今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

税関記念日

2013-11-28 | 記念日
今日11月28日は「税関記念日」である。大蔵省(現在の財務省)が1952(昭和27)年に制定。
記念日の日付は、1872(明治5)年のこの日、運上所の呼称を「税関」と改め、ここに税関が正式に発足したことによる。
税関では、この11月28日を「税関記念日」として、全国各地の税関では、この日を中心に、広く税関の役割や業務について理解を得るとともに、税関業務への協力を求めるため、様々なイベントを開催している(※1参照)。

税関(英::Customs)は、日本国においては財務省地方支分部局として置かれる国の機関であり、函館、東京、横浜、名古屋、大阪、神戸、門司及び長崎の8税関のほか、沖縄地区税関が設置されている。(税関の管轄区域参照)
そして、関税及び内国消費税(※2、※3参照)等の徴収、輸出入貨物の通関密輸の取締り、保税地域の管理などを主たる目的・業務としている。
ときおり、出入国管理国境の警備をする機関と思われる事もあるようだが、そのような業務は日本の場合は法務省入国管理局が行う。税関は、国際的な物流の管理に関与する必須的な機関なのである。
冒頭掲載の画像は、税関のロゴ。画像は※1:税関ホームページより借用。このデザインは、中央に航空機、船、ゲート(門)を組み合わせ、従前のロゴマークにあった"関"の字を引き継いでいるそうだ。また、ゲート(門)の中の秤は公平を、鍵は保全を意味し、税関の役割を図で表現するとともに、3つの桜が税関の使命(安全・安心な社会の確保、関税等の適正・公平な課税、貿易の円滑化)を示しているのだという。
尚、このロゴマークは、神戸税関職員がデザインしたもので、平成19年(2007年)11月1日から全国の税関で使われているそうだ。

実は、「税関記念日」のことは、このブログで以前に簡単に書いたことがある(ここ参照)。だから今回は2度目であるが、今回、税関は日本の開港と同時に設置されたものであり、設置された当時の日本の歴史を振り返りながら、税関設立の経緯を書いていくことにする。
日本において、徳川幕府は世界史的にみて脅威的な安定社会を生み出していた。良きにせよ悪しきにせよ、近世に至ってこれほどの長期政権は例が無い。
200年以上に渡って鎖国政策(近年の研究参照)を続けていた江戸時代には、長崎の出島が日本と外国を結ぶ唯一の港であった。
しかし、18世紀後半になると、異国船が次々訪れ、武力を背景に日本に正式な通商を求めてきたが、江戸幕府はこれを拒絶し続けていた。
又、文化8年(1811年)のゴローニン事件、文化5年(1808年)のフェートン号事件のような摩擦・紛争をきっかけに異国船打払令が出され、逆に非武装商船に対する発砲事件(モリソン号事件)への反省から薪水給与令が出されるなど、幕府の対外政策は揺れ動いていた。
しかし、嘉永6年6月(1853年7月)、蒸気船を配備した東インド艦隊を引きいたペリーが、浦賀沖に来航(黒船来航)し、開国を求めるアメリカ大統領国書を提出した後、日本を離れ、翌嘉永7年1月(1854年2月)、ペリーは国書の返答を求めるため、再び浦賀へ来航した。
国中が、開国か攘夷(攘夷論参照)かの対応をめぐり議論が大いに沸騰しているなか、嘉永6年(1853年)、第12代将軍・徳川家慶が病死したことを受けて、第13代将軍となったばかりの徳川家定(いえさだ)は心身共に虚弱な人物で、到底この国難にリーダーシップを発揮して、立ち向かえる人物ではなく、幕府は、諸外国の圧迫に対し確固とした方策を持って望む事ができなかった。
しかも、既に大英帝国清帝国が争った結果(アヘン戦争)、天保13年(1842年)には、南京条約が結ばれていた。そういう国際情勢に通じている幕府は驚異を感じ条約締結に向うこととなった。
そして、3月幕府は遂に、日米和親条約を締結した。
この条約はアメリカ艦船への物資の補給と漂流民・来航船員の優遇を約束し、その為に下田と箱館(後函館)の2港を開き、かつ日本が他国に対してアメリカに与えていない権益を将来許した時には直ちにアメリカにも同一権益を許すという最恵国条款(参考の★1参照)を与えていた。この最恵国条款は、後の修好通商条約にも引き継がれ不平等条約の内容のひとつとなった。
ここに遂に200年余りにわたって続いた鎖国体制が打ち破られた。ペリー来航によって撃ち込まれた外圧のくさびは、鎖国を基本とした幕藩体制に決定的な影響を与えた。
ペリー来航1か月後に来航したロシア海軍中将プチャーチンによる日露和親条約をはじめ、日英・日蘭条約も結ばれた。
そして、安政3年(1856年)、日米和親条約により、日本初の総領事として下田に赴任したタウンゼント・ハリスによって、翌安政4年(1857年)日米協約(下田条約)が締結された。
ハリスは当初から通商条約の締結を計画していたが、日本側は消極的態度に終始した。しかしハリスの強硬な主張により,交渉担当者の間でアメリカとの自由通商はやむを得ないという雰囲気が醸成されると、江戸幕府は、条約の交渉を開始させた。その内容に関して合意を得た後、孝明天皇の勅許(天皇の許可)を得て世論を納得させた上での通商条約締結を企図する。
しかし、攘夷(鎖国)派の少壮(若くて意気盛んなこと)公家らが抵抗。また、孝明天皇自身、和親条約に基づく恩恵的な薪水給与(薪水給与令参照)であればやむ得ずとの考えもあったようだが、対等な立場で異国との通商条約締結は、従来の秩序に大きな変化をもたらすものであると考え、頑に勅許を拒否していた。
安政4年(1857年)6月攘夷(鎖国)派であった老中阿部正弘が死去後、廃人同様だったともいえる第13代将軍家定の継嗣問題を契機に開国派と攘夷派の対立が一段と激化してくる中、開国派の実力者彦根藩主井伊直弼大老に就任し、独断専行で、徳川慶福(徳川家茂)を将軍継嗣に決定するとともに、威嚇と督促を重ねて迫るハリスに対しては、安政5年(1858年)6月19日、勅許をえないままに日米通商条約を調印(14代将軍徳川家茂の署名)してしまった。
継嗣問題で一敗地にまみれた一橋派(継嗣問題で一橋徳川家の当主・徳川慶喜[のちの15代将軍]を推した一派)は、井伊の違勅調印を理由に一斉に井伊攻撃に立ち上がった。「違勅」に対しては、「尊王」を、「開国」に対しては「攘夷」をとなえ、ここに尊王攘夷つまり、尊攘は反井伊・半幕府のスローガンとなったのである。
公明天皇も、激怒して、攘夷の意向を示し、同年8月には条約調印に不満を示す勅諚(戊午の密約)を水戸藩へ下した。
この将軍の臣下であるはずの水戸藩へ朝廷から直接勅書が渡され、幕府がないがしろにされ威信を失墜させられたことに対し、幕府の危機を見た井伊が徹底的な弾圧策をとったのが安政の大獄であり、このことが桜田門外の変の引き金になった。
安政5年(1858年))6月19日に調印された日米通商条約に続いて蘭(オランダ)、露(ロシア)、英(イギリス)、仏(フランス)などと相次いで通商条約を締結した(安政の仮条約ともいう。安政五か国条約参照)。
条約は神奈川(横浜。下田を閉鎖)・長崎・箱館(函館)の3港が開かれることが決められた。そして、安政6年(1859年)、長崎、横浜及び箱館(函館)の港に「運上所」が設けられ、今日の税関業務と同様の輸出入貨物の監督や税金の徴収といった運上業務や、外交事務を取り扱うことになった。これが税関の前身である。こうして本格的な貿易が開始された。当時貿易相手国は主にイギリスであった。日本からは生糸や茶などが輸出され、毛織物、綿織物や艦船や武器などが輸入された。
この安政五か国条約では、神奈川(横浜)・長崎・箱館(函館)の3港以外にも期限付きで新潟・兵庫(両港)を開港場(条約港)とし、江戸・大阪両都の開市も定められていた。これらの時期は、新潟を1860年1月、江戸を1862年1月、大坂・兵庫を18663年1月と決められていた。
しかし、安政五カ国条約による開港・開市問題はその後の交渉の争点となった。列国の意図するところは自由貿易であった。
後進国にとっては、自由貿易それ自体が不平等を意味したが、そのほかに領事裁判権(外国人犯罪に日本の法律や裁判が適用されないこと。いわゆる治外法権)や関税自主権の欠如(輸入品にかかる関税を自由にきめる権限がなく、外国との協定税率にしばられていること。)、さらには和親条約から引き継がれた無条件かつ片務的な最恵国条款(通商航海条約や通商協定において、最恵国待遇を規定する条項)などが日本を規制した。日本にとって不利な内容を含む不平等条約であった。
金銀交換比率の内外差による金の流出(幕末の通貨問題参照)、外国商人が日本商品(特に絹)を高く購入したことにより生じた物価上昇などが、尊王攘夷運動の激化や一揆、打ちこわし等を招いた。
幕府は物価高騰と流通の混乱を防ぐため、開港から10ヶ月後の万延1年(1860)閏3月、五品江戸廻送令を公布して貿易の統制を図ろうとするが失敗する(※5:「なるほど幕末」の考察・エッセイ>幕末覚え書>4 開国と幕府瓦解(1)開国による経済混乱 参照)など、国内問題が山積していた。さらに、井伊が暗殺された後も朝廷は大坂開市と兵庫開港に猛反発したため、幕府は期日通りの開市開港は無理と見て、諸外国に開市開港延期を申し出る。
アメリカ公使タウンゼント・ハリスは、幕閣とも親しく実情を理解していたこともあり、延期やむを得ずとしたが、英国公使ラザフォード・オールコックは断固反対であった。このため、幕府は欧州本国政府との直接交渉のため、文久遣欧使節を欧州に派遣することとした。

上掲の画象は、文久遣欧使節団の主要メンバー。左から、副使の松平康英(石見守)、正使の竹内保徳(下野守)、目付(監察使)の京極高郎(能登守)、柴田貞太郎(組頭)。
努力の甲斐あって最終的には、文久2年5月9日(1862年6月6日)、開市開港を1863年1月1日より5年遅らせ1868年1月1日とすることを定めたロンドン覚書を英国と交換し、同年8月9日(10月2日)には仏とパリ覚書も締結した(※4参照)。
日本は開市開港の延期を認められたものの、代償として関税の低減化を始めとする貿易の自由化を認めさせられた(ロンドン覚書主な内容参照)。
また、その間の1863年から1864年にかけて長州藩と、英・仏・蘭・米国の四カ国との間に下関戦争が勃発し、敗れた同藩は賠償金300万ドルを支払うこととなった。
しかし、長州藩は外国船に対する砲撃は幕府の攘夷実行命令に従っただけであり、賠償金は幕府が負担すべきとの理論を展開し、四カ国もこれを受け入れた。幕府は300万ドルを支払うか、あるいは幕府が四カ国が納得する新たな提案を実施することとなった。
英国は、この機に乗じて兵庫の早期開港と天皇からの勅許を得ることを計画し、他の3国の合意を得、慶応元年9月16日(1865年11月4日)連合艦隊合計8隻を兵庫に派遣、幕府に圧力をかけた。
これに対し、幕府は孝明天皇が条約の批准に同意したと、四カ国国に対して回答。開港日は当初の通り慶応3年12月7日(1868年1月1日)であり、前倒しされることはなかったが、天皇の同意を得たことは四カ国の外交上の勝利と思われた。また、関税率の改定も行われ、同時に幕府が下関戦争の賠償金300万ドルを支払うことも確認された。
ところが、朝廷は安政五カ国条約を勅許したものの、京都に近い兵庫開港についてはなお勅許を与えない状況が続いた。この兵庫開港の勅許が得られたのは、延期された開港予定日を約半年後に控えた慶応3年5月24日(1867年6月26日)のことである。
第15代将軍に就任した徳川慶喜は2度にわたって兵庫開港の勅許を要請したがいずれも却下され、慶喜自身が参内して開催を要求した朝議を経てようやく5月24日勅許を得ることができたという。
慶応3年12月7日(1868年1月1日)、各国の艦隊が停泊する中、神戸港は無事開港した。
その直後の 慶応4年1月3日(1868年1月27日)、鳥羽・伏見の戦いが勃発した。1月11日(1868年2月4日)、神戸事件が発生し、兵庫港に停泊中の諸艦の水兵が神戸を占領すると言った事件が起こっている。
なお、鳥羽・伏見の戦いに敗れた徳川慶喜はで江戸に脱出。同年4月11日江戸城無血開城に至っている。同年9月8日明治と改元。
江戸幕府を倒した薩摩藩・長州藩を中心とした明治政府も、明治2年(1869年)に政府として改めて開国を決定して、以後は不平等条約の撤廃(条約改正)が外交課題となっていくことになる。
開港場に設けられた居留地制度は、事実上日本の法律の及ばない租界的な様相を帯びていた。
この領事裁判権が問題になったのは明治になってからである(幕末には外国人が被害者になるケースが多かった)。領事裁判権は明治32年(1899年)になってやっと撤廃された(内地雑居の開始)。
この居留地を中心に貿易は開始されたが(居留地貿易)、国内産業の発達に伴って、国内商品と外国商品との競合が始まると、国内産業保護の観点からも関税自主権の獲得は重要課題となったが、その獲得も明治44年(1911年)になってからのことであった。
税関の歴史を辿れば、このように幕末の日本の開国・開港問題から派性たものであることがわかったと思うが、私の生まれ育った、神戸の街は神戸港の開港を期に発展してきたのであり、この機会に、神戸港の歴史とこの港と関係の深い神戸税関のルーツについても少し述べておこう。

六甲山(六甲山系)の連なる山々から大阪湾に至る急峻な地形によって水深が急激に深くなる特徴から「天然の良港」として知られる日本を代表する国際貿易港である神戸港。
その歴史は天平年間、聖武天皇による東大寺大仏殿造営の勧進を行った大僧正行基が築いた大輪田泊(神戸市兵庫区。今の三菱造船所の北側にあった。摂播五泊のひとつ)に始まるが、古代には「務古水門(むこのみなと)」、「敏馬(みぬめ)の浦」と呼ばれ、朝鮮半島の港と交流をしていたことで知られている(※7の兵庫津の歴史参照)。
平安初期に造大輪田船瀬使が置かれ、石椋(いわくら)の築造など修固が加えられた。そして、遣唐使船の 寄港地に利用されたり、平安時代末(12世紀)には近辺の福原に別宮(福原京)を営んだ平清盛がここを重視し、人工島経が島(兵庫島)を築き整備拡張して、日宋貿易の拠点とした。
平氏滅亡後は、源平の争乱で焼失した東大寺大勧進の重源がその事業を引き継いで、修築。
承久の乱後、荘園の発達で年貢輸送船が盛んに往来するようになり、1308(延慶1)年、経ヶ島に兵庫関が置かれるようになった。
その後、元寇の役により大陸との貿易が途絶えるとともに活動が衰えるが、室町時代に入ると国内の海上輸送の拠点であるばかりでなく、1404(応永11)年より、足利義満により開始された日明貿易の拠点として再び国際貿易港としての地位を得、以降ここは国内第一の港として「兵庫津」「兵庫島」と呼ばれるようになる。
当時の 兵庫津の様子は絵巻物『一遍上人絵伝』にも描かれている。以下でその絵が見られる。
絵巻物『一遍上人絵伝 巻第12(模本)』に描かれた「兵庫津沖を行く年貢輸送船」

兵庫津は源平合戦や湊川合戦,でも兵火にあっているが、特に、特に応仁の乱( 文明9年[1467年])では、東西両軍は、兵庫の港からあがる利益(兵庫関から上がる利益)を逃がすまいとして、この地で激しく戦ったため完全に灰燼に帰し、また、この戦乱で瀬戸内海の治安も完全に乱れてしまった。
そのため、堺に繁栄の座を譲った兵庫が再び台頭してくるのは、豊臣秀吉が堺の商人を大阪に移してからであるが、兵庫津は戦国時代にも歴史の舞台の一つとなった。
兵庫津は織田信長や豊臣秀吉らの保護を受け、桶狭間の戦いなどで活躍した池田恒興(諱は信輝) が信長に反旗をひるがえした荒木村重花熊城を攻略、その用材を用いて兵庫城を築き、それを中心に城下町の整備をすすめたことから兵庫の町の発展がはじまった。
江戸時代になると鎖国政策のため外国貿易は途絶えた一方国内経済は安定していた。当時政治の中心は江戸、経済の中心は大坂であり、このため兵庫の津は全国と大坂、江戸を結ぶ海上輸送の要衝として栄えた。
元和5年(1619年)にはじまる菱垣廻船、寛永16年(1639年)にはじまる北前船による日本海側との航路(西廻り航路)開設、寛文元年(1661年)頃にはじまる樽廻船や内海船(※8参照)などの船舶が兵庫の津を行き交うようになった。また、鎖国はしていたが、通商関係のあった蘭国や朝鮮(朝鮮通信使。※9参照)は江戸渡航に際して兵庫の津を利用することが多々あったようだ。
又、兵庫の町を通る西国街道には宿駅も設けられ、また、灘五郷として酒造りも活発になっていた。
幕府は当初、大阪商人に特別の保護を与え、兵庫を圧迫する方針を採っていたが、自然の良港を持つ兵庫は瀬戸内海第一の集散市場となるなど、その発展を抑えることは出来なかった。
江戸時代中期に兵庫津に本店を置いて活躍した回船問屋高田屋嘉兵衛)や、江戸三百年間の兵庫の豪商北風家たちが兵庫津の隆盛に貢献している。
しかし、江戸末期、兵庫津も激動の渦中にあった。特に嘉永7年(1854)ロシア使節プチャーチンの大阪湾侵入により、周辺の海防が重視され、文久3年(1863)には江戸幕府の軍艦奉行であった勝海舟は海防のための幕臣の教育施設として「海軍操練所」の設立を、呉服商網屋吉兵衛が私財を投じて竣工させた船たで場(フナクイムシを駆除するための乾ドック。船据場ともいう)を利用することを考え、当時の将軍であった徳川家茂に建白した。
翌元治元年(1864年)、明治維新に多大な功績を残した坂本龍馬が塾長を勤めた諸藩の志士のための「海軍塾」と共に開設されたが、勝の更迭と同時に「神戸海軍操練所」と「神戸海軍塾」(※10参照)は閉鎖になった。同じ年に建てられた海防の要・和田岬砲台が、今も神戸市兵庫区に現存している。
一方、「兵庫開港」は、安政5年(1858)の日米修好通商条約で、1863年1月1日と定められたが、朝廷の反対にあい、文久2年のロンドン覚書で5年間延長され、慶応3年12月7日(1868年1月1日)、神戸開港として実現したことは先に書いた通りである。
安政五か国条約上の「開港」とは港だけを開くことではなく、町を外国に開くことであった。開港場、開市場には外国人居留地が開設された。
外国船舶は貿易のため開港場には入港できるが、開市場には入港できない。神戸開港・大坂開市式典は、条約で開港場と取り決められた兵庫から東へ約5キロ離れた神戸村の海沿いに建設中の、神戸外国人居留地南端に新装なった運上所で行われた。
しかし、神戸開港の勅令は慶応3年5月を以って下され柴田日向守剛中(大坂町奉行)が、7月9日には兵庫奉行を兼務して、もっぱら外国人居留地問題などの外交問題を担当し、神戸の外国人居留地の工事が始まったのは慶応3年(1967年)9月1日のことであり、「神戸港」の開港が12月7日なので、たった3ヶ月前の突貫工事であり、形だけの開港であった。

上掲の画象は、開港当日の神戸港図。この日、停泊中の各国軍艦はそれぞれ日章旗を掲げ、正午には一斉に21発の祝砲を放って開港を祝った(市民のグラフこうべNo95)。
この画像は挿し絵入り週刊誌『イラステッド・ロンドンニュース』掲載の物らしい。
同画像を見ると海岸のところに四角くぽっかりと白くあいているところが見られるが、ここが神戸外国人居留地である。
開港当時、建っていた建物は運上所と倉庫が3つぐらいだけだったという。また、その運上所が完全に完成したのは2月5日のことだったというから、開港当時は一応できていたという程度のもので、他に建物はなく、ただ地ならししただけの状態での開港であったようだ。
神戸沖には18隻の外国艦隊(英12隻、米5隻、仏1隻)が停泊しているが、外国側が大艦隊を派遣した狙いは、日本側に条約どおり開港・開市を実現させること、式典に参加すること以外に,開港・開市を阻止しようとする過激な攘夷運動に列国が団結して対決する姿勢を日本側に見せつける狙いもあったようだ。
外国艦隊が発した21発の礼砲が裏山にこだまし、住民を震え上がらせたことだろう(※12のニュースレター第305号神戸開港秘話~「神戸事件」当日の神戸沖外国艦隊~参照)。



上掲の2枚の画像中、上の画像は、開港間もない頃の運上所前波止場。この波止場は先にも述べた納屋吉兵衛が生田川(旧生田川)尻西側に設けた船たで場跡で、開港に際し、幕府の手により波止場に改築され第1波止場(現在ある第1波止場等とは東西に並ぶ順序が逆になっており位置が違う)と呼ばれた。(市民のグラフこうべNo95)
下の画像も同じころのものと思われれるが、赤○印のところが納屋吉兵衛の船たで場跡のあったところにできた神戸海軍操練所。その後にできた運上所である。 
運上所のある居留地の北側(上方)に生田神社の参道が見える。「生田(活田)(いくた)」の地名は日本書紀にも出てくる(※13参照)。この辺りは生田神社の社領であったことから神戸(かんべ)→神戸(こうべ)になった。「神戸」は当時、開港場一帯の村の名前でしかなく、幕末の神戸村は、建物といえば海軍操練所と農家が数件という未開地であった。
安政五か国条約上「兵庫」に港を開くことになっていたが、兵庫は歴史のある土地で町も発展し住民も多い。この様な地で外国人とのトラブルを避ける為に、5キロも離れた神戸村の海沿いの何もない「海軍操練所」があった辺りを事実上の「兵庫港」(現:神戸港)として開港をしたのである。
王政復古の2日前、慶応3年12月9日(1868年1月1日)の開港に際して、兵庫の津は湊川(旧湊川)以西を兵庫港、以東を神戸港と称し、外国船の停泊は神戸港を利用する経緯があった。しかし、兵庫港、神戸港の2港時代は、明治25年(1862年)両港を一括して「神戸港」の名称を用いた勅令の公布をもって終わりを告げ、今日言うところの神戸港となった。
諸外国から兵庫港の開港を求められた幕府が、あえて当時人口希薄な一漁村神戸を重点に開発を進めたことから、かって「兵庫津」であった「兵庫港」は次第に「神戸港」に繁栄を譲ることになる。しかし、「兵庫港」と「神戸港」が一つになって「神戸港」と呼ばれるようになってからも、「兵庫港」は「神戸港の兵庫港」として兵庫運河、同運河支線新川運河の建設が行われるなど、「神戸港」の補完的役割を担い、輸入青果物専用埠頭や三菱川崎の造船所を中心とする工場の材料荷役などを受け持つ兵庫突堤としての存在価値を保ってきた。
慶応4年(1868年5月23日)、兵庫裁判所(元兵庫鎮台)を廃止し、兵庫県が設置され、同じ年の1月に起こった「神戸事件」(ここも参照)で活躍した伊藤俊輔(後の伊藤博文)が初代兵庫県知事に就任し、居留地の造成にも力を尽くした。
神戸税関の前身である「兵庫運上所」は、慶応3年(1868年)、兵庫港(現:神戸港)開港と同時に開設され、幕府の兵庫奉行所の直轄機関であったが、王政復古の大号令により、明治新政府が誕生し、幕府軍が、翌年の正月3日に鳥羽伏見の戦いで幕軍が敗れたため、御用始めどころか、兵庫運上所はわずか1カ月余で事実上の閉鎖となってしまった。
その後、新政府による「神戸運上所」が誕生し、明治5年(1872年)11月28日に、全国の運上所が税関として名称を統一されることとなったのを機に、翌・明治6年1月4日に「兵庫運上所」は「神戸税関」と改称された。
初代本関庁舎は明治5年(1872年)2月に着工され、明治6年12月に完成した。石造の2階建で海に面する正面には菊の紋章がさん然と輝く立派な建物であった。

上記画像 が初代税関庁舎である。和洋折衷の建物に取り付けられた窓ガラスが光るところから、当時の人々は「ビードロの家」とよんだ。写真は明治7年頃のもの、明治6年(1873年)神戸港の輸出・輸入ともに全国の12%であったという。(市民のグラフ神戸No57)。
開港後の明治3年ごろには、神戸には約200人の欧米人がいて256の商社が構えていた。当時、全国には約2600人の外国人が居留し、主として横浜を本拠としていたので、神戸の地位もおのずと察せられる。
しかし、神戸の外国人は、その後急速に増加し、明治11年(1878年)には1000人の大台を超え、貿易額でも明治30年代には横浜とその勢力を2分するほどになったという。非常な躍進ぶりである。
しかし、その頃の神戸港は海岸地先のところどころにまだ白い砂浜が残り、松の疎林があちこちに点在していたという。
神戸港が国際港として、近代的な設備を整え始めたのは明治の末の40年以降のことであるらしい、官民挙げての熱意により、神戸港築港予算が国会を通過、着工をされたのは明治40年(1907年)だというから、初代神戸港長J・マーシャルの神戸港築港計画案(※14参照)が世に出てから24年、神戸市会の決議から8年の歳月が経過してからのことだ。
因みに大阪港の築港計画案は明治30年(1897年)に国会を通過、同年にすでに横浜桟橋が竣工しているので、これら両市に比べると、神戸はまだ経済基盤も弱く資力も乏しかったことが遅れをとった原因だが、しかし、この遅れが逆に、港を生命線として神戸と港とは切り離すことができないという強い感情を市民の間に根付かせたことは否定できないという(『市民のグラフこうべ』No111) 。
大正6年(1917年)には神戸港は開港50年を迎えたが、 神戸港の貿易額は、全国の約4割を占め、特に輸入額は日本一であった。港の造成も進み大正10年(1921年)には「櫛(くし)型」の新港第1突堤から第3突堤が完成し、近代的な港としての第一歩を踏み出した。
そして、大正元年(1922年1月20日) 初代税関本関庁舎を火災で焼失し(※15参照)、2代目本関庁舎(花崗岩・煉瓦張り、地上4階建)が竣工したのは昭和2年(1927年)3月になってからのことであった。
港湾の近代化が進み、開港100年を迎えた昭和42年(1967年)には、わが国初のコンテナターミナルを有する摩耶埠頭が完成した。また、本格的なコンテナ時代に対応するため、ポートアイランドの埋立が昭和41年(1966年)から始まり, 昭和56年(1981年)に完成している。、その後第二期工事として昭和62年(1987年)から神戸空港が新たに作られ完成したのは平成17年(2005年)のことである。
この間、平成7年(1995年)1月の阪神・淡路大震災で壊滅的な被害を受けた神戸港は、急ピッチで復旧工事が行われ、新生神戸港として平成9年(1997年)3月末には全面復旧した。
また、昭和2年(1927年)に竣工していた神戸税関二代目庁舎は、「帝国の大玄関番たる税関として決して恥ずかしからぬ近代式大庁舎」と称された日本最大の税関庁舎で、神戸港新港地区のランドマークにもなっていた。なかでも時計塔はまさに“みなと神戸”のシンボルとして、平屋建の倉庫群の並ぶ港頭にあって、ひときわ目立った存在であったが、阪神・淡路大震災で被災しその建物は半壊した。
現在の神戸税関三代目庁舎は平成8年(1996年)4月に着工され、平成11年(1999年)3月に落成した最新鋭のインテリジェントビルである。保全された旧館とで構成され、旧館を船体に見立てるとその棟の上に現れた新館(3代目庁舎)の高層部が船のブリッジにもみえる。
改築工事では旧本関庁舎に連結する旧別館を取り壊し中心に新館を建設したあと、旧別館の外壁を再構築。それにより旧本関庁舎の花崗岩張りの時計塔を含めた外観と内部ホール等は、ほぼ完全な形で保全された。神戸税関のシンボルの大時計は神戸港に姿を現わし、時を刻み始めてから今年で86年間神戸の港を見守り続けてきたことになる。この景観を残した点が高く評価され、公共建築賞やJIA環境建築賞最優秀賞(第2回 2001年度ここ参照)などの賞を受けている。

上掲の画像が神戸税関三代目庁舎である。画像はWikipediaより。庁舎建築概要写真はここで見られる。

今、神戸税関の管轄区域は、兵庫県、中国地方(山口県を除く)、四国地方の広範囲に及び、全国の税関の中でも長い海岸線(約7,100km)を有している。
 管内には平成23年(2011年)7月現在で28の外国貿易港(開港)と5つの国際空港(税関空港)があり、全国120の開港及び29の税関空港のおよそ4分の1を占め、本関のほかに15支署、17出張所、及び2監視署が置かれ、約1,100名の職員が輸出入貨物の通関や密輸の取締りに当たっているそうだ。
神戸税関の貿易統計, 密輸摘発実績等、詳しくは※1:税関公式ホームページを見られるとよい。

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税関記念日:参考

2013-11-28 | 記念日
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参考:
★1:最恵国条款8さいけいこくじょうかん)
通商・航海などに関する条約を締結する際、相手国に対し、より有利な待遇を他の第三国ににも与えた場合には、同様の待遇を相手国にも与えることを取り決めた条項。たの国に比べて不利な待遇を受けることを防ぐためのもので、重商主義が盛んな17世紀中ごろから、ヨーロッパ諸国を中心に広く採用され、19世紀には自由貿易を促進するための重要な役割を果たした。一般には相互主義にのっとって、締結国の双方が与え合うものだが、日米和親条約では、日本がアメリカに一方的に与えていた。(週刊朝日百科日本の歴史93号より)
※1:税関公式ホームページ
http://www.customs.go.jp/
※2:輸入における消費税の課税 -JETRO
http://www.jetro.go.jp/world/japan/qa/import_10/04A-000915
※3:輸入品に対する内国消費税の徴収等に関する法律
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S30/S30HO037.html
※4:外務省:特別展示「日英交流事始―幕末から明治へ―」開港開市延
http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/j_uk/02.html
※5:なるほど幕末
http://www4.plala.or.jp/bakumatsu/index.htm
※6:国土交通省近畿地方整備局港湾空港部:神戸みなとびっくす
http://www.pa.kkr.mlit.go.jp/kobeport/
※7:兵庫津(神戸市兵庫区) - 三日月の館
http://blogs.yahoo.co.jp/kanezane/60790015.html
※8:内海船と北前船
http://www.abura-ya.com/naruhodo/rekishi/rekish20.html
※9:兵庫津の名前変遷
http://www.geocities.jp/hasirankai/hyougotu.htm
※10:神戸海軍塾
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/1863/ryoma-kobe.htm
※11:は じ め に - 神戸市(Adobe PDF)
https://www.port.city.kobe.jp/info/tokei/taikan/2010/taikan.pdf#search='%E6%97%A7%E6%B9%8A%E5%B7%9D%E4%BB%A5%E8%A5%BF+%E5%85%B5%E5%BA%AB%E6%B8%AF%E3%80%81%E4%BB%A5%E6%9D%B1+%E7%A5%9E%E6%88%B8%E6%B8%AF+%E6%98%8E%E6%B2%BB%EF%BC%92%EF%BC%95%E5%B9%B4%E3%80%81%E5%8B%85%E4%BB%A4'
※12:海洋製作研究財団ニュースレターバックナンバー
http://www.sof.or.jp/jp/news/index.php
※13:生田神社の由緒 生田神社 - 神戸市中央区
http://www.ikutajinja.or.jp/about/
※14:展示会「近代神戸の足跡」3.神戸港の発展と海運 - 神戸大学附属図書館
http://lib.kobe-u.ac.jp/www/html/tenjikai/2005tenjikai/catalog/minato.html
※15:「今曉烈風中に神戸税関全焼」1922年1月21日付大阪朝日新聞(神戸大学附属図書館新聞記事文庫)http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10069296&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1
神戸みなととぴっくす
http://www.pa.kkr.mlit.go.jp/kobeport/index.html
よみがえる兵庫津 - 神戸市立博物館
http://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/institution/museum/tokuten/2004_04_hyogotsu.html
税関 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%8E%E9%96%A2

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かきフライの日

2013-11-21 | 記念日
日本記念日協会の今日・11月21日の記念日に「かきフライの日 」があった。
香川県三豊市に本社を置き、各種の冷凍食品の製造販売を手がけ、全国の量販店、コンビニ、外食産業などに流通させている株式会社「味のちぬや」(※1)が制定したもの。「海のミルク」と呼ばれ、栄養価の高いかきを多くの人に食べてもらうのが目的。日付はかきのシーズンとなる11月。そして21を「フ(2)ライ(1)」と読む語呂合わせから。・・・だとか。
同社のHP を見ると、今日の記念日の他、3月7日メンチカツの日、5月6日コロッケの日、9月4日串の日、10月1日とんかつの日、11月4日かき揚げの日なども記念日登録している。私はこのうち、3月7日の「メンチカツの日」もこのブログで取り上げた(ここ参照)ので、これで同社関連のブログを書くのは2回目ということになる。
「メンチカツの日」でも書いたが、冷凍食品は水分や油脂が凍結・凝固する程の低温にすることで微生物の活動を抑え、長期間にわたって保存できるのが特徴である。
近年は少子高齢化や個食化等の社会環境の変化に伴い、冷凍食品の売り上げは順調に伸びているようだ。
冷凍食品の消費量は1969(昭和44)年7,8217トンであったものが、2012(平成24)年には280,313トンへと増加しており、その前年の2011(平成)23年度280313トンに比較しても約14%も増加ている(※2参照)。
最近は、スーパーの冷凍食品の売り場に行けば、電子レンジで調理してそのまま食べられるなんて製品は山ほど売っている。
それに最近は電子レンジの スチームで食品の乾燥を防ぎながら温めるスチーム温め機能を利用すればラップを使わずにしっとり温められるので総菜売り場などで買ってきた一度上げたフライ物でも美味しく食べられるので便利になったものだ。
ただ、余談だが、このような食品のことを書いていると嫌なことを思い出す。
ヨーロッパで「牛肉100%」のはずの冷凍バーガーから馬のDNAが見つかったことを契機にこの春ごろから欧州が「食品偽装スキャンダル」に大揺れだった(※3参照)が、日本でも数年前にミートホープという会社が冷凍食品偽装(牛肉ミンチの品質表示偽装事件参照)で問題になっていたが社長が記者会見して,「安いものを求める消費者も悪い!」と消費者批判をして顰蹙を買っていたが、その後も食品偽装が絶えない(※4参照)。
今度は、阪急阪神ホテルズで運営する4都府県のホテルやレストランで、メニューに「鮮魚のムニエル」と書かれているものに、実際は冷凍した魚を使うなど表示と異なる食材を使用してお客に料理を提供していたことが判明。その後の調査で、「ザ・リッツ・カールトン大阪」(大阪市北区)でも記載と異なる食材が使用されていたことが分かるなど、食材表示をめぐる問題は、日本を代表する名門ホテルにも波及している。
2020年に開催が予定されている東京オリンピックでの日本の『お・も・て・な・し』は、こんなことで良いのだろうか?
このような、偽装ビジネスは中国製だけではなく、あらゆるところで行われているようだ。コスト削減のみを追求する、グローバル経済の深刻な問題点だ。
ただ、一流ホテルで、冷凍した魚を使って「鮮魚のムニエル」だと言われて、さすがは、一流ホテルのものは美味しいと満足していた人が多かったということだろうから、人の口など当てにならないものだと思うし、また、裏を返せば、それだけ今時の冷凍技術が向上し、冷凍物の品質も良くなっているのだと言えなくもない(※5参照)。
事実我が家のような年寄り夫婦二人だけの生活では食事の量も少ないので、フライ物でもなんでも余分に作ったものはきっちりと冷凍保存しておけば、後にそれを食べても最初に作ったとさほど味は変わらないものも多い。だから、既成の冷凍食品も大いに利用したいが、加工し、衣をかぶせたフライ物など、その中身は見えないの気になるところであり、表示だけは正直に正確に書いて欲しいものだ。
今まで信用の高かったホテルなどのレストランで、明らかに食品の表示偽装と思われるものでも、白々と誤表示だと答弁していた社長連中が許せない。
先日の朝日新聞・天声人語にも、”どうせ味はわかるまいと客を見くびっていたのだろう。「偽る」とは真実を隠し人をだますことであるが、「欺く」という言葉もある。嘲(あざ)笑にも通じるらしいが、相手を馬鹿にして操るという意味が加わるらしい。今回いやな感じがするのはこの点だ。”とあったがまさにその通りである。あまり、客を見くびったことはしない方が良いだろう。
少し腹が立っているので、ちょっと、横道にそれてしまったが、本題の牡蛎の話に戻ろう。

言わずと知れたことだが、カキフライとはカキを材料とする揚げ物料理(フライ)の一種である。
「カキ」(牡蛎、牡蠣、英名:oyster)は、軟体動物門二枚貝綱(斧足類ともいう)イタボガキ科に属する二枚貝の総称(※6参照)である。
「カキ」の名は、海の岩から「掻(か)き落してとることからと言う説が有力な様である。
又、「カキ」の字は漢字で「牡蠣」また、「牡蛎」と書くが、正式には、「牡蠣」であり、「牡蛎」の「蛎」は「蠣」の簡体字である。「蠣」また「蛎」この1字で「カキ」」を意味しているにもかかわらず、そこに「牡(オス)」の字がついたのは、古く中国においては、カキ(牡蠣)には牡(オス)しかいないと思われていたからだそうだ。
「牡蠣」は、ヨーロッパヒラガキ(※2のここ参照)のように1つの体に卵と精子を持つもの(卵胎生雌雄同体)か、マガキ(※6のここ参照)のように卵と精子を別々に持っているもの(雌雄異体)があるが、マガキのように、今年は雄で精子を持っていても、翌年は雌にかわり卵を持つようになったり、その逆の場合もあり、このように雄と雌が年によって性転換する(同一固体に雌雄性が交替に現れる卵生)かであり、外見上の生殖腺が同じであるために、全て「オス」に見えたからだといわれている。

牡蛎は波の静かな内湾や、内海の河口に近い干潮線(干潮時の海面と陸地との境界線。潮汐参照)付近に生息しており、このカキを人類が食べるようになったのは有史以前といわれている。
日本では、縄文時代の貝塚から、牡蛎の貝殻がたくさん発見されており、古事記にも軽皇子に献った衣通王の歌にその名が出てくる。
「夏草の あひねの浜の 蠣貝(かきがひ)に 足踏ますな 明かして通れ」(古事記:衣通王の歌。※7 参照)
【通釈】逢って寝るという名の「あひね」の浜は、牡蠣の貝殻がたくさん落ちていますよ。踏んでお怪我をしないように、夜が明けてから通りなさい。
このことことからみても、わたしたちの祖先が、牡蛎をかなり好んで食べてきた歴史がうかがわれる。
牡蛎の種類は多く、世界中で約100種類、日本近海でも、20種類以上あり、日本では最も一般的な種であるマガキ(真牡蠣。広島県、宮城県、三重県産など)の他、シカメガキ(八代海や有明海、福井県久々子湖産など)、スミノエガキ(住之江牡蠣。有明海沿岸)、イワガキ(岩牡蠣。マガキと対照的に夏が旬)、イタボガキ(板甫牡蠣。能登半島や淡路島周辺産)、ヨーロッパヒラガキ(別名:ヨーロッパガキ。市場ではフランス牡蠣、ブロン、フラットなどとも呼ばれる。気仙沼市産)などがよく知られている。

牡蛎は日本全土の近海に生息しているが、現在、国内で食用として一般に出回るものの殆どは「マガキ」であり、また、その殆どは養殖のカキである。
牡蠣にはグリコーゲンのほか、必須アミノ酸をすべて含むタンパク質カルシウム亜鉛などのミネラル類をはじめ、さまざまな栄養素が多量に含まれるため、ヨーロッパでは、牡蛎を「海のミルク」といい、哺乳類動物の乳に匹敵するほど、栄養価の高い食品として、昔から珍重され、歴史上の様々な人物をとりこにしてきたようだ。
たとえば、ジュリアス・シーザーが、イギリス遠征を行ったのは、テムズ河口の牡蛎を手に入れるのが最大の目的だったという話があるほどだという。また、ルイ14世も牡蠣が大好きで、ヴェルサイユ宮殿カンカル(Cancale)産カキを取り寄せていたという。そして、古代ローマ時代には、既に簡単な養殖も行われていたという。

現在日本は、中国、大韓民国に次ぐ世界第3位の生産量となっており、日本の中で牡蛎の生産量が一番多いのは広島県であり、日本のカキの約66%(23年)が生産されている(※8参照)。
日本でも長い間、岩や石についている天然の牡蛎をとって食べていたが、室町時代の終わり頃(天文年間=1532~1555年)に初めて広島湾で牡蛎の養殖が始まったようだ。
このことは、1924(大正13)年に広島県の草津村役場が発行した草津案内に「天文年間、安芸国において養殖の法を発明せり」と書かれているそうだ。
その当時は原始的な方法で、干潟に小石を並べて、牡蛎を付着させて生育を待って収穫する方法だったようだ。その後、竹や雑木を干潟に建て、牡蠣を付着させて成育するやり方などを経て、現在の干潟の棚ではなく、筏(いかだ)に連をぶら下げ、成育を待って収穫する養殖法(筏式垂下養殖法」へと大きく進歩し、それにつれて生産量も飛躍的に伸びてきた(※9参照)。
かって、大阪の名物の一つに川筋に船をつなぎ牡蛎料理を出す「牡蠣船」が賑わった。
『摂津名所図会大成』(暁鐘成著、1855年)によると、「芸州草津浦から20余艘、同仁保島から15艘が10月中旬に入津し、年来の馴染の浜に船をつなぎ、川岸に小屋をしつらえ、此所で蠣を割って商う」とあるそうだが、江戸中期(延宝元年=1673年)ころ大坂に、安芸佐伯(あきさえき)郡草津村(現在の広島市)の小西屋五郎八が、養殖牡蛎の販売を求めて進出したのが最初といわれている(※10、※11参照)。
晩秋になると、広島方面で大量に養殖された牡蠣を積んだ「かき船」が土佐堀堂島道頓堀をはじめとする十数か所以上の堀川に停泊し、牡蠣の販売や、船上で牡蠣尽くしの料理をふるまったという。
明治時代には客が桟橋を渡って船に入るようになっていたが、その入口で紺絣(こんがすり)に赤(あかだすき)をかけた娘たちが牡蛎の殻を割る風景がみられたという。
従って、俳句の季語も「冬」。高浜虚子の以下のような句もある(※12 参照)。
「牡蠣船の薄暗くなり船過ぐる」
当時は牡蠣船もこの10月から大阪にやってきて、3月末になると船とともに広島に帰っていたが、のちには年中営業するものが多くなったようだ。しかし、川の汚濁や臭気のため、年々その姿を消していった。
今では、大阪市中央区北浜3-1-25、 淀屋橋南詰に「かき広」という牡蠣船が1軒のみ。

●上掲の画像が牡蠣船「かき広」である。当時の名残が偲ばれる(※13参照)

牡蛎を日本では主としてカキフライのような揚げものや、鍋物の具にして食べるほか、新鮮なものは網焼きにしたり生食したりするが、魚介類の生食文化のなかった欧米でさえ、カキは好んで生で食べられているようだ。
フランス有数の牡蠣の産地、カンカル(Cancale)では生牡蠣の屋台は冬の風物詩ともなっており、欧米には多くのオイスターバーがあり、豊富な種類の生牡蠣を、数種類の味付けで食べさせてくれる。
このフランス人が愛する牡蠣が実は日本の牡蠣の子孫であることはあまり知られていない。
1960年代にフランスの牡蠣が病気で絶滅しそうになり、日本の宮城県からマガキを輸入した。日本の牡蠣は病気に強く良く育ち、現在フランスで食べられている牡蠣のほとんどが日本の牡蠣の子孫なのだという(※14参照)。

欧米では、英語でRのつかない月(September、October、November、December以外)には牡蛎を食べるなと言われているが、日本でも同じように「桜が散ったら牡蛎を食べるな」と言われている。
これはちょうど、5月から8月にかけてが産卵期に当たり、精巣卵巣が非常に増大し、味が悪くなる上に中毒を起こしやすいためである。
日本で、一般に牡蛎として認識されているマカキの旬は、10月から3月で、この時季には体に栄養を蓄えるため、グリコーゲンの量がもっとも多く、風味もよくて、栄養価も高くて一番の食べ頃であるが、春から夏に旬を迎える「ナツカキ」とも呼ばれるイワガキの種もあり、それぞれ養殖も盛んであることからマガキに限らないならば通年食べることができる。また、産地によっては、水温などの条件により旬が変わることもある。

牡蠣には豊富な栄養素が含まれ、肝機能を強化する働きや貧血症に悩む人には強い味方となる食材でもあるが、この牡蠣が冬場に発生する食中毒の中で最もウイルス性食中毒を発症する可能性が高い食材なのだとか・・・。.
実際に生牡蠣による食中毒が発生するのは毎年生牡蠣が市場に多く出まわる冬場が多くのケースを占めている。食中毒を起こす可能性を持つ食材は牡蠣に限らず貝類、特に二枚貝に多いが、この中で牡蠣の場合は生で食する習慣のあることが食中毒の発症率を高めているひとつの要因のようだ。

牡蠣などが生息しいる水がノロウイルスに汚染さると、その汚染された海水に貝類は常にさらされていることになる。
カキなどの二枚貝は大量の海水を取り込み、プランクトンなどのエサを体内に残し、出水管から排水しているが、海水中のウイルスも同様のメカニズムで取り込まれ体内で濃縮される。
いろいろな二枚貝でこのようなウイルスの濃縮が起こっていると思われるが、二枚貝を生で食べるのは、主に冬場の牡蛎に限られており、そのため、冬季にこのウイルスによる牡蛎の食中毒の発生が多くなっていると考えられている。
牡蛎には「加熱用」と「生食用」があるから、「生食用」なら大丈夫かというとそうではないようだ。 「生食用」とは細菌の量によって決めているので、このウイルスが含まれていないという保証ではないようだ。
又、新鮮なうちに食べれば大丈夫なのでは・・? と思う人がいるようだが、保存方法が悪いから貝の中で増えるというものではなく、新鮮なものでも食中毒になる恐れがあるのだという(詳しくは※15参照)。
創業140余年、広島牡蛎の草分でもあり、現在牡蠣船も営んでいる「かなわ」(※16参照)では、広島の沖合約30kmの瀬戸内海でも屈指の透明度を誇る清浄海域、大黒神島沖の筏で育成採取された牡蠣を生色で提供しているという。
大黒神島は無人島で、生活廃水に汚染されていない安全な海域でありその沖の海域は、広島県指定の生の食用牡蛎採取指定海域の中でも特に水のきれいな所と云われており、それだから、ここで獲れた牡蠣は安心して生で食べられるのだという。
だから、生の牡蠣を食べるためには、どこでとれた牡蠣かが一番大切なことなのだろう。食べさせてくれるところの云うことを信じて食べるより仕方ないのだが、ここの所の一流ホテルのようにな偽装問題があると、ちょっとどうしてよいかわからないし困ったものだよね~。
兎に角、買ってきた牡蠣を家で食べる際の調理のポイントは加熱と加熱時間だという。
生牡蠣の内部に蓄積したノロウイルスは熱に強い耐性を持っており、ウイルスを駆除するには不活化(ウイルスなどの感染力や毒性を失わせることについていう)する温度までしっかりと加熱(中心温度が85度以上の状態で1分間以上加熱)を続けることが大切だ。子どもや年配者などの抵抗力の弱い人は特に注意が必要だろうね。
豊かな海はおいしい牡蛎を育てるが、牡蛎は自然環境に影響を受けやすい。食中毒の心配から加熱した料理「カキフライ」が誕生した。
カキフライが初めて作られた時期・発祥は諸説あるようだが、lフランス料理店を営んでいた木田元次郎(煉瓦亭)は庶民が食べられる洋食を次々と考案した。
トンカツのルーツともなったカツレツを作り、その後カキフライに辿り着いたとも言われている。こうして誕生したカキフライは当初、フランス料理風にタルタルソースで食べられていたが、後にウスターソース、そして口をサッパリさせるためにレモンが添えられるようになったという(※17参照)。
そういえば、銀座・煉瓦亭はオムライス発祥の店としても知られているが、現在NHK朝ドラ「ごちそうさん」の主演め以子()の父親卯野 大五(原田 泰造)が経営している開明軒は、本格派フランス料理店を自負していたが、大衆に親しみやすい「洋食屋」に業務を切り替え、オムライスの発祥の店となったとしているが、ひょっとしたら、銀座・煉瓦亭がモデルか・・・なんて考えながら見ているのだが・・・。
カキフライは、洋食店のメニューだけでなく、カキフライ定食などの形で、和食店や喫茶店で供されることも一般的である。
牡蛎の生食が普及している欧米ではフライで供する料理方法は一般的ではなく、「カキフライ」は日本が元祖であることに関しては間違いないようである。
中国では広東料理などでイワガキなどはフライにせず、天ぷらにして食べるようだ。
これからの季節、牡蛎はカキフライの他牡蠣の土手鍋や、グラタン、ソティー、チュー、酢牡蛎、生色等いろいろ食べ方はあるが、やはり、カキフライが一番合っていると思う。
私も牡蛎は大好きであり、若いころから今まではカキフライを一番好んでいたが、最近は、メタポのこともあり、油ものは極力食べないようにしているので、今の食べ方としてはソテーが多い。鉄板で目の前で焼きながらレモン醤油で食べるのが一番好きだ。
参考:
※1:味のちぬや
http://www.chinuya.com/
※2:日本冷凍食品協会
http://www.reishokukyo.or.jp/statistic
※3:欧州が震撼中!食品偽装スキャンダル:日経ビジネスオンライン
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20130304/244448/
※4:食品会社 偽装の歴史
http://www.news88.net/giso/
※5:水産新聞 : 冷凍品価値向上へ、進化する凍結技術
http://www.suisan.jp/features/002218.html
※6:貝類図鑑・二枚貝 市場魚貝類図鑑
http://www.zukan-bouz.com/zkanmein/2mai.html
※7:軽大郎女 千人万首
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/karuira.html
※8:「平成25年度広島かき生産出荷指針」について - 広島県ホームページ
https://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki/88/syukkasisin.html
※9:広島牡蠣養殖の歴史 -中野水産
http://www.nakanosuisan.net/muscat2b/
※10:かき船の歴史 - 広島で牡蠣・焼き牡蠣小屋|島田水産 -
http://simadasuisan.hiciao.com/c_TdsSMNdL.html
※11:出雲の鰻が大坂へ - 海洋政策研究財団
http://www.sof.or.jp/jp/news/101-150/142_3.php
※12:十八 - 高浜虚子の俳句冬の句
http://www5c.biglobe.ne.jp/~n32e131/haiku/kyoshihuyu17.html
※13:かき広
http://nttbj.itp.ne.jp/0662311891/index.html
※14:フランスの牡蠣が大量死滅 日本産稚貝の緊急輸入: うるわしのブルターニュ
http://bretagne.air-nifty.com/anne_de_bretagne/2011/01/post-54fe.html
※15:ノロウイルスに関するQ&A|厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/topics/syokuchu/kanren/yobou/040204-1.html
※16:かなわ
http://www.kanawa.co.jp/
※17:食彩の王国#16 『牡蠣』
http://www.tv-asahi.co.jp/syokusai/contents/contents/0017/
広島かき_生態_広島市水産振興センター
http://www.suisansc.or.jp/kaki_seitai.html
水産海洋技術センター:広島かき話
http://www2.ocn.ne.jp/~hfes/kakitop.html
牡蠣:漢方・中医学用語説明(生薬)
http://www.hal.msn.to/kankaisetu/chuyaku112.html
大阪府/ノロウイルス食中毒のQ&A
http://www.pref.osaka.jp/shokuhin/shokutyuudoku/noro.html
牡蛎のレシピ 3845品 [クックパッド] 簡単おいしいみんなのレシピが157万品
http://cookpad.com/search/%E7%89%A1%E8%9B%8E
カキフライ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%AD%E3%83%95%E3%83%A9%E3%82%A4

宮崎県木城町に武者小路実篤が推進する「新しき村」が開村した日

2013-11-14 | 歴史
「新しき村」とは、白樺派の文学者武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)が提唱した生活共同体(村=理想主義的な集団)である。

畑の中の道の両側に高々と幟(のぼり)が翻る。「自然から与えられた人間の食べ物、人間の喜び 私はそれを尊敬する」「皆で皆で 皆の為に働くことができるのだ 自分達は皆で」「「大きな城を築くことを知らないものは 小さい石材を 小さい石材のまますてておく」。
武者小路実篤の言葉を記した幟(のぼり)の立つ道をゆくと「新しき村」への入り口がある。門柱には、「この門に入るものは、自己と他人の生命を尊重しなければならない」と書かれている。その奥に「新しき村」が広がる。埼玉県入間郡毛呂山町の村(「東の村」)である。
●冒頭の画像、「新しき村」入口(『朝日クロニクル週刊20世紀』1918-1919年号より)。

白樺派の作者・武者小路実篤が「自他共生」(自他共に生きる)の理想郷を目指して、家族や同士と共に宮崎県児湯(こゆ)郡木城(きじょう)村(現、木城町)に、「新しき村」を創設したのは、今から95年前の1918(大正7)年の今日・11月14日のことであった。(※1:「宮崎県HP」所蔵資料>新しき村開墾助成願を参照)
その20年後の1938(昭和13)年にダム(小丸川発電所)の建設により農地が水没することになったため、その補償額を元に、翌・1939年(昭和14年)、現在の地・埼玉県入間郡毛呂山町に第二の村(「東の村」)を作り移転した。
但し、実篤は1924(大正13)年に離村し、村に居住せずに会費のみを納める村外会員となったため、実際に村民だったのはわずか6年である。
現在、新しき村の本部はこの移転後の埼玉県入間郡毛呂山町にあるが、宮崎県が創設の地であり、現在も存続し、そこに住む同士によって建設が進められている。
この「東の村」は、第二次世界大戦終了時には、1世帯のみとなっていたらしいが、入村者が増え、1948(昭和23)年には、埼玉県から財団法人の認可を受け、1958(昭和33)年にはついに自活できるようになったという。
新しき村は、創立時から、村内生活者の日々の仕事は農業が中心である。その理由は、新しき村公式サイト(※2参照)によれば、実篤の言葉「それは百姓の労働が一番もとだからだ。 衣食住をただにするには百姓の労働が一番近か道だ。それ以上の生活はそれからだ。」によっているという。
2011(平成23)年現在、村内には10所帯13名が住み、約10ヘクタール、借地約3ヘクタールの土地に、卵・椎茸・米・野菜・茶・竹炭などを生産・販売している。ほかに、筍・梅・ゆず・ぎんなんなどを収穫・販売しているという。土壌改良剤としての鶏糞も販売しているそうだ。
村内に、建物は、公会堂兼食堂(580㎡)、新しき村美術館(250㎡)、生活文化館(200㎡)、小集会場、アトリエ、茶室、住宅、作業場、畜舎等88棟に、理容室(村内中心)もあり、生活文化館(新しき村ギャラリー)は年中無休で無料公開しているそうだ。
そのほか、文化事業として、武者小路実篤記念新しき村美術館を公開し所蔵品の貸し出しを行なったり、機関誌『新しき村』を毎月発行しているようだ。
生活状況については、村内生活者ひとりの一年間の生活費は、平均すると、税金等を含めて120万円強だという。共同で働き、食事は食堂で、義務農業を果たしさえすれば、余暇を絵や音楽、焼き物など好きなことに費やすことができるそうだ。
人間が人間らしく、互いの個性と自我を尊重する集団生活。だが不安材料がないわけではない。かっては、村内生活者が50人を超え、村には幼稚園もあったというが、今では、村内の高齢化が進み、子供の姿はなく、年を取ったものがわずかに住んでいるだけ。農業収入の低迷もあり、村の運営には困難も増しているのが実情の様である。
この村はただ生活するためのものではなく、精神に基いた世界を築く目的で開村されており、入村は40歳まで、村に住むには、「村の精神に共感する」が絶対条件となっている(新しき村の精神は※2:新しき村公式サイト参照)
若い人は仮入村しても長続きできないらしい。しかし、住んでいる人は「実篤先生と一緒に暮らしているようなもの」と屈託がないようだ。
今は、村内生活者以外に、自分は村に入れないが、村の活動には協力したいとする村外会員(第二種会員とも呼ぶ)が約170名いるという。

なお、創設の地である宮崎県の新しき村は現在、財団法人「日向新しき村」として存続しており、現状は、5.5ヘクタールの土地に、建物は住宅三棟、食堂があり、村内生活者2世帯4名が生活し、水稲1ヘクタール、畑20アールの農業を営んでいるという。また、武者小路実篤が住んでいたとされる旧居は復元され、武者小路実篤記念館として資料、写真などが展示され見学ができるようになっているそうだ。
現在の日向新しき村の状況は、以下で窺える。
日向新しき村(2ページある)

武者小路実篤の名は小説を書くときのペンネームではなく、実名である。彼は、江戸時代から公卿の家系である武者小路家に、父子爵武者小路実世と母秋子(なるこ。勘解由小路家出身)の8番目の末子として生まれた。2歳の時に、父が死去している。
しかし、名家の出身らしく、学習院初等科、同中等学科、高等学科を経て、1906(明治39)年9月に東京帝国大学哲学科社会学専修に入学。
この間、1903(明治36)年3月、実篤は中等科6年、18歳の時に、3年前より恋していた姉とともに伯母を頼って上京していた「お貞さん」こと志茂テイ(当時12才)が帰郷し失恋している。この失恋は実篤のその後の人生観に大きな影響を与え、文学へ傾斜させる要因ともなったようだ。
又、この夏三浦半島の叔父・勘解由小路資承の家で読んだトルストイの『我宗教』(※3)『我懺悔』(※4)により、トルストイに強くひかれるようになり、聖書、仏典などをしきりに読むようになったという。
小説家の武者小路実篤からは想像できないが、小さい頃は作文が苦手だったという。その彼が、翌1907(明治40)年4月、学習院時代からの同級生だった志賀直哉や備中国賀陽郡足守村(現・岡山市北区)足守)の足守藩最後の藩主・木下利恭の弟・利永の二男で子爵の木下利玄、伯爵正親町実正の長男正親町公和らと志賀宅に各自の創作を持って参集し「十四日会」と命名する。この時彼22才であった。
そして、同年8月に、作家活動専念のために大学を中退し、翌1908(明治41)年4月23才の時には、創作感想集『荒野』を自費出版。また、「十四日会」で回覧雑誌「暴矢」を創刊、のちにこれは「望野」と改題している。
その2年後、1910(明治43)年4月、25歳の時、志賀直哉、有島武郎、有島武郎の弟有島 生馬らと共に『白樺』という文学雑誌を創刊。創刊号に「『それから』に就て」を発表している。彼らはこの雑誌に因んで『白樺派』と呼ばれるようになる。
それから』は、『「それから」に就て』が発表される前の年・1909(明治42)年に夏目漱石の書いた新聞連載小説であり、この小説は『三四郎』に次ぐ作品であり、次作『』(1910年)とで前期三部作をなすもの。漱石はこの小説で「色々な意味に於てそれからである」と紹介した。
「それから」というタイトルは、作者の漱石が先に発表した「三四郎」の主人公である三四郎のようなタイプの人間の”それから”を描くという意味でつけられたものであることが、漱石自身が書いた連載予告で明かになってる。
また、『それから』の代助は最後に、社会的・経済的立場や家族を捨てて、好きになった女性と一緒になることを決心するが、『門』の主人公の宗助は、妻と一緒になったために社会的に日陰の身になったものとして暮らしている。つまり、代助が好きな女性と結婚したあとの姿が、宗助と重なっている。
漱石は実篤ら白樺派の作家たちが最も尊敬する作家であった。
世の中の暗い面ばかりに目を向ける、重苦しい雰囲気の自然主義の文学に対して反発を感じていた彼らは、知的で倫理的な作風の漱石を文壇における先輩として尊敬していた。
しかし、ここで実篤は漱石の「それから」に託して、実は、彼なりの生き方(「思想」)と書き方(「技巧」・「顕はし方」)を主張しているのだという。
例えば、「思想」について語る三章の中で、「(略)自分は漱石氏は何時までも今のまゝに、社会に対して絶望的な考を持つてゐられるか、或は社会と人間の自然性の間にある調和を見出されるかを見たいと思ふ」・・・と、「自然」という言葉が、繰り返し取り上げられており、自然のままに行動すれば人間の心は喜ぶけれど、社会からはみ出してしまう。社会の決めごとにしたがって行動すれば世の中ではやっていけるけれど、心は空虚感を抱えるようになる。漱石はこの板挟みの中で破滅するまでをリアルに書いたが、これからは自然の方を重視して、調和の道を進んでいって欲しい、というのが実篤の主張であるという。
漱石から評価されたこともあって文壇に認められていったにも関わらず、自分たちの個性を信じて漱石の文学とは異なる方向に進んでいった彼らの道すじを、この文章は予告している。
このように、白樺派の出発点ともなる雑誌『白樺』の創刊号に書いた「『それから』に就て」は、白樺派が文壇に登場する高らかな宣言の役割をこの文章がになっている点、また、実篤たちと夏目漱石との接点と立場の違いの両面がここにはっきりと書かれており、実篤が書いた作品の中で「文学史上最も重要な作品」といえるかもしれない文だという(※5:「調布市武者小路実篤記念館」の武者小路実篤 > 作品鑑賞>館報『美愛眞』12号:評論「それからに就て」参照)。
このころ、白樺派の実篤らはその支柱でもあったトルストイに傾倒していたが、その、トルストイはこの年11月に82才で没している。
又、フランスの彫刻家で『近代彫刻の父』とも称されるオーギュスト・ロダンは、わが国にもいち早く紹介されており、激しい動きと秘められた深い思索を想起させるその躍動的な彫刻に、白樺派の青年たちが熱い称賛の念を抱いていた。
そして、この『白樺』創刊年である1910(明治43)年は、ロダンの70歳の誕生日であることから、11月に『白樺』に「ロダン特集号」を組み、『いずれ浮世絵を送る』という主旨の手紙を有島生馬がこの巨匠ロダンに誰の紹介もなしに書き送っていたらしい。このあと半年ばかり待っていたものの返事も来ないが、それでも、約束だからと、金を工面して浮世絵を20枚購入し、同人の愛蔵しているものを加えて30枚にして8月頃ロダンに送った。
その時の不安な心境を実篤は、『白樺』第三巻第二号(1912年3月26日)に以下のようにつづっているという。
「自分たちはロダンが見てどんなに思うだろう、喜んでくれるかしらん。つまらぬものを送ってきたと思いはしないか、などと思った。なお密(ひそ)かに素画を一枚ぐらいくれればいいと思っていた。しかしそれは難しいことと思っていた。・・・」・・・と。
しかし、これに対し、ロダンからの突然の手紙に、浮世絵の返礼に、まさかとおもっていた本物のロダンの彫刻が送られてくるとあり、大喜びしていると翌・1911(明治44)年12月、本物のブロンズ像小作品が3点も贈られてきた(「マダム・ロダン像」「巴里ゴロツキの首」「ある小さき影」)。
ロダンの彫刻は日本ではじめてのものであった。(※6:「白樺文学館」白樺便り11.最新入手作品ご紹介/ロダンと白樺派参照)。 
この年から岸田劉生(当時20歳の画学生)との交友も始まり、12月岸田が実篤のもとへ訪問した際、実篤の勧めで届いたばかりのロダンの本物の彫刻を見て岸田も感動したことが、岸田の画学生宛手紙であきらかとなっている(※5:調布市武者小路実篤記念館の資料室>所蔵資料から>館報『美愛眞』23号より、岸田劉生より木村荘八あての手紙 ─実篤と劉生の出会い─参照)。
1913(大正2)年、実篤28歳の時に竹尾房子と結婚。実篤はこの前年、『白樺創刊から2年目の1912(明治45 )年、27才の時に『世間知らず』を刊行している。
この『世間知らず』の中で語られる「C子」が実篤の初婚の相手、竹尾房子であるという。作者(実篤)は晩年の回想の中で本作に触れ、「この小説に価値があるとすれば、大半は房子の手紙の書き方が面白いからという事になるかも知れない」と語っているそうだ。
参考※7:「第12号-武者小路実篤『世間知らず』『友情』に見るジェンダー観」では、実篤が初めて房子に出会ったときの印象、そして好きになっていく過程などが書かれているが、大正デモクラシーという時代背景を考えたとしても、C子の行動から、有名な作者に手紙を送りつけ、対面を果たすという大胆さを持ち合わせた女性であることが窺える。・・という。しかしどうやら、実篤好みの美人ではなかったらしい。
房子と結婚後は実篤の生家で同居。翌年入籍し、生家を出て、麹町区下に家を借りるがその後、神奈川や東京で度々転居していたらしいが、肺病の誤診宣告を機に東京から志賀直哉・柳宗悦が移り住んでいた我孫子(我孫子市船戸2丁目21番)に移住したのは1916(大正5)年の暮、実篤31歳の時であった。
ロダンからの彫刻が到着したのを機に実篤らの美術館建設の構想が芽をふき、1917(大正6)年には、『白樺』10月号で「美術館をつくる計画」を発表、日本最初の西洋近代美術の美術館設立運動を提唱するに至る。そして、同年11月17日ロダンが逝去すると12月に、、白樺』は「ロダン追悼号」(1月号)を刊行し、その後も巻を追うごとに主だった代表作を写真図版によって紹介していたようだ。
そして、1918(大正7)年33歳の時、5月〜7月に後に「新しき村に就ての対話」と改題された三つの対話(「第一の対話」「第二の対話」「第三の対話」)を『白樺』と『大阪毎日新聞』に発表し、新しき村の創設を提唱。7月には機関雑誌『新しき村』を創刊する。この翌月の8月号にはこの時の同士43名の名前が報じられているという(※8参照)。
また、これに「新しき村に就ての対話」をふくむ単行本『新しき村の生活』を8月に出版している。
この「新しき村に就ての対話」は、実篤が「新しき村」をはじめる第一歩となった作品であるが、10年前、実篤23歳の時(1908年)の日記には既に「自分は此頃になつて何か大きな仕事が出来る様に思へて来た。(略)それは新しき社会をつくる事だ。理想国の小さいモデルを作る事だ」と書いていたという
そして、「第三の対話」の末尾近くに次の一節がある。
「自分達は良心にたいして自分達を無能力者だからと云ふ云ひわけをつかふことはやめにしよう。協力さへすれば、そして本気になれば無能力ではない。」・・・と。実篤が「新しき村」をつくることで切り開いたのは、世界の人々が理想的に生活できる可能性だけではなく、新しい行動を起こす前に現実主義に逃げ込む精神に対する批判だったのだといえるようだ(※5の武者小路実篤>作品鑑賞>館報『美愛眞』15号より「新しき村に就いての対話を参照)。
ただ、実篤が23歳の時の日記にも書いてあるとはいえ、「新しき村に就ての対話」で新しき村の創設を提唱してから、4か月後の9月には、新しき村建設のために我孫子を出発し、11月には宮崎県児湯郡木城村(現・木城町)の土地を買う契約を済ませ、そのまま妻の房子や同志の仲間と暮らしはじめた。
1920(大正9)年2月に書き上げられ、その4月に雑誌『解放』に掲載された小説「土地」には新しき村の土地が決まり、開墾の日々に至るまでが描かれ、ようやく桃源郷を探し当てて驚喜する場面がある(※9参照)。
地主のいない共同農場が誕生したのである。この新しい村への最初の入村者は妻の房子など同士18名(男性13名、女性5名)であるらしい。
最初の土地は田畑・山林併せて7600余坪から始まったという。最初は石河内町の借家から通い、次々と家を建て、2年目に母屋(合宿所)が完成したと記録されているようだ(※2:「新しき村公式サイト」参照)。

●上掲の画象は宮崎県の「新しき村」のメンバーと、武者小路実篤(後列中央麦わら帽の男性)である。画像は『朝日クロニクル週刊20世紀』より借用)
武者小路実篤は当初「東京から日帰りに行ける土地」を探していたが、決定地が、木城村の地に決まるまでには多少の曲折があった。日向に土地の目当てを付けた理由については、実篤がしばし書いているように、新聞紙上でも「第一日向という名が気に入り、冬に働けるのが気に入り、日本の最初に起こった土地だというのが気に入った」と語っている。しかし、正直に言えば、その条件に「その上土地が安かった」というのを付け加える必要があったようだ。
新しき村の土地は何処がいいか、それは最初から問題となっていたようだ。
「新しき村」は当時の社会的文化的大事件であり、先の両著には新聞雑誌をはじめ、各界著名人たちの反響が詳しく述べられているが、同人の志賀直哉や、柳宗悦も雑誌「新しき村」の第一号での餞(はなむけ)の言葉ではエールを送っているものの実篤の杜撰な計画には危惧を示していたようだ。
白樺派の中で正面切って批判したのは有島武郎だけで、「新しき村」の企ての発足を知ったとき、有島武郎は『中央公論』に発表された「武者小路兄へ」(大正7年7月)で、有島らしい難解な言い回しの文章だが、実篤との断交を招いた「私はあなたの企てが如何に綿密に思慮され実行されても失敗に終わると思うものです」という有名な一節があり、ここには「如何に綿密に思慮されても失敗の確率が高いというのに、あなたの企ての杜撰さは何なんだ」という慨嘆が窺えるという(※1また※11の弐の続き参照)。

「新しき村」という生活共同体の村の精神は、自他を犠牲にすることなく”自己を生かす”ことにあり、村民はみずからの生活を支えたうえで、自由を楽しみ、個性を生かす生活を全うする・・・理想的な調和社会、階級闘争の無い世界という理想郷の実現を目指してきた。
当初の入村者は男性13名、女性5名の総勢18名で、土地や田畑の開墾から宿舎の建築まですべてを自分たちの手で行なった。しかし、提唱者の実篤自身が子爵という出自であることからもわかるように、村民となった人々の中には農業を生業とする者はほとんどいなかったようだ。
自給自足のための開墾をしたうえ作物を収穫するなどということがどれほど大変なことか、素人でも分かるはずなのに、敢えてその無謀ともいえる実践に飛び込んだのだから、若さゆえの冒険心だけではなく「新しい時代」や「新しい生活」への大きな希望と理想があったのだろうということは理解できる。しかし、開墾当時の労働の困難は、実篤らの当初の想像をはるかに超えた過酷さが余儀なくされただろう。
希望と理想に燃えて建設した村ではあったものの、次第に人間関係の軋轢が目立ち開村2年目の1919(大正8 )年春には村に内紛も起こったようだ。しかし、実篤が重視した余暇時間の文化活動はかなり実現していろいろ活動していたようで精神的には充実していたようだ。なおこの年、農作業、建築の手伝い、資材の運搬などの仕事を村の青年たちとともに分担した。
実篤は皆とともに仕事をし、文筆に講演にと、内外に活動し、村の仕事も農業ばかりでなく、出版に演劇にと幅広いものであった。
ロシア革命の成功による社会主義思想の普及,国内の政治的経済的混乱、大正デモクラシーの運動(大正デモクラシーと相次ぐ恐慌参照)など多様な社会的要因に、実篤のトルストイズム(トルストイが文学作品や人生を通して訴えた社会思想。)が結合した白樺派人格主義の実践は、とくに青年層に大きな反響を呼び起こした。
入村希望者も数多く、反面、離村する者も毎月のようにあったというが数年後には村内の人数も40人を超えたようだ。
そして、自分は村に入れないが、村の活動に協力したいとする村外会員(第二種会員とも呼ぶ)も次第に増加し、東京・京都・奈良・神戸などで支部活動が盛んになったという。
1921(大正10)年3月36歳の時、「白樺美術館第一回展覧会」を開催。セザンヌの「風景」、ゴッホの「向日葵」等が公開されたという。
因みに、このセザンヌの「風景」は、白樺同人が「白樺美術館」の建設を目的に皆で金を出しあって購入したものだが、その後、この美術館の設立は実現せず、長く柳宗悦の家にて保管していたが、セザンヌ好きだった大原總一郎が柳宗悦に懇望して、寄託というかたちで大原美術館にて展示をしていたが、いよいよ実現不可能として、現在は、この作品をロダンのブロンズの小作品3点と一緒に大原美術館に永久寄託し、同美術館で展示されているようだ(※8参照)。
1922(大正11)年、37歳の時、実篤は房子と離婚し、前年新しき村に入村した飯河(いごう)安子と結婚。村内で『人間万歳』を発表。
雑誌『白樺』創刊時よりの同士・有島 武郎がこの年、軽井沢の別荘(浄月荘)で波多野秋子と心中。7月7日に遺体が発見され、当時の新聞紙上でセンセーションを巻き起こした。
雑誌『白樺』は、1923(大正12)年8月まで続き、全160号が発刊され、161号も刊行予定だったが、関東大震災の影響により廃刊となっている。
また、この時の震災で実篤の母は無事だったが生家が焼失している。
1925 (大正14)年、実篤40才の時、新しき村を開村してからわずか7年で新しき村を離村し、志賀直哉が住む奈良に移り、以後、村外会員として村の活動を支えた。
「新しい村」はその後、新しき村の会員杉山正雄らの力で継続され、杉山は、1932(昭和7)年に実篤の養子となり、房子と結婚。その後、村の常務理事を務めたという。
どうもこの辺の実篤、房子、安子、杉山の4名の関係がよくわからないのだが、参考※1:「宮崎県ホームページ」のみやざきの101人-武者小路 房子 によれば、以下のように書いてある。
新しい村で、「実篤と飯河安子の恋愛問題が起こり、彼は去り村外会員になった。房子もまた杉山正雄との恋愛事件が起こり、実篤とは別れて生活することになった。4年後の1932(昭和7)年に房子は杉山と正式に結婚。実篤は2人を養子にして武者小路姓を名乗らせ、2人は「日向新しき村」に生涯をかけることとなった。」・・・と。
また、武者小路房子を訪ね、思い出話を聞いた中から許しを得て回想という形で、黒木清次がまとめた『武者小路房子-古くて新しき村とともに50年-』(日向おんな)には、
 「本当の愛情というものをわたしが知ったのは、村に入ってからでした。(中略)病気と幻滅感、いっぽうにはそのときまでに不自由なく豊かな生活の中に気ままに育ってきたわたしには、無意識のうちにそなわっていた高慢さ-そうした交錯したわたしの精神と肉体の苦難の時期を温かくいちずに支えてくれたのが杉山でした」。・・・と。
そして、この続きの文が、参考の※12:「歴史の里:新しき村」の関連サイト「杉山夫妻」に綴られている。
「そんな状態のとき武者小路にも新しい愛が始まっていました。わたしと杉山は一時的に新しき村を離れて鎌倉に住みました。四人がそれぞれに愛情というものの試練のなかにおかれたのでした。「愛はどんな障害も通り抜けて生きなければならない」「運命から与えられるものは甘受してそれを生かせるだけ生かす……」あの時期、これ程の愛への自覚があったかどうかは自らにも問えませんが、いま静かに思えばわたしたち四人は、それぞれの立場でこの言葉のように自らを処置していったことになるのでしょうか。」・・・と。
そして、杉山正雄・房子の主治医であった吉田隆氏は「村は終わったー最後の人となった房子」「史友会報」などに、杉山正雄・房子について、次のように記しているという。
「実篤は村を去った。村を支援しつつ、自分の道を生き抜いた。安子との愛を全うした。 杉山正雄は村にとどまった。師である実篤の教え「愛はどこまでも貫き通さねばならない」のとおり、房子との愛を誠実に奉仕的に全うした。(杉山は房子より11歳年下である) そしてトルストイの思想に傾倒した実篤は「自己を徹底して生かす」という独自の生き方をした。杉山も、独自の生き方・思想を模索し、独自の境地を掴みえたのではなかろうか。 昭和58年4月28日、杉山正雄は逝去した。(80歳) 平成元年10月25日、房子は新しき村のこの家にて逝去した(97歳)。・・と。
そして、50年の歳月を経過したとき、一人が加わります。さらに七年後の1976(昭和51)年には松田省吾・ヤイ子夫妻が移ってきて、杉山夫妻と四人で新しき村発祥の地を守ってきました。・・と注記されている。
男女の恋愛問題・・・、最初に誰が火種を作ったのか、事の真相は、書き手側によっても違ってくるだろうからよくわからないが、新しい村での内紛は、村の運営に関するものだけではなく、実篤の最初の妻、房子と再婚した飯河安子、それに、杉山正雄をめぐる四角関係の内紛もあったようだ。
兎に角、1925 (大正14)年に武者小路が離村、そして1939(昭和14)年ダム建設のための土地収用を機に埼玉県に移され、日向の地における試みは終焉するが、実篤が去った後も、結婚した杉山正雄と房子の二人が杉山は50余年、房子は60余年、必死に助け合いながら、二人きりになった村を、特に戦中から戦後にかけて誰からの助けも受けず、ずっと守り続けてきたようだ。
実篤は、新しき村を開村してから、わずか7年で新しき村を離村し、志賀直哉が住む奈良に移ったが、参考※11:「武者小路実篤の章」の章の参には、武者小路実篤の年譜に見当たらない真杉静枝という人物との醜聞記事が見られるという。
巌谷大四の『物語女流文壇史』という著作の中で、真杉静枝という人物の生涯について書かれている中に実篤関連の以下のような記載があるようだ。
「その頃21歳で、大阪の小さな夕刊新聞の記者をしていた真杉(ますぎ)静枝は、大正15年9月のある日、奈良へ行って志賀直哉と武者小路実篤の訪問記事をとってくるように部長から命じられた。彼女は志賀よりも武者のほうが近づきやすいような気がして武者を訪ねた。武者は気軽に彼女の質問に答えてくれ、感激した真杉が『先生、私みたいな者でも作家になれるでしょうか?』という質問に、『もちろんなれるでしょう。あなたは実に純粋な魂をもった人だから、その純粋な魂をそのまま文章に書いたら、立派な文学じゃないかね』と励ました。彼女はすっかり武者に魅せられてしまい、その幸福感を失いたくなくて志賀を訪問するのはやめて・・・・」(中簡略)「わたし、決心したの。どんな事があっても武者小路先生をつかまえるわ。・・・」と「社の男性記者たち(婦人記者は彼女一人だった)に放言した。」そして、「1週間以内ではなかったが、やがてそのとおりになった。」という。
又、巌谷は別の『物語女流文壇史』という著作の中で真杉静枝の生涯について記しており、「いつか二人はずるずると深間に入り、静枝は武者小路に囲われる身となり、東京に移った。二人の関係は数年続いたが、結局、妻子のある公卿あがりの作家である相手は、はじめから静枝を、ただ温情から囲ったのであって、本心ではなかった。次第に武者小路の方から遠ざかって行った。しかし…彼女も初めから相手の文名を利用するつもりだったので、悔いはなかった」・・・と。
そして、林真理子の『女文士』にも「 武者(実篤のこと)はこのころ、男をつくった最初の妻房子を新しき村へ置き去りにして、自分は新村民となった飯河安子と世帯を構え、新聞に四角関係などとはやされています。真杉は奈良の家を訪ねた折に、二人目の子供を生んだばかりの安子に会っています。そんな状況の中で、武者は真杉に熱をあげ、昭和2年、妻子を連れて東京に転居したのちに真杉を呼び寄せ、麹町に一軒家を与えて住まわせます。武者は毎日この家に出勤し、アトリエにした二階で絵を描き、真杉のつくった昼食をとり、夕方にわが家へ帰る生活を続けます。」「しかし、体が弱い安子にはもう何年も触れていないと言っていた武者に第三女が生まれたことを知った真杉は、男の不実さを感じて日向堂の常連客となった帝大生の中村地平に接近します。ある日、二人の関係をかぎつけた新聞記者が隠れ家を襲います。武者はあわてて家の裏から着物の裾を大きく広げて垣根を越えて逃げ出そうとしますが、記者に捕まり、『君、まさか家に行って妻に何か言ったりはしてないだろうね』と叫びます。それを聞いたとき、真杉は妻に未練のある男の正体を実感し、別れを決意するのです。」・・・と。他にもいろいろ書かれている様だ。
これに対して、実篤が触れているものがあるようだ。80歳近くになって『或る男』の続編として著した自伝『一人の男』(※5の資料室>所蔵資料から>館報『美愛眞』9号 より「一人の男」原稿参照)の中に、次の一文が見つかったという。
「ドイツの諺に《終りよければすべてよし》と言う言葉があるが、真杉と僕の関係はその反対で、プラスマイナス零、清算がたちすぎて、死なれた今でも、悪い思い出も別にないがいい思い出もなくなった。二人とも自分の夢に酔って、一番不適当な相手を選んだと言うべきだったかと思う。」
「僕は真杉は新しき村にとって有用な人間になれる素質があると思い、真杉は自分の文学の仕事に僕は役に立つと思っていたらしい。
 しかしそれは間違っていた。少なくも真杉のものの考え方や神経が僕の文学に対する評価の埒外にあった。僕は自分の愛憎で文学の評価をきめる人間ではなかった。これは死んだ者に対して言うべき言葉でないかも知れない。」・・・と、情を交わしたこともあるという女性に対するこの表現はちょっと冷淡ではないでしょうかね~。

参考※12:「歴史の里:新しき村」の関連サイト“新しき村雑感”にも書かれているように、実篤の「新しき村」からたった7年での離村には、母の病気のこと、村の経済を安定させるために文学活動に専念すること。村の生活が肌に合わないこと。安子と夫婦でありながら妻であった房子と同じ村にいるという人間関係のことなど、いろいろな理由が想像できるが、結局は、武者小路家という子爵の出である彼のある種のわがままからのものであるのだろう。
だから、その後を継いだ世間的には二人の関係でいろいろと悪評も残っているらしい杉山正雄・房子夫婦の地道な努力を私も評価したいと思う。
生前の実篤の書物は5百冊ないしは7百冊を越えるといわれているにもかかわらず、実篤には日本文学史上に残るような名作が残っていない。そんな彼の名作がないのは、「新しき村」の経費を稼ぐために売文家になってしまったたからではないかという声もある。
ただ、そんな実篤がえらかったのは、「新しき村」に対する経済的支援だけは終生続け通したことであり、世間からは桃源郷的な発想に対する批判や揶揄をされても、有島武郎など白樺同人たちからの忠告を受けても、どんなに苦境に立とうとも、実篤は天与の向日的姿勢(陽気な」「明るい」といった性質。実篤の場合、楽天的なという意味にも捉えられる)を堅持した。結局、実篤は作家というより新しき村の求道者として名を残したというべきかもしれない。
実篤の楽天主義、理想主義もまた大正デモクラシーの生み落としたものだった。内心(表に出さない気持ち。心のうち)の要求に忠実に、互いに自己を生かすべく実篤の呼びかけに全国より多くの青年が新しく村に参加した。そして、京都、東京、大阪、神戸、信州、浜松、函館、青森、福岡、横浜、帯広、呉、盛岡などに「新しき村」支部が生まれた。
「新しき村」は、『赤い鳥』とともに大正期(1912~1926)の思想、文化の有力な反映といえる。
大正期には 「新しき村」 「新しい女」 「新思想」 など、 「新」 という言葉が流行していた。

この「新しき村」 は日本に存在しただけではない。1924(大正13 )年にブラジルサンパウロ州奥地に、「アリアンサ村」という日本人民間移住地が生まれたという。
計画作成の中心となったのは永田稠北原地価造輪湖俊午郎らだったそうだ。
「アリアンサ」とは共同を意味するポルトガル語で、「自治と協同の理想」 を掲げ、組合方式による運営をおこない、選挙によって選出された役員が運営に当たっていたという。当時の日本は大量の移民送り出し国だった。
輪湖は日本に戻ることを前提とした出稼ぎ移民ではなく、民間主導による新しい共同移住地をつくろうと理想に燃えていた。日本からブラジルに移住してきたのは、渡米支援団体の「力行会」(※14参照)というキリスト教団体の人たちが多かったという(※15:「南山城の光芒:第30回南山城の光芒(新聞『山城』の25年)」の第31回~32回 (13)城南八幡の「新しき村」実篤の思想とアリアンサ移住地(中)参照)。
日本人のブラジルへの移民が始まったのは1908年だが、当時の日本は、明治維新以後の人口の増加、農村の疲弊、失業者の増大という問題を抱えており、その対処策として政府は海外への出稼ぎ移民を奨励していた。当初ブラジルにやってきた日本人移民(日経ブラジル人参照)達は、ブラジルでよりよい人格を形成し、ブラジルに永住して豊かな生活をおくることを目的としていたわけではなく、短期的にお金を稼いで日本に帰国するために行った。
アリアンサ移住地には素晴らしい理念があった一方で、その建設と発展の背景には多くの困難があったようだ。残念なことに、アリアンサ移住地の発展の過程で多くの住民がアリアンサ移住地を離れ、それと同時に、アリアンサ移住地の理念も忘れ去られようとしているという。その中でも、経済活動のみに力点を置くのではなく、文化活動にこそ自らの存在意義を見いだしている弓場農場(※16の中にある”弓場農場に入植して”を参照)には、当初からのアリアンサ移住地の理念が色濃く残っているようだ。
アリアンサ移住地の日系人人口の減少という問題があり、1925年から2005年までの第一アリアンサ移住地の日系人人口の推移をみると、第一アリアンサ移住地では1945年ころまでは人口は増加しているが、それ以降は減少する一方で、2005年では約350人にまで減少している。
アリアンサ移住地では、第二次世界大戦が終わる1945年を境にサンパウロ市などの都市に人口が流出しはじめ、さらに近年では日本への出稼ぎも増加し、アリアンサ移住地のこれまでの歴史を将来に伝える役割を担う若者はますます減少しているようだ。ブラジルのアリアンサ移住地のこともっと詳しく知りたい人は、※16:「ありあんさ通信:移住史ライブラリIndex」を見られるとよい。

今は日本の農村も過疎化しているし、「新しき村」はなお苦戦している。近年、定年で現役をリタイアしたサラリーマンなどが、田舎で農業をしながら、現役時代になかなか出来なかった趣味を愉しみながら余生を過ごしている姿をテレビなどの報道でよく見かける。
現役時代にしっかりと働き、それなりの貯蓄をして、老後にその資金を元に、好きなことをして過ごせる人は本当に恵まれた人達だろう。農業をすると言っても、年金は入るのだし、収入は少なくとも生活に支障をきたすわけでもないからあくせくする必要もない。趣味でやるのだか楽しいことだろう。
しかし、若い人が辺鄙な郷で農業をし、好きな趣味を楽しみに生きるのは、理想としては望ましいが、それを実際にやるとなるとなかなか大変なことだろう。特に結婚をして子供ができると、教育問題や結婚問題など子供の将来を考えなければならなくなるし、自分たちにしても年を取り体が不自由になってくると、病院通いや買い物をするにしても車に乗っていかないとだめな場所で、車に乗れないようになるとそれもできなくなる。
今、不便な郊外に住んでいた高齢者が続々と生活の便利な都市部に移住してきている状況である。
それに、グローバル化した現代において、農業にしても、従来のようなかたちでの保護政策はとられなくなるだろうし、外国からの安い輸入品に対抗できる良い品を安く生産するには、今までのような方法での農業ではなく新しい農業のあり方が求められるようになるだろう。
理想郷(ユートピア)の実現には、ただ一生懸命働くだけではなく、時代にあった新しい村のあり方を築かなければ存続はなかなか難しいのだろうね~。しかし、どこまでやれるか、頑張っては欲しいものだ。

参考:
※1:宮崎県HP
http://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/somu/somu/bunsho/index.html
※2:新しき村公式サイト
http://www.atarashiki-mura.or.jp/
※3:近代デジタルライブラリー - 我宗教
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/825352/89
※4:近代デジタルライブラリー - 我懺悔
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/899793/24
※5::調布市武者小路実篤記念館
http://www.mushakoji.org/index.html
※6:白樺文学館
http://www.shirakaba.ne.jp/index.htm
※7:第12号-武者小路実篤『世間知らず』『友情』に見るジェンダー観
http://gender.jp/journal/no12/05-02-sasaki.html
※8:新しき村余録(上)(Adobe PDF)
http://www.seijo.ac.jp/pdf/falit/050/050-02.pdf#search='%E7%99%BD%E6%A8%BA+%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%8D%E6%9D%91%E3%81%AB%E5%B0%B1%E3%81%A6%E3%81%AE%E5%AF%BE%E8%A9%B1+%E9%9B%91%E8%AA%8C%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%8D%E6%9D%91'
※9:武者小路実篤::日向新しき村を訪ねて
http://www.geocities.jp/kenyalink365/atarasiki_mura/atarasiki_mura.html
※10:第15回 吉田璋也の流儀(2)
http://homepage2.nifty.com/teiyu/leaflet/nakayama_0505.html
※11:武者小路実篤の章(壱~参迄)
http://blogs.yahoo.co.jp/yuzan9224/33691023.html
※12:歴史の里:新しき村
http://nanjaroka.jp/siseki/atarasikimura/index.html
※13:真の友情とは?
http://blogs.yahoo.co.jp/bgytw146/31599626.html
※14:財団法人日本力行会について
http://www.rikkokai.or.jp/main/index.html
※15:南山城の光芒:第30回南山城の光芒(新聞『山城』の25年)
http://www.rakutai.co.jp/etc/yamashiro/file/030.html
※16:ありあんさ通信:移住史ライブラリIndex
http://www.gendaiza.org/aliansa/lib/index.html
「武者小路実篤」作家略歴
http://www.gm2000.co.jp/profile/mushaname.html
セザンヌ - 大原美術館
http://www.ohara.or.jp/201001/jp/C/C3a14.html
武者小路実篤 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%80%85%E5%B0%8F%E8%B7%AF%E5%AE%9F%E7%AF%A4

いい女の日(2-1)

2013-11-07 | 記念日
日本記念日協会の今日11月7日の記念日に「いい女の日」があった。記念日登録をしているのは女性の心と体を癒すトータルエステティックサロンを全国に120店舗以上展開する「たかの友梨ビューティクリニック」(※1)だそうだ。
同社では創業当時から「1107」を「いいおんな」と読む語呂合わせから、サロンの電話番号などに多数使用しており、この日を美しくなりたい女性を応援する特別な日としているという。
私は男性なので、エスティックサロンのことなど余り興味もないし、よくわからないので、単に一般的な「いい女」のことについて書くことにしよう。
ところで、「いい女」ってどういう女を言うのだろう。

「武子さんの、あの上品な気品の高い姿や顔形は、日本的な女らしさとでもいうような美の極致だと思います。
あんな綺麗な方はめったにないと思います。綺麗な人は得なもので、どんなに結っても、どのような衣裳をつけられても、皆が皆よう似合うのです。
いつでしたか、一度丸髷に結うていられたことがありました。たいていはハイカラで、髷を結うていなさることは滅多にないので、私は記念に、手早く写生させて貰いましたが、まことに水もしたたるような美しさでした。「月蝕の宵」はその時の写生を参考にしたのです。もちろん全部武子夫人の写生を用いたという訳ではありませんが……」

上掲の文は女性の目を通して明治期から戦争(太平洋戦争)が終る時代にかけて「美人画」を描き、女性として初めて文化勲章を受賞した京都の日本画家・上村 松園の随筆『無題抄』(※2の「青空文庫」参照)からの抜粋である。

「月蝕の宵」の絵がどんなものかはここ参照→天絲繡典 -- 《上村松園作品》

「水(みず)も滴(したた)る」とは、『広辞苑』第5版では「美男、美女の形容」としてこの語を説明し、『日本語大辞典』(講談社)も「生気ある男や女の、また美男美女の、つやつや(艶々)とした、また、みずみず(瑞々)しい美しさの形容」と説明している。この語の後に、いい男、いい女などと続けて「水も滴るいい男」「水も滴るいい女」などと使うが、もともとは、「水も滴る若衆姿」などと、いい役者(いい男)などに使っていたものが、後に、女性にも使われるようになったと聞く。
「いい女」の顔についても、上村 松園は『女の顔』(※2参照)の中で、以下のように言っている

美人絵の顔も時代に依って変遷しますようで、昔の美人は何だか顔の道具が総体伸びやかで少し間の抜けたところもあるようです。先ず歌麿以前はお多福豆(※ソラマメの1品種で、豆がとくに大きく、おかめ[=お多福]の面のようにふっくらしている)のような顔でしたが、それからは細面のマスクになって居ります。然しいずれの世を通じましても、この瓜実(うりざね)いうのが一番美人だろうと思います。」・・・と。

日本人の顔は弥生時代に日本に持ち込まれた稲作が、噛む力を弱めて顔を小顔化しているようだ(※3参照)が、現代では、男女とも身長に対して、非常に小さな丸顔で、釣り目の「猫顔」が人気になってきているようだ。
では、どんな女が「いい女」か?というのは、時代の変遷によっても変わるが、それがどんなものであったかを少し遡って見てみよう。
先ず、平安の時代に貴族の男性が好みとした女性像はどんなものであったか。
平安中期に書かれた紫式部の『源氏物語』は、主人公の光源氏を通じて周辺の女性たちとの華やかな生涯を描いている前半と、その子供のと光の孫になる匂宮宇治八の宮の姫君たちとの複雑な人間関係を写している後半に分けられるが、二帖「帚木(ははきぎ)」の中で、五月雨の夜、宮中の宿直所で、まだ17歳になったばかりの若き光源氏のもとを訪ねてきた、源氏の年長の親友であり、義兄であり、政敵であり、また恋の競争相手でもある頭中将(位階が四位の殿上人)と女性論の話になり、さらに途中から加わる左馬頭(さまのかみ。左馬寮の長官。従五位上相当)、藤式部丞(とうしきぶのじょう。式部省の役人で左馬頭よりは下位。)を交えて4人で女性談義が盛り上がる。この場面は慣例的に『雨夜の品定め』と呼ばれる。本文、現代語訳、詳しい注釈等は、※4:「源氏物語の世界 再編集版」の第二帖 帚木を参考にされるとよい。
ここではどのような女が素晴らしいか、欠点に思うところなど女性論を展開しているがその結果「よき限り(=女性の長所)」「難ずべきくさはひ(=女性の短所)」は概ね以下のようなことが挙げられいる。
「よき限り(=女性の長所)」
・手紙や和歌など、文筆にすぐれていること。・当意即妙に返答ができること。・年若く、容貌も良いこと。・言葉や性格がおっとりしていること。・嫉妬を表に出さないこと。・夫の世話や家事をそつなくこなすこと。・素直でまじめであること。・頼もしくて信頼のおけること。
「難ずべきくさはひ(=女性の短所)」
・他人をばかにし、自分の得意なことを自慢すること。・行儀が悪く、みっともないこと。・好色で浮気なこと。・嫉妬心がはげしいこと。・一人で何もできず、頼りないこと。・ふいっといなくなったりして、信頼がおけないこと。  
そして、頭中将は、女性と付き合うなら「中の品(ぼん)」(中流)の女性がいろいろ特徴があり、魅力的で一番よいとしている(※5、6、7など参照)。
結局、必要だと思う色々な理想を言っても、理想的な女性というのは「ただひとへに、ものまめやかに、静かなる心の趣」の人だという。つまり、心がねじけておらずに自然で、ひたすらに実意があり、心の穏やかな、やさしい人がよいという結論らしい。
そして、面白いことに、好色で浮気なことなどは、ほどほどならばよしとし、後世の人たちから見て、最も重要な女性の徳と思われる貞操は余り問題にされていない。
当時は平安朝の宮廷においてのみならず、武家の家庭でも、源氏の例をみても、範頼の母は池田宿の遊女、義仲の母は江口の遊女(小枝御前)、そのほか悪源太義平 の母も橋本の遊女といわれており、義経の母の常盤御前などは、短い間に三度も夫を換えている。
平安時代の貴族にあっては、女子の教養は音楽・和歌・書道の三分野を中心として、みやびやかな朗らかな女性に育つように仕組まれていた。その才能によって、女性は上品、中品 、下品格付けられた。女性と男性が直接会えなかった時代なので、和歌は「話す」方法の一つでもあった。
手紙の内容、様子、香りによって、知識や性格まで理解されていた。そして、服装の合わせが上手で、琴が弾け、綺麗に文字を書き、短歌も作れる女性が、良い女であったという。
以上から、一夫多妻という婚姻形態を持つ時代の理想的な女性のイメージは、才能が豊かで、心が優しく、外見が美しいというものであったことが、『源氏物語』などから窺える。

鎌倉・室町の時代になっても公家の女子は、古代と同じく、音楽・和歌・書道をもって重要な教養分野としたが、有職故実を尊ぶ時勢の影響もあって、歴史にかかわる学習の風もおこった。それは、『庭の訓(おしえ)』(鎌倉初期撰。「庭訓(ていきん)」を訓読みにした語。家庭教育。庭訓=庭訓往来)や『乳母の草紙』などにみられるという。
これらは、『源氏物語』と比べると、仏教や儒教的な考えが取り込まれでおり、「妹君の乳母の教えでは、美しい外見や芸能の多才さより心の方が大事、他人に対して、悪口を言わず、仏を信仰しなければならない、両親や年上の人を尊敬し、世話をしなければならない」ことなどが述べられているといった特徴を持つている(女訓書。参考※8:「日本古典文学テキスト」の乳母のふみ 一名「庭のをしへ」参照)。つまり、仏教や儒教の影響を受けながら、平安時代の女性イメージが継承され、「しとやかで貞淑」な女性の理想像が強化されていったと言えるようだ。
そして、武家の正妻となる者は、まず貞操を全うすることを以て婦人の第一の美徳と考えられるようになり、家庭生活が厳粛になってきたが、この転換には、鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室となった北条政子の影響があるようだ。
平安時代の男女関係は意外とおおらかであり、男女ともに貞操観念は低かった。 しかし、政子の頼朝に対する貞操はしっかりしたものであり、夫や家を大切にする点では、その後の日本女性の典型になっていた。
政子は自らを厳しく律し、夫に仕えながらも、夫に間違っている点があれば堂々と指摘する。自分の身を厳しく 律し、貞操観念を守ることで「妻の権威」を得、そして家を大事にして、夫や息子たちが男として立派に生きるように指導する。「日本の賢母」の典型は、政子から始まったといえる。その伝統は、つい最近までの日本婦人の生き方を決定してきたのである。
江戸時代の女性はどうだったか・・・?
江戸時代になると、幕府による統治が安定し、260 年間平和な状態が続いた。
江戸時代の女性も基本的に、鎌倉・室町の時代と変わらない。ただ、この時代には儒学などの教学が盛んになり、社会一般に及んだ。
中国代の儒者戴徳が、儒家のに関する古い記録を整理し、その理論と解説を記した『大戴礼記』(大戴礼ともよぶ)にある七去(しちきょ)(妻を離婚できる七つの事由)、というものが、日本では宝永7年(1710年)、貝原益軒が81歳のときに記した『和俗童子訓』(※9参照)巻の五の「女子を教える法」の中に記載がされている(ここ参照)。
この「女子を教える法」は後に女性の教育に用いられるようになった教訓書『女大学』などの書物によって一般化し、江戸時代中期から太平洋戦争戦前まで、女子教育のバイブルとして君臨した。
「教女子法」において、最初に「男性は外に出でて、(中略)女子はつねに内に居て」「いにしえ、天子より以下、男は外をおさめ、女は内をおさむ」と述べて、女は男と違い奥向きのことをすべきこと。そして、「婦人は、人につかうるもの也」であるとし、身分に関わらず早朝から深夜まで怠けずに、舅姑(きゅうこ。舅と姑)や夫に仕えなければならないし、「みずから衣をたたみ、席を掃き、食をととのえ、うみ、つむぎ、ぬい物し、子をそだてて、けがれをあらい、(中略)是れ婦人の職分」だと述べている。
その上で、「婦人に七去(しちきょ)とて、あしき事七あり。一にしてもあれば、夫より遂去(おいさ)らるる理(ことわり)なり。故に是(これ)を七去と云(いう)。是古(いにしえ)の法なり。女子にをしえきかすべし。一には父母にしたがはざるは去(さる)。二に子なければさる。三に淫なればさる(淫=淫乱のこと。浮気、姦通など)。四に嫉(ねた)めばさる(嫉み=嫉妬のこと。家族を恨み、怒る場合)。五に悪疾(あしきやまい)あればさる。六に多言なればさる(.男のようによく喋り、家の方針についてあれこれ口を挟むこと)。七に竊盗(ぬすみ)すればさる」と七去の一つでも守れないと、離婚されることのもあるとしている。
又、「七去三従」という言葉も使われた。「三従」とは、「生家では父に従い、嫁しては夫に従い、夫の死後は子供に従え」という教えであり、やはり儒教の教えと関係が深い言葉であり、一個人より「家」の方が大切なものと考えられていた。
こうして、江戸時代には鎌倉室町時代以上に、女性には「貞女」としての貞操が求められ、「女の道」という倫理が武家社会に強く意識されるようになり、これらの傾向は、武士だけでなく、社会一般にもおよんだとされている。
しかし、参考※10:「誰が守るか女大学ー三下半と江戸時代の女性像ー」に、式亭三馬の滑稽本『浮世風呂』の序文には「蓋(けだし)世に女教の書許多(あまた)あれど、女大学今川のたぐひ、丸薬の口に苦ければ婦女子も心に味ふこと少なし」とある。つまり『女大学』は苦い薬のようなもので、自分のものとしてる女はいないという認識であった。・・・とあるように、江戸時代の女性は、言われているほどにひ弱ではなかった。…というより、結構たのもしく、したたかに生きていたようである。
古来日本は性には開放的な民族で、徳川後半の日本の全国のムラでは、夜這いなどは、ありきたりの風習で、どこでも行われていたことであったようだから・・・。

男女の婚姻形態に大きな影響を及ぼしたのは、明治時代に制定された家制度である。1898(明治31)年に制定されたこの民法戸主制が決められ、江戸時代から続く庶民の夜這い婚集団婚妻問婚の名残とみる説また、近世郷村の農村社会に固有の様式であり、村落共同体という自治集団を維持していくための実質的な婚姻制度、もしくは性的規範であるとする説がある)に代表されるおおらかな性の有り様も、貞操観や良妻賢母を理想とする女性像に変質していく。
この 明治と昭和という大きな時代に挟まれたわずか14年半という短い期間の大正時代は、国内外共に激動の時代であった。テクノロジーの発達は目覚ましく、デパートの大量消費,電車に乗り通勤するサラリーマンとその主婦の登場、文化住宅など現在の我々の生活の基盤ができあがったのもこの頃である。
ラジオや活動写真で流行歌や演劇を楽しみ、街にはネオンが輝き、ダンスホールやカフェーに集まるモダンガールやモダンボーイ(モボ・モガ)たちがダンスを楽しんだ。モダン都市・東京の中心銀座文化」には女性が大きな役割を果たした。こうした華やかな雰囲気はしばしば大正ロマンと表現をされる。和と洋のミックスされた異国情緒の甘い香り漂うこの文化は、現在でも様々な面で注目されている。
中でも一大ブームを巻き起こした竹久夢二高畠華宵中原淳一や、松本かつぢ加藤まさを蕗谷虹児などの抒情画に代表される。彼らの絵の根底にはロマン主義が共通して見て取れるが、大きく分けると竹久夢二と高畠華宵のこの二人の画家は,健康的な美ではなく、女性の色気が強く表現されているように思わる。
夢二が日本の伝統的な女性の美を描いたのに対して、華宵の描く女性は都会的で西洋の影響を強く受けているように思われる。しかし両者の絵もどことなく退廃的で,甘美な感傷の世界が漂っている。

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上掲の画象、向かって、左:竹久夢二画「寧楽椿市(ならつばいち)」、大正期の作。右:高畠華宵画「師走の風」昭和初期作。画像は、朝日クロニクル『週刊20世紀』1926年号掲載分より借用。  
上掲の画像向かって、左:夢二の画には「たらちねの母がよぶなを申さめど道行く人を誰としりてか」と夢二の文字が見える。椿市(海石榴市)は奈良県桜井市三輪町。古代、物品交易の市として栄えた。
歌(万葉集)の意は「私の名を申し上げてよろしいのですが、あなたどなたかわからないので申しあげないでおきましょう」。(万葉集のこの歌、なかなか奥深い意味がある。この歌の詳しい意は※11を参照されるとよい。)
『モダニズム』『デモクラシー』大正の枕詞は新鮮で明るい。しかし、花は咲くもののあわただしかったが、散るのも早かった。
二人のそれぞれの画家は美に対する独自の信念をもち、急激な都市の変化に伴うこの時代の風潮や流行を敏感にとらえたうえで、当時の人々の心情のあり方を繊細に描き出しているように見受けられる。また、当時の女性たちも、多少の違和感を覚えながらも親の絶対的権限は心得ており、良い娘・妻であろうとした。
当時は、まだ、これまでの時代と同様に、姑の言うことを良く聞き、家事全般を行い、子を産み、夫を支え、家庭を守るのが女性の役割であり、求められた姿であった。
国は富国強兵のもと兵力を必要とし,女性に子を産むことを推奨するため良妻賢母の教育を行った。良妻賢母といっても,その内容はただたただ家族に従順であり、家以外のことは何も知らぬ女であれという奴隷教育のようなものであった。
女性の教育の場であるはずの女学校も、裕福層が増えたことで娘を女学校に通わせることが親たちのステータスになり、本気で自立する力をつけさせようとする親はほとんどいない。実際授業の大半は家庭科で占められ、花嫁修業の場と言っても過言ではない状況であった。
新しい時代の自由を身に感じ始めていた彼女たちも、現実は「生活に無力なために、生きるがために結婚することを余儀なくされていたのである。
自分ではどうすることもできない無念さを感じる彼女たちはまさに、抒情画に描かれる、はかなく悲しみを帯びた女性の姿に強く共感することができたのであろう。そこに自分を投影し、竹久夢二によって創られた詩歌のタイトル「宵待草」のように恋に生き、恋人をずっと待ち続ける女性に夢を託し、ある時は虚しく遠くを見つめる女性に自分を見て慰めたりしたのではないかという(※12参照)。
「待てど暮らせど 来ぬひとを 宵待草の やるせなさ 今宵は月も 出ぬそうな.」(宵待草)以下で、歌が出来た経緯と曲がわかる。良い曲ですよ。
宵待草: 二木紘三のうた物語

しかし夢二の描く女性も、華宵の都会的なモダンガールも、描かれるのはあくまで男性から見た女性の姿であり、そこには画家たちの理想像が強く投影されている。彼らは力の弱い、何かにもたれかかる受け身の女性の姿に「もののあわれ」の美を見いだしたのである。それは新しいとはいえない、明治の女性の姿そのままであった。それにも関わらず大正の女性の支持を得たのは絵に対する共感だけでなく、女性が男性に養って貰う他に生きる術を持たないため、男性の求める「女性」の姿を見て取り、より「女性」らしくある必要を受け止めていたからではないかという。したがって、この絵を支持するのは女性に限って言えば女学生や一般家庭婦人、芸者や喫茶店の女給、芸能人などであって職業婦人は少なかったという。
明治までの街並みも趣味も服装も西洋的に変化を遂げ、何から何まで新しく生まれ変わったモダンな大正文化の中で、一大ブームとなった抒情画のその根底を支えていたのは、新しい思想に目覚めた自活した女性ではなく、明治から変わらぬ古い因習にがんじがらめに苦しむ人々であった。彼らの理想と現実に対する絶望感や無力感が原動力となり、大正ロマンのあの独特の負の雰囲気が醸し出されていたのである(※12参照)。
もちろん女学生の生活は学校での授業だけでなく、楽しみや悩みからも成っていた。昔の女学生も現代と同じく雑誌が好きであった。二十世紀の始めに、最も人気があった『少女倶楽部』(1923年創刊)、『少女画報』(1912年創刊)、『少女の友』(1908 年創刊)、『令女界』(1922 年創刊)などの雑誌は、その時代を反映したものであって、そこに表れた豊富な情報をもとに、服装やヘアスタイルその他色々な情報を得た。
大正も中頃になると女性の職業も増え、自活をする女性も現れる。これら本当の意味で新しい女性たちは、周りからの非難・嘲笑にも耐え、自らの力で男女の自由を獲得できない苦しみや「社会的弊害を突破して、恋愛の自由や結婚の自由を実現するようになった。
今年のNHK朝ドラ・連続テレビ小説『ごちそうさん』。主演の卯野 め以子を演ずるはオーディションなしでの直接オファーでヒロインを演じることが決まったらしいが、オーディションなしでヒロインが決定したのは、2012年度上半期『梅ちゃん先生』の堀北真希以来だそうである。
時代設定は大正・昭和期。東京のレストラン「開明軒」の食いしん坊の娘・め以子は大正ロマンを生きる女学生に成長後は、お洒落や恋愛に興味を持ち、高い身長に悩み始めるが、食いしん坊ぶりは相変わらずな上、料理をすることや学問には関心がなく、将来についても結婚したいという漠然とした考えしか持っていなかった。落第が危ぶまれても関係ないと開き直るが、下宿している偏屈な大阪男・西門悠太郎から食べ物になぞらえて勉強を教えてもらい成績が向上した事をきっかけに、自分の人生や、悠太郎に対する気持ちに変化が現れ始め、ついには、太郎と恋に落ち、悠太郎の下に嫁ぐ。そして、苦労しながら食い倒れの街・大阪を舞台に、関東・関西の食文化の違いを克服しつつ、料理と夫に愛情を注ぐことで、め以子が力強い母へと成長していく物語だそうである(ここ参照)。

冒頭の画像は、Wikipedia-コケットリーより、ヘンリ・ジェルボー(ここ参照)のスケッチ。
「よろしければ、この美しい肩に野蛮な男のキスはいかかがですか?」
「もっとよくみた後なら好きなだけ」
これは、ヘンリ・ジェルボーのスケッチにつけられたキャプション、1901年。


いい女の日(2-2)へ続く
いい女の日(参考)