今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

メルヘン

2012-06-26 | ひとりごと
1週間ほど前のブログで、日本記念日協会に登録されている6月19日の記念日「ロマンスの日」に、「ロマンス」をテーマとして、歌謡曲や映画のことをあれこれと書いた(※1参照)。
その時、日本では、「ロマンチックな人」のことをロマンチストなどと言っているが、そもそも「ロマンチスト」は和製英語であり、英語での正しい綴り“romanticist” (ロマンティシスト)は、“ロマン主義”romanticism“を信奉する人。ロマン主義者、つまり、ロマン派文学者・芸術家を言うことが多い。
ただ、日本語のロマンチストの意味に近いのは"romantic"であり、“現実を離れた、甘美な空想などを好む人。夢想家。空想家”を言っている・・・が、そういえば、日本語には、このような和製英語が多いがその中に、「ロマンチック」によく似た言葉、「メルヘンチック」があった。それが気になっていたので、今日は、「メルヘン」をテーマに書いてみることにした。
メルヘン」(ドイツ語:メルヒェン、Märchen)は、おとぎ話(説話)。昔話( Yahoo!百科事典も参照)。伝承民話のように民間に語り継がれた物・口承文芸(民間メルヘン。フォルクスメルヘン、〔Volksmärchen〕参照) また、それらを元に創作された創作童話(創作メルヘン、クンストメルヘン、〔Kunstmärchen〕参照)など、妖精小人魔法使いなどが活躍するドイツ発生の散文による空想的な物語である。
その文学形式は、英語ではフェアリーテール(Fairy tale、妖精物語)、フランスではコント(contes de fée)と呼ばれるものに相当するものである。
ドイツ語メルヘン“Märchen” の語源は、“Mär”="Maere"(知らせ、噂、面白い話)に、「小さい」を意味するドイツ語の指小形の“chen” が付けられたもの(※2.※3参照)で、メルヘンという言葉は「ちょっとした知らせ、噂話・情報」といった意味になるが、15世紀には、そのような、メーレ(Mär)と呼ばれるの文体の短い物語があったようである。
18世紀にフランスの妖精物語や、『千夜一夜物語』がドイツ語に訳され、これらをメルヘンと呼ぶようになったようだ。
ドイツではメルヘンの概念はグリム兄弟によって形作られたとされている。
「メルヘン」は、童話、あるいは童話的な素朴な空想を含む物語の意味で使われることが多く、童話の世界にでもありそうなさまを (ドイツ)Märchenに「ロマンチック」同様“語尾に英語の”tic“をつけた和製英語で「メルヘンチック」などといったりしている。

ところで、私たちが子供の頃の最もメルヘンチックな世界と言えばディズニーのアニメ映画(ディズニー作品参照)の世界ではなかっただろうか。
日本での公開が決まっていながら、太平洋戦争勃発によって国内上映が出来なくなった作品の中には、普通の大人用の映画だけではなく、子供向きの作品も含まれていた。
ウォルト・ディズニーが手掛けた世界初の長編アニメ「白雪姫」もその1本であり、作られたのは1937年、グリム童話のおとぎ話の1つをアニメ化したものだったが、日本公開は、戦後、5年を経った1950(昭和25)年9月のことであった。
戦後最初に上映されたアメリカ製長編アニメは、マックス・フライシャー兄弟(フライシャー・スタジオ)製作の「ガリバー旅行記」(映画の解説は、goo-映画参照)で、「白雪姫」より2年早い1948(昭和23)年の公開だった。
こちらは、「ベティ・ブープ」や「ポパイ」などのカートゥーン映画を制作し人気を誇っていた初期ディズニー・プロの最も重要な競争相手であったフライシャー・スタジオ及びパラマウント映画が、ディズニーの「白雪姫」の成功を受けて、1939年に製作したものである。その翌1949(昭和24)年には、ピョートル・エルショフのロシアの古いおとぎ話に取材した長編色彩民話「せむしの仔馬」を題材にしたソビエト初の長編 アニメ「せむしのこうま」(後に邦題は「イワンと仔馬」と改題。映画の解説は、goo-映画参照)も公開された。
このアニメ映画も、ディズニーの白雪姫に代表されるアメリカのアニメがモスクワでも人気を呼んだことをきっかけに設立されたソビエト連邦動画撮影所による作品である。
日本製アニメの製作が途絶えていた戦後のこの時期、輸入アニメは好成績を記録、なかでも「白雪姫」は、質、内容の点でも評価が高く、ディズニーアニメの時代はその後長い間続き現代に至っている。私も、初めてこの映画を見たときには本当に感動した。
アニメ映画『白雪姫』の原題「Snow White and the Seven Dwarfs」は、直訳すると「スノーホワイ(白雪姫)と7人の小人達」という意味になる。
アニメ映画『白雪姫』の内容は、ざっと以下のようなもの。
むかし、ある城に、雪のように白い肌に血のように赤い頬、そして黒檀のように黒い髪の白雪姫という姫が住んでいた。
母が亡くなって、新しい女王となった白雪姫の継母は、実は魔女で毎日魔法の鏡に向かって「この世で一番美しいのは誰?」と質問していた。
ところが、ある日、いつものように鏡に聞くと、鏡は「世界で一番美しいのは白雪姫」と答えた。
そこで女王は、ある家来(狩人?)に、白雪姫を森へ連れだし殺し、彼女の心臓を持ち帰るよう命令するが、家来は、可哀相で殺せず姫を森へ逃がした。
白雪姫は森で迷い、一軒の小さな家を見つけると、そこは七人の小人の住む家だった。
一方、女王は、鏡に聞いてみると、鏡は「一番美しいのは、白雪姫です」と答えたので、白雪姫が生きていることを知り、再び姫を殺そうと、魔法を使って毒リンゴを作り、老婆の姿に化けて、リンゴを持って森へ出かけ白雪姫に食べさせて殺してしまった。
7人の小人達が、嘆き悲しんでいるところへ、王子様が通りかかり、ガラスのお棺に入った白雪姫のあまりの美しさに、王子は、思わず口づけをすると奇跡が起こって姫が生き返り、そして王子様と一緒にお城へ行って結婚して幸せにくらしましたとさ・・・。めでたし、めでたし・・・といったところで終わっている。誰もが「白雪姫」というと、このアニメの内容を思い出すのではないか。
冒頭の画像は、グリム童話のガラスの棺に入れられた白雪姫。Wikipediaより。
このディズニーのアニメ「白雪姫」は以下参考の上のところに記載の◎YouTubeで見ることが出来る。このようなアニメは子どもだけでなく、大人が見ても十分に楽しめる。
ディズニー初の長編映画というだけでなく、アニメ史に残るファンタジーの傑作として知られるが、グリム兄弟の『グリム童話集』が初めて世に出たのは1812年のことだ。
今年は、丁度グリム童話誕生200周年に当たる。グリム童話の中でも幅広い世代に愛されてきたおとぎばなしの「白雪姫」の童話の物語に大胆なアレンジを加えてアクション・アドベンチャー作品として作られたユニバーサル映画「スノーホワイト」が6月1日から公開されている。

上掲の画像は映画「スノーホワイト」のチラシ。
スノーホワイトの元題はSnow White & the Huntsmanこれを直訳すると、「白雪姫とハンター(猟師)」。私は、この映画をまだ見ていないが、この映画ではディズニーのアニメとはことなり、王子様よりもハンターが重要な役割を果たしているようだ。そして、白雪姫もディズニーアニメ「白雪姫と7人の小人」に見られる優しくてきれいな白雪姫とは異なり、森の中へ逃亡したスノーホワイトを捕らえるために女王が放った刺客のハンターと手を組み、狩や剣のテクニックを身につけ戦うスノービューティーへと変貌してゆくそうだ。同映画予告編を見ていると、何か「ナルニア国物語や、「ハリーポッター」の映画に近い雰囲気を感じる・・・・。
又、今年は、インド出身の「ターセム・シン監督によるアメリカ映画「ミラー・ミラー(Mirror Mirror)」が邦題を白雪姫と鏡の女王」に改めて、9月に日本公開されるそうだ。 前者がシリアスなハード白雪姫ならこちらはコメディー・タッチなちょっと笑える白雪姫であり、その白雪姫が挑むのは史上最強のわがまま女王と言うことになっている。
「鏡よ鏡この世で一番美しいのは誰?」・・・。
ディズニーアニメとは違って、現代版の白雪姫は、どちらも、女王と白雪姫、女と女の戦いの映画といったようなものになっている。女性が強くなった現代の社会を反映した映画といえるのかも・・・。
以下でその予告編が見られる。

映画『スノーホワイト』公式サイト

映画『白雪姫と鏡の女王』公式サイト

グリム童話は、アレンジされて色々映画化されているが、今から、15年ほど前の1997(平成9)年10月に、グリム兄弟が1812年に発表した「白雪姫」の原典に忠実にその残酷さと狂気の世界を再現したといわれるアメリカ製のファンタジーホラー映画「グリム・ブラザーズ/スノーホワイト」(原題:Snow White:A Tale of Terror。直訳:白雪姫:恐怖の物語)が日本で公開されているが、大筋は一般によく知られた童話通りの流れであるが、グリム童話本来の残酷性を前面に出したストーリーになっている・・・という(映画の内容はgoo-映画を参照)。
グリム童話の『白雪姫』の菊池寛に依る邦訳ものが青空文庫(※4)で読めるが、菊池寛に依る邦訳ものにしても、ディズニー・アニメのような、めでたしめでたし・・・で終わるものではなく、白雪姫を城に連れて帰った王子は白雪姫と結婚し、その結婚披露宴で、王妃は真っ赤に焼けた鉄の靴を履かされ、死ぬまで踊らされる・・・という恐い結末で終わっている。しかし、初版グリムでの記述 では、白雪姫を殺そうとし、又最後に焼けた靴を履かされて殺されたのは、継母では無く実の母であったとされているなどもっともっと恐いものらしい。

現在一般に広く読まれ流布している『グリム童話』(正式には、ドイツ語でKinder und Hausmärchen 。略してKHM)。日本語では『子供たちと家庭の童話』)は、1875(明治8)年に出版された最後の版(第7版)であり、おもに童話200編、子供のための聖人伝説10編からなっており、「白雪姫」はKHM 53番目の作品である。
18世紀ごろまで、民話やおとぎ話は大人の娯楽の一部でしかなかったが、18世紀末から19世紀前半にかけて読み書きのできる子どもが増えてきたことから、子どもにも読めるやさしい昔話や童話が人気であった。
グリム兄弟が採集してきた民衆の間で口承されてきた民話などを子供向けにわかりやすく書き直して、童話集「子供と家庭のための昔話集」を出版した1812年出版の第1巻には、86話が収録されていたが、1815年には、70話からなる第2巻が出版され、さらに1819年には1、2巻を纏めて、161話を収めた第2版が出版された。
以後、最後の版(第7版)に至るまで、おもに弟のヴルヘルムによって、7回も加筆・修正されている。
グリム兄弟と言えば、日本では、『グリム童話』の編集者として知られているが、彼らは、実際には言語と歴史の専門家であり、童話集は彼らのメインの仕事ではなかった。彼らの主著は『ドイツ語辞典』であり、それ以外にも、兄弟で、40冊以上の専門書を発行しているという。
そんな兄弟が、何故、童話集を出したのか?
18世紀後半から19世紀にかけての時期は、ドイツ文化の一つの絶頂期であり、文学の世界では、ゲーテシラーが、哲学ではカント、音楽界ではモーツァルや、ハイドンベートーヴェンなどが活躍していた時代であるが、その少し前の時代まで、三十年戦争によって、ドイツ地方各地には諸侯が分立し、自由都市や小国が独立国としての権威を獲得し、300以上もの 領邦に分裂しており、(Wikipedia-ドイツの歴史又、ドイツのコトバンク-領邦国家も参照)、文化もヨーロッパの他の国と比べてはるかに貧弱だった。
つまり、グリム兄弟が生きた時代には、まだ、ドイツと言う国はなく、ドイツ語圏の統一国家を目指す社会的機運があり、ドイツ民族を統一するには先ず言語と文化からだということで、ヤーコプとヴィルヘルムの2人が、言語と文化の研究に強い関心を抱くようになり、そのことが、メルヘン集をつくった動機のひとつとなっているようだ。
また、1760年代末に「シュトゥルム・ウント・ドランク(日本語訳:疾風怒涛)」という革新的な文学運動が起こったことも、グリム兄弟がメルヘン集をつくる動機となったようだ。
この運動の中心人物にはゲーテがおり、史劇『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』(1773年)や、小説『若きウェルテルの悩み』(1774年)を残している。戯曲『群盗』(1784年)や『たくらみと恋』(1784年)の作者であるシラーや、音楽家であるハイドンも、この運動に参加していた。そのような動きのなかで、ドイツでは、自国の固有文学に対する見直しが叫ばれるようになり、昔から伝わるメルヒェンに注目が集まるようになっていった。そして、さまざまな民話集やメルヒェン集が発行されるようになった。
1770年代には、 ヘルダーが『民謡集』を、1782年には、ムゼーウスが『ドイツ人の民間メルヘン』を、1789年にはナウベルトが『ドイツ人の新しい民間童話』を出版。1806年から1808年にかけてアルニムブレンターノが共同で、民謡集『少年の魔法の角笛』(Des Knaben Wunderhorn) を出版,し、また、1808年には、A・L・グリム(グリム兄弟とは何の血縁関係もない)が『子どもの童話』を出版しているなど、グリム兄弟がメルヒェン集をつくる以前から、いくつものメルヘン集が出版されていた(以下参考の※5。※6の「ShosBar」のグリム「童話集」の真実は?参照)。
先に述べたブレンターノは、『少年の魔法の角笛』が評判がよかったので、その続編を出版するために、より多くのメルヘンが必要になり、グリム兄弟に蒐集活動の手助けを求め、ブレンターノは、図書館の中にある民謡の資料を写すことと、古い本や古い手稿類にある物語を記録することをグリム兄弟に依頼。グリム兄弟は、ブレンターノに協力することを決め、さまざまなメルヘンを集め出した。
1810年頃ブレンターノより、集めたメルヘンの草稿を送るよう頼まれ、グリム兄弟は、万が一のためにメルヘンの草稿を筆写した後、ブレンターノ宛に送ったが、何故だか、ブレンターノは、グリム兄弟から借りたメルヘンの草稿を公表しないばかりか、その草稿を紛失してしまい、返却することもしなかったそうだ。そのため、グリム兄弟は今まで蒐集してきた数多くのメルヘンを使って、自分たちでメルヘン集を出版する決心をし、1812年に出版した童話集が『子どもと家庭の童話』だというのだが・・・。
このグリム童話集は他の童話集とはちょっと違っていた。それは、他の童話集は、編者(著者)が大幅に加筆潤色していたため一つ一つが大変長かったが、グリム童話集は個々の話が非常に短い。これが売れ行きにも繋がり、3年後に第2版を出版することが出来たのだという。
初版は、口承のものをほぼそのままに、どちらかといえば大人向けのものであったため、話の内容や表現が子ども向きでなかったため、第2版以降は残酷な場面や性にまつわる表現などを書きあらため、会話体を増やしたり情景描写を詳しくしたりなどの文体上の改変が重ねられて、回を重ねるごとに収録童話の数も増えて言った。
よくアンデルセンの童話が「創作童話」であるのに対して、グリム童話は伝承童話であるといわれるが、グリム童話も初版のときの民間に語り継がれた口承民話(メルヘン)から離れてゆき、回を重ねるごとに、次第にグリム兄弟による創作童話(ファンタジー)的なものに変化していったようである。
童話集というと全国各地の村々をまわって、字の読めない老人、特にお婆さんを捜し出し、覚えている昔話を語ってもらいそれを記録するのが普通のやり方であり、グリム童話もそんな風にして集められたと思っている人も多いだろうが、実は、グリム兄弟は、遠くまで出かけず、主に知人や友人(あるいは友人の友人)から話を集めた。それらの協力者はみな、字の読めない老人などではなく、裕福な家庭で育った教養のある若い女性たちであり、主な語り手の中でももっとも多くのメルヘンを語ったのはハッセンプフルーク家の三姉妹等ユグノー系(ユグノー戦争参照)の人々であった。ハッセンプフルーク家は、カトリックに迫害されてドイツなどへ国外逃亡していた16世紀のフランスのプロテスタントの子孫であり、三十年戦争で疲弊したドイツ中部のヘッセン地方へ移住してきて繁栄していた。グリム兄弟は、同家とは親交があり、同家の息子の1人ハンスはグリム兄弟の妹と結婚している。
ハッセンプフルークは家庭では、主にフランス語が話されていたという。そのため、メルヘェンを書籍によって知っていたという可能性がある。特に、フランスのペローのメルヒェン集を読んでいるであろうことは、十分考えられる。そのため、ハッセンプフルーク家の三姉妹がグリム兄弟に語ったメルへンは、フランスやそのほかの地域の影響を受けている可能性を含んでいる。グリムは、昔話の出自を示すメモを残しており、三姉妹の一人マリーが語った話の中には「いばら姫」(KHM50。「眠れる森の美女」参照) や「白雪姫」(KHM53)などがあるという。後に、ハッセンプフルーク家等の若い女性からの入手情報は、グリム兄弟によって特に手が加えられているという(※7)。
このようなことから、『子どもと家庭の童話』に収録されたメルヘンは、純粋にドイツ独自のものであるとは言い切れず、グリムが昔話や民話の原型を改変したとの批判もあるようだが、グリム兄弟がメルヘンを改変したのは、フォルク(Volk)とドイツ語のためだった。・・・・と、同時に、当時グリム兄弟は生活が楽ではなかったらしいので、より期待される童話集にしてその売り上げの向上を期待しての面もあったかもしれない・・・とも思えるのだが・・・。
最後になったが、以下参考の※5「第1章」では、グリムの「白雪姫」の初版、第二版で、見られるストーリーの変化を、「白雪姫」の草稿時の史料と初版、第二版を比較し、変更点について細かく解説している。又、グリム兄弟によってつくりだされた「白雪姫」が、ディズニーによってどのように変身させられたか。それを、『グリム童話集』の第二版に収録された「白雪姫」と、ディズニーの長編アニメを比較し、ディズニーが新たに付け加えた場面と、グリム版から変更した場面を表に挙げを比較している。グリム兄弟や、ディズニーがそれぞれ、何を訴えたかったかもよく分かりますよ。


◎「白雪姫」(元題=Snow White and The Seven Dwarfs)日本語吹き替え版 
 ディズニー映画- YouTube part 1 part 2 part 3 part 4 part 5 part 6 part 7 part 8 part 9

参考:
※1:今日のことあれこれと・・・ロマンスの日
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/d/20120619
※2:mpedia:メルヒェン
http://mpedia.jp/%E3%83%A1%E3%83%AB%E3%83%92%E3%82%A7%E3%83%B3
※3:げたにれの “日日是言語学”
http://ameblo.jp/nirenoya/day-20080122.html
※4:グリム 菊池寛訳 『白雪姫』(青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/001091/files/42308_17916.html
※5:第1章(Microsoft Word)
http://lab.inf.shizuoka.ac.jp/nakao/thesis/06/natuki.doc
※6:ShosBar(鈴木晶のウエブサイト)
http://www.shosbar.com/
『ヘンゼルとグレーテル』ヤーコプ・グリム&ウィルヘルム・グリム 松岡正剛
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1174.html
※7:第ー部 書きかえられた 『昔話集』(Adobe PDF)
http://repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/64057/5/dt-ko-0039004.pdf#search='ハッセンプフルーク家'
中世末期・近世初頭のドイツ鉱山業と領邦国家( PDF)
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/585pdf/sehara.pdf#search='中世末期・近世初頭のドイツ鉱山業と領邦国家( PDF)'
グリム兄弟とペロー童話 高 木 昌 史(Adobe PDF)
http://www.seijo.ac.jp/graduate/gslit/orig/journal/europe/pdf/seur-30-06.pdf#search='シャルル・ペロー 妖精物語'
グリム兄弟の「いばら姫」 テキストの類遷・類話[PDF]
http://repository.cc.sophia.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/13908/2/200000052412_00000140_61.pdf福娘童話集:今日の世界昔話
http://hukumusume.com/douwa/index.html
補陀楽通信:第224回   時代はメルヘンチック  
http://www.potalaka.com/potalaka/potalaka224.html
メルヘン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%B3

ロマンスの日 2ー1

2012-06-19 | 記念日
日本記念日協会の今日・6月19日の記念日に「ロマンスの日」があった。
記念日の由来を見ると“大切なパートナーとの仲がいつまでも続くように、この日に非日常的な演出をしてふたりの関係にトキメキを甦らせてもらおうと日本ロマンチスト協会(※1)が制定し、「本当に大切な人と極上の一日を過ごす」ことを推奨しているそうだ。
ロマンチストの聖地、長崎県雲仙市愛野町で「ジャガチュー(ジャガイモ畑の中心でロマンスを叫ぶ)」などのイベントを行っているそうで、日付は6と19で「ロマンティック」の語呂合わせなどから。・・・としている。
ここに書いてある由緒だけを見ても、何故愛野町がロマンチストの聖地?で、何故ジャガイモ畑の中心でロマンスを叫ぶのか?などよく分からないので同協会HP(※1)を覗くと、
同協会は、その名の通りロマンチストが集まった団体であり、「ロマンチスト」とは、”恋人や家族など「大切な人を世界で1番幸せにできる人」と協会では定義しているようだ。
そして、同協会の会長波房氏は“ロマンチストというと、「空想癖」や「ナルシスト」(ナルシシズム参照)などちょっとネガティブ(negative)な人物像をイメージするかもしれないが、もっと、ポジティブ(⇔ネガティブ)に定義付け、“大切な人との良い関係作りのためにロマンチックに生きる人が増えれば、世の人の心が温かくなり、社会全体としてもハッピーな状態になるのでは・・・”と考えてこの運動をしているのだという。
そして、雲仙市の愛野町を通るローカル線「島原鉄道」の愛野駅から、吾妻(あづま)駅までの乗車キップは、「愛しの吾が妻(いとしのわがつま)」に通じる縁起物として知られていることから、ここを「聖地」として、同協会の本部をこの地に設置した。
同鉄道の愛野駅はメルヘンチックなかわいらしい駅であり、前方には見晴らしの良い海抜95メートルの断崖絶壁、背後には愛野のバレイショ(ジャガイモ)畑が広がっており、このジャガイモ畑を会場にして、「ジャガイモ畑の中心でロマンスを叫ぶ「ジャガチュー」と題した企画を実施しているのだという。この記念日の設置やこの運動は2008(平成20)年から行っているようだ。同協会ではロマンスの日に、「真実の愛」や「誠実な誓い」の意味を持つ色の物を大切な人に贈ろう、という運動もしているそうだ。
今の若い人達と私たちの年代のものでは、ロマンの考え方もずいぶん違ってきているのだろうが、ここで言うところの、ロマンチストな若者がジャガイモ畑に集まって、谷に向かって大声で愛の告白などしたりして、それで愛が通じたりするものであるなら、それはそれで、結構なことであり、おおいに、楽しんでやられるとよいだろう。興味のある方は、同協会HPを覗かれると良い。

このブログでは、協会の運動とは関係なく、これ以降は、記念日にあるところの「ロマンス」を題材として書くことにする。
日本では、「ロマンチックな人」のことをロマンチストなどと言っているが、そもそも、「ロマンチスト」は和製英語であり、英語での正しい綴り“romanticist” (ロマンティシスト)は、“ロマン主義”romanticism“を信奉する人。ロマン主義者、つまり、ロマン派文学者・芸術家を言うことが多いが、日本語のロマンチストの意味に近いのは"romantic"であり、“現実を離れた、甘美な空想などを好む人。夢想家。空想家”を言っている。特に、漢字で「浪漫」と書いた場合などは、男性また女性が追い求める夢と希望の事をいっていることが多いようだ。
ロマン主義(※2も参照)という語のもとをなす形容詞ロマンチック“romantic”(英語)、“romantique”(フランス語)は、もともと俗化したラテン語を、ついでその言語によって書かれたすべての作物(小説や物語など)をさしたフランス語のロマン“roman”に由来するが、時代が下るにしたがってロマンは初め韻文で、後には散文でも書かれた中世の騎士道物語に対して用いられ、とくにイギリスでは「ローマ的」という意味でロマンス“romance”とよばれるようになった。
ロマンチックの初出は17世紀中葉のイギリスであり、少し後れてほぼ同時期にドイツ、フランスに入り、主として小説的で幻想的な印象を与える風物や芸術作品の形容詞に用いられていたが、やがて18世紀末から19世紀初頭にかけてイギリス、ドイツ、フランスを中心にヨーロッパ各地で、文学・芸術・思想上の自由解放を信奉する革新的思潮の高まりの中から、合理主義の普遍的理性に対抗して個々人の感性と想像力の優越を主張し、古典主義の表現形式の規制を打破して自我の自由な表現を追求しようとした文芸運動が展開され、伝統文化をよぶクラシックclassic(古典的)の対立語として定着するに至った。
ロマン主義は、その展開の中で、近代個人主義を根本におき、それまで古典主義において軽視されてきたエキゾチスム“exoticism”・オリエンタリズム“orientalism”・神秘主義“mysticism”・“dream”などといった題材が好まれた。またそれまで教条主義によって抑圧されてきた個人の感情、「憂鬱」・「不安」・「動揺」・「苦悩」・「個人的な愛情」などを大きく扱った。
文学ではルソーゲーテワーズワースを先駆とし、絵画ではジェリコドラクロアゴヤ、音楽ではシューベルトシューマンショパンベルリオーズらに代表される。

日本でのロマン主義文学の先駆けは、明治中期(1890年前後)以降、西欧のロマン主義文学の影響を受けた森鴎外の『舞姫』(1890年)によって始まり、『文学界』(1893年~1898年)同人の島崎藤村の詩や北村透谷の評論などによって推進された(※4参照)。彼らは美と自由を主張し、人間性の解放と主情(理性や意志よりも、感情や情緒などを中心とすること)的真実を探り、自我の確立を目ざした。
本格的な浪漫主義は、明治30年代の詩歌全盛の時代とともに開花するが、その主流となったのは、与謝野鉄幹晶子夫妻を中心とする雑誌『明星』(1900~08)によった歌人らであり、好んで星やすみれ(菫)に託して、恋愛や甘い感傷を詩歌に歌ったことから彼らを指して、星菫(せいきん)派と称した。その本質は、奔放な情熱による自我の解放と恋愛至上と空想的唯美の世界への陶酔にあった。
この当時のロマン主義文学の代表作には、樋口一葉の短編小説『たけくらべ』(1895年)、島崎藤村の詩集『若菜集』(1897年)、国木田独歩の随筆的小説『武蔵野』(1898年。※3)、徳冨蘆花の社会的視野を持った家庭小説『不如帰』(1899年)、泉鏡花の幻想小説『高野聖』(1900年)があり、本格的な浪漫主義は、明治30年代の詩歌全盛の時代とともに開花し、与謝野晶子の歌集『みだれ髪』(1901年)、などがあるが、国木田独歩はやがてロマン主義から自然主義的な作風に変化してゆき、島崎藤村は『破戒』(1906年)により、ロマン主義から自然主義文学に完全に移行した。日本のロマン主義文学は、西欧のそれに比べて短命であった。

大正時代の雰囲気を伝える思潮や文化事象を指して呼ぶ言葉に「大正ロマン」があり、しばしば「大正浪漫」とも表記されるが、この「浪漫」という当て字は夏目漱石によって付けられたとされている。
「大正ロマン」は、新しい時代の萌芽(ほうが。草木の芽のもえ出ることから、新しい物事が起こりはじめること。また、物事の起こるきざし)を示す意味合いから、モダニズム“modernism”(近代化)から派生した「大正モダン」という言葉と同列に扱われることもある。
「大正モダン」と「大正ロマン」は同時代の表と裏を表象する対立の概念であろう。在位の短かった天皇の崩御により、震災(関東大震災)復興などによる経済の閉塞感とともに、この時代は終わり、世界的大恐慌で始まる昭和の時代に移るが、大衆化の勢いは衰えることなく昭和モダンの時代へと引き継がれ、昭和時代の初め1930年代に花開した。それは、和洋折衷の近代市民文化であった。
大衆ロマン主義を表現したり訴える手段としては、映画や歌謡曲は小説以上に効果がある。
1922(大正11)年の「枯れすすき」(作詞:野口雨情、作曲:中山晋平。後「船頭小唄」と改題映画化)などによって、映画が流行歌の強力な媒体となることが証明された。以下では、「船頭小唄」に主演した貴重な栗島すみ子他による粗筋の説明がある。

船頭小唄劇-上 栗島すみ子外 - YouTube

映画主題歌は昭和になるとともにいっそう多く製作され、「東京行進曲」(1929年。唄:佐藤千夜子、作詞:西條八十、作曲:中山晋平)や「女給の唄」(映画タイトルは「女給」(歌・羽衣歌子、 作詞・西條八十、 作曲・塩尻精八)が大きな話題となった。
「東京行進曲」では、モボ・モガが行き交う昭和初期の開放的な東京・銀座の風俗が唄われている。以下では、佐藤千夜子の歌とともに、関東大震災からまだ、復興して5年ほどの、昭和4年の東京銀座 浅草の賑やかな光景が見られる。

佐藤千夜子 東京行進曲 昭和4年の東京銀座 浅草 - YouTube

女給の唄 羽衣歌子 -YouTube

これらの歌のヒットの原動力としては、当時電気吹き込みで音色が一段と改良され、電気蓄音機(電蓄)が登場することになり、レコードが家庭内に浸透したことによる事が大きい。
そして、従来は庶民が愛好したので「流行歌」となったが、次第に、流行を予測し、最初から「流行歌」と銘打った曲が発売されるにいたり、その性格は一変し、映画産業とレコード企業が庶民の嗜好を左右する原動力となっていった。
又、作詞や作曲の専業者が現れ、歌手がスターの座につくようになり、庶民の憧れの存在となった。このようなさま変わりした流行歌の宣伝媒体として、ラジオや新聞そして、雑誌も参加してくることになった。
そして1937(昭和12)年小唄 勝太郎の歌う「島の娘」や「東京音頭」などの芸者唄にあこがれる者が現れる反面、それを拒否する声も大きくなった。その矢先に、1936(昭和11)年「忘れちゃいやヨ」が大ヒットした。

東京音頭-小唄 勝太郎 - YouTube

島の娘 小唄勝太郎- YouTube

忘れちゃいやヨ -渡辺はま子 - YouTube

また、映画では、川口松太郎の小説を映画化した「愛染かつら」の主題歌「旅の夜風」、作詞:西條八十、作曲:万城目正、唄:霧島 昇ミス・コロムビア)は、同映画の挿入歌「悲しき子守唄」とのカップリングでコロムビアレコード(現コロムビアレコード)から発売80万枚という驚異的なレコード売り上げを記録したという。当時日本にあったプレーヤー(蓄音機)の台数を考えると、今日では2000万枚近いメガヒットにも相当するかもしれないという。

旅の夜 風霧島昇、コロムビア- YouTube

また、1940(昭和15)年発売の戦時歌謡曲「誰(たれ)か故郷(こきょう)を想わざる」(作詞:西條八十、作曲:古賀政男、歌:霧島昇))は、歌のヒットにより、新興キネマより同名で映画が公開されヒットた。

霧島 昇 誰か故郷を想わざる- YouTube

映画での主題歌の強さを見せ付けた。1930年代は、日本調が一つの頂点に達したときである。
1910年代になると、ポピュラー音楽の外国レコードも大量に入ってくるようになり、次第に外国楽曲の愛好者も増え、1930年代になると、ディック・ミネの「ダイナ」や「雨のブルース」(淡谷 のり子)などが歌われるようになる。

ダイナ ディック・ミネ (昭和九年) - YouTube

淡谷のり子 雨のブルース- YouTube

しかし、1930年代後半(1937年~)頃には、日中戦争の激化と世界的な国際関係の緊張を受け国家総動員(国家総動員法参照)となり、これらの文化は「軟弱で贅沢」「反“新体制”的」として排斥され、昭和モダンは終わりを迎え、次第に軍歌や軍国調の国民歌謡が歌の主流を占めるようになったが、初期の頃は意外にロマンの香り豊かな歌謡曲が作られ歌われていたのだ。
このような、昭和モダンの歌の流れは第二次世界大戦後(1945年8月~)になってますます顕著となる。
終戦直後は各レコード会社が戦災のために思うように新譜レコードを発売できず、戦前の歌謡曲が再発売されていたが、戦争という時代の制約から解放されたレコード業界は、早速、終戦翌年より活動を再開、この時、レコード会社は新人歌手の開拓に腐心した。この活動によりデビューしたのが、並木路子美空ひばりなど、「第三世代」( Wikipedia-流行歌の3.6 戦後の躍進と第三世代参照)と呼ぶべき歌手である。
戦後の日本の歌謡史は並木路子が歌う「リンゴの唄 」(作詞:サトウハチロー。作曲は万城目正。)で始まった。焼け跡の廃墟のから聴こえて来た。
この歌は、終戦(1945年8月)2ヶ月後公開された戦後映画の第1号(GHQ検閲第一号映画でもある)『そよ風』(松竹映画、1945年10月公開。佐々木康監督)の主題歌であった。

リンゴの唄~映画『そよかぜ』より - YouTube

映画『そよ風』は、もともと本土決戦に備え戦意高揚の目的(プロパガンダ)として企画されたものだったが、終戦を迎え内容もすっかり変わり、主演には撮影当時23歳の松竹少女歌劇団員である並木路子が抜擢され、並木扮するレビュー劇場の照明係で歌手志望の少女みちが、楽団員たちに励まされ、やがて歌手としてデビューするという、映画としては、レビューガールの恋と生活を描いた平凡な「スター誕生」の物語となった。
映画の中では、ヒロインの並木が、恋心を寄せていた佐野周二の何気ない言葉に傷ついて、りんご農家である実家に帰ってしまう。そして、りんご畑で一人寂しく「リンゴの唄」を歌うという設定になっているが、レコードは、映画にも出た霧島昇とのデュエットとなっている。「この曲は必ず当たる」と思った霧島が強引にデュエットを希望したらしく、スタッフは当時コロムビアの看板歌手だった霧島の要求を断れなかったようだ。しかし、霧島は並木を売り出したいコロムビア側の意向でステージでは歌わなかったという。
この、「リンゴの唄」は、映画が封切りされてからレコード吹き込みまでに再三ラジオで放送され、空前の大ヒットとなった。
私の父親も大好きで、毎日歌っていたので、子供心に私もいつの間にか覚えて、口ずさんでいた。
終戦直後の昭和20年の暮までは、軍歌や戦時歌謡が盛んであったが、その反面、戦時中禁じられていた歌謡曲が一斉に蘇(よみがえ)りつつある時でもあった。そして、「リンゴの唄」を耳にするまで、これといって新しい歌もなかった。
並木が健康的でさわやかに、可憐な少女の思いを赤いリンゴに託して歌ったこの歌詞が、戦後の焼け跡の風景や戦時の重圧からの解放感とうまく合って、敗戦の混乱のなか虚脱と退廃に包まれた人々の心を癒し、それ以上に、人々に生きる希望・夢(浪漫)を感じさせたのだろう。、
この歌のヒットのより、戦後は、古いイメージの昭和1ケタ台に活躍した歌手が引退し、昭和20年代は戦前派でも昭和10年以降の第二世代の歌手が活躍し、新しく出てきた第三世代と新旧相交ざった状態が昭和20年代中頃まで続いたが、「リンゴの唄」に続いて、岡晴夫が歌う「東京の花売娘」や憧れのハワイ航路」(昭和23年)が一世を風靡した。彼の底抜けに明るく歌う前曲では、ブギウギのリズムに乗せ、ジャズ・米兵と焼け跡の首都の風俗を叙情的な歌詞で表され、後曲では、戦争の火蓋が切られたハワイを、何の衒(てら)いも無く理想郷に置き換え、平和の到来と開放感に充ちた時代の到来を告げた。

東京の花賣娘 岡晴夫- YouTube

憧れのハワイ航路  岡 晴夫- YouTube

また、服部良一作曲で、笠置シヅ子が虚脱感を吹き飛ばすかのように歌った」、「東京ブギウギ」、古賀政男作曲の近江俊郎湯の町エレジー」の大ヒット、藤山一郎奈良光枝のデュエットで格調高く溌剌(はつらつ)と復興の息吹を呼ぶかのように歌った映画「青い山脈」の同名の主題歌「青い山脈」(作詞:西條八十 、作曲:服部良一)などもヒットするなど、戦後流行歌が数多く生まれたが、そんな戦前派の代表格である藤山も昭和29(1954)年には引退を決意し、次々戦前派歌手が撤退する中、レコード各社は新人歌手の開拓でしのぎを削っていた。これが、日本歌謡における多ジャンル化への契機ともなった。

笠置シヅ子 東京ブギウギ - YouTube

近江俊郎 湯の町エレジー - YouTube

青い山脈 藤山一郎さん  奈良光枝 さん 原曲- YouTube

そんななか美空ひばりが、1949(昭和24)年、1月、日劇レヴュー「ラブ・パレード」(主役・灰田勝彦。参考※5:「昭和のレビュ-狂時代」の年代別:昭和24年を参照)で笠置シヅ子の「セコハン娘東京ブギウギ」を歌い踊る子供として面白がられ、同年3月には東横映画「喉自慢狂時代」(大映配給、※6)でブギウギを歌う少女として映画初出演。8月には松竹映画「踊る竜宮城」(※7)に出演し、主題歌「河童ブギウギ」で、コロムビアから歌手としてB面ではあるが11歳で正式にレコードデビュー(7月30日)を果たした。続いて12歳で、映画主演を果たした「悲しき口笛」(松竹)が大ヒット、同主題歌も45万枚売れ(当時の最高記録)国民的認知度を得た。この時の「シルクハットに燕尾服」で歌う映像は小さいときのひばりを代表するものとしてよく取り上げられている。
以下で当時の懐かしいひばりの歌が聞ける。さすが、天才少女と呼ばれ、昭和歌謡界の女王として君臨しただけあり、子どもとは言えない素晴らしい歌唱力である。

美空ひばりデビュー「踊る竜宮城」 - デイリーモーション動画

悲しき口笛-美空ひばり- YouTube

戦前派の撤退を横目に、ビクターからは、鶴田浩二三浦洸一、テイチクからは三波春夫、コロムビアからは島倉千代子村田英雄らの新人をデビューさせた。特にキングは昭和20年代末から30年代にかけて、春日八郎三橋美智也をデビューさせて、戦前とは比べ物にならない勢いを誇っていた。また映画「太陽の季節」「狂った果実」で映画デビューした日活のスターである石原裕次郎や双子のデュオザ・ピーナッツなど、新しいタイプの歌手も次々登場させていた。

一方、日本の映画では戦後、GHQ により統治され、検閲を受けて、時代劇の大部分が製作できなくなっていたが、これはかえって、映画の民主化傾向の促進や映画労働運動の奨励などに貢献したといわれている。
初めのうちは民主主義的な映画を避けていた各映画会社もその厳しい検閲から、民主主義を標榜する映画作りを行うことになった。今では、当たり前のように映画に出てくるキスシーンも登場したのは 戦後第1作の映画「そよかぜ」に続いて佐々木監督が撮った1946(昭和21)年公開の「はたちの青春」(松竹。※8)からであるが、これも、GHQ による民主主義奨励の一環であったらしい。
又、1950 年代戦後復興期の日本全国で映画館の新設ラッシュが続くが、館内全体の「雰囲気」を重視し、「観客にロマンチックな気分をかもし出させる」ために必要な空間の創出も進められていた(※9)。
1951(昭和26)年に、サンフランシスコ講和条約が締結されると、翌年にGHQによる映画検閲が廃止となる。これにより上映禁止となっていた時代劇が復活するとともに、多数の映画が製作されるようになった。国際映画祭において黒澤明溝口健二らの日本映画作品が次々と受賞し、日本の文化的矜持の回復に務めた。

東映は、『新諸国物語 笛吹童子』シリーズや『新諸国物語 紅孔雀』(1954年・五部作)に、若手の中村錦之助東 千代之介を主演させ子供達に圧倒的人気を得、市川右太衛門片岡千恵蔵月形龍之介大友柳太朗といったベテラン俳優主演の大人物にも中村錦之助や大川橋蔵等新しいスターを次々主演させ時代劇王国としての地位を築いた。
東宝は、森繁久弥出演の『三等重役』より、サラリーマンシリーズ、社長シリーズ、駅前シリーズが大ヒット。東宝の経営を支え、黒澤映画からは、スーパースター三船敏郎や、加山雄三を生み出し、加山は、「若大将シリーズ」の主演で1960年代の東宝の屋台骨を支えるようになる。また、円谷英二監督は、特撮による「ゴジラ」がドル箱シリーズとなった。
松竹は、木下惠介監督や小津安二郎監督による映画で女性ファンを集め、伴淳三郎出演『二等兵物語』など、松竹がお得意とする喜劇作品もヒットさせた。
大映も長谷川一夫を筆頭に三大女優京マチ子山本富士子若尾文子そして新し市川雷蔵といった日本映画史に残る大スターを排出した。
日活は、五社協定により有力なスターを他社から引き抜けないため、石原裕次郎、小林旭浅丘ルリ子赤木圭一郎宍戸錠などの自前のスターを作り出し、若年向けの青春映画や無国籍アクション映画を製作•配給し人気を得た。
そうして、1958(昭和33)年には映画人口が11億人を突破するなど、映画は娯楽の殿堂として不動の存在となるとともに、映画産業における第二の黄金時代が到来することとなった。


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ロマンスの日 2-2

2012-06-19 | 記念日
日本の演歌は、明治時代の自由民権運動の産物であり、壮士演歌ともいって、藩閥政府に対する批判、政治宣伝のために歌われていた(オッペケペー節など)。
」( Yahoo!辞書も参照)とは、の一形式であり、和歌。短歌、長歌、連歌、狂歌などや、能や狂言、歌舞伎などに用いられる歌、それから、現代の流行歌としての歌謡曲やポップスなど、いろいろあるが、日本の民俗学者、国文学者、国語学者であり、詩人・歌人でもあった折口信夫によれば「歌う」の語源は、「うった(訴)ふ」であり、歌うという行為には相手に伝えるべき内容(歌詞)の存在を前提としていることもまた確かであり、「うたは世につれ、世はうたにつれ」というように、世がうたに追随することは少ないものの「歌は世に連れる」と言うように、歌謡曲は常に世相の裏で大衆が感じたことを敏感に取り上げ、大衆の共感を得てヒットさせてきた。そういう意味でこの言葉は名言であるが、今の時代、映画やテレビドラマなども、「うた」のひとつに含まれるものといえるかもしれない。

時は流れ、平成の世になって24年。
だんだんと遠ざかっていく「昭和」の時代、私が青春期を過ごした時代、青少年が憧れた輝くばかりのスターが銀幕(映画)の世界にも歌謡界にも大勢いた。
昭和における大衆歌謡・流行歌は、生活の中の泣き、笑い、喜びをそのメロディと詞に織りこみ、それゆえに世代を越えて愛されてきた。田舎の祭ばやし、高原の白樺林、赤い夕陽の校舎、霧の波止場にマドロス、路地裏の酒場。列車に郵便船。人々は理屈ではなく、感性でそうした「うた」の世界に思いをはせ、想像力をかきたてていった。それを歌や映画で演じ、夢や憧れを一身に集めてくれたのがスターであったのだ。
歌の世界で最も幅広い層に広く認知されたのは、やはり美空ひばりからではないか。彼女は歌手としてだけではなく映画界でも大活躍。その演技力は俳優としても一流であった。
まだテレビは普及途中であり、ビジュアルの中心は映画であり、『平凡』(平凡出版,現マガジンハウス)、『明星』(集英社、現・Myojo)などの雑誌であり、また、プロマイドであった。情報の乏しい中、特に若い男女は、必死に憧れのスターを追いかけた。

若い男女に、そんな、憧れのスターを広めるのに大きな役割を果たしのが中でも雑誌『平凡』であろう。
平凡出版の発行による『平凡』は、戦後『明星』と共に映画・音楽で活躍する芸能人の情報を掲載した月刊誌として人気があったが、創業者の判断により1987年に休刊となっている。


上掲の画像は、『平凡 最後の最後の特別編集『ありがとう!美空ひばりさん』の永久保存版と名うった写真集(マガジンハウスムック第11号平成元年8月1日発行)である。私の雑誌コレクションの中の1つであるが、美空ひばりが亡くなった直後に刊行されたものでる。
マガジンハウスから発行されていた月刊娯楽雑誌『平凡』の前身の平凡出版は、1945(昭和20)年合資会社凡人社として誕生したが、1983(昭和58)年に社名をマガジンハウスと変更した。
平凡出版の発行による雑誌『平凡』は、岩堀喜之助が、同名の雑誌(1928年~29年に数ヶ月間の発行らしい)を出していた平凡社の創業者下中 弥三郎から誌名を譲り受け、清水達夫と二人三脚で発展させるが、当初はA5版の冴えない文芸雑誌だったらしい。
それを、1948(昭和23)年に読む雑誌から見る雑誌へイメージチェンジを図り、先行する雑誌『ロマンス』に対抗して、「歌と映画の娯楽雑誌」と位置付けて、判型をA5判からB5判へ大判化し、高峰三枝子(歌う映画スター女性第1号)がマイクの前で歌うポーズ写真を表紙に取り入れたり、巻頭グラビアではヒット曲の歌詞と映画スチールを組み合わせるなど、ページを賑やかに飾るようにした。この転身に、平凡出版からマガジンハウスへと進むこの出版社の雑誌作りの手法が秘められていた。つまり、優れたデザイナーを起用し見る要素を誌面に溢れさせた。その究極に、当時のものまね歌手と見られていた美空ひばりの表紙への起用があったという。


岩堀は、その理由を「悲しき口笛」の試写会の折に見せた「見上げた芸能根性に惚れ、この人は本物だ、「平凡」と並行に行こうや、とひばりに力を入れるようになった」と語っているようだ(アサヒクロニクル「週間20世紀」1952年号より。掲の画像左も同誌掲載のものを借用。右は先に述べた『平凡 最後の最後の特別編集『ありがとう!美空ひばりさん』の永久保存版の裏表紙掲載のものである)。

『平凡 最後の最後の特別編集『ありがとう!美空ひばりさん』の永久保存版によると、国民栄誉賞に輝いたひばりが、最初に賞と名のつくものを手にしたのは1951(昭和26)年『平凡』の人気投票で第3位に選ばれたときであり、翌1952(昭和27)年からは女性歌手部門では13年連続第1位という快挙を成し遂げた。
美空ひばり、江利 チエミ雪村いづみの「3人娘」は『平凡』のグラフ企画から誕生したそうで、人気、キャリアとも先行していたひばりを追うふたりだけに、3人の顔合わせは難しいと思われていたが、まず、ひばりとチエミが対談(昭和29年四月号)、そして、いずみが加わった。同年5月号にて、不可能といわれた夢の顔合わせがこのグラフ企画でついに実現いたという。
『平凡』で、3人娘の映画初共演のための原作『ジャンケン娘』を連載。同盟映画は大ヒットし、『ロマンス娘』『大当たり三色娘』と3人娘映画が次々と作られた。そして、7年後、娘から成長し『ひばり・チエミ・いづみ 三人よれば』が4本目の共演映画となったそうだ(冒頭掲載の画像は1956年公開、東宝映画『ロマンス娘』ポスター。Wikipediaより)。まさに、岩堀の言うとおり、ひばりと平凡は並行にやって来たのだろう。


上掲の画像は、私のHP「よーさんの我楽多部屋」のCorection Room。Poom2絵葉書の中の「広告物・付録等」5ー1懐かしい平凡社の付録絵葉書に掲載している昭和30年頃のものだろう雑誌「平凡」正月号の付録の絵葉書の中の1枚美空ひばりのブロマイドであるが、他に、高田浩吉菅原謙次佐田啓二岸恵子香川京子若尾文子の6枚があり、それぞれのスターが自筆で、正月用の挨拶とサインを記入してある。私は、コレクションの一つである絵葉書として収集しただけであるが、当時若手俳優として活躍していたこれらスターのファンにとっては、胸をわくわくさせながら、正月号の発売を待ち侘びていたことだろうね。

「歌と映画の娯楽雑誌」に徹底して以後、若い読者層の爆発的人気をよび『平凡』は、1953(昭和28)年新年号で、ついにこの業界では戦後初めての発行部数100万部を突破したが、1970年代後半あたりから衰退が目立ち始め、1987(昭和62)年に休刊となっている。
以下参考に記載の※10:「「戦後空間」の中の『平凡』夏井 美奈子論文」では、雑誌『平凡』の魅力について、深く掘り下げ書かれている。一見、ただの大衆娯楽雑誌であり、まさに「歌と映画の雑誌」としか見られてこなかった『平凡』だが、1950 年代の 1 冊 1 冊を開き、読んでいくと、「歌と映画」だけではくくることのできない、さまざまな論点をもつ資料であることがわかる。『平凡』には「歌」「映画」「小説」「グラビア」「投稿」「座談会」などたくさんのジャンルがあり、その中でも今までは光があてられなかった「小説」「グラビア」「座談会」「投稿」などの中にあふれる、読者を惹きつけた力に、私も惹きつけられていった。・・・と。
そして、『平凡』を語るとき、「戦争」というキーワードを抜きにして語ることはできない。あの「戦争」があったからこそ、大衆娯楽雑誌『平凡』は生まれた。戦争の傷跡から這い上がるようにして創刊された『平凡』は、都市空間を表象し、誌上を通して新しいコミュニティを形成し、人々の欲望を抱え込みながらリードしていった。
なぜ『平凡』が人々をリードできたのか、それはまず、根本に『平凡』が「共通体験としての戦争」を抱えて創られていたからではないだろうか。1950 年代、多かれ少なかれ全員が戦争と敗戦を経験し、生きていた。いくら娯楽に人々が飢えていたとしても、もし『平凡』がひたすら「アメリカ文化」を流していただけの雑誌だったなら、そしてただ都会の流行を紹介するだけの雑誌だったなら、ここまで人々の心を掴むことができなかったのではないかと思う。その底流に「戦争の傷跡」を共有していたからこそ、『平凡』に人々は惹かれていったのだろう。自分たちと同じく戦争で傷を負った主人公が幸せになる物語や、スターの苦労話があったために、華やかなグラビアがさらに輝いて見えたのではないだろうか。
しかし一方で、人々はいつまでも敗戦の傷に浸ることを望んではいなかったのだった。時間の経過とともに新しい時代、輝かしい未来を自分たちのものにしようと、「敗戦」「戦後」を乗り越えようとしていく。それは「敗戦」から生まれた新たな「欲望」の誕生だった。
新しいスターの登場とともに、敗戦を感じさせる記事は減り、作られた映画も今、目の前にある自分たちの恋愛や結婚をテーマにしたものが多くなってゆく。読者参加型の座談会が増え、自由に恋愛や性が語られていく中に、表面上「敗戦」の入る隙はなくなっていった。そして人生の理想像として、1959 年という 50 年代最後の年に皇太子の結婚があった。「平民」との結婚は人々にとって「民主化」の象徴であり、まさに「戦後」を乗り越えた瞬間だったのではないだろうか・・・と。これ以上詳しくは、かけないので興味ある方は同論文を読まれるとよい。
そういえば、戦後最大のロマンスと言えば、 “『世紀のロマンス』皇太子妃が民間から誕生!”・・・のニュースだっただろう。


上掲の画像は、皇太子妃決定を伝える号外(1958年11月27日、朝日新聞東京本社発行、号外である。
1958(昭和33)年11月27日、皇太子明仁親王の妃に、日清製粉正田英三郎社長の長女美智子さんが決まった。この2人は現在の天皇、皇后である。
皇太子は軽井沢の親善テニスで対戦した美知子さんの人となりにひかれ、お妃候補にと自分から言われたそうだ。軽井沢でのテニスから生まれたロマンスがみのり、皇族や旧華族出身でない民間からの皇太子妃の誕生は、皇室の歴史上画期的な出来事であった。
多くの国民は、このご結婚を支持し、愛称の「ミッチ」からミッチーブームがわいた。正に、現代のシンデレラ物語といえるかもしれないが、正田家も美知子さんも、皇太子からの結婚の申し込みにも「家格が違いすぎる」「その任に堪えられない」と頑強に拒否されたらしいが、その心を動かしたのは、「柳こうり一つで来てください」という言葉だったという。しかし、国民の熱狂的な支持はあったものの皇室内では、かなりご苦労されたようである。立派な家柄のお嬢様であり、皇太子妃になっていなければもっともっといい人生を送られたことであろう。それをよーく理解しているから、今上天皇も美知子日妃を大切に大切になされているようである。
現皇太子妃は外務官僚の家からお出になったようだが、大分正田家とは違った育て方をされたようである。天皇・美知子妃さまも、将来のことについていろいろとお悩みになっていることだろうとお察しする。
とりとめもなまく長々と書いたがこれで止める。当ブログ作成にかんして、歌謡曲のことについては、以下参考の※11:「流行歌 演歌 歌謡曲 日本の歴史 雑学の世界」を参考にさせてもらった。

◎(冒頭掲載の画像は1956年公開、東宝映画『ロマンス娘』ポスター。Wikipediaより)

参考:
※ 1:日本ロマンチスト協会(NRA)
http://japan-romance.com/
※2:Yahoo百科事典-ロマン主義
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%AD%E3%83%9E%E3%83%B3%E4%B8%BB%E7%BE%A9/
※3:青空文庫:国木田独歩 武蔵野
http://www.aozora.gr.jp/cards/000038/files/329_15886.html
※4:北村透谷「内部生命論」と明治浪漫主義(Adobe PDF)
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/ce/2007/ft01.pdf#search='『内部生命論』'
※5:昭和のレビュ-狂時代
http://yachan.sitemix.jp/s24nen.html
※6:のど自慢狂時代 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/p27136/index.html
※7:踊る龍宮城 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/p27527/index.html
※8:はたちの青春 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/p26798/index.html
※9:日本映画発達史 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%98%A0%E7%94%BB%E7%99%BA%E9%81%94%E5%8F%B2
※10:戦後空間」の中の『平凡』夏井 美奈子論文- html
http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=OerIv152rs4J&p=%E9%9B%91%E8%AA%8C+%E5%B9%B3%E5%87%A1&u=www.sal.tohoku.ac.jp%2F%7En-yoshi%2Fhestia%2Farchives%2Fno1%2Fnatsui.pdf#search='雑誌 平凡'
※11:流行歌 演歌 歌謡曲 日本の歴史 雑学の世界
http://www.geocities.jp/widetown/japan_den/japan_den016.htm
1958(昭和33)年11月27日 世紀のロマンス 皇太子妃が民間から誕生!(Adobe PDF)
http://www.yomiuri.co.jp/komachi/data/link/pdf/chronicle_0607.pdf#search='皇太子 美知子 ロマンス'
美空ひばり - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/c100105/index.html
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html
ロマンス - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%B9


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おかあちゃん同盟の日

2012-06-11 | 記念日
日本記念日協会に登録されている今日・6月11日の記念日に「おかあちゃん同盟の日」があった。
由来を見ると、昨・2011(平成23)年3月11日の東日本大震災で多くの人が「人とのつながり」「支え合い」の大切さを強く感じた。おかあちゃんが幸せだと家庭も子どもたちも幸せになる。そう信じて毎月この日におかあちゃんたちが集い、語らい、学び、交流を深め、支え合うコミュニティーを作ろうと、岐阜県羽島市の「世界おかあちゃん同盟」(※1)が制定したそうだ。日付は大震災を忘れないとの思いから同じ11日にしたのだという。
東日本大震災では最大遡上高40.1mにも上る大津波が発生し、東北地方と関東地方の太平洋沿岸部に壊滅的な被害をもたらし、警視庁は、2012(平成24)年5月9日現在、死者15,858人(宮城県が約6割)、重軽傷者は6,080人(宮城県が約7割)、警察に届出があった行方不明者は3,021人であると発表している(ただし未確認情報を含む。「東日本大震災における死者・行方不明者の推移」参照)又、地震と津波による被害を受けた東京電力福島第一原子力発電所では、全電源を喪失して原子炉を冷却できなくなり、大量の放射性物質の漏洩を伴う重大な原子力事故に発展。レベル7(※2)と史上最悪となった今回のこの東京電力福島第一原子力発電所事故は、これまで「絶対 安全」とされてきた原発推進派のいわゆる平和のための原子力の安全神話が瓦解し、原子力発電そのものの危険性を明るみにした。
原子力発電所が休止する中、夏の電力不足が心配され、関西電力大飯原子力発電所3、4号機(福井県おおい町)を巡り、安全のためには、節電努力を十分に行なえば危険な原子力発電所を再稼動しなくてもやって行けると、政府や関電とせめぎ合ってきた橋下徹大阪市長も先日、一転、電力使用のピークを迎える夏場だけの限定的・・としながらも再稼働容認に転じてしまった。一旦大飯原発が再稼動すればずるずると継続使用され、又、現在休止中の他の原子力発電所も稼動の方向へ進んでいくだろうことが推測されるだけに、さすが強気で鳴る橋下氏も事実上「負けた」と言っているように、電力不足15%の高い壁に、国民の安全よりも、会社の操業・利益追求を求める経済界の強力な圧力があったのだろう。それに、原子力発電事故による他の地域住民の人達の安全や迷惑などよりも、原発廃止によって失う、電源三法による地方自治体への交付金や職、また、原発関係者を当て込んで営業をしている地元商業者等の利益喪失を嫌う、言うところの、地元エゴ。それに何が何でも原子力発電を稼動させたい電力業界など原子力推進派グループと、それに癒着している経産省などの役人などの強い抵抗があったのだろう。又、それを、本来は国家的見地から判断し正しい方向に導いてゆかなければならないはずの政府、つまり、野田佳彦民主党政権が逆に官僚に操られての腰砕け。国民目線ではなく官僚の描いた原発推進路線を強引に推し進めていこうとしていることに嫌気し、屈してしまったということだろう。それは、野田首相の6月8日夕、首相官邸での勝ち誇ったような記者会見「国民生活を守るため、再稼動すべきだというのが私の判断だ。立地自治体のご理解をいただいたところで、再稼動の手続きを進めたい」との表明にあらわれている。
国民生活を守る・・・?。一体どの地域に住んでいる国民のこと言っているの?福島第1原発の事故で、どれだけ多くの国民生活が破壊されたと思っているのか?
電力供給の約3割りを担ってきた原発を止めてしまっては、日本の社会は立ち行かない。エネルギー安全保障の視点からも原発は、重要な電源だ」・・とまるで、経団連の会長のような発言をしている。
原発事故以来、詭弁ばかり弄して、国民が納得できる専門家による事故原因、安全性などの調査・確認が十分にされているとは言えず、そのことに疑問のある段階で、ことの信実をひた隠しにして、世界一とも言われる地震大国日本周辺では、活断層(※3、※4参照)が活発な活動期に入っており、非常に危険状況にあるといわれる中での、いい加減な操業はこの後どのような大災害を再発させるかも知れない。これは、何とかしなくてはいけないだろう・・・。
又、地震とは別に、社会的には、小子高齢化による諸問題が年々深刻化している。就中(なかんずく=とりわけ)、出生率の低下に歯止めがかからず大きな課題となっており、そのために、子供を生み育て易い環境の整備を勧めていかなければならないのだが、何処に住んでいても地震だけでなく、原発事故にも怯えなければならないような国にしてしまっては、生まれてくる子供たちの将来を一体誰が保障してくれるのだろか?又、そんな大変な時代に生まれてきた子供たちは、正に「宝」であり、そんな、大切な子供を、今の荒(すさ)んだ時代に見られる親を親とも思わないような人間、自分勝手な考えで非道なことを平気でするような人間ではなく、人を思いやる優しい心を持ったまともな人間に育てていくためには、単に、政府や自治体の行なう法や制度の整備だけではなく、世の中の人全員が子育への理解を示し、それぞれの人が それそれぞれの立場で応援をし、協力し合ってゆかなくてはならないだろう。
今日の記念日「おかあちゃん同盟の日」について日本記念日協会の由緒には、“東日本大震災で多くの人が「人とのつながり」「支え合い」の大切さを強く感じた。おかあちゃんが幸せだと家庭も子どもたちも幸せになる”・・・と、書かれているように、私も、成長期の子供にとって母親の存在は、非常に大きく、そんな「おかあちゃん」が真に幸せを感じておれば、家庭も円満にゆくだろうし、子供も幸せを実感できるまともな人間に育っていくだろうと思っている。したがって、そんな幸せな「おかあさん」を一人でも増やしてゆこうする運動なら、それは非常に良いことだと、早速、「世界おかあちゃん同盟」のHPを覗いてみると、世界おかあちゃん同盟とは?“というページの中で、以下のようなことが書かれている。
おかあちゃん同盟とは、
マザーテレサは、「世界平和のために何をしたらいいのか?」という質問に、「帰って家族を大切にしてあげてください」と言われたそうです。
また、「この世で最大の不幸は、戦争や貧困などではありません。人から見放され、自分はだれからも必要とされていない」と感じることなのです。」
と言われています。
「愛の反対は無関心」とも言われたように、この日は、身近な方へ、「愛を贈る日」にしたいと思います。
家族に「愛しているよ」と伝える日。
困っている方がいれば、話を聞くだけでもいい。
何かできることがあれば、できる範囲で何かする。
ささやかなことで大丈夫なのです。
具体的には、様々なこともありますが、お母さん同士で、ピクニックをして、同じお母さん同士語らいあい、交流をするのも、お母さんの心を豊かにするかもしれません。・・・・と。

これは良いを言っている。昨年の東日本大震災では、多くの人達が家を、職を、そして家族や友人達をもなくし、バラバラになってしまった。そんな被災者のために何かしらお役に立ちたいと多くの人達がボランティアとして駆けつけた。日本で、このように全国から大勢のボランティアが被災地に駆けつけたのは、1995(平成7)年の阪神・淡路大震災からのことで、そこからこの年を、「ボランティア元年」とも呼ばれている。
そして、人と人の結びつき「絆」(きずな)の大切さが言われ始めたが、東日本大震災では、よりその重要性が見直され、昨・2011(平成23)年の京都清水寺の世相を漢字一字で表す「今年の漢字」にも「絆」が選ばれた。しかし、一方で、被災地のために協力したいと言いながら、自分たちに直接影響があるとそれを拒否する・・といったこと、つまり、風評により、放射能汚染された現地商品の購入を控えたり、瓦礫の広域処理拒否といったことが見られ、又、先にも述べた、原発再稼動が危険だと反対する周辺の住民に対して、安全面より、目の前の利益を優先し、受け入れを容認しようとする地元住民達のエゴ。これらを見ていると、「絆」と言うものの不安定さや弱さを感じざるを得ない。
戦後の高度経済成長時代から、核家族化が進み、そこへ、サラリーマン(特に男性)の単身赴任や家から外に出て働く女性(主婦)も増え、かって見られた家庭での団欒(一家団欒)さえも失われてゆく。それが、家庭そのものがネグレクト機能不全家族などという言葉で表されているような家庭の構成員同志が一般的な家族として付き合うことすらできていない家庭崩壊状況へとつながり、そこから、家庭内暴力や特に、近年になってから社会問題となっている無縁社会モンスターペアレントや、シングルマザー、また、非行少年や、学級崩壊などといったことに繋がっていると言われている。
ネグレクト(neglect)とは、本来英語で「無視すること」を意味するらしいが、日本では主に保護者などが、子供や高齢者・病人などに対して、必要な世話や配慮およびその義務を怠ることをさして使われているようで、児童虐待障害者虐待高齢者虐待のひとつでもあり、子どもに対するそれは育児放棄ともいう。
マザーテレサは、「この世で最大の不幸は、戦争や貧困などではなく、人から見放され、自分はだれからも必要とされていない」と感じることだといっているが、正に、保護者から見放された子供や、高齢者・病人ほど、不幸な存在はいないだろう。
現代社会においてネグレクト(育児放棄)と言われる現象は積極的ネグレクトと消極的ネグレクトの2つに分けられ、前者の「積極的ネグレクト」は、親に養育の知識や経済力の不足など、子供を育てられない明確な理由がないのに育児を放棄することであり、後者の「消極的ネグレクト」は、親の経済力が不足していたり、精神的疾患を抱えている、知的な障害があるなどの理由で育児ができないことを指すようだ。又、このような育児放棄には、それをしている人達自身が子供時代に同じような不幸な体験をしてきていることが多いのだと聞く。
子供の養育は夫婦の共同責務であるが、その中でも、自らの腹を痛めて子供を産んだ「おかあちゃん」と子供のかかわりはより深いものであろう。
そんな「おかあちゃん」がどのような子供とのかかわりをするか・・・、核家族化し、今の社会で、相談相手も見つからず、一人で悩んでいるお母さん、特に仕事を持つ女性などの場合、本当に大変だろうと察する。是非、おかあちゃん同盟の輪を広げて、助け合っていって欲しいと思う。
しかし、おかあちゃん同盟のHPには、以下のようにも書いてある。

「赤ちゃんを産んだ瞬間、あなたはすべての子どもたちのお母さんになる」 と誰かがいった。
3、11以降の原発の事故は、日本として、三度目の被爆国になる出来事だと思います。
唯一の戦争被爆国として、というものを平和利用であっても、決して受け入れるべきでなかった。
今になり、そう思います。
これはもう、男性的な考えでは、収拾はできないと思います。
単純に、母性で、「核はいらない」「未来を子どもたちにつなぎたい」
ただ純粋にそれだけ。(中簡略)
3月11日の東日本大震災や、福島第一原発の事故での放射能汚染を体験し、今まさに、次の核での悲劇が起きる前に、声をあげなくてはいけないと感じました。(以下略)・・・と。

ここでは、おかあちゃんとは、「母性」で、子どもを産んだことがあるということだけではなく、すべての女性の持つ母性、この母性は男性の心の中にもきっとあるだろう。その「母性」こそが「おあちゃん」です。・・・・といっている。そして、そんな世界中の「おあちゃん」と呼ばれる人が「世界中から核をなくそう!」とみんなでメッセージを発信していこうと呼びかけているのがこの「おかあちゃん同盟」であり、そのために、 昨・2011(平成23)年8月15日、66回目の終戦記念日(「終戦の日」とも呼ばれる)、日本が戦うことを手放した日に記念日登録がされた。・・と、している。

このようにこの同盟のHPをよく読んでいると、私が、当初想像し、期待していた、“「母性」を持つ幸せな「おかあちゃん」が集まり、おかあちゃん同士が助け合いながら不幸な子供を1人でもなくしてゆこうとする運動と言うよりも、むしろ、赤ちゃんを産み育てた「母性」=「おかあちゃん」と呼ばれる人達が中心になって、これからの生まれてくる子供たちのためにも世界中から危険な「核」をなくしてゆこうと、いう、いわゆる反核運動の推進が主眼のように見えてきた。
福島原発事故処理に対する民主党政権のいい加減さには、私も、憤りを感じているし、日本の将来を憂えている一人でもあることは、冒頭でも述べた通りであり、又、世界中から核の軍事利用のみならず、平和利用(※5参照)目的であろうとも今回の福島原発事故を目にして、改めて核利用の難しさを知り、このような危険な核利用は一日も早くなくす方向に舵を切ってもらいたいものだと願っている一人でもある。
しかし、現実には例え、原子力発電所の稼動を停止しても、原発から出る、大量の核のゴミ、使用済み核燃料(※6参照)、放射性廃棄物などの安全な最終処分の方法がないのが実情のようである(※7参照)。
今は、行き場がないので各原発施設の貯蔵プールなどに保管されている状態のようであるが、万一、災害や事故で使用済み核燃料が露出すれば、爆発・広域汚染の危機ある。だから、この問題を解決しない限り、原発の稼動を停止したからと言って、直ぐに危険性がなくなる・・・という訳でもないようだ。
したがって、これらの問題の解決方法を早急に手当し、核エネルギーに代る自然エネルギー等の再生可能エネルギーの開発の目途が立つまでは、電力不足(東日本大震災による電力危機参照)に対して、電力を利用する企業や団体のみならず一般市民も徹底した節電と、場合によっては計画停電も覚悟した上での操業や生活スタイルに変えてゆくのか、あるいは、当面は、原発に危険性のあることは承知した上で、だからこそ、安全管理の徹底をしながら、一時的使用はやむなしと容認するかは、最終的には、国民自身に、その選択と覚悟が求められることになるだろう。そのためにも、政府は、国民が、判断しうるに足るだけの専門家による信実を示した信頼のできる資料を国民の前に開示する義務があるだろう。

最後に、話し変わって、「おかあちゃん同盟の日」の中では、“おかあちゃん=母性 という意味で「おかあちゃん」を使用しています”・・・とある。
母親とは、女親のことであり、よく、妻が家庭の実権を握っている家庭のことを「かかあ天下(嬶天下)」とよび、上州(群馬県)名物に「空っ風」などと並び称されたりするが、本来の意味は「夫が出かけている間の家を(からっ風などから)守る強い妻」や「うちのかかあは(働き者で)天下一」の意味だそうである。
ここでいう、「かか」とは、江戸時代から、妻や母に対する親しみを込めた呼び方であり、「かかあ(かか)」は古代、(ヘビは大地母神の象徴)の意味で使われていた「かか」が時代とともに転意していき、庶民の間で母や妻という意味で使われた。ちなみに母(はは)も同じ語源だそうだ。古代、K音とH音の発音が曖昧であったために「かか」と「はは」の2種類が定着したとされている(※8)。呼び方は地域によってもいろいろあるが、現在、一般には「お母さん」と言い、親しみをこめて「「かあさん」「かあちゃん」、また、「お袋」(おふくろ)などと呼ばれる場合もあり、わたしなど、子供の頃は、「お母さん」、成人してからは、「お袋」と呼んでいた。「お袋」の語源には、諸説あるが、子宮や胞衣(えな.。胎盤参照)を「フクロ」ということからそれが転じて、母親そのものをいうようになった。また、子どもは母の懐で育つので、「フトコロ」が転じたとする説もあるそうだが、室町時代、武士の中でも相当位の高い家では、家の財産をふくろごと管理していたのが奥方である「母」だったことによる・・・とする説も有力らしい(※9参照)。いずれにしても、「母親」は尊敬される存在であった。
この「母」という漢字(※10)の成り立ちは「女」に2つの乳房を加えた象形文字であり、子への哺乳者、授乳者であることを意味している。
母性」は、一般的に、女性がもっているといわれている、母親としての性質。また、子を生み育てる母親としての機能のことをいっており、母子保健法上の「母性」は、妊娠、出産、育児という特有の機能を果たす女性そのものを指す概念として使われている。
そして、よく、「母性」を、母親が、子どもを慈しみ、大事にし、そばにおいておこうとする性質という概念つまり、通俗的に使用されるところの「母性本能」のような概念で使われたりもするが、その定義は非常に曖昧であり、エリザベート・バダンテール(Elisabeth Badinter。1944~)は1980年出版の『L'Amour en plus(後から付け加わった愛)』(邦題『母性という神話』ちくま学芸文庫)の中で、母性というのは必ずしも女性の本能ではないこと、母親は必ずしも子供に対して献身的であるとはかぎらないこと、子供の幸福のために母親が個人的な野心を捨てるとはかぎらないこと等々を、女性に母性が押し付けられてきたフランスの社会の歴史をたどることにより明らかにしており、今日のように「母性」が強調されるようになったのは、近代社会の、特に工業化社会に入って日本で言うところの「産めよ殖やせよ」がブームになってからのことで、そこには、男は仕事に出るので、女は家で子供を育てるといった社会の女性に期待する役割が、時代とともに変化して「母性」概念が誕生してきたようだ。詳しいことは、以下参考の※11エリザベート・バダンテール(Elisabeth Badinter)『母性(という神話』や、※12:〔講演〕“理想”の家族という幻想、又、 Amazon.のエリザベート バダンテール著:『母性という神話』 (ちくま学芸文庫) のカスタマーレビューなどを参照)。
そして、同書ではルソーフロイトの女性論(※13、※14など参照)に焦点があてられ、筆者によれば、今日みられるような母性という神話が形成されるにあたって彼らが果たした役割が非常に大きく、彼らは本能・自然・道徳などの名のもとに母親の責任・役割を拡張し、同時に父親の役割を縮小したが、このことは一面では、女性の権利の拡大を伴ったが、同時に彼女たちの自由を疎外してしまった。そして、今後女性は母性愛の押し付けをますます拒否し、男女の役割の同一化が進むであろう。・・・とも言っている。
「母性」をどうとらえるかは色々な見方があるが、Wikipediaには、おかあちゃん同盟のように、「女性=母性」ととらえる見方には、「働く女性」にとっての「母性」を「万人に降り注ぐ愛の力」だと積極的に認識することで仕事に活かそうという経営思想があり、男女の性差を、むしろ自然から与えられた素晴らしいものと考えることで、かえって社会で女性(=母性)の力を発揮できる、という考え方のことであるそうだ。また家庭においては女性が自ら「子育ては100パーセント母親の責任」と考えることで、かえって父親のサポートの一つ一つを心から感謝することが出来、その結果として、結局「半分・半分の育児」を口で主張するよりも多くの父親のサポートを得られ、子供からの尊敬も受けられる、ということである。このような、母性の重視は「働く女性」を否定するものでないのと同時に、また「働く女性」を家庭の家事や育児に専念する専業主婦よりも価値を高いと考えるものでもないのだ(欠野アズ紗著『21世紀は母性の時代』学習研究社より)という。
そういえば、戦前世代のフェミニストの代表格である平塚らいてうらは女性固有の能力である母性を重視し、国家による保護を主張。これに対し与謝野晶子が反発し、母性保護論争が起こったことはよく知られているところである。この論争については、以下参考の※15:「いくじれんHP」の古典を読む・母性保護論争─晶子とらいてうに詳しくかかれているので、一読されると良いが、そこにも書かれているように、晶子は「女=母性」の等号に異を唱えると同時に、子供を「育てるのは女」とすることには大いに疑問を呈している。
そして行なわれた晶子とらいてうのこの論争は、現在もなお問題となっている子育て・家事労働・職業・労働などをめぐる論点を含んでおり、晶子の徹底した経済的独立の必要性は、女性問題の基点であり、今日でも確認されるべき重要なポイントであり、また、らいてうの「母性は国家によって守られるべきもの」という主張は、家庭と職業の両立の困難さという今日の問題を指摘している。私は、考え方としては、基本的に与謝野晶子を支持する側であったが、今日のように、小子化が深刻な問題となっている日本の現況をみていると女性に、「社会の為に子を産み・子育てをする」義務はないものの、「子を産み・子を育てることが社会にとって重要な問題であり、それに対して社会は支払いをすべきである」というらいてうの指摘は、現在の社会制度改革に通じるものであるあり、どのような方法で何処まで出来るかは、真剣に受け止めなければならない懸案となってきていることは確かである。
今、世界的中が、環境面でも、経済面でも解決しなければならない問題を山と抱えているが、中でも、日本は深刻なデフレ経済の中での経済不振と失業者問題、そして、円高問題、世界一の赤字国債を抱えた中で起きた昨年の東日本大震災の早急な復興、これから発生すると予測される大震災と津波への対策、原発災害により表面化したエネルギー不足問題、今までから言われ続けている年金・医療問題とも関連する深刻な小子・高齢化問題等を抱えている。
そんな中で、母(=女性)に何が出来るか。今日の記念日に母親としての「役割」を考え見るのも良いのではないか。子育てに最も必要なことは、金銭問題以上に夫婦円満な家庭にあると思っている。以下参考の※16、※17などに書かれている母親の役割や、※12:「〔講演〕“理想”の家族という幻想」など参考にされると良いのでは・・。

(冒頭の画像は、『母性と言う神話』エリザベート バダンテール著、鈴木 晶 翻訳、ちくま学芸文庫)
参考:
※1:世界おかあちゃん同盟HP
http://oka-chan.net/top.html
※2:時事ドットコム:激震・福島原発事故「レベル7」
http://www.jiji.com/jc/v4?id=f1-level70001
※3:危険な活断層
http://juki.nomaki.jp/dansou.htm
※4:産総研:活断層・地震研究センター:活断層データベース
http://riodb02.ibase.aist.go.jp/activefault/
※5:【原発】原子力の「平和利用」を見直す―福島原発事故から日本の原子力政策を問う
http://blog.goo.ne.jp/saypeace/e/526f92d883afefd8b05b6a7433c7dfab
※6:図録原子力発電所の発電総出力と使用済み核燃料貯蔵量
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/4110.html
※7:すべての原発が停止」原発「廃炉」と「最終処分(使用済み燃料)」この遠き道のりこれは終わりでなく始まりである
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/32551
※8:かかあ - 日本語俗語辞書
http://zokugo-dict.com/06ka/kakaa.htm
※9:母親の事を「おふくろ」というのは何故?
http://homepage2.nifty.com/osiete/s623.htm
※10:母子の字源
http://www.wind.ne.jp/khari/kenkyuu/nan-bosi-zigen.html
※11:エリザベート・バダンテール(Elisabeth Badinter)『母性という神話』
http://web.sfc.keio.ac.jp/~oguma/kenkyu/02f3/bosei-odani.htm
※12:〔講演〕“理想”の家族という幻想
http://www.toyama-cmt.ac.jp/~kanagawa/father/parent.html
※13:仲島陽一 ルソーの女性論・女子教育論と民主主義について (3)
http://blog.onekoreanews.net/nakajima/59
※14:斎藤学メッセージ(フェミニズムと臨床)
http://www.iff.co.jp/ssworld/mssg/mssg_15_4.html
※15:いくじれんHP
http://www.eqg.org/index.html
※16:武田邦彦 (中部大学): 原発 母の役割
http://takedanet.com/2011/04/post_1d9d.html
※17;子育てにおける母親の役割について[PDF]
http://www.sapporo-ohta.or.jp/www/sinnyug/p086.pdf
27 吉野裕子 蛇 -日本の蛇信仰-/モナ丼/本読
http://www7a.biglobe.ne.jp/~monadon/books127.htm
内閣府:少子化対策
http://www8.cao.go.jp/shoushi/index.html
母性- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%8D%E6%80%A7
家族ふれあいの日(Part 2) - 今日のことあれこれと・
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/add5547503e7c6617cffbdc3798423a5
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html


虫歯予防デー

2012-06-04 | 記念日
今日6月4日は、「虫歯予防デー 」
日本歯科医師会(※1)が1938年まで実施していた日で、現在では厚生労働省が6月4日から10日までを「歯の衛生週間」としている。日本記念日協会(※2)では虫歯予防の大切さを訴える日として、2001(平成13)年よりあらためて記念日に制定したものだという。日付は6と4で虫歯の「虫」と読む語呂合わせから。
歯の衛生週間には、歯の衛生に関する正しい知識を国民に対して普及啓発するとともに、歯科疾患の予防処置の徹底を図り、併せてその早期発見、早期治療を励行することにより歯の寿命を延ばし、国民の健康の保持増進を寄与することを目的とし、昨:2011年度(平成23年度)は「みがこうよ 未来へつなげる じょうぶな歯」の標語のもと、全国各地で地域住民参加型の各種啓発事業を展開。本年度・2012(平成24)年の重点目標は、
(A)生きる力を支える歯科口腔保険の推進
(B)生涯を通じた8020運動の新たな展開
となっている。詳しくは、平成24年度実施要領【PDF】を参照。
冒頭の画像は、歯の衛生週間ポスター。平成24年度 「歯みがきは じょうぶなからだの第一歩」。画像は日本歯科医師会HPより借用。
(A)の“歯科口腔保険”とは、歯科疾患の予防などを推進し、口腔(口のこと)の健康保持を総合的に行うための法律であり、昨・2011(平成23)年8月10日に公布・施行された「歯科口腔保健推進法」のことを言っているのだろう。
(B)の8020運動は、1985(昭和60)年 愛知県豊田市で行われた調査にて、10本以上の歯の喪失で半分以上の人がもっとも硬い食品の一つとされていた古タクワンや酢蛸を食べることができないことが判明。80歳の喪失歯10本以下を目標にする事が、提唱され、1989(平成元)年、 愛知県にて目標を残存歯20本以上とする8020運動が開始された。この年の成人歯科保険対策検討会の報告で8020運動が取り上げられ、これ以降この運動が全国に広またようだ。その後、厚生労働省の「 21世紀における国民健康づくり運動」(通称健康日本21)や歯科医師会も8020運動を積極的に推進し、2000(平成12)年には8020推進団体も設立され(※3参照)、2010(平成22)年までに20%以上の高齢者が20本以上の歯を残せるよう目標が定められた。
※1:「日本歯科医師会HP」によると、この8020運動の達成率は、運動開始当初は7%程度(平均残存歯数4~5本)であったが、厚生労働省の調査(2005 〔平成17〕年歯科疾患実態調査)によると、80歳~84歳の8020達成率は21,1%で、85歳以上だと8,3 %にまで伸びてきており、また、厚生労働省の「健康日本21」では中間目標として8020達成率20%を掲げていたが、2007年(平成19)年に出された中間報告では、それを上回る25%を達成しているという(※4参照)。
(英: tooth)は、口腔内にある租借するための一番目の器官である。
今、問題視されている生活習慣病メタボリックシンドロームの予防を進めるための基本は「バランスの取れた適切な食生活」であり、食事をするときに重要な働きをするのが歯である。もし、歯に問題が発生するとよく噛めなかったり、満足に食事を摂取することができなくなり健康に影響を及ぼすということはよく理解できるし、そのために歯の手入れをすることの大切さも良くわかる。
ただ、私は、こんな分野の専門家ではないのでよく分からないが、ほんとうに、歯が多く残っている人の方が健康で長生きしているのか?と言うことについては、ネットで調べていると“歯の残数が健康的である理由”の全てであるとは言い切れない状況のようでもある(※5の「8020」の人のほうが健康なのですか?参照)。
※6:「8020健康長寿社会は実現するか」によると、“内科医に言わせると“全身が悪いと目も悪いし、歯も悪いし、腎臓も肝臓も悪い。歯と全身の臓器に相関関係があるのは当たり前ではないか。それを因果関係に遡るだけのデーターを持っているかと言われる。“・・という。
内科(内科学、internal medicineの略称)は一般に内臓に原因する疾患を主として薬物療法により治療する臨床医学の一部門とされるが一応、病気全般を対象としている(専門分野への細分化も進んでいる)が、医科の場合は全身の健康、生活習慣病というかたちでメタボリックシンドロームは次に派生してくる糖尿病や心臓病などの予防になるので、生活習慣を改めながら疾病予防するというテーゼ(ドイツ語These。活動方針となる綱領)を出した。
しかし、口腔細菌学に関しては歯科の独占事業であり、歯科診療では口腔(口のこと)由来の細菌の攻撃から歯と全身を守るところを取り扱っているので、内科とはまったく異なる患者指導ができると思う・・・というが、本当に歯科診療で、8020というのは、ここがガードすべき生活習慣の内容ですといった疫学的な因果関係の調査データーを出して、患者の健康指導をしてゆくような方向性があるのだろうか・・・。食と歯、そして、健康に相関関係があるだろうことは理解出来ても、この辺のところは私には、よく分からないところでもある。
医学の専門家でもないので、余り難しいことをこれ以上書けるわけもないので、ちょっと、砕けた話に戻そう。
突然襲ってくる虫歯の痛みは強烈。夜中に歯が急にうずきだして、朝まで眠れずに苦しんだという経験を持つ人も多くいるのではないか。
歯痛の原因には色々ある(※7)ようだが、子供の頃先ず、経験するのがう蝕(うしょく。一般的に虫歯という。以後、虫歯と呼ぶ。虫歯についてはここも参照)だろう。
子どもは甘いものが好きだし、手入れも十分しないので、乳歯は、むし歯にかかりやすく、その進行も速い。乳歯の虫歯の進行による痛みは比較的少なく、気づかないうちに歯髄(しずい)全体、または根尖(こんせん。歯根の先っぽのこと)周囲組織にまで炎症が広がってしまう。
そんな虫歯は、私などの年代の者なら、よほどのことがないと歯医者には行かず、歯を指でぐらぐらさせたり、糸で巻いて引っ張ったりしながら悪戦苦闘の末自分で歯を抜いていた。ただ、ぐらぐらしていても、なかなか抜けない歯は、歯医者に行って抜いてもらうのだが、医者に行くと抜歯には 注射器で局所麻酔をし、ペンチらしきものでゴリゴリ抜かれる。その時、メリメリという音が聞こえるし、また歯の麻酔って痛いのよね~。それに麻酔で唇がたらこのように腫れる。今は、どんな抜き方をしているのか知らないが、子供時代に、そんな厭な経験をしているから、私たちの年代の人には、歯医者が好きな人はあまりいなかったような気がする。
だから、私は、60近くになるまで殆ど歯医者には行ったことがない。余り歯の手入れもしていないのだが歯質が丈夫なこともあったようだ。
それが、60前になって、あるとき急に、傷みもしないのに、歯がポロポロと数本同時に抜け落ちてしまった。驚いて、近所の歯医者に飛んで行くと、歯槽膿漏(今は、歯周病、以後歯周病という)だといわれた。このようなことになるのは、私のような歯の丈夫な人に多いといわれた。歯質の弱い人は、医者に行くので、医者から歯の手入れを指導されるのだが、私の場合は、医者に行っていなかったので歯周病の進行に気がつかなかったのだ。その後、又、直ぐに数本抜けて、今は取り外し式の部分入れ歯を上下ともに利用しているが、ブリッジをかけている犬歯の根は浅く、今にも抜けそうになっている。これがなくなると大変なので、今は、歯間ブラシと歯医者で進められた先の尖った歯ブラシ、それに普通の歯ブラシの3種類を使って、朝昼晩、3度必ず歯磨きもし、定期健診にも行き、歯磨きの仕方など指導も受けている。残念ながら、まだ80歳にはまだまだなのだが、残歯は20本もない。・・・・でも、いたって健康である。
現代、歯を失う原因の約9割が虫歯と歯周病だといわれている。虫歯の原因は複雑で、不明の点も多いようだが、おもに、口の中の食べ物の残渣(ざんさ。残りかす)についた細菌や、発酵作用によって作った乳酸やある種の蛋白質を溶かす性質の細菌が、エナメル質象牙質を分解、破壊することにより起こるといわれている。 歯周病は、歯の根元にある歯肉のふくろ(歯周ポケット)に膿がたまり、骨が侵されるために、膿がでたり、歯が浮いて抜けたりする病気で、歯石、細菌の侵入などが発病の主因だといわれており、今では、歯周病も虫歯も細菌の感染が主原因で、それぞれ別の原因菌が存在するようだ。
こんな虫歯も歯周病もその発生の歴史は古く、以下参考の※8:「痛みと鎮痛の基礎知識」の痛みと鎮痛の歴史年表 → 痛み2によると、大英博物館に展示されているエジプトのミイラの中に、虫歯をもつものが多数みつかっており、第4王朝(BC2625? 2510)のミイラ下顎の第1臼歯に2つの穴が開けられていたそうだが、これは、歯膿(歯の根本の)を排出するためにあけられたと考えられているらしい。また、Giza(ギザ)で見つかったミイラにはぐらついた歯を金線でブリッジを架けられているものや、義歯も見つかっているという。そして、古代エジプのメレンプター王(紀元前13世紀)のX線写真では歯周病の罹患が認められている。当時の身分の高い者は、柔らかい食物を食べていたため、歯周病になることが多かったようだ。そして、パピルスの中には、粉歯みがきや、練歯みがきの処方が記載されており、医療には分業があって、歯科の専門家がいたことも書かれているらしい。
虫歯は、とくに砂糖の消費量と密接な関係があるといわれるが、日本でも江戸時代、虫歯は町の庶民にとって珍しくない病気であったが、主因となる甘いものは江戸時代後期には誰でも簡単に買えたし、贈答にもよく用いられたからだろう。又、後年発掘された人骨調査では武家の方が庶民より更に虫歯が多い。身分が高くなるほど、幼少から柔らかいものを食べることが多いので顎(あご)骨や歯の発達も悪かったようだ。

身体のいろいろ

上掲の画像は、幕末から明治にかけてに活躍した浮世絵師で、新聞人でもある落合芳幾の画で、「目 口 耳 鼻 足の話」である(NHKデーター情報部編ヴィジアル百科『江戸事情』第一巻生活編より。前川潔氏蔵とある)。
この画像はモノクロで2枚続であるが、もともとは3枚続の錦絵であり、以下参考の※9:「内藤記念くすり博物館:人と薬のあゆみ-衛生」でそれを見ることができる(ここをクリック)。
この画の正式な題は、「心学身之要慎」(しんがくみのようじん)で、そこでは、“目、鼻、耳、口、手、足など人間の身体の部分が、駄洒落を交えながら、口々に自分が身体の中で一番重要であると言い合っている様子が描かれている。滑稽本作者の仮名垣魯文が文章を書いている。
<体の養生>養生とは肉体ならびに精神の安定をはかることによって健康を保ち、日頃から病をよせつけないような体を維持することです。その原理と方法を述べているのが養生書で、貝原益軒(1630-1714)の『養生訓』(1713年)は、多数出版された養生書の中でも有名でした。それはこの書には、当時の人々が理想として目指すべき生活態度について、具体的な方法が紹介されていたからです。“とある。
当然であるが、当時の人達が、「口」について、ものを食べられることと、話が出来ること以外に、「口の中の歯」のメンテナンスがどれだけ身体の健康にとって重要性を持っていたかまで考えていたかどうかは分からない。
※9:「内藤記念くすり博物館:人と薬のあゆみ-衛生」には、歌川豊国画「歯磨きをする婦人」も掲載されているので漏られるとよい。“歯の清潔を保つために江戸時代の歯ブラシである「総楊枝」(ふさようじ。※10参照)を用いた。房州砂という研磨用の砂や粗塩(粒のあらい、精製していない塩)で歯を磨いた。総楊枝は柳や黒文字など香気のある木が用いられ、神社の境内などで売られていた。”と説明にある。わが国では、身を清めて、口をすすいで神に詣でるという習慣があったため、指に塩をつけて歯をみがく習慣は古来からあった。 奈良時代の仏教伝来とともに楊枝も伝わり、古くから、楊枝を使っての歯の手入れはされていたようである。

上掲の画像は『絵本家賀御伽』(えほんかがみとぎ)にみる「かねやすの店」である。
『絵本家賀御伽』は、享保中期から宝暦期にかけて活躍した大坂の浮世絵師長谷川 光信の狂歌絵本であろう。
江戸の「かねやす」は、口中医師(歯医者)兼康裕悦が、享保年間(1716~1736)に開いた薬種小間物店で、「乳香散」という歯磨きが代表的な商品であったらしい。画像では、店先に歯磨きの袋を入れた箱が置いてあり、客の求めに応じて、これから出して売るようだ。(NHKデーター情報部編ヴィジアル百科『江戸事情』第3巻産業編」より)。
東 京文京区本郷三丁目交差点角に今も 「かねやす」 という看板を掲げたビルがり、雑貨店を営んでいるようだ(Wikipedia -かねやす参照)。Wikipediaには、“「かねやす」を興したのは初代・兼康祐悦(かねやす ゆうえつ)が徳川家康が江戸入府(天正18 年=1590年8 月1日)した際に従って、江戸に移住し江戸で口中医をしていて、元禄年間に、歯磨き粉である「乳香散」を製造販売したところ、大いに人気を呼び、それをきっかけにして小間物店「兼康」を開業。「乳香散」が爆発的に売れたため、当時の当主は弟にのれん分けをし、にもう一つの「兼康」を開店した。同種の製品が他でも作られ、売上が伸び悩むようになると、本郷と芝の両店で元祖争いが起こり、裁判となる。これを裁いたのは大岡忠相で、大岡は芝の店を「兼康」、本郷の店を「かねやす」とせよ、という処分を下した。本郷の店がひらがななのはそのためである。その後、芝の店は廃業した。そして、「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」の川柳が生まれた。“・・・とまるで、「乳香散」の本家争いが、大岡裁きの結果で兼康祐悦が興した「かねやす」が「乳香散」を開発した元祖とされたように書かれているが、
コトバンク-兼康祐元 とはには、”平安時代に『医心方』を編纂した丹波康頼の後裔である兼康家の5代目兼康祐元(かねやすゆうげん)が、江戸芝の柴井町と源助町に薬種,歯薬,香具を商う店を持っていたが、元和3(1617)年に本郷に第3番目の店を出した。そんな、祐元が処方した歯磨粉「乳香散」は元禄時代(一説には享保年間)に別家の兼康祐悦が本郷店で販売すると流行品となり、「かねやす」というと歯磨粉を意味したという。明和ごろから「本郷も兼康までは江戸の内」の句で有名になる。また芝柴井町の店主は代々「祐元」を名乗り,口中医あるいは入歯師としても栄えた。”・・・と書かれており大分違う。私には、どちらがどうなのか信実は分からないが、今日、実際の大岡裁きは、享保12年(1727年)の「白子屋お熊事件」のみで、他は、後に色々な人のものを寄せ集めて作られたものであることは知られており、書かれている内容からすれは、コトバンクの方に信憑性が感じられ、「乳香散」の本当の開発者は「祐元」であるが、それを、別家の兼康祐悦が商売上手に「この薬をもって磨く時は、その白さ銀を敷くる如く、一生口中歯の憂なし」と効能を宣伝し(※11)て、販売し名を成したのだろうと言う感じがする。
江戸時代も元禄時代になるとこの歯磨粉には“兼康の「乳香散」、薬種商の「おもだかやの歯磨」、「箱入り歯磨嗽石香」、松井源水の「市之丞のはみがき」、文化、文政の時代(1804~1829年)には「松葉じお歯磨」、「団十郎歯磨」、「助六はみがき」美濃屋の「一生歯の抜ざる薬」など多くの歯磨粉が製造、販売された。”・・・とあり、「かねやす」ではなく「兼康」の「乳香散」と書かれている。
この話はここまでとして、次に以下の図を見てください。

上掲の画像は、江戸時代の浮世絵師歌川国貞(三代歌川豊国)の「見立十二乃気候九月」に見る「お歯黒化粧と歯磨き」の図である(画像はNHKデーター情報部編ヴィジアル百科『江戸事情』第六巻服飾編より。画像は榎恵氏蔵とある)。
この画も、モノクロであるが実際は錦絵であり、その絵は、※12:「浮世絵・歌川国貞・見立十二乃気候九月に観る江戸の化粧」で見ることが出来る。見たい人はここをクリックしてください。
現代人にとっては、「真っ白に輝く歯」が美の象徴となっており、お歯黒は、今では、歌舞伎や時代物の映画、テレビでしか見ることは出来ないし、また、気味悪い風俗としか理解されていないだろうが、日本を西欧化しようとしていた明治新政府が、西洋の人達から「お歯黒」を野蛮な風習のように見られたくなかったため出した「お歯黒禁止令」により廃止される明治時代初頭頃までの日本では、 歯を真っ黒に染める化粧、「お歯黒」が大変性的な魅力のある化粧風俗とされていた。
江戸古川柳に「良き娘 おしいことには 歯は黒し」(いい娘なのに残念ながら人妻なのだろうという意)が残っているように、女性は結婚すると歯を黒く染め、一般女性は眉を剃り、遊女は眉を抜いていた。
起源はよく分かっていないが、日本では、古墳に埋葬されていた人骨や埴輪にはすでにお歯黒の跡が見られ、3世紀末に記された魏志倭人伝)などにも「黒歯国」と記載(※13参照)されており、当時すでにお歯黒が行われていたことが伺える。
初期には草木や果実で染める習慣があり、のちに鉄を使う方法が鉄器文化とともに大陸から伝わった。
753年に鑑真が持参した製法が東大寺正倉院に現存するという。 この鑑真が中国から伝えた製造法は古来のものより優れていたため徐々に一般に広まっていったが、その製造法は当初は仏教寺院の管理下にあった。
古代から行われていたお歯黒だが、日本で人々の習慣になったのは、平安時代に入ってからと考えられている。
この時代のお歯黒は、成人への通過儀礼でもあったが、室町時代になると一般にも広がり、時代とともに、既婚女性の象徴となっていった。
「お歯黒」というのは日本の貴族の用語である。「おはぐろ」の読みに鉄漿(かね)の字を当てることもある。御所では五倍子水(ふしみず)という。民間では鉄漿付け(かねつけ)、つけがね、歯黒め(はぐろめ)などともいったようだ。
鉄漿(かね)は歯を染めるのに使う液であり、 主成分は鉄漿水(かねみず)と呼ばれる酢酸に釘などの鉄を溶かした茶褐色の溶液である。これにヌルデの木からとれるタンニンを多く含む五倍子粉(ふしのこ。御婦志之粉)と呼ばれる粉を混ぜて非水溶性にする。主成分は、酢酸第一鉄でそれがタンニン酸と結合して黒くなる。
歯を被膜することによる虫歯予防や、成分がエナメル質に浸透することにより、菌の浸食に強くなり、歯周病の予防にもなるなどの実用的効果もあったとされている。五倍子粉は、市販されていたが、鉄漿水は自分の家でつくったそうだ。大変渋くて臭かったそうで、染めてから直ぐにうがいをしたという。この臭さが江戸時代お洒落な若い女子に敬遠され既婚女性のみがするようになったとも言われる。
上掲の「見立十二乃気候九月」の画像右下には、うがい水をあける耳盥(みみだらい、左右に耳状の取っ手のついた小形のたらい。)の上に、渡し金(耳だらいの上に渡しかけて、お歯黒の道具をのせる真鍮の板)を渡し、その上に金メッキらしい鉄漿盃と四角い漆塗りの箱の五倍子粉入れが描かれ、その横には、うがい茶碗といったお歯黒道具一式が描かれており、鉄漿水と五倍子粉を鉄漿筆で交互に塗って歯を染めている女性が描かれている。お歯黒やお歯黒道具の説明など14:「ポーラ文化研究所:日本の化粧文化」なども、参照されると良い。
お歯黒をつけるためには良く歯を磨いてからでないとうまくお歯黒つけが出来なかった。そのためお歯黒をつけている人はお歯黒と歯磨きの効果とで虫歯が少なかったといわれている。
又、逆に、江戸のダテ男は白い歯が自慢だったらしい。


上掲の画は以下参考の※15:「早稲田大学図書館・古典籍総合データベース」に保存さている一勇斎国芳(歌川国芳)が描いた3枚続きの諷刺画「きたいなめい医難病療治」の入口の画像である。画像下の現物を見るをクリックすると、データベースにある詳細画像を見ることが出来る。
同データベースに、この画像の解説はないが、以下参考の※16:「浮世絵文献資料館」の藤岡屋日記「き」の◯『藤岡屋日記 第四巻』p134嘉永元年(1848)四月)のところで、「【きたいなめい医】難病療治」国芳画について書かれている。
それによると、“嘉永3(1850)年国芳が描いた3枚続きの「きたいなめい医難病療治」は、通三丁目の版元遠州屋彦兵衛により板行されたとある。
そして、この画には、やぶくすし竹斎の娘で名医こがらしという美人を中心に、足の悪い美女、御殿女中の大尻、あばた顔、一寸法師、近眼、ろくろ首などの難病者を年頃の惣髪の4人の弟子が治療している諷刺画が描かれている。
女中の大尻は大奥の女中で「御守殿のしり迄つめる」という評判が広まり、その絵の評判はさらに増した。近眼は当時の阿部正弘で鼻の先ばかり見えて遠くが見えない、一寸法師は牧野忠雅で万事心が小さいなどと言われた。・・など、市中であまりに評判になったため、国芳は尋問を受けることになったようだ。また、この錦絵を参考にして方々で贋絵(にせえ)が出たという。この画は「判じ物」の技法が用いられており、描かれた人々の裏に隠された意味が理解され評判になったことから、「判じ物」としての作品の巧みさが、評判に評判を読んだようだ。
因みに、やぶくすし竹斎と言うのは、江戸時代初期の仮名草子竹斎』(作者:伊勢の医家富山道冶とされている)に登場する主人公の藪医者のこと言っているつもりであろう。作品は、竹斎が下僕を供に、こっけいを演じながら京から江戸に下る物語で、頓智で病を治し、狂歌で名声を博したという。松尾芭蕉が『野ざらし紀行』で名古屋の談林系の俳諧の席に招かれた時、詠んだ発句「狂句木枯の身は竹齋に似たる哉」中にも見られるように相当知られていたようだ(※17、※18参照)。冒頭の「狂句」は、後日削除したと言われているが、この句は芭蕉が談林俳諧から決別して俳諧の新しい地平を創造した記念すべきものだそうだ(※19)。
さて、本題の歯のことだが、この図の中央前方で、名医こがらしの弟子がむしばと書かれた格子縞の着物を着た町家の女性の口からお歯黒の歯を両手で握りしめた鉗子(かんし)を使って抜こうとしているところを描いている。半身に反り返って女性はそれを必死に耐えているようだ。その女性の手前の懐紙の上には木床義歯(もくしょうぎし)が置かれている、
説明文には、
「はのいたむものは、なかなかなんぎなものでござる、これは、のこらずぬいてしまって、うえしたともそういればにすれば一しょうはのいたむうれいはござらぬて」「これはなるほどよいおりょうじでございます」とある。 “・・・そうだ(以下※11)。
抜歯の光景など見ただけで恐いが、歯が痛んだからと言って、直ぐに抜いてしまい上下ともに総入れ歯にされたのではたまらないよね~。
※11に、江戸時代の歯痛の方法が色々書かれているが、現代の歯科知識では、このような方法では、あまり歯痛どめに効果がなさそうであるとしている。説明文にあるように、「はのいたむものは、なかなかなんぎなものでござる」で、抜歯しかなかったのかも知れない。
そして多くの歯を失えば、物を食べるのに不自由であり、入れ歯を入れるしかしようがない。
明治時代の初期は、近代歯科医学への転換期であり、従来からの口中医、入れ歯師、西洋歯科医学を勉強し正式な歯科医術開業試験を通った歯科医などが色々といたそうだ。
我が国の現存している最古の総入れ歯は、和歌山市の願成寺を開山した中岡テイ、通称“仏姫”と呼ばれる尼僧のもので、1538(天文7)年に76歳で死去していた。入れ歯は、黄楊(ツゲ)の木を彫った木製入れ歯(木床義歯)で、歯の部分と一体となっていた。又、奥歯の噛む蔓がすり減っていることから、実際に使われていたと想像でき、そして、この入れ歯はX線解析と赤外線分析でお歯黒が施されていたことも判明している。
日本の木床義歯は、食事をしても落ちないように、歯がない上顎の粘膜に吸いつき保持するようにできており、現在の総入れ歯が顎に吸着する理論と同じであり、まさに、世界に類のない日本人の手先の器用さによる「独自の木彫技術」であった。
このように、江戸時代の中ごろには噛める総入れ歯が実用化していたことが窺えるが、その頃の欧米の入れ歯は、食べ物を噛むことがほとんどできない、主として容貌を整えるだけのものであったことから、日本の木製の入れ歯(木床義歯)の技術は、世界で一番古いものだという。
この木床義歯の始まりは、仏師などが彫ったといわれている。江戸期には仏像彫刻の注文が少なくなったため、木彫技術を活かして入れ歯を彫る「入れ歯師」と呼ばれる専門職になっていった。そして、 木床義歯は、鎌倉時代に全国的に普及し、江戸時代には歯が欠けた場合には、その部分の木製の入れ歯(局部義歯という)をつくり、金属のバネを入れて隣の歯に引っかけて維持する現代のような方法も江戸時代に工夫されていた。また、前歯の裏に穴を開け、糸を帳して、隣の歯にしばって維持する方法など独特の技法が完成していたそうだ(※11)。だ が、江戸時代では、まだまだ高価で、なかなか庶民には手が出なかったようだ。
以前から虫歯予防法には、「歯磨き」「砂糖の摂取制限」「フッ化物の利用」の3つの対策が言われてきていた。WHO(世界保健機関)は「フッ化物利用」が虫歯を予防するのに最も科学的に証明された方法である」としている。
2003(平成15)年21月14日、厚生労働省は、健康 日本 21 における歯科保健目標を達成するために有効な手段として「フッ化物洗口の普及」を目的としたフッ化洗口ガイドラインと呼ばれる通達を各都道府県知事宛に送付した(※20、及び※1のここ参照)。これをうけ、国内の地方自治体では、フッ化物洗口の普及についての条例案や決議が可決されている(実行例※21:「北海道子供の歯を守る会」参照)
WHOが虫歯予防法の第1位に推奨しているのは虫歯予防のために水道水のフッ化物濃度を適正濃度にして供給する方法(水道水フロリデーション=水道水へのフッ素添加)が低コストで有効性も高いとしているようだ。
その一方で「フッ素は非常に人体に有害であり、水道水に添加することは許されない」とする反対派の団体や歯科医師・科学者がいるが、すでに導入している米国その他各国の歯科医師学会などは、「フッ素は虫歯予防に有効であり、適量であれば人体への深刻な被害などは一切ない」とする強い立場をとって、今後、さらに広い地域や国々で、水道水へのフッ素添加を大規模に展開していこうとしているようだ。
いったい、どちらが本当のことを言っているのだろうか・・・。
“虫歯予防フッ素の信実”について、以下参考の※22:「THINKER」は、それを、有害であるとしている側の一例だろう。
また、以下参考の※5:「ちょっと変わった歯のお部屋」などは、推進派のようで、被害があるとして反対する人達を否定している。同HPの、“一 般 の 方"用入口の中の水道水フッ素化(フッ素濃度適正化)のすすめ 。又、”歯 科 の 方”の入口の中のフッ素化ニ関連するところを参照されると良い。
その中の、日本口腔衛生学会の姿勢を問うでは、日本口腔衛生学会が「名古屋宣言」(ここ参照)を「訂正」(フッ素化推奨を否定)したことに痛烈に批判をしている。
そして、その背景には、いろいろと陰湿な裏事情が見えるようだという。更に、そこには、やっかいな混乱を起こしたくない、フッ素化支持派の弱腰と混乱を見ていると、その背後に、フッ素化に消極的あるいは否定的と見える大きな「勢力」の存在が見え、フッ素化推奨か反対かが勢力争いで行なわれているようで、とても、学術論争には見えない。・・・という。
世界が水道水フッ素濃度適正化を推奨する中。日本がどうすべきか・・・。日本人の健康を守る問題が、勢力争い他、利害団体等のご都合主義でやられたのではたまったものではないのだが、今問題となっている、関西電力の大飯原子力発電所再稼動問題にしても、その裏には原子力発電を中止したくない原発関係者、国民の安全よりも電力不足を何とかして企業利益を追求したい経済団体、原発設置をしているところの地域住民のエゴ、これら利害団体との関係を優先する霞ヶ関の官僚、これらの指示がほしい政府、や国会議員等々の思惑が国民の生命の安全よりも原子力発電を優先させているように思われるのと同じことだろう。日本の政治家のレベルの低さが問われる時代となっている。
最後に、世界では忌み嫌われる八重歯だが、過去日本だけには「八重歯が可愛い」とした時代があり、我が地元兵庫県出身のアイドル歌手“石野真子”がデビューした時のキャッチフレーズは「百万ドルの微笑」で、トレードマークはタレ目と見事な2本の八重歯だった。他にも、20世紀の八重歯タレントとしては、小柳ルミ子梓みちよ国広富之河合奈保子芳本美代子坂上香織、古くは美空ひばり石原裕次郎なども挙げられる。
しかし、歯科医学的に犬歯には咀嚼時のガイドとして働く重要な役割があり、八重歯の状態ではその役割が果たせず、また、歯磨きもしにくいことからむし歯や歯周病が懸念されなど健康上の問題や、美顔的にも白い歯並びの良い歯が好まれるようになって以降、八重歯は治療・矯正されてきたのだが、最近は人気アイドルグループAKB48板野友美のような片八重歯に憧れて、人工の歯を付けて個性を演出しょうとする「付け八重歯」が若い女性を中心に新たなファッションとなってきているらしい。
セラミックと樹脂でできた特殊素材を歯に張り付けるだけで、飽きればとることが出来るからいいようなものの、今の女性は、化粧だけではなく、まつげや歯まで、足の爪からあちこちへ色んなものをつけて大変だね~。前に、顔を黒くすガングロが流行したことがあるが、なんなら江戸時代に人気のあった
お歯黒でもやってみないかな~。虫歯や歯周病予防にもなるらしいし、みんなびっくりして、注目されるので一石二鳥かも・・・?

参考:
※1:日本歯科医師会HP
http://www.jda.or.jp/
※2:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html
※3:健康日本21推進全国連絡協議会
http://www.kenkounippon21.gr.jp/kyogikai/kanyudantai/8020zaidan/
※4:健康日本21中間報告
http://www.kenkounippon21.gr.jp/kenkounippon21/ugoki/kaigi/pdf/0704hyouka_tyukan.pdf
※5:ちょっと変わった歯のお部屋
http://www.geocities.jp/go_fluoridation/
※6:8020健康長寿社会は実現するか(Adobe PDF)
http://www.8020zaidan.or.jp/pdf/kaishi/teidan01.pdf#search='8020健康長寿社会は実現するか'
※7:歯痛の原因は何でしょうか?-ハーネット
http://www.j-dol.com/cons/cons/articles/pain.html
※8:痛みと鎮痛の基礎知識
http://www.shiga-med.ac.jp/~koyama/analgesia/
※9:内藤記念くすり博物館:人と薬のあゆみ-衛生
http://www.eisai.co.jp/museum/history/b1500/0100.html
※10:爪楊枝(つまようじ) - 語源由来辞典
http://gogen-allguide.com/tu/tsumayouji.html
※11:神奈川県歯科医師会:歯の博物館
http://www.dent-kng.or.jp/chishiki/museum/
※12:浮世絵・歌川国貞・見立十二乃気候九月に観る江戸の化粧
http://blogs.yahoo.co.jp/yamaguchikomono/3385327.html
※13:おもしろ大辞典[お歯黒の起源]
http://www.sakamoto.or.jp/takafumi-dictionary001-117.htm
※14:ポーラ文化研究所「日本の化粧文化」
http://past.jman.jp/jman/library/kesyo/kesyo10.htm
※15:早稲田大学図書館:古典籍総合データーベース:[難病療治]
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/search.php?cndbn=%93%ef%95%61%97%c3%8e%a1
※16:浮世絵文献資料館
http://www.ne.jp/asahi/kato/yoshio/index.html
※17:『竹斎』『東海道名所記』について
http://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/leaf/200410_chikusai.htm
※18:蕉門俳諧集5、「狂句こがらし」の巻、解説
http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/haikai05.html
※19;芭蕉DB :野ざらし紀行(名古屋)
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/nozarasi/nozara23.htm
※20:フッ化物洗口ガイドラインについて:厚生労働省、医政発第 0114002 号 健 発 第 0114006 号 平成 15 年1月 14 日
http://www.tkda.jp/kouse.gaidorain.pdf#search='厚生労働省 フッ化洗口ガイドライン'
※21:北海道子供の歯を守る会 外部リンク
http://www.geocities.jp/newpublichealthmovement/savethechildrenstoothhokkaido/link.html
※22:THINKER-健康について’虫歯予防フッ素の信実”
http://thinker-japan.com/husso.html
う蝕- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%86%E8%9D%95

◎印NHKデーター情報部編ヴュジアル百科『江戸事情』。第一巻生活編。第二巻産業編。第六巻服飾編。