今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

みその日

2007-11-30 | 記念日
今日は「味噌の日」(毎月30日)。「みそ(三十)」の語呂合せで、全国味噌工業協同組合連合会が1982(昭和57)年9月に制定し、みそ健康づくり委員会が実施しているようだ。
食生活の洋風化と外食によるみその消費減少のなか、みそ健康づくり委員会は、”すぐれた健康食品でもある味噌を健康増進に役立ててもらおう”と設立された組織だそうだ。味噌の効用は同HPの味噌の効用参照)
味噌は、穀物発酵させて作られた発酵食品であり、かっては、ごはん、味噌汁、漬物といえば、日本の食生活に欠かせない代表的な食事であった。
「手前味噌」などという言葉があるが、これは、自分の家で作った味噌の味を自慢するということから、自分で自分のことを誇ることを言うようになったもので、各家庭では「自家製の味噌」を手作りしているのが普通であった。私が子供の頃戦争が激しくなり徳島に疎開していたが、疎開先では実際に来客に味噌を出したりしていたのをみて驚いたのを思い出す。
この味噌は古来縄文人の生活跡から、既にどんぐりで造った「味噌」と呼べるような食品があったことから縄文時代からある日本独自の調味料であるとする説。また、中国もしくは朝鮮半島を経て伝わったとされる「醤(ひしお)」という調味料が日本独自に発展したという説。また、双方の影響を受けて現在の味噌の原型ができたという説。つまり、醤油の一歩手前の「未だ醤(ひしお)にならず」という意味での「未醤(みしょう)」と呼ばれるものだとする説である。
8世紀初頭に制定された『大宝律令』には「醤」とともに「未醤」の記録が見られるという。延喜式 にも「醤五勺。未醤四勺。」などと稲代わりの租税として全国から貢献されたとあり、平安京の西市(西大路七条の東北方付近)には未醤屋の存在が記録されている。「未醤」は現在でいうところの豆味噌系で、現在の味噌とはほど遠く、形状は粒状で、大徳寺納豆(以下参考に記載の「一休さんが伝えた納豆・大徳寺納豆」参照)の様なものだったようで、が多用されるのは、後世の事。
平安時代に書かれた日本三大実録には初めて「味噌」の字が現れており、この時代になると、「味噌」という和製の漢字を使った日本固有の調味料が新たに出来始めたようだ。ただ、現在の味噌の様なものに改良され、味噌汁として食されるようになったのは室町時代以降のようである。 それまでは粒々を残したままで、調味料兼たんぱく質の補給源としての大豆を食べるのが「みそ汁」だったそうだ。
この粒粒のみそを擂(す)ると調味科としての用途が広がることに気づいたのが鎌倉時代で、一部、禅僧や武士の間で、副食(おかず)として、少量の味噌を嘗めながら、ご飯を食べるようになった。だが、当時はまだ味噌は貴重な食材であったため、この貴重な味噌をより多くの人で分け合って食べるにはお湯に溶かせばよいわけで、こうして、味噌汁が出来上がったようだ。
当時の武士の食事は一汁一菜。玄米のご飯に、みそ汁と魚の干物という献立であったといわれている。一見粗食にみえるが、玄米でカロリーを、干物からカルシウムとたんぱく質を取り、みそでたんぱく質を補給するという食べ方は非常に理にかなった食事法だ。また、戦国時代には保存食としても用いられるようになり、兵糧として重宝され、兵士の貴重な栄養源にもなっていた。その名残は、朴葉味噌などに残っている。
みそ料埋の発展基盤ができたのが室町時代。みそ汁だけでなく、今に伝わるみそ科理のほとんどが、このころから造られるようになってきた。江戸時代以降、全国的に味噌は各地で風土・気候を反映し、熟成方法などの異なる多様な味噌が作られるようになる。江戸時代の俳人松尾芭蕉は非常に味噌汁好きだったそうだがそのことを書くと長くなるので省略する。以下参考に記載の「〈飲食考〉芭蕉庵の食」を見られるとよい。
この鎌倉時代の武士に始まった一汁一菜は、以後の日本人における食の基本となり、明治、大正、昭和初期に至るまで長く受け継がれてきた。
"おふくろの味"という言葉があるが、かっての”おふくろの味”は、郷土色豊かな味噌や醤油などで作られた料理であった。
ハンバーガーチェーンのマクドナルドの創業者である藤田田(でん)は、「人間は12歳まで食べていたものを一生食べていく」という「12歳味覚説」が持論。また「私は日本人に肉とパンでできたハンバーガーを食べさせ、日本人を金髪に改造するのだ」とも言い、そのために「子どもにターゲットをしぼっていく」と明言。そして、子供向けのキャンペーングッズやサービスを充実させて徹底的に子供の支持を得ようと努力している。それは、その子供の脳の中枢にマクドナルドの味を埋め込むためであり、その戦略は大成功。1971(昭和46)年に銀座へ1号店を出してもう36年になる。その頃マクドナルドでハンバーグに慣らされ脳の中枢を洗脳されて育った子が親となっている。そんな親に育てられている現代の子供たちの一生忘れられない”おふくろの味”は、今では、ハンバーグになろうとしているようだ。考えてみれば、非常に長い時間をかけた恐ろしい戦略であるが、アメリカの企業などは、どこも心理学などを応用した非常に高度な戦略をとっている。日本でも例えば、シームレスストッキングで急成長したかっての厚木ナイロン(現アツギ)が、本命としていたアメリカなどへの輸出用の婦人用のシームレスストッキングを国内向けに販売をするための戦略として、子供用のタイツ、女学生用のウーリーナイロンストッキングに力を入れて宣伝した。当時、テレビ・ラジオで連日♪アツギのタイツ~でスッタカタ、スッタカタ♪.・・・という楠木トシエのCMソングが流れ、子供たちが町でも歌っていた。これも、子供が成長をし大人になってストッキングを買うときには、子供のときから履き親しんでいたメーカーのものを思い出して買う習性があるからだと当時の厚木の工場長から聞いたことがある。「子供を狙え」は商売の常道である。そんなターゲットにされる子供を守るのは親の勤めである。親が子供を守らなければ誰が守るのか?
話は少し、それるが、敗戦後の日本の教育はある種の思想を持った人たちに、戦前のよき伝統まで破壊され、子供のときか、そのような人たちの思想を植え付けられ洗脳されてきている。その結果、「自由でしょ」、「かってでしょ」、「ほっといてよ」といった無責任で勝手な人間の社会が出来上がったと私は思っている。そういった無責任で勝手な親達が今子供たちを育てている時代なのである。世の中がどんどん悪くなるのも自然のなりゆきだ。
味噌の主原料となる大豆は、植物の中では唯一、肉に匹敵するだけのタンパク質を含有することから、「畑の牛肉」の異名を持っているが、味噌には、発酵を促すために加える麹によって、乳酸菌酵母といった非常に多くの微生物が働き、たんぱく質をアミノ酸に分解するので、非常に消化吸収のよいたんぱく源となる。「ご飯」+「味噌汁」という組み合わせは、必須アミノ酸の摂取源として抜群の組み合わせである。今の子供たちにもしっかりと食べさせてやりたいものであるが、ハンバーガー世代の親に今となってこんなことを言っても詮無(せんな)いことかな~。
(画像は八丁味噌。フリー百科事典Wikipediaより)
参考:
みそ健康づくり委員会
http://www.miso.or.jp/
味噌 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%B3%E5%99%8C
おみそのお話
http://www.marusanai.co.jp/tishiki/miso01.html
味噌・醤油の歴史
http://www.yamauchihonten.com/nenpyou/nenpyou.html
健康食品 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%81%A5%E5%BA%B7%E9%A3%9F%E5%93%81
慣用句辞典 みあ~みそ
http://www.geocities.jp/tomomi965/ko-jien07/ma04.html
マクドナルド
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%89%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%89
アツギ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%84%E3%82%AE
平安京の繁華街
http://homepage1.nifty.com/heiankyo/kuni/yomo18.html
YUMYUMTOWN・日本植物史年表
http://www.yumyumtown.com/db/history/history.html
大宝律令 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AE%9D%E5%BE%8B%E4%BB%A4
延喜式 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%B6%E5%96%9C%E5%BC%8F
延喜式
http://www.ep.sci.hokudai.ac.jp/~tsubota/chrono/engi.html
日本三代実録 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%B8%89%E4%BB%A3%E5%AE%9F%E9%8C%B2
一休さんが伝えた納豆・大徳寺納豆
http://www.kyoto-kodawari.com/kenko/ke_nattou.shtml
ハンバーガーは輸入食材の塊だった(2000年11月27日第472号)
http://www.nouminren.ne.jp/dat/200011/2000112701.htm
飲食業界の現状と課題
http://www.ikusei.ac.jp/hp-data-new/michi/mi-genjou.html
豆加工食品、もやし、豆腐、納豆
http://www.agri.pref.hokkaido.jp/nouseibu/soma/index/mamekako.htm
松尾芭蕉 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B0%BE%E8%8A%AD%E8%95%89
〈飲食考〉芭蕉庵の食
http://www.ten-books.jp/article.php?id=253

いい服の日

2007-11-29 | 記念日
今日(11月29日)は、「いい服の日」
「いい(11)ふく(29)」の単なる語呂合せからのようだ。
 この日とは別に、全国服飾学校協会・日本ファッション教育振興協会などが制定した2月9日「服の日」、やはり語呂合わせ記念日や、東京都洋服商工協同組合や全日本洋服協同組合連合会が制定した11月12日「洋服記念日」がある。この「洋服記念日」は、1872(明治5)年、「礼服ニハ洋服ヲ採用ス」という太政官布告が出され、それまでの公家風・武家風の和服礼装が廃止されたことによる。この日のことは以前に今日(11月12日)は「洋服記念日」としてとりあげたのでそこで見てください。→ここ
衣類」のことを、一般に「服」と言っているが、人が地球上に出現した頃から、人は服を着用する習性を持つ。
このような衣類の本来の目的は雨、風、紫外線、寒さといった気象条件などから肉体を保護するためまた怪我など予防のために身に纏うものであったが、その歴史の過程で、次第に、このような保護機能に加えて、人がその富や勇さ、技能を誇示したり、一定の組織に属していること又はある思想信条を有していることを象徴する意味を持つようにもなった。しかし、現在ではそのような目的よりも、自分の身体を美化する事に関する装飾 ・身体を隠し、他者の注意を引かないよう自制する といったことや自己の拡張 などといった目的の方が重視されるようになっている。また、メーカーなどが主導している、ファッションの重要な一環(服装)ともなっている。
それでは、今日の記念日ではないが、「いい服」ってどんな服なんだろう?
「おしゃれな服」のことを言っているのかな・・・?・・・それでは、おしゃれって何だろう?どういうことを言っているのだろう。ファッションセンスの良いことかな?
ファッションは人々のあいだで流行している服装を指すが、そもそも「流行」とは、ある社会のある時点で、特定の思考、表現形式、製品などがその社会に浸透・普及していく過程にある状態をあらわすものであるが、社会学者のジンメルは、流行とは、他者に同調する模倣 と流行に同調しない他者との差異化 との統一であると考え(両価説)、また「流行は階級的である」と考えた。流行は人々にアイデンティティー(同一性)を与える一方で、下層から模倣される上層の作り出す新たな流行によって差異性が保たれる。これによって流行には寿命があることをジンメルは説明したという。特に大きな流行は、人々が従来の生活に飽き、新しい生活を求めた場合に発生するとも説明されている。
流行を追う者と余り流行を追わない者がいるが、これは、都市部についても流行を追う者の多い都市と負わないものが多い都市があるようだ。私も、若い頃はファッションに関連する衣料品を専門に扱う仕事をしていたが、今はどうか知らないが、昭和30年代末から40年代にかけての経済成長期、東京にもまだ、江戸っ子が多く住んでいたが、そんな江戸っ子を自称する人の家に間借りをしていた。大家さんの奥さんが言っていたが、東京には流行を追っかける人たちが多いが、それは地方から東京にきて住んでいる人たちであって、「本当の江戸っ子は流行を追わないのです」と言っていた。事実、そこの家の娘はJALのスチュワーデスをしていたかわいいお嬢さんだったが地味な服装をしていた。また、私が扱っていた商品につついても、色物など常磐沿線の土浦だとか水戸とかいった地域の方が東京の都市部に住んでいる人より流行のカラー物などが売れるのである。それは、テレビなどの宣伝により影響され、そういった地域の人たちの方が情報に過敏で、流行に後れまいとして余計に過敏に反応するようであった。
そのほか、伝統的に流行にされない地域もあり、私が住んでいる神戸の女性などは余り流行などには左右されない人が多いようである。これは、流行を追うものが良いとか悪いの話しではない。
要するに、どちらの服を着ているのが良いとか悪いとか言う問題ではなく、どちたがおしゃれといった問題でもない・・・ということである。
よく「こっちとこっち、どっちが似合う?」「どっちが良い?」・・・などと売り場の販売員などに聞いている女性がいるがそのような場合どういえばよいのだろう。
高いブランド物の服をセットで身につければお洒落っぽくはなるが、「お洒落」とは言えない。「お洒落」とは、辞書を引くと、「髪形・化粧・服装など身なりに気を配る・こと(さま)。また、そのような人をもいう。」とあり、「服であれば、その服を着た姿がしゃれたようすであるさま」をいうのであり、そうなると、結局は、その人が、自分のセンスを磨いてこそのお洒落といえるのではないかな?例えば、シンプルなジャケットでも、それとマッチしたインナーとの組み合わせで雰囲気が違ってくる。コーディネートの仕方などセンスを磨かなければ、おしゃれにはならないだろう。お洒落に着こなせる服を見分ける・・・ことと、また、そんなセンスのいい服を着ていても歩いてる姿が悪いとつや消しだ。やはり、そういったものがトータルされて、「お洒落」になるのだろう。
結局周囲の見た人が「いい!」と思わせる何かをその人が持っているかどうかだ。見た瞬間に、「あぁ、いいなぁ!、素敵だな~」ということを感じさせることであり、その人にとってまた、その場、その環境などに「悪い服」というのはあるだろうが、単に「いい服」というものはないのだろうね~。よって、清潔感のあることは基本であろうが、お洒落を感じさせる雰囲気を醸し出す手段としてぴったりな服がその人にとよい服といえるような気がする。
最後に、日本の哲学者である、戸坂潤 の「思想と風俗」の中に以下のように書いている。
「序  、思想というものは、その持ち主の身につけば、その持主の好みのようなものにまでもなるものだ。意識とも良心ともモラルとも云っていいものになる。そして同じ時代の同じ社会に活きている沢山の人間達の間に、共通する好みの類が、風俗をなすのである。ファッションやモードと云っても、それはただの伊達ごとではなくて、それとなく、時代やジェネレーション(世代。同世代の人々)や又社会階級の、世界観を象徴しているものなのだ。だから吾々は又、世の中の風俗の褶(しびら)や歪み(ひずみ)や蠢(うごめ)きから、時代の夫々の思想の呼吸と動きとを、敏感に抽出することも出来るわけである。・・・と。
そして、第一部 風俗1 風俗の考察に、カーライルは『サーター・リザータス』(Sartor Resartus)に於て、なぜこれまでに衣服に就いての哲学が書かれていないか、を怪(あやし)んでいる。衣裳ほど日常吾々の眼に触れるものはないのに、之に就いて哲学が語られたことがないというのは、何としたことだろう。イギリス人などが衣裳哲学に考え及ぶことなどは想像も及ばないだろう、ドイツ人なら或いは衣裳の哲学に向いているかも知れない・・・・が、「衣服の哲学」は、流石哲学好きのドイツでも発達しなかったようだ。」・・・と。それ程、衣服は、身近なものであるにもかかわらず衣服の事を論ずるのは難しいことのようだ。
カーライルの名言「太陽はタバコの火をつけるのに役立たないが、それは別に太陽の欠点ではない。」がある。 これは、「衣服はあなたをお洒落にすることに役立っていなくてもそれは別に衣服が悪いわけではない」・・とも言えるね(^0^)。
(画像は、アサヒクロニクル『週間20世紀」映画の100年表紙。中央写真が映画「マイ・フェア・レディ」のオードリー・ヘプバーン。彼女は何を着ても、どんな役を演じても素敵だ!」
日本ファッション教育振興協会
http://www.fashion-edu.jp/
11月12日「洋服記念日」
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/e2c6368871dbb7c9fda40ca09bc56399
服装  - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%8D%E8%A3%85
江戸っ子 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E3%81%A3%E5%AD%90
戸坂潤「思想と風俗」青空文庫
http://mirror.aozora.gr.jp/cards/000281/files/1710.html
戸坂潤 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E5%9D%82%E6%BD%A4
トーマス・カーライル- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%AB
オードリー・ヘプバーン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%97%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%B3
マイ・フェア・レディ - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD8464/


鹿鳴館落成の日

2007-11-28 | 歴史
1883(明治16)年11月28日の今日、「鹿鳴館が落成した。外務卿(後に外務大臣)井上馨鹿鳴館の落成式で、「国境の為に限られざるの交誼(こうぎ)友情を結ばしむる場となさんとする」ために鹿鳴館を開いたことを述べ、この文明開化の殿堂が「各国人の調和の交際を得る場」となることを希望すると、その所信を表明。本来は国賓クラスの外国からの賓客を宿泊・接待するための使節であったが、國際親善の場であると同時に、鹿鳴館に招かれた外国人に日本が決して未開の国ではなく、欧米諸国に劣らぬほど文明開化された国である事を印象付けるという役割が架せられた社交場でもあった。(週刊朝日百貨「日本の歴史)
鹿鳴館が落成後は外国人を招いたパーティーが毎週のように開かれていたが、その代表といえばやはり「舞踏会」であるが、外国人のため、また日本人が彼らと対等に交際を図るために行われた「最一の遊興たる」舞踏会は、外国人の目にはどう映ったか?
フランスの海軍仕官ピエール・ロチが小説として描いた鹿鳴館は、新しい明治ではなくその名も「江戸の舞踏会」であった。そして、鹿鳴館という建物自体も「われわれの国のどこかの温泉町の娯楽場」であるし、日本人のそこでの振る舞いは、”パリ風の装いをしたじつに滑稽な日本女性たちと踊る~とても美しい、とりわけ仮装舞踏会として特異な舞踏会”であった。「どえらい笑劇」であり「まったく素晴らしい猿真似」であったと見ている。しかし、日本人を猿視したロチであるが、また、鹿鳴館の女性たちにはかなり好感も示しているが、フランス人画家ジョルジュ・ビゴーの描いた日本人の紳士淑女の鏡に映る姿は、そのまま猿である。(この画像は以下参考に記載の「日本のワインの歴史 vol .21 」でみれる。)
外国人と日本人の交際の場であるはずの鹿鳴館であったが、実際にそこで繰り広げられた舞踏会で踊っていたのは2、3を除いてほとんど外国人だけ、日本人は似合わない洋装のまま横で見ているだけであったようだ。それではいけないとばかりに1年後に始まったのが、お雇い外国人ヨハネス・ルードウィヒ・ヤンソンによる踏舞練習会。であったという。そして、鹿鳴館開館から1年以上経過してやっとダンスの練習会を始めた新政府が、その教師に選んだヤンソンは、ダンスのためではなく獣医学を教えるために東京農学校にいたお雇い外国人であったとはいっても、この練習会での成果は上々だったようで、これ以降、「西洋の舞踏会」は何とか形式を調えることはできた。”という。(以下参考に記載の「おどる近代 ―交際・ダンス・〈アソビ〉」参照)
このブログに添付している画像は、ビゴーが1887(明治20)年に創刊した時局風刺雑誌『ドバエ』に掲載されている鹿鳴館の控えの間でのスケッチであるが、洋装した女性たちはダンスの相手として動員された芸者達であろう。靴がはきなれないらしく、全員が脱いでいる。右上に見える文字「名磨行」は生意気のことか。彼女たちは、芸者であった。舞踏会のような社交場での外国人の相手に、慣れてる日本の上層夫人は当時少数しかいなかったであろうから、何らかの形でレッスンを受け、男性の多い舞踏会で員数合わせに実際に動員されていたのが芸者達のようだ。社交上手を考えれば芸者はその筆頭に挙げられるだろうから・・・。
鹿鳴館は、舞踏会ばかりが取り上げられ西洋の「猿真似」として戯画化されてきたが、舞踏会ばかりではなくその他にも洋服着付、洋食マナー、外国語会話、外国人との交際法などの講習会や、音楽会、慈善バザー等も開かれていた。参加者は上層階級に限られたが今日のカルチャースクールと変わりはない。つまり西洋文明の情報センターとしての役割を果たすホットスポットだった。その反面、西洋化に反発する国粋主義の壮士たちが周囲を徘徊する物騒な場所でもあった。不平等条約改正に取り組んでいた井上等が条約改正のためにも、日本が文明国であることを外国人に示すことが必要であると考え開館した鹿鳴館は、外国人から冷やかされながらも華やかだったのは開館からわずか4年の事であり、その努力もむなしく、不平等条約の改正は遅々として進まず、1887(明治20)年に井上が外務大臣を失脚してからは、舞踏会も間遠(あいどお)くなり、やがて人々から忘れ去られて行き、1894(明治27)年には宮内省に払い下げられ、華族会館が一部を使用。1894(明治27)年の明治東京地震で被災し、修復後、土地・建物が華族会館に払い下げられた。旧鹿鳴館の建物は、1927(昭和2)年徴兵生命保険(現・大和生命保険)に売却されたあとも保存されていたが、1940(昭和15)年に取壊された。
先にも書いたフランスの海軍仕官ピエール・ロチは、フランスの自然主義作家(自然主義文学参照)で、本名をルイス・マリー・ジュリアン・ヴィオー(Louis Marie Julien Viaud)といい、ペンネームのロチはマオリ語でばらを意味するという。
ロチはプッチーニの「蝶々夫人」のモデルとなったともいわれている『お菊さん』の著者でもある。彼は、当時、フランス海軍「トリファント号」の艦長として1885(明治18)年7~12月に来日していた。その間7月から8月約1ヶ月ほど長崎に滞在しその時一緒に生活していたのがお菊さん。言うところの一時的な日本人妻であり、その経験をもとに、執筆したものが小説『お菊さん』である。その彼が同年11月、天皇誕生日を祝う鹿鳴館の夜会にも招かれている。その時の経験をもとに『江戸の舞踏会』を書いている。
またこの2作を元に、芥川龍之介が、『舞踏会』を書いている。(青空文庫舞踏会参照)
鹿鳴館時代は、当時のジャーナリズムからも非難をあびて、急速に終息したが、日本史を考える上では、欧化政策から日本主義への思想上の大転換がはかられていく時代で、鹿鳴館の思想は、それこそ花火のような短い思想ではあったが、その後の日本に大きな影響を与えた。
今日の日本が、「なぜ他の非西洋諸国に先駆けて奇跡的とも言える経済発展を遂げることに成功したのか?」・・・を考えると、そこには、何でも受け入れる柔軟性があったからではないか。
古代から中世にかけて、日本は中国からの漢字の輸入に始まり、遣隋使や遣唐使の派遣など大変なコストと危険を伴ないながら好奇心旺盛に仏教や律令制度などを積極的に学び、取り込んでいった。そして、幕末から明治維新にかけては、西洋列強からの圧力を全身で受け止め、その植民地化を避けるために先進的なヨーロッパの文化、制度、技術、思想を、徹底的に取り入れようとした。「猿まね」と酷評された鹿鳴館でのお祭り騒ぎはその象徴であったといえるだろう。
第二次大戦後も日本は戦争に負けたアメリカの強大な影響下の中で、ジャズやミュージカルなどのアメリカ文化のみにとどまらず、自動車技術、食生活、恋愛のスタイルに至るまで、役に立ちそうな情報、知識はどん欲に取り入れ物まねをしてきた。考え方によっては、この無節操とも言える独自性のなさ。自国のアイデンティティを喪失してしまうのではないかと思えるどの徹底した物真似で、経済面でもトップクラスになった日本は、遂に、目標を失い、今までの物真似をする立場から逆にされる立場になったときから、徐々に、日本の特異性が失われ始めたような気がする。さて、これからの日本は、何を武器に世界の国と競ってゆくのか・・・。もう、猿真似はだめだよ・・・。
(画像はビゴー画「晩餐後-日本の上流階級社会のサロン」『ドバエ』明治20年。週間朝日百貨「日本の歴史」より)
鹿鳴館 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E9%B3%B4%E9%A4%A8
ジョルジュ・ビゴー - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BB%E3%83%93%E3%82%B4%E3%83%BC
おどる近代 ―交際・ダンス・〈アソビ〉
http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/works/dm/dancem1.htm
エピソード「結ばれたロミオとジュリエットー大山巌と鹿鳴館の華ー」
http://www.geocities.jp/michio_nozawa/episode34.html
「舞踏会」論―「海軍将校」が「ロティ」でない理由―
http://www.hum.u-tokai.ac.jp/nichibun/computer2005/index/butoukai_nao.htm
作家別作品リスト:No.879作家名: 芥川 竜之介
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person879.html#sakuhin_list_1
ジャコモ・プッチーニ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%B3%E3%83%A2%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%BC%E3%83%8B
プッチーニ:蝶々夫人
http://homepage2.nifty.com/pietro/storia/puccini_madama_butterfly.html
【第204号】 ピエール・ロチと長崎
http://www.mirokuya.co.jp/mlmag/archive/vol204.html
長崎歴史散歩⑤ピエール・ロチと長崎
http://www.geocities.jp/kohithugi/history-05.htm
Belle’s bar 日本のワインの歴史
http://blog.goo.ne.jp/urbankitty/c/da75844ddea3b79e648ebf06f8b06937
PDF] 文学を通して垣間見る日本の近代化
http://kite.meikai.ac.jp/japanese/meikainihongo/8/yun.pdf
生命保険 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E5%91%BD%E4%BF%9D%E9%99%BA
律令制度 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8B%E4%BB%A4%E5%88%B6

いい鮒の日

2007-11-27 | 記念日
今日(11月27日)は「いい鮒の日」だそうだ。
茨城県の古河鮒甘露煮組合が制定したそうで、「い(1)い(1)ふ(2)な(7)」(いい鮒)の語呂合せとか。
鮒の甘露煮とは、フナを軽く下ごしらえした後、素焼きにし、醤油、みりん、砂糖、水飴でなどを加えた汁で「照り」が出るように煮たもの。 骨まで柔らかくなるようにゆっくりと長時間形崩さないように煮込むのがコツ。頭から尻尾まで丸ごと食べられる。甘露煮として使われる魚は他に、アユ、鯉、ニジマス、ハゼ、ワカサギなど主に淡水性の小魚が使われる。
古河市(こがし)は、関東地方のほぼ中央、茨城県の西端に位置する都市である。
”古河”は、古く「許我」と表記され 万葉集巻14に「まくらがの古河」のうたが三首収載されている。(以下参考に記載の訓読万葉集参照)
3449: 白妙の衣の袖を真久良我(まくらが)よ海人榜ぎ来(く)見ゆ波立つなゆめ
3555: 真久良我(まくらが)の許我(こが)の渡の柄楫(からかぢ)の音高(だか)しもな寝なへ子ゆゑに
3558: 逢はずして行かば惜しけむ真久良我(まくらが)の許賀(こが)榜ぐ船に君も逢はぬかも古河は、昔から“渡良瀬”や“思川”沿い中心にひらけていた地域で、万葉の頃、すなわち奈良時代には利根流域は一面葦の生い繁る水郷で、今の渡良瀬川利根川の合する辺りは、「麻久良我(まくらが)」とよばれていたそうだ。”古河”の許我は「滸找」であって、「水辺に船をすすめる」という意味であり、まくらがのは「どの国にも属していない地域」を指しているという。(郷土史家の鎗水柏翠氏による。以下参考に記載の歴史をたどればより)
歌の内容から、奈良時代には、既に渡し場であった様子だが、渡良瀬川や利根川にのぞんだ古代の集落は、低地の沼や川を交通路として、国府や各地を結ぶ古道の要所として発展してきたことをうかがえる。江戸時代には徳川譜代大名の城下町であった古河は、日光奥州街道の要地として、代々小笠原・松平・奥平・永井・土井・堀田・本多などといった、老中格の大名が城主となり、栄えた町でもある。
1689(元禄2)年に行われた松尾芭蕉の奥羽北陸行脚。のちに『奥の細道』として結実するこの旅の様子を、随行者の河合曾良が記録していたもの綴った旅日記「奥の細道随行日記」(翻刻本「曽良 奥の細道随行日記」参照)がある。曽良のこの日記には江戸深川を旅立った日が3月20日となっているのに、芭蕉は本文に3月27日出発と書いているなど出発日より日付が違うなど、芭蕉の『奥の細道』を読み解く上で貴重な資料となるものであるが、その日記に以下のようにある。
「二十八日、ママダニ泊ル。カスカベヨリ九里。前夜ヨリ雨降ル。辰上剋止ニ依テ宿出。間モナク降ル。午ノ下剋止。此日栗橋ノ関所通ル。手形モ断モ入不。」
栗橋の関所は、日光街道が利根川を越す要地であり、「利根川通り定船場」から発展した関所の一つで「房川渡中田・関所」とよばれたそうだ。東海道の箱根、中仙道碓氷と並び重要な関所であったといわれる。古河市は利根川、渡良瀬川また渡良瀬遊水地が近くにあり淡水魚の漁に恵まれており「鮒の甘露煮」が名物である。
古くは、万葉集巻4の中にも、次のように鮒を詠んだ歌がある。
高安王の、裹(つつ)める鮒を娘子に贈りたまへる歌一首
625:沖辺ゆき辺にゆき今や妹がため我が漁(すなど)れる藻臥(もふし)束鮒(つかふな)  
訳すると、沖辺へ行き、浜辺を歩いて、やっとあなたのために私が捕って来た、藻の中に潜んでいる小さな鮒ですよ・・・といったところ。万葉集にフナを詠った歌があるように、フナを初めとする川魚は、古来より身近な食材として人々に利用されてきた。
兎(うさぎ)追ひ(おい)しかの山、
  小鮒(こぶな)釣りしかの川、
    夢(ゆめ)は今もめぐりて、
    忘れがたき故郷(ふるさと)
尋常小学唱歌 「故郷(ふるさと)」作詞:高野辰之、作曲:岡野貞一。
フナは古くから現在に至るまで身近な魚として人々に親しまれ文部省唱歌としても歌われてきた。余談だが、この歌は、子供の頃から歌っているし、私も時々ハーモニカを吹いて楽しんでいる曲であるが、本当にいい曲だ。しかし、この歌は単に兎を追って楽しんでいた子どもの頃を懐かしんでいる歌だと思っていたのだが、実は、「兎(うさぎ)を追う」とは、単に野山でこの小動物と遊ぶことではなく、ウサギを狩ること。つまり表向きは肉食を禁じていた昔、日本人が、実はそうではなく肉食をしていたということが、この甘酸っぱい追憶のフレーズに表わされているというのである。日本の童謡や唱歌にはいろいろ秘めたことがあり、奥が深いよね~。
故郷(ふるさと) 歌詞・MIDI
http://www.worldfolksong.com/songbook/japan/furusato.htm
フナを食べる方法として有名なものには滋賀県の「鮒寿司」や愛知県・岐阜県・三重県の「鮒味噌」、岡山県の「鮒飯」などがあるが、かつては身近で重要な蛋白源として全国的にもよく食べられていた。調理方法としては、塩焼きや煮付け、甘露煮の他に、刺身、洗いなどがあるほか、小さいフナを竹串でさし、タレをつけて焼くすずめ焼き(以下参考に記載の※すずめ焼参照)などもあるが、近年は、淡水魚独特の泥臭さが敬遠されたり、フナそのものが水環境の悪化によって減少したりしているため、食用とする機会は減っている。
因みに、日本における2004(平成16)年の鮒の総漁獲量は2258tで、養殖を除くとサケ・マス、アユに次ぐ漁獲量で、都道府県別に見ると埼玉県(290t)が最も多く、続いて岡山県(266t)、茨城県(251t)3位となっているそうだ。
(画像は、鮒の甘露煮)
古河市 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E6%B2%B3%E5%B8%82
奥の細道行脚―『曾良日記』
http://www.tcat.ne.jp/~drnobu/page202.html
訓読万葉集
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/manyok/manyo_k.html
歴史をたどれば
http://www.town.kitakawabe.saitama.jp/rekishi/bnk09.htm
渡良瀬遊水地
http://www1.odn.ne.jp/~aan53170/wtrs/
譜代大名- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%9C%E4%BB%A3%E5%A4%A7%E5%90%8D
芭蕉庵ドットコム
http://www.bashouan.com/
入り鉄砲と出女の栗橋関所跡
http://www.sainokuni-kanko.jp/sightsee/search_sight.php?mode=data_detail&id=112
[PDF] 利根川資料館ニューズレター
http://www.tonejo.go.jp/tone_root/tonegawa/oshirase/news/news_pdf/news_04.pdf
生きもの歳時記 万葉の生きものたち・鮒(ふな)
http://www.bioweather.net/column/ikimono/manyo/m0512_1.htm
※すずめ焼
http://www9.ocn.ne.jp/~asachou/newpage1.html
d-score・昭和8年(1933年)『新訂尋常小学唱歌 第六学年用』故郷(ふるさと)
http://www.d-score.com/ar/A02040801.html

ツタンカーメン王の黄金の棺が発見された日

2007-11-26 | 歴史
1922年の(今日11月26日)は、ツタンカーメン王の黄金の棺が発見された日。
約3300年前に黄金のマスクをかぶせて葬られていた古代エジプトの少年王(ファラオツタンカーメンミイラの素顔が初めて、同国南部ルクソールにある「王家の谷」にある同王の墓で、初めて公開されされたのが、今年・2007(平成19)年11月5日のことであった。ツタンカーメン王のミイラは王墓内の石棺に安置されてきたが、室温や湿度を一定に保つことが難しく、傷みが激しいという。そこで、そのような問題を解消するための装置をつけた展示ケースを、墓内部に設け、そこに、王墓内にあったミイラを移し、観光客にも顔を見られるようにして公開したもの。このミイラは、これまで一握りの専門家しか見ることができなかった。ツタンカーメンのミイラは、カーター氏が副葬品を取り外した際に18個に分解されていたため、修復する必要があったという。顔は、CATスキャン(コンピューター体軸断層撮影法)でミイラから収集した画像を使って、シリコーンで再現されたものだそうで、少々出っ歯気味の顔である。ミイラの頭部を覆っていた黄金のマスクは現在、カイロのエジプト考古学博物館に展示されている。 以下参照。
ツタンカーメン王の素顔、世界初公開
http://www.afpbb.com/article/life-culture/culture-arts/2307274/2313831
ナイル川中流の古代都市テーぺに近い「王家の谷」で、エジプト第18王朝、末期の王ツタンカーメン王の墓が発見されたのは、1922(大正11)11月5日のことであった。
発見したのはイギリスのカーナヴォン卿とその支援を受けた考古学者ハワード・カーターである。そして、1922年の11月26日の今日ツタンカーメン王墓より、石棺のなかから黄金の棺が発見された。そして、三層の黄金の人形棺のなかからは黄金のマスクを着けた王のミイラや膨大な遺品が発見された。7年がかりの大魚だった。(※ツタンカーメンの黄金のマスク)
ラムセス6世の墓(以下参考に記載の「ツタンカーメン物語第二部」参照)の下に位置したことで、王墓としてはきわめて珍しいことに3000年以上の歴史を経てほとんど盗掘を受けていなかったという。(実際には宝石の一部などが抜き取られていたが、副葬品自体は無事だった)。ツタンカーメン王は、アメンホテプ4世(後にアクエンアテンと改名。)と側室キヤの間の子という説が有力で、在位9年、18歳の若さで死んだとされている。
アクエンアテンの生存中、唯一神アトン信仰が説かれていたためにトゥトアンクアテン(アトン神の生ける似姿)と名乗っていたそうだ。アクエンアテンの死後、即位すると、先王・アメンホテプ4世がアトン神を信仰して国内の神事を混乱させたことから、、彼は元の伝統的な神であるアモン=ラーの信仰を復活させ、トゥトアンクアメン(アモン神の生ける似姿)と改名し、また、首都もアマルナからテーベに戻し国の安定を回復させたという。在位中、王妃アンケセナーメンを妻に迎えているが、彼女は、アクエンアトンと正妃ネフェルティティの三女である。ネフェルティティとの夫婦仲は良かったといわれている。その後若くして死に、王家の谷に葬られた。ツタンカーメンの死後、王位は王家の血を引かない大臣や将軍たちによって引き継がれてゆくことになる。
発見されるまで無名に近かったツタンカーメンは、3300年後その豪華な副葬品と美しい棺によって一躍「最も著名な王」となった。
その発掘は世界を大いに驚かせたが、発掘のスポンサーとなったカーナヴォン卿が墓の公開直後に急死するなど、発掘関係者が次々と不遇の死を遂げたとされ、ファラオの呪い(以下参考に記載の※ファラオの呪い参照)の伝説が広まる。だが、実際に不遇に死んだ関係者は少数であり、更にその多くがこじつけといえるようなものであったため、呪いの話はロンドン・タイムズに報道を独占させたカーナヴォン卿に恨みを抱いたマスコミの創作に過ぎないとされている。
また、若くしてなくなったツタンカーメンの死因については、ファラオのミイラに大きな外傷があったことから暗殺説を裏付けるものと注目されたこともあったが、これらは、現在否定されており、左足に負った傷が原因で感染症を併発したと推測しているそうだ。これらの暗殺説は、ツタンカーメンが、古代エジプト第18王朝の第12代目の統治者であったが、在位期間も短く、同王朝の最後の統治者だったことがそのような暗殺説を生んだようである。ツタンカーメンの早世後は、アイがネフェルティティを妻に迎えファラオを継いでいるが、アイは、第18王朝の王族の1人であり、アメンホテプ3世の時代から王家に仕えてきた古参の臣であり、このように、王位が王家の血を引かない大臣や将軍たちによって引き継がれてゆくことになる。
(画像は、ツタンカーメン王の黄金の棺。黄金の人形棺は1924年2月公開され、ミイラの調査は1925年に行われた。朝日クロニクル「週間20世紀」より)
ツタンカーメン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%A1%E3%83%B3
ルクソール - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%83%AB
エジプト考古学博物館
http://www.m-matsu.com/egypt/museum/museum.htm
エジプト第20王朝 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%B8%E3%83%97%E3%83%88%E7%AC%AC20%E7%8E%8B%E6%9C%9D
ツタンカーメン物語第二部
http://yas.web.infoseek.co.jp/tutankamen2/tutankamen2.html
ツタンカーメン王の素顔、世界初公開(AFPBBNEWS)
http://www.afpbb.com/article/life-culture/culture-arts/2307274/2313831
※ファラオの呪い
http://www.nazotoki.com/noroi.html
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http://0sy.jp/word/%E3%83%84%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%A1%E3%83%B3.html