今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

ニ子山親方(元貴ノ花)の忌日

2009-05-30 | 人物
今日は、大相撲の元大関貴ノ花のニ子山親方が2005年(平成17年)5月30日に亡くなられて4年目の日になる。
細身の身体と驚異的な粘り腰で絶大な人気を博し「角界のプリンス」とよばれた華やかな土俵生活と、引退後は二所一門ばりの猛稽古で2横綱、1大関を育て上げ、藤島、二子山部屋を角界一の勢力にまで育て上げた親方としての成功とは裏腹にその人生は、波乱に満ちたものであり、最後は病(口腔底癌)に勝てず55歳という若さで亡くなった。
貴乃花利彰(本名は花田満)は、1950(昭和25)年2月19日、青森県弘前市出身で、土俵の鬼と呼ばれた元横綱初代若乃花幹士と若緑陸奥之丞(三段目)の弟。元横綱・3代目若乃花で実業家・タレントの花田勝と一代年寄貴乃花光司の父である。夫人は元女優でタレントの藤田憲子(1970年【昭和45年】結婚。2001年【平成13年】離婚)。
マスコミ報道によれば、中学3年の時中学記録を更新し将来五輪候補と期待されていたそうだが、「水泳では飯が食えない」と角界入りを決意し、1965(昭和40)年、実兄である元横綱若乃花幹士が横綱を引退後年寄二子山を襲名し、10代目二子山親方として1962(昭和37)年9月2日に花籠部屋から分家独立して創設していた二子山部屋へ入門。だが兄二子山親方は現役時代にもう一人の弟である若緑陸奥之丞が自分と同じ部屋に入り、挫折したのを目の辺りにしていただけに大反対するが、それを母親がとりなし「兄弟の縁を切る」を条件に渋々入団を許可されたのだとか・・・。そして、兄から師匠へと立場の変わった二子山親方は「弟だから甘くしている」と言われないため、貴ノ花にわざと厳しく接していたと言われている。また、兄弟子たちからもひどいしごきを受けたとも伝わるが、これは、二子山の指導が厳しかったため、親方の弟と言うことで弟が仕返しされるという図式のようだが、そんないじめとやしごきに耐えながら、夏場所本名のままで初土俵を踏み序ノ口から17場所連続勝ち越し3年足らずの1968(昭和43)年春場所、18歳0カ月で十両に昇進、同九州場所の18歳8カ月での新入幕(幕内)はともに当時最年少記録である。その後一度十両に下がるが1970(昭和45)年1月場所貴ノ花と改めて再入幕、10勝5敗で敢闘賞を獲得。そして、翌・1971(昭和46)年5月場所5日目には、大横綱大鵬と対戦し寄り倒しで破る金星をあげ、大鵬はこの取組後引退を表明した。この取り組みは、以下参考に記載の「貴ノ花 利彰 - goo 大相撲」で見れる。
その後「行事泣かせ」と言われた足腰の強さで数々の名勝負を繰り広げ、1972(昭和47)年初場所中日に、横綱北の富士の外掛けに体をのけぞらせながら左側に振り手をつかせ、これが「かばい手」か「つき手」かで物議(物言い)を醸したり、1980(昭和55)年秋場所では高見山の小手投げを耐える際に髷が土俵をはいて黒星といった際どい相撲で沸かせた。
又、同門の花籠部屋に入門してきた輪島とは、ライバル同士になり、激しい争いを演じている。1972(昭和47)年9月場所の皇太子ご一家をお迎えしての千秋楽では、輪島との水入りの熱戦で負けはしたものの、場所後に、2 人は揃って大関に昇進した。この時の画像は以下参考に記載の「貴ノ花 対 輪島 - goo 大相」撲で見れる。
輪島は大関4場所目に全勝優勝して綱をとったが、貴ノ花はなかなか優勝できなかった。周囲からは貴輪(きりん)時代を期待されたが結局のところ実現せず、その後に急成長してきた怪童・北の湖(現在日本相撲協会理事、前理事長)に実力面で追い抜かれ、輪湖(りんこ)時代が訪れることになる。
しかし、1974(昭和49)年7月場所、休場明けで万全な体調ではなかったが、優勝争いのトップを走っていた大関北の湖と12日目に対戦し、吊り出しで破った一番などは、小兵の貴ノ花が巨漢の力士を豪快に破った名勝負の1つとして記憶される。
そして、1975(昭和50)年春・3月場所千秋楽、ただ1人1敗の貴ノ花は2敗の横綱・北の湖と対戦、勝てば初優勝だったが負けるが、休憩後の決定戦で北の湖を下し、大関15場所にして彼岸の初優勝を果たした。この時、本来は審判部長の高砂(元横砂朝潮 )が渡すべき優勝旗は、協会の配慮により、貴ノ花の兄であり師匠でもある二子山の手から渡されたが、優勝旗授与の瞬間、「土俵の鬼」と言われた二子山の目にうっすらと涙が浮かんでいたのが印象的であった。冒頭に貼付の画像は、横綱北の海との優勝決定戦に勝ち初優勝の祝賀会。後方から大盃に酒を注いでいるのが兄でもある二子山親方である。(1975年3月23日、朝日クロニカル「週刊20世紀」より)。兄弟優勝は史上初。兄である双子山親方の嬉しい気持ちが良くわかる。
また、同年9月場所にも13日目、横綱北の湖に敗れたものの千秋楽まで、輪島・魁傑を破り3敗で北の湖と並び決定戦となるが、決定戦で見事上手投げで破り、2回目の優勝を決めた(この時の映像も先に紹介した以下参考に記載の「貴ノ花 利彰 - goo 大相撲」で観れるよ)。
この2回の優勝後、兄若乃花に次いでの兄弟横砂が期待されたが、怪我や内臓疾患に苦しみ横綱への昇進はかなわなかった。
実兄であり師匠でもある双子山親方(初代若乃花)に見出され急成長し、同じ二子山部屋で大関となっていた若三杉(初代若乃花の娘婿。後に離婚)が、1978(昭和53)年5月場所後には横綱に昇進。明治神宮での新横綱奉納土俵入りでは、若三杉の兄弟子に当たる大関・貴ノ花が太刀持ちを務めたのは有名であるが、貴ノ花ファンからは「かわいそうだからやらせないで!」という声も上がったが、師匠の二子山は、ファンサービスと同時に、貴ノ花に奮起を促す為、あえて弟弟子の太刀持ちを命じたとも言われている。そして、若三杉は、横綱昇進を機に師匠の四股名を継承し、2代目「若乃花」となった。
貴ノ花にとっては、この2回の優勝の時期が力士としての全盛期だったのだろう。当時前人未到の大関在位50場所目を迎えた1981(昭和56)年1月場所の6日目の対蔵玉錦戦を最後に、30歳でついに引退することとなった。綱とりは実現しなかったとはいえ、細い身体で大きな相手に真っ向からぶつかっていく悲壮感あふれる取り口には、判官贔屓のファンが数多く付いており、人気面ではナンバーワンだった。又、その甘いマスクから女性ファンからの人気も絶大であった。
引退後に年寄・鳴戸を襲名し、二子山部屋付きの親方を経て、翌・1982(昭和57)年には藤島(12代)に名跡変更し、二子山部屋から2月に、数名の内弟子を連れて分家独立し、藤島部屋を興した。
1988年(昭和63)年2月に長男の若花田勝(後の横綱・3代目若乃花)、次男の貴花田光司(後の横綱・貴乃花)が入門し、その活躍が話題になった。他にも関脇・安芸乃島勝巳(現在:年寄千田川虎央)や貴闘力忠茂(現在:年寄・大嶽)、後に大関となる貴ノ浪貞博(現在:年寄・音羽山)らの有力力士が育ち、藤島部屋は一気に有力部屋へと発展した。
そして、10代目二子山親方が、1993(平成5)年3月に停年退職を迎えるため、同年2月1日付で二子山親方と藤島親方が年寄名跡の交換を行い、二子山親方が13代目藤島親方、藤島親方が11代目二子山親方となっている。この時、ともに多くの幕内力士を抱えていた部屋同志が合併したため、平成5年春場所(1995年)では11代目二子山親方を師匠とする二子山部屋は一気に、幕内力士10人を含む総勢50人の大部屋となった。この2つの部屋の合併により、同部屋対決は優勝決定戦以外には行われないため、当時の新大関の貴ノ花にとって苦手の三杉里が又、若花田も若翔洋戦などがなくなり、ファンの楽しみが半減することとなった(同部屋対決については、同部屋・4親等以内の取組回避を参照)。
1994(平成6)年11月場所後には、次男の貴ノ花が横綱に昇進し、次いで、1998(平成10)年5月場所後に同じく長男の若乃花が横綱へと昇進。1990年代後半には2横綱を抱えることとなった。さらに、これと同時期に大関貴ノ浪や関脇安芸乃島貴闘力、若翔洋を輩出し、部屋は全盛期を迎えることになったが、そのために、普通なら横綱との対戦のない幕内中位の力士が横綱と対戦するなど、取組編成上支障をきたす様なことも起こるようになったが、若・貴をはじめとする新二子山部屋力士などにとっては、有利な取り組みになっていたといえるだろう。
1996(平成8)年には、二子山親方と藤島親方(兄弟)間での年寄株「二子山」名跡の譲渡にあたり、後援会からの贈与金およそ3億円の所得の申告漏れを東京国税局により摘発され、巡業部長の職を解かれた。この摘発により、年寄名跡の高額売買の実態が明らかにもされた(以下参考に記載の年寄株問題参考)。
実子の若・貴兄弟が揃って横綱になった直後から二子山部屋の周囲には、若・貴兄弟の不仲や貴乃花の「洗脳騒動」問題など暗雲が漂い始めていた。
兄の方は、2000(平成12)年3月場所5日目に現役引退を表明、年寄藤島を襲名し、当初は後進の育成に専念するような発言をしていたが、引退相撲を終えて間もない同年12月18日に突如日本相撲協会を退職。その後、タレント・実業家として意外な方面で能力を発揮している。
一方弟の方は、2003(平成15)年1月場所限りで引退した後、一代年寄・貴乃花を襲名して二子山部屋の部屋付き親方として後進の指導にあたっていた。しかし、2003(平成15)年秋頃から父・二子山親方は体調を崩し、入退院を繰り返していたが、部屋の運営をめぐる確執、千田川親方(元関脇安芸乃島)の移籍問題などで衝突することがあったようだが、翌・2004(平成16)年2月1日付で、貴乃花が二子山部屋を継承し、部屋の名称も貴乃花部屋に変更して親方業に就いた。
しかし、2005(平成17)年5月30日、父・二子山の死に際して、兄弟間の確執が噴出し、マスコミを介して大騒動に発展したことはテレビなどで報道され、誰もが知っての通りである。その後、貴乃花部屋も衰えて関取不在の状況となり、憲子夫人とも2001(平成13)年に不倫疑惑が報道される中で別居、後に離婚するなど、「角界のプリンス」と呼ばれた花形力士としてはいささか寂しい晩年であった。
兎に角、有名なだけに、この一家には、スキャンダルも多く、度々週刊誌やワイドショーをにぎわせてもいたが、これも、人気者たちの宿命か?それとも、スキャンダラスの中には隠された意外な事実もあるのだろうか?(ネット上には、以下参考に記載の「貴乃花親方&花田勝の二子山部屋遺産相続」といったようなものがあるが・・・)。
(画像は、大関貴ノ花が横綱北の海との優勝決定戦に勝ち悲願の初優勝。後方、大盃に酒を注いでいるのは実兄でもある二子山【元横綱若乃花】親方。1975年3月23日、朝日クロニカル週刊20世紀より)
参考:
大相撲 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%9B%B8%E6%92%B2
貴ノ花利彰 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%B4%E3%83%8E%E8%8A%B1%E5%88%A9%E5%BD%B0
貴ノ花 対 輪島 - goo 大相撲
http://sumo.goo.ne.jp/kiroku_daicho/mei_shobu/request7.html
年寄株問題 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B4%E5%AF%84%E6%A0%AA%E5%95%8F%E9%A1%8C
nikkansports.com > 社会TOP > おくやみ「さよなら貴ノ花、二子山親方がんに逝く」
http://www.nikkansports.com/ns/general/personal/2005/pe-050530.html
貴ノ花 利彰 - goo 大相撲
http://sumo.goo.ne.jp/kiroku_daicho/mei_ozeki/takanohana.html
貴ノ花 健士・生涯星取表(昭和40年-45年)
http://deliciousway.sakura.ne.jp/sumo/hoshi/takanohana01.htm
貴ノ花 利彰 - goo 大相撲
http://sumo.goo.ne.jp/kiroku_daicho/mei_ozeki/takanohana.html
大相撲記録の玉手箱
http://www.fsinet.or.jp/~sumo/sumo.htm
貴乃花親方&花田勝の二子山部屋遺産相続
http://homepage3.nifty.com/nonu/gsumou.html


小松菜の日

2009-05-27 | 記念日
日本記念日協会で今日の記念日をみると、今日・5月27日は「小松菜の日 」 だそうだ。
この日を制定したのは、大阪府堺市の小松菜を専作している有限会社しものファームだとか。小松菜はカルシウムがほうれん草の5倍も含まれ、ビタミンも豊富など栄養面の評価の高い野菜として知られているが、記念日は小松菜の消費拡大を目的に制定されたもので、5と27で「小松菜」と読む語呂合わせだそうだ。この頃は、やたらと色々な業者の申請したものがそのまま記念日に登録をされているものが多いようだね~。もっとも、どのようなものであろうと、私のように、「今日のことあれこれと・・・」書いているものにとっては、ネタ切れにならないのでありがたいことではあるが・・・・(^0^)。
私は毎日の家の夕食の献立の参考にと、家人と一緒によく観ているテレビに、「はなまるマーケット」(TBS)の中の「とくまる」という番組があるが、その中で、東京都江戸川区のハウスでの小松菜栽培の様子とレシピの紹介があった。そこで、「農林水産省 野菜生産出荷統計(H18年)」 による小松菜の市町村別出荷量を紹介していたものを見ると以下の通りだという。(<とくまる・冬こそ食べたい!旬の小松菜・2008年12月10日【水】放送参照)。
1位 神奈川県横浜市 3,330t  2位 東京都江戸川区 3,140t  3位 福岡県久留米市 1,950t 4位 埼玉県さいたま市 1,760t 5位 兵庫県神戸市 1,450t・・(※以下参考に記載の「農林水産省:品目別分類/野菜」平成19年【2007年】・・・1年前とは、少し違うが昨年分としては、とくまるのものが正しいのだろう)。この中には、大阪府堺市は入っていないが、以外にも、私の住んでいる神戸市などが第5位に入っていた。ま、小松菜と言っても色んなものがあるから、生産量などにこだわる必要はないけれどね。
コマツナ(小松菜)は、アブラナ科アブラナ属の野菜で、葉を食用とするもので、分類上は、カブなどと同じアブラナ(油菜、別名:菜の花)の変種であるツケナ(漬け菜)の一種で古くはククタチ(又、クキタチ=茎立)ナ(菜)と呼ばれていたもので、漬け物やお浸し、煮物などに供されることが多い。中国では菘(シュウ)と呼ばれているようだ。
先に書いた「はなまるマーケット」の「とくまる」のなかでも東京・江戸川にある間々井香取神社(以下参考に記載の新小岩厄除香取神社HP参照)の神主も語っていたように、「小松菜」の名の由来については、享保4年(1719年)八代将軍徳川吉宗が鷹狩りをする時、旧西小松川村の鎮守であった香取神社を「御膳所」として食事をしたときに、当時の神主である龜井和泉守が餅の清(す)まし汁に地元の青菜(当時この地の菜は、「葛西菜(かさいな)」と呼ばれていたようだ)を少々彩りとしてあしらって献上すると、吉宗は、この香味良い菜を喜び、土地の名から「小松菜」と名付けたといわれている。
その後、この「小松菜」は人気を呼び、江戸後期の俳人小林一茶も『八番日記』に「小松菜の一文束や今朝の霜」の句を詠んでいるという(以下参考に記載の(小松菜屋敷~日本地域文化研究所~)参照)。
ツケナの野生種は、中央アジアから北欧に分布しており、日本への伝来や経路も明らかではないが、おそらく、中国である程度の品種分化が進んだものが、古代に朝鮮半島経由で日本に渡来したと推測されており、日本の野菜の中で最も古いものであるようだ。
古事記(712年)仁徳天皇の段には、「山県〔やまがた〕に 蒔〔ま〕ける菘菜〔あをな〕も 吉備人〔きびひと〕と 共〔とも〕にし採〔つ〕めば 楽〔たの〕しくもあるか 」と「菘」の字の記載があり、和訓を「アオナ」としている(以下参考に記載の「日本神話の御殿」の古事記/下巻16 仁徳天皇3)黒日賣への嫉妬のところを参照)
春の七草の1つであるスズナ【菘/鈴菜】は、誰もが知っての通り“カブ”の別名である。
現在、コマツナと呼ばれているものは固定種の固有名ではなく、他のツケナ類との交雑が容易であるため、早晩性(熟期に達するまでの栽培期間の長短)、抽台性(抽台とは、通常では茎が伸びないはずのロゼット型のキャベツやダイコン等で花芽ができると共に茎が伸びてくること)、葉形など特性や形質が極めて多様化しており、それぞれの地方でそこの風土・気候・土地の人の好みに合ったのもが栽培されている。東京・小松川地方の「東京小松菜・晩生小松菜」もカブの一種のククタチとナタネの雑種から選抜されたものと言われており、このグループにも、・東京小松菜、・丸葉小松菜、・卯月小松菜、・後関晩生、・信夫小松菜、・剣先菜、・熊本京菜、・黒菜、・新潟小松菜、・札幌菜、・大崎菜、・大月菜、など多くの品種があるのだそうだ。
耐寒性は強く、少々の降雪にも耐え、逆に寒さにあった方が味がのって美味しいとも言われており、昔は、冬場に収穫されるので「冬菜」とも呼ばれていた。また、3~4月に出荷されるため「鶯の鳴く頃の菜」という意味で「鶯菜(ウグイスナ)」とも呼ばれていた。
「雜煮は中位な四角の餅の燒いたのを大根、里芋、小松菜を浮かべたすまし汁のなかへ浸したものである。あつさりとしたこの味が幼い時から舌にならされてしまつた 」・・・・・。岡本かの子「雜煮」より抜粋したもの(以下参考に記載の青空文庫:作家別作品リスト:岡本 かの子「雜煮」参照)。
芸術家・故岡本太郎の母親でもある岡本かの子は、明治22年(1889年)、東京市赤坂区(現東京都港区)生まれの生粋の江戸っ子。小松菜の旬は冬で、関東地方ではハクサイとともに冬の野菜の代表格であり、東京風の雑煮には欠かせない野菜であり、幼少からそんな東京風の雑煮に慣れた彼女は山陰出身の主人にも東京風の雑煮を無理やり食べさせていたが、ある機会に、丸もちを使った視た眼も舌の味ひも、あつさりと品のよい、みやびやかな山陰雑煮を食べ非常に気に入ったようだ。雑煮と言っても、土地土地で色々な食べ方があるが、私の父は生粋の神戸っ子だったので、丸型の餅を焼いたものにかしわ(鶏肉)を少々それに小松菜を添えた神戸風のあっさりとした吸い物で、私たちも幼少期はこの雑煮を食べていた(神戸でも白味噌仕立てのところがあるようだが)が、私の母は徳島の出身だったので、父が亡くなると自分の里の味が良いのだろう、今までとは代って、白味噌を使った雑煮を作るようになった。父が生きている間は、父の好みに合わせていたのだろうが、亡くなると次第に、自分が育った故郷での味に代っていた。やはり、食べ物の嗜好は生まれ育ったときからの味が一番なのだろう。白味噌を使った蔵にもそれはそれで美味しいので、私も、その味に馴染んでいったが、私が結婚したあと、母親が居る間は、家人も、私の母親から受け継いだ方法で雑煮を作っていたが、母親が亡くなると、家人も神戸の出身なので、吸い物の雑煮が食べたいというので、もともと私も吸い物だったのだから、「それでよいよ」と言うと、以後は、ずっと、神戸風の吸い物の雑炊になった。他の料理も、私の母親はどちらかと言うと濃い味だったものが、次第に家人好みの神戸風のあっさりとした味に代って言ったよ(^0^)。
冒頭の今日の記念日を設けた理由の中にも書いてあるが、小松菜は、栄養価が高く、ビタミン類やミネラル類を豊富に含んでおり、別名「カルシウムの菜っぱ」と言われるぐらいであり、カルシウムが他の野菜に比べて最高に多いといわれており、そのうえカルシウムの吸収を阻害するシュウ酸が少ないことから、効果的にカルシウムを摂取できるのだそうだ。緑黄色野菜としてもビタミンCやβ―カロチンが豊富だという。以下参照。
小松菜 食の栄養 食材の栄養 医学・健康情報サイト J-Medical
http://www.j-medical.net/food/f-komatuna.html
我々のような年輩者はどうしてもカルシューム不足になるので、私も家人も出来るだけ食べるようにした方が良さそうだね~。
最後に、このブログを書くのに色々検索していて、江戸時代初期の京都の俳人・松永貞徳の以下のような句を見つけた。
「つまんとや人来人くる鶯菜」
「鶯菜」は春の季語であるから、早春に、春を待ちかねていたように「鶯菜」を摘もうと多くの人が次々にやってくる様子を描いたかのように見えるこの句には、別のもっと奥の深い意味があるのだという。日本の俳句や狂歌にはたった5・7・5の短い句の中に多くのことを語らせる。科学の進歩は著しい今日ではあるが、このような文学の面に関しては、今の人は昔の人にはかなわないと言うよりも能力面でも退化しているように思うよね~。それは、作家だけの問題ではなく、日本人全般の問題で、この句のように深い意味を持たせたものを作っても読者にそれを理解する力がなければ仕方がないからね~。日本の文化を大切にしない今の若い人の歌など聴いていても、何か、やたらとくどくどと長い歌が多いよね。ここに紹介した句の解説を一度読んでみられると、日本の古典文学の奥の深さが分かるよ。
清水哲男『新・増殖する俳句歳時記』 ⇒  季語が鶯菜の句
今日も、このブログを書く上で、色々、勉強をさせてもらった。私にとってブログのテーマーなどは、何でも良い。もともと、このブログは、人に読んでもらおうというよりも、何かのテーマーを元に、そのことを書くことにより、自分自身が学べたらよいと始めたものなのだから・・・。だから、専門でもないことをも色々書いているが、そのために、誤りも多々あるだろうが、その点は、平にご容赦を・・・・<(_ _)>。
(画像は「小松菜の里」 東京の野菜風土記 亀井 千歩子:著発行:彩流社 )
参考:
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html
有限会社しものファーム
http://www.sakai.zaq.ne.jp/shimonofarm/
コマツナ-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%9E%E3%83%84%E3%83%8A
農林水産省/食料需給インフォメーション 第184平成20年11月11日発行
http://www.maff.go.jp/j/zyukyu/jki/j_mailmaga/bk/08_184.html
コマツナ / 旬マガ 旬の食材図鑑
http://www.shunmaga.jp/zukan/yasai/komatsuna/komatsuna.htm
冬の青菜
http://www.agri.pref.hokkaido.jp/nouseibu/soma/index/fuyu.htm
小松菜あれこれ
http://www5.plala.or.jp/nijiya231-9288/Yasai_Kata/komatu_na/komatu_na_.htm
東京おもしろ雑学・江戸川区の小松菜
http://www.juken-net.com/magajin/maga/210.htm
農林水産省:品目別分類/野菜
http://www.maff.go.jp/www/info/bunrui/mono05.html
新小岩厄除香取神社HP
http://homepage3.nifty.com/katorijinja/
小林一茶 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9E%97%E4%B8%80%E8%8C%B6
小松菜屋敷~日本地域文化研究所~
http://members.jcom.home.ne.jp/michiko328/komatuna.html
古事記 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BA%8B%E8%A8%98
日本神話の御殿
http://nihonsinwa.at.infoseek.co.jp/index.html
七草 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E8%8D%89
松永貞徳 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B0%B8%E8%B2%9E%E5%BE%B3
東京風雑煮
http://www.nitto-j.com/menu/sonota_07.html
青空文庫:作家別作品リスト:岡本 かの子
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person76.html
清水哲男『新・増殖する俳句歳時記』
http://zouhai.com/index.html
農林水産省/茎立菜(くきたちな)とはどんな野菜ですか。
http://www.maff.go.jp/j/heya/sodan/0504/07.html
小松菜 レシピ 83品 [クックパッド]
http://cookpad.com/category/626

主婦休みの日

2009-05-25 | 記念日
日本記念日協会の記念日を見ると5月25日は「主婦休みの日 」だそうだ。
年中無休で家事や育児にがんばる主婦が、ほっと一息ついて自分磨きやリフレッシュするための休日が「主婦休みの日」で、1月25日、5月25日、9月25日が記念日だとか。女性のための生活情報紙を発行する株式会社サンケイリビング新聞社が中心となり制定したそうだ。日付は年末年始、ゴールデンウィーク、夏休みなどの主婦が忙しい時期のあとの年3日を設定したもので、日頃は家事や育児を主婦に任せがちなパパや子供たちが家事に取り組み、その価値を再認識する日との提唱も行っているようだ。
主婦について「大辞林」では、「妻として一家の中で家庭生活のきりもりと管理の責任をもつ女性」とある。
家庭は、人間が形成する社会の最小単位つまり、生活を共にする夫婦・親子などの家族の成員で創られていく集まり、および家族が生活する場所を指している、平たく言えば、「個人が家族と生活を共有する場」と言うことになる。
しかし、家庭は、家族が単に一緒に住むだけでは不十分であり、本来は、人がそこに戻り、くつろぐことが出来、「家にいる」・・・と感じることのできる安らぎと「庇護された空間」(オットー・フリードリッヒ・ボルノウの用語)のことであるとも言われているそうだ。
家庭は、一種の生産機能であるが、その機能は、家族のライフサイクルの中では、しばしば子育ての場であったり、さまざまな家事労働、食事の世話、掃除洗濯、買い物、一家団欒、庭仕事、老人の世話と介護、家計、地域の付き合いなど家族と関わる世界の管理を主な内容としていたりもする。
この家庭における夫婦の責務や役割については、古い時代より、男女の身体機能(生物学的な差異)から派生した性別役割分業が行なわれていたが、社会・経済の発展に伴い、農業や漁業などの第1次産業従事者が著しく減少し、第2次第3次産業への従事者が増加し、家業と、家業への家族従業者の割合が減少し、企業への雇用者の割合が増加するといった産業構造と就業構造の変化から、従来の家庭に於ける生産的機能(家業)もその影響を受けて次第に変形し①社会的労働への参加。つまり、本来家庭内にあった生産的機能や労働の場を家庭の外の社会(企業や工場など)に移す社会的労働への参加により報酬をうるもの。と、②家庭内にあって、家族の為に行なわれる生産機能としての家事労働(家庭内労働)を行なうといった2つの機能に分化していった。
そして、夫(男性)が家庭外の社外労働に参加し、家庭内で消費するための収入(報酬)を稼ぐことに専念し、既婚の女性(妻)は、家庭にとどまって、もっぱら家庭内労働である家事・育児などの事柄に専念するいわゆる「家庭婦人(専業主婦)」となり、このような家庭婦人を広く生じさせることとなった。
又、戦後、記録的な高度成長を遂げた日本においては、女性の社会進出(夫婦共働き)に伴ない、次第に働きながら家庭内労働もするいわゆる「兼業主婦」と言われる人達も増大したが、近年は、逆に、既婚女性が社会的労働に出て、夫が家庭内労働をする主夫などと言われる人達も現れているようだ。
家庭内労働(家事労働)の場合は、社外労働などと違って、1年365日、家族の食事を作るなどの連続的な営みが在り、日曜だ祝日だといって休むことの出来ない事もあることから、その意味では、社外労働とは異なる苦労がある。だから、時には、今日の記念日のように「主婦休みの日」などを設けて、息抜きのための休養をとることも大事なことだろう。
しかし、今の時代、昔と違って、電化製品などの発達により、炊事、洗濯、食事にしても非常に楽になってきているし、核家族化により、病弱な祖父母などとの同居も少なく、又、子供の数も減少し、家事労働そのものの負担は相当減ってきていると思うが、その負担は、その家族構成や、専業主婦か兼業主婦かによっても、相当違ってくるだろうから、どのような形が良いのかは、その家庭ごとに考えれば良いことだろうとおもう。私の家の場合、家人の身体的なこともあり、子供は1人しか出来なかったが、母親が同居していたし、最後は重い病を患い長期間入退院を繰り返して亡くなったので、家人の辛労は大変なものだったろうと察している。だからと言って、私も仕事が忙しく、家事は一切家人に任せっ放しであったが、何も言わずよくやってくれ、家人には心より感謝している。
ところで、20世紀後半における先進諸国共通の社会問題の1つは、老齢化問題である。
中でも、近年の日本の出生率の低下と、死亡率の低下によるわが国人口の少子化と老齢化傾向は世界に類を見ない速さで進んでいる。
日本は、1960年代から1970年代前半にかけて高度経済成長を背景に出生率は2.13前後で安定していたが、第二次ベビーブームと呼ばれた1973(昭和48)年をピーク(出生数約209万人、合計特殊出生率【1人の女性が一生の間に産む子供の数】2.14)として、第一次オイルショック後の1975(昭和50)年には出生率が2を下回り、出生数は200万人を割り込む。以降、人口置換水準(長期的に人口が安定的に維持される合計特殊出生率)を回復せず、日本政府は、平成16年版少子化社会白書において「合計特殊出生率が人口置き換え水準をはるかに下まわり、かつ、子供の数(14歳以下)が高齢者人口(65歳以上人口)よりも少なくなった社会」を「少子社会(高齢化社会参照)」と定義したが、1997(平成9)年、ついにその少子社会となった。そして、2005(平成17)年には、日本の総人口が、戦後初めて減少に転じた。
内閣府のこの年(2005年)に行った[「少子化社会に関する国際意識調査」結果の概要(図解版)によると、日本の場合「子供を増やしたくない」と答えた割合は53.1%と、同時に行なわれた米国、フランス、韓国、スウェーデンの4カ国と比較して最も多く、又、「子供を増やしたい」と答えた割合が最も少ないのも日本であった。そして、子供が欲しいかとの問いについては、いずれの国も9割以上が「欲しい」と回答しているという。
では、「子供を増やしたくない理由」はなにかというと、
・子育てや教育にお金が掛かりすぎるから (韓国68.2%、日本56.3%、米国」30.8% )
・高年齢で生むのが嫌であるから (スウェーデン40.9%、韓国32.2%、日本31.8% )などとなっている。
このように、少子化の主な直接原因として晩産化があるが、日本では婚外子(非嫡出子参照)を忌避する文化が強く、社会制度などの面でも不利があるため、未婚化・晩婚化の進展が少子化に強く影響しているといわれている。また、結婚した場合も経済的理由により子供が生まれたときの十分な養育費が確保できる見通しがたたないと考え、出産を控える傾向があるようだ。
このような少子化の中で、老人の雇用化は、老人の技術革新への適応の困難性もあつて、なかなか進行しがたい情勢にある。 又、核家族化と家族制度(家制度)の変革は、親族扶養、老人扶養意識の減退を促進させ、住宅難などの社会情勢ともあいまつて老人の地位は著しく不安定なものとなつている。この老人が子や近親者との関係においてどのような形をとつて生活をしてゆくかという問題は、多くの人が老後において直面させられる問題である。老人の居住について子と同居するか別居するかはその人の考え方や家族環境などによつて、人それぞれ異なるところであろうが、家庭の本来的機能は、家族相互間の愛情、家族の生産活動による稼得(労働・サービスの提供によって得る所得)、家事労働等による収益を家族共同のものとしてわかち合い、衣食住その他にわたる共同の消費生活を行ない、次代を養育していくことにあり、また、地域社会、国家社会の一構成単位としての義務を果たしていくことにあるものであった。 このように家庭が国民生活の最も重要な基礎的機能を果たすものである以上、健全な家庭の維持とその運営が国民生活の向上のために不可欠なものとなるのであるが、これらのことに対して、国家がどれだけ家庭の問題に立ち入るかは、難しい問題である。
しかし、今日の日本の少子化と老齢化問題は、国民の老後の年金問題や社会保険の負担のあり方、ひいては老後の生き方の問題にまで波及しており、国が黙って見過ごしておれる段階ではなくなっており、国が政策面から立ち入らざるを得ない状況に至っている。そのためには、「男女が、社会の対等な構成員として、自らの意思によって社会のあらゆる分野における活動に参画する機会が確保され、もって男女が均等に政治的、経済的、社会的及び文化的利益を享受することができ、かつ、共に責任を担うべき社会」を実現することを理念に「男女共同参画社会基本法」が制定され、1999年(平成11年)6月23日に公布・施行されている。
今日の記念日などを利用して、家庭内労働をしている主婦の休業日をどうこうするといった問題もそれはそれなりに重要なこととは思うが、男女が共同して家庭内労働や社外労働にどのように対処し、そして、今、日本の国で起っている老齢化問題、少子化の問題に対して、それぞれが一国民として、自らが、どのような自覚と責任を持って対処してゆかなければならないのかを真剣に考え直す機会にしてもらえるとよいな~と思う。
先ずは、内閣府の以下資料など参考にされると良いだろう。
男女共同参画白書 平成20年版
http://www.gender.go.jp/whitepaper/h20/zentai/index.html
(画像は、内閣府平成20年度「男女共同参画白書」)
参考:
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html
家庭- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%B6%E5%BA%AD
主婦 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%BB%E5%A9%A6
[PDF] 家庭の生産的機能について
http://kamome.lib.ynu.ac.jp/dspace/bitstream/10131/2479/1/KJ00004464290.pdf
少子化- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%91%E5%AD%90%E5%8C%96
成瀬巳喜男 (ナルセミキオ) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/108351/
男女共同参画社会 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B7%E5%A5%B3%E5%85%B1%E5%90%8C%E5%8F%82%E7%94%BB%E7%A4%BE%E4%BC%9A
内閣府男女共同参画局
http://www.gender.go.jp/
男女共同参画社会基本法
http://www.gender.go.jp/9906kihonhou.html
男女共同参画白書 平成20年版
http://www.gender.go.jp/whitepaper/h20/zentai/top.html
リビング新聞HP「えるこみ」
http://www.lcomi.ne.jp/

こどもの本の日

2009-05-23 | 記念日
今日は5月の第4土曜日。毎月第4土曜日は「こどもの本の日」。日本児童図書出版協会、日本出版取次協会等が1998(平成10)年9月に制定。出版文化産業振興財団の「第4土曜日はこどもの本の日」実行委員会が実施している。書店の店頭で、子供の本の読み聞かせや独自に選定した推薦本の販売、読書相談等を行っている。幼児期から本に親しむ環境作りを目指し、地域の読者と交流することによって中小書店の売り上げを増やすことを目的としているそうだ(以下参考に記載の「こどもの本 on the Web 」参照)。
こどもの本の日に関しては、4月2日が、アンデルセンの誕生日であることにちなんで、国際児童図書評議会(IBBY)がこの日を「国際子ども本の日」と制定している。また、我が国で初めての国立の子どもの本の図書館となる「国際子ども図書館」(国立国会図書館の支部図書館)が2000(平成12)年5月5日(こどもの日)に東京・上野公園内に開館(施設は上野図書館に一部改修)。そして、国際子ども図書館が開館する 2000(平成12)年を「子ども読書年」とする旨の決議がされ、『子どもの読書活動の推進に関する法律』が2001(平成13)年2月に公布・施行されたことに伴い、4月23日を「子ども読書の日」と定められた。国際子ども図書館は、2002(平成14)年、全面開館し、児童書の保存・閲覧のほか、児童書関係の研究文献の提供や展示会などのサービスを行っているが、これらの日のことについては、既に、このブログで書いているので、そこで見てください(国際子ども本の日「こども読書の日」)。
今日、又、過去に書いたと同じような内容のことを書くのは、余り気の進まないことではあったが、文部科学省 HPの中でも書かれている通り、”近年、子どもの「活字離れ」や国語力の低下、対話による問題解決能力の低下等が指摘されており、読書活動は、子どもが、言葉を学び、感性を磨き、表現力を高め、創造力を豊かなものにし、人生をより深く生きる力を身に付けていく上で欠くことのできないもの”・・・・であることは、その通りであると思うし、そのために、このような記念日を通じて、国民の間に広く子どもたちの読書についての関心と理解が深まり、少しでも子どもたちの自主的な読書意欲が高められるならばそれは非常に結構なことであると思うし、私も思いつくままに、又、書いてみることにした。
「子供の本を買いに行って、いつも当惑する一つのことがある。それは、どの本も一つの頁へあんまりどっさりの内容をつめこもうとして、絵でも実にこせついていて、子供らしい感覚の伸びやかさが無視されていることである。うちの小さい甥は、フクチャンに絶大の親愛を傾けている。けれどもフクチャンの絵本はどうにも買ってやろうという気がしない。一頁をいくつにも区切って、新聞の絵の一コマの狭さのものがそのまま、ただびっしり詰められてあるきりで、ゆったりと心持ちよい線で描き出されたフクチャンを子供らに見せてやろうという愛の配慮やユーモアはないのである。児童のための良書ということが各方面の関心をひいている折から、私は切にこの点を一般の注意にのぼせたく思っている。子供の想像力が湧き動くだけのゆとりは、子供の本の頁になくてはならないものだと思う。隅から隅まで語りつくされているこせこせした頁を明けくれ眺めて、子供の心は受動性ばかりつよめられてゆくだろう。小学校一年生の算数の本にもこの紙面にスペースの足りない憾(うら)みは感じられるのである。良書は内容の徳性に加えて、子供の心理の抑揚の溌剌さが尊重されていなければならないと思う。」・・、日本共産党元委員長宮本顕治の元妻・宮本百合子の「“子供の本”について」(青空文庫)からの抜粋である。この本の底本の親本は、「宮本百合子全集 第九巻」河出書房(1952【昭和27】年8月発行)というから、今とは時代背景が違う。横山隆一作の漫画「フクチャン」と言う漫画は、戦時中は時節柄国防ネタが多く、戦後は一転して世相を交えながらも牧歌的な子供中心の世界が描かれており、共産主義思想の宮本が批判的になるのは分かる。私など戦中っ子は、経済的に本などなかなか買うことは出来ないし、他に読む本が無かったので、このような漫画ばかり、当時流行っていた貸し本屋さんで、不自由な小遣いの中から借りて読んできたが、それはそれなりに、夢中になって読んできた。私は共産主義思想そのものは余り好まないし、今の時代の子供の本を読んでいるわけでもなく、よくは知らないが基本的には、今の子供の本もここにかかれていることと似たようなものではないかなと想像している。
私は、現役時代、当時、家庭内暴力や校内暴力がマスコミで取りざたされた時代に、会社からアメリカの心理学をベースにした「育親セミナー」と言うものに通ったことがある。このセミナーは要するに子供が家庭や学校で暴力を揮うほど反抗的になるのは、結局親が子供の気持ちをわかっていないからであり、どうすれば、それが判るか・・・。それを参加者自身に話し合いながらさとらせる・・・。そういう指導者を養成するセミナーである。参加者は、学校や幼稚園などの教員や会社関係の人事畑の人達、それに、家庭内に暴力を揮う反抗期の子供を持つ親たちなどが多く、東京と大阪2箇所しかセミナー会場が無い為、私の参加していたグループには名古屋などの遠方から新幹線に乗って長期間のセミナーを受講に来ている人も多かった。特に説明もなく行けといわれて受講したので、何故、会社で人事担当をしている訳でもない私に、高額な費用を使ってまで受講させたのかよく分からないが、多分、当時成長期の会社で私が、会社に必要な諸規定類などを色々作成・提案していたので、それらマニュアル類の作成時等に、そのような親と子の関係同様、上司と部下の関係などもよく理解した上で内容を考えてほしいと思ったのであろう。私自身にとってもいい勉強にはなった。
学校で教師は、教師の立場で生徒に対してもっともらしいことを指導し、親は親で、自分の経験から子供に対していろいろ説教する。子供を対象にした本なども同じ様なところがあるのではないか?。
”人知れず悩みを抱えている子供たち、その「心の叫び」を見のがしている大人たちへ・・。児童書の枠を超え、いま、子どもたちが「大人に読ませたい本」(青木和雄作・吉富多美画 )・・・が、こどもの本【金の星社】から出ている。
大人の場合は、それぞれが、自分の好みや趣味で本を選び読むことができる。しかし、子供の読む本の悲劇は、親の意向が大きく影響し、これは悪い、これは良いと決め付けられるところにあるのかもしれない。
昨日の朝日新聞朝刊の“2010年「国民読書年」へ”と題した記事のなかで、作家・僧侶の瀬戸内寂聴さんも「良書の選別や干渉はしないで」と題して次のように言っている“私も自分の経験からも、子供の頃からの読書の習慣をつけることをすすめたい。良書の選別をして子供にあたえるなどしないでいい。子供が自分でその判別法を、読書から身につけてゆくと信じてよい。今は子供たちの読書離れがひどいと心配されている。子供が本ぎらいになるのは、親や先生の干渉が多いせいもあるのではなかろうか。子供の中には、悪書をうさん臭く思ったり、気持ち悪く感じたりする自然な浄化作用が具わっている。本を好きにならせるには声に出して読みあう読書会などを作るのが良い。朗読は自分の読書の喜びを同時に人と共有する楽しさがある。千年前の『源氏物語』がそうだった。すべて音読されていたものものだ。読書の楽しさを覚えると人は自然に自分も書いてみたい本能に目覚める。日記でも、手記でも、手紙でもよい。書くことで自分を発見してゆく。読書の究極の恵みは、自分を識り、他者を理解する力を与えられることだ。親は、自分の若い日に感動した本を子どもにすすめよう。子供にとっては、それは、立派な古典として心に縫い付けられるだろう”・・・と。
もともと、子供は、好奇心が旺盛であり、未知のものには何にでも興味をもつし、だからこそ、成長もするのだが、時には、親が困惑するようなものにまで興味を示し、親を慌てさすこともあるだろう。しかし、まずは、子供を信じることが大切ではないか。そして、その本をどうしても読みたいというのなら親も一緒に読んで、話し合うと良いだろう。いずれにしても、子供に、本を読め読めという前に、私など、親がどれだけ本を読んでいるのかが心配される。親も子も共に本を読んで、本の内容について話し合えたら、これ以上の親子のコミュニケーションは無いだろう。
ところで、大阪には、東京・上野に2000年開館の「国際子ども図書館(約40万点の資料を所蔵)を上回る約70万点の資料を所蔵・公開している大阪府立国際児童文学館が、大阪府吹田市の万博記念公園内にある。
同文学館は1979(昭和54)年の国際児童年を記念して事業が計画され、滋賀県と激しい誘致合戦を繰り広げた末に児童文学研究者・鳥越信から12万点に及ぶコレクションの寄贈を受け1980(昭和55)年に準備組織として財団を設立。1984(昭和59)年5月5日(こどもの日)に開館した。館の設計は大阪府建築部営繕室が行い、1998(平成10)年には建設省(当時)の公共建築百選にも選定されている。シンボルマークは安野光雅のデザインで、横笛を吹くギリシア神話の牧神・パーンを象ったものである。1986(昭和61)年から1990(平成2)年までは、司馬遼太郎が財団理事長を務めていたところであり、同種の施設としては日本最大の規模である。
しかし、2008(平成20)年、大阪府知事に就任した橋下徹氏の改革PT「財政再建プログラム」では、 財政再建策の一環として府営施設の整理・統廃合を進める方針を打ち出しており、この国際児童文学館については東大阪市の大阪府立中央図書館へ統廃合すべきであるとの見解を表明している。それに対して、地元自治体である吹田市他作家や研究者等が反対し、存続を求めている。大阪府の財政が大変な状況にある中で難しい問題だがこのような歴史的な施設は出来れば存続させて欲しいとは思うものの県外の我々がとやかく言える立場にはない。府民の皆さんで、よく考えて欲しいね。以下参照。
「福祉の吹田」をともに守りましょう 吹田市労連WEB
http://www.suitasirouren.com/shimin/machi/0809-01.html
最後に、以下参考に記載の国立国会図書館国際子ども図書館の >絵本ギャラリー では、7つに分けて展示。18世紀から1930年代に至る期間の、日本と欧米の絵本の名作が紹介されている。一度覗かれてみては。又、 大阪府立国際児童文学館HPも覗かれると良いよ。
(画像は、日本児童図書出版協会発行の月刊誌「こどもの本」)
参考:
こどもの本 on the Web --日本児童図書出版協会
http://www.kodomo.gr.jp/
文部科学省
http://www.mext.go.jp
JBBY - 社団法人 日本国際児童図書評議会 -
http://www.jbby.org/
子どもの読書活動の推進に関する法律 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%90%E3%81%A9%E3%82%82%E3%81%AE%E8%AA%AD%E6%9B%B8%E6%B4%BB%E5%8B%95%E3%81%AE%E6%8E%A8%E9%80%B2%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E6%B3%95%E5%BE%8B
宮本百合子-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%9C%AC%E7%99%BE%E5%90%88%E5%AD%90
大阪府立国際児童文学館 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%BA%9C%E7%AB%8B%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E5%85%90%E7%AB%A5%E6%96%87%E5%AD%A6%E9%A4%A8
作家別作品リスト:No.311宮本 百合子
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person311.html#sakuhin_list_1
フクちゃん - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%AF%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93
家庭内暴力 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%B6%E5%BA%AD%E5%86%85%E6%9A%B4%E5%8A%9B
家庭内暴力への対処法
http://www.sofu.or.jp/violence.html
瀬戸内寂聴 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%AC%E6%88%B8%E5%86%85%E5%AF%82%E8%81%B4
山梨大学附属図書館 子ども図書リンク集
http://www.lib.yamanashi.ac.jp/link/kodomo_link.htm
国立国会図書館国際子ども図書館
http://www.kodomo.go.jp/index.jsp
こどもの本【金の星社】
http://www.kinnohoshi.co.jp/
大阪府立国際児童文学館HP
http://www.iiclo.or.jp/htdocs_old/default.htm


山口百恵『としごろ』でデビュー

2009-05-21 | 歴史
1973(昭和48)年の今日・5月21日、歌手・山口百恵のデビュー曲「としごろ」が発売された。
1971(昭和46)年10月3日 ~1983(昭和53)年9月25日の12年間の長期に渡って放送された視聴者参加型歌手オーディション番組に日本テレビの「スター誕生!」があった。この番組の企画者は審査員の一人でもある希代の作詞家・阿久悠であった。
番組は、明日のスターを夢見る人のための正統派のオーディション番組であり、毎週、厳しい予選を勝ち抜いてきた5-7人程度の挑戦者が歌合戦形式で実力を競い合う、まさに実力勝負が要求され、審査員の審査の厳しさと、辛口批評などが特徴であった。
審査員は、松田トシ(松田敏江)・阿久悠 ・森田公一中村泰士三木たかし都倉俊一ら蒼蒼たるメンバーであるが、当初5名の審査員は、松田・阿久・中村はレギュラーで座り、残りの2名は外部の作詞家・作曲家、レコード会社のディレクター、芸能雑誌「明星」「平凡」の編集記者が交互に登場していた。途中から都倉、三木が加入し、審査もより厳正になった。
初代司会者には、当時コント55号で人気絶頂期だった萩本欽一 が初めてのソロ活動として、司会に初挑戦しこれも話題にもなった。
テレビの草創期から1970年代まで「ナベプロ王国」と称される黄金時代を築いた芸能事務所・渡辺プロダクションがその絶対的な地位を失ったのは、この番組が新興プロダクションであるホリプロダクションサンミュージック田辺エージェンシーなどへのタレント供給源となり、これらの新興プロダクションが力をつけたためであり、その意味で、この番組でデビューしたタレントの活躍がその後の芸能界地図を大きく塗り替えるきっかけになったといえる。
この番組からの記念すべきデビュー第1号は、 森昌子 である。
森昌子は、1971(昭和46)年、 13歳で出場し、初代グランドチャンピオンとなると、ホリプロダクション(現ホリプロ)に所属。 翌年1972年7月「せんせい」(作詞:阿久悠、作曲:遠藤実)で歌手デビュー。彼女はこの曲で翌・1973(昭和48)年に15歳最年少でNHK紅白歌合戦に出場している。
この翌・1972(昭和47)年、中学2年生(14歳)の桜田淳子が、7月の秋田県民会館で行われた本選で牧葉ユミの「見知らぬ世界」を歌い、番組史上最高得点となる573点で合格し、9月6日(放映は9月24日)、後楽園ホールで行われた第4回決戦大会で、番組史上最高の25社(34社という情報もあり)から獲得の意向を示すプラカードが上がり、審査員からの評価も圧倒的で最優秀賞を受賞。サンミュージックに所属し、この翌1973(昭和48)年2月に「天使も夢みる」(作詞:阿久悠、作曲:中村泰士、編曲、高田弘 )で歌手デビューし、たちまち人気アイドルとなった。
山口百恵も、この桜田淳子と同じ年・1972(昭和47)年の12月に、桜田と同じく牧葉ユミの「回転木馬」を歌い準優勝、20社から指名を受けた。ちなみに、この時、百恵と最後まで争い敗れたのが、後に女子プロレスラーとなるマッハ文朱(現:女優・タレント)であった。
山口百恵は、この翌・1973(昭和48)年4月、映画「としごろ」(市村泰一監督)に出演し、5月21日に同名の曲で歌手としてもデビュー。森昌子・桜田淳子と共に「花の中三トリオ」と呼ばれた。
彼女の記念すべき映画「としごろ」は、もっとも傷つきやすい思春期を向えた女の子たちが、周囲の先輩、教師たちに見守られながら成長していく姿を描いたものだが、goo映画のあらすじをみても、その中に、山口百恵演ずる高木京子は登場しない(以下参考に記載のgoo映画参照)。
まだ「花の中三トリオ」と呼ばれる前の映画であり、ホリプロの和田アキ子と森昌子を主演に、この年3月に日本コロムビアより、「かくれんぼ」でアイドル歌手としてデビューした石川さゆり(当時森や山口とホリポロ三人娘として売り出す予定だったがかなわなかったという)や、よくは知らないが、この当時の新人女優だった秋谷陽子などを中心にした正真正銘のアイドル映画であり、山口百恵は、彼女たちの友人としてのチョイ役であったようだ。当時のキャッチコピーは「人にめざめる14才」。映画「としごろ」の主題歌は 「人にめざめる14才 としごろ」 で、この歌で5月に歌手デビューしたが、オリコンでは37位にランクされるに留まり、同じ「スター誕生!」出身の「花の中三トリオ」のデビュー曲と比較すると、、スタッフの期待以下のセールスに止まった。因みに、森昌子の「せんせい」は3位、桜田淳子の「天使も夢みる」は12位にランクされているという。
1970年代初頭”女性ヤングアイドル” としての基礎を築いたのは、1971(昭和46)年の4月、「みんなの恋人」というキャッチフレーズを持って「わたしの城下町」でデビューした小柳ルミ子であり、続いて6月に、「ソニーのシンシア」のキャッチフレーズを持って「17才」でデビューした沖縄出身の南沙織(シンシアは、彼女のクリスチャン・ネーム)、10月、「白雪姫」をキャッチフレーズに水色の恋」でデビューした天地真理であり、この当時彼女等を括って三人娘と呼ばれていた。そして、スター誕生というテレビ番組から次世代の三人娘として森・桜田・山口の「花の中三トリオ」がデビューした。
そして桜田はポスト天地真理を目指し成功した。山口百恵もまた、ポスト天地真理を目指して、先行する桜田淳子を追いかけるようにスタートした。しかし、これが、失敗であり、天地真理と同一の路線で先行者として活動していた桜田淳子に比べて山口には「暗い」イメージがあり存在感が薄かった。そのまま同様の路線で芸能活動を続けていたら半年後には姿を消していただろう。森昌子は並外れて歌が上手かったし、桜田淳子はアイドルとして並外れたオーラをもっていた。そこで、路線の失敗を反省し、コンセプトを変更、他のアイドルとの差別化を図ることにした。そして、1973(昭和48)年9月にリリースされた第二弾の「青い果実」では大胆なイメージチェンジを図り、「あなたが望むなら私何をされてもいいわ・・・♪」という歌い出しのきわどい歌詞を歌わせる路線を取った。
彼女のデビュー当時のキャッチコピーは“人にめざめる14才”であった。
14歳と言えば思春期を迎えた年令であり、この頃は、心身ともに子供から大人に変化する時期であり、「第二次性徴の訪れとともに、からだの発育はめざましく、大人らしいからだつきになる。一方、こころの面でも自分自身に目を向けるようになり、急に親離れを始め、これまでとはちがった価値観を身につけようとする。さらに、「自分とは何か」「自分は何をしたいのか」「自分は何を求めているのか」というような自分さがしを始めていく時期でもあり、このような自我への目覚めから、反抗期が始まる時期でもある。また、この時期に性への目覚めが見られ、異性の体や性行為にも興味を持ち始める時期でもある。このように、からだ、こころ、そして周囲とのかかわり方が変化していく時期が思春期である。
ヒットはしなかったものの、思春期の女の子たちが、心の中でひそかに思っている“大人になりたい願望”は、デビュー曲の中にも織り込まれており、それが、4ヵ月後、まさに、人にめざめた14歳という年端もいかない少女が性行為を連想させるような際どい内容の歌詞として具体化し歌ったのである。これは「青い性路線」(「性典ソング」)と呼ばれるようになり、それは1974(昭和49)年の「ひと夏の経験」の大ヒットで大きく花咲くこととなった。
デビュー当時の歌とその後の成長した彼女の歌を聞き比べてみると面白いね。デビュー当時の少し音程は安定していないところがあるもののこの頃の彼女の明るく健康的な曲も初々しくって良いね~。非常に懐かしい。
YouTube - としごろ・・・山口百恵
デビュー時の歌 ⇒ ttp://www.youtube.com/watch?v=_3UcNQv450Y
その後成長してからの歌 ⇒ http://www.youtube.com/watch?v=pCgDcH9WU2E
以下は、引退後のベストテン番組ランキング入りで流されたVTR。引退直前の9月25日の歌唱と共に、過去の出演VTRが流れる。曲ごと に別人の如く変わってしまう彼女に、今更ながら驚く。この「さよならの向う側」の歌唱は、情感たっぷりで素晴らしい!最後にこの曲を聴いてみよう。
YouTube - 山口百恵~「さよならの向う側」&懐かしい映像
http://www.youtube.com/watch?v=F5KwkJLEE1k
(画像は、山口百恵 ファースト・アルバム「 としごろ」)
参考:
山口百恵 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E7%99%BE%E6%81%B5
山口百恵 (ヤマグチモモエ) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/98426/
思春期 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%9D%E6%98%A5%E6%9C%9F
あいあいクリニック&思春期ブルー
http://www.hi-ho.ne.jp/haruo-kitajima/blueindex.html
めざめる 【目覚める】の意味 国語辞典 - goo辞書
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn/190531/m0u/%E7%9B%AE%E8%A6%9A%E3%82%81%E3%82%8B/
歌ネット - 山口百恵 - 歌詞 - としごろ
http://www.uta-net.com/user/phplib/view_0.php?ID=6836
歌ネット - 山口百恵 - 歌詞 - 青い果実
http://www.uta-net.com/user/phplib/view_3.php?ID=166
YouTube - 山口百恵 青い果実
http://www.youtube.com/watch?v=UsamzZHbeCI
DE DO DO DO, DE DA DA DA
http://www.begets.co.jp/doda/