6月29日松浦清山(随筆集『甲子夜話』有名)忌日
天保12年の今日・6月29日(旧暦)は松浦清(清山)の1841年の忌日である。(西暦:グレゴリオ暦:1841年8月15日。ユリウス暦1841年8月3日)
松浦清(まつら きよし)・・・・って、誰だ?
私も詳しいことをよくは知らないが、松浦 清は、江戸時代中・後期の大名。肥前国平戸藩の第9代藩主であるが、大名松浦清としてよりも、江戸時代を代表する随筆集『甲子夜話』(かっしやわ) の著者松浦静山(まつらせいざん)として名が知られているのではないか。
静山は清の隠居後の号であり、『甲子夜話』は松浦静山が隠居したのち、文政4年(1821年)執筆を始め没するまでの20年間、毎日書き記したもので、278巻にも及ぶ大規模なものであり、内容は田沼意次時代から寛政の改革時代頃にかけての政治・経済、社会風俗、自然現象、怪奇現象などあらゆるものが記されており、当時の政治・経済、諸大名や旗本、民衆の暮らしや風俗を知る上で貴重な史料となっている。
なぜ『甲子夜話』と名づけられたか?については、本書1巻の序に「吾老公の誉て筆し給える紀聞の草子を甲子夜話となんいふ。そは去年の冬霜月の甲子の夜よりして記し給えるゆへに、そのまゝ書題とはなし給ひき」・・・とあり、1821(文政4)年11月17日『甲(きのえ)子(ね)の日』に書き出したことに因んでタイトルとした訳である。詳しくは以下参照。
甲子夜話 松浦静山 : 平凡社 - 電子書籍はeBookJapan : 総合図書
http://www.ebookjapan.jp/shop/title.asp?titleid=1179
、ただ、上記によれば静山 は、貴賎上下の多種多様な人々からの聞いた話を出来るだけ忠実に伝えることに留めているが、時には感動を加えるけれども、虚偽と思うものさえも、手心を加えずできるだけ聞いたまま書き留めているそうである。
私は、このような膨大な資料を読んだこともないが、あの有名な三人の武将(織田信長や豊臣秀吉、徳川家康)のホトトギス(時鳥)に関する故事、つまり、
・なかぬなら殺してしまへ時鳥 織田信長(織田右府)
・鳴かずともなかして見せふ杜鵑 豊臣秀吉(豊太閤)
・なかぬなら鳴まで待よ郭公 徳川家康(大權現様)
は、鳴かないホトトギス(時鳥)を三人の天下人がどうするか・・・その性格を言い表した句であるが、勿論、本人達が実際に詠んだ句ではなく清山の『甲子夜話』に書かれていたものが、今に伝えられいるものだということは、聞いて知っている。そのことは、以下に詳しく書かれている。
資料206 鳴かぬなら……(「ほととぎす」の句)
http://www.geocities.jp/sybrma/206nakanunara.hototogisu.html
『甲子夜話』の句には一般に聞きなれている言葉と微妙な語句の違いがあるが、それは、時代を経て変化してきたものだろうが、他の武将のものも、あるのは知らなかったよ。
ところで、『甲子夜話』に、”郭公を贈り参せし人あり。されども鳴かざりければ、”・・とあるのを見て???と思った人もあるかも知れないが、ここに書かれている「郭公」は、ホトトギスのことであり、「カッコウ」のことではない。また「ホトトギス」には一般的に、「時鳥」の字があてられるがこの字のほか、「杜鵑」(とけん。ホトトギスの漢名)の字もあてられている。
「ホトトギス」は、日本では古来より様々な文書に登場し、上記のほか、子規、不如帰、霍公、霍公鳥、杜宇、蜀魂、田鵑など、漢字表記や異名が多い。
ホトトギスは、『広辞苑』で調べると”「カッコウ目・カッコウ科」の鳥。カッコウに似るが小形。鳴声による名か。「ス」は鳥をあらわす接尾語。”とある。ネットで検索していると「ホトトギス目・ホトトギス科」と書かれているのを見るがカッコウ目の分類は未だ不明な点があり、分類学説が分かれているだけで「カッコウ目・カッコウ科」とおなじことのようだ。
以下参考に記載の「財団法人 日本野鳥の会」 を見ると分類学のことは、”「目には青葉、山ほととぎす、初鰹」とあるように、新緑の季節に東南アジアから渡来。雄の声は「キョッキョッキョキョキョキョ」という鋭い声(雄)。又、「テッペンカケタカ」「特許許可局」などと聞きなしされる特徴ある声で、日中だけでなく夜も、また飛びながらも鳴く。カッコウの仲間ゆえ、ウグイス(鶯)などの巣に卵を産み育ててもらう、いわゆる托卵(たくらん)の習性がある。”・・・とある。以下に珍しい鶯の巣で育つホトトギスの成長写真が見れる。自分で子育てをしないホトトギスって同じ様にきれいな声で鳴く鶯と違って結構横着ものなんだね~。
ホトトギスとウグイス
http://www4.kcn.ne.jp/~fuji-y/nakai/hototogisu/
それにしても、ウグイスに子育てをさせるとはホトトギスも横着だね~。ただ、ウグイスにしてもホトトギスにしても見た目には余り綺麗じゃなく、古来その綺麗な鳴き声を観賞される鳥である。
「ほととぎす鳴きつる方をながむればただ有明の月ぞのこれる」(千載161)
百人一首にもとりあげられよく知られている後徳大寺左大臣(百人一首の撰者、藤原定家の従兄弟である藤原実定)の歌であるが、ホトトギスは、平安時代には、夏の訪れを知らせる鳥として、愛されその初音(はつね=季節に初めて鳴く声)を聴くことがブームであった。
鳴きつる方とは、鳴いた方角をいい、通釈は、暁になって、やっとほととぎすが鳴いた。その声のした方を眺めると、鳥のすがたは跡形も無くてただ有明の月が空に残っているばかりだといったもの。出典は、千載集巻三(夏)からで、「暁聞時鳥(ほととぎすをあかつきにきく)といへる心を題に詠まれた歌であり、江戸時代の香川景樹(かがわかげき)は「実にけしきみえて、郭公(ホトトギス))にとりては、当時最第一の御歌といふべし」と評するなど、中世・近世を通じて郭公を詠んだ秀歌中の秀歌と激賞された。
。藤原実定とこの歌のことについて詳しくは以下参照。
藤原実定/徳大寺実定(後徳大寺左大臣)-千人万首
http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-YMST/yamatouta/sennin/sanesada.html
百人一首には、万葉集の歌人からも採られているが、この時代、ホトトギスには「霍公鳥」と書かれているものが多い。以下参照。
たのしい万葉集: 霍公鳥(ほととぎす)を詠んだ歌
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/animal/hototo.html
たのしい万葉集にも書かれているように、万葉集ではホトトギスの歌が153首も登場し、大伴家持(おおとものやかもち)が詠んだ歌が多い。また、卯の花(ウツギの花)、橘(たちばな)などの花とのセットで詠まれている歌も多くある。
たのしい万葉集: 卯(う)の花を詠んだ歌
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/flower/unohana.html
「鴬の通ふ垣根の卯の花の憂きことあれや君が来まさぬ」(万葉集巻第十-1988。作者未詳)
この歌のように、万葉の頃から卯の花が生垣に使われていたが、古来農家では家の垣根に真白き「卯の花」を植えていたがウツギの木の花である「卯の花」は「氏神の花」としてみられていたようである。それは1つには、農事の季節の到来を知らせる役目を持ち、第二には、境界を示す木、つまり、家の土地を守る役割を示し、第三には死者を葬り供養する木としてウツギを用いていたという。平安時代においてもこのような「垣根の卯の花」に神をみる心情は、「神山のふもとに咲ける卯の花はたかしめゆひし垣ねなるらん」という歌にもこめられているという(週刊「朝日百科」日本の歴史)。
しかし、同じ季節の風物詩であるホトトギスも、貴族の歌題でもてはやされたのとは別に、農民が農事と結びつけて親しみ大切にした五月(さつき)の鳥、文字通り、「時の鳥」であった。
このことは、清少納言三巻本系『枕草子』にも「杜鵑は猶更にいふべきかたなし。いつしかしたり顏にも聞え、歌に、卯の花、花橘などにやどりをして、はたかくれたるも、ねたげなる心ばへなり、五月雨の短夜に寢ざめをして、いかで人よりさきに聞かんとまたれて、夜深くうち出でたる聲の、らうらうじく愛敬づきたる、いみじう心あくがれ、せんかたなし。六月になりぬれば音もせずなりぬる、すべて言ふもおろかなり」(三八段)と書かれている。五月の鳥は六月には居なくなるのだろう。
また、枕草子には、京都に近い、村の早乙女が時鳥(ホトトギス)を讃えて、「時鳥よ おれよ かやつよ おれ鳴きてぞ われは田にたつ」という田植歌をうたっていたことは(二〇九段)は、以前にこのブログ3月16日は、「十六団子の日」でも書いたが、彼女はこの歌を聴いて、”鶯に郭公は劣れるといふ人こそ、いとつらう憎くけれ。”と怒っているが、これは、むしろ、歌に出てくる下集(民衆蔑視)の「おれ」とか「かやつ」とかの言葉が気に入らなかったようだ(このことは以下参考に記載の「[PDF]枕草子における下集の言辞について 」参照)。
この清少納言が聴いたという歌が、中世の宴曲(以下参考に記載の「●宴曲」参照)「郭公」に次のような歌詞で受け継がれているという。
「何の田長(たおさ)ぞ名もしる(著)く おれ鳴いては早苗とり 丸(まろ)は田に立つ営みに 賑(にぎわ)ひ渡る君が代の げに治まれる時の鳥」(週刊「朝日百科」日本の歴史より)。
江戸時代になると、松尾芭蕉の句に以下のようなものが見られる。
「烏賊売の声まぎらはし杜宇」
「待たぬのに菜売りに来たか時鳥 」
これは、以下参考に記載の「芭蕉db・ 芭蕉発句全集」より引用したものであるが、”上の句は、江戸の夏の風物詩ともいえる天秤棒に担いだイカを売り歩く振り売りの呼び声が耳について、ホトトギスの声がすっかりかき消されてしまう様を詠んだもの”で、下の句は、”ホトトギスの初音は今かいまかと待っている。そこにやってきたのは菜売りの呼び声、なんとまあ無風流なこと”といった意味。それにしても江戸の町ではいろんなものが売られていたんだね~。以下「江戸の行商人」を参照。
ここで注釈されているように、芭蕉の句では、常に「郭公」と書いてあっても「ホトトギス」と読む。これは、平安時代以降、ホトトギスに「郭公」の字を当てることが常習的に行われているためだそうである。
松浦清山とその随筆集『甲子夜話』のことを書くのにずいぶんと脱線してしまったが、古今和歌集の巻三・夏にはすでに随分とホトトギスに「郭公」を使っているものが多く見られる。(ここ参照)
最後に、よく知られている、豊臣秀吉の辞世の句と言われている「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」も『甲子夜話』に書かれているもので、そこには、「露と落(おち)露ときえぬる我身かな 難波のことも夢の世の中」とあるらしい(豊臣秀吉ーWikiquote参照)。
兎に角、面白い話が一杯あるようだから興味のある人は以下など読んでみるとよい。
甲子夜話
http://www.ep.sci.hokudai.ac.jp/~tsubota/chrono/kasshi.html>
あやしい古典文学の壺
http://home.att.ne.jp/red/sronin/koten.htm
(画像は、百人一首・後徳大寺左大臣。)
このブログの字数制限上参考は別紙となっています。以下をクリックするとこのページの下に表示されます。
クリック ⇒ 浦清山(随筆集『甲子夜話』有名)忌日:参考
天保12年の今日・6月29日(旧暦)は松浦清(清山)の1841年の忌日である。(西暦:グレゴリオ暦:1841年8月15日。ユリウス暦1841年8月3日)
松浦清(まつら きよし)・・・・って、誰だ?
私も詳しいことをよくは知らないが、松浦 清は、江戸時代中・後期の大名。肥前国平戸藩の第9代藩主であるが、大名松浦清としてよりも、江戸時代を代表する随筆集『甲子夜話』(かっしやわ) の著者松浦静山(まつらせいざん)として名が知られているのではないか。
静山は清の隠居後の号であり、『甲子夜話』は松浦静山が隠居したのち、文政4年(1821年)執筆を始め没するまでの20年間、毎日書き記したもので、278巻にも及ぶ大規模なものであり、内容は田沼意次時代から寛政の改革時代頃にかけての政治・経済、社会風俗、自然現象、怪奇現象などあらゆるものが記されており、当時の政治・経済、諸大名や旗本、民衆の暮らしや風俗を知る上で貴重な史料となっている。
なぜ『甲子夜話』と名づけられたか?については、本書1巻の序に「吾老公の誉て筆し給える紀聞の草子を甲子夜話となんいふ。そは去年の冬霜月の甲子の夜よりして記し給えるゆへに、そのまゝ書題とはなし給ひき」・・・とあり、1821(文政4)年11月17日『甲(きのえ)子(ね)の日』に書き出したことに因んでタイトルとした訳である。詳しくは以下参照。
甲子夜話 松浦静山 : 平凡社 - 電子書籍はeBookJapan : 総合図書
http://www.ebookjapan.jp/shop/title.asp?titleid=1179
、ただ、上記によれば静山 は、貴賎上下の多種多様な人々からの聞いた話を出来るだけ忠実に伝えることに留めているが、時には感動を加えるけれども、虚偽と思うものさえも、手心を加えずできるだけ聞いたまま書き留めているそうである。
私は、このような膨大な資料を読んだこともないが、あの有名な三人の武将(織田信長や豊臣秀吉、徳川家康)のホトトギス(時鳥)に関する故事、つまり、
・なかぬなら殺してしまへ時鳥 織田信長(織田右府)
・鳴かずともなかして見せふ杜鵑 豊臣秀吉(豊太閤)
・なかぬなら鳴まで待よ郭公 徳川家康(大權現様)
は、鳴かないホトトギス(時鳥)を三人の天下人がどうするか・・・その性格を言い表した句であるが、勿論、本人達が実際に詠んだ句ではなく清山の『甲子夜話』に書かれていたものが、今に伝えられいるものだということは、聞いて知っている。そのことは、以下に詳しく書かれている。
資料206 鳴かぬなら……(「ほととぎす」の句)
http://www.geocities.jp/sybrma/206nakanunara.hototogisu.html
『甲子夜話』の句には一般に聞きなれている言葉と微妙な語句の違いがあるが、それは、時代を経て変化してきたものだろうが、他の武将のものも、あるのは知らなかったよ。
ところで、『甲子夜話』に、”郭公を贈り参せし人あり。されども鳴かざりければ、”・・とあるのを見て???と思った人もあるかも知れないが、ここに書かれている「郭公」は、ホトトギスのことであり、「カッコウ」のことではない。また「ホトトギス」には一般的に、「時鳥」の字があてられるがこの字のほか、「杜鵑」(とけん。ホトトギスの漢名)の字もあてられている。
「ホトトギス」は、日本では古来より様々な文書に登場し、上記のほか、子規、不如帰、霍公、霍公鳥、杜宇、蜀魂、田鵑など、漢字表記や異名が多い。
ホトトギスは、『広辞苑』で調べると”「カッコウ目・カッコウ科」の鳥。カッコウに似るが小形。鳴声による名か。「ス」は鳥をあらわす接尾語。”とある。ネットで検索していると「ホトトギス目・ホトトギス科」と書かれているのを見るがカッコウ目の分類は未だ不明な点があり、分類学説が分かれているだけで「カッコウ目・カッコウ科」とおなじことのようだ。
以下参考に記載の「財団法人 日本野鳥の会」 を見ると分類学のことは、”「目には青葉、山ほととぎす、初鰹」とあるように、新緑の季節に東南アジアから渡来。雄の声は「キョッキョッキョキョキョキョ」という鋭い声(雄)。又、「テッペンカケタカ」「特許許可局」などと聞きなしされる特徴ある声で、日中だけでなく夜も、また飛びながらも鳴く。カッコウの仲間ゆえ、ウグイス(鶯)などの巣に卵を産み育ててもらう、いわゆる托卵(たくらん)の習性がある。”・・・とある。以下に珍しい鶯の巣で育つホトトギスの成長写真が見れる。自分で子育てをしないホトトギスって同じ様にきれいな声で鳴く鶯と違って結構横着ものなんだね~。
ホトトギスとウグイス
http://www4.kcn.ne.jp/~fuji-y/nakai/hototogisu/
それにしても、ウグイスに子育てをさせるとはホトトギスも横着だね~。ただ、ウグイスにしてもホトトギスにしても見た目には余り綺麗じゃなく、古来その綺麗な鳴き声を観賞される鳥である。
「ほととぎす鳴きつる方をながむればただ有明の月ぞのこれる」(千載161)
百人一首にもとりあげられよく知られている後徳大寺左大臣(百人一首の撰者、藤原定家の従兄弟である藤原実定)の歌であるが、ホトトギスは、平安時代には、夏の訪れを知らせる鳥として、愛されその初音(はつね=季節に初めて鳴く声)を聴くことがブームであった。
鳴きつる方とは、鳴いた方角をいい、通釈は、暁になって、やっとほととぎすが鳴いた。その声のした方を眺めると、鳥のすがたは跡形も無くてただ有明の月が空に残っているばかりだといったもの。出典は、千載集巻三(夏)からで、「暁聞時鳥(ほととぎすをあかつきにきく)といへる心を題に詠まれた歌であり、江戸時代の香川景樹(かがわかげき)は「実にけしきみえて、郭公(ホトトギス))にとりては、当時最第一の御歌といふべし」と評するなど、中世・近世を通じて郭公を詠んだ秀歌中の秀歌と激賞された。
。藤原実定とこの歌のことについて詳しくは以下参照。
藤原実定/徳大寺実定(後徳大寺左大臣)-千人万首
http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-YMST/yamatouta/sennin/sanesada.html
百人一首には、万葉集の歌人からも採られているが、この時代、ホトトギスには「霍公鳥」と書かれているものが多い。以下参照。
たのしい万葉集: 霍公鳥(ほととぎす)を詠んだ歌
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/animal/hototo.html
たのしい万葉集にも書かれているように、万葉集ではホトトギスの歌が153首も登場し、大伴家持(おおとものやかもち)が詠んだ歌が多い。また、卯の花(ウツギの花)、橘(たちばな)などの花とのセットで詠まれている歌も多くある。
たのしい万葉集: 卯(う)の花を詠んだ歌
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/flower/unohana.html
「鴬の通ふ垣根の卯の花の憂きことあれや君が来まさぬ」(万葉集巻第十-1988。作者未詳)
この歌のように、万葉の頃から卯の花が生垣に使われていたが、古来農家では家の垣根に真白き「卯の花」を植えていたがウツギの木の花である「卯の花」は「氏神の花」としてみられていたようである。それは1つには、農事の季節の到来を知らせる役目を持ち、第二には、境界を示す木、つまり、家の土地を守る役割を示し、第三には死者を葬り供養する木としてウツギを用いていたという。平安時代においてもこのような「垣根の卯の花」に神をみる心情は、「神山のふもとに咲ける卯の花はたかしめゆひし垣ねなるらん」という歌にもこめられているという(週刊「朝日百科」日本の歴史)。
しかし、同じ季節の風物詩であるホトトギスも、貴族の歌題でもてはやされたのとは別に、農民が農事と結びつけて親しみ大切にした五月(さつき)の鳥、文字通り、「時の鳥」であった。
このことは、清少納言三巻本系『枕草子』にも「杜鵑は猶更にいふべきかたなし。いつしかしたり顏にも聞え、歌に、卯の花、花橘などにやどりをして、はたかくれたるも、ねたげなる心ばへなり、五月雨の短夜に寢ざめをして、いかで人よりさきに聞かんとまたれて、夜深くうち出でたる聲の、らうらうじく愛敬づきたる、いみじう心あくがれ、せんかたなし。六月になりぬれば音もせずなりぬる、すべて言ふもおろかなり」(三八段)と書かれている。五月の鳥は六月には居なくなるのだろう。
また、枕草子には、京都に近い、村の早乙女が時鳥(ホトトギス)を讃えて、「時鳥よ おれよ かやつよ おれ鳴きてぞ われは田にたつ」という田植歌をうたっていたことは(二〇九段)は、以前にこのブログ3月16日は、「十六団子の日」でも書いたが、彼女はこの歌を聴いて、”鶯に郭公は劣れるといふ人こそ、いとつらう憎くけれ。”と怒っているが、これは、むしろ、歌に出てくる下集(民衆蔑視)の「おれ」とか「かやつ」とかの言葉が気に入らなかったようだ(このことは以下参考に記載の「[PDF]枕草子における下集の言辞について 」参照)。
この清少納言が聴いたという歌が、中世の宴曲(以下参考に記載の「●宴曲」参照)「郭公」に次のような歌詞で受け継がれているという。
「何の田長(たおさ)ぞ名もしる(著)く おれ鳴いては早苗とり 丸(まろ)は田に立つ営みに 賑(にぎわ)ひ渡る君が代の げに治まれる時の鳥」(週刊「朝日百科」日本の歴史より)。
江戸時代になると、松尾芭蕉の句に以下のようなものが見られる。
「烏賊売の声まぎらはし杜宇」
「待たぬのに菜売りに来たか時鳥 」
これは、以下参考に記載の「芭蕉db・ 芭蕉発句全集」より引用したものであるが、”上の句は、江戸の夏の風物詩ともいえる天秤棒に担いだイカを売り歩く振り売りの呼び声が耳について、ホトトギスの声がすっかりかき消されてしまう様を詠んだもの”で、下の句は、”ホトトギスの初音は今かいまかと待っている。そこにやってきたのは菜売りの呼び声、なんとまあ無風流なこと”といった意味。それにしても江戸の町ではいろんなものが売られていたんだね~。以下「江戸の行商人」を参照。
ここで注釈されているように、芭蕉の句では、常に「郭公」と書いてあっても「ホトトギス」と読む。これは、平安時代以降、ホトトギスに「郭公」の字を当てることが常習的に行われているためだそうである。
松浦清山とその随筆集『甲子夜話』のことを書くのにずいぶんと脱線してしまったが、古今和歌集の巻三・夏にはすでに随分とホトトギスに「郭公」を使っているものが多く見られる。(ここ参照)
最後に、よく知られている、豊臣秀吉の辞世の句と言われている「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」も『甲子夜話』に書かれているもので、そこには、「露と落(おち)露ときえぬる我身かな 難波のことも夢の世の中」とあるらしい(豊臣秀吉ーWikiquote参照)。
兎に角、面白い話が一杯あるようだから興味のある人は以下など読んでみるとよい。
甲子夜話
http://www.ep.sci.hokudai.ac.jp/~tsubota/chrono/kasshi.html>
あやしい古典文学の壺
http://home.att.ne.jp/red/sronin/koten.htm
(画像は、百人一首・後徳大寺左大臣。)
このブログの字数制限上参考は別紙となっています。以下をクリックするとこのページの下に表示されます。
クリック ⇒ 浦清山(随筆集『甲子夜話』有名)忌日:参考