今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

夏越祓(なごしばらい)

2006-06-30 | 行事
今日(6月30日)は、「夏越祓(なごしばらい)」。
「夏越祓」は「夏越の祓」とも呼ばれるが、6月晦日(つごもり)に行われる穢れを祓う行事。もとは、12月大晦日の宮中行事「年越の祓(としこしのはらえ)」と一対の大祓(おおはらえ)行事だった。このような、1年を2季に分けて同種の行事を繰り返すのは、古い暦法の名残りであり、その頃、1月から6月までを1年、7月から12月までは別の新しい年といった感覚でとらえていた。つい最近まで、我々の生活のなかで盆と正月前にそれ迄の決算をするという習慣はその名残りである。
このようなことから、6月の祓いには大晦日のそれと同じく、半年間で身に溜まった罪や穢れを祓い清め、次の半年間の無病息災を祈るいわば、新しい時を迎えるための物忌みの意味があった。701年の大宝令以後、正式な宮中の年中行事に定められ、6月と12月晦日に行われてきた。この日には、朱雀門前の広場に親王、大臣ほか京にいる官僚が集って大祓詞を読み上げ、国民の罪や穢れを祓った。応仁の乱の頃から行われなくなったが、江戸時代に再開された。一時期、12月晦日の大祓が途絶えて、6月(みなづき)の祓のみが行なわれていたこともあったが、明治の初めに旧儀復興の布告が出され、現在でも古い伝統に基づき、前半歳と後半歳にこの大祓の儀式が行なわれている。ただ、12月晦日の「年越の祓」は、伊勢神宮や奈良の大神神社(おおみわじんじゃ 三輪明神)など一部の神社では古儀に則り行っているが、一般の神社では、形骸化された祭事となっているところも多い。
神社神事としての「夏越祓」では、人形(ひとがた)で身体をなでて穢れを移して川に流したり、茅(ち)の輪(わ)くぐりをしたりする。茅の輪は、茅(ちがや)をよって束ねた輪で、氏子が茅の輪の中を左まわり、右まわり、左まわりと八の字に3回くぐると穢れが祓われ、災厄を免れるといい、「輪越(わごし)祓」の別名もある。茅の輪は水神としての蛇を形象化したものとされ、それを潜ることで水による祓除を期待したものだそうだ。民間でも人形の川流しが行われ、川や海で水遊びをする地域もある。
この「水無月祓」の記録は古く、この大祓の儀式の際に読み上げられる言葉(ことば)が、『延喜式』のなかに載せられている大祓詞である。この大祓詞は、罪穢れ、悪事や災難を取り除く為の祓詞で、我国で最も古い祓詞といわれている。『延喜式』巻八「祝詞」には「六月晦大祓」として記載されており、「十二月も此に准へ」と注記がある。今日使用されている大祓詞は「六月晦大祓」の祝詞を元にしたものである。そのようなことから、古くから和歌の歌題ともなり、連歌・俳諧にも受け継がれた。
「六月(みなづき)の夏越の祓する人は千年(ちとせ)の命延(の)ぶといふなり」(『拾遺集』よみ人しらず)。
「風そよぐ ならの小川の夕ぐれは みそぎぞ夏のしるしなりける」(「新勅撰和歌集夏・小倉百人一首 98番」 従二位 藤原家隆)
この歌のなら は 奈良=楢の掛詞となっており、 ”楢の木の葉に風が吹き渡っている奈良の小川の夕暮時は 、涼しくて秋の訪れを思はせるやうであるが 、この川で行はれている禊の行事だけが、 まだ夏であることの証拠なのだなぁ ”・・・といった意味。
世阿弥の作で「水無月祓」という題目の能がある。古くは「みそぎ川」「名越(なごし)」とも呼んでいたそうで、 この神事を縦糸に 男と女の再会を横糸に織りあげた ドラマティックな狂女物である。恋に狂った女が水無月祓の茅(ち)の輪を持ち、夏越の由来を語り、今日祓をした人は長生きすると、茅の輪を差し出して、祓をすすめる。「水無月祓」は、類曲に「般若」があり、そちらが人気があるため滅多に出ないようであるが、当時の賀茂神社の景色を上手に描いた曲と言われている。
6月30日の今日は、一年も残す所あと半分となる日・記念日の「ハーフタイムデー」でもある。水無月晦日の神事は、夏越節句とも言われ、年の境目といった重要な儀式とされていた。
6月になると京の和菓子屋さんの店先には「水無月」が並ぶ。“ういろう”の上に小豆を載せたもので、形は三角形をしている。宮中では6月1日に、冬の間に氷室に保存しておいた氷を切り出し、口にして暑気を払う行事が行われていた。しかし当時、氷は庶民には手の届かない高級品。氷をかたどった三角のういろう(または“しんこ”)を食して、夏を無事に越せるよう祈った。上にのっている小豆は邪気をはらう魔除けのしるし。三角の形は暑気を払う氷を表しているといわれている。水無月晦日の神事「夏越の祓」の「夏越」という言葉には「和(なご)す」の意味があるそうで、悪鬼邪鬼を和まするのが夏越の祓といって、今では夏越の祓えにあわせて6月30日に水無月を食べることも多いようだ。平安の昔より変わらない京の夏の酷暑。半年間の罪穢れをはらい、夏を無事に過ごしたいという願いをこめた神事「夏越の祓」とあわせて、庶民が「水無月」を食べる習慣も根付いたのだよね。
兎に角、今日は、1年の半年目の区切りの日。12月と同様、色々な面で、やるべきことをやっていないかどうかなど、健康面とともに、これからの半年のために見直しておく日にしておいても良いよね。 
(図:夏越祓『年中行事大成』国立公文書館蔵。NHKデーター情報部編ビジュアル百科「江戸事情」より)
参考:
夏越の祓
http://www.tabiken.com/history/doc/N/N210R100.HTM
大祓 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%A5%93
http://www.isejingu.or.jp/
大和国一之宮三輪明神大神神社
http://www.oomiwa.or.jp/
京都の和菓子・水無月(みなづき)
http://www.kanshundo.co.jp/sweet/smr/minazuki/index.htm
能 「水無月祓」 世阿弥
http://www.nohbutai.com/contents/05/07ma/2minaduki.htm
万葉集: 茅萱(ちがや)を詠んだ歌
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/flower/chigaya.html

「廉太郎忌」作曲家・滝廉太郎の忌日

2006-06-29 | 人物
1903(明治36)年の今日(6月29日)は「廉太郎忌」作曲家・滝廉太郎の忌日。
滝廉太郎の祖先は、代々豊後日出藩に仕えた名門。父吉弘は廃藩置県を機に上京。大蔵省、内務省に勤務。廉太郎は1879(明治12)年8月24日東京生まれ。父の転任により、神奈川、富山と転々とし、大分県竹田で尋常高等小学校高等科を終え、東京音楽学校専修部予科に入学したのは1894(明治27)年9月、15歳の時であった。数々の演奏会に出演、ピアニストとしての地位を確立していった。その彼が集中して代表的な作品を書いたのは、留学前の1900(明治33)年から1901(明治34)年にかけてである。1900(明治33)年10月に書かれた「メヌエット」は絶筆となった「憾み(うらみ)」(1903年2月14日作)とともに、日本人が始めて作ったピアノ曲である。11月1日には、合唱組曲<四季>(「花」「納涼」「月」「雪」)を発表する。芸術性の高い歌曲はみな西洋の曲に日本語の字句をあてはめていた時代に、彼は、日本語のオリジナルな詩に自分の曲をつけることに大きな抱負をもって取り組んだ。この作品は、今日の日本の合唱曲の道標となるものであり、中でも「花」は「春のうららの隅田川・・・」の歌詞で広く知られている。有名な「荒城の月」は『中学唱歌』の中にある。当時の文部省は、日本の学校で教えることのできる自前の唱歌を作ることを東京音楽学校に求めていた。これをうけて音楽学校では、当代の詩人たちに作詞を依頼し、作曲を公募した。廉太郎は、40編ほど集まっていた詩の中から3編を選び出して作曲し応募した。その3曲が、「箱根八里」「豊太閤」そして「荒城の月」であった。曲想はすべて異なる。わずかな期間で,異なる調べの名曲をいっぺんに3曲も生み出した廉太郎の才は高く評価された。そして、彼は、1901(明治34)年4月の渡欧直前に『幼稚園唱歌』の原稿を出版社に渡していた。この曲集は東基吉、東くめ、鈴木穀一、滝廉太郎の企画編集で、全20曲の殆どは、東くめ作詞、滝廉太郎作曲で、幼児にもわかりやすく口語体の歌詞を初めて採用し、簡単な伴奏も付けられている。幼児の唱歌集に伴奏が付いたのもこれが最初で、「鯉幟(こいのぼり)」「お正月」「桃太郎」など、現在もよく歌われている。
1901(明治34)年ドイツ留学を命じられ、10月にライプチヒ王立音楽院に入学するが、11月病気入院。診断は結核だった。療養ははかばかしくなく3年間の留学の予定を切り上げ、翌1902(明治35)年、8月、失意のうちに帰国した彼は、帰国後、故郷大分の父母の許で静養する事になるが、1903(明治36)年6月29日、大分で23歳10ヶ月の短い生涯を終えた。
静養中に「憾(うらみ)」他数曲の作品があったようだが、彼の死後母正子が病気の伝染を恐れて楽譜などを焼いてしまったり、生前、請われるままに彼が譜面を人々に分け与えたためどんなものがあったか詳しくわからないようだ。死亡する4ヶ月前に作曲された遺作の憾(うらみ)の字には“思い残す事がある”“心残り”等の意味がある。
「憾」は、不安と焦燥と怒りの感情がそのまま吐き出されたような激しい音楽である。大志を抱きながら不治の病に冒された瀧の心情を表現したものであろう。
こちらで一度聞いてみてください。 → 瀧廉太郎(滝廉太郎)名曲選「憾」
名曲「荒城の月」(土井晩翠作詞)で知られる作曲家・滝廉太郎は、日本における作曲家第1号とも言われている。明治以後の日本に西洋音楽を積極的に取り入れ、世界を目指した情熱の人は23歳10ヶ月という若さで世を去った。明治と言う時代に常にその志を高く、自らを、また日本全体を見つめ続けた彼はその肉体的限界に気付いたからこそ、生き急ぐ必要があった。様々な曲の背景に隠れる廉太郎のその姿はまさに、ドラマチックな生涯であった。彼の音楽活動に燃えた短い生涯を描くドラマは、廉太郎没後90年の1993年に「わが愛の譜 滝廉太郎物語」(監督 : 澤井信一郎 )として映画化された。
(画像は、コレクションの映画のチラシ「わが愛の譜 滝廉太郎物語」1993年製作。主演・滝廉太郎は風間トオル 、恋人のピアニスト中野ユキは鷲尾いさ子が演じている)
滝廉太郎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%9D%E5%BB%89%E5%A4%AA%E9%83%8E
ホントはどんな人?―PICK UP第9回 滝廉太郎(たきれんたろう)
http://www.kirihara.co.jp/scope/pickup/200402/pickup.html
わが愛の譜 滝廉太郎物語(1993)-goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD27813/index.html?flash=1
d-score 滝廉太郎の楽譜
http://www.d-score.com/cgi/search?key=%C2%EC%CE%F7%C2%C0%CF%BA&SE=SCO
瀧廉太郎名曲選
http://www.niigata-u.com/files/oita/music.html

パフェの日

2006-06-28 | 記念日
今日(6月28日)は、「パフェの日」
1950(昭和25)年6月28日、巨人の藤本英雄投手(当時32歳)が、青森市営球場での対西日本パイレーツ戦で日本プロ野球史上初のパーフェクトゲーム(完全試合)を達成した。
東京・後楽園の野球体育博物館にあるスコアーブックによると、投球数92、外野フライは6。監督まで代打に出た最終回の代打攻勢を振り切った。試合は、4:0、試合時間1時間19分だったという。
藤本 英雄(ふじもと ひでお。1943年より「中上」姓を名乗る)は、1942(昭和17)年~1955(昭和30)年プロ野球選手・プロ野球監督として活躍した。この人をを知っている人は、もう、いい年だよね~。(^0^)だけど、この人は凄い人だよ。兎に角、先ずは、選手時代の成績(戦績)表を御覧あれ。
藤本 英雄(成績表)→http://www.kosya.net/fujimoto.htm
1918(大正7)年5月18日、山口県下関市彦島出身、下関商業から旧制明治大学に入り、1942(昭和17)年、東京巨人軍に入団、初年度に10勝すると2年目の1943(昭和18)には34勝、防御率0.73で最多勝、最優秀防御率。この年の防御率0.73は現在も日本記録として残っている。また、同年5月22日、対名古屋戦(後楽園球場)ではノーヒットノーランも達成している。1944(昭和19)年は投手で3番を打ち、監督も兼任。その後1947(昭和22)年中日へ移籍するが、1年で巨人へ復帰。肩を痛め不振だったが、スライダーを編み出し1949(昭和24)年に復活、1950(昭和25)年のこの日(6月28日)の快記録となったのである。又、この年、ラビットボール導入でリーグ全体の投手成績が悪化する中、24勝をあげ防御率も1.94と安定した成績を残した。と同時に、投手史上最多となるシーズン7本塁打も放っっている。1955(昭和30)年200勝を達成し引退したが、彼の選手時代の通算成績 は、 367試合に登板し、 227完投、 63完封、 200 勝、87敗、 防御率 1.90 と凄い成績を残している。引退後、1956(昭和31)年から1957(昭和32)年まで巨人コーチ・2軍監督、その後大和証券の監督に就任、読売新聞ロサンゼルス支局駐在員も務めた。1976(昭和51)年に野球殿堂入りを果たした。1997年(平成9)4月26日、心筋梗塞のため死去。享年78歳であった・・・。と、まあ、投げる打つ、そして、監督まで兼任するという野球に関しては完璧(パーフェクト)な人間であった。「パフェの日」は、この完全試合を果たしたことに因んだもの。
パフェ”perfeit”はフランス語だが、借用語として英語にもあり、チョコレートパフェやフルーツパフェなどでお馴染みだが、英語の”perfect”(完全)に当たる。原義は「完全に作られた」(per=完全に+fect=為す)でフランス語でもその意味は同じである。英語のファクタ-(fac・tor)は「要因、要素」を意味するが、その原義は「作るもの、為すもの」である。
パフェはこのうえない完璧なデザートを目標に、20世紀のはじめにフランスで作られたのが最初といわれ当時はフルーツムース(fruit mousse)を使用していたようだが、時代が変わるにつれてアイスクリームに代わっていったとのこと。
少し、話はそれるが、野球のことは別として、人間誰でも、完全(パーフェクト)なことをしたいとか、完全な人間でありたいなどとの欲求は強いよね~。
しかし、神様でも自分の考えた通りの人間ではなく不完全な人間を作ったのだから、いくら人間が完全(完璧)な人間を望んでも完全(完璧)な人間などにはなれはしない。
人間は所詮、不完全な存在で、みんなそれぞれ欠点を持っているもの。こんな不完全な人間同士が、お互いに完全であることを期待し、それを相手に要求したらどなるだろうね~。
現実には、えてして、自分も不完全な人間であることを忘れて、相手にだけ完全を求めていないかな~。昔と違って、この頃は、簡単に離婚などもしてしまうが、それなども、ここらに原因があると思うのだが・・・。不完全さや弱さ、そして失敗する性質は、生の人間にはつきものだということをわかってほしいな~。
私は昔、マズローの欲求段階説についての本を読んだことがある。アブラハム・H. マスロー (Abraham H. Maslow )アメリカの心理学者。多くの心理学者が人間の行動原理について、苦痛からの逃避・欠乏の充足のような暗い側面を強調したのに対し、幸福や喜びの追求のような明るい側面を強調する。そして、『人間は自己実現に向かって絶えず成長する生きものである』と仮定し、生長に伴いそれらがおのずと“自己実現”されるとき、健康な人格が生まれる。また、この実現が環境によって妨げられることが精神病理的症状を生むと説き、人間の欲求は5段階のピラミッドのように表され、底辺の生理的欲求から1段階ずつ、安全の欲求・所属と愛の欲求・自尊の欲求などの欠乏欲求の段階を満たし、最終的に、成長欲求である自己実現への欲求を満たして行くという理論である。
2000(平成12)年秋、イチローはポスティング制度を利用してメジャーリーグシアトル・マリナーズに移籍した、シアトル・マリナーズのイチローは、2001(平成13)年、シーズン242安打を達成しアメリカン・リーグの新人王・MVPを獲得するなどチームのプレーオフ進出に貢献、日本の一流打者がメジャーリーグでも通用することを証明した。テレビのインタビューで2001年の自分の活躍を振り返り、「たくさんの賞をいただいたことはもちろん嬉しいが、何よりも、自分の練習の成果を出せたことに満足している」という趣旨の発言をしている。社会の評価はあくまで結果であって、自分がいかに満足できるかが大切であるということを教えてくれている。そして、今年(2006年)6月8日、とうとう、本拠地セーフコ・フィールドで行われたツインズ戦で、日米通算2500安打を達成した。そして、記者の質問に、「野球界が前に進んでいくためには技術だけでなく、記録でも先輩を抜いていかないと進歩したことにならないと思います」と答えている。もう、日本でイチロー以上の記録を持っている張本と野村らを追い抜くのは時間の問題。いずれ、世界一の記録を作るだろう。彼はもう、マズローの欲求段階説で言えば、最後の自己実現への欲求段階にあるといるといえるだろう。藤本英雄投手など、過去のすばらしい成果を収めている選手は、皆そうであろうが、そこにゆくまでには、どれだけひたむきな努力をしてきたことだろう。どうも、最近は、たいした努力もせず低い次元の欲望や夢のとりこになっている人間が多いように思われる。
(画像は向かって左は藤村英雄投手。朝日クロニクル・週刊20世紀より。右は、アブラハム・H. マスロー (著),「完全なる人間―魂のめざすもの」)
参考:
完全試合 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8C%E5%85%A8%E8%A9%A6%E5%90%88
藤本英雄 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%9C%AC%E8%8B%B1%E9%9B%84
藤本英雄
http://www.webmie.or.jp/~m-yama/player/sportsfujimoto.htm
アブラハム・H・マスロー
http://www.bookclubkai.jp/people/contents/people002.html
アブラハム・マズロー-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%8F%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%BA%E3%83%AD%E3%83%BC
イチロー-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%81%E3%83%AD%E3%83%BC
完全なる人間―魂のめざすもの/アブラハム・H. マスロー (著), Abraham H. Maslow (原著), 上田 吉一 (翻訳)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/tg/detail/-/books/4414304105/reviews/ref=cm_rev_more_2/503-9855760-7669520

演説の日

2006-06-27 | 記念日
今日(6月27日)は、「演説の日」
1874(明治7)年6月27日、慶応義塾の三田演説館で日本初の演説会が行われた。「演説」という言葉は慶応義塾を創設した福澤諭吉が仏教語をもとに作ったもので、この日の演説で福澤は「日本が欧米と対等の立場に立つ為には演説の力を附けることが必要」と説いた。
福沢諭吉は1874年の12月刊行の学問のすすめ 十二編の中で、「演説とは英語にて「スピイチ」と言い、大勢の人を会して説を述べ、席上にて我思うところを人に伝うるの法なり。我国には古よりその法あるを聞かず、寺院の説法などは先ずこの類なるべし。西洋諸国にては演説の法最も盛んにして、政府の議院、学者の集会、商人の会社、市民の寄合より、冠婚葬祭、開業開店等の細事に至るまでも、僅に十数名の人を会することあれば、必ずその会につき、或いは会したる趣意を述べ、或いは人々平生の持論を吐き、或いは即席の思付を説きて、衆客に披露するの風なり。この法の大切なるは固より論をまたず。譬えばいま世間にて議院などの説あれども、仮令い院を聞くも第一に説を述ぶるの法あらざれば、議院もその用をなさざるべし。」と述べて、その重要性を説いている。
この中でも”我国には古よりその法あるを聞かず、寺院の説法などは先ずこの類なるべし。”と言っているように、演説(演舌、えんぜつ)は古来からある仏教用語の「法螺(ほうら)」からきている。事実無根のいい加減なことや、事実を誇張して語ることを俗に「ホラを吹く」というが、この「ホラ」は漢字で「法螺」と書き、大きな巻貝に穴を開けて吹き鳴らす道具で、その法螺を作る貝が法螺貝である。昔から世界各地で吹奏や合図のために用いられ、日本の法螺は密教僧によって唐から伝えられ、山伏の携える道具として知られているが、これを山中で吹くのは野獣を追い払うとともに魔を退けるためでもある。法螺は正しくは「ほうら」であり、『無量寿経』には「法鼓を扣き、法螺を吹く」、『法華経』にも「大法螺を吹き、大法鼓を撃ち」とある。『心地観経』には「大法螺を吹いて衆生を覚悟して仏道を成ぜしむ」と説く。このように「法螺を吹く」とは「仏の説法」のことであり、経典の中で「殻の音が遠く聞こえる。以て仏の説法に喩える」と、その意味を説明している。
福沢は無数の日本語の中から「スピーチ」の訳に「演説」を選んだが、ことの起こりは、前年(1973=明治6)の初夏、社友の小泉真吉(のち慶応義塾塾長に就任)が“スピイチ”の方法と重要性が記されている英語の小冊子(正式の書名はわかっていないという)を見つけ福沢に示したところ、その重要性を認め、早速翻訳し『会議弁』という小冊子にまとまられた。
この『会議辯』は1)総論2)集会を起す手続き3)三田演説会の序(三田演説会の規則)からなり、具体的に手順を詳述しており、この時“スピイチ”を演説、“ディベイト”を討論と翻訳し、現在使われている意味での言語を最初に創出した。福沢としては、近い将来実現されるだろう民選による国会をはじめ地方議会の選挙、運営を予感して、喫急の課題としてスピイチ(演説)の何たるかを詳述し普及を図ったものであろう。そして、この『会議弁』に従って、福沢を始め、慶応義塾の有志が週に2回ほど福沢の私邸や他の同志の家に集まり、ある時はテーマを宿題として与え、あるいはその場で決めて持論を述べ合ったり、またある時は決められたテーマを‘可’とする組と‘不可’とする組とに別れて議論するなどして訓練が重ねられ、ほぼ1年後の1874(明治7)年6月、三田演説会が組織され、演説会や討論会が毎週土曜日に、塾内にある出版社の会議室や塾内の食堂などで開催されたそうだ。当初は会員(発会時の会員は13名)だけの演説会であったが、演説法を普及させるためには、世間一般に公開し、多人数の聴衆を収容する会堂が必要であるということになり、演説館の建設に着手、建築費を全額福沢が負担して造らせ、1874(明治8)年5月1日に開館した。当初は現在の図書館(旧館)と塾監局との中間辺に位置していたが、1924(大正13)年、現在地―三田構内南西の小丘稲荷山上に移築され、さらに1947(昭和22)年5月修復がほどこされ現在に至っているという。1915(大正4)年には東京府からはやくも史蹟に指定され、また1960(昭和35)年3月には東京都重宝(建造物)の指定をうけ、さらに1967(昭和42)年6月には重要文化財に指定されている。
明治の時代になって、封建思想を排除し、自由と開放の観念を民衆に与えたのは、自由・民権派などによる「演説」という新しい表現形態であった。演者は当時日本の最高の知識人であった。近代思想を積極的に学びとった彼らは、さまざまな研究団体を組織し、討論会や公開演説会を開催していった。自由民権家であり思想家であった植木枝盛も、東京遊学中の1874年~1875年頃は、盛んに演説会に出席、また、福沢率いる三田学派の人々の講演から多くのものを学んだと日記に記しているという。明治時代の演説団体には明六社をはじめ慶応義塾系の交旬社や洋行帰りのメンバーで組織されていた共存同衆、また、法学者や新聞記者などを中心とした法律講義会(のちの嚶鳴社ーおうめいしゃ)などがあった。彼らは、演説・討論・著述等によって、精力的に活動した。その足跡は全国に及び、当時の民権派諸新聞に数多く見ることが出来る。
なお、1889(明治22)年に出来た「大日本帝国憲法」は1945(昭和20)年、敗戦によって、56年間の生命を終え、代わって戦後の民主化の中から生まれた「日本国憲法」は先ほど紹介した植木枝盛ら民権派草案の一部を取り入れて、成立後、今日まで今なお大多数の国民から支持され健在である。(週刊朝日百科・日本の歴史)
学問の進めの序文「天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ人ノ下ニ人ヲ造ラズト云へリ」という一節はあまりにも有名である。この言葉は福沢諭吉の言葉ではなく、アメリカ合衆国の独立宣言からの引用である。今でもアメリカ大統領の就任演説など聴いていると、本当に上手いな~と思う。しかし、今の日本の政治家などはまだまだ、演説が上手とはいえないな~。
(画像は、明治の女性民権運動のトップ。「岸田俊子(中島湘烟=しょうえん)」東京大学明治新聞雑誌文庫蔵。週刊朝日百科・日本の歴史より。彼女は、当時の常識を破って人目に自分をさらし、婦人の覚醒を訴えて男勝りの演説をしたという)
参考:
福沢諭吉ーWikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E6%BE%A4%E8%AB%AD%E5%90%89
学問のすすめ(初編~十七編)
http://www1.sphere.ne.jp/dia/gakumon/gs/GS0.HTM#anchor3535567
第十章子規と「演説」 ~ 演説の来歴~ (三好恭治の熟田津今昔)
http://home.e-catv.ne.jp/miyoshik/nigitazu/nigitazu10.htm
慶應義塾豆百科
http://www.keio.ac.jp/mamehyakka/index.html
三田演説館
http://www6.ocn.ne.jp/~akarenga/mitaenzetsukan.htm
演説本の流行
http://www.lib.u-tokyo.ac.jp/tenjikai/tenjikai2005/tenji/index-l.html
自由民権派の憲法草案(私擬憲法)
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/uekiemori.htm
アメリカ大統領就任演説(ケネディ~W・ブッシュまで)
http://hw001.gate01.com/katokt/inaugral09.htm
NPO法人 JKSK -黄金の鍵 語りつぐ、女性の物語
http://www.jksk.jp/j/key/index.htm

露天風呂の日

2006-06-26 | 記念日
6月26日「露天風呂の日」
岡山県湯原町うるおいあるまちづくり委員会が1987(昭和62)年に制定。
6月26日の「露天風呂の日」は、湯原温泉の若者達のアイデアによる「町づくり事業」として始められた。「ろ(6)てんぶ(2)ろ(6)」の語呂合せ。6月26日を温泉町の感謝デーとしたもの。イベント当日は、入浴施設や旅館ホテルの内湯も無料開放、宿泊料金も記念日にあやかり、6,260円になったり、旅館ばかりでなく飲食店や商店も特別サービスを行う等、町全体の大きなお祭りになっているそうだ。
日本人の温泉好きは、民族性というか、高温多湿の気候風土だからだろう。昔からお風呂に入ってサッパリしたいという願望があり、サッパリすれば、飲食もすすむし、気分も良くなる。リラックスして精神的にも良い。
風呂に関しての記念日には、「温泉の日 9月9日 」、「風呂の日 毎月26日」など がある。風呂の歴史的なことや謂れなどについては、私の過去のブログで採りあげたのでそこで見てほしい。→今日(4月26日)は「よい風呂の日」
兎に角、日本人は昔から風呂好きであるが、温泉のイメージとしては先ず「温まる」「ほのぼの」といったところだろうが、一時は温泉というと年寄りが連想された。しかし、今では、若い人に人気があるようだが、若い人には特に 露天風呂の「爽快さ」 が好まれるようだ。私も若くはないが露店風呂が大好きだ。
私は、現役時代、仕事での出張が多く年中全国へ出張していたが、近くに温泉のあるところでは、必ず、温泉のある宿に止まった。温泉に浸かってその後、部屋で浴衣掛けで飲む酒と料理は最高だ。普通の人は、出張に行くと旅費を始末して少し残し、小遣いの足しにする人が多いようだが、私などの飲兵衛は、いつも赤字であった。私らの考えは、なかなか行けない遠い温泉地のあるところへ仕事で行けるのだから、折角だから、出張旅費として会社から支給される宿泊費などに自分のお金を少し足して、温泉宿にでも泊まって、その土地の酒と肴が食べられりゃ~、この上なきご機嫌。なんせ、旅費はほぼただなんだから・・といった考えになる。だから毎月数万円の赤字でも、安いものである。
出来れば温泉でも露店風呂に入りたいが、これはなかなか思うようにならない。なにせ、昼間は仕事をしているのだから仕事が終わって急いでゆけるところは、時間的にも制約がある。
それで、時々、出張の終わった後帰る前に1日、休暇を取ってその辺を周遊することがあるが、そんなことで、伊香保温泉に泊まったことがある。まだ、残雪が少し残っている頃だったが、旅館で野外のいい露店風呂があると聞き仲間と出かけると、小さな露店風呂で先客がいては入れなかった。仕方なく引き返し、温泉町を少しぶらぶら歩いて見物し、又行ったら、今度は男の人が2人だけであったので、入ろうかと思った。その瞬間2人の男が湯から立ち上がると、なんと、背中に大きな立派な刺青が・・・。ちょっと、入る勇気がなくなりそのまま旅館の湯に入ったのが思い出される。・・本当に残念だった。
やはり、山でも海に面したところでも、野外での温泉には開放感があり、屋内とは別段の爽快感があることは確かである。こんなところで、女性との混浴なんて・・・と、男は思うかも知れないが、先ず、残念ながら若い女性には、当らない。しかし、小説などでは、透き通るような白い素肌の若い女性が露店風呂に入っている場面がよく出てくる。又、映画などでも良くあるが、それは、絵に成ることは確かだが、一ある種の覗き趣味かもしれない。そのようなことは別にして、温泉と美女と言うと昔見た日活映画「白夜の妖女」(1957年)を思い出す。泉鏡花原作の「高野聖」を脚色して、月丘夢路、葉山良二のコンビに、滝沢修、大矢市次郎などのベテランが脇を固める名画である。弘法大師の開山以来千年の間、仏教の聖地として女人禁制であった高野山が、明治5年、この禁がとかれることになった。全山の僧侶達は反対したが、ただ一人高野の聖と仰がれている宗朝老師は「自分には女人禁制などと口にする資格がない…」と、僧侶一同の前で若き頃の懺悔ばなしをはじめたところから映画は始まる。そして、そのなかで、24歳の若い宗朝(葉山良二)は飛騨の高山から善光寺に向う山中で道に迷い、やっと家を見出した家には、妖しいまでに美しい女(月丘夢路)と白痴の小人夫婦が住んでいた。宗朝が一夜の宿を乞うと、女は天然の岩風呂に案内した。しかも、その美女は自分も全裸になって入浴するのだった。その夜、初めてみた女体の美に修業の身の自信を失った宗朝は、・・・・。女性の魅力に負け一夜を共にしそうになった宗朝も我を取り戻し、女も魔性を棄てた。そして、そこから逃れる宗朝。宗朝とともに逃げようと、女は白痴の手を引いて、宗朝を待たせた崖に戻ったが間に合わず諦めると白痴をつれ、沼の真中に舟を漕ぎ出した。突然、「木曽のオ、御嶽さんはア……」と白痴が無邪気に歌い出したが・・・。詳細のあらすじは、白夜の妖女(1957)ー goo 映画 を、見てください。この映画の女を演じる月丘夢路宗朝は本当にきれいだった。こんな美しい女性と誰も居ない山中で一緒に露店風呂などに入って、誘われると、後に、高野聖といわれるような地位につくお坊さんでも一夜を共にしたくなるだろうね。兎に角、その魔力に負けず、思いとどまったから、牛や馬にも変えられずに済んだのだけれど・・・。私なら、ダメだろうな~。最後、山中に響く、「木曽節」も、それまでの民謡で聞いた木曽節とは異なり、とても不思議な魅力があった。その時、あ~、民謡なんて、本当はこうなんだろうな~と、つくづく思った。露店風呂の話が変なところへ脱線したが、露天風呂と若い美しい女性は、本当に絵になるよ・・・。
(画像は、「露天風呂 」温泉を愛する人のための旅の本 全国編。JAF出版社 )
参考:
湯原町商工会・湯原町旅館協同組合
http://www.yubara.com/
露天風呂「砂湯」考察
http://www.net626.co.jp/sinan01.html
露天風呂に入りたいなら(JTB 癒しの温泉特集)
http://www.jalan.net/onsen/
白夜の妖女(1957)ー goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD25381/index.html?flash=1