今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

「NHK紅白歌合戦」

2005-12-31 | 行事
今日(12月31日)は「NHK紅白歌合戦」が行われる日。
日本人なら知らない人はいないほどメジャーな「NHK紅白歌合戦」であるが、この番組は、 一言で言えば、大みそかにその年を代表するアーティストが紅組と白組に分かれて対抗形式で歌や演奏を披露する音楽番組である。
この紅白歌合戦は、第二次世界大戦終結直後の1945(昭和20)年の大晦日(12月31日)に、平和になった証としての新時代にふさわしい大型音楽番組として企画され、「紅白音楽試合」というタイトルで放送された(ラジオ)。当時は「紅白歌合戦」の名で放送する予定だったが、GHQの反発のために音楽試合へと変更された。理由は、戦争を放棄した敗戦国が、”合戦” とは何ごとか・・・”ということのようだ。紅白のキャップテンは水之江滝子と古川緑波。
紅白の音楽試合ということから、歌以外の出場者も登場し、木琴、マンドリン、尺八による曲を披露した。また、童謡歌手、川田正子(かわだまさこ)の「汽車ポッポ」の中に「兵隊さん兵隊さん万々歳(バンバンザイ)」という歌詞があり、この音楽試合直前にGHQからクレームがつき現在の「鉄橋だ鉄橋だうれしいな」に変更させられた。
当初の題名は「兵隊さんの汽車」で、駅のホームで戦地に赴く兵隊さんを歓送する内容で以下のようだった。(1番)
汽車 汽車 ポッポ ポッポ
  シュッポ シュッポ シュッポッポ
  兵隊さんをのせて シュッポ シュッポ シュッポッポ
 
  ぼくらも手に手に 日の丸の
  旗を振り振り 送りましょう
  万歳 万歳 万歳
  兵隊さん 兵隊さん 万々歳

これが、後半の「ぼくらも手に手に 日の丸の・・」からを、以下のように書き直した。
 
 僕らをのせて シュッポ シュッポ シュッポッポ
 
スピード スピード 窓の外
 畑も とぶとぶ 家もとぶ
 走れ 走れ 走れ
 鉄橋だ 鉄橋だ たのしいな
川田正子は最年少出場者(11才)として、書きなおされた「汽車ポッポ」の曲を歌った。「紅白音楽試合」はGHQなどの指導により、3回で終了した。
復活したのは、1951(昭和26)年からである。タイトルも当初考えていた通りの「紅白歌合戦」の名前で、記念すべき第1回は、正月(1月3日)夜8時から1時間放送された。司会は女性軍・加藤道子。男性軍・藤倉修一。トリは、女性軍・渡辺はま子。男性軍・藤山一郎であった。新趣向の番組は大成功で、中盤、近江敏郎が、「湯の町エレジー」を歌うころには、聴取者からの応援の電話が相次いだという。「紅白」は第3回までは、スタジオ番組として、正月用(第1回~2回は1月3日、第3回は1月2日)に放送されていた。1953(昭和28)年の第3回では、テレビでの実験放送が実施された。又、この同じ年の12月31日に第4回が放送され、テレビでの本格的な放送開始を機に、以降、大晦日の放送が定着した。だから、1953(昭和28)年は、正月(3回)と年末(4回)の2回放送されたことになる。 また、この第4回から会場に観客を入れての公開放送となり、現在に至っている。
毎年、テレビ視聴率が非常に高いことで知られていたが、近年では視聴率低下やアーティストの紅白辞退も増えてきた。1962年の第13回よりビデオリサーチによる調査が開始され、最高視聴率は1963年(第14回)の81.4%。最低視聴率は昨2004年(第55回)の39.3%となっている。昨年は、人気取りの為に、松平 健 マツケン・サンバまで登場させた。あの踊りサンバは南国の楽しいリズムであり、私も好きなリズムで、昔は良く踊ったものだ。それに、我が地元の神戸祭りのパレードでも、サンバはメーンの行進となっている。しかし、あの和服姿で厚化粧した松平 健が、にやけた顔で腰をくねくねさせて踊っている様は、丁度昔の旅役者が地方の舞台などで人気取りにやっていたものに他ならない。一部の熱烈なファンが芝居小屋へ見に行くなら、それもファンサービスでよいだろう。しかし、、聴取料と言う名の税金をとって、公共番組として全国放送するようなものではないと思うのだが・・・。NHKの公共性とはどんなものなのか?真面目に音楽をやっている人たちで、能力はあるのに、日の目を見ない人たちは色んな分野に沢山いる。単に、一部の層に人気のあるものを入れて、人気取りのための番組を作るのが、NHKのようなところの使命ではないだろうと思うのだが・・・。面白く、楽しい番組作りと人気取り番組を混同されては困る。私は、去年初めて、「紅白歌合戦」は見ずじまいだった。
兎に角、そのようなことから、今年は、色々な試みが行われてはいるようだ。その一つが、今年(2005)年の「第56回NHK 紅白歌合戦」から視聴者が番組に参加できる双方向機能を強化。紅・白組の勝ち負けを決める審査において、BS hi、および地上デジタル放送のデジタル総合で、デジタルテレビの双方向機能を利用した「デジタルTV審査員」を募集。さらに、全国1万人の視聴者が携帯電話を使って審査に参加できる「ケータイ審査員」システムの導入を実施するなどである。
又、今年は、これまでの総合司会、白組司会、紅組司会の役割分担を撤廃して、紅白別の司会者は設定せず、みのもんた、山根基世、仲間由紀恵、山本耕史の4人によるグループ司会で進行する方式に変更された。紅白では、毎回小林幸子(52)と美川憲一(59)の「衣装対決」も話題になっているが、今年の衣装のテーマは小林が「冬から春へ」、美川が「エレガント」と発表しているようだ。昨年は新潟地震などもあり二人とも、ド派手衣装は自粛していたようだが、小林は今年はド派手復活を宣言したという。一方の美川は空中浮遊などのサプライズ演出が多かったが「今年はエレガントにいくのだとか。紅白も一つのショーであり、派手なのも良い。しかし、何にでも、程々と言うものがある。今年は円安株高を背景に、景気も回復基調とか、一年の最後を、思いっきり楽しく過ごせればよいが、世の中、色んな災害にあって、苦しんでいる人も多く要る・・・。冗談が過ぎておふざけだけにはならないようにしてもらいたいものだ。
今年1年、ブログを見てくれた人に、心より、感謝をします。ありがとうございました。皆さんも、嫌なことは、今日で忘れて、いい年をお迎えてくださいね。
(画像は加藤道子さん。第1回紅白歌合戦では紅組の司会を務めた。朝日クロニカル・週刊20世紀より)
参考:
第56回 NHK紅白歌合戦
http://www3.nhk.or.jp/kouhaku/
NHK紅白歌合戦 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%85%E7%99%BD%E6%AD%8C%E5%90%88%E6%88%A6
Yahoo!ニュース - 紅白歌合戦
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/entertainment/kohaku/
シリーズ 日本のうた/『汽車ポッポ』 作詞:富原 薫 作曲:草川 信
http://www.mmjp.or.jp/MIYAJI/mts/nihonnnouta/kishapoppo.html
50・60年代・紅白歌合戦・昭和歌謡史 /1951(昭和26)年第1回紅白歌合戦
http://www5e.biglobe.ne.jp/~spkmas/sub16.html


「決闘罪ニ関スル件」(決闘処罰令)が公布 された日

2005-12-30 | 歴史
1889(明治22)年 の今日(12月30日)「決闘罪ニ関スル件」(決闘処罰令)が公布 された。決闘をした者は2年以上5年以下の懲役。立ち会い者なども罪になる。
決闘罪ニ関スル件(明治22年法律第34号)第三条には、以下のように記されている。 
「決闘ニ依テ人ヲ殺傷シタル者ハ刑法ノ各本条ニ照シテ処断ス」
決闘とは江戸時代のあだ討ちや果たし合いに見られるように、恨み・争いなどに決着をつけるため、両者(または両グループ)の合意の下、あらかじめ定めた方法で闘う(相互的殺傷行為)ことを言う。この法律は複数対複数の乱闘も取り締まることができ、また立会人、決闘場所の提供も罰している。ここでいう刑法とは1880(明治13)年太政官布告第36号のことで、1882(明治15)年に施行された旧・刑法である。決闘とは、江戸時代のあだ討ちや果たし合いに見られるように、恨み・争いなどに決着をつけるため、あらかじめ定めた方法で、生命を賭けて闘うこと、つまり、合意上の規則に従って行われる相互的殺傷行為(個人又はグループ)をいう。この法律の成立目的は諸説あるようであり、この時代になっても未だに江戸時代の「敵討ち」が横行しており、これを取り締まるためという説、また欧州文化でもあった貴族の決闘の慣習が蔓延するのを防ぐという説、また旧佐幕派と攘夷派、敵対関係があった旧藩の武士による決闘などが横行していたとする説などがあるらしい。いずれにしても、当時はまだ、決闘をしている人がいたのだろうね。 本来、決闘は被害者の同意に基づく殺傷行為であるが、決闘という風習が近代国家体制と矛盾することから、その伝播を危惧した明治政府は、これを犯罪として取り締まるため、刑法の特別法として「決闘罪ニ関スル件」(決闘法)を制定したものである。
この古い法律が現在も生きており、暴力団抗争や暴走族抗争の取り締まりに適用されているのだそうだ。
そういえば、今年の3月頃、中学生らがルールを決めて1対1で殴り合いをしたとして、警視庁より、決闘と傷害の疑いで逮捕され、決闘容疑で書類送検された話を聞いたように記憶する。長い間眠っていた「決闘罪」であるが、最近では、この法律の「決闘に関与したもの、全てを同罪とみなし、逮捕できる」つまり、この法律を適用すれば、殺害や傷害等が発生しなくても取り締まることができ、又、その場に居合わせたもの全てを取り締まることができる・・・というメリットに警察庁が着目したとも言えるのだろうね~。
最近の世の中は、モラルの低下が酷く、法律違反、社会ルールに反する行為をするものが、あふれている。又、昔は考えられなかったような悪質犯罪も日常茶飯事である。被害者の身内の人たちの心境を考えると、自分の手で裁いてやりたいと思っている人も多く要るのではないだろうか。近頃は、犯罪者の権利やプライバシーばかりが尊重されている。現行の刑法がまだ日本人に道徳観念のある古い時代につくられたものが多く、犯した犯罪に対する罪も軽すぎる感がある。悪質な犯罪者に対しては、被害者の身内のものなどは、腕に自信のある場合、希望によって、犯罪者との決闘によって制裁することが出来てもいいのではないかと思う時さえある。(勿論、被害者の身内が女性や老人など力のないものは、助っ人の協力を得ることも出来るし、そんなことしたくない人は、現行通り、司法の手に委ねればよい)・・・でも、そんなことは、平和主義者といわれる人達が、許すはずもないだろうが・・・。(>_<")
(画像は、昭和39年の内田吐夢監督の映画「宮本武蔵・一乗寺の決闘」ポスター。主演:中村錦之助監督。日本の映画100年・朝日グラフより)
参考:
決闘罪ニ関スル件(中野文庫)
http://www.geocities.jp/nakanolib/hou/hm22-34.htm
決闘罪ニ関スル件1889(明治22)年12月30日法律第34号
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/kettounikannsurukenn.htm
太政官布告・太政官達 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E6%94%BF%E5%AE%98%E5%B8%83%E5%91%8A

「 三木露風 (詩人『赤とんぼ』) 」の忌日

2005-12-29 | 人物
1964年の今日(12月29日)は「 三木露風 (詩人『赤とんぼ』) 」の忌日。[1889年6月23日生] <75歳>  
1 夕焼小焼の 赤とんぼ 負われて見たのは いつの日か
2 山の畑の 桑の実を 小かごに摘んだは まぼろしか
3 十五でねえやは 嫁にゆき お里のたよりも 絶えはてた
4 夕焼小焼の 赤とんぼ とまっているよ 竿の先
『赤とんぼ』(「真珠島」より)作詞:三木露風、作曲:山田耕筰
三木 露風(ろふう)と言えば、誰でも、この有名な『赤とんぼ』を思い出すだろう。彼は我が地元、兵庫県揖西郡龍野町(後の龍野市、現在のたつの市)出身の詩人である。戦前を代表する抒情派詩人の一人で、相馬御風、野口雨情らと早稲田詩社を結成。詩集『廃園』は北原白秋の『邪宗門』と並び称され、文学史上「白露時代」と呼ばれる一時代を築いた。本名は三木 操(みさお)。父の放蕩が原因で、母は彼が7歳の時に家を出ている。その後、祖父の家に引き取られ、お手伝いの姐やに養育されたという。小・中学生時代から詞や俳句・短歌を新聞や雑誌に寄稿、17歳で処女詩集を、20歳で代表作の「廃園」を出版するなど早熟の天才であった。1918(大正7)年ころから鈴木三重吉の赤い鳥運動に参加し童謡を手掛ける。『赤とんぼ』は、1921(大正10)年、露風32歳のとき、北海道のトラピスト修道院で作られた。この詩について、露風自身が、「赤とんぼのこと」という文章のなかで、この詩は小さいときの思い出を詠ったものだと語っている。幼くして離別した母に対する慕情とふるさとに対する望郷の思いが、この『赤とんぼ』の詩を作らせたのであろう。
この童謡『赤とんぼ』は、はじめ『赤蜻蛉』と題して「樫の実」に掲載され、 ついで、童謡集「真珠島」に発表され、1927(昭和2)年に、山田耕筰によって作曲されて全国を風靡した。露風は題名を漢字に変えただけでなく詩も少し改稿をしている。
たとえば、「赤蜻蛉」(樫の実)の第1節は、
「夕焼、小焼の、山の空、 負われて見たのは、まぼろしか」となっていたものを、「真珠島」では、「夕焼小焼の 赤とんぼ 負われて見たのは いつの日か」となっている。
(樫の実)の第2節は、
「山の畑の、桑の実を、小籠に摘んだは、いつの日か」となっていたものを「山の畑の 桑の実を 小かごに摘んだは まぼろしか」と改稿している。
赤蜻蛉(赤とんぼ)は、トンボ目トンボ科アカネ属 に含まれる蜻蛉の総称である。この詩の第4節には露風が13歳の頃に作った「赤蜻蛉とまっているよ竿の先」の俳句が歌いこまれている。この第4節は、「樫の実」も「真珠島」も同じであるが、俳句で使われていた「赤蜻蛉」は、この詩ではいずれも「赤とんぼ 」とひらがなを使用している。
詩の中では「赤とんぼ」とひらがなを使っているにも関わらず、最初の「樫の実」の題名には、とんぼの古名に由来する蜻蛉(とんぼ)の漢字を使っているが、これは、トンボの漢字の「蜻蛉(かげろう)」を「赤とんぼ=赤い陽炎(かげろう)」に見立てたのではないだろうか?。露風は、北海道の地平線の向うに隠れた夕日が炎のような陽炎「「夕焼け小焼け」を意味するものとして、この詩の題名としたように思われる。私は見たことがないが、北海道などでは、夕日は夕焼けと一般的に言うそうだが、実は夕日が沈んで暗くなった後に、もう一度赤く光る「夕焼け」が見えのだそうで、これを「小焼け」というのだそうだ。だから、「小焼け」は国語の辞書などに乗っているような「夕焼け」の語調を整えるとともに、時の流れを凝縮して言いあらわすものだけではないようだ。それで、最初の「樫の実」では、第1節は「真珠島」の「夕焼小焼の 赤とんぼ」ではなく「夕焼、小焼の、山の空」だったのだろう。それを、児童用に判りやすく、改稿したのではないかと思われる。曲の情感に加えて、詞の「とまっているよ 竿の先」に潜んでいる寂しい思いが伝わってくるすばらしい詩ではある。
露風は「詩人は言葉を生み、詩人は言葉に対する愛を持たねばならぬ」といっているという。日本の詩歌史に不朽の足跡を留めた。詩集「廃園」のほか「寂しき曙」「白き手の猟人」などがある。
晩年、東京・三鷹の地でひそかに詩を書き続けた彼は、1964(昭和39)年12月29日、不幸にも自宅付近で交通事故に遭い、75歳でこの世を去った。
二木紘三のMIDI歌声喫茶には、歌詞つきのMIDIがある。以下です。
赤とんぼ
(画像は夕焼け。お友達のララさんよりの頂き物画像)
参考:
三木露風
http://www.shougai.city.mitaka.tokyo.jp/mitaka/tekuteku1999/a_data/a_0230.html
早稲田と文学(三木露風)
http://www.littera.waseda.ac.jp/sobun/m/mi008/mi008p01.htm
はてな 夕焼けこやけの「こやけ」の意味を ...
http://www.hatena.ne.jp/1063965340
「夕焼けこやけ」の茜蜻蛉(あかとんぼ)
http://www.hirax.net/dekirukana7/tonbo/

身体検査の日

2005-12-28 | 記念日
今日(12月28日)は「身体検査の日」
1888(明治21)年、12月28日文部省(現在の文部科学省)がすべての学校に生徒の身体検査の実施を訓令した。
日本では、1871(明治4)年に文部省を創設。1872(明5)年、全国に日本最初の近代的学校制度を定めた「教育基本法令」が公布された。フランスの学校制度にならい,全国を学区にわけて学校設立を計画。公布に際し,「被仰出書」(おおせいだされしょ)を出して,「必ず邑(むら)に不学の戸なく家に不学の人なからしめん事を期す」と述べて,その理念を示した。
明治の近代的学校制度が出来た頃からそれほど長い年月を経ずに,今日の保健管理的活動の原初的なものが出来はじめているが、文明開化の中で、欧米風「身体=運動」文化を導入するにあたって随分と「とまどい」や「混乱」があったようだ。それも、明治10年代の終わりから20年代にいたって洋服採用の普及と共に、運動会も次第に普及しはじめた。この間の事情等については、以下参考の『江戸後期百年に探る「スポーツする身体」』をどうぞ。
1888(明治21)年12月28日。文部省は、直轄学校に対し、学生生徒の活力検査(健康検査)を毎年 4月に行うよう訓令。
当時の【1889年(明治22)年01月15日官報】には、
『文部省に於いては従来各直轄学校にて学生、生徒の体格を検査するに、一定の標準なく、時期もまた一様ならずして、調査上不便{すく}なからざるにより、今般その表式を定めしが、今後毎年四月同表式により、学生、生徒の活力を検査して、翌月中にその成績表を差し出すべく、また帝国大学を除くの外、入学試験の際施行する体格検査の儀も、大約右に準じて施行し、その成績表を差し出すべき旨を、各直轄学校に訓令せり。〔文部省〕 』とある。・・兎に角、これが、正に学校における定期身体検査の初めとなる出来事である。
既に徴兵を前提とする「身体検査」は1873(明治6)年に始まっていたが、1888(明治21)年に文部省の直轄学校で実施されたこの「活力検査」(1900年まで実施)は、「医者なしで、身体の大きさと簡単な運動能力テストだけで活力が分かるという考え方」をした点で、徴兵検査の身体検査やそれ以降の学校の身体検査(健康診断につながる)とも違う独特のものだったようある。
この検査では「身長」「体重」「胸囲」の他に、両手を横に広げて中指の先から先までをはかる「指極」(finger pole)、力こぶを作った上腕の周りと二の腕の太さである「上・下臂囲」、さらに肺活量を意味する「肺量」(息を吸った時、吐き出した時、普通の姿勢の三回測定)が検査項目となっていた。こうした検査項目の選定は、「逆三角形の体型を目指した時代」に「胸と腕が『活力』の指標とされた」結果だといわれており、 当時、欧米風文化に整合的な「身体」として考えられていたのは、西欧人のような、「逆三角形の上体をした身体」、筋骨逞しい上体をもつ身体であったらしい。
これは、当時の我が国初代の文部大臣森有礼が、日本人の体格・体力を向上させ、動作の様式を西欧人風に改造することを国策として目指した人物であり、彼は、いわゆる兵式体操を学校へ導入した(明治19年)人物として知られているからで、森は「強迫体操ヲ兵式ニ取り、成り丈普ク之ヲ行フヲ最良ト為ス」と考えていたようだが、「兵式ヲ取ルノ主眼ハ、専ラ其教育セラルル所ヲ身体上ニ行フニ在リテ、決シテ軍務ノ為ニ設ケ」た訳ではないともいっているとか。
その後、1897(明治30)年に「学生・生徒身体検査規程」が文部省から公布され、身体検査となった。翌年の「同規程」改正によると、4月と10月の年2回、「身体検査」を実施することとし、検査項目は身長・体重・胸囲・肺活量・脊柱・体格・視力・眼疾・聴力・耳疾・歯牙・その他であった(10月は身長・体重・その他)。 さらに1958(昭和33)年の学校保健法制定公布により健康診断となった。以後,時代に即した内容の改正が何度かなされ,現行のものは1995(平成7)年度に一部改正されたものであるとか。
健康診断は活用の仕方によっては、自らの心身の状態,変化,疾病・異常に気づく横合となり,また自身の生活習慣(食,運動,睡眠・休養等)や健康について考える重要なきっかけとなり得るものだ。今では、ネットの健康診断サイトでも、様々な病気に対する健康診断に必要な健康情報を調べることが可能になっている。世界的な長寿国となった日本の医学水準も高まった反面、余り、信用できないものなどもあるらしい。自分の身体のことでもある、信頼できるところでの健康診断を定期的に行い自分で、健康管理をしてゆきたいものである。
(画像は、ある健康診断風景)
参考:
江戸後期百年に探る「スポーツする身体」
http://www.eonet.ne.jp/~otagiri/new_page_11.htm#1
スポーツ文化史料情報館 /明治20年代
http://www.eonet.ne.jp/~otagiri/meijikinew_page_3.htm#1887(明治20)
Yahoo!ヘルスケア - 病院選びの基礎知識 - 健康診断
http://health.yahoo.co.jp/hospital/subject/19kenkoushindan.html


浅草仲見世記念日

2005-12-27 | 記念日
12月27日「浅草仲見世記念日」
1885(明治18)年、東京・浅草の仲見世が新装開業した。煉瓦作りの新店舗139店が開店した。1923(大正12)年の関東大震災で倒壊したが、鉄筋の建物として再建されたもの。
東京で最も古い寺である浅草寺の起源は、推古天皇36年(628年)、漁師の檜前(ひのくま)兄弟が隅田川から拾い上げた観音様を、土師中知(はじの なかとみ)が堂を設けて安置したのが始まりと言われている。645(大化元)年に観音堂が建立されたのが始まりと言われている。1590(天正18)年、 徳川家康が秀吉から関八州を与えられ江戸に入ると、浅草寺を江戸城鎮護の祈願寺と定め500石を寄進した。
神田川にかかる浅草橋(1616(元和二)年に出来た)は、江戸日本橋から奥州街道、日光街道、水戸街道へ、そして浅草寺や新吉原などへ行く重要な道筋であり、江戸市民にとって府内と府外の交通上の要所であると共に、江戸城防衛の拠点ともなっていたようだ。
江戸市中にこうした場所が36ヶ所あり(実際にはもっとあったとも)、これを江戸城36見附とも江戸36門とも言った。その36見附の1つである浅草見附は、浅草御門とも浅草門とも呼ばれていた。東京都内には他にも市谷見附、四谷見附、赤坂見附などの名が見られるよね。ここには門があり、、たとえば、大名の多くは”大手門の門前の橋の手前、下馬所において駕籠や馬から下りた”といい、さらに奥の下乗所~玄関と続き、日光門主・御三家などのほかはこの場所(下乗所)で駕籠から下りる定めであったとか(あとは徒歩)。この浅草見附門が出来たのは1636(寛永13)年だそうだ。三代将軍家光はこの年4月に焼亡の本堂を再建したが、その6年後の1642(寛永19)年にまたも炎上 。再度、家光が復興し、1648~9( 慶安元~2)年 にかけて五重搭、本堂・仁王門を建立した。 そして、江戸の人口も増えてゆき、浅草寺への参拝客も一層賑わうようになった。参道の両側には12の支院が並んでいたというが、浅草寺境内の掃除の賦役を課せられていた近くの人々に対し、境内や参道上に出店営業の特権が与えられた。これが仲見世の始まりで、元禄、享保(1688~1735)の頃といわれている。
江戸時代には、伝法院から仁王門寄りの店を役店(やくだな)と呼び、20件の水茶屋が並び、雷門寄りは平店(ひらみせ)と呼び、玩具、菓子、みやげ品などを売っており、次第に店も増え日本でも一番形の整った門前町へ発展していった。 明治維新の政変により、寺社の所領は政府のものとなり、浅草寺の境内も東京府の管轄となった。
そして、1885(明治18)年5月東京府は、仲見世全店の取り払いを命じ、その後地に、同年12月26日、煉瓦造りの洋風豊かな新店舗が完成、近代仲見世が誕生したのである。
文明開化、明治の匂いを留めた赤れんがの仲見世も、1923(大正12)年の関東大震災により壊滅し、同1925(大正14)年に、現在の鉄筋コンクリート造りの建物として再建された。しかし、その後、又、1945(昭和20)年の戦災で内部は全部焼失したが復興し現在に至っている。浅草寺の建物も殆どは、1945(昭和20)年3月10日の空襲で焼失したが、1958(昭和33)年の本堂、1960(昭和35)年の雷門の再建に続いて、1964(昭和39)年に宝蔵門が1973(昭和48)年には五重の搭が再建された。 雷門をくぐって今でも日本的情緒の残っている仲見世は海外からの観光客にも人気のようである。
私は、浅草と言うと雷門と共に、浅草六区の興行街の方がなつかしい。昭和30年代の後半東京に住んでいたころ、よく六区の興行街へ行ったが、まだ、多くの劇場、映画館、寄席などが軒を並べていた。なんとなく大阪の天王子や南と共通した雰囲気があり、東京のほかの地域とは違った庶民的な街は、関西人には、親しみが持てたな~。
(画像は、広重 「浅草雷門」 江戸名所百景の内。本シリーズ中で最も有名とも言える作品。)
参考:
台東区ホームページ/なんでも情報
http://www.taitocity.com/kanko/asakusa_ueno/j_guide/info/index.html
浅草大百科
http://www.asakusa.gr.jp/index2.html
浅草の歴史
http://www.asakusa-e.com/rekisi/rekishi.htm