今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

シニアーズディ

2012-04-28 | 記念日
「シニアーズディのことについては、一度書いた。
ここ参照。
“大人として自信を持ち、自分なりの価値観で生活を創造する人々をシニアと呼び、40代後半から50代後半のシニア世代に共感される音楽やメッセージの発信の日にしたいと、株式会社・中村泰士Doプロデュースが制定したもの。
記念日を登録した中村泰士は、佐川満男の「今は幸せかい」や、ちあきなおみの「喝采」、細川たかしの「北酒場」などで知られる奈良県出身の作詞・作曲家であるが、中村氏のホームページ(※1)を見ると、“本来「Senior」には、年長者、上級者、先輩の意味で「尊敬の念」を含み、例えば「シニア・クラス」と呼ばれる場合のそれは、名誉の称号であり、そこでシニアという言葉本来の意味をとりもどし、成熟した大人たちが胸を張って、自分たちに自信と誇りを持つ記念日を持とうということで、2001(平成13)年に記念日登録し、この日には「シニアーズディ」を記念したイベントが行われているそうだ。
又、この年代を、粋な大人、いつまでも若々しさを失わない愛すべき大人「キュートナー」(「キュートな大人」という中村氏の新語)と呼ぶことも提唱し、9月17日を「キュートナーの日」(キュー〔9〕ト〔十〕な〔7〕」の語呂合せ)としても制定している。そして、以下のサイトも立ち上げている。
Cutener(キュートな大人に贈る、大人を楽しむための情報サイト)
http://www.0917.tv/index.htm
上記サイトでは、今年3月11日、未曾有の大災害をもたらした東北地方太平洋沖地震で被災された人々やそのご家族の心のケアーに是非お役に立ちたいと、復興の願いを込めて、中村氏が作詞・作曲した応援ソング「時は来る」(新曲)を、特別無料配信(音楽公方 泰士より)している。非常に良い曲なので、是非聞いて見られるとよい。
この「シニア世代」とは、シニア(Senior)という英語から来ており、この言葉には「年長者」「上級生」「上級者」という意味があるが、一般的には「ジュニア(Junior)」の対義語として使われることが多く、特定の年齢層を意味している訳ではない(※2参照)。
従って、今日の記念日「シニアーズディ 」では、40代後半から50代後半を「シニア」に位置づけているようだが、実際には、何歳ぐらいを「シニア」と呼ぶか・・・など、「シニア」に対する考え方は、人によって、かなりの違いがあるようだ。
因みに、Yahooの意識調査(実施期間:2007年7月2日~2007年7月13日)「何歳からがシニア?」といったアンケートの結果から、何歳位を「シニア」と見ているかを上位順に書いてみると、60歳以上42%、65歳以上22%、50歳以上14%、70歳以上10%、55歳以上が8%となっており、中には、75歳以上2%もあり、つまるところ、60歳以上を「シニア」と答えた人が76%にもなるが、これは、退職や年金などの関係から、60歳以上を区切りとした人が多いからのようだとの補足書きがあったが、確かにその面もあるだろうが、今のような長寿社会では、60歳代前半ぐらいまではもうシニア世代としてみてもよい時代になっているといえるかもしれない。
年下の人。年少者をいう「ジュニア」の対義語「シニア」(年長者)に対して、老年世代のことを「シルバー(silver)」などという言葉が使われたりしているが、これは、頭が白髪(シルバー)になることから連想された和製英語であるが、語源は旧国鉄(現JR)が当初、高齢者や身体障害者を対象にした優先座席を、他の座席と区別するため、シルバーグレー色のシートを設定し、「シルバーシート」の名前を付与したことかららしい。
この人達を対象とした「シルバー世代」も、どの年代を言うかは、「シニア世代」同様人によって違ってくるが、私など、少なくとも65歳以上、いや70歳以上でもよいのではないかと思っている。
このようなカタカナ用語ではなく、日本語で世代を区分しようとすると、内閣府の1998年度(平成10年度)の『国民生活白書』の「中年-その不安と希望」では中年世代を、概ね40代-50代と定義づけている(※4参照)。中年とは成人として中くらいの年齢。すなわち壮年期(普通35歳-49歳頃迄)を過ぎたころから初老の域に入るまでを指す。しかし、厚生労働省の一部資料(健康日本21など。※5参照)では、0 - 4歳を「幼年期」、5 - 14歳を「少年期」、15 - 24歳を「青年期」、25 - 44歳を「壮年期」、45 - 64歳を「中年期」、65歳 以上を「高年期」という区分をしており、こちらの「中年」世代は『国民生活白書』よりも相当幅を広くしており、何の目的で世代を見ていこうとするかなどといったことでも相当見方は違ってくるようだが、私は、こちらの「中年期」(45 - 64歳)よりも少し上の50代から60代位をシニアと見たいものだ。
日本の総人口は、初めて国勢調査が実施された1920(大正9)年には5596万人であったが、その後、第二次世界大戦に入ると、戦争による減少があった1945(昭和20)年を除いては、一貫して増加してきた。
1945(昭和20)年に7200万人であった総人口は、戦中戦後の「産めよ増やせよ運動」など日本政府による人口増加政策によって、1947(昭和22)年から1949(昭和24)年にかけて生まれたベビーブーム(第1次団塊の世代の誕生)により、1948(昭和23)年に総人口は8000万人(出生児数2702千人)を超え、8 年後の1956(昭和31)年に9000万人を超えたあと、その11年後の1967(昭和42)年に初めて 1 億人を突破。そして、第 2 次ベビーブーム(1970年代頃、団塊ジュニアが誕生)を経て、1974(昭和49)年には、1 億1000万人を、1984年に 1 億2000万人を超えた( 1 億2024万人)。
その後の20年間は、前年比増加率が年々縮小しながらも総人口の増加は続き、2000(平成12)年には、1億2692万人、その4年後2004(平成16)年には 1 億2778万人に達していたが、翌2005(平成17)年の国勢調査(※3の国勢調査参照)で、これより約 2 万人近く減少したことが明らかになった。
又、総人口の減少ばかりに目を奪われているが、年少人口( 0 ~14歳)と生産年齢人口(15~64歳)は、それぞれ、すでに1979(昭和54)年と1996(平成元)年以降に減少に転じていたのである(データーは※3の日本統計年鑑>第2章 人口・世帯>総人口の推移を参照)。
このように日本は世界でも類を見ないスピードで少子高齢化が進行していたわけであるが、日本は、1970(昭和45)年の国勢調査で高齢化率(65歳以上の人口が総人口に占める割合)が7%を超えた(7.1%)「高齢化社会」に、1995(平成7)年調査で14%以上(14.5%)の「高齢社会」に、また2007(平成19)年(には21%以上21.5%)の「超高齢社会」となっている(※3の日本統計年鑑>第2章 人口・世帯>年齢階級別人口及び年齢構成指数参照)が、国立社会保障・人口問題研究所(※6)が行った人口推計では、2055年には、総人口が8933万人にまで減少した上で、年少人口( 0 ~14歳)8,4%:生産年齢人口(15~64歳)51,5%:老年人口(65歳以上)40、5%となり、家庭又社会を支えていかなければならない働き手(生産年齢人口)が総人口の半分しかいないという酷い状態になることが予測されているのである。
現在の人口は、平成21年度の人口ピラミッドを見ると第1次ベビーブームの団塊の世代(1947年 – 1949年)と第2次ベビーブームの子団塊世代(1970年 - 1974年)の2つの世代に大きな膨らみがあり、成人人口の半数は50歳以上であり、団塊世代を中心とした55歳から70歳までのボリューム(平成21年度の総人口に占める割合:55-59歳913万人〔7,2%〕、60-64歳941万人〔7,4%〕、65-70歳839万人〔6,6%〕)が非常に大きく、出生数の減少で若い世代の裾が狭まっていることがよくわかると思う。
この団塊世代という言葉は、作家の堺屋太一が1976(昭和51)年に発表した小説『団塊の世代』で、戦後のベビーブーム期の人々が2000年までにたどる人生ドラマを、6~7年刻みの4話構成で描き、日本の人口高齢化問題を世に問うたことから使われ始め、この世代が日本社会に及ぼす影響の大きさが一般社会にも認識されるようになり、人口動態学(人口参照)による社会現象分析やマーケティングに活用されることが多くなった。
このような中で、2005(平成17)年から戦後生まれの人達が、又、2007(平成19)年からは団塊世代と言われる人達が一斉にリタイアを始め、高齢者の仲間入りをするようになったことから、これからの日本のかたち(人口ピラミッド)を考える時、これらシニアが生き生きと暮らせる社会であるかどうかが非常に重要な視点となるが、又、マーケットの世界においても、国内市場がどんどん縮小する中、これらシニアマーケットを如何に捉えることができるかが、最重要課題であることに相違はない。
戦後生まれや団塊の世代の大半は、戦後の激動の時代を生き抜き、家族のため、子供のため、或いは会社のために、今日まで無我夢中で走って来た人達ではあるが、この年代の人達は60代になっても、健康で活動的であり、まだまだ働ける元気な状態にあり、還暦を迎える年代になったからといって、昔のように「高齢者」と呼ばれることを望んではいないだろう。
しかも、急速な少子・高齢化の進行により、年少や老年人口を養う能力(生産年齢人口の減少)の限界に達してくると、年金・医療・福祉など財政面だけで無く日本の社会における労働力不足は日本経済にも影響するなど様々な問題が生じてくることから、これら豊かな経験を積み重ねてきた人たちを「知的生産者」として、その能力を発揮してもらえる社会にする必要もあり、政府は、①65歳までの雇用の確保、②中高年の再就職の促進、③多様な就業機会の確保を内容とする改正高年齢者雇用安定法を2004(平成16)年6月5日に成立させ、同年12月1日から施行(高年齢者の安定した雇用の確保等を図るため措置については平成18年4月1日から施行)している(※7)。しかも、団塊の世代の人達などは経済的なゆとりもあり、高度成長期の大量消費を経験し、様々なブームやヒット商品を生み出してきた。1960年代のアイビールックや、1970年代のアンノン族、80年代のニューファミリーを形成してきたのも、又、インターネットによる株取引やパソコン、デジカメといったデジタル家電人気を牽引してきたのもこの世代である。
いわば、がむしゃらに働きながらも、自らの人生を楽しみ、より積極的に生きるアクティブな人たちであり、こういった人々がこれからの日本の社会を牽引していくことになるだろう。
しかし、世間ではその人たちを昔と変わらず高齢者と見て接しており、当人と世間との間で意識にギャップのあることが内閣府等の調査で判明している(※8:内閣府:政策統括官:共生社会政策担当「高齢社会対策」の「高齢社会対策に関する調査」など参照)。
こういった意識のギャップは、高齢化の急激な進行と無関係ではないだろう。60 代以降の意識の変化に伴い、彼らのライフスタイル(生活様式。生活の仕方。)も変化してきているはずであり、それを受けて社会のスタイルそのものも工夫していかなければならないはずだ。
成人式に対して、還暦を第二の人生の出発として祝う「還暦式」と呼ばれるものが行われている地域も現れている(千葉県市川市など)と聞くが結構なことだ。
マーケットにおいてもこのようなアクティブなシニア・シルバー市場を開拓してゆけば、日本に新しい大人文化が生まれるのではないか。 冒頭の画像は、アニメ映画「テレビまんが 昭和物語」(2011年1月公開)のチラシである。
4月から、テレビアニメとしても放送されているようだ。私は、この映画もテレビも見ていないが、業界初のシニア・団塊世代をターゲットにしたアニメ作品で、昭和39年の高度成長期に沸く東京を舞台に、「家族の絆」と「日本のものづくり」をテーマとしたものだそうだ。どうも「ALWAYS 三丁目の夕日」(2005年公開)のアニメ版のようなものらしいが、映像のカット割りやセリフなども、60歳以上のシニア層が見やすいように、ゆっくりと分かりやすい演出手法を採用しているという。
アニメ映画の世界でも、シニア・団塊世代に見てもらうこと意識しなければならないほどこの年代層のボリュームが大きく、影響力が強いと言うことだろうね~。
参考:
※ 1:中村泰士ホームページ
http://columbia.jp/~yasushi/index.html
※2:seniorの意味 - 英和辞典 Weblio辞書
http://ejje.weblio.jp/content/senior
※3:統計局ホームページ
http://www.stat.go.jp/index.htm
※4:国民生活白書
http://www5.cao.go.jp/seikatsu/whitepaper/index.html
※5:健康日本21
http://www1.mhlw.go.jp/topics/kenko21_11/top.html
※6:国立社会保障・人口問題研究所
http://www.ipss.go.jp/pr-ad/j/jap/index.asp
※7:厚生労働省:高年齢者雇用安定法の改正のお知らせ
http://www.mhlw.go.jp/general/seido/anteikyoku/kourei2/
※8:内閣府:政策統括官:共生社会政策担当「高齢社会対策」
http://www8.cao.go.jp/kourei/index.html
電通シニアプロジェクト「退職後のリアル・ライフⅢ~団塊世代の眺望調査
http://www.dentsu.co.jp/news/release/2007/pdf/2007037-0517.pdf#search='電通シニア・プロジェクト'
GFシニアマーケティング,com
http://www.senior-promo.com/
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html

さとうきびの日

2012-04-22 | 記念日
今日4月22日(第4日曜日)は、「さとうきびの日 」。
記念日は、沖縄県糖業振興協会により1977(昭和52)年に創設されたようで、以来毎年4月の第4日曜日に設定され、この日、沖縄各地の優秀なさとうきびの審査があり、沖縄県さとうきび競作会の表彰式等が行われているようだ(※1参照)。
ざわわ ざわわ ざわわ
  広いさとうきび畑は
  ざわわ ざわわ ざわわ
  風が通りぬけるだけ
  今日も見渡すかぎりに
  みどりの波がうねる
  夏の陽ざしのなかで
作詞・作曲:寺島尚彦さとうきび畑』。
「サトウキビ」というと、この歌を思い出すが、沖縄戦の悲劇を歌ったこの曲が制作されたのは1967(昭和47)年、森山良子がレコーディングしたのは、1969(昭和49)年のこと。
その年は、沖縄返還に関する日米共同声明が発表され、その2年後に、調印、その翌1972(昭和47)年に返還が実施されるなど、この沖縄返還問題への関心の高まりから、うたごえ運動や、歌声喫茶衰退後、回顧的に作成される曲集などには、この曲が採録されるようになり、多くの歌手に歌われてきた。
その間の1970(昭和45)年には、日本で最初の博覧会大阪万博が開幕されるが、当時、世はベトナム戦争の真っ最中であり、その中で開催された当博のフォークソングフェスティバルの統一テーマ曲は、ジローズの反戦歌「戦争を知らない子供たち」であった。この歌も時代を映したいい歌だったな~。
ジローズ 戦争を知らない子供たち - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=FeAJef0B3tY
「さとうきび畑」の歌は、当初公開されたときは、全体が半分くらいにカットされていたようで、1975(昭和50)年に、NHK「みんなの歌」でちあきなおみが歌ったのも、省略バージョンだった。
多くの人に歌い継がれたこの曲は最近になって森山良子のフルバージョンの歌でとみに有名になった。彼女は、この曲の歌唱で2002(平成14)年の第44回日本レコード大賞では最優秀歌唱賞を受賞している。
私も大好きな名曲だが、今日は、この歌のことを書くのが本旨ではないので、これ以上歌のことは省略しよう。沖縄出身の盲目のテノール歌手新垣勉の歌も素晴らしい。以下で、聴けるので聞き比べてみると良い。
森山 良子 「さとうきび畑」 - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=zZ7Pr-ATHjk
ちあきなおみ サトウキビ畑 - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=CczOL2SU3kE
新垣勉 さとうきび畑- YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=yOw9X8cAqCE
さて、ジローズの歌「戦争を知らない子」とは違って、かって日本を代表する重工業都市神戸市で戦前に産まれ、戦時中は米軍の大空襲に何度も遭い、家を焼かれて市内を転々としたあと、とうとう神戸には住んでいられなくなり、神戸から、父方の親戚のある高砂市へ、そこも空襲で居れなくなり、最後は母方の親戚のある徳島県の徳島市へ疎開し、そこで、小学校に入学、足にはゲートルを巻いて学校に行き、勉学もそこそこに、校庭で、芋作りをさされるなど、子供時代に厭と言うほど「戦争の恐さを知らされている」私達の年代の者にとっては「サトウキビ」といえば思いだされるのが、おやつがわりに、「サトウキビ」の太い茎(くき)を折り、歯で皮をむいて、しがしがとかじっては口の中に残った茎を吐き出していたことだ。
日本語で「うまい」は漢字では、旨い、甘い、美味いなどと書くように、もともとは果実など熟れて甘味な味になるところから来て、古くは甘味が美味(うまい)とされていたようだが、甘いものは人間にとって最高の食べ物であった。
しかし、それは、今のような簡単に手に入る砂糖等による甘さではなく、食品として人間に欠くことのできない甘さは、ごはん(米など穀類)をよくかんで感じる甘さであり、お芋の甘さ、とりたてのエンドウ豆やトウモロコシ、玉ネギやカボチャの甘さ。それに、よく熟れた柿の甘さ。人として生まれた赤ちゃんが最初に感じるのは母乳の甘さ。これらは、たくさん食べて身体のエネルギー源となるだけでなく、他の栄養も多く含んでいる最も重要な食品である。
子供は、大人よりも本能的に甘いものを欲しがる。しかし、近年、健康上やダイエット等の理由で、炭水化物と同様に「分(=甘い物)」が大敵のように考えられているが、人体で最も早く成熟するのが細胞であり、その脳細胞の栄養源たる糖分(ブドウ糖)を欲しがるのは自然の欲求であると聞いている。
現代のように、砂糖を多く使っての糖分の取りすぎが問題だろうが、戦中、戦後の甘いものが自由に手に入らなかった時代の子供にとって、サトウキビを そのままおやつ代わりにかじって食べるのは、不足がちな糖分補給面で良かったのではないかな~。
終戦後、神戸の実家へ帰っても、夜店や、神社のお祭りなどで売っているのを買って食べた記憶がある。しかし、硬い皮を歯でむいたりしていたが、軟らかい物ばかり食べている現代の子供には出来ないかも・・。もっとも、生産地では今でも、茎の隨をそのまま噛んで食べたり、機械で汁を搾って飲んだりしているらしいが、日本では、鹿児島や沖縄以外のところでは生のサトウキビなど余り目にすることもないのではないだろうが・・・。
人間が生きてゆく上で大切な塩(塩分)は海水や岩塩から作るが、砂糖(糖)は植物から作られる。その代表的なものが、「サトウキビ」(砂糖黍。別名甘蔗〔カンショ。本来はカンシャと読むのが正しいらしい〕)とテンサイ(甜菜)であるが、ほかにカエデ(サトウカエデ)やヤシ(サトウヤシ=オウギヤシ)などからも取れるようだ。
イネ科サトウキビ属「サトウキビ」の学名は、“Saccharum officinarum”。サトウキビ属の“Saccharum” は、ギリシャ語の “sakcharon(砂糖)”が語源で、“officinarumは薬だそうだ。学名が示すように、およそ1万年前の大昔から、甘味作物・薬として人間社会に登場したようだ(※2)。
茎は竹のように木化し節がある。節の間の茎の中心は竹のように空洞ではなく、髄になっており、糖分を含んでいる。
冒頭に掲載の写真が、収穫後、処理過程前のサトウキビである(Wikipedia砂糖より)。
砂糖の生産は、まずサトウキビを利用して始まった。太い茎(くき)をしぼって出た、甘い汁を煮詰め、純度を高めて砂糖の結晶を取り出す。
サトウキビ栽培種の起源はニューギニア島とその近くの島々と言われており、世界各地の熱帯亜熱帯地域で広く栽培されている。
因みに、テンサイの原産地は地中海沿岸でサトウキビとは反対に、寒さに強く、現在の栽培地は温帯から亜寒帯を中心として栽培されており、寒冷地作物とよばれており、日本では、北海道を中心に栽培されているようだ。
サトウキビは、原産地である南太平洋の島々から東南アジアを経て、インドに伝わり、紀元前2000年ごろにインドで砂糖が使われているらしく、サトウキビから砂糖を作ったのは、インドが最古であるらしい。インドの主としてガンジス川流域で作られていた砂糖やサトウキビは、アラビア人によってペルシャ・エジプト・中国などへと伝えられた。
砂糖を日本に伝えたのは、奈良時代(754年)に、鑑真が来日した時とされている。正倉院に保存されている「種々薬帳」(大仏に献上した薬の目。※3参照。)に、サトウキビから作った砂糖という意味の「蔗糖」という言葉が記されており、当時、砂糖は甘味料としてではなく、大変貴重な薬として用いられていたことが分かるという。
その後、大陸との貿易が盛んになるに従って、砂糖の輸入量も次第に増加したが、インドや、中国などからかっての琉球王国(現:沖縄)に、サトウキビが伝わり、このサトウキビから砂糖を作る「製糖法」を、儀間真常(ぎましんじょう)という人が、中国の福州(福建省の省都)に人を送り、技術を学ばせて広め、1623(元和9)年に初めて作られたという。以来、黒砂糖は琉球の重要な輸出品として、戦前まで扱われていたが、今でも重要な基幹作物であることに変りはない。沖縄などでは市街地は別として、住宅地のちょっとした空き地などでも作られているようだが、植え付け後は収穫まであまり手間がかからない手軽さもあるからであろう。
ただ、サトウキビからの製糖について、1説には、慶長年間に、薩摩国大島郡(奄美大島)の直川智(すなお かわち)が黒砂糖の製造に成功したことで、国産の砂糖が誕生したとする説があるが、儀間真常の導入より早いため、疑問視されている(※4参照)。
いずれにしても、日本では、今、主に沖縄県奄美群島を中心にサトウキビが栽培されている。
貴重で高価なため、天皇や貴族だけのものであった砂糖も、室町時代になると、輸入量も増え、上流階級ではお歳暮に贈らたりするようになるが、長い間、民衆のものになることはなかったが、やがて庶民にも広がり、いつの間にか大量に輸入されるようになり、徳川幕府による鎖国時代、長崎の出島には、砂糖倉があったと言うが、むしろ、倉の半分くらいが輸入物の砂糖倉だったともいう。この頃には、庶民の砂糖消費が嵩じて藩や幕府の財政悪化を招くほどにもなったことから、八代将軍徳川吉宗によるサトウキビ栽培・砂糖生産の本格的な奨励が始まり、それが和糖製造技術発展の始まりであるという(※5)。
この吉宗による、サトウキビ栽培の奨励に高松藩が特産物創生と財源確保を目的として呼応すると、その後徳島藩でもサトウキビが育てられるようになり、高松藩とほぼ同時期の1800年代前半に精糖方法を確立させて、和三盆ができあがった。それまで、サトウキビから作られていたものは、黒砂糖が一般的であったが、和三盆は、黒砂糖をまろやかにしたような風味を持った淡い黄色をしたもので、高級砂糖を意味する。
和三盆糖は沖縄などで作られる幹の太い物でなく竹糖(たけとう)または竹蔗(ちくしゃ)と呼ばれる茎が細いサトウキビから作られる。香川県で生産されている和三盆を讃岐和三盆糖、徳島県で生産されている和三盆を阿波和三盆と呼ぶ。和三盆は貴重な特産品として諸国へ売りに出され、全国の和菓子や郷土菓子の発展にも欠かせないものとなっているが、これらの地域は、世界におけるサトウキビの商業栽培の最北限にあたるのだそうだ。
ただ、この砂糖の製造・販売の藩財政への貢献は高かったが、薩摩藩による琉球王国統治の動機ともなったほか、倒幕のための財政基盤強化も砂糖販売によるところが大きいと言われている(薩摩藩の藩政改革とサトウキビのことについての詳しいことは、参考※6:「徹底検証:「新しい歴史教科書」の光と影」の“33・雄藩の改革”の (c)国産物の藩専売制を強化し利益を藩が独占する体制をとる−薩摩藩の場合、(d)植民地としての奄美諸島と琉球からの巨大な利益を基盤とした−薩摩藩の場合を読むとよく判る。)。
FAO(国際連合食糧農業機関)年鑑2004年では、世界で最も収穫面積の多い作物は小麦で、面積は217,075千ha、生産量は633百万トンと、面積が飛び抜けて多い。収穫面積の第2位は米で150,185千ha、606百万トン、第3位はとうもろこしで147,263千ha、725百万トンであり、この2つは面積も生産量も近い。サトウキビは収穫面積で20,399千ha、生産量は1,332百万トンであり、作物中収穫面積では第14位であるが、長大作物であり、茎自体が目的収穫物であることから、生産量では第1位である。
国別生産量では、1位のブラジルと2位のインドの2カ国で世界のおよそ49%を占めており、まさに熱帯・亜熱帯の大作物である。第3位は大陸中国、さらに、4位タイ、5位パキスタン、6位はキューバと続く。ヨーロッパ諸国におけるさとうきび生産は余り知られていないが、スペインでも作られている。南西諸島を中心とする日本は収穫面積が23千haで世界第49位、生産量は1,187千トンで第47位だそうである(※7も参照)。
サトウキビは、茎の隨を生食したり、砂糖に加工その他食料加工品に利用されるほか、1970年代のオイルショック後の原油価格高騰により燃料用バイオエタノールとしての利用に着目され1980年代から生産が拡大した。
バイオエタノールとは、サトウキビ、とうもろこし、廃木材などのバイオマス資源を発酵させ、蒸留して作られる植物性のエタノール(エチルアルコール)であるが、太陽電池風力発電などとともに、化石燃料を代替えするエネルギーである。ガソリンに混合することが出来、主に自動車の燃料として使われる。
世界の生産量は、バイオエタノール原料であるサトウキビの生産大国であるブラジルと、同じくとうもろこしの生産大国であるアメリカの占める割合が多く、2007(平成19)年では、この2国で世界の生産量のおよそ80%を占めている(※8参照)。バイオ燃料に取り組む事情は国によって異なるが、バイオエタノール燃料生産量の多い国には日本のように環境への配慮に重点を置くよりも農業復興の観点からバイオ燃料が導入されてきた国が多いようだ。
日本の場合、環境省が2005(平成17)年に発表した京都議定書目標達成計画では、バイオエタノールの普及促進政策を行なうことを目標とした。又、バイオマス・ニッポン総合戦略促進会議(農林水産省)では、2010(平成22)年までにバイオエタノールの生産を5万kl1にするという目標を掲げたが、結果的に、2008(平成20)年の段階では200klの生産しか出来ていないので、当然、2010(平成22)年までに生産量を達成はできていないだろう。
バイオマスエタノールは、再生可能な自然エネルギーであること、および、その燃焼によって大気中の二酸化炭素(CO2)量を増やさない点から、エネルギー源としての将来性が期待されている。
しかし、2008(平成20)年は原油価格が 1バレル 100 ドルを突破するという歴史的高騰で幕を明けた。同時に、原油価格と共に急騰したのが穀物価格であった。要因として、サブプライムローンを契機とする株式投資から現物投資への投機マネー流出、発展途上国の需要拡大などが指摘されているが、バイオマスエタノールのエネルギー源としての将来性への期待される半面、生産過程全体を通してみた場合のCO2削減効果、エネルギー生産手段としての効率性、先にも触れたように、穀物は人間の食料、動物の餌として使用されるものであり、そのような食料との競合、といった問題点も指摘されている。
最近では、政権交代したばかりの民主党の鳩山由紀元首相は、2009 (平成21)年9月国連気候変動首脳会合で「温室効果ガスの排出量を 2020 年までに 1990 年比で 25%削減する」という中期目標を掲げ。「これは、我々が選挙時のマニフェストに掲げた政権公約であり、あらゆる政策を総動員して実現をめざしていく決意・・・」と述べたことで、多くの注目を浴びた(※9又、「鳩山イニシアチブ」参照)。
しかし、この意欲的な目標の下で、実際に温室効果ガスを削減させ、環境負荷を減らすためには、どのような政策を行うべきであろうか。またそれは実現可能なものであろうか・・・と突然の発表に、経済界等では疑問を持っていたのだが・・・。
そして翌・2010(平成22)年3月、山由紀夫首相は今国会に提出予定の「地球温暖化対策基本法案」に原子力発電を推進する方針を明記する意向を示し、都内での記者団の質問に答え「原子力は廃棄物や安全性の問題があるが、さらに 安全性の確保で高い目標を果たすことを前提に、地球環境を守りCO2を減らすためには 欠くことのできないエネルギーだと理解している。基本法の中でも位置付けたい」と述べていた(※10)。
政府は基本法案を5日にも閣議決定する方針だったが、原発の位置付けなどで文言調整が付かなかったため先送りしていたが、平成22年3月12日政府(環境省)より「地球温暖化対策基本法案の閣議決定について」発表されたが、衆議院(第174回国会)を通過後、参議院で廃案となり、第176回国会(平成22年臨時国会)へ提出されるも、衆議院で継続審議のようである(※11)。
その後、2011(平成23)年3月の東日本大震災により、福島第一原子力発電所事故発生により、原子力発電所の安全性の問題や電力不足が深刻化している(東日本大震災による電力危機参照)。
日本は、京都議定書によって二酸化炭素を主とする温室効果ガスの排出削減義務を負っているが、そこへ原発事故が起こり、各地にある原子力発電所の停止によって、今だ、原発に代る自然エネルギー等が開発されていない以上、当面は代替電源を火力発電に求めざるをえないことから、京都議定書の削減目標を達成するこが極めて困難な情勢となっているが、鳩山由紀夫前首相の国連気候変動サミットで「国際公約」した温室効果ガスの25%削減問題は、企業にとって大きな負担となっており、そこに、電力不足では、もう、企業は、日本脱出しかなくなるのではないか・・・。どうするつもりなのだろう。このまま民主党政権が続けば、日本は潰れてしまうのではないか・・・・と心配しているのだが・・・(※12等参照)。

※1:沖縄県糖業振興協会
http://oki-toshinkyo.or.jp/
※2:お砂糖豆知識[2007年3月]|農畜産業振興機構
http://sugar.alic.go.jp/tisiki/ti_0703.htm
※3:漢方史料館(91)正倉院の『種々薬帳』
http://mayanagi.hum.ibaraki.ac.jp/paper04/shiryoukan/me091.html
※4:鹿児島大学リポジトリ:奄美地域の糖業
http://ado.lib.kagoshima-u.ac.jp/bitstream/10232/1728/1/KJ00000068207.pdf#search='川智翁事蹟調'
※5:独立行政法人農畜産業振興機構> 砂糖 > お砂糖豆知識 >
http://sugar.alic.go.jp/tisiki/tisiki.htm
※6:徹底検証:「新しい歴史教科書」の光と影 
http://www4.plala.or.jp/kawa-k/rekishi.htm
※7:世界のサトウキビの生産量について
http://www.chireki.com/geography/sugarcane.htm
※8:世界各国のバイオエタノール生産量の推移(Adobe PDF)
href=http://www.jc.u-aizu.ac.jp/11/141/thesis/msy2010/11.pdf#search="サトウキビ 世界生産量"
※9:国連気候変動首脳会合における鳩山総理大臣演説
http://www.kantei.go.jp/jp/hatoyama/statement/200909/ehat_0922.html
※10:首相、「原発推進」明記の意向 温暖化基本法案で( 共同ニュース)
http://www.47news.jp/CN/201003/CN2010030601000683.html
※11:環境省>国会提出法律案>過去の国会提出法律案
http://www.env.go.jp/info/hoan/index2.html
※12:地球温暖化対策基本法案が成立すれば、日本は確実に滅亡への道を 進む
http://koramu2.blog59.fc2.com/blog-entry-650.html

現在の暦「グレゴリオ暦」を編纂したグレゴリウス13世 (ローマ教皇)の忌日

2012-04-10 | 人物
「時は金なり・・・」とは、よく言われるが、私達は、日頃、人と人の約束事を始め、企業間の契約から国家間の条約まで、それれをらを成立させ、また、その効力を発揮するたに必要不可欠なものとしてを自由に使いこなしているものの、暦の来歴に意識することはない。
暦(こよみ、れき)とは、時間の流れを年・月・週・日といった単位に当てはめて数えるように体系付けたもの、また、その構成の方法論(暦法)や、それを記載した暦書・暦表(日本のいわゆる「カレンダー」)を指す。
暦の歴史を見ると、実に様々な暦があり、いくつかは現代まで生き残っているが、その多くはその痕跡を残して消えていったが、そうした中、現在使用している暦(太陽暦)の先祖(古代太陽暦)とも言われる重要なものが、古代エジプトのエジプト暦(シリウス星暦)とも言われるものであった。エジプトでは遅くとも紀元前3000年頃には恒星シリウス(Sirius)の動きから1年が365日であることを知っていたといわれる。
現行暦は1582年、ローマ教皇グレゴリウス13世が、当時のヨーロッパの代表的な天文学者たちを集めて編纂させたグレゴリオ暦である。
この暦はエジプトを征服したユリウス・カエサルアレキサンドリアの暦学者ソシゲネスに命じて紀元前46年に、エジプト暦を改良し古代ローマに導入して以来使われていたユリウス暦を改良して制定したものである。この暦は、単に新暦(ラテン語: Ornatus)と呼ばれる場合もあるが、現在使われている西暦はグレゴリオ暦のことでである。
日本では、1872(明治5)年11月9日に太政官布告を頒行(はんこう。ここ参照)、1898(明治31)年に勅令によってグレゴリウス暦を施行した。
従来からの太陰太陽暦を廃して翌年から太陽暦を採用するとした明治5年の年も押し詰まった11月の布告はあまり突然なことに社会的な混乱を来したことだろう。
特に、暦の販売権をもつ弘暦者(江戸時代からの暦師。明治5年には頒暦商社が結成された)は、例年10月1日に翌年の暦の販売を始めることとしており、この年もすでに翌年の暦が発売されていた。急な改暦により従来の暦は返本され、また急遽新しい暦を作ることになり、弘暦者は甚大な損害を蒙ることになった。
一方、太陽暦改暦を唱えていた福沢諭吉は、改暦決定を聞くと直ちに『改暦弁』を著して改暦の正当性を論じた。太陽暦施行と同時に刊行されたこの書は大いに売れその純益は1,500円にまで及んだという。1977(昭和52)年時点米価をもとにした明治6年の米俵1俵(60kg)の米価は、1円20銭(米価の変遷参照)だといから、これを現在の価値基準(昭和55年=17,294円)に置き換えると、2、100万円以上となる。福沢としては何の苦労もせずに、わずか6時間程で書き上げて随分と儲けたことになる(※1参照)。
この中で福沢は政府による一方的な改暦に不満を募らせるひとびとに対し、福沢は『改暦弁』の中で政府と同様、暦注(れきちゅう)について、次のように徹底的に批判している。
「日本国中の人々、この改暦を怪しむ人は、まちがいなく無学文盲の馬鹿者である。これを怪しまない者は、まちがいなく日頃から学問の心がけのある知者である。よってこのたびの一件は、日本国中の知者と馬鹿者とを区別する吟味の問題といってもよろしい。」・・・と。
もっとも、福沢が馬鹿者呼ばわりするのは、旧暦時代の暦(カレンダー)に記載されていた「暦注」という、おもに陰陽五行にもとづいた日々の吉凶判断の類を信じていた人たちをさすようだが、以前、このブログの「福澤諭吉が『学問ノスゝメ』の最終刊・第17篇を刊行」の中でも書いたが、『学問ノスゝメ』のなかでも、「人は生まれながらにして貴賎貧富の別なし」と身分差別を批判し、「職業に貴賎なし」としているものの、「難しき仕事をする人を身分重き人と名づけ」が彼の本心で、「無学なるものは貧人となり下人となるなり」とあるように、日用の役にたつ学問(「実学」)の強調もあるのだろうが、それをしていない無学で、貧乏な人達への偏見が見て取れて、私は、福沢が賢い人である事は認めるがあまり好きになれる人物とはいえない。
さて、明治新政府が、明治5年の年も押し詰まった11月に何故、唐突に「グレゴリオ暦」を導入しようとしたのかと言えば、欧米諸国との国交を開いた日本にとって、暦の違いは読み替えを必要とし、不便であったこともあるが、もっと重要な理由として、政府が直面していた財政難があった。
1873(明治6)年は太陰太陽暦でゆくと閏年で、6月が2回あり、1年13ヶ月となり、2年前の明治4年9月2日(グレゴリオ暦1871年10月14日)に役人の給与を年俸性から月給制に改正していたので、政府は13回月給を支払わなければならなかった。これを、1年12ヶ月の太陽暦に移行すれば給与1ヵ月分の支出を削減できたからである(※2参照)。そのため、改暦により、明治5年12月2日(旧暦)の翌日を明治6年1月1日(新暦)とした。全く、政府にとっては都合の良いことかしらないが、役人にとっては迷惑なせこい(細かくてケチなことや、ずるいことを意味する)考えによるものだった。
先に述べたように、今日・4月10日は、現行の太陽暦として世界各国で用いられている「グレゴリオ暦」を制定したローマ教皇グレゴリウス13世(Gregorius XIII,)、本名はウーゴ・ブオンコンパーニ(Ugo Buoncompagni。)の1585年の忌日である。
ローマ教皇グレゴリウス13世の第226代ローマ教皇としての在位期間は1572年-1585年であり、日本との接点としては、以前にこのブログ「長崎二十六聖人殉教の日」の中で、戦国時代の日本に巡察師として到来していた“イエズス会アレッサンドロ・ヴァリニャーノの発案によって、1582(天正10)年、九州のキリシタン大名大友宗麟大村純忠有馬晴信の名代として、天正遣欧少年使節(4名の少年)がローマへ派遣された。”・・・ことを書いたことがあるが、その4人の少年使節が1585(天正13)年3月に ローマに入り、バチカンで、グレゴリウス13世に謁見したという(※3)・・・。
ローマ教皇グレゴリウス13世のことについて、私は、グレゴリオ暦を作った人であることと、このことぐらいしか知らないので、グレゴリウス13世についての詳しいことを知りたい人は、Wikipedia への記載ここを参考にされたい。
兎に角、今日は、グレゴリウス13世の忌日だというので、暦ができるまでを考えてみたい。
人間は、なぜ、どのようにして自然を測るようになったのだろうか。
時間空間を測り、それによって日常生活を調整しているのはなにもわれわれ人間だけではない。よく知られているのは生物の体内時計(概日リズム。英語: Circadian rhythmサーカディアン・リズム。ラテン語合成 Circa〔およそ〕di〔1 日〕)である。生物の体内は24時間に近い周期に従って短期的な活動を繰り返す仕組みになっている。
生物が生活をしている地球上では、24時間の周期で昼夜が交代し、明るさや温度が変化する。太陽の出没によって生ずるこの周期は、自然環境そのものの時間の節目であり、区切りである。
太陽はゆうまでもなく、地球上のあらゆる生物のエネルギー源であり、その出没は生物の一日の生活に基本的な枠組みを与える。かりに体内時計の周期(約25時間。但し、個人差24+-5時間ありとのこと。※5参照)と太陽出没の周期(※6)とがはじめから一致しているとしたら、そこには、時間を測るなどという問題は生じない。同じ時間のリズムで動いてゆくだけのことである。ところが、両者の周期は異なる。因みに、それが故に現代人の概日リズム睡眠障害などは概日リズム機能の低下と結びつけて考えられてもいる(※5参照。)
生物はいつも遅れるか進む時計を持っている。生物が太陽エネルギーをもっとも効果的に利用しようとするならば、体内時計は、一日の周期に合わせて動くように自己調整(同調)しなければならない。つまり、周期の差を測り、時間のずれをなくす。生物はこの自己調整能力のお蔭で、環境にある程度の変化が生じても適応してゆけるのである。
それでは、体内時計はどのようにして周期の差、すなわち時間を測るのだろうか。体内時計が同調するのは第一に明るさ、そして、第二は温度に対してだといわれている。
例えば、毎年移動を繰り返す渡り鳥は、体内時計に照合して太陽の位置を見定め、一方向に飛んでゆくことが知られている。
つまり、太陽コンパスを使って、角度を測っているのだそうである。そのメカニズムは、太陽の位置する方向を基準線にして、今度は空間が明暗の縞模様を描き出す。放射状に明暗で描き分けられた時間の文字盤板をイメージすれば良いのだそうだ。
縞模様は太陽の動きにつれて時計回りに回転する。それを体内時計が同調し、特定の時間には特定の明るさをもつ縞のすじの指示する方向をこの生物に選択させるのだそうである。
しかし、人類は言語を獲得して後、生物として単に体内時計に依存する生態から脱出し、生物の自然の現象の描く図形ないし図柄を指標として行う非数量的なアナログ型の測定に加えて、自然に関する知識をつかって時間を測るやり方を発明した。
古代のギリシャの詩人ヘシオドス(紀元前8世紀)は叙事詩『仕事と日々』のなかに、この型の時間測定の見事な記録を残している。
「プレアデス((英語: Pleiades。トレミーの48星座の1つプレアデス星団)が夕方東の空に上りはじめたら収穫し、太陽と一緒に沈み始めたら種を蒔け。シリウス(Sirius)が昼間しばらく、夜が長い間光る頃は、森に斧を入れる格好の季節だ。オリオン(Orion=オリオン座おうし座の東にある冬の星座。中央に三つ星が並んでいるのが目印。)の三つの星が現れ始めたら、いそいで、麦打場で脱穀するがよい。鶴が雲の上で一声鋭く鳴くのを聞いたら、それが種播(ま)きの合図だ。葡萄の樹の剪定は燕が飛来する前にすませ、蝸牛が樹に這い上がるようになったら葡萄畑の除草をおえなければならぬ。・・・・と。

上掲の画像はプレアデス星団である。画像はWikipediaより。
一方には、自然の時間秩序の指標となる天文や気象や動植物などの季節的な現象があり、他方には、社会集団の中に成立している農作業の時間秩序がある。自然現象の描き出す図柄をたよりに、農作業の時間秩序を調整し、2つの時間秩序を一致させる。そうすれば、労働は最大の効果を収めるだろう。四季の循環と言う大きな時間秩序に変りはないが、気候は年によって変動する。そのために生ずる時間秩序のずれも、この「同調」によって対処できる。このような時間測定は、原理的には、体内時計と全く同じだ。知性による体内時計の拡張ともいえる。
ヘシオドスが生きていたのは農耕社会であり、そこには整った暦もあった。それでも、なお、農民にとって、非数量的なアナログ型の測定に、自然に関する知識をつかって時間を測るやり方を加えた知識-アナログ型の測定は欠かせないものだったようだ.。
自然現象に関するその知識は定着農業に先立つ、狩猟・漁労・植物採集の自然経済時代以来、少しづつ蓄積されてきたものにちがいないようだ。
現存する無文字社会の種族などは知識-アナログ型の測定を行なっており、かれらは 体内時計に従って夜明けとともに起き、日暮れとともに床につく。日の出直前や日没直後に東の空、西の空に輝く星は、そんな生活を送る彼らの目を引かずにはおかない。
プレアデス星団やオリオン星座・、蠍(さそり)座のようなよく目立つ図柄の星の集まり、あるいは、アルタイル鷲座のα星〔アルファ星=一つの星座の中で、最も明るい星。首星〕)・ベガ(ヴェガ。こと座のα星)・カノープスりゅうこつ座のα星)・シリウス大犬座のα星)のようなひときわ明るい星は、かれらにとって、あるいは、鳥や海亀の産卵期を教え、あるいは、野生の芋や木の実の収穫期を知らせ、あるいは、獣や魚の群、雨季や季節風や移動すべき時期の到来を告げる・・・合図であった。
台湾本島の南西沖の孤島蘭嶼(らんしょ)に住むヤミ族(タオ族。アミ族とも)は、くり抜いた木を組み立て、彫刻を施したゴンドラ型の船で海に出て漁をする。飛魚がやってくる3月から5月までが最大の活動期で、月の満ち欠けを数え、新月の夜に祭りを行い飛魚漁を始める。その方法は期せずして、太陰暦に閏月を挿入する太陰太陽暦のやり方を先取りしていると言う(週刊朝日百科「日本の歴史」47古代―3「暦と年号)。
タオ族のことは、以下参考の※7:“1940年頃の蘭嶼”(台湾タオ族)、また、※8:「台湾原住民デジタル博物館」の“アミ族”に詳しく書かれているが、※7から、暦のところを抜粋すると以下のようになる。
1月=カオワン、2月=カッシャマン、3月=カボアン、4月=ピョコカオル、5月=パパタオ(小さい船で飛魚を取りにゆくの意)、6月=ピラピラ(網で魚を取るの意)、7月=ビヌスノマタウ、8月=ビヤムアン、9月=ポアハウ、10月=ゲタナタア、11月=アルマヌ、12月=カヌマン、13月=カピトアン
ヤミ族には時計と言うものがなく、夜が明けるとともに、起き出て朝食をすまして仕事にかかり、午後3時頃昼食をする。昼食後はあまり仕事をせずぶらぶらしているようだが、日が没する頃に夕食を済ませて間もなく寝るのが一日の行事となっている。
仕事と言うのは、漁労と農作業が主なものであるが、男子の仕事と女子の仕事がはっきりと分かれている。
1年を13ヶ月に分けていて、その月によって年中行事が定まっている。例えば2月をカポアンといって、飛魚を獲り始める月、7月をビヌスノマタウといって魚とりは一切止めて家の改築や船の建造をする月、この2月と7月は陽暦に当てはめての月名だそうである。
12月をカピトアンといって、神様を祭り、又、粟蒔きをする月というように、その月の行事がそのまま月の名称になっているという(〔注〕※7の書き誤りか、ここでは12月をカピトアンとあるが、補注では、12月=カヌマン、13月=カピトアンとなっているので、12月のことか13月のことか正確なことはよく判らない)。
時間測定を計量化し、天文観測(天文学)に基づく暦を作成するまでには、なお越えなければならない巨大な壁があった。それは、第一は、文字を知り、計算が出来、天体の運行や星座の配置について系統的な知識を持つ専門家の存在であり、第二は、そのような専門家を必要とし、また養ってゆけるような、社会的分業階級的文化の進んだ社会の出現である。
いわゆる未開社会の人々は、空間や物を測る特定の言葉や手立てを殆ど持ち合わせていない。大抵のことは目分量で間に合う。異動する距離なら、半日の道程というように時間で表せる。
このような場合、そんなに厳密さは必要ないのだから、物の量を比較するのは簡単。例えば、長さの場合、※7に、よれば、ヤミ族は他の種族と同様に一定のスケールを有しないが両手を拡げた長さ即ち一尋を単位として用いている。これをasarupaと言いその2分の1を半尋asarimaと言っている。更にひじを曲げて手を軽く握り肘関節から中指の第2間接までの長さをsiko、指を伸ばして小指から人差し指まで4本の指の幅をapatakamai、紅付指から人差指まで3本の指の幅をatorakamai、中指と人差指と2本の指の幅をnuakamai、人差指1本の幅をasakamaiと読んでいるという。
そのほか、容量は掌籠ですくってみる。重さは持ち運べるかどうかを目安にする。量の比較は必ずしも軽量化ではない。
度(さし)・量(ます)・衡(はかり)というものは流通・交易などの価値の交換において、非常に重要な意味を持っており、そのような、比較のために共通の基準を必要とする社会において、初めて度・量・衡制が実現する。そのような社会とは、同時に暦を必要とする社会でもあり、高度に組織された社会、統一された国家にほかならなかった。
紀元前4000年紀の後半にメソポタミヤシュメール人が始めて都市国家を形成した。同時にかれらは、文字を発明し、数世紀後にそれは古代エジプトに伝わった。そして、メソポタミヤとエジプトの都市間において最初の体系的な暦と度量衡が産まれたのである。
古代ギリシアの歴史家・ヘロドトスは、「エジプトはナイル河の賜物」という言葉を彼の著した最初の歴史書『歴史』に記しているそうだが、ナイル川は毎年氾濫を起こし、肥えた土を下流に広げたことがエジプトの繁栄のもとだといわれている。そんなナイル河の氾濫を正確に予測する必要から天文観測が行われ、太陽暦が作られた。太陽とシリウス星が同時に昇る頃ナイル河は氾濫したという。
人類にとって、昼間は活動して夜は休む、というのが自然に備わったサイクルであり、それが、1日という単位である。また夜の暗闇の中での満ち欠け(月相=朔望〔さくぼう〕※9参照)の周期性も当然に読み取った。1カ月という単位はこれに由来すると言われている。そして、四季の変化を無視して生活をすることが出来ないことから、自然界の流れに順応した、生活のための食料確保や住居作りに取り組んできた。こうして1年ごとのサイクルを身体で覚え、やがて農業や牧畜の進歩とともに、正確な日にちを数えるようになる。こうして、何日で満月が来るか、何日で季節が一回りするのかを知るという「自然の暦」がカレンダーの出発点である。
しかし、地球の自転1回を1とすると、月の公転周期(1朔望月)は平均29.53059日と端数が付き、地球の公転周期(1太陽年)も365.2422日と、これまた整数でないため、近代暦法の成立めざして、各文明、それぞれの民族が取り組んできた。
1日・1朔望月・地球1公転(1太陽年)。この三つの周期のどれを使い、どれをどう組み合わせるかで、太陰暦太陰太陽暦、太陽暦の暦法に区別される。
しかし、冒頭に述べた現在使用している暦(太陽暦)の先祖とも言われる古代エジプトのエジプト暦(シリウス星暦)も、一月を30日、一年を12ヶ月とすることを基本としていることを見ると、月の満ち欠けという目立つ現象が12回繰り返されると1年がすぎたと、気づくことから暦が始まったといえるだろうから、独立に生まれたと思われる世界各地の暦のほとんどが、天体と結びつけて作られた「太陰暦」が最初の暦であったといえるようだ。
ただ、度量衡を定める・改正するという行為もそうだが、それと同様に、暦法を改める事も権力の象徴であり、古代より近世に至るまで、権力者たちによって様々な改訂が行われてきたが、そこには、月の日数を何日にするか又、月のネーミングさえ、権力者の名前を誕生月につけるとか。時の聖職者や権力者の都合で改訂されてきたようだ。
例えば、ユリウス暦の前のヌマ暦(太陰暦、1年355日。ローマ暦参照)を、エジプトの太陽暦を参考にしてつくられたユリウス暦には、為政者ユリウス・カエサル(ジュリウス・シーザー)の誕生月とされる7月をそれまでの「Quintilis」から彼の名「Iulius(Julius)=July」に改名しており、その後、カエサルのあとを継いで初代ローマ皇帝となったアウグストゥスは、カエサルの真似をして、同じくカエサルの7月に続く自分の誕生月8月「Sextilis」を自分の名「Augustus=August」に改名しただけでなく、その時「Sextili」は小の月だったのを、「Augustus」を大の月とし、カエサルの7月と同日数とすることで、アウグストゥスがカエサルと同格の偉大さであるというアピールをこよみに刻んだようだ。今の2月、つまり、古くは「Februarius」が年末の月だったから、閏日はこの月についていたが、「Augustus」が大の月になったため、さらに「Februarius」から1日減らすことで辻褄を合わせた。そのため、平年は28日という短さになってしまった。
又、ローマ教皇グレゴリウス13世による、ユリウス暦からグレゴリオ暦への変更もそうだ。
彼ら聖職者たちの最大の関心事は、キリスト教の最重要行事である復活祭(イースター)催行上の問題を解決することが最大の目的であった。
ユリウス暦もグレゴリオ暦と同じく太陽暦なのだが、1年を365.25日として計算していることから、精度に問題を抱えていた。
その差は、0.01日にも満たないものではあったが、長年放置しておくと、積もり積もって大きな誤差に成長し、グレゴリウス13世がローマ教皇の座につく16世紀になると、暦上の春分の日が実際の春分より10日ほど前倒しになるほどに、ズレは大きくなっていた。
復活祭はキリスト教の典礼暦における最も重要な祝い日で、十字架にかけられて死んだイエス・キリストが3日目に復活したという伝承にもとづいた宗教行事であり、その催行日は「春分後の満月のあとの最初の日曜」と定められている。このため、暦上の春分が実際の天文学的な春分とズレてしまうと、復活祭の日程もズレてしまうので、それを、閏年の入れ方を調整することで解決したが、この改暦で、太陽暦として1年の長さだけはとにかく正確に測れようになったが、改暦以前からそのまま継承されていた矛盾や理論破綻については考慮に入れられておらず、規則性や客観的根拠を内包しない非合理的な暦となってしまったまま現代に引き継がれていることになる。
そのような現代にも残る暦の論理的矛盾などは、以下参考の※10:「旧暦は地球を救う」の“06 グレゴリオのバグ”に詳しく書かれているので、そこを読まれると良い。
先にも述べたように、実際には自然も人間も循環をもち、同時に自身もまた循環の中にいる。旧暦が循環という実在する法則にのっとった自然暦であるのに対し、キリスト教徒の作った人工暦であるグレゴリオ暦の直線的な時間概念は人間も含む自然界の生命活動の本来のあり方とは決定的に矛盾してしているものであることは承知しておかなければいけないだろう。
グレゴリオ暦の1年=365.2425日によって生じる実際の1年との差は約0.0003日であり、1日分の誤差が生じるまでには3000年以上要するなど、単純さと正確さを兼ね備えた暦ではある。ただ、暦と太陽または月の運行とのズレを補正するためにグレゴリオ暦は、閏年を挿入しているがその法方は、1年を 356.2425 日とし、端数を 97/400 で近似したため、誤差の補正がややこしい。
以下参考の※11:「グレゴリオ暦とバイナリ暦」によると、今日の測定技術で、太陽年 365.24219 の端数をあらためて分数近似したものを求めると、128 で割り切れず 4 で割り切れる年をうるう年にすれば、これだけで数十万年の間はややこしいい他の補正をせずとも誤差が1日以内に収まることになるという。
128 年で割り切れる上、2進数で下位ビットが全部 '0' の改暦するに最も都合の良い年が、2048 年だそうで、この文字通り千載一遇の機会に、宗教的見地からでなく 科学・技術的見地から 是非とも暦法が変更されないものかと提案しているが、私もそれが本当なら、そうすべきと思うが、どうなるのだろう。
今年2012年は、現行の協定世界時 (UTC) において、世界時(UT1)との差を調整するために閏秒が挿入される年だそうだ。
日本時間2012年7月1日午前9時の直前に1秒が挿入される。秒は、世界同時に挿入され、この閏秒挿入時のときのみに60秒という珍しい時刻がカウントされるだそうだ(※12参照)。秒までを手作業で行なうのは大変だろうね~。
最後に、余談だが、当ブログ中間あたりで、詩人ヘシオドスは「 仕事と日々」という詩の中で、プレアデス星団を「農業の季節を知らせる星」といってることを紹介したが、谷村新司の「(すばる)」を知っていますか。
プレアデス星団(Pleiades )は、牡牛座散開星団である。
大神ゼウスが牛の姿に化けた牡牛座の肩の辺りにあり、ギリシア神話に登場する「プレイアデス」では7人姉妹の妖精の星とされているが、欧米では「The Seven Sisters 」とも言われているように、普通は6つの星しか見えないようだ。
ギリシャ神話では七人の娘の一人エレクトラが自分の息子ダルダノスが建設したトロイの町がトロイ戦争の結果、焼け落ちたのを七日七晩泣き明かし、涙で姿がかすんで見えなくなったと言う。
プレアデス星団は、日本でも六連星(むつらぼし)」とも呼ばれているが、日本では古来より、「昴(すばる)」の名前で親しまれ、今から千年も前に清少納言の『枕草子』の一節(第236段)には、「星は すばる。ひこぼし(彦星=牽牛星)。ゆふづつ(夕星=宵の明星=金星)。・・・」とあるように、彦星や宵の明星もいいけど、星は「昴」が最高」と書いている。
谷村新司の歌 「昴」の中で、「さらばー昴(すばる)よー」 と別れの言葉を歌っているが、“「なぜ、昴に別れを告げているのか」という 疑問が自分で詩を書き歌っている谷村自身にも解けなかったが、 作詞から20年以上たってから「物を中心に据え た価値観に別れを告げるという意味だった」と納得したそうである”・・と.Wikipediaの中には書いてあった。
プレアデス星団は、地球から約400光年のところにあり、120個ほどの恒星が集まっている。周囲には星が誕生したときの星間ガスがただよい、明るくうつしだされている。また青白く輝いていることから表面温度のきわめて高い白色巨星で、質量は太陽の十数倍と考えられているという。
プレアデスは代表的な散開集団で、その名のとおり、不規則に飛び散るようすを示しているが、激しい燃焼のために寿命は短く、あと1,000万年ほどで超新星爆発を起こして消滅するのではないかともいわれているそうだ。
谷村新司の歌 「昴」を聴いていると、私には、そのような、プレアデス星団の運命的なものが感じられるのだが・・・。
いい歌なので、最後にこの歌を聴いて終わろう。

YouTube -昴-すばる-/谷村 新司

(冒頭の画像は、「グレゴリオ暦」を制定したローマ教皇グレゴリウス13世。Wikipediaより)
参考:
※1:慶應義塾大学出版会|慶應義塾・福澤諭吉
http://www.keio-up.co.jp/kup/webonly/ko/fukuzawaya/21.html
※2:改暦弁 - 静岡県立中央図書館[PDF]
http://www.tosyokan.pref.shizuoka.jp/data/open/cnt/3/354/1/SZK0002748_20040929064244537.pdf ※3:天正少年使節 
http://home.att.ne.jp/wood/aztak/untiku/tenshou.html
※4:グレゴリウス13世 (ローマ教皇) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%82%B4%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B913%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87)
※5:元MRが語る・医療と生物の信じられない実態2
http://www.unlimit517.co.jp/repomedi2.pdf#search='体内時計 太陽の出没'
※6:第五管区海上保安本部> 海の相談室 >日出没情報
http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KAN5/sun/calendar2012.htm
※7:“1940年頃の蘭嶼”(台湾タオ族)[PDF]
http://chijiiwa.kaishao.idv.tw/110007595544.pdf
※8:台湾原住民デジタル博物館
http://www.dmtip.gov.tw/JP/index.htm
※9:国立天文台>暦計算室>トピックス:月の満ち欠け(朔望)
http://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/topics/html/topics2010.html
※10:旧暦は地球を救う
http://88d.jp/feature01/feature.html
※11:グレゴリオ暦とバイナリ暦
http://www.finetune.jp/~lyuka/interests/essay/binarian/binarian.html
※12:日本標準時グループうるう秒の対応〔2012年7月実施版〕
http://jjy.nict.go.jp/news/leaps2012.html
【亀のつぶやき】バー ステイツ コラム Vol.46 六連星
http://www.barstates.com/log/ken12.htm
カレンダー学術百科事典
http://www.koken.ne.jp/hyakka/gakujutu1.html
暦のページ
http://koyomi.vis.ne.jp/
Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/

資産運用の日

2012-04-03 | 記念日
日本記念日協会の今日・4月3日の記念日に「資産運用の日」があった。
“資産を運用する意味や利点、その必要性を正しく理解してもらおうと、資産運用業務を行うフィデリティ投信株式会社が制定したもの。日付は4と3で資産(しさん)の語呂合わせから。 ・・・とある。
フィデリティ投信株式会社(Fidelity Investments)は、1969(昭和44)年、外資系運用会社として初の日本進出を果たした米国の投資会社で、同社HPには、 “1995(平成7)年には、日本にて、証券投資信託委託業務免許を取得し、国内向け投資信託の運用を開始。現在では、日本株の調査・運用拠点として、海外顧客の日本株運用、日本の年金基金や機関投資家資金の運用、投資信託の設定・運用を手がけ、 約160社の金融機関を通じて、日本の投資家に投資信託をご提供している。 現在、フィデリティは世界の主要なマーケットにおいて、個人投資家から機関投資家まで幅広いニーズに対応した資産運用サービスを提供している”とある(※1参照)。
資産運用とは、自身の持つ資産貯蓄投資したりすることによって、効率的に資産を増やしていくこと。また、銀行や投資信託会社(※2参照)など様々な企業の機関投資家が集めた資金を債券や不動産などに投資することをいう。
機関投資家とは、顧客から拠出された資金を運用・管理する法人投資家の総称であり、機関投資家として、生命保険会社損害保険会社、銀行、信託銀行投資銀行証券会社総合商社ヘッジファンド投資ファンド投資顧問会社年金基金などがあげられる。例えば、損害保険会社、生命保険会社などは加入者の保険料収入(※3)を、信託銀行は投資信託を購入した人たちの資金を元手としている。
このように機関投資家といっても、様々なケースがあり、それぞれの立場によって、リスクに対するポジションが異なるが、一般的には、個人的な資金を扱っているわけではないため、リスク回避的な立場を取るケースが多い。そのため単一の資産ではなく、複数の資産に分散投資を行うことで、リスクを回避し、安定的なリターンを求める傾向が強い。ただ、大量の資金となり、基本的に長期運用を考えた投資を行っているので、その動向が中長期的な株価市場(証券市場)へ与える影響は大きいといえる。
ところで、このような機関投資家ではなく、我々個人の資産運用の方法について考えてみよう。
一般の勤労者が、労働の対価として得た給与やボーナスなどの個人所得から、支払い義務のある税金社会保険料など強制的に支払わされる支出(非消費支出)を差し引いた、残りの手取り収入(実収入)、つまり、個人が自由に使用できる所得の総額、これを、経済用語では「可処分所得」と言う。
故に、この可処分所得の大きさが個人の購買力を測る際の一つの目安ともされているが、ここ数年、勤労者世帯では非消費支出の伸びが収入の伸びを上まわっており、可処分所得や消費支出が横ばいとなっている。非消費支出は、今後さらに増大する傾向を示している。所得の伸び率が低く、この支出がのびると可処分所得が減少し、消費が減退する傾向がみられる(※4の家計調査【家計収支編】時系列データ【二人以上の世帯】、又、※5を参照)。
この可処分所得から消費支出(生活必需品の購入、公共料金の支払い、レジャー費、教育費など)を差し引いた残りが、家計の「貯蓄」となる。
言い換えれば、経済用語としての「貯蓄」とは、「可処分所得」のうち、消費支出に充てられなかった残余の部分」を意味している。
経済用語でいうところの「貯蓄」の使途としては、・投資資本を増加させる為の物的資本=実物資本への)支出や、・金融資産Yahoo!百科事典も参照)の増加の為の支出、・金融負債を減少させる為の支出などに充てられる。
金融資産や金融負債が何かは、企業会計基準「金融商品に関する会計基準」(※6)で、定義されている。
資産と言う場合、その外形的な資産の分類として、金融資産と事業用資産があるが、日常用語として貯蓄と言う場合、金融資産の増加の場合にのみ使われているのが通例であり、さらに、当該金融資産でも、預・貯金や国債などの購入の場合には、貯蓄と言う(※預金には、リスクの発生することもある外貨預金も含まれている)が、金融資産である有価証券株式債券等)などリスク資産(高利回りが期待されるが元本割れの危険もある金融資産)購入の場合には、貯蓄とは表現せず、通常投資と言われることが多い。
又、金融負債には、住宅ローン、割賦購入、銀行の総合口座貸越・カードローン、いわゆるサラ金などの消費者金融の借入金の返済などがあるがこれを、日常用語として貯蓄ということはない。それに、個人でも、事業用資産として、土地・建物等へ投資し、これらの購入資産の利用(リース等)によって儲けることを期待する場合もあるのだが、そのような投資に対する支出であってもそれを貯蓄とは言わないだろう。このように、同じ貯蓄という言葉でも、経済用語の「貯蓄」は日常用語とは意味内容や定義が異なっていることには留意すべきだろう。
よく「日本人の個人金融資産は1400兆円」とか言われているのを聞いて、どう、思われているだろうか。
これは、日本銀行調査統計局が1954(昭和29)年分から作成している『資金循環統計』(※7の資金循環解説の中の資金循環統計の作成方法を参照)によるもので、『資金循環統計』はわが国における金融機関、法人、家計といった各部門の金融資産・負債の推移などを、預金や貸出といった金融商品毎に記録した統計であり、この統計の「家計金融資産」の数値が、よく言われるところの「日本人の個人金融資産」云々・・・の数値である。
2011(平成23)年12月末の家計の金融資産は1,483兆円ある事になっている。以下参照。

(A)日銀資金循環統計(2011年第4四半期速報):参考図表(Adobe PDF)参照。)。
(B)個人の金融資産 (日銀の資金循環統計速報 2011年12月末の状況)(Adobe PDF)

(B)は、金融資産の内容を円グラフにしたもので、内容が一目でわかるだろう。これで見ると、1位は、「現金・預金」が839兆円で、全体の56,5%を占めており、2位は「保険・年金準備金」となっており、これが420兆円28,3%、この2つで、84,8%とその殆どを占めており、日本人が安全性の高い「現金・貯金」中心にしており、リスクのある投資が少ないことがわかる。
しかし、実際には、金融資産のほかに、金融負債が357兆円あり、その差額は、1,126兆円と言うことになる。これを、日本の総世帯数46,782千(※4の ここ参照)で、計算すると、1世帯あたりのネットの金融資産は24百万ぐらいと言うことになる。それでも、多いな~、いったい誰がそんなにお金を持っているのだろう?というのが、多くの人の実感ではないか。
実は、この家計の金融資産の中には、サラリーマンなどの勤労者だけではなく、個人事業主の事業性資金が含まれており、また「保険・年金準備金」には、企業年金(厚生年金基金、適格退職年金、確定拠出年金、確定給付企業年金<基金型企業年金・規約型企業年金>)、その他年金(国民年金基金等)の運用資産相当額等が含まれており、個人の資産という概念で見るわけにはゆかないのではないか。日銀の数字はあくまでマクロの統計なので、見方によっては、世界一の財政赤字を抱える日本の「国債の発行上限額」の一つの指標としては使えるだろうが・・・。
個人資産の実態に近いと思われる数値を示すデータもある。
2011(平成23)年3月31日公表の国勢調査などを基に調整した総務省・統計局による統計データ(※4)の「家計資産に関する結果」である。以下参照。

平成21年全国消費実態調査 家計資産に関する結果の要約 

このデーターによると、二人以上の世帯の平成21年11月末日現在の家計資産は、1世帯当たり3588万円となっている。
内訳をみると、宅地資産が1992万円で家計資産の55.5%を占め、そのほか金融資産(貯蓄1,473-負債526)が947万円、住宅資産が523万円、耐久消費財等資産が127万円となっている。
これを、5年前の国勢調査時2004(平成16)年と比べると、家計資産は6.2%の減少。内訳をみると,宅地資産が8.6%の減少、耐久消費財等資産が13.5%の減少、住宅資産が4.5%の減少、金融資産も0.4%の減少と全ての資産が減少している。
1世帯当たり3588万円の家計資産のうち勤労者所帯の資産額は2653万円で、金融資産(貯蓄1146ー負債661)は、486万円、住宅・宅地資産2039万円、耐久消費財資産129万円となっている。
そして、二人以上の世帯の家計資産額階級別の世帯分布をみると,1世帯当たり家計資産は平均値3588万円であるが、中央値は2284万円で平均以下の世帯が全体の約3分の2(66.2%)を占め,資産額の低い階級に偏った分布となっている。
又、世帯主の年齢階級別にみると、家計資産は70歳以上が最も多く(5024万円)、30歳未満(854万円)の5.9倍となっており、年齢階級が高い世帯ほど家計資産が多い。平成16年と比べると,家計資産は30歳未満を除く各年齢階級で減少している。また、単身世帯の1世帯当たりの家計資産は男性が1,861万円、女性が2,997万円。年齢階級別にみると、男女とも年齢階級が高い世帯ほど家計資産が多いというのは当然だろう。
この総務省・統計局による全国消費実態調査は、比較的実態を表していると思うが、富が中高年に集中し、若者の生活が厳しい状況が統計からも見て取れる。しかもこの富の世代間格差は年々広がってきている。このデーターでは、金融資産が何に投じられているかは判らないが、恐らく、日銀金融資産循環統計に見られるように、諸外国に比して、リスクのあるものへの投資よりも圧倒的に「現金・貯金」の割合が多いのが日本の特徴であろう。
1990年代まで、日本の個人金融資産残高は高い貯蓄率や利息により、着実に増加してきたが、高齢化の進行に伴う貯蓄率低下や超低金利の定着などによって、21世紀に入ってから日銀調べの金融資産残高(負債控除前)の伸びも大きく鈍化、ここ数年来は1400兆円台で推移している。
国の多額の財政赤字(公的債務残高。その大半が国債)を支えているのが個人金融資産だが、これが頭打ちの状態に来ているが、円高とデフレ不況の続く中、昨年の関東東北大震災(東日本大震災)の復興、原子力発電所停止の中、石油資源の高騰、近い将来、東海・東南海・南海連動型地震による大津波発生が予測されるなど、ますます、国の財政負担は重くなってゆくが、今後の個人資産での国債の消化も不透明になってきた。
それに、総務省・統計局による全国消費実態調査に見られるように、家計資産の大半が、流動性のない住宅や宅地資産で占められているが、この持ち家率の上昇に伴って、住宅ローンを抱える世帯が増えている。今の時代、勤労者世帯は、深刻化する雇用不安や金融不安などのさまざまな不安を抱えながら、所得の伸び悩みや低下に直面しているなかで、住宅ローンの負担が重くのしかかり、その大切な不動産価値も年々低下していることが、さらに個人資産の低下を招く要因となり、それが、小子化を勧め、消費性向をも低下させていくという悪循環になってきている。
小子高齢化の中、老後の年金問題や医療費がどうなるのか、その目途もつかない中、電気料金アップや消費税の大幅アップなどによる支出増が目の前にちらついている。これからの長い一生を悔いのないように過ごすためには、所有する個人資産を有効に運用・活用し、それなりの貯蓄を増やしておかなければ仕方がないだろう。
資産運用法にはいくつかあるが、結局その方法は、ライフプランの基本設計の中で、きっちりと立てておかなければいけない。
元本は保障するが、リターンの少ないもの」(ローリスクローリターン)の「貯蓄型資産運用」と、「元本を保証しないが、リターンの大きいもの」(ハイリスクハイリターン)の「投資型資産運用」をどのようにどのように、選択するかと言うことになる。
ただ、昨・2011(平成23)年に巨額の損失隠しが発覚したオリンパス(オリンパス事件参照)、今年に入って、個人投資家約700人からの預かり金計3億円超のうち、約2億円を会社の運転資金に不正に流用するといった丸大証券(※8)、委託されていた企業年金およそ2,000億円の大半が焼失していたというAIJ投資顧問など不祥事が絶えず、海外勢も日本株に慎重になりつつある。
このような独立系の投資顧問会社に委託した年金問題は、他にも大きな損失を出して入りところが多くありそうで、この事件は、確定給付年金の持つリスクを改めて認識させるひとつのきっかけになるだろう。
資産運用において、投資による資産拡大を目指すか、上手に家計を節約し、余分な支出を減らして、地道に資産を拡大する方法が賢明かは、それぞれの状況に応じて考えればよいことだが、これからの増税、その他の支出増を考えると、日本の今の低金利の中では、安全な資産「現金・預金」などだけでは目減りするかもしれない。金融危機の影響で安全を考えると、資産の拡大よりも、先ず、銀行預金などより高い利率で借りている借金等を返済するなど負債を減らすことが金融の素人の私たちにとっては、一番かも知れない。
ただ、経済学的には、負債を減少させることや、貯蓄を増やす努力は購買力を将来へ移転するという行為ではあるが、マクロ的には、貯蓄を増大させるということはその時点で考えれば,財の消費を減らすということであるから、有効需要(有効需要の原理参照)を減らし、所得や雇用を減少させていく可能性に繋がる。経済を発展させてゆくためには、貯蓄する人々が、同時に将来の消費を増やすためにも、投資を行うということをしないと起こることなのだが・・・。なかなか難しい問題だよな~。

(冒頭の画像は、兵庫県神戸市中央区(廃止当時は生田区)、の旧居留地にかつて存在した
1934年(昭和9年)に建築家渡辺節の設計で建てられた神戸証券取引所の建物は1967年10月に取引所廃止後、朝日新聞社神戸支局、映画館「朝日会館」などを含む神戸朝日ビルとして使用されていたが、阪神・淡路大震災により損壊し旧取引所の外観を残しながら現在は新・神戸朝日ビルとして改装・新築された。改築されたビル低層部には旧取引所の外観が復元されている。撮影日-2006年5月20日のもの。Wikipediaより。)

参考:
※1:フィデリティ投信HPフィデリティとは
http://www.fidelity.co.jp/fij/about/fidelity.html
※2:投資信託委託会社とは 意味| 証券用語辞典
http://secwords.com/%E6%8A%95%E8%B3%87%E4%BF%A1%E8%A8%97%E5%A7%94%E8%A8%97%E4%BC%9A%E7%A4%BE.html
※3:生命保険の基礎知識:収入保険料
http://www.uuron.com/seimeihoken/archives/2005/12/15-173504.php
4:総務省・統計局・統計データ
http://www.stat.go.jp/data/index.htm
※5:NISSAI/コラム第4回 国民の所得の「39%」が税金や社会保険料!これって高いの!?
http://www.nissay.co.jp/enjoy/keizai/04.html
※6:金融商品に関する会計基準 目 次 項(Adobe PDF)
https://www.asb.or.jp/asb/asb_j/documents/docs/fv-kaiji/fv-kaiji.pdf
7:日本銀行調査統計局・資金循環
http://www.boj.or.jp/statistics/sj/index.htm/
※8:投資者保護基金、破綻した丸大証券の肩代わり 1000万円上限に(msn産経ニュース)
http://sankei.jp.msn.com/economy/news/120323/fnc12032317390011-n1.htm
【浅川和彦社長】AIJ投資顧問 企業年金 旧社会保険庁幹部の天下り
http://matome.naver.jp/odai/2133006836090596901
AIJ投資顧問に関するニュース-Yahoo!ニュース
http://news.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&p=aij%E6%8A%95%E8%B3%87%E9%A1%A7%E5%95%8F&ei=UTF-8
金融情報サイト「iFinance」
http://www.ifinance.ne.jp/
証券投資信託 - 投資信託の運営の仕組み
http://www.smartfinance.net/unit-trst/structure.html
マネー辞典
http://m-words.jp/
機関投資家とは - マネー用語辞典
http://m-words.jp/w/E6A99FE996A2E68A95E8B387E5AEB6.html
高齢社会白書について - 内閣府
http://www8.cao.go.jp/kourei/whitepaper/index-w.html
(社団法人)投資信託協会
http://www.toushin.or.jp/
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html
投資信託 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%95%E8%B3%87%E4%BF%A1%E8%A8%97