今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

国際盲導犬の日

2015-04-29 | 記念日
国際盲導犬の日(International Guide Dog Day) 記念日
今日4月29日、は、国際盲導犬の日(International Guide Dog Day) 。
1989(平成元)年4月26日に国際盲導犬学校連盟(現、国際盲導犬連盟)が発足したことを記念して、1992(平成 4)年より国際盲導犬学校連盟が制定。
目の不自由な人にとって大切な盲導犬の普及と、盲導犬に対する人々の理解を高めるのが目的。
日本では公益財団法人日本盲導犬協会(※1)が一般社団法人日本記念日協会に登録。日付は国際盲導犬学校連盟の発足した日がその年の4月の最終水曜日だったことからだそうだ。

盲導犬は、視覚障害者を安全に快適に誘導する犬であり、身体障害者補助犬の中でもっとも広く知られた存在である。日本語名の由来は「盲人誘導犬」。
日本国内では道路交通法(※2参照)により、視覚障害者は公道を通行する際には、政令で定める杖(白杖)か、盲導犬を携帯しなければならないことになっている(※2、法第十四条第二項参照)。また、身体障害者補助犬法により、仕事中の盲導犬は胴輪式のハーネスを着用し、そのハーネスのハンドルにそれが盲導犬であることを明示し、その利用者はその盲導犬を使用するための使用者証や身体障害者補助犬健康手帳を携帯しなければならないことになっている。そして、盲導犬の訓練団体や利用者は盲導犬を清潔に保つ義務を持つている。これらを満たした盲導犬に対し、公に開かれた施設では正当な理由無く盲導犬の立ち入りを制限してはならないことになっている。従って、各施設などでは「犬だから」という理由で受け入れを拒否しないようにしなければならない。

盲導犬と言えば、私は、NHK総合テレビの月曜ドラマシリーズで放送された『盲導犬クイールの一生』(2003年全7話。※3参照)を思い出した。秋元良平(写真。※4参照)・石黒謙吾(文)による、視覚障害者と盲導犬、クイールの生涯を描いた写真集をドラマ化したものだが、1年後には崔洋一監督により『クイール』のタイトルで映画化もされた。
実話をもとに、多くの人々との出会いと別れを通して立派な盲導犬に成長をとげた、1匹のクイールの生涯を追う物語である。
映画のあらすじは、ラブラドール・レトリーバーの子犬(産まれたときの名は「ジョナサン」)が生ませの親の元から、盲導犬になるために訓練士を通じて、パピー(子犬)ウォーカー(※1のここ参照)と呼ばれるボランティアの夫妻に預けられ、ここで“クイール” (英語でquill「鳥の羽根」)と名づけられ、1年間愛情一杯に育てられながら社会や家庭の中で暮らすためのルールを学んでゆく。そして、盲導犬訓練センターでの本格的な訓練が始まるが、のんびり屋でマイペースなクイールはベテランの訓練士でさえ手を焼くほど。やがて立派な盲導犬へと成長したクイールは、視覚障害者とめぐり会い、初めこそ息の合わなかった障害者と、ハーネスを介して次第に心を開くようになり、互いにかけがえのない存在になっていくが、2年を過ぎた頃、飼い主である障害者は重度の糖尿病で入院。クイールは小学校などでのデモンストレーション犬として使われた後、それまでの飼い主である障碍者と3年後に3度目の別れをし、その後は、子犬の時のパピーウォーカーのもとに帰り、盲導犬として働くこともなくのんびりと余生を送り、静かに生涯を全うする。・・といったものである。
本当に感動の物語であった。なんといっても子犬の時代のクイールのかわいいこと。産まれて2ヶ月たつと、こんな可愛い子犬たちも一緒に育っていた母犬や兄妹犬のもとを離れ、1頭ずつパピーウォーカー宅に預けられ人間の家族の一員として生活を共にするのだが、1年たつと、パピーウォーカーにとってもせっかく育てた犬との別れの日が来る。人間の我が子同様、犬も社会へと巣立ってゆくのであるが、この辺は、犬にとっても、人にとっても悲しい別れですよね。
生まれたばかりの子犬が盲導犬になるのには、盲導犬ユーザー(視覚障碍者)をはじめ、繁殖犬飼育ボランティアやパピーウォーカーなど、じつに多くの人々の関わりがあってのこと。関係者の努力に頭が下がります。
●以下は映画の予告編である。


予告編でも見られる通り、こんなかわいい子犬が、生まれて後多くの人との出会い、別れ、また厳しい訓練などを繰り返し受けた後、長い期間ユーザーとの生活を共にするのだが、私など何もわからないものからすると、盲導犬のストレスは相当大きいだろうから、普通の犬と比較すると、長生きは出来ないのではないかと考えるのだが、実際には、それは誤解の様であり、盲導犬の寿命はだいたい13歳くらいで、ご主人といっしょにいることが好きな犬なので、常に盲導犬としてご主人(盲導犬ユーザー)のそばにいることからストレスが少ないこと、仕事を楽しめる犬が盲導犬になっていること、子犬の頃から健康管理には気をつけていることなどから、長生きする犬が多い様だという(※1のよくある質問参照)。
人のために一生を尽くした犬なのだから、そうでなければ可愛そうだものね~。“よくある質問”に書かれている通りであれば、救われた思いがする。盲導犬の一生については、この映画を見れば大体わかる。「関西盲導犬協会」(※5)の以下のページを見れば、盲導犬のことが詳しくわかるので、見て理解してください。


世界の歴史上で、目の不自由な人の歩行補助に犬が使われていた様子は、最も古い例としては、古代ローマ時代ポンペイで発掘された壁画に見られ、13世紀に描かれた「黄河」というタイトルの中国の絵巻物にも同じような絵が発見されているそうだが、それらはどれもロープに繋がれた犬が、視覚障害者を引っ張っている、というものばかりであった。
確実な資料では、1819年、ヨハン・ウイルヘルム・クライン (Johann Wilhelm Klein) というウィーンの神父が、犬の首輪に細長い棒をつけ盲導犬として正式に訓練したのが最初だそうである。その後1916年に、ドイツ赤十字のシュターリンとドイツシェパード犬協会のシュテファニッツが、第一次世界大戦中、戦盲者(戦争によって失明した「失明戦傷病者」)のために盲導犬を育成しようとオルテブルグに学校を設立し、翌年に盲導犬が作出されて戦盲者の誘導に役立てたという。1923年にはポツダムに国立の盲導犬学校が設立され、多数の盲導犬が誕生し戦盲者の社会復帰を促したそうだ。
警察犬の実用化を研究するためヨーロッパに滞在中であったアメリカ人のドロシー・ハリソン・ユースティス夫人は盲導犬の活躍に関心を抱き、スイスのヴェヴェイにある盲導犬学校での研究の後、1929年にニュージャージー州モーリスタウン近くのホイッパニーに盲導犬育成の学校を設立した。これが現在、世界で最も歴史と実績のある協会“The Seeing Eye, Inc.”だそうである。
現在、アメリカ合衆国にはこの他にそれぞれが独立した組織として9つの育成施設があるが、その内容はまちまちで質的にもかなりの差があるようだ。また、イギリスでも、1930年に、“The Seeing Eye, Inc.”より1人の指導者を招聘し、1934年に英国盲導犬協会が設立された。このようにして、盲導犬育成事業は少しずつ、世界各国に広まってゆき、現在、国際盲導犬連盟(International Guide Dog Federation = IGDF)という国際組織が出来、日本を含め30カ国84団体が加盟しているようだ。(※1のここ参照)。本部はイギリスにあり、世界各国の盲導犬育成事業の発展をサポートすることを使命として、繁殖や盲導犬訓練に関する情報交換、スタンダード(標準、規格)づくりなどを行っているという。

日本では、1938(昭和13)年、アメリカ人の盲導犬ユーザー、ジョン=ゴードン氏が“The Seeing Eye, Inc.”卒の盲導犬と共に観光旅行で来日し、各地で講演会が開かれたことがきっかけとなり、その後1939年、浅田・磯部・荻田・相馬の四実業家が1頭ずつ、盲導犬としての科目を訓練した犬をドイツから輸入して陸軍に献納。日本シェパード犬協会(現: 日本シェパード犬登録協会)の蟻川定俊が、ドイツ語の命令語を日本語に教え直した後、戦盲軍人が使用したという。しかし、4頭の死亡後、盲導犬は絶えたまま敗戦を迎え、国中が生活に追われていたこともあって盲導犬の育成のことなどは全く忘れられていた。
国産の盲導犬が誕生したのは、第二次世界大戦後の塩屋賢一(後のアイメイト協会創設者)が試行錯誤の末、日本人として初めて盲導犬の訓練に取り組んだ。そして1957(昭和32)年、ジャーマン・シェパード犬(犬の名:チャンピィ)を盲導犬として訓練することに成功し、チャンピィの所有者であった河相洌氏(塩屋に盲導犬としての調教を依頼した人であり、河相達夫の子。当時、滋賀県立彦根盲学校教諭)が国産第一号の盲導犬のユーザーとなった。このことがきっかけで、日本においての盲導犬(ひいては聴導犬や、介助犬などの身体障害者補助犬)の拡大につなげていくことにもなった。
そういえば、この日本第一号の盲導犬導入の逸話も「盲導犬クイールの一生」が放映される1年前の2002(平成14)年2月12日に同じNHK『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』で「ゆけチャンピイ 奇跡の犬~日本初の盲導犬・愛の物語~」というタイトルで取り上げられていた。以下でその動画の一部が見られる。
●動画挿入


また、2008(平成20)年9月13日には『ありがとう!チャンピイ』というタイトルでフジテレビの「土曜プレミアム」枠でテレビドラマ化もされていた(※6参照)。
一人の調教師(塩屋賢一役:高嶋政伸)とチャンピイの飼い主である一人の視覚障害者(河相洌役:伊藤 淳史)が、家族の応援を得ながら日本初となる盲導犬を誕生させるというドラマ(実話)には、「人間と犬の」だけではなく、「家族愛」、「人間愛」、そして「使命感」という要素がたくさん詰まっている。
現在、日本での現状は、ジャーマン・シェパード・ドッグよりも、ラブラドール・レトリバーや、ゴールデン・レトリバー、ラブとゴールデンの雑種 (F1レトリーバー) が多く活躍している。これは、シェパードのように精悍な顔つきよりもラブのようにおっとりして温和な顔つきの方が、街を歩く犬嫌いの人や子供にも受け入れられ易いことが大きな理由となっているようだが、このドラマ『ありがとう!チャンピイ』で、使用した盲導犬は、当時を正確に再現する為、今では使用されていないシェパード犬が起用されている。それにこの時代には盲導犬であっても、犬を連れて電車には乗れず犬は貨物扱いで運ばれたりもした。盲導犬チャンピーの、最後は河相が上京の際に預けた浜松の知り合いの獣医のもとで急死してしまうが、「クイール」の時とは状況も違ていてかわいそうな最後だったね。
このドラマ『ありがとう!チャンピイ』のテーマ曲には、私も大好きな中島みゆきの 「」が使われていた。以下はその動画リンク付き歌詞ブログである。

野島伸司脚本の1998年TBS系の金曜ドラマ枠で放送されたテレビドラマ『聖者の行進』にて前半主題歌に使われ、その後バンクバンドにてカバーされた曲は、同じフジテレビの2 時間ドラマ、2007年3月、人と動物、愛のドラマスペシャル『太郎と次郎~反省ザルとボクの夢~』、同年4月金曜プレステージでの人と動物、愛のドラマスペシャル。難病に冒された14歳の少女が、介助犬との出会いによって笑顔を取り戻すまでの過程を描いた物語『介助犬ムサシ~学校へ行こう!~』の主題歌としても使われている。
2011(平成23)年3月の東日本大震災後、人と人との関わりあいから生まれる「絆」の重要性は人が、飼っている犬や猫など動物との間にもあることが再認識された。特に、身体障碍者と身体障害者補助犬との絆は、普通の人と人以上に太いものだろう。中島みゆきの歌は詩がとっても良いね~。



身体障害者補助犬には、ここに書いた盲導犬の他に聴導犬や、介助犬がいる。それぞれの仕事内容は異なるが、「身体障害者の自立と社会参加を促進する」という目的は同じである。
現在日本国内でのこれら身体障害者補助犬(3種類の補助犬)の育成・認定団体状況を見ると、これら3種類(盲導犬、介助犬 聞導犬)全ての補助犬を育成及び認定できる団体(法人)は、公益財団法人日本補助犬協会のみであり、この協会以外に、盲導犬の育成をしている団体が9団体、介助犬の育成団体が11団体、聞導犬の育成団体が8団体あるようだ(※7参照)。
3種類の補助犬関係団体には、其々の役割がある。 つまり育成と認定であるが、特に認定を行う団体は、盲導犬は国家公安委員会、介助犬・聴導犬は厚生労働省の指定法人となる必要があるようだが、盲導犬育成団体には、国家公安委員会の認定のない団体はないが、介助犬・聴導犬の育成団体の中には、厚生労働省の指定法人となっていないところもあるようだ。
「介助犬」は、肢体不自由者の日常の生活動作のサポートをしてくれるし、「聴導犬」は、聴覚障害者に音を聞き分けて教え、音源へ誘導してくれるが、これら、介助犬・聴導犬の育成に関しては、厚生労働省の定める訓練基準)や認定要領に基づいて行われている必要がある(※8:「厚生労働省:身体障害者補助犬」の3 身体障害者補助犬に関する情報参照)。
「盲導犬」は、視覚障害者の安全で快適な歩行をサポートするため、政令で定めるハーネス(胴輪)をつけて、使用者に「障害物・曲がり角・段差」を教えてくれる。・・・が、盲導犬による歩行は盲導犬とユーザー­との共同作業だといわれている。
目が不自由と言っても、全く目の見えない人、見えても見えにくい程度が人それぞれに違う。従って、その目の不自由さによって、日常生活では何が必要か、目の代わりとなる情報も違ってくる。盲導犬との歩行もその一つである。盲導犬は様々な目の変わりになる情報を伝えてくれるが、盲導犬がいても信号の判断をしてくれるわけでも、行きたいところへ連れて行ってくれるわけでもない。目の不自由な人は、自分が行きたいところまでの地図を頭に描き、盲導犬に指示を出しながら歩くわけで、信号の判断も目の不自由な人が、主に車の音などを聞いて青か赤かを判断しなければならない。何もしないでも盲導犬が判断して誘導してくれるわけではないので、そのため、ユーザーも盲導犬と一緒に訓練が必要なのである。だから、目が不自由だからと言って、誰にでも盲導犬が必要でもないし、逆に、盲導犬と一緒に行動できない人もいるわけである。
盲導犬の育成をしている9団体の中に、日本初の盲導犬を育てた塩屋賢一が創設したというアイメイト協会があるので、同協会のホームページ(※9参照)を覗いてみると、“私たちの協会は「盲導犬」ではなく「アイメイト」という呼称を使っているとして、その理由”を以下のように述べている。
日本ではひと口に「盲導犬」と呼ばれているが、米国では「Seeing Eye Dog」「guide dog」「leader dog」など、いくつかの呼び方があり、たとえば「Seeing Eye Dog」と呼べるのは、米国でもっとも優れた技術や歴史、哲学を誇る団体The Seeing Eye inc.が送り出した犬だけ。つまり米国では、出身団体や犬の能力などによって、それぞれ呼び方が異なる。日本においても、定義だけを見ても育成団体ごとに違いがある。・・・として、
アイメイト教会では、「アイメイト」(盲導犬の呼称)の定義を「全盲者が晴眼者の同行や白杖の併用なしで犬とだけで単独歩行できる。」・・・としているのに対して、その他の盲導犬育成団体では、その定義を・白杖との併用が前提。・原則として晴眼者が同行する。・限定した場所のみ歩行できる。・全盲者は対象としない。(※全盲者が単独歩行できる協会もある)。・・・と協会によってまちまちの様だという(ここ参照)。
また、盲導犬育成団体には、上部組織や代表組織はなく、各育成団体がそれぞれの基準に基づいて事業を行なっているそうだ。確かに、ややこしい話ではあるが、先にも書いたように、目が不自由と言っても、全く目の見えない人、見えても見えにくい程度が人それぞれに違うのであれば、その人の状況等に応じて必要とする盲導犬も違っていて当たり前かもしれないとは言えるのだが・・・。
全日本盲導犬使用者の会(※10)の盲導犬データ を見ると、2012年 3月末現在、全国の盲導犬実働数は、1043頭。2011年 3月末の盲導犬実働数は1067頭だったので、昨年に続き盲導犬実働数は減少しているという。世界各国の盲導犬実働数は、連盟に加盟していない国もあるので、正確にはわからないが、盲導犬の訓練は、約30数か国で訓練され、世界では、約25,000頭以上の盲導犬が活躍していると推定されており、全国盲導犬施設連合会発行機関誌「デュエット」第15号 (2006年4月発行)より、国別の実働数を見ると、1位、アメリカでは8000頭以上、2位、イギリス4656頭、3位、ドイツ1500~2000頭、4位、フランス1500頭に続いて、5位、日本957頭(2014年3月31日現在1,010頭)となっているようで、人口で見ると少々少ないように思われるのだが・・・。
※5:「関西盲導犬協会」のホームページの「日本と世界の盲導犬普及の違い」にも、 国内の視覚障害者数約38万人に対して、実際に活動している盲導犬ユーザーの数は1031人(2014年3月末現在)と明らかに少なく、これは、世界各国の導犬普及率見れば明らかになっているが、これは、盲導犬の数だけではなく、視覚障害者が盲導犬を申し込んでからお渡しするまでの待機期間も大きな開きがあるようだ。それには、歩行環境や住宅面、犬に対する意識、共同訓練のための社会的認識、優秀な繁殖犬の確保が難しい等々いろいろな要因があるようだ(ここ参照)。私たちは、もう少し、盲導犬のことについて協力してゆかなくてはいけないでしょうね。
しかし、盲導犬の育成も必要だが、これからの少子・高齢化社会においては、介助犬(身体障害者補助犬)を必要とする人も益々増えてくるのではないだろうか。
介助犬と言えば、我が地元・兵庫県宝塚市在住でコンピュータプログラマーの木村佳友に飼われていた。「シンシア」という名の介助犬がいたのを知っていますか。育成団体で訓練を受け、1996(平成8)年7月に介助犬となった。1998(平成10)年に、毎日新聞社が介助犬の法的認知を訴えるキャンペーンを行ったことから、その存在が広く知られるようになった。
毎日新聞の地域面(兵庫、大阪面)に掲載された連載「介助犬シンシア」は523回(1998年9月-2006年2月)を数えた。ちなみに、その後シンシアは206(平成18)年3月に死亡したことから、シンシアの献身的な働きぶりは全国の人々の共感を誘い、障害を持つ人のパートナーとして多くの人が認めるところとなった。そして、2000(平成12)年5月、宝塚市が「シンシアの街」を宣言するなど、介助犬受け入れの機運は盛り上がりを見せ、ついに、2002(平成14)年5月「身体障害者補助犬法」が成立し、同年10月に施行されることになった。こうした一連の補助犬認知運動の中で、シンシアは補助犬の象徴的存在として大きな役割を果たしたのである。
シンシアは人間なら60~70歳となった2005(平成17)年12月、介助犬を引退。木村家で余生を送っていたが、翌2006(平成18)年1月にひ臓に腫瘍が見つかり緊急手術。同年3月14日、に死去(12歳)している。今年・2015(平成27))年3月14日、JR宝塚駅構内に「シンシア像」(※11のここ参照)が設置された。
なお、木村さんの介助犬はシンシアからエルモへ、エルモ(11歳)も2014(平成26)年04月30日介助犬を引退、デイジーへとバトンタッチされているようだ(※11の介助犬『シンシア・エルモ・デイジー』関連の新聞記事参照)。
そして、飼い主の木村さんは現在「日本介助犬使用者の会」(※11のここ参照)の会長を務め、介助犬普及活動の中心的存在として活動している。
介助犬について“日本では1992(平成4 )年に育成が始まり、身体障害者補助犬法の成立により、社会福祉法人となった育成団体が数カ所あるが、ほとんどはNPO法人などのボランティア団体であり、トレーナーの数も充分とはいえない。育成費が実費だけでも1頭30~50万円、人件費・諸経費を含めれば300万円以上を要し、またトレーニングにも相当の時間がかかる。現在、行政による介助犬の育成助成制度も設けられたが、各都道府県によるメニュー事業のため、育成助成制度の無い都道府県もあるなど、育成経費の多くは、賛助会費・寄付金・バザーの売上等などからの収入でまかなわれており、従って、介助犬の育成頭数に限りがあり知名度も低いのが現状だ”・・という。“介助犬の都道府県別分布”状況も表示されているが、 “身体障害者補助犬法に基づいて、正式に認定され実働している介助犬は71頭(2015年02月01日現在)”(※11のここ参照)というから、確かに、2012年 3月末現在で、全国の盲導犬実働数が、1043頭もいるのに対して、これは余りにも少ない数だ。盲導犬同様に、もう少し、介助犬に対する理解が深まらなくてはいけないだろう。

そんな中、「言葉だけでは伝わらないことがある」「歌で補助犬への理解の輪を広げたい」と、身体障害者補助犬法が成立、施行した2002(平成14)年、補助犬の歌2曲を作った時の気持ちを忘れず、今もコンサートで人々の心に響かせているフォークデュオがいる。『冬が来る前に』などのヒット曲で知られる西宮市在住のフォークデュオ「紙ふうせん」(後藤悦治郎、平山泰代)である。
その歌とは、介助犬シンシアを歌った『あなたの風になりたい』と3種類の補助犬をテーマにした『補助犬トリオ』の2曲であり、コンサートやCDなどを通じて、補助犬の理解を深めてもらおうと努力している。
2012(平成24)年12月9日(日)宝塚市で開かれた「第21回障害者週間記念事業・第14回身体障害者補助犬シンポジウム」の記事に、紙ふうせんの、後藤悦治郎さん、平山泰代さんのこの歌の作成に関してのコメントが掲載されている。そこには、以下のように書かれている(※11のここ参照)。
毎日新聞で長期連載中の「介助犬シンシア」をずっと読んでいて、介助犬に関心を持っていた。そんな折、補助犬法が成立した時の新聞に、飼い主の障害者、木村佳友さん(当時42歳)の「法律ができても、受け入れ側の心のバリアフリーがないと、社会参加はできない」という内容のコメントが載っていた。
後藤さんが作詞・作曲したのは「あなたの風になりたい」。曲作りのため木村さん宅を訪ねた時のシンシアの印象は、「なんて透明感のある犬なんだ」であったという。
“ぼくら人間の心はいろいろなものが塗りたくられているけど、シンシアは純粋で惜しみない愛を木村さんに注いでいる。障害を乗り越えてきた木村さんも同じ愛で応えている。そのにごりのない関係を歌にしようと思った。シンシアはいつも木村さんのそばにいて、そっと後押しする「風」のような存在だと考え、「あなたの風になりたい」を作詞、作曲した。歌にはあえて「介助犬」という言葉は入れなかった。初めて聴いた人が、「シンシアって何だろう?」と、関心を広げて、介助犬のことを知ってほしいと願っています。”・・という。
平山さんは補助犬に親しんでもらおうと『補助犬トリオ』を作詞・作曲した。「制服着た時は そっと見ててね 声をかけないで」と補助犬に出会った時のマナーも織り込んだ。それは平山さんに苦い経験があったから。学生時代に西宮市から大阪市へ向かう電車で視覚障害がある男性と盲導犬のペアに出会った。「どう接したらいいんだろう」と戸惑うばかりで何もできなかった。平山さんは「犬ではなく人に『お手伝いすることはありませんか』と声をかければよいのです」と歌で呼び掛ける。
後藤さんは補助犬の役割は大きくなると信じる。「犬が1頭いれば心が和む。ロボットには愛やぬくもりはありません」と、高齢者福祉介護の現場での活躍に期待を寄せる。
平山さんは教育が大事だと考えている。「子どもの時に体験すれば記憶に残るもの。学校で保護者と一緒に学んだり、家で補助犬について会話してみては」と提案し、子どもに願いを託しているという。。
平山さんは、「歌手として、心のバリアフリーのために歌いたい」と心を動かされ、作詞、作曲した『補助犬トリオ』は、子どもたちでもすぐに歌えるような親しみやすい歌にしているので、口ずさむうちに自然に補助犬の役割や出合った時のマナーを理解してもらえたら、うれしいです。・・・といっているそうだ。

『あなたの風になりたい』
 いつも あなたが さがしてる
 希望の星が雲にかくれる時
 いつもあなたの 風になり
 悲しみ色の雲を 吹き飛ばそう
 きこえる あなたの声が
 シンシア シンシア
 グッドガール グッドガール
 あなたは 心のマストを上げて
 私はあなたの 風になりたい

『補助犬トリオ』
 僕らは イヌ科の 動物に生まれた
 人間が 大好き いつでも どこでも
 自慢の鼻と耳 走れば風のよう
 言葉覚えて レッスン重ねたら
 僕達 働く スリーナイスドッグ
 盲導犬 聴導犬
 介助犬 補助犬トリオ
(※歌詞はいずれも1番)
『補助犬トリオ』の全歌詞はわからないが、『あなたの風になりたい』の全歌詞は以下で、見られるし、また以下の動画で歌も聞ける。
さ~、私達には、何ができるのか。人それぞれに協力できることは違うだろうが、せめて、補助犬と補助犬を必要としている人たちのことを十分に理解し気持ちよく接してあげたいものですね。

冒頭の画像盲導犬は厚生労働省HPより借用のもの。
参考:
※1:日本盲導犬協会
https://www.moudouken.net/
※2:道路交通法施行令
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S35/S35SE270.html
※3:【盲導犬クイールの一生】 NHK月曜ドラマシリーズ
http://www6.nhk.or.jp/drama/pastprog/detail.html?i=moudou
※4:犬 インタビュー 写真家 秋元良平 盲動犬クイール PETLINK
http://www.petlink.jp/topic_interview/data/interview/007/interview007.htm
※5関西盲導犬協会盲導-犬を知る
http://www.kansai-guidedog.jp/knowledge/history/index.html
※6:ありがとう!チャンピイ~日本初の盲導犬誕生物語~」|番組|2008年度 番組活動トピックス
http://www.fujitv.co.jp/csr/activities_report_2008/bangumi/report/0014.html
※7:公益財団法人日本補助犬協会
http://www.hojyoken.or.jp/
※8:厚生労働省:身体障害者補助犬
http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/hukushi_kaigo/shougaishahukushi/hojoken/index.html
※9:アイメイト協会公式ブログ
http://www.eyemate.org/
※10:全日本盲導犬使用者の会
http://guidedog-jp.net/index.htm#menu2
※11:介助犬シンシア日記
http://homepage3.nifty.com/cynthia/index.htm
盲導犬 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B2%E5%B0%8E%E7%8A%AC

葛飾北齋忌日

2015-04-18 | 人物

人魂(ひとだま)で  
 行く気散じや 
 夏野原    (葛飾北斎)

江戸時代後期の化政文化を代表する浮世絵師の一人葛飾 北斎(かつしか ほくさい)は、.嘉永2年4月18日(1849年5月10日)、江戸・浅草聖天町(町名は町内に待乳山聖天宮があるのにちなんで付けられた。※1の待乳山聖天宮・今戸橋を参照)にある遍照院(浅草寺の子院)境内の仮宅で没した。享年90歳。上掲は、北斎辞世の句である。(冒頭の画像は北斎の自画像、向かって右は、年代不明『週刊朝日百科日本の歴史』より借用、左は、天保13年(1842年)、82歳(数え年83歳)頃の自画像(一部)という。Wikipediaより)
北斎の代表作『富嶽三十六景』シリーズの初版は文政6年(1823年)に制作が始まり、天保2年(1831年)に西村永寿堂より出版されたが、相当人気があったとみえて当初計画になかった、裏富士十図10枚を追加して、合計46図が同4年(1833年)に完結している。『冨嶽三十六景』は江戸市中から見た富士を13図、江戸近郊から4図、上総(現在の千葉県南部)から2図、常州(茨城県)から1図、東海道筋から18図、そして甲州(山梨県)方面から7図、その他1図である。
『富嶽三十六景』の「神奈川沖浪裏」や、「凱風快晴」など、今も世界に知られる作品の数々の誕生と同時に、北斎は72歳にして、ついに誰もが認める浮世絵師の頂点へと登りつめたのであった。
『富嶽三十六景』シリーズ(46枚)は、以下の作品一覧以下でも見られるが、その下の東京国立博物館所蔵の物の方がきれいな詳細画で見られるので、1枚づつ干渉されるならお勧めである。

Wikipedia-『富嶽三十六景』シリーズ作品一覧』

東京国立博物館検索画面『富嶽三十六景』

数え年で90歳というと、当時としてはすごく長命であった。「気散じ(きさんじ)」とは心の憂さをまぎらわすこと、気晴らしのことであるから、これからの俺は「やることはやったので、ひと魂(ひとだま)」となって、ふうわりふうわりと夏の原を気ままに漂(ただよ)ってみることにするか・・・」。とでもいったところだろうか。

同時代、版画独特の美を発展させ、「並ぶ方なし」と言われた美人画の巨人、喜多川歌麿とともに活躍した葛飾北斎は、浮世絵師のなかで最も長い70年余の作画期中森羅万象の真を描くことに執念を燃やし、画風を次々と変転させながら3万点を超える作品を発表し、各分野に一流を樹立し、9世紀末、ヨーロッパにジャポニスム旋風を起こし、世界に衝撃を与えた。
北斎は、1999年の、米ライフ誌が選んだ「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」に唯一選ばれた日本人であり、近年で最も注目を集めている浮世絵師である。
しかし、同時期に活躍していた歌麿は北斎より早く名を挙げていたが、北斎は歌麿に比べれば相当遅咲きの桜であったとはいえる。

北斎は、宝暦10年9月23日?(1760年10月31日?)、武蔵国葛飾郡本所割下水(現:東京都墨田区の一角。「北斎通り」参照)の川村家に生まれたが、家が貧しかったのか、幼くして,幕府の御用鏡磨師中島伊勢の養子となる。幼名は時太郎と言い、のち、鉄蔵(てつぞう)と称した。通称は中島八右衛門、晩年には三浦屋八右衛門と名乗っていたようである(※2 参照)。
その後、貸本屋の丁稚、木版彫刻師の従弟となって労苦を重ねたのち、役者絵の名手とうたわれた浮世絵師・勝川春章に入門したとされる。安永7年(1778年)から勝川派を出る。寛政6(1794)年ごろまでは春朗を名乗っていた。
この頃は、狩野派唐絵、西洋画などあらゆる画法を学び勝川春朗の名で絵師として名所絵(浮世絵風景画)や特に、お家芸である役者絵を多く手がけ、安永8年(1779年) 役者絵「瀬川菊之丞 正宗娘おれん」でデビューするまでの習作期で多種多様な画作をしている。

瀬川菊之丞:正宗娘おれん  ここ参照→ 東京国立博物館 - 北斎展

寛政6年(1794年) 勝川派を破門されているらしいが、理由は、最古参の兄弟子である勝川春好との不仲とも、春章に隠れて狩野融川に出入りし、狩野派の画法を学んだからともいわれるが、真相は不明だそうである。ただ融川以外にも、堤等琳 についたり、『芥子園画伝』などから中国絵画をも習得していたようである。
寛政7年(1795年) 「北斎宗理」(1795~1798年頃),の号を使用し始める。以後、北斎(1796~1814年頃),戴斗(1811~1820年),為一(1820~1834年頃),卍(1834~1849年頃)の主要な画号のほか,画狂人(1800~1808年頃)など生涯に30 余の号を頻繁に改号していたが、葛飾北斎の号は、文化2年(1805年)頃から使用しており、出生地が葛飾郡であったことから名乗ったといわれている。
北斎が「宗理」の号を使用し始めたころは、歌麿が既に美人画で人気を博していた時代であり、老中・松平定信は質素倹約を奨励し、華美なものを禁じ、寛政の改革(天明7年[1787年]~寛政5年[1793年])に着手していた。その改革の標的の一つとなったのが、歌麿だった。当時の幕府による禁令を見ると、歌麿が対象としか思えない触書が矢継ぎ早に出されていることがわかる(※3:「浮世絵文献資料館」の浮世絵に関する御触書参照)。
当時の歌麿は蔦屋重三郎の店から浮世絵を出版していた。蔦屋は遊郭・吉原の評判記『吉原細見』を売り出して人気を得た板元である。出版する絵本や浮世絵は、豪華な色使いや、刺激的な世相風刺が話題となり次々とベストセラーを送り出していた。店には、山東京伝らの人気作家や若い日の滝沢馬琴(曲亭 馬琴)などが出入りし、当時の江戸文化人サロンの中心となっていたが、松平定信にとっては、蔦屋サロンこそ統制の対象となるべき存在であった。
寛政2年(1790年)、幕府は「絵本絵草紙類までも風俗の為に相成らず、猥(みだ)らがましき事など勿論無用に候」との禁令(※3の浮世絵に関する御触書の十月〔『御触書天保集成』下810(触書番号6418)〕参照)を出し、歌麿の豪華絵本などが出版停止処分となった。翌寛政3年(1790年)には、山東京伝の洒落本が禁令に触れ、京伝は「手鎖50日の刑」に処せられ、蔦谷は身代半減の処罰を受けた。
こうしたことに反発し、絵を描き続けた歌麿は、この頃から『婦女人相十品』(その1枚・ポッピンを吹く女[ここ参照]など)、『婦人相学十躰』(その1枚・浮気之相[ここ参照]など)といった美人大首絵を描き始めた。そして、それまで以上に人気を博するようになる。そんな歌麿がこの世を去った(文化3年[1806年])頃、北斎はようやくチャンスを掴むことになる。
北斎は浮世絵以外にも、いわゆる挿絵画家としても活躍していた。黄表紙洒落本読本など数多くの戯作の挿絵を手がけたが、作者の提示した下絵の通りに絵を描かなかったためにしばしば作者と衝突を繰り返していたという。
「葛飾北斎」の号を用いるのは文化2年(1805年)の頃からであるが、数ある号の一つ「葛飾北斎」を名乗っていたのは当時の人気戯作者・曲亭馬琴とコンビを組んだほんの一時期で、その間に『新編水滸画伝』(※4参照)『椿説弓張月』(※4参照)などの作品を発表し、馬琴とともにその名を一躍不動のものとした(これら他の読み本も、以下参考の※4で見ることが出来る)。
北斎は、それまで読み物のおまけ程度の扱いでしかなかった挿絵の評価を格段に引き上げた人物とも言われているそうだ。なお、北斎は一時期、馬琴宅に居候(いそうろう)していたことがあるようだ。 これ挿絵により、その名を広く知らしめた北斎は文化11年(1814年)54歳の時 画号・「戴斗(たいと)」の号で、もう一つの代表作『北斎漫画』初版を発刊(注:文政2年[1819年]頃に門人が二代目戴斗を襲名している)。そして、文政3年(1820年)から 「為一(いいつ)」の号を用い、文政6年(1823年)には『富嶽三十六景』の初版の制作を始め、天保2年(1831年)に開版、同4年(1833年)に完結することになるのである。
北斎は、読本の挿絵の仕事がひと段落した1812(文化9)年、関西へ旅立った。その帰り、尾張(名古屋)の後援者で門人の牧墨僊宅に半年ほど逗留し、人物や風物その他300余りのスケッチを描いていた。この下絵を見た名古屋の版元永楽屋東四郎(永楽堂)がその、デッサンの確かさ、生き生きとした動き、見ていて飽きのこないユーモラスなタッチを気に入り、これなら売れると即断、『北斎漫画』と題して翌年出版にこぎつけたのであった。この初編が好評であったことから、『北斎漫画』は、翌文化12年(1815年)に二編、三編を、文政2年(1819年)までに九編、十編まで出し、天保5年(1834年)まで十二編、北斎の亡くなる年の嘉永2年(1849年)に十三編が刊行されるが、全編(十五編)が完結するのは北斎没後の明治11年(1878)のことである(『北斎漫画』は※4で見ることが出来る)。 


上掲の画像『北斎漫画』の「相馬公家」は貴族に対する風刺画である。『週刊朝日百科日本の歴史』より。
全十五編には、人物、風俗、動植物、妖怪変化まで約4000図が描かれている。北斎はこの絵のことを「気の向くままに漫然と描いた画」と言っているようであるが、北尾政美(鍬形斎の名で知られる)の『諸職画鏡』(しょしょくえかがみ。※5参照)や『略画式』(※5参照)から着想を得て書かれているようだ。


上記2つの相撲図を比べると、恵斎の方があっさりとした描き方をしているのに対して、北斎は手足や体の動きがリアルに生き生きと描かれている。

また、1804(文化元)年から1806(文化3)年にかけて、恵斎が松平定信から要請を受けて描いたという肉筆図巻3軸「近世職人尽絵詞」(※6参照)にも強烈な刺激を受け、「なにくそ」という北斎の反骨心が「北斎漫画」を誕生させたのである。
この鍬形斎(1764-1824)という人物は、今日ではややマイナーな存在であるが、江戸時代には俗に、「北斎嫌いの斎好き」という言葉ができるほど評価された絵師であったようだ。
作風は、狩野派以外にも大和絵琳派などといった伝統画法も広く習得し、前述通り軽妙で洒落の効いた略画風の漫画を多数描いたことでも知られ、『増補浮世絵類考』(※3:「浮世絵文献資料館」のここ参照))では、「政美は近世の上手なり。狩野派の筆意をも学びて一家をなす。又光琳芳中が筆意を慕い略画式の工夫行われし事世に知る所なり」と高く評しているという。
こうした政美の「略画式」や鳥瞰的な一覧図は、同時代の北斎に『北斎漫画』や『東海道名所一覧』( ここ参照)『木曽名所一覧』といった形で真似された政美はこれを苦々しく思ったらしく、「北斎はとかく人の真似をなす。何でも己が始めたることなし」と非難したという逸話が残っている(斎藤月岑武江年表』の「寛政年間の記事」)ようだ。

ま、そのような絵画への執念が、『冨嶽三十六景』シリーズをも生み出したと言えるだろう。北斎は、大好評であった『富嶽三十六景』に飽き足らず、「為一」、「画狂老人」などの号で天保5年(1834年)、3巻からなる絵本『富嶽百景』をも出版している。3巻からなる絵本で、初編天保5年(1834年)刊行、二編は天保6年(1835年)、三編は刊行年不明(かなり遅れたらしい)。75歳のときが初版(為一筆)。富士山を画題に102図を描いたスケッチ集であるが、当時の風物や人々の営みを巧みに交えたもの。
以下の画像は、北斎の『富嶽百景』の1つ「浅草鶏越の図」で、中央の球は天体運行を観測するための渾天儀。国立国会図書館蔵。浅草天文台週刊朝日百科日本の歴史47より。
幕府は宝暦暦が宝暦13年(1763年)9月の日食予報を見落としたため改暦の作業に着手し、明和2年、(1765年)牛込に新暦調御用所(※7参照)を置いた。この役所は恒常的に天体観測を行っていたらしく、木が茂って空が見えにくくなったとして天明2年(1782年)浅草に移転したそうだ。

富岳百景の画像は他にみあたらないが、どんなものが描かれていたか、以下富岳百景図録で想像してください。

富岳百景図録–葛飾 北斎 著 (単行本/芸艸堂[うんそうどう])

しかし、広く世に知られているのはこの作品よりもむしろ、尋常ならざる図画への意欲を著した以下の跋文(後書き)のようである。
「己 六才より物の形状を写の癖ありて 半百の此より数々画図を顕すといえども 七十年前画く所は実に取るに足るものなし七十三才にして稍(やや)禽獣虫魚の骨格草木の出生を悟し得たり故に八十六才にしては益々進み 九十才にして猶(なお)其(その)奥意を極め 一百歳にして正に神妙ならんか 百有十歳にしては一点一格にして生るがごとくならん願わくは長寿の君子 予言の妄ならざるを見たまふべし」
つまり、「私は6歳より物の形状を写し取る癖があり、50歳の頃から数々の図画を表した。とは言え、70歳までに描いたものは本当に取るに足らぬものばかりである。(そのような私であるが、)73歳になってさまざまな生き物や草木の生まれと造りをいくらかは知ることができた。ゆえに、86歳になればますます腕は上達し、90歳ともなると奥義を極め、100歳に至っては正に神妙の域に達するであろうか。(そして、)100歳を超えて描く一点は一つの命を得たかのように生きたものとなろう。長寿の神には、このような私の言葉が世迷い言などではないことをご覧いただきたく願いたいものだ。」・・・と、100歳を超えてもなお絵師として、向上しようとする気概を語っている。
天保13年(1842年) 秋、83歳にして弟子の高井鴻山が住む信濃国高井郡小布施まで足を延ばし、亡くなる前年の嘉永元年(1848年)まで滞在。多くの作品を残している。当時の交通事情を考えると想像を絶する旅だった。
晩年期の天保5年(1834年)頃から肉筆画(肉筆浮世絵)を手がけるようになり、嘉永2年1月(嘉永二己酉年正月辰ノ日。1849年)、亡くなる3ヶ月ほど前に描かれた『富士越龍図』(絹本着色。落款:九十老人卍筆)が、北斎最晩年の作であり、これが絶筆、あるいはそれに極めて近いものと考えられている。幾何学的山容を見せる白い霊峰・富士の麓を巡り黒雲とともに昇天する龍に自らをなぞらえて、北斎は逝った。

北斎の代表作『富嶽三十六景』の「富嶽」とは富士山のことであり、各地から望む富士山の景観を描いているのである。江戸の人たちにとって富士山は常日頃仰ぎ見ることのできる山岳信仰のお山でもあった。
しかし、現代人と同じように素晴らしい景観の富士を見ることのできるところにいるからと言っても、当時は、各地に厳しい関所があり、人の移動は厳格に制限されていたし、道中の危険もあったので、一般に庶民の旅行は自由ではなかったが、公用・商用の旅、参詣湯治などの遊行、女性の場合には婚姻や奉公など様々な理由での旅はあったが、一般に庶民の旅行は自由ではなかった。
これらも含めて、庶民が自由に旅に出られるようになったのには、いくつかの理由がある。
先ずは江戸後期になって、江戸文化が花開き、娯楽が広がった。同時に街道が整備され,それに伴って、宿場も整い、旅の安全が確保されるようになった。
人々は通行手形を檀家である寺から発行してもらう事で、目的の場所に出掛けられ、特に信仰を目的にすれば、意外とどこにでも出かけられたが、あくまでも信仰だから、本音と建て前を区別しなければならない。遠くは四国の金毘羅権現や、伊勢参り。木曽の御嶽信仰。富士講等々。しかし、その目的地やそこにゆくまでの宿場には飯盛り女の居る宿も多く、当初から、参詣を理由とした観光や夜のお楽しみを目的とした旅も多かったようだ。
この頃に、有名な十辺舎一九が書いた弥次さん喜多さん旅物語『東海道中膝栗毛』は、名所・名物紹介に終始していた従来の紀行物と違い、旅先での失敗談や庶民の生活・文化を描き絶大な人気を博した。,又地図の代わりに観光名所の案内として、名所図会と云う画の案内書も売られる様になる。
そして、それまで、美人や役者を中心的な題材としていた浮世絵に、風景が主なジャンルとして本格的に加わってくるが、その立役者が、葛飾北斎と歌川広重である。
はじめに風景版画への扉を開いたのが、大ベテランの北斎で、富士を驚きの構図で、さまざまに描いた連作「冨嶽三十六景」が、当時の”お山信仰”“富士 山ブーム”、”旅行ブーム”と相まって空前の大ヒットし、それが元で広重 によって『東海道五十三次』が刊行された。
これは、天保3年(1832年)広重が東海道を初めて旅した後に作製したといわれている。北斎の『富嶽三十六景の』初版が西村永寿堂より出版された翌年のことである。広重は寛政9年(1797年)の生まれだから、『富嶽三十六景』初版が出たとき天保2年(1831年)は、まだ、34歳、『東海道五十三次』を出したときは35歳ということになる。
bw手ランと若い二人によって浮世絵における名所絵(風景画)が発達した。
二人はその後も、互いに意識しあい、新たな風景画シリーズの刊行、また、花鳥画のジャンルなどでも市場を競いあい、やがて北斎は版画の道を後進の広重に譲りつつも、肉筆画を中心に、亡くなる90歳まで現役を続行したのであった。そして、広重は、いっそう風景画の世界へと歩みをすすめ、ともに数多くの足跡をこの世に残してくれた。

以下目面しい画のみここにおいて置こう。


上掲の画像は、北斎の『江戸名所三十六景』本所の光景。東京国立博物館蔵。『週刊朝日百科日本の暦sぢ』24より。浮世絵師のとらえた近世の職人の働く姿はまことにダイナミックである。




上掲の画像は、「大小暦」 
現在私たちが使っているグレゴリウスでは、毎年、大の月と小の月の配列は変わらない、ところが、月の満ち欠けに基礎を置く太陰太陽暦では、毎年29日の小の月と30日の大の月の配列が異なり、更に閏月の挟み込まれることもあった。江戸時代の商慣習では掛け売りの清算は晦日となっていたから、庶民に月の大小を正確に知っておくことはとても大事なことだった。「大小暦」は、その年の大小の配列を工夫して1枚の刷り物に仕立てた略歴の一種で、貞享、元禄の頃から主に江戸を中心に流行した。機知にあふれ、多彩な摺り物の技法の盛り込まれた大小暦は現代のカレンダー文化の先駆けともいえる。
掲載の画像は、「謎解き」(寛政4年)。子の字を12並べ、文字の大小で、月の大小を示す。12字をどう読むか謎だったが、小野篁が「猫の子の子猫,ししの子の子獅子」と読み解いた伝えられるそうだ。勝川春朗(葛飾北斎)画。『週刊朝日百科日本の歴史』47より。

「余の美人画は、お栄に及ばざるなり お栄は巧妙に描きて、よく画法にかなえり」 (葛飾北斎)
(美人画にかけては応為には敵わない 応為は妙々と描き、よく画法に適っている) 
世界にその名が知れ渡っている伝説の浮世絵師である父の葛飾北斎にそう言わしめ、最も彼の才能と破天荒な性格を受け継いだと言われる北斎の三女お栄。彼女は画号を“葛飾応為(おうい)”とし 北斎の肉筆美人画の代作や春画の彩色を担当してきたという。 
世界に応為の作品は10点ほどしか現存していないそうだが その作品は、以下参考※8:「父北・斎の才能を受け継ぐ葛飾応為が描いた幻の作品「光の浮世絵」」で見ることができる。
また、葛飾北斎が描いた琉球(沖縄)の風景画が8点あるようだ。
しかし、北斎は実際に琉球を訪れた訳ではなく、1756年に来琉した冊封使・周煌が書いた琉球の見聞録『琉球国志略』に収録された絵図(「中山八景」)を元に描き、想像で着色したものだそうだ。これについては、以下参考の※9:「琉球八景(りゅうきゅうはっけい) - 沖縄事典 あじまぁ」で、絵お比較して展示しとぇいるので見てみるとよい。。

今日は、あえて、2013年(平成25年)6月22日に関連する文化財群とともに「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の名で世界文化遺産に登録された富士山との関連でブログを書いた。
葛飾北斎の画業は主要画号の使用時期を基準に6期に区分するのが一般的なようである。
第1期「春朗期-習作の時代」 20歳頃~/安永8年(1779)頃~
第2期「宗理期-宗理様式の展開」 36歳頃~/寛政6年(1794)頃~
第3期「葛飾北斎期-読本挿絵への傾注」 46歳頃~/文化2年(1805)頃~
第4期「戴斗期-多彩な絵手本の時代」 51歳頃~/文化7年(1810)頃~
第5期「為一期-錦絵の時代」 61歳頃~/文政3年(1820)頃~
第6期「画狂老人卍期-最晩年」 75歳頃~90歳/天保5年(1834)頃~嘉永2年(1849)
詳しくは以下参参考の※10:「北斎展 作品リスト - 東京国立博物館」を参照。
ここには、各期ごとに、作品の名称、 版型・寸法 、 所蔵者 等が詳しく書かれているので、詳しく知りたい人は、これを頼りに、調べられるとよいだろう。
また、北斎のもう一つの代表作『北斎漫画』については、参考※11:「視点・論点 「漫画誌から見た『北斎漫画』」 | 視点・論点 | NHK 解説委員室」で、詳しく論いられているので参考にされるとよいだろう。、


参考:
※1:錦絵で楽しむ江戸の名所
http://www.ndl.go.jp/landmarks/
※2:葛飾北斎直筆の肖像画見つかる
http://www.ic.daito.ac.jp/~hama/news/s980902.html
※3:浮世絵文献資料館
http://www.ne.jp/asahi/kato/yoshio/index.html
※4:早稲田大学図書館:古典籍総合データベース:葛飾北斎
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/search.php?cndbn=%8A%8B%8F%FC%96k%8D%D6
※5:早稲田大学図書館:古典籍総合データベース:北尾政美
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/search.php?cndbn=%96%6b%94%f6+%90%ad%94%fc
※6:近世職人尽絵巻画像一覧 - 東京国立博物館
http://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=other&colid=A83
※7:東京都新宿区の歴史 新暦調御用所跡(天文屋敷跡)
http://tokyoshinjuku.blog.shinobi.jp/%E8%A2%8B%E7%94%BA/%E6%96%B0%E6%9A%A6%E8%AA%BF%E5%BE%A1%E7%94%A8%E6%89%80%E8%B7%A1%EF%BC%88%E5%A4%A9%E6%96%87%E5%B1%8B%E6%95%B7%E8%B7%A1%EF%BC%89
※8:父北・斎の才能を受け継ぐ葛飾応為が描いた幻の作品「光の浮世絵」
http://ameblo.jp/igatakeru/entry-11774514955.html
※9:琉球八景(りゅうきゅうはっけい) - 沖縄事典 あじまぁ
http://100.ajima.jp/history/term-history/e279.html
※10:北斎展 作品リスト - 東京国立博物館
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=24
※11:視点・論点 「漫画誌から見た『北斎漫画』」 | 視点・論点 | NHK 解説委員室
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/197218.html
信州小布施 北斎館:サイトマップ
http://hokusai-kan.com/w/?page_id=1891
信州大学:付属図書館:近世日本山岳関係データーベース:
http://moaej.shinshu-u.ac.jp/?classification=%E7%B5%B5%E7%94%BB&paged=2
画狂老人卍的世界 INDEX
http://jam.velvet.jp/hokusai-0.html
「人物略画式」全頁画像(一覧)-福岡大学図書館
http://www.lib.fukuoka-u.ac.jp/e-library/tenji/wabi/wabi-html/ten/zen/jin/jin_itiran.html
国立国会図書館デジタルコレクション:江戸名所図会
http://dl.ndl.go.jp/search/searchResult?featureCode=all&searchWord=%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%90%8D%E6%89%80%E5%9B%B3%E4%BC%9A&viewRestricted=0
国枝史郎 北斎と幽霊 - 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000255/files/43563_17048.html
カオスを描いた北斎の謎
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20070316/121233/
葛飾北斎 - GATAG|フリー絵画・版画素材集 - GATAG
http://free-artworks.gatag.net/tag/%E8%91%9B%E9%A3%BE%E5%8C%97%E6%96%8E
葛飾北斎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E9%A3%BE%E5%8C%97%E6%96%8E


三合の厄を避ける為、建久に改元

2015-04-11 | 歴史
文治6年4月11日(ユリウス暦1190年5月16日)、陰陽道陰陽五行説による「三合厄歳」(三合の厄)を避ける為、建久(けんきゅう)に改元
建久の元号は、『晋書』の「建久安於万歳、垂長世於元窮」および『呉書』の「安国和民、建久長之計」を出典として命名。勧進者は文章博士・藤原光輔。光輔は、平安時代中期の貴族、藤原式家の出身で能書家従五位下・加賀守藤原 文正の子とされている。
元号文治。. 建久10年4月27日(ユリウス暦1199年5月23日)土御門天皇即位による代始改元(君主の交代による改元)により正治と改められる(『百錬抄』)。

上掲の画像は、後鳥羽院像(伝藤原信実筆、水無瀬神宮蔵)Wikipediaより
元号の建久は、1190年から1198年まで。.太上天皇(後白河天皇)の院宣を受ける形で、「神器なき即位」をした後鳥羽天皇(高倉天皇の第四皇子。母は、坊門信隆の娘・殖子[七条院]。後白河天皇の孫で安徳天皇の異母弟)の代の元号。
同じく高倉天皇を父に持ち、母は平清盛の娘の徳子(後の建礼門院)の子である異母兄安徳天皇(第81代天皇)が、退位しないまま後鳥羽天皇が即位したため寿永2年(1183年)から平家滅亡の文治元年(1185年)まで在位期間が2年間重複している。
つまり、源氏平家が相争った治承・寿永の乱の時代。源頼朝の源氏方では寿永の元号を使用せず以前の治承を引き続き使用していたが、源氏方と朝廷の政治交渉が本格化し、朝廷から寿永2 年10月宣旨が与えられた寿永2年(1183年)以降、京都と同じ元号が鎌倉でも用いられるようになる。また、平家方では都落ちした後も次の元暦とその次の文治の元号を使用せず、この寿永をその滅亡まで引き続き使用した。
安徳天皇は、文治1年(1185年)3月の壇ノ浦の戦い源氏に敗れ、寿永4年3月24日(1185年4月25日)三種の神器である神璽宝剣を身につけた祖母・二位尼(平時子)に抱かれて壇ノ浦に身を投じ、8歳で崩御している。神器のうち宝剣だけは、いくら探しても海中に沈んだまま遂に回収されることが無かった。伝統が重視される宮廷社会において、皇位の象徴である三種の神器が揃わないまま治世を過ごした後鳥羽天皇にとって、このことは一種の「コンプレックス」であり続けた。
例えば、Wikipedia では、藤原定家は後鳥羽上皇と順徳天皇(後鳥羽天皇の第三皇子。母は、高倉範季の娘・重子[修明門院])の度を越した蹴鞠好きを批判した際に「百王八十余代、神剣没海、卅廻于茲。事理可然」(『明月記』建保元年4月29日条)と神器の不在に原因を求め、近代においても武士の台頭の原因として、後鳥羽天皇が「虚器」を擁していたことに求める意見があった(池田晃淵「承久の乱の起因に就て」『史学雑誌』第7巻第2号、1896年)と記している。
それがゆえに、後鳥羽天皇は、一連の「コンプレックス」を克服するために強力な王権の存在を内外に示す必要があり、それが内外に対する強硬的な政治姿勢、ひいては承久の乱の遠因になったとする見方もある・・・と。

この時代、平氏討滅後、鎌倉を本拠として関東を制圧し、弟たちを代官として源義仲や平氏を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護地頭を配して力を強めた源 頼朝は、奥州合戦奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定していた。
建久3年(1192年)3月までは、後白河法皇による院政が続いていた。後白河院の死後は関白九条兼実が朝廷を指導した。兼実は後白河法皇が忌避した源頼朝への征夷大将軍の授与を実現した。これにより、頼朝は、鎌倉幕府を開くことが出来た・・・・が、頼朝の娘(大姫)の入内問題(ここ参照)から関係が疎遠となった。これは土御門通親の策謀によるといわれている。
建久7年(1196年)、通親の養女・在子に皇子(為仁、後の土御門天皇)が産まれた事を機に政変(建久七年の政変)が起こり、兼実の勢力は朝廷から一掃され、兼実の娘・任子中宮の位を奪われ宮中から追われた。この政変には頼朝の同意があったとも言う。
建久9年 後鳥羽天皇が土御門天皇に譲位。しかし、土御門は父・後鳥羽天皇の譲位により3歳で践祚したため、立太子もしていなかった。土御門天皇即位後、事実上は、後鳥羽上皇による院政がしかれ, 以後、順徳天皇、仲恭天皇と、承久3年(1221年)まで、3代23年間に亘り上皇として院政を敷く。上皇になると土御門通親をも排し、殿上人を整理(旧来は天皇在位中の殿上人はそのまま院の殿上人となる慣例であった)して、院政機構の改革を行うなどの積極的な政策を採り、正治元年(1199年)の頼朝の死後も台頭する鎌倉幕府に対しても強硬な路線を採った。

元号は、歴史上の年を数えるために主権者が定めたものであり、一般には年号と呼ばれる。元は〈はじめ〉の意である。中国を中心とする東洋の漢字文化圏に広まった紀年法で、前漢の武帝のときに始まる。
日本に於ける正式の年号の初めは皇極天皇4年(645年)蘇我氏(蘇我蝦夷入鹿親子)の討滅を機(乙巳の変大化の改新)に天皇の禅(ゆず)りを受けて、皇弟・軽皇子が即位し、孝徳天皇となり、数日後、『日本書記』に「天豊財重日足姫天皇(皇極天皇)の4年を改めて、大化元年と為す」(※1:「古典館目次」の日本書紀巻第25-1参照)と記されているのがそれである。
大化以前において法隆寺金堂の釈迦三尊像の光背の銘や『伊予国風土記』逸文の道後温泉の碑文などによって法興という年号(※2:「聖徳太子」の伊予湯岡碑文の考察参照)のあったことが知られているが、これは以下に述べる「白鳳」「朱雀」などと共に、公式に定められたという徴証(ちょうしょう=あかしとなる証拠)がなく、逸年号もしくは広い意味で私年号というべきものとされている。
しかし、蘇我氏の氏寺で、奈良県明日香村にある日本最古の本格的寺院でもある法興寺(飛鳥寺の異称)は、「仏法が興隆する寺」の意であり、の文帝(楊堅)が「三宝興隆の詔」を出した591年を「法興元年」と称したこととの関連が指摘されている(※3参照)。
大化6年(650年)穴戸(長門国,の古称)国司より白雉(しろきぎす。はくち。=白色のキジ)を献上されたのを祥瑞(しょうずい。瑞祥【ずいしょう】と同じ。めでたいことが起こるという前兆。吉兆)として、白雉(はくち)と改元したが、同5年孝徳天皇崩御して以後改元は行われず、天武朝の末年、朱鳥(あかみとり)の年号が定められたが、その年天皇が崩御してこれも続かず、文武天皇5年(701年)に至って対馬から金が貢上されたのを機に大宝の年号が建てられた。
そして、大宝律令において初めて日本の国号が定められ(大化元年7月[645年8月]の条に、高句麗百済の使者に示したに「明神御宇日本天皇[あきつみかみとあめのしたしらすやまとのすめらみこと]の文言が出ている(※1の日本書記巻第25-1参照)。本格的な中央集権統治体制を成立したといえる。
この年施行された大宝令には、公文に年を記す時はすべて元号(年号)を用いることが規定されていたことから、律令制度と年号は切り離すことの出来ないものとなり、次第に国民の間に浸透。年号は、大宝以降絶えることなく現代に及んでいる。
尚、南北朝時代の朝廷は、南朝(大和国吉野行宮)と北朝(山城国平安京)に2つの朝廷が存在し、それぞれが正統性を主張し、南北朝合一まで、それぞれが元号を建てていた(元号一覧参照)。

改元行事もこのころから制度化したと考えられ、改元の理由にはおおよそ(1)君主の交代による代始改元(即位改元ともいう)、(2)吉事を理由とする祥瑞改元、(3)凶事に際してその影響を断ち切るための災異改元、(4)革命改元といわれる辛酉(しんゆう)と、甲子(きのえね)の年の改元があることは、以前このブログ文化(元号)でも書いたことあるが、そのほかに、建久の改元のように、「三合厄歳」(三合の厄)を避ける為の改元があることを知った。
三合とは、陰陽道(おんようどう)でいう厄年の一で、太歳太陰客気の三神が合することで、災害が多いのだという。

菅野真道らが延暦16年(797年)に完成したという『続日本紀』)には、災害が外から来るという記述と、疫病鬼が人民の家に入ろうとする記述が二つ見え、その一つ、『続日本紀』平宝字二(758)年八月十八日の天皇の勅 に”陰陽道でいう厄年の一つ。大歳・太陰・客気の三神が一年の中に合した、三合の年は洪水・日照り・疫病の災害が起こる、諸仏の母である『摩訶般若波羅密多経』のような四句の偈 (仏をたたえる詩)などを読誦すれば、福徳が集まってきて、その功徳は考えられない程であり、天子がこれを念ずる時は、兵乱や災害は国内に入らない。庶民が念じたならば、病気や疫病鬼は家の中に入らず、悪を断ち幸福を得るのでこれ以上のものはないと。
又、.『続日本紀』宝亀五(774)年夏四月十一日の天皇の勅にも、天下の諸国に悪性の流行病の者が多くて、医療をほどこしてもまだ回復しないと聞く。朕は宇宙に君臨して人民を子として育んでいる。このことを思って寝ても覚めても心を労している。『摩訶般若波羅蜜経』は諸仏の母である。天子が『摩訶般若波羅蜜経』を念ずる時は、兵乱や災害は国内に入らず、一般の人が念ずる時は流行病や流行病の神は家内に入らない。この慈悲によって短命を救わんと思う。・・と。
この二つの例から、八世紀後半以降、疫病が内から発生するのではなく、疫病鬼が外から家の中に入ろうとして起こるという意識があったのではないかと考えられる。「兵乱や災害は国内に入らず」という部分から考えると、「国内」つまり、天皇の非支配領域から疫病が来ているという考え方もあったと解釈できるという。
結局、支配者、すなわち朝廷の貴族やその官人などが一番望んでいたのは、収穫物が滞りなく徴収できることだったと考えられる。以上記述されている救済法(使いを遣わすこと及び薬を給すること)から考えると、人民が長生きできるように、しっかり活動できるようにするのは、まず収穫物を滞りなく収めさせるためで、また、人民が多く死亡したり、支配する人民が減ったりすることは、支配者としての権力が衰退することにつながるからだろう。だから、人民を救うことには政治的な意味があり、支配者の利益に関わる問題だと言えるようだ(※4参照)。
だから、そのような三合の年には、改元までして災難を逃れようとしたのだろう。

古い時代から、伝統社会においては、その社会で共有される宇宙論の中で、王はその中心を象徴するものとして神聖視される場合が多かったようだ。特に農耕社会にあっては、王は農作物の成長を促すエネルギーの源であり、森羅万象を統制する力を持つものとされた。ここにおいては、王は人間の身でありながら、同時に宇宙の秩序を司る存在として捉えられていたようである。
神話や宇宙論、宗教や伝統的な信仰に支えられた「神聖なる王」が制度化するために重要なのが王位継承の儀式であった。
王位継承は、多くの場合、単に統治者としての任務の継承ではなく人が神に変わる経過をたどり、秘儀(非公開で、ひそかに行う儀式。密儀)を含んだ儀礼として劇化される。それは人格の変換を意識される伝統的な通過儀礼といくつかの面で共通点を有している。
例えば、ヨーロッパの王権に見られる王冠・王笏(おうしゃく)宝珠、中国の歴代皇帝に伝えられてきた伝国璽、日本の天皇制における「三種の神器」などである。
紀年法の一種である元号は、皇帝や王など君主の即位に定められている(治世の途中に随意に行われる改元もある)が、君主が特定の時代に名前を付ける行為は、君主が空間と共に時間まで支配するという思想に基づいており、「正朔を奉ずる」(天子の定めた元号と暦法を用いる)ことがその王権への服従の要件となっていた。
元号が政治的支配の正統性を象徴するという観念は、元号を建てることにより、既存の王朝よりも自らの正統性が優越しているか、少なくとも対等であることを示すことができるという意識を生んだ。そのため、時の王朝に対する反乱勢力はしばしば独自の元号を建てた。また、時の政権に何らかの批判を持つ勢力が、密かに独自の元号を建てて使用することもあった。このように、後世から公認されなかった元号を「私年号」と呼ぶ。
中国王朝の政治制度を受容した周囲の王権は元号制度もともに取り入れているが、これも同様の発想に由来する。中国王朝から見れば、中国王朝を真似て、しかもこれと対等であることを示すために建てられた周辺諸国の元号は、やはり「私年号」であり、使用は許されないものであった。一方で周辺諸国の王権は中国王朝から冊封を受け、周囲の競争勢力に対する自らの正統性の保障としたが、冊封の条件の一つが「正朔を奉ずる」ことであったため、独自元号の使用と冊封は両立しない要素であった。

中国や日本では君主の称号として天子が用いられていた。天下を治める者。国王、皇帝、天皇などの別号として用いられる。
王は天帝)の子であり天命により天下を治めるとする古代中国の思想を起源としている。
周代、周公旦によって「天帝がその子として王を認め王位は家系によって継承されていく。王家がを失えば新たな家系が天命により定まる」という「天人相関説」が唱えられ、天と君主の関係を表す語として「天子」が用いられるようになったという。
秦の始皇帝により、天下を治める者の呼称が神格化された皇帝へと変わると、天子の称は用いられなくなったが、漢代にいたり儒教精神の復活をみると、再び天子の称が用いられるようになり、それは皇帝の別名となった。

上掲の画像は、中国前漢時代の儒学、『春秋』学者者董 仲舒(とう ちゅうじょ)。
儒家の思想を国家教学とすることを献策した人物。その思想の最大の特徴は「災異説」である。画像は、Wikipediaより。

皇帝の支配は、空間(領土)の支配と時間(年号)に及び、皇帝以外の者の支配は許されなかった。
前漢の武帝は、太陰暦太陽暦を合体した太初暦を制定。皇帝の下した暦を用いるのが、皇帝の主権を認めた証拠となり、これを「正朔を奉ずる」と言ったのである。
皇帝は天帝に対しては天の子=天子として天を祭る儀礼を司り、それは皇帝だけに許された神聖儀礼として多少の変化はしながらも清朝に至るまで連綿と引き継がれた(皇帝祭祀も参照)。皇帝祭祀はまた日本の天皇が執り行う宮中祭祀新嘗祭など)にも影響を与えた天皇の即位儀礼「大嘗祭」との関連性も指摘されている。

中国の影響を多く受けた日本神話天地開闢・国土創造については、『日本書紀』卷第一 代上(※5:「古代史獺祭」の日本書紀参照)の冒頭に「古(いにしえ)天地(あめつち)未だ剖(わか)れず、陰・陽、分かれざりしときに、渾沌たること鷄(とり)の子の如くして、溟(ほのか)に牙(きざし)を含めり。 其(そ)れ清く陽(あきらか)なるは、薄靡(たなび)きて天(あめ)と爲り、重く濁れるは、淹滞(つつ)いて地(つち)と爲るに及びて、精(くわ)しく妙(たえ)なるが合えるは摶(むらが)り易(やす)く、重く濁れるが凝(こ)るは竭(かたま)り難し。 故(かれ)、天(あめ)先(ま)ず成りて、地(つち)後に定まる。」・・とあるが、これも、中国思想の借用、つまり、中国前漢の武帝の頃に、淮南王(漢の高祖・劉邦の七男)が学者を集めて編纂させた思想書『准南子(えなんじ)』紀元前140)の天文訓に、記されている天地創造神話(※1の日本書紀-1-1冒頭部分参照)を基にしてできたものである。

陰陽道の「三合」がどんなものであるか専門外の私には詳しいことはよく判らない。以下参考の※6:「三合の理」、※7:「易・五行、讖緯思想」など参照されるとよい。

冒頭の画像は、陰と陽。太極図。Wikipediaより。


参考:
※1:古典館目次
http://www.kyoto.zaq.ne.jp/dkanp700/koten/koten.htm
※2:聖徳太子
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/8918/sub1.html
※3:古代史の論点:大宝以前の逸年号-逸年号論序説-
http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/Main/NENGO.htm
※4:儺祭詞にみえる疫病鬼に対する呪的作用について(その@)
http://www.7key.jp/data/thought/shintou/norito/
※5:古代史獺祭;日本書紀 
http://www004.upp.so-net.ne.jp/dassai1/shoki/frame/01/01/fr.htm
※6:三合の理 - 人生の謎学
http://blog.goo.ne.jp/syncr/e/193410a361ebeff8c5cb8cbc8b222f29
※7:易・五行、讖緯思想
http://www17.plala.or.jp/urashimasetuwa/newpage1.html


KOBE JAZZ DAY 4/4 (2-1)

2015-04-04 | 記念日

ジャズの日」(1月22日 記念日)は、JAZZのJAがJanuary(1月)の先頭2文字で、ZZが22に似ていることから、。「1月22日を日本のジャズの日」として定着させようと、東京都内のジャズクラブオーナーらによる「JAZZ DAY 実行委員会」が2001年(平成13年)から実施しているが、今日4月4日は「KOBE JAZZ DAY4/4」(神戸ジャズの日)である。
制定したのは、 我が地元・兵庫県神戸市の豊かな文化の創造を目的として、さまざまな芸術文化事業を展開している公益財団法人神戸市民文化振興財団(※1)である。
1923(大正12) 年 の4 月、日本で初めてプロバンドによるジャズの演奏が行われた神戸市は、日本のジャズの発祥の地とされている。
その日付は定かではないが、 ジャズと言えば4ビート(4/4拍子)であることから4月4日としたもの。4/4はエイプリル・フォースと読む。


上掲の画像は「KOBE JAZZ DAY 2015」ポスターである。
毎年10月に行われている恒例の「神戸ジャズストリート」は、わが国最初のジャズバンド「井田一郎とラッフィング・スターズ」が神戸で結成されてから60年目にあたる1981(昭和56)年に第1回が開催された。
このバンドはやがて東京に活動の場を移し、デキ シーランドジャズを演奏した。神戸では関西学院の学生などを中心に、デキシーランドジャズ・バンドが多く生まれ、今でも、神戸はデキシーランド ジャズのメッカとされている。
神戸ジャズストリートは、第1回以降毎年秋に、国内外のアーティストを招いて、三宮北野坂トアロード周辺のパブ、教会、ホテル、会館等十数か所を会場に して行われている。
この催しでは、演奏者が次々と各会場を出張演奏して廻る、また、アマとプロが一体となって演奏し、街にジャズが溶け込んでいるのが特徴である。
今、日本では、夏になると全国各地で「ジャズフェスティバル」と称するものが開催されているが、神戸には古くから伝統のある「全日本ディキシ ーランド・ジャズ・フェスティバル」があるため、「フェスティバル」に替わるネーミングとして「ジャズストリート」の名が考え出されたという。
この発想は、1930年代半ば頃のニューヨークの52丁目界隈は、ジャズを聴かせるナイトスポットが軒を並べていたそうで、当時のニューヨークっ子は、夜な夜なジャズを聴くために、それも好きな者は、何軒かの店を「はしご」をしたという話しであり、このやり方を、取り入れたのが神戸のジャ ズストリートなのである。
年に一度の「神戸ジャズストリート」では、この日を待ちかねていたように、大勢のジャズファンが集まり、ステージでの演奏と、それを聴くファン が一体になって盛り上がっている
今年の「2015年(34回)神戸ジャズストリート」は、10月11日(土)~10月12日(日)北野町周辺で行われる。前夜祭は10月9日(金)。詳細は、※2:神戸ジャズストリート(公式サイト)を参照。


上掲は「2014神戸ジャズストリート 前夜祭」の様子。動画。

ジャズ(英:jazz)は、19世紀末から20世紀初頭にかけて米国ルイジアナ州ミシシッピ川最下流に位置する港町、ニューオリンズで誕生したとされているが、実際のところ、具体的にどう生まれたのかは現在でもはっきりしていないようだ。
ただいえることは、当時は、かつて欧州から移住した人々や欧州系白人と黒人の混血「クレオール」、奴隷制があった時代に、アフリカから労働力として強制的に連行された人々など、多種多様な人種が集まり、新たな文化が生まれやすい土地であったということである。
アフリカから連れてこられた彼らは先祖伝来の独特のリズム感を持っていて、アフリカにいた頃からリズムに乗って仕事や宗教的な行事を行なっていたのだろう。
アメリカ南部の農園などで、奴隷として過酷な労働を強いられた黒人労働者は、故郷を思い起こしながら、その怒りや苦悩、不満といった自らの感情を表現する手段としてトーキング・ドラムを叩いたり、労働の合間に歌ったワークソング (労働歌)などが、ジャズの源流にあるといわれている。その後、ジャズらしい形態が整えられていくのは1800年代後半頃からで、そのワークソング(労働歌)はブルースへ、 キリスト教への強制改宗後も、歌いながらのお祈りは、スピリチュアルズ(現在のゴスペルの基調となる音楽)へと発展した。これに加えて、ニューオリンズでは歓楽街「ストーリーヴィル」などのピアニストたちが軽快なタッチで演奏する「ラグタイム」で人気を集めた。
そして、アメリカに新しく住み着いたアフリカ人たちもヨーロッパ音楽と出会い、トランペット(tp)、トロンボーン(tb)、クラリネット(cl)といった西洋楽器を使った黒人ブラスバンド(ニューオリンズ・ブラスバンド)による街頭演奏を行うようになっていった。
そして、20世紀に入ると、アフリカ系アメリカ人のコルネット奏者バディ・ボールデンが1907年頃までニューオーリンズで人気を博していたとの伝承があり、今日では彼が「初代ジャズ王」と呼ばれているそうだが、本人による録音が残されておらず未詳である。
これが初期「ニューオリンズ・ジャズ」であり、後の多様なスタイルのジャズに分かれていった音楽の一つで、以後のジャズ音楽のおおもとになった形式である。
一方、白人も黒人のジャズをまねて、tp 、tb、clの3管編成を中心とするニューオリンズ・スタイルのジャズを始めた。これが「ディキシーランド・ジャズ」であり、ディキシーランドスタイルが定着してくる頃になると、黒人だけでなく白人のジャズミュージシャンも続々と登場した。
そして、1917年には、ニューオーリンズ出身のニック・ラロッカというイタリア人をリーダーとする白人5人組バンドであるオリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドがジャズ界で、初の商業用レコードを、“Dixie Jass Band One Step”と“Livery Stable Blues”の2曲入りシングルをビクタートーキングマシンから発表したことが知られている。


上掲は、そのうちの1つ、Original Dixieland Jazz Band "Dixie Jass Band One Step" February 26, 1917 FIRST JAZZ RECORDである。

このように、ニューオリンズを起点に、ヨーロッパのブラス・バンドや伝統音楽に、黒人霊歌などのアフリカの伝統音楽の要素が加わり、発展・融合し、生まれた新しい音楽表現がやがて“ジャズ”(この当時は“jass”と呼ばれていた。「ジャズ(JAZZ)」の語源については※3の“Jazz”という言葉参照)と呼ばれるようになり人気を博すが、1917年アメリカが第一次世界大戦に参入すると、海軍基地のあったニューオリンズでは軍規の乱れを心配した海軍が歓楽街(ストーリーヴィル)の統制を厳しくしたため、歓楽街は衰退をはじめ、やがて閉鎖されることになる。そして、ニューオーリンズで生まれたジャズは、その後メンフィス (テネシー州)、セントルイス(ミズーリ州東部),・・・そしてシカゴへとミシシッピ川を北上して広がっていった。尚、メンフィスはセントルイスと並ぶブルースの発祥地としても有名である。
つまり、ニューオーリンズで仕事にあぶれた多くのミュージシャンたちは、その拠点をシカゴへ・・と移していったのであった。
衰退しはじめたニューオリンズにかわり、1920年代にはシカゴ、カンザスシティが発展する。これは、アル・カポネが活躍した禁酒法が施行(1920-1933)されていた時代と同じである。シカゴでは新しいジャズを売り物にして、キャバレー、ナイトクラブが人気を競った。
ジャズと酒は歓楽街時代から切っても切れない仲である。禁酒法が守られている所ではジャズミュージシャンは失業してしまう。そんな中、アル・カポネを中心としたシカゴ・ギャングは、密造酒と「もぐり酒場(Speakeasy)」(ヤミ酒場)を経営し、多くのジャズミュージシャンの仕事場となった。要するに、禁酒法の執行官は密造・密売業者やそれを纏めるギャングら(アル・カポネ等)に容易に買収されており、禁酒法は、実際にはザル法でありキャバレーや、ナイトクラブが堂々と営業をしていたのであった。
1922年、すでに、ニューオーリンズで人気者になっていた若き日のルイ・アームストロングジョー・”キング〟オリバー,の呼びかけに応じてシカゴに移住した一人であった。
この時代に、チャールストン、スウィング・ビート(ここ参照)が形成された。ジャズはダンス・ミュージックとして洗練されていき、また、バンド構成もニューオリンズの小さなものから大編成のアレンジされた集団演奏(ビッグ・バンド)が流行するようになる。

上掲の画像は、1922年ジョー・”キング〟オリバーと彼のバンド。左から4番目に、オリバーの愛弟子である、若きルイ・アームストロングも見られる(『朝日クロニクル週刊20世紀』より)。
ジャズはすぐにニューヨークにも波及し、ルイ・アームストロングも1924年には今や「ジャズの聖地」となったニューヨークへと拠点を移ししている。こうして、1920年代初頭にはアメリカを代表する音楽スタイルの一つとして、ジャズはアメリカ国内の大都市に急速に広まっていった。「オリジナル・デキシーランド・ジャズ・バンド」は1919年に、イギリスに渡り海外で初めてジャズを演奏。以後、イギリス、フランス、オランダなどでもジャズバンドが作られていった。
第一次世界大戦から大恐慌までのアメリカの隆盛期が「ジャズ・エイジ」と呼ばれるのはこのためである。
.1930年代になり大恐慌による不況時代から徐々に景気が回復してくると、人々は明るく軽快な音楽を求めるようになり、ダンスホールを拠点にスウィングジャズが台頭してくる。
ベニー・グドマンや、グレン・ミラー、黒人ではカウント・ベイシーデューク・エリントンなどがスウィングジャズ、ビッグ・バンドの代表奏者に挙げられる。

ジャズは現在ではロックテクノなど他ジャンルと同様演奏スタイルの多様化とジャンルの細分化が進んでおり、その特徴を一言で言い表すのは難しい。
一般的に日本でイメージされるであろうピアノやサックスなどの生楽器を使用し、スイングと呼ばれる跳ねたリズムで演奏されるジャズは、モダン・ジャズと呼ばれる1940~60頃から演奏されているジャズの一ジャンル(:ジャズのジャンル参照)で、ジャズの主流ではあるものの、その全体の説明としては十分ではないという(特徴、歴史など詳しくは※3 、※4 参照)。

日本におけるジャズの先駆は、1912(明治45)年、東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)卒業者である波多野福太郎ら5名による波多野バンドが、東洋音楽学校初代校長鈴木米次郎と共に横浜港からサンフランシスコ行きの東洋汽船の地洋丸に乗り込んだ事から始まる。波多野バンドは北米航路を中心に楽隊として演奏を続けていて、その度に本場のジャズを聴いて耳を肥やした。そして、1916(大正5)年、東京西銀座の金春館という洋画専門館の館主に口説かれて船を下り、映画の伴奏をするようになった。この頃はまだ、無声映画の時代であった。その後、弟の波多野次郎の主催しているハタノ・オースケストラと合流し、金春館から5分ほどの場所にある帝国ホテルでもオーケストラの演奏をしていたようだ。
1920(大正9)年、横浜鶴見花月園に日本最初の常設のダンスホールが作られた。ここで最初に演奏したのが宍倉脩(ピアノ)を楽長に、阿部万次郎(サックス)、原田録一(トランペット)仁木他喜雄(ドラムス)・井田一郎(ヴァイオリン)で編成された日本初のダンス専門バンドだった。
この翌1921(大正10)年1月には、経営者が替わった金春館を離れ、ハタノ・オーケストラは、宍倉バンドの後を継いで花月園に進出。波多野福太郎は当時の模様を「船時代にアメリカで買ってきたフオツクス・トロットやワン・ステップ(4分の2拍子の社交ダンスで、フォックストロットの変型のステップ)、ラグタイムの譜面をそのまま演奏した。」・・といっているそうだ(※5参照)。しかし、花月園は、波多野らの演奏が加わってから10ケ月ほどで閉鎖してしまった。
波多野兄弟によるハタノ・オーケストラは日響(日本交響楽協会)の母体となりクラシック、ジャズ(モダン・ジャズ以前のもの)を問わず多くのプレイヤーを生みだすことになる。
ジャズの分野でパイオニアとなった者としては、前野港造は松竹座オーケストラやNHK大阪のオーケストラに所属したのち、井田一郎とジャズ・バンドを組んで多くのダンスホールに出演し、日本のジャズ・サックスの嘱矢となった、高見友祥も、宝塚オーケストラで知り合った井田一郎と共にコロムピア・ジャズ、バンドで活動 し、前野港造と共に日本のジャズ・サックスの長老的存在となった。その他に、作曲や編曲の分野での活躍も注目に値する。奥山貞吉はNHKとコロムピアで作曲・編曲を担当、仁木他喜雄は新交響楽団に所属するかたわらコロムピアの専属編曲者としてジャズ・ソングの編曲を得意とするようになった。

花月園が閉鎖、 そして、関東大震災後はジャズの舞台を東京から大阪へと移動させることとなる(※5、※6参照)のだが、大阪での、最初の本格的ジャズバンドの旗揚をしたのも、井田一郎だった。
井田は、1894(明治27)年、東京・浅草に生まれ、幼少時は家庭の事情で各地を転々とする。1910(明治43)年三越呉服店音楽部オーケストラに入り、トランペットを担当。同楽団ではたびたび社交ダンスの伴奏を手がけたことから、若い頃よりダンス音楽やジャズに関心を持ち、大正のはじめごろにはラグタイムやフォックストロットといった新しいダンス音楽を米国の音楽雑誌から見つけて演奏しており、噂を聞きつけた瀬戸口藤吉がその演奏法を教わりに来たほどであったという。のち三越を辞めて本場に渡ってダンス音楽の見聞を広めるために日本郵船の客船・鹿島丸に乗り組む。そして、日本初の公開ダンスホール・花月園のために米国で楽器を買い付けて1917(大正6)年帰国してからは同園のダンスバンドに所属し、バイオリンを担当していたことは先に書いたとおりであるが、このバンドは内紛のため3ケ月で解散したため、1918(大正7)年末から1921(大正10)年3月まで、東洋汽船の天洋丸に乗り込み船内バンドに加入し、到着地のサンフランシスコではホテルバンドのバンドマスターからダンス音楽のレッスンを受け、劇場やホテルのバンドを聞いて廻ったという。1922(大正11)年三越時代の恩師・東儀哲三郎の紹介で宝塚オーケストラに入団した。楽員20人ほどを集めてジャズ研究会を作る。そして、3サックス(3)、トランペット、トロンボーン、ヴァイオリン、ドラムス、ピアノの8人編成で少女歌劇の幕間に演奏をして好評だったが、古参楽員の横槍で自然消滅し、井田(vln)は、高見友祥(drums)、山田敬一(sax.)、岩波桃太郎(piano, Fl.)とともに退団。退団後は仲間にコルスキー(piano)を加えてバンドを組み、神戸などのダンスパーティーで演奏していた。
そして、1923(大正12)年春井田・高見・山田・岩波の4名で日本初のプロのジャズバンド「ラフィング・スターズを結成した。井田たちは白いジャケットに黒いズボン、腰にはスペイン風サッシュを巻いてステージに上った。実に粋な演出だったようだ。
マネージメントは神戸三ノ宮の北尾楽器が引き受けた。ディキシースタイルで、オリエンタルホテルや山の上の東亜ホテル(「トアロード」の最北端、現在の「神戸外国倶楽部」の場所に、英・独・米・仏の人々の共同出資で開業されたホテル[1908~1950年])のダンスバンドとして出演し人気を博した。このことから、神戸がジャズの発祥の地とされているわけである
しかし、ダンスパーティーだけの契約に無理がたたってしまい、わずか5ケ月で解散 その後、1923(大正1)2年8月に道頓堀に開場していた.松竹座オーケストラに井田は加入した。
大正時代の大阪には、日本を代表する大衆音楽の勃興、すなわち『ジャズの都』といった特別の音楽環境があった。例えば、道頓堀川には粋な屋形船の上で熱演するジャズバンドがあった。本場アメリカのミシシッピー河を上下するショーボート(大ヒットしたブロードウェイミュージカルのタイトルにもなった)とは行かないまでも、水の都大阪ならではの光景であったろう。今大阪市はかってあったジャズの街を模索している(その後の井田一郎の経歴などは※6を、ジャズの都-大阪のことなど詳しいことは※7を参照されるとよい)。

さて、ジャズと云うと、映画好きの私には昭和の時代に大活躍した「日本の喜劇王」とも呼ばれたエノケンこと榎本健一のことを思い出す。以下そのことを書いてみよう。

(冒頭の画像は、北野町広場にあるジャズマンの像)

KOBE JAZZ DAY 4/4 (2-2)
KOBE JAZZ DAY 4/4 (参考)

KOBE JAZZ DAY 4/4 (2-2)

2015-04-04 | 記念日
1904年東京生まれのエノケンは、浅草公園六区の「浅草オペラ」時代から6年(1917年 - 1923年)の年月が経ち、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災後、麻布十番の芝居小屋や、京都・太秦に移り、サイレント映画の端役として潜伏していたが、東亜キネマ京都撮影所、前年の1928年(昭和3年)8月に解散した中根龍太郎喜劇プロダクションを経て浅草に帰還、石田守衛(俳優)に誘われて桜井源一郎が経営する東京浅草の水族館2階「余興場」に軽演劇の劇団「カジノ・フオーリー」(仏語由来Casino Folies、1929年7月10日 - 1933年3月)を創立した.。この時25歳。
因みに、アメリカの1920年代は先にも書いたように「狂騒の20年代」、「素晴らしいナンセンスの時代」などとも呼ばれたジャズが時代の流行の音楽となり、享楽的な都市文化が発達した時代であった。「ジャズ・エイジ(Jazz Age)」は、偉大なるギャッピー』(The Great Gatsby)によって1920年代を代表する作家のひとりとなった作家のF・スコット・フィッツジェラルドの命名による物である。
エノケンはこのカジノ.・フォーリーの舞台で、当時最新の流行ジャズソングを多く取り入れていた。「私の青空」「アラビヤの歌」「洒落男」などがそれで、エノケン以前に、当時の人気ジャズ歌手であった二村定一が唄ってヒットさせたアメリカ曲である(歌の説明は、※8を参照されるとよい。洒落男ここ)。


私の青空(My Blue Heaven) 二村と榎本それに、石川さゆりのカバーを聴き比べてください。


洒落男 藤山一郎とエノケンの歌を聴き比べてみてください。
現在でこそジャズソングと云う言葉は余り用いられないが、当時はこの言葉がフォックストロットのリズムで歌われるアメリカのポピュラーソングだけに限らず、シャンソンやタンゴ、ハワイアンに至るまで、舶来ソング全体をさす言葉として良く使われていたそうだ。
因みに、この時のジャズソングをはじめとする楽譜に関しては、桜井の親戚でフランス帰りの内海正性やその弟で画家の内海行貴が、横浜に着いた外国船の楽士に頼んで外国から新しい譜面をいち早く取り入れていたということが分かっている。
そのころのカジノ・フォーリーには、川端康成武田麟太郎など、当時の新進作家が出入りしていたようだ。
川端康成は小説(『浅草紅団』)の中でカジノ・フォーリーについて次のように書いている。

「和様ジャズ合奏レヴュウ」という乱調子な見世物が1929年型の浅草だとすると、東京にただ1つ舶来「モダアン」のレヴュウ専門に旗揚げしたカジノ・フォウりイは、地下鉄食堂の尖塔と共に、1930年型の浅草かもしれない。エロティシズムと、ナンセンスと、スピイドと、時事漫談風なユウモアとジャズソングと女の足と~。・・・と、フェティシズムの川端らしい表現だ。

第2次カジノ・フォーリー(1929年10月 - 1933年3月)は、むしろ水族館のメインにとってかわる人気となるが、自らが座長であった榎本が二村定一、武智豊子とともに脱退独立し、浅草観音劇場に旗揚げし、新しい劇場に進出する。それが「新カジノ・フォーリー」(1930年8月 - 10月)である。エノケンは当時詩人で元ベラゴロ(「浅草オペラ」の熱狂的なファンは「ペラゴロ」[オペラ+ゴロツキ]とも呼ばれた)であったサトウハチローを文芸部長に招き内容の充実にさらに力を入れ、その中には無名時代の菊田一夫もいたという。しかし、その後座員の不和と体調悪化により2ヶ月で解散している。
ここにおいて欧米喜劇映画にあるギャグやスピードだけでなく、震災前に根付いていた浅草オペラおよび当時の浅草レヴューにあった要素を取り入れつつ、新たな喜劇を創り上げていた。
その後、浅草の玉木座開場に伴い結成された「プペ・ダンサント」、浅草オペラ館が新規開場すると「ピエル・ブリヤント」結成等を経て、1938(昭和13)には、松竹を退社して東宝と専属契約を結び劇団名も「東宝榎本健一一座」と改めることになる。南無阿弥陀仏の念仏をジャズソングに載せて歌う同年公開の映画『エノケンの法界坊』は一座の東宝第一作品である。


上掲の動画は、オープニング - エノケンの法界坊 (1938)であるが、南無阿弥陀仏の念仏をジャズソングに載せて歌う歌は、永楽屋の店先で、ほんの少ししか歌われていないが、フィルムが紛失していて、もともとは5~6分ぐらい歌われていたと聞く。この動画の最後の方では、おくみ(宏川光子)と掛け合いで要助(小笠原章二郎)が歌っていた曲は、『モダン タイムズ』でチャップリンが歌っていた「ティティーナ」に日本語歌詞をつけた替え歌だが、『モダン タイムズ』の米国公開が1936年2月、日本での公開は1938年2月であるからそれを早速同じ年に取り入れているのだからちゃっかりしているね~。(チャップリンの歌はYouTubeでどうぞ→ここ)。
エノケンは、東宝入りして以降舞台に映画に大活躍するが、ジャズに対して暑い想いがあったエノケンは1939(昭和14)年、別個に自らのポケットマネーを出し「エノケン・ディキシーランダース」というバンドを編成している。トランペット・クラリネット・アルトサックス・テナーサックス・ピアノ。ベース・ドラム編成で一流のメンバーを集めたバンドも軍国主義化の圧力のもとでまもなく解散してしまう(※9参照)。
「エノケン・ディキシーランダース」は、毎週アメリカから新しい譜面をとりよせて、新曲をステージに発表していた。そして、舞台や映画のエノケンの芝居には、数々の外国曲の旋律が巧みに使用されていた。しかし、レコードとなると、1936(昭和11)年にポリドール専属になってから、戦前5年間に僅かに30数曲を吹込んだのみ(※10)。その中には、有名な「ダイナ」「月光価千金」「南京豆売り」から、「トカナントカ言っちゃて」など和製コミック・ソングまで色々ある。


上掲の動画は榎本健一の「エノケンのダイナ」~「月光価千金」~「私の青空」メドレー
1935(昭和10)年頃から、日本生れの歌手の中にも、優れたフィーリングをもった個性的シンガーが何人か育ち始めた。ディック・ミネ岸井明、エノケンの3人は、ある意味でアメリカの物真似でない独特のキャラクターを打ち立てた点で、戦後出も比肩し得ない偉大なパーソナリティであった。
「ミュージック・ゴーズ・ アラウンド」で、岸井明、ミネ、コロムビア(ナカノ)・リズム・ボーイズと四者競演になっているが、「歌は廻る」(原曲「The music goes 'round and around」) をエノケンは「エノケンの浮かれ音楽」というタイトルで発表している。。何れにしても、エノケンの唄は調子を外しているようだが、抜群のセンスで独特のアドリブをやっているわけで、まさに空前絶後の日本的ジャズ・シンガーと言える(※11)。

アメリカでは、ビング・クロスビーが1926年に当時の人気オーケストラであるポール・ホワイトマン楽団に入団し、翌年にはリズムボーイズの歌手としてデビュ。カウントベイシー楽団やデュークエリントン楽団で歌っていた。1928年,トーキー第1号の「ジャズシンガー」がアメリカで公開された。映画全編を通してのトーキーではなく、部分的なトーキー(パートトーキー)だったが、驚異的な興行収入を記録し、トーキー時代の幕開きとなった。
この時期は映画黄金期で若きクロスビーは1930年に「月世界征服」に本人役でカメオ出演し、映画に進出した。
一方、日本では1929(昭和4)年に佐藤千夜子が唄った主題歌第1号となる溝口健二監督映画「東京行進曲」が封切られた。西条八十作詞・中山晋平作曲によるこの曲はレコード歌謡曲の第1号でもあり、サウンド的にはジャズであろう。


上掲の動画は、佐藤千夜子 東京行進曲 昭和4年の東京銀座 浅草
クロスビーの歌手としての特徴であり、のちに多大な影響を及ぼしたのがクルーナー唱法(※3のジャズと雑学)と呼ばれる歌い方である。マイクの発達により、声を張り上げずに、優しく囁くような録音技術が生まれ、それがクルーナー唱法と呼ばれ、日本では藤山一郎が有名。古賀政男作曲・高橋掬太郎作詞「酒は涙か溜息か」は日本初のクルーナーと言われている。
日本ジャズの祖・服部良一ではなく、古賀政男が導入しというのが面白い。このころからアメリカでも日本でも映画と歌のタイアップが盛んとなり、主題歌と映画の抱き合わせで大ヒットを生む方法が多くとられるようになった。日本で大ヒットしたディック・ミネ(ジャズ・ブルース歌手)のデビュー曲「ダイナ」(1934年)は、クロスビー盤のカバーとして有名であるが、日本における「ダイナ」の創唱はディック・ミネではなく、1934(昭和9)年5月にコロムビアから発売された、中野忠晴とコロムビア・リズム・ボーイズによる「ダイナ」であり、他にも、先に書いた「エノケンのダイナ」それから、ビクターから川田義雄((後の川田晴久)の「浪曲ダイナ」と複数の歌手に唄われている。


上掲の動画は、浪曲ダイナ 吉本ショウ (川田義雄)2

以下参考※12:「YouTube 動画で覚えよう英語の歌 | 220」では、アメリカで非常に人気があったビングクロスビーや、エセル・ウォーターズ、ルイ・アームストロングなど外国人6名と、日本人では中野忠明、榎本健一、戦前のタップ童謡歌手・マーガレット・ユキ(※13参照)の歌とタップ「オ人形ダイナ」、あきれたボーイズの凄くゆかいな「新版ダイナ狂想曲」などがある。以下で聞き比べててみてください。特にあきれたボーイズのものは本当に面白いですよ。

YouTube 動画で覚えよう英語の歌 | 220. 【 ダイナ 】 ビング・クロスビー 他

寺田寅彦の随筆(昭和9年6月『中央公論』掲載。※14参照)に東宝傘下におさまる前の日劇、「日本劇場」で、アメリカのレビュー団・マーカス・ショウの公演が行われ大入り満員だったらしいことが書かれているが、これは、1934(昭和9)年に大阪の吉本興業が、招聘に関わっていたらしく、この大人気によりこのころから、“ショウ”という言葉が一般に浸透したことが同社の企業沿革のところに書かれている(※15参照)が、それから“ショー ”と名のつく物をやり始めたのだろう。
1937(昭和12)年の吉本ショウに川田義雄をリーダーとする4人組の「あきれたぼういず」が発足し、大好評を博したが、1939(昭和14)年に分裂して、川田義雄はミルクブラザースを結成、残り3人がメンバーを補強して「あきれたぼういず」の名を継承して活動を続け、何れも戦前芸能界の尖端的なコミック・バンドとして、傑出した存在だった。
戦後は、川田義雄(晴久)は「ダイナブラザース」を率い、「あきれたぼういず」は3人組で活動を再開したが両者共数年で解散した。しかし「あきれたぼういず」が同時代及び後生の芸能界に与えた影響は、測り知れぬ程大きく、戦後のクレイジー・キャッツからドリフターズを経て今日まで脈々と続くコミック・バンドの系譜は、全て川田義雄を筆頭とする「あきれたぼういず」の斬新な演芸センスとその技術に端を発しているといっても過言ではないだろう。

しかし、ま~、日本人はとにかく外国のものを何でも日本のものにしてしまう能力があったな~。その先鞭をつけた一人がエノケンと言えるのではないか。それに引き替え最近は、外国のものをそのまま真似ているようで、どうもいやだ。
音楽にしても、かっては、外国のものを日本流にアレンジして日本独特のものを作り直していた。ジャズなどでも日本語で歌い日本人には判り易く唄ってくれたものだ。
だが、最近の若い人の歌をきいていると、日本語のを、またその発音を極端に大事にしない、変な調子で、変な声の出し方をして、何か、歌詞も、曲の一部、単なる音のような感じのものが多く、私など歌詞のテロップでも流してもらわないと、目をつぶって歌だけを聞いていても何を歌っているのかよく判らない。何か乗りだけのリズムだけの曲になってしまっているような気がする。
それが、なぜか?気になって、いろいろ検索していると、※16:「詞先、曲先」に書いてあるように、現在主流の曲作りが「曲先」となり、曲が優先され、詩の方がおろそかになっていること、また、※17:[シンコーQ&A-4発音/言葉(母音)」にあるように、役者や、アナウンサー、その他の言葉を使う仕事についている全ての人々が行っている「言葉のトレーニング」を今のヴォーカリストが、ほとんどしていないことにあるようだ。音楽の専門でもない私には詳しいことは書けないので、参考の※16、※17など読んでみてください。
今日、ブログを書きながら、ついでに、ジャズ全盛時代の曲など聞いていると、昔の曲は本当に良かったとつくづく感じた。神戸ジャズストーリーでは、かっての全盛時代の本物のジャズが沢山聞けることだろう。楽しみに待っていよう。


KOBE JAZZ DAY 4/4 (参考)
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