今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

国産小ねぎ消費拡大の日(Ⅰ)

2010-07-23 | 記念日
日本記念日協会の今日の記念日を見ると毎月23日は、「国産小ねぎ消費拡大の日」だそうである。
福岡、大分、佐賀、高知、宮城の各県の全国農業協同組合連合会の県本部で作る「小ねぎ主産県協議会」が制定した日で、国産小ねぎの販売促進を目的としている。同「小ねぎ主産県協議会」が11月23日を「小ねぎ記念日」と制定した23日を毎月のものとしたものだという。
11月23日を「小ねぎ記念日」としたのは、この日が「勤労感謝の日」であり「ねぎらいの日」に通じることから、ねぎらいを葱来と読む語呂合わせとしたもので、11月の下旬で小ねぎの生産が増え、鍋ものの季節となることもその由来のひとつであったようだ。要するに、年に一度の記念日より、毎月を記念日にした方が、消費拡大に繋がるということだろう。最近の記念日には、このような販促目的の業界が設定した記念日が多い。
ネギ、あるいはネギ類と呼ばれる一群の野菜は、Wikipediaの説明によると、被子植物の分類体系の一つであるクロンキスト体系ではユリ科ネギ属(Allium)とされているが、 1990年代に登場した被子植物の新しい分類体系で(分子系統を基にしたAPG植物分類体系)では単子葉植物(Monocots)の中でユリ目の次に分枝したアスパラガス目(Asparagales。クサスギカズラ目とも訳される)のネギ科(Alliaceae)に位置づけられており、アスパラガス目内の分類は2003年の改訂版APG IIで大きな変更があったが、ネギ属(Allium)の位置づけは、ほぼ確定しているようだ。
ネギの学名(英語)は「Allium fistulosum」。ネギ属を表す、Allium(アリウム)の語源は、もともとニンニクのための古いラテン語から来ているといわれている。臭う(olere)とか、強く臭うもの(halium)とか、臭いの程度に差はあるもののネギ属特有の臭いに由来しており、植物学者のカール・フォン・リンネが、その時代の俗名のアリウム(Allium)をニンニクの学名(Allium sativum)として使用したのが始まりだそうだ。
現在までにネギ(アリウム)属に含まれる種としては、700以上が知られており、ネギ・ニンニク・タマネギ・ニラ・ラッキョウ・アサツキなどの野菜が同じアリウム属に入っている。 
「ネギ」のことは、日本の農業研究者である故相馬 暁(そうま さとる)博士(2005年没)が生存中に作成していたものを、ご遺族了解のもと、当時のまま作成したとされるHP、以下参考に記載の※「1:相馬博士の作物百科」に詳しく書かれていたので、基本はこのHPを中心に、Wikipedia他以下に参考に記載のHPなどを参考にさせてもらい書くことにする。
ネギ属に属する植物は、ヨーロッパ、アジア、北アフリカ、北アメリカなど北半球の温帯を中心に存在し、特に中央アジアの高山に野生のネギが多く存在していることから、この高山の一つ、パミ~ル高原を中国語では「葱嶺(そうれい)」と呼び、また、この高原で釈迦が修行を行ったと伝えられているので、仏教の事を「葱嶺教」ともよんでいるそうだ。そのようなことから、ネギの原産地は、中国の西部、中央アジア北部からアルタイ、バイカル地方であろうと、推測されているようだ。ネギは有史以前から、中国に伝わり、華北・東北地方を中心に、軟白した白根を主として利用する太ネギ群が分布し、華中・華南・南洋地方には、葉を主として食べる葉ネギ群が発達。また、華北・華中を中心に、万能型の兼用種が古くから栽培され、疲労を回復する薬用植物として珍重されていたようだ。
中国古代の神話と地理の書『山海経』や、五経のひとつで古礼に関する説をまとめた『礼記』などに、「葱」の文字で登場しており、礼記にはネギの料理法が書かれているという(以下参考に記載の※6:食物本草歳時記のらっきょうを参照)。また、爾雅(じが)(古代中国の字書)などにはネギ属の基本名として「葱」を当て、「胡葱」など渡来種と区別し「漢葱」とも称しているという。そして、中国の最古の農書『斉民要術』には、ネギを軟白するための土寄せについて、記載されているそうだ。
ネギの漢字「葱」の音読み=声符(偏旁参照)は「怱(そう)」。その正字は「蔥」で、声符は「悤(そう)」である(以下参考に記載の※2:「増殖難読漢字辞典:葱」参照)。
後漢書光武紀に「美哉。王氣鬱鬱葱葱」とある。
最近は、テレビなどでもクイズブームであり、タレントなども漢字クイズに答えられないと、自分の子供などにも顔向けできないと漢字検定を受けている人が多いと聞くが、葱のつく四字熟語「鬱鬱葱葱」・・・よめるかな?「鬱」・・・難しい字だ。読めても書けないな~。音は今、日本人にも増えている現代病とも言われる精神疾患「鬱病(うつ病)」の「うつ」。部首は、「(ちょう・においざけ)」で、瓶にこもらせ酒に香草でにおいをつけることを意味する会意文字。木に囲まれ、ふさがった様子をいう(ここ参照)。読み方は、「うつうつそうそう」で、「鬱鬱」は樹木が、「葱葱」は草葉が鬱蒼(うっそう)と茂るさま。また、気の盛んなさま。草木が青々と茂る様子を言っている。従って、「美哉。王氣鬱鬱葱葱」の通釈は、「素晴らしい。王気に満ちること、草木がのびのびと繁茂するようだ」となる(以下参考に記載の※3:「後漢書解釈 -東観漢記」参照)。
しかし、先にかいた「胡葱(こそう)」が何を言っているのかよく判らないので検索すると、以下参考に記載の※4:「e-yakusou,com薬用植物」では、“漢名の「胡葱(こそう)」とはタマネギ(玉葱)のことで、(西城の国)から来た葱(ねぎ)のことで、「胡葱」となった”とある。又、以下参考の※5:「季語と歳時記」では、「胡葱」は「胡葱(あさつき=浅葱)」と読み、俳句などでは、仲春(太陽暦3月)の季語としている。ここでも説明しているようにアサツキ(浅葱)は、ネギ属の球根性多年草で野菜として栽培されてきた。根はラッキョウ(辣韮、薤、辣韭)のような鱗茎をもち、葱に似た細い薄緑色の葉をだす。私は、こちらの方ではないかと思っているのだがまだ、よく判らないので、さらに検索すると、日本における本草学は、中国・明代の・李時珍の「本草綱目」の伝来により始まるが、同じ明代末(1643年)刊行の姚可成の『食物本草』の中から毎月ひとつの品目をテーマに選んで筆者の解釈による現代口語訳をつけ発表しているという、以下参考に記載の※4:「食物本草歳時記」に「ネギ」の項目があり、そこには中国で言っている葱には4種類があるそうで、それは以下のように書かれていた。
①「冬葱」とは凍葱のことであり、夏には衰えて冬になると盛んになる。茎も葉もともに柔らかくて美味。泰山の南から揚子江の左岸にかけてとれる。
冬葱は太官葱ともいい、その茎は細くてしなやかで香りがする。越冬することができ、太官(宮廷の料理人)がお供え料理によくこれを用いる。冬葱には子(み)がない。
②「胡葱」は茎も葉も太くて硬く、根は燈篭のようである。
③「漢葱」は茎が(空洞でなく)詰まっていて硬く、味は薄い。冬になると枯れてしまう。漢葱は木葱ともいい、その形は太くて硬い。漢葱は春の終わりに、青白色の花を叢(むれ)て咲かせる。その子は辛く、黒色で、表面には皺があり三つの弁状になっている。これを収穫して陰干しする。決して湿らせてはならない。株分けをしたり、種子から栽培することもできる。
④「茖葱」は山中に自生している。「茖葱(カクソウ))は、ギョウジャニンニクであると・・・。そして、“「たまねぎ」は中国語で「洋葱(ヤンツォン)」ということからわかるように、中国には近代になって西洋から移入された品種で、当然のことながら明代に刊行された『食物本草』には記載が見当たらない。”・・とある。従って、②「胡葱」は、球根性多年草のアサツキ(浅葱)のようなものを言っているのであろう。これらの専門家でもない私にはこれを読んでもよく判らないが、①が普通に言うネギや「ワケギ(分葱)」に近いものだろうか。③は「ニラ(韮、韭)」に近いようなものに感じるのだが・・・。
日本への渡来は、定かではないが、
712(和銅5)年、太安万侶によって献上された日本最古の歴史書『古事記』に、応神天皇の歌として、
「いざ子ども 野蒜(のびる)摘みに 蒜(ひる)摘みに・・・・・・以下略 」
又、日本に現存する最古の和歌集である『万葉集』の長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)の歌に、
「醤酢(ひしほす)に 蒜(ひる)搗(つ)き合(か)てて 鯛願ふ 我れにな見えそ 水葱(なぎ)の羹(あつもの)」 (巻16-3829)
などの歌がある。
「ノビル」(野蒜、学名:Allium macrostemon)は野に生えた「蒜」からきており、東アジアに広く分布しており、日本では北海道から沖縄までの畦道や堤防上など、丈の低い草が生えているところによく自生しているもので、古い時代に作物と共に日本へ入ってきた、いわゆる史前帰化植物ではないかとも言われるが、はっきりしたことはわからない。葉とともに、地下にできる鱗茎が食用となる。生の葱のようにひりひりと辛いところから、「ひる」の名が付いたらしい。ただ「蒜(ヒル)」と言う場合は、ネギ、ニラ、アサツキ、ニンニク等、においがあって食用とするネギ属の総称を意味しているようである。応神天皇の歌は解説するほどのこともないが、歌の全文等は以下参考に記載の※7:「千人万首・応神天皇」を見られるとよい。
長忌寸意吉麻呂は食べるものを多く歌っており、この歌は特に面白い歌だが、醤酢は、醤(ひしお)と酢。また、ひしおに酢を加えた現在でいう二杯酢か酢味噌のようもの。「水葱(なぎ)」は、「ミズアオイ」のことで、歌の意は「醤と酢に のびるをつきこんであえものとして、鯛を食べたいと願っている私に、 水葱の吸物など見せてくれるな!」といったところ(以下参考に記載の※8:「万 葉 集/長忌寸意吉麻呂」及び、※9:「万葉集に詠まれたミズアオイ」参照)。
ネギの名が初めて記述されているは、720(養老4)年に編纂された『日本書紀』であり、岐(き)、 秋岐(あきき)という言葉が登場している。又、万葉集では以下の歌が詠まれている。
「伎波都久(きわつくの)の 岡の久君美良(くくみら) 我れ摘めど 籠(こ)にも満たなふ 背(せ)なと摘まさね」(巻14-3444)
「久々美良(くくみら)」は「ニラ(韮)」のこと。ニラは匂いの強い野菜として古代より食べられており『古事記』では久米歌の中に「加美良(かみら))として登場(以下参考に記載の※10:「上代古典集:埋も木」の丸山林平「定本古事記」神武天皇 >神武天皇 >登美豐古を誅せむとする御歌及び※14の古事記 中巻(神武天皇) 来目(久米)の歌参照)し、『正倉院文書』には「彌良(みら)」として記載がそうだ。古代においては「みら」と呼ばれていたが、通説では、「くくみら」は茎が立った「みら」(茎韮)の意で院政期頃から「にら」に転化したようだ。
歌の意は、「伎波都久の岡のニラを私だけが摘んでもなかなか籠に一杯にはなりません。それではあなたの背(夫)と一緒に摘んだらどうです」といっもので、伎波都久の岡とは、島根県益田市木部の東、鎌手山の岡だそうだ(以下参考の※11:「石見賛歌>万葉の道>万葉歌人の選んだ石見37名所」の伎波都久の岡を参照)
又、以下参考の※12 :「私本日本書紀」の第十五巻、第五話億計天皇(仁賢天皇)の治世6年秋ところに、女の話として「秋蒔きの葱の二茎が、一皮に包まれているように、二重に密接な私たちの間柄を思って欲しい。」と出てくる。ネギは、二茎が一皮に包まれているものであるが、彼女の母にとって兄であり、彼女にとっても優しい我が夫が役務とはいえ遠く高麗へ行ってしまったことを、はいずり回って歎き悲しんでいるのだが、この時代の人達はこのようなロマンチックな表現方法でそのことを表現していたのである。このような歌からも、8世紀にはネギが広く伝わっていたことが窺える。


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国産小ねぎ消費拡大の日(Ⅱ)

2010-07-23 | 記念日
江戸時代の貝原益軒が書いた『大和本草』には、漢方書からの引用として、急死した人の鼻や耳にネギを差し込むと、死人が鼻血を出して蘇ると言うなどと言うことが書かれている(以下参考に記載の※14:「大和本草」の大倭本草巻之五 草之一の中の ○葱参照)。
ネギ類は、芳香が邪気をはらう、又特に強い匂いのニラには呪力がある(※15:「CiNii 論文 - 長忌寸意吉麻呂の「におい」」など参照)として古代には神事や祭事の時に、神に捧げる野菜として使われていたので、5世紀ごろまでには朝鮮半島を経由して入っていただろうが、中国にも葉ネギと白ネギがあることから、両種類が日本に伝来したと考えられている。
「葱」はネギ属の総称で、ニンニクやニラなども含み、英語でネギ属を特有の臭いに由来したアリュームと言っていることは、先に書いたが、漢名「葱(そう)」の「ネギ」を日本では古名を「キ」(岐、紀、など)と言われていたようだが、「キ」は臭みを表す「気」、「息」に由来するとされ、葱の特性(臭い)からきている。
「キ」は一文字であることから「ひともじ」とも称しているが、この「ひともじ」は、平安時代の宮中の女房(女官)言葉に由来し、同様な意味で、ニラのことを「ふたもじ」と言っている(以下参考の※14:「跡見学園女子大学>跡見群芳譜」ねぎなど参照)。
そして、「キ(葱)」の白い根の部分(実は茎)を食用とすることから、「根葱(ネギ)」と呼び、「根深(ネブカ)」とも言っていた。
また、「葱」を訓読みで「アオ(イ)」とも読むが、これは、音で、「ソウ」とも読み、「蒼(ソウ)」の文字と同じく、浅い青色を意味しているからで、ネギの白と書いた葱白(ソウハク)が葱の白根でなく、最も淡い藍色を指し、ネギの根は葱根と書く。ところで、日本の浅黄(あさぎ)とはごく薄い青の事であるが、語源は浅葱で葱の薄い緑色の事を指した。浅黄は間違った当て字である。 同じように萌黄(もえぎ)は萌葱で、葱のきれいな緑色の事である(以下参考に記載の※16:「日本の伝統色名」参照)。
「葱白く洗ひたてたるさむさ哉」(作:松尾 芭蕉
この句は、元禄4 (1691)年10月、芭蕉48歳の時。2年前の秋以来の上方在住から江戸へ戻る帰路、美濃の国垂井の本龍寺での作とされている(以下参考に記載の※:「芭蕉DB」の主題別順「ね」のところを参照)。
この句の「葱」は「ねぶか」と読む。「ねぶか(根深)」は、白い部分の多い関東の葱で、寒さを表現するのにネギの白さという色彩を用いた独創が高い評価を得ており、芭蕉秀句の一つとされているようだ。
日本では、関東では成長とともに土を盛上げ陽に当てないようにして作った、風味が強く太い白ネギ(長葱・根深葱)が好まれ、関西では陽に当てて作った若く細い青ネギ(葉葱)が好まれていたが、近年では、料理にあわせて使い分けるようになっている。博多ネギなどと呼ばれていた北九州の細い青ネギを「万能ネギ」と銘打って売り出したのが始まりで、今は、それに似た青ネギを万能ネギと呼ぶようにもなっている。
昔は強すぎる匂いと辛味を嫌って、生で食べる時は切った後に水で晒(さら)す晒し葱にする事が多かったが、 今では栽培方法によるのだろう、普通に葱類と呼ばれているものには余りキツイ臭いもなくなりほとんど晒さなくなった。
日本では古くから味噌汁、冷奴、蕎麦、うどんなどの薬味として用いられるが、鍋物や煮物に使うとダシがよくでるので、これらの料理には欠かせない食材のひとつである。
関西人の私など、「ねぎま」と聞くと反射的に焼き鳥のネギマ(鶏とネギを交互に串に刺したもの)を思い浮かべてしまうが、実はこのネギマは江戸時代より江戸の町で好まれた「ネギとマグロ」の葱鮪汁やねぎま鍋の「ねぎま」から来ているそうだ。
明治になって関西ではすき焼き、関東では牛なべがはやりだすと、ネギの需要が増えるが、玉ねぎは、ようやく、この頃になって、わが国に入ってきた。
今やネギ属は、世界各地で、野菜、花、薬草として栽培されているが、西洋では、主として、タマネギ、ニンニク、リーキ(西洋ネギ)が栽培され、食卓を飾っているが、ネギ、ラッキョウ、ニラ、アサッキといったものは東洋独特の作物で、西洋人には馴染みの薄い野菜のようだ。
日本のネギで、青葱では、京野菜の1つである九条葱や、福岡県の博多万能ねぎが、白葱では、群馬県の下仁田ネギ などが知名度が高いが、私の地元兵庫県では、生野銀山の役人が京都から京野菜の一つである九条ねぎの種子を持ち帰り、生野銀山の労働者のための冬の生鮮野菜として岩津地区で栽培をさせたといわれる岩津ねぎが今では、下仁田ネギ、博多万能ねぎとともに日本三大葱の一つとして数えられている。白葱(根深ねぎ)と青葱(葉ねぎ)の中間種で、青いところから白いところまで全部食べられる。身は柔らかく、甘みや香りが強いのが特徴であり、焼いて食べるのが一番。焼いたアツアツの岩津ねぎは、かみしめると、やや厚めの肉層から甘味と独特の風味がこぼれだし、口いっぱいに広がる。また、冬季野菜ということで、鍋物にも最適のねぎで、食べると体が暖まるので、地元でも冬場になくてはならない野菜だ(以下参考の※17:但馬の百科事典:岩津ねぎ【いわつねぎ】参照)。だけど、ちょっとお値段は張る・・・・。
(画像は向かって左:ネギと右:ネギの花・葱坊主。Wikipediaより)

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参考:
※1:相馬博士の作物百科
http://www.agri.pref.hokkaido.jp/nouseibu/soma/
※2:増殖難読漢字辞典「葱」
http://www.geocities.jp/growth_dic/honbun/zoukan-472c.html
※3:後漢書解釈 -東観漢記
http://kunai385.hp.infoseek.co.jp/TOUKAN/toukankanki.htm
※4:e-yakusou,com薬用植物
http://www.e-yakusou.com/sou/index.html
※5:季語と歳時記
http://www.geocities.jp/saijiki_09/
※6:食物本草歳時記
http://www.occn.zaq.ne.jp/ringo-do/syokumotu.htm
※7:千人万首・応神天皇
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/oujin.html
※8:万 葉 集/長忌寸意吉麻呂
http://homepage3.nifty.com/enou/okimaro.htm
※9:万葉集に詠まれたミズアオイ
http://homepage3.nifty.com/nagi/onibasu/manyousyuu.htm
※10:上代古典集:埋も木
http://www.umoregi.com/koten/
※11:石見賛歌>万葉の道>万葉歌人の選んだ石見37名所
http://www.iwami-dp.net/sanka/manyou/37m.htm
※12:私本日本書紀
http://www.loops.jp/~asukaclub/syoki.html
※13:CiNii 論文 - 長忌寸意吉麻呂の「におい」 : 『万葉集』巻16・三八二八考
http://ci.nii.ac.jp/naid/110004839479
※14:大和本草(中村学園大学・中村学園大学短期大学部図書館)
http://www.nakamura-u.ac.jp/~library/lib_data/b01.html
※15:跡見学園女子大学>跡 見 群 芳 譜
http://www2.mmc.atomi.ac.jp/web01/Flower%20Information%20by%20Vps/Flower%20Albumn/index.htm
※16:日本の伝統色名
http://www2s.biglobe.ne.jp/~sakamaki/dentouiro.html
※17:但馬の百科事典:岩津ねぎ【いわつねぎ】
http://www.tanshin.co.jp/zaidan/8syoku/12iwatu/index1.html
和漢三才図会(巻第九十九(九大デジタルアーカイブ)
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/wakan/wakan-chi/page.html?style=a&part=40&no=1
四季の植物の歌
http://www.geocities.jp/sikinosyokubutu/index.htm
訓読万葉集
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/manyok/manyo_k.html
和漢三才図会▶ 葷草類
http://www.i-apple.jp/encyclopaedia/099/
季節の花 300「葱 (ネギ)」
<http://www.hana300.com/negi00.html
GKZ植物事典
http://www.t-webcity.com/~plantdan/
狂仙洞>幻想之中国 >山海経索引
http://homepage3.nifty.com/kyousen/china/sengai/index.html#TOP
山海経動物記
http://www.chinjuh.mydns.jp/sengai/p01.htm
ネギ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%82%AE
ノビル - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%93%E3%83%AB
万葉の花
http://www2.odn.ne.jp/cbm54970/framepage43.html
兵庫の旬のマガジン「ふるさと特産館」
http://www.shunmaga.jp/zukan/index.htm
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html
ねぎの栄養・ねぎの効能・レシピ
http://www.yc.zennoh.or.jp/web/shoku/0211_2.html

二千円札が発行されて10年

2010-07-19 | 歴史
2010(平成22)年7月19日の今日で、二千円札が発行されて10年になる。二千円券発行の趣旨等については、以下参考に記載の※1:「財務省(旧大蔵省)のホームページ」、中程の右列の「その他」>一覧表の中の「二千円日本銀行券の円滑な流通について」で詳しく書かれている。
二千円札は、2000(平成12)年がミレニアム(千年紀)に当たり、「九州・沖縄サミット」(G8サミット)開催の年でもあることを勘案して、その前年・2009(平成11)年10月に故小渕恵三内閣総理大臣の指示により発行が決定され、一万円札、五千円札、千円札に続き、42年ぶりに日本銀行から4種類目の新額面紙幣として、2000(平成12)年7月19日より発行された。また、欧米諸国では、「二」の付く単位の紙幣が発行され、円換算で二千円前後となる紙幣(例えば、米国の20ドル紙幣)が幅広く流通しており、我が国においても、二千円券が円滑に流通すれば、従来より少ない枚数で現金の支払い・受取りができるようになるなど、国民の利便性も一層向上するものと考えられる・・といったことも発行の要因としている。
冒頭掲載の二千円札は、自分が持っている紙幣のコピーを撮ろうかと思ったが、何かお札のコピーは問題もありそうなので、財務省のホームページ「二千円日本銀行券の主な様式等について」に掲載されているものを使わせてもらった。図柄はこれを見られると判るが、
表面は、左側に「弐千円」の文字等を、右側には、沖縄の首里城歓会門外にある守礼門を配している。
透(す)かしは、表のものとは違った角度から見た守礼門を使っている。
裏面は、約1000年前に書かれた、源氏物語にちなみ左側に、「源氏物語絵巻」第三十八帖(じょう)「鈴虫」その二の絵の一部分(<光源氏冷泉院対座場面。☆1)に、同帖の詞書(ことばがき)の冒頭部分(ここ参照)を重ね合わせたものを配し、右側に、源氏物語の作者・紫式部の絵(「紫式部日記絵巻」の一場面。五島本第一段の宮の内侍と紫式部を二人の公卿〔藤原実成藤原斉信〕が訪ねる場面☆2。)に描かれている紫式部を配している(☆1及び☆2の画像および説明は以下参考の※2:「五島美術館の名品」の源氏物語絵巻及び紫式部日記絵巻のところを見られると良い)。ただし、『紫式部日記絵巻』(五島本第一段)には、寛弘5年(1008年)10月17日、紫式部が、同僚の女房である宮の内侍(=橘良芸子)の局(つぼね)に来ている時に2人の公達が訪ねてきたわけだが、描かれている格子から顔を出している女房装束姿“十二単姿”の女性は紫式部ではなく宮の内侍ではないかとする説もあるようだが・・・(以下参考の※3:「源氏の部屋・土御門殿邸への行幸翌日、渡殿の局にて」参照)。
過去には2銭、20銭、2円、20円、200円の硬貨や紙幣が存在したことはある。特に知られているのは、世界恐慌の2年前の、1927(昭和2)年に発生した昭和金融恐慌取り付け騒ぎが発生した。これに対して、高橋是清蔵相はモラトルム(支払猶予措置)を行い、片面印刷の二百円券を臨時に増刷して現金の供給に手を尽くし、銀行もこれを店頭に積み上げるなどして預金者の不安の解消に努め、金融不安が収まったというようなことがあった。この時の二百円券は、あまりに粗悪だったことから、恐慌が鎮静化したあとで、まともな二百円券を製造して日銀に保管されていたようだ。その日銀の金庫に保管されていた二百円券が再度登場したのは、戦後のことであった。戦後のインフレ(戦後のインフレがどんなものであったかは以下参考の※8:「日本の戦時債券 戦後のハイパーインフレ」を参照)を克服するために金融緊急措置令によって預貯金、金銭信託などを封鎖し、新旧銀行券の切換え時に、証紙貼付で新円の代用に、日銀金庫に18年も眠り続けていた昭和2年発行の二百円券が旧円券との引換用として登場した(詳しくは以下参考の※4:「中山編集事務所>日本の紙幣」の”昭和2年 乙二百円券(裏白) ”又、”昭和20年 証紙貼付丙二百円券”を参照)。
しかし、それ以外、戦後では初の「1」と「5」以外の単位の通貨であること、公表された表面のデザイン(守礼門)が人物でないこと(建築物は戦後の国会議事堂以来)、また、裏面には、約1000年前に書かれた源氏物語にちなみ「源氏物語絵巻」から親子の対面(光源氏と冷泉院)場面が採用され、「鈴虫」の物語本文を基にした詞書も重ね合わせたり、又、女性の肖像が用いられたのは、明治初期の「政府紙幣」に神功皇后<が描かれて以来で、日銀券となってからは初めてのこと(以下参考の※5:「日本銀行金融研究所・貨幣博物館」のわが国の貨幣史/明治初期の政府紙幣参照)。
さらに、当時偽札が横行していたこともあり、かつてなかった最新の偽造防止技術を多数盛り込んだ二千円札には、目の不自由な人が触れただけで通貨を認識するための識別対策も施されているなどにより、発行前から注目を浴びていた(この二千円札の偽造対策は平成16年に発行された、千円・五千円・一万円の各券にも採用された。以下参考の※6:政府広報オンライン:日本の通貨偽造防止技術は世界トップクラス参照)。
諸外国では2のつく単位の紙幣が広く流通しており、日本でも、流通すれば、「国民の利便性も一層向上するものと考えられる」として発行された二千円札は、珍しさから、私なども発行時に10枚ほど、銀行で両替してもらい保管はしているものの、発行当時に使えた銀行のATM、駅の券売機、自動販売機などがない状況や、戦後に五百円札が発行されて以降、「5」の倍数で、種類分けをするといった方式に慣れきっている日本人には、使いやすいどころか買物などの利用時に千円札と間違えそうになると嫌われるなど不人気であり、殆ど使用されるのを見たことがない。その後、使用してもらうためのキャンペーンなども行われているが、効果はない。
二千円札発行の動機には、、2000(平成12)年がミレニアム(千年紀)に当たること、「、九州・沖縄サミット」(G8サミット)開催の年でもあることを勘案してといった政治的な要因からだけではなく、もし、思惑通り、流通すれば、銀行のATMや、駅の券売機、自動販売機などの改良や製造に関連する企業の業績にも好影響を与え、当時の低成長経済化にあって相当の経済効果をあげ、少なからぬJDPアップに繋がるとの期待も当然あっただろうが、これは、絵に描いた餅となったわけだ。
ただ、サミットの行なわれた沖縄の琉球銀行では、二千円札の入出金に対応したATMを保有しており、二千円札の流通枚数が堅調に伸びているという。沖縄県民にとっては、沖縄サミットを記念して発行された二千円札には守礼門が描かれていることに意義があり、このお札を普及させたいとの思い入れが大きいからであろうと思う。現在の「守礼門」は戦後、復元されたものだが、この「守礼門」と呼ばれているのは、そこに掲げられた扁額(へんがく=門戸などに掲げる横に長い額)である「守禮之邦」からきているいわば俗称であり、本来の名称は「上の綾門(沖縄の言葉でウィーヌアイジョウ)」というのだそうだ。創建年代の確定はできていないが、琉球王国第二尚氏王朝4代目の尚清王(在位1527~1555)のときに建てられていることはわかっているという。そのときの扁額は「待賢」であったが、後に「首里」の扁額が掲げられるようになり、その後6代尚永王(在位1573年~1588年)の時に「守禮之邦」の扁額が作られ、中国から冊封使が来ている間は「守禮之邦」の扁額を掲げていたが、常時この扁額を掲げるようになったのは、9代尚質王〔在位1648~1668〕の時からのようである。扁額となった「守禮之邦」という言葉は、尚永の冊封のさいの中国皇帝(このときは万暦帝)からの詔勅にあった文言で、「琉球は守礼の邦と称するに足りる」というくだりからきているのだそうだ。礼を守る国・冊封国の君主は冊封された領域内で基本的に自治あるいは自立を認められていたことを示している。つまり、この扁額は、かっての琉球国が自治或いは自立を認められていた国であったことのシンボルなのであろう。だからこそ、「守礼門」の描かれた二千円札への思い入れが大きいものとオムのだが・・・。
小渕恵三と言えば、官房長官時代に昭和天皇が崩御。元号変更にあたり、記者会見で「平成」と書かれた額を掲げて、「新しい元号は「平成」であります」と平成を公表し注目を集めたことから、人の良さそうな「平成おじさん」として広く知られていた。
思い起こせば、1998(平成10)年の第18回参議院選挙では、前年の国民負担増(村山内閣で内定していた消費税率3%から5%への引上げを橋本内閣で実施)等、それに伴う景気の後退、失業率の上昇などの要因で、自民党が追加公認を含め45議席と大敗したことから、橋本内閣が総辞職に追い込まれたことから、当時外相であった小渕氏が、橋本氏からの政権禅譲が期待されたていたが、前官房長官梶山静六と現職厚相の小泉純一郎とが総裁選に出馬。3人の激しい選挙戦が展開され、対抗馬の2人を破り党総裁に就任した。そして、7月30日、国会で首班指名を受け第84代内閣総理大臣に就任した。しかし、与野党が逆転していた参議院では民主党代表の菅直人が首班指名され、日本国憲法第67条の衆議院の優越規定により辛くも小渕が指名されるなど、当初の政権基盤は不安定だった。加えて、マスコミからの小渕批判も強く、新聞誌上に「無視された国民の声」などという見出しが並び、就任早々から「一刻も早く退陣を」と書きたてた新聞もあった(小渕恵三-Wikipediaより)。
衆参ねじれ国会のそんな状況の中で、ニューヨーク・タイムズには「冷めたピザ」ほどの魅力しかないと形容された小渕氏ではあったが、総理大臣に就任後、自由党、公明党と連立政権(自自連立、自自公連立)を樹立し、その巨大与党をバックに内外政にわたり多くの懸案を処理してる。
特に、前年(2009年)の第45回衆議院議員総選挙における民主党の圧勝により、非自民勢力(民社国の3党連立)による政権奪取をした民主党代表・鳩山由紀夫が、自民党政権時代の日米合意をくつがえし基地の県外移設を追求めたが実現できず、ほぼ自民党の原案に近い状態での日米合意で決着させたものの、その間に沖縄の情勢が変わり、沖縄県民の猛反発を受けるようになり、いまだ、解決の目処の立たない大問題として民主党・菅直人政権に引き継がれている普天間基地移設問題 。この普天間基地代替施設移設問題については、地元への説得工作も含めて上手く行い辺野古沖移設を閣議決定したのが小渕氏である(この閣議決定はその後、小泉純一郎が米国と自治体の要求を飲む形で沿岸部移設を決定した)。沖縄への手厚い振興策や、2000(平成12)年、九州・沖縄サミット(G8首脳会議)開催を、沖縄に対する並々ならぬ熱い想いから、歴史的決断によって、万国津梁館での会合を実現させたとの功績により、2001(平成13)年4月には、小渕恵三のメモリアル像が、九州・沖縄メモリアル建立委員会によって建立されている(小渕氏の沖縄に対する熱い思いは、以下参考の※9:「首相官邸「歴代内閣ホームページ情報」小渕敬三内閣総理大臣」の中にある、2000(平成12 )年3月、沖縄県那覇市での沖縄訪問に伴う小渕総理大臣記者会見の記録でも窺える)。
このような、日米関係を無難に推し進める一方で、中国の江沢民主席(当時)来日時の過去の歴史に基づいた謝罪要求や、北朝鮮の不審船問題に対しては、節度を保ちながらも一定の強い対応を示すなど、外交手腕にも長けていた。このような沖縄問題に寄せる小渕氏の強い思いや政権運営能力は今再評価されている。
2000(平成12)年のミレニアム(千年紀)に当たることや、「九州・沖縄サミット」開催の年でもあることを勘案して選ばれた守礼門の図柄採用には、日本における沖縄の歴史上の複雑な事情も勘案されているのだが、裏面に描かれた「源氏物語絵巻」鈴虫の場面も、なかなか意味深である。
八月十五日の夕暮れ、六条院での月見の宴に招かれた光源氏と、冷泉院との対座場面が描かれているが、源氏の弟とされている冷泉院は、実は源氏と継母藤壺との不義の子であった。顔かたちも源氏に似てきた冷泉帝は、自分が源氏の息子だとわかってから、源氏に対して格別な思いを持っていたが、位を譲り自由の身になった今も、「秘密の関係」にあり、気軽には逢うことも出来ないもどかしさ。そのような複雑な関係にある実の親子・光源氏と冷泉院が対座し、しみじみと語っているこの原画には、そのそばで夕霧(光源氏の子)らしい人物が庭に向かって笛を吹く秋の情景が描かれている。なにか、この画を見ていても今の沖縄の複雑にしてもどかしい状況とダブってくるような感じがしはしないだろうか・・・。
(画像は、新円切替の風景。Wikipediaより)

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二千円札が発行されて10年:参考

2010-07-19 | 歴史
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参考:
※1:財務省ホームページ
http://www.mof.go.jp/
※2:五島美術館の名品
http://www.gotoh-museum.or.jp/collection/index.html
※3:源氏の部屋・土御門殿邸への行幸翌日、渡殿の局にて
http://f1.aaa.livedoor.jp/~heiankyo/co200510news4.htm
※ 4:中山編集事務所>日本の紙幣
http://www.f4.dion.ne.jp/~na123/sihei.htm
※5:日本銀行金融研究所・貨幣博物館
http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/index.htm
※6:政府広報オンライン:日本の通貨偽造防止技術は世界トップクラス
http://www.gov-online.go.jp/useful/article/200806/2.html
※7:守礼門【ぐるなび観光・出張お助けナビ】
http://kanko.gnavi.co.jp/spot/11/47001411.html
※8:日本の戦時債券 戦後のハイパーインフレ
http://f59.aaa.livedoor.jp/~bokujin/inflation.html
※9:首相官邸「歴代内閣ホームページ情報」小渕敬三内閣総理大臣
http://www.kantei.go.jp/jp/obutisouri/index.html
源氏物語絵巻展の解説ページ
http://www.ll.chiba-u.ac.jp/~kikaku/exhibit/2008/genji/setumei.html
お金と切手の展示室☆2000円札特集☆
http://www14.plala.or.jp/wanetjp/gennko_sihei/2000y.html
源氏物語絵巻- Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E%E7%B5%B5%E5%B7%BB/
風俗博物館
http://kakitutei.gozaru.jp/kyoto05nov/4-5.html
新札発行で存在感薄れる二千円札、どこへ行った?
http://www.narinari.com/Nd/2005024038.html
二千円札普及促進(りゅうぎん)
http://www.ryugin.co.jp/2000yen/2000yen.htm
みんなで使おう二千円札!(PDF)
http://www3.boj.or.jp/naha/2000/pdf/2senkouhou.pdf#search='二千円札発行'

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内視鏡の日

2010-07-14 | 記念日
日本記念日協会の今日・7月14日の記念日に「内視鏡の日」があった。
記念日の由来をみると、”内視鏡は1950(昭和25) 年に日本で、世界で初めて胃カメラによる胃内撮影に成功して以来、医学の各分野で高く評価され、診断、治療に役立てられてきた。その内視鏡医学のさらなる発展と普及を願い、財団法人「内視鏡医学研究振興財団」が制定したもので、日付は7と14で「内視(ないし)」と読む語呂合わせから。 ”・・だそうである。
私など現役時代勤めていた会社では、ある年代に達すると定期健康診断以外に人間ドックでの検診も受けることになっっていたが、人間ドックなどで一番嫌なものが胃の検査であった。
の検査の代表的検査と言えば、バリウム検査(正式には上部消化管X線検査。胃透視検査とも)と胃カメラ検査(正式には上部消化管内視鏡) である。バリウム検査では、レントゲン(X線撮影)の造影剤として飲まされるバリウムが非常に飲み辛いものであったが、これを飲む前に、発砲剤(炭酸ガスを発する顆粒剤)を飲んで胃を膨らんだ状態にさせられ、ゲップが出そうになるのを我慢しているのに、検査の時に、お腹をグングン機械で押さえつけられるので大変だった。そして、検査後は、便秘にならないよう下剤及び水分をどんどんとり、胃に良くないのは分かっていても冷えた牛乳まで飲んで、無理矢理に下痢常態にして、バリウムを排泄しておかないと胃の中でバリウムが固まってしまう。だから、胃の検査をした日は1日中お腹の調子が悪かった。
胃カメラ検査の場合は、のどにゼリー状の局所麻酔薬を塗って、内視鏡を口から胃の中に入れて、先端についている超小型のカメラで胃の中の様子を直接モニター画面に映し出して観察するものだが、私らが現役時代に検査してもらっていたときよりは、今のものはより小型になり楽にはなっているのだろうが、私の時代では結構大き目の胃カメラを長い間口から胃の中に入れていると、ゲップどころか嘔吐しそうになるのを我慢するのは苦痛であった。
X線検査には、胃全体の情報が得られることや、下手な内視鏡検査よりもしっかりしたX線検査の方が情報量が多い場合もあるなどの長所があるようだが、診断機器としてのX線検査に比べて内視鏡検査の優れている点としては、第1に色の観察ができ、比較的小さな変化まで診断することが可能。第2には、胃カメラはその場で組織をとって調べることが可能。第3に、被爆がないといった利点があるようだ(詳しくは、以下参考の※1:「読み物(島根県環境保険公社)」の◆上部消化管内視鏡検査参照)。
胃部の検査において、X線検査と内視鏡検査のどちらが良いかについては、レントゲン検査で異常が見つかった場合その後で、内視鏡検査をしなければならなくなるので、それなら、何も両方の検査をやらなくても最初から内視鏡検査をした方が手っ取り早いと考え、レントゲン検査を受けずに内視鏡検査だけをしておけばよいのと思っている人が多いのではないだろうか。確かに、内視鏡検査の特徴として、この検査では検査時に疑いのあるポリープなどが見つかった場合など即その組織をとって、調べることが出来る特徴があるが、レントゲン検査には内視鏡では発見できないものを発見できる特徴も備えているようなので、双方それぞれ一長一短があることから、本来は、両方の検査を受ける方が良いのだろう。しかし、一般の簡易な人間ドックの検査などでは費用などの面から、どちらか1つを選択して受ける場合が多いと思うが、その際は、交互に、受けるのが良いようだ。私も、レントゲン検査でポリープが発見され、再検査のため別の病院で内視鏡検査をしてもらい、ポリープの細胞をとって検査してもらった結果悪性でないことがわかったが、その時、医者からそのような話を聞き、その時以降1年おきに交互に受けることにしていた。
内視鏡の歴史は古く、身体の内部を直接観察して診療に役立てようという試みは、古代ギリシア・ローマ時代にさかのぼるといわれているそうだが、このような専門外の医療器具のことなど私は詳しくないので、以下参考の※2:「オリンパス :内視鏡の歴史」や※3:「胃カメラの開発 - 平成医新」など参考に書くと、紀元一世紀の火山の噴火により壊滅したポンペイの遺跡から内視鏡の原型とみられる医療器具が発掘されているという。そんな古い時代にどのようなものを使っていたのか興味のわくところだが、写真等がないのでよく判らない。
現在の内視鏡の原型と言える「管を通して生体内を観察する」機能を有する最初の器具は、1805年に、ドイツ人医師・ボッチニー が製作した Lichtleiter (導光器)と言う器具で、尿道や直腸、咽頭の観察を行った。さらに、1853年に、フランスのデソルモが、尿道や膀胱を観察する特殊な器具(膀胱鏡)を製作し、この器具に初めて内視鏡(endoscope)という名称がつけられたそうだ。様々な試みを経て、初めて生きている人間の胃のなかを、長さ47cm、直径13mmの金属管を使用して、のぞき見たのはドイツの医師アドルフ・クスマウルだそうで、1868年、つまり、日本の明治元年のことであったという。とはいっても、その時代には現在の内視鏡のようなファイバー(fiber。繊維。糸状のもの)などはなく、まっすぐの硬性胃鏡を、中国の呑剣士(剣を呑みこむ大道芸人)にまっすぐ飲み込んでもらい観察したのだという。胃内は当然真っ暗で、現在なら内視鏡の先から照明で照らせばいいのだが、その時は、ろうそくの火でなんとか胃内を明るく見たという。その後、1879年、トーマス・エジソンによって電球が発明されその小型化が進むと、やがて電球が内視鏡に使用されるようになる。そして、1932(昭和7)年、ドイツの医師シンドラー(Schindler)は、直径11ミリ、長さ75センチの管で、先端に近い1/3の部分がある程度曲がり、管の内部に多数のレンズを配して、先端の豆電球の照明で、胃の内部を見ることが出来るようにした。これが、最初の検査時に曲がったままでも観察できるようにした軟性胃鏡といわれているようだ。
今や胃カメラは胃潰瘍胃癌(ガン)などの診断に欠くことのできない医療機器となっているが、胃カメラを発明したのが日本人であるということは、このブログを書く為いろいろで調べるまでは知らなかった。
1898(明治31)年、ドイツのランゲとメルチングにより初めて胃カメラの開発が試みられたが、実用化は不可能であった。その後、胃カメラの開発は、戦前・戦中を通して世界各国の研究者によって試みられたが、いずれも実用化には至っていなかった。
1949(昭和24)年、東大付属病院小石川分院(以下参考の※4参照)の若き医師・宇治達郎(当時29才)から、「患者の胃のなかを写して見るカメラをつくってほしい」という難題が高千穂光学工業(オリンパス光学工業⇒現:オリンパス)に持ち込まれた。これがその後の「胃カメラ」の開発の始まりで、極小レンズの製作、強い光源の検討、本体軟性管の材質探し、最適なフィルムの入手や水漏れ対策の追及などすべてが試行錯誤を繰り返した末、その翌・1950(昭和25)年、宇治達郎と、オリンパスの杉浦睦夫(32才)、深海正治(29歳)によって、完全国産の胃カメラ「ガストロカメラGT-I」を世界で初めて完成させた。それは、きわめて小さなカメラ本体及び光源(超小型電球)を軟性管の先端に取り付けたものであり、接眼レンズがないため、腹壁を通して見えるランプの光の位置を参考に胃内各部を撮影。フラッシュの方向、操作部の目盛りを指標とした半盲目的撮影であったため、フィルムを現像してはじめて胃の内部を読影できるというものであったらしい。同年に3人を発明者として「腹腔内臓器撮影用写真機(ガストロカメラ)」の名で特許が出願されている。
医学用語では英語で胃のことをガストロ(Gastro) と呼ぶそうで、語呂もよくわかりやすいという理由から「ガストロ・カメラ(Gastro-camera)」、通称「胃カメラ」と命名したそうだ。(以下参考の※2:又※5など参照)
彼らの胃カメラの発明は、胃ガンの早期発見に大きな貢献をもたらした。そして、1960年代に入るとファイバースコープが、その後は、先端に小さな超音波(エコー)が装着されている超音波内視鏡が、誕生し、医師は消化管の中を直接リアルタイムに見ながらより精密な検査ができるようになった。このように、今日の内視鏡診断の確立に極めて大きな役割を果たし、日本が内視鏡先進国となったのも、若い杉浦らの先進的な発想と努力によるものと言えるようだ。しかし、X線を発見し、X線写真診断などで科学技術の進展に貢献したドイツの物理学者ヴィルヘルム・レントゲンの存在が、広く知られているわりには、レントゲン撮影では不可能な胃潰瘍や胃ガンの早期発見を可能とし、医療診断に一大革命をもたらした胃カメラの発明者の彼らの名が余り知られていないのはちょっと気の毒な気がする。彼らの胃カメラ開発の経緯は、1981(昭和56)年に吉村昭が小説『光る壁画』として発表しており、1980(昭和55)年に読売新聞の朝刊に連載されたというが、正直私なども、読売新聞はとっていないし、吉村の小説も『戦艦武蔵』(文藝春秋)などは、好みの分野の小説なので読んでいるが、『光る壁画』のことは知らなかった。
日本人は欧米人に比べ胃癌の発生頻度の高いことで知られている。1950(昭和25)年頃までは、で死亡する約半数が胃癌による死亡であり、さらにこの当時、胃癌の死亡率は90%以上であったという。日本の国民的疾患であったこの胃癌による死亡は、1950(昭和25)年以降ゆるやかに減少し、1998(平成10)年には癌死亡の第1位(男性だけでは1993年に第1位)を肺癌にゆずるまでに減少した。しかし、胃癌による死亡者数が減少したのは、日本人の胃癌の発生が減少したからではなく、胃癌の早期発見が可能になり、早期治療が行われるようになったからである(以下参考の※6:「大阪がん予防検診センター「がん」について」参照)。
統計でみると日本人の胃癌死亡率は減少しているが、胃癌になる人の数(り患数)は、人口高齢化の影響で非常に増えているという。私も、現役を退いてからは、人間ドックでの検査はしていないが、一度した方がよいかな~。 最新のものは2000年に登場したカプセル型内視鏡で、内服薬のように口から飲み込む方法で、簡単に検査できるらしい。兎に角、癌は早期発見・早期治療をすれば治せるものらしいので、苦しんで死なないようドックでの検診を検討しなければいけないのだろうね~。
(冒頭の画像:ヤフーオークションに出品されていた、昭和56年5月、新潮社創刊の『光る壁画』初版物)
参考:
※1:読み物(島根県環境保険公社)
http://www.kanhokou.or.jp/yomimono/yomimono.htm
※2:オリンパス :内視鏡の歴史
http://www.onaka-kenko.com/endoscope-closeup/endoscope-history/
※3:胃カメラの開発 - 平成医新
http://blog.goo.ne.jp/cool-susan/e/14ac3a5007d4b0daf3b6094978ad3c1f
※4:東京大学病院分院(文京区目白台3-28)今年夏解体、再開発。
http://www.tansei.net/kindai/todai/main.htm
※5:日本人のオリジナリティ探訪:胃袋の闇に光を当てた光学技師 「胃カメラ」の発明 杉浦睦夫
http://sme.fujitsu.com/tips/japanesespirits/20081001/
※6:大阪がん予防検診センター「がん」について
http://www.gan-osaka.or.jp/gannituite/gantop.html
超音波内視鏡(EUS)
http://hattori-clinic.com/eus.htm
機械遺産:オリンパス「ガストロカメラGT-I」
http://www.jsme.or.jp/kikaiisan/data/no_019.html
e-CLINICIAN
http://www.e-clinician.net/vol46/no484/pdf/endoscope_484.pdf
内視鏡 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E8%A6%96%E9%8F%A1
内視鏡医学研究振興財団
http://www.endo-jfe.or.jp/
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html
胃 癌 の 現 況 [PDF](2005年3月号)
http://www.in-ava.com/Ishi44_1_1_5.pdf
OLIMPUS TECHNO ZONE
http://www.olympus.co.jp/jp/magazine/techzone/vol46/index.cfm