今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

世界禁煙デー

2005-05-31 | 記念日
今日5 月31日は「世界禁煙デー」。
世界保健機関(WHO)が1989(平成元)年に制定した国際デーの一つ。毎年世界で300万人が喫煙が原因とみられるがんや心臓病で亡くなっており、このままでは2030年代初頭には喫煙による死亡者が年間1000万人に達するとWHOが警告しているそうだ。
私が、煙草をやめたのはもう、何年前かな~。
私が、ある仕事の目的を持って、子会社に勤務をしたことがある。その会社の社長に請われて行ったのだが、私は、社長室の横の部屋に独立した個室を持っていた。そこの社長が禁煙をしていることは知っていたが、社員も事務室ではタバコを吸っているものがいない。しかし、休憩時など、自販機のコーヒーなどを飲もうと、社員食堂などに行くと、そこで大勢の男子社員がタバコを吸いながらだべっている。食堂内はタバコの煙でもうもうとしている。それで、私が、事務所では禁煙なのかと聞くとそうでもないという。では何故・・と聞くと、吸っている人を見かけると社長から、タバコの害についてくどくど聞かされるので、それが嫌で、社長のいないところで吸っているというのである。それでは、社内禁煙と言うことでもないんだねと確認をしておいて、私は、自分の部屋でタバコを吸っていた。個室で吸っているからでもあろうが、私がタバコを吸っていても、社長からは、何も言われたことはない。しかし、後に、聞いたところによると、社長に来客があったときなど、社長室で話をしているとき、来客者にまで、喫煙のことをくどくど言っているらしく、来客者も、社長に気遣いタバコが吸えないのだという。それが、どうして、私にだけは、タバコを吸うことについて何も言わなかったのか・・・?よほど、うるさいと思われていたのかも・・。(^_^;
そんな私が、タバコを吸わなくなったのは、それから、数年後のことである。
当時、その会社では、毎年、業績の優秀な社員を選び、その人たちにご褒美で、アメリカの西部(ロス中心)に、視察旅行(観光旅行を兼ねて)に行かせていた。私もその会社から2回行った。初回は団長として、2回目はそれから3年後に副団長として引率していった。
初回に行ったのは、今から、10年少し前ぐらいか?その当時もう、アメリカでは、禁煙は常識になっていて、空港やレストランなど人の集まるところでは限られた場所でしか煙草は吸えない。レストランなどでも、煙草を吸おうと思うと隅のほうで小さくなって吸わなくてはならなかった。周囲の人は、それを冷ややかな、まるで、軽蔑したように冷たい目で見ている。
アメリカでの観光を兼ねた視察旅行は楽しいものであったが、1週間ほど、煙草を吸うたびに肩身の狭い思いをした。それから、3年後、ますます、禁煙運動は高くなり、報道関係によるともっと、喫煙者には厳しくなっているという。頑固に煙草を吸い続けていた私も、米国へ行って、そんな環境のなかで、肩身の狭い思いをしてまで吸うのはいやだと禁煙を決意した。丁度その出発前に風邪を引きタバコが美味しく吸えない状態でもあったことも幸いした。その時、本当にアメリカではもう吸えると場所は殆どなかった。アメリカでは、煙草を吸っている人の住んでいる地域は決まっている。中産階級以上の人が住んでいるところでは全く吸っている人はいない。体に良くないと分かっていてタバコを吸うのは、健康面だけでなく、禁煙できないことが、その人の精神力の弱さ、意志薄弱なためとの見方なのだ。だからタバコを吸っている人を見る目は完全に軽蔑的である。良いか悪いかは知らないが、そういう点は、ハッキリした国だね~。でも、私自身は、それを機会にぴったりと禁煙。今思うと禁煙してよかった。
参考:
「たばこの日,ピース記念日」は、1月13日。
この日のことも私のブログで採りあげました。ここです。
「嫌煙運動の日」は、2月18日。
この日のことも私のブログで採りあげました。ここです。

ジャンヌ・ダルクが、火あぶりの刑に処された日。

2005-05-30 | 歴史
1431年の今日(5月30日)、ジャンヌ・ダルク (仏:百年戦争のヒロイン) が、イギリス軍の手により宗教裁判にかけられ異端者として火あぶりの刑に処された。[1412年1月6日生]
この15世紀の百年戦争で活躍した悲劇の少女戦士、ジャンヌ・ダルクの生涯を、リュック・ベッソンが同名で完全に映画化した。15世紀、イギリスとの戦争に明け暮れるフランスに突如。「神の声を聞いた」という17歳の少女ジャンヌ・ダルクが現れ、少女は、国王子の元を訪れ自分にフランス軍を指揮させてくれるよう懇願する。果たして神の声を聞いた17歳の少女に国が救えるのか?それは、実際に神が存在するか? それとも、神は単なる少女の幻覚に過ぎになかったのか?といった「神の存在をも問う」壮大なテーマの映画でもある。
フランス西部のドイツ国境付近のロレーヌ地方、ここには一つの伝説があった。「フランスが危機に陥った時、ジャンヌという名の少女がその危機を救うだろう。」と・・・。
ジャネットことジャンヌ・ダルク はこのロレーヌ地方の小村ドムレミの農民の娘として生まれる。ジャンヌは父親の名である。のどかな農村で天真爛漫に育ち、そして、13歳のころ、彼女は初めて神の声を聞いた。その声は彼女にフランスを救うように話し掛けた。この不思議な神の声を聴いた少女の村を、ある日イギリス軍が襲い、彼女に隠れ場所を譲った姉は、無残にもジャンヌの目の前で殺される。懺悔を聴いた神父は、復讐が平和をもたらさないことを説いて聴かせるが、ジャンヌの心に平穏はなく、この事件をきっかけに彼女は異様な情熱で神に帰依することを誓う。
百年戦争の後期、彼女は何度も何度も神の声を聞き、少女は伝説の少女がジャネットであることを知らされ、15歳の時にジャンヌと改名、そして、17歳の時、フランスの解放を神に託されたと信じた少女は、ついにフランスを救うため、王太子シャルル7世の元を訪れる。
時は中世、英仏百年戦争の真っ只中。1337年にはじまり続いていた戦争に、フランスは負けつづけ、イギリスに攻め込まれ、まもなくフランスはイギリスの手に落ちる寸前であった。しかし、フランス国民には負けつづの戦争に厭戦気分が漂っていた。又、1422年にフランス国王シャルル6世は死去していたが、その跡継ぎとなるべき王太子は、まだ国王につけないまま各地を転々としていた。それは彼の母親がイギリス王と結婚し、彼女はイギリス国王との間に出来た子をフランスとイギリスの共通の王にしようとしていたからであった。そんな彼の元を「神の声を聞いた」というジャンヌが訪れ、自分にフランス軍を指揮させてくれるよう懇願する。果たしてこんな少女に国が救えるのか?ためらう王太子に義母ヨランドは、すでに伝説を背景に民衆の支持を集め始めているこの娘を利用して、膠着した戦局を打破することを薦める。そして、まだ、疑問視する周囲をよそ目に、彼女の存在で軍は息を吹き返し、2ヶ月後には、オルレアンの闘いで奇跡的な勝利を収め危機を救い、その後、その勢いにのって次々と戦勝をかさね、ついにフランスで、1429年、シャルル7世を戴冠させたのである。
つまり、ジャンヌが神から聞いた「フランスを解放し、王太子シャルルを王位につけよ」という予言はすべて成就したのであるが・・・・。しかし、彼女にはその後に、過酷な運命が待ち受けていた・・・。わずか1年の活躍の後、イギリス軍の捕虜となり、宗教裁判で魔女と断罪され、火刑に処されたのだ。まだ、19歳の時である。
しかし、このジャンヌダルクの話を聞いていて、いつも思うことがある。ジャンヌの奇跡的勝利はオルレアン開放戦線に始まる。しかし、それにしても、その勝ち方は鮮やかであった。何故こんなに勝てたのだろうか・・・?人々から神の使いとみなされ、天使を描いた旗印を手に、銀色の甲胄で白馬にまたがって陣頭に立つ少女ジャンヌ・ダルクはフランス軍兵士の勇気を奮い起こさせたのには違いないだろう。しかし、オルレアン開放戦線は神懸り的な力丈でなし得たものではないと言う説がある。
それは、ジャンヌ達の軍はいわゆる傭兵達で構成されていて、ジャンヌをはじめとするフランス軍の構成員が「騎士」としての教育を受けていなかった。騎士道精神に乗っ取って一騎撃ち的な戦いをモットーとしていたイギリス軍にとっては、「神の名の元に」団結して、騎士道の精神に乗っ取らず、読めない戦法で奇襲攻撃してくるジャンヌの軍はまさに悪魔の仕業に見えたであろうと言う。そういえば、今、NHKで放映している源義経も同様ではないか。源平合戦のヒーロー「九郎判官・源義経」の真骨頂は、「奇襲戦法」にある。「一の谷合戦」では、背後から軍を二手に分け、鵯越の坂を一気に逆落としに駆け下り、敵の背後から、平家軍を奇襲した。「屋島の合戦」では、勝浦から夜を徹する強行軍で翌朝、屋島の内裏の対岸に到着するや平家軍をいきなり急襲した。「壇ノ浦の海戦」では、海戦に不慣れな寄せ集め編成の源氏方は押され気味で、苦戦したが、平家方の水手や梶取を射る作戦が有効打となり形勢が逆転した。しかし、当時は舟の水夫・梶取は非戦闘員でありこれは時の水上戦の掟を無視した戦法であった。当時、合戦は一騎討ちが主流だった。両軍が対峙して大将が挨拶した後、互いに矢を交わし、剛勇の武者が進み出て一騎討ちをおこなう・・・といったかたちである。これを無視しての義経の戦略に、平家軍は破れたといっていいだろう。これも、義経の忠実な仲間が弁慶や伊勢三郎など元盗賊、無頼の徒であることも関係しているだろう。
諸侯のいない都市に奇襲攻撃をかける、というのは騎士道精神に反することで、しかも骨の髄まで騎士道の教育的背景を持つ、当時の支配者階級にとってまったく発想できなかったことであった。
それでは、何故、その後のコンピエーニュの戦いで、破れたのだろう。ジャンヌのおかげで王位についたとはいえ、シャルル7世の政治的立場はまだ、脆弱なものであった。そのため自分の足固めのためにも、イギリスを支援し対立していたブルゴーニュ派との和解が先決であった。それに母イザホーの浪費のために国庫は火の車であり、財政を立て直して戦力を蓄えなければイギリスと戦うことは出来ない。そのために休戦したかった。しかし、ジャンヌにはこうした政治的事情を読むことはできず、以後、シャルル7世のバックアップが得られなかったために連敗を重ねた。
その結果、イギリス軍に捕らわれ、火あぶりの刑となるのであるが、若干19歳の少女に対して、何故、このような惨い刑罰を与えたのかについては、以下のようなことがいわれている。当時捕虜は殺してはいけないことになっていた。普通は身代金を取って釈放するのであるが、イギリス側は何としても殺したいので、宗教裁判にかけた。イギリス軍にとっては、ジャンヌがフランスの国家のために男装して戦う聖女「神の奇跡の乙女」であることを恐れていた。ジャンヌが「神の奇跡の乙女」である限り、正義はフランスの側にあることになる。イギリスに正義があることを証明するにはジャンヌが「神の名をかたる悪の手先ー魔女」であることを証明しなくてはならなかったのである。そのため、彼女を宗教裁判にかけた。宗教裁判は、ローマ教会が教えに背いた異端や魔女を裁いて処刑する権利を持っていた。この裁判では、彼女の男装が追及されている。これは申命記22章の「女は男の着物を身に着けてはならない。男は女の着物を着てはならない」という戒律のためである。人間は、「男と女に創造された」。創造者が、男を男として、女を女としてつくったのだから、男が女のようにしたり、女が男のようにしたりすることを禁じているというのである。そして、彼女の男装に対する刑罰が決まったその日のうちに、ルーアンの広場で火刑に処されたが、火刑は服が焼け落ちた段階で一度火を止め、ジャンヌが「女性である」ことを証明してから再び焼く、という残酷なものであったという。今の時代であれば、このような聖書に照らされると困った人が多くいるだろうね~。
しかし、その後、ジャンヌ・ダルクがフランスの国民的英雄になったのはナポレオンが国家主席になったときに賛辞して以来といわれる。そして、1920年にローマ教皇ベネディクトゥス15世によって列聖され、聖人となったそうだ。
先に述べた、源義経の軍事的成功も、当時、頼朝他、周囲の人間に別の不安をもたらした。結局、彼の下に付いた頼朝の家臣・梶原景時は、「義経の行動の数々に問題あり」と鎌倉の頼朝に書き送っていた。やっかみもあったではあろうが、義経の悲劇は、時のルールに反しての彼の鬼神の如き活躍が頼朝にとっては脅威となったのではないか。
(画像は、マイコレクションの映画チラシ。リュック・ベッソン監督「ジャンヌ・ダルク」)
参考:
映画「ジャンヌ・ダルク」
http://www.sonypictures.jp/archive/movie/joanofarc/
「男装は犯罪!?」ジャンヌ・ダルクの奇跡と悲劇を探るジャンヌ・ダルク
http://www.geocities.jp/stshi3edgid/hs_jean.htm
源 義經研究
http://www.st.rim.or.jp/%7Esuccess/room_yositune.html


白櫻忌,晶子忌

2005-05-29 | 人物
今日(5月29日)は「白櫻忌,晶子忌」
歌人・詩人の與謝野晶子の1942(昭和17)年の忌日。歿後に出された最後の歌集『白櫻集』(昭和17年9月)に因み、「白櫻忌」とも呼ばれる。
。(与謝野 晶子(よさの あきこ)は、明治時代から昭和時代にかけて活躍した作家、歌人。旧姓は鳳(ほう)。戸籍名は志よう。ペンネームの「晶」は「志よう(しょう)」から取った。夫は同じく詩人.歌人の与謝野鉄幹(与謝野寛)。残した歌は5万首にも及ぶ。情熱的な作品が多い歌集『みだれ髪』や日露戦争の時に歌った『君死にたまふことなかれ』が特に有名。『源氏物語』の現代語訳でも知られる。エネルギッシュな人生を送り、女性解放思想家としても巨大な足跡を残した。
1901(明治34)年、晶子24歳の時、処女歌集『みだれ髪』を夫与謝野寛の編集で刊行。このときは、まだ鳳晶子の名によって上刊。藤島武二によるアールヌーヴォー調の表紙画と挿画をあしらった瀟洒た造本だった。(1906年3版刊行のときは著者名与謝野晶子と改める)
「くろ髪の千すじの髪のみだれ髪かつおもひみだれおもひみだるる」
「その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな」
「血汐みななさけに燃ゆるわかき子に狂ひ死ねよとたまう御歌か」
「道を云はず後をおもはず名を問はずここに恋ひ恋ふ君と我れと見る」
「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」
「乳ぶさおさへ神秘のとばりそとけりぬここなる花の紅ぞ濃き」
「ゆるしたまへ二人を恋ふと君泣くや聖母にあらぬおのれのまへに」
「くろ髪の・・・」の歌は、一人孤閨にあつて思ひ乱れる麗人の心緒を髪の乱れに具象した作で、歌集の乱れ髪の題となったものか。明治34年のまだ、女性が自我や性愛を表現するなど考えられもしなかった時代に、このように女性の官能をおおらかに謳いあげるのだから、伝統的歌壇からは大反発を受けたものの、世間の耳目を集めて熱狂的な支持を受け、歌壇に多大な影響を及ぼすこととなった。
又1904(明治37)年9月、弟の日露戦争出征にあたり、「明星」に厭戦詩『君死にたもふこと勿れ』を発表。
ああおとうとよ 君を泣く
君死にたもうことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃(やいば)をにぎらせて
人を殺せとおしえしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや
”旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて”と副題のつけられた長文の詩「君死にたもうことなかれ」は有名だよね。私達も子供の頃、反戦の詩として学校で教えられた。
忠君愛国の日露戦争時代、この詩の中で、とくにその三連目では「すめらみことは戦いに おおみずからは出でまさね 」と詠い、国家主義者で文芸評論家の大町桂月(けいげつ)は、晶子の詩を激しく非難したが、晶子は「明星」紙上で「ひらきぶみ」と題してこれに反論、毅然として退くことはなかったという。確かに戦時下とは言え、天皇を絶対としていたこの時代に「すめらみこ」への直訴の形をとったのは不敬で、大胆不敵な発言ではあったが、このとき既に社会主義、キリスト教、キリスト教的社会主義などの見地からの非戦論もあり、「明星」では戦争に対して批判的な記事も色々掲載されていたことから、この歌も、こうした明星の土壌から生まれたもので、晶子の独創ともいえないようだ。既に、夫、鉄幹は「明星」において、「大君の御民を死にやる世なり、他人(ひと)のひきいるいくさの中に・・・」などと詠んでいたといい、これらが念頭にあったのであろうと言う。与謝野晶子作詩・吉田隆子作曲の唱歌「君死にたもうことなかれ」はすごくいい。いい歌詞つきMIDI 「君死にたもうことなかれ』があるので、与謝野晶子の詩を読みながら聞いてみるのも・・・。
妻子ある師・与謝野鉄幹のもとに走った晶子。世間では略奪結婚との非難も・・・。ただひたすらにその恋愛を完うした。女性の自立を歌い、女性の地位向上にも積極的な評論活動を行い、女性解放思想家としても巨大な足跡を残した彼女であるが、ただ、自分のことだけしか見えない女ではなかった。「奔放で情熱的」な女性ではあるが、又、「静かでひたむきな女性」でもある。情熱的な恋心を持って鉄幹と結婚した後、11人もの子沢山だったが、夫の収入はまったくあてにならないなか、子供達の為に教育こそが財産という思いで、きちっと私学の学校に行かせ、夫の鉄幹を支え、師と仰ぎ、母とし妻として、家の中のことを精一杯やっている、非常に奥ゆかしい女性であり続けた。本人は「女性らしい女性」などと言うものを嫌い「人間らしい人間」として生きたのであるが、我々男性から見ると、こんなかわいい女性はいない。出来ることなら、近年のウーマンリブといわれる人たちのお手本にして欲しい女性である。
(画像は1901年上刊された「乱れ髪」36変形半紙装の斬新な歌集。発行元は東京新詩社。装丁は藤島武二。巻頭でその意匠について「表紙画みだれ髪の輪郭は恋愛の矢のハートを射たるにて矢の根より吹き出たる花は詩を意味せり」と解説。朝日クロニカル・週間20世紀より)
参考:
與謝野晶子歌集(里実文庫)
http://www.asahi-net.or.jp/~aq3a-imi/syoko/kindai/yosano/yosano_top.htm
与謝野家の人々
http://www.yosano.gr.jp/yosanoke/index.html
與謝野晶子の紹介
正字正かな專門サイト「言葉 言葉 言葉」の文學者紹介コーナ。與謝野晶子紹介.
http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/YOSANO/
作家別作品リスト:No.885與謝野晶子
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person885.html

業平忌

2005-05-28 | 人物
今日(5月28日)は、「業平忌」
880(元慶4)年の今日(5月28日)は、平安時代初期の歌人・「在原業平の忌日」。<56歳.>。晩年を過ごしたとされる大原野の十輪寺では業平忌が営まれる。
この在原業平( ありわらのなりひら)は、平城天皇の第一皇子阿保親王の第五子で、母は桓武天皇の第八皇女伊都内親王である。このような、やんごとなき皇統の血筋であったが、薬子の変(810)によって平城天皇が剃髪出家し、阿保親王も太宰権帥に左遷されたため、親王の子供たちは、すべて在原の姓を賜って臣籍に下った。兄に仲平・行平・守平などがいる。紀有常女(惟喬親王の従妹)を妻とする。しかし、廟堂においては圧倒的な勢力を握る藤原氏の風下にあることを余儀なくされ、業平もまた従四位上蔵人頭で終わることになる。
六歌仙 三十六歌仙の一人で、容姿端麗で情熱的な和歌の名手であり、『古今和歌集』仮名序では「その心あまりてことばたらず」と評されたように、情熱あふれる秀歌が多い。古くから『伊勢物語』の主人公とされている。伊勢物語は和歌を中心とした短編の物語が全部で125段あり、これらは別名、歌物語と呼ばれている。この物語は、さまざまな恋愛談が中心になっており、ここにでてくる「男」の大部分のモデルは 在原業平と言われているが、なかでも、二条の后 高子(藤原高子)との駆け落ち、(三段~六段)や伊勢斎宮(斎宮恬子内親王)との密通(六十九段) 事件が名高い。
前者の藤原高子(たかいこ)との駆け落ち「事件」の後に、藤原高子は清和天皇のもとへ入内し、陽成天皇を産むこととなる。
百人一首 (在原業平の歌)に、
「ちはやぶる神代もきかず龍田川からくれなゐに水くくるとは」の有名な歌がある。ある日、業平は清和天皇の女御の藤原高子に招かれ屋敷を訪ねた。高子は天皇にお仕えする前に、業平と愛し合っていた。そこで高子に「屏風にわたしたちの恋を歌にして書いてください。」と言われて作ったのがこの歌だという。
後者の伊勢斎宮恬子(やすこ)内親王との情交では、 業平は「狩の使」として伊勢の国に下る。狩の使とは宮中の宴会用の野鳥を捕らえさせるために諸国に派遣する勅使のことである。業平は斎宮の宮に宿泊する。
伊勢の神に仕える清浄にして至高の巫女とされたのが斎宮(いつきのみや)である。斎宮は天皇即位の初めに未婚の皇女の中から朴定(ぼくじょう)され、選ばれた1年目は宮城内で、次の1年は宮城外の人里離れた清浄な場所で、厳しい潔斎を続けた後、3年目になって、伊勢に赴いた。彼は斎宮に強引にも恋を打ち明けて、お逢いしたいと云う。斎宮は人々が寝静まるのを待って夜更けに、業平の寝所にやって来て、一夜を共にする。そして、翌朝、斎宮は業平に歌を贈る。
「君や来し我れや行きけん思ほえず 夢かうつつか 寝てか覚めてか」
業平と藤原長良の娘で、将来は天皇の后ともなるべき高子への恋又、この何人も侵すべからざる神聖な伊勢斎宮との恋など、伊勢物語の前段の恋は業平の単なる恋物語と言うだけでなく、政治的反逆の物語として読むこともできるのだともいう。
兵庫県の芦屋は大阪と神戸の中間に位置し、南に大阪湾、北に六甲を控えた、風光明媚な場所で昔から東の鎌倉とならび称された文化的な町である。
伊勢物語八十七段 に、「むかし、おとこ、津の国、むばらの郡(こおり)芦屋の里にしるよしして、いきて住みけり、むかしの歌に 芦の屋のなだの塩焼いとまなみ 黄楊の小櫛もささずに来にけり とよみけるぞ、この里をよみける。ここをなむ芦屋の灘とはいひける」とある。男は、在原業平で、この芦屋の里に別荘を所有し、この芦屋で浜の美しい娘を愛していたようだ。その名残から、別荘跡のあたりを業平町、芦屋川にかかる橋を業平橋と読んでいる。又、JR芦屋駅の北東約1キロメートルの翠ケ丘町の西端に大きな木がうっそうとしている森があり、この中に、業平の父であり、平城天皇の皇子・阿保親王の塚といい伝えられている古墳もあり、この古墳は、現在宮内庁によって管理されているという。
業平はこの地に宮廷の人々を招待し、歌合わせなどを行ったり、神戸布引の滝で楽しんだりもしたようである。
神戸の異人館街から東へ歩き、新神戸駅の裏山を10分たらず登れば布引の滝がある。在原業平が、布引に滝見物に来た際、このようなな歌を残している。
「ぬきみだる人こそあるらし白たまのまなくもちるかそでの狭きに」
業平の兄行平も光孝天皇の怒りに触れて須磨に流され、3年間を過ごした。神戸地方は、業平、行平と縁の深い土地柄である。
(画像は、百人一首かるた、在原業平の歌)
参考:
伊勢物語を語る
http://homepage2.nifty.com/toka3aki/ise/isemono.html
伊勢物語を語る~「在原業平」とは何か(前編)
http://homepage2.nifty.com/toka3aki/ise/ise_01.html
伊勢物語を語る~「在原業平」とは何か(後編)
http://homepage2.nifty.com/toka3aki/ise/ise_03.html
伊勢物語/音声古典ライブラリ
http://route16.dyndns.org/vjcla/ise/index.html
千人万首―よよのうたびと―
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin.html
在原業平 ありわらのなりひら 天長二~元慶四(825-880) 通称:在五中将
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/narihira.html
芦屋の歴史・伝説 (1頁目)
http://www.ceres.dti.ne.jp/~mat/ashiya-information/rekishi-densetu/1.htm

百人一首の日

2005-05-27 | 記念日
今日(5月27日)は、「百人一首の日」
1235(文暦2)年の今日、藤原定家によって小倉百人一首が完成された。
藤原定家の「明月記」の文暦2年5月27日の項に、定家が親友の宇都宮入道蓮生(頼綱)の求めに応じて書写した和歌百首が嵯峨の小倉山荘(嵯峨中院山荘)の障子に貼られたとの記述があり、この記事が小倉百人一首の初出ではないかと考えられているそうだ。
百人一首とは、百人の歌人の歌を、一人一首ずつ選んでまとめた撰集で、『古今集』以降の10種類の和歌集から撰出されている。 百人一首には、『小倉百人一首』の他に、『源氏百人一首』、『後撰百人一首』、『女房百人一首』などがあるそうだが、通常、は百人一首と言えば『小倉百人一首』の事を言っている。それは、撰者である藤原定家が小倉山荘において、天智天皇から順徳院まで百人の歌人の秀歌を各一首ずつ選び、百枚の色紙に揮毫(きごう=文字や書画を書くこと)したことから山荘の名をとって『小倉百人一首』と呼ばれる様になった。
鎌倉時代の歌仙秀歌集である『小倉百人一首』を、日本人が子供の頃からお正月のかるた遊びとして馴染んできたのは、それが”歌かるた”として用いられたからで、その原形は、室町時代に公家の間で、細長い紙に上の句と下の句をそれぞれ一行に書き、それを縦半分に切って混ぜ合わせ、歌を合せて遊んだことにあり、後に厚紙に代わって蛤貝が用いられ、貝覆という遊びになり、これが町家にも流行した。それが、足利時代末期に、ポルトガル人によりカルタが伝えられ、これが伝統的な貝覆の遊びと結びついて歌かるたが生まれたといわれているそうだ。そして、元禄の頃には木版刷りの安価な百人一首かるたが出回るようになり、庶民の間にも『百人一首』が急速に浸透していった。それを、萬朝報社の社長であった黒岩涙香(くろいわるいこう)が明治37年に総ひらがなの現在の標準かるたを考案し、2月に萬朝報社主催の第一回公式かるた大会を東京で開いた。現在は全日本かるた協会主催で、競技かるた大会が毎年開かれている。
戦後、私達がまだ子供の頃は、毎年、正月になると「百人一首」のかるた取りをしていた。他に「いろはかるた」もあるが、これは、小学校の低学年までだ。大きくなって、百人一首のかるた取りに強いことはちょっとしたステータスのようなものだった。よく意味も分らないまま一生懸命丸暗記をしたのを思い出すが、これには他にも理由があった。それは学校の古典の勉強や試験などにも良く使われたからである。私は、暗記力が弱いのでなかなか覚えられなく苦労したが、5歳も年下の妹など、小学生の頃に意味も分らないまま殆ど覚えていたよ。確かに、百人一首は、日本人にとって馴染み深い五七調で、それぞれ短いため覚えやすい。短い中にも、さまざまな重要単語、枕詞、掛詞、係り結び、古典仮名遣い、助動詞が遣われていて、古典の教材にはもってこいである。
ただ、この『百人一首』は秀歌撰というものの、果たしてこの百首が、和歌の黄金時代であった当時の『古今集』から『新古今集』の頃までの代表歌百撰といえるのかどうか、定家の歌や歌人の撰び方については昔より疑問のあるところであった。そして、そのことは、定家自信が、百人一首の姉妹篇にあたる百人秀歌(1951年に発見された)につけられた「奥書(おくがき)」に、「上古からの歌仙の歌を一首ずつ、思い出すままに書いたが、この中には、歌の名人と誇れ高い人の秀逸な歌といわれているものが、ほとんど漏れている。けれども、どの歌を用い、どの歌を捨てたかの選択基準は私の心の中にある。ほかの人間がいろいろと非難することは意味のないことだろう」といった意味のことを書いており、この歌集の歌の撰択の仕方について後世の人々が必ず疑念を抱くだろうということを、あたかも予想している。この歌集が普通の歌集とはちがった、ある特殊な意図のもとに編纂されたものだということが、定家自身によってはっきりと語られていたというのである。
そして、その謎の背景には、百人一首にある後鳥羽院の有名な和歌、
「人も惜し人も恨めしあぢきなく世を思ふゆゑに物思ふ身は」
と、定家の自撰歌
「来ぬ人を松帆の浦の夕凪に焼くや藻塩の身もこがれつつ」
に隠されているという。詳しいことは、以下参考の林直道の百人一首の秘密「百人一首」の謎の解明/後鳥羽院の歌の背景などに記されているのでここでは詳しいことは省略する。
結論から言うと、定家の歌の「松」は待つの掛け詞であり、「凪」は泣きに通ずるという。
百人一首の百首の歌を、たて十種よこ十種の正方形のます目の中にある特殊な並べ方をすると、隣り合う歌どうしが上下左右ともに「合わせ言葉」によってぴったりと結びついてしまう。そして、その合わせ言葉を絵に置き換えていくと、何とそこには…秘められた『水無瀬絵図』が現れるという。定家は全知を駆使してこの条件に合う歌百首を集めたらしいのである。水無瀬は京都の西南、長岡京の南に位置し都にほど近い景勝の地で、後鳥羽上皇が水無瀬離宮を建てた地でもある。承久の変が挫折し、後鳥羽院が隠岐に流されて水無瀬離宮は荒廃していった。定家は自分を引き立ててくれた恩人としての後鳥羽院に、密かに心をこめて百人一首を選定したのだろうというのである。
承久の乱後の京に和歌の最高権威として君臨した定家は、後鳥羽院が下命した『新古今和歌集』に続く、第九番目の勅撰集撰進を依頼されるが、鎌倉幕府をはばかった前関白・藤原道家の意向で、その勅撰集『新勅撰和歌集』から後鳥羽院の歌など百首強の歌を削除しなくてはならなかった。その無念の思いが、後鳥羽院の「人も惜し」の歌を載せた「百人一首」の成立につながると言うのである。この辺の事情は、下記の参考のHPが詳しい。又、以下参考の長岡京・小倉山荘の水無瀬絵図にポインタを移動するとモノトーンの「合わせ言葉」が浮かび上がり、水無瀬絵図と「合わせ言葉」がどのようになっているのかが、よくわかる。秘められた百人一首の謎を知ることで、又一段と小倉百人一首に興味を持てるようになるかも・・・。それにしても、昔の人のこのような文学に対する才能は、底が知れないね~。昔から今日まで、科学の進歩は目覚しいものの、このような文学に関しては、むしろ、衰退しているのではないだろうか・・・。
(画像は、小倉百人一首のかるた。右:後鳥羽院の歌。左:権中納言定家の歌)
参考:
長岡京・小倉山荘(京都せんべい・おかき専門店)
http://www.ogurasansou.co.jp/site/hyakunin/hyakunin01.html
林直道の百人一首の秘密
http://www8.plala.or.jp/naomichi/index.html
院政期社会の言語構造を探る~拾遺 後鳥羽院「人も惜し」歌の新たな文脈~「百人一首」の謎の解明/後鳥羽院の歌の背景
http://www.furugosho.com/inseiki/hitomooshi.htm
競技かるたのページ
http://www5f.biglobe.ne.jp/~st_octopus/carta/cartaindex.htm