今日(7月31日)は、「そばの日」
今日に限らず、毎月月末(みそか)が「そばの日」。日本麺業団体連合会が制定。昔、江戸の商人が毎月月末に縁起物としてそばを食べていたことに由来しているとのこと。細くて長いそばの形状から、身代(しんだい=家の財産)が長続きするようにという願いを込めていたからとのこと。「そば」は植物分類学上は、薬用に使われるダイオウや染め物に使われるアイなどと同じタデ科のそば属に分類され、私たちがよく口にする食用穀物の多くがイネ科やマメ科に属するのに対して異色の存在である。
そのソバの原産地は、考古学者の加藤晋平氏(筑波大)によれば、"東北アジアのアムール流域や沿海州で、紀元前200年頃には、栽培されていたことが推定されるという。日本では、北海道渡島のハマナス野の縄文前期の住居跡や、青森県石亀遺跡(縄文暁期)からソバの種子が出土しているそうだ。また、東京世田谷玉川養魚池の泥炭層からも、古墳時代のソバの種子が出土したという。日本でのソバ栽培に関する最も古い記録は、『続日本紀』722(養老6)年に元正天皇が「晩禾・蕎麦・大麦・小麦」を植えて飢饉に備えよとの詔を出したとあり、関西では、そばを国の食糧対策の一環として公式に取り上げた元正天皇は蕎麦天皇、蕎麦祖神とも呼ばれているようだ。
鎌倉時代以前は、ソバは粒食されていたが、中国から粉食法が伝えられ、そばがきが出現。江戸時代初期、ソバのつなぎに小麦粉を混ぜる技法が朝鮮から伝えられ、それが蕎麦切りと称されて広がったと言われており、江戸時代に出版された『本朝食鑑(ほんちょうしょっかん)』(1697=元禄10年)という食べ物の百科事典といわれるものには、「・・・・・蕎麦切り又は、そばがきとしてたべる」”と記されているそうだ。
タデ科の一年生草木であるソバは、冷涼な山地に適し、やせ地でもよく生育し、短い期間で成熟するので、救荒作物としてはうってつけ。そのため、ソバは基本的に「米がどうしても育たない荒れた土地用の雑穀の類」と思われていたようだ。中世になるとこれが「雑穀である」という考え方から、五穀(米・麦・粟・黍・豆)断ちをして荒行をしていた山伏たちに、食糧として使用されるようになり、やがて、一般の人にも普及していくことになるが、特に江戸時代に入って、江戸の町で屋台のそば屋が多く出来たことから、庶民の味として広がたようだ。
以下参考の「蕎麦」の中に、八代目 林家正藏の話として、”晦日に東京では蕎麦を食べる風習がある。みそかに蕎麦をたべると小遣い銭に不自由しないからみんな食べるんだよといって無理に食べさせられたものだが、あれはサナダ虫(蛔虫)の予防で、昔の人は月の初めには、腹の虫が上を向くと信じていた。だから、月末に蕎麦を食うのは効果満点なわけ。しかしこんな事実を話したのちに、さあ食え! では妙味がなくなるから、お金に困らないからお上がり・・・・昔の人は用意周到だといっている。”とか。噺家の話だからお笑いだね(^0^)。
しかし、『本朝食鑑』に、蕎麦は「気を降ろし腸を寛(ゆるく)し、能(よ)く腸胃の滓穢積滞を錬る」とあるように、蕎麦には体内を清浄にするという効能が書かれている。薬味のネギは、清めはらう神官の禰宜(ねぎ)に通じる、との俗説もあることから、単なる笑い話ともいえないようだ。
古川柳に「百人の蕎麦食う音や大晦日」というのがあるそうだが、毎月の晦日に食べているそばも、1年の締めくくりとなる大晦日ともなると、毎月は食べていない人も喰べるだろうから、それは、賑やかだったろうね。この大晦日に蕎麦を食べる習慣は、江戸だけではなく、今ではすっかり全国で見られる大晦日の風物詩になっているよね~。
なぜ大晦日に蕎麦を食べるのかについては、「蕎麦のように細く長く、長生きができるように」という語呂合わせだとか、江戸時代の飾り職人が金の屑を集めるのに蕎麦粉を使ったところから、「金が集まるように」と食べ始めたというものまで、諸説ある。今となっては、何がはじめだったかは知らないが、私には、先に書いた林家正藏の話などありそうな話だとは思っている。
江戸に、蕎麦屋の屋台が最初に現れたのは1664(寛文4)年頃というが、「二八そば」という言葉が初めて江戸に出現したのは1729(享保13)年の頃だそうで、その頃の蕎麦の値段は 六文~八文くらいだったという。そして、すこし時代を経てから十二文とか十六文へと推移して行ったそうだ。
蕎麦と言えば、古典落語の演目の一種である(『刻そば』とも表す)を思い出す。
『「いくらだい?」 「十六文でございます」 「銭がこまけえから、まちげえるといけねえな。勘定してやろう。手ぇ出しな。一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つ、七つ、八つ、いま何時でぇ」
「九つで」 「十、十一、十二……」』・・・勘定の途中で時刻をたずねて支払をごまかすという手口をちょっと間の抜けた男がまねて失敗するという、おなじみの落語だ。
この「時そば」のように、代金が、「二八、十六」の十六文だったから一般に二八(にっぱち)そばと言われているのではないの??・・そう思われる方も多いようだが、そうではないらしい。先にも書いたように、現に、そばの代金が十六文になる前から「二八そば」という呼び方があったというのだから・・。「二八そば」には、色々ないわれがあるようだが、「二八、十六」の語呂合わせ代価説以外にも、そば粉八割につなぎの小麦粉二割を混ぜたもので打った蕎麦を表したもの、という混合率説があり、こちらの方が本当ではないか。私が、現役時代、信州へ出張し、蕎麦屋で蕎麦を食べるていると、二八そばだの三七そばだのと言う言葉が出てくる。その混合割合で、蕎麦屋の人が素人には、二八そばは、茹でるのが難しいので三七蕎麦ぐらいがいいだろうといわれたのを思い出す。もともと、蕎麦は、そばがきで食べていたものが、江戸時代初期に、つなぎに小麦粉を混ぜる技法が朝鮮から伝えられて以降今のような蕎麦として食べられるようになったものなのだから・・・。噺の多くは明治以降になって、江戸時代の時代背景で作られているものが普通だから、恐らくこの「時そば」も、明治の中期かそれ以降に作られたものであろうといわれている。又、この『時そば』に対して、関西には『時うどん』という落語がある。この江戸落語の、『時そば』は明治時代に、3代目柳家小さんが上方落語の演目『時うどん』を江戸噺として移植したと言われるそうだ。だから、『時そば』よりも『時うどん』の方が元祖なのである。
今では、基本的に、蕎麦は、東日本で多く食べられ、西日本では代わりにうどんが食べられているが、江戸時代の初期の頃の麺類屋は「うどん・そば切」といってうどんが主体であったようで、その後、江戸では「そば切・うどん」となって大半がそば屋になっていったという背景があるらしい。これは、あくまでも「うどん・そば」のままでうどん屋がそばも売る上方と、そば屋がうどんも売る江戸とに別れていったというのである。(以下参考の大阪・上方の蕎麦の中の江戸中期 食文化の特徴「鬼平犯科帳の時代とその前後」を参照)
先の江戸落語の「時そば」の続きであるが、客の男が、『「なにができるんだい?・・花巻にしっぽく?・・しっぽく一つこしらえてくんねぇ。寒いなあ」』 ・・・と言っている。
このしっぽくは「卓袱」と書く。卓袱料理は、江戸時代、中国から伝来した総菜料理が日本風にアレンジされたもので、その料理の中に大盤に盛ったうどんの上にさまざまな具をのせたものがあり、これを江戸のそば店がまねて太平椀(塗り物の大椀)に盛り、“しっぽくそば”と称して売り出したという。その具材には、松茸(当時は安かった)、しいたけなどを始め、様々な具材が載せられていたらしいとの事。もちろん竹輪や麩なども入っていたのであろう。それが、いつしか単に具材を並べるだけのおかめそばになり、次いでしっぽくそばへと変わっていったのだろうと言われている。(時代的な流れは、以下参考の江戸落語-第3回そば がわかりやすい。)
関が原合戦以降、江戸に幕府が置かれ、新しく開かれた江戸の地は移住して来た人によって人口が急増した。そして移住者の多くは男性である。このため、この頃の江戸の市中では、男性に比べて女性の数が極端に少ない社会であった。従って、江戸の町に住む一般庶民のほとんどは独身者で、長屋での独り暮らしがこの頃の一般的な姿であったようだ。このため、自宅で食事を作るといった事はほとんどなく、外食生活をするのが普通だったそうである。
「時そば」の中に出て来るそば屋も、そういった外食提供者の一つとして存在していたようだ。当時、店を持った飲食店もなかった訳ではないが、屋台の天秤を担いで売り歩く商売が大いに流行っていた時代、蕎麦屋は蕎麦以外にも寿司や丼ものなども売られていたらしい。
『本朝食鑑』1695(元禄8)年--大根のくだりには、「ちかごろ江戸をはじめ各地で辛い大根の汁で麺類を食べることが大層流行っている。そこで農家は競って辛い大根を栽培している。中でも信州景山大根や夏大根の種を江戸市中でも売っている。これははなはだ辛いもので、尾州の鼠大根にも劣らぬ辛さだという・・・・・」とある。(以下参考の、うどんの歴史の中の『本朝食鑑』参照)
現代、私たちが麺類を食べるときにつけるそばつゆは、江戸の後期になって初めて、今のような濃い口の醤油を使うつゆになつたという。江戸時代の中頃までは、他の食品と共に調味料の醤油なども関西から船で運ばれて来たもののようで、これらの「くだりもの」と言われた上級品に対して関東周辺で出来るものは「くだらないもの」と呼ばれていたという。
江戸前と呼ばれる、今の東京湾で沢山獲れた魚介類を握り寿司にしたり、天麩羅や鰻の蒲焼きが大流行したりするのも、銚子や野田の濃い口醤油が「最上醤油」として認められるようになってからのことで、それまでは、紀州の醤油や溜まり醤油、竜野の淡口醤油などの上等なものは高級過ぎて、なかなか庶民の口にははいらなかったようである。関東の濃い口醤油が、小麦を材料に採り入れて、一段とその味に豊かなこくを加え、「最上醤油」の名を付けることを初めて許されたのは、ずっと後の、1864(元治元)年のことであり、このことにより、、味の良くなった関東産の醤油が、江戸っ子の食い道楽を促したもののようだ。従って、今日のようなそばつゆは、そのころから使われるようになったようだ。それ以前の麺類の付け汁には、「真田汁」とか「鬼汁」などと呼んでいたものがあり、いずれも辛い大根のおろし汁であったとか。当時、世間で流行っていた、辛い地大根のおろし汁に、溜まり醤油か味噌で味付けをしたものが大層喜ばれていた、というのは『本朝食鑑』の記述通りのようだ。長々と、書いてしまったが、最後に、蕎麦関連のものを紹介しておこう。
江戸時代より、蕎麦は広く庶民に食べられ、浮世絵の世界にも数多く出てくる。こんな、蕎麦に関する浮世絵は、ここ→手打ち蕎麦主水の浮世絵ミュージアムで見ることが出来る。
落語は、こちら→東西落語特選 そば清 東西落語特選 時うどん
又、俳句や川柳などはここ→そば・蕎麦の俳句・川柳で見れる。
そばのことはどれくらい知っている?・・・最後にここ→そばのクイズで試してみては・・・。
(画像は、江戸時代の蕎麦屋。浮世絵「鬼あざみ清吉」豊国)
参考:
蕎麦
社団法人・日本麺類業団体連合会
http://www.nichimen.or.jp/
蕎麦
http://soba-ya.co.jp/soba.html
江戸落語-第3回 そば
http://www.asahi-net.or.jp/~uk5t-shr/rakugo-3.html
元正天皇
http://www.sinanoya.com/sobafield/sobafield21.html
天皇陵-元正天皇 奈保山西陵(げんしょうてんのう なほやまのにしのみさぎ)
http://www.kunaicho.go.jp/ryobo/guide/044/index.html
うどんの歴史
http://www.icon.pref.nagano.jp/usr/kohaku/udonrekisi.htm
大阪・上方の蕎麦
http://www10.ocn.ne.jp/~sobakiri/index.html
そば・蕎麦の俳句・川柳
http://www1.ocn.ne.jp/~amiyacon/sobaudon/sobaudon_soba_haiku_kasai.htm
[そば]All About
http://allabout.co.jp/gourmet/soba/
東西落語特選 時うどん
http://www.geocities.co.jp/Hollywood/6684/tokiudon.html
落語のページ
http://www.niji.or.jp/home/dingo/
江戸っ子と言えば蕎麦(2)時そばに出て来る「しっぽくとは」
http://homepage3.nifty.com/m_sada/TEAROOM/SOBA02.html
手打ち蕎麦主水の浮世絵ミュージアム
http://www.vinet.or.jp/~w1-mondo/museum/museum.htm
時のことば
http://www.kodomo-seiko.com/classroom/class/kotoba/kotoba0110.html
今日に限らず、毎月月末(みそか)が「そばの日」。日本麺業団体連合会が制定。昔、江戸の商人が毎月月末に縁起物としてそばを食べていたことに由来しているとのこと。細くて長いそばの形状から、身代(しんだい=家の財産)が長続きするようにという願いを込めていたからとのこと。「そば」は植物分類学上は、薬用に使われるダイオウや染め物に使われるアイなどと同じタデ科のそば属に分類され、私たちがよく口にする食用穀物の多くがイネ科やマメ科に属するのに対して異色の存在である。
そのソバの原産地は、考古学者の加藤晋平氏(筑波大)によれば、"東北アジアのアムール流域や沿海州で、紀元前200年頃には、栽培されていたことが推定されるという。日本では、北海道渡島のハマナス野の縄文前期の住居跡や、青森県石亀遺跡(縄文暁期)からソバの種子が出土しているそうだ。また、東京世田谷玉川養魚池の泥炭層からも、古墳時代のソバの種子が出土したという。日本でのソバ栽培に関する最も古い記録は、『続日本紀』722(養老6)年に元正天皇が「晩禾・蕎麦・大麦・小麦」を植えて飢饉に備えよとの詔を出したとあり、関西では、そばを国の食糧対策の一環として公式に取り上げた元正天皇は蕎麦天皇、蕎麦祖神とも呼ばれているようだ。
鎌倉時代以前は、ソバは粒食されていたが、中国から粉食法が伝えられ、そばがきが出現。江戸時代初期、ソバのつなぎに小麦粉を混ぜる技法が朝鮮から伝えられ、それが蕎麦切りと称されて広がったと言われており、江戸時代に出版された『本朝食鑑(ほんちょうしょっかん)』(1697=元禄10年)という食べ物の百科事典といわれるものには、「・・・・・蕎麦切り又は、そばがきとしてたべる」”と記されているそうだ。
タデ科の一年生草木であるソバは、冷涼な山地に適し、やせ地でもよく生育し、短い期間で成熟するので、救荒作物としてはうってつけ。そのため、ソバは基本的に「米がどうしても育たない荒れた土地用の雑穀の類」と思われていたようだ。中世になるとこれが「雑穀である」という考え方から、五穀(米・麦・粟・黍・豆)断ちをして荒行をしていた山伏たちに、食糧として使用されるようになり、やがて、一般の人にも普及していくことになるが、特に江戸時代に入って、江戸の町で屋台のそば屋が多く出来たことから、庶民の味として広がたようだ。
以下参考の「蕎麦」の中に、八代目 林家正藏の話として、”晦日に東京では蕎麦を食べる風習がある。みそかに蕎麦をたべると小遣い銭に不自由しないからみんな食べるんだよといって無理に食べさせられたものだが、あれはサナダ虫(蛔虫)の予防で、昔の人は月の初めには、腹の虫が上を向くと信じていた。だから、月末に蕎麦を食うのは効果満点なわけ。しかしこんな事実を話したのちに、さあ食え! では妙味がなくなるから、お金に困らないからお上がり・・・・昔の人は用意周到だといっている。”とか。噺家の話だからお笑いだね(^0^)。
しかし、『本朝食鑑』に、蕎麦は「気を降ろし腸を寛(ゆるく)し、能(よ)く腸胃の滓穢積滞を錬る」とあるように、蕎麦には体内を清浄にするという効能が書かれている。薬味のネギは、清めはらう神官の禰宜(ねぎ)に通じる、との俗説もあることから、単なる笑い話ともいえないようだ。
古川柳に「百人の蕎麦食う音や大晦日」というのがあるそうだが、毎月の晦日に食べているそばも、1年の締めくくりとなる大晦日ともなると、毎月は食べていない人も喰べるだろうから、それは、賑やかだったろうね。この大晦日に蕎麦を食べる習慣は、江戸だけではなく、今ではすっかり全国で見られる大晦日の風物詩になっているよね~。
なぜ大晦日に蕎麦を食べるのかについては、「蕎麦のように細く長く、長生きができるように」という語呂合わせだとか、江戸時代の飾り職人が金の屑を集めるのに蕎麦粉を使ったところから、「金が集まるように」と食べ始めたというものまで、諸説ある。今となっては、何がはじめだったかは知らないが、私には、先に書いた林家正藏の話などありそうな話だとは思っている。
江戸に、蕎麦屋の屋台が最初に現れたのは1664(寛文4)年頃というが、「二八そば」という言葉が初めて江戸に出現したのは1729(享保13)年の頃だそうで、その頃の蕎麦の値段は 六文~八文くらいだったという。そして、すこし時代を経てから十二文とか十六文へと推移して行ったそうだ。
蕎麦と言えば、古典落語の演目の一種である(『刻そば』とも表す)を思い出す。
『「いくらだい?」 「十六文でございます」 「銭がこまけえから、まちげえるといけねえな。勘定してやろう。手ぇ出しな。一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つ、七つ、八つ、いま何時でぇ」
「九つで」 「十、十一、十二……」』・・・勘定の途中で時刻をたずねて支払をごまかすという手口をちょっと間の抜けた男がまねて失敗するという、おなじみの落語だ。
この「時そば」のように、代金が、「二八、十六」の十六文だったから一般に二八(にっぱち)そばと言われているのではないの??・・そう思われる方も多いようだが、そうではないらしい。先にも書いたように、現に、そばの代金が十六文になる前から「二八そば」という呼び方があったというのだから・・。「二八そば」には、色々ないわれがあるようだが、「二八、十六」の語呂合わせ代価説以外にも、そば粉八割につなぎの小麦粉二割を混ぜたもので打った蕎麦を表したもの、という混合率説があり、こちらの方が本当ではないか。私が、現役時代、信州へ出張し、蕎麦屋で蕎麦を食べるていると、二八そばだの三七そばだのと言う言葉が出てくる。その混合割合で、蕎麦屋の人が素人には、二八そばは、茹でるのが難しいので三七蕎麦ぐらいがいいだろうといわれたのを思い出す。もともと、蕎麦は、そばがきで食べていたものが、江戸時代初期に、つなぎに小麦粉を混ぜる技法が朝鮮から伝えられて以降今のような蕎麦として食べられるようになったものなのだから・・・。噺の多くは明治以降になって、江戸時代の時代背景で作られているものが普通だから、恐らくこの「時そば」も、明治の中期かそれ以降に作られたものであろうといわれている。又、この『時そば』に対して、関西には『時うどん』という落語がある。この江戸落語の、『時そば』は明治時代に、3代目柳家小さんが上方落語の演目『時うどん』を江戸噺として移植したと言われるそうだ。だから、『時そば』よりも『時うどん』の方が元祖なのである。
今では、基本的に、蕎麦は、東日本で多く食べられ、西日本では代わりにうどんが食べられているが、江戸時代の初期の頃の麺類屋は「うどん・そば切」といってうどんが主体であったようで、その後、江戸では「そば切・うどん」となって大半がそば屋になっていったという背景があるらしい。これは、あくまでも「うどん・そば」のままでうどん屋がそばも売る上方と、そば屋がうどんも売る江戸とに別れていったというのである。(以下参考の大阪・上方の蕎麦の中の江戸中期 食文化の特徴「鬼平犯科帳の時代とその前後」を参照)
先の江戸落語の「時そば」の続きであるが、客の男が、『「なにができるんだい?・・花巻にしっぽく?・・しっぽく一つこしらえてくんねぇ。寒いなあ」』 ・・・と言っている。
このしっぽくは「卓袱」と書く。卓袱料理は、江戸時代、中国から伝来した総菜料理が日本風にアレンジされたもので、その料理の中に大盤に盛ったうどんの上にさまざまな具をのせたものがあり、これを江戸のそば店がまねて太平椀(塗り物の大椀)に盛り、“しっぽくそば”と称して売り出したという。その具材には、松茸(当時は安かった)、しいたけなどを始め、様々な具材が載せられていたらしいとの事。もちろん竹輪や麩なども入っていたのであろう。それが、いつしか単に具材を並べるだけのおかめそばになり、次いでしっぽくそばへと変わっていったのだろうと言われている。(時代的な流れは、以下参考の江戸落語-第3回そば がわかりやすい。)
関が原合戦以降、江戸に幕府が置かれ、新しく開かれた江戸の地は移住して来た人によって人口が急増した。そして移住者の多くは男性である。このため、この頃の江戸の市中では、男性に比べて女性の数が極端に少ない社会であった。従って、江戸の町に住む一般庶民のほとんどは独身者で、長屋での独り暮らしがこの頃の一般的な姿であったようだ。このため、自宅で食事を作るといった事はほとんどなく、外食生活をするのが普通だったそうである。
「時そば」の中に出て来るそば屋も、そういった外食提供者の一つとして存在していたようだ。当時、店を持った飲食店もなかった訳ではないが、屋台の天秤を担いで売り歩く商売が大いに流行っていた時代、蕎麦屋は蕎麦以外にも寿司や丼ものなども売られていたらしい。
『本朝食鑑』1695(元禄8)年--大根のくだりには、「ちかごろ江戸をはじめ各地で辛い大根の汁で麺類を食べることが大層流行っている。そこで農家は競って辛い大根を栽培している。中でも信州景山大根や夏大根の種を江戸市中でも売っている。これははなはだ辛いもので、尾州の鼠大根にも劣らぬ辛さだという・・・・・」とある。(以下参考の、うどんの歴史の中の『本朝食鑑』参照)
現代、私たちが麺類を食べるときにつけるそばつゆは、江戸の後期になって初めて、今のような濃い口の醤油を使うつゆになつたという。江戸時代の中頃までは、他の食品と共に調味料の醤油なども関西から船で運ばれて来たもののようで、これらの「くだりもの」と言われた上級品に対して関東周辺で出来るものは「くだらないもの」と呼ばれていたという。
江戸前と呼ばれる、今の東京湾で沢山獲れた魚介類を握り寿司にしたり、天麩羅や鰻の蒲焼きが大流行したりするのも、銚子や野田の濃い口醤油が「最上醤油」として認められるようになってからのことで、それまでは、紀州の醤油や溜まり醤油、竜野の淡口醤油などの上等なものは高級過ぎて、なかなか庶民の口にははいらなかったようである。関東の濃い口醤油が、小麦を材料に採り入れて、一段とその味に豊かなこくを加え、「最上醤油」の名を付けることを初めて許されたのは、ずっと後の、1864(元治元)年のことであり、このことにより、、味の良くなった関東産の醤油が、江戸っ子の食い道楽を促したもののようだ。従って、今日のようなそばつゆは、そのころから使われるようになったようだ。それ以前の麺類の付け汁には、「真田汁」とか「鬼汁」などと呼んでいたものがあり、いずれも辛い大根のおろし汁であったとか。当時、世間で流行っていた、辛い地大根のおろし汁に、溜まり醤油か味噌で味付けをしたものが大層喜ばれていた、というのは『本朝食鑑』の記述通りのようだ。長々と、書いてしまったが、最後に、蕎麦関連のものを紹介しておこう。
江戸時代より、蕎麦は広く庶民に食べられ、浮世絵の世界にも数多く出てくる。こんな、蕎麦に関する浮世絵は、ここ→手打ち蕎麦主水の浮世絵ミュージアムで見ることが出来る。
落語は、こちら→東西落語特選 そば清 東西落語特選 時うどん
又、俳句や川柳などはここ→そば・蕎麦の俳句・川柳で見れる。
そばのことはどれくらい知っている?・・・最後にここ→そばのクイズで試してみては・・・。
(画像は、江戸時代の蕎麦屋。浮世絵「鬼あざみ清吉」豊国)
参考:
蕎麦
社団法人・日本麺類業団体連合会
http://www.nichimen.or.jp/
蕎麦
http://soba-ya.co.jp/soba.html
江戸落語-第3回 そば
http://www.asahi-net.or.jp/~uk5t-shr/rakugo-3.html
元正天皇
http://www.sinanoya.com/sobafield/sobafield21.html
天皇陵-元正天皇 奈保山西陵(げんしょうてんのう なほやまのにしのみさぎ)
http://www.kunaicho.go.jp/ryobo/guide/044/index.html
うどんの歴史
http://www.icon.pref.nagano.jp/usr/kohaku/udonrekisi.htm
大阪・上方の蕎麦
http://www10.ocn.ne.jp/~sobakiri/index.html
そば・蕎麦の俳句・川柳
http://www1.ocn.ne.jp/~amiyacon/sobaudon/sobaudon_soba_haiku_kasai.htm
[そば]All About
http://allabout.co.jp/gourmet/soba/
東西落語特選 時うどん
http://www.geocities.co.jp/Hollywood/6684/tokiudon.html
落語のページ
http://www.niji.or.jp/home/dingo/
江戸っ子と言えば蕎麦(2)時そばに出て来る「しっぽくとは」
http://homepage3.nifty.com/m_sada/TEAROOM/SOBA02.html
手打ち蕎麦主水の浮世絵ミュージアム
http://www.vinet.or.jp/~w1-mondo/museum/museum.htm
時のことば
http://www.kodomo-seiko.com/classroom/class/kotoba/kotoba0110.html