今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

「新婚さんいらっしゃい! 」の放送が開始された日

2007-01-31 | 歴史
1971(昭和46)年の今日(1月31日)「新婚さんいらっしゃい!」の放送が開始された。
関西では、週間視聴率ベスト10常連の人気番組「新婚さんいらっしゃい!」 は、朝日放送(ABC)の制作で、日曜日の午後0時55分から30分間放送されている視聴者参加型トーク番組である。司会は、落語家の桂三枝
その名が示すとおり、新婚夫妻を視聴者から募集し、司会の三枝が毎週2組の結婚生活、婚約までのエピソード等を聞く番組であるが、1971(昭和46)年に始まって、今年は、31年目を迎える長寿番組であるが、昨年の35周年記念番組で、3,500組のカップルを紹介したという。番組では、司会の三枝とアシスタントの山瀬まみ.。
この「新婚さん」の番組はほぼ毎週、主に、大阪市内にあるリサイタルホール(北区中之島のフェスティバルホール地下にある座席数563席の小ホール)で放送1回分の公開収録しているが、観覧は無料で席は、早い者勝ちとか。また、人気があるので、旅行会社のバスツアーにも組み込まれているのだという。
放送では、1組約10分に編集されるが、収録でのやりとりは、30分。三枝は、番組での出会いを大切にするため、本番まで、夫婦と顔を合わせず、プロフィールを聞くだけだという。だから、自然な面白さや、ビックリして椅子ごと転げることができるんだろうね~。
ちなみに三枝が座っているこの椅子は、20年以上も補修しながら使われ続けているのだという。なんでも、あの椅子のように足の部分が細い椅子が探しても無いが、あの椅子でないとコケのパフォーマンスが上手くできないらしい。
この番組は「夫婦百景を紹介しよう」との企画で始まったようだが、番組当初は、新婚夫婦の住まいは多くが文化住宅であり、「風呂の有無」が話題の中心だった。又、1975(昭和50)年頃からは、婚前交渉」1985(昭和60)年ごろからできちゃった婚」が当たり前の話題になったという。21世紀に入り、夫婦別姓、別居、別墓、バツ5に人が登場するようになったという。また、最近は、浮気を疑い、夫のメールを勝手に覗く妻といったように、メールのネタが多くなったという。私もこの番組は調度、食事時に始まるので、食事をしながら見るのには肩が凝らなくて良いので時々見ている。そして、いつも、最近登場する若い男女の性に対する余りにもアッケラカンとした態度には、正直言って、時代の移り変わりを感じるというよりも、日本人も、とうとう、ここまで来たかと、正直あきれ返っている。最初は、人気番組に登場したくて、適当に、実際の事よりも、ふざけたことをネタにして笑わせようとしているのだろうと思っていたが、そうではなく、多少の誇張はあるかは知らないがどうやら本当の事らしい。
最近は、小学校の低学年から、学校で人形を使って性行為を教えている馬鹿げた先生が多くいるといった報道を聞いて、ビックリした事があるが、もう、中学生になると、性交をしている生徒が非常に多く存在しているのは事実だと聞いているものの、結婚をしている大の大人が、人前で、堂々と自分達の性行為に関することを何の臆面もなくいけしゃーしゃーとしゃべっているのを見ていると、笑いたくても笑えなく、ゾットさえする。
前にもこのブログ(2006-12-28、 『菊と刀』が日本で翻訳・出版された日 )で書いたことがあるが、アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトの日本研究書『菊と刀』の中で、ベネディクトは、戦中・戦後のころの日本人の行動規範は、恥にあるとし、それを日本人の「恥の文化」と評している。これは、自分達欧米人の「罪の文化」とを対比させて、それよりも、劣っているものとしているが、今、日本のマスコミで報道されている事件や醜態を見ていると、欧米人の「罪の文化」よりも劣っているといわれた、その「恥の文化」すら、戦後の日本人は、失ってしまったのかと恥ずかしくなる。
最近のTV番組などを見ていると、局としてはお笑いをとるつもりか知らないが、結構年配の少々ぼけ始めたお年寄りに、簡単なクイズを出し、ちぐはぐな回答をするのを笑い者にしている番組があった。今私は腹が立って見ていないので知らないが、同様のとっても笑えない事をネタにして、笑いをとろうとしている番組を結構見かける。しかし、そんな、放送が、堂々とまかり通っているのは、視聴者自身が、そんな番組を、喜んで見ているからだろう。今、政治家が悪い悪いといって批判する人が多くいるが、そんな政治家を選んだのは選挙民である。政治もTVも同じことで、、下らぬ人を選ぶ選挙民、下らぬ番組を面白がっている視聴者がいる限りは、下らぬ政治家も番組もなくなりはしないだろう。
この「新婚さんいらっしゃい! 」のプロデューサーは、「身内の内輪話を聞いているような、お茶の間感を出したい・・・」。そして、40周年、放送2000回を目指して番組作りをしたいと述べているようだが、今、夫婦間の内輪話としてしゃべっているエロ話が、その頃は、もう、「私はやられたらやり返す女。あなたが浮気したら、切り刻んでほかしちゃうわよ・・・」といったような、おぞましい話が、夫婦間の内輪話としてニコニコと笑いながら話し合われるのだろうか・・・?また、司会の三枝は、番組の度に椅子ごと転げるだけでなく、卒倒しなければならないのかな?又、それをゲラゲラと笑って見ている視聴者を想像すると・・・・・・ウウ・・・さむ・・身の毛がよだってきたよ・・・。
(画像は、2006年7月31日の朝日新聞朝刊に掲載されていた画像を借用。)
朝日放送 | 新婚さんいらっしゃい!
http://www.asahi.co.jp/shinkon/
新婚さんいらっしゃい! - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%A9%9A%E3%81%95%E3%82%93%E3%81%84%E3%82%89%E3%81%A3%E3%81%97%E3%82%83%E3%81%84!
仮面ライダー俳優名鑑 - 江美早苗
http://www5e.biglobe.ne.jp/~tatsuz/MaskedRider-WhosWho/e/emi_sanae.html
新婚さんいらっしゃい 椅子から落ちた回数データベース
http://www.kirafura.com/sinkon.htm
『新婚さんいらっしゃい!』を見に行ってみる
http://www5a.biglobe.ne.jp/~yoshi-oh/sonota/shinkon.htm

3分間電話の日

2007-01-30 | 記念日
今日(1月30日)は、「3分間電話の日」
1970(昭和45)年の今日(1月30日)、電話の通話料金が3分で10円になった。
1876(明治9)年に、 アメリカ人のベルが電話を発明 (以下参考の電話の歴史~電話の発明にまつわるお話~参照)。
1877(明治10)年 、アメリカから輸入されたベルの電話機は、さっそく工部省で通話実験された。一方、電信局製機所では、この電話機をもとに模造品を作り、1878(明治11)年 6月、2台の電話機を完成させた。これが、わが国最初の国産電話機である。
1888(明治21)年、東京~熱海間に電話線を架設して通話試験を実施。結果が良かったため、1889(明治22)年1月1日から、東京~熱海間で1年間の一般公衆通話の取り扱い試行を経て、翌1890(明治23)年4月、わが国電話事業に関する最初の法令「電話交換規則」が公布され、東京は4月、横浜は6月に電話交換事務所が設置され、12月16日から交換業務が開始された。これが、日本の電話創業の始りである。この頃、浅草には1階と12階を電話でつないで通話体験ができる「陵雲閣」が建てられた。 (「陵雲閣」のことは、以下参考の「浅草十二階計画」を、参照)
そして、1900(明治33)年に、それまで電信支局や郵便局内の電話所だけにしかなかった公衆電話が、初めて街頭に進出した。まず、東京の上野・新橋の両駅構内の2か所に設けられ、翌10月には、最初の屋外用公衆電話ボックスが京橋のたもとに建てられた。当時公衆電話は「自働電話」と呼ばれていたが、これはアメリカの街頭電話に表示されていた「オートマティックテレホン」をそのまま直訳したものといわれている。先ず、交換を呼び出して、相手の電話番号を告げ、料金を入れるように指示されたら、15銭分の料金を入れる。交換手は、5銭が入ったときの「チーン」や10銭の時の「ボーン」という音を確認してから相手につないだそうだ。翌1901(明治34)年、には、荒っぽい応対ぶりで評判の悪かった男子交換手が廃止され、以来、電話交換手は女性の代表的な職業になったという。
明治末の登場した赤塗り六角形ボックスは、1911(明治44)年には全国で200か所に建てられ、自働電話は庶民の電話として活躍した。
ところが、1923(大正12)年の関東大震災で、自働電話、また、一般電話ともに壊滅的な被害を受けた。この通信状況を復興させるにあたり、交換手のいらない自動交換方式の採用が検討され、ダイヤル式電話が、1925(大正14)年10月1日に登場した。同時に、これと紛らわしいため、「自働電話」は、このとき「公衆電話」と改称された。
第二次世界大戦によって、戦災都市の街角からは、公衆電話のボックスがすっかり姿を消した。たまにあっても見る影もないアバラ屋になりはて、通信不能が大部分となった。逓信省が公衆電話の復旧に手がつかないのは、回線の普通、料金用貨幣の不足など色々な理由があったが、これらよりも、第1の原因は以外にも大衆の「道徳心の低下」だったという。まず、戦災地では、ボックスがマキにされる。ガラスや電球ははずされる、電話機は盗まれる、料金箱は持ってゆかれるという始末であった。戦災地のボックスは9割近くなんらかの被害を受け、生き残っているものも破壊、盗難が相次いだ。そこで、逓信省が考えている復旧対策は、①ボックスはさしあたり、駅付近、デパート、病院、劇場、など利用率が高くて監視の目の届くところから儲ける。破壊に備えて、ジュラルミンせいのものを試作中。②タバコや薬局、書店に「簡易電話所」を置き、そこを優先的に復旧工事をするなどがあげられている。(1947=昭和22年1月1日朝日新聞※週刊朝日クロニクル「週刊20世紀」より)。
そして、1953年1月、深刻な電話不足解消のために登場したのが公衆電話機の店頭設置であった。ひとつは「簡易委託公衆電話」であり、もう一つは「委託公衆電話」であった。これらの電話機は普通の4号自動式卓上電話機が使われたが、1953(昭和28)年10月から委託公衆電話は、よく目立つ赤色にかえられ、これが「赤電話」の始まりとなった。(以下参考の「電話機博物館」の赤色公衆電話参照。)
又、1952(昭和27)年から10円硬貨が流通しはじめたため、翌年1月、ボタン付き硬貨後納式の公衆電話機として4号自動式ボックス公衆電話機が採用された。相手が電話に出てからボタンを押し10秒以内に10円硬貨を投入していた。これが青電話機の第1号となった。
しかし、「赤電話」は一般の黒電話を赤くしただけで、料金投入式でないため、店の人にいちいち頼まなければならないし、通話料金をめぐってトラブルも絶えなかった。しかし、公衆電話のボックスの前は、何時も行列でイライラさせられた。又、後納式の場合、硬貨投入が遅れると片通話のまま相手が切ってしまい、さらに相手が出たことによって通話したとみなし、局の度数計が動作し登算されるなどの欠点があった。
そこで、これまでの料金後納式にかえ、1955(昭和30)年12月、料金前納式による5号自動式卓上公衆電話機、5号自動式ボックス公衆電話機が登場した。この方式は、話し中などの場合でも、料金は収納されず、送受話機を戻せば、フックレバーとの連動により料金は返却される仕組みになっている。それまでとは格段に使用しやすくなり、急速に普及。1960年 には 全国の公衆電話は10万台を突破。そして、この新しい電話の設置以後、公衆電話機はすべてこの料金前納式となった。
そして、1970(昭和45)年の今日(1月30日)、電話の通話料金が3分で10円になった。この日から、東京都心部を皮きりに順次公衆電話から市内通話は「3分打ち切り」が開始されたが、これは、公衆電話の長話を防止するために行なわれたものであったという。
思い起こせば、この頃、よく、電話をしていて、話の途中で、電話が途切れてしまい困った事を思いだす。個人的な話ならよいが、会社などへの仕事で使用した場合など、3分間では、終わらない事が多いものね~。これは、1972(昭和47)年から実施された「広域時分制」によって従来の市内通話も3分ごとに10円の料金が課金されることになり、通話した時間に応じて硬貨を収納する機能を付加した大形電話機が登場することになり解決した。その後、1982(昭和57)年には、キャッシュレス時代に対応して、硬貨が全くいらない、プリペイドカードテレホンカード)が誕生して以降、これらを利用できる公衆電話が設置され、公衆電話の利用が非常に、便利になったのであるが、1990年代後半から携帯電話PHSの普及により公衆電話の利用者が減少し、街から、公衆電話が次々と消えていった。
今では、携帯電話を持たないものにとっては、非常に不便な時代となった。(公衆電話の歴史的なことは、主として、以下参考の「NTT・DIGITAL・MUSEUM」の電信・電話の歴史年表を参照した)
又、テレホンカード全盛の頃は、蒐集家が「カードコレクター」と呼ばれ、稀少価値の高いカードの蒐集に力を入れていた。私なども、結構な枚数を持っているが、公衆電話の減少により、使用もできず困っている。家の電話の通話料の支払いなどにテレホンカードを充当できるようだが、私などの家では、普通電話も相手からかかってくることはあってもかける事は少なく、基本料以外はしれており、使い切れない。(基本料には使用できないため。)
普通は、公衆電話を使用するために発行したものを、公衆電話を極端に少なくして、使用できなくするのであれば、発行したテレホンカードを、手数料は差し引いたとしても、買い戻すべきではないか。又、NTTの携帯電話部門は、DOCOMOなどという別会社にしているが、通話料の支払いと言うなら、DOCOMOの支払いにも使えるようにすべきだろう。
大体、普通の者にとって、通常電話と携帯電話の2通りの電話など必要ないのである。日本電信電話公社からNTTなどと、名前だけ変えて民間会社になったと言っても、考え方は、全く、親方日の丸的だと思うのだが、皆さんは、どう思われますか。
(画像は、1926年、東京と横浜で自動式電話交換機を導入。その電話のかけ方を知らせるポスター。「ジージーの音はお話中、ツーツーの音は呼出中」と説明している。朝日クロニクル「週刊20世紀」より)
電信・電話の歴史年表/NTT・DIGITAL・MUSEUM
http://park.org/Japan/NTT/DM/html_ht/HT_idx_j.html
公衆電話 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E8%A1%86%E9%9B%BB%E8%A9%B1
電話 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E8%A9%B1
電話の歴史~電話の発明にまつわるお話~
http://asaseno.cool.ne.jp/history.htm
浅草十二階計画
http://www.12kai.com/
電話機博物館
http://www.naonao.jp/html/museum/index.htm
NTTグループホームページ
http://www.ntt.co.jp/index_f.html



ブッシュ米大統領による「悪の枢軸」発言の日

2007-01-29 | 歴史
2002年 の今日(1月29日)は、ブッシュ米大統領が、北朝鮮・イラク・イランを「悪の枢軸」と発言した日。
2002年の今日(1月29日)、米国のジョージ・ブッシュ大統領は、一般教書演説の中で反テロ対策の標的として、北朝鮮(民主主義共和国)・イランイラクの3ヶ国を名指しして、「悪の枢軸(すうじく) (英語では「axis of evil」)」と総称して批判し、これら3国は大量破壊兵器を保有し、世界に脅威を与えるテロ支援国家であるとした。
この教書での「悪の枢軸」という表現は、ウィンストン・チャーチルが、第二次世界大戦時にアメリカ、イギリスなど連合国と戦った大日本帝国、ドイツ、イタリア王国、ブルガリアなどで構成する諸国を指して使用した「枢軸国」と、冷戦中にロナルド・レーガンによって当時のソ連を指して使われた表現である「悪の帝国」からの引用を組み合わせたものと見られる。
しかし、3国が軍事協定の類いを結んだ様子もない事から(枢軸国と呼ぶのはおかしい。これらの言葉には、「民主主義と平和の敵。危険な国家」を象徴する意味合いで使われているようだ。
しかし、この「悪の枢軸」発言は、世界的に大きな波紋を広げ、NATO(北大西洋条約)を介して同盟関係にあるはずの欧州諸国の外相からも「乱暴な言い方だ」等と苦言を呈された他、中国、韓国やロシアも反発。非難された国々は、大国の「挑発的かつ、侮辱性的な発言」であるとして、反駁(はんばく)、北朝鮮などが態度を硬化させる原因にもなった。
イラクは、その後拒否していた国連の兵器査察も受け入れるが、査察では、大量破壊兵器など発見はされなかった。しかし、2003年3月20日、ブッシュ大統領は、イラクが大量破壊兵器を廃棄せず保有し続けているという大義名分をかかげて、国連安保理決議1441を根拠として一方的にイラク攻撃を開始した。攻撃はアメリカ軍が主力であり、イギリス軍がこれに加わった。そして、4月9日、バグダッドは陥落し、5月2日にはアメリカのブッシュ大統領が大規模戦闘終結宣言(開始から44日目。戦争終結ではない)を出した。
フセインは、逮捕され、2006年11月5日 イラク高等法廷にて人道に対する罪として死刑判決を受け、12月26日 同法廷にて1審死刑判決が控訴審で支持され、死刑確定。 その4日後の12月30日 絞首による死刑が執行され刑死した。しかし、その後も、イラク武装勢力によるアメリカ軍、イラク新政府への抵抗が続いており、未だに、戦闘状態は終了せず、多くのイラク市民、米兵に死者を出しており、「ベトナムの悪夢の再現」が心配されだしている。日本も戦闘終結宣言後、イラクの復興援助を理由に派遣していた自衛隊は、空軍以外は、引き上げてきたが、何時、全面撤去ができるかは、不透明である。
元来アラブ民族主義の申し子であったサダム・フセインは、大統領に就任した後、イスラム教を掲げて政治に乗り出そうとする勢力を政権の脅威と見なして弾圧し、南部のシーア派地域を中心に高まりを見せていたイスラム主義イスラム原理主義)の動きを弾圧、多くのシーア派法学者(イスラム聖職者)が逮捕、殺害、国外追放の処分を受けた。クルド人の自治運動にも敵対的な姿勢で臨み、その活動を妨害した。反対派への粛清、それによる恐怖政治、クルド人に対する弾圧から国外的にはアドルフ・ヒトラーなど同様の独裁者として恐れられた。しかし、国内的には政治・経済が安定し、その統治に国民はやがて慣れ安住していった。
ただし、その後、アメリカとの対立姿勢を明確にした後は、キリスト教社会との対決を訴え、イスラム世界の連帯を唱えていた。
しかし、ブッシュが、「悪の枢軸」として、非難しているそんなイラクを支援してきたのは、アメリカである。
そのことは、Wikipediaのイラン・イラク戦争とアメリカによる支援の中で、書かれているが、以下の重要な記載を見落としてはいけないだろう。
アメリカが、イラクを支援したのは、1979年にイラン・イスラム革命によってイランにシーア派のイスラム共和国体制が成立し、イラン政府は極端な反米活動を展開したことから、中東の反米政権を潰す目論みを立てたアメリカは1984年にイラクと国交を回復し、1988年に至るまでフセイン政権を支援し総額297億ドルにも及ぶ巨額の兵器供給を行った。その後、フセイン政権は1980年から1988年まで国境紛争でイランと戦い(イラン・イラク戦争)、この戦争のさなか1988年3月に、フセイン政権が国内に住むクルド人に対して、毒ガスを使って大量虐殺を行ったが、当時のアメリカのレーガン政権はこれを黙認していたという。
そして、イラン・イラク戦争で、アメリカがイラクを支援した理由には、イランが他の中東諸国にイスラム革命の輸出を行なえば、サウジアラビアやクウェート、アラブ首長国連邦などスンニ派が実権を握る宗教色の薄い親米政権が危うくなり、石油の確保などアメリカの利益も危ぶまれる可能性があったからだとされている。又、国際連合の調査によりイラクが化学兵器を使用していることが判明すると戦争に対する世界的な非難が高まったが、以下はジョージ・ワシントン大学がアメリカの情報公開法に基づき政府に開示させた資料を元に書くとして、以下の記述がある。
「アメリカはラムズフェルド(前国防長官)を特使としてイラクに派遣、全面的な支援を約束した。武器提供・石油パイプラインの建設などでイラン・イラク戦争の開戦を促した。そして、イラクとアメリカの会談の際、話が化学兵器に及ぶとアメリカ側のジョージ・シュルツ国務長官は「我々は特に問題視していない」と答えた。そのため、イランと結びつく危険のある国内の反対勢力である少数民族のクルド人に対して化学兵器が使用されたとされる。また英国メディアによるとこの時期、イラクに向けて化学兵器・生物兵器の原料がアメリカ、イギリスから輸出された。」・・・と言うのである。
これが本当なら、自分に都合よいときは、化学兵器・生物兵器の原料を輸出し、その使用を認めていながら、都合が悪くなると、そのような兵器等を持っている可能性があるからといって、その国を「悪の枢軸」として、一方的に攻撃するというのはどんなものだろう。これは、自国は核を持ちながら他の国には持たせないと言う以上に、余りにも勝手な理屈ではある。イラク攻撃が始まったときから、「アメリカは石油をコントロールするためにイラクを攻撃したいのではないか」と疑われ、非難されてもいた。
アメリカ同時多発テロ以降のアメリカは、テロ組織アルカイダを支援しているとしてフセイン政権のイラクに強硬姿勢を取るようになったが、イラク攻撃自体は同時多発テロ以前から、湾岸戦争時国防長官だったチェイニー副大統領を中心とする政権内部のネオコンで既に議論されていたといわれている。
「9.11テロ事件」の犯行はテロ組織が犯したものであって、イラクではない。イラクの独裁的な行為等の問題については、国連が交渉と対話を通じて解決する道筋を探るべきことであった。反テロを口実に、国内事情はどうあれ、一つの主権国家に対し侵略同然の軍事行動をとるのは民主国家の建設どころか、国際反テロ同盟を乱し、世界中にテロが広がり、収束のつかない事態になろうとさえしている。
ベネズエラのウゴ・チャベス大統領がブッシュの「悪の枢軸」に対して、中南米左翼政権の連携を、「善の枢軸」ともじったと言うが、日本など、折角、憲法のもと、非核三原則の態度を貫いてきたのだから、この方面での正に、「善の枢軸」の連帯を形成していって欲しいと思うのだが、現実には、憲法改正論議や、本年(平成19)1月9日防衛庁が、防衛省に移行したのを期に、どうも、その反対の方向へ行きそうな空気が、広まってきたことが憂慮される。
(画像は、ジョージ・ブッシュ米国大統領。フリー百科事典Wikipediaより)
参考:
Wikipedia - 悪の枢軸発言
http://ja.wikipedia.org/wiki/悪の枢軸発言
サッダーム・フセイン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%83%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%BB%E3%82%A4%E3%83%B3
自衛隊 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E8%A1%9B%E9%9A%8A
憲法改正論議 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%86%B2%E6%B3%95%E6%94%B9%E6%AD%A3%E8%AB%96%E8%AD%B0
田中宇の国際ニュース解説
http://tanakanews.com/


初不動

2007-01-28 | 行事
今日(1月28日)は「初不動」
毎月28日は不動明王の縁日で、一年で最初の縁日は「初不動」と呼ばれている。
不動明王は、お不動さんなどと親しく呼ばれ、信仰の対象としては、観音さん(観音菩薩)、お地蔵さん(地蔵菩薩)と並んで一番馴染み深いものでないだろうか。
母のような微笑を浮かべる観音、のどかな雰囲気の地蔵と異なり、不動明王は忿怒の相を表した恐い感じの仏であり、宗教学者の山折哲雄氏は日本人は、これらの像に母・父・子のイメージが投影されているのではないかとの指摘をしているようだが、なるほど、そのような感じは受けるよね~。
この不動明王は、仏教における密教特有の尊格である明王(みょうおう) の一つで、密教の根本尊である大日如来の化身、或いはその内証(内心の決意)を表現したものであると見なされている。
数多い明王の中でも中心的役割を担う5人の明王を五大明王と言うが、その中心に据えられているのが、不動明王である。
不動明王は、サンスクリットではAcalanatha(アチャラナータ;古代インドではシヴァ神の異名)と言う。「アチャラ」は「動かない」、「ナータ」は「守護者」を意味し、全体としては「不動の守護者」の意味だそうである。弘法大師空海が中国より密教を伝えた際に日本に不動明王の図像が持ち込まれたと言われる。その後に天台宗の円珍(えんちん)や、安然(あんねん)などによって信仰が広められた。
密教では、一つの「ほとけ」が「自性輪身」(じしょうりんじん)、「正法輪身」(しょうぼうりんじん)、「教令輪身」(きょうりょうりんじん)という3つの姿で現れるとするそうだが、「自性輪身」(如来)は、宇宙の真理、悟りの境地そのものを指し、「正法輪身」(菩薩)は、説法する姿を指し、「教令輪身」は、仏法に従わない者を教化し、仏敵を退散させる、実践的な働きを指しており、その中で、不動明王は大日如来の教令輪身とされているそうだ。そのため、煩悩をかかえ、もっとも救いがたい衆生をも力ずくで救うために、忿怒の姿をしているという。
様々な不動明王像が見られるが、よく見られる像は、眼光鋭く、怒りによって逆巻く髪は活動に支障のないよう弁髪でまとめ上げ、法具は極力付けず軽装で、法衣は片袖を破って結び、右手に降魔の三鈷剣(魔を退散させると同時に人々の煩悩を断ち切る)、左手に羂索(けんじゃく=悪を縛り上げ、また煩悩から抜け出せない人々を救い上げるための投げ縄のようなもの)を握りしめ、背に迦楼羅焔(かるらえん=三毒を喰らい尽くす伝説の火の鳥「迦楼羅(元はインドのガルーダ(金翅鳥))」の形をした炎)を背負い、憤怒の相で粗岩(磐石(ばんじゃく))の上に座して「一切の人々を救うまではここを動かじ」と決意する姿が一般的である(日本では坐像の他、立像も数多く存在している)。
平安中期から鎮護国家や滅罪・除災招福・降魔を祈る本尊として、また修験道でも中心的な仏として広く信仰され、又、鎌倉時代の後半からは、不動や愛染明王信仰が急速に高まり、鎌倉武士は、鎧の胴に不動明王を描く事が流行したという。又、「護摩の煙の濛濛(もうもう)たる中、揺らめく焔を浴びて、不動の如く、悪魔の如く、幕府調伏(ちょうぶく)を懇祈(こんき)する」・・・そんな後醍醐天皇の密教への傾倒は、天皇史上例を見ない異常なほどのものであったが、これは、この時代の新しい形の密教の姿でもあった。しかし、不動明王の憤怒の相は、我が子を見つめる父親としての慈しみ=外面は厳しくても内心で慈しむ父愛の姿を表現したものであるとも言われ、江戸時代には爆発的な庶民信仰を集めた成田山新勝寺の不動明王へと信仰が拡大していった。
不動明王を祀る寺院は、多くあるが、不動明王を祀る主な日本の寺院として、近畿地方のものは、以下のHPが参考になるだろう。
近畿三十六不動尊霊場会 公式ホームページ→http://www.kinki36fudo.org/
又、滋賀・園城寺(三井寺)の「黄不動」(絹本着色不動明王像、国宝) 、京都・青蓮院の「青不動」(絹本着色不動明王二童子像、国宝 )、和歌山・高野山別格本山 明王院の「赤不動」(絹本着色不動明王二童子像、重要文化財)が日本三不動と言われて特に有名である。お不動さんのお参りでなくても、又、観光などの時に覚えておいて、拝観すると良いだろう。
(画像は、不動明王坐像。金剛峯寺蔵。週刊朝日百科「日本の歴史より)
参考:
仏教-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99
不動明王-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E5%8B%95%E6%98%8E%E7%8E%8B
五大明王
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%A4%A7%E6%98%8E%E7%8E%8B
仏の尊格について
http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/sonkaku.htm
ガルダ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AB%E3%83%80
辮髪 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%AE%E9%AB%AA
真言宗醍醐派慧印法流修験道場玉龍山観真寺
http://www.kanshinji.or.jp/cgi-bin/kansinji/sitemaker.cgi?mode=page&page=page1&category=0
名宝の紹介>秘仏>金色不動明王画像
http://www.shiga-miidera.or.jp/treasure/abinusttp/01.htm
高野山別格本山 明王院
http://www.shukubo.jp/05_syukubo/a16.html
青蓮院門跡・国宝 青不動尊
http://www.shorenin.com/aofudou.html


ハワイ移民出発の日

2007-01-27 | 記念日
今日(1月27日)は「ハワイ移民出発の日」
移民条約によるハワイへの移民第1号の船『シティ・オブ・トーキョー号』がハワイへ向けて横浜港を出航したのが1885(明治18)年の今日(1月27日)だったそうである。
ハワイ移民の歴史は、1778年にジェームス・クックを船長とするイギリス船の来航から始まったといえる。その後、外国船が頻繁に来航するようになると、カメハメハ大王は、白檀貿易を王朝の独占事業とし、莫大な富を得て政権の基礎を築き、その資金をもとに、白人たちが持ち込んだ銃器を利用し、3つの王国が分立していたハワイ諸島を統一、ハワイ王国を建国する。
1820年 になると、多くの宣教師がアメリカから移住し、キリスト教文化がハワイに定着していく。また、アメリカ人によるプランテーション農場のための土地の収奪がはじまる。ハワイではじめて「産業」として確立されたのがこのプランテーション業といえる。
これによってハワイには莫大な収入がもたらされが、サトウキビプランテーションには 1:広大な土地と、 2:砂糖1ポンドにつき1トンと言われる膨大な水、それに 3:安い大勢の労働力を必須とした。
ハワイ諸島の一般的な傾向として、諸島の北東側は降水量が多く、南西側は降水量が少ないという自然条件があり、サトウキビプランテーションも、当初は降水量の多い、諸島の北東側の土地に開設されていくが、次第に、降水量の少ない、諸島の南西側にも開設されるようになっていった。そのため、水資源を得る為の用水路造りなどの労働力不足を補うために、中国:福建省と広東省から初の移民受け入れを開始したが、アメリカのカリフォルニアで増えすぎた華系移民 排斥運動などの影響から、1865年ごろより、中国人労働者に代えて日本人労働者を導入しようという動きがハワイ政府の中から起きてきた。
一方、近代日本人の海外移民は、ジョン万次郎などごく少数の漂流民を除けば、1868(明治元)年の所謂「元年者」と呼ばれるものが始めてである。これは、1868(明治元)年4月、アメリカ人で、横浜に在住していた貿易商人ヴァン・リードの世話で、ドイツ商社に雇われた男女42人がグアムに移住し、更に、同月、やはり、ヴァン・リードが141人(120人とも153人とも言われている)をハワイに移住させたものでる(週刊朝日百科「日本の歴史」)。しかし、これは、一応、非合法(江戸幕府とイギリス人ブローカーの契約だったため、明治新政府から認められず、パスポート不所持のまま移民)な集団移民第1号と言うことになる。この元年者の移民は正式に明治新政府の認めたものでない上に、現地でも最初からトラブル続きなどで色々問題があったようである。明治政府は、この後、20年近く、海外移住を許可していない。
1881(明治14)年 3月 ハワイ王国カラカウア王が世界一周旅行の途中に訪日。赤坂離宮で明治天皇に謁見し、山階宮定麿親王と自分の姪の結婚を願い出るが断られる。
但し、このとき、同時に日本政府に公認の移民の実現を申し出たことを契機に、やっとハワイへの移民が再開され、 1885(明治18)年の今日(1月27日)、政府公認の第1回移民船『シティ・オブ・トーキョー号』で940人余(927人の説もある由)が横浜を出発した。
このときの移民は、日本・ハワイ王国の政府間で労働条件などを定めた約定書に基づく移民であることから、この移民は「官約移民」と呼ばれている。以後、日清戦争の前年1893(明治26)年まで、この制度の下で約3万人がハワイに労働者として渡航しているという。
日清戦争開戦の年(1894=明治27年)政府は、移民保護規則を交付、移民事業を政府の手から民間移民会社に移した。翌々年の移民保護法交付もあって、40社にも達する移民会社が出来、約4万人もの人が移住したという。これを「契約移民」と言うが、これは、海外への永住をめざした「移民」ではなく、数年間の契約労働を目的にしていた出稼ぎ労働者であり、この時が、ハワイ移民の全盛時代であった。
しかし、ハワイは、1898(明治31)年、アメリカに合併されてしまい、アメリカの契約移民禁止法がハワイにも適用されて移民が困難となる。
外務省が移民会社にハワイ移民停止を言い渡すのは1908(明治41)年で、その年のハワイ在住日本人は、6万6千人いたという。
ハワイへの移民が困難となった後、移民の本流は、アメリカ、カナダに移るが、1907(明治40)年には、日米戦争の危機さえ憂慮されていた。そのために、林董(ただす)外務大臣と駐日大使オブライエンとの間で、一連の「日米紳士協定」が締結され、米国への移民は日本政府によってこの年から翌年にかけて自主的制限がされることとなった。にもかかわらず、アメリカでの排日運動は、収拾せず、日本人は土地所有や家族呼び寄せなどもできなくなり、1924(大正13)年の排日条項を含む新移民法の制定で日本人移民は禁止となる。(排日移民法参照)。アメリカ・カナダへの移民が困難になった時に登場したのが、ブラジル移民と朝鮮・満州への移民である。このように、移民には、19世紀末以降、第二次世界大戦後暫くの間迄日本政府が、積極的に関わって行なわれてきた。
移民ではなかなか成功するのは難しい。皆さん凄い苦労をされているが、その中でも、まだ、ハワイへの移民ではそれ以降の移民に比べて成功者が多い方だろう。
(※ハワイ移民の事については、以下参考の中でも「アロハWebかわら版/ハワイ日系移民の歴史」が特に詳しく書いている。興味のある方は参考にされるとよい。)
1941年12月7日(日本時間12月8日) 真珠湾攻撃が行われ、太平洋戦争大東亜戦争)が始まった。
しかし、ハワイの日系人は、日本人会会長や僧侶など、日本人社会を代表する一部の人々を除き収容所に収容されなかったという。これは当時、ハワイが正式な州でなかったこと(1898年米国に併合後、1959年正式に、米50番目のハワイ州となる)、アメリカ本土から離れていること、そして何より、当時の人口の4割程度を占める(人口動勢参照)日系人を強制収容すれば、ハワイの社会や経済活動が崩壊しかねないという事実が影響したようだといわれている。
そして、戦時に際しては、ハワイで生まれ育ち、合衆国の市民権を持つ日系の若者の多くは、自ら進んで志願兵となることで祖国に対する忠誠心を示そうとした。彼らハワイの日系人だけで組織された陸軍第100大隊は、後に本土の日系人部隊と合流し442連隊となり、欧州戦線において多くの犠牲と引き換えに目覚ましい戦果を上げたという。彼らの献身的で勇敢な戦いはすべてのアメリカ人に深い感銘を与え、ハワイのみならず戦後の米国社会における日系人の地位向上に大きく貢献したそうだ。
晴れた空 そよぐ風 港出船の ドラの音愉し
別れテープを 笑顔で切れば 
望みはてない 遥かな潮路
ああ あこがれの ハワイ航路♪
石本美由起:作詞、 江口夜詩:作曲「憧れのハワイ航路」戦後、大ヒットした岡 晴夫の歌である。
ここでは、歌詞を見ながら曲が聴けるよ。↓
http://www.tei3roh.com/akogarenohawaikouro.htm
戦後の日本人にとって、ハワイは、憧れの地となった。
ハワイは日系人が多く住んでおり、3世以降の日系人の殆どは日本語が話せないというが、それでも単語のみを知っていることが多いといい、旅行会社などハワイ在住の日本人駐在員も多く、観光地では、日系人以外でも日本語を理解できるものが多いことから、今でも、日本人にとっては人気の観光地である。私も、1度だけであるが、ハワイの観光をしたが、英語が話せなくてもどこでも日本語が通用し、観光やショッピングなどには殆ど支障がなかった。ガイドに聞くと、ハワイでは、日本語ができないと観光などの仕事には就けないといっていた。
気候風土も良いし何度でも行ってみたいところだよね。
(画像は、ハワイ島 NASA撮影。フリー百科事典Wikipediaより)
移民 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%BB%E6%B0%91
排日移民法
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%92%E6%97%A5%E7%A7%BB%E6%B0%91%E6%B3%95
海外移住資料館
http://www.jomm.jp/index.html
2006年3月号ミクロネシア博物誌 - 幕末の日本人グアム出稼ぎ
http://www.hafadai.net/2006/03/hakubutusi.html
日本人の海外移住略史、1868年-1998年
http://www.janm.org/projects/inrp/japanese/overview_ja.htm
日清戦争 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%B8%85%E6%88%A6%E4%BA%89
アロハWebかわら版/ハワイ日系移民の歴史
http://www.pacificresorts.com/webkawaraban/nikkei/031106/
日本ハワイ移民資料館
http://www.town.oshima.yamaguchi.jp/hawaii/
ハワイ州 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AF%E3%82%A4%E5%B7%9E
日系移民の歴史
http://likeachild94568.hp.infoseek.co.jp/index.html
第100大隊と第442戦闘部隊
http://contest.thinkquest.jp/tqj1998/10060/dainyakudaitai.htm
神戸市文書館 神戸歴史年表
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/06/014/year/meizi_23_26.html