今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

教育基本法・学校教育法公布の日

2005-03-31 | 記念日
今日(3月31日)は、「教育基本法・学校教育法公布の日」
1947(昭和22)年のこの日に教育基本法 ( Wikipedia)・学校教育法公布、翌4月1日から施行され、歴史的な学校教育の6・3・3・4制が発足した。
教育 ( Wikipedia)の機会均等、普通教育の普及、男女間の差別の撤廃、理想がまばゆいばかりに新鮮であった。それは、「天皇の御為に一身を捧げよ」と教えた「皇民化教育」からの明らかな決別であったが、戦後間なしのことであり、食べ物も、着るものも、教室も教科書も又、教室も先生もまるで足りず、高々と理想は掲げられていても文字通り、ゼロからの出発であった。神戸は、三菱、川崎などの軍事施設があったので、戦時下米軍の空爆はいよいよ激しくなり、空爆、焼夷弾の嵐、町中が焼かれ、住んでいられなくなり、私達子供だけは、兵庫県高砂の親戚の家に疎開、そこで、幼稚園に行っっていたがそこもすぐに、危険になり、母方の田舎徳島へ疎開。そこで、終戦(昭和20年8月)を迎え翌1946(昭和21)年小学校へ入学。学校へ行くときにはゲートルを巻いて通った。毎朝、このゲートルがきちんと巻けなくてずり落ち、泣きべそをかいていたことを思い出す。まだ、この頃は教育基本法は出来ていない。ただ、終戦から1ケ月後、文部省は「終戦二伴フ教科用図書取扱方二関スル件」という通達を出し、教科書から戦時教材を削除することを決め、戦後の教科書の第一歩は、戦時中の教科書に対する不適切な部分だけを墨で塗りつぶすなどして、削除した「黒塗りの教科書」と言うものが使われた。しかし、私は黒塗り教科書の内容はよく覚えていない。ただ、小学校に入るからといって、カタカナの古臭い本を新しく買ったのではなく、誰か親戚の子が今まで使っていたものを貰い受けて使っていたのを覚えている・・・。というより当時田舎の学校へ行ってやっていたことで、一番記憶に残っているのは、校庭で、芋を植えるなど畑仕事をしていたことだけだ。
翌1947(昭和22)年、地元神戸へ帰り、神戸の小学校へ転校。神戸の街は焼け野原で、街中なのに、私の家の周りには10件ほどの家しかなかった。転校した神戸の小学校の校舎も、田舎の学校とは異なり、空襲で大きな被害を受け、窓ガラスも破れたたままで、冬でも吹きさらしであった。学校へ通う子供も学生服どころか服装はまちまち、継ぎ接ぎだらけのズボンを穿いている子が多く居た。学校の先生も服の先生もおれば、着物に袴姿の先生もいた。いい加減な先生などは、教員をしながら家で商売もしており、商売が忙しい時は、学校の授業もいい加減にしているような先生が居た。先生も、給料だけでは生活が苦しかったのだろうが・・。それほど、皆が貧しかった。
教育基本法が制定され、新教育が始まった。たしか、この時から、今までカタカナ教育をされていたのに、急に、ひらがな教育に替わったのですごく戸惑ったことを覚えている。とにもかくにも、こんな貧しい状況下で、急遽、新教育は始まったのである。
そして、戦後、約60年を経過して、今、教育基本法の見直しが叫ばれている。
豊かな時代になって、個性化も進んでいる。戦後、出来た教育基本法も、連合国軍の占領統治の下、大日本帝国憲法下での最後の議会となった第90回帝国議会によって、日本国憲法や学校教育法などとともに急遽制定されたものであり、こんなに長い期間適用されることを前提に作られたものでもないだろう。当然、時代も変わったので、改定すべき点は改定すべきと思う。
専門家でない私には、教育現場のことはよく分からない。ただ、自分たちが、教えられてきたことを思い出しながら、現状を見ていると、学校教育では、戦争を起こした日本は悪いが、とくに、歴史などにおいては、なにか、日本の問題点ばかりを小さい頃から教え込まれていたように思う。「個人の尊厳」ばかりが強調され、「国民としての尊厳」が軽視されていたようには思う。又、戦前の道徳をある面で良しとしないことは、理解出来るものの、それでは、一体何を持って、日本人の規範とすれば良いのか。西洋には、キリスト教と哲学がある、東洋の他の国には仏教がある、しかし、日本は、宗教は根付いていない・・というより教育の場では排除している。又、戦後のような貧しい家庭は少なくなり、国民の大半が高等教育を受けるようになったものの、女性の社会進出も重なり、家庭での教育も疎かになってはいないだろうか・・・。今の時代に適応した新しい教育法を真剣に見直すことはよいことだろう。
(画像は黒塗り教科書)
参考:
tai_iの法律のページ
http://www.geocities.jp/tai_i/law/
CRT栃木放送「開倫塾の時間」
http://www.kairin.co.jp/akio/totigihousou/rajioindex.htm
教 育 ニ 関 ス ル 勅 語
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/kyouikutyokugo.htm


歌手・笠置シヅ子

2005-03-30 | 人物
1985(昭和60)年の今日(3月30日)は 歌手・笠置シヅ子の忌日。
1914(大正3)年8月25日生まれ。香川県出身。1927(昭和2)年大阪松竹楽劇部に入団。三笠静子と名乗り、大阪松竹座『春のおどり』で初舞台。子役としてスタート。1936(昭和11)年『春のおどり』の「春はジャズに乗って」が大評判となり、ジャズ歌手としても認められる。三笠宮家が設立されたので、笠置シヅ子と改名。1938(昭和13)年に東京松竹楽劇団に入る。東京入りしたのは、恋人である吉本興業の御曹司が早稲田の学生だったためとか。しかし、吉本興業の創業者吉本せいの強硬な反対や御曹司の急逝もあって、笠置の結婚生活は長くは続かなかった(このとき既にお腹には一女が)。1947(昭和22)年夏発売の「東京ブギ」が大ヒット。この後「買物ブギ」などでブギの女王となる。軽妙洒脱な芸風で一時代を築き、民衆から支持されていた。
敗戦後、国民を元気付けてくれた歌手の第1号は、1945(昭和20)年封切りの松竹映画「そよかぜ」の主題歌「りんごの歌」(サトウ・八チロー作詞、万城目正作曲)を歌った並木道子だったが、その次が、1947年(昭和22)年12月に同じコロンビアから売り出された「東京ブギウギ」(鈴木勝作詞、服部良一作曲)を歌った笠置シズ子であろう。その強烈なリズムに乗った曲、歌声は、瞬く間に全国に広がり、生活に汲々としていた人々の鬱憤を晴らし、勇気付けてくれた。彼女は、戦前、パンチのきいた地声でジャズを歌い活躍していたが、時局にそぐわないとして軍や警察から公演中止を求められていた。しかし、戦後、服部良一とのコンビの「東京ブギウギ」で復活、日劇のステージのワンマンショーでは1週間に7万人を超す観客を動員する記録を立てた。「東京ブギウギ リズムうきうき 心 ずきずき わくわく」獣の叫びに似たような彼女の歌声。彼女はこの当時立ち姿で歌う流行歌手の型を破って、激しく動き回り、歌って踊った。そこが新鮮だった。この当時、人気絶頂の笠置シズ子の物真似をして一人の少女・美空ひばりが芸能界にデビューする足がかりを掴んだ。しかし、笠置シズ子が、美空ひばりを、自分の物真似をしているとこき下ろしたことも有名な話。自分の持ち歌を他人が歌うことを大変嫌ったのだ。そして、1950(昭和25)年「買物ブギ」は45万枚という驚異的な枚数のレコードを販売したが、この歌を最後に芝居などに活動の場を移してしまった。その後、懐メロブームが来ても「私は時代の歌手だった」と再登場を拒否し、歌を再び歌うことはなかった。もし、もう5年早くテレビが始まっていたら・・・。
笠置シズ子の悲劇は、その全盛期にテレビがなかったことと、美空ひばりという余りにも天才的な少女にあっという間にスターの座を追い越されたことだろう。
♪おっさん おっさん これなんぼ…
       わてほんまに よういわんわ ・・・
大ヒットした大阪弁の「買物ブギ」の歌詞は、現在市販されているもののラスト近くでは「おっさん」の連呼のあと「わて聞こえまへん」となるが、オリジナルは「わてつんぼで聞こえまへん」なのだ。この歌詞に不適切な用語が使われているというので、ある時期よりの復刻では歌詞を一部削除したものが出回っている。
又、余談だが、黒澤明監督・三船敏郎主演の「酔いどれ天使」の劇中、笠置シズ子がキャバレーの歌手役で、「ジャングル・ブギ」を歌っているが、この歌は映画監督黒沢明の作詞によるものである。天才監督は何でも出来るんだね~。
(画像は、ブギの女王 全曲集・笠置シヅ子)
参考:
はてなダイアリー - 笠置シヅ子とは
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B3%DE%C3%D6%A5%B7%A5%C5%BB%D2?kid=82845
ブギの女王 笠置シヅ子
http://teruki.com/shizukokasagi.html
買物ブギ・歌詞
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/kaimonobugi.html
笠置シヅ子全曲集 ( COLUMBIA : 72CA-2894 / 96 ; 3CDs )
http://pseudo-poseidonios.net/portraits/kasagi.htm
笠置シヅ子出演映画
http://www.jmdb.ne.jp/person/p0063010.htm

肉の日

2005-03-29 | 記念日
今日は29日で「肉の日」・・・語呂合わせの記念日です。本当は2月9日が肉の日かな・・・?今日余り、書きたい話題がないので、これを選んだ。
肉といっても色々あるが、普通は、【牛肉】のことを言うよね。
【牛肉】は、良質なたんぱく質の供給源。
牛肉には脂質・たんぱく質・鉄が豊富に含まれており、特徴としては鉄が豚肉よりも多く含まれている事。肉に含まれるたんぱく質は私達の体を構成するのに不可欠な必須アミノ酸を含んだ良質なたんぱく質で抵抗力をつけるのに効果的。ただし動物的脂肪にはコレステロール上昇作用があるので食べ過ぎないよう、適量を摂取するようにする必要がある。(食育大辞典より)
よく日本人は、草食人種だなどと言われるが、古来、人間の食生活は肉食から始まったといわれ、日本人も古来食べていたのだが、仏教の殺生戎の影響による肉食禁忌は、一種の迷信化して長く日本人の食生活を縛っていた。それが、幕末の開国と共に来日した外国人が居留地などで肉食をするようになり、肉食は一挙に公然化した。このことは、私のこのBlog「明治天皇が初めて牛肉を試食 された日」にも書いてあるので見てください。兎に角、このころから、日本人が好んで肉を食べるようになった。しかし、肉は高いので、なかなか普段は食べられなかった。その肉が、今のように、安い価格で、毎日食べれるようになったのには、スーパーの影響が大きいね~。戦後、高くて食べたくても食べられない肉を、目玉に安く売り出したのが、スーパーのはしりのダイエーであった。ダイエーは、この肉の安売りを戦略にして、当時の庶民に人気を得たのである。そのダイエーも、今は落ち目であるが、功績は大きい。
最近、この肉の表示問題で色々問題になっていたが、最近は、BSE問題でアメリカ牛の輸入禁止をしていたのに対し、アメリカは、輸入禁止解除を要求。日本政府が国内で行っているのと同様の全頭検査をアメリカが行わない限り、輸入再開を認めない立場をとっていることに対し抗議しているのである。これは、少し、おかしい。買う側の国の消費者がそれを求めているのだから、売る方は、買い手の意向を組み入れて提供するのが当たり前である。
ただ、日本の場合は、何事においても神経質になりすぎて、外国人から見れば、何故、そこまで・・・と思うようなことも多いだろう。現に、日本で行われている消費期限などでも、アメリカなどと比較すると厳しすぎる面がある。それが、結局はコストを高めていることにもなるのだが、国民が、コストよりも、それを望むのならそうせざるを得ないだろう。
アメリカ産牛肉を日本が、アメリカの検査体制だけでは輸入できないといった場合、WTO提訴もちらつかせているが、横暴もはなはだしい。しかし、考えようによっては、アメリカ人だって、牛肉を食べて死にたい人が居るわけではなく、又、現行の検査体制の下で、アメリカ人がBSE問題で死んだという話を最近聞いたこともない。
アメリカと日本とは友好国であり、トラブルを避け、どちらの顔も立てて、上手く行くようにするには、輸入は認め、その代わりに、牛肉安心確認システム「トレーサビリティー」を、法律で義務づけ徹底すればよい。要するに、消費者に、アメリカ産の牛肉を買うか買わないかを選択させればよいのである。自由主義とは、そう言うものだろう。その代わり、選択するための確かな情報を与えるようにすればよいのである。
「トレーサビリティー」については、今や流通業ではダイエーにかわり、トップ企業となったイオンの、牛肉安心確認システム「トレーサビリティー」を見ると良く分かる。
そして、今までのように、表示を偽っていたような、悪質な業者には、厳しい罰則を与なければいけない。これからの消費者は、お上には、情報の開示をきっちりと求め、それ以外のことは何でもお上に頼らず、自分で選択し意思決定するようにしなければいけないだろう。それは、もう、牛肉の選択問題だけでなく、サラリーマンの年金問題にしても、自分の将来のための退職金をどう運用するかも自分で決めなくてはならない時代が来ているのと同じことである。これからの時代は、すべて、自己責任で行動する時代だと思う。
(画像は、食育大辞典より借用)
参考:
Apron 牛肉特集号|トップページ(全農ホームページ)
http://www.zennoh.or.jp/ZENNOH/TOPICS/APRON/0112beef/
Yahoo!ニュース - 日本のBSE対策
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/bse_measure_in_japan/
牛肉関連情報について(農林水産省ホームページ)
http://www.maff.go.jp/beef/top.htm
牛肉輸入、「日米関係に悪影響」 米国務長官が言及
http://www.asahi.com/politics/update/0319/006.html
アメリカ産牛肉の全面的輸入再開を望むあなた。 ...
http://kaikin.jp/
吉野家|米国産牛肉の輸入禁止措置に関する ...
http://www.yoshinoya-dc.com/news/bse_top.html

シルクロードの日

2005-03-28 | 記念日
今日(3月28日)は「シルクロードの日」
1900(明治33)年、スウェーデンの探検家・地理学者のスヴェン・ヘディンによって、廃虚になっていたシルクロードの古代都市・楼蘭が発見された。
以前にNHK特集「シルクロード」が放送されて25年、今年1月から、NHKスペシャル 『新シルクロード』の放映が始まっている。今回はパラグライダーを使っての低空撮影や最新鋭高性能カメラでの文物撮影などハイビジョンを活かした厚みのある映像が売り物だ。又、25年前の音楽は喜太郎だったが、今回は世界的なチェロ奏者、ヨーヨー・マが担当している。 ヨーヨー・マのチェロは、時空の境界を越えた雄大な音楽で、本当に素晴らしい。
ここのところ、NHKは色々問題を起こし世間を騒がせている。私も最近NHKに好感はもっていないが、やっぱりこのようなスケールの大きなドキュメンタリー番組ははNHKでないと作れないよね~。各国の博物館・美術館に所蔵されている壁画の撮影なども含めてすごいお金がかかるだろうからね~。昨年末の人気取りのマツケンサンバのようなものを視聴料を払ってまで見る気はしないけど、このような良質の番組を作ってくれるのであれば、ちゃんと視聴料を払ってもいいとおもうよ。
シルクロードと言うのは、当時は、漢代の中国と西域の国々を結んだ交易路のことを指していた。中国から絹(シルク)製品が輸出されたのでこう呼ばれている。ドイツの地理学者リヒトホーフェンが、内陸アジアを通るオアシス・ルートを「ザイデンシュトラーセン」と命名。これを受けて、スエーデンの探検家スヴェン・ヘディン(1865-1952)やイギリスの探検家マーク・オーレル・スタイン(1862-1943)が「シルクロード」という語を使用して一般に普及したという。この言葉が、やがて古代ローマに至る道にまで拡大視され、西安(長安)とローマというユーラシア大陸の東西を結ぶ道の総称として用いられるようになったそうだ。西域とは中央アジアの東半分、およそ中国の新疆ウイグル地区を指し、ここを通るシルクロードは、かつて玄奘三蔵が経典を求めてインドへ向かった『西遊記』の道でもあったのだよね~。19世紀後半、人を寄せ付けない沙漠と思われていたこの地から、楼蘭や敦煌などの遺跡やすばらしい仏教美術が次々と発見・発掘され始め、世界の注目を集めるようになり、各国から多くの探検家がこの地方を訪れ、調査を行っている。近年は、オアシスルート以外にも海上路(マリンルート)の重要性も認められ陸路に対して「海のシルクロード」とも呼ばれている。なお、シルクロードは、15世紀の大航海時代以降は、大量輸送を可能にした海上路に主力が移り、オアシス・ルートは衰退していき、ヨーロッパ人にとって19世紀までは殆ど謎に包まれた地域であった。
このシルクロードという言葉には、神秘的な響きがあり、悠久の歴史のロマンを感じさせるね~。
ところで、日本のシルクロードをご存知ですか。いろんなところで、シルクロードの名が使われているが、先ず、一つは、日本書紀に、推古21(612)年11月のこととして「難波より京(みやこ)に至るまでに大道(おほち)を置く」とあるのがそうだよ。もと奈良の東大寺にあった校倉造(あぜくらづくり)の倉庫・正倉院宝物の世界性から正倉院が「シルクロードの終着駅」などといわれたりする。無論言うまでもなく、本当の終着駅は唐であるが、正倉院の宝物にはさまざまな異国要素のものが融合されており、特に舶載(はくさい)のガラス器などは、はるばるシルクロードを運ばれてきた品として有名である。この大道(おほち)が、ユーラシア大陸の異文化、異文明を、奈良の飛鳥に導き入れた日本最古の中央道路であったことは間違いないだろ。
それと、もう一つ、本物の日本のシルクロード(絹の道)がある。文化庁の「歴史の道・百選」にも選ばれている「絹の道」は、安政6年(1859年)に始まったといわれている。横浜に港が開かれ、開港の翌年の1860年(万延元)、甲州商人の伏見屋忠兵衛が横浜・本町の芝屋清五郎を介し、海岸七番のイギリス人ロスバルベルに売ったのが生糸取引の最初とされているらしい。その後外国人達が極めて絹を好むことが解り、生糸は、戦前まで我が国の輸出の中心製品となった。当時、生糸の産地としては上州、甲州など関東山間地が中心で、そこで生産された生糸等の集散の中心地が八王子であった。ここから商人の手によって横浜港まで運ばれた約35kmの道が絹の道であり、今、「日本のシルクロード」と呼ばれている。世界史上の「シルクロード」とはスケールも役割も異なるが、日本近代史上においては重要な道であったところである。開港2年目からの約6年間位は、横浜港からの輸出の中、生糸の占める割合が常に7割以上、時には9割にも達していたということである。
(画像は、NHKスペシャル 『新シルクロード』より)
参考:
シルクロード - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%89
NHKスペシャル 『新シルクロード』放送80周年 日中共同制作
http://www.nhk.or.jp/silkroad/
西域探検の世紀
http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/4307760/top.html
NHKプロモーション - NHK Promotions Home Page
http://www.nhk-p.co.jp/tenran/silkroad/
シルクロード紀行(北海道新聞 DOSHIN ホームページ )
http://www.aurora-net.or.jp/doshin/silkroad/
宮内庁:正倉院ホームページ
http://shosoin.kunaicho.go.jp/treasure/shousouin/shousouin/shousouin.html
地理写真 絹の道
http://bungakubu.kokushikan.ac.jp/chiri/Photo/2000may/2000may.htm
横浜の歴史
http://homepage2.nifty.com/351217/yokohama-histury.htm

唐人お吉が川に身投げし絶命した日。

2005-03-27 | 人物
1891(明治24)年3月27日の今日、米国総領事ハリスの小間使い・唐人お吉が、川に身投げし絶命した。
名もないこの街に 異国の陽がのぼる
乙女は悲しみを 御国(みくに)のためと知る
春はまだ夜は長く 金鳴る了仙寺
運命(さだめ)と泣くもよし 儚(はかな)き世の情け・・・。
これは、サザンオールスターズの「唐人物語(ラシャメンのうた)」(作詞・作曲:桑田圭祐)の歌詞である。ここに歌われている乙女は、下田が生んだ悲劇のヒロイン"唐人お吉"こと斉藤きちのことである。
嘉永6年、突如、ペリーが浦賀に来航し、泰平の夢を貪っていた。江戸幕府に日米和親条約の締結と下田、函館の開港を迫り、翌年これを締結した。そして、安政3年には下田に着任したハリスによって、日米通商条約の締結を迫られる。
対応に苦慮した下田奉行は交渉の進展の為、又、米側の懇請もあり、ハリスの看護人として、新内お吉と呼ばれる名妓お吉を差し出すことを決めた。お吉は、はじめきっぱりと拒絶するが、奉行所の役人や名主は無論のこと、言い交わした船大工の鶴松にまで説得されて、泣く泣く領事館の置かれた玉泉寺に通う事を承知する。
必死のご奉公であった玉泉寺通いは、短期間で済んだのだが、そんなお吉を世間は、唐人お吉、異人の女房などと白眼視して迫害するのだった。
新内お吉と呼ばれたその腕だけを頼りに下田を捨て、転々として横浜に流れついたお吉は、尾花うち枯らした鶴松と再会し、二人で一からやりなおそうと手を携えて、下田に戻ってくるのだが・・・・これは、文学座公演「女人哀詞・唐人お吉ものがたり」のチラシ案内文である。
「唐人お吉」の物語は、古くから小説や演劇・映画などに取り上げられた。
お吉はこの玉泉寺通いが原因となって、人々のお吉に対する蔑視と嘲笑に耐え切れず、酒に溺れ、世間から孤立し、その後は、幕末、維新の動乱の中、芸妓として流浪(るろう)の果てに下田にもどり、鶴松と暮らし髪結業を始めたが、ほどなく離別。さらに小料理屋「安直楼」(あんちょくろう)を開業したが、2年後に廃業。「唐人」という相も変わらぬ世間の罵声と嘲笑をあびながら貧困の中に身をもちくずし、1891(明治24)年3月27日の豪雨の夜、遂に川へ身を投げ、自らの命を絶った。波瀾にみちた51年の生涯のあまりにも哀しい終幕は多くの人の涙を誘う。
私は、唐人お吉の話になると、1992年(平成4)年10月13日未明、旅公演先の伊東市で深夜のドライブ中に海へ転落し水死した文学座俳優の太地喜和子さん(48歳)を思い出す。太地さんは文学座の巡業公演で静岡県伊東市を訪れ、前日、同市の観光会館で公演された「唐人お吉ものがたり」に主演。公演を終え、スナックで飲んだ後、「海を見よう」と乗用車で観光桟橋に出かける。桟橋に係留していた知人の船を訪れたが誰もいないので車を後退中、誤って桟橋から転落したもの。「唐人お吉ものがたり」は念願の役で、「私の代表作にしたい」と入れ込んでいたものだった。私の大好きな俳優であった。俳優座・杉村春子の後継者といわれていた彼女がなくなったのは日本の演劇界にとっても非常に残念なことであった。下、参考の唐人お吉物語では、1955年頃、堀内天嶺画伯によって描かれ、絵葉書となったものを、デジタル画像処理を施し、紙芝居調に構成したものを見せてくれる。是非、綺麗な画像で紙芝居を見るような気分で楽しまれることをお勧めします・・・。
(画像は、文学座公演「女人哀詞・唐人お吉物語」のチラシ。お吉=太地喜和子)
参考:
唐人お吉
http://www.izu.co.jp/~p-boo/okichi.html
唐人お吉記念館(静岡県>
http://www.jalan.net/kanko/SPT_162791.html
唐人お吉物語 宝福寺
http://www4.i-younet.ne.jp/~hofukuji/
唐人お吉物語
http://www2.ncc.u-tokai.ac.jp/moon/public_html/p1.html