のノンフィクション『金閣炎上』(新潮社)だそうでる。
正直、私は、このような暗い内容の小説などは好きではないので、この2冊の小説は読んでいないがWikipediaには、三島は「自分の吃音や不幸な生い立ちに対して金閣における美の憧れと反感を抱いて放火した」と分析し、水上は「寺のあり方、仏教のあり方に対する矛盾により美の象徴である金閣を放火した」と分析したと書いてある。
三島の小説『金閣寺』をもとに市川崑監督が『炎上』(1958年。大映)を映画化しているが、三島の小説は、主人公の内面に迫る、あまりにも完成度の高い作品だったため、市川は原作の脚色は無理と判断し、三島から創作ノートを借りて、これをもとに和田夏十にオリジナルの脚本『炎上』を新たに書き上げさせたため、映画と原作とでは登場人物の名やあらすじの一部が異なるものとなっているが、もともと、映画とはそういうものだろう。
市川雷蔵は、現代劇初出演となったこの作品で、ブルーリボン賞とキネマ旬報賞を受賞している。・・・でも、私は時代劇の市川雷蔵は好きだが、現代劇の、しかも暗い映画なのでやはり見ていない。
三島の『金閣寺』にしても、水上の『金閣炎上』にしても、事件から間もない内に、実在の放火犯である青年と、実在する関係者との関わりから調査し、事件を起こした青年の実像を解明しようとしているのだから、なかなか大変なことだったろうと察する。だから、ネットで読書感想を読んでいても、読んだ人それぞれな解釈があるようだ。
私は、ネットで色々解説らしきものを見せてもらった中で、参考の※5:「『金閣炎上』と『金閣寺』」を見て、両作家はともに、新聞報道が記事にしていない、つまり見落としていることを調査、分析して林養賢という青年を再生させようとした。そして、両作家ともに、事件を起こした青年と吃音との関係に注目しているのを読んで、このような、一見、何も症状のない我々から見れば、たいしたことではないようにみえる症状が実際には本人には非常に大きな影響及ぼし、このような大事件を引き起こすことにつながっているのか・・ということを思うと、現代で見られるとんでもない事件なども同じようなところに根源があるのだろうと色々考えさせられた。
現在の建物「金閣」は、放火事件より5年後の1955(昭和30)年に再建されたもので、1987(昭和62)年には金箔を全面厚いものに張り替える修復工事もなされている。さらに、2003(平成15)年には屋根の葺き替えも行われ、ぴかぴかのきらびやかな姿を蘇らせた。
この金ぴかの「金閣」を見ながら、室町時代の歴史とともに足利義満の北山殿など想像し、これを美しいと感じるか、何か変だと感じるか・・・、それも人それぞれなのだろうな~。

参考:
※1:臨済宗相国寺派HP
http://www.shokoku-ji.jp/
※2:昭和毎日:法隆寺金堂壁画が焼失 - 毎日jp(毎日新聞)
http://showa.mainichi.jp/news/1949/01/post-f6e9.html
※3:文化財保護の発展と流れ
http://www.asahi-net.or.jp/~ab9t-ymh/syofukuji/bunkazai-nagare.html
※4:放火並に国宝保存法違反事件判決文
http://www.k4.dion.ne.jp/~yuko-k/adagio/hon14-kinkaku-2.htm
※5:『金閣炎上』と『金閣寺』(Adobe PDF)
http://dspace.lib.niigata-u.ac.jp:8080/dspace/bitstream/10191/8807/1/43...
事件録:金閣寺放火事件
http://yabusaka.moo.jp/kinkakuji.htm
文学にみる障害者像-水上勉著 『五番町夕霧楼』
http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/norma/n270/n270010.html
水上勉著 『金閣炎上』
http://www.asahi-net.or.jp/~dr4i-snn/minakami-kinkakuenjyo.html
フィールド・ミュージアム京都
http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/index.html
日本国王・足利義満の生涯と皇位簒奪計画
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/vision/history001/muromachi005.html
茶の湯の歴史:北山文化・東山文化
http://www17.ocn.ne.jp/~verdure/rekisi/rekisi_4.html
刑法
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/M40/M40HO045.html
金閣寺放火事件- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E9%96%A3%E5%AF%BA%E6%94%BE%E7%81%AB%E4%BA%8B%E4%BB%B6
炎上 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD18536/index.html