今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

松浦清山(随筆集『甲子夜話』)の忌日

2009-06-29 | 人物
6月29日松浦清山(随筆集『甲子夜話』有名)忌日
天保12年の今日・6月29日(旧暦)は松浦清(清山)の1841年の忌日である。(西暦:グレゴリオ暦:1841年8月15日。ユリウス暦1841年8月3日)
松浦清(まつら きよし)・・・・って、誰だ?
私も詳しいことをよくは知らないが、松浦 清は、江戸時代中・後期の大名。肥前国平戸藩の第9代藩主であるが、大名松浦清としてよりも、江戸時代を代表する随筆集『甲子夜話』(かっしやわ) の著者松浦静山(まつらせいざん)として名が知られているのではないか。
静山は清の隠居後の号であり、『甲子夜話』は松浦静山が隠居したのち、文政4年(1821年)執筆を始め没するまでの20年間、毎日書き記したもので、278巻にも及ぶ大規模なものであり、内容は田沼意次時代から寛政の改革時代頃にかけての政治・経済、社会風俗、自然現象、怪奇現象などあらゆるものが記されており、当時の政治・経済、諸大名や旗本、民衆の暮らしや風俗を知る上で貴重な史料となっている。
なぜ『甲子夜話』と名づけられたか?については、本書1巻の序に「吾老公の誉て筆し給える紀聞の草子を甲子夜話となんいふ。そは去年の冬霜月の甲子の夜よりして記し給えるゆへに、そのまゝ書題とはなし給ひき」・・・とあり、1821(文政4)年11月17日『甲(きのえ)子(ね)の日』に書き出したことに因んでタイトルとした訳である。詳しくは以下参照。
甲子夜話 松浦静山 : 平凡社 - 電子書籍はeBookJapan : 総合図書
http://www.ebookjapan.jp/shop/title.asp?titleid=1179
、ただ、上記によれば静山 は、貴賎上下の多種多様な人々からの聞いた話を出来るだけ忠実に伝えることに留めているが、時には感動を加えるけれども、虚偽と思うものさえも、手心を加えずできるだけ聞いたまま書き留めているそうである。
私は、このような膨大な資料を読んだこともないが、あの有名な三人の武将(織田信長や豊臣秀吉、徳川家康)のホトトギス(時鳥)に関する故事、つまり、
・なかぬなら殺してしまへ時鳥     織田信長(織田右府)    
・鳴かずともなかして見せふ杜鵑   豊臣秀吉(豊太閤)
・なかぬなら鳴まで待よ郭公     徳川家康(大權現様)    
は、鳴かないホトトギス(時鳥)を三人の天下人がどうするか・・・その性格を言い表した句であるが、勿論、本人達が実際に詠んだ句ではなく清山の『甲子夜話』に書かれていたものが、今に伝えられいるものだということは、聞いて知っている。そのことは、以下に詳しく書かれている。
資料206 鳴かぬなら……(「ほととぎす」の句)
http://www.geocities.jp/sybrma/206nakanunara.hototogisu.html
『甲子夜話』の句には一般に聞きなれている言葉と微妙な語句の違いがあるが、それは、時代を経て変化してきたものだろうが、他の武将のものも、あるのは知らなかったよ。
ところで、『甲子夜話』に、”郭公を贈り参せし人あり。されども鳴かざりければ、”・・とあるのを見て???と思った人もあるかも知れないが、ここに書かれている「郭公」は、ホトトギスのことであり、「カッコウ」のことではない。また「ホトトギス」には一般的に、「時鳥」の字があてられるがこの字のほか、「杜鵑」(とけん。ホトトギスの漢名)の字もあてられている。
「ホトトギス」は、日本では古来より様々な文書に登場し、上記のほか、子規、不如帰、霍公、霍公鳥、杜宇、蜀魂、田鵑など、漢字表記や異名が多い。
ホトトギスは、『広辞苑』で調べると”「カッコウ目・カッコウ科」の鳥。カッコウに似るが小形。鳴声による名か。「ス」は鳥をあらわす接尾語。”とある。ネットで検索していると「ホトトギス目・ホトトギス科」と書かれているのを見るがカッコウ目の分類は未だ不明な点があり、分類学説が分かれているだけで「カッコウ目・カッコウ科」とおなじことのようだ。
以下参考に記載の「財団法人 日本野鳥の会」 を見ると分類学のことは、”「目には青葉、山ほととぎす、初鰹」とあるように、新緑の季節に東南アジアから渡来。雄の声は「キョッキョッキョキョキョキョ」という鋭い声(雄)。又、「テッペンカケタカ」「特許許可局」などと聞きなしされる特徴ある声で、日中だけでなく夜も、また飛びながらも鳴く。カッコウの仲間ゆえ、ウグイス(鶯)などの巣に卵を産み育ててもらう、いわゆる托卵(たくらん)の習性がある。”・・・とある。以下に珍しい鶯の巣で育つホトトギスの成長写真が見れる。自分で子育てをしないホトトギスって同じ様にきれいな声で鳴く鶯と違って結構横着ものなんだね~。
ホトトギスとウグイス
http://www4.kcn.ne.jp/~fuji-y/nakai/hototogisu/
それにしても、ウグイスに子育てをさせるとはホトトギスも横着だね~。ただ、ウグイスにしてもホトトギスにしても見た目には余り綺麗じゃなく、古来その綺麗な鳴き声を観賞される鳥である。
「ほととぎす鳴きつる方をながむればただ有明の月ぞのこれる」(千載161)
 百人一首にもとりあげられよく知られている後徳大寺左大臣(百人一首の撰者、藤原定家の従兄弟である藤原実定)の歌であるが、ホトトギスは、平安時代には、夏の訪れを知らせる鳥として、愛されその初音(はつね=季節に初めて鳴く声)を聴くことがブームであった。
鳴きつる方とは、鳴いた方角をいい、通釈は、暁になって、やっとほととぎすが鳴いた。その声のした方を眺めると、鳥のすがたは跡形も無くてただ有明の月が空に残っているばかりだといったもの。出典は、千載集巻三(夏)からで、「暁聞時鳥(ほととぎすをあかつきにきく)といへる心を題に詠まれた歌であり、江戸時代の香川景樹(かがわかげき)は「実にけしきみえて、郭公(ホトトギス))にとりては、当時最第一の御歌といふべし」と評するなど、中世・近世を通じて郭公を詠んだ秀歌中の秀歌と激賞された。
藤原実定とこの歌のことについて詳しくは以下参照。
藤原実定/徳大寺実定(後徳大寺左大臣)-千人万首
http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-YMST/yamatouta/sennin/sanesada.html
百人一首には、万葉集の歌人からも採られているが、この時代、ホトトギスには「霍公鳥」と書かれているものが多い。以下参照。
たのしい万葉集: 霍公鳥(ほととぎす)を詠んだ歌
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/animal/hototo.html
たのしい万葉集にも書かれているように、万葉集ではホトトギスの歌が153首も登場し、大伴家持(おおとものやかもち)が詠んだ歌が多い。また、卯の花(ウツギの花)、橘(たちばな)などの花とのセットで詠まれている歌も多くある。
たのしい万葉集: 卯(う)の花を詠んだ歌
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/flower/unohana.html
「鴬の通ふ垣根の卯の花の憂きことあれや君が来まさぬ」(万葉集巻第十-1988。作者未詳)
この歌のように、万葉の頃から卯の花が生垣に使われていたが、古来農家では家の垣根に真白き「卯の花」を植えていたがウツギの木の花である「卯の花」は「氏神の花」としてみられていたようである。それは1つには、農事の季節の到来を知らせる役目を持ち、第二には、境界を示す木、つまり、家の土地を守る役割を示し、第三には死者を葬り供養する木としてウツギを用いていたという。平安時代においてもこのような「垣根の卯の花」に神をみる心情は、「神山のふもとに咲ける卯の花はたかしめゆひし垣ねなるらん」という歌にもこめられているという(週刊「朝日百科」日本の歴史)。
しかし、同じ季節の風物詩であるホトトギスも、貴族の歌題でもてはやされたのとは別に、農民が農事と結びつけて親しみ大切にした五月(さつき)の鳥、文字通り、「時の鳥」であった。
このことは、清少納言三巻本系『枕草子』にも「杜鵑は猶更にいふべきかたなし。いつしかしたり顏にも聞え、歌に、卯の花、花橘などにやどりをして、はたかくれたるも、ねたげなる心ばへなり、五月雨の短夜に寢ざめをして、いかで人よりさきに聞かんとまたれて、夜深くうち出でたる聲の、らうらうじく愛敬づきたる、いみじう心あくがれ、せんかたなし。六月になりぬれば音もせずなりぬる、すべて言ふもおろかなり」(三八段)と書かれている。五月の鳥は六月には居なくなるのだろう。
また、枕草子には、京都に近い、村の早乙女が時鳥(ホトトギス)を讃えて、「時鳥よ おれよ かやつよ おれ鳴きてぞ われは田にたつ」という田植歌をうたっていたことは(二〇九段)は、以前にこのブログ3月16日は、「十六団子の日」でも書いたが、彼女はこの歌を聴いて、”鶯に郭公は劣れるといふ人こそ、いとつらう憎くけれ。”と怒っているが、これは、むしろ、歌に出てくる下集(民衆蔑視)の「おれ」とか「かやつ」とかの言葉が気に入らなかったようだ(このことは以下参考に記載の「[PDF]枕草子における下集の言辞について 」参照)。
この清少納言が聴いたという歌が、中世の宴曲(以下参考に記載の「●宴曲」参照)「郭公」に次のような歌詞で受け継がれているという。
「何の田長(たおさ)ぞ名もしる(著)く おれ鳴いては早苗とり 丸(まろ)は田に立つ営みに 賑(にぎわ)ひ渡る君が代の げに治まれる時の鳥」(週刊「朝日百科」日本の歴史より)。
江戸時代になると、松尾芭蕉の句に以下のようなものが見られる。
「烏賊売の声まぎらはし杜宇」
「待たぬのに菜売りに来たか時鳥 」 
これは、以下参考に記載の「芭蕉db・ 芭蕉発句全集」より引用したものであるが、”上の句は、江戸の夏の風物詩ともいえる天秤棒に担いだイカを売り歩く振り売りの呼び声が耳について、ホトトギスの声がすっかりかき消されてしまう様を詠んだもの”で、下の句は、”ホトトギスの初音は今かいまかと待っている。そこにやってきたのは菜売りの呼び声、なんとまあ無風流なこと”といった意味。それにしても江戸の町ではいろんなものが売られていたんだね~。以下「江戸の行商人」を参照。
ここで注釈されているように、芭蕉の句では、常に「郭公」と書いてあっても「ホトトギス」と読む。これは、平安時代以降、ホトトギスに「郭公」の字を当てることが常習的に行われているためだそうである。
松浦清山とその随筆集『甲子夜話』のことを書くのにずいぶんと脱線してしまったが、古今和歌集の巻三・夏にはすでに随分とホトトギスに「郭公」を使っているものが多く見られる。(ここ参照)
最後に、よく知られている、豊臣秀吉の辞世の句と言われている「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」も『甲子夜話』に書かれているもので、そこには、「露と落(おち)露ときえぬる我身かな 難波のことも夢の世の中」とあるらしい(豊臣秀吉ーWikiquote参照)。
兎に角、面白い話が一杯あるようだから興味のある人は以下など読んでみるとよい。
甲子夜話
http://www.ep.sci.hokudai.ac.jp/~tsubota/chrono/kasshi.html>
あやしい古典文学の壺
http://home.att.ne.jp/red/sronin/koten.htm
(画像は、百人一首・後徳大寺左大臣。)
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松浦清山(随筆集『甲子夜話』)の忌日:参考

2009-06-29 | 記念日
参考:
松浦清 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E6%B8%85
ホトトギス - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%88%E3%83%88%E3%82%AE%E3%82%B9
Category:日本人ーWikiquote
http://ja.wikiquote.org/wiki/Category:%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA
芭蕉db・ 芭蕉発句全集
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/Default.htm

「芭蕉全傳」 芭蕉発句集
http://www.bashouan.com/Database/Zenden/search02.htm
鳥見遊々
http://torimiyuyu2008.web.fc2.com/index.htm
Wikiquote:人名索引 職業別
http://ja.wikiquote.org/wiki/Wikiquote:%E4%BA%BA%E5%90%8D%E7%B4%A2%E5%BC%95_%E8%81%B7%E6%A5%AD%E5%88%A5
時鳥 - Wikipedia
http://ja.wikiquote.org/wiki/%E6%99%82%E9%B3%A5
ホトトギス属- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%88%E3%83%88%E3%82%AE%E3%82%B9%E5%B1%9E
万葉集に親しむ
http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/manyou.htm
たのしい万葉集: 霍公鳥(ほととぎす)を詠んだ歌
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/animal/hototo.html
百人一首 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E4%BA%BA%E4%B8%80%E9%A6%96
藤原実定/徳大寺実定(後徳大寺左大臣) 千人万首
http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-YMST/yamatouta/sennin/sanesada.html
財団法人 日本野鳥の会 Wild Bird Society of Japan
http://www.wbsj.org/
江戸の行商人
http://www.eco-g.co.jp/edogyousyou.html
ウツギ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%84%E3%82%AE
[PDF]枕草子における下集の言辞について
http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/M41/M415221/9.pdf
●宴曲
http://www.tabiken.com/history/doc/C/C139L100.HTM
原文『枕草子』全巻
http://www.geocities.jp/rikwhi/nyumon/az/makuranosousi_zen.html

ちらし寿司の日

2009-06-27 | 記念日
日本記念日協会に登録されている今日・6月27 日の記念日を見ると、「寿司の日 」 があった。
ちらし寿司の誕生のきっかけを作ったとされる備前藩主の池田光政公の命日から、卵焼きなどの調理用食材の製造販売メーカーの株式会社あじかんが制定したのだという。
株式会社あじかんは、業務用卵焼き・冷凍オムレツなどの卵加工製品を主力とし、寿司だね・弁当・総菜用の加工食品などを製造販売している。広島を中心に西日本地域に基盤をもち、平成18年(2006年)3月期の連結売上構成では玉子焼類が30%を占めているそうだ。すし屋で寿司を食べた時、私など玉子焼きで上がるが、この寿司用の玉子焼は、なかなか家で作るのは難しいよね~。
姫路藩主・池田利隆の長男であり、備前初代岡山藩主・池田光政は、儒教を信奉し陽明学者・熊沢蕃山を招聘し、寛永18年(1641年)全国初の藩校「花畠教場」を開校。寛文10年(1670年)には日本最古の庶民の学校として「閑谷学校」(備前市、講堂は現在・国宝)も開いたことで知られている。教育の充実と質素倹約を旨とし「備前風」といわれる政治姿勢を確立し、庶民には奢侈(しゃし。度をこえてぜいたくなこと。身分不相応な暮らしをすること。)を禁止した。特に神輿だんじり等を用いた派手な祭礼を禁じ、元日・祭礼・祝宴以外での飲酒も禁じた。このため備前は米どころであるにも関わらず銘酒が育たなかったようだ。だが、この倹約令・別段御触書による被差別民に対する公式の場の紋無し・柿渋による渋染の着衣、下駄履きの原則禁止などの強制は「渋染一揆」の原因ともなった(以下参考に記載の「[PDF] 渋染一揆を闘った人々」参照)。
寿司は、酢飯と主に魚介類を組み合わせた日本料理であるが、その一種であるちらし寿司は、地域によって特徴があり、様々な種類が存在するが、大きく分けて2つの系統に分類される。その1つは、寿司ネタ用の具を飯の上に飾り載せたもので、もう1つは、飯に細かく切った魚介類、野菜などの具を混ぜて食べる。これらはばら「寿司」また「バラちらし」とも言う。具には錦糸玉子・干椎茸の煮つけ・かんぴょう・酢蓮根・海老・焼穴子等がよく用いられる。 このようなちらし寿司は家庭で作られる機会も多く、祭礼などハレの日の手作り料理として供されることが多い。
岡山名物の「ばら寿司」は、寿司ネタ用の具を飯の上に飾り載せしたものであるが、さまざまな具を配し豪華なことで知られている。岡山のこの「ばら寿司」誕生は備前藩主池田光政公の倹約令にさかのぼるのである。つまり、先に述べたように、池田光政は、質素倹約を奨励し、「食事は一汁一菜とする」とした。このことに対抗する手段として、寿司の上に盛りだくさんの旬の魚介類や山菜を盛り付けをし、それに汁を付け「一汁一菜」とした。要するに、殿様の言った言葉の揚げ足をとり抵抗したわけである。また豪華なばら寿司を咎められないように、食べるまではお重のご飯の下に盛りだくさんの旬の具材を隠しておいて、食べる時にひっくり返して豪華なばら寿司を堪能するという「返し寿司」と呼ばれるものもある。お上に逆らえない庶民のしぶとさを感じるよね~。
今日の記念日を設定した株式会社あじかんの社名が気になるので、同社HPで、社名の由来 を見ると、社名の「あじかん」には、仏教の修行法「阿字観」、味覚の追求を意味する「味観」、ひらがなの「あ」から始まり「ん」で終わるひらがな51 文字の無限の可能性や創造性、という意味が込められているという。何か高尚過ぎて難しくてよくわからないが、ただ、社長挨拶の中で”「食」という文字は人を良くすると書きます。私はこの「食」には、人の心を良くするという意味が込められていると思っています。食は人の心を豊かにしてくれます。食を囲んで人の和ができ、人が本来持つ温かい心を引き出してくれます”・・・と言っているのには、同感である。
ところで、内閣府生活統括官(共生社会政策担当)のホームページなど見たことありますか?
そこに、”「6月は食育月間です!」栄養バランスのとれた規則正しい食生活により生活習慣病を予防しましょう。家族そろって食卓を囲み、親子のきずなを深めましょう。”・・とある。
この「食育月間」は、食育基本法(平成十七年政令第二百三十五号)に基づき、食育の国民への浸透を図るための月間として、「食育推進基本計画」により定められたものだそうだ。
食育基本法の前文には、食育について”子どもたちをはじめ、すべての国民が心身の健康を確保し、生涯にわたって生き生きと暮らすことができるようにするためには、何よりも「食」が重要です。ところが近年、国民の食生活をめぐる環境が大きく変化し、その影響が顕在化しています。例えば、栄養の偏り、不規則な食事、肥満や生活習慣病の増加、食の海外への依存、伝統的な食文化の危機、食の安全等、様々な問題が生じています。このような問題を解決するキーワードが「食育」です。食育基本法では、「食育を、生きる上での基本であって、知育、徳育及び体育の基礎となるべきものと位置付けるとともに、様々な経験を通じて「食」に関する知識と「食」を選択する力を習得し、健全な食生活を実践することができる人間を育てる食育を推進することが求められている」としています。今、国民が自ら取り組み、国民が主役となった、国民的広がりを持つ運動として様々な食育推進の取組が進められることが期待されています。食育の主役は皆さん一人一人です。食育について詳しく御覧になってみませんか?”・・・とある(食育推進のページ参照)。その通り、同HPの【コラム】 食育の語源に、”食が人に及ぼす影響は大きく、明治36年(1903年)発行の村井弦齋著「食道楽」に「智育と体育と徳育の三つは蛋白質と脂肪と澱粉のように程や加減を測って配合しなければならん。しかし先ず智育よりも体育よりも一番大切な食育の事を研究しないのは迂闊の至りだ」と述べており、智育よりも体育よりも「食育」が大切ではないかと指摘している。しかし、その後暫くの間「食育」という言葉が世間で広くつかわれなくなった。”・・とあるように、人間が生きていく上で最も基本である「食」について、誰もが、もっと深く関心を持つようにしなければいけないだろう。
今日は、「ちらし寿司の日 」 なのにこれ以上余分なことを書くのは、控えるが、私も過去飲んだくれて、散々贅沢もしてきたので、肝臓なども悪くしているが、今は極力バランスの取れた食事を心がけており、御蔭で、元気に過ごすことができている。今は、健康志向の高い人達も多くなり、それらの人達は正しい食をこころがけているようだが、相変わらず、テレビなどは、番組としても安上がりに出来又、広告収入を一番得やすいからだろう、これが美味しい、どこが美味しいと食べ物を扱った番組や広告がひしめいている。「食」は、単に食べ物そのものについてだけでなく、家族団らんで、楽しく食べることが大切であるが、ここのところの世界的な不況の御蔭で、外食が減り、内食化が進んでいるようであり、スーパーの食品売上は好調のようだ。しかし、散歩などしていると、100円均一の回転すしや餃子の王将など安いところはそれなりに大勢の客が入っているが、ちょっとした料理店や食事処は閑古鳥が鳴いている。
これでは、何時、不況から脱出できるのか・・・?先が見えないのが心配である。しかし、ここのところは、良くてrも悪くてもじっと我慢して耐えるしかないだろうが、そんな時、比較的簡単に作れ、美味しく食べれる「ちらし寿司」などは、格好の食べ物だろうね。特に、岡山の「ばら寿司」のように、寿司ネタの魚ばかりじゃなく、海の幸に彩り豊かな旬の野菜類を多く加えたものが、体にも良いだろうね。
(画像は、岡山の伝統的な料理「ばらずし」を駅弁としたもの「桃太郎の祭り寿司」Wikipediaより)
参考:
日本記念日協会HP
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html
あじかんホームページ
http://www.ahjikan.co.jp/
Category:岡山県の歴史
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E5%B2%A1%E5%B1%B1%E7%9C%8C%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
祭-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%AD
ちらし寿司 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A1%E3%82%89%E3%81%97%E5%AF%BF%E5%8F%B8
[PDF] 渋染一揆を闘った人々
http://www.pref.kochi.lg.jp/~jinkyou/jinnkenn/gakkou/tunagari/step2/4sibuzomeikki.pdf
阿字観 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%AD%97%E8%A6%B3
内閣府生活統括官(共生社会政策担当)のホームページ
http://www8.cao.go.jp/souki/index.html
懐かしの味:郷土料理百選から 岡山ばらずし - 毎日jp(毎日新聞)
http://mainichi.jp/life/today/news/20090526ddm013100148000c.html


日本プロ野球史上初の天覧試合が行なわれた日

2009-06-25 | 歴史
1959(昭和34)年6月25日、昭和天皇・皇后両陛下が後楽園球場で行なわれた巨人ー阪神戦を初めて観戦された。この日が、プロ野球誕生以来初めての天覧試合であった。2005年の5月25日に、記念日「天覧試合」として書いたが、その時は、長島のことを中心に書いた。今回は、「天覧試合」を歴史の観点から書きました。前に書いた記念日「天覧試合」はここを見てください。
前年11月皇室会議で、皇太子(明仁親王)妃に正田美智子さんが決定され、この年・1959(昭和34)年4月10日皇太子御成婚。この年前半はミッチーブームで日本中が沸いた。美智子様のファッションが真似され、テニスが流行り、結婚式とパレードを茶の間で見ようとテレビが爆発的に売れ、岩戸景気に火がついた。都市部の会社へ通うサラリーマンたちに話題を提供する週刊誌も電車の中で手頃に読めることからブームとなるが、テレビ時代の到来は、戦後ベビーブーム時代の子供たちの日常生活にまでウイークリー感覚を定着させた。そして、めまぐるしい時代の変化に対応して、子供の世界でも週単位の情報娯楽雑誌への関心を呼び起こし、「週刊サンデー」「週刊少年マガジン」など新しいものが次々発刊され、野球などスポーツへの関心も深めさせた。
1957(昭和32)年、春の甲子園全国選抜高校野球大会で投手として活躍し、早稲田実業高優勝に貢献した王貞治(この時2年生)が翌1958(昭和33)年巨人(東京讀賣巨人軍)と入団契約を結び、この年・1959(昭和34)年のシーズンよりデビュー(当初は投手、直ぐに打者に転ずる)。又、関西大学のエース村山実も、阪神(この時大阪タイガース)に入団デビューした。東京六大学野球で立教大学の選手として活躍していた長嶋 茂雄は、1957(昭和32)年巨人軍に入団し翌シーズンより三塁手としてプレイ既に巨人の中心選手として活躍していた。これらスター選手の入団でプロ野球界も活気付いていた。特に伝統の巨人ー阪神戦では、「ザトペック投法」の阪神の新人・村山投手と巨人長嶋選手との対決も期待されていた。
1959(昭和34)年、6月25日、後楽園球場で巨人対阪神(1961年より阪神タイガース)による「伝統の一戦」が天覧試合として催された。昭和天皇・香淳皇后が後楽園球場のバックネット裏貴賓席に来場し、19時より試合が開始された。この模様は日本テレビ(解説・南村侑広、実況・越智正典)とNHKテレビ(解説・小西得郎、実況・志村正順)にて全国生中継が行われた。
この試合は巨人・藤田、阪神・小山の両エースの先発で始まったが、まず3回、小山投手自らのタイムリーで阪神が1点を先取。すかさず、5回裏巨人の4番長嶋が小山から同点本塁打とすると、続く5番・坂崎も本塁打を打ち2 対1と逆転。 しかし阪神も6回表すぐに反撃し、三宅の適時打と藤本の一発で2対4と再逆転をするが、7回裏、巨人の6番・が同点本塁打(「ONアベック弾」第一号)を放ち再び4対4の同点とした。ここで、阪神は新人の村山をリリーフに送る。以後、巨人のベテラン藤田との投手戦が続き、伝統の一戦にふさわしい緊迫した雰囲気の中同点のまま最終回を迎えた。そして、9回の裏、先頭打者として長嶋が打席に入ったのは21時12分。これまでの対戦成績では分の悪かった村山に、カウント2-2とされた後、村山が渾身の力を込めて投げた高めを打った球がレフトスタンドポール際ぎりぎりに飛び込んだ。これがホームランと判定され、巨人が逆転勝利をしたのであるが、打たれた、村山は、最後の最後まで、あれはファールだったと言い張っていたと聞く。気の強い村山らしい逸話ではある。以下ではこの時の試合を当時の長島、村山、山本哲也(当時の捕手)他懐かしい選手等の回想で見れるよ。
天覧試合―Googleビデオ
http://video.google.co.jp/videosearch?hl=ja&q=%E5%A4%A9%E8%A6%A7%E8%A9%A6%E5%90%88&lr=&um=1&ie=UTF-8&ei=oSY7SrbFAoPc7AO7j-2uDg&sa=X&oi=video_result_group&resnum=4&ct=title#
この日天皇・皇后が野球観戦できるのは21時15分までであったため、延長戦に突入した場合、天皇は試合結果を見届けられず、途中退席になる可能性があったが、そのギリギリの時間に試合結果を見届けた上で、球場を後にすることが出来た。かってスポーツでは、アマチュアの野球に対して、日本の職業野球などは卑しいものと下に見られていたが、1953(昭和28)年、後楽園での巨人対阪神戦が初めてテレビ中継されるようになるとやっと人気も出始めていた。
後楽園球場は、1950(昭和25)年に、ナイター設備を設置していたが、1958(昭和33)年には、両翼を78mから90mに拡張するなど施設の整備に努めた。昭和天皇は水道橋方向(後楽園球場)を眺めていた時「あの灯りは何か?」と侍従に尋ねると「プロ野球のナイター試合であります」と答えたのに関心を示したことを、伝え聞いた、巨人軍のオーナーでもあり読売新聞社社主でもあった故・正力松太郎が、これを、「野球人気を高めるための絶好の機会にしよう」と考え、と宮内庁に天覧試合開催を画策し、実現したものだそうだ(Wikipedia)。
日本のプロ野球が、天皇皇后両陛下のこの天覧試合によって、日本を代表する人気プロスポーツとしての地位を一気に得る契機となったことはたしかだろう。
昭和天皇は、皇太子時代から大変な好角家(相撲ファンの通称で、相撲通の別称)であり、皇太子時代には当時の角界に下賜金を与えて幕内優勝力士のために摂政賜杯を作らせており、天皇即位に伴いその摂政賜杯は、天皇賜杯と改名された。観戦することも多く、戦前戦後合わせて51回も国技館に天覧相撲に赴いており、特に戦後は1955(昭和30)年以降、病臥する1987(昭和62)年までに40回、ほとんど毎年赴いていたのだとう。
それに対して、野球では、1929(昭和4)年の早慶戦、1947(昭和22)年の第18回全国都市対抗野球大会、1950(昭和25)年の早慶戦に次ぐ4度目の野球観戦がこの日のプロ野球巨人阪神戦であった。これ以降、プロ野球公式戦では天覧試合は行われていないが、1966(昭和41)年11月8日の日米野球、ドジャース戦が天覧に付されている。この試合でも長嶋は本塁打を放った。長島は本当にこのような大舞台に強い選手であった。
そもそも、天覧試合とは、天皇・皇后が観戦される武道の試合やスポーツの競技のことである。
京都の平安神宮は「平安奠都(てんと。ここ参照)1100年行事」の記念殿、また、その年の秋、京都岡崎で開催の第4回内国勧業博覧会のパビリオンとして、平安京大内裏の正庁である朝堂院にあった建物を約5/8に縮小して復元し、1895(明治28)年3月15日に造られたもの(当時の博覧会場の様子は以下参考に記載の「都市史29 京都の博覧会」の第四回内国勧業博覧会場図を参照)。これを、後に神社として転用。当時の天皇であった桓武天皇を祀る神社として創祀したものである。京都三大祭りの一つである「時代祭」はこの創建を記念して、平安京遷都の日である10月22日に行われるようになったもの。
この年4月、平安奠都1100年行事の一環として、日本固有の武術(日本の伝統的な武術である古武術)を保存奨励し、武徳の涵養(かんよう。少しずつ養い育てること)と国民の士気の振作(しんさく。ふるいおこすこと。盛んにすること。)に寄与することを目的に民間団体大日本武徳会というものが設立された。当初は、天皇の行幸に合わせて、天覧試合の開催を目的とする団体であったが、天皇の行幸が中止となったため、全国組織として展開することに方針を転換。本部を平安神宮境内に置き、陸軍参謀総長小松宮彰仁親王を総裁に、初代会長には京都府知事渡辺千秋、副会長に平安神宮宮司壬生基脩(みぶもとなが)が選ばれた。また、支部を全国の各道府県に置き、知事をその支部長に委嘱。当面の事業としては、同神宮境内に武徳殿を建立し、毎年京都で武徳祭および大演武会が開催されたようだ。1909(明治42)年には、財団法人化し、組織の強化がはかられ、名実ともに武術を統轄する団体となり、その後は武術教員養成所(後の武道専門学校)も開設され、「東の講道館、西の武徳殿」と評されるほど日本の武道の中心的存在となっていった。その後剣道や柔道の天覧試合が行なわれ、なかでも、1940(昭和15)年6月、皇紀2600年(紀元二千六百年記念行事参照)の天覧試合は盛大に行なわれた。以下参考に記載のDVD「昭和天覧試合」では、1929(昭和4)年5月に行われた「御大礼記念武道大会」、1930(昭和5)年5月の「台覧試合」、1940(昭和15)年6月の「紀元二千六百年奉祝記念武道大会」などが収録されているそうだ。
しかし、1941(昭和16)年12月22日、太平洋戦争が開戦されると、本部は京都の武徳殿から東京の厚生省内に移転、政府の外郭団体として新たな大日本武徳会として再編され、銃剣道、射撃道なども加えた、いわゆる「武道の戦技化」が推進されるようになった。そして、終戦後、大日本武徳会はGHQから解散命令を受け、武道専門学校も閉校されたという。
(画像は1959(昭和34)年、6月25日の昭和天皇初のプロ野球観戦、左:貴賓席で観戦中の天皇。右:巨人長島が阪神村山からサヨナラホームランを放ったところ。アサヒクロニクル「週刊20世紀」よ)
参考:
天覧試合 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E8%A6%A7%E8%A9%A6%E5%90%88
岩戸景気-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E6%88%B8%E6%99%AF%E6%B0%97
東京ドームの歴史
http://www.tokyo-dome.co.jp/dome/history/index.htm
早慶戦 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A9%E6%85%B6%E6%88%A6
都市対抗野球大会 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%BD%E5%B8%82%E5%AF%BE%E6%8A%97%E9%87%8E%E7%90%83
平安神宮 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%89%E7%A5%9E%E5%AE%AE
大日本武徳会公式HP
http://www5d.biglobe.ne.jp/~logical/dainihon.htm
Yahoo百科事典「大日本武徳会」
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%AD%A6%E5%BE%B3%E4%BC%9A/
都市史29 京都の博覧会
http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/toshi29.html
京都府剣道連盟武徳殿について
http://www.kyoto-kenren.or.jp/butokuden/index.html
昭和天覧試合(剣豪たちの神技)
http://www.queststation.com/products/DVD/SPD-8602.html

スリの親分仕立屋銀次検挙される

2009-06-23 | 歴史
1909(明治42)年6月23日の今日スリの親分仕立屋銀次(したてやぎんじ)が検挙された。
スリ(掏摸、掏児)というのは、他人の懐などから金品などを気づかれないようにかすめとる行為、また、それを行う者を言うが、刑法上は窃盗罪の一種である。
あの盗賊として有名な石川五右衛門について、安土桃山時代から江戸時代初期の20年ほど日本に貿易商として滞在していたとうアビラ・ヒロンの記した『日本王国記』には、かつて都(京都)を荒らしまわる集団がいたが、15人の頭目が捕らえられ京都の三条河原で生きたまま油で煮られたとの記述があり、ここにイエズス会の宣教師として日本に滞在していたペドロ・モレホンが注釈を入れており、この盗賊処刑の記述に、「この事件は1594年のことである。油で煮られたのは「Ixicava goyemon」とその家族9人ないしは10人であった」と記してあり、釜茹での刑に処されたのが石川五右衛門であるとしている。
又、戦国から江戸時代初期の公家、山科言継の日記「言継卿記』の文禄3年8月24日の条に、「正午天晴、盗人スリ十人また一人者釜にて煮らる」とあり、この1人煮られたのは五右衛門であるが、ここでは、盗人とスリとを区別している。当時のスリ、無頼の徒は道行くひとにすりよって悪事をなし、携帯品をかすめ取るので、スリと呼ばれていたが、貞享、元禄頃、「巾着切り」の名前になって巧妙化したようだ。このスリ・巾着切りのことを、『摂陽奇観』(浜松歌国編)巻四十六には、「或日チボ四人、道頓堀・島之内辺を騒がし」とあるように京阪神地方では「チボ」ともよぶ。
明治以前、スリは町人の町全盛時の大坂に多く、技量の点でも上方がスリの本場であったようだが、明治維新となり、東京に人口が集中し、スリの恐れた武士の帯刀が禁じられ、富豪も増えたことから、スリも上方から東京に所がえするものが多くなり、明治20年頃、京阪のスリが非常に多く東京に集まっていたようだ。当時、東京には仕立屋銀次などスリの三大勢力があったようで、警視庁もこれらすり集団に相当苦慮していた模様である。
私は、子供の頃から時代劇映画が大好きで、長谷川一夫の映画など殆ど欠かさず身に言っていたが、その中に、川口松太郎の小説を元に三隅研次監督による「七つの顔の銀次」(1955年)がある。髷をつけない長谷川の映画に新鮮さを覚えたものだ。映画は、“三年前スリ渡世から足を洗って、今は堅気の仕立屋になっている銀次の許へ、以前の親分の死後落目の笹安一家を盛り返すため、銀次をお新の婿に迎え、二代目を継いで欲しいという話があった。先代の恩義ありとは云え、一旦堅気になると心に誓った銀次はすげなくこれを断った・・・のだが・・・。顔見知りの国武刑事から出頭を命ぜられた銀次は、畠中署長から、もう一度昔のスリに返って、盗まれた陛下御下賜の金時計を取り返してほしいと依頼を受けた。もしその品が海外へでも出れば盗まれた当人も生きていられないだろうし、又その人こそ銀次のひそかに愛する京子の父と知ると、銀次もあれほど固く禁じた掏摸の技術をもう一度だけ使うことに・・・そして最後、横浜で外人に売られた金時計を危機一髪のところを怪我しながら取り戻す・・・。日本映画史上に燦然と輝く二枚目スター・長谷川一夫主演作である。明治30年代の東京を舞台に、ある時は紳士に書生に遊び人と、七つの顔を持つ男・銀次の活躍を描いた映画である(goo-映画参照)。
この当時、白昼公然とすりが跋扈しているにもかかわらず東京市内で彼らの親分が捕まったことはなくそれを「奇怪きわまる現象」として東京市民は憤慨していたというが、それもそのはず、警察の中には一味と結託する者や利用する者があり、万一親分が検挙されても子分が所轄館内に入り込み、窃盗、強盗、強姦、放火、すりと不法の限りを尽くして蔭に恐喝。そんな脅しをおそれて放免するのが常だったという。
中でも、仕立屋銀次こと富田銀次といえば、「日本一にて次いで湯島吉あり、深川に宍倉ありの三あり、山の手に伊藤あれど、近来縄張りの範囲紊乱(びんらん=乱れること。乱すこと。)し、銀次は以前箱師(車内専門のすり)を専門とせるが、近頃は各地各方面に手を広げ、家に十万に近き財産を蓄えて本所区に数十戸の地所家作を有し、さながら大富豪の生活をなし居れり」と当時の東京日日新聞では報道しているという。元は仕立屋だったが、根岸に住むスリの親分清水の娘と結婚し、19年前に親分となった。東京市内だけで子分は250余人、京阪地方から上京したスリも必ず銀次の元に寄って渡りをつける。財産をなした上は、上は北豊島軍日暮里村の村会議員となり、名誉職を利用して上流社会に入り込んで一代悪事をと深謀遠慮を巡らしていた。
1909(明治42)年6月21日、午後7時頃、赤坂に住む柏田盛幸・前新潟県知事が、帯に挟んだ伊藤博文公からの記念の時計を電車内ですりとられ、赤坂署に届け出た。本堂四郎署長は「どんな事情が警察の一部とスリ仲間との間にあるか知らないが、断じて姑息な手段に出ず、この好機を利用して一代検挙を行なう」と大英断を下した。しすて、銀次が日暮里の大邸宅に妾を囲いそこを本営とし日夜子分が50人くらい出入してえうところを今日・23日の午前10時に襲いついに逮捕した。その時の格好は丸顔5部刈り、鼻下に八の字ひげをたくわえ、フラノの単衣にセルの単羽織、鼠縮緬(ねずみ色の一面に細かなしぼを出した絹織物)の兵児帯に紺たびをはき、黒の山高帽、左の薬指に白金の指輪、甲斐絹(かいき=海気)細巻きの洋傘と、一見立派な紳士であった。赤坂署では署長自身が銀次らを取り調べ、一方で子分やその他親分株次々と検挙。銀次は例の如く「今度だけは許されたい」と哀訴歎願したが署長ははねつけ「警察界の大痛快時!」と市民は拍手したという。
捜査が進むにつれ、一大秘密結社のようなおおがかりな組織が浮かび上がった。「金融機関」として質店を開かせ、故売人と連絡して関西と盗品の交換をする。盗品変造には貴金属商、紺屋(染め物屋)、仕立屋などがあたり、文書の往復や盗品の送受に通信機関を設け、電話を架設し、遊興には待合(待合茶屋)を開いて芸妓出張所を営業し、社会的には赤十字功章者となるなど、警察の目を巧みに逃れていたという(朝日クロニクル『週刊20世紀』)。
時代劇などでは美人の女スリが登場し、つかまってもお目玉程度解放されたり、逆に、スリの特技を生かして善玉主役の手助けをし大活躍となどしてみたり、スリなどと言うと、ちょっとお金持ちから掠め取る程度の愛嬌のある犯罪など考えるが、明治のころには、こんな凄いスリの親分がいたのだよね~。そして、凄くおおがかりな組織を作り、表面上は善人ぶっていたわけだ。
太平洋戦争で負けた戦後の日本では、焼け野原となった街で両親を失った子供たちの、食べてゆくためのスリならぬかっぱらいなどが横行していたが、街には、見ただけで、その筋の人とわかる人達もごろごろしていた。しかし、最近は、そのような一目で見て悪とわかるような人は見かけなくなった。日本を代表するような組関係は、皆、表面的には色々な企業を経営しているようであり、日本の代表的な自動車産業・トヨタ並みいやそれ以上の収益を上げていると聞く。だから、そんな組織の下っ端が、つまらぬことに手を出して、警察の手入れが入ると困るので、そのようなことに手を出した下っ端などは組織の中で処理されてしまうのだとも聞いている。要するに、表と裏を使い分け表面上は悪い奴がいなくなった。今や、官僚も政治家も、名のある大企業なども似たり寄ったりじゃ~ないのかな~。裏を覗くと・・・。いや、今の世の中見ていると、かえって、官僚や政治家などの方が逆に自浄能力がないのかもしれない・・・などと考えたりさえするのだが・・・。
(画像は、BIDEO映画「七つの顔の銀次」【1955年】。写真は主役仕立屋銀次を演じる長谷川一夫)
参考:
スリ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%AA
石川五右衛門 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E4%BA%94%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80
ち行かさたはま
http://www.eonet.ne.jp/~pilehead/osaka_word/text/honbunti.htm
日本王国記 日欧文化比較
http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/00/5/0085110.html
『日本におけるキリスト教に対する迫害』
http://www.kufs.ac.jp/toshokan/gallery/senk37.htm
長谷川一夫 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E4%B8%80%E5%A4%AB
七つの顔の銀次(1955) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD24408/
「羽二重団子・6代目庄五郎・第3回だんご寄席,上根岸町近傍図(其の二)」
http://www.habutae.jp/event/event_3.html
「いまならいくら?(明治、大正、昭和の消費者物価)」
http://chigasakioows.cool.ne.jp/ima-ikura.shtml
伊藤博文 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%8D%9A%E6%96%87