今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

詩人・野口雨情の民謡「枯れすすき」(後の「船頭小唄」)が発表された日

2009-03-30 | 歴史
野口雨情の民謡「枯れすすき」・・・って・・?
♪己は河原の 枯れ芒
  同じお前も枯れ芒
  どうせ二人は この世では
  花の咲かない 枯れ芒
ああ!その歌なら良く知っているよ。それは、野口雨情の「船頭小唄」だろう・・と思い出す人が多いだろう。
「船頭小唄」は歌謡曲の題名であり、1921(大正10)年3月30日、民謡「枯れすすき」として野口雨情が作詞したものに、中山晋平がメロディをつけたもので、翌・1922(大正11)年に神田春盛堂から詩集『新作小唄』の中で、「枯れすすき」を改題し「船頭小唄」として掲載されたもの。(詳しくは、以下参考に記載の船頭小唄 – Wikipedia、d-score野口雨情 年譜参照)
野口雨情は、斎藤佐次郎により創刊された『金の船』より童謡を次々と発表。「十五夜お月さん」「七つの子」「赤い靴」「青い眼の人形」「『シャボン玉』「こがね虫」「あの町この町」「雨降りお月さん」「証城寺の狸囃子」など、多くの名作を残しており、北原白秋西條八十とともに、童謡界の三大詩人と謳われたが、他方童謡とともに当時盛んとなった「新民謡」(創作民謡。誰もが口ずさめる、ふるさとの歌)にも力を注いだ。
哀調を帯びたこの歌が発表された同じ年に金の塔に発表された「しゃぼん玉」の歌詞を見ても分かるように、雨情の一連の作品群には「失われゆくもの」「失われてしまったもの」に対する情感が色濃く漂っているといわれているが・・・。
たしかに、雨情の民謡「枯れすすき」が作られた頃、日本は、第1次世界大戦(1914年から1918年)の戦勝国とはなったものの、戦争が終わっても軍需品の注文をうけた成金が出現するなどはあっても庶民の間に好況感が来るどころか、じわじわと不況が訪れ、世の中には閉塞感が漂っており、その空気を鋭く捉えた中山晋平が、雨情の詩に曲をつけて出来たのが、歌謡曲の「船頭小唄」である。
詞は、茨城県多賀郡磯原村(現・北茨城市)に生まれた野口雨情(本名:野口英吉)の馴染みのある利根川を舞台にしており、翌・1923(大正12)年正月8日、この詩を主題歌に日本最初のスター女優栗島すみ子の主演で、わが国最初となる歌謡映画「船頭小唄」が麻布松竹館で封切られ90日間続映という空前の大ヒットとなったが、この映画の脚本といっても、伊藤大輔が書いたわら半紙2,3枚程度のものを、池田義信監督が4日間で仕上げたもので、松竹蒲田にしてみれば、正月明けの添え物作品でしかなく粟島人気だけが頼りだったという。映画「船頭小唄」は岩田祐吉が船頭の律太に、その許婚お君に栗島すみ子が扮した。ところが、映画の元になった歌謡曲「船頭小唄」がレコード化されたのは、2年前の1921(大正10)年ことであり、中山歌子や鳥取春陽らがレコードにしていようだが、まだレコードも、レコードをかける機械も普及していなかった時代、この歌は、鳥取春陽ら演歌師とよばれる人たちが町辻などでヴァイオリンの伴奏に合わせて唄い、それを聞いた巷の人々に愛唱されていた程度であった為、撮影時に、歌を知っていたのは映画関係者では池田監督だけだったという。映画の中で、川島はヒロインの女船頭に扮して、♪おれは河原の枯れすすき 同じお前も枯れすすき・・・♪と歌うのだが、実際に、歌うシーンでは、「荒城の月」を口ずさんでいただけで、映画が上映されると、雇われた歌手がスクリーンの傍らで粟島の口の動きに合わせて「船頭小唄」を唄ったそうだ。サイレント映画(無声映画)全盛の時代だったのだからそれで通用したのだよね(^0^)。
この映画のみならず、この当時は、このような歌謡映画によって、歌謡曲が普及していったようだ。 しかし、映画の大ヒットで主題歌も空前の大ヒットになり、その流行の絶頂期に・関東大震災(1923(大正12)年9月1日)が起こり、このことに寄せて、「あんな退廃的な歌が流行るから天が罰を下したのじゃ」とさる政府高官が口走らせたほどだったという。(アサヒクロニクル「週刊20世紀」)。又、街道演歌師の添田唖蝉坊が「俺は東京の焼け出され、同じお前も焼け出されどうせ二人はこの世では何も持たない焼け出され」という替え歌で歌ったとか・・。この歌には、重苦しく哀しい大正と言う時代の気分が具現化されており、震災後の廃墟の中で多くの人に共感をもって口ずさまれるようになったといわれているのだが・・・。
私は、この映画を見ていないので、この映画の内容のことを調べてみたが詳しいことを書いているものが見当たらなかったが、唯一、以下参考に記載の「小唄映画に関する基礎調査」に、この映画のストーリーと解説が詳しく書いてあった。それを読んでみて、この映画でのこの歌の取り扱われ方がイメージしていたこととは随分違うのに驚かされた。
この映画の内容は、“水郷の美しい娘お君とその娘に恋する船頭・律太が幸福な船頭夫婦になるまでを描くハッピーエンドの物語で、ラストは、利根川のそよ風に吹かれながら、律太が朗らかに船をこぎ、美しいお君がその船に揺られながら幸福な唄を歌う、という甘い結末であり、ここでの「船頭小唄」は時代閉塞の歎きというよりむしろ、明るいラブソングとして歌われている。”・・・と言うのである。伊藤の書いた脚本は、哀調を帯びた「船頭小唄」から脚色したとは思えないほど明るく、これはもう、偶然の出来事が次々と起り、複雑に絡まって不自然なほど劇的なクライマックスを海岸で迎えるという涙の物語ではない。水郷に住まう律太とお君の純粋な恋と、豊三(かってのお君の許婚)とお品(豊三の恋人)の恋路という2つのプロットを単純明快に描いているに過ぎないのだそうで、これは、従来の新派映画の枠組みを超えたというよりハリウッド的な構成の映画への試みだったようだ。・・と言う。なお、ここでは、中山晋平の作曲した「枯れすすき」の譜面は1919 (大正 8)年から売り出されていた・・と書かれていたことも補足しておこう。映画のこと、唄のことを詳しく知りたい人は、「小唄映画に関する基礎調査」を見られると良い。
だから、この唄も、大方の人がイメージしているような哀調のおびたただ暗い感じの曲というのではなく、むしろ、逆に、当時の暗く重苦しい閉塞した世の中から一日も早く脱出したいという裏返しの希望を込めた曲として受け止めるべきなのであろう。
昭和も、戦後12経った1957(昭和32)年には、童話詩人・野口雨情の放浪生活を描いた純愛ドラマとして映画「雨情」(監督:久松静児。以下参考のgoo-映画参照)が公開された。結婚しながらも、惚れた女のあとを追って家出するダメ男を森繁久彌が好演。主演した森繁が独特の森繁節で「枯れすすき・・・」を歌い再び大ヒット。大正の歌が昭和の時代に見事歌謡曲として甦り、今でも、戦後の焼け野原の中から立ち上がってきた「枯すすき」に人生の哀愁を共感する世代に支持されている。私もその1人で、暇な時などハーモニカで楽しんでいる。いい曲なので聞くのなら以下が良いのでは。
二木紘三のうた物語: 船頭小唄
http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/12/post_0aae.html
また、1974(昭和49)年には、類似の哀愁を持つ曲「昭和枯れすゝき」(作詞:山田孝雄、作曲:むつひろし、唄:さくらと一郎のデュエット)もあり、翌年の1975年(昭和50年)同名の映画(監督:野村芳太郎、以下参考のgoo-映画参照)も作られた。
この歌の方は、TBS系『時間ですよ昭和元年』の挿入歌として歌われたもの。
『時間ですよ』は、下町の銭湯を舞台にしたコメディで、女湯シーンのヌードが売り物の一つであった。今から思うと、よくこんなドラマが、ゴールデンタイムに放映されたものだと思うが、主演は森光子。他には、堺正章や悠木千帆(後の樹木希林)らが出演。天地真理、浅田美代子らの出世作にもなったもの。
『時間ですよ・昭和元年』はその第4作で、時代設定が昭和の初めに改められた。又、荒井注ザ・ドリフターズ脱退後初めて単独で出演。森光子の亭主役を演じ俳優としてデビューし話題になった。サブストーリーとして、肺を病んだヤクザ者(細川俊之)と足抜け女郎(安田道代=現・大楠道代)の悲恋が描かれたが、そのBGMにさくらと一郎の「昭和枯れすすき」が使われ、2人のすさんだ未来を暗示した。何となく『船頭小唄』を思い起こさせるイメージ設定だ。この挿入歌が大ヒット、その年に最も売れたシングル盤(1974年7月発売)となった。
♪貧しさに負けた いいえ世間に負けた
この街も追われた いっそきれいに死のうか ・・・ ♪歌詞は以下参照。 
昭和枯れすすきMIDI
http://www15.plala.or.jp/hiroiosa/index-ikinuki-mysong-showakaresusuki.htm
これもなかなか良い曲だ。全国にブームを呼び、一躍注目を浴 びた"さくらと一郎"が、2匹目のドジョウを狙ってか、2006(平成18)年「平成枯れすすき」を出しているが、以下で視聴できる。
JBOOK:平成枯れすすき/バッカじゃなかろかルンバ!:さくらと一郎:CD
http://www.jbook.co.jp/p/p.aspx/3064844/s/
私には最近の曲はよく理解できなので、新しい曲のことは余り知らないがヒットしているのだろうか?・・。
正直、私には余りピンとこない。大正、そして昭和の「枯れすすき」が泣きそうな感じもするのだが・・・。平成の今の時代、100年に一度とも言われる世界的大不況に襲われ、失業者が激増。住む家もない人も多く出ている深刻な時代に入っっており、今の時代に合った「枯れすすき」なら、またまた、大ヒットすると思うのだけれどもね~。“唄は世につれ世は歌につれ“・・・じゃないけれど、過去の歌謡曲などには、その時代時代を映し出した名曲が多かったが、今は、日本語もよく分からない人が日本の首相をしている時代、いい詩を作れる人が居なくなったのだろうね~。良い曲作りには、前提として良い詩がなければしょうがないものね~。
(画像は、1923年公開の映画「船頭小唄」の1シーン。左:岩田祐吉の船頭の律太、右:粟島すみ子扮する許婚お君。朝日くろにくる「週刊20世紀」より)
参考:
野口雨情の忌日
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/4389433417567e58d5ad506abb91a0a9
船頭小唄 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%B9%E9%A0%AD%E5%B0%8F%E5%94%84
北茨城市歴史民俗資料館(野口雨情記念館)
http://www.ujokinenkan.jp/
.d-score 「野口雨情 年譜 - 」
http://www.d-score.com/db/ujo
[PDF] 小唄映画に関する基礎調査
> http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/26754/1/015.pdf
池田義信映画「船頭小唄」
http://www.jmdb.ne.jp/1923/ay000040.htm
: 岩田祐吉 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E7%94%B0%E7%A5%90%E5%90%89
早稲田大学と文学:「金の船」
http://merlot.wul.waseda.ac.jp/sobun/n/no001/no001b01.htm
小唄 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%94%84
雨情 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD25225/
作家別作品リスト:No.286
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person286.html
第一次世界大戦下の日本- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6%E4%B8%8B%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC
松岡正剛の千夜千冊『野口雨情詩集』野口雨情
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0700.html
中山歌子-映画
http://www.jmdb.ne.jp/person/p0271150.htm
伊藤大輔 (映画監督)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%A4%A7%E8%BC%94_(%E6%98%A0%E7%94%BB%E7%9B%A3%E7%9D%A3)
池田義信-映画
http://www.jmdb.ne.jp/person/p0266540.htm
昭和枯れすすき - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD20032/

仏壇の日

2009-03-27 | 記念日
今日(3月27日)は「仏壇の日」(毎月27日)。この日は、全日本宗教用具協同組が制定。因みに、全宗協HP、”によると、西暦685(白鳳14年)年3月27日、「諸國(くにぐに)の家毎に佛舎を作り、即ち佛像とを置きて礼拝供養せよ。」との勅令が天武天皇のもとに発布され、以来仏壇を拝むようになった。”・・・とあった。この「3月27日」は旧暦であるが、仏壇の日は新暦3月27日としたが、後に毎月27日に拡大したようだ。
飛鳥時代推古天皇( 554年- 628)がご自身の宮殿において拝んでいたとされる国宝指定の「玉虫厨子」が、法隆寺・(奈良県斑鳩町)大宝蔵院(もとは金堂に安置されていたと言われる)にあり、この仏堂形の厨子(ずし)が現在に伝わる最古の仏壇と言われている。
しかし、『日本書紀』の天武天皇が14年(685年)に出した「諸國の家毎に佛舎(ほとけのみや)を作り・・・」との詔にある佛舎が、現在家庭にある仏壇などへの直接の起源でないことは、時代的に見ても明らかだろう。
天武天皇は、地方豪族の力を得て軍事力により天智天皇の子大友皇子から政権を奪取した(壬申の乱)翌・673年飛鳥浄御原宮で即位したのち、より強力な中央集権国家体制樹立のため飛鳥浄御原令の制定を命じ律令国家の建設をより一層強力に推し進め、地方の支配体制を明確にするために八色の姓を制定して朝廷の身分秩序を確立し新冠位制を施行して冠位賦与を親王にまで拡大した。また、豪族の弱体化策として豪族に与えられていた部曲(かきべ)を廃止し、食封制度も改革した(以下参考に記載の部曲,食封制度を参照)。さらに、一貫した皇族だけの皇親政治を行った。地方の支配体制を明確にするために、天武13年(684年)10月には伊勢王(以下参考に記載の「伊勢王 とは - みんなの知恵蔵」参照)等を遣して、諸国の堺を定め、地方の行政組織づくりも進めた。同時に、天皇の宗教的権威も高められた。
伊勢神宮の祭祀が重視され広瀬・竜田祭(以下参考に記載の広瀬神社また、竜田神社を参照)が国家事業として行われた。斎宮が制度化されたのも天武朝の時代であると言われている。またこの頃から新嘗祭と大嘗祭の区別などがされ、現在にまで継承されている。仏教に対しても大官大寺等の造営が進められるとともに僧尼の統制が強化されるなど、仏教の浸透を 媒介に宮王の文化や技術は地方にも伝えられ、同時に新しい支配方式の中で仏教や寺院建築の普及は不可欠 なものになっていた。
このように、天武は壬申の乱以降、中央集権的な国家を求め、鎮護国家の仏教を活用して国家支配と政治を推し進めていったのであり、685年3月27日の詔に見られる「諸國の毎に佛舎」も、都の有力者や地方の豪族に対してのものと考えられる。この時代に急増する地方寺院も この詔に応じて豪族たちが建立した氏寺であり、郡寺(各郡の名前を付けた寺院)であったと見られている。現在のような家庭用の仏壇は中世以前には見られなかったものであり、近世になって出現したもの。貴族などの上流階級においては、自宅とは別に持仏堂を持つものもあり、それがその人の死後に寺院になるのが中世によくある例であった。例えば藤原頼通平等院鳳凰堂足利義満鹿苑寺などである。
このような持佛堂が縮小・矮小化し屋内に取り込まれることによって仏間を経て仏壇に変化したとされているが、一般庶民に仏壇が普及するのは近世以降のことである。その背景には幕府による宗門改めの強要から、檀家制度が確立され、各戸ごとに証として仏壇が設けられた。当時、寺院側は宗派の仏像を祀ることを庶民に求めたが、庶民が祀ったのは以前から各家で祀っていた先祖霊であった。先祖霊は祭壇で祀られていたため、仏壇を受容することに対する抵抗感はなかったと言われる。兎に角、良い悪いは、別にして、この頃から、一般庶民に仏壇が一気に普及し、仏壇の前で、朝・夕礼拝し、先祖の命日には僧侶を招き供養するという習慣が確立した。
ただ、私が、面白いな~と思ったのは、全宗協HPには、この天武天皇の勅令発布以来 “仏壇を拝むようになった”。・・・と書かれていることである。仏壇の中をよく見られると分かるが、お寺の本堂とそっくりである。お寺と同じ本尊が須弥壇の上に安置され、位牌がその脇に配置されている(位牌を中央に配置しているところもあるだろう)。いずれにしても、私たちが、朝・夕礼拝しているのは、信仰をしている本尊であり、ご先祖の霊に対してである。仏壇は、単なる仏を祀る厨子であり、先祖を祭るための祭壇でしかない。だから、仏壇を拝むといった表現は、全くおかしいが、ま~、天武天皇の詔が仏壇の始まりである様な表現とか仏壇を拝むとかの表現は仏壇屋さんらしいということかも・・(^0^)
なお、仏壇は日本独自のもので、仏教国であるタイなどでも見られないようだ。それは寺院が生活の身近にあり、家の中に改めて小さな寺を作る必要がないからである。ただ、家ごと移動をするモンゴルではゲルの中にチベット仏教の仏壇を設けることがあるというが・・・。
そんな、仏教と仏壇仏具、また、それらを取り巻く「仏事」に関する豊富な知識を持った資格者として、仏事コーディネーター資格審査協会が認定する資格制度「仏事コーディネーター資格制度」も平成16年からスタートしているらしいが、この資格審査協会は、全宗協が後援しており、現在は全宗協の組合員とその従業者であることをその受験資格としているそうだ。
戦後の日本は、核家族化も進み、住まいもかっての日本建築から、洋風化もしており、家に仏壇を設置する場所もないのが実情ではないか。その上、戦後の日本には、宗教と言うものを、どうも疎ましいものといった感じで見ている人達がいるようであり、そのような人達の戦後教育とも関係が有るのかどうか、兎に角、戦後は、日本人の宗教離れそのものが進み、家庭で仏壇の前で仏や先祖に手を合わそうなどと考えるものすら少なくなっているようだ。
先日の第81回米アカデミー賞の発表会で、滝田洋二郎監督作品の「おくりびと」が外国語映画賞を受賞し、話題になっているが、この映画は、亡くなった人の身体を清め、棺に納める納棺師の仕事についた男性(主演:本木雅弘)が、人と死に向き合う様を描いたもの。このような映画が、米国で賞に選ばれたのも作品の内容もさることながら、バブルが弾けてムチャクチャな経済状況になってしまった今、人の根源的なテーマである「」・・といったものへの関心が非常に高まった故のことであろうと考える。
私は、納棺師なるものが居ることなど全く知らなかったが、なにか、葬儀社の依頼に応じて専門職の1つとしての納棺師を派遣しているところがあるようだ。私の母親や祖父が非常に信心に熱心であったことから、私も幼少の頃より、仏教に関心を持ち成長してからは自らも信仰をするようになった。そして又、身内他、多くのお寺関係やご近所の人達の死の旅立ちにも立ち会ったが、納棺師などといった特別な人に納棺をしてもらっていたことの記憶はない。死後の旅立ちのため、遺体を清め、死化粧を施し、死装束を着せ、葬儀社に手伝ってもらっての納棺も全て身内でしていた。ただ、思い起こせば、昔は、葬式の前の通夜が非常に厳かに行なわれていたのを思い出す。この通夜は、古代日本で行われていた(もがり)に由来するものと言われている。そう言えば、2年前(2007年)、第60回カンヌ国際映画祭で、河瀬直美監督の「殯の森」がグランプリを受賞したのを思い出しますね~。殯は日本の古代に行なわれていた葬儀儀礼で、死者を本葬するまでの期間、棺に遺体を仮に納めて安置し、別れを惜しむこと、またその棺を安置する場所を指す。告別式の前夜祭の形態をとる。誰かが寝ずの番をして(交代でもよい)、夜明けまで灯明や線香の火を絶やさないようにしなければならない(魔除けの意味がある)。本来、このように、通夜は家族、親族が死者との最後の別れを充分にし、心の整理をする貴重な時間であった。そのため、古代といわずとも、かって仏教では、死亡当日の夜は、そのまま遺体を布団に寝かせて、遺族や故人とごく親しかった近親者のみで一夜を過ごしていた。そして、仮通夜の後、本通夜の前に、納棺も僧侶に納棺経をあげてもらい、読経の間に納棺するのが一般的な形とされていた。しかし、最近の通夜では夜6時ごろから9時ごろまで一般の参列者を招き僧侶の読経も1回のみという形の「半通夜」にする場合が多くなってきている。その後は、翌日の葬儀まで、近親者が夜通し付き添うのが慣わしであるが、通夜を自宅以外で行うケースが増え、遺族も10時頃には帰ることが多くなっているようだ。
本当は、この通夜の行事こそ、重要なはずであるが、最近は、葬儀も派手になり、会葬者も多くなっているのだが、朝の葬儀に来にくいからと、形式的に通夜に来る人が増えているようだ。そのため、親族は、通夜の会葬者の接待に追われ、疲労困憊、十分に故人とのお別れも出来ないまま形式的な通夜や葬儀を終了するといったことになっているのは、事実だろう。私自身、大げさな「納棺の儀式」が必要かどうかの意見を言うつもりはないが、ただ、故人との大切なお別れの時間である通夜は近親者だけで、ゆっくりと過ごしたいものだとは思う。私は、自分自身の葬儀などのやり方については、遺言のように、別に書き留めておくつもりである。
最後に、本日のテーマである仏壇についてだが、かって、仏壇は、先祖霊の依代として永続する家系の象徴でもあった。「家」制度の下で第一の価値観は家系の永続であり、先祖が子孫に影響を与えるとする信仰心が、仏壇の需要を支えていた。しかし、戦後の核家族化や、先にも述べた思想上の問題等から、「家」は崩壊し仏壇もその必然性を低下させた。私自身、宗教や先祖祭りのために特別仏壇を必要だとは思わないが、それが、宗教心の低下や先祖とのつながりをなくして行くような結果にならないようにとは願っている。映画「おくりびと」のアカデミー入賞で、「生と死」について考えてみるのも良いが、このような、「仏壇の日」の記念日を機会に、現実の問題として、自分の家の宗教がどのようなものか、又、先祖祭りについても考えてみるのは良いことだろう。
以下では、おくりびとのテーマー曲と共に、一部映画のシーンを見ることが出来る。
おくりびと/AI
http://www.youtube.com/watch?v=j-QY9F9nHTI
(画像は、映画「おくりびと」のチラシ。)
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仏壇の日:参考

2009-03-27 | 記念日
参考:
全日本宗教用具協同組合
http://www.zenshukyo.or.jp/
全日本宗教用具協同組合 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A8%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%AE%97%E6%95%99%E7%94%A8%E5%85%B7%E5%8D%94%E5%90%8C%E7%B5%84%E5%90%88
日本書記全文
http://www.j-texts.com/jodai/shokiall.html
伊勢王 とは - みんなの知恵蔵
http://chiezou.jp/word/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E7%8E%8B
部曲 かきべ[キャッシュ]
http://72.14.235.132/search?q=cache:4lJn4qd1JCAJ:www.tabiken.com/history/doc/D/D092C200.HTM+%E9%83%A8%E6%9B%B2&hl=ja&gl=jp&strip=1
食封 じきふ[キャッシュ]
http://72.14.235.132/search?q=cache:DExT67obCrYJ:www.tabiken.com/history/doc/H/H247L100.HTM+%E9%A3%9F%E5%B0%81%E5%88%B6%E5%BA%A6&hl=ja&gl=jp&strip=1
神祇史料集成・大忌祭・風神祭
http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/hirosetatsutasai.html
龍田大社 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E7%94%B0%E5%A4%A7%E7%A4%BE
廣瀬大社 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E7%80%AC%E5%A4%A7%E7%A4%BE
鎮護国家 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%AE%E8%AD%B7%E5%9B%BD%E5%AE%B6
タマムシの羽6600枚 法隆寺の玉虫厨子を復刻 - MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/080301/trd0803012003015-n1.htm
寺請制度– Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E8%AB%8B%E5%88%B6%E5%BA%A6
※宗門改め
http://www.e-obs.com/heo/heodata/n320.htm
祖霊信仰– Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%96%E9%9C%8A%E4%BF%A1%E4%BB%B0
おくりびと - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%81%8F%E3%82%8A%E3%81%B3%E3%81%A8
通夜 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%9A%E5%A4%9C
おくりびと/AI
http://www.youtube.com/watch?v=j-QY9F9nHTI

東京駅の建築家・辰野金吾の忌日

2009-03-25 | 人物
今日・3月25日は、東京駅の建築家・辰野金吾の1919年の忌日。
辰野 金吾は、1854年10月13日(嘉永7年8月22日)、 肥前国(現在の佐賀県)唐津藩の下級藩士の次男として生まれた。苦労して1873(明治6)年工部省工学寮(のち工部大学校、現東大工学部)に第1回生として入学。造船を学んでいたが、2年終了後、造船から造家(建築)に転じる。1877(明治10)年からお雇い外国人として造家学教師に着任したジョサイア・コンドルに学ぶ。1879(明治12)年、同学科を首席で卒業。日本に於ける近代建築家第1号となる。この時の同期生に曽禰達蔵片山東熊佐立七次郎等がいる。1880(明治13)年選ばれて、英国ロンドン大学に官費留学。
1883年(明治16年)に帰国後工部省営繕課に入り、工部大学校教授として母校の教壇に立ち、後進の指導にも励んだ。また、造家学会(のちの建築学会)を設立。1898(明治31)年帝国大学工科大学長就任(※工部大学校は、1885年工部省の廃止に伴い文部省に移管され、翌年の帝国大学令により名称変更)以降、議院建築(国会議事堂)調査会委員、震災予防調査会長などの要職を歴任。1903(明治36)年には、葛西萬司と共に東京に辰野葛西事務所を開設、1905(明治38)年には、大阪に片岡安と辰野片岡事務所を開設して、数多くの作品を残し、名実ともに明治・大正建築界のボスとして君臨した。
議院建築の設計をめぐっては、学会を主導する辰野と大蔵官僚で官庁建築の重鎮妻木頼黄 との対立は有名。1919(大正8)年、妻木の死後に実施された国会議事堂の建築設計競技(コンペ)の審査中にスペインかぜに罹患し逝去した。
工科大学では、伊東忠太長野宇平治武田五一中條精一郎塚本靖野口孫市関野貞、大沢三之助(東京美術学校図案科教授として芸大の建築科の礎を築いた明治の建築家の先駆者といわれている)らの人材を輩出している。
尚、彼の代表作に「東京駅」「日本銀行本店」などがある(以下参考に記載の「近代建築散策」に素敵な画像と説明があるJR東京駅丸ノ内本屋日本銀行本店)。
辰野は、師コンドル譲りの赤レンガに白い石の帯入った「辰野式」を得意とし、これは、設計の頑丈さから「辰野堅固」とも呼ばれた。東京駅は、アムステルダム中央駅をお手本にしたといわれる赤レンガの駅舎で、正面から望むと中央に皇室のための玄関、左右に一般の乗降客のためのエントランスホールを持つ。辰野の代表作として高く価値が認められている。東京駅のことは以前にこのブログ「東京駅の日」で簡単とり上げた(ここ参照)。
彼は、生まれ育った佐賀県内には武雄温泉桜門などを設計している(楼門は以下参考に記載の「武雄温泉楼門朝市」を参照)。
神戸も明治開港以来、有名人の洋式建築が多く建てられているので、辰野金吾の建築としては、加島銀行神戸支店(1918年建築)、神戸商品取引所(1907建築)、三十四銀行神戸支店(1908年建築)、神戸銀行集会所(1914建築)、加島銀行神戸支店(1918建築)、神戸川崎銀行(1919建築)、第一銀行神戸支店(1908年建築)等があったようだが、今は、何も残っていない。
これらの中でも代表的なものの1つが旧「第一銀行神戸支店」(1908年建造)の建物であったが、この建物は、”1985(昭和60)年まで20年間大林組神戸支店として使われていた。その後使われていなかったようだが、1995(平成7)年1月17日の阪神淡路大震災で大きな被害を受け、全面取り壊しも検討されたが、神戸市、まちづくり協議会、建物所有者の大林組が協議し、歴史的景観の保全を図る意図から南と西の二面の外壁を残し、2001(平成13)年7月に開業した地下鉄海岸線「みなと元町駅」の出入口として利用ている(大林組現地説明版より)。冒頭の画像がそうであるが、「以下参考に記載の「近代建築Watch:辰野金吾」でが、綺麗な大画像で見れる。又、阪神淡路大震災時の惨めな記録写真なら以下で見れる。
旧第一銀行神戸支店: 震災記録写真(大木本美通撮影)
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/directory/eqb/photo/oogimoto/place/1040983000.html
それと、かつて存在した日本の銀行で神戸市西町34番地に本店のあった神戸川崎銀行の写真が以下で見れる。
[PDF] 神戸川崎銀行(十五ビルヂング)
http://www.shimz.co.jp/200th/sakuhin/sakuhin_pdf/a012300_01.pdf
ただ、これらの建物がこのような型でかしか見られないのが非常に残念である。
(画像は、みなと元町駅出口)
参考:
工部大学校 – Wikipedi
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A5%E9%83%A8%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%A0%A1
近代建築Watch:辰野金吾
http://hardcandy.exblog.jp/tags/%E8%BE%B0%E9%87%8E%E9%87%91%E5%90%BE/
辰野金吾小伝
http://www.toshima.ne.jp/~akarenga/page005.html
人名資料室/辰野金吾
http://www.jmam.net/b/zinmei/tatuno-k.htm
妻木頼黄 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%BB%E6%9C%A8%E9%A0%BC%E9%BB%84
社団法人 日本建築学会
http://www.aij.or.jp/aijhomej.htm
[PDF] 国会議事堂
http://www.websanko.com/officeinfo/officemarket/pdf/0609/memory.pdf
「東京駅の日」
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/127c958410a0d5f3098047381dbfe35c
近代建築散策
http://maskweb.jp/
安田工業㈱辰野金吾についてr
http://www.ysd-kk.co.jp/kingo.html
武雄温泉楼門朝市
http://roumonasaichi.sagafan.jp/e24491.html
神戸川崎銀行 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%88%B8%E5%B7%9D%E5%B4%8E%E9%8A%80%E8%A1%8C
大林組 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9E%97%E7%B5%84
神戸市営地下鉄海岸線
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%88%B8%E5%B8%82%E5%96%B6%E5%9C%B0%E4%B8%8B%E9%89%84%E6%B5%B7%E5%B2%B8%E7%B7%9A

さくら さくら

2009-03-24 | ひとりごと
「敷島の 大和心を人問はば 朝日に匂う 山桜花」(本居宣長)
散りぎわのいさぎよさを賛美した歌の気質を象徴する花とされている。
神戸も23日に開花宣言が出た。今まで余り気にしていなかったから気がつかなかったのだが、今日散歩に出て意識的に見ていると家の近くの公園の山桜が、急に、咲き初めたようで、もう3分咲きくらいになっていたのに驚いた。今の不景気な世の中、気持ちも暗くなり滅入り勝ちだが、せめて、桜の花でも見て、心にパ~と花を咲かせたいものですね~!
さくら さくら
やよいの空は
見わたすかぎり
かすみか雲か
匂いぞ(においぞ)
出ずる(いずる)
いざや いざや
見にゆかん
日本を代表する音楽のひとつ「さくらさくら」である。
この歌は、日本古謡とされている場合が多いようだが、実際は幕末、江戸で子供用の(そう)の手ほどき曲として作られたもの(作者不明)で、もともとは、「咲いた桜」という歌詞がついていたようだが、その優美なメロディから明治以降、歌として一般に広まり、現在の歌詞が付けられたものだそうである。
後世様々な編曲がなされているが、宮城道雄の「さくら変奏曲」が特に有名。この曲は、1923(大正12年)年に作曲されたという。この曲風に、西洋音楽の息吹を感じられるが、宮城は、神戸生まれの作曲家・箏(そう)曲家で、十七弦の発明者としても知られているようだが、彼は神戸の旧居留地で生まれ育ったため、幼少から西洋の音楽に自然に親しんでいたからだという。宮城のことは知らなくても、正月などに、テレビ・ラジオ番組や商業施設等でBGMとして流れているあの名曲「春の海」の作曲家と言えば分かるだろう。生田流箏曲家であり道雄の姪でもあった宮城喜代子の妹・宮城数江らによる「さくら変奏曲」はここで視聴できるよ。(喜代子、数江ともに故人)
この曲の詩をここには上記のように「さくら さくら やよいの空は・・・」と書いてあるが、この曲は、近代に入って何度か書き変えられているようで、現在音楽の教科書等に載っているのは、1941(昭和16)年に改められたもので、その時、国民学校の国定教科書『うたのほん 下』に掲載された以下の詩のものが主流になっているのだとか・・・(1番)。
さくら さくら
野山も里も
見わたす限り
かすみか雲か
朝日ににおう
さくら さくら
花ざかり
歌詞の背景には冒頭に書いた江戸時代の国学者本居宣長の和歌「敷島の 大和心を・・」があるといわれている。
私などは、年代的に、小学校では、後述の「さくら さくら 野山も里も・・」の 歌詞の方を習っていることになるのだが、実際に先に書いた元の方の歌詞で習っている。おかしいな~と思っていたら、それには、色々事情があるそうだ。この歌のことは、以下に記載の「崎・狛江の地域Webニュース k-press 音楽歳時記 さくらさくら」が詳しいのでそこを参照されるとよい。
「山 桜」のことについては、私のHP「よーさんの我楽多部屋」の「四季彩々」の季節の花のページのBackNo-008 山桜で書いているし、このブログ「今日のことあれこれと・・」でも
「花の日」
」や3月27日「さくらの日」で書いているので、ここでは、もう、「さくら」のことは、書くのは止めよう。関心のある人は、そちらを見てください。
(画像は、今日撮った公園の桜)
参考:
さくらさくら - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%95%E3%81%8F%E3%82%89%E3%81%95%E3%81%8F%E3%82%89
※今日のことあれこれと・・「花の日」
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/c781d44b078e68759034cc48d4996f0d
※今日のことあれこれと・・「さくらの日」
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/14206b2c4e464882902ccf2dc344974c
川崎・狛江の地域Webニュース k-press 音楽歳時記 さくらさくら
http://www.k-press.net/music/indexmusic0404.html
生田流箏曲 日本音楽大道派
http://homepage1.nifty.com/youkoso/daidouha/
本居宣長 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%B1%85%E5%AE%A3%E9%95%B7
八橋検校 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%A9%8B%E6%A4%9C%E6%A0%A1