1946(昭和21)年の今日・11月30日「ララ物資」第一便としてミルク・衣類など450トンが横浜港に到着した。
日本の学校給食は、1889(明治22)年に山形県鶴岡町(現鶴岡市)の私立忠愛小学校においておにぎり・焼き魚・漬け物といった昼食を貧困児童に与えたのが初めてとされているが、その後、国の補助などを得て主に大都市を中心に全国的に学校給食が広がっていったが、このころの給食の目的は、虚弱児救済、就学奨励といった意味合いが強かった。しかし、1944(昭和19)年に戦争のため給食が中断された。戦後は物資・食料不足等により、日本中が飢えていたが、とくに都市では食糧の配給がとどこうり、食べ物の恨みで歌舞伎俳優・12代片岡仁左衛門一家5人が同居人に殺害される事件さえ起こったほどであり、戦争で親をなくした浮浪児が街に溢れていた。そんな日本の子どもたちの悲惨な様子をみて、アメリカなどから「ララ放出物資」という救援物資、主に脱脂粉乳や小麦粉といったもので、これらを使って戦時中から中断されていた学校給食が再会されることになり、先ず、同年12月24日、東京、神奈川、千葉の三都県の学校で全児童を対象に試験給食が行われたが、文部科学省では、これを記念して、この日は学校の冬休みと重なるため、1ヶ月遅らせて、毎年、冬休みと重ならない1月24日から1週間を全国学校給食週間としていることを、前に、このブログ「全国学校給食週間」で書いたことがある。
ララ (LARA=アジア救済連盟)は、” Licensed Agencies for Relief in Asia “の略で、直訳すると”アジアでの救援のために認可された政府機関“ということになる。
一般的に「ララ物資」とはこのララによる戦後の日本や朝鮮半島の救済を目的とした援助物資のことであるとされており、私の蔵書、朝日クロニクル「週刊20世紀」も同様の記載であり、1948年号には、続いて以下の記載があった。
“学校給食はララ物資の脱脂粉乳を使って始まったが、このララ物資設立の中心となって努力したのは、サンフランシスコ在住の日系人・浅野七之助らであり、収容所時代に日本から送られた米やみそへのお返しだったが、自分等も豊でないなか、4年間に300回もの支援があった。” ・・・と。そして、“ララ物資に感謝するセレモニーに参加した子供たち(3月12日、大阪市北区中之島の朝日ビル前)”の写真が掲載されていた。その写真が冒頭掲載のものである。
サンフランシスコ在住の日系人・浅野七之助がどういう人物であるかはよく知らないがこの人については、以下参考の※:「ウェブもりおか:盛岡の先人たち:浅野七之助」に写真入で簡単な説明があるのでそれを参照されたい。
この「ララ物資」について余り詳しい資料が見当たらないが、以下参考の※:「平成19年6月外交史料館(PDF)」や※:「ララ物資のはなし【PDF】」に信頼のおける内容が書かれているが、私見を挟まず色んな資料から事実関係だけを解説している後者に書かれていることをベースに書くことにする。
ララ(LARA)は、”第二次世界大戦で困窮に陥ったアジア、特に「日本・朝鮮及び沖縄」の人びとの救済事業を行なうことを目的に、全米の各種宗教団体(13団体又15団体とも)を中心とする海外事業運営篤志団アメリカ協議会(American Council of Voluntary Agencies for ForeignService, Inc.)を親団体として結成された。これら諸団体構成員を中心にアメリカ・カナダ・メキシコ・ブラジル・アルゼンチンそしてハワイなど広範囲の人びとが救援物資として寄せた金品を、ララがとりまとめた。なお、救援物資を寄せたなかに日系の人々がいたことも明らかにされている。敗戦後の日本にララを通して贈られた救援物資の「20パーセントは、アメリカとカナダだけでなく、ブラジルやアルゼンチンなどに住む日系人が集めたものだといわれているようだ。
この中で、”第二次世界大戦で困窮に陥ったアジア、特に「日本・朝鮮及び沖縄」の人びとの救済事業を行なうことを目的に“とあるように、厚生省五十年史編集委員会編『厚生省五十年史(記述篇)』、(財団法人厚生問題研究会、1988年、805頁)には、わざわざ沖縄が日本と別に挙げられていることに留意する必要があるようだと注記されている。つまり、沖縄はこの当時日本とは見ていなかった・・・ということだろう。
この「ララ物資」を積んだ輸送第1船ハワード・スタンズベリー号が横浜港に1946(昭和21)年の今日(11月30日)午後2時に到着し徹夜で陸揚げされたという。入港前日の新聞の予告では、積荷の内容は「ミルク、米の粉、バタ、ジャム、缶詰、衣服、靴類450トンで、このうち米の粉60トンが在米日本人からの贈り物」となっているとのことである(『朝日新聞』1946年11月30日)。
これを皮切りとして、1952(昭和27)年6月までの約5年半の間に、合計重量3300万ポンド(重さの中のポンド⇒英米のポンドを参照)余の物資と山羊・乳牛が届けられた。3300万ポンド余の大まかな内訳は、食糧75.3%、衣料19.7%、医薬品0.5%、その他4.4%となっており、食糧が圧倒的に多く、これと衣料とで95.0%を占めている。しかし、この中に山羊や乳牛などの動物までいるは驚きだ。
第二次世界大戦後の日本は、衣・食・住の全てが不足しており、人々は極限状態での生活を強いられていた。バラックで雨露をしのぎ、衣服とは呼べないような布をまとい、僅かばかりの配給で空腹を紛らわせていたがその配給さえも満足に行き渡らず、遅配が続いた。幼い子供達は育ち盛りにも関わらず、ほとんどが欠食児童で、栄養失調はざらであり、その体躯は痛々しいほどであった。そのような状況の中、生存にもっとも不可欠のものが届けられたということだ。ちなみに、3300万ポンド余の救援物資は458隻の船で日本に運ばれたが、これは当時の金額で約1100万ドルに相当したという。これは、今の日本円にすると400億円ぐらいに相当するだろう。
これらララからの救援物資の輸入をGHQは認めたものの、ララ代表の日本における行動に関してはGHQの管轄下に入り、その指令のみに従うというものであったようだ。そして、GHQの強い統制下のもと、「ララ救援物資の受領並配分に関する覚書」に基づき事細かな配分が行なわれることとなったようだ。
ララ物資を保管する倉庫は横浜市内にある三井物産株式会社のものが確保され、東京向けの大量物資の保管用倉庫は東京都内でこれを確保し、地方において倉庫を必要とする場合は、厚生省が各都道府県を通じて確保したようだ。
ララ物資が最初に上陸した横浜港(新港埠頭)には、ララ物資記念石碑と歌碑があり、歌碑には香淳皇后(昭和天皇の皇后)の御歌が刻まれている。
ララの品つまれたる見て とつ国のあつき心に 涙こほしつ
あたヽかきとつ国人の 心つくし ゆめなわすれそ時は へぬとも
歌碑の隣にある2001(平成13)年4月5日付けの記念碑には、ララ物資の簡単な説明と共に、“香淳皇后御歌は、1949(昭和24)年に昭和天皇と香淳皇后が横浜の「ララ」倉庫に行幸啓になられた時に詠まれたものである”こと。 “「ララ」物資を送って頂いた方々への深い感謝と、当時ご尽力された方々のご功績を後世に永く残すため、多くの方々からの募金によりこの記念碑を建立した。”旨が記されている。以下参考の※:「タイムスリップよこはま - 関東で起きた悲惨な出来事」で、記念碑拡大図と場所の地図が見られる。
このララ物資の配分方針は、日本に設けられたララ代表を加えた厚生省を主管省とする諮問機関「ララ救援物資中央委員会」が審議して決定。実際の配分の概要については、戦争被害者の数にもとづいて、日本の都道府県は、『グループA』から『グループD』まで4つの『配分グループ』に分けられ、戦争でもっとも多くの災害者を出した都道府県グループAには、東京、神奈川、愛知、京都、大阪、兵庫、広島、長崎の8都府県が入っており、ララ救援物資の一番最初の割り当ては、グループAの都府県にある福祉施設のなかから選ばれた486施設が受領したようで、これらの施設には、合計55万7460ポンドの食料品の配分が行なわれた1946(昭和21)年12月当時、約5万人が収容されていたという。
第2回目の割り当ては、翌:1947(昭和22)年1月および2月に、(1)グループA都府県内の約500の施設に、古着が配布され、(2)救援物資は、和歌山、高知、徳島の各県への『地震災害者救済プログラム』のために使用されたというが、これは、1946(昭和21)年12月21日に発生した紀伊半島の熊野灘沖から四国南方沖を震源とする南海地震(M8.0)に対する救援だろう。このとき死者は、行方不明者を含めて1,443名(高知県679名、和歌山県269名、徳島県211名)発生しているという。そして、(3)約100トンの食品が、東京都、神奈川、千葉両県における『学校給食』のために輸送されたそうだ。これが、先に述べた文部科学省が全国学校給食週間としている由緒のものだ。その後、順次配分され、最も被害の少なかったグループD県(岩手、秋田、山形、奈良、島根、鳥取、大分、佐賀、宮崎県)内の施設が最初の配分を受けたのは、1947(昭和22)年5月になってからだそうだ。ララ救援物資は、このような施設だけでなく、一般の困窮者(『一般生活困窮者』『在宅結核療養者』などがその典型的な例)にも配分されるようになったが、物資は、やがて、『学校給食』にも使われることになった。
フリー百科事典「Wikipedia」によれば、ララはアメリカ合衆国救済統制委員会が1946年6月に設置を認可した日系米国人の日本向け援助団体であり、サンフランシスコ在住の日系人浅野七之助が中心となって設立した「日本難民救済会」を母体としているようだが、当時アメリカにおける対外的な慈善活動は海外事業篤志団アメリカ協議会が担っていたが、その対象地域は欧州のみであり日本は含まれていなかった。そのため、日本に援助をしようと思うと、わざわざ、日本に対する援助物資輸送のために新たな援助団体を設立する必要があったようだ。戦後まだ、反日感情が残るなかでララの認可に際しては知日派のキリスト友会員の協力によるところが大きかったという。主な支援物資は長期間の輸送を考慮して脱脂粉乳と衣類であったが、日本国内での物資配付にあたってはGHQの意向により日系人の関与について秘匿され、アメリカからの援助物資として配付されたという。そのよう経緯から、余り、ララのことについて日本人には知らされていないようだ。
戦後の学校給食はこのようなララ(LARA=アジア救済連盟)や、ガリオア(GARIOA :Goverment and Relief in Occupied Areas。占領地域救済政府資金)・から支給された脱脂粉乳、小麦粉で賄われた。
思い起こせば、初めて飲んだ脱脂粉乳はとても口に合うものではなかった。呑まなければ先生に叱られるので目をつぶって飲んだものだ。それに、パン食といっても、パサパサカチカチのコッペパン。食べない子も多く居た。しかし、食料難の時代、食べ物にありつけるだけで幸せな子もいたのであり、家にいる弟や妹など食べるもののない家族のために、ほかの子が食べのないパンを貰って持ち帰る子もいたのである。それに引き換え、今の子の贅沢さはっどいか・・・・。
そのようなことはさておき、大事なことは、確かに、ララ物資などは、日系米国人その他の人々が、宗教的・人道的な社会奉仕として、アジアの救済目的なされたものであり、米国政府とは関係なく日本の支援をしてくれたものであり、こうしたアメリカ民間団体の厚意に対して、占領期間中に衆議院では三度にわたって感謝決議がなされたほか、援助終了後の 1952(昭和27)年6月には厚生省などが主催した「ララ感謝大会」も開催されたようだ。
しかし、これら支援は、すべてGHQの管理課で行われてきた。
以前のブログ「全国学校給食週間」でも書いたように、ララと共に行なわれたガリオア基金などによる援助は、戦後の荒廃した日本の復興にとって非常にありがたいものではあったが、この援助は、”米国における余剰農産物の処理から、本来占領地域に対する無償援助の「はず」であったものが、無償援助ではなく、有償でもなく、ただ資金を貸与されただけで、日本政府が騙されたのだ”・・・という意見もある。本当かどうかの真実は知らないが、もし、それが事実であれば、なんとも情けないことであるが、その後のアメリカのやっていることなどを見ていると、まんざらでもなさそうにも思う。興味のある人は、以下参考に記載の※:日本の進路、また、※:「食生活」の中に記されている「米国の食糧輸出戦略」のガリオア、エロア、ララ援助以降を読まれるとよい。
(画像は、ララ物資に感謝するセレモニーに参加した子供たち。3月12日、大阪市北区中之島の朝日ビル前”での写真。朝日クロニクル「週刊20世紀」より)
参考:
※:ララ物資のはなし(PDF)
http://www.wako.ac.jp/souken/touzai07/tz0718.pdf
※:平成 19 年 6 月 外交史料館(PDF)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/qa/pdfs/0706.pdf
※:タイムスリップよこはま - 関東で起きた悲惨な出来事
http://www.timeslip-y.jp/kanto/lala.html
※:A50(サンフランシスコ平和条約締結50周年記念A50事業実行委員会HP)
http://www.a50.gr.jp/jp/01-A50report-J.html
※:ウェブもりおか:盛岡の先人たち:浅野七之助
http://www.city.morioka.iwate.jp/dtl/senjin.nsf/($BackNumberV)/2AB4A42C3D63CAC449256E4000219587?OpenDocument
※:衆議院会議録情報 第040回国会 外務委員会 第4号
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/040/0082/04002160082004a.html
※:食生活
http://homepage3.nifty.com/yoshihito/hp-1.htm
※:日本の進路
http://www.geocities.jp/npnxr/xt042u
重さ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D%E9%87%8F
香淳皇后 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%99%E6%B7%B3%E7%9A%87%E5%90%8E
南海地震 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%B5%B7%E5%9C%B0%E9%9C%87
学制百年史 [第二編 第二章 第九節 三]
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz198101/hpbz198101_2_240.html
阿波丸事件 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%B3%A2%E4%B8%B8%E4%BA%8B%E4%BB%B6
日米タイムズ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%B1%B3%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%82%BA
給食 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%B5%A6%E9%A3%9F
1月24日~1月30日「全国学校給食週間」
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/319f8d647fba4387e70666f3e8452ba1
日本の学校給食は、1889(明治22)年に山形県鶴岡町(現鶴岡市)の私立忠愛小学校においておにぎり・焼き魚・漬け物といった昼食を貧困児童に与えたのが初めてとされているが、その後、国の補助などを得て主に大都市を中心に全国的に学校給食が広がっていったが、このころの給食の目的は、虚弱児救済、就学奨励といった意味合いが強かった。しかし、1944(昭和19)年に戦争のため給食が中断された。戦後は物資・食料不足等により、日本中が飢えていたが、とくに都市では食糧の配給がとどこうり、食べ物の恨みで歌舞伎俳優・12代片岡仁左衛門一家5人が同居人に殺害される事件さえ起こったほどであり、戦争で親をなくした浮浪児が街に溢れていた。そんな日本の子どもたちの悲惨な様子をみて、アメリカなどから「ララ放出物資」という救援物資、主に脱脂粉乳や小麦粉といったもので、これらを使って戦時中から中断されていた学校給食が再会されることになり、先ず、同年12月24日、東京、神奈川、千葉の三都県の学校で全児童を対象に試験給食が行われたが、文部科学省では、これを記念して、この日は学校の冬休みと重なるため、1ヶ月遅らせて、毎年、冬休みと重ならない1月24日から1週間を全国学校給食週間としていることを、前に、このブログ「全国学校給食週間」で書いたことがある。
ララ (LARA=アジア救済連盟)は、” Licensed Agencies for Relief in Asia “の略で、直訳すると”アジアでの救援のために認可された政府機関“ということになる。
一般的に「ララ物資」とはこのララによる戦後の日本や朝鮮半島の救済を目的とした援助物資のことであるとされており、私の蔵書、朝日クロニクル「週刊20世紀」も同様の記載であり、1948年号には、続いて以下の記載があった。
“学校給食はララ物資の脱脂粉乳を使って始まったが、このララ物資設立の中心となって努力したのは、サンフランシスコ在住の日系人・浅野七之助らであり、収容所時代に日本から送られた米やみそへのお返しだったが、自分等も豊でないなか、4年間に300回もの支援があった。” ・・・と。そして、“ララ物資に感謝するセレモニーに参加した子供たち(3月12日、大阪市北区中之島の朝日ビル前)”の写真が掲載されていた。その写真が冒頭掲載のものである。
サンフランシスコ在住の日系人・浅野七之助がどういう人物であるかはよく知らないがこの人については、以下参考の※:「ウェブもりおか:盛岡の先人たち:浅野七之助」に写真入で簡単な説明があるのでそれを参照されたい。
この「ララ物資」について余り詳しい資料が見当たらないが、以下参考の※:「平成19年6月外交史料館(PDF)」や※:「ララ物資のはなし【PDF】」に信頼のおける内容が書かれているが、私見を挟まず色んな資料から事実関係だけを解説している後者に書かれていることをベースに書くことにする。
ララ(LARA)は、”第二次世界大戦で困窮に陥ったアジア、特に「日本・朝鮮及び沖縄」の人びとの救済事業を行なうことを目的に、全米の各種宗教団体(13団体又15団体とも)を中心とする海外事業運営篤志団アメリカ協議会(American Council of Voluntary Agencies for ForeignService, Inc.)を親団体として結成された。これら諸団体構成員を中心にアメリカ・カナダ・メキシコ・ブラジル・アルゼンチンそしてハワイなど広範囲の人びとが救援物資として寄せた金品を、ララがとりまとめた。なお、救援物資を寄せたなかに日系の人々がいたことも明らかにされている。敗戦後の日本にララを通して贈られた救援物資の「20パーセントは、アメリカとカナダだけでなく、ブラジルやアルゼンチンなどに住む日系人が集めたものだといわれているようだ。
この中で、”第二次世界大戦で困窮に陥ったアジア、特に「日本・朝鮮及び沖縄」の人びとの救済事業を行なうことを目的に“とあるように、厚生省五十年史編集委員会編『厚生省五十年史(記述篇)』、(財団法人厚生問題研究会、1988年、805頁)には、わざわざ沖縄が日本と別に挙げられていることに留意する必要があるようだと注記されている。つまり、沖縄はこの当時日本とは見ていなかった・・・ということだろう。
この「ララ物資」を積んだ輸送第1船ハワード・スタンズベリー号が横浜港に1946(昭和21)年の今日(11月30日)午後2時に到着し徹夜で陸揚げされたという。入港前日の新聞の予告では、積荷の内容は「ミルク、米の粉、バタ、ジャム、缶詰、衣服、靴類450トンで、このうち米の粉60トンが在米日本人からの贈り物」となっているとのことである(『朝日新聞』1946年11月30日)。
これを皮切りとして、1952(昭和27)年6月までの約5年半の間に、合計重量3300万ポンド(重さの中のポンド⇒英米のポンドを参照)余の物資と山羊・乳牛が届けられた。3300万ポンド余の大まかな内訳は、食糧75.3%、衣料19.7%、医薬品0.5%、その他4.4%となっており、食糧が圧倒的に多く、これと衣料とで95.0%を占めている。しかし、この中に山羊や乳牛などの動物までいるは驚きだ。
第二次世界大戦後の日本は、衣・食・住の全てが不足しており、人々は極限状態での生活を強いられていた。バラックで雨露をしのぎ、衣服とは呼べないような布をまとい、僅かばかりの配給で空腹を紛らわせていたがその配給さえも満足に行き渡らず、遅配が続いた。幼い子供達は育ち盛りにも関わらず、ほとんどが欠食児童で、栄養失調はざらであり、その体躯は痛々しいほどであった。そのような状況の中、生存にもっとも不可欠のものが届けられたということだ。ちなみに、3300万ポンド余の救援物資は458隻の船で日本に運ばれたが、これは当時の金額で約1100万ドルに相当したという。これは、今の日本円にすると400億円ぐらいに相当するだろう。
これらララからの救援物資の輸入をGHQは認めたものの、ララ代表の日本における行動に関してはGHQの管轄下に入り、その指令のみに従うというものであったようだ。そして、GHQの強い統制下のもと、「ララ救援物資の受領並配分に関する覚書」に基づき事細かな配分が行なわれることとなったようだ。
ララ物資を保管する倉庫は横浜市内にある三井物産株式会社のものが確保され、東京向けの大量物資の保管用倉庫は東京都内でこれを確保し、地方において倉庫を必要とする場合は、厚生省が各都道府県を通じて確保したようだ。
ララ物資が最初に上陸した横浜港(新港埠頭)には、ララ物資記念石碑と歌碑があり、歌碑には香淳皇后(昭和天皇の皇后)の御歌が刻まれている。
ララの品つまれたる見て とつ国のあつき心に 涙こほしつ
あたヽかきとつ国人の 心つくし ゆめなわすれそ時は へぬとも
歌碑の隣にある2001(平成13)年4月5日付けの記念碑には、ララ物資の簡単な説明と共に、“香淳皇后御歌は、1949(昭和24)年に昭和天皇と香淳皇后が横浜の「ララ」倉庫に行幸啓になられた時に詠まれたものである”こと。 “「ララ」物資を送って頂いた方々への深い感謝と、当時ご尽力された方々のご功績を後世に永く残すため、多くの方々からの募金によりこの記念碑を建立した。”旨が記されている。以下参考の※:「タイムスリップよこはま - 関東で起きた悲惨な出来事」で、記念碑拡大図と場所の地図が見られる。
このララ物資の配分方針は、日本に設けられたララ代表を加えた厚生省を主管省とする諮問機関「ララ救援物資中央委員会」が審議して決定。実際の配分の概要については、戦争被害者の数にもとづいて、日本の都道府県は、『グループA』から『グループD』まで4つの『配分グループ』に分けられ、戦争でもっとも多くの災害者を出した都道府県グループAには、東京、神奈川、愛知、京都、大阪、兵庫、広島、長崎の8都府県が入っており、ララ救援物資の一番最初の割り当ては、グループAの都府県にある福祉施設のなかから選ばれた486施設が受領したようで、これらの施設には、合計55万7460ポンドの食料品の配分が行なわれた1946(昭和21)年12月当時、約5万人が収容されていたという。
第2回目の割り当ては、翌:1947(昭和22)年1月および2月に、(1)グループA都府県内の約500の施設に、古着が配布され、(2)救援物資は、和歌山、高知、徳島の各県への『地震災害者救済プログラム』のために使用されたというが、これは、1946(昭和21)年12月21日に発生した紀伊半島の熊野灘沖から四国南方沖を震源とする南海地震(M8.0)に対する救援だろう。このとき死者は、行方不明者を含めて1,443名(高知県679名、和歌山県269名、徳島県211名)発生しているという。そして、(3)約100トンの食品が、東京都、神奈川、千葉両県における『学校給食』のために輸送されたそうだ。これが、先に述べた文部科学省が全国学校給食週間としている由緒のものだ。その後、順次配分され、最も被害の少なかったグループD県(岩手、秋田、山形、奈良、島根、鳥取、大分、佐賀、宮崎県)内の施設が最初の配分を受けたのは、1947(昭和22)年5月になってからだそうだ。ララ救援物資は、このような施設だけでなく、一般の困窮者(『一般生活困窮者』『在宅結核療養者』などがその典型的な例)にも配分されるようになったが、物資は、やがて、『学校給食』にも使われることになった。
フリー百科事典「Wikipedia」によれば、ララはアメリカ合衆国救済統制委員会が1946年6月に設置を認可した日系米国人の日本向け援助団体であり、サンフランシスコ在住の日系人浅野七之助が中心となって設立した「日本難民救済会」を母体としているようだが、当時アメリカにおける対外的な慈善活動は海外事業篤志団アメリカ協議会が担っていたが、その対象地域は欧州のみであり日本は含まれていなかった。そのため、日本に援助をしようと思うと、わざわざ、日本に対する援助物資輸送のために新たな援助団体を設立する必要があったようだ。戦後まだ、反日感情が残るなかでララの認可に際しては知日派のキリスト友会員の協力によるところが大きかったという。主な支援物資は長期間の輸送を考慮して脱脂粉乳と衣類であったが、日本国内での物資配付にあたってはGHQの意向により日系人の関与について秘匿され、アメリカからの援助物資として配付されたという。そのよう経緯から、余り、ララのことについて日本人には知らされていないようだ。
戦後の学校給食はこのようなララ(LARA=アジア救済連盟)や、ガリオア(GARIOA :Goverment and Relief in Occupied Areas。占領地域救済政府資金)・から支給された脱脂粉乳、小麦粉で賄われた。
思い起こせば、初めて飲んだ脱脂粉乳はとても口に合うものではなかった。呑まなければ先生に叱られるので目をつぶって飲んだものだ。それに、パン食といっても、パサパサカチカチのコッペパン。食べない子も多く居た。しかし、食料難の時代、食べ物にありつけるだけで幸せな子もいたのであり、家にいる弟や妹など食べるもののない家族のために、ほかの子が食べのないパンを貰って持ち帰る子もいたのである。それに引き換え、今の子の贅沢さはっどいか・・・・。
そのようなことはさておき、大事なことは、確かに、ララ物資などは、日系米国人その他の人々が、宗教的・人道的な社会奉仕として、アジアの救済目的なされたものであり、米国政府とは関係なく日本の支援をしてくれたものであり、こうしたアメリカ民間団体の厚意に対して、占領期間中に衆議院では三度にわたって感謝決議がなされたほか、援助終了後の 1952(昭和27)年6月には厚生省などが主催した「ララ感謝大会」も開催されたようだ。
しかし、これら支援は、すべてGHQの管理課で行われてきた。
以前のブログ「全国学校給食週間」でも書いたように、ララと共に行なわれたガリオア基金などによる援助は、戦後の荒廃した日本の復興にとって非常にありがたいものではあったが、この援助は、”米国における余剰農産物の処理から、本来占領地域に対する無償援助の「はず」であったものが、無償援助ではなく、有償でもなく、ただ資金を貸与されただけで、日本政府が騙されたのだ”・・・という意見もある。本当かどうかの真実は知らないが、もし、それが事実であれば、なんとも情けないことであるが、その後のアメリカのやっていることなどを見ていると、まんざらでもなさそうにも思う。興味のある人は、以下参考に記載の※:日本の進路、また、※:「食生活」の中に記されている「米国の食糧輸出戦略」のガリオア、エロア、ララ援助以降を読まれるとよい。
(画像は、ララ物資に感謝するセレモニーに参加した子供たち。3月12日、大阪市北区中之島の朝日ビル前”での写真。朝日クロニクル「週刊20世紀」より)
参考:
※:ララ物資のはなし(PDF)
http://www.wako.ac.jp/souken/touzai07/tz0718.pdf
※:平成 19 年 6 月 外交史料館(PDF)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/qa/pdfs/0706.pdf
※:タイムスリップよこはま - 関東で起きた悲惨な出来事
http://www.timeslip-y.jp/kanto/lala.html
※:A50(サンフランシスコ平和条約締結50周年記念A50事業実行委員会HP)
http://www.a50.gr.jp/jp/01-A50report-J.html
※:ウェブもりおか:盛岡の先人たち:浅野七之助
http://www.city.morioka.iwate.jp/dtl/senjin.nsf/($BackNumberV)/2AB4A42C3D63CAC449256E4000219587?OpenDocument
※:衆議院会議録情報 第040回国会 外務委員会 第4号
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/040/0082/04002160082004a.html
※:食生活
http://homepage3.nifty.com/yoshihito/hp-1.htm
※:日本の進路
http://www.geocities.jp/npnxr/xt042u
重さ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D%E9%87%8F
香淳皇后 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%99%E6%B7%B3%E7%9A%87%E5%90%8E
南海地震 - Wikipedia
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学制百年史 [第二編 第二章 第九節 三]
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阿波丸事件 - Wikipedia
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日米タイムズ - Wikipedia
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給食 - Wikipedia
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1月24日~1月30日「全国学校給食週間」
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/319f8d647fba4387e70666f3e8452ba1