今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

たまごかけごはんの日

2009-10-30 | 記念日
日本記念日協会の記念日を見ると今日・10月30日の記念日に「たまごかけごはんの日」があった。
記念日の由来は、”「たまごかけごはん」をキーワードに日本の古き良き食文化やふるさと、家族愛などを考えるきっかけとなる日をと、島根県雲南市の「日本たまごかけごはん楽会」が制定。日付は第1回日本たまごかけごはんシンポジウムが開催された2005年10月30日であったこと。それから、この時期はたまごの品質が良いと言われており、また美味しい新米が出回る時期でもある。”・・からだそうだ。
島根県雲南市においてこの卵かけご飯の魅力を語り合うシンポジウムが開かれたのは、卵かけ専用の醤油「おたまはん」を同市の第三セクターとして1985(昭和60)年4月に設立された㈱「吉田ふるさと村」が開発したことに起因するもののようだ。以下参考の※:「関 幸子ブログ :2006年11月」によれば、町長である社長と、民間からの3人とで株式会社の土台をつくりスタート、最初は、商品も少なく、販売に苦戦するが、地元農家の秘伝の焼肉のたれや、地元野菜と鶏肉を鍋セット、地元米のもち等、徹底的に「地元」にこだわり、無・減農薬を貫き、「安心・安全」にこだわった商品開発を行ってきた中で、生み出されたのが今、爆発的に売れているというたまごかけごはん用の醤油「おたまはん」だそうだ。これなど最近官民共同出資による第3セクターの赤字問題が言われている中で、目面しく成功している例なんだろうね~。
そういえば、ここのところ数年前から、「たまごかけごはん」がテレビなどマスコミなどで話題となっており、兵庫県豊岡市但東町栗尾916にある「但熊(たんくま)」(但熊HP参照)の紹介などがよくされていた。定食の“白ご飯に、お味噌汁、香の物がセット”(350円)が売り物で、美味しいと随分と遠方から食べに行く人が多く、店に入るのに行列も出来るようだ。ここの店で、たまごかけご飯専用の醤油として使用しているのは「おたまはん」のようだ。ここで使っている「くりたま」と言う名の卵は40個 1,900円 で輸送販売もしている。卵は1個当たり47,5円になるので、スーパーで販売のものなどと比べると少しお高いよね。
この他、美味しい「たまごかけご飯」を売り物にしている店としては、岡山県美咲町にある「食堂かめっち」が昨・2008(平成20)年1月にオープンしている(以下参考の※:「たまごかけごはんの店「食堂かめっち。」ホームページ)』参照」。
なんでも明治時代を代表するジャーナリスト岸田吟香(きしだぎんこう。あの有名な洋画家・劉生は吟香の4男)が、日本で初めて「卵かけご飯」を食べ、それを全国に広めたという説があるようだが、その人物が美咲町出身だということ、また、西日本最大の養鶏場といわれる「美咲ファーム」(同町越尾【こよお】)があることなどで、町が「卵」を通じたまちづくりを始めたものだ。この食堂・かめっち(第三セクターの美咲物産が運営)は、合併前の旧中央町時代に、運動公園内の軽食堂として開設。平成17年の岡山国体開催時にも利用されたが、閉幕後は休業状態であったものを、町ではこの食堂を活用して、現在、静かなブームとなっている「卵かけご飯」を中心にした料理などで地域おこしを図ろうと企画したもののようだ。さてさて、ブームにのっての開店で今のところ上々に滑り出しのようだが兵庫県豊岡市但東町の但熊(たんくま)」のようにこれからも上手くいくのかな~。食堂名の「かめっち」とは何のことか良く知らないが、岡山県美咲町のJR津山線にある亀甲(かめのこう)駅は、金色の亀の頭が屋根から突き出したユニークな造形であるが、駅名は、近くにある「亀甲岩(かめのこういわ)」が弘法大師の像を乗せてせり上がってきたとの伝説が由来のようであり、美咲町はなにかとこのような亀甲の「亀」を売り物にしているようだ(以下参考の※:「JR・亀甲 : 駅 : 人遊食 : 関西発 : YOMIURI」や※:「亀甲(かめのこう)岩 - さんようタウンナビ - 山陽新聞社」参照)。
私の家は、2004(平成16)年の台風第23号で、家の屋根が破損し、この時知り合いの業者に屋根の修理と共に、ついでの電気系統等のメンテナンスや補修等も一緒にやってもらったが、その時、下請けの電気業者の気の良い奥さん(奥さんが主人の仕事を手伝っている)と卵かけご飯の話しをしていたら、数日後に、業者さんの家の近くにある卵の卸業者さんで、非常に美味しい卵を売っているといって、その卵1パックと共に、そこでは、卵屋さんの奥さんが卵焼きなども作って売っており、それが美味しいので・・・と一緒に持ってきてくれた。
早速その日の昼食暖かいご飯でたまごかけご飯を食べ、夕食の1品に玉子焼を食べた。言われるとおり、美味しかったので、その後、その卵屋を教えてもらい私の家からは少し遠いが、時々買いに行くようになった。そこは、鶏卵卸の(有)桑原鶏卵(長田区海運町8【地図】)というところであるが、そのおいしいという卵の値段は家人もよく覚えていないが、卸し値段で買ったので安くて、1ッパック(10個)300円台だったが、地元の市場では、同じものを450円くらいで売っていたと言っている。そうすると、「但熊」で売っている卵と価格的には変わらないので、卵自体の品質も同じ様なものだろう。たまごかけご飯専用の醤油としては、寺岡家の「たまごにかけるお醤油」というのを使っている。今まで、たまごかけご飯は、ご飯の上に卵を乗せその上から醤油をかけてから混ぜて食べていたが、ご飯に専用醤油をかけてから卵を乗せ、それからかき混ぜて食べる方が良いのだと言っているのを聞いたことがあるたのでそのようにして喰べると、気持ちのせいか美味しいような気がし、以後そうしている。たまごかけご飯専用の醤油もいろいろあるようで、「たまごかけごはんのしょうゆ」(発売元:神戸発 だいずや、兵庫県神戸市・・・と地元のものもあるようなので、一体どれくらい違うのか?・・探して使ってみようかな・・・(以下参考の※:「たまごかけご飯 専用醤油」参照)。
ま~普通のスーパーなどで売っている卵の3倍くらいはするので、美味しくって当たり前・・・・と思っていたら、先日、同じ町内にある私達のお寺の住職さんから、良い卵をたくさん戴いたのでと、1パックお裾分けで貰ったものが、冒頭に掲載の卵である。パッケージには“超特選・まぼろしの卵・「昔翁ありき」農場価格600円”と卵の値段まで印刷してある。右のパックに入れたものを左の厚地の紙のパックに納められていた。1パック600円だとしたら、1個60円にもなるが、それは、包装を見ただけで、他の卵とは差別化した高級品であることを表している。この品は、農林大臣賞も受けているようだ。確かに、美味しかったが、卵の通と言うわけでもなし、時々桑原鶏卵で買って食べている卵とどこがどれほど違うかの説明は出来ない。確かにプリッと膨らんだ黄味の色も少し赤めの美味しい卵ではあった(卵の詳しいことは、以下参考に記載の埼玉県東松山市にある製造元※:「篠原養鶏場」のHPを参照されたい。冒頭の写真の卵の包装用パックは、私が写真に撮ったものだが、卵は食べてしまった後なので、写真に合成の卵は同社HPのたまごかけご飯の写真の卵部分を切り取り使わせてもらった)。
卵かけご飯は、生の鶏卵とご飯を混ぜ、少量の醤油等で調味して食べる簡単なというか、言い方によっては何の変哲も無い飯料理?ではあるが、それだけに使用される鶏卵鮮度・味匂いやお米、それにかける醤油等の食材の良し悪し等が大切であることは、ほかの料理と同じことである。そしてその食べ方には、
A:黄身だけを使うか、白身を含む全卵を使うか。
B:ご飯に卵を直接割り込み、醤油で味つけするか。
C:卵を別の器で溶きほぐして、味つけしてからご飯にかけるか又、ご飯にかけてあじつけするか。
D:ご飯を醤油で先に味つけしてから溶きほぐした卵をかけるか。
・・・・など、人それぞれ好みがあるだろうが、私の場合は先にも書いたようにDの方法でやっている。
この料理は簡単な作り方であるものの、かき混ぜる際の飯と卵との量の割合や炊いたお米の温度も重要であって、食感と味に影響する。味つけには、一般的には醤油を用いることが多いが、卵かけご飯は基本的に、ご飯と生卵のほのかな甘みと醤油の塩辛さとコクを味の基調としているようだ。最近は、様々な薬味やトッピングを
もちいたり普通の醤油以外に調味料(たまごかけご飯専用)などを使うことが増えている。私なども、たまごかけご飯専用醤油を使用しているが、その原材料をよく見ると、醤油以外に砂糖・みりん・かつおぶし・こんぶ・かき・酵母・椎茸・アルコールなどが使われており、甘みを加える材料が多いことに気づくが、これだけ甘味成分が多いと、本当に良い卵の場合には、卵の黄身独特の甘みに気づかなくなると指摘するものも居る。確かに、私などのように、せっかく1個60円もする“超特選・まぼろしの卵・「昔翁ありき」”も、時々買って食べている「桑原鶏卵の高級卵」も、スーパーで買う普通の卵も、たまごかけご飯専用醤油を使って同じ様な食べ方をしていると、本当の卵そのものの味は分らないのかもしれない。
まぼろしの卵・「昔翁ありき」を作っている篠原養鶏場のホームページを見ると、この卵は古文書にいう〃幻の卵〃「たまごのにほひとかをり」を追及し、その再現をはかったものだという。餌は卵の原料であり、何をどう組み合わせるかによって味が決まるが、鶏の栄養や、卵の味の片寄りを無くす為、沢山の天然飼料を配合しており、又、味を良くする為、原料に大量の魚介・海苔・昆布等を配し、卵黄色は濃く茶色を帯びているのが特徴だが、季節・原料によって異なるそうだ。そして、そんな餌によっては鶏が食べないものをどうして食べさせるか・・といったことまで研究して作ったものと言う(詳しくは以下参考の同社ホームページ参照)が、そういわれると、私のように、ただ、「高級なものは、普通ものよりは、美味しかった」・・・だけでは、このように一生懸命良い卵づくりをしてきた人には悪い気がする・・・。
食通でもない私などには、普通の卵をしこし工夫して、卵賭けご飯用の調味料でごまかして食べるのが合っているのかも・・・。
日本では、最も簡単で手早く食べることのできる料理の1つとして知られており、特に朝食メニューとして、多くの人に食べられている。「たまごかけご飯」が朝食時に摂られることが多い理由は、第一に簡単に出来、短時間に食べ終わることができる点であろう。
エジプトの古文書によれば、紀元前1500年ごろには、すでに鶏が毎日産卵していたという記録が残っており、野鶏が採卵用に品種改良されていたことを物語っているが、日本に鶏が中国から朝鮮半島を経由して伝えられたのは、約2500年前で、雄略天皇の頃には鳥飼部(とりかいべ。Yahoo!百科事典参照)という養鶏専業の民が存在していたようだが、この当時、鶏肉は食用に、鶏卵は食膳や薬として利用されていたそうだ。
その後、1336年の仏教伝来以降、1390年には聖武天皇による「殺生禁断の令」により、畜肉を食べる風習もなくなった(蔭では食べていたようだが)。
一般的に、鶏卵を食べるようになったのは、江戸時代に入ってからのことで、タマゴ売りも出てきたが、庶民には手の届かない特別な栄養食で高値の華だった。卵かけご飯を食べるようになったのは明治時代から。その後、生卵は第二次世界大戦後の食糧難の時期を経て、高度経済成長期に至る直前までは希少価値があり、病人食や虚弱体質の栄養補給として用いられることが多かった。私も子供の時を戦後の食糧難の時代に過ごしているが、家の近所の桶屋さんが家の前の道路で鶏を放し飼いにしており、その鶏が産んだ卵を食べているのを近所の人がうらやましく思っていたのを知っている。そんな卵を一般庶民が気兼ねなく口にできるようになるのは、高度経済成長期以降のことなのである。
そして、今の私たちがは、ごく自然に卵かけご飯を食べているが、こんな、卵を生のまま用いることや主食の飯と混ぜて食べることなどは、日本特有の食文化であり、日本以外のほとんどの国では卵を生食する食習慣は無いそうだ。
それは、元来生卵はサルモネラ属菌による食中毒などを起こしやすく、安全に食べられる地域は日本など一部に限られており、例年海外では、卵の生食で食あたりする日本人が少なくないという。サルモネラ属菌は、主には鶏の腸管におり、卵を産んだ後に糞便等から卵の殻に付着することが多いが、生食を前提にしている日本では、GPセンター(鶏卵の格付【選別】包装施設。以下参考の※:畜産ZOO鑑GPセンター参照)で次亜塩素酸ナトリウムにより卵を殺菌処理しているなど、鶏卵農家が卵の完全洗浄など衛生管理全般が行き届いているから良いのだそうだ。しかし、それでもサルモネラ食中毒が近年増加傾向にあり、一定の注意が必要だという。生卵を食べる場合は、「ひび割れた卵」や「割れた卵」、「割ってから2時間以上経過した卵」を使用するのは危険だから注意が必要という。又、産卵後の汚染以外に、菌を保持している親鶏から卵巣や卵管を経由して菌が卵の中に付着する感染経路もあり、卵を生食する限りサルモネラ菌を完全に予防することは不可能だともいう。
98/07/22 卵によるサルモネラ食中毒の発生防止について(厚生労働省)参照。
このような生卵とサルモネラ菌の問題について、養鶏業界などは、当然いろいろな反応を示すだろうし、真面目に一生懸命取り組んでいるところなど、問題を起したところへの憤懣も見られる。たとえば、ここを見られると良い。
私自身は、今まで通り、たまごかけご飯を食べて行くつもりではあるが、改めて卵の品質面には、十分注意していかなければいけないとは思った。
(画像は、超特選・まぼろしの卵・「昔翁ありき」)
参考:
卵かけご飯 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B5%E3%81%8B%E3%81%91%E3%81%94%E9%A3%AF
吉田ふるさと村HP
http://www.y-furusatomura.co.jp/
※:関 幸子ブログ :2006年11月
http://seki3.moeruhito.com/d2006-11.html
※:たまごかけご飯 専用醤油
http://homepage3.nifty.com/takakis2/syouyu.htm
※:JR・亀甲 : 駅 : 人遊食 : 関西発 : YOMIURI
http://osaka.yomiuri.co.jp/station/ey90209a.htm
※:亀甲(かめのこう)岩 - さんようタウンナビ - 山陽新聞社
http://www.sanyo.oni.co.jp/l/article/tour/2007061113102146.html
※:篠原養鶏場
http://www2u.biglobe.ne.jp/~tamago/tamago.htm
※:畜産ZOO鑑GPセンター
http://zookan.lin.go.jp/kototen/tori/t423_3.htm
※:たまごかけごはんの店「食堂かめっち。」ホームページ
http://www.town.misaki.okayama.jp/kankou/tamago/
岸田吟香にあやかった卵かけご飯の店オープン 岡山・美咲町 - MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/region/chugoku/okayama/080123/oky0801230348002-n1.htm
※:辻調おいしいネット / 日本料理一年生
http://www.tsujicho.com/oishii/recipe/j_food/ichinensei/tamagokake.html
美咲町 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E5%92%B2%E7%94%BA
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html
日本たまごかけごはん楽会
http://tamagokake.blog02.linkclub.jp/index.php?itemid=36693
食べ物歳時記「江戸の生業・ゆで卵売り」
http://ameblo.jp/tachibana2007/
ノート:卵かけご飯 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E5%8D%B5%E3%81%8B%E3%81%91%E3%81%94%E9%A3%AF
卵かけご飯 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B5%E3%81%8B%E3%81%91%E3%81%94%E9%A3%AF

昭和の国民的歌手フランク 永井の忌日

2009-10-27 | 人物
「有楽町で逢いましょう」「おまえに」などのヒット曲で知られる歌手のフランク永井(本名・永井清人)が、東京・世田谷の自宅で死去していたのがわかったのが2008年の今日10月27日のことだった。
戦後日本の復興をムード歌謡で盛り上げたフランク永井は、1932(昭和7)年3月18日宮城県出身。歌手にあこがれて上京し、米軍キャンプでのクラブ歌手を経て、1955(昭和30)年ビクターの専属歌手となり、同年9月に「恋人よ我に帰れ」でデビューした。
第二次大戦の終戦を迎えて、戦後まで敵国の歌であった音楽であるジャズなどを歌うことが出来るようになり、進駐軍基地のクラブで多くのシンガーやバンドが誕生した。1951(昭和26)年14歳の時にパティー・ペイジのカバー曲「テネシー・ワルツ」でデビューした江利チエミや、1953(昭和28)年にテレサ・ブリュアーのカバー曲「想い出のワルツ」でデビューした雪村いづみなどもフランク永井と同様だ。
江利や雪村は、1954(昭和29)年、NHK紅白歌合戦に初出場を果たした美空ひばりと1955(昭和30)年、東宝映画「ジャンケン娘」に出演したことを契機に、「三人娘」として人気を博した。この3人の中で、美空は後に歌謡界の女王と呼ばれるように歌謡曲を得意としたが、ジャズを唄っても1級である。残念ながら、フランク永井の歌うデビュー曲の「恋人よ我に帰れ」を聞いたことが無いが、美空ひばりが1982(昭和57)年、36才の時歌ったものが、以下で聞ける。
YouTube -美空ひばり 「恋人よ我に帰れ - Lover, come back to me」
http://www.youtube.com/watch?v=TqW7sDmTHM0
いや!のりのりのすごい迫力だよね~。
フランク永井は、ジャズを得意としたが、ジャズではヒットに恵まれず、先輩歌手であるディック・ミネの勧めや、作曲家・吉田正との出会いを期に歌謡曲に転向。1957(昭和32)年、そごう百貨店の東京・有楽町進出のためのキャンペーンソング「有楽町で逢いましょう」(伯孝夫 作詞、吉田 正 作曲)を歌いこれが大ヒットした。この年には、他にも「東京午前三時」や「夜霧の第二国道」などの良い曲を歌っているが、彼を一躍トップ・スターの座に着かせたのはこの「有楽町で逢いましょう」だ。
♪あなたを待てば 雨が降る 濡れて来ぬかと 気にかかる
 ああ ビルのほとりの ティー・ルーム 
 雨も愛しや 唄ってる 甘いブルース
 あなたと私の合言葉 有楽町で逢いましょう
戦後の混乱期には街娼が集まるような場所でもあった有楽町は、1950年代前半当時は、まだまだ闇市の面影の残っていたが、続々と映画館なども誕生し、現在ほど活気が無かったものの、人通りは徐々に増え続けていた。1957(昭和32)年、讀賣新聞が経営する讀賣会館竣工し、そのテナントとして、大阪・心斎橋の老舗百貨店そごうが東京店(そごう有楽町店は2000年に閉店。現在のビックカメラ有楽町店に位置する場所にあった)開店に先だち、各種マスメディアとのタイアップも行って「有楽町高級化キャンペーン」を展開を行った。提携した日本テレビからはそごう一社提供による新音楽番組「有楽町で逢いましょう」が同年4月に放送開始された。又、そごうの東京進出に一役買っていた大映映画が、キャンペーンのための映画「有楽町で逢いましょう」(goo 映画参照)を京マチ子主演で製作。その主題歌を歌う歌手にビクターのフランク永井が選ばれれたのだ。映画も歌もヒットし、「有楽町で逢いましょう」の言葉は当時の流行語ともなり、有楽町の名が全国に広まった。
思い起こせば、昭和30年代の後半。私は青春時代の一時期を5年ほど東京で過ごしたことがある。初めて、有楽町に行ったときは、ああ、ここがあの有名な「有楽町で逢いましょう」の場所かと感動した。その当時の有楽町の日劇(1981年再開発により解体。跡地には有楽町センタービル【有楽町マリオン】が建てられている)前は、デイトスポットとして有名であり、東京に慣れていない私を会社の仲間が誘ってくれて、このビルの前へ、彼女探しに連れて行ってくれた。いつも大勢の若い女性が、ビルの前にたむろしていた。誘ってくれた当時の悪友が言った。「5人誘って誰も付いてこなければ男じゃないよ」・・・っと。言われた私は男であることを証明できた。・・この曲は私にとっても青春時代の懐かしい思い出の曲である。
「ABC XYZ これは俺らの口癖さ 今夜も刺激が欲しくって・・・・」
翌1958年(昭和33)年の「西銀座駅前」。これも、佐伯が作詞.し、吉田が作曲 した曲だ。フランク永井の「低音の魅力」が最高に生かされている曲と言って良いかもしれない。
「なんで泣きはる 泣いてはる・・・」
同年の曲に大阪弁で歌った「こいさんのラブ・コール」がある。この曲は、それまで東京を歌った曲で人気を博していたフランク永井が初めて 歌った大阪ものの曲であるが、当時まだ珍しかった大阪弁の歌をつくろうと、大阪朝日放送のラジオ番組「ABCホームソング」の企画で生まれたもの。作詞は石浜恒夫(アイ・ジョージの「硝子のジョニー」、フランク永井の「大阪ろまん」などがある)、作曲をしたのは大野正雄(大阪堺市の人らしいが詳しくは知らない)である。このコンビで、同じ大阪を舞台にしたヒット曲「大阪ぐらし.」(1964年、作詞:石浜恒夫、作曲:大野正雄)がある。これもフランク永井の大阪ものの代表曲であるが、他にも「俺は淋しいんだ」(1958年、作詩:佐伯孝夫 作曲:渡久地政信)、「大阪ろまん」 (1966年、作詞:石浜恒夫 作曲:吉田正)など、大 阪ものも多く歌いヒットさせてる。
先ずは「こいさんのラブ・コール」以下で聞いてみてください。甘くソフトな低音で歌う大阪物は東京物とはまた違った独特の味があり、こんな歌フランク永井でないと歌えないのじゃ~ないかな~。こん味のある大阪ものの歌が流行っていた当時の大阪が、非常に懐かしく思い出される。この頃は、商都大阪がまだまだ元気だったよ。私はこの当時は、大阪船場の商社で働いていることに誇りを持っていた。ここにアクセスすると、「大阪ろまん」も聞けるよ。
YouTube - こいさんのラブ・コール フランク永井
http://www.youtube.com/watch?v=Fr3Tkcnw458&feature=related
この後次々とヒットを飛ばすが、他にも、私の大好きな曲がたくさんあるが、「夜霧に消えたチャコ」(1959年)、自ら見出した松尾和子とのデュエット曲「東京ナイト・クラブ」(1959年)これなど、今でもデュエットの定番としてカラオケバーなどで歌い継がれている。「東京カチート」(1960年)、中でも、「君恋し」(1981年、作詞:時雨音羽、作曲:佐々紅華)がすばらしが、これは、もともと1929(昭和4)年に、浅草オペラの人気歌手・二村定一が歌って大ヒットした同名の曲を、昭和30年代に訪れた リバイバルブームに乗り1961年(昭和36年)に、寺岡真三によってリズミカルなジャズ風にアレンジされたもの。この年の第3回レコード大賞グランプリを獲得している。
「宵(よい)やみせまれば 悩みは果(はて)なし・・・」
この歌はフランク永井自身幼少期に愛唱歌にしていたというが、もともとはどんな曲だったのだろう。何でも、二村定一版には、3番もあったらしいが、それが省かれたようだ(詳しくは以下参考の※:「君恋し: 二木紘三のうた物語」参照)。
この歌について1975(昭和50)年1月5日「ビッグショー」での藤山一郎とフランク永井の対談とこの二人の歌の競演が以下で見られるよ。藤山は非常に歌の上手い歌手ではあるが、この歌にに関してはやっぱり、フランク永井の方が良いよ。
対談:君恋し
http://www.youtube.com/watch?v=etVBKBczd6I&feature=related
このあと、「霧子のタンゴ」(1962年)も良かったが、その翌1963(昭和38年)年「 赤ちゃんは王様だ 」が他の曲と変わっていて面白い歌だ。
「赤ちゃんは王様だ  裸の王様だ 笑ったら王様だ 泣いていたって王様だ・・」
作詞:赤山勇、 作曲:三木鶏郎によるものだが、作詞家の赤山勇については良く知らない。作曲家の三木鶏郎は、昭和前期から平成前期まで作詞家、作曲家、放送作家、構成作家、演出家として大活躍し、1951(昭和26)年、日本で初めてコマーシャルソング(小西六写真工業【現コニカミノルタ】「僕はアマチュア・カメラマン」歌:灰田勝彦。ラジオ) をつくった人で知られている。兎に角面白い歌だ。このときレコード大賞 は、「こんにちは赤ちゃん」(作詩:永 六輔、作曲及び編曲:中村八大)を歌った歌手:梓みちよとなったが、最優秀歌唱賞を獲得している。兎に角、コミカルで面白い曲だ。以下で聞ける(歌詞つき)。
赤ちゃんは王様だ
http://xpp.sakura.ne.jp/mutual/fest/song/06002.php
又、ついでだから、日本初コマーシャルソングも以下でどうぞ。
YouTube - 僕はアマチュアカメラマン(歌:灰田勝彦)
http://www.youtube.com/watch?v=0P7wXjqC0_g&feature=related
この後、1967(昭和42)年に歌った「おまえに」(作詞:岩谷時子、作曲:吉田 正)が好きだ。
♪そばにいてくれる だけでいい
 だまっていても いいんだよ
 ぼくのほころび 縫えるのは
 おなじ心の 傷をもつ
 おまえのほかに 誰もない
 そばにいてくれる だけでいい
この曲は実にしっとりとした良い歌だ。Wikipediaによれば、作曲家の吉田正が自らの人生を陰で支え続けた夫人に対する感謝の念を込めて作った作品であり、吉田夫妻と親交のある岩谷時子が“おしどり夫婦”である同夫妻の仲睦まじさをイメージして作詞した、とも言われているそうだ。元は「大阪ろまん」(1966年)のB面曲だったそうだが、。1972(昭和47)年にシングルA面曲として発売して以降有線放送などを通じて徐々に広がり、5年後くらいに爆発的ヒットをした。本当に、夫婦というものは歳をとればとるほどに、この歌のように夫又妻が何も言わなくて良いからただ、じっとそばにいてくれるだけで良いよね~。こんな歌が、本当に実感として分るような年代に私もなってきた・・・・。
YouTube -おまえに
http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=5M9P2RcA3Uk
兎に角、その歌唱力は素晴らしく、NHK紅白歌合戦の常連出場者でもあり、1957(昭和32)年の第8回から1982(昭和57)年の第33回まで連続26回出場し、現役出場時は、島倉千代子と並んで最多出場者の記録を持っていた。私の最も好きな男性歌手の1人であり、好きな曲を書き出すときりがないが、そんな彼が、突然、自宅で自殺を図るという事件が起きた。
1985(昭和60)年)のことである。上記に書いたような曲以降ヒット曲が減り、1983(昭和58)年以降紅白にも出なくなり、テレビなどで姿を見る機会が少なくはなったが、1983(昭和58)年の紅白落選の前の年には、山下達郎作詞・作曲の『Woman』が話題を呼んでいたので、まだまだ頑張れると思っていたのにショックであった。
何とか一命は取りとめたものの脳に障害が残り、会話が不自由となったほか、記憶が乏しくなるなどの後遺症を患ったようで、その後、リハビリにつとめていたようだが、歌手活動を再開するには至らなかった。昨:2008(平成20)年の今日・10月27日、東京の自宅で肺炎のため76歳で亡くなったことがマスコミで報道されたのは11月に入ってからのことであった(2008年11月2日日刊スポーツ 「フランク永井さん死去、国民的歌手逝った」参照)。国民的歌手になりながら、どうも、「おまえに」の歌と同じ様に、最期まで愛妻にずっとそばにいて見取ってもらえなかったようであり哀れである。
最後の話題曲となった山下達郎作詞・作曲「Woman」なかなかいい曲である。今日は、この歌を聴きながら、大好きであった彼を偲びたい。
YouTube - 追悼 =Image-Video= WOMAN
http://www.youtube.com/watch?v=mu7XjMh8c-4
他以下のようなものがおすすめ。
フランク永井名曲選①東京ナイトクラブ~君恋し~有楽町で逢いましょう~夜霧の第二国 道
http://www.youtube.com/watch?v=ozxKvD9Niko&feature=related
フランク永井名曲選②映像、電波露出の少なかったヒット曲・東京カチート~西銀座駅前~大阪野郎
http://www.youtube.com/watch?v=pLWed56O9Hg&feature=related
霧子のタンゴ フランク永井
http://www.youtube.com/watch?v=JUKpqDf_K3Q&feature=related
大阪ろまん
http://www.youtube.com/watch?v=u29VcL7Sg0M
大阪ぐらし1980
http://www.youtube.com/watch?v=D79H0SOonIo&feature=related

(画像は、舞台で歌うフランク永井、1963年、大阪市フェスティバルホール。2008・11・3朝日新聞より)
参考:
※:日本のジャズ・ポップス歌手達
http://f57.aaa.livedoor.jp/~maika/Japan_jazzplayer.htm
フランク永井 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF%E6%B0%B8%E4%BA%95
美空ひばり-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E7%A9%BA%E3%81%B2%E3%81%B0%E3%82%8A
フランク永井 - goo 音楽
http://music.goo.ne.jp/artist/ARTLISD1146480/
lover come back to me
http://homepage2.nifty.com/akijazzy/jazz/songs/jazz5lm/lovercom.html
※:『坂の上の雲』と脱イデオロギー - 郎女迷々日録 幕末東西
http://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/de7da52bbf5a2e4d1a35f005fdd125fd
※:君恋し: 二木紘三のうた物語
http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/10/post_373e.html
三木鶏郎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9C%A8%E9%B6%8F%E9%83%8E

明治神宮外苑競技場が竣工した

2009-10-25 | 歴史
1924(大正13)年10月25日、明治神宮外苑競技場が竣工した。
明治神宮外苑競技場とは明治神宮外苑内に1924(大正13)年から1956(昭和31)年まで存在した陸上競技場のことである。
明治神宮外苑は、代々木にある明治神宮(内苑。明治天皇昭憲皇太后を祭神として祀る神社)とは別に、やはり、明治天皇とその皇后の遺徳を永く後世に伝えることを目的に、1914(大正3)年、明治神宮奉賛会創立準備委員会が結成され、全国国民からの寄付金と献木、青年団による勤労奉仕などにより、聖徳記念絵画館を中心に、体力の向上や心身の鍛錬の場、また文化芸術の普及の拠点として、憲法記念館(現:明治記念館)などの記念建造物と、ともに陸上競技場の他、野球場(現:神宮球場)、相撲場、プールなどのスポーツ施設が旧・青山練兵場跡に造成され、1926(大正15)年10月、明治神宮に奉献されている。
旧・青山練兵場は、1886(明治19)年に近衛師団第一師団に所属する部隊の教練場として作られたものであり、明治天皇大喪儀の葬場殿の儀はここで挙行された。明治時代から大正、昭和前期まで日本のスポーツは国内的にも国際的にも花開いた時代であった。スポーツ(英: sport)とは、古フランス語のdesport「気晴らしをする、遊ぶ、楽しむ」を経て現在のsportに至ったと考えられているようだが、その原義の意味するものは時代とともに変化している。
日本では、明治以降、欧米諸国から取り入れられた近代スポーツが、時代と共に徐々に広がる中、第2次世界大戦へと突入していく悲しい時代背景の中で、時代に翻弄されていく「悲しいスポーツ」の時代に入っていった。
講道館の創始者でもあり、1893(明治26)年より、東京高等師範学校(現:筑波大学)校長を務めていた嘉納治五郎を中心とする、体育関係者との協議のもと、1911(明治44)年に大日本体育協会(現:日本体育協会)が創設された。
大日本体育協会創立の趣旨については、嘉納の体育(スポーツ)振興に対する熱い思いが、自ら表明した「日本体育協会の創立とストックホルムオリンピック大会予選会開催に関する趣意書」の中に明記されている。以下参考に記載の※:「財団法人日本体育協会」ホームページの日本体育協会創立と変遷 ”を参照。
1912(明治45)年5月5日から開催されたストックホルムオリンピックは、初めて日本が参加したオリンピックであった。このストックホルム五輪に嘉納は、団長として参加している。
しかし、陸上競技で短距離の三島弥彦とマラソンの金栗四三の2名が出場したが、三島は400メートルの準決勝で棄権、金栗は10000mを棄権してマラソンに出場するが、レース途中で日射病で意識を失って倒れ、近くの農家で介抱される。その農家で目を覚ましたのは、既に競技も終わった翌日の朝であったという。そして、記録的には、世界一遅いマラソン記録を残している(経緯はストックホルムオリンピックのエピソードのところを参照)。
1916(大正5)年、嘉納らにより、競技場の建設計画が決定され、1919(大正8)年、明治神宮奉賛会の計画承認を得て、1922(大正11)年、定礎(そせき)。1923(大正12)年関東大震災により一時工事は中止されるも、翌年再開し、当時で総工費100余万円を投じた明治神宮外苑競技場が1924(大正13)年10月25日、完成。その日、開場式が行われ、テープカットのあと、市内小学生が走り初めをした。冒頭の画像左は、その場面である(朝日クロニクル「週刊20世紀」より)。
そして、10月30日から第1回明治神宮競技大会が内務省の主催で開催された。
明治神宮外苑のホームページを見ると、第1回明治神宮競技大会の内容が見れたのでそれを記すと、競技としては、・バスケットボール・ヴァレーボール・ア式フットボール・ラ式フットボール・ホッケー・陸上競技(以上神宮外苑競技場)・テニス(帝大コート)・野球(早大グラウンド)・水上競技(芝公園プール)・ボートレース(吾妻・白髪橋間)・柔道(神宮外苑道場)・相撲(神宮外苑相撲場)・剣道・弓道(神宮内苑道場)・馬術(代々木練兵場)となっており、”野球・水上競技及び神宮外苑競技場競技の他入場無料”・・と注釈されている。当時は、サッカーをア式フットボール(アソシエーションフットボール)、ラグビーをラ式フットボール(ラグビー・フットボール )と言っていた。当時流行っていたスポーツが何かがよくわかる。又、当時相撲には素人のみが参加していのは当然であろう。
当時の「明治神宮競技大会」は、明治神宮外苑競技場を主会場として、毎年、又、1年おきに開かれた総合競技会であり、1924(大正13)年から1943(昭和18)年にかけ14回にわたって行われた。
嘉納らのスポーツへの熱い思いからスポーツへの関心が高まり、夏季五輪では、1920(大正9)年、アントワープ大会で、庭球シングルスで熊谷一弥が、ダブルスで熊谷一弥、柏尾誠一郎組がともに銀メダル。1924(大正13)年パリ大会では、レスリング男子フリースタイルフェザー級 で内藤克俊が銅メダル。そして、1928(昭和3)年アムステルダム大会では、織田幹雄が三段跳びで、鶴田義行が競泳男子200m平泳ぎで優勝。日本人待望の金メダル初獲得がなった。それ以外に、人見絹枝が 陸上競技女子800m で、 競泳男子800mリレー で日本 チームがそれぞれ銀メダルを、競泳男子100m自由形 では、高石勝男が銅メダルを獲得するなど輝かしい成績を残している。そして、次の1932(昭和7)年のロサンゼルスオリンピック大会では、鶴田義行が競泳男子200m平泳ぎで2年連続優勝。南部忠平が、三段跳で、宮崎康二が競泳男子100m自由形で、北村久寿雄が競泳男子1500m自由形で、日本チームが競泳男子4×200mリレーで、西竹一が馬術障害飛越個人で優勝するなど金メダルだけで7個を、銀メダルを7個、銅メダル4個と際立った活躍をしている。1936(昭和11)年のベルリンオリンピック大会でも、金6個、銀4個、銅10個と活躍し、メダル20個を獲得。中でも水泳人が大活躍した。
そして、1928(昭和3)年スイスのサンモリッツで行なわれた冬季大会にも日本は初参加している。
日本が、最初に東京でのオリンピック招致を目指したのは1940(昭和15)年大会であった。1929(昭和4)年に来日した国際陸上競技連盟会長ジークフリード・エドストレーム(後のIOC会長)と日本学生競技連盟会長の山本忠興が会談した際、東京でのオリンピック開催可否が話題になったのがきっかけである。この話が東京市当局や当時の永田秀次郎東京市長にも伝わり、1931(昭和6)年10月28日、東京市議会で「国際オリンピック競技大会開催に関する建議」が満場一致で採択された。主会場には、駒沢村に計画の競技場群、および神宮外苑を充てるとした。そして、「第12回国際オリンピック競技大会」開催候補地として正式に東京が立候補。「1940年大会」の開催地を決定する1935(昭和10)年のIOCオスロ総会での対立候補はローマ(イタリア)、とヘルシンキ(フィンランド)であったが、ローマがその後撤退。7月31日の投票の際の嘉納の熱き演説が功を奏し、翌・1936(昭和11)年8月31日 ベルリン五輪に合わせて開催されたIOC総会で東京に決定。日本初のみならず、アジア初、有色人種国家としても初のオリンピック招致に成功した。これをうけて、12月に文部省の斡旋で東京市、大日本体育会などを中心として「第12回オリンピック東京大会組織委員会」が成立し、本格的な準備に着手した。しかし、オリンピック招致に貢献した嘉納は東京五輪を2年後に控えた、1938(昭和13)年、カイロ(エジプト)で開かれたIOC総会の帰国途上の5月4日(横浜到着の2日前)、氷川丸の船内で肺炎により急死した(77歳没)。この嘉納の突然の死から2カ月後、日本政府は日中戦争の拡大を理由に東京五輪開催を返上。「1940年夏季五輪」はヘルシンキに変更されたが、後に大会そのものが中止とされた。オリンピック開催ができなかったため1940年には明治神宮外苑競技場にて、「紀元二千六百年奉祝東亜競技大会」が開催されている(東京オリンピック及び「紀元二千六百年奉祝東亜競技大会」が開催については、以下参考の※:「『写真週報』 にみる昭和の世相」の中にある”幻の東京オリンピック”の<ここを参照)。
このような日中戦争が拡大し第2次世界大戦への軍靴(ぐんか)の響きが忍び寄る中で、軍部(特に陸軍)がその政治的影響力をますます増大しつつあり、1936(昭和11)年に復活した軍部大臣現役武官制に見られるように、国務を輔弼(ほひつ)する内閣に対して統帥権を補弼する軍部が、実質的にその存続をも左右するようになり、厚生省の設立においても軍部の意向が強く反映された。そして、徴兵検査における筋骨薄弱者や結核患者の増加を憂慮した陸軍の提案で、政府は、内務省から分離する形で1938(昭和13)年に、厚生省・体力局を設置させた。こうして、軍部・官僚一体の国民統合政策に、国民全体を対象とした「修練」や「錬成」といった精神的な総動員体制とが強力に結び付いた。
そして、「明治神宮競技大会」は、第1回~第2回は内務省、第3回~第9回は明治神宮体育会の主催となっていたものが、1939(昭和14)年・第10回大会~第13回大会からは、厚生省・体力局の所管となり、大会の名称も「明治神宮国民体育大会」と改称されるが、1942(昭和17)年には、第13回神宮国民体育大会を明治神宮国民錬成大会と改称。大日本体育協会も大日本体育会と改称し、内閣総理大臣・東条英機が会長となる。又、大日本体育協会加盟競技団体は解消され、運動部会を組織(日本陸上競技連盟は陸上戦技部会となり包含される)、陸上競技の競技種目も戦力増強に役立つものに変更され、伝令競技、突撃競技などの国防競技も取り入るようになった(第14回は地方予選のみ)。
このようにして時代に翻弄されていく、スポーツは本来の目的よりも、国民全体を対象に、精神的な面に重きを置いた鍛錬(体力・精神力・能力などをきたえて強くすること)による国家総動員体制と強力に結び付いくことになり、国民は「望むと望まざるとにかかわらず、国民として体育をしなければならない」 状況に置かれていた。ここから、戦後暫くまで日本におけるスポーツとは、楽しむものではなく肉体と忍耐と精神力を鍛えるための運動となっていった。厚生省・体力局の設立と戦時期体育行政における集権統治のことは、以下参考に記載の※:「第6章日本戦時期体育行政における集権統治型ネットワークの原型(PDF)」に詳しく書かれている。
明治神宮外苑競技場は、第2次世界大戦中には学徒出陣の壮行会の舞台となり、戦後は駐留軍に接収され、「ナイルキニック・スタジアム」と名をかえて使用されていたが、1952(昭和27)年 接収解除。明治神宮が神宮外苑とあわせ宗教法人となる。
1958(昭和33)年の第3回アジア競技大会東京オリンピック開催(1964年開催)が決定たことから、現在の国立霞ヶ丘陸上競技場に建て替えることが決まり、同競技場は、1956(昭和31)年、国に譲渡され明治神宮外苑競技場は解体された。
(冒頭の画像左:、明治神宮外苑競技場が完成した10月25日、開場式が行われ、テープカットのあと、市内小学生が走り初めをした場面朝日クロニクル「週刊20世紀」より。画像右:1941年第12回明治神宮大会の参加メダル原型「手榴弾投げ競技」、セトモノ製・スポーツ博物館より)

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クリック ⇒ 明治神宮外苑競技場が竣工した日:参考

明治神宮外苑競技場が竣工した:参考

2009-10-25 | 歴史
参考:
※:財団法人日本体育協会
http://www.japan-sports.or.jp/jasa100th/index.html
※:スポーツ博物館
http://www.naash.go.jp/muse/index.html
※:『写真週報』 にみる昭和の世相_
<http://www.jacar.go.jp/shuhou/
※:第6章日本戦時期体育行政における集権統治型ネットワークの原型(PDF)
http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/339/11/Honbun-09-6sho.pdf#search='厚生省体力局'
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E5%A4%96%E8%8B%91%E7%AB%B6%E6%8A%80%E5%A0%B4財団法人日本オリンピック委員会公式ページ
http://www.joc.or.jp/
明治神宮外苑
http://www.meijijingugaien.jp/
フットボール - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB
東京オリンピック - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E4%BA%94%E8%BC%AA
軍部大臣現役武官制
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E9%83%A8%E5%A4%A7%E8%87%A3%E7%8F%BE%E5%BD%B9%E6%AD%A6%E5%AE%98%E5%88%B6
明治神宮外苑競技場 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E5%A4%96%E8%8B%91%E7%AB%B6%E6%8A%80%E5%A0%B4国民体育大会 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E4%BD%93%E8%82%B2%E5%A4%A7%E4%BC%9A
国民体育大会-Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E4%BD%93%E8%82%B2%E5%A4%A7%E4%BC%9A/
国立公園等にかかる主要な行政動向等に関する年表(PDF)
http://www.env.go.jp/nature/ari_kata/shiryou/021204_7.pdf#search='厚生省体力局'

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昭和の三大喜劇人として知られた落語家、タレント・柳家金語楼

2009-10-22 | 人物
今日・10月22日は、エノケンロッパとともに昭和の三大喜劇人として知られた落語家、タレント・柳家金語楼(やなぎや きんごろう) の1972(昭和47)年の忌日。
戦前は落語家として活躍していたようだが、私などの年代では、戦後テレビ・映画でタレントとして活躍していたときのこと以外の落語家時代のことは余りよく知らない。私の蔵書・朝日クロニクル「週刊20世紀」に記載されていることなどによると、柳家金語楼(本名:山下敬太郎)は、(1901(明治34)年2月28日、東京・芝の生まれで、父親の稲太郎が2代目三遊亭金馬門下の金勝という落語家だったことから6歳の時に入門し、三遊亭金登喜(きんとき)の芸名で寄席の初高座(Yahoo!百科事典参照)に上り、子供なので落語はやらず、ごく短い小噺(短くおもしろい話。ちょっとした気の利いた話など)と踊り、お盆を回す曲芸などを見せ人気を博したという。ただ、この2代目三遊亭金馬の演芸団(三遊亭金馬一座)は落語家のみの一座というわけでなく、芸を売るというより見世物小屋としての色彩が強かったという。
1913(大正2)年に小金馬と改名し、その後、3代目柳家小さん門下に移って、1920(大正9)年6月真打昇進を機に柳家金三と改名。このころから自作の新作落語を演じるようになったようだ。翌1921(大正10)年、徴兵検査に合格して、朝鮮羅南73連隊に入隊(このことについて、Wikipediaでは、朝鮮龍山に駐屯の第20師団歩兵第72連隊に入隊とある)。入隊後まもなく紫斑病(以下参考の※:紫斑病参照)に侵され頭髪が抜け落ちた(Wikipedia)又、熱病に冒され投薬過多の副作用のため頭髪が抜け落ちた(朝日クロニクル「週刊0世紀」)とも言われているが、金語楼本人は後者だと考えていたようだ。いずれにしても後年、この禿げ上がった頭をトレードマークとするようになる。翌1921(大正10)年に軍縮に伴ない除隊すると、軍隊時代の体験をもとに「金語楼の兵隊」という新作落語を作って演じると大当たりして、 “兵隊落語”と言われ寄席での売り物になる。
1923(大正12)年、柳家三語楼の門下に移り、翌1924(大正13)年柳家金語楼を名乗るようになる。1925 (大正14)年東京放送局(日本放送協会:NHK)が開局し、ラジオ放送が開始されるとその翌・1925(大正14)年、落語「噺家の兵隊」をレコードに吹き込んだが、後になって軍隊の士気を損なうとして発売禁止になったという。(現在、当時の金語楼の兵隊ものSPレコードが古物市の相当出回っている由)
又、彼は有崎勉のペンネームで、「バスガール」「アドバルーン」「ラー、メン屋」などの新作落語を次々と発表するが、有崎勉のペンネームは、当時就職難のおりから「勤め先有り」を逆に読だものとか。
1929(昭和4)年度の朝日クロニクル「週刊20世紀」には、以下のような記事が載っていた。
“滅びゆく芸術といわれて、影が薄いのが高座芸術だが、落語界の新人「兵隊さん」の金語楼は頭を絞って大きな改革を試みている。その1つの高座の上がり下り楽屋でジャズを奏でて近代的な空気を出そうと考え、資材を投じてピアノ・バイオリン・シロホン(打楽器の一種)を買い入れ専門家を雇った。この落語ジャズの楽器には、太鼓・尺八・笛などまであり、コンダクターは金五郎自身。3月21日から上野鈴本亭で発表することになった。金語楼は、「兎に角、なんとかしなくちゃいけません。滅びゆく落語を滅ぼすまいとして、苦心した金語楼という落語家があった・・なんてことになりそうですな」とはなしている。(3月20日東京朝日新聞)・・・と。
1914(大正3)年に第一次世界大戦が勃発したが、日本は地理的条件にも恵まれ、ほとんど参戦することなく経済的には好況を迎えていたが、1923(大正12)年の関東大震災による帝都(東京)の壊滅も重なり、大正末期から昭和初期にかけては大戦後の反動的不況が深刻化していたので、落語家が高座に上って落語を語るだけで飯を食べてゆくのは大変なことだったことは推測できる。それだけに、できる限りの努力をしたのだろう。1928(昭和3)年 曾我廼家五九郎に勧められ、五九郎劇『二等兵』に出演したというが、これも落語だけでは食べて行けなかったからだろう。
金語楼は、落語をするのに、話芸だけではなく、今まで、禿頭を売り物にしていたが、それに加えて、顔面の筋肉を動かして面白い顔を見せる「顔芸」で観客を大いに喜ばせた。笑いがとれる表情を作るため毎日 鏡を覗き込み、鏡と向き合う時間は高座に出る時間より長かったという。
「一つひとりでハゲてくる、二つ不思議にハゲてくる、三つみるみるハゲてくる、四つ横からハゲてくる、五ついつでもハゲてくる、六つむこうからハゲてくる、七つ泣いてもハゲてくる、八つやっぱりハゲてくる、九つこんなにハゲてきて、十でとうとうハゲちゃびん。」
以下参考に記載の※:「私の作文集・田川二郎:八つやっぱりハゲてくる…」によると、この禿の数え歌は自らの出し物の始めに必ず披露した歌だそうである。薄い頭の彼が恨めしげに、あるいは悲しげに数え上げる禿げ歌は、視聴者の爆笑をかった。しかし、頭と顔だけで人を笑わすとの批判もあったが、寄席高座での噺(はなし)芸も高い域を行くもので、絶妙な間のはずしかたとしわがれ声に、思わず客は引き込まれたものであり、噺家としても超一流であったと評価されている。
1930(昭和5)年、6代目春風亭柳橋と日本芸術協会(現在の落語芸術協会)を設立、副会長に就任する。
大阪の吉本興業が大正 末期より、東京・横浜への進出を開始、東京吉本は伝統的演芸路線を取る大阪吉本と異なり、徹底したモダン・ハイカラ路線を打ち出していた。1933年(昭和8年)には、吉本の社内に映画部も設立し、1935(昭和10)年には、映画会社 東宝 の前身の一つである ピー・シー・エル映画製作所 (PCL)と、さらに翌年 東宝映画配給 と提携し映画製作を手がけ、吉本所属の喜劇人の映画が、続々と東宝から封切られることになったようだが、金語楼主演の「俺は水兵」(1935年、J.O、スタジオ、永富映次郎)なども作られており、この頃には、東京吉本の専属になっていたのだろう。このとき、主題歌としてうたった「金語楼の水兵」(海野啓一 詩・山野幸子 曲。コロムビア )レコードも売られたようであり、どんな歌か聞けたら聞いてみたいものだ。
1937(昭和 12)年日中戦争が開始すると次第に、演芸に対する当局の検閲が厳しくなる。1938昭和 13)年金語楼は、大阪の吉本興業に所属し、国策に協力することで、戦時下を乗り切ろうとした吉本と大阪朝日新聞主催が結成した「わらわし隊」という戦地慰問団に参加した。その後、吉本が制作したの「プロペラ親爺」(1939年東宝東京、監督:氷室徹平)のような国策に沿った喜劇映画にも出ていたが、吉本興業の専属になったこともあって1940(昭和15)年に金語楼劇団を結成。喜劇俳優に転向。当時、噺家などの遊芸人は,所轄の警察署や分署に鑑札を申請することになっており、それが、煩わしいからだろう、1942(昭和17)年には、警視庁に落語家の鑑札を返上し、噺家業を廃業している。
そして、戦後は舞台を離れ、コメディアンとして映画・テレビに進出。映画では貴重な脇役として活躍する一方、特にテレビでは、1953(昭和28)年、NHK開局と同時に始まった「ジェスチャー」、マンガをドラマ化した「おトラさん」など多数の番組に出演。初期テレビ界の寵児となったが、私が知っているのも、この戦後の映画やテレビからである。
NHKの「ジェスチャー」は、金語楼率いる白組(男性陣)と水の江滝子率いる紅組(女性陣)に分かれ、視聴者が応募した問題を解答者がジェスチャーのみで表し、それを時間内に当てていくクイズ形式のゲームで茶の間の大人気を博した。巧妙な司会を務めた小川宏アナウンサーも番組の顔であった。兎に角、金語楼の顔の表情の豊かさ、大きな体の動き、かれのオーバー気味の演技に抱腹絶倒させられたものだ。以下で、その1部演技が見られる。
YouTubeNHK ジェスチャー
http://www.youtube.com/watch?v=C4j2CA32t7w&hl=ja
この番組の放送開始から、年末の忘年会他宴会では、ジェスチャーゲームが大流行となった。
又、1956(昭和31)年 から始まったラジオ東京テレビ(現:TBS)の「おトラさん」は、勤続20年のベテラン女中おトラさんの大活躍をテンポのいい演出で見せてくれた。原作は西川辰美が1954(昭和29)年から1955(昭和30)年まで読売新聞で連載していた4コマ漫画を、金語楼が有崎勉のペンネームでドラマ化したもの。
おトラさんは、奥様の馬子が日野江家に嫁いだ時に一緒にやってきたお手伝い(女中)さんで、身体の弱かった奥様に代わって何もかも一人で切り回す日野江家の主のような存在。子どものトリ江やタツオは実の親のように慕い、御主人の牛三もおトラさんには頭があがらない。お豆やおヤエといった近所の女中仲間のリーダー格でもある。日常的な話題をコミカルに描いただけのものだが、明るい笑いが人気を呼んだ。一家の主牛三演じる有島一郎のとぼけた演技も見所だった。テレビと同じメンバーで同名で映画化(以下参考の※:柳家金語楼 - goo 映画参照)もされ、これも大ヒット。シリーズ化され東宝で6本作られた(冒頭の画像は映画『おトラさん』ポスター)。
女性にもて、複数の愛人との間に生まれた子供の数も多いそうだが、知られているところでは、作家・演出家の嫡男:山下武、その異母弟に、平尾昌晃ミッキー・カーチスと共に「ロカビリー三人男」と呼ばれ一世を風靡した山下敬二郎、その妹に女優・声優の有崎由見子がいる。
思い出せば、私が結婚をして、新婚旅行で、大阪伊丹空港から宮崎へ飛ぶとき、新婚さんだからと、一番最初に飛行機の乗せてくれたが、その後続いて、登場し、私の席の真後ろに座っていたのが、金語楼であり、相当年の離れた若い綺麗な女性と一緒だった。その相手が、だれか?女房といろいろ想像を逞しくし話したものだ。
発明マニアであり、たくさんのアイデア商品の特許を有していることでも知られていた。たとえば宴会の余興用の手拭で表にチョン髷の絵、裏には日本髪の絵が描いてあり、鉢巻にして交互に絞(し)めると男女二役が演じられる。喜劇人らしいユーモアたっぷりの作品が多かった。私も、若い頃、東京の会社に5年ほどいたことがある(昭和30年代末~昭和40年代初め)。当時出来てそう年数も経っていない東京タワーにあった、テレビ東京で やっていた『アイデア買います』 という番組の公開放送を見るために何度か行った事がある。素人発明家のアイデアを審査して、良いものがあれば、業者がそのアイデアを買うといった番組で、当時人気番組であった。その影響で、新宿にあった発明協会に入り、独身で間借りしていた時代なので、仕事が終わって家へ帰っても誰も居らずつまらないので、物好きな同僚と暇な時は喫茶店でつまらぬものをああだこうだと考えて、特許庁でアイデアのものがすでに届け済みでないかを調べ、発明協会で特許の申請書の書き方を指導してもらって、3つほど申請したことがある。いずれも発明や特許と言う大それたものではなく、金語楼と同じくつまらないものの実用新案であったが、その当時で、年30万件以上もの申請があると協会の人から聞いた記憶がある。又、その時、つまらぬものの実用新案提出者の代表として金語楼の話を聞いたのも今、思い出した。奇抜なことが好きで自分の顔を商標登録したりもしたようだ。
1968(昭和43)年には榎本健一(エノケン)の後を受け、喜劇人協会の会長を4年間務めたが、1972(昭和47)年春、会長を森繁久弥に譲り、その半年後の10月22日71歳で亡くなった。
ただひたすら人を笑わせることに命を賭けた爆笑王・金語楼の、1965(昭和40)年録画の NHKの歌と歌との間での寸劇「弁慶と牛若丸」をあの藤順子他懐かしい面々の若い姿とともに以下でも見られる。
PodTube弁慶と牛若丸
http://podtu.be/s/Results.aspx?v=lzOZrzog6NQ
又、冒頭画像右は、「初代 柳家金語楼 落語名演集(一) 」(Amazonで取扱)であるが、参考に記載の※Amazon、「初代 柳家金語楼 落語名演集(一) 」で、落語のさわりが試聴できるよ。
(画像は、向かって左:映画『おトラさん』(1957年、東宝配給)ポスター。右:初代 柳家金語楼 落語名演集(一) 。Amazonで取扱)
参考はブログの字数制限上別紙となっています。以下をクリックしてください。
クリック ⇒ 昭和の三大喜劇人として知られた落語家、タレント・柳家金語楼:参考