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記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

日本で初めて先進国首脳会議(東京サミット)が開催された日

2013-06-28 | 歴史
1979(昭和54年)年6月28日から29日まで日本で第5回先進国首脳会議(通称:東京サミット)が開催された。これは、日本で開催された初めての主要国首脳会議(サミット)である。
冷戦下の1970年代に入り、ニクソン・ショック(ドルの切り下げ)や第1次石油危機(オイルショック参照)などの諸問題に直面した先進国の間では、世界経済問題(マクロ経済、通貨、貿易、エネルギーなど)に対する政策協調について首脳レベルで総合的に議論する場が必要であるとの認識が生まれた。
このような背景の下、ジスカール・デスタン仏大統領(当時)の提案により、1975年11月、パリ郊外のランブイエ城において、日、米、英、仏、独、伊の6か国による第1回首脳会議が開催された。
第2回目の1976年のプエルトリコ会議からはカナダが参加し、1977年の第3回ロンドン会議からは欧州共同体(EC)(現在は欧州連合【EU】)の欧州委員会委員長が参加するようになった。
そして、1978年ボン会議(サミット)(西ドイツ)に続いて、1979年、東京都港区赤坂の迎賓館第5回東京会議(サミット)が開催された。
第2次石油危機のさなかに開催されたこのサミットでは主要な議題は石油・エネルギーの問題であった。エネルギーの節約、輸入抑制や方法が論議されたが、最終的に各国の輸入制限目標が決められ、日本の場合は、輸入総量を630万バレルから690万バレルの間に抑える(国内からの要求量は700万バレル)、という案で合意した。
インドシナ難民(※3参照)に関する特別声明もだされた。(過去から現代までのサミットでの会議の概要、参加国、関連文書等は以下参考の※1:「外務省HPG7 / G8」の過去のサミット一覧表および※2:「主要国首脳会議関連文書 - 東京大学東洋文化研究所」を参照れるとよい)
ところで、この会議で討議されたたことの背景を知るために、前年の第4回・ボン・サミット(7月16日から17日) 以降、東京サミットが開催された1979年の6月まで1年間に起こった世界的に大きな出来事(国際的問題)等を少し振り返ええりながら、現代の状況がどうなっているを見てみたい。

出来事(1)
1978年(昭和53年)8月12日、日本の園田直外相と、中国(とう) 小平副首相との会談で「尖閣列島(尖閣諸島)」「中ソ関係」に合意が得られ北京で日中平和友好条約の調印式が行われた。(1972年の日中共同声明を踏まえてのもの.。国会承認:10月16日、効力発生:10月23日)。

日本政府は尖閣諸島は日本固有の領土であるとして実効支配をしている。これに対して、1968年に地下資源が発見された頃から、中国と台湾などが領有権を主張しはじめた(南シナ海の領有権問題 参照)。
しかし、尖閣諸島問題は日中共同声明及びその6年後の日中平和友好条約締結(園田外相、(とう)小平)の際にも、「その解決は将来の世代の知恵に待つ」(小平)として「先送り」されて来た。
この時、園田外相が尖閣問題を切出すと、小平は「ああいう事件を再び起こさない」と確約したという。それを信じてこの問題には双方が触れないということで条約を締結したのだが・・・(※3参照)。
今でも日米安保の下、米国に従属している日本。軍事大国化し、ますます覇権主義となりつつある中国。そこに起こっている尖閣諸島問題。
領土問題は今日では、資源問題でもある。かって、は、このような問題は往々にして戦争 (局地的な戦争も含め) によって解決されたものだが・・・。これからどう解決してゆくのだろうか。
日中平和友好条約締結直後の10月25日に来日した折にも、当時の中国の最高実力者小平は記者会見に応じ、その中で、中日友好条約が覇権反対の原則を明確に規定したことの意義を述べており、「中国が将来四つの現代化を実現した強大な国になったときも、決して覇を唱えない。これは毛沢東首席が生前私たちのために定めた国策であり、既に明確に憲法に記入されている」・・・と述べているのだが・・・(※4:「特記すべき記者会見 | 日本記者クラブ」の“小平中国副首相記者会見 1978年10月25日”を参照)。
日中国交回復から35年、経済関係の目覚しい発展にもかかわらず、政治面では摩擦が絶えず、最近は、両国間に相互不信はかつてなく深刻な状況になっている。

出来事(2)
1978年 11月1日、当時、貿易収支の大幅な赤字によって経常収支が赤字に転落し、インフレが加速していた中、米国のカーター大統領はドル下落に歯止めをかけるため、独・日 ・スイスの3カ国と個別に外国為替市場に協調介入することと、公定歩合の1%引き上げと預金準備率引き上げのドル防衛策を発表。
これを受けて翌日ドルは大幅に(1日で10円以上)上昇(逆に円安)。その後も円安・ドル高傾向は続いた(※5参照)‘77年から’78年にかけては第一次の円高時期であった。

日本は、今アベノミクスで、物価下落と不況のデフレ・スパイラルを断ち切るためにインフレ目標(インフレターゲット)を設定し、大胆な金融緩和措置を講じることを掲げ、昨年末より、これを好感し円安、株高に転じていたが、5月23日場中につけた日経平均株価の最高値を境に、急激な円高株安に転じた。
理由は、アベノミクスの「第3の矢」とされる「成長戦略」が事前に報道された内容に留まった上、実現への具体策も乏しいと市場に受け止められ、失望売りが膨らんだとみられた他、アメリカの金融緩和が縮小されるとの観測が広がったこともこの流れを後押ししていた(※6参照)。
市場の予想通り、6月19日、FOMC(米国連邦公開市場委員会)後の記者会見でFRB(米国連邦準備制度理事会)のバーナンキ議長は「QE3(月850億ドルの証券購入策)の縮小を年内に開始し、来年半ばには停止するであろう」と発表した(※7参照)。
今回のバーナンキ議長の発表によって、米国の金融政策の変更がほぼ間違いないことが明確になり、長期金利の上昇傾向が鮮明化した。それをきかっけに、新興国の株式市場が不安定化すると共に、当該国の通貨が軒並み弱含みの状況になっている。
日本にとって重要なことは、安倍首相が明確な成長戦略を打ち出せるか否かであり、それができなければ、期待が失望に変わり、アベノミクスで加速した相場は終焉することになる。しかし、余り具体的な、戦略は見えてこないのだが・・・。
もともと、英国やオーストラリアなどでもインフレ目標を導入しているが、いずれもインフレ抑制のためであり、デフレ対応として導入している国はないという。
インフレ目標を導入し、人為的にインフレを起こした場合に、物価だけが上昇し景気が回復しない(失業率が下がらない)、というスタグフレーション(stagflation)を心配する見方もある。これから先どうなるか楽観はできない。インフレターゲット論への疑問の声も知っておいたほうがよい(※8参照)。
アメリカの金融緩和縮小政策発表により、世界の投資資金が新興国から逃げ出しているとも聞く。世界経済に及ぼす影響も心配である・・・。

出来事(3)
1978年11月2日、東京電力福島第一原子力発電所3号機で制御棒の脱落による日本最初の臨界事故が発生していたことが後ほどわかったようだ。(【2007年3月まで隠蔽】※9参照)

2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震による地震動津波の影響による福島第一原子力発電所で発生した炉心溶融など一連の放射性物質の放出を伴った原子力事故(福島第一原子力発電所事故)は、日本にとって戦後最大の危機であった。
それは日本という国家が成り立つかどうかの瀬戸際の危機だったわけであるが、この東京電力福島第一原発の事故は、孤立した事象ではなく、過去の原発事故の多くが隠蔽されていたのだという。
先に挙げた1978年の臨界事故のような事故ですら、長期間隠蔽されてきた。そして、その結果、事故情報が共有されず、防げたはずの事故が起きている。多くの事故は、取るべき安全対策が取られなかった結果、起きてしまった。まさに人災ともいうべき事故が並んでいる。それでも、原発は安全だという「安全神話」を、原子力村は強引に押し通してきた。これまでのいい加減な対応を見ていると、東京電力福島第一原発のような事故は、遅かれ早かれどこかで起こらざるを得なかったのではないでしょうか。・・・と、自民党の河野太郎氏は自身の公式サイト(※10)で述べている。
そして、これを繰り返さないためには、経営体質の抜本改革が必要です。再稼働するならば経営陣の総退陣と社外取締役のきちんとした選任が必要です。経産大臣に、それができるでしょうか。総理に、それを指示する勇気があるでしょうか。・・・として、過去の事故例等(※9も参照)を挙げ、最後に「総理、あなたは国民を守るのですか、それとも電力会社を守るのですか。」と結んでいるが・・・(※11も参照)。
阿部自民党政権では基本的に原子力発電所は再稼働の方針のようであり、首相自らが率先して経済外交を行い、アラブ首長国連邦やトルコなどへ原発の売り込みなどをしているのだが・・・。

出来事(4)
1979年1月1日 、アメリカ合衆国と中華人民共和国(通称中国)が国交を樹立。このことは最後に述べる。

出来事(5) 
1979年2月11日、カリスマ的宗教指導者ホメイニーによるイスラム革命評議会がパーレヴィー(パフラヴィー)皇帝時代の政府(パフラビー王朝)から政権を奪取し、イランが共和国として再生した。(イランにおけるイスラム革命=イラン革命)。
それによる混乱からイランの石油輸出が停滞し、国際需給が逼迫、石油消費国はエネルギー危機(第2次オイルショック)に見舞われることになる。(※5参照)。
この緊迫の度を増した石油情勢についての議論が第5回の東京サミットの最重要課題として行われ、各国が原油輸入の抑制を行うことで一致し, 日本においても、原油輸入抑制を行うとともに、イラン減産分をサウジアラビアを始めとする他の石油輸出国からの輸入で代替するなどの措置をとることで、原油価格は上昇したものの、第一次石油危機時のような消費者による買い占めパニックといった大きな混乱は免れた。
ただこの東京サミットでの経済宣言の中で、以下のように石油の代替えエネルギーとして核燃料の推進が宣言、確認されている。
「われわれは,代替エネルギー源,とりわけ,一層の汚染,特に大気中の二酸化炭素及び硫黄酸化物の増大を防止することに役立つ代替エネルギー源を拡大する必要がある。
今後数十年において原子力発電能力が拡大しなければ,経済成長及び高水準の雇用の達成は困難となろう。これは国民の安全を保障する条件の下に行われなければならない。われわれはこの目的のために協力する。この点に関して、国際原子力機関(IAEA) は中心的役割を果しうる。
われわれは,核燃料の安定供給と核拡散の危険性の極小化に関するボン・サミットにおいて達せられた了解を再確認する。」・・・と。(※2の第5回主要国首脳会議における宣言【経済宣言】を参照)。
この件に関して、私も以前より関心のあったことが、以下参考の※13:「知らないのは日本人だけ? 世界の原発保有国の語られざる本音」に書かれていたので、その要約を以下まとめてみよう。
「2011年5月時点で31カ国が原発を所有していたという。
原発による発電量が最も多い国は米国、フランス、日本、ロシア、韓国、ドイツ、カナダの順であり、この時点で日本は世界で3位となっている。その他を見ると、意外にも旧共産圏に多い。
旧共産圏以外では、トップが中国で1780万トン、これは日本の6730万トンの26,4%である。環境問題に関心が深いとされるスウェーデンが意外にも1670万トンと原発大国になっている反面イギリスが1370万トンと少ない。以外にもG7の一員であるイタリアには原発がない。イタリアはチェルノブイリ原発事故の後に国民投票を行い、原発を廃止したからである。
また、ドイツも緑の党などが強く反対するために、福島原発の事故を受けて、原発の保有が大きな岐路に立たされている。
ある国が原発を所有する理由を明確に知ることは難しいが、原発を持っている国名を列記してみると、その理由がおぼろげながら見えてくるが、原発は国家の安全保障政策に関係しているようだという。
つまり、原子力による発電は原子力の平和利用であるが、ウランを燃焼させることにより生じるプルトニウム原子爆弾の原料になる。
また、原発を製造しそれを維持する技術は、原爆を製造する技術につながる。原発を持っている国は、何かの際に短時間で原爆を作ることができる。
北朝鮮が原爆の所有にこだわり、それを手にした結果、米国に対して強い立場で交渉できる。この事実は広く知られている。そのために、イランも原爆を欲しがっている。
日本における原発に関する議論にはこの点が取り上げられないことに疑問を感じられる。福島の事故を受けて、今後のエネルギー政策を考える際には、ぜひ、タブーを取り除いて議論すべきであろう。」・・・と。
確かにその面はあるだろう。しかし、ここで述べている環境問題に関心が深いとされるイギリスなどもその後、市場原理重視から原子力推進に転換し、推進の立場を変えてはいないようだが、各国同様の傾向にあるようだ(※14参照)。
日本は、東日本大震災に伴う原発事故によって、電力不足の問題が起こっている。そのため、原発に代わる太陽光や風力などの再生可能な代替エネルギーへの関心が高まっているが、今、アメリカは、次世代エネルギーとして頁岩(シェール)層から採取される天然ガスシェールガスの生産が進み、雇用も生んでいることから、「シェールガス革命」という言葉も飛び交っている(※15参照)。
中東・中南米・中国のほか、これまでロシア(ガスプロム)にLNGを依存してきた欧州でも、大量の埋蔵が確認されており、シェールガスは世界の資源地図を塗り替えるという声もある。
日本でもメタンハイドレートからガスを取り出すことに成功しており、2008年現在、日本近海は世界有数のメタンハイドレート埋蔵量を持つとされており、シェールガス革命がアメリカを再生させたように、メタンハイドレートが衰え気味の日本を再び繁栄させるかもしれない(※16参照)。 
一昨日・6月26日の株主総会では原発を持つ9電力会社が原発再稼働を急ぐ姿勢を鮮明にしている。安倍政権が成長戦略で「原発の活用」を打ち出したのを背景に、原発を再び経営の柱に据えようとしているのである。原発への不安を抱えながら「原発依存」をしようとする経営体質の危うさ・・・。
新エネルギーの実用化までには相当な年数を要するだろうが、何時になったら方向転換できるのだろう・・・。

出来事(6)
1979年2月、ベトナム戦争(1965年 - 1975年)が終わり、平和が訪れたかに見えたインドシナに再び戦火が上がった。大量虐殺で知られるカンボジアポル・ポト政権は1979年の正月早々に、ベトナムの侵攻で打倒され、ポル・ポト体制はベトナム軍の手で解体された。
だが、国連は1979年2月、米中両国の主導でベトナムに侵略者の烙印を押し、全面的な対越制裁を決議、カンボジアを支援していた中国は、2月17日 、ベトナム北部へ軍事侵攻し、国境の都市をあらかた破壊した(中越戦争の勃発)。 
折しも、前年ぐらいから華人を中心に急増していたインドシナ難民(海上難民は、ボートピープルと呼ばれる。)がこの戦争を機にピークに達し国際的な問題となっていた(※3も参照)。

社会主義化に伴う資産制限・国有化、また中越戦争による民族的緊張により、1978年前後をピークに大量の華人が移民もしくはボートピープルとしてベトナムから国外に流出した。
こうした大量のベトナム系中国人が国外に脱出した背景には、中越関係悪化の中、ベトナムの経済や流通の中枢を華僑がおさえていたことに対して新政府が危機感をつのらせ、組織的にこれを追放したことがあるからだという。
インドシナ難民問題に関しては、東京サミットで特別声明が出され、 ドイモイ以後、ベトナムに帰還する華人も増え、華人人口は復調傾向にあるようだ。
しかし、万一、核兵器を持ち独裁体制を敷いている北朝鮮が崩壊し、大勢の難民が溢れたとき、日本はじめ周辺国の難民受け入れ体制は十分に、出来ているのであろうか?余り、現実的ではない話であるとは思うが、その危険性をはらんでいる国であることには違いない。

出来事(7)
1979年3月28日、アメリカペンシルベニア州のスリーマイル島(TMI)原子力発電所事故で想定された事故の規模を上回る原子力事故が発生。

●上掲の画像は、スリーマイル島原子力発電所。中央手前の二つのドームが原子炉建屋で、その左隣の白い建物が制御室を含むタービン建屋である。奥に見える二基の塔状構造物は放熱塔(Wikipediaより)
原子炉から1次冷却水が失われ、水面上に露出した炉心が過熱して溶融(炉心溶融)したきわめて深刻な放射能漏れ事故であった(事故の種類としては原子炉冷却材喪失事故 (Loss Of Coolant Accident, LOCA) に分類)。
これは、想定された事故の規模を上回る過酷事故 (Severe Accident) であり、国際原子力事象評価尺度 (INES) におけるレベル5の事例である。
以下参考に記載の※17:「チェルノブイリ・スリーマイル・福島の比較」をみると、
スリーマイル (TMI)は、作業員が非常用冷却系統を誤操作により停止してしまったのが原因(計画自体に不備・実験等の違反)。チェルノブイリの場合は違反した動作試験が行われていた為予期しない運転出力の急上昇により蒸気爆発を起こしたのが原因(人為的な操作ミス【機器の欠陥が事故の発端】)と言われているのに対し、福島原発は想像を超す自然災害(東日本大震災)が原因であったとしている。
しかし、実際には、出来事(3)で書いたように、過去数多くの事故の隠蔽が行われていたようであり中には人為的な操作ミスも含まれている。
つまり、この事故は、原発に対するそれまでの「安全神話」を覆し、アメリカ国内に反原発の機運が高まるきっかけになったばかりでなく、多重安全(日本の場合は多重防護と呼ぶ)設計を施した巨大システムが、ちょっとしたヒューマン・エラーから呆気なく崩壊していくことを示す格好の事例であった(※18参照)。
TMI原発の1つの特徴は、原子炉から4kmの地点にハリスバーグ国際空港があり、飛行機が原子炉に墜落する確率が1年に 10-6を越える点であり、アメリカの基準では、10-6/年以上の確率(「原子炉一基,一年あたり百万分の一回程度の確率」※18参照)を持つ危険性に対しては安全対策を講じることが必要だとされているので、TMI原発は、大型旅客機が墜落しても大丈夫なように、きわめて強固なコンクリート製の原子炉格納容器を有しており、この格納容器が、事故の規模を小さくする上で多少の効果があったとされている。
それに対して、地震大国日本の格納容器はどうなっている・・・?いずれにしても怖い話だ。 

さて最後に、出来事(4)の1979年1月の、アメリカと中国の国交を樹立の件である。
第二次世界大戦後の世界を二分した、アメリカ合衆国を盟主とする資本主義・自由主義陣営と、ソビエト連邦を盟主とする共産主義・社会主義陣営との対立構造である冷戦は、周辺のアジアにも強い影響を与えたが1950年代初頭には、アメリカは共産主義の封じ込みを図っていた。
この1950年代のアメリカの総生産は世界の約4割、金と外貨の保有は約5割に上り、名実共に世界の盟主となっていた。このようなアメリカを中心とするアジア・太平洋の同盟は、戦禍を蒙らずに一人勝ちできたアメリカ経済によって支えられていたといえる。
1953年、スターリンが死去し、冷戦状態が緩和する兆しが見え始めた。同年に朝鮮戦争の休戦が合意され、1955年にはNATOに対抗するワルシャワ条約機構が結成、オーストリアは永世中立が宣言されて東西の緩衝帯となり、連合国軍が撤退した。
またジュネーヴで米ソ英仏の首脳が会談し、ソ連と西ドイツが国交樹立、ソ連は翌1956年に日本とも国交を回復(日ソ共同宣言参照)し、1959年にはフルシチョフがアメリカを訪問するなど、冷戦の「雪どけ」ムードを演出した。
この時期、東側陣営ではソ連の覇権が揺らぎつつあった。フルシチョフは、1956年の第20回ソ連共産党大会でスターリン批判を行ったが、この演説の反響は大きく、ソ連の衛星諸国に大きな衝撃をもたらし、東欧各地で反ソ暴動が起きた。一方、中華人民共和国はスターリン批判に反発した。
1960年代にはキューバ危機部分的核実験禁止条約でしばしば対立、ダマンスキー島事件などの国境紛争を起こすに至った。
1958年から1962年は、危機の時代であり、米ソは互いを常に「仮想敵国」と想定し、仮想敵国と戦争になった場合の勝利を保障しようと、両国共に勢力の拡大を競い合い、軍備拡張が続いた。
この象徴的な存在が、核兵器開発と宇宙開発競争であった。しかし、ソ連とアメリカの直接衝突は、皮肉にも核の脅威による牽制で発生しなかった。
その一方、第三世界の諸国では、各陣営の支援の元で実際の戦火が上がった。これは、二つの大国の熱い戦争を肩代わりする「、代理戦争」と呼ばれた。
キューバ危機によって核戦争寸前の状況を経験した米ソ両国は、核戦争を回避するという点において共通利益を見出した。この結果、米英ソ3国間で部分的核実験禁止条約ホットライン協定などが締結された。
しかし、部分的核実験禁止条約には核開発で後れを取っていた中国・フランスが反対し、十数カ国は調印しなかった。
東西共に一枚岩でないことが明白となった。また、地下での核実験は除外されていたため、大国の核開発を抑止する効果は限定的だった。
フランスは1960年2月にサハラ砂漠で最初の核実験を行い、この条約の後の1966年にNATO(北大西洋条約機構)の軍事機構を脱退し、アメリカ・イギリスなどと一定の距離を置く独自の路線を歩むことになった。
また、共産圏の中国も当時、中ソ対立でソ連との対立が深まりつつあり、独自の核開発路線へと向かい、1964年10月に中国初の原爆実験を行った。
この時期、米ソ両国の軍拡競争が進行し、ベトナム戦争を契機とする反戦運動、黒人の公民権運動とそれに対抗する人種差別主義者の対立などによってアメリカ国内は混乱、マーティン・ルーサー・キング牧師やロバート・ケネディなどの要人の暗殺が横行して社会不安に陥った。
第二次世界大戦終結時はアメリカ以外の主要な交戦国は戦災で著しく疲弊していたので、世界の経済規模に対するアメリカの経済規模の比率は突出して大きかったが、戦災から復興した日本や西ドイツが未曾有の経済成長を遂げ、西欧が経済的に復活する中で、世界の経済規模に対するアメリカ合衆国の経済規模の比率は相対的に減少した。
チェコスロバキアはプラハの春と呼ばれる民主化、改革路線を取ったが、ソ連は制限主権論に基づきワルシャワ条約機構軍による軍事介入を行い武力でこれを弾圧した。
アルバニアはスターリン批判以来、中華人民共和国寄りの姿勢を貫いてワルシャワ条約機構を離れ、中華人民共和国はアメリカに近づいてソ連と決別、北朝鮮は主体思想を掲げてソ連から離反するなど、1963年~1968年には冷戦の変容が見られた。
1960年代末からは緊張緩和、いわゆるデタントの時代に突入した。米ソ間で戦略兵器制限交渉 (SALT) を開始、1972年の協定で核兵器の量的削減が行われ、緊張緩和を世界が感じることができた。
このころ、日本では、佐藤栄作内閣が「沖縄返還」を錦の御旗に自衛隊を増強し、非核三原則の拡大解釈や日本国内へのアメリカ軍の各種核兵器の一時的な国内への持ち込みに関する秘密協定など、冷戦下で東側諸国との対峙を続けるアメリカの要求を尊重した政策を遂行し、アジアにおけるアメリカの肩代わりと中国敵視政策でせっせとアメリカの点数稼ぎに懸命であった。
一方、アメリカは、ソ連を牽制すると同時に、密かに水面下で中国との接近を進めていたのである。
1968年アメリカ大統領に当選したニクソン大統領は、大統領補佐官に任命したキッシンジャーと図って、新たな世界戦略をうち建ててベトナム戦争の泥沼から抜け出す道を求めていた。
そして、1972年2月にニクソン大統領が北京を訪問し毛沢東主席と会談した。これは1949年に共産政府が成立して以降、アメリカ大統領の中華人民共和国訪問はこれが最初であった。
アメリカはそれまで蒋介石率いる中華民国を中国大陸を統治する正統な政府として、中国共産党政府を承認していなかったが、この訪問で米中共同宣言を発表し、中国共産党政府を事実上承認し、東アジアにおける冷戦の対立軸であった米中関係が改善するが、国際社会の反応は様々だった。
ソ連は米中和解に深い懸念を示し、新しい世界秩序は米ソデタントに大きく貢献した。また、1973年に北ベトナムとアメリカは和平協定に調印し、アメリカ軍はベトナムから撤退したが、アメリカは建国以来初の敗北を味わうことになった。
その後、ジミー・カーター政権時代の1979年1月にアメリカと中華人民共和国の間で国交が樹立された。
しかし、この米中共同宣言に先立つ1971年7月にニクソン大統領が中華人民共和国訪問を表明した際には、余りにも電撃的な発表であったため世界中があっと驚かされた。
欧州の同盟国の多くとカナダは既に中国を承認していたため歓迎の意向を示した。しかし、アジアの反応はもっと複雑だった。特に日本は発表の内容を直前まで知らされておらず、米国が日本よりも中国を重視することを怖れて非常に強い不快感を示し、日本の政界は対中政策を巡って大混乱に陥る第一次ニクソン・ショックに見舞われた。
ただ日中国交樹立の客観的条件が熟してきたその時に、日中友好を主張する田中角栄内閣が佐藤内閣の総辞職後登場したことは幸いであった。
キッシンジャーが東アジア新秩序構想において日本抜きで事を運ぼうとしていることを察知した日本政府及び田中角栄は、でき得る限り早く日中国交正常化を果たすことを決断。そしてニクソン訪中宣言からわずか1年2ヶ月という異例の早さで田中首相は大平正芳外相とともに北京を訪れ周恩来首相ら中国側と会談し1972年9月29日、日中共同声明(「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」)に持ち込んだ。そして、日中共同声明に基づき、日本はそれまで国交のあった中華民国には断交を通告したのだが・・・。。
ただ、スムーズにいくかと思われたこの会談での交渉は難航したようだ。それは、中国側が共同声明第7項の「反覇権条項」を条約草案に盛り込むことを主張したが、日本側はこれに異議を唱え、以後、「反覇権条項」の取扱いが双方の交渉の対立点となったという(以下参考の※19:「中国と日本」を参照)。
日本は共同声明の第7項では覇権主義反対を書くことに同意しておきながら、なぜ平和友好条約では反覇権条項を入れることに躊躇するのか。それはソ連が日本に圧力をかけ、牽制していることと関係していた。中ソ対立が激しい当時、ソ連は日本が中国と友好関係になるのを恐れた。ソ連は日中両国が反覇権を明記した条約を締結するならば、これに対応する措置として、ソ連は「対日政策を見直すことになろう」と述べたり、海軍を日本近海に出動させて武力威嚇を行ったりしてきた。日本は「日本が中ソ対立に巻き込まれれば、アジアの不安定化と緊張をもたらす」と考え、条約交渉を中断させた。・・・のだという。
福田赳夫政権の下で正式に「日中平和友好条約」が調印されたのは6 年後の1978年8月のことであった。これは、1979年1月にアメリカと中国の間で国交が樹立されるより1年以上も前のことであった。
しかし、今日ある尖閣諸島にかかわる領有権問題は、「日中共同声明」、「平和友好条約」ではっきりさせてこなかったことのつけであり、 また、当時より力を付け世界第2の経済大国であり、また軍事大国となった中国の漁船などが領海侵犯を繰り返してくるのは、「反覇権条項」を「平和友好条約」の中へ入れてこなかったことも大きな要因であるようだ。
そして、今ではアメリカにとって経済力の落ちてきた日本よりも中国の重要性の方が増してきており、尖閣諸島についてアメリカは関知しない、「日中両国の二国間で解決すべき問題」との態度を取り始めた。これから日本はどうするつもりであろう。
この様に、第4回~第5回サミットの期間に発生していた問題などは、その当時から34年経過した現在の日本にとっても、未解決の重要課題が多く関連している事と思いませんか・・・。

(冒頭の画像は1979年6月28日、東京サミットで赤坂の迎賓館の庭を散歩する各国首脳。向かって左から4人目大平首相その隣ジミー・カーター米国大統領。向かって右から2人目マーガレット・サッチャーイギリス首相。Gazouha ,『朝日クロニクル週刊20世紀』1980年号より借用。)


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2013-06-28 | 歴史
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参考:
※1:外務省HPG7 / G8
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/g7g8.html
※2:主要国首脳会議(サミット)関連文書 - 東京大学東洋文化研究所
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/indices/summit/
※3(元※6):論説委員・石川水穂 領土保全を怠ってきた政府 (1/3ページ)”. MSN産経ニュース (産経新聞). (2012年4月28日)
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120428/plc12042803250004-n1.htm
※4:特記すべき記者会見 | 日本記者クラブ
http://www.jnpc.or.jp/activities/interview/specialreport/
※5:為替相場はそのとき動いた|金融知識ガイド-iFinance
http://www.ifinance.ne.jp/learn/currency/crt_8.html
※6:株価下落はアベノミクスの限界を示しているのか?今度は安倍首相が「異次元の成長戦略」で汗をかく番
http://diamond.jp/articles/-/36869
※7:焦点:バーナンキショック受けた金融市場、さらなる乱気流に身構え ...
http://www.newsweekjapan.jp/headlines/business/2013/06/103645.php
※8:インフレターゲット論への疑問
http://www.hirobanet.com/washizu/shiron/infure.htm
※9:~東京電力、不祥事と隠蔽の歴史~ 『日本初の臨界事故は、福島第一原発3号機だった!』
http://blog.goo.ne.jp/jpnx02/e/1340ec8c47237a9b6720187e95507fde
※10:「やつらが隠してきたもの」河野太郎公式サイト
http://www.taro.org/2011/09/post-1091.php
※11:福島第1原発事故=戦後最大の危機の真実。「最悪のシナリオ」から危機の全体像に迫った
http://diamond.jp/articles/-/33087
※12:1978年10月 第ニ次石油危機 : 資源ライブラリ
http://www.jogmec.go.jp/library/stockpiling_oil_023.html
※13:知らないのは日本人だけ? 世界の原発保有国の語られざる本音
http://www.asyura2.com/11/genpatu10/msg/740.html
※14:「諸外国における原子力政策の変遷」(豊田委員提出 ... - 資源エネルギー庁(Adobe PDF)
http://www.enecho.meti.go.jp/info/committee/kihonmondai/23th/23-9.pdf#search='%E8%AB%B8%E5%A4%96%E5%9B%BD%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E6%94%BF%E7%AD%96%E3%81%AE%E5%A4%89%E9%81%B7'
※15:天然ガスの時代:「次世代エネルギーは終わった」とアメリカは言う - Wired
http://wired.jp/2013/01/04/in_gas_we_will_trust/
※16:電力供給サービス:日本海でもメタンハイドレートの調査開始、海底の浅い 部分にある「表層型」
http://www.itmedia.co.jp/smartjapan/articles/1306/11/news017.html
TMI原発事故
http://www005.upp.so-net.ne.jp/yoshida_n/L5_02.htm
※17:チェルノブイリ・スリーマイル・福島の比較 - NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2130103357558355101
※18:消防防災博物館:調べる-6. リスクの許容とコミュニケーション
http://www.bousaihaku.com/cgi-bin/hp/index2.cgi?ac1=B414&ac2=B41401&ac3=2226&Page=hpd2_view
※19:中国と日本
http://taweb.aichi-u.ac.jp/leesemi/ronsyu3/kyogaku.htm
福島第一原発事故と 4 つの事故調査委員会 - 国立国会図書館デジタル ...(Adobe PDF)
http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_3526040_po_0756.pdf?contentNo=1
海外移住の地図帳>原発の世界分布
http://emigration-atlas.net/nuclear-power-plants/nuclear-plants.html
リスク感覚論
http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/8449/risk_sense_1.htm#
http://www.ne.jp/asahi/nd4m-asi/jiwen/thoughts/2012/501.html


日本で初めて先進国首脳会議(東京サミット)が開催された日 本文へ戻る

夏の最中日北上の極:夏至

2013-06-21 | 行事
今日は、二十四節気の第10。夏至(げし)。芒種から数えて15日目頃、および小暑までの期間。
「夏の最中日北上の極」。『暦便覧』(※1)には「陽熱至極しまた、日の長きのいたりなるを以て也」と記されている。
五月中(旧暦5月内)二至二分(皐月:さつき。二至二分については、二十四節気を参照)。
現在広まっている定気法では太陽視黄経が90度のときで6月21日ごろ。
ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とし、2013(平成25)年 の今年の場合は、今日・6月21日14:04がそれにあたる(※2)。また、日のほうは夏至日(げしび)と呼ぶ。
北半球の日本などでは、天文学的な夏至とは別に「一年中で一番昼が長く、夜が短い日」のことを、慣習的に夏至と呼ぶが、これは、太陽が最も北に寄り、北回帰線(夏至線)の真上にまで来るために起こる現象である(南半球では夏・冬逆)。
英語などヨーロッパの言語の多くでは、北回帰線のことを「かに座の回帰線」(Tropic of Cancer)と呼ばれる。これは、現行の星座の多くが設定された古代バビロニアの時代、かに座の領域に夏至点があったためである。因みに、南回帰線(南緯23度26分)のことは「やぎ座の回帰線」[Tropic of Capricorn] と呼ぶ。)
要するに、両緯度数は地軸の傾きを意味する。ただし地軸の傾きは常に変化し続けているので時々で回帰線の位置も微妙に変わる。両回帰線より赤道側が熱帯地方となる。
1年で日の出(日出)の時刻が最も早い日および日の入り(日没)の時刻が最も遅い日それぞれと、夏至の日は一致しない。日本では、日の出が最も早い日は夏至の1週間前ごろであり、日の入りが最も遅い日は夏至の1週間後ごろである。
夏至は、期間としての意味もあり、この日から、次の節気の小暑前日までである。暑さのピーク大暑は1カ月ほど先になる。
冬至と比較すると、昼間の時間差は4時間以上もある。ただ、暦の上では夏季の真ん中にあたるが、実際には梅雨の真っ只中なので、日照時間はむしろ冬よりも短いことが多く、日の長さはあまり実感されないことが多いのだが、今年に関しては気象庁が平年より10日も早い5月28日ごろに梅雨明け宣言(近畿地方。※3参照)。
そして、「今年の梅雨は「長め」で、降雨量は多め」としていたのだが、肝心の雨は梅雨入り以降全く降らず、まるで真夏日のカンカン照り、せっかくの台風3号が前線も連れてきて本格的に梅雨になるかもと期待したのだがそれも期待はずれ。
また、6月15日やっと雨らしい雨が降ったが、その翌日には真夏日同様の天候に戻ってしまい、梅雨入り宣言は全くのはずれ。やっと6月19日には待望の雨が降ったが、地域によっては豪雨となり被害の出ているところもある。
近年の異常気象・・・人間がまいた種によるものだろうが困ったものだ。兎に角、例年とは全然違った感じの夏至となった。

「さみだれに なえひきうふる たごよりも ひとをこひぢに われぞぬれみる」( 読人不知)。
【現代語訳】五月雨に濡れて泥にまみれながら苗を植える農夫の苦労なことであるが、それよりもなお私は、泥(こひぢ)ならぬ恋路(こひぢ)にさまよって、五月雨ならぬ涙にぬれていることだ。
【語訳】五月雨:陰暦五月(新暦:5月下旬から7月上旬)ごろに降る長雨。梅雨。 なへひきふる:稲の苗を苗代から引き抜いて水田に植える。 たご:田子。農夫のこと。こひぢ:泥のこと。ここでは「恋路」を掛けてある。「こひぢ」「ぬれ」は「たご」の縁語。
【所載】『夫木抄』(『夫木和歌抄』)巻七:夏一 02579(参考の☆和歌についてを参照)

田植えの時期は各地でまちまちだろうが、少なくとも夏至の間は、今でも稲作作業の繁忙期であることには違いない(※4).。

「白衣著て禰宜(ねぎ)にもなるや夏至の杣(そま) 」( 飯田蛇笏 、いいだだこつ)

禰宜」とは、神社に奉職する神職の職階(職名・職称)の一つである。宮司・権宮司の下の位ぐらいらしい。
禰宜の語源は「和ませる」の意味の古語「ねぐ」であり、神の心を和ませてその加護を願うという意味だそうである。古代には、神に祈請(きせい)を行う者、祭祀に専従する者を指していた。
」(そま)とは、古代・中世の日本では国家・権門が所有した山林のこと。転じて杣から伐り出された杉や桧など木のこと。また、杣において働いている人のこと。杣工(そまたくみ/そまく).。俗にいえばきこり(樵、木樵)のことをいうようになった。
飯田蛇笏(本名、飯田武治、1885【明治18】年- 1962【昭和37】年10月3日)は、山梨県東八代郡五成村(のち境川村、現:笛吹市)の大地主で旧家出身の俳人であり、山梨の山間で創作した作品が大半である. 参考※5:「俳句案内」の飯田蛇笏の句を参照)。
いままで木を伐っていた木こりが、 真白な衣服をまとって神主の代役を務め、雨を願っている様子が滑稽でもあり悲壮でもある。ここへきてやっと雨が降ったとはいえ、今年は、農家の人も水不足で困っていたことだろう。
梅雨期は大雨による災害の発生しやすい時期であり。また、梅雨明け後の盛夏期に必要な農業用の水等を蓄える重要な時期でもある。一方、梅雨期は曇りや雨の日が多くなって、日々の生活等にも様々な影響を与えることから、社会的にも関心の高い事柄である」・・・として、気象庁では、毎年「梅雨入り」「梅雨明け」の発表しているのだが、今の科学技術をもってしても、梅雨入り、梅雨明けを正確に予知するのは難しいことのようだ。「後日、春から夏にかけての実際の天候経過を考慮した検討を行い、その結果、この情報で発表した期日が変更となる場合があります。(確定値は「昭和26年(1951年)以降の梅雨入りと梅雨明け(確定値)」を参照してください)と、予報発表時に正しい時期は後に修正して発表しますと、予防線を張っているのだから、・・・。
一応、暦の上では、夏至とは、この日を過ぎると本格的な夏が始まることを意味している。
冬至には、かぼちゃを食べる風習があるが、夏至は地方によって様々で、関西では夏至から半夏(半夏生の略)までにタコを食べる習慣があることは前にこのブログ「半夏生/蛸の日」でも書いたことがある。
このころは農家にとっては大事な節目の日でもあり、半夏生に入る時期は、田植えに最も適した時期だといわれ、「チュウ(夏至)ははずせ、ハンゲ(半夏生)は待つな」ということわざがある程で、田植えは夏至が済み、半夏生に入る前にやることが好ましいとされていた。
ちょうどこの時期は梅雨も終り、田植仕事も一段落、農家にとって一息いれたい時期であるが、この日雨が降ると、必ず大雨になるとも言い伝えられ、この季節に降る豪雨のことを半夏雨(はんげあめ)と呼び恐れられていた。
半夏生の前に無事田植えを終えた農家では、この日の天候で稲作の豊凶を占ったり、田の神を祭ったりする。関西地方では、田に植えた稲の苗が蛸の足のように大地にしっかりと豊作になるようにとの願いから、たこを食べる習慣があって、甘露煮、柔らか煮、酢だこ、天ぷらなどが作られる。
讃岐では饂飩(うどん)を、福井県では大野市などで焼き鯖(半夏生鯖)を食べる習慣があるようだ。また、奈良では小麦餅(半夏生餅)、 関東地方では新小麦で焼餅をつくり神に供える風習があるなど、地域によってさまざまである。
沖縄では、この頃に吹く季節風を「夏至南風」といい,梅雨明けを知らせる風として知られているが、今年、沖縄気象台は、6月14日午前11時、「沖縄地方は梅雨明けしたとみられる」と発表した。これは平年より9日、去年と比べても9日早くなっているそうだ(※6参照)。
余談だが、福島原子力発電所事故の影響もあり、今年の夏も電力不足が心配される。わが地元、兵庫県では、今年は、今日・6月21日(金曜日)[夏至]から9月30日(月曜日)の間、始業時刻を45分早め、昼休みを30分後ろにシフトするサマータイムを実施することになった。
そのほか、職員の省エネ行動をはじめとした節電対策により、兵庫県として、平成22年度比で15%以上の節電目標の達成を目指している(※7参照)。我が家も、すでに、6月に入ってからは、就寝時間並びに起床時間をそれぞれ30分繰り上げている。

記紀によれば、天照大神は、太陽を神格化した神であり皇室の祖神(皇祖神)の一柱で、日本民族の総氏神でもあるとされており、その信仰の対象、土地の祭神とされる場所としては伊勢神宮が特に有名である。
三重県伊勢市二見浦には、夏至の時期だけ夫婦岩の間から朝日が昇る。これは夏至の日の前後2ヶ月しか見られない特別な光景だそうであり、この海中には興玉神石(沖の石)があり、昔からその沖の石は、常世の国から神が寄りつく聖なるところといわれてきた。
二見町江にある二見興玉神社 は夫婦岩より720m程沖合にあって、夫婦岩は日の大神(天照大神)と興玉神石を拝むための岩門(鳥居)の役目を果たしており35mの大注連縄が張られている。
そして、二見興玉神社の夏至祭では、夏至の日の出とともに夫婦岩の前で禊が行われている。古来より二見浦一帯は禊浜と尊ばれ、伊勢参宮を間近に控えた人々がその浜辺で汐水を浴び、心身を清め、罪穢れを祓うべく、禊祓をした場所であった。
また人々は夫婦岩から差し昇る「日の大神」を拝してきた。特に夏至の日の出は夫婦岩の中央、そして富士の背より輝き昇る朝日は絶景である。夫婦岩の間から見える富士山の遠望風景は、倭姫命があまりの美しさに二度も振り返って見たと言う事で付いた地名が「二見」だと言われている。以下で、夏至際の様子、また、夫婦岩の間からの素晴らしい富士山の遠望が見られる。

二見興玉神社 夏至祭wmv-YouTube
夫婦岩と富士山(二見興玉神社).wmv-YouTube

日照時間の短い北欧などは、昼間の最も長い夏至は、とても大切な日であり、フィンランドをはじめ、さまざまな国で夏至祭が催されている。スウェーデンでは、夏至に最も近い土曜日とその前日の2日間が祝日(移動祝祭日)となり、国中で祝うそうだ(ヨーロッパの夏至祭参照)。
ヨーロッパの夏至祭は、町や村の広場に横たえられた柱に、樹木の葉や花の飾りがつけられ、若者たちが中心になって柱を立てる。この祭は、ドイツやイギリスで行われる五月祭(ヨーロッパの五月祭参照)の柱(メイポール)と類似しているが、北欧では5月初旬には花が乏しいため、夏至の時期に祭を行うようになったという。
ヨーロッパの五月祭は、古代ローマの祭に由来するものであり、5月1日に、豊穣の女神マイア(Maia)を祭り供物が捧げられた。ローマ神話では、マイア(豊穣を司る大地の女神、アトラスの娘で火の神ウルカヌス(ヴァルカン(【Vulcnus】)の妻)は若さ・生命・再生・愛・繁殖などをつかさどる女神で、元々はローマ帝国以前の古代イタリアの春の女神(植物を成長させ開花させる暖かさをもたらす)だったようで、夏の豊穣を予祝する祭りと考えられている。
5月1日には供物が捧げられ、May(5月)はマイア(Maia。古インド・ヨーロッパ語のMagya【偉大なる彼女】)に因んで名づけられたものという。
マイアと火の神ウルカヌス(Vulcan) - 画像

わが国での導入は古くから試みられたが、「夏至」という言葉が入って来たのは、中世になって中国から二十四節気が入ってきてからであり、その後、各地で太陽の生命力を得るために夏至の日を祝うお祭りが開催されるようになった。
国家の体制を整えるために、中国から暦法祭祀を入れて律令を作ったが、制度に暦法が組み入れられたのは持統天皇(645年 - 703年)の御世であり、以来宮中の正式な祭祀になっているが、そのため、わが国の節句を含む年中行事に中国の影響が強く残っているのは当然であろう。
大麻暦(神宮暦)というのは伊勢神宮が発行している暦だが、これを見ると神宮の祭祀スケジュールのほかに、農作業の時期と段取りが細かく指示されているようだ。
暦は季節の運行を告げるものだから、農耕社会にあっては必然的に農業暦の役目を果たしていたわけで、稲作の社会に、神道と中国の祭祀を携(たずさ)えて立っていた大和朝廷の性格を垣間見ることができる。
日本では現在使われているような暦がまだなかったころ、稲作の作業の進行を基準にして、一年を、田の神を迎えて種まきをする春と、米を収穫して田の神送りを行う秋との、大きく二つの期間に分けて考えていた。
そのため、六カ月を周期として、正月と七月、二月と八月、三月と九月、四月と十月、五月と十一月、六月と十二月に、同じような行事を、それぞれ年に二度繰り返して行っていた。なかでも六月は、前の半年の折り目として重視する風潮があり、持別の意味をもった月と見られていた。

この時期はハナショウブ(花菖蒲)やアジサイ(紫陽花)など雨の似合う花が咲く季節でもある。
夏至を含む旧暦5月を皐月(さつき)と呼ぶが、「さつき」は、この月が田植をする月であることから「早苗月(さなへつき)」と言っていたのが短くなったものだそうである。また、「サ」という言葉自体に田植の意味があるので、「さつき」だけで「田植の月」になるとする説もあるようだ。
「さつきは五月の和名なり日本書紀、〈神武紀〉萬葉集〈夏雜歌〉等にみえたり」と、古今要覽稿 時令(※9:「古事類苑データーベース」の歳時部一>歳時總載上>月第 1 巻 19 頁参照)にあるが、皐月と書くようになったのは後のこと。また花の名「皐月」にもなっているが、この月には「菖蒲月(あやめづき)」の別名もある。
農家にとって、昔から田植えは1年中で最も大切な仕事である。その為、田の神を迎えるに際して、女は巫女となり、軒に菖蒲を挿し、菖蒲湯を湧かして身を清め、お籠もりをしたのが5月5日だったのである。

「ほととぎす こゑきゝしより あやめぐさ かざすさ月と しりにしものを」( 作者:紀 貫之
【現代語訳】時鳥の声を聞いた時から、菖蒲草をかざす五月になったと知っていたのだが・・・。
【語釈】あやめぐさかざすさ月:五月五日の節句には菖蒲鬘を付ける風習があった。
延喜式・太政官関係の式に「是ノ日内外ノ群臣皆菖蒲ヲ著ス」とある。「ほととぎす」と「あやめ草」は「卯の花(ウツギ)」「花橘(タチバナの花)」とともに万葉集以来の常套的な取り合わせであった。
【所載】新勅撰集・夏・一五三、/貫之集一・二二八(参考:☆和歌について参照).

「あやめぐさ ねながきいのち つげばこそ けふとしなれば 人のひくらめ(詠み人不明)
【現代語訳】あやめ草は根が長く、長い命を持ち続けるからこそ、五月五日という今日になると、人が抜き取るのであろう。
『語釈】ねながきいのち:根の「長き」ことに「長き命」を懸けている。つげばこそ:引き続き保持しているからこそ。けふとしなれば:今日と言うこの日になれば。「し」は強意助詞。人のひくらめ :人があやめの根を引くのであろう。「引く」は、この場合引いて抜き取ること。【所載】あやめぐさ 貫之集一・一三一.(参考:☆和歌について参照)
ここで「あやめぐさ」と言っているものは、現在のサトイモ科のショウブ(和名:菖蒲/別名[漢名]:白菖[ハクショウ])のことで、今のアヤメ科のアヤメハナショウブとは異なる。湿地に群生し、初夏に黄色い小さな花をつける。
万葉の時代から、端午の節供には、邪気を払うためにこの草やヨモギ(蓬)の葉などを編んで、薬玉(くすだま)をこしらえ、これに5色の糸をつらぬき、またこれに、ショウブやヨモギなどの花をさしそえて飾りともした。
このことは前にこのブログ「薬の日」でも書いたが、『荊楚歳時記』に見られるように、古代中国では、五月は物忌みの月とされていたので、邪気を払ういろいろな行事が行われていた(「薬の日」を参照)。
実際に、旧暦の五月は新暦では6月から7月に当たり、蒸し暑くて虫などに刺されて病気になり易かった。そこで高い薬効と強い香りを持つヨモギが魔除けや虫除けに使われ端午行事に欠かせないものとなった。

「みな月の なごしのはらへ するひとは ちとせのいのち のぶといふなり」(詠み人不明)
【現代語訳】六月の夏越の祓をする人は、千歳までも寿命が延びるということです。
【所載】拾遺集・賀・二九二, (参考:☆和歌について参照).

特に重視された旧暦の六月であるが、古来、宮中では、年末と6月の末日に大祓(おおはらえ)が行われていた。年末は年越しの祓、6月は夏越の祓・名越の祓(なごしのはらい)、などと呼ばれ、災厄や穢(けがれ)を祓い清めた。夏越の祓では多くの神社で「の輪潜り(ちのわくぐり)」が行われる。
また、古く宮中では六月一日には「氷の朔日(こおりのついたち)」ともいって夏の始まりであるこの日に氷室に貯蔵しておいた氷を取ってきて、臣下に分け与えて、夏の疫病除けとしていた。これを「氷室の節供」「氷の節会(せちえ)」ともいわれたようだ。
民間でも、この日を〈氷の朔日〉といい、正月に家の軒先に吊るして凍らせ乾燥させて保存しておいた餅を焼いて食べる習慣が、かっては関西を中心に多くみられたようだ。
そして、これを「歯固め」と呼んで、堅い餅を食べることによって歯を丈夫にするのを願う風習もある。「歯固め」は、正月初めに堅いものを食べて歯を丈夫にし、長寿を願うことで、歯固めのは元来〈齢(よわい)〉のことで、齢を固めて新たに生まれ変わるところにこの風習の意味があったという(※10)。
伝統を大切にする京都では今でも、夏越祓に「水無月」という和菓子を食べる習慣があるが、水無月は白のういろう生地に小豆を乗せ、三角形に包丁された菓子であり、水無月の上部にある小豆は悪霊ばらいの意味があり、三角の形は暑気を払う氷を表していると云われている。
古く、中国の『荆楚歳時記』には、年頭に膠牙餳(こうがとう)という堅いあめを食べる風習が記されている(※11参照)。この風が伝わり、歯固めの具としてさまざまなものが用いられた。
その中の一つが正月の堅い餅や固いお菓子、食べる風習であるが、これは地方によって少しずつ形の異なる様々な行事へと変化し、関東地方では、収穫したての新小麦で焼き餅を作って神に供える風習があるらしいがこれも元をただせば同じことから始まったものであろう。
今日6月 21日の記念日に、「スナックの日」がある。スナック菓子のメーカーが夏至を記念して提唱したことが始まりだそうだが、かつては、夏至のお祝いに、ちまきによく似た「カクショ(角黍)」やお正月のおもちを固くして食べる「歯固」の習慣があったことに由来しているという(※12)。
ちまき」は、もち米やうるち米、米粉などで作った餅、もしくはもち米を、三角形(または円錐形)に作り、ササなどの葉で巻き、イグサなどで縛った食べ物であるが、その語源について、承平年間(931年 - 938年)に編纂された『倭名類聚鈔』には「和名知萬木(ちまき)」という名で項目があり、もち米を植物の葉で包み、これを灰汁((アク)で煮込むという製法が記載されているそうだ。
日本ではもともとササ、蘆(あし)ではなく(チガヤ)の葉で巻いて作られたため『ちまき』と呼ばれていたようだが、『伊勢物語』(五十二段)には、「人のもとより飾り粽 おこせたりける返事に、菖蒲(しょうぶ)刈り 君は沼にぞまどひける 我は野に出でてかるぞ わびしき」とあり、昔は菖蒲の葉も用いたようである(Wikipedia)。
もう1つ、この日の記念日に「冷蔵庫の日」がある。これから暑い夏がやってくる前に冷蔵庫の点検をしてもらおうという趣旨で、日本電機工業会が制定したもの(※13)だが、これも夏越の祓「氷室の節供」などを由緒とするものである。
兎に角、遅ればせながら雨が降り梅雨がやってきたようだが、この時期気を付けないと体調を崩しやすいが特に食べ物には気を付けないと(※14)。
それと、意外に思うかもしれないが、6月、7月は年間を通して紫外線の量が最も多くなる月だという。例えば6月においては、冬の12月と比較した場合、紫外線の量は6倍程だそうで、6月の雨の日であっても、12月の晴天の日と同量~2倍弱の紫外線の量が、また6月の曇りの日では、12月の晴れの日の実に3倍~5倍弱の紫外線が降り注いでいることになるらしいから特に女性の方などは気になるところだね(※15)。

「五月雨や大河の前に家二軒」(与謝蕪村 「蕪村句集」※16参照)
【句意】五月雨が降り続いて水かさを増した大河が濁流渦巻いて流れていく。その岸辺に小さな家がぽつりと二軒、今にも押し流されそうに建っているよ、といった意味。
夏の季語:「五月雨(さみだれ)」は、陰暦五月、梅雨期に降り続く雨のことで、梅雨は時候を表し、五月雨はこの時期の雨を表すという。「さつきあめ」または「さみだるる」とも詠まれるが、「さ」は「早苗(さなえ)、五月(さつき)を、「みだれ」は水垂(みだれ)の意という。
農作物の生育には大事な雨も、長雨が続くと交通を遮断させたり水害を起こすこともある。かっての梅雨は毎日毎日、しとしとと振り続く鬱陶しい雨であった。そんな雨でもいつまでも降り続けると大きな災害をもたらした。
しかし、近年の梅雨時の雨の傾向はこれまでとは変わったような気がする。地球温暖化などの影響もあるのだろう、余り雨の降る日は続かないが、降るるときは局地的にどっと大雨が降り、各地に大きな被害をもたらしている。
今年もそのようである。台風4号が梅雨前線を刺激して各地での豪雨被害が報じられている。今までの暦や過去データーなどに基づく気象予報も当てにならなくなった。これからの時代は今まで異常気象といっていたものが普通になるかもしれない。クワバラクワバラ(桑原桑原)。

(冒頭の画像は、浮世絵「東京名所四十八景 二十二 堀切はなしよふふ五月雨」、昇斉一景画、明治4年=1871年。参考※17 :「かつしかデジタルミュージアム」より借用。
東京都葛飾区堀切二丁目にある堀切菖蒲園は花菖蒲の名所として知られており、江戸時代の有様をしのびながら、数多くの江戸菖蒲(200種6000株もあるらしい)を鑑賞できるのが特色のひとつだという。)
参考:
☆和歌について
・和歌掲載集については→日文研データベース :和歌 作品集成立年順索引を参照。
・和歌の解説については→ここを参照。
※1:吉田光由の古暦便覧について
http://www5.ocn.ne.jp/~jyorin/kirisitankoreki.pdf#search='%E6%9A%A6%E4%BE%BF%E8%A6%A7%E3%81%A8%E3%81%AF'
※2:国立天文台 > 暦計算室 > 暦象年表 > 二十四節気・雑節
http://eco.mtk.nao.ac.jp/cgi-bin/koyomi/cande/phenom_sekki.cgi
※3:気象庁 | 平成25年の梅雨入りと梅雨明け(速報値)
http://www.data.jma.go.jp/fcd/yoho/baiu/sokuhou_baiu.html
※4:お米~5 米のできるまで - 農林水産省
http://www.toukei.maff.go.jp/dijest/kome/kome05/kome05.html#トップ
※5:俳句案内
http://www5c.biglobe.ne.jp/~n32e131/haiku.html
※6沖縄地方が梅雨明け平年より9日早く NHKニュース - NHKオンライン
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130614/t10015296141000.html
※7:兵庫県/兵庫県サマータイムの実施
http://web.pref.hyogo.lg.jp/kk28/summertime.html
※8:旧暦調べカレンダー
http://www5a.biglobe.ne.jp/%257eaccent/kazeno/calendar/1960s.htm
※9:古事類苑データーベース
http://base1.nijl.ac.jp/~kojiruien/index.html
※10:よもやま話 / 安楽寺だより
http://anraku-ji.jp/yomoyama/598/
※11:古事類苑>歳時部十二>年始祝四>齒固
http://base1.nijl.ac.jp/~kojiruien/saijibu/frame/f000816.html
※12e-お菓子ねっと
http://www.eokashi.net/
※13電気冷蔵庫 - 社団法人・日本電機工業会(JEMA)
http://www.jema-net.or.jp/Japanese/ha/reizouko/
※14:健康管理について
http://www.majima-clinic.jp/health/health66.html
※15:紫外線の量【雨天や曇りの日】 :紫外線の雑学
http://ray.sunsetbearch.net/cat0001/1000000004.html
※16:蕪村句集 (俳詩掲載)
http://www4.ocn.ne.jp/~sas18091/haiku4.html
※17 :かつしかデジタルミュージアム
http://www.museum.city.katsushika.lg.jp/kdm/index.php?app=shiryo&mode=list&code_a=02&code_b=01&code_c=01&p=

女優・木暮実千代の忌日

2013-06-13 | 人物
今日は何を書こうかと、何時も参考にしているフリー百科事典で今日の記念日を検索していると、女優・木暮実千代 (1918年1月31日 - 1990年6月13日)の忌日、また、江戸時代初期の剣術家・兵法家宮本武蔵(天正12年=1584年? - 正保2年5月19日=1645年6月13日)の忌日があった。
さて、今日はどちらをテーマーに書こうかと思ったのだが、宮本武蔵は余りにも歴史的に有名な人物であることから,私も、今までにこのブログで、「英治忌(宮本武蔵」の吉川英治の忌日)」、「決闘の日」、「NHKラジオで徳川夢声の『宮本武蔵』の朗読が始まった日」、「巖流・佐々木小次郎(剣術家) が 宮本武藏との巖流島での決闘で敗死」などのタイトルで、武蔵関連のことを書いてきたので、改めて宮本武蔵その人のことを書くのはまた、別の日にして、今日は、女優・木暮実千代のことについて書いてみようと思う。
宮本武蔵と木暮実千代の忌日が同じ日と言うことからある映画を思い出した。それは、吉川英治小説『宮本武蔵』を映画化したものであるが、同氏の小説を題材にした武蔵物の映画は数多く制作されている中で、木暮実千代が良い味で出演していた作品で私の記憶に強く残っているのは、内田吐夢監督が、中村錦之助萬屋錦之介)主演で映画化した東映映画の「宮本武蔵」であり、全5部作の大作であった。
1961(昭和36)年に公開された第1作では、新免武蔵(たけぞう)(俳優:中村錦之助)が沢庵宗彭の導きにより、姫路城天守で3年間の幽閉生活を送るまでを描いている。
ストーリー(詳しくは※1参照)
慶長5年9月、関ヶ原の合戦で西軍豊臣方は惨敗に終った。作州(美作の異称)宮本生れの郷士の伜、新免武蔵と本位田又八(俳優:木村功)は野望を抱いて関ヶ原の戦いで西軍に加わったが、傷ついて山中で暮らすもぐさ家のお甲(俳優:木暮実千代)とその養女朱実に救われた。この母娘は戦場荒しを稼業とする盗賊だった。ある日、お甲の家を野武士辻風典馬の一隊が襲った。武蔵は典馬を殴殺し、又八は手下を追いちらした。そんな二人にお甲の誘惑の手がのびた。又八は許嫁お通(入江若葉)を忘れ、お甲とともに姿を消した・・・。

同映画の武蔵も又八も心の弱さを持つ人間であった。この点はいみじくも沢庵和尚の言葉がずばりと言い当てている。
又八と別れ、国境の木戸を破って故郷の宮本村に逃げ込んだ武蔵だが役人に追われ次第に狂暴となり、山の中に隠れていた。そんな武蔵をとらえるために、お通一人を伴って,山中で,火を焚き鍋をかけて,武蔵を待つシーンがあった。そうして武蔵を捉えると約束した期限の3日目の夜「こうしてここに座ったままでいてよろしいのですか」と心配そうに尋ねるお通に対して,沢庵は、「人間の心は実は弱いものなのだ。孤独が決して本然なものではない」と言いながら,武蔵がこの温かい火の色を見て,必ずこの場所に姿を見せることを確信していたが、その通り、武蔵が現れ捉えられる。映画第1部のクライマックスの一つであった。
闘争心によって内面的な心の弱さを克服しながら生きている武蔵。暴れん坊だが、本当は寂しがり屋で、愛情に飢えた孤独な若者である。それを錦之助は実に魅力たっぷりに演じている。野性的で荒々しいが、その半面、優しさとナイーヴさも備えている錦之助の演じる武蔵は、人間的に成長し後年の宮本武蔵へと成長してゆく。そうした「剛と柔」の両面を錦之助が素晴らしい演技で見せてくれる。本当にいい役者だった。
一方の、又八は、心の弱さに負け、年上の女の色情に溺れながら、転落していく。又八には、故郷の村に年老いた母親(お杉ばあさん)と可憐な許婚(お通)が居る。それなのに、後家のお甲の誘惑に負け、自らの性欲を衝動的に満たしたがために、人生の道を踏み外してしまう。ウジウジしたヤサ男の又八を演じた木村功がまた何とも言えず、悲哀さえ感じさせる好演だった。
ストーリーの必然として又八をお甲の愛欲に溺れさせなければならなかったから、木暮実千代としては年増(この時木暮43歳)の色香を見せつけるように演じたのだろうが、お甲(木暮)が又八の負傷した太股に焼酎を吹きかけ、むしゃぶりつくようにして口で膿んだ血を吸うシーン。この部分は原作にはないのだが、映画独特の見事な描写である。色気たっぷりで欲求不満のお甲が、若い男の太股の血を吸っているうちに、発情して童貞の又八を犯していく様子がすさまじく、極めてエロチックであった。その後、空に浮ぶ雲のカットがあり、それにお甲の満足したような高笑いがかぶって、野原にしどけなく寝そべっているお甲の姿が映し出される。その右手には、しょんぼり立膝をついて坐っている又八の姿があった。内田吐夢の演出の冴えといったところであろうか。当時20過ぎの純情な青年だった私など熱くなったものである。

●上掲の画像は、武蔵と又八がお甲と娘の朱美の女二人の住む艾屋に匿われ、どうどうと母屋に住むようになると、それを迷惑どころか家の中が賑やかになってよいと喜んでいる風に見えるお甲。二人を相手に「又さんか、武さんか、どっちか一人、朱美の婿になっていつまでもここにいてくれたらよいが」と、いったりして、初心(うぶ)な青年をどぎまぎするのを見てはおかしがるお甲。吉川栄治小説『宮本武蔵』第一巻地の巻(15P )に出てくる挿絵。挿画者矢野橋村。(吉川栄治小説『宮本武蔵』第一巻地の巻は※2青空文庫で読める。)
その前の1954(昭和29)年公開の東宝映画(監督:稲垣浩、タイトルは同じく「「宮本武蔵 (1954年の映画)」、主役武蔵:三船敏郎)では、彼女は、吉野太夫を演じていたが、錦之介版お甲と違って、三船版の吉野太夫役は、私の記憶に余り強くは残っていない。
木暮 は、妖艶な「ヴァンプ(vamp)女優」として有名であったが、私なども、相対的には顎のホクロが何とも艶っぽい「大人のムードを漂わせた」女優としての印象を持ている。それは、私が少年時代より好んで多く見た時代劇や活劇映画などの役柄からそう思っているところが多いようだ。

プロフィールや作品歴など(参考の※3.※4、※5等)を調べてみると、木暮実千代(本名:和田 つま)は、1918(大正7)年1月31日山口県下関で生まれ、女学生時代から「令女界」に投稿していた文学少女だったそうだ。
ある機会に、映画会社に写真を送るも採用には至らなかったが3位に入ったことがあるそうで、これがきっかけで上京の意志を固め、当時文壇を賑わしていた劇作家岸田国士(明治大学文芸科創設に関わる)らに傾倒し、明治大学文学部に入ろうとしたが試験に間に合わず、残念ながら日本大学芸術学部に入学したという。
在学中、江ノ島のカーニバルの野外劇で「弁天さん」に扮した芝居に出演したのがきっかけで、1938(昭和13)年、在学中、にスカウトされ松竹に入社したのが木暮の映画人生の始まりだったそうで、このときのスカウトから「ワンカットだけ出演してみないか」といわれて, 看護婦の一人として出演したのが「愛染かつら」(川口松太郎の同名小説の映画化) の後編「続愛染かつら」(1939年)であったという。
前年公開の「愛染かつら」は、医師津村浩三(上原謙)と看護婦石かつ枝(田中絹代)のメロドラマで、テレビのない戦前、銀幕で天下の紅涙を絞ったヒット作品であった。
このときの試写の席で松竹大船撮影所の幹部の目に留まり、「結婚天気図」(1939年)への出演とスターダムへの階段を登ってゆくことになる。
昭和初期に女性で大学まで入ったのだから、恵まれた家庭に育ったのだろう。木暮が松竹に入社した当時は映画全盛時代で、高峰三枝子桑野通水戸光子らが幹部にいたためにどうしても敵役的な役回りが多くなったようであるが、1年余りで彼女は幹部に昇進。庶民的人気というよりは、大学生などインテリ層にもてはやされていたという。妖艶、あるいはヴァンプ女優と言われた人だが、実際にはどんな役を演じても品があったのは育ちの良さがあったからかもしれない。
戦前の1938(昭和13)年から1943(昭和18)年までには多くの出演作が見られる(※6参照)のに、その後しばらく空白があるのは、マスコミの仕事に従事する夫・和田日出吉の仕事の関係で夫妻とも満州に渡っていたからのようだ。
彼女の満州映画協会(満映)での出演作に李香蘭 (山口 淑子)と共演した「迎春花」(1942年)がある。
後の夫となった和田と運命の恋に落ちたのが、この『迎春花』のロケで旧満州を訪れたときのことだという。二人は義理のいとこ同士で、木暮の従姉(じゅうし。年上の、女のいとこ)のご主人が日出吉で20歳年上だったそうで、日出吉は、木暮と満州で出会ったとき、満州新聞社の社長をしていたそうで、豪邸に住んでいたという(※7参照)。
「迎春花」ほか、満映での出演作に「間諜未だ死せず」(1942年)や「開戦の前夜」(1943年)といったタイトルのものがあり、当時の時代を感じさせる。敗戦後、満州から苦労して帰国し、1946(昭和22)年に、映画界に復帰する。

青い夜霧に 灯影が紅い
どうせおいらは ひとり者
夢の四馬路(スマロ)か 虹口(ホンキュ)の街か
ああ 波の音にも 血が騒ぐ

夜霧のブルース』 。

この曲は、島田磬也(作詞)、 大久保徳二郎(作曲)、 ディック・ミネ(唄)のトリオによる上海ものの1つであり、歌に出てくる四馬路は、現在、上海市黄浦区人民広場の東に外灘まで続く上海の福州路(地図)で当時は租界地区(上海租界)であった。また、虹口区は上海市中心城区北部に位置し、黄浦区に隣接するこの地域は、第二次世界大戦中は日本の租界で、「小東京」と呼ばれていたところだ。
この歌は1947(昭和22)年に公開された水島道太郎主演、映画「地獄の顔」(松竹)の主題歌として制作されたもので、死ぬ思いで満州から引き上げてきた木暮にとっては戦後2作目の映画である(第1作1946年作「許された一夜」で主役を演じている。)。
上海でギャングだった男が、彼を悪の道に引き戻そうとする元の仲間と戦う、といった物語。木暮は、主役である水島演じるギャングのボスの情婦役であるが、悪女ではなく、根はいい女である彼女から、駆け落ちをもちかけられた水島はボスに撃たれてしまう・・・。この映画では、「夜霧のブルース」のほかに、「長崎エレジー」「夜更けの街」「雨のオランダ坂」と計4つの挿入歌が作られたが、いずれもヒットしている。そのうち以下で「夜霧のブルース」と「夜更けの街」が聞ける。「夜更けの街」では、キャバレー・シーンで肩を顕わにしたドレスを身に着けて出ているシーンが見れるよ。この時彼女は29歳、実に美しく妖艶だ。
「夜霧のブルース」 ディック・ミネ-YouTube
夜更けの街ー伊藤久男.mpg

この映画を京都で撮影中、『醉いどれ天使』(1948年)の三船敏郎演ずるやくざの情婦にと黒澤明が木暮にしつこく出演を迫ったという。
薄情な、ヤクザの情婦・奈々江。この役をこなせるのは木暮しかいない、と踏んで世界の黒澤監督が、自宅への日参はもとより京都の撮影所までも追いかけたという。しかし、黒沢は、木暮ならヤクザの情婦役を地でこなせると思っていたことを後に「ぼくがメガネ違いをしたのは初めてですよ」と語っていたそうだが若いヤクザ三船を子供扱いにする演技などは好演だった。
ただ、木暮は、プロ意識の強い俳優と違って、「役作り、演技」などについては余り考えないタイプの女優と聞いているが、黒沢のしっこい要請を逃げ回っていたもののしぶしぶ根負けして応じたところから、本来の彼女の地のよさが出てしまったのが黒沢には気に入らなかったのだろう。
このように戦後も戦前と同じく妖艶な悪女役が多かったが、終戦後の開放された世相の中でそれは生き生きとした精彩を放ち、1949(昭和24)年の<av href=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E4%BA%95%E6%AD%A3>今井正監督映画『青い山脈』では、
知的で清楚な女教師(原節子)と対照的な役柄、芸者梅太郎(笹井とら)に扮し、中年年増役で脇役ながら、妖艶かつ軽妙な演技で観客に強い印象を与え毎日映画コンクール助演賞を受賞した。
●以下の画像は、青い山脈 (1949)ポスター。中央の芸者姿が木暮美千代である。
「青い山脈」が7月に公開されて2ヶ月後の9月、戦後、初めて名誉ある歴史的な特急列車が登場した。国鉄の特急の運転は、戦局の悪化により1944(昭和19)年以降、中断されていたが、戦後、落ち着きを取り戻し始めた、1949年9月15日改正で、特急が1往復、復活する事になり、命名されたのが「へいわ」である。
東京駅 - 大阪駅間を9時間で結ぶ特急「へいわ」が9月15日に運転を開始するのに先立ち、同月8日に試運転が行われた。最高時速95キロ、平均時速61、9キロは戦後最高記録。


●上掲のの写真は見送りの人々に挨拶をする俳優の徳川無声(右から3人目)と女優の木暮美千代(当時31歳。右端)らである。撮影は9月8日東京駅にて。(同写真は『朝日ロニクル週刊20世紀』 1949年号28pより借用。「へいわ」は復興の役に立ってはいたものの、戦前に運行されていた超特急「つばめ」の名称復活を望む声が多かった為、翌年の元日に改称された。戦後の復興を示す貴重な写真であるので掲載した。
映画では「青い山脈」のあと、1950(昭和25) 年には大仏次郎原作同名小説を大庭秀雄監督が映画化した「帰郷」が佐分利 信との名コンビで、キネマ旬報ベストテン第2位に選ばれ、記念すべき作品となった。
また、獅子文禄の新聞連載小説『自由学校』が翌・1951年に映画化された。この映画は5月5日大映と松竹の同時公開となったが、2作品ともに興行成績がよかったため、今日いわれるところの「ゴールデンウィーク」という用語が生まれた。
「自由学校」とは戦後の自由化された家庭・社会のことを指す。古いモラルや上流社会のありようを風刺したコメディーで「とんでもハップン」などの流行語を生んだ。
吉村公三郎監督の大映作品では、主人公の五百助役を一般から公募、雑誌編集者の小野文春を起用。駒子は小暮美千代が好演した。それに対して、渋谷実監督の松竹版は五百助役に佐分利信、駒子は高峰美枝子を起用している。この頃小暮実千代33歳、最も輝いていたころであり、「成熟しきった女の豊満な肉体」、「終戦後最も目立つ女優の一人」と評されていた。

●上掲の画像が映画化された自由学校のシーン。写真左が吉村公三郎監督の大映作品。主人公の五百助役の小野文春駒子役の小暮美千代、写真右は、渋谷実監督の松竹版は五百助役の佐分利信と駒子役の高峰美枝子である。
この後、小津安二郎監督・脚本による「お茶漬の味 」(1952年松竹)は、地方出身の素朴な夫(佐分利信)とそんな夫にうんざりする上流階級出身の妻妙子(木暮実千代)。
この生まれも育ちも価値観も異なる夫婦が、そのギャップに悩みつつ、夫の海外赴任を契機に互いの絆を確認しあい、和解するまでを描いたもの。最後に「夫婦とはお茶漬の味なのさ」・・・と、妙子を諭す茂吉。この気安い、体裁のない感じに、妙子は初めて夫婦というものの味をかみしめるのだった。
その翌朝妙子一人が茂吉の出発を見送った。茂吉の顔も妙子の顔も、別れの淋しさよりも何かほのぼのとした明るさに輝いているようだった。佐分利と木暮の名コンビによる味わい深い一篇。同年の毎日映画コンクールで佐分利信が男優主演賞を受賞しているが木暮の演技も素晴らしかった。でも小暮の演技なまめかしいですね~。以下はその名場面。ちょっと何とも言えないお茶漬けの味を味わってみられるとよい。

IL SAPORE DEL RISO AL TE' VERDE regia di Yasujiro Ozu (1952)>お茶漬けの味-

他に、溝口健二監督の「雪婦人絵図」(1950年)でのヒロインの雪を演じたたほか、同監督の作品「祇園囃子」(1953年)では世代も考え方も違う若き舞妓・美代栄(若尾文子)を鍛える海千山千の芸者役を演じ、市川雷蔵が平 忠盛の嫡子・清盛役で主演した「新・平家物語」では、藤原一門と血のつながっている中御門家から、忠盛に嫁いで来た気位の高い母、泰子を好演、忠盛の葬儀で焼香する清盛に向かい「あなたは、白河院の御子に間違いない・・・」と告げる。・・難しい役所である。(1955年)「赤線地帯」(1956年)は売春防止法が成立直前の状況を背景に、特殊飲食店「夢の里」で働く、様々な境遇の女たちを描いた傑作で、タイトル通り赤線の女を演じるなど幅広い役をこなしている。
●以下の画象は映画のポスター。

そのほか、新東宝映画「離婚」(1952年)では、美貌と貞淑で名高い良家の夫人が、吹雪の山小屋で夫以外の男性と一夜を過ごしたことから、窮地に立たされる…。名匠・マキノ雅弘によるメロドラマ。木暮実千代が苦悩に悶える有閑夫人をしっとりと演じており、古典の名作「源氏物語」を文豪・谷崎潤一郎監修、新藤兼人脚本により映画化した同名映画「源氏物語」(1951年角川映画)は大映創立十周年記念の文芸大作で、吉村公三郎監督がメガホンをとり花と匂う王朝時代を背景に、主役の源氏を長谷川一夫が演ずるほか華俳優陣が絢爛と織りなす大恋愛絵巻。この中で木暮実千代は藤壺に扮し脂の乗った演技で魅せる。以下でその1シーンが見れる。

幻映画館(47)「源氏物語」

また、有吉佐和子の同名小説を映画化した「三婆」(1974年)は、戦後の混乱の中、いがみ合いながらもそれぞれに変化していく3人(三益愛子田中絹代、木暮実千代)の「婆」と周囲の人たちが巻き起こす騒動を描いた喜劇は、テレビドラマ化・舞台化も繰り返された人気作品であった。
芸者を演ずるものが多いが、そのほか母物なども演じている。しかし、男性の私の場合そのような映画はあまり見ていないので、語ることはできないが、彼女は、黒澤明、溝口健二、小津安二郎、成瀬巳喜男、今井正、木下恵介(「海の花火」「男の意気」「間諜 未だ死せず」など)、吉村公三郎、渋谷実(「4人目の淑女」「花の素顔」「消えた死体」など)、内田吐夢、田坂具隆(「五番町夕霧楼」「湖の琴」など)などの日本映画全盛期の巨匠たちに愛された女優であり、山田洋次監督の男はつらいよシリーズの23作目「男はつらいよ 翔んでる寅次郎」(1979年)にも、寅さんのマドンナ入江ひとみの母役で出演していたが、この時もう彼女は61歳にもなっていたのだ。彼女の生涯にわたっての映画への出演は350本以上というが、後年はテレビドラマや舞台でも活躍していた。
また、彼女はCMに出た女優第一号であり、ジュジュ化粧品は1950(昭和25)年9月「マダムジュジュ」を発売。商品のコンセプトは、エイジングケアという概念を先取りした、「25才からのお肌にうるおいを与える奥さまのためのクリーム」であった。ジュジュ化粧品のCMでは、木暮実千代を専属モデルに起用。「25才以下の方は、お使いになってはいけません!!」という大胆なキャッチフレーズが話題を呼んだ(※8参照)。
また、1950年代の日本は、戦後の経済復興が軌道にのり、生活を豊かにしようとする余裕が生まれつつあった。そして、テレビの本放送が始まるなど、便利さや快適さへの憧れが一気に高まり、目を向けられたのが「家事労働の軽減」であった。
一般には洗濯機の時代こんな簡便な洗濯機があった。電気洗濯機は戦前からあったが5万円~6万円もした。
●以下の画像は、朝日クロニク週刊20世紀1852年号より借用)、

三洋電機が「家電事業」に参入したのは、1953年8月に発売した噴流式電気洗濯機「SW-53」からである。
値段は28,500円と、それまでの丸型攪拌式洗濯機の半値近くであった。しかも汚れ落ちが良くて省電力、角型でムダな設置スペースを取らないなどメリットが多く、この1号機発売と同時に誕生したのが、木暮美智子をモデルとした「サンヨー夫人」であり、新聞にサンヨー夫人が「みなさまにおすすめします」という形で登場。宣伝キャンペーンは大成功で、爆発的な売上を記録したそうだ。
三洋電機宣伝課では新製品の洗濯機でイメージ・タレントの選択会議がおこなわれたとき、洗濯機は主婦が使うものであることから、その主婦代表として3人のスター・小桜葉子(俳優上原謙夫人)、高杉早苗(歌舞伎役者市川段四郎夫人)、木暮実千代(和田日出吉夫人) の中からサンヨー夫人と命名して宣伝に使うことに決まったが、その頃すでに、木暮は「25才以下の方は、お使いになってはいけません」という斬新なキャッチコピーで知られた「マダムジュジュ」化粧品クリームのイメージが強く出来上がっていたことが、亀山太一宣伝次長にサンヨー夫人のイメージは木暮しかいないと決断させた理由だという(※9参照)。
木暮の人柄と共に当時の家電広告は機械説明中心のものがほとんどの中、三洋電機は自ら「軟派広告」と称して女性にやわらかく話しかけるような広告としたのが成功した理由のようだ。そして、発売の翌年7月には月産1万台を突破し、一躍トップシェアに躍り出、これによって「洗濯機のサンヨー」という名が全国に広まったという。以下参考の※10には、その当時のCM写真が掲載されている。
ところで、木暮が三洋電機のイメージ・タレントの洗濯会議で3名のスターのなかから選ばれたが、他の2名の夫君は有名な俳優上原謙や歌舞伎役者市川段四郎であるのに対して、木暮の夫君は和田日出吉…と言われても、どこの何をした人と思われた人が多いかもしれないが、他の2名以上にスケールの大きな人物であったあったようだ。
どんな人物かは、以下参考の※4:「黒川鍾信著「木暮実千代 知られざるその素顔」はお勧め五重丸」を詠まれるとよい。20歳も年上のこれだけスケールの大きな人物と結婚できるのだから、木暮もそれだけスケールの大きな女性だったと言えるだろう。
木暮は、ボランティア活動にも熱心な人だったとは聞いていたが、以下参考の※5:「女優ボランティアの草分け木暮実千代さん」によると、木暮のボランティアに関するエピソードを以下のように紹介いている。
“木暮さんは終戦直後、有楽町のガード下で靴磨きをしていた戦災孤児伊藤幸雄さんら二人に「寒いでしょう。さあ、これでなにか温かいものでもおたべなさい」といって当時のお金では大枚の百円札を2枚渡し「くつはみがかなくていいのよ。体に気をつけてね」といって励ましたエピソードがある。その少年は後にアメリカに留学して大学を卒業し、一人は高校の教師、一人は医師として開業している。
群馬県にあるあの菊田一夫作によるラジオドラマの舞台になった「鐘の鳴る丘少年の家」の設立にも出資するほか、保護司として戦後の窮乏生活を送る人たちにも手をさしのべていた。このほか中国留学生を自宅に寄宿させるなど人の見えないところで奉仕活動をしていた。こうした一連のボランティア活動はどこから来たものなのか。恵まれた環境に育ち、 映画界でも下積みのないのにかかわらずこのヒューマニズムは、生来の性格があいまってのことであろう。かつて高峰三枝子さんの息子が覚醒剤容疑で検挙されたときも、彼女は保護司として息子を立ち直らせている。”・・・・と。
木暮にとって、高峰三枝子は、かっての映画界における「良きライバル」でもあった。そのようなライバルにも優しく手を差し伸べられる・・て素晴らしい人だ。

●上掲の画象は、女優の木暮美千代さんが中国残留孤児たちを東京・田園調布の自宅に招き、心づくしの日本料理でもてなした時の写真である。招待されたのは、肉親との対面を果たせずにいる男性2人と女性3人。木暮さん自身旧満州で、当時生後6か月だった長男と生き別れになりかかった経験があるのだという。写真は1981年3月12日のもの。画像は『朝日クロニクル週刊20世紀』1981年10pより借用。・・・。
混乱を極めた敗戦直後の旧満州で家族と離れ離れになり中国人に育てられた日本人孤児の第1次訪日者47人が厚生省の招きで1981(昭和56)年3月2日成田着の中国民航機で36年ぶりに祖国の土を踏んだ。一行は3月16日滞在日程のすべてを終え離日した。この結果肉親や親族に再開できた人は26名、夢破れた孤児は21人だった。
上掲の写真を見ていると、木暮さん本当に品の良い優しそうな顔をしていますね。
まだボランテイアという言葉も活動も一般化していないときから、地味なヒュ−マンな活動を女優業という多忙な仕事をしながら、死去するまで続けていたことを知り、改めて感動し、是非このブログで取り上げたくなった次第である。

●冒頭の画像は、黒川鍾信著NHK出版『 木暮実千代 知られざるその素顔』
参考:
※1:すだち72号 - 「知的感動ライブラリー」(45) 徳島大学附属図書館
http://www.lib.tokushima-u.ac.jp/m-mag/mini/072/72-1.html
※2:青空文庫:作家別作品リスト:No.1562吉川 英治
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1562.html#sakuhin_list_1
※3:木暮実千代 出演の映画を見ながらその半生を追う]
http://scn-net.easymyweb.jp/member/sundaikai/
※4:黒川鍾信著「木暮実千代 知られざるその素顔」はお勧め五重丸
http://blog.goo.ne.jp/takasin718/e/55a9b842ffe241207e589fe68d32bf93
※5:女優ボランティアの草分け 木 暮 実 千 代 さ ん
http://www.meidai-fujisawa.com/zuihitu4.html
※6:木暮実千代 (コグレミチヨ,Michiyo Kogure,木暮實千代) | Movie Walker
http://movie.walkerplus.com/person/84246/
※7:木暮実千代ブログ版 by藤沢摩彌子満映との合作映画『迎春花』(2009年08月29日)
http://blogs.dion.ne.jp/fujisawam/archives/8704958.html 
※8:マダムジュジュの歴史|企業情報|ジュジュ化粧品株式会社
http://www.juju.co.jp/catalog/juju/history/
※9 サンヨー夫人: ケペル先生のブログ
http://shisly.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-47f4.html
※10:SANYO 洗濯機事業 --50年の歩み-- - Panasonic
http://panasonic.co.jp/sanyo/corporate/history/sw50th/history/index.html
木暮実千代 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9A%AE%E5%AE%9F%E5%8D%83%E4%BB%A3

恐怖の日

2013-06-06 | 記念日

いつもこのブログ書くのに利用させてもらっている「今日は何の日~毎日が記念日~」(※1)に今日6月6日の記念日として、「恐怖の日」と言うのがあった。
由緒は、『新約聖書』の『ヨハネの黙示録』に登場する「獣の数字666に因む。
「また凡ての人をして、大小・貧富・自主・奴隷の別[わかち]なく、或はその右の手、あるいは其の額に徽章[しるし]を受けしむ。この徽章を有[も]たぬ凡ての者に賣買することを得ざらしめたり。その徽章は獸の名、もしくは其の名の數字なり。智慧は茲[ここ]にあり、心ある者は獸の數字を算へよ。獸の數字は人の數字にして、その數字は六百六十六なり。」(ヨハネの默示録第13章16ー18)
映画「オーメン」に出てくる「666」という数字の根拠は上記の一節である。…とあった。
しかし、この記念日、日本記念日協会には登録されておらず、また、一体、何時、どこのだれが記念日登録したのかなどはわからない。
1976年に公開され世界中で大ヒットをとばした米国映画「オーメン」は、正統派オカルト映画の傑作として歴史に名を刻んでいる。
物語のベースは聖書で、6月6日午前6時に誕生(人類を滅ぼすためこの世に送られてきた)し、頭に新約聖書の『ヨハネの黙示録』で獣の数字とされる「666」のアザを持つ悪魔の子ダミアンを巡る物語であり、主演には「ローマの休日」のグレゴリー・ ペックリー ・レミックといった演技達者でかためている。しかも、ジェリー・ゴールドスミスによるテーマ音楽が不気味さを掻き立てる上で絶大な効果を発揮しており、音楽を担当したジェリー・ゴールドスミスが第49回アカデミー作曲賞を受賞しているなど、B級ホラー映画とは一線を画している。
以下でそのテーマ曲が聞ける。
The Omen(1977) - Ave Satani - YouTube
映画は、当初から3部作として予定されており、第1作のヒットによって正式にシリーズ化されたが、1978年製作の続編の「オーメン2/ダミアン」(日本での公開1979年2月)で、成長したダミアンは聖書の黙示録を続み、自分の頭髪の下の666という数字の謎、自分が悪魔の子であることを知りショックを受けるが、やがて、自分の使命を受け入れ、悪の世界にのめり込んでゆくことになる。
この時に朗読されるのが、前段の記念日の由緒のところに書かれている『ヨハネの默示録』(第13章)にあたるのだろうが、この文が正式な『ヨハネの默示録』(第13章)とは同じと言うわけではない。映画では脚本としてアレンジしたものだろう。『獣の数字』の登場する『新約聖書』の『ヨハネの黙示録』(※2参照)第13章18節は以下のように書かれている。
「ここに、知恵が必要である。思慮のある者は、獣の数字を解くがよい。その数字とは、人間をさすものである。そして、その数字は六百六十六(666)である。」・・・と。
ところで、この数字の「666」は何を教えているのろう?
旧約聖書創世記』によれば、神は、7日で、世界を作ったとされ(参考※2の1章天地創造を参照)、それゆえに、7は、神の数字であり、完全であると言う意味があるのに対して、その手前の数字6は、7に一歩及ばないことかから、神と同等の力を持つとされる悪魔でも、神には及ばない。
転じて、いかに人類が強大な力を手に入れようと、自然の全てを解明しようと、所詮神には及ばないと、言う意味を表しているそうだ。つまり、完全な神の力:7に対して、それに及ばない不完全な力:6。666はその6が、三回繰り返される事により,不完全さを、より強調したかたちとなっている。
俗に「666」は悪魔や、悪魔主義的なものを指す数字とされているが、それは黙示録が象徴的に「獣」と呼ぶ反キリストのことでもあり、これは、默示録第13章の「赤い竜」に出てくる詩に由来する666恐怖症から転じて生まれたもののようだ。詳しくは、参考の※2:『ヨハネの黙示録』(第13章)を一読されるとよい。

上掲の画象は、七つの頭と十本の角を持つ竜が十本の角と七つの頭を持つ獣に権威を与えるシーン。中世期のタペストリー。Wikipediaより。
しかし、正典とはいえ、『ヨハネの黙示録』は異色の書であり、書かれている内容も、かなり抽象的・象徴的で難解な文章である。読み方によってはいかようにも解釈できるし、その内容も不吉な文であり、ホラー映画などではどうしても取り上げたくもなるだろう。尚、「666」の意味などは、以下参考の※3:「キリスト教読み物サイト」の終末の独裁者「獣」とは?など参考になるのでは・・。
オーメンの完結編「オーメン 最後の闘争」は、1981年に制作・公開された。32歳という若さで大企業の社長となり、駐英大使を猟銃自殺に追いやり、まんまと後釜となったダミアンの真の目的は、悪魔的使命として、イギリスの何処かで誕生しようとしているキリストの生まれ変わりの抹殺にあった…。それに気づき挑戦する神父たちとの闘いを描いている。
この映画の10年後米国でのテレビ用に前3作をなぞってダミアンを女の子に変えて作られたTVムービー『オーメン4』(※4)が日本では劇場公開(1991年)されたがこの後に、1000年に1度、6の3つ重なる日・06年6月6日に「第1作」のリメイク版が公開されている。
オカルト映画の公開にこれほど好都合な日はない。今日の記念日は、このリメイク版映画の宣伝用に、映画関係のところなどが話題として、取り上げたのではないかなどと思ったりしているのだが・・・・。こんな記念日が、「今日は何の日~毎日が記念日~」では外国の記念日ではなく日本の記念日としているところからみてもそう疑いたくなるのだが・・・。
『ヨハネの黙示録』は『新約聖書』の最後に配置された書であり、『新約聖書』の中で唯一預言書的性格を持つ書であるが、これまでの福音書とは違う恐怖に満ちた恐るべき終末世界が描かれた異端の書であるが、この著書を著したヨハネとはどんな人物か?
キリスト教で有名なヨハネは2人おり、1人は「洗礼者ヨハネ」(『新約聖書』に登場する、ヨルダン川イエスに洗礼を授けた人、預言者)であり、もう一人は使徒ヨハネ(イエス【ナザレのイエス】の12使徒の1人。4つの福音書の1つ「ヨハネの福音書」の著者とされる) 。
一応後者ではないかとされているが、はっきりしたことはわからず、真の人物は謎のようだ。また、『黙示録』(特に21章と22章)における終末理解と『ヨハネによる福音書』の著者の終末理解には大きな隔たりがあることを指摘する学者も多く、『ペトロの黙示録』と共に「真性に疑問のある書物」として聖書正典収録に関しての議論が巻き起こっていたものらしいが、最終的には中世末期、正教会でも正典に加えられはしたものの、聖書の中で唯一奉神礼で朗読されることのない書となっているそうだ(Wikipedia)。
ヨハネの黙示録が記された時代は、ローマ帝国ドミティアヌス帝末期の紀元96年頃とされているが、ネロ帝の69年頃との説もあるようだが、前者の説が有力な様である。いずれにしても、どちらの皇帝もキリスト教徒への迫害があり、当時はキリスト教徒受難の時代であったようだ。
迫害に遭った使徒たちの中で唯一殉教しなかったとされているヨハネであるが、その後、ヨハネは、エーゲ海の孤島パトモス島に幽閉され、この地で、ヨハネは或る日、神の啓示を受け、未来の出来事を目にする(ヨハネ黙1:9)。
『ヨハネの黙示録』は、それを書き留め、古代キリスト教の小アジア(現在のトルコ西部)にある7つの主要なキリスト教信者の団体(水と御霊の福音への信仰によって創立された教会【黙示録 第2章 1-1】)にあてられる書簡という形をとっている。その構成は、ここを見られると簡単にわかる。
戦乱や飢饉、大地震など、ありとあらゆる禍が、そして、天使と悪魔の戦いやの様子を記して終わっている。詳しく知りたければ、以下参考に記載の※2「聖書」のヨハネの黙示を読まれるとよい。重複するが要約すると以下のようになる。
黙示録には、人々の偶像礼拝(神への不信仰)と不品行(性の乱れも含まれる)、 それに対する神の激しい怒りが、繰り返し述べられている。
この世の終わり(世界の終末)には海から「666」で暗示される竜のような怪獣(サタン)が現れ、その偶像を崇拝しない者は処刑される時代が到来する。
それに対し天使率いる神の軍が対抗し、悪霊(=獣=終末の時代の独裁者。と、彼に同調する連合軍。反キリスト)がイスラエルハルマゲドンメギドの丘)に集結 (第16章:12-16)し、サタンと神の最終戦争が勃発する。神(キリスト)は、ハルマゲドンの戦いに勝利し、地上の悪の勢力を一掃。そののち神は、地上に降りてきて、「千年王国」を樹立する。…と、いうものである。
このヨハネの語る終末の中には、世界の終末が2度訪れることになる。最初の終末時には世界が滅び、メシアが来臨して、幸福な千年王国を樹立する。千年の後、一時的に投獄されていたサタンが復活し、最後の決戦を行うが、これによってサタンは滅び、最終的な終末が訪れる。
その後、最後の審判が行われるが、この時、数々の書物が開かれ「死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じて裁かれた。」が、もう一つ「命の書」(20章 12節)が開かれここに名前のない人は地獄に落とされ、名前のある人は天国に昇ることができる。そして最後に、救世主イエスの再臨はまもなくだと伝え、ヨハネの黙示録は終わる。
この「命の書」は、イエス・キリストを自分の救い主として個人的に受け入れ、信じた者たち、すなわちクリスチャンたちの名前がすべて記されてある名簿のようなものなのだろうか。裁きを受けたものは、この世の不信者であり、キリストの救いを拒んだ人々だろう。「一度死ぬことと死後にさばきを受けることとが人間には、定まっている」・・・とヘブル人への手紙第9章27節(※2参照)にも書かれている。

上掲の画像は、Maria Yakunchikova Fear. 1893-95年頃の作品。Wikipediaより。
。ところで、人が恐怖を感じるのはどのような時だろうか・・?
暗い所や一人でいる時とき、また、オーメンのようなオカルト映画を見たときなど、人それぞれ、その状況等によってもいろいろと感じ方は違うだろう。
恐怖(英::fear, horror)は現実もしくは想像上の危険、喜ばしくないリスクに対する強い生物学的な感覚であり、ジョン・ワトソンパウル・エクマンなどの心理学者は恐怖をほかの基礎的な感情である喜び、怒りとともに、これらをすべての人間に内在する感情だと主張しており、ワトソンは、生後11ヶ月の幼児アルバート坊やを対象に恐怖条件づけを行った実験(※5参照)から、おとなの抱く不安や恐怖も、多くは幼年期の経験(心的外傷=トラウマ)が由来しているものだとしている。
また実際の世界においても、第二次世界大戦や、阪神・淡路大震災東日本大震災といったような特に強いトラウマ的な事故などを経験した場合、後にその記憶がフラッシュバック)し、長期間にわたって被体験者を苦しめること(PTSD)が指摘されている。
「トラウマ(心的外傷)」というのは、過去の体験に基づき、「大脳辺縁系扁桃体)」というところに「特定の情動反応」が学習されてしまうために起こるという。この反応と同時に頭の中に過去の情景が蘇ったり、聞こえないはずの音や言葉が聞こえてしまうというのが「フラッシュバック」だそうである(※6)。だから、扁桃体を失うと「恐怖」の感情がなくなってしまうそうだ。
「恐怖」を表す英語の“fear”は「思いがけない危険」を意味する古い英語の“faer”に由来し、それは「驚き(fright)」をも意味している。つまり、恐怖の対象となる危険は具体的・現実的で、はっきり認識できるものであり、驚きの要素が含まれている。そこには、危険への防御本能が働いていると言えるかもしれない。
人間には、まず、「目に見えるものへの恐怖」と「目には見えないもの-未知-への恐怖」がある。「目で見えるものへの恐怖」は近所の猛犬といった特定の動物とか、ヒステリー症の奥さんや、意地悪な上司、また自分と比較して異常に大きな人や怖い顔をした見知らぬ人、それに高いところと言ったものの他、スプラッター映画で血を吹き出すシーンや、惨殺シーンに恐怖したり、ホラー映画における絶叫や床のきしむ音を聞いて恐怖するものもある。
これらは、見た後で、自分に多大な被害、や苦痛、ひいてはが及ぶであろうことを想像することから恐怖を感じるのであろうが、特に死を予感した時には、多くの人が相当な恐怖を感じるだろう。
哲学者の樫山欽四郎は、『哲学概説』において、人間の本質的な特性として「を自覚する存在」であることを挙げ、「死を知ることがなければ、人間はこれほど楽なことはない」という趣旨の言葉を述べているそうだ(Wikipedia)。
人間が他の生物と異なる1つの特徴は、人間は全て(そして自分自身も)やがて死ぬということを「知っている」ことだともいう。いいかえると、未来を考えることができる動物は人間だけであるともいえ(※7参照)、これが、文化的世界観(人生に意味を与え、自己評価の基準となる価値観を提供する)と、人がその価値観に合致することによって得られる自尊心によって統制できるとされているようだ(恐怖管理理論参照)。
そして、死を知ることが哲学への契機でもあり、また宗教への契機でもあると言えるのだろう。
かって人間は、周りにいる猛獣や自分たちとは違った部族や見知らぬ自然と闘い、「目に見えるものへの恐怖」を克服してきたが、その戦いは神話や昔話によく登場してくる。しかし、我々の住んでいる世界には、人間の活動能力の限界を超えた領域もある。それが目に見えない未知の海底や地底、大宇宙、そして時間と言った領域である。
これらは、人類の最大の特徴である「想像力」がマイナス方向へ働いた場合に発生する恐怖感と言えるだろう。何かが居る「かも知れない」、「出るかも知れない」と言う予想、想像が働くがゆえの恐怖感で、お化け屋敷や映画でよく使われる恐怖感である。
昔の人は、これらの原因を科学的に理解することができず、これらの「恐怖」が、神や悪魔亡霊怨霊といった存在を生み出した。
悪魔は、主にキリスト教やイスラム教といった一神教の世界に登場する存在であり、唯一神と対立する概念であり、神=善、悪魔=悪と考えられているが、キリスト教世界などでは、神と悪魔はしばしば混然としている。それは、『ヨハネの黙示録』にも見られるように、人間の態度いかんによって、神が悪(=天罰)を為すこともある。『ヨハネの黙示録』を読んでも神は神の意思に沿わない人間をすべて殺している。
参考※8:「「恐怖」の歴史」にもあるように、欧州のキリスト教会では、悪魔は人間の心の弱さに付けこんで、心を腐らせる邪悪な存在であると教えていた。
庶民は、教会に縋(すが)り、正しい信仰を守ることを怠れば、弱い心が悪魔に食われてしまい、神の御許に辿り着けなくなるという。つまり悪魔は、個人の信仰を揺るがせる「恐怖」なのであり、天災や疫病は、むしろ、人間が悪魔に負けて正しい信仰を失ったことに対する「神が下した天罰」と考えるのである。しかし、悪魔は、信仰の力で撃退はできるものの、根絶することは出来ない存在である。一神教世界の悪魔は、神と表裏一体の概念だからである(※9も参照)。
1973年製作の米国映画『エクソシスト』は,少女に取り憑いた悪魔とキリスト教の神父との壮絶な戦いを描いたオカルト映画の傑作であり、公開されると、リアルに描かれたショックシーンが話題を呼び、世界中で大ヒットし、空前のオカルト・ブームを巻き起こした。
1949年アメリカ・メリーランド州で実際に起きた男の子(ロビー・マンハイム。架空名)の悪魔憑き事件“メリーランド悪魔憑依事件”をもとにしたウィリアム・ピーター・ブラッティの同名小説『The Exorcist"(エクソシスト)』を原作とし、作者本人が脚色を行い製作したもので、ホラー作品でありながらアカデミー脚本賞をも受賞している。
1977年にエクソシスト2(Exorcist II: The Heretic )、1990年にエクソシスト3(The Exorcist III )も作られた。
エクソシストとは、英語で"悪魔払い(カトリック教会のエクソシスム)の祈祷師"という意味である。
実際に、ロビー・マンハイム少年の体から悪魔を追い払うための儀式は2ヶ月以上の期間にわたって30回行われたそうだ。そして悪魔が去ると、ロビーは普段の言葉を発した。その時の言葉は"Christus, Domini"(主キリスト)あるいは"Christ, Lord"(神さま)だった。これらの言葉を発した時、雷鳴やショットガンのような轟音が病院中に響いたとレポートに記されているそうだ。
悪魔祓いの後、マンハイム一家には平穏が戻り、一家は家へと帰った。やがてロビー・マンハイムは成功をおさめ、幸せな結婚をし、父親となった。そして50年が過ぎ、ロビー・マンハイムは悪魔憑きの記憶を忘れてしまった・・・という。
ロビー・マンハイムについて、精神医学的意見として、解離性同一性障害トゥレット症候群統合失調症、性的虐待、集団ヒステリーといった一般的精神医学上の解釈がなされてきたが、結局、この事件が一般的な精神医学では説明がつかないという結論に達したそうだ。映画ではなく、ロビー・マンハイム少年に起こったことなどは参考※10:「メリーランド悪魔憑依事件についての質問に対する回答Robbie Mannheim」を参照されるとよい。
世の中には、我々には理解できない怪奇現象が実際にあることは、私自身も経験して知っている。私が、子供の頃、父が商売に失敗し、家は破産状態、その上、父親は若くしてなくなってしまった。
精神的に参った母親は、宗教にのめり込み、お寺のお導師らと共に裏山の滝に打たれての修業などもしていたが、ある時から突然、に、家の仏壇の前でお経をあげる声が一段と大きくなったと思っていたら、正座したまま、お経をあげながらその場でポンポン相当高くまで飛び跳ねだしたのだ。
そんなこと私でもできないのによく肥えた母親がやりだすのだからびっくりした。お導師に聞くと、滝に打たれて修業している間にタヌキが憑いるという。そして本人自身はそのことを全然自覚していないのだ。
私は、そんな馬鹿な・・とはじめは疑ったが、奇異な行動が収まらないので、母親は、お導師にタヌキの霊を取り払ってもらうための業を始めた。そして、結構の日数がかかったが、とにかくその後は、奇妙な行動はしなくなった。
悪魔や怨霊のパワーは、科学技術の進歩によって弱められ、今は、昔ほどの影響力は持っていないが、いまだに根絶できない「目に見えない未知への恐怖」はなくならない。それが、今でも悪魔や怨霊の物語が作られ続け、人気を博している由縁であろう。
人類の最大の特徴は「想像力」をもっていることである。想像をするためには、知識が必要であり、なんの知識もない赤ん坊が、あらゆるものを恐れないのと同様に、知識のないものは恐れを知らない。「恐怖」はある面で人間のリスク回避に役立っているともいえるが、知識のない恐れを知らないものは、時として無謀にもなる。
人は恐怖を克服するために知識を付け、知識を付けることで、目に見えない恐怖も目に見えるものへと変化させ「恐怖」を克服してきたが、そのことがまた未知の恐怖の対象を増やしていくという、無限連鎖の中に陥っていくのである。知らないこと、理解できないこと、自分に認識できない事象があると言う恐怖。その恐怖は、ますます大きなものへと変わってゆくことになるのは、いかにも皮肉なことであると言っていいだろう。
1974(昭和49)年7月、日本で映画『エクソシスト』が公開されたが、この年は、「日本列島改造論」を唱えていた田中角栄首相の「田中金脈」(※11参照)が暴かれ、オイルショックによる「狂乱物価」と「便乗値上げ」とろくなことがなかった。何を頼りにして良いかわからないという無力感、そのくせ、深く物事を考えなくても生きてゆけるという風潮が高まっていた。
そんな時に、ノストラダムスが「1999年7の月」に「恐怖の大王」によって人類が滅亡すると予言した・・・と、信憑性を増すために創作された逸話などもまじえる形で紹介された五島勉の著書『ノストラダムスの大予言』(1973年、祥伝祉刊)は、このような社会不安を背景に大ベストセラーとなったが、当時、素朴にこんな予言を信じた若者も少なくなく、今、東京の拘置所に居る麻原彰晃本名:松本智津夫)率いるカルト・新興宗教「オウム真理教」による「地下鉄サリン事件」(1995年)もこの「ノストラダムスの大予言」が遠因となっていると指摘するものも居る。
このなんとなくフワァーとしたところをテレビを中心としたマスメディアが付け込み、みんながまんまと乗せられたということではないだろうか。
また、1974(昭和48)年小松左京のSF小説「日本沈没」のヒットを受けて、同年12月29日より正月映画として東宝で同名で映画化もされた。以下の画像は映画チラシ「日本沈没」。

小説の発行された1973(昭和48)年は関東大震災から50年という節目でもあり、本作によって大規模災害への不安が喚起されるきっかけともなった。
そして、ノストラダムスの大予言である”1999年の7月に地球が滅亡する“・・・という予言は、結局何事もなく過ぎてしまい、もう、このような予言を信じている人も少ないだろうと思うのだが、この当時、TVでは細木なんとかいう伯母さんの占いだか予言が人気を呼んでいた。
その後の社会情勢も不安定な情況が続く中、小松左京の『日本沈没』が2006(平成18)年、再映画化されたりしているが・・・、世の中が不安定になると人を不安に陥れるこの種の予言が流行るということだろう。
しかし、振り返れば、その間、1995(平成7)年1月17日には、あの忌まわしい阪神淡路大震災兵庫県南部地震)が発生しているが、地震予知連絡会は、東海地震 (後に東南海地震と呼称される)の予知ばかり研究しており、全くこの震災の余地は、出来ておらず、その後の新潟地震(1964年)また、2011(平成23)年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震東日本大震災)など、何も余地はできなかった。
そして、東日本大震災による地震と津波は福島第一原発事故も発生させ、その放射能汚染が、2重の災害(被害)をもたらすことにもなってしまった。
四季に恵まれた日本ではあるが、日本列島の生い立ちから地核変動による、地震が多く、地震大国とも言われている。
そして、ここのところ、周期的大地震が頻繁しているが、今年1月には、東南海地震の今後30年以内の発生確率が、昨年の「70%程度」から「70~80%」に上昇するなどと発表視されていたが、南海トラフ巨大地震の対策を検討していた国の有識者会議は、5月28日、地震予知が現状では困難と認め、備えの重要性を指摘する最終報告をまとめたと、5月29日にマスコミは一斉に報じていた(※12)。
そしてあまりにも巨大な震災なので、救助が間に合わなから各家庭で1週間分の食料等を、備蓄してほしいという。要するに政府は責任を持てないということだ。
今や、日本では、悪霊に怯えるようなことはないもののの、家族制度は崩壊し、少子高齢化の中、年金問題がどうなるかもわからず、医療や高齢者介護など問題が山積みで、高齢者の孤独死や、低所得者の餓死すら発生し、これから、どう生きるか、先の見えない不安と恐怖に怯えて生きなけれならない時代になってきた。
その上に、何時起こるかもわからない巨大地震や津波などの自然災害、それに、原子力発電所事故の不安など、生きてゆくにはあまりにも怖いことが多すぎる。
変な言い方をすると、これは、一度神に粛清された悪魔の総反撃が起きようとしているのだろうか・・・。これは、まさに恐怖以外の何物でもない・・・・。


(冒頭の画像はギリシャ数字の666。Wikipediaより)
参考:
※1:今日は何の日~毎日が記念日~
http://www.nnh.to/06/06.htmlhttp://www.nnh.to/06/06.html
※2:聖書INDEX聖書とは
http://web1.kcn.jp/tombo/v2/testament.html
※3:キリスト教読み物サイト
http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/yomu.htm#shumatsu
※4:映画 オーメン4 - allcinema
http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=3506
※5:脳と心と人工知能:情動研究における恐怖条件づけ
http://nouai.blog.fc2.com/blog-entry-102.html
※6:フラッシュバックの症状とは
http://okwave.jp/qa/q3462921.html
※7:人間だけが未来を思い描く 「スタンフォードの自分を変える教室」
http://susumu-akashi.com/2013/04/%E8%87%AA%E5%88%86%E3%82%92%E5%A4%89%E3%81%88%E3%82%8B%E6%95%99%E5%AE%A4/
※8:「恐怖」の歴史
http://www.t3.rim.or.jp/~miukun/kyoufu.htm
※9:聖書の神が悪魔を創造されたのですか - Yahoo!知恵袋
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n40718
※10:メリーランド悪魔憑依事件についての質問に対する回答Robbie Mannheim
http://www.geocities.jp/occult20100508/robbie_mannheim.txt
※11:田中首相・金脈事件
http://jikenshi.web.fc2.com/newpage145.htm
※12:南海トラフ地震の予知は困難 中央防災会議最終報告 - MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130528/dst13052817290019-n1.htm
今日のことあれこれと・・・「オカルト記念日」、「ノストラダムスの日」
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/s/%A5%A8%A5%AF%A5%BD%A5%B7%A5%B9%A5%C8
聖書研究の部屋:歴史に働いた神
http://www14.ocn.ne.jp/~godswork/
ノストラダムスと聖書の予言
http://www.geocities.jp/mongoler800/nosutora-seisyo/nosutora-seisyo0.htm
獣の数字- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8D%A3%E3%81%AE%E6%95%B0%E5%AD%97
ヨハネの黙示録 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D%E3%81%AE%E9%BB%99%E7%A4%BA%E9%8C%B2
ヨハネの黙示録666の正体 - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=qhQfNDJdiRE