今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

織部の日

2007-02-28 | 記念日
今日(2月28日)は、「織部の日」岐阜県土岐市が制定。
土岐市 HPによると、”土岐市では、「織部」が史実に登場した2月28日を「織部の日」と制定し、毎年この時期に記念行事を開催しています。 美濃焼産業の基盤が築かれた時代に思いをはせ、「織部」に注がれた創造の精神をたたえ、広めようとするものです。”・・・とあった。
同市HPを見ても”「織部」が史実に登場した2月28日”・・・についての詳しい事は何も書いていないので、独自に調べてみると、それは、1599(慶長4)年2月28日に開かれた古田織部の茶会に招かれたときの様子が書かれている博多の豪商・神谷宗湛(かみや そうたん)の「宗湛日誌」によるものらしい。
神谷 宗湛は戦国時代から江戸時代前期にかけての博多の豪商・神屋家の6代目。1582(天正10)年、宗湛は島井宗室と共に上洛して時の天下人・織田信長に謁見、信長の保護を得ようとしたが、同年6月に本能寺の変が起こって信長が死去したため失敗。1586(天正14)年、再度上洛して今度は畿内の諸大名やの大商人・津田宗及らと親交を深めた。同年、大徳寺にて出家し、宗湛と号した。1587(天正13)年、信長死後に天下人となった豊臣秀吉に謁見。秀吉に気に入られ、豪商としての特権を与えられて以後は博多商人の第一人者として栄華を極めた。秀吉の九州征伐の資金的援助や朝鮮出兵時後方兵站の補給役を務め、晩年の秀吉の側近として活躍した人物だそうである。
宗湛の著作として、『宗湛日記』がある(宗湛日記参照)。これは、1586(天正14)年から1613(慶長18)年にかけての茶事に関する日記。つまり、宗湛が秀吉時代に活躍したことをまとめた茶会記であるが、秀吉政権の内部を知る上では貴重な史書の一つともされている。
その1599(慶長4)年2月28日の「宗湛日誌」に、「初出のセト茶碗、ヒツミ候也、ヘウケモノ也」と記されているそうだ。これは、「ひょうげ(瓢化)た」というのは、「おどけた」「ゆがんだ」といった意味である。
織部焼と言えば、神谷宗湛が驚きをこめて「ヒズミ候也。ヘウゲモノ也」と記したとおり、強烈なデフォルメと不均衡の美を主張した奔放で奇抜な焼物。織部焼きには「青織部」「鳴海織部」「赤織部」「黒織部」「志野織部」「伊賀織部」「唐津織部」などがあるが、中でも最も一般的なものが青織部で、銅の青釉がかかり青い(緑)色が所々出ている。
この織部焼、織部流の創始者が、古田 重然(ふるた しげてる)である。一般的には茶人・古田織部(ふるた おりべ)として著名。「織部」の名は、壮年期に正六位下織部正の官位を叙任したことに由来している。(官制大観参照)通称は左介。
そして、2月28日の茶会で織部が使用した”ヘウケモノの器が後に織部焼と呼ばれるようになった。”・・・と言う事で、この茶会日を、記念日、「織部の日」としたのであろう。
古田織部は、1544(天文13)年、美濃国本巣郡の山口城主の弟に当たり、茶人であった古田重定の子として生まれ、織部も父の薫陶を受け、武将としての生涯を歩みつつ、茶人としての強い嗜好性を持って成長する。その後、織田信長の美濃進駐とともにその家臣として仕え、、摂津攻略にも参加。1576年(天正4)年には山城国乙訓郡上久世荘の代官となった。その後も羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の播磨攻めや明智光秀丹波攻めに従軍するなど、禄高は3百貫と少ないながら、武将として活動している。信長死後は羽柴秀吉に仕え、1585年(天正13年)秀吉が関白になると、織部正の位階と山城国西岡に所領3万5000石を与えられた。その後、九州征伐小田原征伐に参加し、文禄の役では朝鮮に渡海して活躍した。
1582(天正10)年から千利休の書簡に織部の名前が見えるため、この間利休と知り合い弟子入りしたものと考えられ、利休七哲のひとりとされる。
1591(天正19)年に秀吉によって利休の切腹が決まると、利休と親交のあった諸将が秀吉とかかわりあいになるのを恐れるなか、堺に下る利休を、織部と細川忠興だけが密かに淀の渡しまで見送りに来たことが、松井佐渡守康之宛の利休自筆書状に書かれている。(以下参考の茶の湯の楽しみ「利休」のページを参照。)
利休の死に、あい前後して、今井宗久(1593年没) や津田宗及(1591年6月没) らが没したことと相俟って、事実上、堺町衆茶頭の時代は終りを告げた。その後も、利休の子の道安や、女婿の万代屋(もずや)宗安、宗久の子の宗薫らが仕えるが、第二世代として存在感は薄い。そして、1598(慶長3)年、8月の秀吉の死のより、茶頭は完全に消滅した。その翌・1599(慶長4)年3月、利休の弟子で当時「茶湯名人」」といわれていた古田織部が奈良衆の招待を受けて、伏見から下向、あちlこちで歓待されたあと、初瀬を経て吉野山に登り、25日か26日に花見茶会を催している。同行者は小堀政一(遠州)など武将に京・境の町人たちである。このときの記録『松屋会記』によると、一行は「ニナイ(荷)茶屋」を持ち込んだが、それには「利休妄魂」と書いた扁額(へんがく)が打ち付けつけられていたという。単なる「亡魂」ではなく、「妄魂」とあるのが留意されるところで、秀吉が伏見城に没した8ヵ月後であることを考えれば、これは秀吉に気兼ねなく持つことのできた利休追悼茶会であり、救われなかった「妄魂」を鎮めるための茶会であったといえるようだ。(週間朝日百科「日本の歴史」)
織部は、その後、利休の地位を継承して、豊家の筆頭茶人となった.。
1600年(慶長5)年9月の関ヶ原の戦いでは東軍(徳川派・東軍参照)に与した。しかし利休と同じように反骨精神が旺盛で、徳川幕府の意向を無視することも少なくなかった。また茶の湯を通して全国の大名に多大な影響力を与える存在でもあり、このため家康から次第にその影響力・存在を危険視されるようになる。1615(慶長20)年の大坂夏の陣後、豊臣秀頼の遺児・豊臣国松を匿(かくま)ったこと、豊臣氏と内通した嫌疑などをかけられて切腹を命じられた。織部はこれに対し、一言も釈明せずに自害したという。織部の子、重尚と重広も父に殉じて自害した。内通云々もさることながら、密かに織部の死を予言した大河内金兵衛(以下参考の「松平大河内家」参照)と言う人物がいたという。大河内金兵衛は、のちに”知恵伊豆”と才覚をうたわれた松平伊豆守信綱の父で、幕府側のイデオロギーを代表する1人だが、金兵衛によれば、織部は「世の宝を損なう人」であり、その理由は、「茶碗茶人などえおも疵(きず)なきをうちわりて繕(つくろ)ふておもしろしなという」非道をしたからだだという。織部は、天下の名物という既成の価値の秩序を認めない。無疵の名物の茶碗をわざと打ち割って、デフォルメするなかに己の美意識を主張する。そのやり方は、かぶき者達がお仕着せの秩序を認めず、己の意地を通そうとして、破滅していった軌跡と重なり合うという。(週間朝日百科「日本の歴史」)
下克上の論理を梃子(てこ)に新しく誕生した天下人は、その頂上を極めると同時に、今度は下克上の論理の鎖を断ち切り凍結しようとしたのである。徳川幕府の治世で社会に安定が求められると、利休や織部のように規制の価値観を認めない危険なかぶき者(かぶき者については、以下参考の「かぶき者たちの心象風景」を参考にされるとよい)的茶の湯は危険視され、保守的で雅な「奇麗さび」とされる小堀遠州らの穏やかなものが主流になった。
長々と書いたが、肝心のことが後になってしまった。
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→ 続・織部の日

続・織部の日

2007-02-28 | 記念日
織部の日続き
一般に織部というと銅緑釉を掛けた焼き物と思われているが、この時期、古田織部の指導のもと、登り窯で焼かれた焼き物を総じて織部焼とよばれていたようだ。
以下参考の 「古田織部とオリベ陶」に記載されているところによると、古田織部とオリベ陶の関係については、上記のように、オリベ陶は古田織部の指導の下にできたものであるとする見方と、両者の間にはとりたてて深い関係は見られないとする意見に分かれているようである。両者は特にオリベ陶の「ヘウゲタ」形が、古田織部の茶の湯における(侘び」の思想からでたもので、それが、当時の天下一の数寄の師匠である古田織部の指導なしには成立し難いというものである。それに対して、後者の立場に立つ人は、前者の人の理論は単なる推測に過ぎず、オリベ陶は古田織部の指導を受けてできた可能性と同等の確立で、彼とは全く交渉なしに、陶工たちの独自な創意によってこの世に出たと主張する。
『焼物随筆』の著者、加藤唐九郎は、一作陶家として、創作を通じてオリベ陶の魅力の全てを追求してきただけでなく、そのほかにも彼独特の学問的な欲望から発した多くの研究成果がある。加藤唐九郎は、上記書中「やきもの東と西」のなかの二つの章でオリベ陶と古田織部の関係についての問題を提起しており、その中で幾つかのものを提起しているが、その一つ「古田織部が如何に瀬戸焼を使用したか」の中で、古田織部の茶会における瀬戸焼の使用傾向を丹念に調べた上で、「之から直ちに一定の結論を抽き出すことは頗る危険である」と述べている。又、唐九郎は古田織部が茶会で使用した茶陶の使用頻度を調べてまとめ表を作った結果について、①古田織部が用いた茶陶は、瀬戸・唐津・備前・信楽と多岐に渡っている。②「古織会書」では、瀬戸物の使用は、黒瀬戸や黒今焼を含めても、全44点のうち8点に過ぎず、特に多いわけではない。しかし、③晩年の「古織会附書」を含めるとそれは圧倒的多数を占めることなどである。次に見方を変えて、使用年代ごとに再度古田織部の好みの茶陶を統括すると、慶長6(1601)年以前は、高麗もの、慶長6年代は瀬戸もの、慶長7年代は信楽、慶長8年代は唐津と備前、伊賀は晩年に近い慶長13年以降という傾向も見られるという。そのほか、慶長6年4月18日の「白茶碗瀬戸」は、「志野」らしい。それより早く世に出たとみられる「黒茶碗」は、織部会では、同年の7月16日が初出である。慶長4(1599)年2月8日の有名な記述「ウス茶ノ時ハ、セト茶碗、ヒツミ候也、ヘウケモノ也。」は、その形についての神谷宗湛の表現であるが、おそらく「瀬戸黒」、「黒織部」「織部黒」のいずれかであろう。同じ日の茶入れについても、「肩衝ハ、セト也、薬黄ニシテ下ハル也、辻堂ト申也」と色の記述がある。これは当時すでに完成していたと見られる「黄瀬戸」とみて間違いない。「青織部」については、慶長13年5月19日の「せとのあふき皿」と「せとのへき皿」がそれで、使用時期はかなり遅い。いずれにせよ古田織部は白、黒、黄、青すべての瀬戸物を使用したことが表からよみとることができるという。
これだけでは、相変らず、オリベ陶は古田織部の指導の下にできたものであるのか、両者の間にはとりたてて深い関係は見られないのかといったこと良くはわからないが、兎に角、桃山時代以前の上流階級の愛用した一級陶器は、中国や朝鮮のもであったが、日本で焼物が最も発達した桃山時代になって、初めて、日本の志野・黄瀬戸・織部、唐津・備前・信楽といったものが愛用されるようになった。そして、いわゆる当時の織部というものは、どうやら、黒釉を使い焼成中に引出し常温まで急冷させる引出黒による「瀬戸黒」のなかで歪みの大きい沓形(くつがた)と呼ばれる器型の「織部黒」、黒釉を窓抜にし鉄釉で文様を描いた「黒織部」の織部茶碗などを総じて織部と呼んでいたようだということは分かった。
桃山陶参照  →http://toujiki.net/momoyama/content4.html
(画像は、黒織部沓茶碗見込百合文。梅沢記念館蔵。週間朝日百科「日本の歴史」より)
参考:
岐阜県土岐市
http://www.city.toki.lg.jp/wcore/index.htm
古田重然 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E7%94%B0%E7%B9%94%E9%83%A8
神谷宗湛 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E8%B0%B7%E5%AE%97%E6%B9%9B
茶の湯の楽しみ|武者小路千家|官休庵
http://www17.ocn.ne.jp/~verdure/
官制大観
http://www.sol.dti.ne.jp/~hiromi/kansei/yoro01.html
岐阜県のお城一覧表
http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/itiran_gifu.htm
その時歴史が動いた「戦国の茶人 秀吉と闘う ~千利休切腹の悲劇~」
http://www.nhk.or.jp/sonotoki/2001_11.html#03
松井康之 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%BA%95%E5%BA%B7%E4%B9%8B
今井宗久 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E4%BA%95%E5%AE%97%E4%B9%85
津田宗及 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E7%94%B0%E5%AE%97%E5%8F%8A
小堀政一 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%A0%80%E9%81%A0%E5%B7%9E
松平大河内家
http://homepage3.nifty.com/hyuuga/daimyou/ookouti.htm
松平信綱 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E4%BF%A1%E7%B6%B1
かぶき者たちの心象風景
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/geinohsi12.htm
焼き物知識
http://www.chuokai-gifu.or.jp/minoyaki/eria/yaki.html
[PDF] 古田織部とオリベ陶
http://library.nakanishi.ac.jp/kiyou/gakugei(2)/09.pdf
桃山陶
http://toujiki.net/momoyama/content4.html
茶道|茶の湯の楽しみ|茶道用語
http://www17.ocn.ne.jp/~verdure/yogo/yogo_o.html
[PDF] 美 濃 焼
http://web.mac.com/okuiso/iWeb/iDoc/Minoyaki.pdf



大海人皇子が即位し、第40代天皇・天武天皇となる

2007-02-27 | 歴史
673年の今日(2月27日)大海人皇子が即位し、第40代天皇・天武天皇となる。 
天武天皇(てんむてんのう)は、『皇統譜』によると第40代に数えられる天皇。在位は、弘文天皇2年2月27日(673年3月20日) ~朱鳥元年9月9日(686年10月1日)。和風(国風)諡号は天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)。この和風諡号は極めて道教的な諡号である。
即位前の名は大海人皇子(おおあまのみこ、おほしあまのみこ、おおさまのみこ)。系図上では、舒明天皇の第2皇子で母は宝皇女(皇極天皇)、天智天皇の同母弟となっている。
壬申の乱」にて天智天皇の息子である大友皇子(弘文天皇)を滅ぼして、弘文天皇2年2月27日(673年3月20日) 飛鳥浄御原宮で即位する。即位後は飛鳥浄御原令の制定を命じ律令国家の確立を目指す。さらに、天武13年(684)10月には、旧来の氏姓制度の改革として八色の姓(やくさのかばね)を制定して朝廷の身分秩序を確立し、新冠位制を施行して冠位賦与を親王にまで拡大した。このような、天武天皇の事跡の多くは『日本書紀』に述べられており、天武天皇は、才能に恵まれ、武徳に優れ天文・占星の術を得意としたとある。『日本書紀』について、通説では「壬申の乱」で天智王朝を倒して勝利を得た天武天皇が自己の王朝の正当性を主張するために編纂した政治的な書であるとされている。そして、この『日本書紀』編纂の中心人物は天武天皇の息子の舎人親王であることから、潤色が加えられているとする見解もある。また同書では、当初から兄・天智天皇の皇太弟であると記されているが、大友皇子の立太子の事実を否定し、天皇の皇位継承を正当化する意図があるとする意見もある。何時の時代でも、歴史は、後の時代のものが前の時代のことも書く。そして、後の時代のものが、立派であるように書くのは、中国4000年の歴史を見れば判る。
672年に起きた「壬申の乱」は、叔父(大海人皇子)と甥(大友皇子)の間で争われた日本古代の最大の内乱といえる。そして、この争いは、あの豊臣・徳川の関ケ原の戦いと同様で、決戦場も同じ関ケ原であり、この天下分け目の戦いの結果、政権の落ち着き先が決まった・・・ということもよく似てる。
戦前の教科書には、663年(天智2)の朝鮮半島・白村江(大韓民国支配地域の東津江下流と推測される)で行われた倭国(後の日本)と百済の遺民の連合軍と新羅連合軍との戦いである「白村江の戦い」(はくすきのえのたたかい)や、「壬申の乱」については、全く載っていなかったようだ。今回は、「白村江の戦い」のことには触れないが、「壬申の乱」が何故載らなかったかというと、天智天皇の後はすぐに天武天皇になるとされていたが、その間に、大友皇子が即位したであろうという可能性が非常に強いにもかかわらず、即位はないように、『日本書紀』には書かれている。(弘文天皇記の段は存在しない)しかし、その他の大日本史 などでは、大友が即位し、大友天皇なり、弘文天皇になったとしている。幕末から明治にかけての国学高揚の気を受けて、明治政府は、大友皇子に「弘文天皇」という諡(おくり名)を与え、1200年ぶりに第39代天皇と認定した。
大友皇子即位説参照)。
もし、大友皇子が即位して、在位したということになれば、大友の近江王朝を武力で転覆し、天皇(大友)を自殺に追いやったのは、のちの天武天皇となる大海人皇子であり、それは、反乱であり、行為の簒奪(さんだつ)ということになるのである。『日本書紀』は、その事実を隠しているといわれる由縁である。
また、この壬申の乱」を招いた原因に、『万葉集』の女流歌人額田王(ぬかだのおおきみ)をめぐっての天智天皇と大海人皇子の二人の兄弟の確執が逢ったとも言われている。
争乱の起こる4年前、天皇の一行が近江の蒲生野に遊んだおりに取り交わされたという愛の歌がある。
それが、以下参考の「千人万首―よよのうたびと―」の額田王にある以下の歌である。
天皇の蒲生野(かまふの)に遊猟(みかり)したまへる時、額田王の作る歌、
「あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守は見ずや君が袖振る」
これに対する大海人皇子の返歌、
「紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に吾恋ひめやも」
当時の宮廷では、1人の女性がいろいろな男性と交渉を持つのは普通のことであった。宮廷の結婚も、異母兄妹、伯母伯父、姪が一緒になったりもした。だから1人の女性を争って、その三角関係から壬申の乱が起こったとは思えない。
額田王は大海人皇子(後の天武天皇)に愛されて、十市(とおち)皇女を産み、後に天智天皇に愛され側室になったと考えられている。大友皇子の妃が十市皇女である。大友皇子と十市皇女の間には葛野王(かどののおおきみ)という子どもが生まれている。そして、この葛野王が生まれてから、天智天皇はやっと大友皇子を後継者とすることを決意したとされている。つまり、可愛い孫の顔を見て、もう、天下を弟の天武天皇に渡すのが惜しくなって、子の大友皇子を天皇としたとされている。そこには、その後継者が天武天皇の血を引く葛野王であるなら、天武天皇も了解してくれるのではないかという思惑が天智帝にあったのではないかと推測されるのである。この大友皇子と十市皇女を結びつけたのは、額田王ではなかったかと推測される。自分の前の恋人の間の子である十市皇女と後の恋人の天智帝の子大友皇子を結びつけば、不仲の天武と天智も上手く行くと考えたのであろう。しかし、この計算は、あの意志の強い、誇りの高い持統天皇(天智天皇の娘で天武天皇の妃となった人)の存在を無視することになったのだ。皇位継承をめぐって夫・大海人皇子と父・天智天皇の仲が悪化していた。大海人皇子は東宮(皇太子)を辞し、天智の死後は大和国吉野に逃れた。持統は大海人皇子とともに吉野へ落ち、壬申の乱の間、吉野で過ごした。持統は、夫が即位するとその皇后となった。
(画像は、飛鳥の春の額田王。安田靫彦(やすだゆきひこ)筆。大化の改新から壬申の乱にいたる古代の激動期の英雄、天智天皇と大海人皇子・・この二人の兄弟の愛をうけた宮廷のヒロイン額田王は万葉随一の女流歌人として知られる。画像は、日本史探訪、角川文庫より)
参考:
天武天皇 -Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/天武天皇
千人万首―よよのうたびと―
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin_f.html
第39代弘文天皇
http://inoues.net/ohtu/koubuntenno.html
15.天智と天武は兄弟ではない!! 真説・壬申の乱
http://inoues.net/ohtu/koubuntenno.html
大海 人 と 天 照
http://www31.ocn.ne.jp/~denkidensetu/ddk/kou15.htm
歴史教科書問題1
http://www1.ocn.ne.jp/~sinryaku/kyoukasyomondai.htm
心の経営コンサルタント(中小企業診断士)白倉信司の月刊コラム第78号
http://csk.web.infoseek.co.jp/koramu-73.html
白村江の戦い - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%9D%91%E6%B1%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
大日本史 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2

ニューヨークの世界貿易センター爆破事件 のあった日

2007-02-26 | 歴史
1993年の今日(2月26日)、ニューヨークの世界貿易センタービル(WTC)の地下駐車場2階で爆弾を積んだ車が爆発した。コンクリートの壁を突き破って4階層に渡り幅30mの穴が開いた。爆発により6人が殺害され、少なくとも1,040人が負傷したという。死者7人
この爆発事件を起こした犯人は、イラク国籍の偽造パスポートでアメリカに入国したヨーセフと言う男であるが、彼の計画していたような、タワーの倒壊は起きなかったといわれる。それは、タワーの強度が爆弾による破壊にまさっていたためであるが、爆発により、貿易センターの電気系統や電話回線もすべて寸断され、その煙は両方のタワーの93階にまで上昇して、4つある吹き抜け階段に充満し、緊急時に点灯した照明を覆った。そして、この事件を起こした犯人ヨーセフは、数時間後にパキスタンに向けて逃亡したといわれる。
この事件の実行犯はイスラム原理主義過激派であるが、その背後で国際反米テロ組織アルカイダオサマ・ビンラディンが関与したとされている。死傷者の数は比較的少なかったが、この事件はアメリカ合衆国に大きな衝撃を与えた。その後の捜査から一年後、4人のテロリストが有罪の判決を受けた。
この事件の背景には、1991年の湾岸戦争において、クウェートに侵攻したイラク軍をアメリカを中心とする多国籍軍が撤退させたことがある。アメリカ軍はその後も中東に展開しつづけ、「中東の憲兵」のようなその振る舞いは、反米勢力、特にイスラム原理主義の過激派を刺激するものとなった。この対立の構図は解消されることなく、2001年にはアメリカ同時多発テロ事件が起きている。
1993年2月26日の爆破事件後、6人の犠牲者を悼む御影石の記念碑が、二つのタワーの中間、ちょうど爆発のあった真上に立てられていたが、この追悼碑も、この2001年9月11日、テロ攻撃を受けた世界貿易センタービルの崩壊により無くなってしまった。
この事件の顛末については、Wikipediaの○ 爆破の準備 爆弾の製造 ビルの爆破 事件後 に詳しく書いてあるのでそこを読まれるとよい。
2001年9月11日の「アメリカ同時多発テロ事件」、俗に「911事件」と呼ばれているものは、イスラム過激派によってハイジャックされた4機の大型ジェット旅客機が、アメリカ国内の複数の地上施設めがけ意図的に激突し、甚大な被害を及ぼしたテロ事件である。この無差別テロ事件の犠牲者は、すべての死者を合計すると2973人とされている。内訳はハイジャックされた4機の旅客機の乗員・乗客が246人、アメリカ国防省で125人。世界貿易センタービルで2602人とされている。テロ事件としては史上最大の被害となった。この事件の世界貿易センタービルへの衝突の瞬間は、フランスのテレビ局から取材に来ていた兄弟のカメラが偶然にも撮影しており、のちに日本を始めとする各国で放送され、世界中の人に衝撃を与えた。
2004年11月はじめ、サウジアラビア人のオサマ・ビンラディンがビデオを通じて「モハメド・アッタを通じて犯行を指揮した」と証言。
この事件がアメリカ国民に与えた衝撃は当然大きかった。冷戦終結後、世界で唯一の軍事超大国としての絶対的な存在感を有していたアメリカが、他国から攻撃を受けることについて、アメリカ国民は強い衝撃を受けた。またアメリカがこれほどの衝撃のある武力攻撃を受けたのは、真珠湾攻撃以来であることを強調する論評も見られた。
この事件後、アメリカは対テロ戦争と称して、アメリカのアフガニスタン侵攻イラク戦争へと向かっていったのである。
この911事件のハイジャック実行犯ととして、米国に名指しされる19人のうちの4人が、米フロリダ州にある海軍航空隊のペンサコーラ基地に住み、米軍から飛行訓練を受けていたことが、アメリカワシントンポストなどで報じられていた。
そして、以下参考田中宇の 「サウジアラビアとアメリカ(中)」にも書かれているが、、同じ様な事を報じているニューズウィークでは、サウジ人実行犯のなかには、アラバマ州の軍の教育機関で戦略論を学んでいたのが1人と、テキサス州の空軍基地で語学研修に参加したことがある人物が1人いる。また、911事件から3日後の昨年9月14日には、ニューヨークタイムスとナイトリッダー通信社が、事件の主犯格とされるエジプト人モハマド・アッタは以前、アラバマ州の空軍基地にある国際将校学校に在籍していたと報じている」そして、その後、事情があってこの件に関する報道はされていないようだが、これが事実とすると、「米軍は、サウジアラビア人を中心とするアラブ人の「テロリスト」たちに、飛行機の操縦方法などの訓練をほどこした疑いがあるのだが、それについてはきちんとした否定や釈明が行われていない。」・・・と言うのである。
それに、「米当局が、アラブ人にわざとテロをさせた疑いがあるのは、911事件に始まったことではない。1993年に起きた「世界貿易センタービルの爆破事件」や、1995 年のオクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件でも、同様の自作自演的な疑惑が浮上した。」・・と言う。又、1993年の世界貿易センタービルの地下駐車場での爆発事件では、その後の捜査から、4人のテロリストが有罪の判決を受けたことは、前に書いたが、このときほかの構築物を標的にした第2・第3の爆破テロも計画されていたことが分かったが、この爆破テロ事件の首謀者は、ほかにいた可能性が大きい。それは、エマド・サレム(Emad Salem)というエジプト人の元軍人で、彼はFBIに密告者(諜報員)として雇われ、爆破事件の約1年前にラーマン師の支持者組織に潜入し、軍人だった経歴を利用してラーマンの身辺警護を担当するようになった。その上で、サレムは貿易センタービルなど一連の爆破テロ計画案を自ら立て、ラーマン師やその支持者を誘って実行しようとした。・・・また、1995年の爆破事件も同様だ・・・」と言うのである。
そして、「もし米当局が各テロ事件の発生に関与したのなら、その目的は何だったのか?・・・これについて、一つ思い当たるのは「米当局の中に、米ソ冷戦に代わる世界対立として、アメリカとイスラム世界との長期間の対立が今後起きることが望ましいと考えている人々がいるということだ」・・・と言うのだが、もしそのようなことがあったら本当に恐いことだよね~。
しかし、今のアメリカのイラク戦争後の状況を見ていると、アメリカとイスラム世界との長期間の対立は、現実の問題として起こりそうだ。
以下参考の「田中宇の国際ニュース解説」の中の「やはり仕組まれていた911」や、 「サウジアラビアとアメリカ(中)」「オクラホマ爆破事件と911(1) 」「すでに米イラン戦争が始まっている?」などタイトルを見ただけでドキッとするような記事が掲載されている。田中宇 は、元共同通信社にもいたことのあるフリーのジャーナリスト。いずれに属そうが、ジャーナリストというものは、事実に対する現状や意義、展望を報道する専門家であるとされるが、本人の倫理観や見方に基づくため、まず個々のジャーナリスト自身を理解した上で記事などを理解することが重要である。従って、これらの記事も、その点を念頭に置き、読むことが必要であるが、面白い記事ではある。田中宇については、以下参考の田中宇 - Wikipedia を参照されると良い。
私など、現役時代、尊敬する先輩からのアドバイスで、新聞などでも、俗に言われる左寄りと右より両方を読むように心がけている。今は、情報化の時代である。情報が氾濫している。その中から、何が真実かを見分けるのは容易ではない。必要な事は、いろいろな人の意見を聞き、多角的にものを見、どちらにも偏らないようにバランス感覚を維持する事である。これが、なかなか、難しいことなのだよね~。
(画像は、在りし日の世界貿易センタービル。フリー百科事典Wikipediaより)
参考:
世界貿易センター爆破事件 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E8%B2%BF%E6%98%93%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E7%88%86%E7%A0%B4%E4%BA%8B%E4%BB%B6
[PDF] 世界貿易センタービル
http://shippai.jst.go.jp/fkd/Detail?fn=2&id=CA0000265
田中宇の国際ニュース解説
http://tanakanews.com/
田中宇 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9
サウジアラビアとアメリカ(中) /田中宇
http://tanakanews.com/c1126saudi.htm

夕刊紙の日

2007-02-25 | 記念日
今日(2月25日)は「夕刊紙の日」
1969(昭和44)年の今日(2月25日)、日本初の駅売り専門の夕刊紙『夕刊フジ』が創刊した。
夕刊紙とは、夕刊を専門に発行する新聞のこと。夕刊専売紙とも言う。現代では、一般に店頭販売を原則とし、勤務終了後に帰宅するサラリーマンを主な想定読者とした小型サイズ(タブロイド判)のものが多い。
タブロイド(tabloid)判は、普通の新聞紙(「ブランケット=blanket、スタンダード判」)1ページの半分のサイズで、語義としては「要約し、圧縮した」という意味があり、歴史的には、19世紀に、アメリカで大衆向けに発行された小型廉価の新聞がこのサイズで、これがタブロイド新聞とよばれるようになったそうだ。このタブロイド新聞の特色は、大衆向けであることから記事は短くわかりやすい表現で、写真やイラストが多用され、かつ、街売りという点にあったが、アメリカの『デーリー・ニューズ(The Daily News)』、イギリスの『デーリー・ミラー(The Daily Mirror )』がタブロイド判新聞として有名である。
日本では、日露戦争を開戦しようとする動きに対して非戦論を主張していた『萬朝報』が、社論を開戦論へと転換したときに、非戦論を訴えつづけていた同紙記者の幸徳秋水(こうとくしゅすい)や堺利彦(さかいとしひこ)らが、非戦論の主張を貫くために朝報社(『萬朝報』の発行社)を退社し、1903(明治36)年10月、平民社を結成、翌11 月、社会主義運動の最初の機関紙的役割を果たした週刊『平民新聞』が発行されたが、これがタブロイド判であった。商業紙としてのタブロイド新聞は、第2次世界大戦後の1946(昭和21)年に創刊された『サン写真新聞』がこのサイズであった。当時の新聞は太平洋戦争発生以後、規制されていた夕刊が再開したものの、当時は政府当局の指導もあり製紙事情から新聞の増ページが認められなかったので実質上夕刊の発行ができなかった。その為全国紙の系列という形で夕刊専売紙を発行したが、サン写真新聞も毎日新聞の系列夕刊紙として発行されたものである。新聞のタイトルが示すとおり、一般全国紙と違うのは写真記事を中心にした構成で、戦後復興を目指そうとする日本の表情を写し出す紙面づくりを目指した。1960(昭和35)年に廃刊されたが、その後創刊された夕刊フジ日刊ゲンダイなどの夕刊タブロイド専売紙に大きな影響力を与えた。
夕刊フジは、1969(昭和44)年の今日(2月25日)、日本初の駅売りタブロイド判夕刊紙として創刊した。創刊当初は同社の子会社であるフジ新聞社からの発行だったが1987(昭和62)年にサンケイスポーツ新聞社と共に、産経新聞社と合併。
創刊当初から見出しにオレンジ(橙)色を採用したことから「オレンジ色のニクい奴」というキャッチコピーが付いた。創刊号の1面を飾ったのは、「慎太郎新党躍り出る」の見出しと、石原慎太郎参議院議員(現・東京都知事)の若々しい姿であった。以下で当時の若々しい石原慎太郎氏の姿が見れるよ。
夕刊フジ10000号!→http://www.zakzak.co.jp/info/10000-fuji.html
2002(平成14)年3月30日、産経新聞が東京本社管内で夕刊の発行を廃止したのに伴い、東日本ではフジサンケイグループで唯一の夕刊紙となった。同日、産経系列の大阪新聞が廃刊となり、関西版では大阪新聞に代わる形の新聞として、阪神タイガース関連の報道など関西のニュースに力を入れているそうだ。
現在,代表的な夕刊紙には、この夕刊フジのほか日刊ゲンダイや、東京スポーツなどがある。これらの新聞の紙面構成としてはスポーツ新聞に近いが、記事のウェイトはスポーツよりも娯楽が中心で、性風俗関連記事も多い。ニュース解説は、時として硬派の新聞と比較して鋭い切り込みをしていることもあるが、ほとんど誇張や煽情的な表現である。
さて、少し、日本の新聞の歴史を振り返ってみると、1862 (文久2)年に日本初の新聞として官板バタビア新聞(以下参考のふたつの「バタビア新聞」参照)、英字新聞としてナガサキ・シッピング・リスト・アンド・アドバタイザーが刊行され、明治には、1868(慶応4)年、国内のオリジナルな情報を掲載する中外新聞、江湖新聞が、1870(明治3)年には日刊紙である横浜毎日新聞が創刊された。1872(明治5)年には東京日日新聞(ここ参照)、郵便報知新聞などが創刊。1874(明治7)年に讀賣新聞、1879(明治12)年に朝日新聞が創刊。
1894(明治27)年からの日清戦争、1904(明治37)年からの日露戦争の戦時報道など論説中心の報道であったがその後、論説中心から報道取材が行われるようになる。「郵便報知新聞」は1894(明治27)年、大衆紙に転向するとともに「報知新聞」と改題。1906(明治39)年には夕刊の発行を開始する。これが、日本初の定期夕刊新聞 の発行である。
「報知新聞」は、明治末から大正にかけて東京で最も売れた新聞で、東京五大新聞(東京日日・時事新報國民新聞東京朝日・報知)の一角であった。
誰が書いたか分からないらしいが、明治末年の東京の朝から夜更けまで夏の1日の庶民の生活ぶりを41枚に描いた絵巻が残されており、その中に、夕涼み客を当て込んだ新聞の夕刊うりの姿が描かれており、脇に、報知新聞夕刊一銭と書かれている。(此処に掲載の画像を参照)
以下参考の「松本六郎翁自伝「私の苦闘時代」」のエッセー「2.生誕から小学校時代[夕刊売りの少年]」の中に書かれているが、当時の流行歌に「なんだかんだの神田橋、朝の五時頃見渡たせば、破れた洋服に弁当箱下げて、てくてく歩くは月給九円、自動車とばせる紳士を眺め、ほろりほろりと泣きいだす、神よ仏よ聞き給へ、天保時代の侍も今じゃ哀れなこの姿、うちでは山の神がボタンかがりの手内職、十四の娘はたばこの工場、にほいはすれどもきざみをすえぬ、いつもお金の内務省、かくこそあるなれ生存競争の活舞台」・・・というのがあったそうで、当時の不景気さ加減が分かる。そして、又、貧乏ななかで、同翁は、”義務教育だけは受けたいと、夕刊を売りに出かけることを決意。大阪・高麗橋三丁目にあった大阪時事新報社迄通い。四時頃行き、夕刊を五厘で買って一銭に売った”と書いている。先に紹介した絵と同じだよね。このころ、僅かな収入を得るために街頭で新聞の夕刊売りをしてるいる人が大勢いたのだよ。
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続・夕刊紙の日