今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

「ララ物資」第一便が横浜港に到着した日

2009-11-30 | 歴史
1946(昭和21)年の今日・11月30日「ララ物資」第一便としてミルク・衣類など450トンが横浜港に到着した。
日本の学校給食は、1889(明治22)年に山形県鶴岡町(現鶴岡市)の私立忠愛小学校においておにぎり・焼き魚・漬け物といった昼食を貧困児童に与えたのが初めてとされているが、その後、国の補助などを得て主に大都市を中心に全国的に学校給食が広がっていったが、このころの給食の目的は、虚弱児救済、就学奨励といった意味合いが強かった。しかし、1944(昭和19)年に戦争のため給食が中断された。戦後は物資・食料不足等により、日本中が飢えていたが、とくに都市では食糧の配給がとどこうり、食べ物の恨みで歌舞伎俳優・12代片岡仁左衛門一家5人が同居人に殺害される事件さえ起こったほどであり、戦争で親をなくした浮浪児が街に溢れていた。そんな日本の子どもたちの悲惨な様子をみて、アメリカなどから「ララ放出物資」という救援物資、主に脱脂粉乳や小麦粉といったもので、これらを使って戦時中から中断されていた学校給食が再会されることになり、先ず、同年12月24日、東京、神奈川、千葉の三都県の学校で全児童を対象に試験給食が行われたが、文部科学省では、これを記念して、この日は学校の冬休みと重なるため、1ヶ月遅らせて、毎年、冬休みと重ならない1月24日から1週間を全国学校給食週間としていることを、前に、このブログ「全国学校給食週間」で書いたことがある。
ララ (LARA=アジア救済連盟)は、” Licensed Agencies for Relief in Asia “の略で、直訳すると”アジアでの救援のために認可された政府機関“ということになる。
一般的に「ララ物資」とはこのララによる戦後の日本や朝鮮半島の救済を目的とした援助物資のことであるとされており、私の蔵書、朝日クロニクル「週刊20世紀」も同様の記載であり、1948年号には、続いて以下の記載があった。
“学校給食はララ物資の脱脂粉乳を使って始まったが、このララ物資設立の中心となって努力したのは、サンフランシスコ在住の日系人・浅野七之助らであり、収容所時代に日本から送られた米やみそへのお返しだったが、自分等も豊でないなか、4年間に300回もの支援があった。” ・・・と。そして、“ララ物資に感謝するセレモニーに参加した子供たち(3月12日、大阪市北区中之島の朝日ビル前)”の写真が掲載されていた。その写真が冒頭掲載のものである。
サンフランシスコ在住の日系人・浅野七之助がどういう人物であるかはよく知らないがこの人については、以下参考の※:「ウェブもりおか:盛岡の先人たち:浅野七之助」に写真入で簡単な説明があるのでそれを参照されたい。
この「ララ物資」について余り詳しい資料が見当たらないが、以下参考の※:「平成19年6月外交史料館(PDF)」や※:「ララ物資のはなし【PDF】」に信頼のおける内容が書かれているが、私見を挟まず色んな資料から事実関係だけを解説している後者に書かれていることをベースに書くことにする。
ララ(LARA)は、”第二次世界大戦で困窮に陥ったアジア、特に「日本・朝鮮及び沖縄」の人びとの救済事業を行なうことを目的に、全米の各種宗教団体(13団体又15団体とも)を中心とする海外事業運営篤志団アメリカ協議会(American Council of Voluntary Agencies for ForeignService, Inc.)を親団体として結成された。これら諸団体構成員を中心にアメリカ・カナダ・メキシコ・ブラジル・アルゼンチンそしてハワイなど広範囲の人びとが救援物資として寄せた金品を、ララがとりまとめた。なお、救援物資を寄せたなかに日系の人々がいたことも明らかにされている。敗戦後の日本にララを通して贈られた救援物資の「20パーセントは、アメリカとカナダだけでなく、ブラジルやアルゼンチンなどに住む日系人が集めたものだといわれているようだ。
この中で、”第二次世界大戦で困窮に陥ったアジア、特に「日本・朝鮮及び沖縄」の人びとの救済事業を行なうことを目的に“とあるように、厚生省五十年史編集委員会編『厚生省五十年史(記述篇)』、(財団法人厚生問題研究会、1988年、805頁)には、わざわざ沖縄が日本と別に挙げられていることに留意する必要があるようだと注記されている。つまり、沖縄はこの当時日本とは見ていなかった・・・ということだろう。
この「ララ物資」を積んだ輸送第1船ハワード・スタンズベリー号が横浜港に1946(昭和21)年の今日(11月30日)午後2時に到着し徹夜で陸揚げされたという。入港前日の新聞の予告では、積荷の内容は「ミルク、米の粉、バタ、ジャム、缶詰、衣服、靴類450トンで、このうち米の粉60トンが在米日本人からの贈り物」となっているとのことである(『朝日新聞』1946年11月30日)。
これを皮切りとして、1952(昭和27)年6月までの約5年半の間に、合計重量3300万ポンド(重さの中のポンド⇒英米のポンドを参照)余の物資と山羊・乳牛が届けられた。3300万ポンド余の大まかな内訳は、食糧75.3%、衣料19.7%、医薬品0.5%、その他4.4%となっており、食糧が圧倒的に多く、これと衣料とで95.0%を占めている。しかし、この中に山羊や乳牛などの動物までいるは驚きだ。
第二次世界大戦後の日本は、衣・食・住の全てが不足しており、人々は極限状態での生活を強いられていた。バラックで雨露をしのぎ、衣服とは呼べないような布をまとい、僅かばかりの配給で空腹を紛らわせていたがその配給さえも満足に行き渡らず、遅配が続いた。幼い子供達は育ち盛りにも関わらず、ほとんどが欠食児童で、栄養失調はざらであり、その体躯は痛々しいほどであった。そのような状況の中、生存にもっとも不可欠のものが届けられたということだ。ちなみに、3300万ポンド余の救援物資は458隻の船で日本に運ばれたが、これは当時の金額で約1100万ドルに相当したという。これは、今の日本円にすると400億円ぐらいに相当するだろう。
これらララからの救援物資の輸入をGHQは認めたものの、ララ代表の日本における行動に関してはGHQの管轄下に入り、その指令のみに従うというものであったようだ。そして、GHQの強い統制下のもと、「ララ救援物資の受領並配分に関する覚書」に基づき事細かな配分が行なわれることとなったようだ。
ララ物資を保管する倉庫は横浜市内にある三井物産株式会社のものが確保され、東京向けの大量物資の保管用倉庫は東京都内でこれを確保し、地方において倉庫を必要とする場合は、厚生省が各都道府県を通じて確保したようだ。
ララ物資が最初に上陸した横浜港(新港埠頭)には、ララ物資記念石碑と歌碑があり、歌碑には香淳皇后(昭和天皇の皇后)の御歌が刻まれている。

ララの品つまれたる見て とつ国のあつき心に 涙こほしつ

あたヽかきとつ国人の 心つくし ゆめなわすれそ時は へぬとも

歌碑の隣にある2001(平成13)年4月5日付けの記念碑には、ララ物資の簡単な説明と共に、“香淳皇后御歌は、1949(昭和24)年に昭和天皇と香淳皇后が横浜の「ララ」倉庫に行幸啓になられた時に詠まれたものである”こと。 “「ララ」物資を送って頂いた方々への深い感謝と、当時ご尽力された方々のご功績を後世に永く残すため、多くの方々からの募金によりこの記念碑を建立した。”旨が記されている。以下参考の※:「タイムスリップよこはま - 関東で起きた悲惨な出来事」で、記念碑拡大図と場所の地図が見られる。
このララ物資の配分方針は、日本に設けられたララ代表を加えた厚生省を主管省とする諮問機関「ララ救援物資中央委員会」が審議して決定。実際の配分の概要については、戦争被害者の数にもとづいて、日本の都道府県は、『グループA』から『グループD』まで4つの『配分グループ』に分けられ、戦争でもっとも多くの災害者を出した都道府県グループAには、東京、神奈川、愛知、京都、大阪、兵庫、広島、長崎の8都府県が入っており、ララ救援物資の一番最初の割り当ては、グループAの都府県にある福祉施設のなかから選ばれた486施設が受領したようで、これらの施設には、合計55万7460ポンドの食料品の配分が行なわれた1946(昭和21)年12月当時、約5万人が収容されていたという。
第2回目の割り当ては、翌:1947(昭和22)年1月および2月に、(1)グループA都府県内の約500の施設に、古着が配布され、(2)救援物資は、和歌山、高知、徳島の各県への『地震災害者救済プログラム』のために使用されたというが、これは、1946(昭和21)年12月21日に発生した紀伊半島の熊野灘沖から四国南方沖を震源とする南海地震(M8.0)に対する救援だろう。このとき死者は、行方不明者を含めて1,443名(高知県679名、和歌山県269名、徳島県211名)発生しているという。そして、(3)約100トンの食品が、東京都、神奈川、千葉両県における『学校給食』のために輸送されたそうだ。これが、先に述べた文部科学省が全国学校給食週間としている由緒のものだ。その後、順次配分され、最も被害の少なかったグループD県(岩手、秋田、山形、奈良、島根、鳥取、大分、佐賀、宮崎県)内の施設が最初の配分を受けたのは、1947(昭和22)年5月になってからだそうだ。ララ救援物資は、このような施設だけでなく、一般の困窮者(『一般生活困窮者』『在宅結核療養者』などがその典型的な例)にも配分されるようになったが、物資は、やがて、『学校給食』にも使われることになった。
フリー百科事典「Wikipedia」によれば、ララはアメリカ合衆国救済統制委員会が1946年6月に設置を認可した日系米国人の日本向け援助団体であり、サンフランシスコ在住の日系人浅野七之助が中心となって設立した「日本難民救済会」を母体としているようだが、当時アメリカにおける対外的な慈善活動は海外事業篤志団アメリカ協議会が担っていたが、その対象地域は欧州のみであり日本は含まれていなかった。そのため、日本に援助をしようと思うと、わざわざ、日本に対する援助物資輸送のために新たな援助団体を設立する必要があったようだ。戦後まだ、反日感情が残るなかでララの認可に際しては知日派のキリスト友会員の協力によるところが大きかったという。主な支援物資は長期間の輸送を考慮して脱脂粉乳と衣類であったが、日本国内での物資配付にあたってはGHQの意向により日系人の関与について秘匿され、アメリカからの援助物資として配付されたという。そのよう経緯から、余り、ララのことについて日本人には知らされていないようだ。
戦後の学校給食はこのようなララ(LARA=アジア救済連盟)や、ガリオア(GARIOA :Goverment and Relief in Occupied Areas。占領地域救済政府資金)・から支給された脱脂粉乳、小麦粉で賄われた。
思い起こせば、初めて飲んだ脱脂粉乳はとても口に合うものではなかった。呑まなければ先生に叱られるので目をつぶって飲んだものだ。それに、パン食といっても、パサパサカチカチのコッペパン。食べない子も多く居た。しかし、食料難の時代、食べ物にありつけるだけで幸せな子もいたのであり、家にいる弟や妹など食べるもののない家族のために、ほかの子が食べのないパンを貰って持ち帰る子もいたのである。それに引き換え、今の子の贅沢さはっどいか・・・・。
そのようなことはさておき、大事なことは、確かに、ララ物資などは、日系米国人その他の人々が、宗教的・人道的な社会奉仕として、アジアの救済目的なされたものであり、米国政府とは関係なく日本の支援をしてくれたものであり、こうしたアメリカ民間団体の厚意に対して、占領期間中に衆議院では三度にわたって感謝決議がなされたほか、援助終了後の 1952(昭和27)年6月には厚生省などが主催した「ララ感謝大会」も開催されたようだ。
しかし、これら支援は、すべてGHQの管理課で行われてきた。
以前のブログ「全国学校給食週間」でも書いたように、ララと共に行なわれたガリオア基金などによる援助は、戦後の荒廃した日本の復興にとって非常にありがたいものではあったが、この援助は、”米国における余剰農産物の処理から、本来占領地域に対する無償援助の「はず」であったものが、無償援助ではなく、有償でもなく、ただ資金を貸与されただけで、日本政府が騙されたのだ”・・・という意見もある。本当かどうかの真実は知らないが、もし、それが事実であれば、なんとも情けないことであるが、その後のアメリカのやっていることなどを見ていると、まんざらでもなさそうにも思う。興味のある人は、以下参考に記載の※:日本の進路、また、※:「食生活」の中に記されている「米国の食糧輸出戦略」のガリオア、エロア、ララ援助以降を読まれるとよい。
(画像は、ララ物資に感謝するセレモニーに参加した子供たち。3月12日、大阪市北区中之島の朝日ビル前”での写真。朝日クロニクル「週刊20世紀」より)
参考:
※:ララ物資のはなし(PDF)
http://www.wako.ac.jp/souken/touzai07/tz0718.pdf
※:平成 19 年 6 月 外交史料館(PDF)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/qa/pdfs/0706.pdf
※:タイムスリップよこはま - 関東で起きた悲惨な出来事
http://www.timeslip-y.jp/kanto/lala.html
※:A50(サンフランシスコ平和条約締結50周年記念A50事業実行委員会HP)
http://www.a50.gr.jp/jp/01-A50report-J.html
※:ウェブもりおか:盛岡の先人たち:浅野七之助
http://www.city.morioka.iwate.jp/dtl/senjin.nsf/($BackNumberV)/2AB4A42C3D63CAC449256E4000219587?OpenDocument
※:衆議院会議録情報 第040回国会 外務委員会 第4号
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/040/0082/04002160082004a.html
※:食生活
http://homepage3.nifty.com/yoshihito/hp-1.htm
※:日本の進路
http://www.geocities.jp/npnxr/xt042u
重さ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D%E9%87%8F
香淳皇后 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%99%E6%B7%B3%E7%9A%87%E5%90%8E
南海地震 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%B5%B7%E5%9C%B0%E9%9C%87
学制百年史 [第二編 第二章 第九節 三]
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz198101/hpbz198101_2_240.html
阿波丸事件 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%B3%A2%E4%B8%B8%E4%BA%8B%E4%BB%B6
日米タイムズ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%B1%B3%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%82%BA
給食 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%B5%A6%E9%A3%9F
1月24日~1月30日「全国学校給食週間」
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/319f8d647fba4387e70666f3e8452ba1

東京・青山に日本初のスーパーマーケット、紀伊国屋が誕生した

2009-11-28 | 歴史
1953(昭和28)の今日(11月28日)東京・青山に日本初のスーパーマーケット、紀伊国屋が誕生した。
高級青果店を営んでいた増井徳男さんが、米軍の求めに応じて、人糞を使わず生のまま食べられる「清浄野菜」などを、PX(米軍用売店)向けに納入するようになり、アイデアを得た。ショッピングカートもレジスターも、日本では初の試みだった。冒頭の画像は、ガラス張りの店頭が珍しく話題を呼んだ紀伊国屋。アサヒクロニクル「週刊20世紀」)。
本家アメリカでは、セルフサービスを採りいれた最初の食料品店が登場したのが1916(大正5)年のこと。1929(昭和4)年の大恐慌で、人件費を抑えて、ディスカウントを実現した店舗形態は急速に発展を遂げた。日本では、1953(昭和28)のこの年、テレビ放送がスタートした。家電製品の普及により、評論家の大宅壮一によって、”電化元年”と名づけられた。氷の冷蔵庫にかわろうという電気冷蔵庫は、サラリーマンの月給の10倍という、高級品だった。
朝日新聞に連載されたアメリカの人気漫画「ブロンディー」で、見たアメリカ家庭の暮らしぶりの世界は、まぶしいものであった。その日の食べるものもままならない時代、漫画の主人公がぱくつくサンドイッチの特大の厚さに苛立ちを覚えながらもその世界に惹かれた人は多いのではないか。賢婦人のブロンディーと勤め人ダグウッド一家の平凡だが幸せな生活を描いた漫画は、敗戦で喘ぐ日本人に余りの豊かさを伝える「教材」ともなった。当時の日本の家庭から見れば超豪華な部屋と家具、それに家電製品をうらやましくみたものだ。例えばそこに登場する超大型冷蔵庫の中には溢れんばかりの食品がずらりと並んでいた。漫画でそのような生活ぶりを見ていた主婦にとっての夢は、アメリカとは比較にならない小さな電気冷蔵庫であるが、まずはそこに当面の食品を満たすことだった。当時の紀ノ国屋も、外国人を中心とした高所得者向けの店舗で、庶民にはまだ遠い世界であった。その後、日本に、本格的スーパーマーケットが普及するのは、1957(昭和32)年の「主婦の店ダイエー」の開店からである。同年9月23日大阪の京阪電鉄千林駅前の商店街に安売りをうたい文句にした小さな薬局が開店した。100㎡もない小さな店に薬や化粧品、日用雑貨などがぎっしりとおかれていた。買い物客には開店記念として、まもなく封切られる映画「喜びも悲しみも幾年月」の鑑賞券をつけた。安売りと映画鑑賞にひかれたのか客が殺到し、開店当日だけで28万円を売り、その年の大晦日には一日の売上は100万円を越えたという。これが、その後大躍進したダイエーの1号店であった。1957(昭和32)年と言う年は、日本経済が戦後の復興期から新しい成長へと離陸を始めた年でもある。その前年の経済白書は、「もはや戦後ではない」と宣言している。家電の洗濯機やテレビ、冷蔵庫が「三種の神器」ともてはやされた。一般消費者がそれらを手に入れるのにそう時間はかからなかった。そんなアメリカ型の「大量消費社会」の到来をダイエーの社長中内功(故人)は、この1号店の開店で告げていた。そして、中内は1号店の成功を弾みとして、翌年には食料品や衣料品の分野を拡充させた日本で初の本格的なスーパーを中内の生まれ故郷である神戸市の三宮にオープンした。特に牛肉の安売りは、大好評で、すぐに品切れした。まだまだ、日本では牛肉が高くてなかなかたべられなかった時代、ダイエーの牛肉安売り作戦は、主婦の気持ちをがっちりと掴んだ。その後、食料品や日用雑貨、日常衣料などを扱うチェーンストアー時代に入っていった。
日本のチェーンストアーはアメリカのチェーンストアー理論を忠実に実行しようとしており、消費大国のアメリカでは、チェーンストアー(正式にはチェーンストア・インダストリー)は、大多数の国民大衆の普段の生活を少しでも豊かなものにするために、サービスや消費財を提供する産業構造を大衆消費者の立場から構築する、アメリカで150年もかけて改革・革新してきた経験法則であり、国民大衆の普段の生活に密接した、アメリカ経済に最も影響力のある巨大基幹産業なのである。
昭和30年代中頃の私は、大阪の商社の繊維部門で営業を担当していたことから、アメリカでの流通業の事もある程度承知していたので、これからの日本のスーパーマーケットの進展を見守ってはいたが、まだまだ、百貨店全盛の時代であった当時では、このようなスーパーに対する見方は冷ややかなものであった。
そして、1965(昭和40)年の「40年不況」の頃には、経営基盤の弱小なスーパーは淘汰されて、「スーと生まれてパッと消える」というジョークも生まれたほどであった。その後、スーパーマーケットは、消費の牽引役となり、大量生産・流通面で大変革をもたらす。そして、野菜などでは、見た目の良い購買意欲をそそるものだけが、季節とは関係なく、1年中ショーケースを満たすことになった。季節感は失われ、中央市場でのセリの形態も形骸化していく。
しかし、日本では、中小企業保護の目的で、大型店の出店が大店法(大規模小売店舗法)などにより長彙間規制され、アメリカ型の本格的なチェーン・ストアー経営が出来ず、日本型の経営をしていたが、それも、外国からの圧力などで、大店法などの規制も大分緩和され、外国の大手スーパーが日本に次々と上陸してくるとともに、それらに対抗すべく、アメリカ型のチェーン・ストアー理論を忠実に実行していたところが大躍進している。
そのような中で、現在も日本初のスーパーマーケット・紀ノ国屋は、東京を中心に生鮮にこだわった数店舗を経営しているようである。反面、日本のスーパー業界をリードしてきたダイエーは、オーナーのワンマン的経営体質や本業以外のことにも手を出しすぎたことなどから、バブル崩壊と同時に経営が悪化、倒産寸前となり、商社の丸紅資本が入り、企業再生しようとしたもののチェーストアー経営のノウハウを持たない商社からただ資本が入ってもそれだけでは上手く行くはずがない。本業以外に手を出さず、基本を忠実にやってきた、イオングループ(かっては、ダイエーが目障りだから潰してしまえといっていたライバル企業であったジャスコ)が今や、流通業のトップ企業に躍り出た。そして、ダイエーに資本参加し、今ではイオンの翼下においている。しかし、何でも揃っているGMSと呼ばれる大形化した業態の店舗やリージョナル(郊外型)・ショッピン・グセンター(RSC)は、日本の少子・高齢化社会の進展と米国のサブプライムローン問題に端を発したリーマンショック以降、その影響を受け内需の落ち込んでいる今日の日本では、百貨店同様に将来の需要が見込めず、日本国内の店舗は大幅に閉店し縮小。代りに店舗網は海外への出店にシフトしている。いよいよ、日本のチェーン・ストアー業界も世界のマーケットの中で競争をする時代に入っており、これから10年先、20年先はどうなっているか分からないであろう。
国内では、何でも揃っている超大形の店舗時代から、食品や衣料、家電、ドラックスなどに特化した専門店チェーンの競争時代に入っている。価格競争の激化している中、今は、どんな不況の中でも人の生活に欠かせない食料品を扱うチェーン店が好調であるが、食料品にしても、価格を売り物にするか、鮮度や品質を売り物にするか・・・どちらにしても特徴のない、消費者に支持されない店舗はすべて淘汰されてゆくだろう。
(画像は、ガラス張りの店頭が目面しく話題を呼んだ開店当時の紀伊国屋。アサヒクロニクル「週刊20世紀」より)
参考:
株式会社 紀ノ国屋
http://www.e-kinokuniya.com/
スーパーマーケット - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%88電化の歴史
http://www.hidenka.net/hanashi/history.htm
今日(5月30日)は、「掃除機の日」
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/c73df7f5de00f9d429613eac0135a08a
[PDF] 江戸・東京における文化創造
http://www.ufji.co.jp/publication/sricreport/202/31.pdf
JP-Super.Com 日本のスーパーマーケット リンク集
http://www.jp-super.com/
ブロンディ (漫画) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3_(%E6%BC%AB%E7%94%BB)
昭和 32 年(1957)(PDF)
http://www8.plala.or.jp/shinozaki/s32-1957.pdf
喜びも悲しみも幾歳月 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%9C%E3%81%B3%E3%82%82%E6%82%B2%E3%81%97%E3%81%BF%E3%82%82%E5%B9%BE%E6%AD%B3%E6%9C%88
リーマン・ショック - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%82%AF
大宅壮一 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AE%85%E5%A3%AE%E4%B8%80
証券不況 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%BC%E5%88%B8%E4%B8%8D%E6%B3%81

俳優・島田正吾(『一本刀土俵入』) の忌日

2009-11-26 | 人物
2004年(平成16年)11月26日は、俳優・島田正吾(『一本刀土俵入』) の忌日
新派の基礎を築いた川上音二郎が神田三崎町に新派劇専門の「川上座」を開場したのは、1896(明治29)年7月2日のことだった。その後、音二郎は、貞奴らと欧米を巡業し1900(明治33)年には、パリ万博でオッペケペ節を披露し、大好評を博したという。帰国後、『オセロ』『ハムレット』などを上演するなどして興行師として成功するが、病気のため大阪で没した。この川上一座はその後、1917(大正6)年、澤田正二郎により、国民演劇の創造を目標として作った劇団「新国劇」として生まれ変わった。その後、島田正吾辰巳柳太郎に引き継がれた。
このブログでは 、前に、“俳優・川上音二郎が神田三崎町に新派劇専門の「川上座」を開場した日”や、島田と共に新国劇を背負ってきたもう1一人の辰巳柳太郎については、”「辰巳柳太郎 」の誕生日”で書いたので、そこを見て欲しい。ここでは、島田正吾について書く。
島田正吾(本名:服部 喜久太郎)は、1905(明治38)年12月13日、横浜市に生まれ、1923(大正12)年に明星商業学校を中退後、通称「澤正」と評判をとった澤田正二郎率いる新国劇に入団。澤田が新国劇を結成して、6年目のことであった。その5年後の1929(昭和4)年3月、澤田が36歳の若さで急死し、新国劇は解散の危機に見舞われたが、この時24歳の若手俳優の島田が、島田より4年後に入団の辰巳柳太郎(但し、島田と同じ1905年生まれ)と共に立て直し、昭和期の代表的大衆劇団に育て上げたが、1970年代に入って島田、辰巳らも高齢となり、若手俳優緒形拳(故人)や若林豪の退団等で劇団は衰退、1979(昭和54)年株式会社新国劇は負債のため倒産。1987(昭和62)年に東京・新橋演舞場で劇団創立70周年記念公演終了後解散(新国劇」の名称は澤田正二郎の遺族に返還。残った中堅メンバーは劇団若獅子を創設している)するまで新国劇の大黒柱として活躍した。
盟友の辰巳とは「動の辰巳、静の島田」と好対照のライバルとして知られ、渋く独特なせりふ回しで観客を魅了したが、その盟友辰巳の死など経て、なおも舞台に情熱を傾け2004(平成16)年に亡くなるまで生涯現役で活躍した。「しがねえ姿の横綱の土俵入りでござんす」(「一本刀土俵入りの駒方茂兵衛)、「考えて見りゃあ俺も馬鹿よ」(「瞼の母」の番場の忠太郎)・・・、1930年代から戦後にかけて「沓掛時次郎」など長谷川伸が書いた股旅物の多くは島田の舞台後浪曲や映画、歌になり、名ぜりふとともに親しまれた。1951(昭和26)年山田五十鈴を相手役に「夏祭三度笠」で映画に初出演。以後、舞台でのヒット作を映画化した(以下参考の※:島田正吾 - goo 映画参照)。
股旅物以外に、北条秀司が新国劇の為に書下した戯曲「霧の音」(以下参考の※:霧の音 | Movie Walker参照。)や、文芸作品「ビルマの竪琴」など現代劇でも話題作を演じた。
また、NHK大河ドラマ「勝海舟」((1974年)、同連続ドラマ「ひらり」、高倉健と競演したTBS系「あにき」など多くのテレビドラマにも出演している。
晩年には、新国劇のかってのヒット作を一人芝居に・・・、特に「白野弁十郎」や「王将」(北条秀司の戯曲)といったひとり芝居に力を注ぎ、多くの舞台ファンに親しまれた。
ひとり芝居「白野弁十郎」は、エドモンド・オスタンの戯曲「シラノ・ド・ベルジュラック」が原作の芝居「白野弁十郎」を、もともと新国劇の創始者澤田正二郎が演じて大好評を博し、島田も演じていたものを島田自身が潤色したものである。1992(平成12)年、早大大隈講堂(以下参考の※:「大隈講堂 — 早稲田文化」参照)・新橋演舞場で演じた後、本場パリでも公演。高い評価を受け、フランス政府からフランス芸術文化勲章シュバリエ章を授与されている。その時年齢は86歳になっていた。ひとり芝居「白野弁十郎」は翌1991(平成3)年から2002(平成14)年まで、新橋演舞場で毎年1回上演されており、評判も高く、NHKスペシャルなど多数のメディアで取り上げられている。
1991(平成3)年に新橋演舞場公演後、6月18日より20日まで大阪の中座でも島田のひとり芝居「白野弁十郎」は公演されているが、冒頭掲載の画像は、その時の中座公演時のチラシである。このひとり芝居は自他共に認めるライフワークであり、「99歳のひとり芝居が夢」と情熱を燃やしていたという。
2002年(平成14年)10月に予定されていたひとり芝居「夜もすがら検校」を前に、同年8月脳梗塞で倒れた後リハビリに励んでいたが、2004年(平成16年)の今日(11月26日)98歳で没した。島田の書斎の机の上には真山青果作の『富岡先生』の台本が置かれていて、台本の側には99歳になったら演じると決めていた『ひとり芝居』のために推敲中の原稿もあったという。
(画像は、1991(平成3)年の大阪・中座でのひとり芝居「白野弁十郎」のチラシ)
参考:
島田正吾 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E7%94%B0%E6%AD%A3%E5%90%BE
川上音二郎 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E9%9F%B3%E4%BA%8C%E9%83%8E
中座 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%BA%A7
北条秀司-Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E7%A7%80%E5%8F%B8/
シラノ・ド・ベルジュラック (戯曲) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A9%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF_(%E6%88%AF%E6%9B%B2)
長谷川伸 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E4%BC%B8
※:霧の音 | Movie Walker
http://movie.walkerplus.com/mv24887/
※:大隈講堂 — 早稲田文化
http://www.waseda.jp/cac/ookuma.html
※:島田正吾 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/87339/

東雲

2009-11-24 | ひとりごと
今朝6時20分過ぎ頃起きて2階の自分の部屋の窓を明け東南の空を見上げると、見事な朝焼けであった。見ている間にどんどんと色が変わっていく。あまりに綺麗ので慌てて写真を撮ろうと思うと、こんなときに限って、デジカメの電池が切れている。そのまた、予備電池がいつも置いてあるところに見当たらないので、とりあえず家人の使っているデジカメの電池を抜き取りそれを使ったが、もたもたしている間に10分以上経過しときには最初に見たときとは大分変化していたが、冒頭に掲載の画像が6寺30分~35分頃のものである。
時間 の流れの中におけるある一点(時点)を時刻 (じこく)と言うが、日本では、江戸時代の時間区分法は現代の定時法と異なり、日の出と日の入(または夜明けと日暮れ)の間をそれぞれ6等分する不定時法が使われていた。しかし、日本でも、当初は、中国の1日を12等分する定時法が導入されていたようで、不定時法が用いられるようになったのは室町時代ごろからだといい、天文や暦法で使う時法としては一貫して定時法であったようだ(Wikipedia)。
江戸時代に使われていた定時法どんなものかは、以下参考の※:「江戸で遊ぼう???」の江戸の時のところに説明はないが図示したものがあるのでそこを見られると良い。
『不定時法』は、太陽の動きに合わせて時刻を決める方法であり、季節によって時間の長さが異なるなど今の世の中のように時間時間で追われた生活をしている者には適さないが、自然の法則に従ってと生活をしていた時代の日本人には非常に適したものであったろう。今日は明け方の東の朝焼けの空の話であり時刻のことを書くつもりではないので、時刻のことはこれまでにする。
日の出(ひので)とは、“朝日が東の空に昇り出ることまたその時。天文学的には“太陽の上縁が地平線にくる瞬間”と定義されている。
つまり、太陽が地平線より上に昇る前から大気中の塵による光の散乱により空に薄明かりが射し始める。星が見え暗さが残る段階までを「明け方」、日の出前でも十分に空が明るい段階を「夜明け」として区別したりするが、日本語では、「明け方」から「夜明け」の頃を表す言葉がいくつかあるが、古語に東雲(しののめ)と言う美しい言葉がある。これは “一説に「め」は原始的住居の明かり取りの役目を果たしていた網代様(あじろよう)の粗い網目のことで、篠竹を材料にとして作られた「め」が「篠の目」と呼ばれた。これが、明かり取りそのものの意になり、転じて夜明けの薄明かり、さらに夜明けそのものの意になった。東の空がわずかに明るくなる頃。あけがた。あかつき。また東の空にたなびく雲”(広辞苑)をいうそうだ。つまり、闇から光へと移行する夜明け前に茜色にそまる東の空を意味しており、 本来は夜半すぎから夜が明けるまでの間を「あかつき」(暁)、「しののめ」(東雲)、「あけぼの」(曙)空がほのかに明るくなった頃が「朝朗(あさぼらけ)」と細かく区分していた。
「東の空がわずかに明るくなる頃」・・としては、古今和歌集恋の歌637に、「東雲のほがらかと明け行けば己が衣着ぬなるぞ悲しき」(読人知らず)がある。
これは、“東の空が白み、ほのぼのと明けてきたので、それぞれの衣を着て別れることが悲しいことであるよ”といった意で、 当時は通い婚で、男性は夜一緒に寝て、朝が明ける前に自分の家に帰っていた。そして同衾(どうきん=一つの寝具の中に一緒に寝ること。特に、男女が特別な関係を持つこと。ともね。)の際に、二人の着物を重ねて掛けていた。そういった風習から「後朝(きぬぎぬ=衣着ぬ)の別れ」という言葉が出来たようだ。日本語の柔らかさとともに、ほのかな情感が伝わってくる言葉である。
「暁(あかつき)」は、“昔は夜をを3つに分けた第3番目「宵」「夜中」の次が「暁」で、古くは、暗いうち、夜が明けようとするとき”をいった。古今和歌集恋の歌625には「有明の つれなく見えし 別れより 暁(あかつき)ばかり 憂きものはなし」(壬生忠岑)がある。平安時代以前は「あかとき」といっていた。
「曙(あけぼの)」は、夜明けの空が明るんできた時。夜がほのぼのと明け始める頃。あさぼらけ。”をいう。枕草子第1弾に出てくる「春はあけぼの(曙)」の言葉が有名(以下参考の※「古典に親しむ:枕草子」参照)であるが、これ以降、春の明け方をいうようになったようだ。
「朝朗(あさぼらけ)」は、朝がほんのりとあけてくる頃。を言う。「あけぼの」、「しののめ」とおなじ。古今和歌集冬332に「朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに 吉野の里に 降れる白雪」(坂上是則)の有名な歌がある。「有明けの月」は夜明けにまだ空に残る月。月の出のおそい陰暦の廿日前後の月をいい、歌の意味は「ほのぼのと夜が明けるころ明け方の月の光かと思うほどに吉野の里に降り積もった白雪であることよ」といったところか。
明け方は他に黎明(れいめい)や彼誰時(かわたれどき)などがある。
以下参考に記載の※:「昼の長さ夜の長さはなぜ変わるの?」によると、神戸の2009年11月24日・今日の日の出時刻は6寺42分と言うことだが、「朝朗」は主に和歌に用いられ、秋冬と結びつけて使われることが多いようなので、今朝私が見た東の空の朝焼けなどは「朝朗」と言うことだろうか。
今頃の朝方の東の空は5分、10分単位で景色が変わる。ちょっと朝早く起きて、中世の歌など思い浮かべながら一時を過ごすのも良いと思うよ・・・。古今和歌集の恋の歌などは以下参考の※:「古今和歌集の部屋」を参照されると良い。詳しく解説されているよ。
また、マラルメ、ヴェルレーヌと共にフランス象徴派・三大詩人の一人とされるランボー(以下参考の※:Yahoo!百科事典参照)が1886年に発表した詩集『イリュミナシヨン』の中の詩の” Aube” は「曙」「黎明」「暁」とも訳されており、ランボーの詩の中でも特に美しい詩として知られているようだが、夜明けと恋は関係が深いんだな~。興味のある人は以下参考の※:「夜明け/アルチュール・ランボー「イリュミナスィオン」 門司邦雄による翻訳・解読」を見られると良い。
(画像は2009年11月24日明け方の東の空)
参考:
※:江戸で遊ぼう???
http://www.k3.dion.ne.jp/~edo-cad/koyomihyoushi.html
※古典に親しむ:枕草子
http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/makuranosousi.htm
※:昼の長さ夜の長さはなぜ変わるの?
http://www.saga-ed.jp/workshop/edq01460/
※:古今和歌集の部屋
http://www.milord-club.com/Kokin/index.htm
ランボー - Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%BC/
※:夜明け/アルチュール・ランボー「イリュミナスィオン」 門司邦雄による翻訳・解読
http://rimbaud.kuniomonji.com/illuminations/aube.html
明け方 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E3%81%91%E6%96%B9
時刻 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E5%AE%9A%E6%99%82%E6%B3%95
江戸の時刻制度"不定時法":お江戸の科学
http://www.gakken.co.jp/kagakusouken/spread/oedo/03/kaisetsu1.html
新古今和歌集散歩
http://www.geocities.jp/keisukes18/sinkokin.html
21b 歳時を詠める和歌
http://www2u.biglobe.ne.jp/~gln/88/8812/t21/881221b.htm
枕草子 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%95%E8%8D%89%E5%AD%90


ペットたちに「感謝」する日

2009-11-22 | 記念日
日本記念日協会の今日(11月22日 )の記念日を見ると、『ペットたちに「感謝」する日 』があった。
由来を見ると”私たちと生活を共にし、喜びや悲しみ、生きがいを与えてくれるペットたちに、日頃の感謝の気持ちをあらわし、人と動物の正しい関係を考える日。すべてのペットが幸せになれるように、また野生動物や自然環境のことを多くの人に考えてもらいたいとの願いからピーツーアンドアソシエイツ株式会社が制定。日付はペットの代表の犬と猫の鳴き声からの語呂合わせから。英語では「THANKS PETS DAY」。”・・とあった。
このペット(英語:Pet)とは、広辞苑などでは、愛玩を目的として飼育される生物、つまり、愛玩動物をいっている。一般的には、さえずりを聞いたり、美しい色彩や姿を観賞したり、かわいいしぐさを楽しんだりするなどにより、人の日常生活に潤いを与えるために飼育されている動物であるが、愛玩用ではなく、実用的な理由に拠る目的で飼っているものを家畜という。ペットと家畜の歴史は古く、狩猟において助けとなるイヌ(犬)、農耕において害獣となるネズミなどを駆除してくれるネコ(猫)、やイタチのような小型肉食獣が珍重されていた。
特に犬の場合は、はっきりした主従関係を好む習性から、家族の一員として扱われた歴史が長く、欧米では、古来、現代まで王侯貴族や歴代大統領から一般市民の間で愛玩用として飼われていたが、また、護衛用、狩猟用などを目的としても飼われており、これらの目的で飼っている多数の愛犬家がいる。それに、今日では、このほか、単なる労働力を超えて人間の生活を補助する介助犬身体障害者補助犬などもおり、これらを飼っている人は、ただ可愛いといってペットを飼っている人以上に愛し大切にしているだろう。
又、犬同様に古くから飼われているネコ科の動物は古代エジプトにおいて神格化されたせいもあって、高貴な身分に相応しい愛玩動物として扱われ(以下参考の※:「古代エジプトの猫崇拝」参照)、実用的な用途よりも、より今日のペットに近い存在として飼われてきたようである。また農耕文化にも関連して、ネコやイタチ・キツネのような小型動物を捕食する肉食獣を、穀物を食害から守る益獣として珍重していた文化が世界各地に見出され、好んで保護され飼育されていた事情が見られる。このように、古来家畜とペットの境界は曖昧で、飼育する側の社会的地位によって、その境界は更に曖昧な物であったようだ。
この「ペット」という言葉がマスコミに登場したのは何時頃だろうか?
私の蔵書の中の朝日クロニクル「週刊20世紀」の1927-28年号には、“1928(昭和3)年の流行にはシェパード飼育(上野のシェパード展大成功)”の記載があり、又、同誌別冊”ぜいたくの100年”には、“昭和に入り日本で最初のペットブームが起った。当時の人気犬種トップはシェパード。写真(冒頭に掲載のもの)は1931(昭和6)年6月に雑誌に掲載されたもので、この黒いシェパードの値段が3500円と言うのにはびっくり。小学校の先生の初任給45円から55円。ダットサン乗用車の最高モデルが1900円という時代である。”・・・と記載されており、1931(昭和6)年頃に、「ペット」と言う言葉も使われ出したのだろう。
そういえば、第二次世界大戦後のまだ私が子供の頃は、人が食べる物もにも不自由をし、世間には住む家もない浮浪者が多く居た時代、野良犬や野良猫も多くいたが、保険所の野犬刈りが自転車に乗って針金製だと思うが、それでできた投げ縄のような道具を野良犬の首に投げかけて捕獲していた。捕獲され、キャンキャンと泣き叫ぶ犬が可哀想で近所の人に聞くと、狂犬病予防のために捕獲しているのであり、捕獲された犬は殺されてしまうのだと聞かされショックを覚えた。それで、いつも家の近所の草むらに居た野良犬の子供を拾ってきて母親に無理を言って家で飼っていた。その当時私の家は、父の商売が上手くいっていた時なので、贅沢は出来ないが、なんとか食べるものには事欠かなかったので、許しを貰って、私たちが食べているものの残り物、残飯に鰹節や味噌汁を降りかけたようなものを食べさせていたが、よく懐き、一緒に楽しく遊んだのを思い出した。当時庶民が飼っている犬は殆どが雑種であったが、近くの大金持ちの家には大きなシェパードが番犬として飼われていた。この頃純粋な外国種の犬と言えば、シェパードか、ドーベルマン、猫ではペルシャネコとかだったが、このような動物を飼ってる家は、大金持の証のようなものであった。戦後の混乱期から高度成長期にかけて、番犬として白い毛並みの小型犬スピッツが爆発的に流行したことがある。何でも最盛期には、日本で登録された犬の約4割を占めたほどの人気犬種だったという。
戦後の時代とは異なり、経済的にも豊かになった近年は、凄いペットブームが起きているが、私の家の周囲でも犬や猫を飼っている家が急増。それにペット好きの家では1匹や2匹ではなく数匹飼っているところも多い。家の近くの児童公園などに行くと犬を連れた人達のたまり場となっているところもある。そして、今では、色んな品種の犬や猫が飼われているが、飼っている人達も、まるでファッションと同じように、他の人達と少しでも毛色の異なる変わった種を競って飼っている感じすらする。
それでは、実際に、どれだけの人が今ペットを飼っているのだろうか?。内閣府により、2003(平成15)年7年度の世論調査の一環として「動物愛護に関する世論調査」が実施され、その結果が取りまとめられ、公表されている(以下参考の※:「動物愛護に関する世論調査【内閣府大臣官房政府広報室〕」参照。)が、それを見ると、家庭で犬や猫などのペットを「飼っている」と答えた者の割合は36.6%となっており、約3人に1人以上が飼っている計算になり、ペットを「飼っている」人が「どんな動物」を飼っているかについては「犬」を挙げた者の割合が62.4%と最も高く、以下、「猫」(29.2%)、「魚類」(11.7%)などの順となっており、これは、予想通りであるが、「鳥類」は激減しているようだ)。
ペットとして最も人気の高い犬と、猫について、以下参考に記載の※:「ペットフード工業会の2009(平成21)年ペットフード工業会ニュース「 第15回犬猫飼育率全国調査」」でもう少し詳細なデーターを見ると、ここでは、所帯別の統計になっているが、“飼育所帯率は犬18.2%(昨年度18.9%)、猫14.4%(同:14.4%)。この飼育所帯率から推計される飼育頭数は、犬が1,310万1千頭、猫は1,373万8千頭で、犬・猫合計では2,683万9千頭となり、平。又、これは、1994(平成6)年10月に実施した第1回犬猫ネコ飼育率全国調査の結果と比較すると、犬の飼育頭数は約907万頭から約1310万頭へと約1.4倍に、猫は約616万頭から約1089万頭へと約1.8倍にも増加している。それに、特徴的なこととして、一般にシニアと言われている7歳以上の犬が全体の55.3%(昨年度:51.0%)、猫が47.4%(昨年度: 45.8%)を占め、更に、老齢と言われる10歳以上の犬は29.3%(昨年度:29.0%)、猫が31%(昨年度:28.3%)を占めており、昨年に続き高齢化が更に進んでる。高齢化の要因としては、適切に栄養バランスの取れたペットフードの普及に加え高齢のペットのニーズを配慮したシニア用ペットフードの充実・改善があること、獣医療の更なる進化、室内飼いの増加などが考えられているという。
日本でペットを飼育する者は、動物の虐待の防止や公衆衛生の観点から、「動物の愛護及び管理に関する法律」や「狂犬病予防法」などの法令により定められた義務を負う。
内閣府の「動物愛護に関する世論調査」の回答からはペットの飼い方に関して、「飼っている」犬または猫へ飼い主が誰であるかわかるように所有者明示を「していない」と答えた割合が犬の場合が65.4%、猫の場合80.9%にも登っており、去勢・不妊の「手術をしていない」と答えた者の割合も犬の場合、73.6%、猫でも28.1%ある。又、どこにでも出入する猫の飼育方法について、部屋の中ではなく自由に「放し飼いにしている」と答えた者の割合が23.8%もおり、「動物の愛護及び管理に関する法律」の周知度では、そういう法律ガあることを知らなかった46,8%、法律があることは知っているが、内容は良く知らない32,3%と、ペットブームの中で、西欧など先進国と比べると飼い主の意識の低さが感じられる。
日本の場合、1950(昭和25)年の狂犬病予防法施行による飼い犬の登録とワクチン接種の義務化、徹底した野犬の駆除などによって1956(昭和31)年以来、犬、人、共に狂犬病の発生はないものの、犬による咬傷(こうしょう=かまれたきず)事故が届出だけで毎年6,000件以上報告される現状で(以下参考の※:「日本獣医師会:狂犬病対策についてPDF」参照)、犬への狂犬病ワクチンの接種率は近年低下しており、厚生労働省の調査による2008(平成20 )年度の登録頭数は約6,805千頭、予防注射頭数約5,096千頭であり、その接種率は74.9% (以下参考の※:「厚生労働省:都道府県別の犬の登録頭数と予防注射頭数等 」参照)だが、これを、先に書いた同年のペットフード工業会の全国調査による犬の飼育頭数約 13,101千頭(以下参考に記載の※:「厚生労働省:都道府県別の犬の登録頭数と予防注射頭数等」参照)から割り出される未登録犬(13,101-6,805=約6296千頭)も含めての予防注射実施率は約38,9%にしかならず、流行を防ぐために必要とされるWHOガイドラインの70%を遥かに下回っている。
犬の飼い主には、現在居住している市区町村に飼い犬の登録をすること、飼い犬に年1回の狂犬病予防注射を受けさせること、犬の鑑札と予防注射済票を飼い犬に装着することが法律により義務付けられているが、日本では、「室内で小型犬を飼う人が増え、狂犬病の心配はないと思い、最初の予防注射に合わせて行う登録もしない飼い主が多くなっている」という。日本では今までに狂犬病の発生自体がほとんどなかったことが、意識の低さに繋がっているのだろうが、国内で感染する可能性がなくなったわけではなく、接種しなかった場合は狂犬病予防法により罰金刑などが科される可能性があることを承知しておいて欲しい。
それは、さておき、ペットとしては、昔から、犬や猫、それに、小鳥、金魚、錦鯉などが相場と決まっていたものだが、昨今はこれらの小動物に飽き足らず、なお珍奇なものを求めようとする風潮が高まり、ペットショップにはアライグマなどの野生動物も姿をみせるようになった。その範囲も著しく広がり、前出のもののほかにシマリス、ハムスター、ミドリガメをはじめとする爬虫(はちゅう)類、アメリカザリガニやカブトムシその他の節足動物も人気があるが、中には、ライオンやワニまで販売している業者がある。
かって、ペットブームの果てに起った大騒動が報じられたのが、1978(昭和53)年のことである。朝日クロニクル「週刊20世紀」でその年の事件を拾うと、
「3月3日、ペットとして飼っていた2頭のライオンに飼い主がかみ殺された事件があった。」これについて、“このライオンは生後10ヶ月のオスとメスで飼い主が餌を与えようと折の中に入ったところを襲われた。東京都立多摩動物公園のライオン飼育係は「オスとメスを同時に買うなんて無茶。小さいときから飼育しているライオンは、普通はおとなしいが、発情すると興奮状態になる。1頭だけなら飼い主を襲うようなことは余りないが、オスとメスの2頭になるとライオンの方に協調性が出来て危険と警告している。”(3月3日付け朝日新聞、)。
「4月2日夕、埼玉県小川町の東武東上線の通勤電車わきにクマが姿を現したのを近くの人や通勤客3人が目撃」と言う事件があった。“地元ハンターらがクマ狩に出動。足跡や木の幹に残された爪跡から確認されたのは2頭。うち1頭は買われていたクマが山に放たれて野生化したと見られている。”(4月27日朝日新聞)
「12月4日夜、東京都北区の帰宅途中の男性から「自宅近くでヒョウのような動物と格闘して逃げてきた」と王子署に110番があった」。“この動物は近くに住むイタリア人が飼っている南米山のヤマネコのオセロット種で、家から逃げ出したものと分った。”(12月5日付朝日新聞)。・・・といったところである。
これ以降も同様の事件がよく起こっているが、よくもこんな動物を飼う人が居るものだが、そのような動物が業者により自由に売買されていること自体に問題を感じる。
因みに、この事件の最初のライオンが飼い主をかみ殺した事件であるが、そのライオンを売った人物が、あの1995 (平成7)年に起った「埼玉愛犬家連続殺人事件」の主犯の男であったそうある。本当にあくどい商売をしていたようである。以下参照。
ペットブームは犬や猫だけではない。(YOMIURI ONLINE)
http://otona.yomiuri.co.jp/history/090303.htm
このような、猛獣の販売など特異な例は別として、ペットブームに乗って、ペットショップがホームセンターなどに出展しているのを見ていると、2段3段に重ねられたケージや同様のショーケースなどに子犬や子猫がまるで商品のように陳列されて販売されている。そんなショーケースの中の愛くるしい子犬や子猫たちに値段票が貼付され、その前で、可愛い可愛いと言いながらショーケースの中を覗き込みながら品定めをしている親子や夫婦、若者連れ・・・。子犬は、生後3ヶ月位の間は親や兄弟と一緒に過ごす事で犬社会での犬同士の付き合い方を学んでいくというが、ペットショップなどではそれに満たない2ヶ月位の子犬が売られていると聞くが、環境省が2003(平成15)年にまとめた「ペット動物流通販売実態調査報告書」という調査報告がある。2001年度に犬・猫、その他のペットを取り扱う業者へのアンケート、聞き込み、文献調査を基にして行った調査結果の報告であるが、その中に、犬・猫の販売日齢を調べたものがある。犬の販売日齢は生後40日から50日未満が全体の53%。猫の販売日齢は生後50日から60日未満が全体の41%となっており、子犬や子猫が生後1ヶ月から2ヶ月以内に親元を離されて販売されているケースがもっとも多い実態を示している。
又、同報告書の中で、年間生産数について、2001年の犬猫の推定年間生産数は、約97,800頭(犬:89,300 猫:8,500)であるが、このうち、生産者から流通にわたる子犬・子猫の数は約88,900頭(90.9% 。8,900頭の減少)であり、その差は主に病死だそうだ。又、流通からペット飼育者レベル(飼い主)までに到達したのは約77,000頭(86.6% 11,900頭の減少)となっており、主な理由は病死、及び流通業者が繁殖用に確保したものと言うが、繁殖用に確保された頭数はそう多くないと思われ、相当な子犬や子猫が飼い主の手に渡る前に病死していることになる。小さいうちから飼いたいという飼育者の強い要望もあり、業者の幼齢期販売日齢の問題や、これら小動物を二次製品と同じ様な感覚で量産をし過ぎ・・・といったことにも原因があるのだろう。同報告書は、以下参考の※:「動物の愛護と適切な管理(環境省自然環境局)」の中の関連資料 >パンフレット・報告書等の中にあるのでそれを見られると良い。
そんな生まれたばかりの小さな子犬がペットショップに来て、1頭だけで狭いケージに入れられ、大勢の人間達に毎日毎日覗き込まれていたらさぞストレスも沸くであろう。私など、そのようなことを考えると可愛さよりも哀れさが先に感じられて仕方がない。
私たち夫婦も、子供たちが巣立って久しく、夫婦2人だけの生活であり、2人とも犬が大好きなので、何度か、小型の犬を飼おうかと話し合ったことがあるが、自分達の年令を考えるとどちらが早く亡くなるか分らないし、又、十分に世話をしてやる自信がないので、飼わずに我慢している。
先のデーターとは別に、以下参考に記載の※:「ALIVE(地球生物会議)」が、動物行政を所轄する全国の自治体に犬猫の処分数、その他動物行政に関する現状を把握するためにアンケートを実施した結果(平成19年度【2007年度】全国犬猫処分数および動物行政アンケート結果)を見ると、行政によって引き取れたり捕獲された者のうち返還されたもの等を覗く犬や猫が、2007年度中に殺処分された数は 犬:100,963匹、猫 :209,494匹合計 310,457 匹もいると・・・言う。
ペットを飼う理由は、時代を追って変化しており、古くからの犬ならば防犯用、ネコならばネズミを捕るといった実用の目的から「癒し」へと移行しており、近年では従来の所有物扱いのペットに対して、生活して行く上での伴侶などとする、より密接な関係を人間と持っている動物を指す言葉として、ペットに替わって「コンパニオンアニマル」という概念も普及してきている。しかし、その一方で、哀しい運命を辿っている動物が沢山居るのである。ペットを販売する者もペットを飼う者、関係法律をきっちりと守り、大切に育ててほしいものだ。
(画像は、シェパード。朝日クロニクル「週刊20世紀」”ぜいたくの100年”より)

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