今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

そばの日

2006-07-31 | 記念日
今日(7月31日)は、「そばの日」
今日に限らず、毎月月末(みそか)が「そばの日」。日本麺業団体連合会が制定。昔、江戸の商人が毎月月末に縁起物としてそばを食べていたことに由来しているとのこと。細くて長いそばの形状から、身代(しんだい=家の財産)が長続きするようにという願いを込めていたからとのこと。「そば」は植物分類学上は、薬用に使われるダイオウや染め物に使われるアイなどと同じタデ科のそば属に分類され、私たちがよく口にする食用穀物の多くがイネ科やマメ科に属するのに対して異色の存在である。
そのソバの原産地は、考古学者の加藤晋平氏(筑波大)によれば、"東北アジアのアムール流域や沿海州で、紀元前200年頃には、栽培されていたことが推定されるという。日本では、北海道渡島のハマナス野の縄文前期の住居跡や、青森県石亀遺跡(縄文暁期)からソバの種子が出土しているそうだ。また、東京世田谷玉川養魚池の泥炭層からも、古墳時代のソバの種子が出土したという。日本でのソバ栽培に関する最も古い記録は、『続日本紀』722(養老6)年に元正天皇が「晩禾・蕎麦・大麦・小麦」を植えて飢饉に備えよとの詔を出したとあり、関西では、そばを国の食糧対策の一環として公式に取り上げた元正天皇は蕎麦天皇、蕎麦祖神とも呼ばれているようだ。
鎌倉時代以前は、ソバは粒食されていたが、中国から粉食法が伝えられ、そばがきが出現。江戸時代初期、ソバのつなぎに小麦粉を混ぜる技法が朝鮮から伝えられ、それが蕎麦切りと称されて広がったと言われており、江戸時代に出版された『本朝食鑑(ほんちょうしょっかん)』(1697=元禄10年)という食べ物の百科事典といわれるものには、「・・・・・蕎麦切り又は、そばがきとしてたべる」”と記されているそうだ。
タデ科の一年生草木であるソバは、冷涼な山地に適し、やせ地でもよく生育し、短い期間で成熟するので、救荒作物としてはうってつけ。そのため、ソバは基本的に「米がどうしても育たない荒れた土地用の雑穀の類」と思われていたようだ。中世になるとこれが「雑穀である」という考え方から、五穀(米・麦・粟・黍・豆)断ちをして荒行をしていた山伏たちに、食糧として使用されるようになり、やがて、一般の人にも普及していくことになるが、特に江戸時代に入って、江戸の町で屋台のそば屋が多く出来たことから、庶民の味として広がたようだ。
以下参考の「蕎麦」の中に、八代目 林家正藏の話として、”晦日に東京では蕎麦を食べる風習がある。みそかに蕎麦をたべると小遣い銭に不自由しないからみんな食べるんだよといって無理に食べさせられたものだが、あれはサナダ虫(蛔虫)の予防で、昔の人は月の初めには、腹の虫が上を向くと信じていた。だから、月末に蕎麦を食うのは効果満点なわけ。しかしこんな事実を話したのちに、さあ食え! では妙味がなくなるから、お金に困らないからお上がり・・・・昔の人は用意周到だといっている。”とか。噺家の話だからお笑いだね(^0^)。
しかし、『本朝食鑑』に、蕎麦は「気を降ろし腸を寛(ゆるく)し、能(よ)く腸胃の滓穢積滞を錬る」とあるように、蕎麦には体内を清浄にするという効能が書かれている。薬味のネギは、清めはらう神官の禰宜(ねぎ)に通じる、との俗説もあることから、単なる笑い話ともいえないようだ。
古川柳に「百人の蕎麦食う音や大晦日」というのがあるそうだが、毎月の晦日に食べているそばも、1年の締めくくりとなる大晦日ともなると、毎月は食べていない人も喰べるだろうから、それは、賑やかだったろうね。この大晦日に蕎麦を食べる習慣は、江戸だけではなく、今ではすっかり全国で見られる大晦日の風物詩になっているよね~。
なぜ大晦日に蕎麦を食べるのかについては、「蕎麦のように細く長く、長生きができるように」という語呂合わせだとか、江戸時代の飾り職人が金の屑を集めるのに蕎麦粉を使ったところから、「金が集まるように」と食べ始めたというものまで、諸説ある。今となっては、何がはじめだったかは知らないが、私には、先に書いた林家正藏の話などありそうな話だとは思っている。
江戸に、蕎麦屋の屋台が最初に現れたのは1664(寛文4)年頃というが、「二八そば」という言葉が初めて江戸に出現したのは1729(享保13)年の頃だそうで、その頃の蕎麦の値段は 六文~八文くらいだったという。そして、すこし時代を経てから十二文とか十六文へと推移して行ったそうだ。
蕎麦と言えば、古典落語の演目の一種である(『刻そば』とも表す)を思い出す。
『「いくらだい?」 「十六文でございます」 「銭がこまけえから、まちげえるといけねえな。勘定してやろう。手ぇ出しな。一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つ、七つ、八つ、いま何時でぇ」   
「九つで」 「十、十一、十二……」』・・・勘定の途中で時刻をたずねて支払をごまかすという手口をちょっと間の抜けた男がまねて失敗するという、おなじみの落語だ。
この「時そば」のように、代金が、「二八、十六」の十六文だったから一般に二八(にっぱち)そばと言われているのではないの??・・そう思われる方も多いようだが、そうではないらしい。先にも書いたように、現に、そばの代金が十六文になる前から「二八そば」という呼び方があったというのだから・・。「二八そば」には、色々ないわれがあるようだが、「二八、十六」の語呂合わせ代価説以外にも、そば粉八割につなぎの小麦粉二割を混ぜたもので打った蕎麦を表したもの、という混合率説があり、こちらの方が本当ではないか。私が、現役時代、信州へ出張し、蕎麦屋で蕎麦を食べるていると、二八そばだの三七そばだのと言う言葉が出てくる。その混合割合で、蕎麦屋の人が素人には、二八そばは、茹でるのが難しいので三七蕎麦ぐらいがいいだろうといわれたのを思い出す。もともと、蕎麦は、そばがきで食べていたものが、江戸時代初期に、つなぎに小麦粉を混ぜる技法が朝鮮から伝えられて以降今のような蕎麦として食べられるようになったものなのだから・・・。噺の多くは明治以降になって、江戸時代の時代背景で作られているものが普通だから、恐らくこの「時そば」も、明治の中期かそれ以降に作られたものであろうといわれている。又、この『時そば』に対して、関西には『時うどん』という落語がある。この江戸落語の、『時そば』は明治時代に、3代目柳家小さんが上方落語の演目『時うどん』を江戸噺として移植したと言われるそうだ。だから、『時そば』よりも『時うどん』の方が元祖なのである。
今では、基本的に、蕎麦は、東日本で多く食べられ、西日本では代わりにうどんが食べられているが、江戸時代の初期の頃の麺類屋は「うどん・そば切」といってうどんが主体であったようで、その後、江戸では「そば切・うどん」となって大半がそば屋になっていったという背景があるらしい。これは、あくまでも「うどん・そば」のままでうどん屋がそばも売る上方と、そば屋がうどんも売る江戸とに別れていったというのである。(以下参考の大阪・上方の蕎麦の中の江戸中期 食文化の特徴「鬼平犯科帳の時代とその前後」を参照)
先の江戸落語の「時そば」の続きであるが、客の男が、『「なにができるんだい?・・花巻にしっぽく?・・しっぽく一つこしらえてくんねぇ。寒いなあ」』 ・・・と言っている。
このしっぽくは「卓袱」と書く。卓袱料理は、江戸時代、中国から伝来した総菜料理が日本風にアレンジされたもので、その料理の中に大盤に盛ったうどんの上にさまざまな具をのせたものがあり、これを江戸のそば店がまねて太平椀(塗り物の大椀)に盛り、“しっぽくそば”と称して売り出したという。その具材には、松茸(当時は安かった)、しいたけなどを始め、様々な具材が載せられていたらしいとの事。もちろん竹輪や麩なども入っていたのであろう。それが、いつしか単に具材を並べるだけのおかめそばになり、次いでしっぽくそばへと変わっていったのだろうと言われている。(時代的な流れは、以下参考の江戸落語-第3回そば がわかりやすい。)
関が原合戦以降、江戸に幕府が置かれ、新しく開かれた江戸の地は移住して来た人によって人口が急増した。そして移住者の多くは男性である。このため、この頃の江戸の市中では、男性に比べて女性の数が極端に少ない社会であった。従って、江戸の町に住む一般庶民のほとんどは独身者で、長屋での独り暮らしがこの頃の一般的な姿であったようだ。このため、自宅で食事を作るといった事はほとんどなく、外食生活をするのが普通だったそうである。
「時そば」の中に出て来るそば屋も、そういった外食提供者の一つとして存在していたようだ。当時、店を持った飲食店もなかった訳ではないが、屋台の天秤を担いで売り歩く商売が大いに流行っていた時代、蕎麦屋は蕎麦以外にも寿司や丼ものなども売られていたらしい。
『本朝食鑑』1695(元禄8)年--大根のくだりには、「ちかごろ江戸をはじめ各地で辛い大根の汁で麺類を食べることが大層流行っている。そこで農家は競って辛い大根を栽培している。中でも信州景山大根や夏大根の種を江戸市中でも売っている。これははなはだ辛いもので、尾州の鼠大根にも劣らぬ辛さだという・・・・・」とある。(以下参考の、うどんの歴史の中の『本朝食鑑』参照)
現代、私たちが麺類を食べるときにつけるそばつゆは、江戸の後期になって初めて、今のような濃い口の醤油を使うつゆになつたという。江戸時代の中頃までは、他の食品と共に調味料の醤油なども関西から船で運ばれて来たもののようで、これらの「くだりもの」と言われた上級品に対して関東周辺で出来るものは「くだらないもの」と呼ばれていたという。
江戸前と呼ばれる、今の東京湾で沢山獲れた魚介類を握り寿司にしたり、天麩羅や鰻の蒲焼きが大流行したりするのも、銚子や野田の濃い口醤油が「最上醤油」として認められるようになってからのことで、それまでは、紀州の醤油や溜まり醤油、竜野の淡口醤油などの上等なものは高級過ぎて、なかなか庶民の口にははいらなかったようである。関東の濃い口醤油が、小麦を材料に採り入れて、一段とその味に豊かなこくを加え、「最上醤油」の名を付けることを初めて許されたのは、ずっと後の、1864(元治元)年のことであり、このことにより、、味の良くなった関東産の醤油が、江戸っ子の食い道楽を促したもののようだ。従って、今日のようなそばつゆは、そのころから使われるようになったようだ。それ以前の麺類の付け汁には、「真田汁」とか「鬼汁」などと呼んでいたものがあり、いずれも辛い大根のおろし汁であったとか。当時、世間で流行っていた、辛い地大根のおろし汁に、溜まり醤油か味噌で味付けをしたものが大層喜ばれていた、というのは『本朝食鑑』の記述通りのようだ。長々と、書いてしまったが、最後に、蕎麦関連のものを紹介しておこう。
江戸時代より、蕎麦は広く庶民に食べられ、浮世絵の世界にも数多く出てくる。こんな、蕎麦に関する浮世絵は、ここ→手打ち蕎麦主水の浮世絵ミュージアムで見ることが出来る。
落語は、こちら→東西落語特選 そば清 東西落語特選 時うどん
又、俳句や川柳などはここ→そば・蕎麦の俳句・川柳で見れる。
そばのことはどれくらい知っている?・・・最後にここ→そばのクイズで試してみては・・・。
(画像は、江戸時代の蕎麦屋。浮世絵「鬼あざみ清吉」豊国)
参考:
蕎麦
社団法人・日本麺類業団体連合会
http://www.nichimen.or.jp/
蕎麦
http://soba-ya.co.jp/soba.html
江戸落語-第3回 そば
http://www.asahi-net.or.jp/~uk5t-shr/rakugo-3.html
元正天皇
http://www.sinanoya.com/sobafield/sobafield21.html
天皇陵-元正天皇 奈保山西陵(げんしょうてんのう なほやまのにしのみさぎ)
http://www.kunaicho.go.jp/ryobo/guide/044/index.html
うどんの歴史
http://www.icon.pref.nagano.jp/usr/kohaku/udonrekisi.htm
大阪・上方の蕎麦
http://www10.ocn.ne.jp/~sobakiri/index.html
そば・蕎麦の俳句・川柳
http://www1.ocn.ne.jp/~amiyacon/sobaudon/sobaudon_soba_haiku_kasai.htm
[そば]All About
http://allabout.co.jp/gourmet/soba/
東西落語特選 時うどん
http://www.geocities.co.jp/Hollywood/6684/tokiudon.html
落語のページ
http://www.niji.or.jp/home/dingo/
江戸っ子と言えば蕎麦(2)時そばに出て来る「しっぽくとは」
http://homepage3.nifty.com/m_sada/TEAROOM/SOBA02.html
手打ち蕎麦主水の浮世絵ミュージアム
http://www.vinet.or.jp/~w1-mondo/museum/museum.htm
時のことば
http://www.kodomo-seiko.com/classroom/class/kotoba/kotoba0110.html

「露伴忌、蝸牛忌」小説家・幸田露伴の忌日

2006-07-30 | 人物
今日(7月30日)は、「露伴忌、蝸牛忌」小説家・幸田露伴の1947(昭和22)年の忌日。
小説家、文芸評論家でもある幸田露伴(こうだ ろはん)は、1867年8月20日(慶応3年7月23日)、 江戸(現東京都)神田生まれ。本名は、成行(しげゆき)。幼名は鉄四郎。露伴の別号「蝸牛庵(かぎゅうあん)」は、家をもたない蝸牛(かたつむり)に擬した命名であり、やどかりのように、幾度も住まいを変えていたという。
幸田家は代々、大名の取次を職とする幕府表御坊主の家柄。逓信省電信修技校を卒業後、電信技手を勤めていたが、西鶴などの江戸文学に親しんで作家を志し、1887(明治20)年21歳の時、官を辞した。翌年『風流仏』等により、文壇にデビュー。その後、天王寺をモデルとする『五重塔』等、東洋的な観念を主題とする作品を次々に発表し、同時代の尾崎紅葉と並び称され、『紅露時代』とも呼ばれる明治文学の一時代を築いた。他に、坪内逍遥、森鴎外とを含めえて「紅露逍鴎」時代とも言われる。
1906(明治39)年、京都帝國大学文科の講師となり、1911(明治44)年、文学博士の学位を授与される。1937(昭和12)年には第1回文化勲章を授与され、芸術院会員となる。1947(昭和22)年7月30日、79歳で没する。
他に、『連環記』『雪たたき』、史伝『運命』『蒲生氏郷』『平将門』、戯曲『名和長年』、長編詩集『出廬』、古典研究『芭蕉七部集評釈』、紀行・随筆『枕頭山水』など著作多数。
儒教・仏教・道教に造詣が深く、東洋的精神主義や神秘主義のからまった浪漫的作品が多く、理想主義的傾向をもつ擬古典派に属するといわれている。
兄弟は冒険家、学者、バイオリンにスト、ピアニストといずれも明治のパイオニアであり、小説家幸田文(あや)は娘であり、孫の青木玉も随筆家、曾孫青木奈緒もエッセイストとなっている。
しかし、自由な芸術家というより、暮らしのけじめを大事にし、清貧を終生貫いた。やはり文学の道を歩んだ娘の幸田文は、早く実母をなくし、吹き掃除をはじめ厳しい家庭教育を受け、「躾(しつけ)」という文字をそのまま表すような仕込み方だったという。
明治の代表的な文人、幸田露伴は文壇の国宝とまで讃えられ、幸田露伴が亡くなった時、慶応大学の塾長をしていた小泉信三博士が「百年に一度しかでない頭脳がなくなった」という趣旨の文を書かれたそうだ。
しかし、古典の素養のある露伴の仕事は、小説の世界に比べ文章表現が難しく、死後、半世紀もたった今、文学的な足跡のみに光が当り、作品が親しまれているとはいえないのではないだろうか。私なども、学生時代に読んだが、短編のごく短い小説だけである。とにかく、当時は、難しすぎて、敬遠していた。
『五重塔』などに見られる、仕事一筋に専念する職人的な姿勢、平々凡々な暮らしの中の謹厳さ、ひたむきさな意地の通し方といった露伴の特徴が、戦後の生活から薄れたことも露伴離れと関係したかもしれないが、バブルのはじけた今になって、幸田文の端正な文章が、再評価され、祖父と母親の毅然とした生活を伝える孫娘青木玉の随筆が人気を呼んでいるようだ。日本人の暮らしから失われたものへの郷愁であろう。
今、[露伴の書を座右に置いて、数え切れないほど読み返してきた]という渡部昇一氏の『幸田露伴の語録に学ぶ自己修養法 』(単行本) や『運が味方につく人つかない人―幸田露伴“努力論”を読む』(文庫) が、現代人にも通じる内容でとても分かりやすく編集され人気をよんでいるようだ。
「順風として喜んでいる人が遇っている風は、逆風として嘆いている人が遇っている風とまったく同じ風なのである。
”努力して努力する”―これは真によいものとはいえない。
“努力を忘れて努力する”―これこそが真によいものである」
努力している、もしくは努力せんとしている、ということを忘れていて、我がなせることがおのずからなる努力であってほしい・・何かをなそうとしても、ままならぬことの多いこの世の中で、いたずらに悩み苦しまずに、のびのびと勢いよく生きるにはどうすればよいか・・・・露伴の説く人生論。含蓄のある言葉である。何をやっても上手くいかないなどとぼやいている人たち是非一度読んでみるとよいのでは・・・。
幸田露伴になじみのない人は、先ずは以下参考の「幸田露伴研究所ホームページ」あたりから、目を通してみては如何かな!
(画像は、渡部昇一氏の『幸田露伴の語録に学ぶ自己修養法 』単行本。)
幸田露伴 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B8%E7%94%B0%E9%9C%B2%E4%BC%B4
幸田露伴研究所ホームページ
http://homepage3.nifty.com/rohan/
松岡正剛の千夜千冊『連環記』幸田露伴
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0983.html
作家別作品リスト:幸田 露伴(青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person51.html
電子図書館 著者別 こ幸田露伴
http://www.eonet.ne.jp/~log-inn/04chosya_ko.htm#幸田露伴
『五重塔』 幸田露伴
http://www.mars.dti.ne.jp/~akaki/gojuu.htm
幸田露伴『幸田露伴美辞名句集』
http://www.konan-wu.ac.jp/~kikuchi/den/rohan.htm
文学
http://learning.xrea.jp/%CA%B8%B3%D8.html
[PDF] 幸田文の世界 幸田文の世界 幸田文の世界 幸田文の世界
http://sizcol.u-shizuoka-ken.ac.jp/~kiyou/14_3/14_3_3.pdf
幸田文全集
http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/09/6/0919010.html
信兵衛の読書手帳(幸田文、青木玉、青木奈緒等の読書感想あり)
文庫・新書・選書 > エッセイ・随筆・評論 ...青木玉
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/bwtsea.cgi?STRCT=1&MODE=1&FLG=&REV-COD=RB48%2FR01
本の中の名言・格言『運が味方につく人つかない人―幸田露伴“努力論”を読む』
http://wisewords.holly.holy.jp/?eid=70009

平重盛 の忌日

2006-07-29 | 人物
1179(治承3)年の今日(7月29日)は平清盛の嫡男「平重盛 の忌日」。彼の早世は平氏の将来に暗い影を落とすことに・・・。
平 重盛(たいら の しげもり)は、平安時代末期の武将。
平清盛の嫡男で、保元・平治の乱では父に従い活躍。父清盛の出世とともに、蔵人から遠江守・伊予守を経て1163(長寛元)年には公卿に列し、1174(承安4)年には近衛右大将に、 1177(安元3)年には内大臣にまで出世した。
その直前、平清盛が太政大臣に昇進し、重盛自身も従二位権大納言となっていた1167(仁安2)年、後白河上皇は重盛に対し、「海賊追討」の院宣を下した。この院宣は、平氏政権に対して、単なる海賊の追討権にとどまらない国制上の軍事大権を授与したものだとされているが、このことは、 清盛が有していた国家的な軍事警察権の重盛への移譲が明示されているという。 これにより平氏は、対外的には重盛が一門を統率する氏長者としての位置を占めることになった。しかし、その実質は清盛が家長として強大な発言権を保持していたため、 後白河上皇と清盛の対立が明らかになると、後白河に近かった重盛は、父と後白河の間に挟まれて対応に苦慮したようだ。
1177(治承元)年の鹿ケ谷事件の後、清盛が後白河法皇を幽閉しようとした時に身をもって制止するなど、朝廷と平家の調停に努めるなど、父・清盛を諌めることのできる数少ない人物だった。
「平家物語」では、重盛は父・平清盛に対し、温厚柔和で冷静沈着な理想の男性像として描かれている。重盛は、文武両道に長けていたので「清盛が死んでも、重盛さえいれば平家は安泰だ」と言われるほど高い評価を得ていたという。しかし、重盛は、平氏専横化が進み、後白河院との対立が深刻化していく中、1179(治承3)年5月25日に出家し、7月29日に病に倒れ41歳という若さでこの世を去った。父(清盛)の後を継ぎ、平氏支配の中心人物となるはずの重盛の突然の死は、すでにこのときに、実質的な平氏支配の崩壊を意味していた。重盛の死から2年後には父清盛が亡くなり、さらに4年後には壇ノ浦にて平家は滅亡している。
重盛は、邸が小松谷にあったことから「小松宰相」「小松殿」と言われ、内大臣になってからは「小松内府」とも呼ばれた。又、鹿ケ谷事件後、滅罪生善の志により東山の麓に48間の精舎をたてて一間に一つずつ灯龍をかけ毎月14~15日の両日に火を点じて祈りをささげた所から「灯龍大臣」とも呼ばれた。重盛は病弱であった事や母は右近将監高階基章の娘で、清盛の正室・平時子ではなかったので、嫡男であるにも関わらず一門内での孤独から仏教帰依の心が厚かったようだ。
気の荒い平清盛と後白河上皇との仲をなんとか取り持っていた重盛の病死以降、武断専横的な清盛の無謀を諫められる人物はいなくなり、後白河法王を鳥羽殿へ幽閉したり、福原遷都を行ったり、反抗した東大寺・興福寺へ攻撃して焼き払ったりと、世の人々から反感を買う事を続け、結果的に、後白河上皇が平氏追討の院宣を全国の源氏に発し、平氏への攻撃が全国で始まったのである。各地で平氏の軍は惨敗し、まず北陸道を抜いてきた木曽(源)義仲の軍勢が、京都へ入るとともに平氏一族は京都を脱出し、福原(神戸)へ都落ちした。重盛・清盛亡き後に、平氏を率いていくはずの平維盛(これもり)は、高野山に出家してしまったので、重盛の弟である平宗盛(むねもり)がその実権を握っていた。宗盛は主戦派(教盛・教経)で周りを固めて、あくまで戦う姿勢をとったが、一ノ谷の戦いで破れ福原の都は焼かれ、続いて四国の屋島の戦いでも源義経の奇襲にあい、屋島の家屋敷を焼かれて瀬戸内海を西へ下っていった。ここまでくると平氏に味方する豪族も少なくなっており、九州はすでに源氏勢力に統一され、もはや逃げる場所は、壇ノ浦(彦島要塞)に基地する平知盛の場所しかなかったのである。
1170(嘉応2)年7月3日、法勝寺へ参る途中の摂政・藤原基房の行列と遠乗り帰りの平維盛・資盛の一行が路上でかち合ったことがある。この場合、下級者は乗り物から降りて上級者に挨拶をするのが礼儀であったが、資盛達は下馬の礼とをとらなかったため乱闘となる(殿下乗合事件)。 同年10月21日、摂政基房が武士に襲われる。殿下乗合事件の報復であった。『平家物語』では重盛が制止するのも聞かず清盛が報復したことになっているが、実際は重盛が襲わせたらしい。 この事件では、子の恥をそぐための仕返しをはかったもののようだ。(詳しくは、以下参考の殿下乗合事件参照)。
又、神戸にある布引の滝は古来より名勝の地として広く知られていた。布引の滝にまつわる史実・伝説に詳しい『布引瀧と周辺史蹟―葺合文化の源泉―』太田三著によると、平安・鎌倉の時代から多くの来訪者があったことが紹介されており、その一つ『源平盛衰記』の挿話に次のっ様なものがあるという。
”内大臣平重盛はお供を連れ滝見物にやってきた。滝壷の深さを知りたいと思った重盛卿は「此の中に誰か剛者の然も水練ある者を」と尋ねた。すると備前国住人難波六郎経俊が進み出て「滝壷に入りて見て参らむ」と飛び込んだ。するとそこには不思議な世界が広がっていた。見渡すと東には春の景色、南には夏の、西には秋の、北には冬のと四季の景色が展開していた。経俊は機織りの女性からそこが竜宮城であることを知らされる。やがて乙姫に面会したのち、経俊は水上に浮かび上がり仔細を重盛卿に報告する。ところが、その言葉がまだ終わらないうちに、滝の面を黒雲が覆い、雷鳴がとどろき大雨となり、経俊は雷に打たれて死んでしまう。重盛卿はこのような勇者を滝壷に入らせ、竜宮のたたりに遭わせた不覚を悔いた。”・・・というのだ。昔から、滝は神聖なものと見られていた。その神聖な場所を重盛が犯させたために罰せられたのだろう。
以下参考の古典の図鑑の『源平盛衰記図会』→ 滝壷見学の場面が描かれている。
『平家物語』のなかでは,猛々しい清盛とは対照的に,沈静さと温雅そして教養を兼ね備えた武人として,朝廷とのあいだにあり、仲介を勤めたと描かれている。彼の人間像を伝える逸話には、多少彼を英雄視しているきらいがある。重盛は、清盛に劣らず一門を大事に考えていたし、力を示すこともあった。重盛には聖人君主的な側面もなかったとはいえないだろうが、清盛や平家滅亡を招いた宗盛と比較されることが多く、その過程で神聖化された面が強いのではないか。このような物語には良くあることだ。
(画像は、以下参考の矢先稲荷神社・馬の情報館余地借用)
参考:
平重盛 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%87%8D%E7%9B%9B
神戸市文書館・源平特集
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/06/014/genpei/genpei.html
殿下乗合事件
http://www6.plala.or.jp/HEIKE-RAISAN/jikenbo/tenga/tenga.html
KOB E の 本 棚 (布引の滝)
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/57/070/hon_25/hon_25.html
矢先稲荷神社・馬の情報館
http://www.tctv.ne.jp/uma490/
『源平盛衰記』(国民文庫)
http://www.j-texts.com/seisui/gsall.html
古典の図鑑目録
http://www3.starcat.ne.jp/~koten/mokuloku.html



[乱歩の日」

2006-07-28 | 記念日
今日(7月28日)は「乱歩の日」
1965(昭和40)年7月28日、日本の推理小説の生みの親、江戸川乱歩が亡くなった。
江戸川乱歩は、1894(明治27)年10月21日、三重県生まれ。本名は、平井太郎。早稲田大学政治経済学科卒。1922(大正11)年、処女作『二銭銅貨』が、日本の推理小説のパイオニア的存在である森下雨村に認められて「新青年」誌に。江戸川乱歩のデビューである。筆名は、アメリカの文豪エドガー・アラン・ポーをもじったもの。『二銭銅貨』は、一枚の二銭銅貨が練り薬の容器のように捩れて開いて、その中から出てきたのは『南無阿弥陀仏』の6文字を複雑に繰り返した暗号文。高等遊民である主人公はそれを5万円を奪った紳士強盗が仲間に送ったものだと考えて、その隠し場所を解く・・。作品そのものはポーの「黄金虫」を彷佛とさせる暗号物である。作中のセリフでポーの『黄金虫』やイギリスのSF作家コナン・ドイルの書いたシャーロック・ホウムズ・ シリーズの「踊る人形」の言及がある。詳しくは、以下参考の「エドガー=アラン=ポー[黄金虫]」を見るとよい。ただし、『二銭銅貨』では暗号解読は「黄金虫」や「踊る人形」のような解読手法を適用して解き明かしていくものではなく、閃きと推測によるものである。初期の乱歩は欧米の探偵小説に強い影響を受けた本格探偵小説を送り出し、日本探偵小説界に大きな足跡を残した。その一方で、岩田準一とともに研究していた衆道の少年愛や少女愛、草双紙、サディズムやグロテスク趣味などへの志向も強く、これを活かした通俗的探偵小説は昭和初年以降当時の一般大衆に歓迎されたが、反面、本格作品執筆の意欲は衰えたという。作風にも悩み、又、第2次大戦中、探偵小説は、不要な娯楽読み物として軍部から弾圧され、乱歩も小説の執筆を一時止めざるを得ない時期があった。乱歩は、ファンにサインを求められると必ず色紙に「うつし世は夢 夜の夢こそまこと」と書き添えたといわれるが、小説を書くという本業が「うつし世」なのだとしたら、情熱をかたむけ、無邪気に楽しむことのできた海外ミステリは、乱歩にとっては「夜の夢」であり、「まこと」であったのかもしれない。
敗戦と共に探偵小説が復活すると共に、既に、大御所的存在となっていた乱歩は、海外の名作を紹介する評論や長編「化人幻戯」(1953=昭和28年)、短編「防空壕」(1955=昭和30年)などの作品を発表し、1946(昭和21)年、いち早く日本探偵作家クラブ(現日本推理作家協会)を結成し、自ら初代会長に就任した。探偵小説を「本格」と「変格」に分けたのは、乱歩が最初である。戦後の作品は、若手作家に代筆させる(渡辺剣次による『十字路』)など低調だったといわれるが、評論による啓蒙や新人発掘にも熱心で、横溝正史をはじめ山田風太郎や星新一、小林信彦、筒井康隆、大薮春彦など、乱歩に才能を見出された作家は少なくない。1965年(昭和40年)7月28日、逝去。立教大学と隣接していた江戸川乱歩が住んでいた屋敷は、その縁で現在は立教大学によって「旧江戸川乱歩邸」として公開保存されている。
江戸川乱歩は、日本のミステリー界においてのまさに巨人であり、日本探偵小説興隆の祖とされることが多いが、乱歩の残した作品には、怪奇幻想小説からエログロと呼ばれるようなものまで幅広いものがある。ミステリーの面白さを乱歩で知った人は多いだろう。
しかし、何んと言っても乱歩を有名にしたのは、、長年に渡って少年少女の人気を博した、おなじみ名探偵明智小五郎と少年探偵団シリーズの生みの親としてだろう。
ぼ ぼ 僕らは少年探偵団
勇気凛々(りんりん)瑠璃(るり)の色
望みに燃える呼び声は
朝焼空(あさやけぞら)に谺(こだま)する
ぼ ぼ 僕らは少年探偵団
『少年探偵団のうた』壇上文雄作詞・白木治信作曲
懐かしい『少年探偵団のうた』聞きたい人は↓http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/shounentanteidan.html
『少年探偵団』は、乱歩の子供向け探偵小説中に登場した探偵団。子供のみで構成されており、明智小五郎を補佐する。 1960年11月3日から1963(昭和38)年9月26日まで、全152話がフジテレビ系で放送され大好評だった。探偵小説のブームを受けて制作された探偵ドラマシリーズ第一作目『怪人二十面相』に続く第2作目のシリーズもの。第一作目『怪人二十面相』において、『吸血鬼』で明智小五郎の弟子として初登場。当初は顔見せ程度であったが、雑誌「少年倶楽部」に江戸川乱歩が少年向け探偵小説を掲載することになり、その際に少年探偵団の団長とした。この事で一役有名になり、明智小五郎と小林芳雄のコンビで親しまれている。そして、少年探偵団では、団長として大活躍をした。
名探偵明智小五郎を主人公にした映画やテレビ舞台など数々あるが、私は天知茂が演じた、テレビでの 『江戸川乱歩の美女シリーズ』 が一番好きだった。テレビ朝日系列の『土曜ワイド劇場』で1977(昭和52)年から1994(平成6)年までの17年間放送されていた人気ドラマシリーズ。従来のテレビでは子供向け作品の映像化が多かった江戸川乱歩作品を大人向け作品に絞って映像化し、トップ女優の官能的な演技とヌードシーン(主に入浴シーン)を盛り込み、現代風にアレンジしたもの。お茶の間の家族団欒で見るにはちょっと回りに気兼ねもあるが、、大人の男性にとっては、こんなのが面白いよ。(^0^)。物語終半の変装の名人でもある名探偵・明智小五郎が変装を解くシーン(別俳優との入れ替えによる)が恒例となっていたが、変装を引っ剥がしたときでもスーツを着込んだ天地のダンディな探偵姿が格好良い・・。 ただ私の好きな天知茂の明智小五郎役は1977年から他界する1985年まで25作品のみでその後は北大路欣也や西郷輝彦が扮したが、やっぱり、天地茂が良かったな~。明智小五郎役は彼しかイメージに沸いてこないよ。
この乱歩が創造した『怪人二十面相』は実に魅力的な悪役の存在であるといえる。名悪役である『怪人二十面相』は、明智小五郎や小林少年という主役を翻弄し続ける。変装を得意とする『怪人二十面相』と探偵『明智小五郎』が同時に登場することはない。そして、『怪人二十面相』は最後になっても捕まることがない。『怪人二十面相』とは一体どういう人物なんだろうか?
書き出すと切りがない。最後にここらあたりで思わせぶりなことを言って終わろう。(^0^)」。
『怪人二十面相』の正体について興味のある方は、以下参考の中相作氏のサイト。「名張人外境/江戸川乱歩データベース」をてみるとよい。このサイトは江戸川乱歩に関するデータ満載。この中の「乱歩百物語」の中の↓のページで推理されている。きっと、発見があるよ。
「乱歩百物語」の第二十六話 「怪人二十面相の正体」(もしくは明智小五郎最後の事件 )
(画像は、「松竹銀幕パックシリーズX」原作:江戸川乱歩。 ビデオ「怪人二十面相」「 青銅の魔人」2本組。発売・販売元:松竹(株)ビデオ事業室)
参考:
江戸川乱歩 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%B7%9D%E4%B9%B1%E6%AD%A9森下雨村作品集
http://www.airbepal.com/big_img04/morishita/
エドガー=アラン=ポー『黄金虫』
http://www.rd.mmtr.or.jp/~bunryu/poe.htm
明智探偵事務所
http://www.sb-p.jp/oishi/akechi/
乱歩 / 美女シリーズの妖しい世界
http://www12.ocn.ne.jp/~nacky/bijyo.html
「名張人外境/江戸川乱歩データベース」中相作氏のサイト。
http://www.e-net.or.jp/user/stako/ED1/E00.html
旧江戸川乱歩邸
http://www.rikkyo.ac.jp/~koho/ranpo/
表紙絵ギャラリー
http://www.geocities.jp/harimaze/gallery.html
江戸川乱歩 (エドガワランポ) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/99808/index.html
江戸川乱歩全集・恐怖奇形人間
http://www002.upp.so-net.ne.jp/garu/movie/rampo.html
探偵作家・雑誌・団体・賞名辞典-わ-渡辺剣次(わたなべ・けんじ)
http://members.at.infoseek.co.jp/tanteisakka/wa.html


スイカの日

2006-07-27 | 記念日
7月27日「スイカの日」
スイカの縞模様を綱に見立て、27を「つ(2)な(7)」(綱)とよむ語呂合せから。
goo-国語辞典で [ すいか ]を調べると、”【西瓜】 :〔「すい」は「西」の唐音。「水瓜」とも書く〕。ウリ科のつる性一年草。熱帯アフリカ原産。日本へは一六世紀渡来。[季語]秋。〔「西瓜の花」の[季語]夏〕”とある。
スイカはウリ科のつる性一年草で、熱帯アフリカが原産らしい。エジプトでは紀元前6000年の壁画や絵画に西瓜が描かれているというから、本当に古くからあったものらしい。中国語では水分が多く、夏出回ることから「水瓜」「夏瓜」ともいわれている。中国の『本草綱目』によれば、「陷虜記」に「キタイ(キッタン・契丹族)がウイグル族を征服した時に、この種を得て帰った、そこで西瓜という」とあるそうで、西域から伝わったために、「西瓜」と呼ばれるようになったそうだ。
スイカが日本への渡来したのは、国語辞典では、一六世紀渡来とあるが、もっと古い時代に伝わっていたのではという見方もあるようだ。
それは、京都の高山寺に伝わる絵巻物・一般的には鳥獣戯画(国宝)と呼ばれるもの(制作年代は12世紀~13世紀[平安時代末期~鎌倉時代初期]とみられる)に西瓜らしい絵が描かれていたり、京都南禅寺の僧・義堂周信の、詩文集『空華集』(1359)にも西瓜の詩らしきものが見られることから、平安朝後期にはスイカが作られていたのではとの見方もあるようだ。
しかし、江戸時代の宮崎安貞が著わした代表的な農書『農業全書』(1696=元禄9年)には「西瓜は昔は日本になし。寛永の末ごろ(1640年ごろ)初めて其種子来り、其後やうやく諸州にひろまる」とあるそうだ。又、『長崎両面鏡』といわれるものに「天保7(1836)年、西瓜、南瓜の種来る。西瓜は常品の外、長西瓜、亀甲西瓜、白西瓜、黄西瓜あり」とあるそうで、この頃にはいくつかの品種が渡来しているようである。古くからスイカらしきものがあったような記録も見られるもののそれが、スイカだという確たる物はなく、やはり、17世紀ごろ日本に渡来とする通説が正しいようだ。
江戸時代前期の俳諧師・松尾 芭蕉の『続猿蓑』巻下:秋の中に、樽次といふものゝ孫に逢ひてと題して「そのつるや西瓜上戸の花の種」 (沾圃)の句がある。
この『続猿蓑』は沾圃(生年不詳)の撰したものを芭蕉と支考が手直しして成立したといわれているそうだが、この句の解説は、以下参考の芭蕉db /沾圃を見るとよい。要するにこの一句は”樽次の孫というものに会ったが、瓜の木に茄子は生らないが、瓜の木に瓜は生るであろう。だから彼もきっと大酒豪に違いない。”といった意味だそうだが、昔から、酒を飲んでも顔色に出ない人を「西瓜上戸」と呼ぶそうで、スイカの果実の中が赤いのは、外見からでは判らないことから生まれた言葉だとか。
又、以下参考の「奈良県川西村結崎の糸井神社」所蔵の南無天踊絵馬(1842年、天保13)にはスイカを切り分けている模様が描かれており、大和地方で既に西瓜が作られていたことや西瓜がこのような露店で売られて食べられていたことがわかる。
糸井神社所蔵の南無天踊絵馬 こちら↓http://www3.kcn.ne.jp/~mamama/nara/temple/z-01189-1.jpg
上記絵馬の画像(絵の右下・・木の下に机をおいて、スイカの切り売り)では見てもよくわからないかもしれないが、描かれている西瓜は無地皮だそうだ。
現在我々が食べている西瓜は、緑の地に黒い縞模様が一般的であるが、こうした品種が広まったのは、昭和初期以降のようで、それまでは黒皮、無地皮が一般的で、「鉄カブト」とも呼ばれていたという。以下参考の「西瓜について」の中の「西瓜と文学」を見ると、”むかしは西瓜は、歴々その外、小身ともに食うことなし。道辻番などにて切り売りするを、下々、仲間(ちゅうげん)など食うばかりなり。町にて売りても食う人なし。女などは勿論なり。『昔々物語』。”とあり、江戸時代に西瓜が低級視されていたことがわかる”という。どうも、江戸時代には果肉が赤いのは気味が悪いとされていたようで、あり、あまり広くは食べられてはいなかったようである。又、現在の西瓜のような甘さはなかったようで、『本朝食鑑』(1697年)には、西瓜を半分に割り、果肉をえぐって砂糖を入れ、暫くおいてから食べる方法が書かれているそうだ。
明治末期に西洋種(アイスクリーム種)がアメリカから導入されて改良が進み、本格的な西瓜栽培が始まったという。昭和初期になると、奈良中心の大和西瓜と関東地方中心の都西瓜の二大品種郡が形成され、縞模様の西瓜が出てきた。現在の品種はほとんどがこの二大品種の血筋だという。
スイカは、栄養的には可食部の成分、95%が水分(果汁)で、このうち4~6%が糖分だそうで、果糖やブドウ糖はエネルギー転換が速やかなので、夏の炎暑で疲れた身体を癒すにはスイカを食べると即効性があるという。西瓜はなんといっても利尿作用がよく知られている。むくみや腎臓に効き、西瓜の種は干したものが解熱、便秘にいいとか。私の母も腎臓が悪いとか言ってよくスイカを食べていた。
昔は、西瓜は1玉単位で買っていた。棚ボタでないみずみずしい西瓜を買うのに西瓜を指ではじいて試していた。おいしい西瓜はふっくらと丸く、果皮に つやがあり、指ではじくと、コンコンと澄んだ音がした。今の人には見分けられるかな?私が子どもの頃には、今のように、大きな電気冷蔵庫がなかった。我が家には、木製の氷で冷やす小さな冷蔵庫は有ったが、スイカは1玉買っても量が多く、冷蔵庫には入らない。幸い我が家には、都心であるにもかかわらず家に井戸があったので、ネットにいれ井戸につけて冷やしていた。夏の井戸水は冷たいのでよく冷えた。氷の冷蔵庫などで冷やすよりよく冷えた。これを切って、種などとらずにそのままかぶりつき、器用に種を残し実だけを食べて、種は、食べた後で口の中から吹き飛ばしていた。
西瓜は甘さが命、そのためこのごろ、スーパーなどでは糖度を記しているのを見かける。糖度13%以上ならば甘く、10~12%で合格とみてよい。又、昔と違って、核家族化し一家の人数が少なくなった今では、1玉単位で買う人は少なくなり、小さく切り売りもしている。かって西瓜は「夏の果物の王様」であったが、最近は、甘いメロンなど色々な果物が食べられるようになり、西瓜の売れ行きは昔より相当落ちただろう。昔は、実を食べた後の西瓜の皮も漬物にして食べていたよな~。
夏になると子どもが、西瓜にかぶりついている姿や、海などで「西瓜割り」をしている光景は、かっての日本の「夏の風物詩」でもあった。しかしこのような光景も余り見ることは少なくなった。そういえば、今回スイカについて調べていて「スイカ割り」に公式ルールがあるというのがわかった。なんでも、全国農業協同組合(JA)が設立した「日本すいか割り協会 ( Japan Suika-Wari Association )」が、1991年に定めたものらしい。なお、JSWAはJAがスイカの消費拡大を目的として行ったキャンペーンのために設立されたものであり、現在は存在していないらしいが・・・。 すいか割り公式ルール知りたい人は以下を見て。
「すいか割り公式ルール」ここ→http://www.mitinoku.or.jp/tokusan/suika_wari.htm
(画像のスイカはフリー百科事典Wikipediaより借用)
参考
スイカ-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%A4%E3%82%AB
西瓜について(食品広場)
http://www.mint-j.com/fruit/04/4_12.htm
スイカの歴史/(株)萩原農場
http://www.suika-net.co.jp/suikanorekisi.htm
今週の花 18  夏野菜の花(1)
http://www010.upp.so-net.ne.jp/pha/flo0208veget.htm
芭蕉db
http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/basho.htm
奈良県磯城郡川西町 糸井神社
http://www3.kcn.ne.jp/~mamama/nara/temple/itoi-shrine01.htm
本朝食鑑
http://www.ebookjapan.jp/shop/title.asp?titleid=1295
鳥獣人物戯画 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E7%8D%A3%E4%BA%BA%E7%89%A9%E6%88%AF%E7%94%BB