今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

飛ばし 

2011-11-24 | ひとりごと
1980年代終盤から数年間に日本で起こったバブル景気は、1990年ごろから景気が後退し、バブル経済も崩壊。それによって消費や雇用に悪影響を及ぼし、デフレになった。
かつて、そのような状況であった1990年代から2000年代初頭までの経済を「失われた10年」(平成不況)と呼んでいたが、2008年の世界金融危機(米国のサブプライムローン問題(サブプライム住宅ローン危機)に端を発するリーマン・ショックが発生したことがきっかけで、1990年代、2000年代以降の経済を合わせて「失われた20年」と変更して呼ぶようになった。
このリーマン・ショック後の最悪の状況からなんとか持ち直したかに見えた日本に、今年3月、東日本大震災が発生、しかも、震災以降、世界的に大きな問題が表面化した。
それは、昨・2010(平成22)年のギリシャの財政破綻の危機(ギリシャの経済参照)が発覚以来、EU(欧州連合)ではユーロ圏のイタリアやスペインの財政問題(※1の中の政府債務残高の推移の国際比較グラフなど参照)が話題となり、世界的に「ソブリン・リスク」(国家=ソブリンに対する信用リスク、※2参照)が高まってきたことだ。そして、EUの国だけでなく、米国債、日本国債も実際に格付け会社から格下げ(国債参照)されているが、今のような各国の財政状況を引き起こしたのは、リーマンショック時に、投機に夢中になっておかしくなっていた銀行や企業を救うために、国民の税金を使って国家が援助をし、それら企業の赤字を国が肩代わりしたことや、戦後、金も無いのに財力以上の福祉や社会保障に金をつぎ込んできたこと、破綻を仕掛けている国は、何処も親方日の丸の公務員天国である事などが共通している。・・・・ことは、先日(2011・11・10 )。このブログ「天皇陛下御在位60年記念硬貨が発行された日」でも簡単に触れておいた。
そのような中で、国際的に何処の国も今、財政状況が思わしくなく、国によってはデフォルト(債務不履行。※2参照)の危機さえ、囁かれている中で、東証1部上場会社で、 生産量基準では日本国内では日本製紙・王子製紙・王子板紙に次ぐ国内第4位の規模を持つ
大王子製紙井川意高前会長の昨年5月~今年9月に計26回にわたり、連結子会社から取締役会の承認を得ないまま無担保で計106億8千万円にのぼる借り入れをし、未返済額85億8千万円(株式での返却は拒否されため)にのぼる損害を与えたとして、告訴され(ほぼ全額がカジノでのギャンブルに使用されたと見られている)、東京地検特捜部に会社法特別背任容疑で逮捕(特捜部は今年7月から9月の4社からの借り入れ7回、32億円の損害分を逮捕容疑)される事件(※3参照)があった。
冒頭貮掲載の図向かって左が「大王子製紙から前会長への貸付金の流れ」(2011・11・22、夕刊朝日新聞夕刊より)
また、大手光学機器メーカーオリンパスが、1990年代の財テクで生じた損失を有価証券の含み損を海外のファンド(fund。※4参照)などに売りはらって損失を付け替える「飛ばし」などの隠蔽工作を重ね、10年以上も不正決算を続け、今年・2011年3月期連結決算(連結決算の語は※2参照)で財務の健全性を示す純資産を300億円以上水増ししていたことがわかったという。この損失は、2001(平成13)年に新しい会計基準(※2:「金融経済用語集」の時価会計また、※5を参照)が導入されたことをきっかけに始められたことがわかっている(※6参照)。
冒頭掲載の図右が、オリンパスの損失隠しのイメージ図である(朝日新聞2011・11月16朝刊“ニュースがわからん!オリンパス問題の「飛ばし」って何?”より)。
『飛ばし』(※2:「金融経済用語集」の飛ばし参照)・・・と聞いて、1997(平成9)年11月24日(月曜日)に起こった大きな事件を思い出す。
同年の前日(11月23日、「勤労感謝の日」)が振替休日で休業日だったこの日は1日、異様な興奮が日本中を覆っていた。
先ず、未明に、サッカー日本代表チームがアジア最終予選でイラン戦に勝ち、初のワールドカップ(1998 FIFAワールドカップ)出場を決めた。日本時間では深夜の放送であったにもかかわらず、50%近い視聴率であり、この歴史的勝利に日本中が沸いていた(その感動的動画は※7で見れる)。
その余韻もまだ醒めない早朝、今度は北海道拓殖銀行が経営破綻した・・・と言う衝撃が日本列島を走った。
日本の資本主義の根幹(縁故資本主義参照)が揺らいだのが、1997(平成9)年とすれば、その混乱の頂点となったのが11月だった。
11月3日に準大手証券の三洋証券が経営難に陥り、会社更正法の適用を申請し、証券会社としては戦後初の倒産をした。この倒産自体はそれほど世間の注目を浴びたわけではなかったが、その後の金融市場に与えた影響は計り知れないものがある。
翌11月4日には、三洋証券に対する裁判所の資産保全命令により、インターバンクのコール市場(銀行間取引市場。※2参照)と債券レポ市場(※8参照)でデフォルト(債務不履行)が発生。戦後初の金融機関のデフォルトとなり、コール市場が疑心暗鬼・大混乱に陥った。
この信用収縮の余波を受け、11月17日には綱渡りで運転資金をやりくりしていた北海道拓殖銀行が都市銀行では初めての経営破綻となり、続いて、7日後の11月24日(月)、野村、日興、大和とともに当時、日本の4大証券の一角である山一證券が経営破綻(※15参照)し、自主廃業を大蔵省に届出のニュースは、日本列島に衝撃が駆け抜けた。
同日の午前11時30分、会長の五月女正治、顧問弁護士の相澤光江と共に東京証券取引所で記者会見に臨んだ社長の野澤正平は「私らが悪いんです。社員は悪くございません。」と泣きながら訴えた。その様子は当時のマスコミによって大々的に報じられたので誰の記憶にも残っているだろう。
この山一證券の経営破綻の引き金は資金繰りの悪化ではあったが、顧客の損失を転々とさせる今回のオリンパスがやったと同様の「飛ばし」(※2)が行き詰まり、山一自身が抱え込むことになって、膨大な簿外債務が出来たのが最大の原因であった。
この間に、「大手銀行だけは安心」という神話も崩れたことから、まだ破綻したわけでもない大手銀行や地方銀行に預金解約を求める長い行列が出来、静かな「取り付け騒ぎ」の状況もあり、金融機関同士の資金の融通さえままなら無い状態が続き、大蔵大臣や日銀総裁が何度も声明を出して、国民に冷静な行動を呼びかける様は「平成不況」を予感させた。
経済の血液である金融の分野が機能不全に陥った1997(平成9)年は、金融界が闇の精力と癒着していることが表面化した年でもあり、「総会屋」と呼ばれる特殊な株主に脅される型で、野村證券(※15参照)をはじめとする4大証券と大手都銀の第一勧業銀行(現みずほ銀行の前身)が利益供与(※8参照)を行なっていたとして東京地検特捜部が次々告発し、現役のトップを含め役員らを続々逮捕していったが、金融機関トップの腐敗は総会屋との癒着だけではなかった。
このような総会屋事件と並行するように日本債権信用銀行に対する“奉加帳方式による救済”(※6参照)、拓銀と北海道銀行(※15)の合併合意と白紙撤回(※7参照)、そして、日産生命保険の経営破綻(戦後初の保険会社の破綻)といった事件が表面化している。
これらは、全て、経営幹部が不良債権の処理を先送りし、決算を粉飾していた結果だった。
経営情報を仲間内だけで処理し、不利な情報には目をつぶり、闇の精力を使ってでも握り潰す。日本の資本主義の心臓部である金融界の膿が一気に噴出した年であったのだ。
この年、11月に入っての金融の混乱は日本発の世界恐慌(※9も参照)に発展する、との指摘もされ始め、そうした危機意識が住宅金融専門会社(住専)以来、タブーになっていた「公的資金」(※4にて公的資金も参照)の投入を政府に決断させ、世論にも受け入れさせる役割を果たした。
また、1999(平成11)年以降の大手銀行を核とした金融界の再編成は、この1997(平成9)年の「危機」がなければありえなかったといわれており、まさに、日本資本主義の分水嶺であったといえる。
だが、政策当局が「金融システム」(※10の金融システムを参照)という公共財をまもることを錦の御旗にしてしまった結果、一企業としての銀行に危機感を薄れさせてしまったともいえる。
翌1998(平成10)年の日本長期信用銀行(現新生銀行の前身)、日債銀(現あおぞら銀行の前身)の相次ぐ破綻・国有化と2000(平成12)年の小売業としては日本最大の負債総額を抱えてのそごう倒産(※11参照)に象徴される混乱は先延ばしされていた1997(平成9)年危機(※15参照)の帰結でもあった(アサヒクロニクル「週間20世紀」094)。
この1997(平成9)年危機については、以下参考の※12:「第2章 日本の金融危機と金融行政」や※13:「森崎研究室」経済学余滴の“総括・平成大不況”に詳しく書かれている。
その後、リーマンショックやギリシャ危機が発生したとは言え、日本政府の抱える国および地方の債務残高(国家財政の赤字)は過去最大(※1参照)となっており、未だに平成不況から脱出できないどころか、ますます悪化してきている。※13:「森崎研究室」経済学余滴の平成の不況は、なぜ長引いたのか?に不況からなかなか脱出できなかった原因がまとめられているが、今、又、政府が財務省の言いなりになって、当時と同じような過ちをしようとしているように思える。
今回のサブプライムに端を発するによるリーマンの破綻による不況も損害額の規模は全く違うとはいえ、日本の不動産バブル崩壊とよく似ている。ただショックによる危機を回避するために国が金融機関に税金の投入をしたのだが、山一は、「飛ばし」と呼ばれる形での大量の隠し不良債権を持っていたが当時、多くの銀行の債務超過が公然の秘密であったが、それを公的資金投入によって救済するため世間を納得させるために無理矢理破綻させたともいえるのに対し、リーマンのケースはそれを隠しに隠していた。そして、その損害額そのものも山一の500倍もあり、この桁違いの債務超過による破綻劇であったことから全世界の激しい信用収縮が始まったといえる(※14参照)。
前の「山一證券が自主廃業を決定」のブログでも書いたが、山一だけでなく、これら企業が損失隠しのため有価証券への虚偽記載をしているにもかかわらず、会社の取締役・監査役、それに、会計監査人である監査法人が知らなかったというよりも、黙認していたことが一番の問題であるが、今回の大王製紙事件やオリンパス事件を見ていても、今の時代になってもこれら一部上場の大手企業のガバナンス(corporate governance)に問題があることが、露見したことが一番問題視されなくてはならないのではないだろうか。
上場企業の決算書類が信用できないでは、金融市場がまともに機能するはずが無い。これら役員や監査法人の責任の追及されるべきだが、会社や代表取締役を監視し物言わなくてはならない立場のものがその会社から報酬を受けていたのでは、どうしても強い対場を貫きにくい。表面的な体裁だけを整えたような現在の会社法などを見直しをし、本当に有効な内部統制の強化をどのように構築するか検討しなければ、何時までもこのような不祥事が起こるのではないか。そうしなければ、日本企業の信用、それを許している日本の国の信用が問われるようになると思うのだが・・・。
参考:
※1:国家財政 - Yahoo!ニュース
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/budget/
※2:金融経済用語集
http://www.ifinance.ne.jp/glossary/
※3:大王製紙前会長への巨額融資問題- Yahoo!ニュース
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/daio_paper/
※4 :Yahoo!辞書
http://100.yahoo.co.jp/
※5:時価会計とは何か - 金融用語辞典
http://www.findai.com/yogo/0050.htm
※6:オリンパスに関するニュース- Yahoo!ニュース
http://news.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&p=%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%91%E3%82%B9&ei=UTF-8
※7:[動画]日本代表 1997年11月16日『ジョホールバルの歓喜』
http://funfunfantasy.blog98.fc2.com/blog-entry-1268.html
※8:マネー辞典
http://m-words.jp/w/E582B5E588B8E383ACE3839DE5B882E5A0B4.html
※9:世界恐慌、1929年と現在の違い(1)Allabout
http://allabout.co.jp/gm/gc/293314/
※10:経済指標のかんどころ
http://www.cap.or.jp/~toukei/kandokoro/top/top1.html
※11:YouTube-そごう倒産 〜水島廣雄の「戦後」と「バブル」2 /2
http://www.youtube.com/watch?v=nxrqKx2ja1E
※12:第2章 日本の金融危機と金融行政(Adobe PDF)
http://www.esri.go.jp/jp/archive/sbubble/history/history_02/analysis_02_04_02.pdf#search='日本の金融危機と金融行政'
※13:森崎研究室
http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~morisaki/
※14:リーマンと山一證券の破綻はスケールが全く違う  朝倉 慶氏
http://blog.goo.ne.jp/hitsuku/e/f528d4b1b2635354e27bd600f47fa244
※15:お金と沈滞した不況
http://www.okanetochintai.com/
ビジネス法務の部屋
http://yamaguchi-law-office.way-nifty.com/weblog/
東電の救済案でよみがえる不良債権の悪夢
http://www.newsweekjapan.jp/column/ikeda/2011/04/post-314.php
1997年[ザ・20世紀]
http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/1997.html
北海道拓殖銀行の経営破綻
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/2912/taku.htm
今日のことあれこれと・・・山一證券が自主廃業を決定
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/89a0ea86810d2e5e687c93d2ea8f9a6a
山一証券、破産手続き きょう終了: 泥酔論説委員の日経の読み方「山一証券、破産手続き きょう終了」
http://deisui-nikkei.seesaa.net/article/210325879.html
山一證券- wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%80%E8%AD%89%E5%88%B8
税務会計用語辞典
http://www.keikazf4.com/zeimu/index.html

第1回神戸マラソン開催

2011-11-20 | 行事
マラソン発祥の地神戸で、待望の都市型市民マラソン大会「第1回神戸マラソン・(KOBE2011)」(※1)が、今日(2011年11月20日)開催される。
種目 は、マラソン(42.195km ) と、一般市民向けのクォーターマラソン(10.6km ) の2種目。
開始時間は、マラソン・クォーターマラソン共に、9:00 に神戸市役所前をスタート。
通常のフルマラソンは、神戸市役所をスタート後、明石海峡大橋袂(県立舞子公園付近)を折り返し、ポートアイランド(市民広場付近※2参照)をフィニッシュとするコース(日本陸上競技連盟およびAIMS公認コース。AIMSについては※3、※4参照)、を、クォーターマラソンは、神戸市役所前をスタートし、須磨浦公園をフィニッシュとするコースを走る。
制限時間は、フルマラソンが、7時間となっており、16:00に終了、 クォーターマラソンは、2時間で11:00終了 となっている。交通・警備、競技運営上、一定の距離ごとに関門閉鎖時間を設けており、関門以外にも著しく遅れた場合は、競技中止を指示することとなっているが、これは止むを得ない処置である。
景観の良い観光都市と知られている神戸の市街地は、山が海に迫り、南北はその狭い地にあり、東西に長く延びている。そこに、東西を結ぶ幹線道路が走っているわけで、普段から交通量の多いところである。
今日は、マラソンのスタート、ゴール地点の神戸市中央区から折り返し点の垂水区(明石海峡大橋の起点がある)にかけて交通規制が行なわれるが、特に影響が大きいとみられるのが普段から交通量の多い神戸市須磨区から垂水区の国道2号(浜国道【国道250号】と重複路線)は、約5時間“封鎖”されるが、「大阪や京都と違って、南北を結ぶ歩道橋や地下道がほとんどなく、規制中は人も一切行き来できなくなる」問題があり、このような大規模な交通規制で沿道で混乱が起きるのではないかと大会関係者や県警関係者などが心配しているようだ(※5)。
神戸マラソンのコース及び交通規制マップは以下を参照。
ランナー向けコース詳細マップ PDF(約1034KB) (クリックで画像は拡大できる)
日本においてはオリンピックでもマラソンは常に注目競技の上位であった。1964年(昭和39)年の東京オリンピック円谷幸吉が3位、つづく1968(昭和43)年のメキシコオリンピックで君原健二が2位になるなど、日本の男子マラソンが知名度の高いレースで優勝・上位入賞する時代があった。一方日本人女子マラソン選手は、1992(平成4)年バルセロナ五輪で有森裕子が銀メダルを獲得し、次の1996(平成8)年アトランタでも続いて銅メダル を獲得する快挙をなすなど、1990年代前半からは、女子マラソン選手が世界的な競技大会で活躍を見せるようになり、2000(平成12)年シドニーでは、高橋尚子がオリンピック新記録で、日本の女子陸上競技として初の金メダルを獲得。次の2004(平成16)年アテネでは、野口みずきが高橋に続いて金メダルを獲得しオリンピック連続優勝を果たした他、出場した他の土佐礼子、坂本直子の2選手も入賞を果たすという快挙を成し遂げた。又、強豪揃いで、不振の続いていた男子マラソンでも油谷繁、諏訪利成の2選手が3大会ぶりの入賞(5位6位)を果たし、世界に日本のマラソン陣営の層の厚さを見せ付けるが、特に女子マラソンは、男子選手が低迷するするなか、諸外国と比べても最も選手層が厚いといわれるほどの全盛時代を迎えた。
それが、日本人のマラソンへの関心をますます高め、その上、近年の健康志向の高まりとともに、ウオーキングやジョッギングなどからハードなスポーツであるマラソンも、今までの見るマラソンから、市民が参加するマラソンへと発展してきた。
わが地元兵庫県の篠山市内で、1981(昭和56)年以来3月に開催されている篠山ABCマラソン大会など、従来から市民ランナーが参加できるマラソン大会は日本にも多く存在している(日本国内の主な市民マラソン大会参照)が、アメリカ合衆国の「ニューヨークシティマラソン」、「シカゴマラソン」、「ボストンマラソン」などと並ぶ「全米4大マラソン大会」の1つ「ホノルルマラソン」などにも日本人が多数参加するようになったことから、これらに、匹敵するような市民参加型の大規模シティマラソンとして、石原慎太郎都知事の肝いりで計画されたのが2007(平成19)年に始まった東京マラソンであった。日本陸連公認の大会(ここ参照)としては初めて市民ランナーにも開放され、交通遮断の問題なども懸念されたが、参加人員も3万人規模の大会として大成功を収めた。
そして、やっと、我が地元・神戸市でも、『第1回神戸マラソン』として、開催されることとなった訳であるが、実は、この人気のマラソンの日本での発祥の地は、神戸なのである。
今より、102年も前の、1909(明治42)年3月21日、神戸の湊川埋め立て地(現在の新開地)から大阪の西成大橋(現淀川大橋)までの31.7キロの「マラソン大競争」が行われた。日本で「マラソン」という名称が使われたのは、この大会が初めてである。

(上掲の画像がこの日本での初マラソンの様子である。写真は「中学世界」掲載のもので、画像は、蔵書のアサヒクロニクル「週間20世紀」1908-1909年号より借用した)。
世界で最初にマラソンレースが行われたのは、1896(明治29)年に開催された第1回アテネ近代オリンピック(ギリシャ)でのこと。ボストン体育協会が、現在とほぼ同じコースで初の都市マラソン、「ボストンマラソン」をスタートさせたのはその翌年である。当時アメリカはまだニューヨークの時代ではなく、アメリカ代表の大半はボストン体育協会の選手だった。このような歴史がある事から、「ボストンマラソン」は今でも最も格式ある老舗レースとして見られているようだ。
この12年後、第4回ロンドンオリンピック(1908年、イギリス)の翌年に開催と言うのだから本当に早くから行なわれていたことになる。
日本で初めての神戸で開催されたマラソンは大阪毎日新聞社主催による「阪神間二十哩(マイル)長距離競走」であった。陸上の距離の計測に用いられる1マイルは、1,609.344メートルであるため、約32キロメートル走ということになる。
因みに、現在のマラソンの距離は42.195kmと設定されているが、これは古代マラソンに直接由来するものではなく、 オリンピックでマラソン競技が実施された当初は、大会ごとの競技距離は一定ではなく(同じコースを全選手が走ることが重要とされていたため)、当時の規定では、40kmを目安とするというものであったため厳密な実測はされず、第1回アテネのマラソンの距離について、後年の測定では36.75kmの走行距離であったそうだ(小学館編集部による)。競技距離が42.195km(26マイル385ヤード)と統一されたのは、第8回パリオリンピック以後のことだそうである(Wikipedia-マラソン)。
この1909(明治42)年の神戸でのマラソンへの、参加申込者は408人にのぼり、体格試験によって120人に絞り込まれ、当時は兵庫県武庫郡鳴尾村(1951年西宮市に編入され消滅)にあった鳴尾競馬場で予選が実施され、出場選手20人が決まり、大会当日の午前11時30分、当時の神戸市長水上浩躬(※6)が、短剣で選手の前に張られた紅白のテープを切り、スタート。1位は、身長161・4 cm。がっしりした体格の岡山県在郷軍人の金子長之助選手だったそうだ。
序盤、長之助は7番手と出遅れたが、現在の東灘区辺りで奮起するが、きっかけは「なんだ、みっともない」という沿道の怒声。同郷の友人だったという。さらに、神戸出身のライバルに送られる大声援。御影付近でわらじの緒が緒が切れるアクシデントがあったが、脱ぎ捨てて走り続け、芦屋で2位、西宮で先頭に出、尼崎までに一気に離して走り続け、タイムは2時間10分54秒、2着を5分近くも引き離しての逆転優勝であったという。
優勝者には、300円の賞金のほか、金時計や銀屏風などの豪華な賞品が贈られたそうだ。当時の銀行員の初任給(大卒)が35円、牛肉100g10銭(アサヒクロニクル「週間20世紀」)と言うから、相当な賞金である。
明治のこの時代、日本初のマラソンの沿道を絶え間ない観衆が包み応援しているのも、スポーツ史に詳しい神商大(現兵庫県立大)の棚田真輔名誉教授は「神戸だから盛り上がった。居留地の外国人の持ち込んだスポーツにいち早く触れ、関心が高かった」からだろうといっている。
このマラソン大競走の37年も前、「神戸レガッタアンドアスレチッククラブ」が、神戸の外国人居留地摩耶山天上寺間で長距離走の競技会を既に開催していた。マラソン大競走で、長之助の反骨心に火を付けた大声援。長距離走の魅力を知っていた神戸ならでは、と言えないだろうか。」・・・・と言っている(※7参照)。
今、「第1回神戸マラソン」(2011年11月20日実施)のスタート地点でもある神戸市役所前に、「日本マラソン発祥の地 神戸」の記念碑が建てられている。

上掲の画像は「日本マラソン発祥の地 神戸」の記念碑(※8の神戸市HPより借用)。
今回開催される「第1回神戸マラソン」を記念して、神戸須磨ライオンズクラブが同市に寄贈したもので、高さ約130cm、幅約185cm、厚さ約60cmの石板に5人のランナーの後ろ姿が切り出されている(日本初マラソンのことは※5、※6、※7等参照)。
このような日本初のマラソン開催地でありながら、これだけ人気の高いマラソンを今日まで開催できなかったのは、1995(平成7)年阪神淡路大震災からの復興が急がれたことのほか、先に述べたような神戸独特の地形による交通規制の難しさも有ったからであろう。
そのような都市事情の中、神戸市に本社を置く医療機器メーカーで、野口みずき(2004年アテネオリンピック女子マラソン金メダリスト・現女子マラソン日本記録保持者) が籍を置く シスメックス など多くのスポンサーやボランティアの協力を得て、今日は、神戸の町を、メキシコ五輪銀メダリスト君原健二やソウル五輪銀メダリストダグラス・ワキウリらゲスト奏者や兵庫県ゆかりの招待選手体を含め約2万5千人が駆け抜ける。
交通規制で、不便をかけるドライバーや地域の皆さんには、色々不満もあるだろうけれども、神戸にとって歴史のあるマラソンを復活させるために、今日1日は我慢して優しく走者を見守り、応援してやって欲しいと思います。
今回開催される「第1回神戸マラソン」のテーマーは、
”被災から復興、そして現在にいたるまで、手を差し伸べていただいた国内外の人々や地域へ感謝の気持ちを現したい。
神戸マラソンは、「自分のために走ることはもちろんだが、それ以上に「人々のために走る」マラソンをめざしている。
そのコンセプトの根底にあるのは、「仲間」「共同体」という気持ち。
創造的復興を果たした兵庫・神戸の姿や、震災の経験・教訓を世界中の被災者に提供していくという行動は、
すべての人が仲間であり、喜びも悲しみも分かち合うという考え方に基づいている。・・・”ということだ。
ただ、本番前の前日19日神戸市内のあいにくの荒天に見舞われ、雨と強風のためポートアイラドで始まった屋外イベントもも中止となってしまっそうたが今日はどうなるのだろう。とにかく昨日の夕方から雨は上がり、今日は曇り空ながら太陽が輝いておりランナーには支障はなさそう。
走者の健康上の問題等も守るため大勢の医師たちもボランティアとして参加しており、実際に走者と走りながら、何かあれば即対応できる体制もとっているので安心して走りを楽しんでください。
沿道の各所での地元や東北の被災地の美味を集めたグルメフェスなど多彩な応援イベントも実施する予定になっていたがそれが予定通りに行なわれかどうかはわからないが、皆で一緒に楽しみたいもの。
そして、事故やトラブルもなく、無事に終了してくれることを一市民として心より願っています。
なお、今年からの都市型フルマラソン「神戸マラソン」開催により、昨・2010(平成22)年まで31回開催さていた「神戸全日本女子ハーフマラソン」はこれに吸収され発展的解消する形となった。
(冒頭の画像は、2011・11・17朝日新聞朝刊よりカット)
参考:
※1:KOBE2011(第1回神戸マラソン)公式ページ
http://www.kobe-marathon.net/
※2:神戸ポートアイランド市民広場 | トップページ
http://www.siminhiroba.net/
※3:AIMS|ランニングクラブ「Wisdom.RC」
http://ameblo.jp/wisdom-rc/entry-10118020363.html
※4:公認記録について
http://net-rc.com/bible_02.html
※5:神戸マラソン 大規模な交通規制で沿道混乱も
http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0004586023.shtml
※6:神戸市文書館 収蔵資料:古文書
http://www.city.kobe.lg.jp/information/institution/institution/document/shiryou/komonzyo02.html
※7:マラソン大競走(上) - 神戸新聞
http://www.kobe-np.co.jp/rentoku/sports/201103marathon/01.shtml
※8:神戸市:神戸を知る: 日本マラソン発祥の地神戸
http://www.city.kobe.lg.jp/information/institution/institution/library/furusato/marathon.html
※9:マラソン:日本初開催から100年 走る喜び、今もなお - 毎日jp(毎日新聞)
http://mainichi.jp/enta/sports/graph/2009/marathon100/
神戸ランナーズステーション/RunSta
http://www.run-sta.com/index.html
公益財団法人 日本陸上競技連盟(JAAF)
http://www.jaaf.or.jp/fan/
Yahoo!辞書 新語探検
http://dic.yahoo.co.jp/newword?category=8&pagenum=31&ref=1&index=2008000025


肺がん撲滅デー

2011-11-17 | 記念日
いつも参考にさせてもらっている「今日は何の日~毎日が記念日~」(※1)に、今日・11月17日の記念日として「肺がん撲滅デー」があった。
由緒を見ると、“2000(平成12)年9月に東京で開催された国際肺癌学会で制定。アメリカで11月第3週が「たばこ警告週間」となっていることから。”・・・とあったので、東京で開催された国際肺癌学会でどのようなことが話し合われたのかを検索すると、以下参考の※2:NPO法人 「子どもに無煙環境を」推進協議会のページに、国際肺癌学会(IASLC)東京宣言2000年9月14日というものがあった。
そこには、“肺癌は世界で死の最も高いものである。男女共にその発癌発病率の急増は警鐘を鳴らす状況にある。肺癌の9割は喫煙及び受動喫煙によるものであり、そのため予防可能なものといえる。喫煙はその他の多くの癌(ガン=悪性腫瘍の俗称)、循環器系疾患及び慢性疾患の主な原因ともなる。子供の喫煙によるニコチン中毒は世界的な流行病であり、速やかな対応を必要とする。禁煙は肺癌発生の抑止と、高騰する医療費の抑制を計る最良の方法であり、ひいては世界人類の公衆衛生の向上と豊かな生活を成就することができる。”として、これらの目的を達成するために国際肺癌学会(IASLC)は以下の事項(1~5)を宣言している。
1. 政府に対し、
1)子供の喫煙によるニコチン中毒>を防止するための新しい方法の開発
2)分煙などによる非喫煙者の保護のための公共施設・交通機関内での禁煙
3)政府広報・公共広告を通して、喫煙の害・禁煙の啓蒙
4)禁煙を目的としたタバコ税の増額
5)喫煙者に関わる医療費の一部自己負担制の新設
6)初等中等教育での禁煙教育を行うための法令整備、行政指導、予算措置を要望する。
2. 医学会や医療機関に対し、禁煙運動と禁煙教育への協力支援を依頼する。
3. 医療関係者に対し、禁煙のためのカウンセリング技術の習得を要請する。
4. 産業界・メディアに対し、タバコの広告宣伝及びセールス活動を廃止するように要請する。
5. 国際肺癌学会は、肺癌に関する資料を公共のために提供する。
以上の宣言は、要するに、タバコは害があるので、さまざまな「喫煙規制」をしようということのようだが、このような喫煙を規制するようになった理由としては、世界保健機関(WHO)の「たばこ規制枠組条約」が世界的な合意を得たからだと聞いている。
タバコは、葉の成分に習慣性の強いニコチンを含むナス科(ニコチアナ【Nicotiana】 タバコ属)の一年草の亜熱帯性植物で、南北アメリカ大陸の熱帯から温帯にかけてと、オーストラリア・南太平洋諸島・アフリカ南西部などに分布し、約66種が知られているが、そのうち45種が南北アメリカ大陸と、その周辺部に生育し、先住民族が使用していたというから、タバコ文化の発祥はアメリカだといってもよいだろう。
このタバコは1492年にアメリカ大陸を発見したコロンブスがヨーロッパに持ち帰ってから最初は、観賞用、薬草として栽培されたり、万能薬として医療にも用いたりされた(タバコの語源は、スペイン語やポルトガル語の "tabaco"で、スペインでは薬草 類を "tabaco"と呼んでいたらしい)。その後、疲れや緊張を和らげてくれる手軽な癒しの手立てとしての嗜好品として愛用され、百年も経たないうちに世界の隅々まで普及しているが、その当時から、ヨーロッパでは、タバコによる悦楽や慰みにふけることを背徳的な行為と考える人々の間では、タバコの使用はもともと野蛮な異教徒の忌むべき陋習であり、医療行為としてのみ許されるべきであるという主張が直ぐに高まり,その後も、たばこの乱用を戒める声は続いていたというが、庶民から居酒屋(パブ)などでの喫煙を奪うことはできなかった(国中に普及していた喫煙の風習を最初にたばこに反撃を試みた人物は、イングランド王ジェームズ一世だとされている)。しかし、現在では、タバコの喫煙は、世界的に、癌・高血圧心臓病などの重大な疾患の原因になるほか、受動喫煙の問題などマイナスのイメージが強くなり、さまざまな団体による喫煙規制や禁煙運動が進められている。
このタバコの歴史については、以下参考の※3:「たばこの歴史」や※4:「アメリカにおける「喫煙と健康」論争の誕生と進展」に詳しく書かれているが、タバコの喫煙と健康問題については、後者の方で簡潔に纏められているのでそこから、最近の動きが発生するまでのアメリカの状況がどうであったかを引用させて貰おう。
タバコ文化発祥の地であり、葉タバコの栽培で植民地の最初の基礎を築いたアメリカにおいて、タバコは当初からヨーロッパであったと同様の非難の対象となってきたようであり、北米植民地(13植民地参照)に於ける初期の反タバコ運動は、マサチューセッツ州議会が1634年、公衆の面前でタバコを摂取することや2人以上の者が一緒に喫煙することを禁止する法律を成立させ、コネチカット州でも1640年、タバコの使用を抑制する法令を制定したが、タバコが、植民地の主要な輸出品となっていくにしたがって、1646年に共に廃止されたそうだ。
これが再び勢いを盛り返すのは独立戦争以後のことで、それは北部を中心に始まった禁酒運動と一緒に進められたという。
アメリカ独立運動宣言の署名者の1人で医師のベンジャミン・ラッシュは、1798年、合衆国で最初の注目に値する反タバコ論文とされる「タバコの習慣的使用の健康・道徳・及び財産に対する影響についての考察」を発表し、その中で、彼は「口と喉が喫煙やタバコの汁の刺戟にさらされたあとでは、どんな鎮静剤や気の抜けた酒もまずい。当然、欲求は強い酒に向かい、直ぐに暴飲と酒びたりになっていく」と指摘して、タバコの酒への悪影響と両者の関連性を強く主張していたそうだ。
因みに、Wikipediaによれば、ラッシュは一般に長老派教会員と考えられていて、フィラデルフィア聖書協会の創立者の一人であったそうで、依存症という概念を発明したとも言われている人で、ラッシュの頃まで、酔っ払うことは罪深いことであり、個人の選択の問題とされていたが、彼はアルコール依存症が自制心を失わせるという概念を紹介し、病因として、アルコール依存の選択よりもアルコールの特性であるとし、依存症の概念を発展させ断酒が依存症に対する唯一の治療法であるとしていた人だそうだ。ただ、ラッシュは、アルコールの過度の乱用が身体的かつ心因的な健康に有害であると主張したのであり、彼は後に成立する禁酒法よりも、むしろ個人による節度を信じていたという(Wikipedia)。
ラッシュの警告は、1833年の「アメリカ禁酒同盟」(禁酒法参照)の結成と同時に盛り上がった禁酒運動とともに、多くの社会改革運動家によって、強化された。
しかし、南北戦争とその後の4半世紀の間は、反禁煙の風潮が再び減退したが、19世紀末からシガレット(紙巻きタバコのこと)の台頭がこれにもう一度火をつけた。それは、シガレットが新奇で手軽なため女性や未成年者も手を出すようになったことが、良識ある人たちの顰蹙を買ったようだ。
タバコ反対運動は第一次世界大戦以後に全国で支持を集めたが、そこには、社会的影響力をもつ人達、「発明王」の名を持つトーマス・エジソン、自動車王ヘンリーフォードといった人々の影響が大きかったようであり、1920年1月タバコ反対を主張して大統領選に立つと宣言したルーシー・ベイジ・ガストンもその1人で、彼女はもともと「婦人キリスト教禁酒同盟」(※5参照)に関係しており、シカゴを拠点に活発な活動をし、州議会などにシガレット禁煙令を制定するよう働きかけていたそうだ。彼女が1924年死去した後の反タバコ運動の最も突出したリーダーは、「アメリカ非喫煙者保護同盟」のチャールズ・G・ピース博士だったという。
こうした社会改革運動家たちの活動が功を奏して、テネシー州では1897年、ニユーハンプシャー州では1901年、イリノイ州では1907年など各州で始まった立法化の波を受けてタバコ反対運動は全盛を極め、1921年まで拡大を続けていた。この時期、喫煙者とタバコ会社に関して何らかの法律が制定され、28州の法令集にシガレットの製造・販売・広告・使用に関する規定が書き換えられたが、禁止の度合いには非常に幅があり、アイダホとユタの2州を通過した法案のみが明確にシガレット全面的禁止を規定していたに過ぎなかった。また、多くの場合制定と同様に法律の撤回も迅速に行なわれ、しばしば財政上の必要性がその理由とされたようだ。
それでも1926年まではカンザス、アイオワ、インディアナ、ミシシッピーの諸州ではまだ反シガレット法が生きていたが、1930年までには本来の形で法律を残している州は殆どなく、効力のある唯一の禁止事項は、「未成年者へのタバコの販売」に関してのみであったという。
他方、禁酒法は1851年の「メイン州法」を皮切りに州法レベルの成立が相次ぎ、1919年には全国禁酒法」がアメリカ連邦議会でも通過し、翌1920年1月から1933年12月に廃止されるまで14年間も生き続けていた。これに比べ、反タバコ運動は禁煙法の制定は遅々たるもので「禁煙運動」は「禁酒運動の頼りない妹」に見られていたといえるだろう。・・・と述べている。
その後、ドイツでは、1942年にヒットラーがナチズム喫煙規制政策をとり健康有害、公衆衛生教育など反喫煙キャンペーンを行ったことが伝えられているが、その他の国では、第二次世界大戦中は影を潜めていた反たばこ運動であったが、戦後、肺癌の増加傾向が見られるようになると喫煙との関係が疑われる様々な実験や報告も行われるようになり、喫煙と人体への影響はまだ曖昧だとしても、少なくとも病理学の一分野では、タバコが人体に有害な可能性があると見られるようになり、このころより、反たばこ運動の焦点は製品であるタバコそのものよりも、タバコを吸う「喫煙」者そのものが否定される社会へと移行していくことになる。
その後,大規模な疫学調査(統計的な解明)の結果に基づいて、1964年にアメリカ公衆衛生局諮問委員会が「合衆国の人口中、シガレットの喫煙と因果的に関連している死亡か過多数の合計は、正確に推定することは出来ない。」としながらも、「シガレットは喫煙が特定の疾患による死亡割合や全体の死亡率に実際に寄与しているものと判断している」との報告を出し 、次の1967年の報告では、「喫煙問題は肺癌の主要な原因として圧倒的なものとなりつつある。・・・研究結果は、タバコ喫煙が冠動脈 心疾患による死亡の原因となり得ることを強く示唆している」と、前回の幾分暫定的な報告からかなり断定的な報告となり、こうした姿勢が1968年、1975年、1979年の報告でも堅持されたようになり、喫煙の健康に対する人々の懸念は一層高まっていったようだ。
公共の場所における喫煙を包括的に制限する法律を初めて成立させたのは、1973年米国アリゾナ州であるが1980年代に入ると、州・郡・市レベルまで喫煙関係条例が増えて行った。
世界保健機関が設立40周年を迎える1988年には、「世界禁煙デー」(※6)を毎年5月31日とすることが定められ、翌1989年以降この日に実施されるようにもなった。
カリフォルニア州は、1994年に働く場所での喫煙を禁止する法律を成立させ、1998年には壁で囲まれた場所における喫煙を完全に禁止する法律を成立させている。
米国に於いては、1992年以降、喫煙による被害者ばかりでなく受動喫煙者、反喫煙運動家、医療提供者等を原告、たばこ会社や小売業界、広告会社を被告とするタバコ訴訟が増えていった。
1997年11月、州政府との訴訟で主要なたばこ会社5社が、総額2,460億ドル(約25兆円)を25年にわたり支払うという「和解」をせざるを得なくなった。この結果、ニューヨーク市等では、多くの銘柄が1箱7ドル(約840円)になり、当時の日本の3倍以上の値段になっている(※7)。
そして、2003(平成15)年5月21日、冒頭で述べたWHOの「たばこ規制枠組条約」が、世界保健機関(WHO)第56回総会で全会一致で採択され、日本では、翌年3月9日 ニューヨでこれに署名し、 2005(平成17)年2月2日 公布及び告示(条約第3号及び外務省告示第68号)、同年2月27日より、効力が発生している(※6参照)。
思い起こせば、私は、現役時代、アメリカへは1996年~1999年の間に2度米国西海岸一帯の流通業視察と観光を兼ねて行ったことがあるが、1996年の最初行った頃は、日本でも禁煙運動あったものの緩やかであり、私のいた会社でもまだ社内での喫煙は禁止事項とはなっていなかったが、社長以下重役連は禁煙をしており、禁煙を出来ない人は自制力が無いような雰囲気が出来始めてはいた。しかし、まだまだ、喫煙が身体に悪いという認識は殆どの喫煙者にはなく、ただ、勤務中に事務所内での喫煙はばかられ、吸いたい時にはそっと、席を離れて休憩所や食堂などでカップコーヒーなど飲みながら自由に喫煙をしていた。
私も当時は喫煙をしていたので同様であった。ただ、実際に米国西海岸への視察で、現地に着くと、非常に限られた場所でしか喫煙できるところはなく、喫煙できるレストランなどへ行っても、奥の隅に、ごく限られた場所に狭く仕切られたところが喫煙席になっており、そこに座っているだけで、周囲の人達から、蔑むような冷たい視線を浴び、本当に厭な思いをした。
そして、米国では、低所得者層の住むダウンタウン周辺地域、それに、中・高所得者層の住む郊外の地域では、全く環境が異なっており、低所得者層のいる地域では、あちこちにタバコの吸殻が見られるが、中・高所得者層のいる地域では、全く見ることはなかった。明らかに、所得階層によって、禁煙への取り組みも違っていることを見て驚いた。
それでも、私は、帰国後も、喫煙をしていたが、3年たった2度目の視察の時には、前回の視察で味わった屈辱的な思いだけはしたくなかったので、これを機会に、禁煙をした。だから、私は、当時でも、タバコが、身体に悪いからと思って喫煙をしたわけではなかった。
私は若い頃、気管支喘息の気もあったのでタバコなど会社へ入社当時は吸っていなかったのだが、商社と言う仕事柄、営業に出て一対一での交渉ごとや夜の付き合いも多く、どうしても、タバコでも吸わないと間が持たないというので吸い出したので、もともと吸っても1日、1箱程度しか吸わなかったから簡単に禁煙できたのだろう。
タバコと違って、酒の方は、会社の連中から 「うわばみ」とあだ名されるほどの底なしの飲兵衛で、類は類を呼ぶで、同じような飲兵衛仲間が沢山出来、酒は浴びるほどに飲んでいたため、定年の頃には、御蔭で肝臓がすっかり弱ってしまって、医者にも注意され、肝臓の薬は飲んでいるが、それでも、今だに、毎晩晩酌は欠かさない。凡そ、私は、大人になって夕食に、ご飯を食べたことはなく、定年後になってから、月2~3回意識的に、飲まない日を作っているだけである。
だからと言って、適量を越えた酒やタバコが身体そのものに良いものとは思っていないし、特に酒以上に、タバコなどニコチンを含んだ煙を吸ってそれが身体に良いわけはないと思っている。
しかし、先にも記した2000年の国際肺癌学会(IASLC)東京宣言にもあるように、酒やタバコが身体に良くない面があるから未成年者の喫煙を禁じることとか、周囲の人に迷惑をかけないように受動喫煙者を亡くすようにすべきことなどの宣言は理解できるが、私は既に、タバコは禁煙しているので直接関係はないものの、「禁煙を目的としたタバコ税の増額」や「喫煙者に関わる医療費の一部自己負担制の新設」といったことについては、どうも方法論が違っているのではないかと言う気がする。
タバコ税については、民主党鳩山由紀夫政権(当時)では2010(平成22)年10月のたばこ税増税(※10参照)の目的を「健康目的の為に喫煙者を減らす」と記者団に語った事から、いつの間にか「健康目的の懲罰税」の性格を帯びてくる様になってきた。これは、以下参考の※11:「厚生労働省:2009年世界禁煙デーについて」を見ても分かるように、禁煙週間のテーマ「煙のない健康的な社会づくり」が、WHOのスローガン:「警告!たばこの健康被害」を受けてのものであろうが、これに対し「たばこ税の元々の目的ではなくなっている」と批判する声も挙がっている。
今年(2011年)も小宮山洋子厚生労働大臣が9月5日の記者会見で、2012年度税制改正に向けて、たばこ税の増税を財務省に要望する考えを明らかにした。
増税の理由として、先進国の中で日本のたばこの値段が安いことや、タバコは1箱【20本入り】あたり約400円だが「1箱700円くらい までは、値上げで販売量が減っても1本あたり税収が増えるため全体の税収が 減らない」と強調し、大幅な引き上げに意欲を見せたが、タバコ税の所管官庁は財務省であり、小宮山と同じNHK出身の安住淳財務大臣は、小宮山の発言に不快感を示し、野田内閣発足早々、まとまりの悪さを暴露した形だが、超党派による禁煙推進議員連盟の事務局長をも務めていた彼女は、昨年9月のインタビューでも「なるべく早く先進国並みの1箱600円まで値上げ」「1箱1000円くらいまでは値上げしてもいい」と語り、そのメリットとして健康促進、受動喫煙減少、医療費削減、未成年者の喫煙防止、寝たばこ火災抑制の5つを挙げていた(※11)。
しかし、東日本大震災の復興財源にあてる増税の種類や税率について、民主、自民、公明3党の税制調査会は、11月10日、野田政権が予定していたタバコ増税そのものは見送ることになった(個人住民税の増税額の引き上げなどで穴埋め)ようだが、又、そのうちに増税の話は出てくることだろう。
タバコ税とはたばこ税法(昭和59年8月10日法律第72号)に基づき、「製造たばこ」に対して課される税金(いわゆる「国たばこ税」=狭義のたばこ税)であり、酒税法(昭和28年2月28日法律第6号)に基づき、酒類に対して課される酒税同様の国税(※12)であるが、何かあると、なぜこれらの酒やタバコなどに税金がかけられるかについての詳しくは、Wikipediaの酒税タバコ税を見てもらえば分かるが、1つには、酒、タバコは共に、嗜好品(=贅沢品的なもの?)であり、その消費については税金を負担できるであろうとされているのだろう。それに、どちらも、蔵出し税であり、出荷した時に徴収する税金である為、取りっぱぐれが無い。酒税はもう、これ以上上げられないぐらいになっているので、これ以上税金を上げると業界の反発が強い。それに比べて、タバコの販売元は、今は民営化されたとはいえ、もとは大蔵省の外局であった日本専売公社であり、政府には逆らえず、国民さえなんとか大義名分をもって納得させれば、増税しやすいので、特に値上げの標的にされやすいところがあるようだ。
タバコが、本当に健康上悪いだけの代物であるならば、製造や販売そのものを禁止していくべきだと思うのだが・・・・。
ただ、世界保健機関(WHO)は、アルコールも癌(ガン)リスクを増大させるとして警告を行っており、WHO傘下の国際がん研究機関(IARC)では飲酒は、がんを引き起こす元凶と指摘している(Wikipediaの参照)らしいので、タバコは既に禁煙しているものの、今では毎日の晩酌を唯一の楽しみに生きている私には、この問題がお酒にまで飛び火したときには、生き甲斐がなくなってしまうので困るよな~・・・。
江戸時代の本草学者である貝原 益軒(1630年=寛永7年 - 1714年=正徳4年)によって書かれた健康な生活の暮し方についての解説『養生訓』(内容は※13又※14参照)が「酒、タバコ」についての解説もしているので、そこにはどんなことが書いてあるか、判りやすい現代語訳の※14:「養生訓 (抄訳)」から、見てみよう。直接、酒・タバコに入る前に先ず、巻第二総論 下に書かれている“飲食”についてその一部を抜粋してみよう。
7 飲食はひかえめに
“飲食は人が生きていくために必要なものである。でも必要以上にむさぼってはいけない。食欲を抑えることも必要である。食べ過ぎてしまい、そのために胃腸薬を服用すると、胃の本来の働きが弱くなってしまう。食欲を抑えるには、精神力が必要だ。病気になることを怖れることを忘れないようにしなければいけない。
10長命と短命
“長命と短命を決めるのは、人の生き方による。自分の思うがままの生活をつづければ、健康を損ない短命になる。逆に節度をもった生活を続ければ長命でいられる。”・・・。
正に、ここに記されている通りである。これを前提に、第四巻飲食 下の中で、記されている酒、タバコについてみてみよう。以下のように書いてある。
44 酒は天の美禄
“お酒は、天から与えられた褒美である。ほどよく飲めば、陽気になり消化を助け、心配事から開放され、やる気を出す。しかし、多く飲めば害になる。たとえば火や水は人の生活になくてはならないものであるが、同時に火災や水害ももたらす。そういうものである。酒を多く飲むと寿命も縮めてしまい、せっかくの天からの褒美も台無しである。
45 多飲の戒め
“お酒というのは、人によって多く飲める人と飲めない人がいる。少ない量で気持ちよくなる人は、多く飲む人より酒代が少なくてよく、経済的である。日々我慢をせず、多く飲むことが習慣になってしまうと、身を崩してしまう。慎まなければいけない。”
このほか、酒は、空腹時に飲むと害になるとか、冷や酒は良くないので、程よく燗(かん)をした酒が良いとか、酒を飲むときは甘いものを食べてはいけない(これは今の医学では誤りとも聞くが・・・)。焼酎は(度数が強い)ので毒があるから多く飲んではいけないとか色々と書かれており、
51 酒と命 では、
“長寿な人たちは、ほとんど酒をのまない。お酒を多く飲む人が長寿なのはめずらしい。酒はほろ酔い程度に飲めば、長寿の薬となるだろう。”・・・・等々。
いちいち、ごもっともと、感心することばかりであるが、私など、若いうちの無茶のみをただただ反省するばかりである。
仕事柄、相当ストレスの沸く仕事をしていたので、そんなストレスを発散するには、気の合う飲兵衛仲間との酒が一番であったが、それが祟ったのか、かっての飲み友達の多くは既に、私より、先に、旅立ってしまっている中、私だけ未だにしぶとく生き残っている。酒だけではなく、仕事中に、ホット息抜きをするときなど、一服のタバコはいいものであった。
しかし、酒に比べてタバコのことは、飲茶 ならびに煙草の項に以下のように簡単に書いてあるだけである。
60 煙草の害
“たばこは天正(1573年)・慶長(1596年)年間の近年になって、他国から渡ってきた。「淡婆姑」は日本語ではない。
煙草は、毒である。煙を吸い込むと目が回り倒れることもある。習慣になれば害も少なくなり少しは益もあるといわれるが、害のほうが多い。病気になったり、火事になったりと心配ごとが増える。習慣になると、煙草をやめれなくなり家計にも負担をかけることになる。“・・・・と。
酒は飲み方を間違えれば毒になるが間違えなければ“長寿の薬になるだろう”と書いているのに比べると、煙草は、“少しは益もあるといわれるが、害のほうが多い”と手厳しい。又、“病気になったり、火事になったりと心配ごとが増える。”ともあるが、煙草の種が日本にもたらされて、日本で栽培されるようになったのは、江戸時代初めの慶長10年(1605年)ごろだそうで、当時、薬草としてこっそり栽培している個人がいたらしい。当時は薬であると信じていたことから、好んで喫煙していたらしく、豊臣秀吉や徳川家康も煙草を吸っていたという。
冒頭の画像は、高松藩家老・木村黙老が描いた平賀源内像である(週刊朝日百百科『日本の歴史』【83】より)。
【☆画像注釈:江戸時代の本草学者、蘭学者、医者、作家、発明家、画家【蘭画家】としても有名な平賀源内 は、特に本草学に熱心で藩主松平 頼恭に引き立てられ、城下の栗林荘(現在の栗林公園)に薬草園も作っている。エレキの発明家として有名だが、煙管【きせる】を持った画像を見ても分かるように煙草(タバコ)好きで、日本初のライターとも言うべきゼンマイを使用した火打石と鉄を用いた「刻み煙草用の 点火器」を発明している。】
当時は「きせる」による喫煙が主であり、江戸時代初期には全国に普及していたが、非常に高価なもので喫煙できるのは裕福な武士か商人のみであったが、庶民の間に喫煙の風習が広がりはじめた頃、徳川幕府が、度々「たばこ」の禁煙令を内容を変えて発令してているが、その目的には「タバコ」自体への非難とは異なるもの“当時かぶき者などが多く出現したことから、そのような乱暴狼藉を働く反社会的な浪人集団が珍しい風習である「タバコ」を徒党のシンボルとしていたためそのような反駁(はんばく)府精力の抑制やタバコの広まりにより、現金収入を得られて実入りのよい「タバコ」を栽培する農家が増加し、年貢米の確保に不安を覚えた幕府が、農家による「タバコ」の栽培を禁じた”ものらしい。しかし、幕府による度重なる禁令にも関わらず、「タバコ」を楽しむ人々は増え続け、徳川3代将軍・家光の代である寛永期(1624〜1643年)に入ると、「タバコ」に課税して収入を得る藩も現れ、「タバコ」の耕作は日本各地へ広まってゆき、やがて、禁令も形骸化し、徳川綱吉が5代将軍を務めた元禄期(1688〜1703年)頃を境に、新たなお触れは出されなくなり、「タバコ」は庶民を中心に嗜好品として親しまれながら、独自の文化を形作っていくこととなったようだ(※15の徳川幕府と「タバコ」の関係参照)。このころには、専売制も出来上がり、今で言うところのタバコ税は幕府や藩の重要な財源となっていたことだろう。
貝原 益軒が『養生訓』の中で、”病気になったり、火事になったりと心配ごとが増える。習慣になると、煙草をやめれなくなり家計にも負担をかけることになる。“・・・・としているのも“火事と喧嘩は江戸の花”といわれるぐらい江戸では火事の発生が頻繁で、一番恐れられていたことから、火災予防を心配し、酒も同じだが、タバコなど嗜好品はほとんどの場合、心理的あるいは薬理学的な機序(しくみ、メカニズム)により習慣性を有し、物質嗜癖(医学上は「依存」と呼ぶことが多いらしい)の対象となりうることから、その常習性を心配してのものだったようだ。
『養生訓』巻第一 総論 上1では「人間の尊厳性」が語られている。1部抜粋すると以下のようである。
“今、自分が生きていることは、いろんな人たちのおかげであることを認識しないといけない。両親が自分を生み育ててこられたことを感謝し、そのほかに自然の恵みにも感謝しなければならない。その感謝の表現として、自分が健康で長寿を全うすることこそが、最大の感謝の表現なのである。
ひととして生きているのならば、健康で長生きすることは、誰でも願い思う最大のものである。健康で長生きする方法を知り実践することは人生の最も大事なものである、と言っても過言ではないであろう。不健康なことをして、自分の身体を病むことはとても馬鹿げたことである。自分の欲望と自分の健康とをはかりにかけることについて考えよう。(中間略)人生を楽しく過ごすのはいいことであるが、そのことで寿命を縮めることがあってはいいことでない。お金をたくさん儲けたとしても、そのために自分の健康を損ない楽しく生活を過ごせないとしたら、儲けたお金も何も役に立たないであろう。健康で長生きするほうが、大きな幸せではないだろうか。”・・・と。
近年は、健康上の理由から飲酒や喫煙にたいする規制が厳しくなってきている。特に、喫煙は、喫煙者本人だけではなくその周辺の者の受動喫煙が問題視され、各種団体の禁煙圧力が強まっている。
現代、日本人の3大死因はがん、心臓病、脳卒中だというが、これら疾患への予防・治療の研究も急速に進み、日本は世界一の長寿国になった。
しかし、長生きするようになれば、アルツハイマー病パーキンソン病骨粗しょう症など高齢者特有の疾患が増えていると聞く。
こうした病気は直接死に結びつくわけではないが、冶療が難しく長期にわたってゆっくりと進行し、人格を崩壊させたり寝たきりにさせたりする。精神的・肉体的に本人を、また周囲の人々を苦しめる。食べ物を飲み込むこともできなくなって管から栄養をとり、肺炎や心不全、出血をくり返しながら死を迎えることも多く、末期には意思の疎通すらもできなくなり自ら尊厳死を選ぶことも不可能になる。
私は仏教徒であるが、人間の人生にとって最も大切なことは、どのように死を迎えるかではないかと考えている。死を迎えたとき悔いを残し、しむことなく、周りの人に感謝の一言も述べて、安心してあの世へ旅立ちたい。
もう、平均寿命まで、そんなにあるわけでもなく、今は私が亡き後、残った妻などが困らないよう身の回りの整理や遺言作りなども徐々にすすめている。しかし、一番難しいのが、死の迎え方だ。病気も何もなしにあの世に旅立つことは出来ない。昔からのかかりつけの医師に、「一番楽に死ねる病気は何ですか?その病気で死のうと思うとどうすればよいのだろうか?」と聞いいたことがあるが、苦笑いして教えてはくれない当然だろう。医者は、病気を治療し延命をすることは出来ても、病気で楽に死ぬ方法など教えられないだろうから・・・。その答えは、自分で考えなくては仕方がない。
心臓病だとあまり苦しまずにぽっくり死ぬことができるかもしれないが、突然の死は家族や友人との別れが出来ず寂しいし、遣り残したことが出来ないかもれない。不治の病の癌だと、あとの余命が何ヵ月と宣告され、最後は苦しむのかもしれないが、自分の死期が何時頃と判れば、かえって、遣り残したことも片付けて、人生の締めくくりが出来るかもしれない。
人の死に方は、生き方でもある。寝たきりにならずに死ねるのなら、癌や心臓病で死ぬのも良いかもしれない。ただ、もう既に準備はしているが、もうこの年になって、元気に回復することが無いのなら、絶対に延命治療だけはしないよう妻や子供には言ってあるし、その時用に、延命治療を拒否する旨、医者宛の自筆文書も書いて用意してある。死を迎えるまでにやって欲しいのは、治療ではなく、痛みなどで苦しまないようにしてくれればそれで良い。だから、私自身は余り、病気になることそのものを気にはしていない。
ただ、出来るだけ、ポックリと楽に死にたいので、そのためには、元気で長生き生きすることだろうと、散歩や体操など適度の運動と暴飲暴食だけはしないよう今は心がけている。
しかし、毎日の食時では、家人が適度に栄養バランスは考えてくれているが、余り、そういうことにはこだわらず好きな美味しと思うものを食べて、肝臓の薬を飲みながらも程ほどの晩酌も欠かさず、好きなことをして人生を楽しんでいる。ただ、医者の言われて、週に1回程度休肝日をつくっているのも、大好きなお酒が飲めなくなるのが厭だからである。私は、もう、タバコは吸わなくなって20年近くなるが、愛煙家も、同じような気持ちの人が多いかもしれない。ただ、自分が楽しめても、人に迷惑をかけない(受動喫煙)ようにだけは注意しなければいけないだろう。病気になれば、医療費がかさむというが、人間最後は病気で死ぬのだからそれは仕方がないだろう。私は、延命治療など望んでいないので、もし、病気になったら、一日でも早く楽に死ねるようにして欲しい。そうすれば、医療費や、年金問題にも迷惑をかけないだろう。老齢化老齢化と言われている今の世で、若者に気を使いながら何時まででも生きながらえるのは心苦しいから・・・。自分の人生、最期の過ごし方だけは医者が何と言おうと自分で決めたいと思う。
最後になったが、喫煙の有害性を主張する識者や各種団体の禁煙圧力が強まっていることに対して、喫煙の有害性に疑問を投げかける識者がおり、日本では養老孟司の名などが知られているが、最近なにかと話題になっている中部大学の 武田邦彦教授が、自分はかってタバコを吸っていたが今では、禁煙をしている者であるとして、その上で、統計データなどを元に、タバコと肺がんはほぼ無関係とブログに書いて論議を醸しているようだ。その問題のブログが以下参考に記載の※16:「武田邦彦 (中部大学)ブログ◇◇食・生活」のタバコを考えるパート1~12がそうであるが、統計に関するものについては、こちらの方が正しいのか、喫煙の有害性を主張している側が正しいのかは、私などの素人にはなんとも言えないが、さすが、学者らしく、論理的に持論の展開を進めている。
昔から、"人を納得させるのも数字なら人を欺くのも数字"と言われるように、このような統計やマスコミがよく使う世論などというものは、作り手側の恣意が強く反映されているものだ。だからこのような数字でみる、タバコと肺がんの関係は別として、タバコにストレスを除去してくれるなど精神面を癒す効果と、タバコに含まれるニコチンなどにガンを引き起こすという二つの作用があるとすれば、成人している大の大人が、人に迷惑さえかけなければ、どちらを選択するかは本人の問題なのだから、それを余り、他の人が、特別視したりだけはしない方が良いのではないかと思うのだが・・・。
参考:
※1:今日は何の日~毎日が記念日~
http://www.nnh.to/
※2:NPO法人 「子どもに無煙環境を」推進協議会
http://www3.ocn.ne.jp/~muen/index.htm
※3:たばこの歴史
http://www.t-webcity.com/~thistory/thistory/t_history.html
※4:アメリカにおける「喫煙と健康」論争の 誕生と進展(Adobe PDF)
http://www.seijo.ac.jp/pdf/faeco/kenkyu/165/yamaguchi47-87.pdf#search='1973年 米国 アリゾナ州 タバコ 規制'
※5:女性キリスト教禁酒同盟
http://ci.nii.ac.jp/naid/110004682883
※6:厚生労働省:たばこと健康に関する情報ページ
http://www.mhlw.go.jp/topics/tobacco/kin-en/index.html
※7:たばこ税とたばこ文化
http://www.h-hasegawa.com/main/tabako.htm
※8:たばこ規制枠組条約(外務省)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/treaty159_17.html
※ 9:たばこ税の増税Yahoo!ニュース
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/tobacco_tax/
※10:厚生労働省:2009年世界禁煙デーについて
http://www.mhlw.go.jp/topics/tobacco/kin-en/09.html
※11:bloomberg2010年9月13日
http://www.bloomberg.co.jp/apps/news?pid=90900001&sid=aigqwug6u.TI
※12:税金対策と節税対策ガイドTOP > 国税
http://www.zeikin-taisaku.net/002/
※13:貝原益軒アーカイブ(学校法人中村学園 )
http://www.lib.nakamura-u.ac.jp/kaibara/index.htm
※14:養生訓 (抄訳) - 森下ジャーナル
http://home.att.ne.jp/theta/mo/you/
※15:JTタバコワールド:たばこの歴史
http://www.jti.co.jp/sstyle/trivia/study/history/index.html
※ 16:武田邦彦 (中部大学)ブログ◇◇食・生活
http://takedanet.com/cat5651416/
厚生労働省:たばこ規制枠組条約第3回締約国会議概要
http://www.mhlw.go.jp/topics/tobacco/jouyaku/090428-1.html
たばこ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9F%E3%81%B0%E3%81%93
特定非営利活動法人 日本肺癌学会 - 公式サイト
http://www.haigan.gr.jp/
はつらつ養生訓 下方 浩史(国立長寿医療センター疫学研究部長)
http://www.abikosln.org/health/51.doc
禁煙運動に賛成?反対? - Yahoo!知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1412027014





天皇在位60周年記念硬貨(10万円金貨等)が発行された日

2011-11-10 | 歴史
天皇陛下御在位60年記念硬貨は、昭和天皇の在位60年を記念して、1986(昭和61)年11月10日(一部は1987年=昭和62年)に発行された記念硬貨である。臨時補助貨幣でもある。10万円金貨、1万円銀貨、500円白銅貨の3種類が発行された。
冒頭の画像は、天皇在位60周年記念硬貨(10万円金貨)である(マイコレクションより)。
10万円金貨は、日本で初めて発行された記念金貨、および初の1万円を超える額面の貨幣であり、かつ第二次世界大戦後初めて発行された金貨である。また、金貨・銀貨ともに、初めて千円を超える額面の硬貨である。昭和天皇の在位50年の際には100円白銅貨(銅貨参照)が発行されたのみであるが、これ以降は天皇の即位や在位の節目などを記念する金貨・銀貨がたびたび発行されていくことになる。
金貨とは、金を素材として作られた貨幣。銀貨・銅貨とともに、古くから世界各地で流通した。
は、
美しい黄色の光沢を放ち、見栄えがいいこと
希少性があり偽造が難しいこと
柔らかく加工しやすいこと
化学的に極めて安定しており、日常的な環境では錆びたり腐食しないこと
などの理由で、古来、世界各地で貨幣の材料として使用されてきた。
例えば、古代ローマの金貨「アウレウス(aureus)」はラテン語で「金」を意味する。
以下参考に記載の※1:「コインの散歩道」の“ローマコインの物語”など参照すると、古代、エーゲ海の西側(現在のギリシャ)を「ヨーロッパ」、東側(現在のトルコ)を「アジア」と呼んでいたようだが、世界で最初に鋳造貨幣(エレクトロン貨)を使用したのは、そのエーゲ海東側のアジアと呼ばれていたアナトリア半島 のリディア地方を中心に栄えた王国リディアだといわれている。
ローマに貨幣制度ができたのは、289BC(紀元前、英語略。ラテン語略A.C)頃とされており、 ギリシャ人やフェニキア人 (当時のシリアの一角)の国家と比べると、貨幣に関しては後進国であったらしい。
当初、銀貨の単位はギリシャ世界のドラクマ(Drachm)、銅貨の単位はアス(As)を使用していたが、211BC、ポエニ戦争のさなかに自国独自の貨幣制度に整えた。それが小額の銀貨デナリウス(Denarius)であり、1デナリウス(Denarius)銀貨=10アス(As)銅貨としていた。「デナリウス銀貨」は、西暦紀元をはさんで400年間以上共和政ローマ時代のもっとも標準的だったコインであった。
順次地中海世界を統一し、3世紀、ローマ帝国は「3世紀の危機」とも称される全般的な混乱期であった。政治的分裂は同世紀末にディオクレティアヌス帝によって収拾されパクス・ロマーナ(ローマの平和)を実現した皇帝アウグストゥスア(オクタビアヌス)は、23年BCから、通貨制度改革に着手。
それが、アウレウス金貨(金100%。7,8g)であり、1アウレウスは、デナリウス銀貨(銀100%。7,8g)25枚相当の価値であったそうだ。因みに、この時代、農園に働く労働者の1日の賃金は1デナリウスだったそうだ。
以後紀元4世紀初頭まで定期的に造幣され、300年に渡り、ローマ帝国の基軸通貨となるが、3世紀、ローマ帝国は「3世紀の危機」とも称される全般的な混乱期であった。政治的分裂は同世紀末にディオクレティアヌスによって収拾されたものの、物価騰貴などの経済混乱は収拾したとはいえなかった。こうした中、4世紀前半にコンスタンティヌス1世が通貨の安定を図って鋳造した金貨ソリドゥス金貨に代わることとなった。

上掲の画像が、コンスタンティヌス1世を描いたソリドゥス金貨。Wikipediaより。
東ローマ帝国の時代にも同様の金貨が流通した。
ソリドゥス金貨(東ローマ帝国期にはノミスマと称される)は帝国統治における経済的な主柱であり、6世紀にユスティニアヌス1世の命によってトリボニアヌスによって編纂された『ローマ法大全』においても、金貨についての取り決めが多く記されていたという。金貨の重量と純度は歴代皇帝によって遵守されたため信頼性が高く、11世紀ころまで高純度を維持し、「中世のドル」として東ローマ帝国の内外で流通したという(詳しくは、※1参照)。
ただし、金貨の場合、純粋な金は、流通を前提とした硬貨として使用するには柔らかすぎるため、通常は、銀や銅などの他の金属との合金が用いられる。古代社会においては、エレクトラムと言われる、金、銀、白金などの自然合金が用いられた。近代社会では、日本やアメリカ合衆国を始め、一般的には90%の金と10%の銀または銅の合金が用いられたが、イギリスでは、22カラット(金91.67%)の標準金と呼ばれる合金でソブリン金貨が、1817年から本位金貨として鋳造された。

上掲の画像は、法的に世界最初の本位金貨、イギリス1817年銘のソブリン金貨。Wikipediaより。
また、流通を目的としない近年の地金型金貨(投資用に発行されている金貨の一種)、収集型金貨(記念硬貨などの形で発行される金貨の種類)には、純金製の物も存在する。
中世ヨーロッパでは長らく金貨が鋳造されず、東ローマ帝国(ビザンツ)からもたらされるビザント金貨か、イスラム圏からもたらされるディナール金貨が儀礼用などに使用されるのみだった。
一般的にヨーロッパの近代貨幣制度は1252年のイタリア・フィレンツェにおけるフローリン金貨をもって始まったと言われているそうだが、その後ヴェネツィアで1284年にドゥカート(ダカット:Ducat)と呼ばれる金貨が鋳造された(※1の“ヴェネツィアの商人”参照)。そして、この2つの金貨が広く貿易に利用され、今日の貨幣経済を築いた。これらの金貨はともに品位は.875で、56グレーン(54トロイグレーン)の量目を有していた。ドゥカート金貨はその後も現在に至るまで発行が続けられ(現在は収集用)、近代になってからは、より純度の高い.986という品位で鋳造されている。
金貨の世界的な流通は、やがて「金製の貨幣」としての貨幣価値にとどまらず、金という物質そのものと経済を連動させる制度金本位制へと発展させ、19世紀末には、この制度が国際的に確立した。この金本位制には、国際収支を均衡させる効果があると考えられているが、第一次世界大戦により各国政府とも金本位制を中断し、管理通貨制度に移行する。
その後1919年にアメリカ合衆国が復帰したのを皮切りに、再び各国が金本位制に復帰したが、1929年の世界大恐慌により再び機能しなくなった。
第二次世界大戦後、米ドル金為替本位制(※3参照)を中心としたIMF体制(いわゆるブレトン・ウッズ体制)が創設された。他国経済が疲弊する中、アメリカは世界一の金保有量を誇っていたので、各国はアメリカの通貨米ドルとの固定為替相場制(※4参照)を介し、間接的に金と結びつく形での金本位制となったのである。しかし、1971年8月15日のいわゆるニクソン・ショック以降は金と米ドルの兌換(だかん=とりかえる。ひきかえること。)が停止され、各国の通貨も1973年までに変動為替相場制に移行したため、金本位制は完全に終焉を迎えた(※5 また、※6の世界最強の通貨「ドル」の力参照)。
制度としての金本位制が崩れた現在、額面と含有純金価格の等しい本位金貨は発行されていない。
現在発行されている金貨は、すべて補助貨幣か、金地金の市場価格に連動して時価取引される地金型金貨か、金地金の価格を超える固定価格で発売される収集型金貨のいずれかになっている。
日本では、淳和天皇の天平宝字4年(760)に発行された開基勝宝という金銭が日本最初の金貨で、1枚で、同時期に発行された、太平元宝(銀銭)10枚分、萬年通寳(銅貨)100枚分に相当させていたようだ(続日本紀)。しかし、金銀銭は実際には殆ど流通せず、以降、金は銀に先駆けて特定の用途に使われる定位貨幣として整備されていき、戦国時代には、甲州金が発行されるなどしたが、本格的な全国流通を前提としたのは、江戸時代に入ってであり、小判一分判など(エレクトロン貨幣)定位金貨の発行が幕末期まで継続した。
明治時代に入って、金本位制度が確立すると、銀行が発行する紙幣(日本銀行券)は、金貨との交換が可能で(兌換紙幣)、その価値が保証されていた(※2:「日本銀行金融研究所貨幣博物館」のわが国の貨幣史参照)。近代社会になって初めての金貨は1871年(明治4)年5月に制定された近代日本最初の貨幣法である新貨条例において発行された旧金貨(20円、10円、5円、2円、1円金貨)と1897(明治30)年の貨幣法により発行された新金貨(20円、10円、5円)がある。
新貨条例では純金の1.5グラム(23.15グレーン)、貨幣法では金重量を半減した純金の0.75グラムを1とする金平価(コトバンク参照)が定められていた。旧1両が新1円に等価となり、さらに1米ドルとも連動する分かりやすい体系となった。旧金貨は倍額面での通用とされ、新金貨は昭和初期の金解禁停止に伴う兌換停止まで製造発行された。貨幣法による新金貨は、昭和の初期まで製造発行された(日本の金貨参照)。

上掲の画像日本の最初の本位金貨、旧1円金貨・明治4年銘。Wikipediaより。
新旧の本位金貨は1987(昭和62)年制定、1988年4月施行の通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律によって正式に廃止された。(日本の硬貨を参照)
金本位制が崩れて以降、法定の平価に相当する額面価値分の金を含有した本位金貨は発行されておらず、1986(昭和61)年の今日・11月10日発行された「昭和天皇ご在位60周年記念10万円金貨」は、久しぶりに発行された「通貨型金貨」ではあったが、額面は金地金の価格より高く設定されており、補助貨幣的な性格(臨時補助貨幣)を有し、20枚までの限定した強制通用力しか有していない。これが、後に問題を起す。
1986(昭和61)年は、国際的にも国内的にも、政治、経済、社会、天災、そして、事件に・・と、本当に色々あった年だ(Wikipedia-1986年 又、 ※7参照)。今、蔵書のアサヒクロニクル「週間20世紀」の1986年号を見ていると、同年のできごとに、“1986年9月30日:国土庁が基準地価公示(7月1日現在)、年初から地価は急騰し、この1年で東京の田園調布での4倍を最高に世田谷区、目黒区でも平均60%上昇。以後、土地業者の投機買いも激増し、「狂乱地価」の様相。”・・・とあるように、不動産業者が次々に土地を買い、高値で転売する「土地転がし」が流行り言葉にもなり、折柄のバブルは、翌年には「バブル景気」と命名された。
日本経済は、1985(昭和60)年頃まで輸出主導型で経済成長を遂げてきた。バブル景気の引き金になったのは1985(昭和60)年9月のプラザ合意とされている。当時、ドル高による貿易赤字に悩むアメリカ(実際には、財政赤字を伴う「双子の赤字」に悩んでいた)はG5諸国と協調介入する旨の共同声明を発表した。
日本にとって不利になるこの合意がなされた背景には、以前からあった日米貿易摩擦問題があったと考えられるが、これにより急激な円高が進行。1ドル240円前後だった為替相場が1年後に1ドル120円台まで急伸した。元大蔵省財務官の榊原英資は、日本と西ドイツがアメリカのドル安政策の標的にされたと著書の中で述べているという。これにより、中曽根康弘内閣は貿易摩擦解消の為、国内需要の拡大を国際公約し、これまでの緊縮財政から一転、公共事業の拡大政策をとった。又、急速な円高によって「円高不況」が起きると懸念されたため、低金利政策を継続的に採用した。この低金利政策が、不動産や株式に対する投機を促進し、やがてバブル景気をもたらすこととなる(詳しくはWikipedia-バブル景気参照)。
そして、1985年(昭和60年)11月18日、中曽根内閣の竹下登大蔵大臣が昭和天皇の在位60年を祝うために金貨を発行する方針を発表。この背景には次年度の財源確保のためと、貿易摩擦が深刻であったアメリカから金貨鋳造に使用する大量の金(223t)を購入することでこれを緩和しようとの思惑があったようだ。
そのため当局は10万円金貨、1万円銀貨、500円白銅貨を大量に発行することになった。特に10万円金貨は1000万枚と金貨としては異例の大量発行であり、額面だけで1兆円にも上った。しかも金貨1枚あたり金を20g使用していたが、素材の価値が1g1900円(当時)であり製造費込みでも半分以下の原価にすぎなかった。そのためその差益5500億円が国庫に入る見込みであるとされた。当時の臨時補助貨幣の額面の上限は500円であったため、1964年(昭和39年)のオリンピック東京大会記念千円銀貨発行の際と同様に、特別法として天皇陛下御在位六十年記念のための十万円及び一万円の臨時補助貨幣の発行に関する法律が制定され、金銀貨発行の根拠とされた。
それでも、先に述べたようなバブルの上昇時であり、日本で初めての10万円金貨は、金融機関窓口での引き換え以前から話題に上り、政府は引換抽選券を発行し当選した人だけが交換できる仕組みにした。10万円金貨、1万円銀貨の引換抽選券各5000万枚を銀行郵便局で配布。1986(昭和61)年10月16日の抽選券配布当日には、この引換券を得ようと長蛇の列ができ、倍率約5倍と言われ、一部では抽選券が高値で取引されたとも・・・。

上掲の画像が、天皇陛下御在位60年記念貨幣「金貨幣引換抽選券」と「銀貨幣引換抽選券」の外れ券。マイコレクションより。
この当初の人気状況を見て、関係筋から追加発行の意向が漏らされ報道された。しかし、引き換え当日は打って変り、記念貨幣への両替に訪れる人もまばらで、金貨は最終的に910万枚が市中に出回り、未引換の90万枚については鋳潰されたようだ。追加発行について当初は初発行分と同じ「昭和61年」銘のものを数百万枚発行する案も出たが、結局翌年に「昭和62年」銘の金貨が100万枚発行された。追加発行分の一部はプルーフ貨幣としてプレミアム付き価格で発売され、これは日本初の一般販売向けプルーフ金貨となる。
天皇陛下御在位60年記念金貨には、当時の金貨価格で換算すると4万円分の金しか含まれておらず、「通貨型金貨」でありながら、引換価格の10万円とは6万円の差があった、バブルに乗じて日本政府がこんなぼろ儲けをして良いのか、これでは偽造金貨も出ないかと心配する人もいたのだが、案の定、発行から3年余経った1990(平成2)年1月29日、天皇陛下御在位60年金貨の大量偽造が発覚した。その後の調査で偽造された金貨は2年前から日本に流入していたこと、しかも確認された偽造金貨10万7946枚のうち8万5647枚が日本銀行に還流していたことが判明した。つまり、被害額は107億9460万円という巨額であった。これには、国際的偽造グループが介在していた可能性が高いというが、結局、偽造グループが特はされることはなく、偽造グループは日本円で約60億円という高額な金銭を懐に入れて消えてしまったようだ(Wikipedia)。
これらの事態を踏まえ、以降、日本で発行された記念金貨については様々な偽造防止対策がなされるようになった。また近年では、偽造された金貨のように額面保証型のものから、金の地金価格をはるかに超える価格で販売されるが、その代わり額面をそれより低くする収集型金貨の形式で発行されるようになった。そのため、明治時代に制定された従来の「貨幣法」を改正し、1988 (昭和63)年から「新貨幣法」(通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律)が施行され、「記念貨」を「通常貨」と異なる特別なものと位置づけ、政府が「記念貨」を商品として販売し、差額を利益として得ることが出来ようになっている(※8参照)。
しかし、皮肉なことは、1985(昭和60)年のプラザ合意による円高不況克服のために行なった公定歩合引き下げなど過大な金融緩和により引き起こされた「バブル景気」は、1989(平成元)年の東証大納会では平均株価が史上最高値の3万8915円ともう、4万円目前で引けたが、後で見るとこれが、バブルの頂点であった。ところが翌・1990(平成2)年、つまり、天皇陛下御在位60年記念金貨の大量偽造が発覚した年に入るや企業や人々は肝を冷やすことになった。
大量偽造が発覚した翌月2月26日、東証の平均株価は3万3321円まで急落、下げ幅は1569円。さらに4月2日には1978円の大暴落を記録した。そして、10月1日には、一時的に1万9781円と2万円の大台を割った。9ヶ月でほぼ半値となった株価の下落は、中曽根内閣以降の急激な金融引き締めに起因している(アサヒクロニクル『週間20世紀』1990年号)。
これにより、手持ちの債権もマンション価格も急激に価値を失った「バブル」の崩壊である。このバブル崩壊が、「失われた20年」、更には現代の格差社会の発生へとつながっていくことになった。
丁度良いタイミングで、偽造しやすい金を20g使っただけで10万円もする金貨を作ってくれたので、これを偽造しぼろもうけをした世界の詐欺師は、日本政府の経済オンチの御蔭だとほくそ笑んでいたことだろう。
2008(平成20)年9月に米国の投資銀行であるリーマン・ブラザーズの破綻は、世界的な金融危機(世界同時不況)を引き起こしたことからリーマン・ショックと呼ばれているが、このショックにより、日本の日経平均株価も大暴落を起こし、同年9月12日(金)の終値は12,214円だったが、10月28日には6,000円台の安値をつけるまで下落した。
リーマン・ブラザーズ破綻の主要因には、前年・2007(平成19)年のサブプライムローン(サブプライム住宅ローン危機)問題に端を発した米国住宅バブル崩壊にあるが、日本はサブプライムローンにあまり手を出していなかったため影響は軽微と見られていたものの、リーマン・ショック後に経済が一番落ち込んだのは、日本であった。
このリーマン・ショック後の日本政府の対応とその効果を検証した論文が発表されている(※9参照)。要約すると以下のようなことが書かれている。
“日本政府は「百年に一度」といわれる経済危機を乗り切るため、日本政府及び日銀が財政・金融両面からの対応をしてきたことから、短期的には、経済活動の低下ほどには、失業や企業倒産は増加せず、痛みを和らげることに成功したと評価できるものの、その結果として、日本の財政赤字が拡大し、政府債務(※10参照)は先進国で最も悪い状況となってしまった上、金利もほぼゼロという状態であり、これ以上、金融財政の政策的な刺激策の余地が乏しくなっている。他方で、2010年に入ってもデフレ傾向は継続しており、更には、潜在成長率(※4の潜在成長率も参照されるとよい)そのものが低下傾向にあり、OECD加盟国に比べても非常に低くい。にもかかわらず、足元では円高が進み、企業の海外流出の恐れが強まっている”・・・ことが指摘されている。
この論文には、会計検査研究No43(2011,3)とあるので、今年2011(平成23)年3月11日に東北地方の震災によって引き起こされた大規模地震災害「東日本大震災」が発生する前の論文であろう。
この論文の言うようにリーマン・ショック後最悪の状況からはなんとか持ち直したかに見えた震災以降、又世界的に大きな問題が表面化した。
昨2010(平成22)年のギリシャの財政破綻の危機(ギリシャの経済参照)が発覚以来、EU(欧州連合)ではユーロ圏のイタリアやスペインの財政問題が話題となり、世界的に「ソブリン・リスク」が高まってきた。ソブリン・リスクとは、国にお金を貸したら帰ってこないのではないかというリスクであるが、特に、財政状況が悪い5カ国(ポルトガル、アイルランド、イタリア、ギリシャ、スペインという)は、その国の頭文字をつなげ、豚(PIG)にかけてつくられた造語「PIIGS」という屈辱的な名前で呼ばれている。
そして、米国債、日本国債も実際に格下げされ(国債参照)ているが、今年に入って10月7日には、格付け会社フィッチ・レーティングスが、スペインとイタリアの長期国債を格下げ(スペイン、2段階下げ、イタリア1段階下げ)していていたが、続いて、今月・11月4日には、ムーディーズが、イタリア国債を「Aa2」から「A2」に3段階引き下げたと発表。
こうした国への債券は紙くずになってしまうのではないかという不安が全世界を襲い金融市場が混乱している。
これらリスク回避の動きは、株価、債権を下落させており、昨日・11月9日、の欧州金融市場では、イタリア政府が借金のためにに発行している国債の価格は下落し金利は「危険水準」される年7%台を上回った。又、9日のアメリカ・ニューヨーク株式市場は、ギリシャに端を発した債務危機がイタリアにも波及するとの懸念から、ダウ平均株は一時、430ドル以上も値を下げ、終値は前日比389ドル24セント安い1万1780ドル94セントだった。日本も今日:10日午前の東京株式市場の日経平均株価は、前日比158円16銭安の8597円28銭で始まっっている。日本の政府債務(国債残高)も、先進国で最も悪い状況となっているにもかかわらず、日本の円がまだましと、円買い圧力が強高まり、円高が続いており、腰の思い日本政府もやっと単独での為替介入などをして来たことから、77円台後半(ドル/円)を維持してはいるものの、これが何時まで持つかはわからない。又、このような通貨不安時の投資として、昔からの金投資が盛んであったが、今は金価格がうなぎ上りに上昇している。
なんと今や、金地金は11月9日では4,741円(田中貴金属調べ)をしており、そうすれば、天皇陛下御在位60年記念の10万円金貨にしても、純金は20g含まれているのでこの日の時価換算だと、ほぼ、10万円近い金額の94,820円することになり、これは10万を超えるようになるかもしれない。

私は、プレミアモノの金貨は買わないが、平成5年発行の「皇太子殿下御成婚記念5万円金貨」(上掲の画像)なども持っているが、この金貨は、偽造金貨に懲りて、しっかりと偽造防止策も講じられており、天皇陛下御在位60年記念の10万円金貨の純金20gに対して、5万円金貨でありながら純金18gが使用されている。そのため、こちらの方は、金の時価だけでも、18g*4,741円=85.338円となる。これなら、コイン屋へ持っていけば、6万円くらいで買ってもらえるのではないかな・・・。売る気はないけど、近くに買ってくれるところを見つけたら、今の間に、1枚だけを残しておいて、売っておこうかな~・・・・。
最後になったが、先にも述べたように、世界で最初に貨幣を鋳造し使用したのは古代、エーゲ海の西側のギリシャやそれに続く、ローマ帝国を築いた現在のイタリアであったはずなのだが、そのような歴史ある国が、今世界で最初の財政破綻国になろうとしているのはなんとも皮肉なことだね~。
しかし、日本の財政赤字の状況は、ギリシャやイタリアの財政悲劇を、他人事のように見ているわけにはいかないギリギリのところにまで来ており、これからは、東北地方の震災や和歌山地方の水害など復興のための必要な費用は幾らいるかもわからず、増税ラッシュでひどいことになるだろう・・・。今の円高の反動は必ず来ると思うが、だからといって、別に現物投資で金など買わなくてもよいが、少なくとも。借金だけはなくしておかないとね~・・・・。
刻々と増加していく日本の赤字は以下を見て!
リアルタイム財政赤字カウンター 11
http://www.kh-web.org/fin/
最後の最後になったが、今のような各国の財政状況を引き起こしたのは、リーマンショック時に、投機に夢中になっておかしくなっていた銀行や企業を救うために、国民の税金を使って国家が援助をし、それら企業の赤字を国が肩代わりしたことや、戦後、金も無いのに財力以上の福祉や社会保障に金をつぎ込んできたこと、破綻を仕掛けている国は何処も親方日の丸の公務員天国である事などが共通しているようだ。
しかし、そもそもの始まりは、金本位制をなくして以降、金と言う担保なしに、好きなだけ、ただの紙切れでドルという基軸通貨・紙幣を自国の都合で次々と刷り続けてきたアメリカと言う国のやり方が破綻したのであり、そんなドルが全世界に蔓延しており、それに追随してきた国々がアメリカと同じようにおかしくなってきているだけと私は思っている。ただ、何といってもアメリカと言う市場は大きく、日本のように、アメリカが風邪を引くと一緒に風邪を引いた体力のない国から順におかしくなっているにすぎないのだろう。
かって関西人は、東京等の人たちが丸井の宣伝に乗せられて、アメリカ人のように、クレジットで買物などすることなく、現金払いが当たり前であった。
私など、クレジットは何かの時用に持っているだけで、殆ど使わないし、現役時代でも、いきつけの飲み屋でも付けなどはしなかった。飲兵衛の私は飲みに行く時それ相当の金は持ってゆくが、ハシゴの最後は必ず行きつけの店で、有り金を全て前払いしそれで適当にやってもらっていた。それは、若いときだけでなく、現役を終わった今でも同じである。
マイホームのような高額なものを買う際には、そのうちどのくらいを頭金として入れるかの問題は別として、ある程度のローンを組むのは止むを得ないが、定年後にもローンが残るなどというのは私には考えられないこと。かって企業の寿命は30年と言われていたが、それも今や10年の時代が来たともいわれている。
サラリーマンが今勤務している企業に定年まで勤めていられるかどうか分からない時代になっているのだ。手元にある金を使うのなら良いが、遊びや贅沢にまでクレジットを使うのは余り好ましいとはいえない時代になってきたと思っているが、今でも、殆どの人が当たり前のように利用しているのではないか。
私は銀行や流通業界などのことは相当詳しく知っていると自負しているが、クレジットで買う人に色々特典を設けているのは、それはあくまで、必ずや現金で買う人達よりもクレジット利用客の方が不用不急のものを安易に多く買うことが統計的に立証されているからであることを知っておくべきだ。これからの時代を見据えて、自分の生活スタイルや買物行動など見直すときに来ているのではないかと思っている。
以下参考の※6:「Anti-Rothschild Alliance」など面白いと思うよ。
参考:
※1:コインの散歩道
http://homepage3.nifty.com/~sirakawa/Coin/index.html
※2:日本銀行金融研究所貨幣博物館トップページ
http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/index.htm
※3:金為替本位制: 外国為替用語と基礎知識:金為替本位制
http://www.1gaitame.com/archives/2005/09/post_455.html
※4:固定為替相場制とは|金融経済用語集
http://www.ifinance.ne.jp/glossary/currency/cur130.html
※5:通貨制度の歴史②(金本位制→金為替本位制→変動相場制)
http://www.trend-review.net/blog/2007/08/000389.html
※6:Anti-Rothschild Alliance
http://www.anti-rothschild.net/index.html
※7:1986年[ザ・20世紀]
http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/1986.html
※8:通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律施行令(昭和63年3月23日政令第50号)
http://www.lawdata.org/law/htmldata/S63/S63SE050.html
※9:グローバル金融危機に対する日本政府および 日本銀行の政策対応とその効果の検証 (Adobe PDF)
http://www.jbaudit.go.jp/effort/study/mag/pdf/j43d02.pdf#search='リーマン・ショック後 日本政府 対応'
※10:図録政府債務残高の推移の国際比較
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5103.html
※11:【世界経済のネタ帳】
http://ecodb.net/
造幣局ホームページ
http://www.mint.go.jp/index.html
日本の金貨 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%87%91%E8%B2%A8
H&Acoins:古代コインの種類
http://ha-coins.shop-pro.jp/?mode=f5
Forex Cannel為替相場 - リアルタイム チャート - ドル⁄円
http://www.forexchannel.net/realtime_chart/usdjpy.htm

いいレザーの日

2011-11-03 | 記念日
日本記念日協会で今日の記念日を見ると「いいレザーの日」があった。
記念日の由来には“日本の皮革製品に関する知識を広め、レザーの魅力とその価値をもっと知ってもらおうと社団法人日本皮革産業連合会(JLIA=Japan Leather Award。※1)が制定。日付は11月3日(1103)を「いいレザー」と読む語呂合わせから。レザーが似合う「ベストレザーニスト賞」の発表などの行事を行う。”・・とあった。
日本皮革産業連合会(JLIA)には、皮革事業に関わる24団体が加盟しているようで、よく分からないが、ベストレザーニスト賞とは、JLIAの行なうJapan Leather Award(ジャパンレザーアワード)の中の1つの賞のようであるが、「ベストレザーニスト賞」そのものはJLIAに加盟の日本タンナーズ協会(※2)が主催する賞のようで、2001(平成13)年から続いているようだ。このタンナーズ協会とはなめし革の製造・取扱の企業等が集まって組織されている製革業者団体で、本部は我が地元・兵庫県の姫路市にあるようだ。
JLIAのHPによれば、今年度の“Japan Leather Award2011“審査会は、10月7日(金)・8日(土)に六本木のアークヒルズカフェで行われ、総作品エントリー数191もの作品応募があり、142点はプロ、残り49点はアマチュアからのものだったという。このアワードの表彰式は、11月03日"いいレザーの日"に開催され、それぞれの部門賞とグランプリを受賞した作品は、11月30日(水)~12月13日(火)の2週間、兵庫県にある阪急阪神百貨店 西宮阪急で、展示されるチャンスが与えられるという(ここ参照)。尚、過去のベストレザーニスト賞・歴代受賞者は以下参考の※3:「雑学データバンク」を参照されると良い。
ところで、「なめし革」の「なめし」を漢字で書くと「鞣」で、通常「なめし革」は「鞣革」と書く。「鞣」は、漢字の構成部分で、「韓」「韜」などの「韋」の称。
「韋」字は「違」の本字であり、背きあうことを意味する。その字形は背いた足の象形である「」と囲いの象形である「囗」を組みあわせたものであり、守衛が城壁の周囲を巡回していることを表していると考えられるが、また「韋」には「」同様、毛を除いた皮革の意味があるが、「革」と対照する場合、「革」は生革、「韋」はなめし加工された熟革を指す。この意味は背くから反り返った皮革へと引伸されて生じたとも、「」字と字形が似ることから混同されるようになって生じたものとも言われる。後代にはこのなめし革の意味が「韋」字の基本義となった(韋部参照)。
「皮」と「革」は同源であるが、「」字は、頭のついた獣のかわ+「(=手)」で動物の皮を引きはがす様、又は、斜めに身にまとう様を表した象形又は会意文字であり、言い換えれば、動物から採取された最初の状態のもの獣皮(「原皮(hide/skin)」を言う。「皮」を「かわ」というのは、「皮」が表面を包んでいるもの、つまり「外側」なので、「かわ(側)」とする、また、肌の上に被るの意味で、もしくは上を意味する言葉に付く「か」で、「わ」は「はだ(肌)」の意味とする説などがあるようだ。「かわ」の旧かなは「かは」なので両節共に説得力はある(※4)。
「革」字は毛を取り除いた獣皮(「原皮(hide/skin)=皮」)である皮革を意味しており、その字形は動物の獣皮をピンと張り伸ばした象形で、上部「廿」は頭、中央は展開した身体部分、下部「十」は尾と両足部分の形である。その意味では、毛の付いた生皮が皮であり、その生皮から毛を抜いたものが「革」であるが、そのまま利用できれば都合が良いのだが、生憎と、皮は生ものであるため、剥いだ状態で放置すると腐敗する。また、そのままただ干すだけではカチカチになってしまう。このため、なめしという工程を施すことにより、腐敗やカチカチになることを防ぐ。また、なめし工程にはいくつかの種類があり、この工程を経ることによりもともとの皮よりも柔軟な仕上がりをえられるなめし方法もある。なめされた革を「鞣革」と言うべきなのだろうが、今では、なめされていないものを「皮」、なめしたものを「革」と区別しているようだ。皮革の中でも、元々生えていた体毛まで利用するものは毛皮という。
人類は、毛皮を衣類として防寒などの目的に使用するため、古くは剥皮した動物皮を乾燥し、叩いたり、擦ったり、揉んだりして線維を解して、いわゆる物理的処理したものを使っていたが、紀元前8000年頃の旧石器時代から、皮を煙でいぶして防腐加工を施し、さらに動物の脂を塗り込むなどの原始的な燻煙鞣しや油鞣しといわれるものが始められ、これらの単独鞣しあるいは両者の複合鞣しを行った毛皮を使用されていたと見られており、樹皮や実、葉などを用いる植物タンニン鞣しは、紀元前3000年頃の新石器時代オリエント(エジプトや西南アジア)に始まったとされているようだ(※5)。因みに、タンニン(Tannin)という名称は「革を鞣す」という意味の英語である "tan" に由来し、本来の意味としては製革に用いる鞣革性を持つ物質のことを指す言葉であったという。
寒冷な気候の北ヨーロッパなどでは、毛皮は生活に欠かせない必需品であった。カエサルガリア戦記にはゲルマン人が毛皮を着用していたことを示す記述が見られるという。
封建時代のヨーロッパ(9世紀頃から15世紀頃)では、高級な毛皮は宝石などと同様、財宝として取り扱われた。イギリスのヘンリー8世(在位、1509年 - 1547年)は皇族以外の者が黒い毛皮を着用することを禁じ、とりわけ黒テンの毛皮は子爵以上の者しか着用できないとしたそうだ。18世紀以降にはヨーロッパ全土に広まり、貴族はキツネ、テン、イタチなど、庶民はヒツジ、イヌ、ネコなどの毛皮を使用していたようだ。
ヨーロッパ大陸で革産業が盛んになる中、アメリカでは先住民族インディアンによる独自の革製法で、衣類などの生活用品や馬具、武具などが作られていた。そこへ、1492年にスペインの命を受けたコロンブスによってアメリカ大陸が発見され、スペインの革工芸品がアメリカに持ち込まれ、これによってさらに革技術が発展していった。革をなめす方法は、多くの地域で使用されたが、その後、ヨーロッパやアメリカなどで、かしわの木の皮からタンニンを効率的に取る方法 が発見され、18世紀から19世紀にかけて巻き起こった産業革命の波は革産業にも及び、1858年には、鉄、アルミニウム、クロムなどの金属を主とした薬品によるなめし方法、クロームなめしの発明が相次ぎ、量産を可能とする皮革工業の礎となった。
18世紀にはラッコの毛皮が流行し、最高級品として高値で取引された。ロシア人はこれを求めて極東のカムチャツカ半島、さらにはアラスカまで進出し、毛皮業者に巨万の富をもたらしたが、乱獲により、20世紀初頭にはラッコは絶滅寸前まで減少した。
現在の標準和名「ラッコ」は、近世の日本における標準的な本草学名に由来し、さらにそれはアイヌ語で本種を意味する "rakko" にまで起源を辿れるという。
日本では平安時代の延喜5年(905年)、交易品として都に運ばれているが、醍醐天皇が、年料別貢雑物として、諸国の司に民部省に差し出すよう命じているものの中にどんな獣皮があるかを『延喜式』巻二十三「民部下」交易雑物の条(※6参照)に見ると、牛皮・馬皮・鹿皮・猪皮・狸皮のほか、陸奥国からは、「葦鹿皮、獨犴皮」を、出羽國からは「熊皮・葦鹿皮・獨犴皮」を交易品の租税として徴収したことが記されている。
Wikipediaでは、この中の“「獨犴」が「ラッコ」を指すのではないかと言われている。ただ、陸奥国で獲れたのか、北海道方面から得たのかは不明である。”・・・としているが、以下参考の※7:「昆布考」では、“独犴(どっかん)皮をアイヌ語のトッカリの転化でアザラシのこと”としている。しかし、「独犴」に「ヱゾイヌ」を充てているところも見られるが、以下参考の※8:「皮革利用史の研究動向」では、“「独犴」については北方犬種説、ラッコ説、アザラシ説などがあり、いまだ議論がたえない”と諸説あるようだが、以下のことなどから私は、ラッコではないかと言う気がする。
「葦鹿皮」は、※7:「昆布考」でもアシカ(海驢)の皮としており、これは、Wikipediaでも「アシカ」の語源は「葦鹿」で「葦(アシ)の生えているところにいるシカ」の意味であったとしている。しかし、以下参考の※9:「天理大学 : 都にやってきたアザラシたち-古代日本の海獣皮の利用」では、”正倉院宝物に奈良時代の馬具十数点があるが、そのなかにアザラシ皮でつくられた韉(したぐら)があり、調査の結果、二点の韉の切付にアザラシの毛皮が使用されていることが確認されたという。・・・奈良時代の史料に、今のところアザラシは見出せないが、平安時代の『西宮記』は下鞍(韉)について豹は公卿、虎は四位五位葦鹿は六位と、六位のは葦鹿皮としている。1141年(保延7年、永治元年)の大嘗会の御禊でも、五位は虎皮切付、六位は葦鹿切付である。葦鹿皮の初見は平安初期の807年(大同2年)に葦鹿皮の使用が贅沢として禁止されたことで、当時、皮等と共に装飾用に都で使われていたことがわかる。『倭名類聚抄』には「葦鹿 和名阿之加」とありアシカと発音していた。『延喜式』では陸奥国と出羽国が税米で購入し都に進上すべき物に葦鹿皮が登場する。平安後期の和歌には「わが恋は あしかをねらふ えぞ舟の よりみよらずみ 波間をぞまつ」とあり、葦鹿は蝦夷の海の生物という認識が都の貴族たちにあったことがわかる。・・・と言っている。
又、以下参考の※13:「えみし」の「交易の視点よりみた「えみし」社会の紐帯」では、“葦鹿皮は、アシカ科の海獣であることは疑いないが、アシカは、北太平洋に広く分布するものの、現在、日本近海では、主として千島列島を生息地としており、綿毛をもたないことから毛皮としての価値はないとされる。これに対して、同じアシカ科のオットセイは、ビロード状の美しい綿毛をもち、歴史的に貴重な毛皮獣とされてきた。こうしたことから、古代史上の葦鹿は、オットセイかアザラシとみなす見解があるが・・・・道南西部の内浦湾沿岸の遺跡では最も多く捕獲されていたのはオットセであるいオットセイである可能性のほうが高いと思う”としている。
先の「わが恋は あしかをねらふ」の歌の解説が、以下参考の※11:「道府県別 名所歌枕一」の蝦夷(北海道)のところにあるが、これは、「えぞ(蝦夷)」という語が用いられた最初期の例で、作者源仲正は、源三位頼政の父で、白河院の時代の人で下総守、下野守なども歴任している。平安時代後期には、和人と蝦夷の交易は盛んになっていたようだ。
蝦夷(えみし、えびす、えぞ)は、日本列島の東方、北方に住み、畿内の大和朝廷によって異族視されていた人々に対する呼称(賤視蔑称)であり、毛人と書き、ともに「えみし」と読んだ。
古くは「えみし」という呼称や綴りも、漢字では他に「夷」「狄」「蝦夷」などと宛字で綴られてきた。さらには「俘囚」「夷俘」「田夷」「山夷」などとも綴られた。
蝦夷についての形式上最も古い言及は、『日本書紀神武東征(※12)記中に詠まれている来目歌(久米部が歌った歌)の一つに愛濔詩として登場する(※13)。
「愛濔詩烏 毘*利 毛毛那比苔 比苔破易陪廼毛 田牟伽毘毛勢儒」(訳:えみしを、1人で100人に当たる強い兵だと、人はいうけれど、抵抗もせず負けてしまった)。
※12による解釈では、「愛濔詩(えみし)」は美称にとれば「恵(愛)美(彌)子」で本来は「愛子」の意味だろうし、蔑称にとれば「蝦夷」だろう。歌の歌意は、詠う立場によって、討った側の歌、討たれた側の歌と、どちらを選ぶかによって解釈も違ってくるようだが、そのことは※11を見てもらうとして、毘*利(ひだり)は、古い倭語で「領地」、あるいは「(その領地の)統治者、王者」の意味があったと考えられ、「毛毛那比苔(ももなひと)」は通訓の「百那人」だから、「毘*利 毛毛那比苔」は「百国の王者」また「大王」のことだろうという。
そもそも、記紀は、紀元8世紀初頭に著された日本最古の歴史書である。両書は、諸豪族の統一にようやく成功した大和朝廷が、その統治を正当化するために編纂させた官選の歴史書である。当時はまだまだ、多くの有力豪族が各地に割拠していた。
神武が忍坂(コトバンク参照)の地まで来ると、待ち構えていた土雲のヤソタケル(=八十建=数多くの猛者)を奇策を用いて破り、その後、大和平定の神武の最後の戦いはニギハヤヒ(饒速日命)との戦いになるが、この戦いは、実際は、ニギハヤヒの家来のナガスネヒコが直接の相手になる。しかし、突然ニギハヤヒがあらわれ、ナガスネヒコを自ら斬り殺し、あっさりと神武に帰順し、神武に支配権を譲っている。このくだりはいかにも象徴的な、まるで「出来レース」のようである。
しかし、この来目歌がどの程度史実を反映するものか、またここで登場する「えみし」が後の「蝦夷」を意味するかどうかも判然としないため、古い時代の蝦夷の民族的性格や居住範囲については諸説があり確かなことはわかっていないが、以下参考に記載の※14:「1413夜『蝦(えみし)夷』高橋崇|松岡正剛の千夜千冊」では、「えみし」の始まりについての詳しい考察がされているが、中で、以下のようなことが書かれている。
“3世紀から6世紀にかけて日本列島の北部、当時の東北地域の生活の下敷きになっていたのは、三内丸山遺跡で知られるような縄文文化であったが、この地では稲作が行なわれ、それが北上し、驚くべきスピードで津軽平野まで届いていた。「北の稲」の発端だ。ところが何故か、その後、東北北部(青森・岩手・秋田)の水田跡が激減していった。
この時期、北海道の道央(石狩低地帯)で生まれた続縄文文化が東北北部に降り、青森、岩手、宮城、秋田へと南下し栄えていた。和習(わじゅう)というべきか。これら続縄文文化は狩猟と採集と漁労による生活、および土器・土壙墓(どこうぼ)・黒曜石石器の使用などを特色としていた。他方、それとともに東北には南方のヤマト(大和)文化、つまりは「倭国文化」「倭人文化」が次々に浸透していった。加えてここに北海道からオホーツク型の擦文文化が入りこんで、東北から北海道への東北的擦文の逆波及もおこり、7世紀にはこれらがすっかり混成していった。稲作はごく初期にいったんは東北一帯から津軽にも伝わり、それが古代蝦夷の時代になぜか途絶え、その後にふたたびヤマト政権文化の北上とともに復活していったのである。ともかくも、こうして東北各地に拠点集落ができていった。そして、北海道の続縄文期後半や本州島東北部の弥生時代後期∼8 世紀には、この地方で、石器による皮革加工が行われていることが明らかになっているという。
このような背景のなか、列島南北の生活文化や技能文化をさまざまに習合しつつ、6世紀末までに続縄文文化の痕跡が消えていくのに代わるように、ここに「蝦夷」(えみし)が形成されていった。この「蝦夷」とは、ヤマト政権が東北北部の続縄文文化を基層とする集団、新潟県北部の集団、北海道を含む北方文化圏の集団などを乱暴にまとめて「蝦夷」と一括してしまった種族概念であった。つまりは「まつろわぬ者たち」という位置づけで総称された地域であり、そういう「負の住民たち」のことだった。
『古事記』景行天皇紀にははやくも、東方十二道に「荒夫流神、及び麻都楼波奴人」がいるなどと記されている。荒夫流神は「あらぶる神」、麻都楼波奴人は「まつろわぬ人」と読む。初期ヤマト朝廷はそのような“まつろわぬ蝦夷たち”がたいそう気掛かりだったのだ。
それはまた、『宋書』東夷伝の有名な「倭王武の(上表文」の中に、「昔より祖彌(そでい=父祖)、躬(みずから)甲冑を擂(つらぬ)き山川を跋渉し、寧処に遑(いとま)あらず、東は毛人(えみし)を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国」と誇らしげに綴っていることに暗示されているように、王権はこうした“まつろわぬもの”を服属させているという自負のあらわれでもあった。このときの倭王武とは大王ワカタケルで、雄略天皇だったろう.。“・・と。
この記述を見ても478年(順帝昇明2年)あたりには既に蝦夷の存在と、その統治が進んでいた様子を窺い知ることが出来る。
日本武尊以降、上毛野氏の複数の人物が蝦夷を征討したとされているが、これは毛野氏が古くから蝦夷に対して影響力を持っていたことを示していると推定されている。
蝦夷の居住範囲は、時代によりその範囲が変化しているが、飛鳥時代(7世紀)頃には、蝦夷は現在の宮城県中部から山形県以北の東北地方と、北海道の大部分に及ぶ広範囲に住んでいたと推測される。斉明天皇4年(658年)の阿倍比羅夫蝦夷征討以降、大和政権が支配領域を北に拡大するにつれて、しばしば防衛のために戦い、反乱を起こしているが、朝廷側は大軍で繰り返し遠征し、最後には、平安時代の武官・征夷大将軍坂上田村麻呂が胆沢城と志波城を築いて征服した。朝廷側の支配に服した蝦夷は、俘囚と呼ばれた。かれら大和へ帰服した蝦夷男女が集団で強制移住させられたが、移住先は九州までの全国に及ぶという。俘囚は、のちに、えみしの異名にもなっていく。蝦夷は平時には交易を行い、昆布・馬・毛皮・羽根などの特産物を和人にもたらし、代わりに米・布・鉄を得た。
日本においては、古くより、東北地方・北海道などの狩猟者集団マタギなど猟師が捕獲して加工した毛皮が細々と流通していた模様ではあるが、獣皮は衣料素材としてはあまり積極的に使われておらず、猟師などが捕まえて加工して自ら使用する防寒着のほかは、豪奢な装飾用の敷物や工芸用の素材の方に利用されたことは、先に述べた『延喜式』(弾正台)にも見られるとおりであり、それは、毛皮の保有とその着装が対内的にはもちろんのこと、対外的にも渤海・奥州に通じる権力を誇示する政治的意味合いをもっていたことを示しているからであろう。
冒頭掲載の画像は、舟木本『洛中洛外図』のなかの皮細工職人である(東京国立博物館蔵。週間朝日百科『日本の歴史』24より)。
そうした、技術の担い手としての多彩で多様な職人が中世後期に現れてくるが、そうした彼らの姿を鮮やかに示してくれるのがいわゆる「職人歌合」などである。 室町末期の『七十一番職人歌合』に登場する職人たちの姿を見るとj15世紀の『三十二番職人歌合』と比べて実に多彩な職人の登場が見られる。こうした職人たちの生き生きとした姿を「洛中洛外図屏風」の世界においても見出すことが出来るので、少なくとも畿内近国では、ポピュラーな姿だったようだ。例えば工匠の場合は、15世紀の後半、鋳物師の場合は16世紀になると地域を特定して職人の営業範囲とするようになる。そこには道具の強度の進歩や新しい道具・技術の出現があったようだ。
『七十一番職人歌合』に,獣皮関連のこととして、十番:馬買はふ(うまかはふ) 皮買はふ(かわかはふ)。三十六番:(ゑた)「この皮は大まいかな」が出てくるが、この「大まい」は、「大枚を叩く」と言う言葉もあるように、金額の大きいことを言っているので、この皮は、高額なのだろう・・・といった意味か。『七十一番職人歌合』の十番、三十六番のことは、以下参考の※15:「中世職能民職種一覧」で解説されているので参照されたい。
いずれにしても、社会的分業の展開の中で、農民と農村経営の発展に照応するかたで、地域=在職の職人が生まれていき、皮革の生産、商売に携るものは、「かわた」と呼ばれるようになり、『慶長播磨国図』(天理図書館蔵)には「かわた」が48ヶ所も、慶長10年(1605年)より少し後のものと推定される「摂津国図」(西宮市立図書館蔵)にも「皮田」「」「川田村」「河原村」「カワラ村」が七ヶ所記載されており、このように少なくとも近畿地方ではかわたが集落として把握され、特定の地域に集住させられていたようである。戦国時代が終わり、豊臣政権で実施された太閤検地検地帳ではこの「かわた」が、武士、商人、農民などとは別に一般的な肩書きとして用いられている。
最後になったが、Wikipediaによれば、毛皮を一般向けに販売する専門店としては、現在は横浜市元町に店を構える山岡毛皮店(日光市鉢石町にて1868年創業)が、日本で初めての毛皮専門店とみられるそうである。
なお、皇太子明仁親王(当時)・正田美智子(当時)の婚約の折、正田側が実家を出る折に身に着けていたミンクのストールが当時のテレビで大々的に放映された。

上掲の画像が、ご両親と共に天皇、皇后両陛下へのご挨拶に向かわれる美知子さん(1958年11月27日。アサヒクロニクル『週間20世紀』1958年号より)。
ミッチー・ブームにのって、ミンクのストールも注目され、おりしも日本は岩戸景気で大衆もが豊かさを実感し享受する時代に突入ていたことから、このような毛皮が、従来は一部の権力者や有力者だけの贅沢品から、一気に一般労働者層でも頑張れば手が届く、高価で贅沢だが一般的な装飾的意味合いの強い衣料品にまでなった。
しかし、現代では動物愛護や動物の権利意識の高まりから毛皮の利用に対して国際的な反対運動が展開されており、特に寒冷地等で「必需品」として利用するのではなく「贅沢品」として利用する事には強い嫌悪感を持つ人も多いと言われる。
なめしてある皮革についても、20世紀以降では人工的に作られた人造皮革(商標名クラレの「クラリーノ」東レの「エクセーヌ」など)があり、天然皮革と異なり、水に濡れたりしても手入れが簡便であり、安価で品質も均一であることなどから普及している。しかし、天然皮革に比して劣化が早い傾向があり、天然皮革の靴や服のように自分の体に合ってくるということは少ないので、やはり、これらには、天然皮革のものを愛好している人が多くいる。
尚、我が地元兵庫県の姫路市の地場産業には、皮革があり、姫路白なめし革細工は、県の伝統工芸品に指定されている。
姫路白鞣革は古くは越靼(こしなめし)、古志靼、播州靼あるいは姫路鞣ともいわれてきたが、その製革技術の始まりについては、地元では最もよく知られているもので神功皇后三韓征伐の折の捕虜で熟皮術に長けるものがあり、丹波円山川で試み、南下して市川で成功し、村人にその技術を伝えたものという朝鮮伝来説や、同時代の出雲国古志村由来伝説などもあるなど、相当古くから伝承されているものだそうだ。以下参考の※16:「電子じばさん館:皮革」では、皮革のこと全般についてくわしく書かれているので興味のある方は覗いて見られると良い。

いいレザーの日:参考へ