今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

由美かおる水戸黄門降板

2010-06-28 | ひとりごと
TBS系の時代劇「水戸黄門」に忍者役でレギュラー出演していた俳優の由美かおるさん(59歳)が、2010(平成22)年6月28日放送の第41部最終話(12話)への出演を最後に降板することになった。
水戸黄門の名は、水戸藩主・徳川光圀が、徳川御三家の一統である水戸藩の藩主であり、武家官位として権中納言を名乗っていたことから、「徳川光圀」と直言することを避けるために、藩名である「水戸」と、中納言の唐名である「黄門」をとって広く用いられていた別称である。実在の水戸藩主・光圀は、国史編纂(『大日本史』)のために史局員の儒学者らを日本各地へ派遣して史料蒐集を行っているが、光圀自身は世子時代の鎌倉遊歴と藩主時代の江戸と国元の往復や領内巡検をしている程度で、漫遊したという史実はないが、光圀は、同時代から名君と評され、庶民にもその知名度が高かったようで、光圀の伝記資料として残り、それらの伝記資料が黄門様の物語を生み出すことになり、そのような中から、彼が世直しのために日本各地を漫遊したという物語として発展していった。
「水戸黄門」の物語は、かっては、「水戸黄門漫遊記」とも呼ばれ、古くから講談・歌舞伎・演劇・小説で取り上げられ、それが映画・テレビドラマ化されてきた。日本でも映画製作が始まると時代劇映画の定番として尾上松之助をはじめとして数々のスターたちによって演じられてきたが、中でも、東映映画の月形龍之介主演によるシリーズ物が興行的に大成功。水戸黄門と言えば、月形龍之介の名が出てくるほどに彼の黄門様役が有名になった。時代劇大好き人間の私など新作映画の封切りを待ちかねて見に行ったものだ。
テレビ時代になると、TBSがやはり月形を主演にブラザー劇場にてテレビドラマ化し、さらに月形と同様に悪役が多かった東野英治郎を主演に起用したナショナル劇場(現・パナソニック ドラマシアター)シリーズ『水戸黄門』が、1969(昭和44)年8月4日から放送を開始した。
同シリーズの水戸黄門役は、初代・東野英治郎が1969年8月4日-1983年4月11日の間に第1部-13部、381回を演じた。月形の水戸黄門があまりにもはまり役であり、イメージが強かったので、東野の黄門様に最初は違和感を覚えたが、流石にベテラン俳優であり、その役を自分のものにしていった。
その後、2代目、西村晃(14部-21部。1983年10月31日-1992年11月9日、 283回)、3代目 ・佐野浅夫(22部-28部。1993年5月17日-2000年11月20日 246回)、4代目・石坂浩二(29部-30部。2001年4月2日-2002年7月1日 50回) 、そして、5代目・里見浩太朗(31部-40部。2002年10月14日- 212回(2009年12月21日)と続いてきた当シリーズは実に40年に及ぶ長寿番組であった。そして、里見の41部(全12話)が4月12日から始まり、その最終回(第12話)が6月28日の今日終了したわけだ。
時代劇映画が大好きな私は、月形主演の映画・テレビは勿論、ナショナル劇場のシリーズ物も最初から、特別なことがない限り殆ど見てきた。
水戸黄門のストーリーは、水戸黄門が家臣の佐々木助三郎(助さん)、渥美格之進(格さん)らとともに諸国漫遊の旅先で世直しをする。後半、助さん格さんが悪党どもをやっつけた後、ころあいを見計らって「静まれ、静まれぃ! この紋所が目に入らぬか!」と葵の御紋の印籠を掲げて「こちらに居わす御方をどなたと心得る! 畏れ多くも前(さき)の副将軍・水戸光圀公にあらせられるぞ! 一同、御老公の御前である、頭が高い! 控え居ろう!」と一喝、悪人一味が土下座して平伏するという決まりきった「勧善懲悪」もののワンパターン物語。それに、ナショナル劇場のシリーズでは、元義賊である伊賀忍者風車の弥七が旅に出る一行に付かず離れず行動し、後方支援をするようになり、由美かおる演じる女忍者も加わるようになった。ワンパターンなドラマが、この2人の役どころが加わって、それなりの見せ場を作り、人気を維持してきたと言えるだろう。
由美かおるが、レギュラーとして女忍者(くノ一)の「かげろうお銀」とし初登場したのは2代目西村黄門による1986(昭和61)年のシリーズ第16部(1986年4月28日 - 1987年1月19日)で、“初入浴”はその第1話だった。その色っぽい入浴シーンが人気を呼び番組名物として恒例化した。
しかし、これより以前に、東野と由美が入浴シーンで共演するシーンがあった。それは、第6部第2話(1975年4月7日放映)であるが、この時点での由美は町娘役での出演でレギュラーではなかったが、事実上は、これが、本作での由美の入浴シーン初登場である。由美、まだ、24歳初々しいね~。以下で見られる。
YouTube - 水戸黄門 入浴 第6部第2回 由美かおる
http://www.youtube.com/watch?v=cjqWE22KHdU&feature=related
初代東野の後、2代目西村、3代目佐野とそれなりに個性を生かした黄門役を演じお茶の間を沸かせてきたが、この『水戸黄門』も佐野の28部が終わった2000(平成12)年11月20日時点で既に、31年間、910回も放送されている。この従来型のイメージの出来上がった『水戸黄門』に親味を加えたかったのであろう、21世紀を迎えての2001年4月2日からの29部では、レギュラーが刷新され、4代目黄門役も今まで演じてきた役者のタイプとは違った現代的・インテリの石坂浩二を選び、史実にのっとりながら、水戸光圀の人物像に迫ろうと図った。黄門役に石坂が登用されたことに伴い助さん格さん他キャストがほぼ総入れ替えとなったが、唯一由美かおるだけは役名を「疾風のお絹」(かげろうお銀参照)と変更して残った。お娟は伊賀忍でなく風魔一門の山賊に育てられた女風魔の頭領で、くノ一3名を配下とする。第29部ではお銀のイメージを払拭するためか男物の忍装束を身に付ける事や普段から男言葉を使っており、お銀のようにくの一として、色仕掛けを用いた諜報活動をすることも稀であったが、視聴者の評判が芳しくなかったためか第30部ではお銀に近い忍装束に戻り、入浴シーンを始めとする色仕掛けを用いた諜報活動の機会も再び増加した。黄門さんもトレードマークの白髭がなくなっていたが、これも、違和感があるとして論争が起こったようであり、最終回の終盤シーンからは髭をつけるようになった。
兎に角、典型的な娯楽番組として、多くの人達に焼きついているイメージの『水戸黄門』を、歴史的文学作品のように、変に史実に近い形でドラマを作ろうとしたこと事態に無理があったのではないか。娯楽作品なら娯楽作品らしく変に難しくしない方が良いだろう。非常に中途半端な作品で、面白くなく、私も途中からは見なくなってしまった。
2002(平成14)年10月14日からの第31部では、又、由美かおるの「疾風のお絹」以外のキャストを一新し、今度は時代劇の大物俳優・里見浩太朗が黄門役を演じ現在に至っている。しかし、今度は、お供の助さん格さんが如何にも貧相。第38部(2007年放映)以降では、お銀の頃には余り見られなかった他のゲスト出演者と共に入浴するシーンも増えており、これまでに磯山さやか山口あゆみ安達祐実らがお娟と共に入浴している。以下が、その安達との入浴シーンである。
YouTube - 入浴(由美かおる・安達祐実)
http://www.youtube.com/watch?v=tSmwj65kZm4
前作の第40部第14話(2009年11月9日放映)で由美は、レギュラー出演700回と同時に入浴シーン200回を数えた。
今年の第41回放送が開始される前の4月5日、TBSで記者会見をした由美さんは第41部への出演を最後に降板をすることを発表後、「人生たった1回きり。違うこともやってみたい」と笑顔で語っていたが、1つのドラマシリーズで、同一人物が入浴シーンを200回以上演じることは極めて異例である。石坂黄門様以降以降、時代劇好きの私も最近のテレビ時代劇は、俳優らしい俳優も少なく、何か学校の学芸会を見ているようなものが多いので、見ることは少なくなった。由美の入浴シーンが、あるとかないとかではなく正直、第41部にはいってからは、全く見ていないが、第41部(全12話)の最終話となる今日の番組だけは見ておこうと思っている。
今年11月に還暦を迎えるという彼女が、スリーサイズ86-58-86センチの抜群のプロポーションを、15歳のデビュー当時からほぼ変わらず維持してきて、お色気たっぷりの入浴シーンで、お茶の間の男性視聴者を四半世紀も楽しませてきたというのは驚くべきことであるが、幾ら、若々しさを保っているとはいっても、由美自身、若い頃の自分と今の自分では、肌の色艶など衰えを感じていないわけではないであろうし、そんな自分が番組の人気維持のために、何時までも若い女性と一緒に混浴したりしながら入浴シーンを撮り続けることには耐え切れなくなっていたであろうと同情している。
2008(平成20)年10月13日から始まった第39部第2話(10月20日放送)の『水戸黄門』の平均視聴率が9,7%(関東地区)と、1969(昭和44)年のスタート以来、初の1ケタになったことがビデオリサーチの調べで分かったと以前に報じられていた。今までの『水戸黄門』は2クール(24話)以上が当たり前であったが、41部は1クール(12話)のみで終わった。これも時代の流れであり視聴率などの影響もあってのことだろう。秋から始まる第42部は当初、代役は置かない予定だったそうだが、グラビアから女優業へシフトした雛形あきこが風車の弥七の知り合いの女の娘であるという設定の「楓」役でレギュラー出演することが決定しているらしい。彼女が由美と同じように入浴シーンを撮るのかどうかは知らないが、もうマンネリ化したこのドラマを彼女の入浴シーンなど見たさにテレビを見るほど、私は彼女のファンでもないし、もうそんな年でもない(^0^)。好きにやって・・といった感じ。
私自身は、中学生の時から「西野バレエ団」に入団し、本格的なダンスを修得し、以後、抜群のプロポーションと愛らしい風貌で人気を集め、1967(昭和42)年、音楽番組『レ・ガールズ』(日本テレビ)で、金井克子奈美悦子らと共演し、ミニスカート姿で歌って踊るシーンで話題を呼んだ頃からの由美ファンであった。だから、彼女が何時までも入浴シーンを撮り続けることは望んでいなかったので本当に良い潮時と思っている。本当に今までご苦労さんでしたと言いたい。
これからは、彼女の得意のダンスや歌で魅了してくれると良いなと思っている。ぴちぴちした昔の彼女の姿が懐かしいので、今一度見てみようっと・・・。以下は16歳当時の彼女である。
YouTube -レ・ガールズ
http://www.youtube.com/watch?v=fUmhJpBl1-E&feature=related
(画像は、入浴シーンの由美かおる。2010年4月6日朝日新聞掲載写真より)
参考:
由美かおる - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B1%E7%BE%8E%E3%81%8B%E3%81%8A%E3%82%8B
由美かおる - プロフィール - Yahoo!人物名鑑
http://talent.yahoo.co.jp/pf/detail/pp16413
TBS「水戸黄門
http://www.tbs.co.jp/program/mito.html
雛形あきこ 水戸黄門に雛ポーツの入浴?助格はカツラ&スイーツ?
http://moresens.net/fun/2010/05/post-812.html
asahi.com(朝日新聞社):「水戸黄門」39年目で初の1ケタ視聴率
http://www.asahi.com/showbiz/nikkan/NIK200810220018.html


キューピーの日(Ⅰ)

2010-06-25 | 記念日
くりっとした大きな目の裸んぼの人形「キューピー」の生みの親は、ローズ・オニールという名の女性でである。1874(明治 7)年の今日・6月25日に、アメリカのペンシルバニア州で誕生し、幼い頃から芸術の才能を発揮し、社会に出てからはイラストレーターとして活躍していたという。
キューピー(Kewpie)は、1909(明治42)年、彼女がローマ神話の愛の神キューピッドをモチーフとしてアメリカの女性誌「レディース・ホーム・ジャーナル」(Ladies' Home Journal)の絵物語に描いたイラストキューピーとして登場した。「KEWPIE」という名称が公に記載されたのはこれが最初だといわれている。この女性誌に描いた絵物語の題名は「The KEWPIES' Christmas Frolic」(「キューピーのクリスマス大はしゃぎ」)で、貧しい家の女の子にキューピーがプレゼントをする話だったそうだ。愛らしさで人気を呼び、1912(大正元~2)年にドイツでビスク人形(ビスクとは、2度焼きした陶器。詳しくは以下参考の※1:「BisqueDoll」参照)が出来、その後、アメリカでは、カードのほか、せっけん、アイスクリームの宣伝に利用され、「女性に参政権を」と旗を掲げて歩くキューピーを描き政治ポスターに使われたこともあったという(2010年3月31日朝日新聞)。
しかし、Wikipediaによれば、このキューピーは、1903(明治36)年の暮れ、オニールは、キューピッドをモチーフとしたイラストキューピーをアメリカの雑誌「COSMOPOLITAN」に発表。その後、1904年・1905年・1908年に、同様のイラストを雑誌に発表しており、1909年までに作者自身が非公式に編集者などの打ち合わせの際などにキューピーと呼んでいたキャラクターやイラストのあることがわかっているそうだ。このキューピーの起源について、大阪高裁(H16(ネ)1797)において、「1903年のCOSMOPOLITANに掲載されたキューピーのイラストには、すでに現在のキューピーの特徴が現れている」旨の記載があり、「1909年のレディース・ホーム・ジャーナルに掲載されたキューピーのイラストは1903年のイラストの2次的著作物(ある作品をもとにして、その作品の著作者でない人が)である」と認定されているようだ。この件は、最後に、又簡単に書くことにする。
当初のキューピーは、ほっそりしたものであったが、2~3年経つとコロコロと丸味のある現代のイメージのキャラクターが出来上がり、1913(大正2)年3月4日に、登録第43680号意匠登録としてアメリカ合衆国連邦特許商標庁に登録され、今日親しまれているキューピー人形が誕生した。作者の誕生日に因んで、6月25日は「キューピーデイ」とされている。昨・2009年にはキューピー誕生100周年を迎えており、(株)ローズオニールキューピー・インターナショナル並びに日本キューピークラブの呼びかけによって100周年を祝うイベントが行なわれていたようだ(以下参考の※2日本キューピークラブ公式HP参照。ローズオニールのこと、キューピー人形のことなどここ詳しく紹介されている)。
ドイツの複数の工場で量産されたビスク・ドール製のキューピー人形はアメリカで人気を博し、オニール自身の要請によりキューピー(QP)の意匠登録のされた1913(大正2)年には、日本でも作られることになったことが「20世紀の天使たち キューピーのデザイン」20ページに書かれているという(Wikipedia)。
大正時代を指して大正デモクラシーとか大正ロマンチシズムとか呼ぶが、これらは社会の政治的風俗的な動きに比重を置いた表現だが社会に何となくゆとりがあり、人々が生活を謳歌していたことを感じさせるが、工業化の進展と社会のゆとりを背景に、子供たちの世界にも新しく豊かな文化が広がった時代である。
実際、この時代は第一次世界大戦(1914年~1918年)、米騒動(1918年)、スペインかぜ(1918年~19年)の流行など社会を震撼させる事件が相次ぎながらも、これまでと比べて余裕を感じさせる時代でもあった。そして、そのゆとりは子供の世界にも及び、1918(大正18)年から翌年にかけて、ひとつの時代的特徴をなすものとして、鈴木三重吉北原白秋を中心に、童話と童謡の児童雑誌『赤い鳥』(1918年)が、翌年には『金の船』などが相次いで創刊され、官製ではない全く新しい童謡という子供向けの歌が作られるようになり、「童話・童謡ブーム」が巻き起こった。それまでの子供向けの歌は「唱歌」と呼ばれる文部省の指導で作られていたものであった。これらの中には「蝶々」や「鳩(ハトポッポ)」のような子供がうたいやすい歌もあったが、『紀元節』や「二宮金次郎」のような「官製」むき出しの歌も少なくなかった(唱歌や童謡は以下参考の※3又※4参照)。
男子のチャンバラ、女の子のキューピー人形と子供心を揺さぶるものが流行したのもこの頃である。
チャンバラは、尾上松之助(通称目玉の松っちゃん)の忍者ものの活動写真が人気を集めて以来、男子の遊びとして定着したものらしいが、一方キューピー人形は大正初めにアメリカで考案されたものが大正7年頃には、日本でセルロイドを材料に大量生産され、爆発的な人気を呼んだ(アサヒクロニクル「週間20世紀」)もので、以来女の子の遊びの定番として現在でも残っている。
「青い眼をした お人形は アメリカ生まれの セルロイド (以下略)」・・・。
野口雨情が「青い眼の人形」の詩を発表したのは、1921(大正10)年の『金の船』(12月号)であった。これに本居長世が作曲したのが童謡『青い眼の人形』で、1923(大正12)年にはアメリカでも演奏され、好評を博していたという。以下参考の※5:「かつしか発信:セルロイド浪漫」を見ると、“セルロイドが日本にはじめて輸入されたのは、1877(明治10)年。そして、日本で国産セルロイドの生地が出来たのは、1905(明治38)年であるが、1913(大正2)年には永峰清次郎と言う人物が空気の吹き込みによるセルロイド人形をつくり特許を取得、三越で販売し人気を得た。”・・・とある。又、“その翌年には千種稔が東京葛飾区の四木に大規模な工場設立。1915(大正4)年には国産セルロイドを輸出。1928(昭和3)年にはセルロイドが輸出玩具の首位に。翌年にはセルロイド玩具の生産額が5~600万円、世界第一位となる”ともあり、これを見ていても1913(大正2)年にアメリカで大人気となったキューピー人形が、先にも書いた、“オニール自身の要請によりキューピー(QP)の意匠登録のされた1913(大正2)年には、日本でも作られることになった”ということを明らかにしているのではないか。最初にアメリカから入ってきたキューピー人形は、野口の詩にあるセルロイド製ではなく、多くがビスクドール(素焼き)であったろうが、この詩が書かれた頃には既にセルロイド製のキューピーが広まっていたであろうことも推測できるのだが・・・。
よく、「青い眼をした お人形」と言えば、日露戦争後に日本が満州権益を得ると、中国進出をうかがっていた米国とその権益を巡り、両国間の政治的緊張が高まっていた(このことは前にこのブログ神戸大空襲の日でも書いた)昭和初期から第二次世界大戦前にかけて、文化的にその緊張を和らげようと日米の人形交換を進めた渋沢栄一と「青い目の人形」、つまり、米国から日本の子供たちに贈られた「友情の人形」をテーマーにしたものと解するする人もいるようだが、それは、この童謡が作られた5年も後の1928(昭和2)年以降のことであり、両者に何のつながりもないことは明らかであり、野口雨情が、当時、セルロイドで出来たキューピーが広く子供達に人気があるのを見て、この歌の歌詞を書いたのは間違いないだろう。むしろ、後に使われる「青い目の人形」の呼称は、雨情の詩に因んで付けられたものと思われる。この「青い目の人形」のことは、以下参考の※6:「青い目の人形資料館」が詳しく書かれてある。

キューピーの日(Ⅱ)と参考のページ へ

キューピーの日(Ⅱ)

2010-06-25 | 記念日
以下参考の※7:「お星様の贈り物」の“昭和からの贈りもの”には、明治から昭和にかけての懐かしい写真が沢山掲載されているがその中の“ 第二章 大正時代>34.大正時代 キューピー”には、床の間のある部屋で裁縫をしている女性の様子が写真に撮られているが、その床の間には、掛け軸が下がり、立派な時計も置かれ、左側には日本人形 らしきものが飾られている。よく見ると、そこには、床の間の活花の横にはキューピー人形が飾られている。この写真が何時撮られたのかは定かでないが、写真の補足説明の中に、“「床の間に飾られているということは、当時としては珍しい人形だったという事が判ることから、写真は少なくても大正3年以降から、大正7年までに撮られたものではないか?“・・・とあるが、私も、まだ、キューピーの人形が貴重であった時期のものだろうとは思うが、立ち姿ではなく座らせることができるものも、この写真の頃には出来ていたのだね~。
野口雨情のアメリカ生まれの人形が日本の港に着いたときの心細い心境を切々と唄っている童謡の『青い眼の人形』は童謡・唱歌ファンならずとも多くの人が知っている名歌だが、雨情がこの他にもキューピーの詩を作っているのを知っている人は少ないだろう。それは、1928(昭和2)年に米国から日本の子供たちに「友情の人形」が贈られてくるようになってから3年後のことであり、『コドモノクニ』1930(昭和5)年10月号に掲載された『キューピー・ピーちゃん』であり、作曲は中山晋平がしている。「青い眼の人形」のような哀切感は無く、キューピー人形のピーちゃんが海の向こうから船に乗ってやって来て、また船に乗って帰っていくということを淡々とうたっている。以下参考の※8:「コドモノクニ」の童謡の中にこの曲があるので聞いてみてください。
ここで曲が聞ける ⇒ キューピー・ピーちゃん
『キューピー・ピーちゃん』挿絵は、『コドモノクニ』に創刊当時から挿絵を描いている深澤省三。彼も大正モダニズム時代を代表する画家の1人である。同ページで彼のプロフィールが詳しく書かれている。
この他、私が孫を相手に吹いてやろうとハーモニカの練習用に使っていた『こどものうた(童謡と唱歌)』(野ばら社)の中に葛原しげる:作詞、弘田 龍太郎:作曲による童謡「キユーピーさん」があった。歌詞は以下の通りである。
1番:
キューピーさん キューピーさん
 なに(何)に そんなに おどろ(驚)いて
 大(おお)きな お目(め)を みんな ぱっと あけて
 しろくろ(白黒) させて 立(た)ってるの
2番
キューピーさん キューピーさん
 なに(何)に そんなに おどろ(驚)いて
 ごほん(五本)の ゆび(指)を みんな ぱっと あけて
 はだか(裸)の まんまで 立ってるの
この曲は、誰が歌っているのか知らないが、ここで聞ける。⇒YouTube-キューピーさん (童謡)
このYouTube-キューピーさんの画像は、先の『コドモノクニ』に掲載の『キューピー・ピーちゃん』と同じものを使用しているが、そこに描かれているキューピーの姿を見たままに歌ったごくごく小さな幼児用の童謡だ。
葛原しげるも、明治の終わりから全国の小学校に普及した『尋常小學唱歌』が堅苦しく、児童の心情や能力の発達段階に適さない等の批判が出ていたため小松耕輔梁田貞と共に「大正幼年唱歌」(1915年~1919年)、続いて「大正少年唱歌」「昭和幼年唱歌」「大正少年唱歌」と順次刊行。これらはまだ童謡という名は用いていないが、後の童謡運動の先駆けと評価されているそうだ。この曲は1924(大正13)年8月1作曲のもの。当時はまだピアノよりも一般家庭に普及していたを伴奏にした童曲(=童謡)を良しとし、『赤い鳥』創刊で興った童謡運動には「童謡に大人の趣味を混入させるべきではない」と強く批判し西條八十と激しい論戦を繰り広げたこともあったというが、『赤い鳥』には協力し、1918(大正7)年頃から1928(昭和3)年ベルリンに留学をするまでの数年間童謡の作詞をしていたと言う。作詞した童謡は4000篇とも言われが、葛原の代表作としても広く知られる作品に「夕日」「とんび」、「羽衣」などがある。
大正モダニズムの時代に、従来の日本人形にはない顔立ち・表情・素材の「キューピー(KEWPIE)」は、人々を魅了し、西欧化の波に乗って、"愛と幸福の天使"としてメディアの中で成長を遂げ、その人気は、今日でも衰えていない。純真無垢な裸ん坊のシンプルで親しみやすいキャラクターは、商売の世界でも活躍。食品会社(キユーピー株式会社。設立 1919=大正8年11月)や銀行(日本興業銀行)など、様々な商標や広告図像としても使われてきた。冒頭の画像は、私のコレクションの1つでもある貯金箱の中から撮ったもの。今はその名が消えた日本興業銀行(通称「興銀」。現:みずほフィナンシャルグループの一)が顧客に配布していたソフトビニール製のキューピー(※:1954年に、アメリカはセルロイド製の玩具を燃えやすいからと輸入禁止としている)。私が、裸ん坊のまま棚に飾っているのを見て、可哀相と家人が余り毛糸で服を作って着せてくれた。昔からこのように着物を着せたりして女の子は遊んでいたのだろうね~。興銀は戦後の1952(昭和27)年頃より、キューピー人形をキャラクターに採用した。食品会社のキユーピーの方は、1925(大正14)年に日本初のマヨネーズの製造・販売を始めた。商品名「キユーピーマヨネーズ」は、マヨネーズもキユーピー人形のように誰からも愛されるようにとの願いから、そして、英語でも書けるし、絵にも出来、国際的にも 通用することから名づけられ、製造・販売当時からこのキャラクターが使用されている。当初はキューピー人形のイラストを模したリアルなものだったが今では赤いラインでシンプルに描かれている(ロゴマークの由来はキューピーちゃん人形であるが、背中に羽根がないところがオリジナルのものと異なる。)。尚、同社の「キューピー」の「ユ」は大文字。1922(大正11)年に「キユーピー」の文字およびイラストを商標登録(登録商標日本第147269号)しているらしい。英文商号を以前は「Q.P. Corporation」としていたが、2010年2月23日より綴りの同じ「Kewpie Corporation」に変更された。(以下参考の※9:「キューピーマヨネーズHP :キューピー博物館」や※10:キューピーホームページのマヨネーズのページ参照)。
ローズ・オニール死去後、オニール氏の遺産管理するローズ・オニール遺産財団よりキューピー人形の著作権を譲り受けていたとする人物から”キャラクターを無断で使うのは著作権侵害”として、キユーピー(その前に興銀にも)への訴訟問題が起っていたようだが、日本大学の板倉宏名誉教授(法学)は、「著作権」と商標権は別であり、「キューピーを会社のロゴや商品の『顔』として使用すると商標権に抵触する。しかし、キャラクターそのものについての使用権は著作権の範疇であるから、著作権が失効しているキューピーそのものを商品として扱うのは何ら違法ではない」という見解がなされいるようだ(以下参考の※11、や※12を参照)が、この訴訟事件はその後、最高裁での判断に委ねられていた。以下参考に記載のによれば、2005(平成16)年最高裁判決は “本件判決は、原告の本訴請求の大半が権利濫用であると認定した他、1909年作品の原著作物が、日米著作権条約(著作権の保護期間における相互主義参照)が発効した1906年以前にローズ・オニールが製作し、公有に帰した作品と認定した上で、キユーピー社の人形・イラストが、1909年作品に係る二次的著作権を侵害するものではない旨を判示して、原告の使用差止・損害賠償請求等を棄却した。”そうだ。これで、もう、トラブルはなくなっているのかな・・・。このような難しいことはよく判らない。高裁判決文は以下参考の※13で見ることができる。
参考:
※1:BisqueDoll>ビスクドールの造り方
http://www.doll.or.tv/bisque%20doll/how%20to%20make%20a%20dollhtm.htm
※2:ローズオニールキューピー公式ページ
http://www.kewpie-jp.com/
※3:d-score
http://www.d-score.com/cover.html
※4:なつかしい童謡・唱歌・わらべ
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/00_songs.html
※5:かつしか発信:セルロイド浪漫
http://k-shimincenter.org/media/pdf/0804sinia-sel.pdf#search='千種セルロイド'
※6:青い目の人形資料館
http://www.ne.jp/asahi/saitama/jt/museum.htm
※7:お星様の贈り物>昭和からの贈りもの 第二章 大正時代>34.大正時代 キューピー
http://www.ohoshisama.info/syowakarano/syouwakaranotop.htm
※8:コドモノクニ
http://www.kodomo.go.jp/gallery/KODOMO_WEB/index_j.html
※9:キューピーマヨネーズHP :キューピー博物館
http://www.kewpie.co.jp/know/new_kids/museum/index.html
※10:キューピーホームページ
http://www.kewpie.co.jp/
※11:キューピーちゃん紛争、ついに最高裁へ
http://www.nikkeibp.co.jp/archives/133/133578.html
※12:人形の著作権行使と権利の濫用
http://www.u-pat.com/body05.html
※13:東京永和法律事務所・東京永和特許事務所:知的財産法
http://www.tokyoeiwa.jp/page2-3-1.htm
キューピー - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%94%E3%83%BC
Yahoo!百科事典-金の船
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E9%87%91%E3%81%AE%E8%88%B9/
salvastyle.com:サンドロ・ボッティチェリ-主要作品の解説
http://www.salvastyle.com/menu_renaissance/botticelli.html
完全無欠のスーパーヒーロー〜尾上松之助〜
http://www5f.biglobe.ne.jp/~st_octopus/MOVIE/SILENT/23MATSUNOSUKE.htm

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米国の俳優・ダンサー・フレッド・アステアの 忌日(Ⅰ)

2010-06-22 | 人物
今日・6月22日は、1930年代から1950年代にかけてのハリウッドのミュージカル映画全盛期を担ったハリウッドの俳優・名ダンサー・フレッド・アステアの1987年の忌日である。
ダンスの神様とまでいわれた彼のしなやかにして軽快なステップは、当時の人々を、いや、今でも見る人を魅了して止まない。
特に、ジンジャー・ロジャースとのゴールデン・コンビは、ミュージカルの歴史に不滅の足跡を残した。名実共に20世紀を代表する名ダンサーでありミュージカル映画黄金期のダンサーを語るとき彼抜きでは語れない。
ミュージカルのルーツは、18~19世紀ヨーロッパのオペラやバレエに行き着く。芝居しながら歌う、あるいは曲に合わせて踊るというミュージカルの基本はここに始まり、ヨーロッパで発展し、現代のミュージカルの原型はウイーンにおいて華拓いた。20世紀に入り、新興国のアメリカでは第一次世界大戦特需で好景気の中、ニューヨークに、彗星のように現れたアメリカミュージカルの父と言われるガーシュイン兄弟が、ヴォードヴィルショーのために数々のすばらしい歌曲を作り、さらにはシアター・ミュージカルをも手がけた。これにコール・ポーターなどが加わり、第一次大戦後輝きを失い始めたウイーンのミュージカルにとって変わり、ニューヨークのブロードウエイがミュージカルのメッカとして発展していた。しかし、交通も発達していなかった1920年代の米国において、それは、所詮、ニューヨークという大都市に住む恵まれた豊かな人々の娯楽でしかなかった。
1920年代末期にトーキーが発明され、映画に音楽をあわせることが可能となったことを期にミュージカル映画が出現した。人々の憧れのミュージカルが映画化することにより、米国中どこでも誰でもが観ることができるようになった。
当初は舞台作品をそのまま映画にしたものが多く、ストーリーそのものが無いレヴュー短編などが多く作られた。しかも、トーキー当初は歌もダンスも未熟な役者が多く駆り出され、粗製濫造の感もあったようだが、そのような中で人気を集めたのは、洗練された魅力を持った欧州風オペレッタ映画であり、ハリウッドでもドイツ出身のエルンスト・ルビッチら欧州の人材が活躍していたようだが、1929年にウォール街でのパニックをきっかけに起きた世界恐慌によって、ブロードウェイも不況に巻き込まれた。1930年代前半、ダンサーのフレッド・アステアをはじめとする一流の人材が仕事を求めてハリウッドに流れこみ、ここで本格的なミュージカル映画の製作される土台が形作られることになった。そして、大恐慌以来、混迷状態にあったアメリカが活気を取り戻し、生活を楽しむ余裕が出て来た1930年代の中頃、各社は競ってミュージカル映画を製作し、数々の傑作を生んだ。
フレッド・アステア(本名:フレデリック・オースターリッツ)は、1899年5月10日、米国ネブラスカ州オマハに移民(ドイツ系の母とユダヤ系の父)の子として生まれた。2歳年上の姉・アデールが、幼い頃からダンスが上手で、彼女の才能を伸ばすために一家はニューヨークへと移り住み、フレッドも5歳のときから姉のレッスンについてダンス・スクールに学び、姉・アデールとのコンビでプロとして、全米のヴォードヴィルに出演し人気を得ていた。そして、1917年18歳の時にブロードウェイにダンサーとして進出し名声を築き、1921年、彼が22歳のときには、姉と舞台『バンド・ワゴン』を大成功させていた。冒頭の画像向かって左は、『バンド・ワゴン』 で姉のアデール(左)と踊るフレッド・アステア(Wikipediaより)。
しかし、1931年に、パートナーである姉が結婚を機に芸能界から引退したため、アステアは新たな活路を舞台から映画界へ求め、映画製作者デビッド・O・セルズニックの誘いを受けて、 当時の大手映画会社の1つであったが経営難にあったRKO社と専属契約を結び、ハリウッドへの進出を決めた。しかし、RKOでの1作目「空中レヴュー時代」の製作が遅れたため、1933年に、MGMの『ダンシング・レディ』(これ以降も、映画のことは以下参考に記載の※1: goo 映画を参照)へのゲスト出演でスクリーンデビューした後、同年『空中レヴュー時代』(Flying Down to Rio)に脇役として出演した。このとき、ジンジャー・ロジャースとコンビを組み、「ザ・カリオカ」というダンスナンバーで、息の合った素晴しいダンスを披露して、一躍観客の人気を集め、この映画の成功によって、彼は主演俳優に格上げされたという。
ところで、「ザ・カリオカ(The Carioca)という曲を知ってますか?以下参考に記載の※2:「教えて!goo!」に説明されているが、フォックストロットでもポルカでもないこの軽快な新しいリズムの作曲者は、ヴィンセント・ユーマンス(Vincent Youmans)と言う人だそうで、当時ダンスホールでは 特に歓迎されていたそうだ。私も、「カリオカ」と言う名を聞いても直ぐにわからなかったが、以下の動画を見て若い頃少し、社交ダンスを習っていたときに踊ったことはないが教えてもらったことを思い出した。どんなリズムかは以下を見られると良い。
YouTubbe- Fred Astaire und Ginger Rogers in "Flying Down to Rio" (1933)
翌1934年には、ロジャースとのコンビによるアステア初主演作『コンチネンタル』は公開後スタジオの予想を上回るヒットを記録。この映画での、コール・ポーターの「夜も昼も」でアステアとロジャースが踊るシーンは有名であり、2人の人気を不動のものにし、RKOの「マネー・メイキング・スターズ」(金の稼げるスター)と謳われるようになった。以下に、コール・ポーターの名曲に乗って踊る2人のダンスがある。
YouTubbe-Cole Porter´s Day and Night by Fred Astaire & Ginger Rogers
以後、2人のコンビで『ロバータ』(1935年)、『トップ・ハット』(1935年)、『艦隊を追って』(1936年)、『有頂天時代』(1936年)、『踊らん哉』(1937年)、『気儘時代』(193年))などの唄と踊りが満載のダンス・ミュージカルが相次いで公開され、アステアとロジャースは1939年までRKOで数々のドル箱ヒット作を生み出し、RKOは二人のダンス・コメディ映画シリーズによって経営を立て直したと言われる。この2人は、ハリウッド映画史上最高のダンシング・ペアとされ、一連の主演作は「アステア&ロジャース映画」と半ばジャンル的な扱いをされるようになった。
シリーズ中の最高傑作とも呼ばれる映画『トップ・ハット』で燕尾服に白タイ・トップ・ハット(日本風に言えばシルクハット)というアステアのイメージが確立した(冒頭画像の向かって右。Wikipediaより)。名曲「頬寄せて」で踊るふたりの姿はアメリカだけでなく、日本でも、当時のモダンな人々の憧れの的だった。以下にその華麗なるダンスシーンがある。
YouTubbe-Dancing Cheek to Cheek - Fred Astaire and Ginger Rogers
しかし、余り、物語に変化のない2人の映画は次第に観客に飽きられ始め、又、ロジャースがアステアの添え物」的立場に満足せず、演技派俳優を目指していた事もあって、1939年の9作目『カッスル夫妻』を最後にコンビは解消された。これ以外に1949年の『ブロードウェイのバークレー夫妻』 があるが、この作品はあの『オズの魔法使』で有名な、 ジュディ・ガーランドとの競演で計画されていたが、ガーランドが病に倒れたため、急遽、ロジャースが起用されたもので、これが実質上の彼女との最後の共演作となる。

米国の俳優・ダンサー・フレッド・アステアの 忌日(Ⅱ)と参考 へ

米国の俳優・ダンサーフレッド・アステアの 忌日(Ⅱ)

2010-06-22 | 人物
ロジャースとコンビ解消後、アステアは、1940年からはフリーで映画出演をするようになり、同年、タップ・ダンサーの女王と呼ばれたエレノア・パウエルとの共演作『踊るニューヨーク』(1940年/MGM)は、MGMの名物シリーズであった「ブロードウェイ・メロディ」の1940年版で、コール・ポーターの「ビギン・ザ・ビギン」のメロディに乗せて、当代きってのタップ・ダンスの名人2人が洗練された技を競うラスト・シーンが圧巻。しかし、このころがパウエルの絶頂期でもあり、この映画は「白黒映画最後の超大作」などと評された。そのタップ・ダンスが以下で見られる。
YouTubbe-ビギンザビギン-エレノア&フレッド
翌年、リタ・ヘイワースと『踊る結婚式』(1941年)、『晴れて今宵は』(1942年)などでタップ・ダンスの競演をみせるが、彼女等とのとのコンビは、興行的にはロジャースとのコンビには及ばなかった。そのほか、ビング・クロスビーとの『スイング・ホテル』(1942年)、『ブルー・スカイ』(1946年)、そして、1946年ミュージカル映画でハリウッドを代表する、MGMと契約し、MGM所属で「ポスト・アステア」の地位にあったジーン・ケリーとの初共演作『ジーグフェルド・フォーリーズ』(1946年)で華麗なステップを披露するが、すでにダンサーとして年齢的にピークを過ぎたと自覚したアステアは1946年に引退を宣言、引退後は自分のダンススタジオを運営して後進の指導をしていたようだ。
そこへ、ジュディ・ガーランドとの共演作『イースター・パレード』(1948年公開)の撮影中に骨折したジーン・ケリーの代役としての出演依頼があり、この作品で映画に復帰。この映画の成功によってジーン・ケリーと共にMGMの二枚看板として活躍するが、2人の共演は、『ジーグフェルド・フォーリーズ』と『ザッツ・エンタテインメント パート2』(1976年)の2作のみしかない。
『イースター・パレード』の成功以来出演依頼が相次ぎ、先に書いたジンジャーとの最後の共演作『ブロードウェイのバークレー夫妻』(1949)、ヴィンセント・ミネリ監督の豪華な大作『バンド・ワゴン』(1953)と出演が続いた。後年彼は、ライバルのジーン・ケリーに触発されて、伝統的な名人芸だけでなくアクロバティックで奇抜なダンスも披露するようになっていた。本作はアステアの長いキャリアにおける一つの頂点と見なされている映画で、この映画の終盤に登場するプロダクション・ナンバー「The Girl Hunt Ballet」は、ミュージカル俳優役のアステアが主演するレヴュー〈バンド・ワゴン〉の一幕という設定で展開する約12分間の劇中劇。女2人と宝石を巡るミステリーに、私立探偵のアステアが巻き込まれるサスペンス調のミュージカル場面で、アステアは珍しくタフガイに扮している。アステアを翻弄する謎の美女2人を1人2役で演じるのはシド・チャリシーである。アステアと彼女がナイトクラブでジャズに乗せて繰り広げるダンス場面が最大の見せ場。その場面を以下で見ることができる。
YouTubbe-Fred Astaire + Michael Jackson - Smooth Criminal [short film] HQ
しかし、アクロバティックで奇抜な演技よりもやはり、アステアには彼らしい優雅なダンスがいい。以下は同映画中盤、夜の公園へと繰り出した2人が踊るシーンである。
YouTubbe-フレッド・アステアの「ダンシング・イン・ザ・ダーク」
その他、『足ながおじさん』(1955年)では、レスリー・キャロンと競演、『パリの恋人』(1957年)では、オードリー・ヘプバーンと共演している。以下ではアメリカのブルース・シンガーエタ・ジェイムズが歌う"At Last"に合わせて、パリを舞台にヘプバーンとアステアの2人が踊っている貴重なカットシーンが見られる。ヘプバーンは、映画界に入る前は有能なバレリーナーだった。
オードリー・ヘプバーン/フレッド・アステア(パリの恋人 /ビデオ・クリップ
ミュージカル映画への出演としては1968年の映画『フィニアンの虹』が最後となった。
彼の華麗さだけでなく品格をもを備えたダンスは、20世紀最高のものであり彼の正統派のダンス・ファッション共々「粋」を極めたダンサーであった。
私もまだ若かりし昭和30年代初頭には、まだミュージカル映画も流行っていたし、古典的ではあるがアステアのダンスにも憧れ、ダンスのレッスン場に通っていた。そして、ダンスホールやキャバレーに行きよく踊ったが、どちらかと言うと余りダンスは上手な方ではなかったので、その後マンボ他次々と入ってきた新しいラテンリズが流行し、、社交ダンスよりもこちらの方が楽しいので、これらの音楽に夢中になった。酒を飲むと無性に踊りたくなるので、その後、ディスコにもよく行った。しかし、年のせいもあるのだろうが今流行の音楽はどうもテンポが早すぎて、余り好きにはなれない。いまどき、インターネットの発達で便利になったもので、このブログを書くのにいろいろ検索するとアステアの動画を沢山見ることが出来、ダンスに夢中になっていた若かりし頃を思い出して、非常に楽しかった。今日はアステアのことを書くことよりも、むしろそれを元に私自身が動画を見て楽しむのが目的であったともいえる。
以下のの動画(YouTubbe)も見て楽しい。
●Fred Astaire ~ Dance Floor Anthem
http://www.youtube.com/watch?v=PgfzlbpAqMk&feature=related
●Fred Astaire and Bing Crosby
http://www.youtube.com/watch?v=0QQpYkliQxw&feature=fvw
●Fred Astaire - Puttin' On the Ritz (DVD Quality)
http://www.youtube.com/watch?v=IFabjc6mFk4&feature=related

参考:
フレッド・アステア – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A2
※1:Fred Astaire (フレッド・アステア) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/3936/index.html
2:教えて!goo!「カリオカ」という楽曲について
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/3751268.html
素晴らしき哉!クラシック映画!
http://www.geocities.jp/h2o_classic/top.html
ミュージカル映画
http://www.jk-cinema.com/musical.htm

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