今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

モーツァルト作曲の最後のオペラ『魔笛』が初演 された日

2007-09-30 | 歴史
1791(寛政3)年の今日( 9月30日)は、モーツァルト作曲の最後のオペラ『魔笛』が初演 された日。
魔笛(まてき、独:Die Zauberflöte、英:The Magic Flute伊:Il Flauto magico)K.620は、モーツァルトが1791(寛政3)年に作曲したジングシュピール(歌芝居。現在では一般にオペラの一種として分類される)。1791(寛政3)年12月5日に没したモーツァルトが生涯の最後に完成させたオペラである。台本は俳優にして劇場支配人、台本作家でもあるエマヌエル・シカネーダーが自分の一座のために書いたもの。
シカネーダーは当時ヨーロッパ各地を巡業していた旅一座のオーナーで、モーツァルトとはザルツブルク時代の知り合いであり、モーツァルトが所属したフリーメイソンの会員でもあったそうだ。
モーツァルトは1791(寛政3)年の3月から9月にかけて作曲を進め、プラハでの『皇帝ティートの慈悲』の上演のために中断したあとで、完成させたのは同年9月30日、ヴィーデン劇場で行なわれた初演の2日前の9月28日のことであったという。
初演は大好評を博し、宿敵?アントニオ・サリエリが愛人カヴァリエリとともに公演を聴きに来て大いに賞賛したと、モーツァルトはバーデンにいる妻に手紙を書いているという。また、同年12月、死の床にあったモーツァルトは時計をみながら当日の上演の進行を気にしていたともいう(フリードリヒ・ロホリッツのモーツァルト逸話集:1798年)。
1791年のこの年、モーツァルトは『皇帝ティートの慈悲』、『魔笛』、クラリネット協奏曲と作品を次々に書き上げ、精力的に仕事をこなしていたが、『皇帝ティートの慈悲』上演のためプラハに行った時にはすでに体調を崩し、薬を服用していたという。ウィーンでレクイエムに取り組んでいる最中の11月20日から病床に伏し、2週間後の12月5日35歳の若さで没した。実際の死因は、「リューマチ熱」であったらしいが、他にも諸説あり、その中に、現在では否定されているが、モーツァルトの急死はメーソンの教義を漏らしたため、フリーメイソンのメンバーが暗殺したという説さえ見られたほどだという。それは、以下のような理由による。
フリーメイソンとは、会員同士の親睦を目的とした友愛団体であり、イギリスで発生し世界中に派生した男性の秘密結社(「非公開団体」といっている)だそうである。この組織は、かって、イギリスでウィンザー城建造の際に徴用された石工たちが自分たちの権利・技術・知識が他の職人に渡らないようにギルドで暗号を使用したのが始まりとされる。
『魔笛』の初演と同時に出版された台本の初版の表紙にはフリーメイソンの古式による儀礼を示唆する口絵が印刷されていたそうであり、『魔笛』には、フリーメイソンの教義に基づく歌詞や設定が用いられていることも特徴で、序曲の最初や中間部で鳴り響く、「3つの和音」(同じフレーズが3回演奏される)は、フリーメイソンの重要な儀式とされる3回のノックを模倣したものだそうであり、劇中ザラストロの神殿内の場面でも再現する。モーツァルト、シカネーダーの2人の作者がメンバーとしてフリーメイソンの精神をオペラ化したのだとか、当時皇帝から圧迫を受けつつあったメーソンの宣伝であるなど、教団との関わりを重視する指摘があり、今日の演出にも影響を与えているという。
『魔笛』は先にも述べたように貴族中心の宮廷劇場のためのものではなく、旅一座のオーナーであるシカネーダーに依頼されて一般庶民が楽しむ芝居小屋のために書かれた作品である。宮廷作曲家を目指していたモーツァルトは、当時仕事がなく生活に困っていたので、はじめからこのような大衆娯楽の分野にも関心が有ったのか、それともお金のためにしかたなくした仕事であったのかはわからない。プラハではモーツァルトのオペラを生前から理解してくれたが、当時、ウィーンにおけるモーツァルトの人気はそれほどでもなかったようであり、どちらかといえば、「魔笛」をきっかけに、彼の死後過去のオペラ作品も見直されるようになったといわれている。しかし、また、このオペラ『魔笛』の作曲者はなんと5人の作曲者による合作であったとする説もある。(以下参考に記載の※モーツァルト:魔笛参照)。
その真実のことは知らないが、物語は王子によるお姫様の救出劇として始まったものが、途中で善玉と悪玉が入れ替わるという奇妙な捻りがあることで知られている。
途中から善悪交代する夜の女王とザラストロはオペラ・セリア的な役柄である。このオペラの中の最高音と最低音をそれぞれ歌う歌い手でもある。特に夜の女王の二つのアリア(No4, No,14)は至難なコロラトゥーラの技巧を要求する難曲であり、才能あるソプラノが若いころ歌って注目をあつめることがよくあるといわれている。
ストーリーのあらすじだけを見れば、そんなに上出来の作品とも思えないが、大衆劇場の興行主が自分の劇団のために曲を作ってもらったもので、台本も自分たちで作ったもの、ストーリーの細部をつつけば矛盾点もいろいろ出てきそうだが、肩の張る古典的なオペラではなく、大衆向けの判りやすいオペラである。歌劇『魔笛』のことについては、以下参考に記載の「ライブラリ/モーツァルト:歌劇『魔笛』序曲 K.620」などを見るとよく判る。
また、昨・2006年の夏には、シェイクスピアの古典を映画化することで知られているケネス・ブラナーが、映画「魔笛」を手掛けた。時代背景を神話の世界から第一次世界大戦中に置き換えてのもので、クラシック音楽の世界にあまり馴染みがない幅広い層の人たちに、 オペラの門戸を広げた。ただ、この”ケネス・ブラナーの映画「魔笛」の歌詞は、原曲とはすこし違うようであり、本格的なオペラファンには少し不満があるかもしれないし、ストーリーも現実的な戦争場面を示して世界平和を訴えるシリアスなものであり、その分オペラ『魔笛』のお伽噺的な楽しさは少なくなっている。それと、オペラ『魔笛』では、シカネーダー自身が演じたという道化的なパパゲーノが魔笛を代表するキャラクターとして要所要所に登場し、場をもりあげるが映画に登場する小鳥を愛するパパゲーノの影が薄いのが残念だという人もいる。オペラを題材とした映画として見るか、オペラをそのまま映画化したものとして見るかの違いだろうね。
オペラ『魔笛』の代表的な曲が以下で聴けるよ。
歌劇「魔笛」より「序曲」[フルコーラス]/モーツァルト by ピナコロン
http://j-ken.com/category/all/data/618670/
Die Zauberflote(Mozart)No14ARIE.Königin der Nacht
http://windy.vis.ne.jp/art/lib/kngnacht.htm
W.A.Mozart "魔笛: 復讐の心は地獄のように胸に燃え"
http://www.ne.jp/asahi/sing/song/karaoke/song139.htm
(画像はケネス・ブラナー監督映画「魔笛」チラシ)
参考:
魔笛 - goo
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%94%E7%AC%9B
ライブラリ/モーツァルト:歌劇『魔笛』序曲 K.620
http://www.asahi-net.or.jp/~wg6m-mykw/Library_Mozart_MagicFlute.htm
※モーツァルト:魔笛
http://homepage2.nifty.com/pietro/storia/mozart_zauberflote.html
ケネス・ブラナー - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%8A%E3%83%BC
魔笛 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD10775/index.html
:::: 魔笛 ::::
http://www.mateki.jp/

クリーニングの日

2007-09-29 | 記念日
今日(9月29日)は、「クリーニングの日」
全国クリーニング環境衛生同業組合連合会が1982(昭和57)年に制定。「ク(9)リーニ(2)ング(9)」の語呂合せ。消費者にもっとクリーニングを利用してもらい、自らもクリーニング技術の向上を目指す為に設けられたそうだ。
よいクリーニング店を選ぶときの目印には、Sマーク、LDマークなどの目印を参考にするとよいという。LDマークは、「Laundry(ランドリー)」と「Drycleaning(ドライクリーニング)」の頭文字をとったもので、全ク連の会員である47都道府県クリーニング生活衛生同業組合に加盟しているクリーニング店に表示されるマークであり、Sマークは、厚生労働省大臣が認可した「標準営業約款制度」の3つの基準「Standard(標準)」「Safety(安全)」「Sanitation(衛生)」の頭文字をとったもので、47都道府県の生活衛生営業指導センターに登録し、営業しているクリーニング店だそうである。
クリーニング業については、クリーニング業法で、洗濯物のクリーニング処理を行う「クリーニング所」や営業免許である「クリーニング師」が規定されている。クリーニング師は『クリーニング業法』に基づいてクリーニング店でアイロンがけ、しみ抜きなどを行う者で必ずクリーニング店に1人置かなければばらないことになっている。かつては商店街などの店舗に機械を設置して、ここで洗濯物の受け渡しと処理を行う、個人経営に近い業者が多かったが、何時のころからか今では、単なる洗濯物の受付・引渡し窓口としてのたんなる取次所が多くなり、洗濯物はここから専門の処理工場である「クリーニング所」へ運ばれ処理されるようになっている。
最近の衣料品にはファッション性を重視した特殊な素材や加工を施した衣類が多くなり、通常の使用他、クリーニング等でも取扱いの難しいものが多くなっているようだ。衣類を購入する時には、色やデザインばかりでなく、衣類についている品質表示や取扱い絵表示を確認し、使用した後のクリーニングのことも十分考えておかないといけないだろう。クリーニングのことを何もわからない私が書くよりは、以下参考に記載のLD倶楽部/全国クリーニング生活衛生同業組合連合会HPを見られると良い。
自動洗濯機の出現によりほとんど用いられなくなったが私が、子供の頃、戦後でも、日本では、まだ盥(タライ)に洗濯板を利用して、洗濯石鹸を使って、洗濯をしている風景を良く見た。洗濯に使う水は水道水を利用するようになるまでは、大体、水の流れている小川や井戸の周りで洗濯をしていた。このような洗濯風景は江戸時代から見られる。
しかし、石鹸は、安土桃山時代に南蛮貿易で日本へ伝えられたが、江戸時代には、医薬用に用いられたくらいで、一般の洗濯の汚れ落としには、無患子(むくろじ)の皮、さいかちの実(以下参考に記載の※無患子、※さいかちを参照)、灰汁石灰、米のとぎ汁などがよく使われた。洗濯は古くは、水辺での足踏みやたたき洗いが行われた。(NHKデーター情報部編・ヴィジュアル百科「江戸事情」 )
吉田兼好の『徒然草』には、空を飛んでいた久米の仙人が洗濯女の裾をからめ上げた脛の白さを見て、神通力を失って墜落したという話がある。(以下参考に記載の「徒然草・第八段 世の人」参照)
それが、中世に入ると盥(たらい)でのもみ洗いが普及し、井戸端でしゃがんで洗濯をする光景が一般化した。洗濯板は、明治以降に使われだしたそうだ。
中世より、一部には、洗濯女のような職業もあったようだ、江戸時代になるとこの他に、着物の洗張りや灰汁洗い、しみぬきを専門にする商売人も現れている。京阪ではこれを悉皆屋(しっかいや)とよんだ。つまり、「悉皆」とは「これ皆」という意味であり、着物のしみ抜き・クリーニング・仕立て・洗い張りなど、着物に関する手入れの何でも屋さんと言ったところ。
石鹸が家庭に普及しはじめたのは明治時代になってからのこと。1859年(安政6年)6月2日 横浜港が開港される。 西洋人が多く居留するようになると, 必然的に 西洋式の洗濯の需要が増加した。そして、青木屋忠七に「外国人衣類仕洗張」という営業許可書が出て、外国人相手の洗濯業「クリーニング」を始めた。これが外国人相手の洗濯業「クリーニング」元祖だという。このことからフランス山の谷戸坂に面する地に「クリーニング業発祥の地」の碑が建立さている。
また、横浜磯子の堤磯右衛門により日本で最初の石鹸製造が行われ、彼の門下が花王資生堂などで製造を続けたのだそうだ。
クリーニング店へ出さないものの家庭での洗濯は、今では、便利な洗濯機も出来たし、良い洗濯用洗剤もあり、私など、単身赴任で一人暮らしをしたときも殆ど洗濯で困ることはなかった。しかし、1980年代以降、都市部への流入人口の増大し、アパートやマンション等が増加。ワンルームのマンションやアパートに多くの人が生活しているが、振動音が響きやすい深夜などには騒音の大きい洗濯機は稼動させ難い事情があるため洗濯機を所有している独居者でも、コインランドリーを利用する場合が見られる。東京在住の昔の私の飲兵衛友達(定年まで独身でいた)など、はなから洗濯機は所有せず、すべてコインランドリーで処理していたよ(^0^)。これなど、騒音の問題と言うより、洗濯が面倒だったからだと思うが・・・。
(画像は、洗濯屋「絵本時世粧」国立国会図書館蔵。NHKデーター情報部編・ヴィジュアル百科「江戸事情」 より)
参考:
LD倶楽部/全国クリーニング生活衛生同業組合連合会HP
http://www.zenkuren.or.jp/index.htm
Category:洗濯 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E6%B4%97%E6%BF%AF
徒然草 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%92%E7%84%B6%E8%8D%89
徒然草・第八段 世の人
http://protozoa.blogzine.jp/tureture/2006/05/index.html
砧 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%A7
発祥の地コレクション/クリーニング業発祥の地
http://hamad.web.infoseek.co.jp/hass-col/commerce/cleaning.htm
洗濯難物語
http://www.hpmix.com/home/showadry/T1.htm
松尾芭蕉 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B0%BE%E8%8A%AD%E8%95%89
横濱 外国文化 始め・初め・はじめてものがたり・石鹸
http://www.spiceroad.ne.jp/spiceroad/yokohama/sekken.html
※無患子 (ムクロジ)
http://www.hana300.com/mukuro.html
※莢 (さいかち)
http://www.hana300.com/saikac.html
[悉皆屋]
http://www.shikkaiya.jp/
横浜市の歴史 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E6%B5%9C%E5%B8%82%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2


「ダッカ日航機ハイジャック事件」の起こった日

2007-09-28 | 歴史
今日(9月28日)は、「ダッカ日航機ハイジャック事件」の起こった日。
1977(昭和52)年9月28日、日本赤軍が、ポンペイ発の日航機をのっとり、ダッカ国際空港へ強行着陸。乗員乗客156人を人質に同志の釈放を要求。日本政府は「超法規的措置」で、釈放を決め、犯人側が要求した9人のうち出国を希望した奥平純三ら6人の出国と身代金6000万ドルの支払いを認めた。これを、「ダッカ日航機ハイジャック事件」という。
ダッカ国際空港のあるバングラデシュではこの事件中に、軍部中枢を含む政府首脳がこの事件の対応に追われている隙間を縫って軍事クーデターが発生するなど、現地は緊迫していた。のっとり犯の要求に対して、日本国政府は議論の末、10月1日に当時の福田赳夫首相(長男が、現・福田康夫首相)が「人命は地球より重い」と述べて、身代金の支払い及び、超法規的措置として赤軍派系連合赤軍メンバーなどの引き渡しを決断した。なお、このとき、検事総長法務大臣はこの様な「違法措置」の施行に対して強硬に反発し、閣内不一致を恐れた福田は福田一法務大臣を更迭している。
釈放に応じたメンバー6名は、奥平純三(前年ヨルダンから強制送還され公判中。日本赤軍。奥平剛士の弟)、城崎勉(共産同赤軍派大菩薩峠事件で逮捕)、大道寺あや子(新左翼武装組織・日本赤軍の元メンバー。のっとり犯・佐々木の出身母体である東アジア反日武装戦線)、浴田由紀子(同上)、泉水博(獄中者組合。一般刑事犯)、仁平映(同上) の6名であるが彼等は、10月1日、日本航空特別機でダッカへ輸送した。
犯人側は、ダッカ、クエートシリアダマスカスで次々と人質を解放しながらアルジェリアのダル・エル・ペイダ空港に到着。人質を全員解放し、アルジェリア当局に投降した。
日本における、初のハイジャック事件としては、よど号ハイジャック事件(よど号乗っ取り事件)が有名である。この事件は、1970(昭和45)年3月31日に共産主義者同盟赤軍派が起こした日本航空機に対するハイジャック事件である。
赤軍派は、国内での非合法闘争の後方基地(国外亡命基地)としての海外のベースが必要であるとする「国際根拠地論」に基づき、海外にメンバーを送り込む計画を立てそれにのっとって行ったものであり、この事件では、日本の運輸政務次官が人質の身代わりになり、犯人の多くが北朝鮮への亡命や逃亡に成功するなど、解決に際して非常に問題の多い事件であった。さらに、この時点ではハイジャック自体を処罰する法律は存在しておらず、この事件を受けて、「航空機の強取等の処罰に関する法律」、いわゆる「ハイジャック防止法」が成立し施行された。新左翼系日本人による左翼ゲリラ武装テロ組織「日本赤軍」は、冷戦下の1971年、共産主義者同盟赤軍派の「国際根拠地論」に基づき、赤軍派の重信房子や元京都パルチザン(ゲリラ)の奥平剛士らがパレスチナへ赴き、同地で創設された。
そして、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)などパレスチナの極左過激派と連携し、1972(昭和47)年5月の「テルアビブ空港乱射事件」、1973(昭和48)年7月「ドバイ日航機ハイジャック事件」、1974(昭和49)年9月「ハーグ事件」、1975(昭和50)年8月「クアラルンプール事件」そして、1977(昭和52)年の今日(9月28日)の「ダッカ日航機ハイジャック事件」と一連のハイジャックや空港内での乱射事件などの無差別テロを起こし多数の民間人を殺害し、世界的に注目を浴びると同時にその残虐性が大きな非難を浴びていた。この後も、「ジャカルタ事件」、「三井物産マニラ支店長誘拐事件」、「ローマ事件」、「ナポリ事件」、などを次々と起こしている。
日本政府が過去にテロリストの要求に屈したのは、1975(昭和50)年の「クアラルンプール事件」に続いて、「ダッカ日航機ハイジャック事件」が2度目であった。
この「ダッカ日航機ハイジャック事件」における日本政府の対応は、この時すでに「テロリストや過激派と交渉せず」との欧米を中心とした国際的非難を受け、一部諸外国からは「日本はテロまで輸出するのか」などとまで非難された。そして、世界各国では、この様な事件に対処する為、対テロ特殊部隊の創設が進められ、同年、日本政府も、この事件を教訓として、西ドイツの特殊部隊「GSG-9」(後述)を参考に、ハイジャック事件に対処する特殊部隊を創設した。この部隊は近年増設され、特殊急襲部隊(SAT)と呼ばれている。
2001(平成13)年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件を受け、日本が、米国の対テロ軍事行動を支援するための法律「テロ特措法」(テロ対策特別措置法)は、実際には、アメリカ合衆国などがアフガニスタンなどに対して、対テロ戦争の一環として行う攻撃・侵攻を援助(後方支援)することについて定めた法律であるといわれている。2001年11月、2年間の時限立法として成立したが、2003年、2005年、2006年の3回、期間が延長された。 4回目の延長となる今年2007年11月、夏の参院選で参議院で過半数となった野党の民主党は延長反対を表明しており、延長の改正案が否決される可能性が高いが、何らかの理由をつけて、日本の最大の貢献として、インド洋上での無料のガソリンスタンド役を果たすことになるであろう。
この改正法案を通すことが彼岸であった自民党の 安倍晋三は、体調不良とか言って首相代行も決めないままに、9月12日突然政権を放り出して内閣総理大臣を辞任してしまった。そのあとの後継争いの自民党総裁選では、昔ながらの派閥政治が復活し、反麻生の派閥領袖が福田康夫を担ぎ、福田赳夫との親子2代にわたる内閣総理大臣に就いた。福田赳夫が、テロリストの要求に屈して、国際的に非難されたこともあり、何よりも非難をおそれる日本の自民党政府は、テロ対策と名がつけば、何にもましてその協力を惜しむことはないのではないか。
(画像は、ダッカ日航機ハイジャック事件で釈放を要求に応じた6人が、10月1日朝、羽田空港で護送機に乗り込む。朝日クロニクル「週刊20世紀」より)
参考:
Category:日本のハイジャック事件ーWikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E4%BA%8B%E4%BB%B6
テルアビブ空港襲撃事件
http://gonta13.at.infoseek.co.jp/newpage365.htm
日本赤軍事件
http://yabusaka.moo.jp/nihonsekigun.htm
テロ対策特措法
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/anpo/houan/tero/index.html
テロ対策特別措置法
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/7009/mg0111-4.htm
安倍晋三- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E6%99%8B%E4%B8%89

大友柳太朗(俳優、「怪傑黒頭巾」) の忌日

2007-09-27 | 人物
今日(9月27日)は 大友柳太朗(大友柳太郎=俳優、「怪傑黒頭巾」) の1985(昭和60)年の忌日。
大友 柳太朗(おおとも りゅうたろう)は、1912(明治45)年6月5日、山口県玖珂郡麻利布村(現岩国市)に中富家の長男として生まれる。本名は中富正三。松山中学(現・愛媛県立松山東高等学校)卒業後、新国劇に入り、辰巳柳太郎に師事。1936(昭和11)年、24歳の時、映画界にスカウトされ、片岡千恵蔵市川右太衛門山田五十鈴らが活躍していた新興キネマ京都撮影所に入社。芸名は新国劇時代の師匠辰巳の芸名を貰い「大友柳太郎」とし、山本周五郎原作の『青空浪士』(1937年)で映画デビュー。続いて同年、鈴木澄子(元祖・化け猫役者といわれているそうだ)との『佐賀怪猫伝』に主演し大ヒット、スターの仲間入りを果たす。1942(昭和17)年1月に、新興キネマ、大都、日活の製作部門を吸収する形で、大日本映画製作株式会社(大映)が設立された。この大映創立第1回超大作『維新の曲』(オールスター)では、坂本竜馬を暗殺する佐々木只三郎役で出演。
順風満帆が俳優生活であったが、戦争で応召を受け、戦後の1946(昭和21)年、復員するが、日本を占領中の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、日本刀を振り回す剣劇(チャンバラ時代劇)は軍国主義を煽り立てる危険があり好ましくないので禁止するとの通達を出した。この時代劇禁止政策により、大友はしばらく地方巡業などで生計をたてていたようだ。
余談になるが、時代劇全盛の時代に、時代劇の大御所・片岡千恵蔵の時代劇を作れないので、この時、苦肉の策として、時代劇のチャンバラを拳銃による銃撃戦に置き換えてつくられたものが千恵蔵が現代劇で、架空の探偵(多羅尾伴内)を演ずる「七つの顔の男」シリーズであり、1946(昭和21)年~1948(昭和23)年に大映が4作品を、1953(昭和28)年~1960(昭和35)年に東映が7作品を製作し、興行的に大成功を収めた。まさに、瓢箪から駒の映画であるが、私も大好きでこの映画は殆ど見ている。
大友の戦後の復帰第一作は、GHQ規制の中での斬りあうことのない娯楽時代劇「天下の御意見番を意見する男」(1947年4月)での一心太助役であった。彼の持ち味はチャンバラ。殺陣の鮮やかさは誰もが認めるところだが、チャンバラのないただ威勢の良い啖呵が売り物の太助役はどうも大友にはにあわなかったようだ。その後もGHQ検閲の中で映画には出演している。また、1950(昭和25)年には時代劇映画も解禁されるが主役には恵まれず、「大江戸五人男」 (1951年)から、「大友柳太郎」の「郎」を「朗」に改め、「大友柳太朗」と改名している。改名のと理由はなかなか主役の座に返り咲けず低迷したので、これでは師匠の名を名乗るのはおこがましいと考えたからだという。そんな戦前の主役で、戦後、脇役に廻ってしまった俳優の中で、いち早く唯一人スターの座にもどれたきっかけは、1953(昭和28)年2月、松山中学の後輩である佐伯清監督による「加賀騒動」で山田五十鈴との共演を果たし、これが大ヒットしたことによる。そして、東映に入社後の同年11月公開の「怪傑黒頭巾」に主演。この役が大評判となり、黒頭巾役者として子供達の人気の的になった。明朗快活、太刀さばきのうまい侍役の大友は、チャンバラ映画の好きな私もファンであり、怪傑黒頭巾も良かったが、私にとっては、1954(昭和29)年.からの「新諸国物語 笛吹童子」三部作の 霧の小次郎役が非常に印象に残っている。高らかな笑い声とともに黒雲に乗って現れる霧の小次郎は、主演の萩丸(東千代之介) 菊丸( 中村錦之助 )を喰っていた。 シリーズ物では、「怪傑黒頭巾」のほか大河内伝次郎のものを継承した「丹下左膳 」シリーズや嵐寛寿郎の主演で戦前から続いていた「むっつり右門」シリーズを継承した「右門捕物帖」シリーズがある。1950年~1960年代の東映時代劇の全盛期(黄金)にあって、大友は、片岡千恵蔵、市川右太衛門の両御大と中村錦之助、東千代之介、大川橋蔵の若手三羽烏などとの中間的存在にあったが、味のある俳優であった。
時代劇では豪放磊落な役柄が多かったが、俳優としての実像は非常に生真面目で神経質だったようで、師匠辰巳の前では終生、膝を崩す事がなかったそうだ。滑舌(かつぜつ)が悪い事を常に気に病んでいたともいわれるが、私などには、かえって、それが、大友の台詞回しの特徴で良かったと思うのだが・・・。
東映時代劇が衰退した晩年にはNHKの「国盗り物語」やフジテレビの「北の国から」などテレビドラマにも数多く出演し、現代劇でも親しまれたが、1980年代に入り台詞覚えが悪くなった事から、老人性痴呆症にかかったと悲観しはじめ、不眠症にも悩まされるようになったという。そして、1985(昭和60)年の今日(9月27日)、東京都港区の自宅マンション屋上から飛び降り自殺した。部屋には妻と、10月から放送の新番組でレギュラー出演していたテレビドラマ『ハーフポテトな俺たち』(日本テレビ)のプロデューサーに宛てた遺書が残されていたという。この『ハーフポテトな俺たち』と映画『タンポポ』(伊丹十三監督)の2本が遺作となった。死の前日伊丹に電話をかけ、自分の出番が全て撮影済みであることを確認しているという。享年73歳であった。死ぬまで、義理を重んじる律儀な人だったんだね~。ただ、これだけ、多くの映画に出演し、多くの主演を演じ人気もあったわりには、いざ、このブログを書き、彼の映画のポスターやチラシ、カット場面等の画像を捜してもネット上や私の持っている本などには、参考にしようと思う画像が見つからない。彼ほど多くの映画に出ていない人や脇役ばかりであった人のものがあってもないのが不思議である。よくよく見直してみると、彼の映画は、本当に娯楽作品であって、面白かったが時代劇の割りには重量感もなく、名画といわれるほどの作品もない。「丹下左膳」や「右門捕物帖」シリーズにしても前にやっていた大河内や嵐寛が時代劇スタートして偉大すぎて、彼の作品が話題とはならないのであろう。しかし、そうだからと言って、彼の役者としての価値がないわけではない。私などにとっては好きな役者の1人である。
彼が好きな人は以下参考に記載の「チャンバラワールド・大友柳太朗の部屋」を見られると良い。映画の解説とともに懐かしいスチール写真など見れるよ。
(画像は、映画「忍者秘帳・梟の城」の1場面。中央大友柳太朗。アサヒグラフ「日本映画100年」より)
参考:
大友柳太朗 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E6%9F%B3%E5%A4%AA%E6%9C%97
大友柳太朗 (オオトモリュウタロウ) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/86738/index.html
大友柳太朗出演映画
http://www.jmdb.ne.jp/person/p0259410.htm
チャンバラワールド・大友柳太朗の部屋
http://www.asahi-net.or.jp/~uy7k-ymst/ortop/ortop.htm

「アンコ椿は 恋の花」などの作曲家・市川昭介の忌日

2007-09-26 | 人物
今日(9月26日)は、「アンコ椿は 恋の花」「さざんかの宿」などの作曲家・市川昭介の2006年の忌日。
市川 昭介は、1933(昭和8)年1月4日、福島県生まれ。同県郡山市の高校を卒業した18歳の頃、ハワイアンバンドでの歌手デビューを目指し上京。歌手の高倉敏(ビン)、鶴田六郎、作詞家・藤間 哲郎等の付き人を10年間続けながら、独学で作曲法・ピアノを学ぶ。コロムビアレコードの専属となり、1961(昭和36)年、島倉千代子が歌い第3回日本レコード大賞作曲奨励賞を受賞した「恋しているんだもん」で作曲家デビュー。1962年(昭和37年)、畠山みどりの『恋は神代の昔から』がミリオンセラーとなり、続いて1963(昭和38年)の「出世街道」も大ヒット。同年第14回コロムビア全国歌謡コンクールに優勝した都はるみを内弟子に迎えて、翌・1964(昭和39)年16歳にして歌手デビューした(デビュー曲は、3月の「困るのことョ」作詩:西沢爽、作曲:遠藤実)都はるみを「アンコ椿は恋の花」で歌謡界に送り出した。
♪三日おくれの 便りをのせて
   船が行く行く 波浮港
   いくら好きでも あなたは遠い
   波の彼方へ いったきり
   あんこ便りは あんこ便りは
   あ・・・あ 片便り
「アンコ椿は恋の花」作詞:星野哲郎、作曲:市川昭介、唄:都はるみ 。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~ada-kazu/new_page_285.htm
うなるような力強いこぶし回しと声を震わせる独特の繊細な歌唱法で、都はるみのこの曲は3作目のミリオンセラーとなり大ヒットし、一躍脚光を浴びる。
アンコ椿の”アンコ”とは、伊豆大島の女の人に対する敬称らしい。古くからの島で働く年上の女の人に対する敬称で“姉っこ”から変化したものと聴く。 椿の花とともに伊豆大島のアンコ人形が知られている。1965(昭和40)年映画化もされ、都はるみも出演している。
市川は、その後も、「涙の連絡船」(1965年)「好きになった人」(1968年)「大阪しぐれ」(1980年)など、都はるみの一連のヒット曲を作曲。都はるみを国民的演歌歌手に育て上げた。
日本コロムビアクラウンレコードの専属作曲家を務めた後、1974(昭和49)年にフリーに。
覚えやすい旋律で親しまれ、水前寺清子「涙を抱いた渡り鳥」、村田英雄の「皆の衆」舟木一夫「絶唱」 美空ひばり「しのぶ」 や大川栄策「さざんかの宿」、五木ひろしの「細雪」。神野美伽「男船」、伍代夏子「恋挽歌」、市川由紀乃「海峡出船」(市川昭介最後の録音立会い曲) などを生んだ。
都はるみの他、市川の門下生といわれているのが先に書いた畠山みどりや、ジュディ・オング五木ひろし大川栄策神野美伽市川由紀乃らである。
TBS系「家族そろって歌合戦」の審査員やNHK教育のTV趣味百科「カラオケ演歌歌唱法」番組の講師役など、テレビ出演でも知られた。
1990(平成2)年から日本レコード大賞の実行委員長を務め、1998(平成10)年からレコード大賞の制定委員を務めた。また、日本音楽著作権協会(JASRAC)の評議員、日本作曲家協会の副委員長も歴任した。
1992(平成4)年、郡山市特別表彰。1996(平成8)年、紫綬褒章受章。2004(平成16)年、旭日小綬章受章。昨・2006(平成18)年の今日(9月26日)肝不全のため死去。享年73歳であった。
市川が 生涯に作った曲は約3000曲にのぼるという。 そのほぼ全ての曲が演歌、といってよい。都はるみは恩師の市川を歌謡界の父親と慕っていた。
都はるみにとって市川との一番思い出深い作品は「大阪しぐれ」だという。1976(昭和51)年の大ヒット曲「北の宿から」(作詞:阿久悠、作曲:小林亜星)の後、「何を歌っても、うまくいかなくなっていた」状況を打破ししてくれた作品がこの曲であり、この曲で、日本レコード大賞最優秀歌唱賞も受賞している。この「大阪しぐれ」は私も大好きな歌だ。
♪ひとりで生きてくなんて できないと   
  泣いてすがればネオンが ネオンがしみる
  北の新地はおもいでばかり 雨もよう
  夢も濡れます ああ大阪しぐれ
「大阪しぐれ」作詞:吉岡治、作曲 :市川昭介  
ちょっと聞いてみよう。↓
http://www15.plala.or.jp/hiroiosa/index-ikinuki-mysong-osakasigure.htm
市川の訃報を聞いた都はるみは、思い出話として、1984(昭和59)年、人気絶頂期に「普通のおばさんになりたい」と引退宣言をした。その発表の前に市川に相談をした。その時市川は周囲に反対する声が強い中、弟子の決意を支持し、「怠けて歌い続けてきていたならともかく、一生懸命に歌い続けてきた彼女なので、あえて引き留めなかった」という。そして、引退前の最後の舞台、同1984(昭和59)年の大みそかの紅白歌合戦の数日前には、1時間以上、歌唱レッスンに付き合い、激励。当時は公演先で感涙することが多かったはるみを「お前は歌手なんだから、泣くな。思いっきり歌え」と叱咤し続けたという。
また、デイリースポーツによると、病床で都はるみに「曲が作りたい。詞を持ってきてくれ」と求めるほど創作意欲があった。書き上げた曲を都に「はるみ、歌ってみてくれ」と話したという。亡くなる10日前の16日には病室でキーボードを弾き、都はるみが歌って“遺作”を作った。
都はるみが、恩師・市川が最後に書き下ろしたシングル「蛍の宿」(コロムビア)と、市川作品を集めたアルバム「恩愛の花」(同)を市川の一周忌にあたる今日(26日)に出すという。そして、有楽町の東京国際フォーラムでは、メモリアルコンサートを開くそうだ。市川と都は本当に固いきずなで結ばれた師弟コンビだったんだよね~。 
(画像はCD、「市川昭介作品集・いいうたたくさんありがとう」レーベル: コロムビアミュージックエンタテインメント )
参考:
市川昭介 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%82%E5%B7%9D%E6%98%AD%E4%BB%8B
goo-音楽-演歌
http://music.goo.ne.jp/genre/ARTLISC10016/index.html
「恋しているんだもん」島倉千代子
http://www.fukuchan.ac/music/j-sengo1/koishiteirundamon.html
「恋は神代の昔から」 畠山みどり
http://www.fukuchan.ac/music/j-sengo1/koiwakamiyono.html
アンコ椿は恋の花
http://www5a.biglobe.ne.jp/~ada-kazu/new_page_285.htm
市川昭介 (イチカワショウスケ) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/110438/index.html
あんこ人形誕生記
http://ankosan.blog53.fc2.com/
歌のページ(歌謡曲・ポップス・童謡・唱歌)
http://www15.plala.or.jp/hiroiosa/
YouTube - 涙の連絡船
http://www.youtube.com/watch?v=pc5NgpeFWs0
市川昭介一周忌、都はるみ新譜(2007年9月13日 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/music/news/20070913et05.htm