日本記念日協会(※1)に今日の記念日として「幸福の日 」 が登録されていた。
記念日の由来には、”世界の人々が幸せに平穏に暮らせることを祈って「幸福の日」を制定したのは、インターネットなどでグリーティングカード、慶弔関連ギフトなどを販売している株式会社ヒューモニー(※2)の長谷川博之氏であり、「幸せになりたい」「幸せにしたい」メッセージの公募などを行う。”・・とあった。
ヒューモニーのホームページを覗いてみたが、リカちゃん電報などを販売しているようだ。最近流行の販促用の記念日・・といったところだろう。
「幸福の日 」なんて記念日の名前が好きなものだから、又、ブログを書く気になったのだが、今までに同様のブログ、2月9日「福の日」について2度も書いているよ。以下がそのブログだ。
2月9日「福の日」 2月9日「福の日」(Part 2)
人間誰しも「幸福」であることを願わない人はいないであろうが、漢字の「幸福」は「幸」+「福」の字からなるが「幸」の字の原字(漢字)には2つの説がある。
1つは「幸」は、2枚の厚い板に半円の穴をあけ、上下から罪人の両手首また両足首を挟んで、その自由を束縛する(手かせ又、足かせ)のための刑具である「かせ(枷=械)」を象(あら)わす象形文字であり、もともとは、刑罰を意味していたものが、それでも斬首刑になるより手かせ、また足かせをかけられるだけで生きてさえいられれば幸いだ、ということから、後に「運が良い」、転じて「しあわせ」を意味するようになったものだとする説である。
2つ目は、「幸」は象形文字「夭」+会意形声文字「逆」(「しんにょう」を省いた部分の音符「屰」(ゲキ)」の字から出来た漢字だとし、「夭」(ヨウ)は、人のなよなよした様を象(かたど)り、なよなよした幼子を意味し、これは若死に(夭 逝 【ようせい】)の意味もある。「屰」は、「大」の字の人を逆さまにした図を表していることから、若死にの反対「若死にをまぬかれる」、つまり、長生きを意味することから、ひいては、幸せを意味するようになったというのだ(※3)が、漢文学者・古代漢字学で著名な東洋学者である故白川 静が編纂した字源辞典『字統』では、「夭逝を免れる」というような否定の意を加えた会意という造字法はないとし、第1の説を支持している(※4)。
又、「幸福」の福」は、部首「「ネ」(示=神をまつる祭壇の形)」+音符「畐(品物がたくさん入っている倉の形でつまっていること)。異体字の「富」と同系。」の合意形成文字であり、もののつまっている倉のように、神の恵みが豊かなことから幸せの意味を表しているらしいが、また、『字統』では、「福」は「宗廟に酒樽を供えて祭り、福を求める」ことだとしているようだ(※5)。
それでは[幸福](こうふく、英:Happiness)とは何かを、『広辞苑』(第六版)で見ると「心が満ち足りていること。また、そのさま。しあわせ。」と、いとも簡単な説明しか書かれていない。それでは、「しあわせ」とは何かを、『広辞苑』で見ると、「しあわせ」には漢字「し合せ」を充てており、①めぐりあわせ。機会。天運。②なりゆき。始末。③(「幸せ」とも書く)幸福。幸運。さいわい。また、運が向くこと。狂言の末広がり。」・・・とある。
「しあわせ」には、「幸せ」と「仕合せ」の2通りの書き方があるが、日本語の「しあわせ」の語源は、「し合わす」で、動詞「しあ(為合)わす」の連用形からできた言葉のようだ。し(為)+合わすの連用形であるから、何か二つの動作などが「合う」こと、それが「しあわせ」と言うことになる。つまり、自分が置かれている状況に、たまたま別の状況が重なって生じたことが、「しあわせ」だったわけであり、昔は「しあわせ」とは、いい意味にも悪い意味にも用いられていた。
そのようなことから『広辞苑』にも「し合わす」は「めぐりあわせ。機会。天運。なりゆき、始末」と書かれているのである。だから、偶然めぐり合わせた、良い運命も悪い運命も「しあわせ」だったわけであり、「めぐりあわせが良い」場合は「しあわせが良い」、「めぐりあわせが悪い」場合は「しあわせが悪い」といった使い方がされたようで、言いかえれば、「しあわせが良い」というのは、どちらかと言えば “間が良い”、“運が良い” という意味の言葉だった訳である。
それが時代とともに変化して、「し合わせ」が「し合わせが良い」、「間のよい」、「運が良い」にのみ使われるようになり、今では「幸運。さいわい。また、運が向くこと」 の意味に使われるようになった。
『広辞苑』の、「仕合せ」の説明③の中には幸福。幸運。さいわいなどと一緒に“狂言の「末広がり”が含まれている。
狂言は、能と同様に猿楽から発展した伝統芸能で、猿楽の滑稽味を洗練させた笑劇であるが、狂言は、道理に合わない物言いや飾り立てた言葉を意味する仏教用語の「狂言綺語」(きょうげんきご)に由来する(※6)。
狂言の演目のひとつ「末広がり」(※7 Yahoo!百科事典-末広がりも参照)は、脇狂言を代表する祝言曲目で、果報物とも呼ばれる。
大果報者(大金持ち。シテ)が、供応の引出物(ひきでもの)に末広がり(扇の一種)を進上しようと、それを買い求めるために太郎冠者を都へやる。古傘を末広がりとして売りつけるすっぱ(詐欺師、)と、末広がりとはどういう物かを聞いてこなかったから知らないために、それに騙される太郎冠者のやり取りを演じる。終盤、太郎冠者が持ち帰った傘を見るや、主人は激怒し、太郎冠者は自分が騙された事に気付く。しかし太郎冠者が詐欺師に教わった囃子を謡うと主人はたちまち機嫌を直し、太郎冠者と共に囃子物のリズムに浮き立っていくところに、めでたい和やかな笑いが漂い舞い、謡う。・・・悪い結果も最後はHappy ending・・・目出度し、目出度しである。
『広辞苑』では、幸福者・果報者のことを「仕合せ者」と字を充てているが、現代では「し(為)合せ」の連用形「し(為)」に、訓読みで、「仕(つか)える」と発音させる漢字の「仕」を当てることによって、「仕合せ」と書きその名詞性を高めるようになったのは日本人の知恵でもある。又、もとは「さいわい」という語に使われていた「幸」の字を当てて現代では「幸せ」とも書かれるようになった。
スポーツ・武術などの技を比べ合い勝敗を競うことを現代では「試合」と書くが、江戸時代なら剣術の「仕合」などと書いていた。これらも、昔からお互いに何か物事をするまた、競い合うことを「~を為(仕)合(しあ)う」「為(し)合い」からきたもので、「し」はサ変動詞「す」の連用形で、「試」「仕」共に当て字である。
「勝つか負けるか・・・」、「為(し)合い」は、単に「仕合う」ことによって「幸せ」を感じていたわけではなく、先人達は、相手に「合わせ」ることを、「する」・・・つまり、ご互いが自分の持る力を、ぶつけ「合う」ことによって「し合せ」を感じ取っていたのであろう。為(し)合いの結果が勝つか負けるかではない・・・。
人生においても運命の巡り合わせがその人にとって幸福(happy)であるかどうかは判らない。日本語の「しあわせ」は、人間の意図を超えた幸不幸の両方を含んだ広い概念での天運(天から与えられた運命。自然の理法。運)である。色んな人との出逢いや巡り合い(仕合わせ)の結果が「幸せ」になるか否か、その人が今までどれだけのことをして来たか・・・と言うだけでなく、その時その時の偶然性に大きく左右されるものである。
古代中国、紀元前2世紀ころの『淮南子』(えなんじ)に掲載されている人間訓に「人生万事塞翁が馬」がある。
「城塞に住む老人の馬がもたらした運命は、福から禍へ、また禍から福へと人生に変化をもたらした。つまり、「禍福は糾(あざな)える縄の如し」(良いことと悪いことは縒り合わせた縄のように表裏一体であるから片方ばかりは続かない。だから、一時の幸・不幸に深く一喜一憂しても仕方がないことであるということ。
禍福というのは予測できないものであり、結果がどう出るかは判らないが、ただ、その人が何を考え、積極的にどれだけのことを考えて行動して来たか・・・その行為には必ず意味があり、結果にも少なからぬ影響をしているものと思うのだが・・・。
そんなことを考えながら、ネットで検索していると、エッセイストで神戸女学院大学名誉教授でもある内田樹氏が、薪能で狂言「仏師」(※9)を見て、その狂言で用いられる言葉「しあわせ」を論じているコラムを引用している興味深いブログがあった。(以下参考に記載の※8:「散歩主義」を参照)。
狂言「仏師の内容は、簡単に書けば、“今までに楊枝1本も削ったことがない 偽仏師(すっぱ=詐欺師)が口から出まかせで、仏像を求める田舎者をだまして製作を引き受け、自分が仏像になりすますが、田舎者が仏像の印相(仏像の印を結んだ形)が気に入らずいろいろと注文を出すのでそのたびにいろいろ形を直すうちに正体がばれてしまう。”・・・といった内容だが、この狂言に、「しあわせを直す」とか「仕合なひと」とか、「しあわせ」という言葉が何度も出てくる(狂言の内容は※10参照)。
ブログでは、内田氏が以下のようなことを言っているという。
“「仕合わす」とは、「物と物をきちんとそろえる」を意味する動詞が名詞化したものであり、「仕合わせ」は「出会うべきものを出会わしめる」他動詞的な結果をいったのである・・・。古語「しあわせ」に含まれていて、現代語「しあわせ」の語義から失われたのは、それは「しあわせ」が前提としたこの手間暇である。
つまり「仕合わす」人の意志と行動抜きでは「しあわせ」は存在しない、とかつての日本人は考えていたのである。
だから現代のように抽象的な「しあわせ」ではない。待っていてくるものでもない。当人が働きかけるものなのだ。現代、不意に到来する「幸せ」があったとしても、それはまた不意に去っていくだろう。何故なら「仕合わす」ことをしていないからだ。
また「仕合わせが悪い」ということに関して、そうしない自分が悪い、と気がつかない。たいてい、いつも誰かが悪いのだ。
日本人はいつからか、こういう手間暇をかける習慣を失ってしまった、と内田氏は言っている“・・・と。
そうだろう・・・、先にも書いたように、禍福というのは予測できないものであり、結果がどう出るかは判らないところが有るとはいえ、そこには、その人が、その場その場の境遇に合わせてどれだけのことを、為(し)てきたかが大切だということだろう。
今年(2011年)3月11日に太平洋三陸沖を震源として発生した「 東北地方太平洋沖地震」(東日本大震災)ではM9.0という海溝型の巨大地震と、それに伴う大津波の発生により東北地方を中心に死者・行方不明者計2万人以上にのぼる甚大な被害が発生し、また福島第一原子力発電所事故に伴う放射性物質漏れや大規模停電なども重なって、日本全国および世界に多大な経済的二次被害をもたらした。
16年前の1995(平成7)年の阪神・淡路大震災で、同じような悲惨な被害の状況を見てきた神戸の人間として東北地方の被災者の皆様のご心痛は痛いほど良く判ります。一日も早い復興を祈っていますが、神戸のときと違って、非常に広域での被災であり、又、地震だけでなく大津波や原子力発電所事故による放射性物質漏れによる被害までが重なっているため、復興には非常に時間を要するだろうから、これからのご苦労は大変なことでしょう。それでも、我慢し努力を続ければ必ず、良き時が来るものと信じて、力強く生き抜いていただきたいものと全国いや世界中の人たちが応援しています。
しかし、阪神・淡路大震災で、戦後の町と同じように地震と火災で崩壊した神戸の住民は、当時、国や県、神戸市など行政府からも神戸で大地震が発生する危険性があることなど全く知らされては居らず、従って、殆どの人が神戸で大震災が起こるなどとは思ってもいなかったから震災保険への加入者も少なかったし、震災への対策も十分には出来ていなかった。しかし、震災が終わって見ると、保険会社の震災保険の保険料率の査定も高かく、又、ある地震学者は、大きな地震が来るかもしれないことを予測していたとも聞かされた。
今回の東北地方の大地震でも、歴史的に見れば、これまでの津波堆積物の調査から、869(貞観11)年に起きた「貞観地震」では当時の海岸線から仙台平野で数キロ、石巻では3キロ以上津波が押し寄せたことが判明しているが、そうした貞観津波の時と同規模の地震が再来する可能性について地震調査委員会の長期評価部会でも今年2011年2月以降「切迫性があるのではないか」という意見があり、議論を続けていた(※12)ということは先日このブログ5月10日「地質の日」でも書いたばかりである。
百人一種42番に清原元輔の以下の歌がある。
契りきな かたみに袖を しぼりつつ
末の松山 浪越さじとは
この歌の出展は、『後拾遺集』巻十四・4-770から。以下参考の※13:「百人一首清原元輔 (千人万首)」によれば、通釈は、「約束しましたね。互いに涙で濡れた袖をしぼりながら、末の松山を決して波が越さないように、行末までも心変わりすることは絶対あるまいと」・・といった意味で、下の句の「末の松山」は『 古今集』巻二十に「みちのくうた」として「君をおきてあだし心を我がもたば末の松山波も越えなん」があることから陸奥国の名所歌枕とされている。
比定地としては多賀城付近とする説などがある。“浪こさじ”とは 末の松山を波の越すことがないように、心の変わることはあるまいと。初句「契りきな」に返して言う。・・・とあり、浪が越えたらもう最後だということがこの歌でも認識されていた事を表している。
末の松山宝国寺というお寺の裏の松の木の間には墓が並んでおり、その情景は310年前に『奥の細道』で松尾芭蕉が訪れた(※14:奥の細道末の松山参照)ときと変わらないという。
『古今集』が編まれた時より数十年前に陸奥の国で貞観地震があり大津波が襲来し瀕死者が1000人を出した。この時の津波ではこの松の木にも波がかかるほどであったようだ。これより70年前にも東国東海岸一帯の大津波が記録されており、古くからの大異変の伝承から、松の木のある山を波が越すという発想が生まれていたようだ(※15)。
日本三景「松島」の東端にある宮城県東松島市の宮戸島では島民の間で、津波がぶつかったとされる場所(標高約10メートル)に石碑が建っており、そこより下は危険とされていたといい、島民は石碑より高台にある市立宮戸小学校などに一斉に避難したそうだ。津波は浜辺の集落の大半をのみこんだが、石碑の手前でとどまり、犠牲者は数人にとどまり、・・・「先人の言い伝えが命を救った」・・と、近くに住む観音寺住職の渡辺照悟さん(80)はしみじみと語った。という(※16)。
又、同じように、沿岸部が津波にのみこまれた岩手県宮古市にあって、重茂半島東端の姉吉地区(12世帯約40人)でも全ての家屋が被害を免れたそうだが、そこには、1933(昭和8)年の昭和三陸大津波の後、海抜約60メートルの場所に建てられた石碑の警告を守り、坂の上で暮らしてきた住民たちは、改めて先人の教えに感謝しているというが、その石碑には以下の歌が刻まれているという。
高き住居は児孫(じそん)の和楽(わらく)
想(おも)へ惨禍の大津浪(おおつなみ)
此処(ここ)より下に家を建てるな
明治29年大津波で大惨事に遭いながら、前に起きた惨事のことを忘れ、昭和8年にも同じ失敗をして大惨事を起している。そのような失敗を繰り返さないためには、言葉だけでは十分でないからとこのような石碑を建てて、後世の人に警告をしているのだが、今回の震災でも色々と理由はあるのだろうが、結局、その警告を無視して海岸近くの低地に住んでいた人達などが津波の被害に遭ったことになる。
以下では、「失敗学」を専門とされている東京大学名誉教授畑村 洋太郎氏が『だから失敗は起こる』(第4回)のなかで、話されている内容が聞けるが、聞いていて耳の痛い人も多いことだろう。
YouTube-TSUNAMI" 失敗は伝わらない
http://www.youtube.com/user/tsunami110311
又、以下参考に記載の※17:「写真ニュース:先人の知恵浸水防ぐ 宮城県南「浜街道」47NEWS」でも、「東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県南の沿岸部で、津波の浸水が江戸時代の街道と宿場町の手前で止まっていたことが、東北大東北アジア研究センター(※18)の平川新(あらた)教授(江戸時代史)らのグループの調査で分かったという。平川教授は当時「過去の津波の浸水域を避けて、街道が整備された可能性が高い。自然と共存するための先人の知恵ではないか」としている。 そして同教授も「明治以降の近代化や宅地開発などで、津波経験の記憶は薄れてしまった。」・・・と締めている。これからの復興に生かされると良いのだが・・・。
青森県から宮城県に至る三陸海岸各地には、このような津波記念碑が多く建てられているというがこの地域では、津波による災害が過去あったことも、先人たちがこのような警告をしていることも殆どの人は知っていても、結局、自分のいるところ、自分の生きている時代には、そのような惨事は起こらないだろうということで、何かと理由付けをして海岸近くの平地に住んでいたことになる。
対策として、それなりの護岸の為の堤防が築かれているところもあったのだが、それも破壊されてしまった。これは想定外の津波が押し寄せたからということなのだろうが、東電の原子力発電所の事故も、東電や政府が想定外の津波による災害と言っているのと同じことだろう。
恐らく、これからも、地震や津波などに対してそれなりの対策を講じられるだろうが、巨大な自然の力に対して人の力がどれだけ及ぶのだろうか・・・。恐らく、あらゆることを想定した100%完全な対策などは、財政面などの面でもなかなか難しいことだろうと思う。
昔から「天災は忘れたころにやってくる」とも言い伝えられてきた。私なども子供の頃から良く聞かされていたものだが、時が経つとそのことを忘れてしまう。それは、何処の地域の人、いや日本だけではなく何処の国の人も皆同じことなのだろう。
人は誰でも「幸せ」を求め、どうすれば「幸せ」になれるか試行錯誤しているのだろうが、幸せは「し為(し)合わせ」の結果としてのもの。先ずは、どれだけのことをしたか・・・。その結果が「幸せ」とはいえないことになったとしても、後悔しないようにしておきたいものである。
「仕合わせ」ることを「幸い」とする幸福観こそが、古来、日本に伝わる仕合わせ」であったことを最後に、付け加えておこう。
かって、夫婦間でも、家族間でも、また、地域社会においても、日本ではお互いにいたわりあい、足りないところを補い合って十全とすることに幸福を見出し、それを、「仕合わせ」という言葉に込めていたのが日本の文化でもあった。幸せについて 人それぞれに求めるものが違うだろうが、辛い、悲しい、苦しいことも「仕合せ」せであり、本人の考え方次第で天国にも地獄にもる。そう思えば、相手のことを思いやり為すことをして、いまあることが自分の幸せだ・・・と、そう思っている方が、ずいぶんと幸せに生きていけるのじゃ~ないかな~。阪神淡路大震災は日本のボランティア元年といわれたが、今は多くのボランティアが、東日本大震災の人達の助になりたいと一生懸命になっておられる。その人達は自分が一生懸命にしたことで被災地の方々が少しでも喜んでいただけることを願っているのであり、そこには、何の欲も得も無い。ただ、自分たちが助になりたいとしたことで少しでも喜んでもらえるのが一番の仕合せなのである。一方の被災地の人たちも、そんな一生懸命にやっておられる人たちに接することで、今の辛い、哀しい状況のことを忘れて一時でも「仕合せ」を感じ取っ欲しいものだ。それこそがここで言いたかった仕合せなのである。
東京都の石原慎太郎知事の「津波は日本人への天罰」発言が物議をかもし、色々と批判され、被災地の方々の気持ちを傷つけたとして、その発言を撤回し、陳謝もしていたが、彼は、少々ぶっきらぼうで思ったことをポンポンいう人ではあるが、頭の良い人でもあり、被災地の人のことを悪く言うつもりで言ったわけではないであろう。
先にも書いた平川新教授が「明治以降の近代化や宅地開発などで、津波経験の記憶は薄れてしまった。」ことを戒めているのと同じような気持ちで、日本人全体に対しての今回起こってしまった結果に対する教訓のつもりで言ったのだろうと私は解釈している。又、私が、今日のブログで東北地方の津波のことを「しあわせ」に結び付けて書いたのも、同じ気持ちで書いているのであり、あまり、悪い方へと解しないようにだけはして欲しい。そのことを最後の最後にお願いしておきます。
(冒頭の画像は、小倉百人一首の読み札に描かれた清原元とその歌である。)
参考:
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html
※2:株式会社ヒューモニーホームページ
http://www.verycard.net/
※3:漢字の起源
http://www.ens.ne.jp/~a-in/kigen.html
※4:古今字 - 「幸」と「倖」
http://www.oct.zaq.ne.jp/dkcc/kotoba/kokonzi.html
※5:【今日の漢字】と【今日の天声人語】:私の感字/漢字の話
http://shimo.exblog.jp/i12/4/
※ 6:狂言綺語 とは - コトバンク
http://kotobank.jp/word/%E7%8B%82%E8%A8%80%E7%B6%BA%E8%AA%9E
※7:Yahoo!百科事典-末広がり
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E6%9C%AB%E5%BA%83%E3%81%8C%E3%82%8A/
※8:散歩主義
http://www.enpitu.ne.jp/usr9/bin/month?id=99901&pg=200508
※9:立命館大学能楽部 - 狂言「仏師」研究
http://2style.jp/ritsnoh/readings/kenkyu_busshi.html
※10:『待宵の宴』:狂言・仏師
http://www.sanjin.jp/hibi/index.php?ID=530
※11、天使の図書館:宮城県東松島市宮戸島、平安時代の石碑の言い伝えが命救う
http://plaza.rakuten.co.jp/tenshino/diary/201104230002/
※12:内閣府・防災情報のページ
http://www.bousai.go.jp/jishin/chubou/taisaku_syuto/syuto_top.html
※13:百人一首清原元輔 (千人万首)
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/100i/042.html
※14:奥の細道末の松山
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/okunohosomichi/okuno161.htm
※15:地質ニュース553号,63頁,2000年9月 楳 瑳畎敷 瀬 数 敲 〰 「末の松山浪 ...(PDF)
http://www.gsj.jp/Pub/News/pdf/2000/09/00_09_10.pdf#search='末の松山 津波'
※16:「島の言い伝え、命救った」=1142年前の大津波―石碑建て継承・
http://ghzdgzdhzdh.seesaa.net/article/197271541.html
※17:写真ニュース:先人の知恵浸水防ぐ 宮城県南「浜街道」47NEWS
http://www.47news.jp/photo/184384.php
※18:東北大学 東北アジア研究センター
http://www.cneas.tohoku.ac.jp/
「幸」という字の由来 - Yahoo!知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1036102960
幸せ(しあわせ) - 語源由来辞典
http://gogen-allguide.com/si/shiawase.html
象形文字の秘密:漢字の解読
http://shoukei.blog65.fc2.com/
此処より下に家建てるな…先人の石碑、集落救う : 社会 : YOMIURI
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110329-OYT1T00888.htm
記念日の由来には、”世界の人々が幸せに平穏に暮らせることを祈って「幸福の日」を制定したのは、インターネットなどでグリーティングカード、慶弔関連ギフトなどを販売している株式会社ヒューモニー(※2)の長谷川博之氏であり、「幸せになりたい」「幸せにしたい」メッセージの公募などを行う。”・・とあった。
ヒューモニーのホームページを覗いてみたが、リカちゃん電報などを販売しているようだ。最近流行の販促用の記念日・・といったところだろう。
「幸福の日 」なんて記念日の名前が好きなものだから、又、ブログを書く気になったのだが、今までに同様のブログ、2月9日「福の日」について2度も書いているよ。以下がそのブログだ。
2月9日「福の日」 2月9日「福の日」(Part 2)
人間誰しも「幸福」であることを願わない人はいないであろうが、漢字の「幸福」は「幸」+「福」の字からなるが「幸」の字の原字(漢字)には2つの説がある。
1つは「幸」は、2枚の厚い板に半円の穴をあけ、上下から罪人の両手首また両足首を挟んで、その自由を束縛する(手かせ又、足かせ)のための刑具である「かせ(枷=械)」を象(あら)わす象形文字であり、もともとは、刑罰を意味していたものが、それでも斬首刑になるより手かせ、また足かせをかけられるだけで生きてさえいられれば幸いだ、ということから、後に「運が良い」、転じて「しあわせ」を意味するようになったものだとする説である。
2つ目は、「幸」は象形文字「夭」+会意形声文字「逆」(「しんにょう」を省いた部分の音符「屰」(ゲキ)」の字から出来た漢字だとし、「夭」(ヨウ)は、人のなよなよした様を象(かたど)り、なよなよした幼子を意味し、これは若死に(夭 逝 【ようせい】)の意味もある。「屰」は、「大」の字の人を逆さまにした図を表していることから、若死にの反対「若死にをまぬかれる」、つまり、長生きを意味することから、ひいては、幸せを意味するようになったというのだ(※3)が、漢文学者・古代漢字学で著名な東洋学者である故白川 静が編纂した字源辞典『字統』では、「夭逝を免れる」というような否定の意を加えた会意という造字法はないとし、第1の説を支持している(※4)。
又、「幸福」の福」は、部首「「ネ」(示=神をまつる祭壇の形)」+音符「畐(品物がたくさん入っている倉の形でつまっていること)。異体字の「富」と同系。」の合意形成文字であり、もののつまっている倉のように、神の恵みが豊かなことから幸せの意味を表しているらしいが、また、『字統』では、「福」は「宗廟に酒樽を供えて祭り、福を求める」ことだとしているようだ(※5)。
それでは[幸福](こうふく、英:Happiness)とは何かを、『広辞苑』(第六版)で見ると「心が満ち足りていること。また、そのさま。しあわせ。」と、いとも簡単な説明しか書かれていない。それでは、「しあわせ」とは何かを、『広辞苑』で見ると、「しあわせ」には漢字「し合せ」を充てており、①めぐりあわせ。機会。天運。②なりゆき。始末。③(「幸せ」とも書く)幸福。幸運。さいわい。また、運が向くこと。狂言の末広がり。」・・・とある。
「しあわせ」には、「幸せ」と「仕合せ」の2通りの書き方があるが、日本語の「しあわせ」の語源は、「し合わす」で、動詞「しあ(為合)わす」の連用形からできた言葉のようだ。し(為)+合わすの連用形であるから、何か二つの動作などが「合う」こと、それが「しあわせ」と言うことになる。つまり、自分が置かれている状況に、たまたま別の状況が重なって生じたことが、「しあわせ」だったわけであり、昔は「しあわせ」とは、いい意味にも悪い意味にも用いられていた。
そのようなことから『広辞苑』にも「し合わす」は「めぐりあわせ。機会。天運。なりゆき、始末」と書かれているのである。だから、偶然めぐり合わせた、良い運命も悪い運命も「しあわせ」だったわけであり、「めぐりあわせが良い」場合は「しあわせが良い」、「めぐりあわせが悪い」場合は「しあわせが悪い」といった使い方がされたようで、言いかえれば、「しあわせが良い」というのは、どちらかと言えば “間が良い”、“運が良い” という意味の言葉だった訳である。
それが時代とともに変化して、「し合わせ」が「し合わせが良い」、「間のよい」、「運が良い」にのみ使われるようになり、今では「幸運。さいわい。また、運が向くこと」 の意味に使われるようになった。
『広辞苑』の、「仕合せ」の説明③の中には幸福。幸運。さいわいなどと一緒に“狂言の「末広がり”が含まれている。
狂言は、能と同様に猿楽から発展した伝統芸能で、猿楽の滑稽味を洗練させた笑劇であるが、狂言は、道理に合わない物言いや飾り立てた言葉を意味する仏教用語の「狂言綺語」(きょうげんきご)に由来する(※6)。
狂言の演目のひとつ「末広がり」(※7 Yahoo!百科事典-末広がりも参照)は、脇狂言を代表する祝言曲目で、果報物とも呼ばれる。
大果報者(大金持ち。シテ)が、供応の引出物(ひきでもの)に末広がり(扇の一種)を進上しようと、それを買い求めるために太郎冠者を都へやる。古傘を末広がりとして売りつけるすっぱ(詐欺師、)と、末広がりとはどういう物かを聞いてこなかったから知らないために、それに騙される太郎冠者のやり取りを演じる。終盤、太郎冠者が持ち帰った傘を見るや、主人は激怒し、太郎冠者は自分が騙された事に気付く。しかし太郎冠者が詐欺師に教わった囃子を謡うと主人はたちまち機嫌を直し、太郎冠者と共に囃子物のリズムに浮き立っていくところに、めでたい和やかな笑いが漂い舞い、謡う。・・・悪い結果も最後はHappy ending・・・目出度し、目出度しである。
『広辞苑』では、幸福者・果報者のことを「仕合せ者」と字を充てているが、現代では「し(為)合せ」の連用形「し(為)」に、訓読みで、「仕(つか)える」と発音させる漢字の「仕」を当てることによって、「仕合せ」と書きその名詞性を高めるようになったのは日本人の知恵でもある。又、もとは「さいわい」という語に使われていた「幸」の字を当てて現代では「幸せ」とも書かれるようになった。
スポーツ・武術などの技を比べ合い勝敗を競うことを現代では「試合」と書くが、江戸時代なら剣術の「仕合」などと書いていた。これらも、昔からお互いに何か物事をするまた、競い合うことを「~を為(仕)合(しあ)う」「為(し)合い」からきたもので、「し」はサ変動詞「す」の連用形で、「試」「仕」共に当て字である。
「勝つか負けるか・・・」、「為(し)合い」は、単に「仕合う」ことによって「幸せ」を感じていたわけではなく、先人達は、相手に「合わせ」ることを、「する」・・・つまり、ご互いが自分の持る力を、ぶつけ「合う」ことによって「し合せ」を感じ取っていたのであろう。為(し)合いの結果が勝つか負けるかではない・・・。
人生においても運命の巡り合わせがその人にとって幸福(happy)であるかどうかは判らない。日本語の「しあわせ」は、人間の意図を超えた幸不幸の両方を含んだ広い概念での天運(天から与えられた運命。自然の理法。運)である。色んな人との出逢いや巡り合い(仕合わせ)の結果が「幸せ」になるか否か、その人が今までどれだけのことをして来たか・・・と言うだけでなく、その時その時の偶然性に大きく左右されるものである。
古代中国、紀元前2世紀ころの『淮南子』(えなんじ)に掲載されている人間訓に「人生万事塞翁が馬」がある。
「城塞に住む老人の馬がもたらした運命は、福から禍へ、また禍から福へと人生に変化をもたらした。つまり、「禍福は糾(あざな)える縄の如し」(良いことと悪いことは縒り合わせた縄のように表裏一体であるから片方ばかりは続かない。だから、一時の幸・不幸に深く一喜一憂しても仕方がないことであるということ。
禍福というのは予測できないものであり、結果がどう出るかは判らないが、ただ、その人が何を考え、積極的にどれだけのことを考えて行動して来たか・・・その行為には必ず意味があり、結果にも少なからぬ影響をしているものと思うのだが・・・。
そんなことを考えながら、ネットで検索していると、エッセイストで神戸女学院大学名誉教授でもある内田樹氏が、薪能で狂言「仏師」(※9)を見て、その狂言で用いられる言葉「しあわせ」を論じているコラムを引用している興味深いブログがあった。(以下参考に記載の※8:「散歩主義」を参照)。
狂言「仏師の内容は、簡単に書けば、“今までに楊枝1本も削ったことがない 偽仏師(すっぱ=詐欺師)が口から出まかせで、仏像を求める田舎者をだまして製作を引き受け、自分が仏像になりすますが、田舎者が仏像の印相(仏像の印を結んだ形)が気に入らずいろいろと注文を出すのでそのたびにいろいろ形を直すうちに正体がばれてしまう。”・・・といった内容だが、この狂言に、「しあわせを直す」とか「仕合なひと」とか、「しあわせ」という言葉が何度も出てくる(狂言の内容は※10参照)。
ブログでは、内田氏が以下のようなことを言っているという。
“「仕合わす」とは、「物と物をきちんとそろえる」を意味する動詞が名詞化したものであり、「仕合わせ」は「出会うべきものを出会わしめる」他動詞的な結果をいったのである・・・。古語「しあわせ」に含まれていて、現代語「しあわせ」の語義から失われたのは、それは「しあわせ」が前提としたこの手間暇である。
つまり「仕合わす」人の意志と行動抜きでは「しあわせ」は存在しない、とかつての日本人は考えていたのである。
だから現代のように抽象的な「しあわせ」ではない。待っていてくるものでもない。当人が働きかけるものなのだ。現代、不意に到来する「幸せ」があったとしても、それはまた不意に去っていくだろう。何故なら「仕合わす」ことをしていないからだ。
また「仕合わせが悪い」ということに関して、そうしない自分が悪い、と気がつかない。たいてい、いつも誰かが悪いのだ。
日本人はいつからか、こういう手間暇をかける習慣を失ってしまった、と内田氏は言っている“・・・と。
そうだろう・・・、先にも書いたように、禍福というのは予測できないものであり、結果がどう出るかは判らないところが有るとはいえ、そこには、その人が、その場その場の境遇に合わせてどれだけのことを、為(し)てきたかが大切だということだろう。
今年(2011年)3月11日に太平洋三陸沖を震源として発生した「 東北地方太平洋沖地震」(東日本大震災)ではM9.0という海溝型の巨大地震と、それに伴う大津波の発生により東北地方を中心に死者・行方不明者計2万人以上にのぼる甚大な被害が発生し、また福島第一原子力発電所事故に伴う放射性物質漏れや大規模停電なども重なって、日本全国および世界に多大な経済的二次被害をもたらした。
16年前の1995(平成7)年の阪神・淡路大震災で、同じような悲惨な被害の状況を見てきた神戸の人間として東北地方の被災者の皆様のご心痛は痛いほど良く判ります。一日も早い復興を祈っていますが、神戸のときと違って、非常に広域での被災であり、又、地震だけでなく大津波や原子力発電所事故による放射性物質漏れによる被害までが重なっているため、復興には非常に時間を要するだろうから、これからのご苦労は大変なことでしょう。それでも、我慢し努力を続ければ必ず、良き時が来るものと信じて、力強く生き抜いていただきたいものと全国いや世界中の人たちが応援しています。
しかし、阪神・淡路大震災で、戦後の町と同じように地震と火災で崩壊した神戸の住民は、当時、国や県、神戸市など行政府からも神戸で大地震が発生する危険性があることなど全く知らされては居らず、従って、殆どの人が神戸で大震災が起こるなどとは思ってもいなかったから震災保険への加入者も少なかったし、震災への対策も十分には出来ていなかった。しかし、震災が終わって見ると、保険会社の震災保険の保険料率の査定も高かく、又、ある地震学者は、大きな地震が来るかもしれないことを予測していたとも聞かされた。
今回の東北地方の大地震でも、歴史的に見れば、これまでの津波堆積物の調査から、869(貞観11)年に起きた「貞観地震」では当時の海岸線から仙台平野で数キロ、石巻では3キロ以上津波が押し寄せたことが判明しているが、そうした貞観津波の時と同規模の地震が再来する可能性について地震調査委員会の長期評価部会でも今年2011年2月以降「切迫性があるのではないか」という意見があり、議論を続けていた(※12)ということは先日このブログ5月10日「地質の日」でも書いたばかりである。
百人一種42番に清原元輔の以下の歌がある。
契りきな かたみに袖を しぼりつつ
末の松山 浪越さじとは
この歌の出展は、『後拾遺集』巻十四・4-770から。以下参考の※13:「百人一首清原元輔 (千人万首)」によれば、通釈は、「約束しましたね。互いに涙で濡れた袖をしぼりながら、末の松山を決して波が越さないように、行末までも心変わりすることは絶対あるまいと」・・といった意味で、下の句の「末の松山」は『 古今集』巻二十に「みちのくうた」として「君をおきてあだし心を我がもたば末の松山波も越えなん」があることから陸奥国の名所歌枕とされている。
比定地としては多賀城付近とする説などがある。“浪こさじ”とは 末の松山を波の越すことがないように、心の変わることはあるまいと。初句「契りきな」に返して言う。・・・とあり、浪が越えたらもう最後だということがこの歌でも認識されていた事を表している。
末の松山宝国寺というお寺の裏の松の木の間には墓が並んでおり、その情景は310年前に『奥の細道』で松尾芭蕉が訪れた(※14:奥の細道末の松山参照)ときと変わらないという。
『古今集』が編まれた時より数十年前に陸奥の国で貞観地震があり大津波が襲来し瀕死者が1000人を出した。この時の津波ではこの松の木にも波がかかるほどであったようだ。これより70年前にも東国東海岸一帯の大津波が記録されており、古くからの大異変の伝承から、松の木のある山を波が越すという発想が生まれていたようだ(※15)。
日本三景「松島」の東端にある宮城県東松島市の宮戸島では島民の間で、津波がぶつかったとされる場所(標高約10メートル)に石碑が建っており、そこより下は危険とされていたといい、島民は石碑より高台にある市立宮戸小学校などに一斉に避難したそうだ。津波は浜辺の集落の大半をのみこんだが、石碑の手前でとどまり、犠牲者は数人にとどまり、・・・「先人の言い伝えが命を救った」・・と、近くに住む観音寺住職の渡辺照悟さん(80)はしみじみと語った。という(※16)。
又、同じように、沿岸部が津波にのみこまれた岩手県宮古市にあって、重茂半島東端の姉吉地区(12世帯約40人)でも全ての家屋が被害を免れたそうだが、そこには、1933(昭和8)年の昭和三陸大津波の後、海抜約60メートルの場所に建てられた石碑の警告を守り、坂の上で暮らしてきた住民たちは、改めて先人の教えに感謝しているというが、その石碑には以下の歌が刻まれているという。
高き住居は児孫(じそん)の和楽(わらく)
想(おも)へ惨禍の大津浪(おおつなみ)
此処(ここ)より下に家を建てるな
明治29年大津波で大惨事に遭いながら、前に起きた惨事のことを忘れ、昭和8年にも同じ失敗をして大惨事を起している。そのような失敗を繰り返さないためには、言葉だけでは十分でないからとこのような石碑を建てて、後世の人に警告をしているのだが、今回の震災でも色々と理由はあるのだろうが、結局、その警告を無視して海岸近くの低地に住んでいた人達などが津波の被害に遭ったことになる。
以下では、「失敗学」を専門とされている東京大学名誉教授畑村 洋太郎氏が『だから失敗は起こる』(第4回)のなかで、話されている内容が聞けるが、聞いていて耳の痛い人も多いことだろう。
YouTube-TSUNAMI" 失敗は伝わらない
http://www.youtube.com/user/tsunami110311
又、以下参考に記載の※17:「写真ニュース:先人の知恵浸水防ぐ 宮城県南「浜街道」47NEWS」でも、「東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県南の沿岸部で、津波の浸水が江戸時代の街道と宿場町の手前で止まっていたことが、東北大東北アジア研究センター(※18)の平川新(あらた)教授(江戸時代史)らのグループの調査で分かったという。平川教授は当時「過去の津波の浸水域を避けて、街道が整備された可能性が高い。自然と共存するための先人の知恵ではないか」としている。 そして同教授も「明治以降の近代化や宅地開発などで、津波経験の記憶は薄れてしまった。」・・・と締めている。これからの復興に生かされると良いのだが・・・。
青森県から宮城県に至る三陸海岸各地には、このような津波記念碑が多く建てられているというがこの地域では、津波による災害が過去あったことも、先人たちがこのような警告をしていることも殆どの人は知っていても、結局、自分のいるところ、自分の生きている時代には、そのような惨事は起こらないだろうということで、何かと理由付けをして海岸近くの平地に住んでいたことになる。
対策として、それなりの護岸の為の堤防が築かれているところもあったのだが、それも破壊されてしまった。これは想定外の津波が押し寄せたからということなのだろうが、東電の原子力発電所の事故も、東電や政府が想定外の津波による災害と言っているのと同じことだろう。
恐らく、これからも、地震や津波などに対してそれなりの対策を講じられるだろうが、巨大な自然の力に対して人の力がどれだけ及ぶのだろうか・・・。恐らく、あらゆることを想定した100%完全な対策などは、財政面などの面でもなかなか難しいことだろうと思う。
昔から「天災は忘れたころにやってくる」とも言い伝えられてきた。私なども子供の頃から良く聞かされていたものだが、時が経つとそのことを忘れてしまう。それは、何処の地域の人、いや日本だけではなく何処の国の人も皆同じことなのだろう。
人は誰でも「幸せ」を求め、どうすれば「幸せ」になれるか試行錯誤しているのだろうが、幸せは「し為(し)合わせ」の結果としてのもの。先ずは、どれだけのことをしたか・・・。その結果が「幸せ」とはいえないことになったとしても、後悔しないようにしておきたいものである。
「仕合わせ」ることを「幸い」とする幸福観こそが、古来、日本に伝わる仕合わせ」であったことを最後に、付け加えておこう。
かって、夫婦間でも、家族間でも、また、地域社会においても、日本ではお互いにいたわりあい、足りないところを補い合って十全とすることに幸福を見出し、それを、「仕合わせ」という言葉に込めていたのが日本の文化でもあった。幸せについて 人それぞれに求めるものが違うだろうが、辛い、悲しい、苦しいことも「仕合せ」せであり、本人の考え方次第で天国にも地獄にもる。そう思えば、相手のことを思いやり為すことをして、いまあることが自分の幸せだ・・・と、そう思っている方が、ずいぶんと幸せに生きていけるのじゃ~ないかな~。阪神淡路大震災は日本のボランティア元年といわれたが、今は多くのボランティアが、東日本大震災の人達の助になりたいと一生懸命になっておられる。その人達は自分が一生懸命にしたことで被災地の方々が少しでも喜んでいただけることを願っているのであり、そこには、何の欲も得も無い。ただ、自分たちが助になりたいとしたことで少しでも喜んでもらえるのが一番の仕合せなのである。一方の被災地の人たちも、そんな一生懸命にやっておられる人たちに接することで、今の辛い、哀しい状況のことを忘れて一時でも「仕合せ」を感じ取っ欲しいものだ。それこそがここで言いたかった仕合せなのである。
東京都の石原慎太郎知事の「津波は日本人への天罰」発言が物議をかもし、色々と批判され、被災地の方々の気持ちを傷つけたとして、その発言を撤回し、陳謝もしていたが、彼は、少々ぶっきらぼうで思ったことをポンポンいう人ではあるが、頭の良い人でもあり、被災地の人のことを悪く言うつもりで言ったわけではないであろう。
先にも書いた平川新教授が「明治以降の近代化や宅地開発などで、津波経験の記憶は薄れてしまった。」ことを戒めているのと同じような気持ちで、日本人全体に対しての今回起こってしまった結果に対する教訓のつもりで言ったのだろうと私は解釈している。又、私が、今日のブログで東北地方の津波のことを「しあわせ」に結び付けて書いたのも、同じ気持ちで書いているのであり、あまり、悪い方へと解しないようにだけはして欲しい。そのことを最後の最後にお願いしておきます。
(冒頭の画像は、小倉百人一首の読み札に描かれた清原元とその歌である。)
参考:
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html
※2:株式会社ヒューモニーホームページ
http://www.verycard.net/
※3:漢字の起源
http://www.ens.ne.jp/~a-in/kigen.html
※4:古今字 - 「幸」と「倖」
http://www.oct.zaq.ne.jp/dkcc/kotoba/kokonzi.html
※5:【今日の漢字】と【今日の天声人語】:私の感字/漢字の話
http://shimo.exblog.jp/i12/4/
※ 6:狂言綺語 とは - コトバンク
http://kotobank.jp/word/%E7%8B%82%E8%A8%80%E7%B6%BA%E8%AA%9E
※7:Yahoo!百科事典-末広がり
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E6%9C%AB%E5%BA%83%E3%81%8C%E3%82%8A/
※8:散歩主義
http://www.enpitu.ne.jp/usr9/bin/month?id=99901&pg=200508
※9:立命館大学能楽部 - 狂言「仏師」研究
http://2style.jp/ritsnoh/readings/kenkyu_busshi.html
※10:『待宵の宴』:狂言・仏師
http://www.sanjin.jp/hibi/index.php?ID=530
※11、天使の図書館:宮城県東松島市宮戸島、平安時代の石碑の言い伝えが命救う
http://plaza.rakuten.co.jp/tenshino/diary/201104230002/
※12:内閣府・防災情報のページ
http://www.bousai.go.jp/jishin/chubou/taisaku_syuto/syuto_top.html
※13:百人一首清原元輔 (千人万首)
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/100i/042.html
※14:奥の細道末の松山
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/okunohosomichi/okuno161.htm
※15:地質ニュース553号,63頁,2000年9月 楳 瑳畎敷 瀬 数 敲 〰 「末の松山浪 ...(PDF)
http://www.gsj.jp/Pub/News/pdf/2000/09/00_09_10.pdf#search='末の松山 津波'
※16:「島の言い伝え、命救った」=1142年前の大津波―石碑建て継承・
http://ghzdgzdhzdh.seesaa.net/article/197271541.html
※17:写真ニュース:先人の知恵浸水防ぐ 宮城県南「浜街道」47NEWS
http://www.47news.jp/photo/184384.php
※18:東北大学 東北アジア研究センター
http://www.cneas.tohoku.ac.jp/
「幸」という字の由来 - Yahoo!知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1036102960
幸せ(しあわせ) - 語源由来辞典
http://gogen-allguide.com/si/shiawase.html
象形文字の秘密:漢字の解読
http://shoukei.blog65.fc2.com/
此処より下に家建てるな…先人の石碑、集落救う : 社会 : YOMIURI
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110329-OYT1T00888.htm