1948年の今日(12月24日 )は、 GHQが、岸信介・児玉誉士夫らA級戦犯容疑者19人を釈放した日
今日はクリスマス・イブなのに、このようなタイトルでブログを書いたのは、昨日のブログ12月23日と言う日」と関連があるからである。なぜかは以下を読んでみてください。
連合国軍は第二次世界大戦後、ポツダム宣言に基づく戦争犯罪人の裁判・処罰を行った。ニュルンベルグ裁判や極東国際軍事裁判(東京裁判)の裁判所条例(憲章)は、「平和に対する罪」を犯した者をA級戦犯者、「通例の戦争犯罪」を犯した者を、B級戦犯者、「人道に対する罪」を犯した者をC級戦犯者と定めたが、ニュルンベルグ裁判と違って、東京裁判ではC級戦犯者として裁かれた者はいない。「BC級戦犯」と一括していう場合は、ジュネーヴ戦時国際法を破った罪を指している。BとCとの違いは、「B級」が士官(犯罪行為の指揮・命令に当たった者)、「C級」が下士官以下(それを具体的に実行した者)、とされたが、実際は、BとCの区別はほとんど意味が無かったようだ。
連合国軍最高司令官・マッカーサーから終戦連絡中央事務局を通じて日本政府へ通達され、本人には米第8憲兵司令部への出頭命令という形で伝達され、「A級戦犯容疑者」として逮捕された者は優に100名を超えたという。
その第1次戦犯指名として、1945(昭和20)年9月11日、39名の逮捕命令が出され、逮捕された者は主に東條英機内閣の閣僚であった。その中には、後の第56、57代総理大臣岸信介もいる。同年10月22日に逮捕命令された者が(1名)いる。 第2次戦犯指名として、同年11月19日に11名に逮捕命令が、第3次戦犯指名として、同年12月2日に59名に逮捕命令が出された。その中には、後にロッキード事件の被告、また右翼運動家、そして、「政財界の黒幕」、「フィクサー」と呼ばれている児玉誉士夫や、後に、日本船舶振興会の創設者として知られている笹川良一らの名が見える。第4次戦犯指名として、同年12月6日以降翌・1946(昭和21)年4月29日に逮捕命令の出されたものが、13名おり、その他板垣征四郎など外地で逮捕された者などのほか、外国人も多数逮捕されている(逮捕者参照)。
これら逮捕者の中から、先ず最初に28名が「A級戦犯」として訴追され、1946(昭和21)年5月3日に「東京裁判」が始まったが、残りの容疑者は、東京裁判開始後、何故か順次釈放さてていった。そして、A級戦犯として訴追された28名のうち、死亡した者2名、精神病者として免訴となった者1名を除く25名が、2年半の審理を経て1948(昭和23)年11月12日判決を受け、全員が極刑を含む有罪(絞首刑7、終身禁錮16、有期刑2人)とされ、7名の絞首刑が、同年12月23日執行されたことは、昨日のブログで書いた通りである。(「12月23日と言う日」参照)。
この処刑日の翌日・つまり、1948(昭和23)年の今日・12月24日、GHQは、裁判に掛けられた者以外の最後のA級戦犯容疑者19人(岸信介、児玉誉士夫、笹川良一等)を釈放した。そして、マッカーサーは、「この釈放によって、日本における主要戦犯の処理は完了する」という声明を発表し、ここに、東京裁判でのA級戦犯についての裁判はすべて終了した(裁判を免れたA級戦犯被指定者参照)。
A級戦犯に指名されながら、釈放された者は、少なくとも70名強存在するが、網羅的な資料が存在せず、その人数は確定できない。最初に28名を「A級戦犯」として訴追したが、この28名がどのような基準で選ばれたのかは未だによく判らない面がある。また、残りの容疑者が、東京裁判開始後、何故順次釈放さてていったのかについても多くの疑問が残っている。
人体実験で3000人以上の中国人らを殺したといわれている石井四郎(関東軍防疫給水部731部隊長)、その右腕の内藤良一ら731部隊隊)関係者はその研究資料をアメリカに引き渡すという交換条件により免責されているというのである。また、オーストラリアの代表検事マンスフィールドは、昭和天皇の訴追を強硬に主張したが、アメリカ政府の政治的判断に従うジョセフ・B・キーナン首席検察官が局長を務める国際検察局は天皇の訴追には断固反対し、免責が決定されたという。また、東京裁判の途中まで中華民国は天皇の訴追を強く要求していたが、中国国内で中国共産党軍の勢力が拡大するにつれて、アメリカの支持を取り付けるためその要求を取り下げたともいう。
岸は、東条内閣の商工大臣などを歴任。満州の開発を主導し、満州「産業開発5カ年計画」を実施。大蔵省出身で、満州国財政部次長や国務院総務長官を歴任し経済財政政策を統轄した星野直樹らとともに、満州経営に辣腕を振るう。同時に、太平洋戦争のA級戦犯として処刑された関東軍参謀長であった東條や里見機関の里見甫ら、軍・財・官界にまたがる広範な人脈を築いた。東條内閣時代には、商工大臣として入閣。太平洋戦争中の物資動員の全てを扱った。1942年(昭和17年)のいわゆる「翼賛選挙」で当選し、政治家としての一歩を踏み出した。
終戦後、A級戦犯容疑者として逮捕され、東京の巣鴨拘置所に笹川良一、児玉誉士夫らと共に収監されていたが、「GHQ法務局では、軍需産業への俘虜(捕虜)使用や中国人強制労働実施の責任から、岸をBC級裁判で起訴することを検討していた」という。にもかかわらず、岸はじめ笹川良一、児玉誉士夫ら巣鴨プリズンに収監されていた19人のA級戦犯容疑者がなぜか戦犯として訴追されず釈放された。これについては東西の冷戦の激化に伴いアメリカの対日政策が大きく転換(逆コース)。「戦争責任は東条英機らに負わせた。あとは、戦犯追及を打ち切り、古い体制の温存をはかって、日本を"極東の「共産主義に対する防波堤」”と位置づけ、日本を米国の世界戦略に組み込むことになった。そして、かれらがその後の日本の反動勢力の支柱となったのだという話がある。
復帰した岸は1955(昭和30)年に結成された自民党の初代幹事長に。翌・1956(昭和31)年12月14日 自民党総裁に立候補するが7票差で石橋湛山に敗れた(岸251票、石橋258票)が、外務大臣として石橋内閣に入閣。2か月後に石橋が病に倒れ、首相臨時代理を務めた。その後、石橋により後継首班に指名されたが、背景には、フィクサー・児玉誉士夫の金と影響力があったあったともいう。そして、石橋内閣を引き継ぐ形で、前内閣の全閣僚を留任、外相兼任のまま第56代内閣総理大臣に就任した。岸の総理大臣在任中の最大の懸案事項は、日米安全保障条約・新条約の調印・批准と、それを巡る安保闘争である。1960年(昭和35年)1月に訪米した岸は、アイゼンハワー大統領と会談し、新安保条約の調印と同大統領の訪日で合意した。
様々な右翼団体を転々としていた児玉は、、満州から帰ってきた後、笹川良一が結成した右翼団体·国粋大衆党に参加。外務省情報部の懇意の笹川良一の紹介で採用され、日中戦争が始まった翌1939(昭和14)年、海軍航空本部の嘱託となり、1941(昭和16)年真珠湾攻撃の直前、物資調達のため児玉を海軍の大西瀧治郎少将(後に特攻隊の生みの親となる)が抜擢、それにより上海で「児玉機関」を運営し、戦略物資を買い上げ、海軍航空本部に納入する独占契約を貰い。そこで荒稼ぎし、それをきっかけに黒幕へのし上がっていったようだ。そのような右翼の児玉、笹川らを釈放し、アメリカ情報当局は情報活動に利用していたようだという。
以下参考に記載の「戸崎将宏の行政経営百夜百冊」の、【秘密のファイル(上) (下)CIAの対日工作】(共同通信社論説副委員長兼編集委員春名 幹男 著。)の読書文の中で、”CIAが1950、60年代に自民党に資金援助していたが、1994(平成 6)年のニューヨーク・タイムズ紙で暴露されてしまったこと等が紹介されている。安保騒動では、自民党が、「全学連と戦う学生グループの創設に努力したが、不十分な資金しかなく、負けてしまいそう」であるとして、右翼や体育会系学生らを動員する資金をCIAが調達したといわれていることや、60年安保を機に、「日本では政治家と右翼とやくざの関係がぐっと近くなった」ことなどが述べられている。”・・・とある。そして、”よく何か不可思議な政治的事件があると、すぐに「CIAの陰謀に違いない」という陰謀説を言い出す人がいるが、本書ではCIAがそのような陰謀説を否定しないことが述べられている。その理由は、「恐怖感を植えつけるのも一つの作戦」で、「深層心理に『恐怖感』があるため、アメリカが嫌うようなことを発言するのを避け、アメリカが反対するような政策は実行しない」ということになり、現実にそうした「ひそかな恐怖感から逃れられない政治家が少なくないようだ」と著者は述べている”のだそうだ。また、”A級戦犯容疑者というレッテルを利用したのが笹川良一だった。笹川は、A級戦犯容疑者という肩書きを、「天皇を守る者」「反共に徹する者」「日本民族を守る者」として用いた。この肩書きは、彼の戦後の社会活動を支えた。”・・のだと。笹川は、日本船舶振興会(現在の通称は日本財団)を創設し、会長などを務め、その際、日本船舶振興会のCMに自ら出演。子供たちとの「一日一善」の掛け声や社会奉仕活動の模様が紹介されていたことを思い出す人も多いだろう。そして、彼は、1982(昭和57)年には国連平和賞を受賞しているのだから立派?・・・なものだ。
東京裁判で7名だけを見せしめのように死刑にし、その死刑執行の翌日に、最後の容疑者19名を釈放する。このことは、”お前達を裁判にかけないかわりに「アメリカに二度と逆らうな。我々は決して許したわけではないぞ」というメッセージであることを忘れるな”ということだったのだ。”・・・そうだ。これが、真実かどうかは知らないが、戦後の自民党の米国寄り一辺倒の政策を見ていると、一寸、信用したくなるよね~。それにしても、日本が仕掛けた戦争とはいえ、原爆まで落とし、日本をむちゃくちゃにしてくれた米国に対して、戦争が終わると直ぐに、日本に自由と平等・民主主義を導入してくれたアメリカさんとへつらっていける日本人はなんと、底抜けに人のよいことだろうか・・・。クリスマスイブの日に、最後のA級戦犯容疑者19人の釈放は、アメリカからの日本へのプレゼントのつもりだろうか・。???。
(画像は、「秘密のファイル〈上)CIAの対日工作」 春名 幹男 著、 新潮文庫)
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クリック→クリスマスイブ・GHQがA級戦犯容疑者19人を釈放した日:参考
今日はクリスマス・イブなのに、このようなタイトルでブログを書いたのは、昨日のブログ12月23日と言う日」と関連があるからである。なぜかは以下を読んでみてください。
連合国軍は第二次世界大戦後、ポツダム宣言に基づく戦争犯罪人の裁判・処罰を行った。ニュルンベルグ裁判や極東国際軍事裁判(東京裁判)の裁判所条例(憲章)は、「平和に対する罪」を犯した者をA級戦犯者、「通例の戦争犯罪」を犯した者を、B級戦犯者、「人道に対する罪」を犯した者をC級戦犯者と定めたが、ニュルンベルグ裁判と違って、東京裁判ではC級戦犯者として裁かれた者はいない。「BC級戦犯」と一括していう場合は、ジュネーヴ戦時国際法を破った罪を指している。BとCとの違いは、「B級」が士官(犯罪行為の指揮・命令に当たった者)、「C級」が下士官以下(それを具体的に実行した者)、とされたが、実際は、BとCの区別はほとんど意味が無かったようだ。
連合国軍最高司令官・マッカーサーから終戦連絡中央事務局を通じて日本政府へ通達され、本人には米第8憲兵司令部への出頭命令という形で伝達され、「A級戦犯容疑者」として逮捕された者は優に100名を超えたという。
その第1次戦犯指名として、1945(昭和20)年9月11日、39名の逮捕命令が出され、逮捕された者は主に東條英機内閣の閣僚であった。その中には、後の第56、57代総理大臣岸信介もいる。同年10月22日に逮捕命令された者が(1名)いる。 第2次戦犯指名として、同年11月19日に11名に逮捕命令が、第3次戦犯指名として、同年12月2日に59名に逮捕命令が出された。その中には、後にロッキード事件の被告、また右翼運動家、そして、「政財界の黒幕」、「フィクサー」と呼ばれている児玉誉士夫や、後に、日本船舶振興会の創設者として知られている笹川良一らの名が見える。第4次戦犯指名として、同年12月6日以降翌・1946(昭和21)年4月29日に逮捕命令の出されたものが、13名おり、その他板垣征四郎など外地で逮捕された者などのほか、外国人も多数逮捕されている(逮捕者参照)。
これら逮捕者の中から、先ず最初に28名が「A級戦犯」として訴追され、1946(昭和21)年5月3日に「東京裁判」が始まったが、残りの容疑者は、東京裁判開始後、何故か順次釈放さてていった。そして、A級戦犯として訴追された28名のうち、死亡した者2名、精神病者として免訴となった者1名を除く25名が、2年半の審理を経て1948(昭和23)年11月12日判決を受け、全員が極刑を含む有罪(絞首刑7、終身禁錮16、有期刑2人)とされ、7名の絞首刑が、同年12月23日執行されたことは、昨日のブログで書いた通りである。(「12月23日と言う日」参照)。
この処刑日の翌日・つまり、1948(昭和23)年の今日・12月24日、GHQは、裁判に掛けられた者以外の最後のA級戦犯容疑者19人(岸信介、児玉誉士夫、笹川良一等)を釈放した。そして、マッカーサーは、「この釈放によって、日本における主要戦犯の処理は完了する」という声明を発表し、ここに、東京裁判でのA級戦犯についての裁判はすべて終了した(裁判を免れたA級戦犯被指定者参照)。
A級戦犯に指名されながら、釈放された者は、少なくとも70名強存在するが、網羅的な資料が存在せず、その人数は確定できない。最初に28名を「A級戦犯」として訴追したが、この28名がどのような基準で選ばれたのかは未だによく判らない面がある。また、残りの容疑者が、東京裁判開始後、何故順次釈放さてていったのかについても多くの疑問が残っている。
人体実験で3000人以上の中国人らを殺したといわれている石井四郎(関東軍防疫給水部731部隊長)、その右腕の内藤良一ら731部隊隊)関係者はその研究資料をアメリカに引き渡すという交換条件により免責されているというのである。また、オーストラリアの代表検事マンスフィールドは、昭和天皇の訴追を強硬に主張したが、アメリカ政府の政治的判断に従うジョセフ・B・キーナン首席検察官が局長を務める国際検察局は天皇の訴追には断固反対し、免責が決定されたという。また、東京裁判の途中まで中華民国は天皇の訴追を強く要求していたが、中国国内で中国共産党軍の勢力が拡大するにつれて、アメリカの支持を取り付けるためその要求を取り下げたともいう。
岸は、東条内閣の商工大臣などを歴任。満州の開発を主導し、満州「産業開発5カ年計画」を実施。大蔵省出身で、満州国財政部次長や国務院総務長官を歴任し経済財政政策を統轄した星野直樹らとともに、満州経営に辣腕を振るう。同時に、太平洋戦争のA級戦犯として処刑された関東軍参謀長であった東條や里見機関の里見甫ら、軍・財・官界にまたがる広範な人脈を築いた。東條内閣時代には、商工大臣として入閣。太平洋戦争中の物資動員の全てを扱った。1942年(昭和17年)のいわゆる「翼賛選挙」で当選し、政治家としての一歩を踏み出した。
終戦後、A級戦犯容疑者として逮捕され、東京の巣鴨拘置所に笹川良一、児玉誉士夫らと共に収監されていたが、「GHQ法務局では、軍需産業への俘虜(捕虜)使用や中国人強制労働実施の責任から、岸をBC級裁判で起訴することを検討していた」という。にもかかわらず、岸はじめ笹川良一、児玉誉士夫ら巣鴨プリズンに収監されていた19人のA級戦犯容疑者がなぜか戦犯として訴追されず釈放された。これについては東西の冷戦の激化に伴いアメリカの対日政策が大きく転換(逆コース)。「戦争責任は東条英機らに負わせた。あとは、戦犯追及を打ち切り、古い体制の温存をはかって、日本を"極東の「共産主義に対する防波堤」”と位置づけ、日本を米国の世界戦略に組み込むことになった。そして、かれらがその後の日本の反動勢力の支柱となったのだという話がある。
復帰した岸は1955(昭和30)年に結成された自民党の初代幹事長に。翌・1956(昭和31)年12月14日 自民党総裁に立候補するが7票差で石橋湛山に敗れた(岸251票、石橋258票)が、外務大臣として石橋内閣に入閣。2か月後に石橋が病に倒れ、首相臨時代理を務めた。その後、石橋により後継首班に指名されたが、背景には、フィクサー・児玉誉士夫の金と影響力があったあったともいう。そして、石橋内閣を引き継ぐ形で、前内閣の全閣僚を留任、外相兼任のまま第56代内閣総理大臣に就任した。岸の総理大臣在任中の最大の懸案事項は、日米安全保障条約・新条約の調印・批准と、それを巡る安保闘争である。1960年(昭和35年)1月に訪米した岸は、アイゼンハワー大統領と会談し、新安保条約の調印と同大統領の訪日で合意した。
様々な右翼団体を転々としていた児玉は、、満州から帰ってきた後、笹川良一が結成した右翼団体·国粋大衆党に参加。外務省情報部の懇意の笹川良一の紹介で採用され、日中戦争が始まった翌1939(昭和14)年、海軍航空本部の嘱託となり、1941(昭和16)年真珠湾攻撃の直前、物資調達のため児玉を海軍の大西瀧治郎少将(後に特攻隊の生みの親となる)が抜擢、それにより上海で「児玉機関」を運営し、戦略物資を買い上げ、海軍航空本部に納入する独占契約を貰い。そこで荒稼ぎし、それをきっかけに黒幕へのし上がっていったようだ。そのような右翼の児玉、笹川らを釈放し、アメリカ情報当局は情報活動に利用していたようだという。
以下参考に記載の「戸崎将宏の行政経営百夜百冊」の、【秘密のファイル(上) (下)CIAの対日工作】(共同通信社論説副委員長兼編集委員春名 幹男 著。)の読書文の中で、”CIAが1950、60年代に自民党に資金援助していたが、1994(平成 6)年のニューヨーク・タイムズ紙で暴露されてしまったこと等が紹介されている。安保騒動では、自民党が、「全学連と戦う学生グループの創設に努力したが、不十分な資金しかなく、負けてしまいそう」であるとして、右翼や体育会系学生らを動員する資金をCIAが調達したといわれていることや、60年安保を機に、「日本では政治家と右翼とやくざの関係がぐっと近くなった」ことなどが述べられている。”・・・とある。そして、”よく何か不可思議な政治的事件があると、すぐに「CIAの陰謀に違いない」という陰謀説を言い出す人がいるが、本書ではCIAがそのような陰謀説を否定しないことが述べられている。その理由は、「恐怖感を植えつけるのも一つの作戦」で、「深層心理に『恐怖感』があるため、アメリカが嫌うようなことを発言するのを避け、アメリカが反対するような政策は実行しない」ということになり、現実にそうした「ひそかな恐怖感から逃れられない政治家が少なくないようだ」と著者は述べている”のだそうだ。また、”A級戦犯容疑者というレッテルを利用したのが笹川良一だった。笹川は、A級戦犯容疑者という肩書きを、「天皇を守る者」「反共に徹する者」「日本民族を守る者」として用いた。この肩書きは、彼の戦後の社会活動を支えた。”・・のだと。笹川は、日本船舶振興会(現在の通称は日本財団)を創設し、会長などを務め、その際、日本船舶振興会のCMに自ら出演。子供たちとの「一日一善」の掛け声や社会奉仕活動の模様が紹介されていたことを思い出す人も多いだろう。そして、彼は、1982(昭和57)年には国連平和賞を受賞しているのだから立派?・・・なものだ。
東京裁判で7名だけを見せしめのように死刑にし、その死刑執行の翌日に、最後の容疑者19名を釈放する。このことは、”お前達を裁判にかけないかわりに「アメリカに二度と逆らうな。我々は決して許したわけではないぞ」というメッセージであることを忘れるな”ということだったのだ。”・・・そうだ。これが、真実かどうかは知らないが、戦後の自民党の米国寄り一辺倒の政策を見ていると、一寸、信用したくなるよね~。それにしても、日本が仕掛けた戦争とはいえ、原爆まで落とし、日本をむちゃくちゃにしてくれた米国に対して、戦争が終わると直ぐに、日本に自由と平等・民主主義を導入してくれたアメリカさんとへつらっていける日本人はなんと、底抜けに人のよいことだろうか・・・。クリスマスイブの日に、最後のA級戦犯容疑者19人の釈放は、アメリカからの日本へのプレゼントのつもりだろうか・。???。
(画像は、「秘密のファイル〈上)CIAの対日工作」 春名 幹男 著、 新潮文庫)
このヴログの字数制限上参考は別紙としました。以下をクリックするとこの下のページに表示されます。
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