今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

生命保険の日

2005-01-31 | 記念日
今日(1月31日)は、「生命保険の日」
1881(明治14)年7月に日本初の生命保険会社が設立され、翌1882(明治15)年のこの日、受取人第一号が現れた。
保険は元々、相互に助け合う為に作られたものであり、お互いが保険を通して社会の一部を担う為に作られた。その始まりは、遠くギリシャローマ時代から地中海地方に行われていたFones nauticum(Fones=利子付貸借、nauticum=海のという意味)から転化したもので、保険は西洋で、商人が保険者となって海上保険を引き受けたのが始まりのようである。そして、1666年ロンドンの大火を契機に火災保険が生まれる。だから、この当時は保険と言えば大きくは、海上保険を意味していたようである。
1688年頃テームズ河畔に店を開いたロイド(Edward Loyd)経営のコーヒー店には、船主、荷主、海上保険者など海事関係者が集まり、そこで海上保険取引が盛んに行われたが、1713年度ロイドが死亡後、そこに出入りしていた個人保険業者たちが作ったグループがロイズで、これが、1871年には、「Corporation of Lloids」として法人化し、今日では世界保険市場の中心となっている。
江戸時代の日本にも保険類似の仕組みはあったが、日本の近代的な保険制度は明治になってから出来る。幕末から明治維新にかけては、外国の保険会社が横浜、長崎、函館に進出してきて、日本に居留する外国商社を相手にしていたが、文明開化の進展とともに、日本資本の商社や日本人をも相手とする保険会社も登場した。
福沢諭吉が慶応3年(1867)『西洋事情』で生命保険事業について紹介を行い、続けて1868(慶応4)年には、「西洋旅案内」の中で「イシュアランス(insurance)」を「災難請合」と訳して、外国には「生涯請合」「火災請合」「海上請合」の三種の制度があることを紹介した。
そして、1879(明治12)年に、渋沢栄一が世話人となり、旧大名華族を中心として日本初の損害保険会社・東京海上保険会社が設立され、1881 (明治14 )年には福澤諭吉の門下生・阿部泰蔵らにより、日本初の生命保険会社・明治生命保険相互会社も設立もされる。
この翌1882(明治15)年の1月30日、前年設立の明治生命が、1月20日に心臓病で急死した警部長の遺族に保険金1000円を支払ったのが、日本初の生命保険金支払い日となり、この日が、「生命保険の日」とされている。このときの当人が支払った保険料は30円であったそうだ。
火災保険は、これらより少し遅れて、1887(明治20)年7月日本初の火災保険会社・東京火災(株式会社損保ジャパンの前身)が設立されている。
日本の資本主義の広がりとともに、日本の保険も発展し、明治31年(1898年)に保険業取締規制、同33年(1900年)に保険業法と保険業法施行規則が公布され、保険事業の免許・監督制度が確立された。第二次大戦後は、めざましい経済復興とともに保険事業も大きく成長したが、保険業界も、バブルが弾けた後は、銀行など金融業と同じように経営難にあえいでいる。今、テレビ、新聞などのメディアを使って、外国のアリコジャパンなどが、凄い攻勢をかけていますね~。
あの宣伝文句を聞いたら、入らなくては損なような気になるが、本当に、そんな都合のいい保険ってあるんでしょうかね~。
(画像は、千代田区丸の内2丁目「明治生命記念館」)
参考:
AIUの海外旅行保険「資料室」
http://www.win-guard.jp/shiryou.html
http://www.win-guard.jp/shiryou.html
損害保険の歴史(明治以降)
http://www.sonpo.or.jp/business/library/sonpo-history.html







インドの独立運動家で「建国の父」と呼ばれるガンジー の忌日

2005-01-30 | 人物
1948年 の今日(1月30日)は、インドの独立運動家で「建国の父」と呼ばれるガンジー の忌日。[1869年10月2日生] <78歳>
政治家、思想家、インド国民会議派指導者、ガンジーは「非暴力、不服従」の手段で、インド民族運動を牽引,インドの独立、農村の復興、イスラム教徒とヒンズー教徒の融和などに努力した。
インドの大衆から「マハトマ(偉大な魂)」の尊称で親しまれた20世紀史上、最大の偉人、ガンジーは、1948年1月30日、デリーでの祈りの集会で、狂信的なヒンズー教徒の銃弾をを浴びて死んだ。遺灰は、チベットのマナサロワール湖に撒かれた。
この暗殺は世界中の人々に衝撃を与え、理論物理学者・アインシュタインは「このような人物が血と肉をもって、かっては地上を歩いていたとは、未来の世代は信じられないだろう」と深い畏敬の念を込めてその死を悼んだという。
ヒンズー社会の3番目のカースト「バイシャ(商人階級)に属し、裕福な家庭に生まれ、19歳でロンドンに渡り、22歳で弁護士の資格を得た、英国紳士と言ってもよいガンジーが、人間性に目覚め、同胞の差別撤回のため、英国からの独立運動を指揮するようになったのは、22歳から英国の属領であった南アフリカにわたり22年間移住し、現地でのアパルトヘイト(人種隔離政策)で、同胞が差別されている姿を目のあたりにしたからである。
ガンジーの戦い方は、民衆暴動の形をとるものではなく、「非暴力・不服従」を提唱し、「非暴力の戦士は入獄の辱め、酷暑、酷寒、飢え、強制労働、むち打ちも覚悟しなければならない。これを守れる者だけが、運動に参加できる」と呼びかけた。
弾圧を繰り返す政府に対して、ガンジーに指導された人々は、棍棒に打たれながら無抵抗で悪法を拒否し刑務所へと行進した。
ここでの非暴力、不服従の戦いのなかで、精神的指導者となったガンジーは、その後、インドに戻り、独立運動に身を投じるとともに、イスラム教対ヒンズー教の紛争にも心を痛め、宗教を超えた多くの人々に大きな影響を与え、人々は宗教的対立や、カースト、貧富の差をこえて団結していった。
彼は、無所有を唱え、精神的な豊かさは、貧しい暮らしの中でこそ到達できると考え、私物は最小限に抑えた。
生涯に何度も投獄されながらも、彼は一切の武力闘争を否定し、「非暴力・不服従」の姿勢を貫き、断食闘争などを続けた。この考え方は現代の反戦運動などの市民運動のあり方のベースとなっているといえるだろう。
ガンジーの訴えは、科学とモノ万能の現代文明のなかで、平和へのメッセージを発し続けている。
しかし、現実には、「非暴力」の精神さえも、それから約60年が経過した今の世界では、姿を消し、逆の方向へ行こうとしているのではないだろうか。軍事紛争やテロなどが後を絶たない。天国のガンジーが泣いていることだろ。
(画像はガンジー。アサヒクロニクル・週間20世紀より)
参考:
松岡正剛の千夜千冊『ガンジー自伝』
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0266.html
Wikipedia - マハトマ・ガンジー
http://ja.wikipedia.org/wiki/マハトマ・ガンジー

日本初の全国戸籍調査が行われた日

2005-01-29 | 歴史
1872(明治5)年の今日(1月29日)は、日本初の全国戸籍調査が行われた日。
当時の人口は男1679万6158人、女1631万4667人で合計3311万825人だった。
日本の国民登録制度は、645年の大化の改新に始まるといわれ、大化の改新の際の公地公民制による口分田を基礎に年貢を徴収するために国民を登録するようになった制度が、戸籍の前身と言われている。近代的な戸籍制度は明治政府によって整備され、明治元年に京都府で「京都府戸籍仕法」が制定され、翌年には各府県にその京都府戸籍仕法が頒布されて戸籍がつくられるようになったが、京都府戸籍仕法にならって作っても各府県それぞれ微妙に違っていたようである。
しかし、全国統一の中央集権政治を実現しようとする明治新政府にとって、国内の総人口を把握することが重要かつ急務であったが、各府県でバラバラに戸籍を編成していたのでは、正確に調査することができない。
そこで、日本最初の全国規模の戸籍制度が、1871(明治4)年の太政官布告により翌1872(明治5)年から施行される(明治5年式戸籍」)が、この年が壬申の年にあたるので一般に「壬申戸籍」と呼ばれている。
この戸籍法では、これまでの戸籍体制では遺漏が生じるので、すべての臣民(全国民)を漏れなく、住居地毎にその戸数人員生死出入等を把握することとし、江戸時代からあった「村」の区域とは別の行政区画として、「区」が置かれ、「区」ごとに「戸籍区」を設定し、戸籍吏として、国で選んだ戸長、副戸長が配置され、戸籍事務を行った。この結果、庄屋、名主等の制度が廃止されるとともに、江戸時代からの「町村」も廃止された。
この戸籍の編成単位は「戸」で、本籍は住所地とされ、身分登録とともに住所登録という性格もあったので、現在の住民票の役割もはたしていたようであるが、戸籍は【家】という集団を単位に編製され、職業・宗旨・犯罪歴や、社会的身分を示す族称欄もあった。
その後、「明治19年式戸籍」「明治31年式戸籍」「大正4年式戸籍」といろいろと法改正などによる変遷を経て、戦後の「戸籍法を改正する法律」(昭和22年12月22日法律第224号)により現在に至っている。1947(昭和22)年の民法改正によって「家制度」が廃止され、男女の平等、戸籍の編成も夫婦単位となり、様式も変更された。そして、1994(平成6)年より、戸籍がコンピュータ化され戸籍謄本(戸籍全部事項証明書と呼び名が変わる。)の発行が住民票並に数分で出来るようになった。
日本は世界一苗字の多い国と言われているそうだが、この日本の多姓の理由は、明治4年に公布した「戸籍法」を実施するために、明治3年9月に「平民に苗字を許す」という布令が出て、明治8年2月に「平民称姓布告令」が公布されたことで、国民があわてて急に適当な名前をつけたので、このとき一度に日本の苗字が、世界一多数となったものであり、それ以前は武士以上の特権階級の者にだけしか苗字の使用は許されていなかったので少なかった。
又、明治30年までの人口動態統計は戸籍法に基ずく調査から同時に作成れていたが、明治31年以降は各市町村長から婚姻、離婚、出生、私産、死亡があるごとに予め配布した統計小票に記入したものを内閣統計局が集計するようになり、大正9年に第1回国勢調査が実施されてからは「国勢調査」もしくはこれに準ずる「人口調査」を基礎に、中間年次を「人口動態統計」によって補間する方法により毎年人口統計が得られるようになった。
それのしても、総務省統計局によると平成17年1月1日現在の日本人の推計人口は1億2761万人と言われている。
明治時代の第1回調査では3311万825人だったのだからいまの日本はすごく多くなったものだね。中国やインドを除いた国の中で、あの大国アメリカでさえ人口は2億人ほどなのに、こんなちっぽけな島国の日本に1億人以上がひしめいている。今、少子化が進み人口減による経済の減速などが心配はされているが、地球の自然や環境を考えると、人口減が、むしろ、自然な現象であるかも知れないね~。
(画像は昭和23年式戸籍・様式見本。詳しくはここで見てください→http://homepage2.nifty.com/madoka-juku/shiryou/koseki/S22/S23sheet.htm
参考:
総務省統計局HP
http://www.stat.go.jp/
龍勢の毛筆か系図
http://www.honkakukakeizu.com/koseki.html

宇宙からの警告の日

2005-01-28 | 記念日
今日(1月28日)は「宇宙からの警告の日」
1986(昭和61)年、アメリカのスペースシャトル・チャレンジャーが打ち上げられ、発射73秒後に爆発し、乗組員7人全員が死亡した。
作家・大江健三郎は「治療塔」の中でこの事故を「宇宙意志からの警告」と表現したことによる。
1986年1月28日、アメリカ・フロリダ州ケープカナべラルのケネディー宇宙センターからNASAが開発した25機目のスペースシャトル・チャレンジャーが打ち上げから73秒後に爆発した。この事故で、乗組員7人全員の命が失われた。この乗組員の中には、初めて普通の市民から選ばれた高校教師クリスタ・マコーリフ飛行士や初のアジア系飛行士(ハワイ出身の日系人エリソン・オニズカ)も含まれていた。クリスタさんは、宇宙から初めて生中継の授業をすることになっていた。
事故から、3日後、時のレーガン大統領は、「未来は無償では得られない。人類の進歩の物語は、すべて困難に立ち向かう戦いの物語だ」と演説し、宇宙への挑戦を続行することに多くの国民の支持を得ようとした。
まもなく事故調査大統領委員会が設置され調査した結果、発射当日の異常な低温による固体ロケットの下部の2つの部分をつなぐ結合部がの破損が原因で、そこから漏れた燃焼ガスが外部燃料タンクに引火し水素の爆発を招いたとされている。
この米航空宇宙局(NASA)が開発した再使用型の有翼宇宙船スペースシャトルは、1981年4月の初飛行から順調に飛び続け、宇宙開発への定期便になりかけていたがこの事故は、初飛行に成功してから5年が経過してのものである。シャトルによる宇宙飛行もすっかり日常化し、初飛行以来国内はもとより海外の国の関心も薄らいでいた頃起こった惨事である。
この、結合部のシールに欠陥があることは内部の技術者から、事前に警告されていたらしいが、NASAも製造元も対応していなかったという。その上、発射当日の低温化では危険のため打ち上げを中止すべきと言う声があったにもかかわらず、悪天候の中、NASAがなぜ打ち上げを急いだのかについては、以下のようなことが言われているらしい。
この打ち上げは、当時の大統領(レーガン)が日常化して陰が薄くなってきたシャトルの関心を再び取り戻そうとした国民に対するひとつの政治的ショーであった。そして、毎年1月下旬に行われるアメリカ大統領の一般教書演説には、この演説の原稿に民間人の乗ったチャレンジャー号の打ち上げのことがすでに書かれていたというのである。その真偽のほどはわからないが、そうであれば、実に悲しい悲劇である。
兎に角、低温下での打ち上げの危険性を指摘していた現場技術者の声が、打ち上げ責任者に伝わらなかったなど米航空宇宙局(NASA)の安全管理の在り方が問題となり、2年8ケ月後の1988年9月までシャトルの飛行は中止された。そして、NASAの体制も立て直し、1988年10月ディスカバリーの飛行でスペースシャトルを復活させた。1995年にまとめたNASAの報告書では、シャトルを事故で失う確立は0.76%とされているが・・・・。
2003年2月2日、「米国東部時間 2月1日午前9時 (日本時間午後11時) 頃、スペースシャトルコロンビアが、地上に帰還する直前に、テキサス州上空で空中分解し、搭乗員 7人全員が亡くなった」との新聞での報道を見て驚いた人が多いだろう。この事故により、日本人飛行士としては毛利衛,向井千秋,若田光一,土井隆雄各氏に次いでこの 3月には野口聡一氏が 、アトランティスに乗る予定であったが、今回の事故の原因が究明されるまで、全ての飛行が中止された。なんと、1995年NASAが事故は0.76%の危険性と強気の発表をしてから8年目の惨事であった。
作家・大江健三郎は「治療塔」の中で1986(昭和61)年のスペースシャトル・チャレンジャーの事故を「宇宙意志からの警告」と表現したそうだが、私は、大江氏の「治療塔」は読んでいないからよく知らないが、岩波書店の解説書を見ると、”21世紀,核・自然破壊で荒廃する地球.人類は「選ばれた者」による宇宙移民計画を敢行する.物語はその10年後,彼らの不可解な帰還から始まる.テクノロジー文明の行方を問うた近未来SF.”ということである。   
あの1986(昭和61)年の事故は、人為的ミスと政治家の思惑が絡んで引き起こした厄災・悲劇と思われるが、大江氏のこの警告は人類の傲りに対して発せられたものであり、おそらく、宇宙でただ一つのこのすばらしい地球を、人間が核と自然破壊で荒廃させるだけ荒廃させ、そこから宇宙へ脱出し、新しい星に人間の住める世界を築こうとしても、結局は、この地球以上のものはなく、又、そこから自分たちが荒した地球へ帰ってきて、地球を再生させなければならなくなるよ・・・と、大江氏は言いたいのだろうと思う。
(参考:写真AP/WWP.朝日クロニカル・週間20世紀掲載分より)
参考:
宇宙開発史
http://www.geocities.co.jp/Technopolis/5714/index.html
NIKKEI NET:特集 スペースシャトル「コロンビア」 ...
http://www.nikkei.co.jp/sp1/nt7/20030201MS3M0101E01022003.html

野口雨情

2005-01-27 | 人物
1945(昭和20)年の今日(1月27日)は、北原白秋、西条八十とならび三大童謡詩人といわれる野口雨情の忌日。
野口 雨情(のぐち うじょう)は、1882(明治15)年、5月29日、茨城県多賀郡の廻船業を営む裕福な家に生まれる。本名は野口英吉。中学より東京で学び、東京専門学校(現早稲田大学)に入学し、坪内逍遥に学ぶが、家業が傾いたために1年余りで中退、詩作を始める。1905(明治38)年、民謡詩集「枯草」を自費出版。1907(明治40)年頃より暫く詩作から遠ざかるが、1919(大正8)年、詩集「都会と田園」により詩壇に復帰、斎藤佐次郎により創刊された「金の船」に作詞家として迎えられたこの頃から頭角をあらわし童謡を次々と発表。藤井清水や中山晋平、本居長世と組んで多くの名作を残した。民謡「枯れすすき」は、中山晋平の作曲により「船頭小唄」となって一世を風靡した。以後、主に童謡において活躍し「七つの子」「赤い靴」「青い目の人形」「雨ふりお月さん」「あの町この町」「兎のダンス」等の作品を次々と発表している。
他方童謡とともに盛んとなった「新民謡」(創作民謡)にも力を注ぎ、1935(昭和10)年には日本民謡協会を再興し、理事長に就任。日本各地を旅行し、その地の民謡を創作した。このころから、詩作は減少し、1943年(昭和18年)に軽い脳出血で倒れて後は療養に専念。1945年(昭和20年)1月27日疎開先の宇都宮近郊で死去。<63歳>
野口雨情の船頭小唄「おれは河原の 枯れすすき 同じお前も 枯れすすき
 どうせ二人は この世では 花の咲かない 枯れすすき・・・ 」
この身にしみ入るよう歌をはじめ、「波浮の港」、「十五夜お月さん」などいまもわたしたちの胸の中に生きつづけている不柄の名作である。私は、今でも暇なとき、船頭小唄や波浮の港はよくハーモニカを吹いて楽しんでいる。
「赤い靴」の歌では「赤い靴はいてた女の子」は「異人さんに連れられて行っちゃった」ままであるが、この赤い靴をはいてた女の子は実在したということで、開拓移民の子として北海道にいたが、肺炎を患い、異人さん(宣教師)が東京の教会に連れて行き、世話をしてくれたようで、外国へ渡ることもなく、7才ほどで亡くなったということだそうだ。詳しくは、d-scoreの野口雨情「赤い靴」を、ご覧になるとよくわかるよ。しかし、雨情の歌には、この「赤い靴」の歌では異人さんにつれていかれちゃったまま終わっているし、「青い目の人形」の歌では、「青い目をしたセルロイドの人形」は「迷子になったらなんとしょう」「わたしは言葉がわからない」と悲しい歌だし、「雨降りお月さん」でも、お嫁さんが雨の中、花嫁衣裳のまま「ひとりで傘(からかさ)さしてゆく・・・」なんて、寂しそうな歌だし、こんなやるせない歌が多いね。
それに、この、「雨降りお月さん」の歌は、一番と二番のメロディーや節が、少し違っているでしょう。気づいていない人は、以下参考の「なつかしい童謡・唱歌・わらべ歌・寮歌・民謡・歌謡」のところのMIDIは、歌詞つきなので歌詞を見ながら、聴いてみるといいよ。
私も、今まで、なんとなく不自然だな~とは思っていたのだが、その理由は、この歌の一番の題名は 「雨降りお月さん」二番の題名は 「雲の蔭」というもともと別々の歌だったからなのだそうだ。このことは、以下参考の「童謡のなぞ 14」を見て判った。(ここでもMIDIが聞ける)
最近は、音楽ブームで次々と新しい歌が出てくるが、いい詩のものが少ないね~。なんか、リズムに適当な言葉をつけてるだけって感じ。昔のものは、このようなしっかりとした詩に、いい曲をつけているので、いつまでも覚えていられるんだが、今のように何を言ってるのかわからないような歌って覚えられないよね・・・。文学に関していえば、情緒性豊かだった昔の人の方が現代人より優秀だったと思えるね~。
(画像は野口雨情。以下参考のd-score「野口雨情」より借用)
参考:
作家別作品リスト:野口雨情 (青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person286.html
野口雨情年譜
http://www.d-score.com/db/ujo
童.謡のなぞ 14
涙をさそう.童謡たち / 雨降りお月。なぜ、一番と二番のメロディーが違うのか ?
http://homepage3.nifty.com/funahashi/sonota/hoka23.html
なつかしい童謡・唱歌・わらべ歌・寮歌・民謡・歌謡
「野口雨情」の歌を少し聴いてみませんか。ここで、曲名索引で、「船頭小唄」<赤い靴」「青い眼の人形」「十五夜お月さん」「雨降りお月さん」など選んでください。
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/00_songs.html