今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

どぶろくの日

2012-10-26 | 記念日
日本記念日協会(※1)で、今日の記念日を探すと「どぶろくの日 」があった。
記念日の由来をみると、「御園竹」「牧水」などの銘柄で知られ、長野県佐久市(旧望月町茂田井)にある明治元年創業の老舗の蔵元「武重本家酒造株式会社」(※2)が制定したもので、濁酒(どぶろく)の魅力を広めるのが目的。
日付は、どぶろくのシーズンが始まるのが10月下旬であり、10(ど)と26(ぶろく)で「どぶろく」と読む語呂合わせから。武重本家酒造株式会社では「十二六 甘酸泡楽(じゅうにろくかんさんほうらく)」略して「どぶろく」という濁酒を販売している。 ・・・そうだ。
ここをクリックすると、”「十二六 甘酸泡楽」の秘密”のページへ入れるが、この造語について、以下のように記載がある。
昔からのどぶろくを現在の味覚に合わせた全く新しいおが、「十二六 甘酸泡楽」であり、「甘酸泡楽」の4文字は、「十二六」そのものを表現しており、妙にどぶろくに合った名前ではないかと自画自賛している。
そして、この甘酸泡楽は、
甘  米の甘味が十分に残り
酸  キリリとした酸味
泡  舌の上で弾ける炭酸ガスの泡も加わって
楽  口の中一杯に楽しさがひろがるお酒である。・・・ことを意味しているそうだ。
酒に使用する新米の刈り取りが9月の中旬から始まり、乾燥、脱穀、精米を順々に行って、どぶろくを仕込むと、10月下旬にどぶろくが出来上がる。商品名「十二六」にちなみ、10月26日を「どぶろくの日」として、その前後の金曜日を十二六の最初の発売日としている。・そうである。

私は、お酒が大好きで、若いころより、酒を飲みすぎ、今では肝臓を悪くし、医者からも飲むのを控えるように言われているが、私にとって、毎日のご飯代わりの晩酌だけは欠かせない。
よくま~、あれだけ無茶飲みをし、悪友(飲兵衛仲間)などは、皆、飲み過ぎが原因で亡くなっているのに、私だけは、肝臓が真っ黒だといわれながらも、それでも、薬を飲みながら晩酌だけは続けていても生き残っているものだ。
飲兵衛仲間よりは、相当内臓が丈夫に出来ており、しかも、アルコールに強い体質だったのだろう。ただ、生きている限りは、何時までも大好きなお酒を楽しみたいものだから、何時、どんな場合でも、自分で決めた定量以上は絶対に飲まないよう自重はしている。
それから、酒が余り量は飲めなくなってきた50歳代になった頃から、酒をただガブガブ飲んで楽しむだけでなく、酒の器(酒器)や料理用の小鉢などを集めて、酒の場そのものを楽しむようにしている。
そんな趣味で集めた酒器は、私のホームページ「よーさんの我楽多部屋」のCorection Room>Room3:酒器類に展示しているので、興味のある人はi一度覗いてください。
我楽多ばかりだが、色んなものを数だけは持っている。骨董は酒器に始まり酒器に終わるといわれるが酒器には結構面白いものがありますよ。
そんなお酒大好き人間の私には、「どぶろく」も、かって飲んだことのある懐かしい酒でもあり、今日の記念日に興味を引かれ、これをテーマーとして書くことにした。
日本の酒税法では、飲んで酔いを催すアルコール分1%(1度)以上を含む飲み物(致酔飲料)を酒類(※3のここ参照)と総称するが、国によってはその基準を0.5%とするところもあるようだ。
日本古来の代表的な醸造酒で、「酒」といえば清酒をさし、またこれを日本酒ともいうが、これは、濁り酒=濁酒(だくしゅ)に対する語で、これを濾(こ)して澄明にした酒の意である。清酒は欧米でも人気があり英語でも“sake”で通用する。
濁り酒=濁酒は、発酵させただけの白く濁った酒で、一般には「どぶろく」のことを言っていることが多い。
どぶろくは、炊いた米に、米麹(こめこうじ)酒粕に残る酵母などを加えて発酵させることによって造られる日本酒(清酒)の原型である。
非常に簡単な道具を用いて家庭で作ることも可能である。しかし、日本では、酒税法によって許可なく酒類を製造することは禁じられる(酒税法7条1項、8条、54条1項)が、このことは、また、最後に書くことにする。
一体お酒といわれるものが日本列島に住む人々によって造られて飲まれ初めたのはいつ頃からであろうか?
神話の時代(神武天皇の在位する以前までの時代)より日本の酒の成立ちをたどると、日本の酒についての記事が文献上に初めて登場するのは、弥生時代後期、3世紀前半に書かれた『三国志魏志東夷伝魏志倭人伝)であり、同書は倭人の習俗について以下のように書いている(※4:「三国志魏書 東夷伝」の中の魏志倭人伝 私注の習俗を参照)。
・「其會同坐起、父子男女無別。人性嗜酒」
通釈:(倭人が)集まる時、親子・男女の区別はない。(倭)人は酒が好きである。
・「其死、有棺無槨、封土作冢。始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒。已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。」
通釈:人が死んだ時は、"棺は用いるが槨は使わず、土を盛って冢を作る"。始めの十日ほどは喪に服し、肉を食べず、喪主は哭泣(こっきゅう)するが、他の者は歌い、舞い、酒を飲む。埋葬が終わると、その家のものは皆、”練沐”のように水中で禊をする。
補足1、"棺は用いるが槨は使わず、土を盛って冢を作る"の槨とは棺の外箱であり、このことは以下参考※:※5:「倭国の相貌/放言集/魏志倭人傳私注/有棺」無槨を参照されるとよい。
補足2、練沐(れんもく)は練り絹を着ての沐浴のようである。

このように、この当時すでに酒を飲む風習があったことを述べてはいるが、ただ、その酒が米の酒なのか、また、液体か、かゆ状のものか、他の穀類、果実から造られた酒なのかは不明であるが、酒と宗教が深く関わっていたことを示すこの『三国志』の記述は、酒造りが巫女(みこ)の仕事として始まったことをうかがわせる一つの根拠ともなっている。
手持ちの『週間朝日百科 日本の歴史36』1-77Pには、以下のようなことが、書かれていた。
青森県は、縄文前・中期の円筒式土器文化ばかりでなく、縄文時代晩期の亀ヶ岡文化においても中心的な地域であった。
つがる市亀が岡遺跡より発見された亀ヶ岡式土器は、漆を利用、半浮き彫りを多用した文様、それに変化に富んだ器形に見られるように、工業的水準は極めて高いが、注口土器はその中でも代表的なものであり、その中身は果実酒であったと思われる。ヤマトブドウマタタビなどからはエキスが5分の1くらいしかとれないため注ぎ口を低くつけている。・・・と。

そして、上掲の画像(岩手県立博物館蔵)が添えられていた(亀ヶ岡遺跡で発見された注口土器は以下参考の※5を参照)。
又、これより前の長野県茅野市にある井戸尻遺跡群の一つ、藤内遺跡から出土した多くの土器のなかから発見された大型で膨らみのある「半人半蛙文 有孔鍔(つば)付土器」には口縁部に内壁を貫通する小孔が列状に20個ほど空いており、壷の内部に黒色変化があること。
さらに中にヤマブドウの種子と思われる炭化物が発見された例があることから、おそらく内容物は液果酒(主にヤマブドウやサルナシの実などを使用し、土器内ですり潰し野生酵母によって醗酵させた酒)で、酒造具として祭祀用に使ったと考えられ、小孔は醗酵過程で生じたガスの排出口であると推定されているようだ。
エジプト神話における水の女神ヘケトは、蛙そのものか、蛙の顔をした女性の姿をしており、多産と復活を司るとされているが、元々古代エジプトにおいて蛙はその姿から胎児の象徴であり、また多くの卵を産むことから多産の象徴でもあったそうだ。
以下参考の※7:「縄文土器 これこそ世界遺産!」には、井戸尻考古館所蔵の有孔鍔(つば)付土器の多くの画像とその解説をしているが、その中の“井戸尻考古館 北杜市埋蔵文化財センター 縄文の女神”にもあるように、縄文人も、この土器の中で醸される、神秘な飲みもの、酒は、女神がその体から産出してくれるのだと感じ、この土器で、酒を醸して飲む祭りを行なうたびに、その酒による若返りの奇蹟、再生の奇蹟を味わった。
死と再生を無限に繰り返す蛙神、女神、万物を産み養い育ててくれる女神の不思議な力。・・・を信じてこの土器を主導具として使っていたのだろう。
これら有孔鍔付土器は縄文中期に盛行し関東地方を中心に分布するが、縄文中期終末には消滅し、末期には先に述べた注口土器に代わっている。
同じ縄文中期まであったと思われているもうひとつの酒が、堅果(果皮が木質か革質で堅い果実。クリ・カシ・ナラなど)や雑穀などで造った「口噛み酒」といわれるものである。
「口噛み酒」は加熱した穀物を口でよく噛み、唾液の酵素ジアスターゼ〔アミラーゼ〕)で糖化し、野生酵母によって発酵させるという最も原始的な方法を用いていた。
この「口噛み酒」のことは『大隅国風土記』に明記されている(ここ参照)という。
この「口噛みの酒」の記載が『古事記』『日本書紀』では見られないが、『記・紀』が書かれた8世紀に口噛みの酒の記載がないのは、原料は必ずしも米に限らず、アワ・ヒエ・トウモロコシ等すべての雑穀が原料であり、米での酒造りは日常行われていなかったからではないか・・・。
酒を造ることを「醸(かも)す」というが、この語源は「噛む」によるといわれているが、異説もあり、農業博士の住江金之は著書『酒』(西ヶ原刊行会)にて、これらは別系統の言葉であると指摘、「醸す」は「かびす」から転じたものであると分析している(『世界の酒日本の酒ものしり辞典』 外池良三、東京堂出版)そうだ。
私たちが現在飲んでいるような、米を主体としてお酒が米から造られるようになるのは、縄文時代以降、弥生時代にかけて稲作、とりわけ水稲の耕作が渡来定着した後のことであろう。
この稲の実・米が主食として定着すると、当時の人々は雑穀を酒にした口噛みの方法で、ご飯からも酒を造ることを試みるようになる。
この「口噛み酒」は、わが国へは南方系の根菜栽培民族から伝わったと言われており、近年までアイヌの祭りや、沖縄本島や周辺の諸島で神酒として造られていた。
呪術神事に使われていたためか、口噛みをする役目は、穢れを知らない少女か、神に仕える巫女だった。中国ではこれを「ミキ」と呼び「米寄」の字を当てていたという。
次に、奈良時代(710〔和銅3〕年~784〔延暦3〕年)の初期に出た民族誌『播磨國風土記』には、「神棚に備えた御饌(ミケ:米飯、神饌〔しんせん〕、御贄[みにえ]とも言う)が雨に濡れてカビが生えたので、これで酒を醸して神に捧げ、あと宴を催した」とあるようだ。
これは麹黴(コウジカビ)で酒が作れることがわかっていた証拠で、米を原料とする酒造りの出発点がここにある。こうして日本列島に、カビ利用の米の酒が定着するのである。
弥生時代に始まった稲作農耕は、やがて生産の主体となり、階級社会が生まれ、地域単位の小国家があちこちに出来、7世紀には全国を統一した大和朝廷が成立する。
文化的にも天皇主導の歴史書『古事記』と『日本書紀』などが相次いで世に出、さまざまな酒の記述が見られ、各地で酒造りが始まっていたことがわる。「サケ」は、「キ」「ミキ」「ミワ」「クシ」などとさまざまな呼ばれ方がされていた。
古代の酒は、標準的には、出雲や博多に現在も残る練酒(ねりざけ)のようにペースト状でねっとりとしたものであったようだ。現在でも、皇室における新嘗祭(にいなめさい)では、このような古代の製法で醸造した白酒(しろき)、黒酒(くろき)という二種類の酒が現在も伊勢神宮宮中で造られ供えられる。
延喜式』によれば、白酒は神田で採れた米で醸造した酒をそのまま濾したものであり、黒酒とは、白濁した白酒に、久佐木と呼ばれる草を蒸し焼きにし、その灰をまぜこんで黒くした酒(灰持酒)だそうである。
これは、黒みがかった古代米で造った古代の酒の色を伝承していくための工夫の結果であろうと考えられている。
今日では、清酒と濁酒(どぶろく)の組を白酒・黒酒の代用とすることも多いようだ。かつて、神酒は神社もしくは氏子が自家醸造していたが、現在は酒税法の規制があるため、伊勢神宮のように清酒の醸造免許や、税務署からのどぶろくの醸造許可を得ている神社も存在する。
清酒(せいしゅ)は、やがて、高野山の「天野酒」(あまのさけ)、奈良、平城の『菩提泉』に代表されるような平安時代以降の僧坊酒にその技術が結集されていくことになる。
数ある僧坊酒の中で、奈良の寺院が造った「南都諸白(なんともろはく)」は室町時代に至るまで長いこと高い名声を保った。
諸白とは、現在の酒造りの基礎にもなっている、麹米と掛け米の両方に精白米を用いる手法で造られた透明度の高い酒、今日でいう清酒とほぼ等しい酒のことを、当時の酒の主流をしめていた濁り酒(にごりざけ(発酵させただけの白く濁った酒。もろみ酒、濁り酒。どぶろく)に対して呼んだ名称であり、江戸時代以降も「下り諸白」などのように上級酒をあらわす語として使われた。
また、この『菩提泉』をもって日本最初の清酒とする説もあり、それを醸した奈良正暦寺には「日本清酒発祥之地」の碑が建っている。

上掲の画像は、正暦寺の日本清酒発祥之地の碑である(画像はWikipedia日本酒の歴史より借用)。
平安時代中期から室町時代末期にかけて、奈良菩提山正暦寺で産する銘酒『菩提泉』を醸す菩提酛(ぼだいもと)という酒母や、今でいう高温糖化法の一種である煮酛(にもと)などの技術によって優れた清酒を醸造していたが、この時代の清酒は量的にも些少であり、有力貴族など極めて限られた階層にしか行き渡らなかったと考えられる。

日本酒は、中世の末までにいちおう濁り酒から今日でいう清酒への移行を完了したと考えられるが、だからといって、これ以後に、濁り酒がなくなるというわけではないし、清酒も今日の清酒とほぼ等しい、酒(諸白)と同じものというわけでもない。
当時の清酒は、一般的には諸白より格下の、麹米は白米だが、掛米(※9参照)が玄米のまま仕込んだ片白(かたはく)や、麹米も掛米も玄米のまま仕込んだ並酒(なみざけ)が主流であったため、ほとんどの清酒はまだ玄米の持つ糠が雑味として残る黄金色がかった、今日の味醂(みりん)のようにこってりした味であったと考えられているようだ。
京方面から「くだり酒」として江戸へ送られたことは良く知られているように、効率的に清酒を大量生産する製法が開発され、酒が本格的に一般にも流通するようになったのは、江戸時代になってからのことである。
濁り酒は、農民たちが自家で製するどぶろくを含めて、清酒よりも安価で手軽な格下の酒として製造、流通されつづ、大衆化・庶民化していった。
米粒や麹、酵母がそのまま入っており、甘酸っぱい味で、腹もちもよく庶民の酒として愛飲され、明治末年には2万石近くの消費があったという。
「どぶろく」(濁り酒、濁酒)の語源は定かではないが、平安時代以前から米で作る醪(もろみ)の混じった状態の濁酒のことを「濁醪(だくらう)」と呼んでいたのが訛って、今日の「どぶろく」になったと言われるが、「どぶろく」は、米を使った酒類では最も素朴な形態であり、家庭でも簡単に作ることができるが、違法行為(酒税法違反)であるため、転じて密造酒の別名としてこの言葉が用いられることもある。
このことから隠語で呼ばれることも多く、「どぶ」や「白馬(しろうま)」、溷六(どぶろくまたはずぶろく)といった呼び方も地方によっては残されているようだ。なお、「溷六」と漢字で書くと、“泥酔状態にある酔っ払い”のことを指す別の言葉にもなることは、国語辞書などにも載っている。
どぶろくで酔いつぶれる人が多かったのは、盛んに発酵したばかりの酒なので、酵母がまだ生きており、非常に活性の高い酒であること。ぴりぴりと炭酸ガスを含んでいるため胃や腸が刺激され、アルコールの吸収が速いこと、などが理由とされている。
いずれにせよ、戦前生まれの飲兵衛さんには、酒が大いに不足した戦後の混乱期に、こっそり楽しんだ経験をお持ちの方もおられるのでは・・・。
先の第二次世界大戦中は食料の不足で酒どころでは無かったが、終戦になると抑えられてきた欲望が一度に噴出してアルコールへの執着がいっそう高まったかにみえた。
昼間は食べものや雑貨などが主流の闇市も夜になると酒を扱うところが断然増える。
その酒もバクダンと称する妖しげな酒など様々だったが、密造のどぶろくは根強い人気を保っていた。警察も黙っていたわけではなく、しばしば手入れを行なった。
しかし、ピーク時の1950(昭和25)年には、密造酒の生産量は世紀の酒類のそれを上回り、手入れとヤミ酒のいたちごっこが続いた。
無免許での酒の醸造はご法度であり、密造は今も犯罪である。だが、かっては、味噌、醤油同様、どぶろくも勝手に造ることが出来た。どぶろく醸造が禁止になるのは、1899(明治32)年である。
取り締まりは厳しく、 日露戦争後は一層強化された。
国家収入の30%以上を占める酒税の徴収をさらに拡大し、膨れ上がる一方の軍事費を捻出する必要があったからだ。

上掲の向かって、左画像は、1945(昭和20)年か1946(昭和21)年撮影で東京の尾久署が密造を襲って押収したどぶろく。右画像は、1950(昭和25)年の東京・大森のゴミ捨て場の飲み屋。写真はアサヒクロニクル『週刊20世紀』ぜいたくの100年号。30p、同誌ふるさとの100年。裏表紙の巻末コラム郷愁の飲み物どぶろくを求めてより)

このどぶろくの醸造禁酒は農民にとっては大変な打撃であった。楽しみを奪われたうえに高い酒をわざわざ買わされるはめになったからだ。
ところで、自家用の酒を自分で造る権利を国家は一方的に抑圧できるのだろうか。反骨の思想家前田俊彦は1981(昭和56)年「自分の飲む酒を自分で造ってどこが悪い」と公然と、どぶろく造りを始め、正々堂々造ったとどぶろくを客にふるまっていた。
そして、ご丁寧に、自宅での利き酒会には国税庁長官にも招待状を出した。
自宅の瓢鰻亭(ひょうまんてい)にやって来たのは、国税局の役人30人だった。周りは、機動隊100人に取り囲まれた。
結果的には、1985(昭和60)年に、酒税法違反で起訴され、「どぶろく裁判」として知られる裁判闘争となる。
5年半に及ぶ裁判の末、最高裁は「酒造りの自由の制約は合憲」との判断を示し、30万円の罰金が確定した。

今でもどぶろくについての規定がなく、密造に通じるので、製造は許されていない。例外として神事用に神社で少量の製造が許される場合がある。
なお、現在市販されている「濁り酒」「白酒(しろき)(白貴)」などは、清酒もろみの中の蒸米や麹の粒を細かく砕いて目の粗い布等で濾す「活性清酒」(※9参照)として商品化されているもので、酒税法上は清酒に属している。
澄んだ清酒とはひと味違う濃厚かつ芳醇などぶろくの風味を味わうには、岐阜県・白河郷の神社(5ヶ所の神社)など各地にわずかに残るどぶろく祭りにでも出かけるほかないが、豊穣祈願などの宗教行事や地域産品としてのどぶろく造りでは、地域振興の関係から、2002(平成14)年の行政構造改革によって、構造改革特別区域が設けられ、同特別区内でのどぶろく製造と、飲食店や民宿等で、その場で消費される場合に限り、販売も許可されており、(通称「どぶろく特区」と呼ばれる)本物のどぶろくを飲めるところが徐々に増えているのは、酒好きの人には嬉しいことだよね(^0^)。

(冒頭の画像は、農文協 前田俊彦著「ドブロクをつくろう」)
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html
※2:武重本家酒造株式会社HP
http://www.takeshige-honke.co.jp/
※3:国税庁>お酒に関する情報
http://www.nta.go.jp/shiraberu/senmonjoho/sake/sake.htm
※4:三国志魏書 東夷伝
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/gisi-toi.html
※5:倭国の相貌/放言集/魏志倭人傳私注/有棺無槨
http://members3.jcom.home.ne.jp/wakokunosobo/hougen/gishiwa/kankaku.html
※6:青森・亀が岡遺跡
http://inoues.net/ruins/3naikamegaoka.html
※7:縄文土器 これこそ世界遺産!
http://jomontaro.web.fc2.com/page052.html
※8:正暦寺公式サイト
http://shoryakuji.jp/
※9:四季桜-日本酒雑楽(宇都宮酒造)
http://www.shikisakura.co.jp/zatugaku/zatugaku.top.htm
菊水酒造・日本酒物語
http://www.kikusui-sake.com/home/jp/fun/story/001.html
SSI net:日本酒の歴史
http://www.sakejapan.com/index.phpoption=com_content&view=article&id=32&Itemid=50井戸尻考古館」ホームページ
http://www.alles.or.jp/~fujimi/idojiri.html
比較文化史の試み 723
http://www2.ttcn.ne.jp/kobuta/bunnka8/b723.htm
アルコールについて | 医療知識 | 保健センター
http://www.hit-u.ac.jp/hoken/knowledge02.html
どぶろく - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A9%E3%81%B6%E3%82%8D%E3%81%8F


名曲「荒城の月」の作詞家土井晩翠の忌日

2012-10-19 | 人物
10月19日の今日は、詩人・英文学者・土井晩翠の1952(昭和27)年の忌日である。
日本の歌で、戦前、海外にも良く知られた名曲がニ曲ある。
一つは「さくら」であり、もう一つは「荒城の月」であり、どちらの曲も今だに、日本の代表的な歌として、欧米の人々に愛されている。「さくら」は、もともとは幕末に、江戸で子供用の箏曲の手ほどき曲として伝承されてきたもの(作者不明)で、原曲には「咲いた桜・・・」という歌詞がついていたものが、その優美なメロディから、明治の改良唱歌運動の一つとして、文部省音楽取調掛撰「箏曲集」(1888年=明治21年刊)に記載されていたもの。これが現代知られている「桜さくら・・」という歌詞に改められた。その旋律はともかくとして、歌詞は新しいものである(原曲「咲いた桜」の歌詞などは、参考の※1参照)。
後世様々な編曲がなされているが、宮城道雄の「さくら変奏曲」が特に有名である。
余談になるが、宮城道雄は、1894(明治27)年4月7日、我が地元である神戸の居留地内に菅道雄として誕生した作曲家・箏曲家であり、十七絃の発明者としても知られる。
以下は、宮城道雄のかっての弟子牧瀬喜代子(宮城喜代子=道雄の嫁・貞子の姪である)と吉田恭子の「さくら変奏曲」の演奏である。今、よく聞く曲とは違った味がある。
さくら変奏曲(上・下) 宮城道雄- YouTube
現在の弟子による演奏曲は以下参考の※2:「宮城道雄の世界」のここで聞けるが、皆さんはどちらが好みだろうか。
また、宮城は、父親の故郷であり自身が8歳で失明する前に育てられた土地、福山市鞆町から見える鞆の浦にインスピレーションを受けて創作したといわれる、1929(昭和4)年発表の「春の海」は、フランス人女流ヴァイオリニスト、ルネ・シュメーと競演され、世界的な評価を得ることとなった。
日本では、小学校における音楽の観賞用教材として指定されているほか、特に正月には、テレビ・ラジオ番組や商業施設等でBGMとして使用されているため、非常に有名である。
ルネ・シュメーという人部についてはどんな人かよく分からないが、来日したシュメーが「春の海」を気に入り、1932(昭和7)年の来日時に、尺八のパートをヴァイオリンで演奏したものを録音し、このレコードは、日本、アメリカ、フランスで発売されたそうだが、以下のものが、その時の録音だろうか。尺八でなくヴァイオリンで聞いても素晴らしい曲である。
"Haru no Umi" (The Sea in Spring) for Koto and Shakuhachi -YouTube

さて、本題に入るが、「荒城の月」は、土井晩翠の作詞に、
瀧廉太郎が曲をつけた歌曲である。
この「荒城の月」が発表されたのは1901(明治34)年で、東京音楽学校(現東京芸術大学音楽部)が、同年に発行した音楽教科書『中学唱歌』(※3また※4参照)に掲載された。
 当時、小中学生用の唱歌といえば、外国曲に日本語の詩をつけたものが主流であった。
東京音楽学校では、この風潮に一石を投じて日本独特の唱歌を作ろうと企画、中学生用の教科書を作る時、いくつかの詩を公開し、それに付ける曲を募集した。
 当時同音楽学校の研究科生だった滝はこれに応募し、見事3曲(「荒城の月」他「箱根八里」〔作詞:鳥居忱〔とりいまこと〕、「豊太閤」〔作詞者不詳〕)に曲をつけて応募したところ、3曲とも採用されることになったという。
ただ、「豊太閤」は瀧廉太郎作曲と言われているが、もともはとドイツ民謡であったとか・・・(※3の明治34年『中学唱歌』参照)。そうすれば、その外国民謡を滝が日本の歌にアレンジしたということだろうか。彼はこれにより、賞金15円を得たと言われているようだ(※4の『荒城の月』が聖歌になった参照)。
ちなみに、1901(明治34)年当時の綿糸紡績職工平均賃金1日男約30銭、女約20銭〕 (1日115時間労働、残業で18時間になることも少なくなかったという)、物価はビール大瓶19銭、牛肉100g7銭、理髪15銭の時代(朝日クロニクス「週刊20世紀」1901年号)だから、滝の作曲料は今の時代に比すと安いのか高いのか・・・?

「荒城の月」と言えば、音楽の授業で、明治の西洋音楽黎明きにおける近代音楽の代表的な作曲家の一人であるの滝廉太郎の曲として、大多数の人が知っていると思うのだが、このような、瀧廉太郎の知名度に対して、現代、その作詞者である土井晩翠については、どれだけの人がどれだけのことを知っているのだろうか・・・。
正直、そういう私も、土井晩翠が「荒城の月」の作詞者である事は、知っているものの、そのこと意外は以外に知らないのである。それで、お勉強のため、彼のことについて、知らべて、このブログを書いてみようと思ったのである。

(一)
 春 高楼の花の宴 巡る盃影さして
 千代の松が枝(え)分け出でし 昔の光今何処(いづこ)
(二)
 秋 陣営の霜の色 鳴きゆく雁(かり)の数見せて
 植うる剣(つるぎ)に照り沿(そ)ひし 昔の光今何処(いづこ)
(三)
 今 荒城の夜半(よは)の月 変はらぬ光誰(た)がためぞ
 垣に残るはただ葛(かづら) 松に歌(うと)ふはただ嵐
(四)
 天上影は変はらねど 栄枯(えいこ)は移る世の姿
 映(うつ)さんとてか今も尚 ああ荒城の夜半の月

漢詩の伝統が脈打つ格調高いこの新体詩(※5)は、七五調の歌詞(今様形式)と哀切をおびた西洋音楽のメロディが見事に融合した楽曲であり、又、詩の一・二番の「対句」は大変鮮やかであり高い評価がされている。
第1連(連=長い詩を構成する一区切りの単位、聯、節ともいう)は春で花に盃、第2連は秋で霜に雁の取り合わせである。
和歌などの世界で、夏と冬の歌がまったくないわけではないが、それはマイナー的な存在であり、歌にはやはり春と秋こそがふさわしい。また、第1連では栄える様子を、第2連では枯れ果てる様子が描かれている。
そして、第3連、第4連では、荒れ果てた城あとを照らす月。人の世は変わっても、月とそれをとりまく自然はひたすら廻(めぐ)り続ける世の転変を、ぐっと引いた離れた位置から見つめる視線は、晩翠の他の詩でも見られる。
こんな晩翠の男性的な漢詩調詩風は、当時女性的な詩風の島崎藤村と並び称されていた。
この詩の集約とも言える第4連は、“空にある月の姿は昔も今も変わらないが、地上の栄枯盛衰の有様を見て、その時々の姿を写し取ったはずの光は今はない。しかし、今荒れ果てた城跡に立って荒城を照らす月の光を見ると、この城の栄枯盛衰が目の当たりに想像され、まるで当時の光が写し取った光景を自分の目の前に披瀝してくれようとしているように思われる。ああ、荒城にかかる夜半の月よ」というほどの意味なのであろうが、それでは、晩翠がどこの「荒城」をイメージしてこの詞を構想したのだろうか?
晩翠がモデルとしてイメージしていたたであろう場所は、以下参考の※6:『日本ペンクラブ電子文藝館』の物故会員 土井 晩翠には、晩翠が瀧の没後45年祭(昭和22年)に列しての感慨の一文を添えられており、これによると、晩翠が、東京音楽学校からの依頼を受けて、この「荒城の月」を作詞したのは、1898(明治31)年、晩翠28歳の時であり、その時、真っ先に頭に浮んだのは、それより数年前に、第二高等中学東北大学の前身校の一つ)の修学旅行で会津を訪れた際に、間近に目にした鶴ヶ城(若松城)だったようである。
戊辰戦争で壊滅状態となり、有名な白虎隊の悲話も残る鶴ヶ城。そんな、秘話を念頭に置きながらも作詞の上で材料を供したのはやはり、彼の故郷である宮城県仙台市の青葉城(仙台城)址であったようだ。
歌詞一番にある「千代」とは非常に長い年月を意味し、「千代木」(ちよき)が松の異名であること。
また、伊達政宗が、もともと「千代」(せんだい)を「仙台」(仙臺)と書き改め、現在の仙台市につながっているため、仙台出身の晩翠が「仙台」の掛詞である「千代」と書き、「ちよ」と読みを替えて「仙台」のことを暗に示しているとも考えられること。
歌詞二番の「秋陣営の…」の部分は、上杉謙信七尾城攻略の時に詠んだ漢詩 「九月十三夜陣中作」(※7)の「霜は軍営に満ちて秋気清し数行の過雁(かがん)月三更・・・」をふまえたものと思われるし、又、ここに登場するは、東北から北陸にかけての地方で越冬する渡り鳥であこと(宮城県伊豆沼に冬鳥として多く飛来することから1965年には宮城県の県鳥にも指定されている(※8)。
そして、歌詞の三番「垣に残るは唯かづら、松に歌ふは唯嵐」は青葉上の実況である。・・・と、瀧の没後45年祭(昭和22年)に列しての感慨の晩翠の一文にも書かれているからである。
この歌の荒城のモデルとなった場所としては、他にも仙台在住当時の晩翠が、よく立ち寄ったとされる岩手県二戸市の九戸(くのへ)城址も言われており、瀧廉太郎の場合は、自分が子ども時代を過ごした大分県竹田市の岡城址を見て曲を構想したとされており、ほかに、滝の父が仕事の関係で、竹田の前にいた富山県富山市で、小学校1年から3年までの多感な時期を過ごしており、彼が通っていた小学校が富山城の敷地内にあった事などから、富山城址も候補に挙がっており、現在これら5ヶ所に「荒城の月」の歌碑が設置されているようだ。
晩翠は、鶴ヶ城を思い浮かべながらも、彼の故郷の青葉城や他の城での歴史的出来事なども想像しながらの作詞だったのだろう。

土井晩翠(どい ばんすい)の生い立ちや作品などは、『「雨の降る日は天気が悪い」序 』『新詩發生時代の思ひ出』に記載されている自伝や作品紹介(いずれも参考※9:「青空文庫」を参照)等を参考にしながら書くと以下のようになる。
土井晩翠、本名:林吉(りんきち)は、1871年12月5日(明治4年10月23日)、仙台・北鍛冶(かじ)町(現・宮城県仙台市青葉区木町通2丁目)の旧家・土井(つちい)家の長男として生まれた。(本来姓は「つちい」だったが選擧人名簿には「ド」の部にあるので、昭和初期に「どい」と改称したことが「「雨の降る日は天気が悪い」序」(※9参照)に書かれている。
父は、和歌や俳諧をたしなむような教養人で、林吉もその影響から読書好きの少年として育つたようだ。
晩翠の筆名は(そう)の詩人范質(はんち)の詩句「遅遅澗畔松・鬱鬱含晩翠」(遅遅たる澗畔〔かんぱん。澗は、渓谷、谷川の意〕の松鬱鬱〔うつうつ〕として晩翠〔冬枯れの季節になってもなお草木の葉が緑色であること。また、その緑〕を含む)に由来するという。
仙台英語塾を経て、1888(明治21)年18歳で第二高等中学に入学、1894(明治27)年に帝国大学(現:東大)英文科に入学。同年末に結成された帝国文学会に加入しその機関紙である『帝国文学』の編集にも携り新体詩を発表。
1897(明治30)年に大学卒業後、1898(明治31)年にはカーライルの『英雄論』を春陽堂から翻訳出版し、翌・1899(明治32)年には、母校二高教授として帰郷。この年、第一詩集『天地有情』(※9参照)を博文館から出版。「星落秋風五丈原(ほしおつしゆうふうごじようげん)」など、漢語を駆使した悲壮・哀感漂う叙事詩をつくりだし、この詩集で島崎藤村(仙台の東北学院赴任中に執筆した『若菜集』で1897年に文壇登場)と並び称され、「藤晩時代」あるいは「晩藤時代」を築いた。
この晩翠絶好調の時期に東京音楽学校から中学唱歌用の歌詞を委嘱され、「荒城月」(のちの「荒城の月」)も作詩された。
作曲した滝との間に同校が介在したため、晩翠と滝が会ったのはたった一度だけしかないそうだ。
晩翠は、1901(明治34)年6月、私費で欧州遊学に出發し、英・佛・獨・伊を廻り、1904(明治37)年末、日露戰役(1904年2月8日 ~1905年9月5日)の最中に歸朝しているが、この時、ライプツィヒ音楽院に留学した滝が肺結核を患ったため帰国することになり、日本郵船の大型客船「若狭丸」に乗って、同船がイギリス・ロンドン郊外のティルベリー(テムズ川河口港)に寄港した際、姉崎正治と共に滝を見舞い最初で最後の対面をしたという。
晩翠は、帰国の翌年また二高に奉職して以来三十年英語教員を務め、1934(昭和9)年、二高を定年退職し名誉教授となる。
その間、第二詩集『暁鐘』(1901年)、第三詩集『東海遊子吟』(1906年)、などを刊行後、大正期はむしろ英文学者としての活躍がみられ、1924(大正13)年には、イギリスの詩人バイロン没後100周年を期して『チャイルド・ハロウドの巡礼』を翻訳刊行。
妻子に次々と先立たれたことで心霊学にも関心を示すようになり、1946(昭和21)年には財団法人日本心霊科学協会の設立に顧問として関わっている。1949(昭和24)年仙台名誉市民になる。
戦後占領期に漢詩調詩が廃れたため、校歌の作詞にほぼ専念し、母校の木町通小学校をはじめ、日本全国の非常に多くの学校の校歌を作詞している。
1950(昭和25)年に、詩人としては初めて文化勲章も受章している。1952(昭和27)年、急性肺炎のため死去した。

晩翠は、前にも述べたように、1899(明治32)年4月に、処女詩集『天地有情』(※9)を刊行し、この詩集によって、島崎藤村と並び称される詩人として、非常に高い評価を受けるようになった。また、晩翠は、東京帝国大学文科大学そして大学院で英文学の研鑚を積んだ英文学者でもあった。
そんな彼が、12月に、高知県出身の林八枝と結婚(八枝の兄は東京帝国大学英文科で晩翠の一年先輩であり、八枝が在学していた東京音楽学校=現・東京芸術大学音楽学部の研究生に滝廉太郎がいた。)し、1900(明治33)年1月、29歳の時に仙台に戻り、母校である(旧制)第二高等学校の教授となったのだが、晩翠にとって、この年は非常に大きな節目の年ともなった。
晩翠は、前にも述べたように、この年から、仙台の地で教師として、英文学者として、そしてまた詩人として、新たな一歩を踏み出すことなったわけである。
そして、仙台でも、詩を書いていくのであるが、この年から翌年はじめにかけて書いた詩を作品にまとめて、刊行した第二詩集『暁鐘』詩集が上梓(じょうし=出版)された時、詩壇の反応が全くなかったと、以下参考に記載の※12:「東北大学付属図書館報木遣子」にはある。
そして、ただその中で『暁鐘』にふれた唯一と言って良い評論・小山鼎浦(二高を経て、東京帝大文科哲学科卒業。早稲田・関西大学の教師、「東京毎日新聞」の記者を経ての評論家)が書いた「現今の新体詩家 土井晩翠」という評論で、晩翠の『暁鐘』を『天地有情』と対比しながらかなり強く批判しているらしい。
つまり、『天地有情』におさめられた諸作品を読んで、彼のこれからの詩品の大に発展せんことを待望んだが、東京を去って故郷の仙台で教鞭を執りながら、静かな読書に勤しむ生活を送っている。そのような中から生まれた作品が、読者の期待、待望を裏切るものとなってしまっていると言っているようだ。
言い換えると、仙台で作られた晩翠の作品は詩壇の要求を満たすものではもはやあり得ないといったことが、暗に語られているのだ。
第三詩集『東海遊子吟』(1906)が刊行された時にも、詩壇の反応は全くなかった。
雑誌『明星』に新詩社同人の名前で「土井晩翠氏に与ふる書」という長編の評論が発表されており、この評論の内容を大まかに辿ってみると、冒頭のあたりで日本の近代の詩の非常に急速な変化と進展の様を概括し、その上で1904(明治37)年末日本に帰国間もない晩翠に対して「足下が詩人として如何なる位地にあるかを自覚」せよと告げている。
これに続いて、後に『東海遊子吟』(1906年刊行)におさめられることになる作品について徹底した批判を加えて行く。
その批判の趣旨というのは、内容に関しては、陳腐で、平板、常識的であることを、具体的な作品を取り上げて繰り返し指摘。また表現に関しても、粗雑、単調であり、散文的であると言って、非常に痛烈な批判を行っている。
結論的に、この長い評論の最後の部分で、「而して思ふに、足下は終に詩人の資にあらざるなり」と言い。晩翠は詩人としての資質を欠いている、むしろ学者としてあるべきだといっている。そしてもし「足下猶詩人として日本の文壇に立たむと欲せば、足下、詩界の進歩に後るる十年なるを知らざるべかららざるべからず」と述べている。これはかなり厳しい批判であるが、一面で晩翠の詩の本質を突いていると言わざるを得ないのではないかと思う。・・・と言うのである。
このことは、以下参考に記載の※13:「久保忠夫氏の論文『土井晩翠と与謝野鉄幹』」にも詳しく書かれている。
そこでも、「土井晩翠氏に与ふる書」はもの言いは野卑のそしりを免れないが、いっていることは大体首肯出来る。学者の道を、というのも、早く三十一年三月の「帝国文学」の泰西(西の果ての意=西洋。または、西洋諸国)文学と新体詩が「彼〔晩翠〕が希以英仏独等諸文学に精通せる蘊蓄」と書いているように、博学であり、その運用に妙をえてもいた。
たしかに学者への道も選択肢の一つであり、また、詩界の進歩に十年後れているから、詩人として進むなら研究に精進せよというのにもいわれはある。・・・としている。詳しい事に、興味ある方は一読されると良い。

晩翠には気の毒な落ちになってしまったが、晩翠の評価が最も高かった頃の詩、「荒城月」は瀧廉太郎の曲と相俟って最高の名曲となっている。何度聞いても、飽き足らないので、最後に此の曲を聴いて、このブログを終りたい。
「荒城の月」の詩は、東京音楽学校が土井晩翠に懸賞応募用テキストとして依頼したもので、この詩に瀧廉太郎が、曲をつけて入選となった作品だが、メロディーだけで伴奏が無く、後に三浦環に頼まれた山田耕筰がピアノ伴奏を付けたものが今日歌われているものとされてる。
山田耕筰はロ短調から短三度上のニ短調へ移調、ピアノ・パートを補い、旋律にも改変を加えた。山田版は全8小節からテンポを半分にしたのに伴い16小節に変更し、一番の歌詞でいえば「花の宴」の「え」の音を、原曲より半音下げて(シャープをとって)いる。
戦前の中国(中華民國)と満州國、日本で歌手、女優として活躍(悲運の運命を辿ったと言ったほうが良い)した李香蘭(山口 淑子)が戦地慰問でかならず最初に歌ったという歌が、「荒城の月」であったといい、これは1942(昭和1)年古賀政男の編曲になるものだそうだ(※14)。

この歌は戦後、新東宝映画 谷口千吉監督「暁の脱走」(1950年公開。 主演 山口淑子=李香蘭、池部良)に取り入れられ、You Tubeでも見ることができる。
彼女の本格クラシック的歌唱力は幼少時に奉天(現:瀋陽)に住むイタリア人オペラ歌手マダム・ポドレソフのもとで声楽を習い、日本では三浦環にも師事したといわれるだけあって、単なる美貌のアイドルスターの歌ではなく、とても素晴らしいものだ。
私は、若い頃から彼女の歌の大ファンである。是非この曲をきいてください。映像は、戦時中の慰問の姿を自らが再現したともいえる場面である。
荒城の月 山口淑子 - YouTube
以下の曲はデューク・エイセスによるものである。これも味があっていいよね~。
「荒城の月」歌:デューク・エイセス - YouTube
「荒城の月」が、国際的に普及したのは声学家(テノール)の藤原義江が、20代の時、1921(大正10)年、英国公演で絶賛され、米国ビクターの申し入れでレコード化(1925年)したことが大きいという。



(冒頭の画像は、土井晩翠。朝日クロニクル「週刊20世紀」1952年号31Pより借用)
参考:
※1: Kenji Bunko Literature
http://homepage2.nifty.com/~bunko/w/soukyokusyu.htm
※2:宮城道雄の世界
http://www.miyagikai.gr.jp/index.html
※3:うたごえサークルおけらの唱歌(年表)
http://bunbun.boo.jp/okera/w_shouka/shouka_sub1.htm
※4:Moto Saitoh's Home Page
http://www.geocities.jp/saitohmoto/index.html
※ 5:新体詩 とは - コトバンク
http://kotobank.jp/word/%E6%96%B0%E4%BD%93%E8%A9%A9
※ 6:『日本ペンクラブ電子文藝館』
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/
※7:日本の漢詩① 上杉謙信 【全日本漢詩連盟】
http://www.zen-kanshiren.com/article/contribution/kaichou_tsuushin/30.html
※8:宮城県のシンボル
http://www.pref.miyagi.jp/profile/symbol.htm
※9:青空文庫:作家別作品リスト:No.1081土井晩翠 
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1081.html
※10 :范質(はん しつ)
http://juei.kakurezato.com/s-m-hanshitsu.html
※11:鶴田皓の遊学
http://www004.upp.so-net.ne.jp/t-t-aoba/yugaku.html
※12:東北大学付属図書館報木遣子(Adobe PDF)
http://tul.library.tohoku.ac.jp/kiboko/28-4/kbk28-4.pdf#search='%E5%9C%9F%E4%BA%95%E6%99%A9%E7%BF%A0%E6%B0%8F%E3%81%AB%E4%B8%8E%E3%81%B5%E3%82%8B%E6%9B%B8'
※13:久保忠夫氏の論文『土井晩翠と与謝野鉄幹』
http://www.geocities.jp/gendaibungakushi/kubotadao.html
※14:SP歌謡・回顧と展望:古賀政男と「荒城の月」
http://8315.teacup.com/spkikuchi/bbs/244
小さな資料室
http://www.geocities.jp/sybrma/index.html
童謡・唱歌 | 形式: CD
http://www.amazon.co.jp/gp/product/B00009QI0L?ie=UTF8&tag=worldfolksong-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=B00009QI0L
日本の旋律
http://kcpo.jp/info/butterfly/melody.html
暁の脱走 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD19550/index.html
暁の脱走
http://www.eiga-kawaraban.com/98/98070903.html
バンコク週報>生活文化コラム>李香蘭アジアの時代に
2003年: 1078号(1李香蘭の出現)~1094号(17抗日運動)
http://www.bangkokshuho.com/archive/2003/oldcolumn/hada/enter.htm
2004年: 1095号(18)ゆれ動く心~ 1146号(69)李香蘭との別れ
http://www.bangkokshuho.com/archive/2004/oldcolumn/hada/04enter.htm
2005年:1148号(70「夜来香」リサイタル)~ 1157号(最終話山口淑子、その後)
http://www.bangkokshuho.com/archive/2005/oldcolumn/hada/05enter.htm
『李香蘭』DVD版(2007年)についてのページ
http://www2.komatsu-c.ac.jp/~yositani/rikouran.htm

関西を代表する“浪花のおかん” ミヤコ蝶々(女優・漫才師)の忌日

2012-10-12 | 人物

幼少時の旅回り一座から漫才に進み、ラジオ・テレビの名司会役、そして自作自演の芝居にと大活躍したミヤコ蝶々が亡くなったのが、2000(平成12)年10月12日のことであった。。
芸の世界に身を投じて70余年。自らの苦労や哀しみを、お客さんが喜んでくれるのならとさらけ出し、どうしたら人を笑わせられるか、涙を流させられるか、その一点に集中して、その生涯を「お笑い人生」に没頭した人であった。自宅は大阪府箕面市桜ケ丘1の10の43。没後自宅は改装され、ミヤコ蝶々記念館となっている。

ミヤコ蝶々、本名、日向 鈴子(ひゅうが すずこ)は、1920(大正9)年現在の東京都中央区日本橋小伝馬町にて、家具店を営む裕福な家庭の長女として生まれたそうだ。
しかし、関東大震災の翌1924 (大正13)年、蝶々4歳のとき、父親英次郎が若い芸者と駆け落ちし我が地元神戸へと移り住むことに。
父はデパートで家具の販売をしながら神戸・元町で小さな家具屋を営んでいたそうだが、神戸は、神戸港の開港。外国人居留地が出来たことから腕の良い船大工出身の洋家具製作が盛んになり、神戸家具として今でも神戸の高級家具の人気は高い(※01参照)。又、当時の神戸は演芸が盛んな町でもあった(※2)。

上掲の画像は、コレクションの絵葉書の中の「神戸名所絵葉書」中の1枚。大正から昭和初期、全盛期を迎えた新開地本通りの様子である。

父は芸事が好きで、新内節を唄ったり、毎日のように娘を連れて寄席通いをしたり、寄席芸人を招いては宴を楽しんでいたという。
あげくのはてに、1927(昭和2)年、とうとう家具屋をたたみ、父親の思いつきだけで、まだ7歳だった娘を座長に据えて、旅回りの“都家蝶々一座”を結成し、九州の炭坑町の小さな劇場で安来節を唄い、初舞台を踏ませたという。
蝶々は、その後もあらゆる芸(漫才、喜劇、女剣舞、バレエ、三味線など)を身に付けた。
そして、国内各地から中国、朝鮮半島を巡業した。読み書きは、三味線や踊りの師匠でもあった義母に教わり、楽屋を学校代わりに育つったという。
この頃は世界的な大不況(世界恐慌参照)のあおりで失業者が街にあふれ、日本中が笑いに救いを求めていた時代。
地方の人々にとっての娯楽は、芝居小屋にやってくる劇団だけだったため、蝶々一座も各地の芝居小屋から引っ張りだこになっていたようだ。
第二次世界大戦の真っ只中。一座の巡業生活が続くなか、1942(昭和17)年、蝶々22歳の時に地方まわりの芸人にとって憧れの舞台大阪の吉本興業 からの誘いを受け、一座を解散、檜舞台に立ち、大阪に定住生活をするようになる。
これから、蝶々の夢の舞台への挑戦が始まるのだが、そこには思わぬ試練が待ち受けていた。
蝶々は一時期、つまり、1946(昭和21)年、横山エンタツ花菱アチャコと並び一世を風靡していた夫婦漫才家のミスワカナ・玉松一郎のワカナ(初代)が世を去った後、相方である一郎とコンビを組み2代目ワカナを名乗ったことがあるがコンビは半年で解消しており、人気が出たのは戦後、南都雄二と漫才コンビを組んでからのことである。
そのころを知る人は、「漫才の女王といわれたミスワカナより上」と評価しているという。
蝶々の実力を高く評価していた吉本側は、この当時人気があったミスワカナの二代目として彼女を売り出すために、公演の最後を飾る大看板のひとつ前に登場される「モタレ」(「膝代り」ともいう。※3参照)を任せた(「立花敏夫・ミヤコ蝶々」としてデビュー)。本来は、大ベテランが務めるこの「モタレ」への大抜擢により、周りの芸人たちからは大きな反感を買い、「トリ」を務める大御所芸人が出演を拒否するなど嫌がらせが頻繁に起こるようになり、 非常に悩んでいた。
そんな蝶々を、影で見守ってくれていたのが、当時の人気落語家で後に漫才の世界に転進することになる三遊亭柳枝であり、出演拒否で穴が開いた「トリ」を総て埋めてくれたり、芸人仲間から疎外されていた蝶々を、食事に誘うなどして励ましてくれたそうだ。
こうした柳枝の優しさに引かれ、17歳も年上で、しかも、妻子を持つ身である柳枝と、いつしか不倫の恋に落ち、1942(昭和17)年に結婚。柳枝が、最初の夫となったが、彼には新婚当時すでに元妻以外にも3人の女性がいたと言う。
太平洋戦争が激化し、1945 (昭和20) 年3月には、大阪大空襲によって、大阪の街は一面焼け野原と化し、本社をはじめ、所有していた寄席や劇場、映画館のほとんどが瓦礫と化した吉本興業は一時休業状態になったため、1946(昭和21)年、柳枝らと共に「柳枝劇団」を旗揚げし、各地を巡業することに・・・。
一座は20人ほどだったようだが、蝶々が鈴美という弟子と漫才、柳枝が漫談と芝居をやっていたようだ。
この劇団をつくるとき、一人の若者(吉村朝治)が、弟子入りしてきた。弟子の芸名は男性なら蝶々の本名の鈴子から、女性なら芸名の蝶々から取っていたので、吉村は男性なので鈴夫と名づけられた。
金がないので蝶々はいろんな雑事をこなし、髪結い、囃子方や三味線なども。漫才や芝居の脚本も専門家に頼むと高いので、蝶々と柳枝で書いたが、柳枝は堅実なものを好み、蝶々は劇中にその時々の流行を取り入れたかったので、よく喧嘩にもなったという。
しかし、敗戦後の暗い世の中、当時国民は娯楽に餓えていたこともあり、二人の劇団は各地で大盛況したそうだ。
経営も上手く行き、蝶々も柳枝とのひと時の幸せな生活をかみ締めていのだが、夫の柳枝は相変わらず女癖が悪く、入ってくる劇団の若手女優に次々手を出すなど浮気をしたため、翌1947(昭和22)年に、蝶々の世話役も勤めていた劇団員の吉村朝治.と共に家を出て、後に柳枝とは離婚し、朝治と再婚する(自実婚と言われている)。しかし、柳枝劇団との契約が切れるまでは別れた柳枝と共に舞台に出演していた。
柳枝と別れ、劇団も辞め、仕事も無くなり、まだ芸人としては半人前の弟子であり夫の朝治との二人だけになり、先の見通しもつかない状態に思い悩む日々が続いていた蝶々は、その心を癒すために、当時は疲労回復のため一般の薬局でも販売されていて、芸能界で蔓延(初代ミス・ワカナが心臓発作を起こし36歳の若さで急逝したのもヒロポン中毒と過労が原因だったと俗説されている)していたヒロポン(覚醒剤の一種)に手を出した。
強度の依存症となったが、そんな状態ではどの劇場でも使ってくれるはずがなく、そのうち、お金も底をつき、どん底生活の中、薬を買うこともできなくなり、強烈な禁断症状に襲われるようになったとき、そんな蝶々を見捨てず、献身的に必死に支えてくれたのが、夫・朝治であった。
そんな夫の優しさに応えるために、一刻も早くこの地獄から抜け出そうと、治療のため入院し努力あってこれを克服。1カ月後には退院した。
この事件を境に、蝶々は夫である朝治を相方とし、夫婦漫才コンビ「蝶々・鈴夫」を結成するが、ミヤコ(都)蝶々とのコンビには鈴夫よりも上方トンボのほうが良いだろうとの柳家三亀松の改名提案を受け入れ「蝶々・トンボ」のコンビ名で、1948(昭和23)年、三重県津市の曙座(明治時代には河上音二郎なども舞台に立っているらしい.※04参照)で初舞台。この時、蝶々は28歳。以来、地道な活動を続けてきた「蝶々・トンボ」は、実力も付き、徐々に人気も出始めた。
戦後、多くの漫才師が疎開しあちこちにバラバラになり劇場や寄席も空襲に合い、吉本興業も新興演芸(松竹社長であった白井松次郎による新興キネマ〔のち大映に合併〕に新設されていた演芸部)も漫才の興業から手を引いてしまって、上方の漫才興業は壊滅状態となっていた。
当時新興キネマの文藝部長に就任していた秋田實は、そんな漫才の将来を危惧して戦後京都に戻り、若手の漫才師を集め1948(昭和23)年に「MZ研進会」(Mは漫、Zは才の頭文字を取ったものとか)という漫才のサークル集団を結成、翌1949(昭和24)年に京都で正式に旗揚げをし、秋田Aスケ・Bスケミスワカサ・島ひろし夢路いとし・喜味こいしらが加わっていた。
秋田は、新しい笑いをどんどん取り入れて書き下ろした新作を若手漫才師にやらせていた。
このとき、地方の舞台に出ていた蝶々らも秋田の誘いを受け参加し、秋田の教えを受けるようになる。そして、ラジオ番組に出るようになる。
このころ秋田が番組構成を担当したNHK大阪放送局制作による全国放送のラジオ番組『上方演芸会』が9月から放送を開始しているが、1951 (昭和26) 年には、大阪に毎日放送(BBS,9月1日開局)、朝日放送(ABC、11月11日開局)と、初の民間放送局も誕生している。
秋田は、旧・阪急電鉄(現在の阪急阪神ホールディングス)創業者の小林一三と軽演劇集団「宝塚新芸座」を、1950(昭和25)年に立ち上げる。
1952(昭和27)年には、蝶々等もこの演劇集団に参加し、大阪・道頓堀中座を拠点に活躍するようになる。
そんななか、1954 (昭和29) 年に朝日放送で始まったのが「漫才学校」であった。
蝶々が校長、雄二が出席を採る用務員、森光子が教師、夢路いとし・喜味こいし・秋田Aスケ・Bスケ・笑福亭松之助他が生徒という顔触れによる秋田実のラジオコメディーで、蝶々らは一躍人気者となった。
このような大阪のラジオ番組で新作漫才をやる時には秋田から台本をもらうのだが、それも本番の2、3日前。
学校に行っていない蝶々が書けるのはひらがなだけで、読める漢字もそれほど多くはなかったため、台本に読めない字がある度に、相方の鈴夫に「これ何とゆう字?」と聞いた。何度も「なんとゆうじ?」と聞いているうち、いっそ芸名にしてしまおうと思いついたという。それまでの上方トンボと言う名が気に入っていなかった鈴夫も喜んで、「南都雄二」に決まったというエピソードがあり、このころコンビ名も「ミヤコ蝶々・南都雄二」に改名されている。
人気の漫才学校に続いて、同じく、朝日放送で1955(昭和30)年6月に放送開始の夫婦対談番組「夫婦善哉」の司会をコンビで務める。
当初の正式タイトルは「蝶々・雄二の夫婦善哉」だった。番組は毎回一般の夫婦を招き、蝶々・雄二の2人が結婚生活の極意や新婚時代のエピソードを絶妙な間で聞き出すという形で進行。現在の「
新婚さんいらっしゃい!」へと繋がる夫婦対談番組の先駆的存在として人気を博し、番組はラジオで8年間、その後テレビで12年間、計20年間も放送された。
この番組で「蝶々・雄二」の人気も定着し、この頃始まったテレビ番組に引っ張りだことなり、スケジュールはいつも満杯状態となる。

上掲の画像は、1961年南都雄二さんとの万歳風景。朝日新聞2000年10月13日付より。

しかし、この「夫婦善哉」の開始当時、司会の蝶々・雄二もまた実際の夫婦であり、「おしどり夫婦」と思われていたが、内情は雄二の浮気癖で早くから家庭内は不毛であったという。
1958(昭和33)年に雄二の不倫がもとで「離婚」(法的に婚姻関係でなかったため、事実婚を解消)するが、その後も数年は公にせず2人はコンビで「夫婦善哉」の司会を続けていたが、週刊誌等で話題になってきたことなどもあり、「夫婦善哉」の番組内で離婚していたことを告白。これが、かえって自分たちの結婚生活での体験を素直に話すことができるようになったせいか、よりリアリティのあるゲスト夫婦の体験談を聞き出しやすくなり、多くの視聴者の共感を得たようだ。
人気絶頂の蝶々は、離婚後ソロの女優としても活動するようになり、1969 (昭和44) 年には、映画界にも進出。
山田洋次監督の代表作「男はつらいよ」の第2作「続・男はつらいよ」に、寅さんの瞼の母お菊役で出演している。
雄二とは離婚後も、公私共に付き合いは続き、1972(昭和47)年に雄二が糖尿病を悪化させ入院し、翌・1973(昭和48)年に48歳で亡くなるまで、後妻に逃げられ、身寄りもない雄二さんの、一切の面倒を見続けたのは蝶々だった。
葬儀の日。「親子でも、夫婦でも、兄弟でもない私と雄二さんが、愛情をも超えた深い絆で結ばれていたことは間違いない」・・・と。蝶々は、雄二を「友人代表」として見送った。
その後、自ら劇団を旗揚げし、大阪・道頓堀の劇場「中座」を拠点に活動する。

上掲の画像は左:大阪中座の1993年4月公演「嫁と姑」藤山直美特別参加。右、同舞台での共演シーン。朝日新聞2000年10月13日付より。

蝶々は数冊の本も出しているが、雄二が長年抱えていた糖尿病の症状が進行し、入退院を繰り返すようになる前年の1966(昭和41)年、45歳のときに執筆した自伝『女ひとり』では、私生活をさらけだした。
例えば、最初の夫三遊亭柳枝や雄二との結婚・離婚の経緯、自身のヒロポン中毒のことなど飾り気のない文章で顕わし、評判となった。
1971(昭和46)年には、大阪・梅田コマ(現:梅田芸術劇場)で『女ひとり』を芝居化し大ヒット。その後も芝居を書き続けたが、その殆どは、自作・自演で、テーマーは、いづれもそのときの社会的な関心やそこに生きる人の悩みだった。
このようなものをテーマーに、特に、蝶々のホームグラウンドであった道頓堀の中座においては、 連続21年間、女座長として定期公演を続けている。
「なにわのスーパーかあちゃん」では強い母親像を、「おもろい一族」では遺産相続問題を取り上げ、「金とダンボール」では、金万能の世の中を痛烈に批判し、している。

上掲の画像は中座での「金とダンボール」の公演チラシ。

これらは、大阪伝統の人情喜劇ある松竹新喜劇とはまた違ったもので、蝶々流の社会派ドラマであり喜劇である。

“人の迷惑を考えない世の中悲しいよ。政治がしっかりしとらんからや。(政治家は)国民の機嫌をとるな、国民のためにやってくれ。

芝居は下手でもええ。一生懸命やってたらこころが通じる。みなさんも死になはんなや。元気にしていて、又見にきてな。“・・・1996年9月京都。南座「恋のぬくもり」の舞台から言葉。

上掲の画像は、同南座での「恋のぬくもり」公演のチラシ。

芝居の最後に一人でおしゃべりトークする「トークショー」は、1982(昭和57)年頃はじまったようであるが、世相や自らの半生を蝶々流に語り、お客さんの共感を誘って人気を博した。
東京生まれだが「関西にそだててもらった」と関西をこよなく愛した人であった。
あるときの制作発表では、がりがりに痩せた姿で現れた。脚本が思うようにかけなかったからだというので、「そんなに苦しんでまで」なんで自分で書くんですか」と聞くと、「どなたに御願いしようにも大阪のにおいがする作品を書いてくれる作家がおれへん」と話したという(朝日新聞2000年10月13日朝刊)。
先天的に片方の腎臓が機能していなかったこともあり、晩年は体調不良のため入退院を繰り返した。舞台に対する思いは強く、闘病生活を続けながらも舞台に出演していた。その様子は『NHKスペシャル』でも取り上げられ話題となった。
最後の舞台は1999(平成11)年10月15日の『じゅんさいはん』(中座)。 特別ゲストとして登場し、自身のホームグラウンドと称していた中座の閉館を「お金があれば、この小屋買うのに」と惜しんでいたと聞く。
2000(平成12)年3月にテレビ出演したのが公式の場に出た最後となり、10月12日慢性腎不全で、大阪市の病院で死去した。享年80。
1984(昭和59)年に紫綬褒章を、1993(平成5)年に勲四等宝冠章を受章している。

“いつも言いますが、一番大事なのはお客さんです。たとえ劇場の人がいらんとおっしゃろうが、お客さんが私を見放さん限り、私はついていきます。
「あんたが頼りや。死なんといてや。」街で声をかけられます。私みたいな頼りない人間でも、そんなに言われると勇気づけられる。生きようと思う。”(1997年2月、芝居の政策発表会見での言葉。2000年10月13日朝日新聞朝刊掲載より)。
70年以上にわたって笑いと涙を振りまき続けた蝶々。その芸の先にはいつも庶民がいた。芝居、ラジオ、」テレビ、映画と見せる場は違っても、社会を意識し、世相を映した芸へのこだわりは変ることはなかった。その芸人魂は、弟子や芸人仲間へと同様自ら対しても厳しかった。
企画、プロデュース、脚本、演出、そして、主演。そのすべてをこなし、「浪花」を描き出せる女性の役者が大阪からいなくなってしまったのが寂しい。

(冒頭の画像は、日向 鈴子 著『ミヤコ蝶々 女ひとり』 講談社)

参考:

※1:黎明期 - 神戸芸術工科大学 「神戸家具」の変遷と可能性
http://www.r-nagata.co.jp/kobekagu/rekishi1.html
※2:新開地のまちづくり 「新開地」まちの変遷 | 新開地オモシロ情報サイト
http://www.shinkaichi.or.jp/outline/history.html
※3:落語辞典用語集 - 落語はじめの一歩|落語芸術協会
http://www.geikyo.com/beginner/dictionary_detail.html
※04:救助の礼に無料公演―川上音二郎の手紙 - 三重の文化
http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/hakken2/detail.asp?record=372
“浪花のおかん” ミヤコ蝶々さん死去(朝日新聞)
http://www.asyura2.com/sora/bd11/msg/13.html
SmaSTATION:特別企画Copyright(C)2007
http://www.tv-asahi.co.jp/ss/237/special/top.html
ミヤコ蝶々 ~笑いと涙の女の一生~
http://yuuyuukandai.at.webry.info/200703/article_15.html
SINCERELY blog 「ミヤコ蝶々 女ひとり」を読んで
http://emikurarafanblog.blog100.fc2.com/blog-entry-211.html
ミヤコ蝶々の歩み
http://www.chochokinenkan.ecnet.jp/sub3.html
『鈴子の恋』 - とれたてフジテレビ
http://www.fujitv.co.jp/fujitv/news/pub_2011/111227-n038.html
ミヤコ蝶々 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A4%E3%82%B3%E8%9D%B6%E3%80%85

「親分」の愛称で親しまれていた野球評論家・大沢啓二の忌日

2012-10-07 | 人物
大沢啓二(おおさわ・けいじ)の本名は、大沢 昭(おおさわ あきら)、旧名は大沢 昌芳(おおさわ まさよし)。
1932(昭和7)年3月14日、生まれ、神奈川県藤沢市出身の元プロ野球選手(外野手)であり、監督を経て、晩年、1995(平成7)年より、フリーでのプロ野球評論家、そのかたわら日本プロ野球OBクラブ理事長(2009〔平成21〕年3月まで)。4月からは名誉理事長に就任)、プロ野球マスターズリーグ委員会議長、正力松太郎賞選考委員などとして活躍していたほか、日曜日朝のテレビ番組TBS系『サンデーモーニング』内のコーナーでは、張本勲と共にレギュラー出演し、「ご意見番」としてプレーぶりなどに“喝”を入れ、人気を集めていたが、一昨年9月19日が最後の出演だった。
サンデーモーニング内の「週刊御意見番」のコーナーは、私も大好きであり毎週見ていたが、最後の出演となる前ころは、痩せていた印象があり、健康状態を心配していたのだが、やはり、体調を崩し闘病されていたようだ。その18日後の2010年10月7日に78歳で死去された。死因は胆嚢がんだったそうだ。
大沢氏と言えば、先ず、日本ハム監督時代の退場劇(※1参照)や余りにも不甲斐ない成績で最下位に終わり、ファンの前で土下座したシーン(1994年本拠地東京ドームでの最終戦)等とにかく「熱い」監督だったと言う印象が強い。
グラウンドを離れてからも、歯に衣着せぬ語り口でプロ野球界の現状に意見してきたが、このようにはっきりと、モノ申す人物が少なくなってきた昨今、あの「べらんめぇ口調」での批評が聞けないのは残念なことである。
大沢は神奈川商工高から立教大学へ、東京六大学リーグ通算94試合出場、314打数80安打、打率.255、2本塁打、32打点。ベストナイン2回。2学年下の後輩に、後に「立教三羽烏」と呼ばれる長嶋茂雄杉浦忠本屋敷錦吾がいた。
1956(昭和31)年に南海ホークス(現:ソフトバンク)に入団。Wikipediaによれば、南海の監督鶴岡一人から勧誘の時に「日本一になるには君と長嶋と杉浦の力を借りたい」と言われたとされ、南海への入団には、長嶋・杉浦の両選手獲得のためのパイプとしての期待も込められていたらしいが、もちろん、大沢の人望を鶴岡が見抜いてのものと思われる。
当時はドラフト前の球団の選手獲得は自由競争時代。大沢を通じてこの2人には卒業するまでの間、金銭や食事面で随分面倒を見ていたらしい。結果的には長島は入団しなかったが、杉浦は義理を果たし入団している。
1959年の日本シリーズ第3戦では、杉浦や野村克也捕手らの活躍と共に、大沢の好守備が日本一に貢献している。
その後、1965(昭和40)年東京オリオンズ(現:ロッテマリーンズ) に移籍し、同年限りで現役引退。
南海ホークス黄金時代においての大沢は、中堅選手の位置づけといったところで、プロ選手として頭脳的な好守巧打の外野手として鳴らしていた。
プロ通算成績は、9888試合、501安打、17本塁打。
プロ退団の翌・1966(昭和41)年からオリオンズのコーチとなっているが、これには、大沢のオリオンズへの移籍は、引退後コーチとなって、南海の監督を長い間務めた鶴岡が南海を勇退し、オリオンズで指揮をとるのを前提にしたものであったが、南海の新任監督となった蔭山信夫が就任4日後に急遺。やむなく鶴岡が南海監督を継続することになり、大沢1人がオリオンズのコーチとなったものだという。
その後、2軍監督を務めていたが、1971(昭和46)年7月に一軍の農人渉監督がプロ野球史上「最後の放棄試合」を起してしまい、それが発端で大沢がシーズン途中から一軍監督に抜擢されることになる。まだ39歳の若い大沢が指揮を執ったオリオンズは、王者阪急ブレーブス(現:オリックス・バファローズの前身)との激しいデッドヒートを演じた末2位と善戦した。
同シーズン終了後に5年の長期契約を結ぶものの、翌・1972年5位に低迷すると、シーズン終了後に5年契約を破棄・解雇されている。ただ、このとき、Wikipediaによれば、オリオンズのオーナーを退任し、太平洋クラブライオンズのオーナーに転じた中村長芳から「将来太平洋の監督に迎える」という内諾を得ていたのだという(根拠:『球道無頼』P140)。
1973(昭和48)年から1975(昭和50)年までラジオ関東(現:RFラジオ日本)の解説者時代を経て、1976(昭和61)年から日本ハムファイターズの監督に就任することになる。
日本ハムのチーム名の変遷を見ると、日本ハムファイターズは、戦後間もない1946(昭和21)年に球団を発足。当時はセネタースという球団名であった。
しかし、1年で東急フライヤーズへと名称変更。その1年後に急映フライヤーズになり。1949(昭和24)年、つまり、また1年で東急フライヤーズに名前が戻り、1954(昭和29)年から1972昭和47)年まで東映フライヤーズ、1973(昭和48)年に日拓ホームフライヤーズ、同年11月19日に、日本ハムへ売却。法人名が「日本ハム球団株式会社」となり、オーナーに大社義規が就くと、三原脩を球団の代表取締役社長兼球団代表に就任させ、三原の娘婿である中西太を招聘(しょうへい)させた。そして、球団名は公募で決定した新ニックネームをつけ、やっと、「日本ハムファイターズ」の名称に落ち着いた。
しかし、日本ハム最初のシーズンとなった1974(昭和49)年、2年目の1975(昭和50)年と2年連続の総合最下位に終わり、中西はその責任を取り辞任。後任監督に三原は大沢を招聘した。大沢が三原からの監督就任要請を受諾したのは三原がロッテ一軍、二軍監督時代の大沢の采配を見て、共感したからだとも言われている。
ただ、大沢は、中村との約束の件もあり、オーナーの大社義規と面談、その場で大社が中村に断りの電話を入れて就任を受諾したという。
因みに、後にTVのサンデーモーニングで大沢とともにご意見番を演じた、張本は、1974(昭和49)年には、日本ハムファイターズで7度目の首位打者を獲得しているが、翌1975(昭和50)年には、高橋一三富田勝との交換で巨人に移籍させるなど、大沢は、チームの体質改善のため、中心選手のトレードも何度か敢行し、又、新人選手を次々に抜擢している。
このようにして、1976(昭和51)年から日本ハムの監督を務めた大沢は、1978(昭和53)年ファイターズになって初のAクラス(総合3位)として以降、翌年も前年に続いて総合3位、1980(昭和55)年には総合2位と、Bクラスだったチームを、優勝を狙えるチームにまで育て上げ、1981(昭和56)年には、前身の東映時代以来19年ぶりの、リーグ優勝を果たしている。
面倒見がよく、このころから“親分”の愛称で選手から慕われていたように記憶しているのだが・・・。
そして、1984(昭和59)年より日本ハム常務に就任するが、後任監督として推薦した植村義信が成績不振のためシーズン途中の6月で辞任したため、植村を推薦した責任を取る形で現場復帰し、シーズン終了まで指揮をとったが、翌・1985(昭和60)年から1992(平成4)年までは日本ハム球団常務を務めている。
1992(平成4)年オフ、日本ハムの監督選びが難航するなか、大沢が監督に推薦した上田利治王貞治などが球団に断られ、難航する監督人事に、ついにキレた大沢は、「フロントは相変わらず人気、知名度のある人を、という条件を言うもんだから、とうとうオレは頭にきちまって人気だけだったら、当時旬の女優だった宮沢りえにやらせろ」とまでフロントに対して発言し、結局、時間切れで自分が監督をやるはめになったようだ(※3参照)。
そして、1993(平成5)年から1994(平成6)年まで再び日本ハムの監督として指揮をとり、1993年は西武と激しいデッドヒートを演じ、結果は2位と敗れ優勝できなかったもののパ・リーグを大いに盛り上げた。
大沢のユーモアあふれるコメントはマスコミで大々的に報じられたこともあって「親分」の語句は、この年の新語・流行語大賞の「大衆語部門・金賞」に選ばれている(※2参照)
次の年・1994(平成6)年、今年こそは何としても優勝とのファンや球団フロントの期待を裏切り、余りにも不甲斐ない成績で最下位に終わったことから、本拠地・東京ドームでのシーズン最終戦、ロッテには大勝したにも関らず、試合終了後に、突然マウンド場でファンに向かってを深々と土下座して謝り、観客を驚かせたのは冒頭で述べたとおりである。
この年、監督業から完全に退くが、監督としての通算成績は13年で、 725勝、 723敗、 99 分け、勝率5割1厘。
通算の退場回数は7回と、タフィ・ローズ(14回)、マーティ・ブラウン(12回)、金田正一(8回)に次ぐ不名誉な記録を持つっている。
神奈川商工高時代、夏の甲子園をかけた予選で、球審の判定で敗れたと感じた大沢投手は試合終了後、その審判をボコボコにしたという逸話が残っているそうだが、立教大を経て南海入りしてから引退するまで、大沢は選手としては1度も退場がなく、記録はすべてコーチ・監督時代のもの。
参考※1にもあるように、選手時代から頭脳的名守備を見せていた “親分”は大事な局面を迎えると、今やるべきかどうか、計算しながら“暴れていた”ようだ。
ひと芝居打ち、監督が怒りを露にすることでチームの士気を高め、ムードを変える。ひと昔前の発想かもしれなかったが、大沢監督にとってこれは必殺技。勝負をかけた“退場”だったようだ。
監督としての通算勝ち越し数は2試合。これについては、参考※3にもあるように、「勝ち越して監督生活を終われる人間はそう多くない。名将なんておこがましいが、貯金2か。ちょうどいいんじゃねぇか」。ロッテと日本ハム時代にシーズン途中から指揮を執り、2度目のファイターズ監督就任もなり手がいなくて困った時に引き受けた。いわば火中の栗を拾い続けた親分。口は悪かったが、無類のお人好し、それが親分の素顔だったのだろう。
現代では失われてしまった「親分」という言葉を、復活させた大沢。
親分とは、親子関係を擬した主従関係における主人。子にあたるのは子分。前近代では民間における主人と従者の関係が親子関係に擬せられることが多くあった。
プロ野球の世界で「親分」と呼ばれていた監督には、大沢が初めてプロ選手として入団した時の監督鶴岡一人がいる。南海を率いて黄金時代を築き、三原脩、水原茂とともに「3大監督」といわれた。
大沢が南海へ入団する10年前、戦後の1946(昭和21)年に復員し、29歳で南海監督就任を要請され、同年から1952(昭和27)年まで選手兼任監督となる。
戦後の混乱状態の中、一見強面であるが野球のみならず選手の生活の面倒までを細やかに世話するなど人情味豊かな人柄から「鶴岡親分」と慕われた。
有望選手の獲得も上手かったが、無名の選手を中百舌鳥で鍛えて名選手に育て上げる手腕がそれ以上に長けていたといわれている。
打倒巨人に燃え、機動力野球から400フィート打線と呼ばれる大型打線へとチームを見事に変貌させ、杉浦の4連投・4連勝もあり、1959(昭和 34)年には巨人を倒し、念願の日本一にもなっている。
「鶴岡親分」と呼ばれ、「精神野球」のような印象を持たれるかもしれないが、それまでカンに頼っていた野球にデータを持ち込み合理的な近代野球をいち早く実践したのも鶴岡監督であり、義理と人情の古めかしさと、鶴岡の求心力によって、それらがほどよく交ざり合い強力チームを作り上げた人であった。
「親分」のニックネームで親しまれた大沢も、鶴岡一家の一員だったわけで、少なからぬ影響を鶴岡から受け継いでいることだろう。
生来のおおらかで明るく豪放な性格で、あけっぴろげなべらんめえ口調は、選手を完全に掌握し、豪快なチーム作りと戦いぶりで観客を魅了した。
よく「名選手、名監督にあらず」と言われる。
巨人の創世期を支えた水原茂も三原脩も、あるいは毎日のあと阪急・近鉄時代に時間をかけて選手を育て、チームを作り変え、弱小球団を常勝軍団へと導き、20年間の監督生活で8度ものリーグ優勝を果たしながら、日本シリーズでは1度も日本一に就けず、「悲運の名将」と言われた西本幸雄、その西本のあとを受け継ぎ、阪急の黄金期を築いた上田利治、広島で赤ヘル旋風を巻き起こし、萬年最下位から奇跡の優勝を遂げた時の名将・古葉竹識監督でも現役時代に特別秀でた戦績を残していたようには見えないからだ(※4参照)。
大沢親分も監督としての戦跡は、彼らほどではないものの、それは、前述したように、監督への就任事情にもよるものであり、大沢自身は、イメージに似合わず非常に繊細でクレバー【clever】な頭脳の持ち主で、その指導者としての資質は球界内でも高く評価されていた。
これに対して、参考※5:「小関順二公式ホームページ」では、“「名選手、名監督にあらず」とよく言われるが、リーグ優勝の経験のある監督を見ていくと、「名選手にあらずんば、名監督にあらず」のほうが正しいことがわかる”と主張している。
そして、「名選手にあらず」に分類した西本も、アマチュア時代には、名選手と言ってもいい実績を残しているし、大沢は鶴岡南海時代の外野守備名人だったのだから無名選手とは言えない。又、1970(昭和45)年にロッテをリーグ優勝に導いた濃人が翌1971年には大沢へ途中交代させられているのも、選手時代の実績がなかったためであり、監督としても軽く扱われたのだと思う。・・・としている。確かに、そこに、書かれているところを見るとそうともいえる。
今のプロ野球界はどちらかといえば、監督の条件として野球理論の優秀さよりも、選手時代の実績やネームバリュー、つまりどの球団も「大物監督」を優先させる傾向は強く、選手時代の実績が地味だった人物が監督に抜擢されるケースは以前よりも少なくなっているかも知れないようだ。
そんな中で、昨年、栗山英樹氏が日本ハムの監督に就任したことは、珍しいケースと言えるかもしれない。
そんな彼が、監督就任1年目となった今年(2012年)、チームのエースだったダルビッシュ有が抜け苦戦も予想されたが、吉川光夫中田翔など若手選手の台頭もあり開幕当初から好調を維持。10月2日、新人監督として17人目のリーグ優勝を果たした。
野球解説者・スポーツキャスターとしての知名度はあったものの、プロの選手としての実績らしい実績もなく、指導者経験もなしで監督就任したのは異例中の異例のことであり世間を驚かせた。
その栗山新監督の背番号「80」は、名監督三原脩への憧れに因んでのものであったそうだ。
昨年11月9日の監督就任会見では、「多くの名将と呼ばれる方を取材してきましたが、組織を生かすこと、監督とは何かを学んだのは三原さん。名将の元祖。そういう大先輩に少しでも近づきたい」。また、座右の銘は「夢は正夢」。テスト入団から猛練習でレギュラーをつかんだ自らと重ね合わせるように「すべての選手にチャンスがある」と信じる。選手たちの可能性を信じ、周囲が驚く起用で結果を出した三原氏のように“栗山魔術”を北の大地で披露する。そして、「自分のことはどうでもいい。少しでも選手のために何ができるか」と選手の能力開花にすべてをささげるつもりだ。・・と話していた(※6参照)ようだが、その通りになった。
古い時代だけでなく、今の時代であっても、鶴岡や大沢のような親分肌の監督でなくても、監督となった以上、監督選手を信頼し、選手からも信頼もされる・・・そんな、親子関係のようなものが築き挙げられなければ、野球のようなプロ集団であってもなかなか成果は上らないものだろうね~。
今の民主党政権のまとまりのないバラバラの状態でどんな政治が出来るのだろうか。野田総理も、政権のたらい回しや延命工作をせず、野党・自民党との「近いうちに・・・」との約束どおり、早く解散・総選挙をし、国民に信を問い直し、まず党員からの信頼を確立した上で本当に国民が望んでいる政治をして欲しいものだね~。
なんかつい愚痴をこぼしてしまったが、最後に、サンデーモーニングの御意見番コーナーへ、陽気に歌を歌いながら登場するシーンでも見ながら、在りし日の大沢親分を偲ぶことにしよう。以下で偲んでください。

大沢親分SONGS 2010年ーYouTube


(冒頭の画像は、2003年11月撮影大沢啓二氏。2010年10月8日朝日新聞掲載分借用)
※1:5月29日】1994年(平6) “親分”大沢監督 7度目の退場!羽交い絞めされてもキック!
http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_09may/KFullNormal20090501174.html
※2:新語・流行語大賞(1993年 )
http://www.mapbinder.com/Dictionary/Ryukogo/1993.html
※3:日本ハム 10年ぶりの最下位 大沢親分 ファンの前で土下座-スポーツニッポン【9月29日】1994年(平6)
http://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/pro_calendar/1109/kiji/K20110929001721880.html
※4:監督の資質と条件(監督に向く人と向かない人): 時遊人SUZUのひとり言
http://tsuri-ten.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-4a2d.html
※5:小関順二公式ホームページ「名選手にあらずんば、名監督にあらず 」
http://kosekijunjihomepage.com/?%E5%90%8D%E9%81%B8%E6%89%8B%E3%81%AB%E3%81%82%E3%82%89%E3%81%9A%E3%82%93%E3%81%B0%E3%80%81%E5%90%8D%E7%9B%A3%E7%9D%A3%E3%81%AB%E3%81%82%E3%82%89%E3%81%9A
※6::栗山ハム新監督“三原イズム”で勝つ!/野球/デイリースポーツonline
http://www.daily.co.jp/baseball/2011/11/10/0004608771.shtml
年度別成績 - 日本野球機構
http://bis.npb.or.jp/yearly/
財団法人野球体育博物館
http://www.baseball-museum.or.jp/
大沢啓二 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B2%A2%E5%95%93%E4%BA%8C