今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

東急百貨店日本橋店(元白木屋)が閉店した日

2006-01-31 | 歴史
1999年1月31日 東急百貨店日本橋店が閉店。白木屋以来336年の歴史に幕 を閉じた。
東京・日本橋に日本初めての百貨店が出来たのが1904(明治37)年呉服屋から転身を遂げた三越呉服店(三越)が始まり。他に日本橋には高島屋、や松阪屋そして、これらと張り合っていた白木屋という百貨店があった。
白木屋は1662(寛文2)年創業で、近江の材木商、大村彦太郎が江戸日本橋に呉服反物の類の販売を主とする店を開いたのが始まり。町人から大名・大奥までをも顧客としたそうで、これは三越より時代的には少し古い(三越の創業は、1673年=延宝元年)。明治時代に入ると服装の洋装化の波にも乗り、洋服部も開設し、越後屋(三越呉服店)などと並び、百貨店として発展。1911(明治44)年、百貨店初のエレベーターと回転ドアを設置するなど先進的な取り組みで知られた。1928(昭和3)年に建物が出来(西館)、1931(昭和6)年に新ビル(東館)が完成。その時のデザインはクラシック様式の三越の向こうを張って、華麗なアールデコ調の装飾で彩られていたという。しかし、不幸にも完成間もない1932(昭和7)年12月16日に大火があり、4階おもちゃ売り場の歳末・クリスマスの飾り付けに、電球の火花が引火し、当時玩具の主流だったセルロイドに燃え移り、あっと言う間に大きな火事になったという。そして、店員や問屋など14人の死者が出た。これは、当時の女性が着物の下には何も下着などつけていなかったので、火事から逃れるとき、下から見られるの恥じて逃げ遅れてのものであったことから、 この火事を境に日本の女性に急速に下着が普及することになったことは良く知られている。大火後に改装され、営業を続けたが、戦後の1956(昭和31)年、東京急行電鉄(東急)の傘下に入り、昭和32年にも 大規模な改装をし、1958(昭和33)年には東急傍系の東横百貨店と合併するも「白木屋」の店名は1967(昭和42)年に「東急百貨店日本橋店」となるまで残っていた。
1999(平成11)年1月31日、その白木屋以来336年の歴史を誇ってきた東京・日本橋の東急百貨店日本橋店が売れ行き不振で閉店へ。正月3日から始まった閉店セールは初日から押すな押すなの大盛況。店じまいした1月末(1月31日)までの来店客は204万人。売り上げ165億円は年商の約半分とか。営業中にこれだけの人が来てくれれば閉店せずに済んだのだが・・安ければ売れるんだよね~。その跡地は「COREDO(コレド)日本橋」となっている。
百貨店の屋上には、商売につきものの お稲荷さんと、白木観音がまつられていた。その昔、江戸市中が水不足で困っていたとき、白木屋2代目当主が井戸を掘ると、観音像が現われるとともに、清水が湧き出したものだという(1712年=正徳元年)。
白木名水は湧き出してから数百年の時を経て消失したが、江戸城下の歴史を理解する上で重要な遺跡として東京都の旧跡に指定されている。 この「名水白木屋の井戸」の石碑は江戸時代の呉服商を継いだ白木屋デパート、東急百貨店と続く長い歴史のあとに、日本橋一丁目交差点角にあったものを2004(平成16)年にCOREDO日本橋アネックス広場内に移設再現されている。
私は、昭和30年末、東京で仕事をしていたが、本社が日本橋、白木屋の近くにあった・・・当時が懐かしく思い出される。
(画像は、コレクションの絵葉書・昭和の大東京「大建築の偉観」のうちの1枚。昭和初期のもの)
参考:
白木屋が消えた
http://homepage2.nifty.com/datey/m5sirokiya.htm
東急日本橋店
http://homepage1.nifty.com/tanboh/15407.htm
レジスター博物館
http://www.ncr.co.jp/library/library/register/index.html


「日英同盟」が締結された日

2006-01-30 | 歴史
1902(明治35)年の今日(1月30日)は、 ロンドンで、「日英同盟」が締結 された日である。日英同盟は、近代日本が世界の大国と結んだ最初の軍事同盟である。 第1次日英同盟協約から第2次・第3次と継続更新され、1923(大正12)年8月17日に失効した。第一次世界大戦終了時まで、日本の外交政策の基盤となった同盟である。
日清戦争で中国が敗れると、清朝の無力さが暴露され、列強による中国分割が進んだ。それは、租借地・鉄道敷設権・鉱山採掘権などの獲得・租界の充実などにより、列強それぞれの勢力範囲を形作っていった。ロシアは、中国東北部(満州方面)・旅順・大連。日本は、朝鮮半島・台湾・台湾の対岸(福州・アモイ方面)。ドイツは、膠州湾・青島。イギリスは、揚子江流域・香港・九龍半島・山東半島北岸の威海衛。フランスは、雲南方面・広州湾。(アメリカは、中国に特別な勢力をもっていなかった。)
こうした情勢のなかで、ヨーロッパでは三国同盟(ドイツ・オーストリア・イタリア)と露仏同盟とが対立するという構図のなかで、イギリスだけは「光栄ある孤立」と呼ばれる非同盟主義をとっていた。一時、ドイツとの接近が試みられたが不調に終わった。その頃、イギリスは、アジア全域でロシアと対峙していた。ロシアは中国への進出を一層積極化しつつあった。義和団の乱が満州に波及すると、これを利用して、大軍を満州各地に進駐させ、乱後も撤兵させず、満州の占領に乗り出した。
また、日本は、ロシア、フランス、ドイツによる三国干渉で遼東半島を返還させられ、中国東北部・朝鮮(東アジア)でロシアに脅かされていた。
そのような情勢下で、ロシアを牽制したいイギリスは、それまでとっていた伝統の「栄光ある孤立」政策を捨てて日本との同盟を結び、東アジアでのロシアの南下をくいとめようと考えた。このころ、日本には、前首相伊藤博文や元老井上馨らが対ロシア宥和策を進めようとしていたが、これに対する、列強のどこかを巻き込んで対ロシア対決へと国策転換を図ろうとする元老山科有朋、桂太郎首相、林公使らの勢力が支持された。
日英同盟の締結において、明治政府首脳に決断させる最大の誘因となった三国干渉が、当時の首脳に与えた印象は脅迫観念に近いものであり、国家の独立を担うことを使命とする政治家にとっては、屈辱的なものであったろう。列強の合従連衡の中、戦争に敗れた国家がすべての主権を失うことは、清の先例に明らかであった。当時の国際情勢の下では、国益の保全を図る上で同盟国の存在が必要不可欠で、その相手国は「対露協調」か「日英同盟」かだったが、選択の結果、1902年(明治35)1月30日同盟の締結を見るに至ったものである。
この条約は、前文と6ヶ条からなるが、主要な内容は、(1)日英両国が清国と韓国とにそれぞれ持っている「権益」が、第三国の「侵略的行為」や清国・韓国での「騒擾(そうじょう)」のために脅かされる事態が起こった際は、それぞれ「必要な措置」をとることを互いに承認する。(2)日英どちらかが他の一国と「戦端」を開いたときは、他方は厳正中立」を守る。(3)その戦争が二国以上の他国を相手とすることになった場合には、他方も直ちに戦争に加わって同盟国を助ける。また、調印と動じに交わされた秘密交換公文では、平時から日英両国海軍の共同行動と便宜の供与(港・ドックの利用や石炭の塔載など)と、極東海域で他の第三国海軍力より優勢な海軍力を維持・集合させ得るよう努力することを約束したものであり、この文書は、イギリス外交文書が1927(昭和2)年に公表されるまで秘密にされていたという。(朝日クロニクル・週刊20世紀)
この当時、イギリスは依然として世界第一の富力と海軍力を保有する大国であり、全世界に睨みを利かしていた。この同盟によって、日本は、ある一国だけを相手取って戦い得る態勢ができた。同盟から2年後の1904(明治37)年、日本は、日露戦争へと進み、イギリスは中立を守った。イギリスは、ドイツ帝国の台頭が脅威であり、極東における日本の海軍力を高めその力を利用したかったのである。又、日本は、イギリスの援助で、世界水準の海軍力を育てた。
日露戦争では、日本が勝利した。日英同盟は、日露戦後、1905(明治38)年の第2回、1911(明治44)年の第3回と改定され、拡大・強化されて存続した。1914(大正3)年、第一次世界大戦に際し,日本はこの同盟の参戦義務遵守を名目として参戦した。大戦後の、1921(大正10)年12月末のワシントン会議において、日本、イギリス・アメリカ・フランスの間に四国条約が締結され、1923(大正12)年8月17日に発効すると同時に、この軍事同盟は廃棄された。
日露戦争の勝利、議会民主主義の実現など、明治日本はイギリスとの同盟により、念願の列強入りを果たした。もし、日英同盟がなかったら、明治の日本は、ロシアの南下政策という脅威にさらされ、また列強の植民地支配が迫り来る中で、それらの力に屈していたかもしれない。しかし、その後のドイツとの連盟によって、日本は破滅の道へと追い込まれた。第二次大戦後、日本は、アメリカとの日米安全保障体制を中核とする日米同盟を結んでいるが、もし、この同盟がなければ、戦後、日本が共産主義勢力の侵攻を防げたかは疑問であるともいわれている。同盟国と言うものはすわと言う時には共に闘わなければならない。アメリカとの同盟によって、色々と問題に巻き込まれることを心配する人たちも多いが、それでは、どこの国と同盟関係を結ぶのが良いのだろうか。過去の歴史から見ても、国家の盛衰は同盟国の選択によって決まるといえるかもしれない。私には、良く分らないが、今の日本の選択が必ずしも間違っているとも思えないが・・・。
(画像は、コレクションより、「日英同盟記念絵葉書」。逓信省発行)
日英同盟 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%8B%B1%E5%90%8C%E7%9B%9F
日英同盟 にちえいどうめい
http://www.tabiken.com/history/doc/N/N349L100.HTM
日英同盟(日英同盟と日米安保条約)
http://wwwi.netwave.or.jp/~mot-take/jhistd/jhist2_4_7.htm
外務省: 日米同盟:未来のための変革と再編(仮訳)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/usa/hosho/henkaku_saihen.html


南極の日、昭和基地開設記念日

2006-01-29 | 記念日
1957(昭和32)年の今日(1月29日)は、「南極の日、昭和基地開設記念日」。
日本の南極観測隊が南極・オングル島への上陸に成功し、昭和基地を開設した。
この年から翌年にかけては「国際地球観測年」で、南極大陸には日本を始め12か国による観測網が敷かれた。
他に、12月14日「南極の日 」があり、この日は、1911(明治44)年、ノルウェーの探検家・アムンゼンと4人の隊員が人類で初めて南極点に到達した日であり、このことは、前に私のブログ、12月14日は「南極の日」で書いた。そこでは、当時の南極観測競争等をテーマーに書いたので、今日は、昭和基地設記など日本の状況に絞って書いてみよう。1957(昭和32)年、1月25日、日本の南極観測船「宗谷」(隊員53人、乗組員77人)が、南極大陸のアフリカ大陸側にあるリュッツオールホルム湾にたどり着いた。同1月29日には、湾内のオングル島に永田武観測隊長らが上陸「昭和基地」と名づけた。第二次世界大戦が終わって、平和な時代を迎え、1957年~1958年にかけては「国際地球観測年」が設定された。戦争中に大幅に進歩した科学の知識や技能を駆使して、局地を中心に各国が力を合わせて大規模に地球を調べようと言うものであった。しかし、日本は敗戦の痛手からやっと立ち直りかけたばかりの時である。まだ、國際学術連合会(ICSU)の参加呼びかけにすぐ応じるという情勢にはなかったときである。南極観測船「宗谷」も海軍特務艦、復員船、灯台補給船などの経歴を持つ海上保安庁の「宗谷」を改造したものであり、砕氷能力も低かったため他国の観測隊によく世話になった。米ソ両国は言うに及ばず、西欧諸国にも随分と遅れを取ったが、日本もようやく自前で南極観測に取り掛かかったのであった。昭和基地が設けられたオングル島には東西2つの島があり、上陸地点は西の島、基地本部所在地は東の島で南緯69度29秒、東経39度35分10秒に位置していた。西の島は最も幅の広いところで、約4キロ、高さは最高点でも50メートル以下と見られ、土もあって全体に暖かい感じ。カラフト犬20頭が同行した。上陸後は、数百キロもの荷物を積んだそりを引くなど活躍。昭和基地には、西堀栄三郎隊長ら11人の第1次越冬隊が残った。アメリカ、ソ連などは発電所設備まで持ち、電気も自由に使え暖房設備なども万全の宮殿のような基地に比べ、日本の基地は小屋の様な不十分な施設と物資の中で、厳しい気候に耐えながら観測をしていたが、翌1958(昭和33)年2月、越冬隊は分厚い氷の海と荒天にたたられ、飛行機で脱出せざるを得なくなり、カラフト犬15頭の犬は置き去りにして去った。その翌1959(昭和34)年、再び昭和基地に向かった観測隊員は置き去りにした中の2頭の犬の大歓迎を受けた。残してきた時はまだ子犬だったタロとジロである。このタロとジロとの奇跡の再会は感動のドラマや映画にもなった。基地での日本の観測は第6次まで続いたが、「宗谷」の老朽化などから1963(昭和38)年2月に一旦閉鎖した。再開が決まって、観測船「ふじ」を新造、1965(昭和40)年初冬に第7次隊が出発現在に至っている。
思えば、アメリカの探検家ペアリーが1909(明治42)年に北極点の徒破に成功した後、世界の探検家の目がいっせいに南極に向かい、ノルウエーのアムンゼン、イギリスのスコットの両隊が南極点を目指して凌ぎを削っていたのが1911((明治44)年であった。当時、日本の白瀬矗(しらせのぶ)もまた、目標を南に変え、1910(明治43)年11月29日、東京・芝浦を発った。この探検に政府は1銭の援助もなく、大隈重信らの後援による義捐金で行われたが、途中ニュージーランドにより、翌日(翌年2月11日)、ニュージーランドのウェリントンから南極に向かったものの、残念ながら氷に阻まれ撤退した。そして再び南極を目指し到達したのが、1912(昭和明治45)年)1月28日、南緯80度05分西経156度37分の地点であった。この地に日章旗を立て、一帯を「大和雪原(やまとゆきはら)」と命名した。しかし、その地は、南極点ではなく、南極点までは100キロもある地点ではあったが、当時世界4位の南進記録であり、南極探検史に残る堂々の金字塔であった。探検隊は、白瀬隊長以下27人。野村直吉(本名西東直吉)船長を始め、「生還おぼつかなし」と断ったにもかかわらずはせ参じた男達だった。僅か204トンの木造機帆船「海南丸」で猛吹雪と流氷軍を乗り切り到達したものであった。先に南極に到達していたノルウエーのアムンゼン隊は白瀬隊の船を見て、「こんな小さな船でよくここまでやってこられたものだ」と感心したと言う。戦後、日本の南極探検の先駆者として白瀬矗は高く評価され、「宗谷」「ふじ」に続く3代目の南極観測船に「しらせ」と命名されたり、白瀬の故郷の秋田県には白瀬記念館が建てられたりしている。又、現在の南極大陸の地図には、白瀬海岸、白瀬氷河という地名が記載されたりもしている。 それにしても、昔の日本人の根性は凄いね!
(画像は、1912年1月29日、南極の西オングル島中央部での南極観測隊による国旗掲揚式。朝日クロニクル・週刊20世紀より)
参考:
昭和基地 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%9F%BA%E5%9C%B0
日本初の南極探検
http://www.tanken.com/nankyoku.html
[PDF] 南極にかける日豪友情と協力の橋
http://www.australia.or.jp/gaiyou/japanese_resources/pdf/06_shirase.pdf
バーチャル未来科学館
http://www.pref.akita.jp/kagaku/5f/space/2/menu2/c.html


犬だけだった「生類憐愍令」を牛馬・猫・魚介類にまで拡大 した日

2006-01-28 | 歴史
1687(貞享2)年の今日(1月28日)、 将軍徳川綱吉の命により、犬だけだった「生類憐愍令(しょうるいあわれみのれい)」を牛馬・猫・魚介類にまで拡大 した日とされている。
17世紀末、徳川綱吉政権下の数次の犬愛護令などを念頭において、「生類憐れみの令」という用語が一般に普及しているが、そうした名のまとまった法令があったわけではない。
この「生類憐みの令」について、徳川綱吉が跡継ぎがないことを憂い、母桂昌院が寵愛していた隆光僧正の勧めで殺生を禁止する法令として制定したとする説については、この最初の法令が出たとされる時期には隆光はまだ、江戸に入っておらず、現代ではほぼ否定されている。生類憐みの令の最初とされているのは、1685(貞享2)年 7月14日の 「上様御成りの道筋においても、犬猫を繋いでおくことはない」 つまり、将軍の御成の道筋に犬・猫が出ていても構わないというもので、当時、江戸では、猫はもちろん犬も放し飼いにしていたようであるが、公方さまが御成りとなれば、その道筋にノコノコと犬猫が出てこられては、町年寄や、町名主など管理不行き届きとして責任を問われるかもしれないので犬猫が繋ごうとするが、そのようなことしなくても良いといったものである。当時、江戸では、凶作の影響で大都会の江戸でも餓死者がでることがあった。老人や年老いたり病気になった牛馬を山に捨てる、あるいは生まれたばかりの赤子を他人の軒先に置く捨て子などは、日常茶飯のことであったことから、捨馬、放れ馬の禁令や,捨子、捨病人の禁令も一連の政策の重要な部分であり動物だけではなく、ヒトおも憐れみの対象としたものであった。
動物は、昔からヒと深く係わってきたが、ヒトと動物の関係の歴史を考えるとき、野鳥獣の生活環境の変化は17世紀に大きく進んでいた。ヒトによる山野沼沢の耕地が進み、動物がその耕地に実る食料を食べようとする時、ヒトが鉄砲という新しい武器で妨げることもおこってきた。同時にヒト社会の支配層、武装した多くのヒト集団による大規模な組織的な狩猟が特に野獣を大量に捕獲した。同様な狩猟の中で鷹狩りは最も頻繁に行われ、このため深山にいたるまで鷹類の巣がヒトに探索され、一面では鷹狩りの獲物を確保するため、広大な禁猟区が厳格に設定された。住民には、この日常の管理や鷹狩りの時の接待など経済的なもののほか人足駆り出しなどの負担もあり、何よりも、苦しめられたのは鳥獣の繁殖のため、区域内での狩りの厳禁から、イノシシなどが繁殖して、畑を荒らされるなど被害も多かった。この状況を綱吉政権は大きく転換させようとした。村の鉄砲の多くが没収され、大規模な狩猟と鷹狩りは中絶したが、このことは全国的にかなり大きな衝撃を及ぼしたようだ。兎に角、広大な禁猟区の規制は緩んだ。だが、野獣に対する武力を一方的に大きく削減された村住民にかわって、現在の首都公害の住宅地にあたる土地などで、幕府鉄砲隊がオオカミ討ちを展開したのも生類憐れみの時代であった。
身近なイヌ、ウマ、もヒトとの関係でその生き方に大きな変動を経験した。江戸へのヒトの密集とその生活残滓(ざんし)の大量排出とが、イヌの群生をもたらした。大規模狩猟の戦力として大名家の示威のためにも有効な動物として、西洋種大型犬が導入され、この種のイヌが珍重され、飼育犬としての性格を強めた。又、兵馬の者といわれた武士が都市居住者となっていって、ウマの飼育に自らあたることが困難になり、また、村社会でも、小規模な農業経営者が解体にむかっていった。ウマ経営を中途で放棄するものが表れるのも無理がなかった。綱吉政権の政策は、そうした状況の中で、イヌトウマの家畜動物化を推進する性格のものだったらしい。江戸の増えた野犬を収容するための、江戸近郊の喜多見・四谷・中野などの野犬収容施設は著名であり、その建設は大名御手伝をもって行われ、また諸方より資材が調達された。施設には、野犬およそ10万頭が収容され、その費用は江戸の町の負担となった。このような背景から、綱吉 が生類憐れみの志をうたった一連の政策が、綱吉政権期を特徴付けたものであり、政策の中で犬愛護策が特に喧伝(けんでん)されるのは、様々な綱吉批判派によってその奇態性が強調されたことによると言われている。違反者には極刑が科され、動物をしいたげることを極端に禁じた悪法と評されることが多いが、当時の処罰記録の調査によると、ごく少数の武家階級の生類憐みの令違反に対しては厳罰が下された事例も発見できるものの、それらの多くは生類憐みの令に違反したためというよりは、お触れに違反したためという、いわば「反逆罪」的な要素をもっての厳罰であるという分析があるそうだ。
それと、17世紀、綱吉よりも前の徳川家光の時代に描いた「江戸図屏風」には、大規模な鷹狩りと、解体した猪肉をぶら下げた武士が描かれており、又、以下参考の「日本における肉食の歴史」を見ると分るように、1643(寛永20)年、家光の時代に書かれた代表的な料理書「料理物語」のなかに「鹿:汁、かいやき、いりやき、ほしてよし。狸:汁、でんがく山椒みそ、猪:汁、でんがく、いりやき、川うそ:かいやき、すい物、でんがく、いぬ:すい物、かいやき」と肉料理の仕方を伝えており、跋文の後に食物の格付けが記されており、獣類の中に「中食の分」として「狗(いぬ)肉」との記述が見られる。さらに、犬の味は一白、二赤、三黒、四ぶち、五虎、六灰の順でよいといっているという。この様に江戸時代には、他の東アジア諸国と同様に、我が国も少なくとも江戸など関東においては、食犬文化もしっかりと存在していたようである。この時代には、支配者層に広く儒教が広まり、仏教から開放されたことも肉食の文化を支えたに違いない。
しかし、肉食を穢れとする観念は、遠くは「延喜式」(927年)の文章をもうけながら、特に室町期に、有力神社の物忌みの規定が整えられる中で強化されていった。綱吉の生母桂昌院は京都の生まれで、お付きの侍女も肉食を穢れとする関西の人間が多く、そういう環境の中で育てられた綱吉は関東の肉食文化を忌み嫌っていたと思われ、17世紀の綱吉の施策を支えたのであろう。徳川綱吉の政権が上野寛永寺や芝増上寺などの参詣奉者などに鹿、猪を食してはならないとしたのは1688(元禄元)年のことである。全国支配者の立場で、肉の食穢を告げた例であるが、生類憐れみの令の中でも在村鉄砲の強い統制策は、肉食穢れ感に立脚していたといわれる。農作物を荒らす猪・鹿を打ち殺してもその肉の食用を禁じ、猟師身分のものだけにこれを認めた。つまり、つまり猟師身分への賤視観念の強化がこれに伴っていたといえる。そのような綱吉の当時の食文化を切り捨てるような政策に反抗する者は当然多かっただろう。
綱吉は死の間際に「生類憐みの令だけは世に残してくれ」と告げたというが、綱吉の死後、1709(宝暦6)年、新井白石が将軍家宣(綱吉の甥で、養子となる)の補佐役となると真っ先にこの法令を廃止した。
そして、文化・文政頃(1804年~1830年)になると、オランダ医学の輸入で、肉食が体によいことが知られたことなどから、「ももんじい屋」が現れる。そこでは、イノシシ、シカ、クマ、オオカミ、キツネ、タヌキ、サル、カワウソ等が売られていたという。おおっぴらには肉食が認められていないのにもかかわらず、現在のようにウシ、ブタ、トリばかりを食べているよりも、ずっと多種の肉を食べていたことになる。
正式に、肉食が解禁されたのは、1871(明治4)年のことである。西欧列強との外交のため、明治政府はフランス料理を宮中の正式料理に採用した。1872(明治5)年1月24日、明治天皇が宮中で自ら牛肉を食べて国民に示したそうだ。このことは、私のブログ、今日(1872年1月24日)は、「明治天皇が初めて牛肉を試食 された日」で書いた。
(画像は「ものんじ屋」。「山鯨(やまくじら)」は、猪の肉、また、獣肉一般の異称。広重の「名所江戸百景」から「びくにばし雪中」太田記念美術館蔵。朝日百科「日本の歴史」より)
参考:
生類憐れみの令 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E9%A1%9E%E6%86%90%E3%82%8C%E3%81%BF%E3%81%AE%E4%BB%A4
生類憐みと村の悲劇(おたまじゃくしさんのHP)
http://www.asahi-net.or.jp/~hm9k-ajm/images/kyuuryou/syouruiawaremi/syourui.htm
東京都公文書館HP/産業篇
http://www.soumu.metro.tokyo.jp/01soumu/archives/sisiko_sangyo_top.htm
犬を食っていた日本人
http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-35.html


求婚の日

2006-01-27 | 記念日
1883(明治16)年の今日(1月27日)は、「求婚の日」。
新聞に初めて求婚広告が掲載された日で、中尾勝三郎という人が伊勢新聞と三重日報に「先頃女房を離縁して不自由勝ゆえ、貧富を論ぜず、十七歳以上二十五歳にて嫁にならうと思ふ物は照会あれ。」という広告を出し、近くに住む19歳の女性が応募し、その後結婚したという。世界初は1695年7月19日で、イギリスの新聞に「当方、年齢30歳、資産家、3,000ポンド程度の財産を有する若き淑女を伴侶として求む」と掲載されたのだそうだ。
「みしっく (Misick)」さんのサイト”みしっく今日のひとこと - 1999年9月 ”を見ると、古い日本経済新聞(昭和33年4月3日、木曜日発行)」のものの社会面のいちばん下の段にも、5行立ての小さな「求婚」広告が載っていて「求婚 当方眼科開業女医35歳初婚血統正明朗係累少先様35歳以上次男以下専卒以上篤実努力家医師其他定職有る方乞御親書 大阪府八尾市……」とあったそうだ。お忙しい女医さんが厳しい条件で相手を探すのは困難なのでこんなj広告を出したのかもしれないが、今の時代に、日本の新聞でこのような求人広告を目にすることはまれであるが、明治の頃には、結構、あったのかも知れないね~。何でも、日本で最初に日刊紙に掲載された求人広告は、1872(明治5)年の乳母雇人広告。当時は人工のミルクがなく、良いお乳の出る女性が高給で雇われていたことがわかる。母乳が出ることが雇用される能力だった。人権という考え方のなかった明治時代には、「貰ひ子」や「子供遣度」など、子供をやり取りする広告や「求婚」広告もよく見られたという。 求婚広告に応募すれば、気に入れば、嫁に貰ってやるぞ・・・といったような感じのものがあったのだろう。戦後、女性も強くなったので、先の女医さんなどは、逆に、気にいったら、嫁になってやる・・・私の気に入る男はいるかな・・・といったところかな・・?
以下参考の「MACS 毎日新聞社広告局」を見ると、「若い、寂しがり屋の猫です。一緒に幸せになれる、ユーモアと思いやりのある29歳までのねずみちゃんを募集中。写真同封歓迎」「魅力的な46歳の若い女性。東ベルリン出身で、協調性のある自然な男性を結婚相手として探しています」――。こんな「求縁広告」がドイツの新聞各紙に出ており、実名を載せることもあれば、自分や交際相手を猫やウサギなどの動物に例える広告も多いのだという。実はこれ、ドイツでは伝統のある結婚相手や恋人を探す求縁広告で、大衆紙だけでなく、「高級紙」と呼ばれるクオリティーペーパーにも同様のページがあるのだそうだ。同性愛のパートナーを求める広告も少なくないという。何でも、過去の統計によると、パートナー探しがうまく行く成功率は「10~15%」とか。・・この成功率は高いと思う?それとも低いと思う?
それにしても、ドイツなどは開かれた国だよね~。営業用の「求縁広告」もあるんだというよ。・・・営業用と言えばどんなもののことかは分るだろう・・・・今や、日本でも、インターネットの世界では似たようなものが見られるから・・・。何せ、ドイツでは売春は合法といい、シュレーダー政権の女性閣僚が「売春婦にも一般労働者と同等の社会保障を与えるべきだ」と主張するお国柄なのそうだから・・・。
それに比べ、ヒンドゥー教の国といわれるインドでは、今でも恋愛結婚はまだまだ少数派で、多くの人々が見合い結婚をするそうだ。これは、インドのカースト制度は、ヒンドゥー教にまつわる身分制度であるが、結婚も同じカースト間で行われることが多く、それも、相手を星占いなどで親が決めるのでお見合いすらもなしという。そのようなことから、インドで「流行」しているのは新聞による「求婚広告」だという。インドの新聞の日曜版最大の読み物は、Classifiedsと呼ばれる求婚広告で、カーストなどを単位とするコミュニティー毎に分類されているそうだ。 これなら、本人同士が選び会えるから人気が有るようだが、やはり、最終的に結婚の相手は、その中から親が星占いなどで選択することが多いことにはかわりないそうだ。
これは、スリランカなど他の国でも、カーストの問題が残っているところは同じ様な状況のようである。恋愛結婚も増えてはいるがまだまだ「愛はカーストを超える!」ところまではいかないようである。スリランカの人気の新聞の日曜版には求婚広告が載っており、その1ページの半分を花嫁募集、もう半分を花婿募集で埋め尽くしているものがあるそうだ。
日本でも、戦後の暫く、昭和40年台位までは、お見合いが主流ではなかっただろうか。お見合いでは、本人同士だけでなく、家と家との釣合いなどが問題視される。しかし、最近は、恋愛結婚が主流のようだ。・・・とはいっても、現実には、恋愛による結婚が出来ない人も非常に多く、そのため、お見合いを斡旋する会社や、色んなイベント業者の催すお見合いパーティーが大流行。昔のように、人と人との繋がりが薄れてしまった現代では、仲人役を買って出てくれる世話やきもいなくなったので仕方がないだろう。私の知っている会社も子会社にお見合い会社を作っているが盛況らしい。ただ、絶えず女性不足なのだそうだ。だから、女性の入会費は安くしているという。良く、結婚できない男性と結婚しない女性などと言う言葉が流行っているが、実際に、どちらかと言えば、相手が見つからずに困っているのは男性のようである。しかし、だから女性が結婚できているかというと、出来ていない。そりゃそうだ。結婚は1人ではできないから、男性が出来なければ女性も出来ないわけだ。結局、女性も選り好みして、その結果、出来ないままとなっているのだろう。そのため、結局は男女共に、、こんなお見合いを商売にしているところへ出かけて結婚相手を見つけるしか仕方がないのであろう。所詮、結婚などと言うもの、赤の他人同士が同じ屋根の下で過ごすのだから、夫婦それぞれが相手のことを気遣い相互に協力しなければ、幸せな家庭など築けない。しかし、今の若い人は、自分の理想を追い求め、最初から自分の求めた通りでないと気に入らないのであろう。だけど、よく考えてみれば分ることだが、理想や夢は築いていくものであって、そこにあるものではないよ。相手にしても、僅かな期間の付き合いくらいで、自分の欠点を見抜かれてしまうような人はよほどの間抜けだろう。今の時代は、何でも、相手に求めることばかり考える人が多い。求めるのではなく、自分が相手に何が出来るかを考えれば、よほどの相手でない限り、どんな結婚でも幸せになると思うのだが・・・。
誰もが知っているシェイクスピアの「ヴェニスの商人」。バサーニオは、ポーシャと結婚するためにベルモントに向かう。ポーシャの父親は金、銀、鉛の3個の小箱から正しい箱を選んだ者と結婚するよう遺言を残していた。バッサーニオはポーシャの巧妙なヒントによって正しい箱を選択した。鉛の箱には次のような銘が刻まれていた。「我を選ぶ者は、己れの持ち物すべてを手放し投げうたざるべからず。」・・・と。我々は、本当に欲しいものを手に入れるためなら、すべてのものを犠牲にする覚悟が必要ということだ。
最後に、「もし君が人に愛されようと思うなら、まず君が人を愛せよ。」「人生の唯一の疑いのない幸福は、他人のために生きることだ。」N.トルストイ (ロシア:小説家.思想家)
私のブログでも採りあげたので興味のある人は→ここ
MACS 毎日新聞社広告局
http://macs.mainichi.co.jp/space/no315/04.html
カースト - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88
ベニスの商人 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%81%AE%E5%95%86%E4%BA%BA
11月6日は「お見合い記念日」。
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/c2eedbade170215c3929579369b0fab9