今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

「吉展ちゃん誘拐殺人事件」の日

2007-03-31 | 歴史
1963(昭和38)年の今日(3月31日)は「村越吉展ちゃん誘拐事件」のあった日。
「吉展ちゃん誘拐殺人事件」は、1963年3月31日に、東京都台東区入谷(現在の松が谷)で起きた男児誘拐殺人事件である。3月31日、入谷の自宅前の公園に遊びに出かけていた村越吉展(当時4歳)ちゃんが消息を絶った。犯人より身代金50万円の要求があった。この事件では、警察は人命尊重の観点から、報道機関に対し報道の自粛を要請「報道協定」が初めて行なわれた。しかし、母親が犯人から指定された場所に身代金を持参したが、警察の不手際で金だけ奪われ、犯人を取り逃がした。そして、結局、4月7日公開捜査に踏み切り、初めてテレビを使った公開捜査が行われ、吉展ちゃんの写真を画面で流し、一般からの情報を求めた。
5月のメーデーには、「吉展ちゃんを両親に帰せ」の似顔絵のプラカードまで登場。この誘拐事件は日本中の関心が集まり、多数の情報が寄せられた中には、酒に酔っ払った者などからのいたずら電話なども多く、悪質ないたずら電話で捜査に障害をもたらした者2名が逮捕までされているが、この種のいたずら電話はエスカレートしついには、吉展ちゃんの自宅へ11回もの脅迫電話をして恐喝未遂で逮捕される者まで出ている。そのようなことから、、事件の捜査は困難を極め長引いた。
この事件では、警察庁科学警察研究所の鈴木隆雄氏へ犯人からの身代金要求の電話の録音の声紋鑑定依頼もしたが当時は技術が確立されておらず、刑事の地道な捜査から犯人からの電話の声が刑務所に服役中の容疑者の1人、小原保と良く似ているとされたことや、小原のアリバイに不明確な点があることを理由に事情聴取が行われ、2年後、小原保の自供から、自供どおり、荒川区の円通寺の墓地から白骨化した吉展ちゃんの遺体が発見された。円通寺の遺体の発見現場には供養の為、「よしのぶ地蔵」が建立されている。
この事件で、最終的に小原を自供に追い込んだのは、当時、府中署の「3億円事件」の特捜本部にいた刑事で、平塚八兵衛による、徹底的なアリバイの洗い直しと供述の矛盾を突くねばり強い取り調べの結果であったとう。犯人が自供したきっかけは、事件とは関係のない日暮里の大火だった。取り調べ期間の最終日、平塚らが、東京拘置所に行き”最後の調べをした。その中でたまたま話題になったのが、日暮里の大火で、小原はこの大火を「電車に乗っていて窓を通して”原子雲”のように真っ黒く立ちのぼる煙を見た”と、当時の、模様を得々としゃべったという。この火事は吉展ちゃんが誘拐された日の直後、4月2日午後3時過ぎに起きた。小原は、アリバイについて、「3月31日を中心に1週間ほど、郷里の福島に帰っていて、東京にいなかった」と言い張っていたが、平塚らは、日暮里の火事の日時、状況、規模をはっきりと覚えており、小原の嘘がぴんときたと言う。そこで、矛盾点を追求、小原は弁明に苦しんだが身代金と同額の50万円を持っていたこともあって遂に自白したという。(朝日クロニクル「週間20世紀」)
犯人には、死刑の判決が下り、1967(昭和42)年上告棄却、1971(昭和46)年12月死刑が執行された。
小原の処刑間際の言葉として、「今度、生まれてくるときは真人間に生まれてきますからと、どうか、平塚さんに伝えてください」と言い残した事が知られている。平塚は、犯人に自白させるテクニックの持ち主で「おとしの八兵衛」の異名をとった名物刑事であったそうだ。
この「戦後最大の誘拐」と言われたこの事件が起こったのは3月31日の事であったが、その約1ヵ月前の3月1日、黒澤明監督の映画「天国と地獄 」が公開されたが、この映画は、身代金誘拐事件を描いた作品であった。
エド・マクベインの推理小説『キングの身代金』に描かれていた「誰をさらおうとも脅迫は成り立つ」という着想に感心し映画化したという。また、黒澤は当事の、誘拐罪に対する刑の軽さ(未成年者誘拐罪で3ヶ月以上5年以下の懲役(刑法222条)、営利誘拐罪で1年以上20年以下の懲役(刑法223条))に憤っており、劇場公開時のパンフレットでも誘拐行為を批判していたという。
映画は、製靴会社重役権藤の1人息子と間違われ、運転手の子供が誘拐される。犯人は誰の子供でもかまわない、とにかく、身代金3000万円を払えと権藤を脅迫。経営権をめぐる社内抗争に巻き込まれていた権藤にとって3000万円は今払いたくても払えない金だったが・・。誘拐事件に社内抗争を絡めたこの映画は大ヒット。映画は興行的には大成功するが、一方で公開後の3月31日には吉展ちゃん誘拐殺人事件が発生し、誘拐事件にヒントを与えたのではないかと噂され、その1月後には、「狭山事件」として有名になる中田善枝さん誘拐事件も発生した。黒澤監督宅に「事件を助長する」といった意味の脅迫電話まであり悩ませたという。映画が公開中止になることはなかったが、国会でも問題として取り上げられ、この事件を一つのきっかけとして、1964(昭和39)年に刑法の営利誘拐に「身の代金目的略取」という条項が追加され、通常の営利誘拐よりも重い刑罰を課すように改められた。
この当時、本当に、警察の不手際な操作が相次いだよね~。当時黒澤の映画が余りにも衝撃であった事から、それを真似る誘拐が相次いだ。このようなことは、現代のマスメディアの時代になると、例えば、いじめや自殺、放火といったTVなどでのマスコミ報道が、次の新たな事件を生み出す引き金になるといった形で見られるよね~。マスコミは視聴率を取るために、悲惨な事件などになると、より悲惨な状況を伝えようとする。しかし、世間やマスコミが騒げば騒ぐほど同様の事件を起こして、喜んでいる輩がいるのも事実である。報道の難しさだろうね。
(画像は「1963年5月メーデーに登場した「吉展ちゃんを両親に帰せ」のプラカード。画像は朝日クロニクル「週間20世紀」より)
参考:
誘拐-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%98%E6%8B%90
戦後の主な誘拐殺人事件
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/yuukai.htm
円通寺
http://www6.plala.or.jp/entsuji/
吉展ちゃん誘拐殺人事件
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/yosinobu.htm
略取・誘拐罪 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%A5%E5%8F%96%E3%83%BB%E8%AA%98%E6%8B%90%E7%BD%AA
刑法
http://www.ron.gr.jp/law/law/keihou.htm
狭山事件 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%AD%E5%B1%B1%E4%BA%8B%E4%BB%B6
事件史探求
http://gonta13.at.infoseek.co.jp/index.htm
エド・マクベイン『キングの身代金』 - 本の虫クラブ
http://www.honnomushi.com/review/2004_07/0009.htm

薬師寺花会式(修二会)

2007-03-30 | 行事
今日(3月30日)は、「薬師寺花会式」(修二会)
薬師寺花会式(はなえしき)とは別名、修二会(しゅにえ)とも呼ばれる薬師寺で最大の行事でである。
修二会は、仏教寺院で行われる法要のひとつで、国家の繁栄と五穀豊穣、万民豊楽などを祈る春の行事。旧暦の2月に行われることからこの名がある。迎春行事のひとつであって、旧暦1月行われる場合は修正会(しゅしょうえ)という。奈良地方の古寺で行われるものが著名で、特に東大寺二月堂の修二会は「お水取り」の通称で全国的に知られている。
東大寺の修二会は、かつては旧暦2月に行われていたが、今日では3月1日から3月14日までの本行とそれに関連して行われる儀式の総体を修二会といい、このうち3月12日深夜(正確には13日午前1時半ごろ)行われる本尊の十一面観音に献ずる水を汲む儀式を「お水取り」といい、東大寺の修二会の通称ともなっている。
これに対して、通称「花会式(はなえしき)」、例年、3月30日から4月5日にかけて行われる。薬師寺の修二会は、「花会式」と称されるように、大量の造花や献花が奉納されている。
最終日の4月5日の夜には結願(けちがん)法要として、「鬼追い式」が行われている。この法要は奈良時代から続いてきたもので、現在の形態となっての法要は1107(嘉承2)年に堀河天皇が皇后の病気平癒を薬師如来に祈られ、その霊験を得て病気が回復したとされており、皇后はその翌年に女官に命じて10種類の造花を作らせて、薬師如来に供えたのが、今の「花会式」と呼ばれる法会の始まりとされているそうだ。(薬師寺HPより)
他に法隆寺西円堂のものが有名。
最終日、4月5日に金堂の前で行われる「鬼追式」は、薬師如来の力を受けた毘沙門天が暴れまわる5匹のを鎮めるという行事であり、この鬼の暴れぶりが花会式の行事を大いに盛り上げている。
毎年2月3日の節分には豆を撒いて鬼を追う行事が行われているが、もともと、この節分の鬼を払う悪霊ばらい行事は平安時代頃から行われているこの「追儺」(ついな)から生まれたものである。
節分は、立春、立夏、立秋、立冬の前日を指し、季節の移り変わるときと言う意味があり、もともとは、1年に4回ある節分が現在では立春の前日だけを節分というようになっている。そしてこの季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると考えられており、それを追い払うための儀式が「鬼追式」なのである。この追儺の式を「おにやらい」(【鬼遣】)ともいうが、詳しくは以下参考に記載の「節分祭」を見るとよい。その当時日本で行われていた豆まきの行事と結びつき現在の節分の行事となっている。
豆は古い時代には主食の一つで、霊的な力を持っていると信じられていた。豆撒きには鬼に豆(大豆)をぶつけることにより、邪気を追い払い、一年の無病息災を願うという意味合いがある。また、豆撒きは豆に身のケガレを託すならわしでもある。撒いた豆を普通、自分の年より一つ余計に食べるのだが、今でも所によっては食べたのと同数の豆を紙に包んで居宅の付近の「辻」橋のもとに置き後を振り返らずに帰る風習がある。振り返るのを禁じるのは、豆に託したケガレが再びわが身に取り付くのを避けるためであるが辻や端の下に置くことに意味がある。ここでは詳しく触れないが辻や橋には境界の意味がある。このような、節分の行事は、中国から渡来して宮中で行われていた悪鬼・厄神払いの行事と、寺社が邪気払いに行った豆打ちの儀式が融合したものとも言われている。
行事や芸能の世界で現れる鬼は格別の場合にはその本体を隠し、異界のものたることを示す表徴だとする概念が通年としてあったが、中世の時代の特産とも言うべき能の鬼には、誠に厳しいものがあり、「心に棲む鬼」の形相を見せ付けて余すところがない。嫉妬・憎悪・煩悩・妄想といった言葉の数々で言い表される人間の性が凝縮され、救済されることなく彼岸と彼岸との狭間を彷徨い(さまよい)漂う霊魂が姿を現して苦悩を語り舞い、そして念仏の呪能に包まれつつ、菩薩の境地へ成仏してゆく。真実恐るべき鬼は、人の心にこそ執拗に生きているのだと、ひたすら観る者すべてにそう感得させようとするかのように・・・。異界の鬼より、このような鬼の方が余程恐い。
今の日本には心の中に鬼の棲んでいる人が多くなったのではないか?。人の心をなくし、人と人との絆も切れ、彷徨い歩いている物の怪(鬼)達。ひょっとして、あなたもそんなことにはなっていないですか・・・。異界の鬼を祓うことよりも、どこかにお参りでもして、自分の心に巣食う鬼を払った方が・・・。(-。-) ボソッ
(画像は、「勢ぞろいした鬼たち」京都祇園・八坂神社の節分行事。赤毛の方の面は能では癋見(べしみ)面、狂言では武悪(ぶあく)面に通じる画像は週間朝日百科「日本歴史」より)
参考:
薬師寺ホームページ
http://www.nara-yakushiji.com/index.html
薬師寺 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AC%E5%B8%AB%E5%AF%BA
東大寺 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AF%BA
十一面観音 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%B8%80%E9%9D%A2%E8%A6%B3%E9%9F%B3
毘沙門天 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%98%E6%B2%99%E9%96%80%E5%A4%A9
鬼 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC
[PDF] 節分祭
http://www.amy.hi-ho.ne.jp/aicon-m/ttoday/h190117setubunHP.pdf
薬膳教室
http://www.foodvalley.jp/yakuzen/yz06.html


江戸幕府が、江戸市中のごみを利用した埋立てを許可。

2007-03-29 | 歴史
元禄9年の今日(3月29日=グレゴリオ暦1696年4月30日)、 江戸幕府が、江戸市中のごみを利用した埋立てを許可した日。(永代島=現在の江東区永代)。
現在東京都の、隅田川の西岸は中央区新川一丁目、東岸は江東区永代一丁目に架かっている橋を永代橋という。
永代橋が架橋されたのは、1698(元禄11 )年8月のことであり、江戸幕府5代将軍徳川綱吉の50歳を迎えた記念として架けられたものとされており、現在の位置よりもやや北側、(西岸中央区日本橋箱崎町、東岸江東区佐賀一丁目付近→ maps.google 地図)で、当時、大川(隅田川)最下流に架かる橋で、隅田川に4番目に作られた橋(上流から、又架けられた順も千住大橋両国橋新大橋、その次が永代橋)であった。以下で現代の永大橋と昔の永大橋の位置が図でわかる。
神田川のページ>隅田川(下流域)>永代橋→ http://mediaport.on.coocan.jp/kandagawa/bridges/eitaibashi.htm
「永代橋」という名称は当時佐賀町付近が「永代島」と呼ばれていたからという説と、徳川幕府が末永く代々続くようにという慶賀名という説(「永代島」は「永代橋」から採られたとする)がある。江戸湊の外港に近く船手番所が近くにあり、多数の廻船が通過するために橋脚は満潮時でも3m以上あり、当時としては最大規模の大橋であったらしい。また、当時は大渡し(深川の渡し)のあった場所である。(以下参考に記載の江戸湊 拡大参照)
さて、本題に入るが、1590(天正18)年、徳川家康が関八州(、武蔵国相模国上総国下総国安房国上野国下野国常陸国の8 国)に移封されたとき、家臣の殆どは居城は、小田原か鎌倉あたりになるものと考えていたらしい。しかし、それが江戸に決定された。当時の江戸は、東方は潮入りの低湿地(現在の大手町あたりから芝にかけての部分は日比谷入江と呼ばれた入江状の海になっており、その先に江戸前島と呼ばれた半島状の土地がぶら下がるように突き出ていた。)であり、西方は水利の便の悪い武蔵野台地で、城も小さく関八州の居城の地としてはおよそ似つかわしいところではなかった。以下参考。東京の川と橋・隅田川右岸の小河川と掘割・太田道灌時代の江戸城周辺図 
http://www.hix05.com/rivers/river03/river031.html
だから、家臣の多くがいぶかしく思っても仕方のないことであったが、江戸は船運路さえ確保すれば、関八州の中心であり、関東経済圏をさらには東北経済圏をも一手に掌握できる立地条件にあったといえる。家康は恐らくそうした国土経営的眼力を十分に持ち合わせていたのだろう。
家康は江戸に入府し、大田道潅の築いたとされている江戸城(以下参考に記載の私説江戸城物語も参照)根拠にして、領地の経営に乗り出した。詳しくは以下参考に記載の「東京都臨海域における埋立地造成の歴史」に詳しく書かれているが、先にも延べたように地形的には、要塞として格好であったものの、武家や町民を収容する平坦地は欠如していたことから、先ず住居を確保する「土地づくり」と食を確保する「交易地路の建設」が必須であった。そこで,入府早々、1592(文禄元)年、江戸城周囲の掘割ほりわり=地面を掘って水を通した所。堀)工事や江戸出島を開削した道三堀の堀削土を用いて江戸城東部に広がる日比谷入江北部(現、千代田区丸の内・八重洲付近)を埋立て、続いて1603(慶長8)年から江戸城北部の台地(神田山)を切り崩し、日比谷入江南部一帯(現、中央区日本橋・京橋・新橋・築地付近)を埋め立てている。この土地造成により城下の街並みは次第に整備され、幕府の礎が堅固になった。さらに、慶長年間(1596~1615)、道三堀の東部延長に、関東最大の塩田地帯である行徳(現、千葉県浦安市行徳付近)へとつながる水路を確保するため隅田川と中川を東西方向に直線で結ぶ新川を開削し、生活必需物資の交易路を確保した。この小名木川開削の浚渫(しゅんせつ=港湾・河川などの水深を深くするため、水底をさらって土砂などを取り除くこと。)発生土は、川筋北部の埋立に使用された。この埋立てが、利根川河口域において、江戸幕府が行った最初本格的埋立て事業である。
そして、その後も幕府は大江戸を維持するための食料供給地や食料・建設資材等の貯蔵要地、及び密集した市街地からの人口分散を満たすため、新たな土地確保に迫られるようになる、江戸市中に近い隅田川河口付近を手始めに新たな村が展開されてゆき、先ず1596(慶長元)年頃から隅田川沿いの小名木川北隅に深川村(現江東区常盤・新大橋・高橋付近)、また、1629(寛永6)年には海辺新田(現江東区清澄・白川・扇橋付近)、またその南に深川猟師町(現、江東区佐賀・永代・福住み・深川付近)等の村落が相次いで形成された。引き続き寛永~正保年間(1624~1647)には、小名木川南部の中川右岸意気一帯(現江東区南・北・東砂および扇橋付近)の新田開発が行われている。
このようにして、次第に、新田を開発をし江戸の人口が膨張し始めたことにより、三代将軍家光の時から、ごみの問題が大きな社会問題として取り上げられるようになった。
そこで、1648(慶安元)年に、家光は「ゴミでの街路補修禁止、下水溝へのゴミ投棄禁止、川辺の便所を撤去」。1649(慶安2)年、「ゴミを会所地へ捨てる事を厳禁」しているが、1655(明暦元)年家綱の時世になると、江戸市中のごミ処理令を出した。つまり、江戸市中のごみを江戸城下から離れた隅田川左岸河口の永代島まで船で運び、投棄することを義務付けたのである。それは、それまで、市中のごみは、屋敷内、空き地、川等へ廃棄していたので、人口の急激な増加に伴い、このようなごミ投棄が市中の衛生状態を極度に悪化させるに至ったためである。さらに、1681(延宝9)年綱吉の時世には、江戸市中のごみ捨て場として、永代島新田と砂村新田(現、江東区北砂南部西部付近)を定め、そして、1696年(元禄9)年の今日(3月29日=グレゴリオ暦4月30日)には、ゴミ船で江戸市中の塵芥(じんかい)収集にあたる町人2人に、永代島上総(かずさ)間の海路浚渫(しゅんせつ)を許可、その土砂と塵芥による永代島附近の埋め立てを命じ、土地造成を更に進めたという。
このような、江戸期のごミ処理のあり方については、以下参考に記載の「町美化・リサイクルの話」の江戸のゴミ事情が詳しいので参考にされるとよい。
その方法は、町ごとに芥溜(ごみ集積場)を設置し、ごみ運搬の請負人が、永代島の埋立地へ運ぶというもの。しかも、集めたごみを業者が、燃料芥・肥料芥・金物芥に分けて建築廃材などの燃料芥は銭湯へ、食物廃棄物などの肥料芥は農家へ、金属廃棄物は加治屋へそれぞれ売ることも許されていたそうだ。このように江戸時代の江戸のごミ処理の仕組みは、徹底したリサイクル思考によるものだったようだ。
江戸開府当初のまちづくりとして行われた日比谷入江の埋立ては、北部の掘割の浚渫土、南部の台地を切り崩して行われた。やがて、江戸の人口の増加によって報知できなくなったごミ処理対策として江戸市民が排出する”ごみ”によって造成された新田が江東臨海部に次々と誕生する。埋立て地盤の材料については”ごみ”の他に、江戸期以降一貫して行われてきた水路堀削時の浚渫土砂、火災・震災時の瓦礫等が使用されている。時代が経過し、近年では、経済成長に伴い建設残土や産業廃棄物が用いられている。
そのようなことから、現代では、海洋汚染の問題が発生しているのであるが、それにしても、現代行われているリサイクルの仕組みが、江戸時代に徹底して行われていたとは、驚きだ。当時は、権力者には、絶対に逆らえない時代だから、庶民の側も徹底していただろう。
江戸時代、日本を訪れた外国人は、江戸の町が他の大都市と比べ、 ゴミ一つない町を見て、感心したそうだ。それに、比べ、今の日本はどうなっているのだろうね~。 どこも。ごミだらけの感じがするね~。
この永代島のところにあった永代橋は、幕府財政が窮地に立った1719(享保4)年に、幕府は永代橋の維持管理をあきらめ、廃橋を決めるが、町民衆の嘆願により、橋梁維持に伴う諸経費を町方が全て負担することを条件に存続を許された。通行料を取り、また橋詰にて市場を開くなどして維持に務めたが、1807(文化4)年8月19日、深川富岡八幡宮の12年ぶりの祭礼日に詰め掛けた群衆の重みに耐え切れず、落橋事故を起こす。橋の中央部よりやや東側の部分で数間ほどが崩れ落ち、後ろから群衆が次々と押し寄せては転落し、死傷者は実に1500人を超え、史上最悪の落橋事故と言われている。この事故について、大田南畝が以下の狂歌を書き残している。
永代と かけたる橋は 落ちにけり きょうは祭礼 あすは葬礼
また、古典落語の「永代橋」という噺も、この落橋事故を元にしている。以下参考に記載の「落語「永代橋」の舞台を歩く」を見られるとよい。
事故後、橋の維持の重要性に気づいた幕府により再架橋されるが、維新を迎えるころには相当痛んでいたようで1897(明治30)年、道路橋としては日本初の鉄橋として、鋼鉄が主としたトラス橋が現在の場所に架橋された。しかし、関東大震災に被災し、木製の橋床を損傷し大正15年に震災復興事業の第一号として現在の橋が再架橋された。以下で震災復興橋梁工事写真多数が見れます。
永代橋全架橋写真(土木学会付属土木図書館デジタルアーカイブス)
http://library.jsce.or.jp/Image_DB/shinsai/kanto/kyouryou/si001_01.html
(画像は、「豊かな生活の象徴?ゴミ」都市に人口が集中すると多くの問題が出る。中でも生活に一番密着しているのがゴミである。東京都のゴミは可燃物はごみ焼却され不燃物は埋立て処分去るようだが・・・。画像は週間朝日百貨「日本の歴史」128より)
参考:
永代橋 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%BB%A3%E6%A9%8B
[PDF] 江戸湊 拡大
http://www.pa.ktr.mlit.go.jp/tokyo/history/pdf/e-do02.pdf
江戸城 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%9F%8E
私説江戸城物語
http://www.asahi-net.or.jp/~cn3h-kkc/shiro/shiro54.htm
東京の川と橋・隅田川右岸の小河川と掘割・太田道灌時代の江戸城周辺図 
http://www.hix05.com/rivers/river03/river031.html
[PDF] 東京都臨海域における埋立地造成の歴史
http://www.geog.or.jp/journal/back/pdf113-6/p785-801.pdf
江東区の地名の由来
http://www.geocities.jp/pccwm336/sub9.html
防災情報新聞社・周年災害・06年4月
http://www.bousaijoho.or.jp/syunen-saigai/06.syuunen-saigai/06.04.syunen-saigai.htm
町美化・リサイクルの話TOP
http://www.kankyobika.or.jp/kids/hana/index.html
富岡八幡宮 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%B2%A1%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%AE%AE
六地蔵第六番・高野山真言宗  大栄山  永代寺(えいたいじ)
http://bird.zero.ad.jp/~zam77093/rokujizo6ban.htm
落語「永代橋」の舞台を歩く
http://ginjo.fc2web.com/21eitaibasi/eitaibasi.htm


三つ葉の日

2007-03-28 | 記念日
今日(3月28日)は、「三つ葉の日」
「み(3)つ(2)ば(8)」の語呂合せのようだが、どこの誰が記念日に設定したのかは知らない。
ミツバ(三つ葉、学名 Cryptotaenia japonica、英 Japanese honewort)は、セリ科多年草。別名ミツバゼリ(三つ葉芹、野蜀葵とも)。
学名クリプトタエニア(Cryptotaenia)は、ギリシャ語でクリプトは「秘密の」で、タエニアは「帯」を意味しており、これは油腺が種子の縦溝に隠れていることからだそうだ。
分布は東アジアと北アメリカの温帯部で、日本、中国、朝鮮半島に自生しているようで、日本では、九州から本州にかけて広く自生しており、山地の日陰に生える。初夏に5枚の花弁からなる白い小さな花を咲かせる。葉の形状は卵形で先が細くなり尖っている。互生し、3枚からなる複葉である。縁にはぎざぎざとした重鋸歯(鋸歯の"ぎざぎざ"が二重になっている)がある。和名の由来は葉が3つに分かれている様子からで、英語ではJapanese honewort(日本の砥石のような草=三つ葉)と言っている。
栽培の起源は明らかではないが、中国では救荒本草、農政全書に野生の野蜀葵(ミツバゼリ)を食用にするとの記載があり、わが国では貝原益軒の「花譜、菜譜」菜譜中巻 に「野蜀葵を近年食し、市にもうる」との意味の記載があるそうだ。
茎と葉が食用とされる、さわやかな香りが特徴の香味野菜。よく言われる、「ハーブ」の語源は「HERB」は、ラテン語の「HERBA」で緑の草という意味だそうで、一般的には輸入されて日本に導入された植物(樹木、草)で、食用、香料、染色などに使われる植物を指すので、その意味では、日本の伝統食文化のなかで使われてきたこのような植物もハーブに該当する。つまり、セリ(芹)、サンショウ(山椒)、シソ(紫蘇)、ヨモギ( 蓬)、ショウガ(生姜)、ワサビ(山葵)などとともに 「日本のハーブ」と言う訳だ。このミツバ食材として、使うのは、世界の中でも、日本料理と中華料理だけだそうだが、以下参考に記載の「相馬博士の作物百科」によると、中国では古くからミツバを食用にしていたが、日本では、同じ仲間のセリ(芹)が、春の七草の筆頭として、古代から食べられていたが、ミツバはどう言う訳かズット後年になってから、食べる様になったものだそうだ。そして、室町時代末期・戦国時代の農事書・清良記(作者は土居清良)には、正月の野菜として、ミツバが三つ葉芹の名前で記載されているらしく、この辺の事情を、江戸・元禄時代に貝原益軒によって書かれた大和本草は、「三つ葉は、昔は食べることを知らず、近年になって食べる様になった」と説明しているという。恐らく、室町時代以降に食用として、利用され始めたのだろう・・・と。そして、江戸時代初期(17世紀)には栽培化が進み、享保年間に、江戸の郊外・葛飾で軟化栽培が始められたようだ。
日本では、おひたしや和え物とするほか、吸い物や鍋物、丼物の具として広く用いられる。ミツバは味と香りを楽しむ野菜とも言えやはり、鮮度の良い物が要求される。β-カロテンを多く含む緑黄色野菜である。
「春や昔十五万石の城下かな」 正岡子規
今では、主にハウス水耕栽培したものが年中出荷されているが、俳句歳時記には、三葉・三葉芹は三春となっており、この時期が旬と言うべきだろう。野生のものは一般的に、ハウス栽培のものよりも大きく力強い。
以上、三つ葉の日と言うので、ミツバゼリのことを書いたが、三つ葉と言うと若い人などは三つ葉のクローバーを連想した人が多いかな??
クローバー(英:Clover)はマメ科シャジクソウ属の多年草の総称で、一般的にはシロツメクサを指すことが多いようで、この和名の"ツメクサ(白詰草)"の由来は、江戸時代にオランダから輸入されたガラス器の梱包の際に本草が詰め物として使われていたことから「詰草」と呼ばれるようになったのだそうだ。茎は地を這うように長くのび、通常、葉の数は3枚(三小葉)だが、まれに。突然変異で4枚(四小葉)になることがあるが、約10万分の一の確率でしか発見できないそうで、古来より幸運のシンボルとされているそうだが、さらに五つ葉、六つ葉も、発見数は少ないながらも確認されており、2006年現在、世界一多くの葉を持つクローバーは2002年に岩手県花巻市矢沢で発見された18枚葉のクローバーで、ギネスブックにも登録されているという。
花言葉では、四つ葉は十字架に似ていることから「幸福」の象徴とされているそうだが、、五つ葉は「経済的繁栄」、六つ葉は「地位と名声」、七つ葉は「無限の幸福」を意味するのだとか。そして、普通の三つ葉のクローバーは愛・希望・信仰を表現するという。しかし、あるジンクスに「五つ葉のクローバーを見つけると失恋する」「二つ葉のクローバーを見つけると不幸が訪れる」というものもあるようだね。以下参考に記載の「クローバー・ハンターズ」では、いろいろクローバーの研究をしているようで、9月6日をクローバーの日に設定しようとしているそうだ。
三つ葉と言うと、少し年配の人に思い出されるのは、三つ葉葵 かな?。通常「三つ葉葵」といえば徳川家の「丸に三つ葉葵」の紋を思い浮かべるが、は双葉が普通で、三つ葉のものはなく、三つ葉葵は架空のものである。葵祭に見られるようにもともと賀茂氏の象徴であり、葵紋は賀茂神社の神紋になっている。 このことを書きだすと長くなるのでももう止める。以下参考に記載の「名字と家紋_column(葵)」や「安土桃山通販_家紋ガイド}などを見られるとよい。面白い事が書いてあるよ。
最後に、ちょっと、変ったところでは、病院のレントゲン室のドアなどに見られる、黄色の地に赤い“三つ葉”のマークは、放射能および放射線に対する注意を促すためのものだよ。このことも何故このマークになったかなどは、以下参考に記載の「e-原子力:2002年度創刊号(経済産業省 | 資源エネルギー庁)」や「ぎょ(148)|ずこずこずがずが美術でわっしょい」を見るとよい。今日の話のネタにはなるだろう。これからは暖かい春、四つ葉のクローバーでも探しに出かけますか・・・d(-_^)good!!。
(画像はミツバゼリの花)
参考:
ミツバ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%84%E3%83%90
薬味 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AC%E5%91%B3
ミツバ / 旬マガ 旬の食材図鑑
http://www.shunmaga.jp/zukan/yasai/mitsuba/mitsuba.htm
ハーブ図鑑/代表的な日本のハーブ
http://herb.pcwebe.net/cat7/
千葉大学付属図書館・電 子 展 示 室/展 示 リ ス ト
http://www.ll.chiba-u.ac.jp/~kikaku/exhibit/2000/koisho/list.html#30
相馬博士の作物百科/ミツバ ミツバセリ 三つ葉
http://www.agri.pref.hokkaido.jp/nouseibu/soma/index.html
近世農書「清良記」巻七の研究
http://seibundo-pb.co.jp/mybooks/ISBN4-7924-0530-0.html
大和本草 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C%E6%9C%AC%E8%8D%89
中村学園大学 図書館
http://www.nakamura-u.ac.jp/~library/lib_data/d01.html
わたしの俳句歳時記
http://www.mysai.net/
クローバー - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC
クローバー・ハンターズ
http://www5f.biglobe.ne.jp/~amuran/clhs/clhs.html
三つ葉葵 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E3%81%A4%E8%91%89%E8%91%B5
名字と家紋_column(葵)
http://www.harimaya.com/kamon/column/aoi.html
安土桃山通販_家紋ガイド
http://www.aduchimomoyama.com/guide_k.htm
e-原子力:2002年度創刊号(経済産業省 | 資源エネルギー庁)
http://www.enecho.meti.go.jp/e-ene/info/housyasen/2002/01/4_01.html
ぎょ(148)|ずこずこずがずが美術でわっしょい
http://ameblo.jp/manabunc/entry-10021951021.html

大塩平八郎 (陽明学者,大坂町奉行与力) の忌日

2007-03-27 | 人物
今日(3月27日)は、天保8年3月27日( 1837年5月1日)の大塩平八郎 (陽明学者,大坂町奉行与力) の忌日。
大塩平八郎(寛政5年1月22日( 【1793年3月4日】~天保8年3月27日【1837年5月1日】)は、江戸時代後期の儒学者で、大坂町奉行所与力を勤めていた。「大塩平八郎の乱」を鎮圧され自害している 。
明治の文豪・森鴎外の書いた『大塩平八郎』に書かれている【大塩平八郎年譜】には、以下のように書かれている。
”寛政五年癸丑(一七九三年)大塩平八郎後素生る。幼名文之助。祖先は今川氏の族にして、波右衛門と云ふ。今川氏滅びて後、岡崎の徳川家康に仕ふ。小田原役に足立勘平を討ちて弓を賜はる。伊豆塚本に采地(さいち)を授けらる。大阪陣の時、越後柏崎の城を守る。後尾張侯に仕へ、嫡子をして家を襲(つ)がしむ。名古屋白壁町の大塩氏は其後なり。波右衛門の末子(ばつし)大阪に入り、町奉行組与力となる。天満橋筋長柄町東入四軒屋敷に住す。数世にして喜内と云ふものあり。其弟を助左衛門、其子を政之丞成余と云ふ。成余の子を平八郎敬高と云ふ。敬高の弟志摩出でて宮脇氏を冒(をか)す。敬高大西氏を娶(めと)る。文之助を生む。名は後素。(後素は、)字(あざな)は子起。通称は平八郎。中斎と号す。居る所を洗心洞と云ふ。其親族関係左の如し。(幸田)"・・・と。()書き幸田とあり、幸田成友(日本史学者。幸田露伴【幸田成行】の弟)著(1873 ~1954)『大 塩 平 八 郎 』の引用であろう。
幼くして、両親に先立たれた大塩(平八郎)は、もっぱら祖父政之丞(まさのじょう)の薫陶を受け、早くから志を立てていたとう。性格は峻厳、容易に人に従わぬというところがったようだが、与力として手腕を、振るい大坂にその名を知られるころには、高井山城守らの引き立てをうけるなど、自己の信条に共鳴する人たちにも恵まれていたという。
江戸後期の文化・文政期米価は低落傾向にあり、上方筋の摂津・河内・和泉の村々は、大坂市中の特権商人を相手に国訴と呼ばれるユニークな訴願運動を展開していた。そして、綿や菜種・油などの流通の自由を求めたもので、大坂町奉行所を舞台に1千ケ村の村々が連合し一定の成果をあげ、一部には、マニュファクチュア(manufacture)ともいうべきものが始動し大坂市中や農村も次第に変貌し始めていた。大塩は、この文政の大国訴(前田愛子「氷室の狼煙」1参照)が展開したとき、与力として町奉行所にあり、白洲で訴願する村役人の姿に考えさせられ、自らの学問を鍛えたのであろう。この大坂東町奉行所与力の時代は誘惑の多い役職にありながら精錬潔白な人柄で知られ、知行合一を信じて、大坂天満の自宅で洗心洞という私塾を開き、公務のあい間には求めに応じて陽明学を講じ、頼山陽に「小陽明」と評される程、陽明学者としても有名だった。大塩平八郎の乱は、このような時期に起こった。
11代将軍・徳川家斉の治世、松平信明の後任で老中・水野忠成らの悪政によって幕府の財政は破綻し、人心は疲弊していった。そこへ、天保3~4年から飢饉の様相が現れ、潤っていた農村は天保の大飢饉の追い討ちにより、不作・飢饉に連年見舞われる事になる。天保7年頃ともなると大坂の町中で餓死者が出るまでになってきたという。
この天保の大飢饉に、幕府への機嫌取りのために大阪から江戸へ送られる米(廻米)と、豪商による米価つり上げを狙った米の買い占めによって大阪の民衆が飢餓にあえいでいることに心を痛め、大塩は、当時の東町奉行跡部良弼に対して、蔵米(旗本および御家人の給料として幕府が保管する米)を民に与えることや、豪商に買い占めを止めさせることを要請したが、まったく聞き入れられなかったため、豪商鴻池善右衛門に対して、「貧困に苦しむものたちに米を買い与えるため、自分と門人の禄米を担保に一万両を貸してほしい」と持ちかけたがこれも実現しなかったという。その後、蔵書を処分するなどして私財をなげうった救済活動を行うが、もはや武装蜂起によって奉行や豪商らに対して天誅を加える以外に根本的解決は望めないと自らの門下生と近郷の農民に檄文を回し、金一朱とひきかえる施行札を大坂市中と近在の村に配布し、決起の檄文で参加を呼びかけた。(茨田郡士が駆ける大塩平八郎の乱参照)
決起直前に内部に離反者が出たために準備の整わぬままに1837(天保8)年2月19日早朝、屋敷に火をかけ決起した。現在の大阪市北区天満橋の大塩邸から難波橋を渡り、北船場で鴻池屋などの豪商を襲い、近郷の農民と引っ張り込まれた大坂町民とで総勢300人ほどの勢力となり、「救民」の旗を掲げて船場の豪商家に大砲や火矢を放ったが、奉行所の兵に半日で鎮圧され、大塩は40日余り潜伏した後に大坂に舞い戻ったが、逃げ込んだ先の美吉屋五郎兵衛の店(靱油掛町にあった)に出入りする奉公人から大坂城代土井利位に通報され、火薬を使って自決したという。
この乱は乱としては一日で収束し、失敗に終わったものの、この大塩の乱は、当事各地に起こっていた百姓一揆以上の衝撃を全国に与えた。それは、棒火矢・大砲を用いて火を放ち、市中の5分の1を焼失していること、下級幕史と百姓の連合軍であったこと、銃撃戦が展開されたこと、檄文による政治思想の主張を示していたこと、一部被差別部落住民の参加があったこと、幕政の革新を求め学者であったもと与力の首謀者であったこと等々、この乱は、これらの点で、今までの一揆とは違った特徴を持っていた。そして、新しい「世直り」「世直し」の契機となった。
大塩の乱は、大塩平八郎の陽明学的信念に基づいて起こされた事はいうまでもないが、その檄文には「都而(すべて)中興神武帝御政道之通、寛仁大度取扱」にすることが目標とされており、それは、祭政一致をのべた慶応4年10月13日の新政府の布告が「此度王政復古、神武創業ノ始ニ被レ為レ基レ、諸事御一新・・・」(レはレ点として読んでください)とはじめられていることに、はるかに呼応していたが、神武天皇の時代に復古しようというのは、どちらかと言うと秩序や制度や知識人の側からの発送であり、民衆の心をひきつけるためには、もっと、根源的な太古のユートピアがふさわしかったと思われる。その意味では、大塩の檄文も「(ぎょうしゅん)天照皇太神之御代に復シがたく共、中興之気象(注=神武天皇の支配をさす)ニ快復(かいふく)とて立ち戻り申べく候」と、その理想を二段構えにしており、天照大神の時代に、より根源的なユートピアがもとめられていたとしてよいだろう(週間朝日百科「日本の歴史」)
大塩の乱資料館>「大塩檄文」参照
http://homepage3.nifty.com/oshio-revolt-museum/gekibun-n.htm
この大塩の乱後に全国で同様の乱が頻発し、その首謀者達は「大塩門弟」、「大塩残党」などと称していた。檄文は木版刷りであり、 門下生や周辺の農村に向けたこの檄文は乱後奉行所は差し出すよう命じたが、幕府の取締りをかいくぐって写筆により全国に伝えられ、越後国では国学者の生田万(いくたよろず)が柏崎の代官所を襲撃する乱を起している。
先にも書いたように、幸田成友に『大塩平八郎』があり、鴎外に幸徳事件を意識して書かれた小説『大塩平八郎』がある。
ただ、私には、いくら大儀のためとはいえ、大阪の民衆が飢餓にあえいでいることに心を痛めて決起したはずなのに、たった一日も持たない乱を起こし、大坂の町に大火を起こしその民衆が困るような事をなぜしなければならないのか承服しかねる。
政治に関わるものが、業者と癒着し汚いお金との縁が切れないのは、今の世も同様である。昔から、政治的になどと言う言葉は、日本ではよいことに使われることはなかった。日本の社会では、昔から政治はきれいごとでは治まらないのが当たり前のようになっていた。最も、今では、民間人も、モラルは低下しており、金金金の世の中。どうしてこのようなと思うような人を毎回選挙で選んでいる人たちも多くいるのだから、どうしようもないよね~。こんなことで、クーデターを起こし街に火を放っていたら、今頃、日本中が火の海になっているだろうね~。
(画像は。大塩平八郎の似顔絵。大坂の町医者が文化3年(1806年)から、40年間にわたって世事を記録していた『浮世の有様』に描かれたもの。国立国会図書館蔵。週間朝日百科「日本の歴史」より)
参考:
大塩平八郎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A1%A9%E5%B9%B3%E5%85%AB%E9%83%8E
大 塩 の 乱 資 料 館
http://www.cwo.zaq.ne.jp/oshio-revolt-m/index.htm
国立国会図書館デジタルアーカイブポータル(ndldap) -大塩平八郎
http://www.dap.ndl.go.jp/home/modules/dasearch/dirsearch.php?keyword=%C2%E7%B1%F6%CA%BF%C8%AC%CF%BA+&and_or=AND&within_category=09_01_03
作家別作品リスト:No.129 森 鴎外(青空文庫) 
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person129.html
洗心洞跡
http://www.road.osaka-city.or.jp/orc/rekishi/nakaturu/p45.htm
平成18年度一橋大学附属図書館企画展示・国訴
http://www.lib.hit-u.ac.jp/service/tenji/okadake/case9.html
徳川家斉
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E6%96%89
打ちこわし - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%93%E3%81%A1%E3%81%93%E3%82%8F%E3%81%97
神武天皇 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87
堯 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%AF