今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

世界勤倹デー

2007-10-31 | 記念日
今日(10月31日)は、「世界勤倹デー」
1924(大正13)年の今日(10月31日)、イタリアのミラノで開催されていた国際貯蓄会議の最終日に、この日を「世界勤倹デー」とすることが決定された。日本は1952(昭和27)年に加わっている。
戦後の高度経済成長の中で、まるで消費をすることが美徳のような感じにさえなった現代に、「勤倹(きんけん)」などと言う言葉はもう忘れかけていた非常に懐かしい言葉のような気さえする。「勤倹」とは、勤勉で倹約につとめる・こと(さま)をいい、「勤倹貯蓄」などといった使い方をする。
家計における「貯蓄」とは、将来に備えて銀行や郵便局などにお金を預けることをいい、多少のリスクを伴ってでも貯蓄以上に元手を増やしたい場合は、「投資」をすることになるが、貯めることに重点をおいた「貯蓄」か、殖やすことに重点をおいた「投資」を重視するかは、人それぞれのライフプランやライフスタイル(生活の様式=その人の人生観、価値観、アイデンティティを反映した生き方)などによって変わってくるだろう。
しかし、私達の銀行などへ預けた預金も、企業への貸し付けという銀行の行為によって、企業に投資されているわけである。以下参考に記載の金融広報中央委員会の「貯蓄と消費に関する世論調査」によれば、貯蓄の目的として挙げられている内容は、「病気・災害への備え」が最も多く、これに「老後の生活資金」「こどもの教育資金」が続いている。「明日は明日の風が吹く」などと言って、将来のことは「ケセラセラ」で貯蓄などしなくてローンで現実を楽しむのもそれなりの生き方であろうが、神戸などのように阪神大震災のような災害にあったときには、酷い目に会う。わが妹夫婦などがその例だ。
戦後の日本の高度経済成長の要因には、良質で安い労働力、余剰農業労働力の活用、輸出に有利な円安相場(固定制)、消費意欲の拡大、安価な石油、管理されたケインズ経済政策としての所得倍増計画、など色々有るが、これら以上に重要な要因として、投資の源泉となる国民の高い貯蓄率が上げられる。また、それを利用した高率の民間投資、安定した投資資金を融通する間接金融護送船団方式があげられるであろう。中でも、間接金融としての郵便貯金の役割は非常に大きいものであったと言えるであろう。
貯蓄金融機関とは、主に個人に貯蓄を奨励し、その資金を個人生活の安定などのために地域還元することを目的とする公益的な金融機関であり、貯蓄銀行もしくは郵便貯金の形で世界中に普遍的に存在する機関といえる。その歴史は古く、慈善や相互扶助を目的とした機関を前身に、貯蓄銀行は、イギリスで住宅金融組合(1775年)、信託貯蓄銀行(1810年)を初めとして18世紀後半から設立され、また、郵便貯金は19世紀後半からその貯蓄銀行の一類型として発達してきた。
貯蓄金融機関の特徴は、商業金融機関が比較的小口の金融を扱うことがない状況下で、勤労者などの庶民を対象として勤倹貯蓄を奨励し、資産の貯蓄手段を提供し、安全確実に資産運用を行ってきたことにある。貯蓄金融機関は、その成立・発展過程において、金融機関の普及した地域が都市部に集中するなど限定的であり、経営陣に十分な資金運用能力がなかったり、預金を着服するケースが多数発覚したり、あるいは詐欺事件から破綻する銀行も現われるなどの問題が出てきたため、安全・便利で効率的な運営を行い、郵便局を拠点とする貯蓄金融機関の創設が提唱され、1861年に世界で始めての郵便貯金制度がイギリスで郵便貯蓄銀行として創設された。
世界各国の貯蓄金融機関は、貯蓄の奨励と預金者の保護を目的として1924(大正13)年に国際貯蓄銀行協会(INTERNATIONAL SAVINGS BANKS INSTITUTE:ISBI)を設立し、この活動は、現在、世界貯蓄銀行協会(WSBI)に引き継がれ、1991(平成 3)年1月現在で、81か国、ISBI直接加盟機関118、傘下に約2,800の貯蓄金融機関を擁していたが、2006(平成18)年9月20日現在では、世界89か国、WSBI直接加盟機関103機関、傘下に2,000を超える貯蓄金融機関を擁しているという(世界貯蓄銀行協会(WSBI)資料から)。
日本の郵便貯金は、1875(明治8)年、イギリスの郵便貯金制度を手本として前島 密によって創設されたが、世界の郵便貯金の中では、イギリス、ベルギー、ニュージランドに次いで4番目の創設だそうだ。郵便貯金の創設に先立ち、国立銀行条例が1972(明治5年)に公布され、翌年に第一国立銀行が創設されているが、貯蓄預金が認可されたのは1878(明治11)年であるため、日本では郵便貯金が最も早く創設された公的金融機関ということになる。その後、国立銀行(※国立銀行は国立銀行条例に基づく銀行の意味で、国営銀行ではなく民間銀行であった)、私立銀行(最初の私立銀行は、1876〔明治 9〕年 3月31日に設立された旧三井銀行)、日本銀行が順次設置されて行く。
貯蓄銀行に関しては、(1880(明治13)年初の専業貯蓄銀行である東京貯蔵銀行が認可され、1893(明治26)年に貯蓄銀行条例が施行され、これを契機に多くの貯蓄銀行が設立されたが、1922(大正11)年に「貯蓄銀行法」が施行され、兼業禁止や独立性の維持が求められ、運用面でも地方公共団体以外への貸出を禁じ、主として株式や債券市場での運用を強要される等厳しい条件が定められると、多くは普通銀行へ転換した。1943年に普通銀行の貯蓄銀行業務兼業が認められると普通銀行への吸収合併が進み、1949(昭和24)年1月に青森貯蓄銀行が普通銀行「青和銀行」(現在のみちのく銀行)へ転換したのを最後に貯蓄銀行はなくなり、貯蓄銀行法は、1981(昭和56)年に廃止された。
この結果、2007(平成19)年9月末現在、日本に現存する貯蓄金融機関は郵便貯金のみであり、郵便貯金は世界貯蓄銀行協会(WSBI)にも加盟している、世界最大の貯蓄銀行であった。しかし、2007(平成19)年10月1日、郵政民営化が実施されたことにより、現在、日本には貯蓄銀行という名称のついた金融機関は存在しなくなった。郵政民営化以前に預入され、日本政府による保証を継続させるため、定額郵便貯金・定期郵便貯金は、(株)ゆうちょ銀行に承継されず「独立行政法人郵便貯金・簡易生命保険管理機構」に承継された。旧 契約については、契約が終了するまで政府保証が残る。なお、実務的な運用・管理業務は(株)ゆうちょ銀行および(株)かんぽ生命保険に委託している。2007 (平成19)年10月1日、郵便貯金法も同日廃止されて、ゆうちょ銀行は今後、銀行法に基づき運営されることとなっている。
明治時代に前島は、貯蓄によって老人や子供を養うことができるという点に着目し、貯蓄の道徳についてを、小学校の教育に取り入れることを発案した。このような積極的な活動を通じて、徐々に庶民の間に貯蓄思想が普及し、郵便貯金の資金は徐々に増大し、貯蓄率も1887(明治20)年ごろから増加するようになった。しかし、せっかく集められた郵便貯金の資金運用先が見つからない。結局、1907(明治40)年以降から、大蔵省預金部の運用は、国債ばかりではなく、特殊銀行債(特殊銀行参照)や社会資本の整備など、財政の分野でも活用されるようになり、後の財政投融資の基礎となっていたのである。(明治末・大正・昭和初期には、戦費調達のために最大の資金源泉であったろう)
このようなお金を湯水のように使い切り、バブルが弾けて、気がついてみれば、国の財政赤字は目を覆うばかり。今、国民1人あたりの債務がいくらあるか?以下で見てみると良い。
リアルタイム財政赤字カウンター
http://www.kh-web.org/fin/
上記のものでいくと、生まれたばかりの赤ちゃんも今にも死に掛けの老人もすべて1人は1人として計算し、2007年4月1日現在の 借入金、政府短期証券を含む「日本全体の債務残高」 を1人当りに、計算すると850万円以上も有るんだよ。もし、夫婦と子供2人の4人家族に国の借金を0にするためその請求書を送るとなると、3400万円になると言うことだ。もし、これだけの資産がないとなれば、その差額を貴方の家では借金を抱えていることになる。日本の国は豊かだなんて思って、好き勝手贅沢をしている人達・・・あなたたちはこれからそれだけの借金に見合う税金を支払っていかなければならないことだけは肝に銘じておかなければいけないね~。今の豊かさは自前にお金でなく借金で満たされているもの。もうぼちぼち浪費の時代から「勤倹」時代に切り替えないといけなくなっているのでは・・・。
(画像は民営化以前の郵便貯金の看板)
Category:銀行-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E9%8A%80%E8%A1%8C
新聞記事文庫:貯蓄銀行
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/sinbun/vlist/tyot01.html
金融広報貯蓄委員会・知るぽると
http://www.saveinfo.or.jp/
高度経済成長 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%BA%A6%E7%B5%8C%E6%B8%88%E6%88%90%E9%95%B7
特殊銀行 (日本金融史) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E6%AE%8A%E9%8A%80%E8%A1%8C_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%87%91%E8%9E%8D%E5%8F%B2)
リアルタイム財政赤字カウンター
http://www.kh-web.org/fin/
大和総研/コラム:財政赤字の真実
http://www.dir.co.jp/publicity/column/051025.html

劇作家・小説家木下順二(代表作「夕鶴」)の忌日

2007-10-30 | 人物
今日(10月30日)は劇作家・小説家木下順二(代表作「夕鶴」)の2006年の忌日。
新聞などの木下順二 評には、”民話劇の無垢(むく)な魂をうたい、戦争責任と人間のモラルを厳しく問い、天空から人の営みと運命を見つめる壮大な叙事詩劇に到達した、戦後新劇の良心だった。 ”(朝日)などと有るが、私は、余り難しいことを題材とした文学は好みではないので、よく知らないが、各地に伝わる民話の「鶴の恩返し」や「彦市ばなし」、「三年寝太郎」などを題材とした劇作家としては知っている。
第二次世界大戦中に、明治大学講師を務めるかたわら、『彦市ばなし』などの民話劇を書きはじめ、その中の1編「鶴女房」が戦後改稿され1949(昭和24)年「婦人公論」に『夕鶴』として発表した。戯曲「夕鶴」の原型は「鶴の恩返し」として現在も親しまれる佐渡島の民話「鶴女房」であり、木下が主催した劇団『ぶどうの会』が、主演山本安英で戯曲夕鶴」を初演したのはこの年のことであった。山本は、初演以来、1986(昭和61)年まで37年間、公演数1037回主役・つうを演じた。山本存命中は、他のプロへの上演許可を出さなかったといわれている。山本は 初演から2年後の1950(昭和25)年には『ゆうづる』つうの演技で、第1回芸能選奨文部大臣賞を受賞している。山本逝去(1993年10月20日)後、プロの国内上演を断っていたが、1997(平成 9)年に、坂東玉三郎がつう、渡辺徹が与ひょうを演じた舞台も話題を呼び好評を得た。また、 團伊玖磨によって、オペラ化(夕鶴 オペラ)もされたが、この作品は、一言一句戯曲を変更してはならないという木下からの承諾条件の下に作曲されたという。
この作品は最初から山本安英に演じさせる為に書き、原稿を書き終えるとすぐ俳優山本の家に行き、朗読してもらった。そして、その時の感想を、山本は、「深い美しさが胸にしみ入るようだと書いていると言う。また、木下は「国家が絶叫する日本ではない日本を描きたかった。昔話に隠された日本的なものの本来の美しさを描きたかったと言っていたそうだ。(朝日クロニクル「週刊20世紀」)
あるとき与ひょうは傷ついた鶴を助ける。数日後、美しい女つうが女房にして欲しいとやってくる。つうは、与ひょうの喜ぶ顔を見たくて鶴の千羽織といわれる世にも美しい布を織った。噂を聞きつけた惣どと運ずが一儲けしようと与ひょうをそそのかす。つうは不安を抱きながらも与ひょうのために布を織ることにするが・・・。
つうの夫、与ひょうはカネの誘惑に勝てず、鶴の化身であるつうに布を織らせカネにに代えようとする。その背後には夫を操る2人の男がいることに気付いたつうは叫ぶ。「ねえ、どこにいるの?あんた方は」。『おかね』って、そんなにほしいものなの」「あんたはだんだんに変わっていく(略)。あの恐ろしい人たちとおんなじになっていってしまう」。・・・お金の魔力に心を奪われた与ひょうに驚愕(きょうがく)するつうの叫びは、戦後のモノ・カネへの執着が化け物化してきた現状への、木下のヒロインつうを通じての鮮烈なメッセージでもあったのだが・・・。
因みに、人間と違った種類の存在と人間とが結婚する説話異類婚姻譚という。世界的に分布し、日本においても多く見られる説話類型で、様々な角度から分析することが出来るようであるが、民俗学者、文化人類学者の関敬吾説によると、異類女房 つまり、人間の男と動物の婚姻のものは、見るなのタブーを犯すことで最後には離別する話になっているものが多く、鶴女房 (例:鶴の恩返し、木下順二の『夕鶴』 )もその中の1つと見られていようだ。
(画像は、木下順二作、坂東弥十郎演出、『夕鶴』。つう:坂東玉三郎、与ひょう:渡辺徹。これは、1998年11月9日、大阪・梅田「シアター・ドラマシティー」での公演のもの。コレクションのチラシより)
参考:
木下順二 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E4%B8%8B%E9%A0%86%E4%BA%8C
記憶の森/鶴女房
http://www.h4.dion.ne.jp/~sa-ya/html/mukashi/kaisetsu/tsuru.html
團伊玖磨「パイプのけむり」全仕事/「夕鶴」年度別演奏回数記録
http://www.tasc.or.jp/~pipedan/other/newpage9003yuuduru%20kouenkiroku2.htm
木下順二集
http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/09/4/091351+.html
芸術選奨 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B8%E8%A1%93%E9%81%B8%E5%A5%A8
彦一 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%A6%E4%B8%80
三年寝太郎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B9%B4%E5%AF%9D%E5%A4%AA%E9%83%8E
異類婚姻譚 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B0%E9%A1%9E%E5%A9%9A%E5%A7%BB%E8%AD%9A

千代の山雅信(41代横綱)の忌日

2007-10-29 | 人物
今日(10月29日)は千代の山雅信(九重親方[元]、41代横綱)の、1977年 の忌日 <51歳>
千代の山雅信(ちよのやま まさのぶ)は、大相撲の力士で第41代横綱。本名杉村昌治。1926年6月2日北海道松前郡福島町に生まれる。双葉山への入門を希望していたが、相撲協会映画部の伊勢寅彦の目にとまり、双葉山に勝てる男になるためにと稽古台に不自由しない角界一の部屋に入らなけれいけないと言われ、1942(昭和17)年出羽海部屋に入門したという。筋肉質の長躯(ちょうく)は一門の注目を集め、入門当時から横綱昇進を期待され、戦中、戦後における食糧難の時代に、当時の出羽海親方(元・両國梶之助)の方針でただ一人、腹一杯の食事を与えられるほどの逸材だったという。1942(昭和17)年 1月場所、杉村の本名で15才初土俵。しかし、膝を化膿させて入院し、少し出遅れたが、同年 5月場所新序からは16連勝して期待通りの強さを見せ、初土俵から全て勝ち越して入幕。双葉山の引退の方が早くて顔を合わせることはできなかったが、新入幕の1945(昭和20)年11月場所には、10戦全勝をするが、この当時は、優勝決定戦制度はなく、番付上位優勝制度つまり、同成績者が出た場合は番付上位の者が優勝者としていた。したがって、この場所では、横綱羽黒山も全勝であったため優勝は逸したが、一躍新時代のヒーローとして注目を集めた。(※1947〔昭和22〕年6月の場所から優勝決定戦が実施された。)千代ノ山の堂々たる体格から繰り出す猛突っ張りは非常に威力があった。1949(昭和24)年5月場所は戦後初の15日間興行で、横綱の照国東富士前田山を倒し、12勝3敗の好成績で殊勲賞を受け場所後大関に推挙された。同年10月場所、新大関として13勝2敗で初優勝。翌場所も12勝3敗で連覇を達成するが横綱昇進は見送られた。1951(昭和26)年5月場所14勝1敗で3度目の優勝を果たし、ようやく横綱となったが、これは、日本相撲協会横綱審議委員会の諮問を仰ぎ推挙した初めての横綱である。
この横綱審議委員会設立のきっかけは、1950(昭和25)年1月場所、3日目までに東富士、照國、羽黒山の3横綱が途中休場したため横綱の格下げが論議され、場所中に協会は「2場所連続休場、負越しの場合は大関に転落」と決定発表した。しかし粗製濫造した協会が悪いとの世間からの反発により、決定を取り消すことになった。そこで、横綱の権威を保つためにもそれまでの横綱免許の家元である吉田司家による推薦ではなく、相撲に造詣が深い有識者によって横綱を推薦してもらおうということになり、1950(昭和25)年4月21日に横綱審議委員会が発足したものである。(この相撲の優勝に関しての番付上位優勝制度の問題や横綱決定の複雑な問題は大相撲を参考にされると良い)
残念ながら、横綱昇進後の千代ノ山は腰や膝関節の負傷に加えて精神的動揺に苦しみ、1953(昭和28)年1月場所には、成績不振で休場の折に横綱返上を申し出、物議を醸したが、当時、千代ノ山は横綱・大関のなかで一番若かったこともあって協会は再起に期待の方針を出し横綱返上は認めなかった。「千代ノ山」は再起を期し、名前も「千代の山」に改め、休場明けの同年9月場所には総てをかけて11勝を上げ、再起を果たす。また、この場所からNHKの大相撲テレビ中継が始まり、相撲の映像が茶の間に流れ、相撲を名まで見る人が減るのではとの心配を他所に観客動員数は増加し、戦後大相撲の黄金期金の幕開けを告げた。そして、1955(昭和30)年には見事連続優勝を果たし完全復活を証明し、1957(昭和32)年1月場所には全勝優勝をも達成した。
しかし、その後も、膝関節や腰の故障のなか懸命に頑張ったが、1956(昭和31)年 9月場所から故障が再発して休場がちとなり、1960(昭和34)年1月場所6日目を最後についに引退に踏み切り、年寄九重を襲名した。優勝は6回だが実質7回と言える。全勝2回。得意は突っ張りと右四つ、寄り。脇が堅く、相手に容易に左を差させなかった。得意の突っ張りの強烈さは並外れており、稽古台にされた栃錦の歯ががたがたになったほどである。192cm120kg(112kgしかなかったとも)の細身軽量ながら筋骨隆々とした体型で「鉄骨のやぐら」と称されたほどだが、新弟子の頃膝に重症の関節炎を患い骨に穴を開けて膿を抜いたそうでこの影響は最後までついてまわった。独走すると強いが混戦はどうも苦手だったらしく1958(昭和33)には僅かな差で優勝を逸すること3回(3場所連続)で結局昭和32年1月場所の全勝優勝が最後の賜杯になった。
好不調の波が大きくて持てる実力を思う様に発揮できず一時代を築くまでには行かなかった。戦跡表などは以下参考に記載の横綱千代の山・千代の富士記念館ホームページや[大相撲 記録の玉手箱]などを見られると良い。
千代の山が去った後、番付の三役に出羽海部屋の力士の四股名が消えた。1900(明治33)年(年)1月、常陸山が関脇に昇進した場所から60年間138場所にわたり、出羽海部屋は役力士を欠かしたことが無かった。
1960(昭和35)年に師匠出羽海が亡くなると、出羽海部屋を継承するつもりだったが、元平幕力士出羽ノ花の武藏川親方が継承、当時九重は次の出羽海だと本人も周囲も思っていたが、後、当時大関の佐田の山が出羽海の婿養子となったため、佐田の山が継承がするものと諦め、当時の部屋では伝統的に分家独立不許という不文律に悩みながら独立を申し出ると弟子13名中10名までを連れて独立することを許されたが、一門からは破門され、高砂一門に身を寄せた。(この辺は複雑な事情があったようだ)
独立して最初の場所である1967(昭和42)年3月場所に弟子の大関北の冨士が初優勝し、その後、横綱に昇進した。また、出身地も卒業した小学校も同じ千代の富士をスカウトし、幕内力士にはしたが、大成(史上最多の通算勝星・1045勝など、数々の栄光を手にした史上有数・昭和最後の大横綱となる)を見ることなく51歳で没しった。九重部屋は独立して井筒部屋を興していた北の富士が両部屋合同の形で継承した。
日本相撲協会公式サイトでは、以下の動画が見れるよ。
①千代の山、大関になって最初の場所。昭和24年、秋場所 千秋楽 対 神風戦。 うるさい神風を寄り切りで勝ち、13勝2敗で初優勝を遂げる。
②昭和32年 1月場所 千秋楽。 対 松登戦。」 突き落としで破り、千代の山は、六回目の優勝を全勝で飾った。
日本相撲協会HP蘇る名横綱のページ。
http://sumo.goo.ne.jp/kiroku_daicho/mei_yokozuna/chiyonoyama.html
(画像:千代の山雅信の銅像。横綱千代の山・千代の富士記念館前。フリー百科事典Wikipediaより)
参考:
千代の山雅信 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E4%BB%A3%E3%81%AE%E5%B1%B1%E9%9B%85%E4%BF%A1
Category:大相撲 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E5%A4%A7%E7%9B%B8%E6%92%B2
関節炎
http://www.kirishimacho.com/HouseCall/encyc/123/46/175_0_0_0.html
横綱千代の山・千代の富士記念館ホームページ
http://www.town.fukushima.hokkaido.jp/sumo/memory/
日本相撲協会公式サイト
http://www.sumo.or.jp/
[大相撲 記録の玉手箱]
http://www.fsinet.or.jp/~sumo/sumo.htm
両国国技館 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%A1%E5%9B%BD%E5%9B%BD%E6%8A%80%E9%A4%A8
タマローの相撲コラム2001
http://www2.tba.t-com.ne.jp/tamaro/newpage2-1-10.htm


ロッキード裁判で榎本被告の夫人・榎本三恵子が田中元首相の5億円受領を裏附ける証言をした日

2007-10-28 | 歴史
1981(昭和56)年の今日(10月28日)ロッキード裁判で榎本被告の夫人・榎本三恵子が田中元首相の5億円受領を裏附ける証言をした日。「ハチのひと刺し」が流行語に なった。
ロッキード疑獄で田中前首相逮捕!
1976(昭和51)年7月27日、朝日新聞夕刊は田中関連の記事以外は1行もなかった。
ロッキード事件は、国内航空大手全日空の新型旅客機導入選定に絡み、一国の首相が米国企業の依頼を受け、1976(昭和51)年7月27日に、受託収賄外国為替・外国貿易管理法違反の疑いで逮捕されたという前代未聞の事件である。田中前総理の他にも佐藤孝行運輸政務次官(逮捕当時)や橋本登美三郎元運輸大臣が逮捕され、戦後の疑獄(ぎごく=政治にからむ大規模な贈収賄の事件)事件を代表する大事件となった。
「総理大臣の犯罪」の異名を持つこの事件の発端は、1976(昭和51)年2月、米上院外交委員会の多国籍企業問題小委員会公聴会で、航空機会社のロッキードの新型機「L-1011 トライスター」売り込み工作に絡んで、日本政府高官に巨額の金が渡っている(、その一部・5億円が田中角栄に渡っている)ことが、当事者であるロッキード社副社長・コーチャン等によって暴露された。丸紅、全日空の幹部たちだけでなく、右翼の大物児玉誉士夫政商と呼ばれる小佐野賢治など実名がその関係者として明るみに出た。その事実を知るのは、世間も司法・捜査当局も同時であり、政界、世論も騒然とするなかで、自前の情報、材料を何も持ち合わせのないまま、検察当局は事件解明に立ち上がらざるを得なかった。米議会での詳細な証言と資料公開で「周知」となった事件を不問に付すことは出来ない・・。
日本政府は2月16日から国会衆院予算委員会での証人喚問を実施。事件関係者としてアメリカで名前があがった小佐野賢治や丸紅の伊藤宏専務、全日空の若狭得治社長らが「記憶にございません」の答弁を連発。ロッキード社への領収書に「ピーナッツ100個受け取り」など、当時の流行語にまでなった。一方、検察庁当局は、刑事事件として捜査を開始。その結果、4年前に全日空は次期主力機をマクドネル・ダクラス社のDC10を内定していたが、突如ロッキード社の「トライスター」に決定したことが賄賂に当たるとした。そして、日本政府高官等への贈収賄ルートには、・ロッキード社から丸紅を経由して田中首相に5億円が渡った「丸紅ルート」・全日空から政界へばらまいた「全日空ルート」、ロッキード社から児玉を経由して小佐野へ渡った「児玉ルート」の3ルートがあることが分かり、7月27日、田中前総理他の逮捕となったのである。(当事件についての詳細は、ロッキード事件参照)
1981(昭和56)年の今日(10月28日)、田中らロッキード事件丸紅ルートの公判(東京地裁)で、元首相秘書、榎本敏夫被告の夫人だった榎本三恵子が、、丸紅からの5億円受領を榎本被告は認めていたと証言。この証言で田中被告は決定的に不利になった。証言者の三恵子は、11月4日の記者会見で「真実を述べるのは私の国民としての義務だと思います。夫は、『どうしようか』と言いますので、お金は受け取ったのかと聞き返しますと、瞬時迷っておりましたが、顔を上げる際に軽くうなずいておりました。ハチは一度刺したら命を失うと申しますが、人を刺すという行為で私も失うものが大きいと思います」と語った(アサヒクロニクル「週刊20世紀」)。この「ハチの一刺し」も流行語になった。
ミツバチの針には返し棘があり、皮膚に刺さると抜けなくなり、無理に抜けば毒腺ごと抜けて、ハチは死ぬ。俗に「ハチの一刺し」というのはこれのことだが、他のハチは連続していくらでも刺すので、これにはあたらない。三恵子の場合、ハチはハチでもミツバチということか?。1回しか刺さないが、刺さると恐い。自分の信念のためには、夫をも指す。立派だと感心はするが、凡人の私などには、このような女性は恐れ多くって恐い存在ではある。
1983年(昭和58年)10月、田中元首相への第一審判決に絡み、国会が紛糾し、衆議院解散のきっかけとなった(田中判決解散)。
(画像は、1981年11月4日記者会見をする榎本三恵子さん。アサヒクロニクル「週刊20世紀」より)
参考:
Category:ロッキード事件 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%83%89%E4%BA%8B%E4%BB%B6
政界激震のロッキード事件
http://www.geocities.jp/showahistory/history06/51a.html
ロッキード事件
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/rokkido.htm
ロッキード事件とは
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%a5%ed%a5%c3%a5%ad%a1%bc%a5%c9%bb%f6%b7%ef
ハチ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%81



世界新記録の日

2007-10-27 | 記念日
今日(10月27日)は、「世界新記録の日」
1931(昭和6)年の今日(10月27日)、神宮競技場で行われた体育大会で、日本初の世界新記録(南部忠平の走り幅跳び7m98、織田幹雄の三段跳び15m58)が誕生したことから。
1931(昭和6)年、第6回明治神宮体育大会(夏季 - 10月2日~4日、秋季 - 10月27日~11月3日) が催された。
明治神宮競技大会は「明治天皇の聖徳を憬仰し、国民の心身の鍛練、精神の作興に資す」ことを目的に、明治神宮外苑競技場 を主会場に、1924(大正13)年から1943(昭和18)年にかけ14回にわたって行われた総合競技大会である。明治神宮外苑競技場は明治神宮外苑内に1924(大正13)年から1956(昭和31)年まで存在した陸上競技場で、施設は、一周400メートル、幅10メートルのトラック。15,000人収容のスタンドに沿って200メートルの直線コースがあり、スタンド反対側の芝生観客席は約50,000人収容。この競技場は、1912(明治45)年のストックホルムオリンピック開催のために建設されたストックホルム・オリンピアシュタディオンを模して設計されたものだそうだ。(現在の国立霞ヶ丘陸上競技場を起工するため解体された。)
因みに、このストックホルムでの大会は近代オリンピックの基礎が確立された大会と言われており、28の国と地域から2490人の選手が参加したが、日本にとってはこの大会がオリンピック初参加である。
明治神宮競技大会の第1回~第2回大会の主宰が当時、国民の統制に権力を振るった内務省であることや大会の目的を見ても分かるように、この大会は、大正デモクラシー運動への流れの中で揺らぐ天皇制の補強を目的とするもので、極めて国家主義的、軍国主義的色彩の強い競技会だったようであり、明治神宮体育大会は国内最高水準であることが求められたそうだ。(以下参考に記載の「2002world.com・日本サッカーの歴史」参照)
この1931(昭和6)年の今日(10月27日)行われた第6回明治神宮体育大会にて、走り幅跳びの南部忠平が7m98、三段跳びの織田幹雄が15m58の日本初の世界新記録を出した。
南部のこの時の走り幅跳びの記録は相当にレベルが高く、70年以上たった2007年現在でもいまだに日本歴代13位に位置している。ゆえに40年近く日本記録として残り、1970(昭和45)年6月7日に山田宏臣が8m01を跳ぶまで破られなかった。現在でもこの記録をマークすれば、ことによれば日本選手権優勝もありえる。当時は土の助走路でスパイクも旧式であり、現在のタータン(陸上競技場のグラウンド。以下参考に記載のかにまろの気まま日記 走幅跳参照)と最新のスパイクの性能を考えると、いかに南部の記録が突出していたかがわかる。
また、織田は、1928(昭和3)年のアムステルダム・オリンピックでは、日本選手団の主将として出場するとともに、三段跳びで見事金メダルを獲得。日本人で史上初の金メダリストとなていた。また、南部は、三段跳びで4位入賞であった。
因みに、このアムステルダムの大会では、長らくクーベルタンらの反対で見送られてきた女性の陸上競技への参加が初めて認められ、日本からは人見絹枝が出場し、800m走で銀メダルを獲得している(日本最初の女子メダリスト)。 この大会では、他にも、競泳男子200m平泳ぎで鶴田義行が金メダルを獲得、(日程が三段跳びよりも6日遅れだったため、日本人金メダル第1号とはなれなかった)、 競泳男子800m自由形リレー(米山弘、佐田徳平、新井信男、高石勝男)で、銀メダル、競泳男子100m自由形で高石勝男が銅メダル を獲得している。
その翌・1932(昭和 7)年、世界大恐慌下でのロサンゼルスオリンピック では、大不況のため欧州各国が参加選手を減らし、参加選手数が前回の約半分の小型大会であり、しかも、、満州事変の勃発(1931年9月)などで国際世論の風当たりが強い中、日本は逆に前回の3倍の192人の選手・役員団を派遣、開催国アメリカに次ぐ陣容であった。 日増しに悪化するアメリカとの対日感情に加えて祖国の期待という重圧。それらに耐え、選手たちはメダルに挑んだ。陸上競技では南部が三段跳びで15m72を飛んで優勝。南部は前年の走り幅跳びで世界記録を出していたが、三段跳びは専門外で殆ど練習をしていなかったと言う。ところが、本命視されていた走り幅では記録が伸びず銅メダルであった。そして、気持ちをきりかえて臨んだ三段跳び5回目のジャンプで、織田の持つ記録を塗り替える世界新記録で優勝したのであった。彼は、早大時に100m、10秒8をマークした俊足の持ち主であること、それと、”お国のために絶対に勝つ”という強い信念があっての勝利だったのだろう。
このロサンゼルス大会で、日本は金7、銀7、銅4計18個のメダルを獲得。国民はラジオと新聞が伝える選手の活躍に狂喜し、日本中で「バンザイ」を叫び続けたと言う。恐慌とファッシズムの靴音。「米国をやっつけろ」。オリンピックが満州国建国をめぐっての反米感情の捌け口となっていたのだろう。日本の国策にマスコミが強力・・・。オリンピックは暗い時代を一時忘れさせてくれた・・・ことだろう・・・・???。
(画像は、南部忠平。アサヒクロニクル「週刊20世紀」より)
参考:
日本陸上競技連盟(日本陸連)
http://www.rikuren.or.jp/
OC - オリンピックの歴史
http://www.joc.or.jp/olympic/history/003.html
1931年のスポーツ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/1931%E5%B9%B4%E3%81%AE%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%84
2002world.com・日本サッカーの歴史
http://www.2002world.com/history/japan/index.html
大正デモクラシー - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E3%83%87%E3%83%A2%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%BC
南部忠平 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E5%BF%A0%E5%B9%B3
織田幹雄 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E5%B9%B9%E9%9B%84
満州事変 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E4%BA%8B%E5%A4%89