今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

バカヤローの日

2005-02-28 | 記念日
今日(2月28日)の記念日を調べると「バカヤローの日」があった。
1953(昭和28)年、吉田茂首相が衆議院予算委員会の席上、西村栄一議員(右派社会党)の質問に対し興奮して「バカヤロー」と発言。すぐ取り消し、西村議員も了承したが、折からの自由党内の反吉田派の動きに勢いを与え、3月2日、反吉田派の欠席もあり、首相懲罰動議を可決。3月13日、不信任案が提出され、解散総選挙となった。反吉田派が、鳩山一郎を擁して分党派自由党を結成したこともあり、選挙の結果、自由党は解散時の議席222から199議席と過半数234を大きく下回り、翌1954年吉田政治の終焉を迎える。結局、この「バカヤロー」発言から解散になったことから、この解散は「バカヤロー解散」と呼ばれている。・・・が、このことに因んで、この日は日ごろ頭にきていることに対して「バカヤロー」と叫んでも良いという日だとのことである。・・・一体誰が制定・・・?
ま!人間、発言には十分気をつけなければいけませんね~。
この「バカヤロー」の言葉を聴くと思い出すのが、私が若い頃、昭和30年代後半に、大阪の会社から東京の会社へ転職したときのことである。転職したときはまだ、新幹線も開通しておらず、東京と大阪は、どちらも別々の独立した商圏であった。だから、東京にはまだ大阪の人間は殆ど居なかった。関西人の私が、先ず驚いたのが、東京の人間の早口である。私は神戸の人間であるが大阪の本町で繊維関係の仕事をしていたので、商売上から、話し言葉は、純粋な「船場」の言葉を使っおり、それが日常の言葉となっていた。船場の言葉は、神戸の言葉に比べてものんびりとしている(今吉本のタレントがしゃべっているのは船場の言葉ではない)。ところが、東京弁はすごい早口なのである。私のしゃべり方の倍以上の速さでポンポンしゃべる。最初は、まるで喧嘩を売られているような気がした。東京の人間からすると、私の話し方が余りにものんびりしていて、いかにもまどろっこしいようであった。言葉の中でも、特に、関西人には、東京の人間の「バカヤロー」という言葉を聞くと頭に「カチン」とくる。しかし、東京では、朝から晩まで、「バカヤロー」という言葉が次々に出てくる。特に、私の転勤先の年をとった専務は朝から晩まで、「バカヤロー」の連発。何と下品なと思い気になって仕方なかったが、他の社員は慣れっこでなんとも感じないらしい。関西人の私等は「バカヤロー」の代わりになんかあると「アホ!」と言う。よく聴いていると一日に何度も使っている。しかし、関西人には気にならない。ところが、この言葉を私が使うと、東京の人間は本当に怒り出す。なんか馬鹿にされたように思うらしい。これは、関西人が「バカヤロー」といわれたら腹が立つのと同じである。もし、吉田首相が関西人なら「アホ!」といったんだろうね・・・。確か、西村栄一氏は大阪府堺市の出身じゃ~なかったかな・・・?(間違ってたらごめんなさい)。そうすると、吉田首相が同じ関西人で「アホ!」と言ってたとしたら、そんなに怒らなかったかも・・・?吉田首相「あほ!」西村議員「あんた、アホやなんて、なにゆうてはりまんねんな・・・」吉田首相「アホやからアホゆうてんのやないかいな・・・」なんて漫才みたいな応酬で終わっていたかも・・・なんて想像するとすると不謹慎?・・・。関西人は「バカヤロー」とは言わないので・・・こんな「アホ!」な話でごめんね!
ここに面白い本がある。松本修著『全国アホバカ分布考』(1993 太田出版)この本によると、アホバカ境界線は岐阜県不破郡関ヶ原町大字関ヶ原西今津だったという。そして、もう少し突っ込んで調べると、、アホの神戸を過ぎて姫路に進むとダボだったという。そう・・・、私は、姫路でも長い間仕事をしていたが、確かに姫路では「ダボ」と言う。初めて「ダボ」と言われて、やはり「カチン」と来たことを思い出した。この本によると、地方によって色々と言い方がある。あなたの住んでいるところでは、どう言いますか?今日は腹が立つことに対して何といいます・・・?先ずは、以下参考に掲載のHP松岡正剛の千夜千冊 『全国アホバカ分布考』松本修でもご覧あれ・・・。
(画像は全国アホ・バカ分布考―はるかなる言葉の旅路 新潮文庫松本 修 著)
参考:
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
バカヤロー解散
松岡正剛の千夜千冊 『全国アホバカ分布考』松本修
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0718.html

新選組の日

2005-02-27 | 記念日
今日(2月27日)は「新選組の日」
1862(文久2)年、「新選組」の前身「壬生浪士組(壬生浪士隊)」が結成された。壬生浪士隊は、清河八郎の提案で、事件が頻発している京都の警護に当る為に幕府が江戸で募集をしたもの。翌1863(文久3)年2月に江戸を出発したが、京都に着いた途端、清河が壬生浪士組の目的は尊皇攘夷だと言い出したため、浪士組は空中分解してしまった。まもなく幕府の帰還命令を受けて清川ら209名は江戸に戻ったが、近藤勇・芹沢鴨・土方歳三ら24名はそのまま京都に残留、京都守護職で会津藩の松平容保の配下に入って、8月に「新選組」と改称した。その後、約4年間にわたり、京都で尊皇攘夷派・倒幕派の弾圧を行っった。
三谷幸喜脚本の2004年NHK大河ドラマ「新選組!」が放映された。
若手劇作家としての三谷幸喜の評判だけは聞いていたがよく知らなかったが、ドラマを観はじめて、なるほどと納得した。主役の近藤勇役・香取慎吾も後半段々と貫禄が出てきて役者らしい役者になっていた。それに、土方歳三役の山本耕史が、時代劇でこんなに味のある演技をするとは思っていなかった。他の若手の出演者の演技も確りしており、やはり、ドラマも作り手次第なのだと感心した。
新撰組は、本当に強かったようですね~。近藤も土方も天然理心流の使い手である。当時江戸で流行っていた北辰一刀流や神道無念流の都会的な洗練されたスマートな剣法と違って、見栄えよりももっぱら実用を重んじた天然理心流の稽古に使っていた木刀が三鷹市の竜源寺というお寺に残っているらしいが、長さは普通だが、太さは普通の木刀の3倍あるという。「肉を切らせて骨を切れ・・」という、天然理心流の教えによるものらしい。
それに、新撰組が使っていた鎖帷子は、細く鎖をつなぎ合わせた金属製の衣類で容易に刀を通さない。池田屋へ突入したのは近藤勇をはじめ、沖田総司、永倉新八、藤堂平助ら新撰組きっての精鋭といえどもたったの5名、相手の志士は約30名。実際には、新撰組の間者の山崎丞が前もって志士たちの刀を隠しておいたので、刀を失った志士たちは脇差で防戦したが、結果として、討ち取り7名召し取り23名となったようであり、それにしてもその強さが分かる。
この新撰組では、局長の近藤勇は、どちらかといえば、象徴的な存在で、いい子を演じ、人気が集まるようにしてあり、嫌なこと、嫌われることは全て、副長の土方歳三がかぶる。この新撰組の組織のあり方は、現代に通じるものであり、時代に先駆けた近代的な組織であったと云えるだろう。
私は、新撰組の近藤勇よりは土方歳三が好きであるが、NHKのドラマでは、山本耕史が実にいい味を出していた。
激動する時の流れは幕軍に利せず、1868(慶応4)年鳥羽・伏見の戦に敗れ、近藤勇が流山で捕らえられ処刑された後、土方歳三は新選組の生き残りを率いて、北関東、会津と転戦し仙台にて榎本武揚の艦隊に合流し新天地に希望を求めて蝦夷地函館に上陸。
榎本武揚らは函館新政府をつくり、アジア史上初の共和国として諸外国に独立国家を宣言するとともに、朝廷にも勅許を願い出たが、明治政府がそれを容認するはずがなく、朝敵として追討指令が出、1869(明治2)年4月、官軍の大軍が上陸。徹底抗戦したが、降伏する気配が濃くなったとき、土方歳三は、一人敵地に飛び込んで、腹部に銃弾を受け戦死した。
生前「ここで降伏しては、地下の近藤に合わせる顔がない」と言っていたという。近藤勇の死から約一年後、近藤と同じ、享年35歳であった。
日本史上最大の内戦である戊辰戦争は、1869(明治2)年5月18日に函館新政府軍の降伏でその幕を閉じた。幕府軍の幹部の中で死んだのは土方歳三、彼一人だった。 予め死を覚悟していた歳三は、5月5日、小姓の市村鉄之助を郷里多摩の日野に使に出し遺品(写真・毛髪)と辞世の歌を託していたという。
「たとひ身は蝦夷の島根に朽ちるとも 魂は東の君やまもらん 」
・・・・ううう、ますます、土方歳三が好きになる・・・・。
(画像NHK大河ドラマ 新選組 ! スペシャル DVD-BOX )
参考:
新選組百科事典
http://www.toshizo.com/

http://www.tamahito.com/body.htm
ザ・新選組
動画による京都新撰組史跡めぐり ...
http://www.the-shinsengumi.com/
~会津と新選組~幕末の会津と新選組の歴史を ...
http://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/j/rekishi/shinsengumi/
戊辰戦争
http://db.gakken.co.jp/jiten/ha/523510.htm

咸臨丸の日

2005-02-26 | 記念日
今日(2月26日)は「咸臨丸の日」
1860(安政7)年、幕府が派遣した使節団が、咸臨丸による37日間の太平洋横断航海を終えてサンフランシスコに到着した日である。
咸臨丸は1855年(安政2)年の黒船の来航に驚いた幕府が、1856(安政3)年、オランダに発注し、建造させた「蒸気帆船」である。日本の記録には「水掻捻子付(みずかきねじつき)蒸気船」とある。水掻捻はスクリューのことであり、スクリュー推進の蒸気エンジンを装備するとともに、バーク型の帆装も備えており、汽走と帆走を併用できるようになっていた船である。当時、蒸気船といえばまだ、船体の両側で水車を回して走る外輪船が普通であったので、この時期の造船技術からすると最新式の軍艦であった。
「咸臨丸」の名前の由来は、中国の『易経(えききょう)』の中にある『咸臨貞吉』という言葉からとって名付けられ、これには「君臣はお互いに親しみ厚く、情けあまねし」という意味があるそうだ。
幕末の日本人にとって日本からアメリカ大陸までの8000キロの荒波は気の遠くなるような距離を感じただろう。その太平洋に対する日本人の最初の挑戦が(安政7)年の幕府軍艦咸臨丸による太平洋横断航海であった。
長崎の海軍伝習所で日本人が近代航海術の訓練を開始してからわずか5年目のことである。咸臨丸をアメリカに派遣することを提議した勝海舟は、例え、彼が海軍の専門家であっても、近海の航海しかしたことのない彼が、咸臨丸を操作して太平洋を乗り切れる自身があったかどうかは疑問があり、これには、非常に政治的な動機があったのではないかといわれている。それは、一つには、海軍術を振興させるための目玉とすること。もう一つは日米関係を有利に導くために日本人の航海達成を示さなければならないということだろう。
1860年、日米修好通商条約の本書交換のために遣米使節を派遣することとなった。遣米使節団は、 アメリカの軍艦ボーハタン号に乗艦して渡米することとなったが、この時、使節警護の名目で海軍演習生によるはじめての遠洋航海の実地訓練を兼ねて、日本独自の船一隻を仕立てるべきだという意見がおこった。こうして、幕府軍艦・咸臨丸アメリカ渡航が決定したのである。
咸臨丸の総指揮には当たったのは、軍艦奉行の木村摂津守喜毅、艦長に勝麟太郎以下、士官・水夫併せて総勢96名が乗り組んだが、 その中に福沢諭吉、中浜万次郎(後のジョン万次郎)、などがいた。
サンフランシスコ到着は2月26日(陽暦3月17日)で、品川を出航してからの航海は、好天の日は数日しかなく、ほとんどが悪天候だったようで、波穏やかな近海の航海しか知らなかった日本人は遠洋航海の現実を始めて思い知らされる。よく咸臨丸の太平洋横断は勝海舟以下日本人だけで成し遂げた快挙のように言われており、勝海舟自身も「氷川清話」に、これは日本人がやったと大変威張って書いているらしいが、実際には、勝海舟は船酔いのために、航海中はずっと船室に閉じこもっていたそうである。後に分かったことだが、もし、この船に乗り込んでいたブルック率いるアメリカ海軍の将兵がいなければ咸臨丸はどこかで難破していたか、惨めな航海をしていただろうといわれている。兎に角、37日間の多難な航海を経て、無事サンフランシスコへ入港。全市をあげて咸臨丸一行は歓迎された。そして、復路は大きな嵐もなく無事5月5日、浦賀に入港している。
このサンフランシスコで目にした光景や、先進文明が大きな財産となり、勝海舟等から坂本龍馬など海援隊士に伝えられたことが、その後の彼等の行動力の原動力となったのである。
咸臨丸は、帰国後、小笠原諸島の開拓に派遣などの後、船の損傷・老朽が激しいため、建造から10年余りの1866(慶応2)年、蒸気機関を取り外し純帆船の輸送船となっていたようである。
その後、江戸幕府は滅亡。明治になって、新政府が出来たといっても、江戸時代の武士によって築かれた体制である。この新体制で居場所をなくした武士が続出し、その中に「榎本武楊」もいた。そして、これらの武士団は政府に反抗し、旧幕府の帆船数隻を乗っ取り、江戸から蝦夷へと脱出、その中に咸臨丸があった。しかし、途中 大時化に遭い、咸臨丸は船団を離れて清水へ漂流、仮泊していた。そこへ征討軍(新政府軍)が攻撃し、咸臨丸の兵は殺され、その屍は数日間も海上を漂っていたが、新政府軍に憚って放置されていた。このとき犠牲者の遺体を収集し、新政府軍の咎めを恐れず丁重に葬ったのが清水の侠客・次郎長である。
余談であるが、清水には今も「壮士の墓」がある。その墓碑銘は山岡鉄舟の筆になる。先日このBlogde「清水次郎長が賭博で逮捕された日」でも書いたように、次郎長は、このときのことが、きっかけで、山岡鉄舟や勝海舟、榎本武楊などと交流が出来る。そして、やくざの世界から世の中のために働くようになっていく。
一方、官軍に捕獲された咸臨丸は、大蔵省所管となり、翌1869(明治2)年、北海道開拓使の手に移り物資の輸送に従事。さらに回漕業者の元に払い下げられ、北海道の物産輸送に活躍したが、1871(明治4)年9月、仙台からの移民団を輸送中、函館湾沖で暴風雨に遭い沈没、と北海道誌は伝えている。
復元した咸臨丸が長崎のハウステンボスにあった。このハウステンボスでPR用に活躍していた。その復元咸臨丸もリース契約を解除され、ハウステンボスからなくなると聞いたが、今はどうなっているのだろう・・・。
(画像は、HTBの復元咸臨丸)


清水次郎長賭博で逮捕される

2005-02-25 | 歴史
1884(明治17)年2月25日、侠客清水次郎長こと山本長五郎が賭博で静岡江尻警察署に逮捕された。ご存知清水次郎長(1820=文政3年生まれ)は、幕末~明治維新期の侠客で、本名は山本長五郎。実父・清水港の船持船頭の息子であったが、米問屋を営む叔父山本次郎八の養子となり、次郎長と称した。次郎長は次郎八の家の長五郎を略したもの。幼時から粗暴な性格で、やがてやくざの世界に入り、富士川や海上交通をめぐって、甲斐の黒駒勝蔵や尾張、伊勢の侠客と抗争をかさねているうちに名をあげ、東海道を名古屋周辺まで収めた。穴太徳との荒神山の抗争で盟友吉良仁吉が戦死し、その報復として次郎長は、千石船2隻に手勢480人、銃40丁、槍170幹、米90俵を乗せた戦略艦隊で伊勢に上陸し、穴太徳と、そのバックにいた丹波屋伝兵衛を屈服させたというが、まるで、やくざの抗争というより、戦争に近い感じだね~。
次郎長は、1893年(明治26)年6月12日風邪がもとで74歳で死去。彼の墓は地元・清水の「梅蔭寺」にあるが、その墓銘は榎本武揚の筆によるという。
数多い博徒の中でも、度重なる抗争をしていながら、天寿を全うした者というのは次郎長の他は居ないだろう。それは、彼が単なる渡世人では終わらなかったからだ。明治維新後は、山岡鉄舟や榎本武揚といった政府の高官と交際を深め、東海道総督府判事、伏谷如水から旧悪を許され、帯刀の特権を与えられて、街道取締りの任に当たっているほか、富士の裾野の開拓、清水港の整備や清水と横浜間の定期蒸気航路の開設、英語塾の運営などの公益事業なども行っている。
このような、次郎長の74年の生涯は、ほぼ三等分されており、前半生の悪がきの時代、25歳頃から49歳頃までの腕と度胸で活躍する渡世人の時代、明治維新後の後半生は世の為人の為に生きている。
黒駒勝蔵との度重なる決闘や彼と大政・小政・森の石松ら個性的な子分の物語は浪曲・講談・映画などでおなじみだが、とくに有名なのは伊勢・荒神山の決闘であろう。しかし、これら次郎長を有名にした渡世人時代の話は、フィクションである。
1884(明治17)年1月4日 、賭博犯処分規則が制定され、全国の博徒が逮捕された。次郎長も同(明治17)年2月25日に、賭博の罪で静岡江尻警察署に逮捕された。
そのとき、清水での「咸臨丸事件(※)」以来、次郎長にほれ込んだ山岡鉄舟により託され、次郎長の養子になっていた山本五郎(天田五郎)は、義父の助命嘆願のために、長五郎の功績を一冊の講談本にまとめた。題名は『東海遊侠伝~一名 次郎長物語』。ここで、次郎長は、暴漢としての博徒ではない、義侠心に富んだ立派な人物に仕立上げられた。この本は山岡鉄舟等多くの文人の後ろ盾のもとに出版・発売されたようである。
その後、五郎は次郎長の家を辞し上洛。明治20年には、天竜寺で仏門に入り愚庵と名乗った。そして、明治25年、京都清水産寧坂に庵を結び、仏教と文学の生活をはじめた。愚庵は一生を通じ性格は剛胆で、よく詩を作り、和歌をものにしたといい、後には、正岡子規も訪れ教えを受けたといわれている。
兎に角、この五郎(愚庵)の書いた講談本が講談化され、広沢虎造によって浪曲となった。さらに昭和初期に、二代目虎造の独特の寅蔵節「旅ゆけば~」や「くいね~くいねえ~寿司くいね~」などによって爆発的な人気を得るようになる。
どこからどこまでが本当なのかは知らないが、次郎長という人物、確かに興味は感じるね~。
※「咸臨丸事件」のことや次郎長の前半生などのことは以下参考のHPが詳しい。
(画像:映画ポスター・大河内傅次郎主演:清水次郎長)
参考:
清 水
http://www13.plala.or.jp/shisekihoumon/shimizu.htm
幕末とうほく余話No7次郎長と愚庵(上)
http://www.mumyosha.co.jp/ndanda/04/bakumatu12.html
幕末とうほく余話No9次郎長と愚庵(下)
http://www.mumyosha.co.jp/ndanda/05/bakumatu02.html
雑学大作戦:知泉「清水の次郎長」
http://www.elrosa.com/tisen/90/90923.html

月光仮面登場の日

2005-02-24 | 記念日
今日(2月24日)は「月光仮面登場の日」
1958(昭和33)年のこの日、ラジオ東京(現:TBS)で日本初のヒーローものテレビ用映画「月光仮面」の放映が開始された。
当初時代劇を製作したかったらしいが、予算的に時代劇を製作するだけの予算が確保できず、鞍馬天狗をベースにした活劇が企画され、それを、原作者(川内康範氏)が、人々の危機に颯爽と現れる「踊る仮面」として創作し、「人々の苦難を救済する」=菩薩をイメージしたネーミングから月光菩薩の名をとり月光仮面とされたものという。
主演俳優も当時は東映の大部屋俳優を使い、覆面姿もアフレコを容易にするためだったそうだ。撮影も旧式のゼンマイ駆動式カメラで撮られたものを、スピーディなカット割りで作り上げ、翌1959(昭和34)年7月5日まで133話が放映された。悪人によって危機に陥った人々の前に颯爽と現れる正義の使者。白いターバンと覆面、サングラスに白いコスチュームとマントでオートバイに乗って颯爽と現れ悪を蹴散らし人々を救い出す。額には月をあらわす三日月が・・・・。放映されるや、たちまち、子供たちの圧倒的な支持を受け、最高視聴率は68%を記録し、ラジオドラマの「君の名は」同様、放送時間には街角から子供の姿が消えたという。テレビの大ヒットと共に5月から月刊少年クラブで漫画が連載され大ヒット、また、7月からは映画化もされ、月光仮面ブームとなる。子供たちは皆戸外に遊びに出て月光仮面を演じる。「正義の味方・月光仮面」・・・。子供達は風呂敷で顔を包み、おもちゃのサングラスをつけ、マントも風呂敷であった。しかし、あまりにフィーバーし過ぎ、月光仮面の真似をして、高い所から飛降り怪我をする子供が続出、惜しまれつつも1年半の短期でテレビ放映は終了した。
世の中には「正義の味方」の代名詞として、疑獄事件や政治腐敗の際には月光仮面を名乗って糾弾するものが現れるという社会現象も起こったほどである。まだ、白黒TVがやっと一般家庭に入ってきた時代の一大センセーションであった。
月光仮面"なる白覆面の不思議な人物・・・・テレビ放送開始当時の主人公・・・見られた方は覚えていますか・・・そう、無名俳優がこのテレビでスターになり、後に、「隠密剣士」などでも大活躍した大瀬康一である。
どこの誰かは 知らないけれど・・・
   誰もがみんな 知っている・・・
   月光仮面の おじさんは・・・
懐かしい歌ですね~。この歌も大ヒットしましたね~。あの懐かしい「月光仮面は誰でしよう」の歌を、「昔は若かった人たちの歌(MIDIファイル)」から、歌詞つき画面でMIDIを聞きながら歌ってみましょう。※外部サイトなので帰りは、ウエブ上の戻るボタンで帰ってきてくださいね。
(画像は講談社・特選漫画文庫月光仮面)
参考:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』月光仮面
昔は若かった人たちの歌(MIDIファイル:ポップス・歌謡曲・童謡・唱歌)