今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

クリスマス・イブ・GHQがA級戦犯容疑者19人を釈放した日

2007-12-24 | 歴史
1948年の今日(12月24日 )は、 GHQが、岸信介・児玉誉士夫らA級戦犯容疑者19人を釈放した日
今日はクリスマス・イブなのに、このようなタイトルでブログを書いたのは、昨日のブログ12月23日と言う日」と関連があるからである。なぜかは以下を読んでみてください。
連合国軍は第二次世界大戦後、ポツダム宣言に基づく戦争犯罪人の裁判・処罰を行った。ニュルンベルグ裁判極東国際軍事裁判(東京裁判)の裁判所条例(憲章)は、「平和に対する罪」を犯した者をA級戦犯者、「通例の戦争犯罪」を犯した者を、B級戦犯者、「人道に対する罪」を犯した者をC級戦犯者と定めたが、ニュルンベルグ裁判と違って、東京裁判ではC級戦犯者として裁かれた者はいない。「BC級戦犯」と一括していう場合は、ジュネーヴ戦時国際法を破った罪を指している。BとCとの違いは、「B級」が士官(犯罪行為の指揮・命令に当たった者)、「C級」が下士官以下(それを具体的に実行した者)、とされたが、実際は、BとCの区別はほとんど意味が無かったようだ。
連合国軍最高司令官・マッカーサーから終戦連絡中央事務局を通じて日本政府へ通達され、本人には米第8憲兵司令部への出頭命令という形で伝達され、「A級戦犯容疑者」として逮捕された者は優に100名を超えたという。
その第1次戦犯指名として、1945(昭和20)年9月11日、39名の逮捕命令が出され、逮捕された者は主に東條英機内閣の閣僚であった。その中には、後の第56、57代総理大臣岸信介もいる。同年10月22日に逮捕命令された者が(1名)いる。 第2次戦犯指名として、同年11月19日に11名に逮捕命令が、第3次戦犯指名として、同年12月2日に59名に逮捕命令が出された。その中には、後にロッキード事件の被告、また右翼運動家、そして、「政財界の黒幕」、「フィクサー」と呼ばれている児玉誉士夫や、後に、日本船舶振興会の創設者として知られている笹川良一らの名が見える。第4次戦犯指名として、同年12月6日以降翌・1946(昭和21)年4月29日に逮捕命令の出されたものが、13名おり、その他板垣征四郎など外地で逮捕された者などのほか、外国人も多数逮捕されている(逮捕者参照)。
これら逮捕者の中から、先ず最初に28名が「A級戦犯」として訴追され、1946(昭和21)年5月3日に「東京裁判」が始まったが、残りの容疑者は、東京裁判開始後、何故か順次釈放さてていった。そして、A級戦犯として訴追された28名のうち、死亡した者2名、精神病者として免訴となった者1名を除く25名が、2年半の審理を経て1948(昭和23)年11月12日判決を受け、全員が極刑を含む有罪(絞首刑7、終身禁錮16、有期刑2人)とされ、7名の絞首刑が、同年12月23日執行されたことは、昨日のブログで書いた通りである。(「12月23日と言う日」参照)。
この処刑日の翌日・つまり、1948(昭和23)年の今日・12月24日、GHQは、裁判に掛けられた者以外の最後のA級戦犯容疑者19人(岸信介、児玉誉士夫、笹川良一等)を釈放した。そして、マッカーサーは、「この釈放によって、日本における主要戦犯の処理は完了する」という声明を発表し、ここに、東京裁判でのA級戦犯についての裁判はすべて終了した(裁判を免れたA級戦犯被指定者参照)。
A級戦犯に指名されながら、釈放された者は、少なくとも70名強存在するが、網羅的な資料が存在せず、その人数は確定できない。最初に28名を「A級戦犯」として訴追したが、この28名がどのような基準で選ばれたのかは未だによく判らない面がある。また、残りの容疑者が、東京裁判開始後、何故順次釈放さてていったのかについても多くの疑問が残っている。
人体実験で3000人以上の中国人らを殺したといわれている石井四郎(関東軍防疫給水部731部隊長)、その右腕の内藤良一731部隊隊)関係者はその研究資料をアメリカに引き渡すという交換条件により免責されているというのである。また、オーストラリアの代表検事マンスフィールドは、昭和天皇の訴追を強硬に主張したが、アメリカ政府の政治的判断に従うジョセフ・B・キーナン首席検察官が局長を務める国際検察局は天皇の訴追には断固反対し、免責が決定されたという。また、東京裁判の途中まで中華民国は天皇の訴追を強く要求していたが、中国国内で中国共産党軍の勢力が拡大するにつれて、アメリカの支持を取り付けるためその要求を取り下げたともいう。
岸は、東条内閣の商工大臣などを歴任。満州の開発を主導し、満州「産業開発5カ年計画」を実施。大蔵省出身で、満州国財政部次長や国務院総務長官を歴任し経済財政政策を統轄した星野直樹らとともに、満州経営に辣腕を振るう。同時に、太平洋戦争のA級戦犯として処刑された関東軍参謀長であった東條や里見機関の里見甫ら、軍・財・官界にまたがる広範な人脈を築いた。東條内閣時代には、商工大臣として入閣。太平洋戦争中の物資動員の全てを扱った。1942年(昭和17年)のいわゆる「翼賛選挙」で当選し、政治家としての一歩を踏み出した。
終戦後、A級戦犯容疑者として逮捕され、東京の巣鴨拘置所に笹川良一、児玉誉士夫らと共に収監されていたが、「GHQ法務局では、軍需産業への俘虜(捕虜)使用や中国人強制労働実施の責任から、岸をBC級裁判で起訴することを検討していた」という。にもかかわらず、岸はじめ笹川良一、児玉誉士夫ら巣鴨プリズンに収監されていた19人のA級戦犯容疑者がなぜか戦犯として訴追されず釈放された。これについては東西の冷戦の激化に伴いアメリカの対日政策が大きく転換(逆コース)。「戦争責任は東条英機らに負わせた。あとは、戦犯追及を打ち切り、古い体制の温存をはかって、日本を"極東の「共産主義に対する防波堤」”と位置づけ、日本を米国の世界戦略に組み込むことになった。そして、かれらがその後の日本の反動勢力の支柱となったのだという話がある。
復帰した岸は1955(昭和30)年に結成された自民党の初代幹事長に。翌・1956(昭和31)年12月14日 自民党総裁に立候補するが7票差で石橋湛山に敗れた(岸251票、石橋258票)が、外務大臣として石橋内閣に入閣。2か月後に石橋が病に倒れ、首相臨時代理を務めた。その後、石橋により後継首班に指名されたが、背景には、フィクサー・児玉誉士夫の金と影響力があったあったともいう。そして、石橋内閣を引き継ぐ形で、前内閣の全閣僚を留任、外相兼任のまま第56代内閣総理大臣に就任した。岸の総理大臣在任中の最大の懸案事項は、日米安全保障条約・新条約の調印・批准と、それを巡る安保闘争である。1960年(昭和35年)1月に訪米した岸は、アイゼンハワー大統領と会談し、新安保条約の調印と同大統領の訪日で合意した。
様々な右翼団体を転々としていた児玉は、、満州から帰ってきた後、笹川良一が結成した右翼団体·国粋大衆党に参加。外務省情報部の懇意の笹川良一の紹介で採用され、日中戦争が始まった翌1939(昭和14)年、海軍航空本部の嘱託となり、1941(昭和16)年真珠湾攻撃の直前、物資調達のため児玉を海軍の大西瀧治郎少将(後に特攻隊の生みの親となる)が抜擢、それにより上海で「児玉機関」を運営し、戦略物資を買い上げ、海軍航空本部に納入する独占契約を貰い。そこで荒稼ぎし、それをきっかけに黒幕へのし上がっていったようだ。そのような右翼の児玉、笹川らを釈放し、アメリカ情報当局は情報活動に利用していたようだという。
以下参考に記載の「戸崎将宏の行政経営百夜百冊」の、【秘密のファイル(上) (下)CIAの対日工作】(共同通信社論説副委員長兼編集委員春名 幹男 著。)の読書文の中で、”CIAが1950、60年代に自民党に資金援助していたが、1994(平成 6)年のニューヨーク・タイムズ紙で暴露されてしまったこと等が紹介されている。安保騒動では、自民党が、「全学連と戦う学生グループの創設に努力したが、不十分な資金しかなく、負けてしまいそう」であるとして、右翼や体育会系学生らを動員する資金をCIAが調達したといわれていることや、60年安保を機に、「日本では政治家と右翼とやくざの関係がぐっと近くなった」ことなどが述べられている。”・・・とある。そして、”よく何か不可思議な政治的事件があると、すぐに「CIAの陰謀に違いない」という陰謀説を言い出す人がいるが、本書ではCIAがそのような陰謀説を否定しないことが述べられている。その理由は、「恐怖感を植えつけるのも一つの作戦」で、「深層心理に『恐怖感』があるため、アメリカが嫌うようなことを発言するのを避け、アメリカが反対するような政策は実行しない」ということになり、現実にそうした「ひそかな恐怖感から逃れられない政治家が少なくないようだ」と著者は述べている”のだそうだ。また、”A級戦犯容疑者というレッテルを利用したのが笹川良一だった。笹川は、A級戦犯容疑者という肩書きを、「天皇を守る者」「反共に徹する者」「日本民族を守る者」として用いた。この肩書きは、彼の戦後の社会活動を支えた。”・・のだと。笹川は、日本船舶振興会(現在の通称は日本財団)を創設し、会長などを務め、その際、日本船舶振興会のCMに自ら出演。子供たちとの「一日一善」の掛け声や社会奉仕活動の模様が紹介されていたことを思い出す人も多いだろう。そして、彼は、1982(昭和57)年には国連平和賞を受賞しているのだから立派?・・・なものだ。
東京裁判で7名だけを見せしめのように死刑にし、その死刑執行の翌日に、最後の容疑者19名を釈放する。このことは、”お前達を裁判にかけないかわりに「アメリカに二度と逆らうな。我々は決して許したわけではないぞ」というメッセージであることを忘れるな”ということだったのだ。”・・・そうだ。これが、真実かどうかは知らないが、戦後の自民党の米国寄り一辺倒の政策を見ていると、一寸、信用したくなるよね~。それにしても、日本が仕掛けた戦争とはいえ、原爆まで落とし、日本をむちゃくちゃにしてくれた米国に対して、戦争が終わると直ぐに、日本に自由と平等・民主主義を導入してくれたアメリカさんとへつらっていける日本人はなんと、底抜けに人のよいことだろうか・・・。クリスマスイブの日に、最後のA級戦犯容疑者19人の釈放は、アメリカからの日本へのプレゼントのつもりだろうか・。???。
(画像は、「秘密のファイル〈上)CIAの対日工作」 春名 幹男 著、 新潮文庫)
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クリスマスイブ・GHQがA級戦犯容疑者19人を釈放した日:参考

2007-12-24 | 歴史
参考:
A級戦犯 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/A%E7%B4%9A%E6%88%A6%E7%8A%AF
極東国際軍事裁判所条例〔1946年1月19日〕
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/saibannsyojyourei.htm
国立国会図書館・資料群名(日本語仮訳) 国際検察局文書
http://www.ndl.go.jp/jp/data/kensei_shiryo/senryo/IPS.html
独り27‐A級戦犯のその後
http://www.geocities.jp/yamamrhr/ProIKE0911-27.html
安保改定問題Ⅲ(岸信介内閣、皇太子昭仁親王の結婚式)
http://www.eonet.ne.jp/~chushingura/p_nihonsi/episodo/251_300/279_03.htm
東京裁判とは何か・要旨 - 望月秀人のウェブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/a995901d/49199719.html
戸崎将宏の行政経営百夜百冊
http://www.pm-forum.org/100satsu/archives/2006/08/
秘密のファイル〈上〉―CIAの対日工作 (春名 幹男 著、 新潮文庫)
http://www.amazon.co.jp/%E7%A7%98%E5%AF%86%E3%81%AE%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%80%88%E4%B8%8A%E3%80%89%E2%80%95CIA%E3%81%AE%E5%AF%BE%E6%97%A5%E5%B7%A5%E4%BD%9C-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%98%A5%E5%90%8D-%E5%B9%B9%E7%94%B7/dp/410114821X

12月23日と言う日

2007-12-23 | 歴史
今日は「12月23日」であり、グレゴリオ暦で年始から357日目にあたり、年末まであと8日。いよいよ年の瀬年も押し迫り、皆さんも1年の締めくくり、正月・新年にの準備にとまさに大忙しの頃であろう。それに、明日は、クリスマスイブでもある。若い頃、飲兵衛だった私など、今日当たりも「イブイブ」だなんていいながら、周りが忙しくしている中、馴染みのバーなどの梯子をしていたのを思い出す。私は、仏教徒なので、クリスマスなどどうでも良い。単なる飲兵衛の飲む口実に過ぎない。
12月23日のできごとや、誕生日、忌日、記念日・年中行事などは、以下参考に記載のフリー百科事典Wikipediaの12月23日を見られると良い。
記念日としての、今日は、「天皇誕生日 である。
「天皇誕生日 」は、国民の祝日の1つで、今上天皇(在位中の天皇)の誕生日を祝う日。第二次世界大戦終結までは、天長節(てんちょうせつ)と呼ばれていた。天長節の名は古く、玄宗皇帝の誕生日を天長節と祝った事に由来する。天長は老子の「天長地久」よりとられている。
天長節の歌
http://www.d1.dion.ne.jp/~j_kihira/band/midi/tencho.html
天長節は古くから祝われていたようであるが、国家の祝日として表舞台に現れるのは、1868年11月6日(旧暦:明治元年9月22日)に明治天皇の誕生日(嘉永5年9月22日(グレゴリオ暦1852年11月3日))を天長節として祝ったときである。以降、大正時代は大正天皇の誕生日8月31日が、1927(昭和2)年から1948(昭和23)年までは昭和天皇の誕生日であった4月29日が天長節であった。そして、戦後の1949(昭和24)年からは祝日法によって「天皇誕生日」と名称変更され、今上天皇である明仁陛下の誕生日である12月23日を「天皇の誕生日を祝う日」として法律で定められた。現在は、この日に皇居において、一般参賀が行われている。宮内庁HP天皇誕生日一般参賀参照)
ところで、「天皇誕生日 」の話しを書きながら、何故今日のタイトルを素直に「天皇誕生日 」とせず「12月23日と言う日」などとしたのかは、これから以下に書いてあることを読んでもらえば判るだろう。
1948(昭和23)年の今日・12月23日 は、極東国際軍事裁判(東京裁判ともいう)で、死刑判決を受けたA級戦犯7名の絞首刑が執行された日でもある。その7名とは、Wikipediaの12月23日の忌日にも記載されている、 広田弘毅(第32代内閣総理大臣)、東條英機(第40代内閣総理大臣)、 松井石根(陸軍大将、中支那方面軍司令官)、 板垣征四郎(陸軍大将、陸軍大臣)、 木村兵太郎(陸軍大将、ビルマ方面軍司令官)、土肥原賢二(陸軍大将、奉天特務機関長)、 武藤章(陸軍中将、陸軍省軍務局長)である。
連合軍(連合国参照)は、第2次世界大戦後、ポツダム宣言に基づく戦争犯罪人の裁判・処罰を行った。このうち日本のBC級戦犯は、捕虜や一般市民に対する殺害・虐待などいわゆる「通例の戦争犯罪」を裁いたもので、1945(昭和20)年10月~1951(昭和26)年4月にかけて、連合国軍総司令部(GHQ)により横浜やマニラなど世界49カ所の軍事法廷で裁かれ、のちに減刑された人も含め約1000人が死刑判決を受けたとされるが、このBC級裁判は、その当初から多くの問題をはらんでいたが、今回はその問題がテーマーではないので書くことを省略する。
1945(昭和20)年8月8日、米英仏ソがポツダム宣言の第10項の戦犯処罰規程を根拠に「欧州枢軸諸国の重要戦争犯罪人の訴追及び処罰に関する協定」(ロンドン協定・戦犯協定)を締結(以下参考に記載の資料1.1945年8月8日のロンドン協定参照)。ここで「平和に対する罪」と「人道に対する罪」という新しい戦争犯罪の概念が登場。この新しい戦争犯罪の概念を根拠に、極東軍事裁判所条例により、東京において行われた極東国際軍事裁判(東京裁判)が、A級戦犯への裁判である。
1946(昭和21)年4月29日に起訴され、5月3日に開廷した東京裁判は、2年半の審理を経て1948(昭和23)年11月12日に判決を迎えた。A級戦犯として訴追された28名のうち、死亡した者2名、精神病者として免訴となった者1名を除く25名全員が極刑を含む有罪(絞首刑7、終身禁錮16、有期刑2人)とされた。
極東国際軍事裁判において、ナチスドイツ軍のユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)や日本軍の南京大虐殺は「人道に対する罪」として、指揮官・実行者の責任が厳しく追求されたが、アメリカ軍による広島や長崎への原爆投下(詳細は詳細は広島市への原子爆弾投下及び長崎市への原子爆弾投下参照)や一般市民への絨毯爆撃東京大空襲・各都市空襲など) 、アメリカ、イギリス軍によるドレスデン爆撃などは不問に付され、現代でも正当な行為とされているなど、勝てば官軍、勝者が「正義」と言うべきか。
東京裁判での審理は裁判というよりは、日本国家の軍事・政治行動への弾劾といえるものであった。過去に例のない「平和に対する罪」と国家指導者個人の戦争責任を裁いたこの裁判はニュールンベルグ裁判とともに、その合法性が激しく法廷で争われた。戦勝国が敗戦国の戦争行為を追及することの当否が問題視もされた。日本は無罪という意見をもつ判事もいたが、中でもインドのラダ・ピノド・パル判事は「勝者の裁き」に欺瞞性を見ていた。(アサヒクロニクル「週間20世紀」)
だが、多数決による判決は、全員が有罪となった、しかし、天皇の戦争責任は問われずに終わった。このようなことが、今日でもなお議論を呼んでいる。
もう、お分かりだろうと思うが、A級戦犯の起訴された日が昭和天皇の誕生日(当時は天長節)である4月29日であり、有罪として絞首刑を宣告された7名の死刑執行をあえて今上天皇(当時は、皇太子明仁)の誕生日である12月23日の今日としたことは何を物語っているのであろうか。
天長節の天長は老子の「天長地久」よりとられていることは先に書いたが、出典は「老子」だが、これは、白楽天の「長恨歌(ちょうごんか)」からとったもので、安禄山の乱で楊貴妃を失った玄宗皇帝の深い悲しみをうたった詩である。今日は「12月23日」の「天皇誕生日 」(元天長節)に・・・あなたは何を感じますか・・・・。
(画像は、1948年11月12日の東京裁判の判決結果を伝える13日付朝日新聞。朝日クロニクル「週間20世紀」より)
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12月23日と言う日:参考

2007-12-23 | 歴史
参考:
12月23日 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/12%E6%9C%8823%E6%97%A5
天皇誕生日 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E8%AA%95%E7%94%9F%E6%97%A5?
宮内庁ホームページ
http://www.kunaicho.go.jp/
天長節
http://www.d1.dion.ne.jp/~j_kihira/band/midi/tencho.html
クリスマス・イヴ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%B4
仏教 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99
日本の戦争犯罪についての軍事裁判
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/gunnjisaibann.htm
極東国際軍事(東京)裁判
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/tokyosaibann.htm
資料1.1945年8月8日のロンドン協定
http://www.jca.apc.org/~altmedka/ron-23-lon.html
アメリカによる広島・長崎への原爆投下こそ「人道に対する罪」 
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/honbun/genbaku.html
外務省: 歴史問題Q&A 関連資料集13.極東国際軍事裁判(「東京裁判」)について
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/qa/shiryo/shiryo_11.html
大量虐殺 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%87%8F%E8%99%90%E6%AE%BA
天長地久(てんちょうちきゅう)
http://www.minyu-net.com/serial/yoji-jyukugo/yoji0306.html
白居易 - Wikiquote
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%B1%85%E6%98%93
『長恨歌』
http://www.e-t.ed.jp/edotori390124/ckchougonco.html

改正民法公布記念日

2007-12-22 | 記念日
1947(昭和22)年の今日(12月22日)、旧民法(明治民法)に代わる改正民法が公布された。
「民法」第四篇と第五篇を全面改正し、家父長制の家族制度が廃止され戸籍が夫婦単位となった。
民法とは、民法典(civil code)、あるいは私法一般法のことをいう。
形式的意義における民法とは、制定法である「民法」という名の法律、いわゆる民法典のことをいい、具体的には、1896年(明治29)年、法律第89号の別冊として編成された民法第一編第二編第三編(総則、物権、債権)及び1898(明治31)年法律第9号の別冊として編成された民法第四編第五編(親族相続)の形式上二つの法典が民法典である。全体が1898(明治31)年7月16日から施行された。これによって、日本の家族が民法の家族法によって初めて規律されたといえる。以来、戦前の日本の家族家制度に基盤がおかれていた。「家制度」は「」と「家父長制」の二つを大きな要素としていた。
「家」は、戸主と家族から構成される。戸主は家の統率者であり、家族は家を構成する者のうち戸主でない者をいう。戸主を中心とする「イエ」という親族集団の一体的結合と継続的発展を重視し、家族の人々を「イエ」に従属する存在とみなした。
戸主の地位の承継(家父長権の相続.=家督相続)、本家・分家などの階層性、それらを対外部的にひとまとまり(ウチ)としてとらえる心性・制度であった。
太平洋戦争終結後、日本国憲法の制定に伴い、その精神に適合するように(特に家制度の廃止など)、後2編(第四編第五編)を中心に根本的に改正され、改正民法の公布がされたのが、1947(昭和22)年の今日(12月22日)であった。
つまり、 日本国憲法の男女平等規定(第24条)のもとで、戸主権(戸主権・戸主の義務参照)が廃止され、家督相続にかえて財産の均等相続が定められ、結婚・離婚の自由、男女同権・夫婦中心の家族制度が定められた。
その結果成立した改正民法は、 当時まだ多くの男女不平等規定をもっていた西欧諸国の民法よりも、 男女平等という点で徹底したものであったといえるだろう(男女同権 参照)。 それでは、 戦後のこの改正が非常に先進的なものであったために、 現代までの家族の変化を先取りすることができて、 日本民法は 「不磨の大典」 たりえたといえるだろうか」。以下参考に記載の「有斐閣《20世紀をふりかえる》家族――家族法から見た日本の家族=水野紀子」にも、”明治時代に西欧近代法としての家族法を継受したときも、 保守派の反対はきわめて大きかった。 民法制定に反対した保守派は、 家族倫理の維持はもっぱら教育道徳に任せるべきもので、 家族員の権利義務として法律に規定すべきではないと論じた。 つまり、 家族員の間で権利主張をして争うことは、 そもそも道徳にもとるというのである。 旧民法草案の回付を受けた地方官たちが、 妻が夫を訴え子が父を訴えることができるとする民法草案に衝撃を受け、 民法の弊害を防ぐ運動が必要であると考えたことが、 教育勅語制定のきっかけとなったほどであった。"・・・とあるように、そうではなかったことが判る。
山県有朋の影響下にある地方長官会議が1890(明治23)年2月26日に「徳育涵養の義に付建議」を決議し、知識の伝授に偏る従来の学校教育を修正して、道徳心の育成も重視するように求めたことにより起草され、同年10月30日教育勅語(正式には教育ニ関スル勅語)が発布されている。
しかし、太平洋戦争終結までの日本において、この明治民法が、 戦時中には、国家への忠誠ために利用されることはあったものの、当時の保守派が危惧したように、 日本の家族倫理を崩壊させ、 家族の姿を変えることもなかった。 現実は、法律によって、 むしろ家制度の重圧が問題になっていた。
島崎藤村の長編小説『』にも描かれている。小説『家』では小泉家(藤村の生家である島崎家)と橋本家(藤村の姉園が嫁いだ高瀬家)という2つの旧家をモデルに、その没落を、相互の歴史を明らかにし、新時代の「家」と対比して描いた作品で明治期の家長制度を描写している。家が支えとなっているのではなく、自分の家・一族というものが重くのしかかってきて、その呪縛から逃れられずに生きた人々の物語である。
ただ、当時の保守派が危惧したような 家族倫理を崩壊させることも、 家族の姿を変えることもなく戦前まで来ることがでたのには、教育勅語に基盤をおく家族制要イデ オロギー(Ideologie)があったことは大きな要因だろう。
太平洋戦争の終戦を機に民法の改正により家制度は廃止され、また、教育勅語も廃止され、教育の場から道徳教育もなされなくなった。そして、戦後の日本は、経済復興と給与労働者の増加により戦前のような家庭は家内労働の場という側面が薄まり、時代の変化に伴い家族の在り方も変化してきている。そして、戦前にあったようないい意味での助け合う家族の形が崩壊し始めている。現在、多くの日本人はそのような家族の問題に自信を失い始めているのではないだろうか。いや、拠りどころがないので右往左往していると言っていいだろう。かつては良かれ悪しかれ教育勅語という拠りどころがあったが、それは廃せられ、それに匹敵するものがない。今、教育勅語の復活を望む声も上っているようであるが、必ずしもそのようなことを良しとするものではないが、たしかに、戦後教育の基本は、日本国憲法と教育基本法によるものであったが、ともに個人主義の考え方に立ち過ぎ、欧米のような宗教的基盤のない(西洋の文化はキリスト教と哲学からなるといわれている)、利己主義を広げたようには思われる。さらに、家庭、家族関係が人格を形成し、倫理・道徳の基本を身につける場であることの視点、も欠如しているのではないか。そのような意味で、今の時代に対応した本当の意味での家族法の成立が必要になってきたのではないかと思うのだが・・・。
(画像は、1970年公開山田洋次監督映画「家族」。goo-映画家族→ここ
参考:
家族法 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%B6%E6%97%8F%E6%B3%95
民法
http://www.houko.com/00/01/M29/089.HTM
法務省民事局HP
http://www.moj.go.jp/MINJI/index.html
中野文庫 - 日本国憲法の施行に伴う民法の応急的措置に関する法律
http://www.geocities.jp/nakanolib/hou/hs22-74.htm
教育ニ関スル勅語 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E8%82%B2%E5%8B%85%E8%AA%9E
民事局/我が国における氏の制度の変遷
http://www.moj.go.jp/MINJI/minji36-02.html
有斐閣《20世紀をふりかえる》家族――家族法から見た日本の家族=水野紀子
http://www.yuhikaku.co.jp/shosai/20c/20000502.html
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家 (小説) - Wikipedia
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図書カード:作家名: 島崎 藤村
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本村司法書士事務所HP・相   続
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男女平等とは - はてなダイアリー
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「新しい道徳教育」への提言
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日本財団図書館(電子図書館) 私はこう考える【教育問題について】
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Category:倫理- Wikipedia
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家族 (映画) - Wikipedia
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家族制度の変遷と教育HTMLバージョン
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