今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

「郵便列車」を廃止し「鉄道郵便局」すべてが廃局となった。

2009-09-30 | 歴史
1986(昭和61)年9月月30日「郵便列車」を廃止し、「大阪鉄道郵便局」など全国9ヶ所あった鉄道郵便局が廃局となった。
鉄道郵便局とは、鉄道郵便を取り扱うためにかつて郵政省に存在した郵便局の一種である。引受した郵便物を列車に連結した郵便車で運送、区分していた。
郵便列車は、国有(現:JR)の貨物列車の何両かを専用に借り上げ、走らせてきた。郵便物輸送の大半を国鉄が占めていた昭和40年代には全国の62路線を走っていたが、速度やコストの面で次第に航空機や自動車で輸送する分量が増加。郵便列車を廃止するまでのここ数年、国鉄での輸送は縮小が相次ぎ、東京―青森、東京―門司など5路線だけとなり、全郵便物に占める国鉄輸送のシェアは、1割前後に落ち込んでいた。
郵便列車を使った国鉄での輸送は1889(明治22)年から1世紀近く行われてきたが、国鉄が分割・民営化(1987年4月1日実施)されれば、郵便物を含む貨物輸送が全国一本化した貨物鉄道会社が承継するが、貨物会社は長距離コンテナ輸送に重点を置き、輸送ダイヤが不便になることが予想されたため、郵政省は郵便物の輸送に鉄道を利用しないことを決めた。
そして、1984(昭和59)年2月を最後に取扱便、車内継走区分が廃止され、車内での仕分けや集中局(複数の集配局の取集業務を統合した郵便集中局が昭和50年代に名古屋・横浜に設置された)以外での積み降ろしは廃止され、東京―門司間など郵便列車が走る5路線を1986(昭和61)年9月30日をもって全廃し、護送便は、自動車と飛行機に切り替えられた。これに併せて、札幌、青森、仙台、東京、長野、名古屋、大阪、廣島、熊本など全国9ヶ所あった鉄道郵便局もすべて閉局した。
当時全国約2600人いた職員は他局に配置転換したり、一部地域で新しく誕生させた自動車や航空便を使う「輸送郵便局」(青森西郵便局・長野東郵便局・郵便事業新大阪支店・久留米東郵便局参照)に移ることになった。
近代日本の郵便制度は、1871(明治4)前島密によりに創業された。翌年新橋-横浜間に初めて鉄道が開業したことに伴い開始され、以後、全国展開が図られ、飛脚やかごに取って代わった。
近畿においては1874(明治7)年、大阪-神戸間に初めて鉄道が開始し、鉄道による郵便輸送を開始した。1889(明治22)年に東海道本線が全通すると、神戸鉄道局(後の大阪鉄道管理局)が置かれ、当時民営だった山陽鉄道(現:山陽本線)ともつながった。当初は単に郵便物を運ぶための手段であり、荷物室あるいは車掌事務室の一部を区切って「郵便室」として使用していたようだが、神戸鉄道局がつくられた明治22年頃には、郵便専用車がつくられ、車内で郵便物の仕分けなどを行うようになる(車両内での区分け作業風景画像)。
郵便車の車両区分では郵便の頭文字の「ユ」を採用していた。また、扱いは荷物列車と同じ扱いとなっていた。そのため、一般の旅客列車に連結されたり、荷物車(車両称号は「荷物」の「ニ」)とともに組成された専用列車も運行されたりしていた(かっての郵便車画像)。
以来、全国に郵便車が走り、東京駅や上野駅、大阪駅など主要な鉄道駅では郵袋(行き先別に仕分けした郵便物を収納した麻袋で、「票札」というあて先郵便局のタグがついていた。内部の郵袋置き場画像)の積み下ろし作業が行われ、各地に郵便物を運んでいた。郵便車は各鉄道郵便局の職員が乗り込んで、郵便局としての機能の一部を持ち、駅のポストに投函した郵便物では、あて先方面に向かう郵便車内で消印が押されることが多かった。この消印を「鉄郵印」と呼ばれていた。
冒頭の画像は、大阪鉄道管理局が所掌乗務線路(ここ参照)の中でも1世紀余り活躍してきた東門(東京-門司)線の輝かしい業績を記念し、鉄道郵便との惜別とするために発行した「さようなら鉄道郵便東門線日付印集」の表紙(上部)と東門線全便と各駅駐在の最終日付印の一部(下部)である。消印は、当時の国鉄等の郵便車両の車中で、郵便物に押された消印(「鉄郵印」)と同じものである。(尚、この表紙絵に描かれているは、難波橋より中ノ島公園、中央公会堂を望む風景である。) 
大阪鉄道管理局の庁舎(当時の建物画像は以下参考の※「今はなき大阪の近代建築:大阪鉄道管理局」参照)は、大阪駅の北側にあったが、国鉄分割民営化後はJR西日本の本社ビルともなっていたが、現在、この場所にはヨドバシカメラ大阪店(マルチメディア梅田)が建設されている。
因みに、郵便車は郵便物運送委託法(以下参考の※:「郵便物運送委託法)参照)に基づき、旧国鉄以外に、東武鉄道、秩父鉄道、近江鉄道、島原鉄道、鹿児島交通など一部の私鉄でも運行されていたそうだ。
鉄道郵便局は、その特殊かつ過酷な作業環境におかれていたことから、鉄道局での経験と精神を称して「鉄郵魂」とも言われていたようだ。
東門線の郵便車には、“ワシントン郵政庁の碑文より”として以下の記載のある額が掲げられていたそうだ(「さようなら鉄道郵便東門線日付印集」より)。
郵便の使命
愛と思いやりをとどけ
別れた友のかけはしとなり
わびしい心をいやし
遠くはなれた家族をつなぎ
われらの日々をゆたかにする

ニュースと知識をはこび
商業と産業のたすけとなり
世界の人々の間に
たがいの理解を深めて
平和や親善を促進する

そんな、役割を担っていた郵便は、長年鉄道によって運ばれていたが、それが、車や飛行機で運ばれるようになるが、「さようなら鉄道郵便東門線日付印集」の裏表紙には、「より速く!より便利!」のタイトルに、日本地図と大阪城のある大阪から飛び立つ飛行機の絵と、「日本航空」「ANA」「TDA」のロゴが描かている。
しかし、今や、インターネットと携帯電話などの発達により、郵便による通信文書はメールに、ダイレクトメールなどは、ネット広告へと変わってきており、車も飛行機も、情報伝達の“速さ”や“便利”さではインターネットには適わなくなっている。したがッって、これまで集めた記念切手も全く、価値が半減してしまっている。少々残念である。
(画像は、コレクションの大阪鉄道管理局発行の「さようなら 鉄道郵便東門線日付印集」の表紙:上部と東門線全便と各駅駐在の最終日付印の一部:下部)
参考:
鉄道郵便局 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E9%81%93%E9%83%B5%E4%BE%BF%E5%B1%80
日本国有鉄道 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E6%9C%89%E9%89%84%E9%81%93
大阪市中央公会堂 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%B8%82%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E5%85%AC%E4%BC%9A%E5%A0%82
10月9日「世界郵便デー、万国郵便連合記念日」
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/e9c3d4034c5e97ce8d65ae7dd49187fa
鉄道郵便車~日本郵便輸送の発展を支えた歴史
http://homepage1.nifty.com/yumechan/tetudo.html
鉄道郵便日付印
http://www2u.biglobe.ne.jp/~h_abe/tetuyuu.htm
ヨドバシカメラ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%89%E3%83%90%E3%82%B7%E5%8D%9A%E5%A4%9A
アメリカ合衆国郵政省
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%88%E8%A1%86%E5%9B%BD%E9%83%B5%E6%94%BF%E7%9C%81
ジョン・ウェインの出世作『駅馬車』(1939)
http://wayne1907.hp.infoseek.co.jp/ekiba.htm
※:郵便物運送委託法
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S24/S24HO284.html
※:郵便物運送委託法
http://www.houko.com/00/01/S24/284.HTM
※:今はなき大阪の近代建築:大阪鉄道管理局
http://osaka-kodawari-kiko.hp.infoseek.co.jp/daitetsukyoku.html

テクラ・バダジェフスカ(『乙女の祈り』の作曲家)の忌日

2009-09-29 | 人物
今日:9月29日はテクラ・バダジェフスカ(ポーランド:作曲家『乙女の祈り』)の1861年の忌日。
テクラ・バダジェフスカは、ポーランド出身の女性作曲家・ピアニストだといっても、彼女のことは、ポピュラーなピアノ曲で、よくオルゴールの曲としても使われている「乙女の祈り」の作曲家だということぐらいしか知らない。
この曲は、ピアノの音色を生かしたメロディの美しい小曲であり、ピアノなど習いはじめた人の多くがベートーヴェンの「エリーゼのために」などと共に最初にあこがれる曲であるようだ。
彼女は、1834年(?。生年は正確には不明のようだ)、ポーランドの首府(首都)ワルシャワ生まれで、本格的な音楽教育は受けていないそうだが、当時パリにあった「レビュー・エ・ガゼット・ミュジカーレ」という音楽雑誌は毎号付録として小品のスコア(総譜・楽譜)をつけていたが、1859年、どういう偶然か彼女が18歳の時に作曲したという『乙女の祈り(仏語:La prière d'une vierge)』の楽譜が掲載され、これが評判を呼び、あっと言う間に世界中にその名が知られるようになったという(以下参考の※:「おんがく日めくり | YAMAHA」参照)。
1861年、わずか27歳?で世を去ったために、彼女に関する作品や資料の大半が消失したというが、この曲他、30曲あまりの小さなピアノ曲を残していることがわかっているようだ。
2007年に、キングレコードからバダジェフスカの作品集がリリースされているが、収録曲のほとんどが初録音であるという。以下参照。ここでは収録曲17曲が試聴出来る。
ピアノ作品集〜乙女の祈り、ほか ユリヤ・チャプリーナ【CD】(解説付き:試聴可)
http://www.hmv.co.jp/product/detail/2597212
又、以下では、ピアニスト瀬田敦子(以下参考の※:ピアニスト瀬田敦子Official Website)のピアノ演奏が聞ける。
YouTube -La prière d'une vierge Atsuko Seta
http://www.youtube.com/watch?v=loJY25HOIr4&feature=related
このバダジェフスカの「乙女の祈り」のメロディを大幅にアレンジしたものが、1960年に、同名の「乙女の祈り」でザ・ピーナッツの歌唱によりカヴァーされている。
当時、ザ・ピーナッツはオリジナル楽曲をあまり歌わず、専ら外国カヴァー曲を歌唱していたが、前年(1959年)に発表されたベートーヴェンの「エリーゼのために」のメロディをアレンジした「情熱の花」と同じく、作詞は、音羽たかし、編曲は宮川泰によるものであった。
「ララララーラー…私の胸に」で始まる「情熱の花」は、NHK紅白歌合戦【第10回】などでも歌われ、広く知られているが、ザ・ピーナッツの歌う「乙女の祈り」の場合は「情熱の花」ほどCDなどへの収録も少なく、余り知られておらず、聞いたことの無い人が多いのではないか。以下で試聴できるので 聞いてみるとよい。良い歌だよ。
ピーナッツの"ザ・ヒット・パレード" [生産限定盤] CD (試聴可)
http://www.neowing.co.jp/detailview.html?KEY=KICS-1431
キングレコードからリリース(発売)されたバダジェフスカの作品集【CD、17曲】の解説書にもあるように、彼女の曲には「乙女」「祈り」と題された曲が多い。「乙女の祈り」「乙女の感謝」「第2の乙女の祈り」「母の祈り」さらに「乙女の祈り」のアンサーソングと言われる「かなえられた祈り」(乙女の祈りへの返歌)など。解説では、彼女の曲は、どれも美しいメロディが用いられており、透明かつ上品で、不思議な癒しの効果があり、心が洗われるかのようだというので、これらの曲を試聴してみたが、最後の「乙女の祈り」は前奏部分の非常に重々しいところで終わってしまい、代表曲の「乙女の祈り」や他の曲とは大分違うな~と思い、もう少しフルに聞きたいと検索するとそれが見つかった。余り聞けない希少な曲だが、以下でその MIDIが聞ける(94.バダジェフスカ 「かなえられた祈り」のところを参照)
ソクラテスの海>MIDIのページ1
http://elleander.web.fc2.com/midi2/midix.htm
これを聞くと、確かに出だしは、短調でやや重々しいものの、すぐにまた美しいメロディへと移っていく。「乙女の祈り」と同じくシンプルな変奏曲である。
「乙女の祈り」は彼女が18歳のときの作品というから正に彼女自身が乙女のときの作品である。そんな乙女の「祈り」とは何か・・・?
彼女の作品には「信仰」などといった曲もあるので、クリスチャンとしての平和や宗教的な祈りなども考えられなくもないが、19世紀の時代に生きた乙女の祈りといえば、やはり、恋愛ごとに決まっているだろう。そして、出来れば、裕福な家庭の、優しく、立派な男らしい男性との幸せな結婚を祈り、夢見て」いただろうと推測できる。そんな「乙女の祈り」のアンサーソングが「かなえられた祈り」。素敵な男性と巡り合い、幸せな結婚への祈りが叶(かな)う。「かなえられた祈り」の重々しい前奏部分はそのような結婚への期待と不安を表現しているのだろうが、それは、やがて明るいメロディーへと変化する。結婚への不安も解消し幸せな結婚生活が実現していったのだろう。
広辞苑など日本の辞書で乙女とは、“年若い女性。未婚の少女。生娘(きむすめ)。処女。穢れを知らない女性。”をいうが、今の時代、耳元で吐息混じりに「乙女・・・」などと囁かれたら、青梅の酸っぱい香りが鼻腔を掠める人と言えば、もう、私等のようないい年をした年代の男性だろう。
そんな熟していない青梅の酸っぱい香りのする乙女の定義がまだ健在な頃、大正時代に編まれた吉屋信子少女小説花物語』は、少女の繊細な心模様を数々の花に托した54の短編からなる連作集だ。すべて題名は「鈴蘭」「月見草」「白萩」といった花の名前にし、その花をモチーフにしたはかない少女の物語の世界は、女子が女子に憧れ、寄り添い、ひいては女子が女子に恋さえし、男はほんの添え物で、殆ど無用の存在にしかすぎない。この連載を継続するうちに、少女同士の関係が破綻する話が増え、さらに自殺や心中へと至る話も増えたことから、識者や同性の女性からさえも批判を集めもしたという。しかし、後年は、全編から一貫して読み取れる、少女期を「女性の人生で最も美しい時代」とする価値観や、「女性が男性の脇役に留まらずに同性と友情を育みながら自我を形成する姿は、従来から存在していた様々なモラル(moral、Yahoo!百科事典 参照)を超えたものであると評価されている。
しかし、「露出はアタシらにとってのファッションの一部!」などと言わんばかりに、身にまとっている衣服の面積は小さくなり一方で、今や、おへそは丸出し、しゃがめばお尻の左右の境界線さえも見えるほどのヒップボーンのショートパンツやスカートを履いている現代の女の子たちを見ていると、私らの年代の者には、まるで饐(す)えた臭いのする果実ぐらいにしか感じない。
戦後、栄養がよくなると、精神面の成長に比べて、肉体的な成育は早まり、特に女性の身体は立派になった。その分、への目覚めも早く、早い子は小学校の高学年に、又、中学生にもなると「処女」を喪失する子が多く居るなどと聞かされるとぞっとする。そして、出来ちゃっった婚が、普通のようにマスコミなどでも報道される時代となり、挙句の果てに、バツイチなんて言葉が、流行語のように使われている。今の「少子化」の時代には、結婚しても子供をつくらないよりは、お国の為になっているので、子供手当を支給するからと・・・・・・このような現実を奨励する方がよいのかね~?
いずれにしても私たちの年代の者には、今の若い未婚の女性からは、懐かしい「乙女」なんて言葉は脳裏を過ぎりもしないのだが・・・。
今の時代の「少女(乙女)の祈り」・・・て、どんなことを祈っているのだろうね~?
(画像は、キングレコード【1960.02】のザ・ピーナッツ「乙女の祈り」のジャケット)
参考:
※:おんがく日めくり | YAMAHA
http://www.yamaha.co.jp/himekuri/view.php?ymd=19990929
乙女の祈り - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%99%E5%A5%B3%E3%81%AE%E7%A5%88%E3%82%8A
※:ピアニスト瀬田敦子Official Website
http://www.page.sannet.ne.jp/atsuko1/
ザ・ピーナッツ♪乙女の祈り
http://homepage.mac.com/infant/home/090.html
曲の性格や表情を暗示するために用いる用語【曲想一覧表】
http://www.nasuinfo.or.jp/freespace/mukudori/expression.htm
変奏曲
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%89%E5%A5%8F%E6%9B%B2
テクラ・バダジェフスカ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%80%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AB
吉屋信子 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B1%8B%E4%BF%A1%E5%AD%90
吉屋信子「花物語」の変容過程をさぐる
http://www.mimasaka.ac.jp/intro/bulletin/2001/yokokawa/yoko.html
asahi.com(朝日新聞社):吉屋信子は終わらない 少女たちのはかなくも凛とした世界
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200807200088.html
できちゃった結婚 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%81%A1%E3%82%83%E3%81%A3%E3%81%9F%E5%A9%9A
バツイチ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%84%E3%82%A4%E3%83%81
民主党:子ども1人当たり月額2万6000円支給へ 「子ども手当法案」参議院に提出
http://www.dpj.or.jp/news/?num=12437
子ども手当法案
http://www.shugiin.go.jp/itdb_gian.nsf/html/gian/honbun/houan/g16902013.htm
ヒップハング - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%B0

二代目は熱意で勝負

2009-09-27 | ひとりごと
松下電器産業(現:パナソニック)を一代で築き上げ「経営の神様」とも呼ばれ、今なお多くの経営者に影響を与え続けている松下幸之助 が折々に語った人生や仕事、経営や国家・社会に関する英知と洞察にあふれる言葉を厳選して「一日一話」の形にまとめた語録集が、『松下幸之助 [一日一話]』 として、PHP研究所より発行されている。困難な時代を幾度も乗り越えた人生経験、また経営者としての数々の体験から得た考え方は示唆に富んでおり、多くの企業で、教育用にも使われている。
その9月27日の「1日1話」に「二代目は熱意で勝負」がある。内容は、以下の通り。
”先代が築いた基盤を受け継ぎ、若い二代目の人が社長に就任する場合、それなりのむずかしさが当然あると思います。
そこで、一つの行き方としては、まず、会社の古くからいる先輩の人に「私はこう思っているのだがどうでしょう」と、うるさいほど熱心に相談をもちかけていくことだと思います。そうしていけば、その熱心さが必ず相手に伝わり、信頼感を生むと思います。また、そういう熱意にあふれた姿に対しては、社員が頼もしさを感じて自然と助けてくれるようになります。ですから、そのような腹の底からの熱意を持ちうるかどうか、それが二代目社長としての勝負の一つの分かれ目である、という気がします。」・・・と。
私的なことになるが、私は、2度転職をしている。最初に就職をしたのは大阪の財閥系の企業であったが、そのため非常に古い体質である事から、自由奔放に仕事をやりたい私の体質には合わず、最初に転職したの、今まで仕事をしていた関係から良く知っていた、当時、最も急成長を続けていた東京の企業で、すでに、東証1部にも上場を果たしていた。トップには非常に先見性があり、急成長している新しい企業だけに社員の平均年齢も若く、明るく生き生きとした社風で仕事も非常にやりやすく今でも私の大好きな会社であったが、そんな企業にも弱点があった。それは、余りにも先進的であり過ぎたこと、そして、余りにも急成長をし過ぎたことから、企業としての管理の基本原則である成長性・安定性(安全性)・収益性のバランスを欠いたことである(これらの見方等は以下参考の※:「財務諸表の読み方 - 企業決算 - 株式 - goo マネー」参照)。細かいことは、省略するが、結果的に、特に在庫管理の不味さから財務面での問題を発生させ安定性に支障をきたした。財務面では、銀行その他企業の支援もあり、又、在庫管理面でも優秀な人材が派遣され問題は直ぐに解決し、今も立派に営業している。
しかし、私が転職したのはその後の更なる発展性に疑問をもったからだ。とはいえ、転職は、結婚をして6ヶ月程経った時であり、家人のお腹の中には既に我が2世ができているのがわかったときであり、しかも、バリバリの一流企業で、十分な成果をあげ、会社からも期待されていたにもかかわらず、当時はまだ中小の未上場企業へ転職するというのだから、家人をはじめ家族は非常に驚き、猛反対していたが、将来性を買い私は強引に決めた。まだまだ発展途上にある中小の企業であったが、非常に企業理念が確りしており、人(従業員)を大切にし、従業員教育を徹底していた。その企業のことは、取引もあったし転職する前に会社の内容等も十分調べておいたので、私は必ず成長すると確信していた。ただ、中小の急成長会社共通の弱点は人材不足であるが、そこにハントされ、自分の力が十分に発揮できれば十分満足である。転職に関しては支店長などから引き止めもされたが、最後には、私の熱意に負け支店長自ら推薦までしてくれた。しかし、外から、見るのと内から見るのとでは、かなりの差はあった、特に、人材の不足が目だった。しかし、中・長期の目標をきっちり立て、目的達成のために、単に数値目標だけではなく、企業を背負って立つ将来の幹部候補生を何時までにどのようなクラスを何人育成するかまで、確り計画し育成していた。企業にとって優秀な人材の育成が急務であること十分に認識していたからだ。そして、社風を守るため就業規則等社規を徹底。当時、普通の会社ではこのような規則はせいぜい数ページの簡単なものであったろうが、ここは、数十頁もあるもので、特に、懲罰規定がこと細かく決められていた。最初、それを見た者は、どうして、このような罰則規定をこと細かく定め、時間をかけて教育するのかと戸惑うのであるが、それには、理由があった。会社は、誰もが、前向きに自由に行動することを最も望んでおり、その為には、これだけは絶対に「してはいけないこと」を理解させ、それを犯さない限りにおいて、何でも自由にやってくれと言うのが本旨である。又、合理的に職務追行するための業務規定・マニュアルの教育と管理も徹底していた。それは、急成長会社である故に、人材の育成が間に合わず、それを補うため中間採用も多くしているが、それぞれ違った環境で異なった文化を持って育っている。又、プロパーの社員には経験・知識不足のものが多く、企業文化を共有し、誰にも最低限の仕事が出来るようにしておく必要があったからだ。そのような周到な企業が中・長期目標に向って、着実に地道な努力を重ねた結果、時流にも乗って、今では超一流の企業と言うよりもコングロマリット に成長し、グローバル化の中、今では世界のトップ企業を目指し、それに向けた目標を設定し邁進している。そのような企業へ家族たちの反対を押し切って転職したが、その企業の成長の基礎作りに、私なりの貢献をしてこれたことを非常な誇りに思い満足を感じている。同企業からは退職後もう10年以上にもなるが、今だに、毎月社内報等が送られてくるなど、退職者などとの繋がりも密接にしている。
その会社は、業界の中でも歴史的には古く、江戸時代から存在していたが、今のように発展させたのが創業者であるとすると、私がいた時、2代目が社長を務めるようになった。しかし、非常に先の先まで計画をし着実に、成長させ、バランスのとれた経営を進めてきた企業だから、創業者は従業員の教育だけではなく、ジュニアのことも十分に考えている。そして、帝王学を身につけさせるため、最初から自分の息子を自分の経営している会社に、入れたりはせず、他社で十分の経験を積ませる、昔で言うところの修行を積ませた後に入社させている。そして、社長に就かせる前には、現場でいろいろなポジションを経験させ、会社のこと、社内事情等十分に理解させながら、段階を経て社長に就任させている。私は、会社では入社当時から営業を主に担当していたが後に管理面の仕事もした後、上場する頃から社長スタッフとしての仕事を長年やっていたのでその辺の事情は良くわかっている。発展段階で合併業務が相次ぎ、その合併業務や管理業務に携り、後には私もそのような合併会社へ出向し、そこの役員を兼務するようになった。合併で、最も問題になるのは、2つ。先ず社風・文化の異なる人問題と、会計業務、コンピュータも含めたシステムの問題である。組織や制度・システムのほか文化(企業風土)の統一を早急に図らなければ非常にギクシャクした関係が出来合併の成果が出ない。その解決のための出向であった。
2世のことにもどるが、どこでも優良企業の場合、役員になると社用車で会社まで送り迎えするのが普通だろうが、この2代目は社長に就任してからも電車通勤を止めようとはしなかった。大企業の責任ある社長が、電車通勤では不測の事態があれば大変と、周りの者が気をもみ幾ら説得しても、社用車などで会社との往復をしていると、世間のことが分らなくなると言うのが理由である。関係者が総出で説得をして、やっと、社有車を使うようになるまでには相当の期間があった。
そのような、2代目だから、『松下幸之助 [一日一話]』に書かれている「二代目は熱意で勝負」のようなことは、まるで心配することなど無かった。親父が創業した会社だからと言って、偉ぶるようなところはなく、最初から非常に低姿勢で、誰の意見でもよく聞くし、逆に自ら周辺の者や専門のスタッフに質問し教わるようにしていた。
会社の従業員教育が徹底していることは、先にも述べたが、社員の評価に男女間格差や学歴・入社暦は関係なく、成果第一主義である。社是でもある絶えざる改革と新しいことへのチャレンジ精神とその実行力が最も評価される。決まりきったことを真面目にただ無難に処理はしても、失敗を恐れチャレンジしないものの評価は低い。その代わり、例え失敗しても必ず再チャレンジの機会は与えられている。又、上級職への登用も、全社員に平等に与えられており、資格試験をパスしないと上級職へは上れない。そのために普段からの自己育成が求められており、会社からは、絶えず、そのための機会を与えられるが、自己育成を兼ねて登用試験用の問題にも関連する図書などが多く紹介される。会社は常に、将来の為に自分自身への投資をすることの重要性を説いていた。今の時代、会社にとって、自分にとって必要なことが何かを悟り、的確に実行しうる知識を身につけておかなければならない。会社の急成長にあわせて、自分の能力も常にアップしてゆかないと、実力主義の中では後輩に直ぐに追い越される。松下幸之助のここに紹介の本程度のものは初級クラスの参考図書に含まれている。だから管理職と言われるもの読んでいないものはいない。ただそれを実行できるかどうかである。
何もないところからビジネスを作り上げるのが、創業者であるならば、2代目は、創業者の作り上げたものを受け継ぎさらに発展させてゆかなければいけない。
よく、創業の難しさよりも、それを守り育てる守成(維持継続)の難しさなどが中国の歴史上の人物、項羽劉邦を例に議論され、守成(維持継続)の難しさが説かれている。そしてそれが、2代目の役目のように・・・。
私のいた会社でも成長の過程で、一呼吸おき、体制を立て直さなければいけない時期が何度かあった。そして、そのような時期には司馬遼太郎の歴史小説『項羽と劉邦』が会社からの推薦図書となったりもした。
私が関係していた関連会社などでもあったが、普通の会社でよく見られる光景は、2代目が社長に就任しても、創業者である元社長が会長や相談役に留まっており、旧来からいる幹部連中は相変わらず会長(創業社長)の指示で動いていたり、また、会長自身は、2代目の社長に全てを任せているにも拘らず、幹部連中が絶えず創業者の顔色を窺いながら仕事をしていることである。もっと困るのは、会長と2代目社長の意見が一致せず、権力の二重構造(以下参考のYahoo!百科事典参照)が出来、幹部や社員が右往左往させられることである。何もこの図式は、初代と2代目の関係だけではなく、社長と専務、又、専務対常務などでもよく見られる構図である。このような、関係が堂々とまかり通っている会社が上手く行くわけは無い。
先の第45回衆議院選で大勝した民主党においても、党首である鳩山小沢の関係にこのような権力の二重構造が心配されている。これは、絶対に無くさなければいけない。
少なくとも、私がいた会社では、創業者である元社長と現社長の役割分担は明確に決まっており、また、思想や理念の違いがあるわけでもなく、創業者が蔭で社長とは別の支持を出すとか、2人から別々の指示が出るといったようなことは無かったが、やはり、当初は、幹部連中が小ざかしく、自分達の都合の良い方へすりよって、点数を稼ごうとする者は結構居た。これは、どこの企業でもある事だろう。ただ、その様な者の意見を採り上げるか採り上げないかは、創業者又社長の器の問題だ。会社の教育で、「あなたの上司はただ1人」であることは徹底されており、命令系統の混乱などは起らない仕組みになっている(命令系統の統一)。
それに、会社は、耐えざる変革(改革)と前進を目指しており、創業者が、つくり上げた会社を守成(維持継続)してゆくなどと言う考えは持っていない。その会社を絶えず変革させ前進させてゆくことが絶えず求められている。創業者の口癖に、“企業には寿命がある”。何時までも存続は出来ない。今の時代では、30年は持たないだろう。だから、絶えざる変革のもと新しいものに生まれ変わってゆかなければいずれ、滅び去るより仕方が無いだろう・・・と。
「経営の神様」とも呼ばれた松下幸之助が創業した企業でさえもも、刻々と日本及び世界の情勢が変化する中、世界展開において、企業名や、組織運営のこだわりがあったことから、「松下」「ナショナル」「パナソニック」などの名称を使い分けることによるデメリットが年々増大し、ブランドイメージの統一が課題となっていた。 そこで、幸之助氏の存命中から海外で知名度の高い「パナソニック」への統一が検討されていたが幸之助氏が激怒したため棚上げになっていたというが、その様なことは業績にも響いたであろう。そのような縛りから抜け出すために、2008年度定例株主総会にて社名を「パナソニック株式会社」とすることが承認され、新たな出発をしている。
改革とは、既存の制度・機構(組織を組み立てているしくみ)・組織等を改めることである。
今回の衆議院選で自民党が大敗したのは、国民が、今までの自民党を否定し、それに代る政権党として民主党を選んだのであり、民主党のマニフェストが優れている、又、民主党員が優れているからではないだろう。
小泉政権の後、安倍・福田・麻生と政権のたらい回しをし、特に麻生氏らの首相としての適性や人間性が問題視されがちだが、自民党大敗の根幹には、国民が大きな期待を寄せ、前回の第44回衆議院選挙で大勝した小泉首相(元)の構造改革路線がかつての輝きを失い、それにつれて国民の期待感もしぼんできたことであることは、以下参考の※:「権力の二重構造にメスを入れよ」に書かれている通りであろう。つまり、構造改革に一番必要な「意思決定の構造改革」に十分手が回らなかった。意思決定プロセスにおける権力の二重・三重構造が弊害になっていたのである。内閣の主導権を確立できなければ、どこの政権であろうと、どんなに素晴らしい構造改革のアイデアを持っていたとしても、それをスピーディに実行することは不可能である。小泉政権での郵政民営化問題や格差社会の拡大等が問題視されているが、日本の政治が、意思決定の主導権を確立できない以上、改革はなかなか進まないであろう。小泉氏はそれが出来ないまま政権を安倍氏に譲り、その後次々と政権のたらい回しをしてきた。しかし、世界情勢が大きく変化しているにも拘わらず、結局どの政権も最も大事な構造改革問題には着手しないまま今日まできたことが、55年体制以来続いてきた自民党崩壊に結びついたものと私は思っている。
民主党が政権をとり、政治主導内閣をつくり、霞ヶ関の改革をしようとしているが、これが、出来なければ、これからの日本は本当にダメな国になってしまうであろう。ただ、政治主導のあり方については、過度の官邸への権力集中で問題となっている英国のようにはならないよう留意が必要(以下参考の※:過度の官邸権力集中、こじれた英の「政治主導」参照)。
政権交代したことについて、世間やマスコミでは、「民主党には経験と実績がないので心配」・・・などと言っているが、何を、ナンセンスなことを言っているのかと、ただ、呆れるばかりだ。今まで、政権に就いたことの無い党が、初めて、政権について、最初から、何事も無く、上手く行くはずが無いのは当たり前ではないか・・・。
先進の西欧諸国、イギリス、ドイツ、フランスなどでも、変革の痛みを味わいながら、それを何度も繰り返して今の時代に至っている。痛みを伴なわない変革などあるものか。
日本人は、改革を嫌い冒険をしようとしない人が多いとよく言われる。何もかも、人任せ、そのくせ、何か、問題があると、政治が悪い、行政が悪いと人事のせいにするところがある。そもそも、55年体制以降、全く政権が変わらず、それでも何もおかしいと思わないのが不思議なくらいである。政治が悪い、行政が悪いのも結局、国民が改革に臆病で、変化を好まず、政治や行政にたいしても無関心すぎたことが今日の結果を招いたと言える。しかし、今回、初めて、国民が選挙において本気で、清き1票を投じれば政治が変わることを証明した。これから、改革の苦しみが始まる。
今までのような、古いやり方をそのまま継続するのではなく、改革を進めるのには、大変な苦労と痛みを伴なうことは覚悟をしなければいけないだろう。それを、望んで民主党を選んだ以上、たとえ、途中で失敗することがあっても、改革に真剣に取り組んでいる以上は、そのような政権を長い目で、暖かく見守り、応援してゆく必要があるだろう。細かいマニフェストの実行云々ばかりに気をとられずに、政治改革を進める手を緩めないか・・・そのことを、しっかりと監視してゆかなければいけないだろう。日本の将来の為に・・・。又、そのために、野党となってしまった自民党も今までとは違う、健全な野党として、何でもかんでも反対の姿勢ではなく、是々非々で協力すべきところは、協力する姿勢がないと、次の政権交代は望めなくなるであろう。
(画像は、PHP総合研究所編・松下幸之助 [一日一話] )
参考は別紙です。⇒ ここ

二代目は熱意で勝負:参考

2009-09-27 | ひとりごと
二代目は熱意で勝負:参考
松下幸之助 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%B8%8B%E5%B9%B8%E4%B9%8B%E5%8A%A9
松下幸之助 [一日一話] 9月9日 | お楽しみ | PHP研究所
http://www.php.co.jp/fun/matsushita/
日めくりカレンダー:hi-ho
>http://kurashi.hi-ho.ne.jp/cale/day5.html?year=2007&month=9&day=27
コングロマリット - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%AD%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%88
役員 (会社) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%B9%E5%93%A1_(%E4%BC%9A%E7%A4%BE)
項羽と劉邦 (小説) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%85%E7%BE%BD%E3%81%A8%E5%8A%89%E9%82%A6_(%E5%B0%8F%E8%AA%AC)
権力 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%A9%E5%8A%9B
改革 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%B9%E9%9D%A9
就業規則 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%B1%E6%A5%AD%E8%A6%8F%E5%89%87
グローバリゼーション - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%AB%E5%8C%96
帝王学 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E7%8E%8B%E5%AD%A6
システム - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%A0
第45回衆議院議員総選挙- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC45%E5%9B%9E%E8%A1%86%E8%AD%B0%E9%99%A2%E8%AD%B0%E5%93%A1%E7%B7%8F%E9%81%B8%E6%8C%99
構造改革 -Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A7%8B%E9%80%A0%E6%94%B9%E9%9D%A9
構造改革への視点
http://www.res.otemon.ac.jp/~murakami/kouzoukaikaku01.htm
首相官邸 - 小泉構造改革
http://www.kantei.go.jp/jp/kouzoukaikaku/
※:二重構造-Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E4%BA%8C%E9%87%8D%E6%A7%8B%E9%80%A0/
※:財務諸表の読み方 - 企業決算 - 株式 - goo マネー
http://finance.goo.ne.jp/yuho/sonekikeisan.html
※:権力の二重構造にメスを入れよ
http://www.murc.jp/nakatani/articles/misc/20020404_fr.html
※:過度の官邸権力集中、こじれた英の「政治主導」
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20090906-OYT1T00842.htm

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「いとこいさん」の愛称で大阪の庶民に親しまれ漫才師夢路いとしの忌日

2009-09-25 | 人物
「いとこいさん」の愛称で大阪の庶民に親しまれ、豊かな大阪弁を生かした、「しゃべくり漫才」で人気を集めた兄弟コンビ「夢路いとし・喜味こいし」の兄・夢路いとし(本名・篠原博信=しのはら・ひろのぶ)が、亡くなったのは、今から6年前の2003(平成15)年9月25日。つまり、冒頭に掲載の向かって右の画像:大阪・難波千日前のワッハ上方演芸ホール(以下参考の※:「ワッハ上方」参考)での公演(2003年5月25日)から丁度4ヵ月後のことである。死因は、9月25日の午前0時35分、自然気胸肺炎を併発してのものだったそうだ。78歳だった。
大阪の漫才では、いわゆる「ボケ役」「ツッコミ役」と呼ばれる二つの役割(役割は「ボケとツッコミ」参照)をそれぞれが担当して演じられるが、「ツッコミ」役を弟のこいしさんが、「ボケ」役を兄であるいとしさんが演じていた。ボケ役は、そのとぼける行為によって笑いを誘うことが多かったことからとぼけ役と呼称されていたが、いとしさんのすーっと力を抜いたとぼけ役は、どこまでが、本当で、どこからが作り役かわからないしゃべくり。独特の間合いと柔らかなユーモアが時代と世代を超えて多くの人達を楽しませてくれた。
上方演芸界にその名を知られる漫才師のいとしさんが、大阪の出身ではなく、1925(大正14)年3月27日、神奈川県横浜市鶴見区の出身であることは、いとしさんが亡くなるまで知らなかった。彼らの家は旅回りの芸人一家であったため、彼もただ横浜生まれだというだけで、横浜以外にも、全国津々浦々の地を少年時代からまわっていたことから、2歳年下のこいしさんは、川越市で生まれたという。
1940(昭和15)年、上方漫才(関西圏の漫才をこう呼ぶ)の草分け、荒川芳丸に入門し、「荒川芳博・芳坊」と名乗り、兄弟コンビで漫才の修行時代に入る。その後、吉本興業に入り、子供漫才として舞台に立つた(デビュー)後、吉本が運営する寄席で稽古を積むが、「いとし・こいし」を名乗りだしたのは戦後間もなくのこと。
このコンビ名の由来は、当時の流行歌“昔恋しい銀座の柳・・・”から、「こいし」をとり、その対句「いとし」が浮かび、どちらにするかじゃんけんで決めたという(2003年9月29日朝日新聞朝刊)。
昔恋しい 銀座の柳
仇な年増を 誰が知ろ
ジャズで踊って リキュルで更けて
あけりゃダンサーの 涙雨
この歌は、「東京行進曲」。作詞:西條八十、作曲:中山晋平で唄は佐藤千夜子。1929(昭和4)年、日活制作の同名映画「東京行進曲」の主題歌だったようだ。わが国の映画主題歌第1号とされているそうだ。1番から4番まであるが、1番は、当時から日本一の繁華であった・銀座の様子が歌われており、2番では丸ビル界隈、3番浅草、4番新宿が歌われている。以下では、佐藤千夜子の歌と共に、当時の東京・銀座界隈の風俗が窺えて楽しいよ。
YouTube - 東京行進曲
http://www.youtube.com/watch?v=08RPHcsuUN4
少し余談だが、木造住宅のため火災の絶えなかった東京の都市構造上の欠陥を断ち切るために、1872(明治5)年の大火を機に1877(明治10)年頃、家屋をすべて石造りとして「銀座煉瓦街」ができた。
この時、風趣を添える街路樹として松、桜、まきの類も植えたが、風塵のために育たず、次第に柳だけになってしまった。それを、1921(大正10)年いちょうに植えかえられたが、柳の風情を惜しむ声が強く、1929(昭和4)年に、この昔恋しい銀座の柳”の「東京行進曲」が一世を風靡し、1931v(昭和6)年、柳並木が復活、そして再び西条、中山コンビが「銀座の柳」(1932年【昭和7年】制作同名映画主題歌)を作り「 植えてうれしい・・」と四家文子が歌った。しかし、第二次世界大戦での東京大空襲によりほとんどが焼失、その後復活したが、1968(昭和43)年銀座通りの大改修等により、銀座通りから柳並木がなくなってしまったという(以下参考の※:銀座柳の碑所在地、※:銀座の柳など参照)。
私など、どちらの歌も知ってはいるが、やはり、「銀座の柳」より「東京行進曲」の方が良いな~(以下参考の※:「懐かしの流行歌公開MIDIリスト」にはどちらのMIDIもあるので聞き比べてみると良いね)。
本題に戻るが、いとし・こいしが、音曲や言葉遊びで笑わせる演芸「萬歳」を、日常の会話スタイルの「しゃべくり漫才」にした漫才作家・故秋田實に出合ったのもこの頃である。
秋田は、戦争により寄席も壊滅し途方にくれていた若手漫才家たちの相談相手となり彼らを集めて1948(昭和23)年に結成した集団「MZ研進会」に加わり、この時「夢路いとし・喜味こいし」(当初は「夢路いと志・喜味こい志」)に改名し、腕を磨いた。そして、秋田が1950 (昭和25 )年に阪急電鉄(現在の阪急阪神ホールディングス)創業者の小林一三と立ち上げた軽演劇集団「宝塚新芸座」(以下参考の※:「ぼくが宝塚を愛でる理由(わけ5)※:「宝塚新芸座とは?」参照)に参加、この年9月から始まった関西喜劇番組の先駆となった「気まぐれショーボート」(NHKラジオ)で人気者に。その後、新芸座側が次第に演劇に傾倒してゆき、漫才師は漫才を中心にするものという信念をもっている秋田は、小林と対立。独立して芸能事務所「上方演芸」(のちの松竹芸能)を発足させ、いとしらもここに所属する。
その後は上方演芸から東宝芸能関西(のち、大宝芸能から大宝企画に改称)に所属。道頓堀角座(1984年閉鎖)、梅田トップホットシアター(1976年閉鎖)、道頓堀演芸の浪花座(2002年1月閉館)に定期的に出演するなど、舞台だけでなくラジオ、テレビ、映画と広範な活躍をしていた。
代表作は、ちびた鉛筆をなめながらメモを取るお巡りさんが登場する「交通巡査」、ネクタイ、ワイシャツをはさみで切り合う「洋服屋」、料理法を伝授する「ジンギスカン料理」など。身近な家庭の話題をうまくネタに取り入れることに定評があった。又、テレビの「がっちり買いまショウ」の司会でも有名で、「10万円7万円5万円、運命の分かれ道」などの早口芸や顔芸などもやっていた。
兄弟で2戸続きの家を買った際、仕切りの壁に穴を開けて1台の電話を置いたというネタは実話であったそうだ。同じ兄弟コンビの漫才で人気のあったダイラケ(中田ダイマル・ラケット)のような奇想天外なネタではなかったが、ひょうひょうとした味わいは何物にも代えがたく、おかしみを誘うものであった。
上方お笑い大賞上方漫才大賞など、お笑い関係の主要な賞のほか、1993(平成5 )年には芸術選奨文部大臣賞を受賞。1999(平成11)年11月には大阪市指定無形文化財にも指定されている。
今では、大阪でも、コントチックなネタを使う若手漫才師が人気のため、正統派のしゃべくり漫才を演じられ若手漫才師が余り見られなくなり残念である。
以下YouTubeでは懐かしい、いとし・こいし名コンビによる「ジンギスカン」他の名人芸等を見ることが出来る。大げさな動きもなければ、不自然な言葉も使わない。その呼吸、間、テンポなど話芸の妙をここで見てみよう。
YouTube -夢路いとし 喜味こいし「ジンギスカン」
http://www.youtube.com/watch?v=qEZWN_cttgQ&feature=related
YouTube - 「おかずと近所付き合い」 
http://www.youtube.com/watch?v=N0cWWozHTW0
夢路いとし・喜味こいし 「七十才からの挑戦」 
http://www.youtube.com/watch?v=5JnNDOGIsT0&feature=related
夢路いとし喜味こいし {花嫁の父」漫才 1/2
  http://www.youtube.com/watch?v=OfGniI8xHl4&feature=related
夢路いとし喜味こいし 漫才 2/2
http://www.youtube.com/watch?v=WBLbnVBtDII&feature=related

(画像は、向かって左:コレクションのチラシより、1993年3月4日、河内長野市立文化会館ラブリーホールでの「第5回らぶりい寄席」のチラシ。右:2003年2月23日大阪・難波千日前のワッハ上方演芸ホールで。朝日新聞掲載写真より)
参考:
※:銀座の柳
http://www13.big.or.jp/~sparrow/MIDI-tokyo-march.html
※:銀座柳の碑所在地
http://www.chuo-kanko.or.jp/guide/spot/ginza/ginza_06.html
※:懐かしの流行歌公開MIDIリスト
http://www.geocities.jp/thirty30mydoog/_freemidilist.htm
西條八十 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%9D%A1%E5%85%AB%E5%8D%81
※:宝塚新芸座とは?
http://wiki.freeml.com/%CA%F5%C4%CD%BF%B7%B7%DD%BA%C2
※:ぼくが宝塚を愛でる理由(わけ)5
http://atlantic2.gssc.nihon-u.ac.jp/magazine/022/rensai/ren1.htm
※:ワッハ上方
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夢路いとし - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A2%E8%B7%AF%E3%81%84%E3%81%A8%E3%81%97
上方お笑い大賞 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%96%B9%E3%81%8A%E7%AC%91%E3%81%84%E5%A4%A7%E8%B3%9E
上方漫才大賞
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%96%B9%E6%BC%AB%E6%89%8D%E5%A4%A7%E8%B3%9E
芸術選奨 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B8%E8%A1%93%E9%81%B8%E5%A5%A8
あのひと検索SPYSEE:夢路いとし
http://spysee.jp/%E5%A4%A2%E8%B7%AF%E3%81%84%E3%81%A8%E3%81%97/1505/
銀座煉瓦街 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%80%E5%BA%A7%E7%85%89%E7%93%A6%E8%A1%97
東京行進曲: 二木紘三のうた物語
http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/09/post_44cc.html
YouTube -“佐藤千夜子” のすべて。
http://www.youtube.com/results?search_query=%E4%BD%90%E8%97%A4%E5%8D%83%E5%A4%9C%E5%AD%90&search=tag
geinin.jp: 受賞データ 大阪市指定無形文化財
http://www.geinin.jp/prize/1999/oosakashimukeibunkazai.html