今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

マンセッション

2013-04-23 | ひとりごと
今「マンセッション(mancession)」という言葉が流行しているらしい。
マンセッション(mancession)」は「男性(man)」と「不況(recession)」を組み合わせた造語(男性不況)で、男性の失業が女性よりも深刻な状態を指す新語だそうだ。
4月19日付の朝日新聞「天声人語」(※1)でも触れていたので、ちょっと書いてみる気になった。
自民党の野田聖子総務会長は、当面の重要政策課題をめぐって、4月2日、都内での経団連との意見交換の中で、以下のように述べたと言う(※2)。
「今後、日本がかつてない人口減少社会に突入するという認識のもと、規制改革成長戦略を実行したい」(※3の「成長戦略」とは?参照)
「『ウーマノミクス』(※4参照)という言葉があるが、女性を活用すれば、GDPが15 %は上がるといわれている。他方、男性の失業率が女性の失業率を上回る『マンセッション(男性不況)』になっている。これが、少子化の一因となっている」
「2020 年までに指導的地位に女性が占める割合が少なくとも30 %程度になるよう期待するという政府の目標は、女性の活躍推進に向けた思いの表れである。すべての分野で優秀な女性が活躍できるよう、尽力したい」と述べ、党として成長戦略や規制改革など、さまざまな課題に取り組む姿勢を示したという。

この「マンセッション」という造語はリーマン・ショック(2008年9月)後の米国で流行し始めたものらしい。
このショックによる不況の原因は、欧米での住宅・不動産バブルの崩壊と金融危機(サブプライム住宅ローン危機)だが、前者は、欧米での住宅・建設需要の大幅な減少をもたらし、後者は、特にリーマンショック以降全世界的に、自動車をはじめとする耐久消費財の需要や企業の設備投資意欲の大幅な縮小を引き起こした。
男性の雇用が多い建設業や製造業・運輸関連などでは非常に大きな供給能力の過剰を抱え込むこととなり、リストラを迫られ、男性失業者が大幅に増加することとなった。
一方、教育や医療に代表されるサービス産業は、この時の不況の原因ではない上に、自動車や家電の企業のように先行き不安などから消費がすぐに落ち込むといったことにはなり難いが、特に先進国では共通して高齢化が進んでおり、医療・福祉関連にはその傾向が強い。
サービス産業でも景気全体の悪化の影響を受けない訳ではなく、それ相応に雇用の削減はある。したがって、医療・福祉などのサービ産業に努める比率の多い女性の失業率も悪化はするものの、その程度は男性に比べれば小さいもので済むことになる。
この男性失業率の大幅な悪化は、バブルの歪みがもたらしたものであるため、欧米諸国では、その調整が一巡し、供給能力に見合った需要が回復するまでは、今のような傾向が長期間続く可能性が高い。その後、米経済の回復とともに、失業率の男女間格差は縮まってきたが、依然として、男性の失業率が女性を上回る先進国は多い。
その背景には、雇用を生み出す産業構造の変化と共に男性から女性への主役の交代があるとされている。ただし,これら 女性の仕事には、賃金水準が相対的に低いという問題が絡んでいる。
一方日本は、自動車などの輸出の大幅減少が雇用悪化の引き金となっており、自国内に原因があるわけではない為、輸出の回復に伴って製造業の雇用も徐々に回復していくものの、輸出の回復は中国やアジア諸国といった新興国での需要の拡大がもたらしている。このことが円高と相まって、生産拠点が海外へ移転していく状況を引き起こしているようだ。また、公共事業削減の影響が大きい建設業の需要が落ち込んでいる。

少し話は横道にそれるが、米マサチューセッツ州の州都ボストンで今月の15日に開催されたボストンマラソンのゴール付近で2回の 爆発が起きた。
当日は、アメリカ独立戦争開始の特別な記念日「愛国者の日(ペイトリオッツ・デイ)」で、同州では祝日だったため、多くの人が応援に駆けつけていたことから、大勢の負傷者を出し、8歳の少年を含む3人が死亡する事件が起きた。
オバマ大統領は翌16日の会見で、現段階で犯人像をつかめていないとした上で、「米国は悪に対処する」と述べ、連邦当局も当初より残虐なテロ行為とみて犯人と見られる2名の男性を公開捜査をし、早々と逃亡中の2名の犯人(チェチェン人兄弟)と銃撃戦の末、1名は死亡、1名は逮捕して、取り調べている旨昨22日には報道があった。
どうも、同兄弟は、別のテロ事件も計画していた可能性があったようであること、イラン国内に拠点を置く国際テロ組織アルカイダの支援を受けていたらしいとの報道も耳にはするが、米国内では、頭もよく真面目だったという青年が、どうしてこのような大それた事件を起こしたのかその動機等は正確にはまだ解明されていないようである。
ただ、ボストンマラソンでの爆破事件が起きたとき、その爆発物の爆発力が小さかったことなどから、一部専門家筋は、「専門のテロ集団とは異なり、米国に不満を持つ国内在住人による、何かしらのアピール目的が強いのではないか」と話していた。
私は、そのような爆破事件の報道を聞いて、リーマンショック以降、いまだ、男性の雇用問題がなかなか改善されない現状にあって、この「マンセッション(mancession)」という言葉と関連して、働きたくても働けないことに不満を持っている人たちの中の一部過激派がお祭り騒ぎで騒いでいる人たちに不満をぶつけた事件であり、日本で起きた秋葉原通り魔事件的なものかもしれないなどという思いが頭をかすめ、急にこのブログを書こうと思った次第である。

日本は,欧米よりも失業率は低く、男女格差も小さかったが、失業率も徐々に高まり、欧米と同様に、男性が女性を上回るようになったのは1997年~1998年かららしい(日本の失業者数・失業率参照)。
最新データーとしては、総務省が発表した平成25年2月の労働力調査(速報)によると、完全失業率(季節調整値)は前月より0.1ポイント上昇し4.3%となった。男女別では、男性は前月と同水準の4.6%、女性は前月より0.1ポイント上昇し、3.9%となっている。
また、男女別にみた対前年同月比は、男性は6万人減少の171万人、女性も6万人減少の106万人となっている(※5:「総務省統計局・統計データー」の労働力調査(基本集計) 平成25年[2013年)]2月分結果の概要参照)。
総務省は失業率悪化について「国内景気の回復期待で、職を求める女性が増え、結果として失業者増となったため」と分析。今後は女性の就業が進む可能性があるため、短期間のうちに大きく悪化する公算は小さいとしている。
また、有効求人倍率は、求職者1人当たり企業から平均何件の求人があるかを示すが、人手不足感の強い医療・福祉などで高水準の求人が続く一方、自動車など製造業の求人が前年に比べて減少したという(※6)。 

失業を測る尺度である失業率は、労働力人口に対する失業者数の割合で定義される。
失業者とは「働く意思と能力があるのに仕事に就けない状態にある人」を指すので、仕事探しをあきらめた人は失業者には含まれない。
ちなみに、労働力調査では、働く意志があるとは、ハローワークに通って職探しをするなど仕事を探す努力や事業開始の準備をしていること、・・・とされている。
したがって、病人を介護している、幼い子供がいる(保育園に入れなくて待機中)、アルバイトやフリーターなどしている。また、就職難で職 に就けないので就職を半ばあきらめハローワークへ行っていない人など失業者に含まれていない者が多くいる。
政府が雇用維持を目的に、雇用調整助成金を支給したことによって、本来は解雇や派遣切りの対象となっていた可能性のある就労者の雇用が守られている人も失業者には含まれていない。そして、近年この様な雇用調整金がなければ、解雇や 派遣切りの対象となる人が増加しているようであるが、このような人は失業者にカウントされていないので、「隠れ失業者」と呼ばれており、この「隠れ失業者」が、日本の失業率を過小評価し実態を反映していないという指摘もある。
もしこれらの人々を失業者にカウントすると、日本の失業率も発表されている数字の培ぐらい、つまり10%近い高い水準になるのではないかと言われている(労働力調査における失業者や失業率の定義については、「労働力調査」の項目参照)。

総務省統計局の2013年4月16日発表の報道資料:人口推計(平成24年10月1日現在)によると、
日本の総人口は1億2751万5千人となり、前年に比べ28万4千人(0.22%)の減少と2年連続で大きく減少している。
そして、総人口の老年人口(65歳以上)は3079万3千人となり、前年に比べ104万1千人増加、初めて3000万人を超えている。
これまで総人口の増加幅は縮小傾向で推移していたが、平成17年に戦後初めて前年を下回り、以降減少を繰り返し、自然増減は6年連続の自然減少(出生者数<死亡者数)であり、男女別にみると、男性は8年連続、女性は4年連続の自然減少となっている。
人口性比(女性100人に対する男性の数)では94.7%となっており,女性が男性より345万6千人多くなっている(1、人口動向参照)。
また、年齢別人口をみると我が国の人口ピラミッドは、第一次ベビーブーム期(1947年から1949年)生まれが65歳になり、前にも書いた老年人口(65歳以上)に含まれている。
我が国の人口ピラミッドは、近年、出生児童数が第2次ベビーブーム期(1971年から1974年)をピークとして減少傾向が続いていることを反映し、二つのベビーブーム期の人口が膨らんだひょうたん型に近い形となっている。
年齢3区分別にみると、年少人口(0~14歳)は、1654万7千人で前年に比べ15万8千人の減少、生産年齢人口(15~64歳)は、8017万5千人なのに対して、老年人口(65歳以上)が3079万3千人で、104万1千人の増加となり、初めて3000万人を超えた。なお、75歳以上は1519万3千人で48万5千人の増加となっている(2、年齢別人口を参照)。

このように、日本の人口は、1940年代後半のベビーブームが起きて以降、1950年代には希望子供数(※7)が減少し多産少子型→少産少死型(人口転換参照)へと変化しており、これは先進国共通の現象ではあるが、日本は、先進諸国に比較して急速に進展している。
今の人は「しょうしか」と言う言葉を聞いて「少子」という漢字を思い浮かべる人たちが多いと思うが、このようになったのは、最近のことであり、「少子」と言う言葉は、本来は「一番若い子。末子」と言う意味で「子供が少ないという言葉ではなかった。
しかし、『広辞苑』では第5版(1998年)から、「少子化」と言う言葉を掲載し、「出生率が低下し、子供の数が減少すること」と説明し、「1992(平成4)年度の『国民生活白書』で使われた語」と言葉の出所を明らかにしている。
「少子化」という言葉が頻繁に使われるようになったのは、この白書以降とみられるが、そもそも出生率の低下が社会的な関心を集め、政策課題として取り上げられるようになったのは、1989(平成元)年のいわゆる「1.57ショック」からである。
これが、『平成4年度国民生活白書』では、「出生率の低下やそれに伴う家庭や社会における子供数の低下傾向を「少子化」「子供や若者が少ない社会」を「少子化」と表現している。
人口学の世界では、一般的に合計特殊出生率が人口を維持するに必要な水準(人口置き換え水準)を相当期間下回っている状況を「少子化」と定義している。
女性が平均2人の子供を生むと(合計特殊出生率が2.0の状態)と人口規模は維持できる。より正確には生んだ子供が、今度は自分が産む番には亡くなるケースがあるので、人口置換水準は2,07(平成17年版厚生労働白書)となるそうだ。
日本では、1970年代半ば以降、この「少子化現象」が続いているが、これに関しては、まず、近年の女性の結婚行動の変化があげられる。
わが国では、北欧諸国とは異なり、婚外出生の割合が低く(1980年0.80%→ 2003年1.93%にアップしている(婚外子割合の国際比較参照)が、結婚してから子供を産む場合が多く、日本において、女性の結婚行動と出生率は直接関係しているともいえるだろう。
近年の女性の高学歴化と社会進出により、「男は仕事、女は家事」という従来の価値観が変わってきた。特に経済的に自立している女性は、結婚が絶対に必要なことではなくなった。
この様なことが女性の平均初婚年齢の上昇、いわゆる晩婚化・晩産化につながるが、それがさらに進み、そのことが、世代ごとの比較を見ても、出生率を押し下げる結果となっている。
また、そのような晩婚化の進展に併せて、男女ともに生涯未婚率(50歳時点で一度も結婚したことのない人の割合)が上昇しており、2010(平成22)年には、男性で20.1%、女性でも10.6%にもなっており、今後も、男性の出生数が女性より多いことなどもあり、特に男性の生涯未婚率が上昇し、2030(平成42)年には、およそ男性の10人のうち3人、女性の10人のうち2人が生涯未婚であると予測されているという。
このような、晩婚化や非婚化など好んで結婚しない人達ばかりではなく、未婚の女性にとって出産は、男性社員とは違って、キャリアが中断されるというデメリットがあるため、女性の就労のあり方が問題となる。
近年、社員ではない派遣労働やパートタイム労働者の採用増など企業の雇用形態が変化して来ており、これら派遣、パートタイマー等の場合は、特に正規社員以上に育児休暇を取得後の職場復帰の難しさがあり、安定した職業に就けない不安を生む。
また、多くの女性が就労しているサービス産業などの職種は、男性が主として就労している第1次、2次産業などに比して低所得であることが多いが、日本では、子供の教育に多くの費用がかかるため所得がないと子供が育てられない。そのため、結婚したくても将来の計画がみえないために結婚を諦めざるをえないケースも増えているようだ。

労働力が高い国は出生率も高いといわれる。これは働きながらでも十分に子供を産める環境や制度があることを示し、育児と勤労を両立できることによって、1人が第1子、第2子と産める経済的なゆとりができる。
核家族化の進んでいる日本にあって、保育所の不足は自身では解決できないし、小児科の医師不足においても同様に解決できない問題である。社会全体が子供を持つことで不安にならずに安心して暮らせる状態を作ることが大切である。
出生率を回復させるためには、公的給付や、子供を持つ世帯に配慮した税制、仕事と家庭を両立させるための出産・育児休暇制度の改善などにより、「子供を持つことで損をしない、子供を産んで良かった」と感じられる状態を作りだすことが少子化対策の最も大切なことであるとは考えるのだが・・・。
少子化の問題には、それを招く要因はいくつもある。、今取り組まなければいけない課題などは、『平成24年版厚生労働白書』(※5参照)の第1部第6章 日本社会の直面する変化や課題と今後の生活保障のあり方で明らかにされているし、参考※8:「内閣府>共生社会政策》少子化対策」の中にある公表資料『平成24年版 子ども・子育て白書』(旧少子化社会白書)の中で、少子化への具体的な対処施策が述べられている。
要は、これが、実現できるかどうかであるが、この様な、少子化の問題や解決すべき課題などはすでに『平成16年版 少子化社会白書』で、明らかにされていることであり、ただ、それが、問題解決には及ばず、むしろ、結果的には、男性に職がなく、女性の能力も十分にはいかされず、若い人は結婚も出産もかなわず、少子化と高齢化は止まらず、人口減少が進むばかり・・・といった状況が続いているのである。
天声人語で、「子をもちたい人を後押しするのは当然としても、その流れを変える特効薬は見当たらない。いまどき“産めよ、殖やせよ”はありえないし、対症療法はあっても追いつかない。問題の根はずっと深いのだろう」と言っているがまさに通りだろう。
今問題となっている、年金問題、医療費問題等も同じだ。
汚い話だが、子供を産んで幸せを感じるにも、つまるところは、「お金のゆとりがあるかないか」・・・にかかわってくることなのだろう。
今、日本はデフレ経済からの脱却、名目3%以上の経済成長の達成などを目標にしたアベノミクスへの期待が高く、円安効果で、株価は急上昇し、輸出関連企業にいい影響が出ているので、このまま狙い通りに経済が上向いてゆけば、ひいては、サラリーマンの雇用や給与アップも改善され、それが、少子化問題をはじめ日本の諸問題の改善にもつながってゆくのだろうが、「早くも息切れを示し始めた」・・・と警告を発するエコノミストも現れ始めた(※9参照)。
もし、失敗すれば、そのつけは・・・、などと考えるとゾッとする。
将来生まれて来る子供達に大きな付けを残さないようぜひ成功してもらいたいものなのだが・・・・。

(画像は、重要政策課題について発言する野田自民党総務会長。参考※2より借用)
※1:朝日新聞デジタル:天声人語
http://www.asahi.com/paper/column.html
※2:野田・自民党総務会長との懇談会開催 - 日本経済団体連合会
http://www.keidanren.or.jp/journal/times/2013/0411_03.html
※3:世界一を目指していきたい~成長戦略の策定に向けて(首相官邸)
http://www.kantei.go.jp/jp/headline/seicho_senryaku2013.html
※4:“ウーマノミクス(女性経済)”が日本を変える - NHK クローズアップ現代
http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_2983.html
※5:総務省統計局・統計データー
http://www.stat.go.jp/data/index.htm
※6:時事ドットコム:【図解・経済】完全失業率と有効求人倍率(最新)
http://www.jiji.com/jc/graphics?p=ve_eco_jobless-rate
※7:希望子供数とは - 人口統計学辞書 Weblio辞書
http://www.weblio.jp/content/%E5%B8%8C%E6%9C%9B%E5%AD%90%E4%BE%9B%E6%95%B0
※8:内閣府>共生社会政策》少子化対策
http://www8.cao.go.jp/shoushi/index.html
※9:早くも息切れを示し始めたアベノミクスマジック
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-1f0c.html

小林一茶が24歳年下の菊と結婚

2013-04-11 | 人物
平成25(2013)年の今年、芭蕉蕪村に続く江戸時代を代表する俳諧師の一人小林一茶の生誕250年を迎える。
一茶のことはこのブログで、2004年11月19日に小林一茶忌日として簡単に書いたことがあるのだが、今日は違った視点から改めて書くことにした。以前のブログはここを見てください。

「名月の御覧の通り屑家哉」(一茶)

冒頭掲載の画像は『古今俳人百句集』に描かれている小林一茶。画像は、NHKデータ情報部編『ヴィジュアル百科江戸事情』第四巻文化編より借用した。文化15年(1818年)刊『古今俳人百句集』(甲二・米砂・呂律編)。
『古今俳人百句集』には、金令舎道彦(*A)が。九十九房碓嶺(*B)がを書いている。熊谷の草原庵(碓嶺の庵)を訪問したとされる俳人91名、故人9名の句を肖像とともに収録したものだそうだ(*A、*B等古今俳人百句集』については、以下参考の※1:「旅のあれこれ:小林一茶ゆかりの地」の“一茶関連俳書『古今俳人百句集』”を参照)。
『古今俳人百句集』に掲載の一茶の句「名月の御覧の通り屑家哉」の「名月」は、季語で仲秋、天文であり、「屑家」は「屑屋」つまり、「屑」のようなぼろ家(や)という意味。この「御覧」は「月をご覧(見る)」と「ご覧(見る)通りの屑家」とが掛けられており、句意としては、「満月の見事な月を見てご覧。その月光の下の我が家は何とご覧の通りの屑のようなぼろ家であることか。」となるようである(※2参照)。
この句は『文化五年八月句日記』(※3)に初出、文化六年刊の幽嘯(ゆうしょう)編『繋橋(つなぎはし)』には『屑家哉』と改めて入集(※1のここ参照)、以後文化十年刊『古今俳人百句集』等に入集している、一茶の自信作の一つのようである。
小林一茶(本名:小林弥太郎)は、宝暦13年(1763年)信濃北部の北国街道柏原宿(現長野県上水内郡信濃町大字柏原)の中農の長男として生を受けるが、3歳の時に生母を失い、その後祖母の死そして8歳で継母を迎える。
しかし、継母に馴染めず、安永6年(1777年)、15歳の時、江戸へ奉公に出る。以後10年間の消息は定かではないようだが、20歳頃、千葉県松戸馬橋の大川立砂(※1のここ参照)のもとに奉公していたとも伝えられている。
天明 7年(1787年) 25歳のころ、一茶は始め葛飾派の領袖、素丸に拾われ、家の執筆役も勤め(※1のここ参照)、また、小林竹阿(二六庵竹阿。参考※1のここも参照)に師事して俳諧を学び、苦労の末この頃には、「圯橋」の名を使用して俳壇にデビューしていたようだ。
天明 8年(1788年 ) 26歳の時、葛飾派の森田元夢(今日庵。※1のここ参照)に師事し、このころ「菊明」の名を使用。寛政2年(1790年)3月に竹阿が死去すると、改めて、一茶は素丸に入門したようだ。
寛政3年(1791年) 29歳の時、江戸に出て来てからはじめて故郷の柏原に帰っており、このときの帰郷の様子を『寛政三年紀行』(※1のここ参照)に著している)。
Wikipediaによれば、『寛政三年紀行』の巻頭で「西にうろたへ、東にさすらい住の狂人有。旦には上総に喰ひ、夕にハ武蔵にやどりて、しら波のよるべをしらず、たつ泡のきえやすき物から、名を一茶房といふ。」と自身が記しており、この頃から「一茶」を名乗るようになったようだ。
“自分はさすらいの身で、茶の泡のように消えやすい者だから”との意味で「一茶」を名乗っているのだが、このころには江戸で若手俳人として少しは知られ始めていたが、生活そのものは、江戸周辺の葛飾、下総、上総の俳諧門人宅を回って飯と寝床を提供してもらい、帰りしなになにがしかの駄賃をもらう。それが多少たまると借家に帰るというような生活をしていたのであろう。
しかし、どうして、彼は、突然故郷へ帰ったのだろう。

少し当時の歴史的を調べてみると、一茶が故郷にかえった前年の寛政2年(1790年)には、江戸からの帰村を奨励する寛政の改革の一つ旧里帰農令が発令されている(※5:の796旧里帰農令1797旧里帰農令2参照)。これは、当時、江戸へ大量に流入していた地方出身の農民達に資金を与え帰農させ、江戸から農村への人口の移動を狙ったもの、つまり、天明の大飢饉 で荒廃した農村再建のために帰農を政策であった。
一茶の帰郷はこのことともかかわりがあるのかもしれない。一茶は、その翌年より、俳諧の修行のため近畿・四国・九州を歴遊し、寛政10年(1798年) 36歳のとき、 西国の旅を終えると、柏原に帰り、その後また、江戸へ戻っているが、江戸で一家を成すには至らなかったようだ。
享和元年(1801年)、39歳の時、帰省中に発病の父の看病をすることになったが、父は、一茶と弟で田畑・家屋敷を半分ずつ分けるようにと遺言を残して、1か月ほどで死去。
この後、遺産分配をめぐり継母・義弟との対立が始まるが、この時の様子が『父の終焉日記』(※1のここも参照)にまとめられている。
一茶は再び江戸に戻り俳諧の宗匠を務めつつ遺産相続権を主張し続け、その後、一茶が故郷に永住するまで、10年以上にわたって、継母・義弟との財産争いが続き、遺産相続交渉のため江戸と故郷との往復を余儀なくされた。
冒頭に掲載の「名月の御覧の通り屑家哉」の句は、『文化五年八月句日記』(西暦1808年)(※3)に初出と言うので、文化4年(1807年)45歳の時、 父の7回忌法要のため帰郷するも、遺産相続の決着はいまだつかず,遺産相続で争っている中で詠まれたものと言うことになる。
自然美の粋である名月に、人間世界でドロドロ繰り広げられた遺産相続で得ようとしている家をぶっつけた句。こんな茅葺きの屑家を得るためにどうしてこんなに長年争っているのだろうかとの自嘲の思いも入っているのではないか。
江戸で俳諧の一家を成すことができなかった、一茶には、故郷の田地田畑、山林があてにできる唯一のもの。そし て何よりこの地は、おれの本当のおふくろや祖母や、そして親父が眠る、おれの 故郷であり、おれの血の中にも土に生きる農民の血は流れている。 そう簡単には捨てられないよ・・・との思いが強かったのだろう。
しかし、一茶は長男とはいえ、故郷を出たまま 、30年近くも漂白の身の上の男が、いきなり帰ってきて、財産を半分よこせと言っているのであり、その間、義母と弟が、家を守ってきた。
働き者であったらしい義弟により、家産は倍に増えていたらしいから、一茶の半分よこせは、虫のいい話であったとも言えなくはない。
複雑な思いではあったろうが、健康の衰えも加わり、文化9年(1812年)、一茶50歳の時に江戸を引き払い定住するつもりで帰郷する。そして、借家住まいをして遺産交渉を重ね、翌文化10年(1813年)、亡父の13回忌を行い、この時、やっと、和解も成立し、父の遺産の半分を受け取ることになり、義母・義弟夫婦の住む家を二つに仕切って一方を自分の住処とした。
「これがまあ つひの栖か 雪五尺」
句意;五尺も降り積もった雪に埋もれたこのみすぼらしい家が、自分の生涯を終える最後の住まいとなるのか。何とわびしいことか。
以降、ふるさと柏原に定住することになったのが51歳の時であった。
故郷に腰をすえた一茶は、その翌・文化11年(1814年)52歳の時に、母方の縁者で24歳も年下のきく28歳と結婚している(※4参照)。
このきくとの間には、3男1女を儲けるが4人が何れも幼くして亡くなっている。特に最愛の長女さとを失ったショックは大きく、追悼録ともいうべき代表作『おらが春』に一茶は最後の精魂を傾けた(※6参照)。
その後の一茶には、菊の死(37歳で死亡)や度重なる病気、62歳で迎えた2番目の妻雪との半年での離婚、文政10年(1827年)柏原宿を襲った大火に遭い、母屋の消失など、不幸に次々襲われる。
そして、
「焼け土のほかりほかりや蚤(のみ)さわぐ」
句意:火事で焼けたあとの土が、ほかりほかり(オノマトペ=擬声語)とまだ熱い。そんな中で、どもが騒ぎまわっているよ。(【季語:蚤】一茶に蚤の句は多い。参考※7:「長野郷土史研究会」の一茶の資料>一茶発句全集の夏の部・蚤参照)。
この句を遺して、3度目の妻やお(一茶64歳の時結婚)と同棲1年有余の文政10年(1827年)11月、中風の再発により焼け残りの土蔵の中でやおに看とられて65歳の生涯を終えた。
やをは気立てのよい女で、2歳の子どもを一人連れて一茶の家の者になると、よく働き、一茶の面倒もよくみてくれた。また、2番目の妻雪と違って痛風病みのおじいさんである一茶と、一つ蒲団に寝ることも嫌がらなかったという。そんな、やをは、一茶の死後土蔵の中で遺腹のやた女を妊娠。やた女によって血脈を後世に伝え継がれているという。

残された句日記によれば、きくと結婚後連日連夜の交合(性交。交接。媾合とも書く。)に及んでおり、妻の妊娠中も交わったほか、脳卒中で58歳のときに半身不随になり、63歳のときに言語障害を起こしても、なお交合への意欲はやむことがなかったという。
ただ一茶の場合は永井荷風の日記『断腸亭日乗』のように、あちこちの色街を排徊した話ではなく、3人の妻に限られているのが特徴。連日連夜の交合の記録は3ヵ所あるが、文化13年の第1回は、子を得ようとするものだったが・・・。
文化13年(1816年)、一茶54歳の時、4月14日に菊が初めての子(男子)を生むが虚弱児であった。一茶は長沼(長野市)でその報せに接して、15日に善光寺などにお参りしてわが子の無事を祈願してもらうなどし、28日に妻の実家に妻子を見舞い、千太郎と名付けた。
5月11日には、危篤の報せを受けて未明に駆け付けたが間に合わず、生後わずかに28日で、父の看取りも受けず死んでしまった。ネブッチョ仏(寝釈迦)のように、白い帷子(かたびら、死に装束)に包まれて、小さな眼をとじて冷たくなっている。せめてもう一度、眼をあけてくれ、と揺すってみる。
「時鳥(ほととぎす)ネブッチョ仏ゆり起こせ」
その後、千太郎にかわる次の子が欲しいという願望が一茶の胸にふつふつとわき上がったのだろう。
しかし、菊は、出産と産後の疲労、さらには、わが子の死による悲嘆。家や田畑・山林を相続した一茶は、家事や農作業が忙しくても、ただ俳句をつくるだけで農事は一切しない。
田畑の耕作はすべて妻と小作に任せっきりにしていた。菊は一茶と口論したあげく、日頃の鬱憤を爆発させ、家をとび出した。
それから、数日後、菊が帰ってきてから仲直りをし、壁一つ隣り合わせた義弟の仙六一家を気にもせず、54歳の男と30歳の女は、まるで20歳の男女のように賑賑しく睦みあったようだ。ちなみに、この8月の日記に書かれている交合回数がどのようなものか見てみよう(詳しくは、参考※8:「生活習慣病を予防する食生活」の雑穀食・農耕民族の旺盛な性能力-小林一茶の交合記録を参照)。
八日  晴 菊女帰ル 夜五交合
十二日 晴 夜三交
十五日 晴 婦夫月見 三交 
十六日 晴 白飛ニ十六夜セント行クニ留守 三交
十七日 晴 墓詣 夜三交(母の命日)
十八日 晴 夜三交
 廿日 晴 三交
廿一日 晴 牟礼雨乞 通夜大雷 隣旦飯四交(父の命日)
この「交」とあるのが交合回数。
13日、14日に交わりはないが、この日は門弟回りをしていて一茶は家を空けていた。
15日、夫婦で月見をしてからの交合ではなく昼3交し、夜、夫婦で月見をしている。
21日などは、隣村の牟礼で雨乞の祈祷、夜どおし大雷、壁ひとつ隣の家の義弟仙六方で亡父の供養をし、朝食を馳走になったあと、白昼4交に及んでいる。
この日記で「夜三交」とただの「三交」を区別しているが、単に「三交」とあるのは、夜でもなく、未明でも早朝でもなく、昼のようだ。誰に遠慮することもない夫婦二人きりの暮らし、連日連夜、朝・昼・夜の区別ない交合である。
オオナルコユリやナルコユリ(※9参照)の根茎を乾燥した強壮薬で黄精(おうせい)と云うものがあり、一茶は、交合に備えてこのナルコユリを愛用していたらしく、文化14年(1817年)12月3日の日記には、「黄精酒に漬ける、11日黄精食い始める」・・・とも書いている。
とにかく、人生50年と言われた当時にあって、54歳と云えばもう充分な年とも言えるが、これは、若い妻をもった初老の男のあせりなのか、あるいは子種ほしさの切ない戦いだったのか。それとも、一茶の色好みによるものかは知らないが、朝・昼・夜の区別なしの大奮闘は、私などには常識を超えた世界であり、その絶倫というか逞しさには、脱帽の限りである。

しかし、最近は、16歳年下、22歳女優との熱愛が発覚した浅野忠信(※10参照)、56歳にして24歳の女子大生と再婚するラサール石井の32歳差、そして68歳で23歳の女性と結婚した加藤茶の45歳年下をはじめ、堺正章の22歳年下との再々婚と、芸能界の「年の差婚」が続き、世間を驚かせている。
このことについて夫婦・家族問題コンサルタントの池内ひろ美は、この年の差カップルには「セックス回数自慢」が深く関わっていると話しているそうだ。
なぜ彼らが性交回数まで明らかにするのか、・・・それには、理由があり、年齢を重ねていてもまだ子どもを作ることが可能であることを誇りたいオスとしての本能と、若い者に劣っていないという自負がそこにあるという(※11)。
そうだとしたら一茶も同じ気持ちだった…と言えるのかも知らないが、オスとしての本能…という考え方には疑問もある(※12)。ただ、まだまだ元気があるぞと自慢したいだけか、芸能人特有の照れ隠しだろう。自慢している割には、一茶などと比べるとその交合回数などはスケールが小さすぎる。
年配の芸能人などが随分と年下の女性と結婚するなど、「年の差婚」が増えているのは、逆に言えば、自分の父親と変わらない年齢の男性と結婚することに抵抗を感じない女性が増えているということでもあるらしい。
インターネット調査会社の株式会社マクロミルの2011年8月調査(※13参照)によると、結婚対象となる相手の年齢は、36.5%の女性が「10歳上までの男性」と回答し、最多となったが、「15歳年上まで」が12.5%、「20~30歳上まで」が6.0%、「何歳上でも可」が8.5%で、これらを合わせると「年上の男性と結婚してもいい」と考える女性は、63.5%にも及ぶという。
晩婚化・未婚化が叫ばれるなか、「年の差婚化」が新たなキーワードとして浮上してきた現在の日本では、女性は同世代ではなく、ひと回り年齢が離れているくらいの男性に魅力を感じる傾向が進んでいるようだ。
近年日本は晩婚化の進展に併せて、生涯未婚率(50歳時点で一度も結婚したことのない人の割合)も上昇しており、2010(平成22)年には、男性で20.1%、女性でも10.6%となっており、今後も、男性の出生数が女性より多いことなどもあり、特に男性の生涯未婚率が上昇し、2030(平成42)年には、およそ男性の10人のうち3人、女性の10人のうち2人が生涯未婚であると予測されているという(※14;「平成24年版厚生労働白書」の第1部社会保障を考える:第6章 日本社会の直面する変化や課題と今後の 生活保障を参照)。
このように、若い世代が結婚に消極的であるのならば、日本の将来のためにも、「もう年だから・・」などと悲しいことを言わずに、元気な人は積極的に若い女性と結婚、一茶に負けずに頑張ってほしいですね~。いや、これは年配の女性も同じですよ・・・。
ちょっと回り道が多かったが元へ戻る。

江戸時代の後期、芭蕉与謝蕪村花鳥風月の美しさを多く詠むなど風流を愛でるのに対して、一茶は農業の厳しさや貧しい生活などを写実的に表現する俳句を多く作り、次第に生活派俳人としての個性を鮮明にしてきたといわれている。
『おらが春』『七番日記』『父の終焉日記』を始め多くの書物を残しているが、これらが発行されたのはすべて没後のことでり、生涯に詠んだ句は20000句を超えるといわれる。
しかし、一茶ほど世間のイメージと実体が違う人はいないのではないか。かっては、にこにこ顔のやさしいおじさんで、「我ときて遊べや親のない雀」や、同じころの「雀の子そこのけそこのけお馬が通る」などの句に見られるように、継子育ちの淋しい生い立ち、それでいて童心を失わぬ人、というイメージであった。
それが、そのあと一転して、不遇な生活のうちに、つむじ曲がりなひねくれ者で、赤裸々な私生活もあけすけに書く野人となっていたことを知って、私なども驚いているところである。

もう5年ほど前だろうか、ケーブルテレビのチャンネルNECO亀井文夫監督映画「信濃風土記より 小林一茶」(1941年東宝文化映画部製作※15参照)を、見たことがある。
わずか30分足らずの小品で、貧しい信濃の風景に小林一茶の風刺に富んだ俳句を重ねて批判的に描いた文化映画であった。亀井の優れた演出で、キネマ旬報非劇映画(ここ参照参照)部門のベストテン第6位に選ばれた。

上掲の画像が同映画のワンカットである。画像は『朝日クロニクル週刊20世紀』1941年号より借用した。この映画は、当初は、フィルムが現存しない幻の第一部「伊那節」、未完の第三部「町と農村」と共に「信濃風土記」三部作の第2作として作られたものである。
文化映画は、戦時下の映画製作の一環としてニュース映画と並んで前年から6大都市を中心に強制上映された。「国民精神の涵養(※16も参照)または、国民知能の啓培」のためである。つまり、戦意昂揚が目的であった。
そんななか、戦前のファシズム体制に抵抗した映画人 として、広く知られている亀井は、このような戦意昂揚の目的を逸脱し、2年前の映画「戦ふ兵隊」(1939年)で敢えて疲れた兵隊を描き軍部から厭戦的だと批判され上映禁止となった。
この「信濃風土記より 小林一茶」は当初、長野県からの依頼を受けて信濃の「観光宣伝映画」として企画されていたものであるが、観光映画ではなく、一茶を農村出の詩人として扱い、彼の句を用いた効果的な編集によって、厳しい農民の生活史を描いた半ば農民映画として描かれている。
そのため、この映画は、文部省により文化映画の認定をはずされた。そして、亀井自身は本作の発表後、治安維持法違反被疑で検挙され1年近くの獄中生活を送った後、映画法により監督資格を剥奪されることになる。
映画の内容は、以下参考に記載の※17:「CineMagaziNet!」のno.15 フィオードロワ・アナスタシア『「旅する」叙情詩人』で詳しく解析されているので見てもらえばよいが、その中ら、一部引用させてもらう。
亀井自身は、本作品では「一茶を通して、郷土の人々の類型的な心を語ろうとした」と述べているようだが、亀井の発言には、映画的テクストとの内実と食い違う部分があり、作中における一茶は、現代を生きる信濃農民の典型「信濃の住民」なのではなく、むしろ彼らとは正反対の人生を送った人物として表象されている。
つまり、地元を遠く離れて人生の大半を旅しながら俳句を詠んで過ごし、50歳を過ぎたときに、初めて信濃に戻ってきた一茶は、農民コミュニティーの一員としてではなく、それに馴染めないでいる不可解な「他者」として描かれているのである。
作中における一茶の疎外感は、永住を決意して故郷の柏原へ帰てきたときに詠んだ先に挙げた句「これがまあ終(つい)のすみかか雪五尺」や、一茶本人の目線を通して強調される。
映画では、一茶の四代目の孫にあたる小林弥太郎は、農業を営む傍ら「ささやかな一茶記念館とも言うべき店」を経営している。カメラはまず、店の中でパイプを吸っている子孫の姿を捉えたあと、棚に飾ってある一茶の肖像画を映し、次に、絵のなかの一茶が手に持つ、パイプのような、黒くて細長い棒(実際、それはパイプではなく、巻物であるが)を映し出す。
亀井は、一茶とその子孫の外見的な類似をほのめかした後、それがあくまで表面的なものであることを明らかにする。
パイプを口にくわえた子孫の顔のクロースアップが表示され、「俺は一茶さんの子孫だが、俺は俳句は作らないが、米作る」という台詞が流れる。
この言葉を一茶の子孫に言わせることで、亀井は、一茶とその他の農民の間に存在する深い溝を浮き彫りにする。
一茶の血を受け継いだ子孫の関心が向けられているのは、詩作ではなく稲作である。
作中において、一茶は自らの俳句を通して農民に語りかけるが、農民は聞く耳と、見る目を持たない。善光寺で必死に祈る女性たちや、一茶の子孫のクロースアップに見られるように、農民たちの眼は、涙で曇っているか、さらに言えばカメラに向けられてさえいない。
また、農民たちは作中において、自らの意思を表明することが一度も無く、農民の心を詠うのは、常に「継子一茶」である。
一茶の子孫は、「俳句は作らない」と発言しているが、その際、彼はパイプをくわえており、その口元は動いていない。・・・農民(大衆)と「他者」とは永遠に交わらない。

「もたいなや 昼寝して聞く 田植唄」
「春がすみ 鍬とらぬ身の もったいな」
一茶自身も農民に生まれながら、農業に従事しないということに引け目を感じていたようだ。田植え唄が風に乗って聞こえて来ると一茶の心は落ち着かない。百姓の自分が農作業もせずに昼寝とは・・ばちが当たる!おちおち昼寝もしていられない。農民の出でありながら鍬を持って農作業もせずに、春がすみの俳句などを詠んでいる。
そんな自分のことを「もったいないことをしている」と感じているわけである。そんな思いからか、一茶の句には農家の暮らしを題材にした俳句が多くある。自ら鍬(くわ)を持たない一茶は、農業を応援する気持ちを俳句で表現するしかなかったのだろう。

一茶最晩年の句に次の一句がある。
「花の影寝まじ未来が恐しき」(『希杖本一茶句集』【希杖本】)
文政10年(1827年)閏六月一日、柏原の大火で15年前義弟仙六と和解して得た家を失い、門弟の家を転々とした後、一茶は土蔵暮らしを強いられる。
その年の11月9日その土蔵で病没。58歳のとき、中風を発し、62歳の時再発しているから、3度発作が起きたのかもしれない。したがって芭蕉や蕪村のように、辞世句はない。
掲句には「耕(たがやさ)ずして喰(くら)ひ織(おら)ずして着る体(てい)たらく、今まで罰のあたらぬもふしぎ也」と前書がある。弟の仙六をはじめ故郷の農民に対して、一茶は生涯、劣等感をもっていたようだ。
一句の「花の影」は西行の辞世句とも言われる「願はくは花の下にて春死なむ」を踏まえていると言われている。

これよりも前、文化2年(1805年)、一茶43歳の時 既に、「耕さぬ罪もいくばく年の暮」(『文化句帖』文化2年12月)と読み、文化4年(1807年)、一茶は45歳の時には、「鍬の罰思ひつく夜や雁の鳴」の句を詠み、この掲句には、「作らずして喰ひ、織らずして着る身程の、行先おそろしく」との前書きがされている。一茶は農民でありながら、鍬も持たず俳句を読んでいる生活に相当早くから思い悩んでいたようだ。

さてこのブログは、これで終えようと思ったのだが、4月9日の朝日新聞朝刊に、「ぷかり浮かぶ愛煙家一茶」のタイトルで、今年6月(旧暦5月5日)で誕生日を迎える小林一茶が、たばこ好きだったことがうかがえる手紙が発見された。・・・との記事があった。以下参照。
一茶、名句の陰に紫煙あり 愛煙家ぶり手紙に
その中に、弟子の村松春甫が描いたとされる小林一茶の肖像画(一茶が60歳の頃らしい)が掲載されていた。

●それが上掲の向かって左の画像であり、長沼の門人、村松春甫が描いた「長沼連衆画象寄合書」の一茶像の膝元にはたばこ盆があり、「句会にはたばこが欠かせなかったこともうかがえる」と書かれていた。ちなみに右は、1日に門人の竜卜宅に泊まり、3日に長沼に行ったところで煙草入れのない鬼気づいた一茶が杉丸の所で忘れたと考え、竜卜に出した手紙と考えられているものの読み下し分である。
この村松春甫(※1のここも参照)が描いた小林一茶の肖像画のことは、このブログで、前に、亀井文夫監督映画「信濃風土記より 小林一茶」の説明の中で、同映画では、「一茶の四代目の孫にあたる小林弥太郎は、農業を営む傍ら「ささやかな一茶記念館とも言うべき店」を経営している。カメラはまず、店の中でパイプを吸っている子孫の姿を捉えたあと、棚に飾ってある一茶の肖像画を映し、次に、絵のなかの一茶が手に持つ、パイプのような、黒くて細長い棒(実際、それはパイプではなく、巻物であるが)を映し出す。」・・・と書いた。
この映画でいっているところの画像は、以下参考に記載の※18:「一茶に学ぶ会(一茶研究会)」の一茶と俳句の研究のページに掲載されている画像と同じのようだ(ここ参照)。
朝日新聞に掲載されている画像には、春甫の落款らしいものがあるが、※18の一茶と俳句の研究のページに掲載の画象には写しと書かれている。肖像画としては落款のある方が本物のように思えるのだが、1941年製作の映画には、映しと書かれた方の画像らしきものが使われているのだが、何故なのだろう?これには、何か意味があるのだろうか?
新聞に書かれている通り、一茶は煙草が好きらしく、たばこの句を多く詠んでいる。参考※7:「長野郷土史研究会」の「一 茶 発 句 全 集」では季題ごとに区が整理され掲載されており、そこにたばこの句も掲載されている。ただし、たばこは季題ではないのでちょっと探し辛いが・・・。
参考:
※1:旅のあれこれ:小林一茶ゆかりの地
http://members.jcom.home.ne.jp/michiko328/1sa00.html
※2:(一茶俳額・俳句鑑賞 五〇「 名月の御覧の通り屑家哉」 ...(Adobe PDF)
http://www012.upp.so-net.ne.jp/yahantei/issa50-61.PDF
※3:一茶の歩んだ道: 文化句帖五年六月名月ご覧の如き屑屋哉
http://takasi-azuma.de-blog.jp/blog/2007/11/post_a3f2.html
※4:一茶ゆかりの里 一茶館・一茶の歴史
http://www.kobayashi-issa.jp/issa-history
※5:日本史史料集>近世(新史料編)>田沼時代~寛政の改革
http://chushingura.biz/p_nihonsi/siryo/ndx_box/37ndx.htm
※6:一茶の「おらが春」のさわり
http://amanojaku.a.la9.jp/issa.htm>
※7:長野郷土史研究会
http://www.janis.or.jp/users/kyodoshi/
※8:生活習慣病を予防する食生活
http://www.eps1.comlink.ne.jp/~mayus/index.html
※9:イー薬草・ドット・コム・オオナルコユリ
http://www.e-yakusou.com/sou02/soumm254.htm
※10:浅野忠信&仲里依紗、熱愛16歳差! (1/2ページ) - 芸能 - SANSPO.COM
http://www.sanspo.com/geino/news/120203/gna1202030507001-n1.htm
※11:年の差婚の男たちが、性交回数を公言するワケ - AERA - 朝日新聞デジタル
http://dot.asahi.com/life/lifestyle/2012092600761.html
※12:「男の浮気はオスの本能」は正しいか?(前編) - Yahoo!知恵袋
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n45632
※13:‘年の差婚’に関する調査(2011年8月2日マクロミル)
http://chosa.itmedia.co.jp/categories/investment/9361
※14;平成24年版厚生労働白書 -社会保障を考える-厚生労働省(Adobe PDF)
http://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/kousei/12/
..※15:亀井文夫 - 日本映画データベース
http://www.jmdb.ne.jp/person/p0071700.htm
※16:【週報56】 「時局と国民精神作興」 文部省
http://binder.gozaru.jp/056-jikyoku.htm
※17:CineMagaziNet!
http://www.cmn.hs.h.kyoto-u.ac.jp/CMN16/index-2012.html
※18:一茶に学ぶ会(一茶研究会)
http://issafan.web.fc2.com/index.html
平成22年国勢調査 - 総務省統計局
http://www.stat.go.jp/data/kokusei/2010/
日本俳句研究会:俳人列伝;小林一茶
http://jphaiku.jp/haizinn/issa.html
Wikipedia - 小林一茶
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9E%97%E4%B8%80%E8%8C%B6



柔道一直線

2013-04-04 | ひとりごと
勝つと思うな 思えば負けよ 
負けてもともと この胸の

昭和の歌謡界を代表する歌手美空ひばりが、熱唱した「」(作詞:関沢新一、作曲:古賀政男) の出だし部分である。
この曲は日本テレビ、読売テレビ系列で1964(昭和39)年に放送されたドラマ「柔」の主題歌となり、その名の通り「柔道」をテーマとした曲である。

柔 美空ひばり - YouTube

初めて柔道が正式競技に採用された同年10月開催の東京オリンピックともあいまって、翌1965(昭和40)年にかけて爆発的に売れた。発売から半年足らずで180万枚を超える大ヒットとなったという。
美空ひばりはこの曲で翌・1965(昭和40)年の第7回日本レコード大賞を受賞し、この曲は、美空ひばりのシングル最高売り上げ記録ともなっているそうだ。
冒頭の画像は「柔」で1965年レコード大賞をとった美空ひばりが、12月25日の同賞発表音楽会で「柔」を熱唱。場所:東京・一橋の共立講堂。画像は、『アサヒクロニクル週刊20世紀』1965年号より。
「柔」とは、柔道また、日本古来からある柔術、を言い、現在でも柔術は複数の流派の伝承が存続しているようだが、現代、広く言われているところの柔道は、1882(明治15)年に嘉納治五郎により、創始された武道である「講道館柔道」(正式名称:日本伝講道館柔道)を言っている。
今日ではスポーツ競技・格闘技にも分類されるが、講道館柔道においては「精力善用」「自他共栄」を基本理念とし、競技における単なる勝利至上主義ではなく、身体・精神の鍛錬と教育を目的としている(※2:「嘉納治五郎とは」の遺訓参照)。

「柔」の出だしの歌詞「勝つと思うな 思えば負けよ・・・」。
勝負を争う柔道競技ではあっても、勝つことに執着すると、それは負けにつながると言うことだろう。
また、「柔」の3番の歌詞に次のような一節がある。
「口で言うより手のほうが早い 馬鹿を相手のときじゃない」
「口で言うより手のほうが早い」は、この主人公が短気であることを表しており、そういう主人公だが、今は「馬鹿を相手にしているような場合ではない」。
つまり、喧嘩をふっかけられても相手にせずその力は「柔」に注ぎなさいということである・・・。

嘉納治五郎が創始した講道館柔道の指針として「自他共栄」と共に掲げられている言葉「精力善用」は、柔道は、相手の動きや体重移動を利用し、自分の持つ力を有効に働かせるという原理によって、より大きな力を生むことができる。そして、柔道に打ち込み、修行を積むことによって、自己の能力は磨かれていく。それは日々の生活にも同様のことが言え、その力を使って相手をねじ伏せたり、威圧したりすることに使わず、世の中の役に立つことのために能力を使いなさいということを表しているという(※1の柔道用語辞典を参照)。
このような教えから言うと、この歌の「馬鹿」は道理をわきまえず腕力任せに無理を通そうとするわが身に巣くう愚かさであるのかもしれない。
そう思って聞くと、今年(2013年)1月、女子柔道の国際試合強化選手15名が、全日本女子ナショナルチーム監督である園田隆二を始めとした指導陣による暴力行為やパワーハラスメントを訴えていた問題(女子柔道強化選手による暴力告発問題 - Wikipedia参照)が思い起こされる。
「口で言うより手のほうが早い」と、監督らは聞くに堪えない言葉で選手を罵ったりするだけでなく、殴ったり、蹴ったりしていたというが、このような、女子の指導をめぐる暴力沙汰は柔道家にとって恥ずべき醜態であるが、これは、女子柔道で表面化しただけで、男子柔道ではこのような暴力がないというわけではないだろう。

柔道物といえば私が子供の頃、柔道漫画は少年雑誌において根強い人気があった。その代表作品といえば、『冒険王』に連載されていた福井 英一の柔道漫画『イガグリくん』(※3:テレビドラマデータベースのここも参照)である。ちょっと小太りで坊主頭の中学生で熱血漢イガグリくんの必殺技は“ともえ投げ”。この漫画の大人気を見て、各漫画誌は次々と追随、柔道漫画のブームが巻き起こした。
テレビで最初にヒットした柔道ドラマというのは、1962(昭和37)年12月からTBS系でスタートした『柔道一代』(週刊読売に連載、原作:近藤竜太郎)だろう。
1964(昭和39)年10月9日まで、毎週金曜日に放映(製作会社は国際放映)、されたが、途中1963(昭和38 )年映画化もされた。
原作こそ同じであるものの、テレビドラマが嘉納治五郎の生涯と講道館四天王の活躍を描いていたのに対して(※3のここ参照)、映画は四天王の一人西郷四郎をモデルにした主人公・本郷四郎が強者へ成っていく過程に、青春・友情・恋愛を盛り込んだ物語を描いている。柔道を正式競技に採用する東京オリンピックを翌年に控えていたこともあり、時流を先取りしたものになった。

いかに正義の道とはいえど
身にふる火の粉は払わにゃならぬ

村田英雄が男らしく唄う主題歌「柔道一代」。は、私の愛唱歌の一つともなった。

これに対抗してか、かつて京都に存在していた映画製作会社である日本電波映画(※4参照)はフジテレビ系で1963(昭和38)年11月に「姿三四郎」をスタートさせた(富田常雄の同名小説のドラマ化。※3のここ参照)。

人に勝つより 自分に勝てと
云われた言葉が 胸にしむ
つらい修行と 弱音を吐くな
月が笑うぞ 三四郎

このテレビの主題歌「姿三四郎」も村田英雄が唄っている。

姿三四郎 村田英雄 - YouTube

柔道創成前後の明治時代を背景に、柔術家志望の青年・姿三四郎(講道館四天王の一人、西郷四郎がモデルとされる。)が、矢野正五郎(講道館柔道の創設者、嘉納治五郎がモデル)との出会いによって柔道の世界へと導かれ、様々な試練を経て人間的に成長し、一人前の柔道家になっていく姿を描いている。

上掲の画像は私の絵葉書のコレクションから、黒沢監督映画「姿三四郎」と「続姿三四郎」のポスター絵葉書である。沖縄郵政管理事務所・東京郵政局発行。俳優藤田 進が姿三四郎を主演。
富田の小説『姿三四郎』は、1943(昭和18)年に黒澤明の初監督作品として同名で映画化されるほか、今日までに多数の映画、テレビドラマ、漫画作品の原作となっている。
このドラマは、1964(昭和39)年5月で終了するが、先行の「柔道一代」は同年10月まで続いていた。
その終了から3週間後の10月27日から、日本電波制作の「柔」がスタートした。講道館の創設者嘉納治五郎をモデルにした矢野正五郎を主役に、正しい柔術の道を模索する若き柔術家を描いた作品である。この「柔」終了後、柔一筋(※3のここ参照。1965年4月27日~10月5日)、続・柔(※3のここ参照。1965年10月12日~1966年4月12日)と、柔シリーズが制作されている。
いずれもその主題歌は、美空ひばりの「柔」である。この間1965年08月15日からフジテレビ系で「柔道水滸伝」(※3のここ参照。終了は、1966年04月24日)もスタートしており、これだけあると私なども、どれがどんな内容だったがよくわからなくなってしまっている。

そんな中で、柔道物といえば、まず思い浮かぶのが、その後の梶原一騎原作、永島慎二斎藤ゆずる作画による漫画『柔道一直線』ではないか。同名でTVドラマ化もされ、TBS系列で1969(昭和44)年6月22日から1971(昭和46)年の今日・4月4日まで、毎週日曜日午後7時から30分間放送された(※3のここ参照)。

1945(昭和20)年夏に太平洋戦争が“日本の降伏”で終結し、荒廃した日本の復興に国民は力を注いだ。その復興中の日本に1953(昭和28 )年、全く新しいメディアであるテレビが登場した。
街頭テレビが中心のテレビ放送初期に於いて、プロレスプロボクシングプロ野球などのスポーツ中継は、荒廃から立ち上がる日本と重ね合わせて国民の間で熱狂的に受け入れられ、この時期に困難に立ち向かい努力を積み重ねることの美徳が「根性」や「努力」といったキーワードとなって形成された。
TVドラマ「柔道一直線」の原作となった漫画は『週刊少年キング』(少年画報社)誌上に1967(昭和42)年から1971(昭和46)年まで連載されたもので、この時代背景は1968(昭和43)年のメキシコ五輪の前後に相当し、1972(昭和47)年のミュンヘン五輪を目指す日本勢を描いていたもので、大ブームとなった「スポ根ドラマ」の端緒となった人気ドラマである。
同じ梶原一騎が『巨人の星』、『侍ジャイアンツ』と『柔道讃歌』では親子を描いたのに対し、本作では『あしたのジョー』と同様、師弟の絆を描いている。

戦後日本の復興の総決算を象徴する国家的イベントとなった1964(昭和39)年の東京オリンピックの成功を受けて、日本国民の多くがスポーツイベントに関心を寄せるようになり、とりわけ戦後のベビーブームにより増加した若年層(いわゆる団塊の世代)に「スポ根」は漫画文化と共に一気に浸透した。
その後も「欧米に追いつき追い越せ」という国家的スローガンがあったこともあり、団塊の世代以降にも「スポ根」は受け入れられ高度経済成長期の60年代後半から70年代にかけて一大ブームとなった。

ただ、日本を代表する武道の一つでもある柔道は、1932(昭和7)年のロサンゼルスオリンピックで公開競技として登場し、東京オリンピックで初めて採用され、男子のみが正式種目として採用され、重量階級別で実施された。
日本は軽量・中量・重量級の3階級を制覇したものの、無差別級神永昭夫がオランダの巨人・ヘーシング袈裟固一本で敗れた瞬間、会場の日本武道館は信じられないものを見たような静けさに包まれた。
武道=体重無差別という風潮が残っていた当時、最も重要視されていた無差別級で外国人が日本代表を下して優勝を果たした事は、自他共に柔道を「お家芸」と認める日本にとって計り知れない衝撃をもたらした。
『柔道一直線』の主人公・一条直也(主演:桜木健一)の父親もこの東京オリンピックで敗れ、命を落とした。高校生の直也は、亡き父の遺志を継ぎ、再び技の柔道の復権を目指そうと決意する。
そんな直也の前に、彼の人生を変えることになる元講道館の柔道家・車周作(俳優:高松英郎)が現れる。直也は車の「柔よく剛を制す」という柔道の精神に魅せられ、車の弟子となり、二人の長く熱い柔道人生が始まった。
直也は車周作の指導のもと伝説の必殺技「地獄車」などの技を習得、これを駆使して外国人柔道家や日本のライバルたちと戦う・・・。
このドラマは私も観ていた。しかし、細かいことは覚えていないが、「地獄車」など荒唐無稽な色んな技があり、特殊撮影も多用していて、投げられた選手が空中を滑空するシーンなど、見せ場の必殺技を特撮映像で本気で描いていた。
「柔道一直線」と「柔道讃歌(※3のここ参照)は、東京オリンピックでヘーシンクに敗戦した屈辱から日本柔道を立て直すのがテーマになっている。
斉藤仁(1984年ロサンゼルス五輪、1988年ソウル五輪柔道金メダリスト)ら当時少年だった柔道家の多くには、この作品のブームで柔道を始めた者も多くいたという。
ただ、Wikipediaによれば、「地獄車」など荒唐無稽な技が多く出てくるので増田俊也は『七帝柔道記』の中で「この作品が世間に歪んだ柔道観を持たせてしまった」と指摘しているようだが、柔道の知名度をアップするなど、当時の柔道界に果たした貢献度は計り知れないものがあっただろう。
へーシングが無差別級の柔道で勝った時、オランダ関係者が歓喜のあまり畳の上に土足で上がり駆け寄ろうとしたが、ヘーシンクはこれを手で制止して試合場まで上らせなかった。敗者への気遣いであった。へーシングのこの時の行動は「に始まり礼に終わる」という柔道の精神を体現したものとして、現在でも高く評価されている。
そして、ヘーシンクがオリンピックの無差別級の柔道で金メダルを獲得したことは、柔道の国際的普及を促す出来事となった。
ただ、、ヘーシンクの金メダルによって、日本柔道はお家芸でなくなった。そして、技の柔道から力の柔道へと時代は移ろうとしていた。
その後、柔道の国際化が進む中、外国選手を中心とした技術の変化も見られるようになった。これは、海外の柔道競技者の多くは柔道と同時に各国の格闘技や民族武術に取り組み、その技術(フリースタイルや、グレコローマンスタイルのレスリングまた、サンボブラジリアン柔術など)を柔道に取り込んだり、試行錯誤の上新たな技術を考案するなど、日々技術を変化(進化)させてきたという。
このような技術の変化に対して、海外の柔道(世界的に見た柔道)は、武道としての「柔道」ではなく、競技としての「JUDO」になってきた・・・と、柔道の変質を危惧する日本人は少なくないようだ。
東京五輪以降、これまで参加したオリンピックの通算では、日本が獲得する総メダルの4個にひとつが柔道競技によるもので、金メダルにおいては約4割(38%)を柔道競技で獲得していた。
しかし、昨2012年のロンドン五輪では、日本が「お家芸」の柔道において、男子が金メダルを一つも取れなかった(女子は57キロ級で松本薫選手が唯一の金メダルを獲得)。
東京五輪以降柔道が正式競技に加わって以来、男子柔道が金メダル無でオリンピックを終えるのは初めてのことである。
その結果、日本が参加するオリンピック競技において、柔道がもたらすメダルの獲得割合(獲得率)は、ロンドン五輪では金メダルは過去最低の14%、総メダル(金・銀・銅)でも18%となってしまった(※3:「柔道チャンネル」のオリンピックと日本柔道(成績) 参照)。
2008年北京五輪でも女子柔道が金2、銀1、銅2、計5個を獲得しているのに男子柔道は、内柴 正人(66kg級)石井 慧(100kg超級)の2個だけと、男子柔道が惨憺たる結果となったのは、世界柔道の基準に、日本柔道が付いていけなかったことに原因があるといわれている。
日本柔道は、講道館式の柔道に固執し、一本勝ちを堅持する組み手の柔道を基本としているが、世界柔道の基準は、ポイント制に遥か前から移行している。
このことを全く意識せず、本来の講道館柔道に必要以上に固執していることが、日本柔道の惨敗を物語っているというのである。
たとえ、柔道が、日本発祥の武道であり、その精神や本質を高らかに謳っても、世界の柔道には、世界の基準があり、その中で勝負しなければならないのであれば、その基準を受け入れ、その基準に合わせた戦法で戦い勝利することを考える必要があるだろう。
無差別級で、優勝を果たした石井選手は、決勝戦では、「一本」にこだわらず、積極的に前に出ながら技も先にかけて消極的姿勢による指導が2つ相手に与えられるとそのまま逃げ切って勝った。
このような、「一本」をとることよりも「勝ち」にこだわる姿勢をとったこと、また、その言動等で、色々揶揄されているようだが、それは、世界の柔道の基準に合わせて試合をし勝ったのだから批判をされるべきことではないだろう(※5参照)。
身体的能力に劣る日本人が、身体能力の高い、そして、各国の格闘技や民族武術を柔道に取り組み、その技術強化している外国人に、日本式の柔道での勝ちにこだわろうとして、「スポ根」よろしく、無理をした強化練習をしようとするところから、今回の柔道の女子選手の指導をめぐる暴力沙汰事件などへと繋がっていったのではないだろうか。
今では、前時代な価値観と見なされることが多くなった「スポ根」よりも、スポーツにおける「強さ」を単に精神論や根性論に基づく猛特訓だけに求めず、人間工学スポーツ医学などにも配慮する傾向も見られる。
根性論ではしばしば特訓と称して非科学的・非論理的な訓練方法も(コーチの思い付きや誤解にも絡んで)編み出され、これによって傷跡や後遺障害が残るようなケースも現実社会では発生している。
悪がきだった私なども子供のころから親や学校の先生などに色々と体罰を受けてきており、私も息子には教育面からの体罰を加えたことはある。私たちの時代には、程度の差はあるだろうが、ある程度の体罰は普通に行われていた。
今指導に当たっている人たち自身も、しごきや体罰を経験しながら強くなってきた人が多いだろうから、その人たちにしても悪気があってやっている人はいないだろう。スポ根ドラマよろしく、それが良いと思ってやってきたと思うのだが、少々やりすぎる人がいるようだ。
最近のデジタルな人間には「中庸」というものが分からなくなってきているようだ。
1970年代に刊行された月刊誌に『面白半分(おもしろはんぶん)』というのがあった。面白いといっても面白過ぎるとよくない。
面白さも半分ぐらいが丁度良いということなのだが、1980年ごろ廃刊となった。このころから、お笑いでも、下品なお笑いが多くなり、なんでも度が過ぎるようになってきた。つまり、左か右かどちらかしかわからない人間が増えてきたのだ。
私たちが子供のころは子供同士でよく喧嘩した。時には、学校の先生や親の立ち合いの中で喧嘩もした。そんな中でたたき合いの喧嘩をして、負けた方はその痛さを知り、勝った方は、勝った方でこれ以上すると相手が傷つくことを覚え、手加減の大事さを知る。
このようにして、適当なやり方を覚えてゆく。ところが、この頃は、ちょっとした危険なことも喧嘩もしなくなったというよりもさせてもらえなくなっている。そのような経験をしてきていない今の人たちは、何かあるととことんやるきらいがる。何もかも、やりだすと度が過ぎるのである。そんなことから、体罰やしごきが暴力化してゆくのではないかと思ったりするのだが・・・・。
もし、大阪の桜宮高校の体罰事件の報道がなければ、今回の柔道女子選手への暴力事件もヘタすれば隠蔽されていたかもしれない。
どちらも、勝利至上主義による行き過ぎた指導や金メダルを取らねばの プレッシャーなどから起こったものと推測するが・・・。
これからの指導のあり方について十分対策を講じて欲しいものだ。しかし、根が深い問題であり、しばらくは混乱するだろうな~。

参考:
※1:柔道チャンネル>柔道武道館>柔道用語辞典
http://www.judo-ch.jp/dictionary/terms/
※2:嘉納治五郎 とは Jigoro.Kano
http://ansin-t.jp/Kano.Jigoro.htm  
※3:テレビドラマデータベース-ドラマ詳細データ -柔道一代
http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-6543
※4:日本電波映画撮影所 - 立命館大学
http://www.arc.ritsumei.ac.jp/archive01/makino/aruke/aruke9.html
※5:北京五輪石井金メダル
http://www.yohseikai.com/sub12.htm
柔 - 美空ひばり - 歌詞 : 歌ネット
http://www.uta-net.com/song/13083/
柔道女子監督の暴力問題 - Yahoo!ニュース
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/sports/judo_abuse/
柔道一代 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%94%E9%81%93%E4%B8%80%E4%BB%A3

ピノキオの鼻とうそ

2013-04-01 | ひとりごと
4月1の今日は、「エイプリルフール」(April Fool's Day)。
この日は一般に“軽いいたずらや、まことしやかな嘘で他人をかついだり、無駄足を踏ませても良い日として知られており、だまされた人のことを「四月馬鹿(バカ)」と呼んでいる。今年もネット上で大いに盛り上がることだろう。
今日のことは、私もすでにこのブログで2度取り上げている。以下参照。
エープリルフール」、「四月馬鹿

嘘(うそ)」とは、事実に反すること、事柄の表明であり、過失無知ではなく、故意になされたものを言う。
嘘の語源は諸説あり正確なことはわからないようだが、漢字の「嘘」(字源「嘘」)は、(くち)+音符「虚」形成文字であり、中国では、意義は.「ふく」(口を開いて笑う)。「はく」(息を吐くこと)であり、「うそ」「うそをつく」の意味はないそうだ。「嘘」の意味としては、奈良時代には「偽り」(いつわり 〔いつはり〕。事実でないこと)、平安時代になって「空言(そらごと、虚言とも書く、《古くは「むなこと」》ほんとうでない言葉。」が使われ、平安末期から室町時代になって「うそ」がつかわれ始めたという。

「あらピノッキオ、どうしてここにいるの? 学校へは、行かなかったの?」
「どうしてって・・・」
 ピノッキオは、本当の事を言ったら、人間の子どもにしてもらえなくなると思い、うそをつくことにしました。
「実は、学校へ行く途中、いきなり見世物小屋の親方につかまったんです」
 そのとたん、ピノッキオの木の鼻が、ズンとのびていきました。
「あれあれ、どうして? 鼻がのびていくよ」
 あわてるピノッキオに、星の女神は言いました。
「ピノッキオ。いま、うそをつきましたね。あなたの鼻はうそをつくと、ドンドンのびていくのですよ」
「うそじゃないよ。本当だよ!」
 ピノッキオがそういうと、ズンズンと、またまた鼻がのびてしまいました。
 星の女神は、きびしい顔で言いました。
「いいですか。うそというものは、一つつくと、新しいうそを重ねてつかなくてはならなくなります。ピノッキオ、あなたは本物の人間の子どもに、なりたくないのですか?」
「なりたいよ! 本物の人間の子どもになりたいよ! 女神さま、うそをいってごめんなさい!」
 ピノッキオが泣きながらさけぶと、星の女神は魔法の杖をクルリとふって、のびた鼻を元通りにしてくれました。

カルロ・コッローディ作の童話『ピノッキオの冒険』を原作とするディズニーの米国にて、1940年公開の『ピノキオ』(原題:Pinocchio)の星の女神とピノッキオの会話であるが、同映画の凡その内容は覚えているがで、以下参考に記載の「※1:ピノッキオ(ピノキオ) コッローディの童話<福娘童話集 きょうの世界昔話>」より、抜粋させてもらった。冒頭の画像は、私のコレクション旧三菱銀行のディズニーキャラクター貯金箱の一つ「ピノキオ」である。

ピノキオの原作は、社会風刺小説であり、ディズニーのピノキオより遥かに残酷な物語のようである。そのため、Wikipediaによれば、ディズニーは、前作の『白雪姫』に続く長編アニメーション映画第2作『ピノキオ』を作るに当たり、原作のピノキオが悪戯っ子で、子供っぽい性格がみられ、白雪姫のような華がなかったため、夢のある物語にするのは容易ではなく、ストーリー作りに数ヶ月も悩み、その間にピノキオは無邪気な性格に変更し、さらに原作ではピノキオにハンマーをぶつけられすぐに死んでしまうコオロギをピノキオの良心、そしてその冒険物語を饒舌に語る重要なストーリーテラーとしての役割をも持つ重要なキャラクター、ジミニー・クリケットとして登場させる事になった。制作が再開された後も熟考を重ね、2年の歳月を経てついにテンポのよい夢と希望にあふれた冒険物語が完成したというが、何故、ディズニーがそれほどに、この映画を作るのに苦労したのだろうか。
以下参考に記載の※2:「ピノッキオの冒険」における考察によれば、ピノッキオの著者コッローディは、スコローピ修道会の学校を卒業し、イタリア独立戦争に2度も参加した愛国者であり、その代表作『ピノッキオの冒険』には随所にキリスト教的な世界観をみることが出来、いたずらや失敗を通じて学んでいくピノッキオの姿は、生きることの意味を、語りかけている。
ディズニー映画『ピノキオ』では、嘘をつくピノキオの鼻はどんどん伸びてしまうように、嘘は否定的に描かれているが、原作の『ピノッキオの冒険』では、妖精がピノッキオに、
「うそにも2種類あり、一つは足の短いうそと、もう一つは長い鼻をもっているうそがある」と話すシーンがあるそうだ。
このあと、ピノッキオの鼻がのびないときがあるが、このときは、うそも方便で、相手をかばうものであった。つまり、「うそ」とは相手を傷つけるうそ(悪いうそ)と相手を傷つけないうそ(良いうそ)があるということをいいたかったようだ。
悪いうそのときは鼻がのびて、良いうそのときは鼻がのびないということ。この鼻がのびるという恐怖感を与えて、道徳を解く(※3の第二篇:第8章 道徳的律法の解明も参照)というのはキリスト教の常道であると思う。
このようなキリスト教的な世界観が、ディズニーの思想と対立していたのではないか。
実際に原作に語られたピノッキオには、残酷さや苦しい場面が描かれていることが多いが、ディズニーの映画「ピノキオ」には醜いところや残酷なところ、苦しいところは描かれていない。そのためために宗教的な意味が消されてしまった。むしろ、そんな宗教敵的な意味を、消すことがディズニーの映画の目的だったような感じがするといっている。
確かに、ディズニーは子供向きのアニメであり、宗教性を薄め、暗い内容のものを明るく描くのに苦労したのだろうけれども、やはり、その根底には道徳的な面での子供への教育性は残されているように思うのだが・・・。

コミュニケーションにおいてうそはある程度潤滑油的な機能をしているとの研究もあり、全くうそをついてはいけない状況になるとコミュニケーションは滞る。
日常生活での言い訳や責任転嫁など、我々はうそを無意識的に言っているが、通常これらは許されるべき正常の範囲内のものではあるのだろう。
末期ガン等の病気の告知では、医師から患者へはうその病名が告知されることがある。それ以外でも、親族などは本人に真実を伝えることが辛過ぎるためうそをつく場合があり、このようなうそは、先に述べた『ピノッキオの冒険』のピノッキオの鼻がのびない、「うそは方便」と同じようなものと言える。これらのうそは一般に黙認されているが、インフォームド・コンセントの面からは問題視する声もある。
また、将来的な予想を外したことに対して「うそを言った」とは言えないが、そこに、他者を欺こうとの意図があったとしたら問題である。
それに、事実に反することが聞き手にあらかじめ了解されている場合、それはうそではなくフィクションや冗談といったものに分類される。結局、うそをつく動機や技術、事実との関係などによって、うそは正負、両方の効果を及ぼしうるものである。
ただ、中には、虚言癖(きょげんへき)や、作話症などによるものもある。また、年少者、とくに幼児におけるうそはこれとかなり事情を異にしており、その多くは誤認、追想錯誤(※4)、空想と現実との混同、ないしは言語遊戯としての作話であって、成人のうそとは質的に相違する。

東日本大震災では、大震災に乗じて善意の募金や寄付金をだまし取ろうとする悪質な詐欺サイトが見つかったと聞いている(※5)。
また、短文投稿サイト「ツイッター」などインターネットを介した情報が、被災者の安否確認や救援に大きな力を果たしてきた一方で、種々のデマやニセ情報を信じて、それを、話題にすることにより、無意識のうちに、そんなデマや偽情報のさらなる拡散に加担することになっていることもよくあること。
そのようなことを風評被害ともいうのだろうが、こんな風評の加担者とならないためにも、また、自分がそんな被害に合わないためにも、情報の真偽については確認する習慣を身につけていることが重要だろう。
私なども、こんなブログを書いていて、一番気にしていることであり、そのため、出来るだけ、時間をかけて、情報の正確性には心がけているのだが、誤りがない・・・とは言い切れない。その点は、承知の上で、みなさんもこのブログを読んでください。
また、同じうそでも、先に述べた、善意の募金や寄付金をだまし取ろうとしたり、悪徳マルチ商法や悪徳キャッチセールスなどの詐欺で使われるうそは社会通念から許容されず、法律によって罰せられる。
うその中には規模の大きな集団が組織的に行うものもあり、内容次第では社会に大きな影響を与えるものがある。例えば、その際に行われるネット上での擬似流行に関しては、大手の会社などがブロガーなどを雇い、流行っている風に見せかけるといったことを行うこともある。
人を騙すうそにもいろいろあるが、最も卑劣なのが、判断力の低下した高齢者を相手の振り込め詐欺ではないか。
振り込め詐欺とは、電話やはがきなどの文書などで相手をだまし、金銭の振り込みを要求する犯罪行為である。
従来、オレオレ詐欺、なりすまし詐欺、架空請求詐欺融資保証金詐欺などと呼ばれていたが、手口の多様化で名称と実態が合わなくなったため、2004(平成16)年12月9日に、警察庁によって統一名称として「振り込め詐欺」と呼ぶことが決定されたものだそうだ。
当初から長年、振り込み詐欺と言われたが、「振り込み」では納得して自ら振り込みをする意味合いとなるため、あくまで「振り込め」と人から言われている、騙されていないかなど、どの時点でも注意や再考を喚起するようにと「振り込め詐欺」へ統一を図った経緯があるようだ。
しかし、昨年大阪などでは、市区町村の職員らを装った電話で「医療費の還付金がある」などと言って、ATM(現金自動受払機)の前へ行くよう支持され、その前で、電話をすると、操作を指示し、「6桁の個人番号を入力」など相手の指示通りにATMを操作すると、気が付かないうちに指定口座に現金を振り込むよう誘導されているといった新種の詐欺が多発していた。これらの被害者の8割以上が60歳以上で、大半が女性だったという(※6)が、うそを言って騙すにしても、このような年寄をターゲットにした悪質な詐欺が減らないね~。
警視庁 犯罪抑止対策本部の特殊詐欺(振り込め詐欺等)公式ホームページ(※7)を見ると、
昨・2012(平成24)年中は、振り込め詐欺のうち、特に、上記で述べたような還付金等詐欺が462件(前年比+445件、+2617.6%)と急増しているそうだ。また、オレオレ詐欺は、被害件数は若干減少したものの、被害額は前年を上回り、約47億510万円(前年比約+12億4,040万円、+35.8%)に上ったという。
本年の2月中、振り込め詐欺をはじめとする特殊詐欺対策を強化した結果、還付金等詐欺の被害は17件と前月と比べ、大幅に減少したものの、オレオレ詐欺の被害は193件と依然として多く、2月末時点では、オレオレ詐欺、還付金等詐欺ともに昨年より多くの被害が発生しているという。
今では、「振り込め詐欺」という名称も一般的になったが、最近の手口としては、金銭授受の方法が振込だけではなく、指定場所へ持参させる・宅配便や郵便で送付させる・バイク便業者や代理人が被害者の自宅近くに受け取りに現れるなど多様化しており、警視庁では、こうした詐欺行為も「振り込め詐欺」と同種のものとして注意を喚起している(振り込め詐欺の推移は参考の※8参照)。
この頃の「振り込め詐欺」にはこのような、銀行口座を経由しない、手渡しによる犯行も多く、実態を的確に表現できておらず、また“被害者を不安にし、パニックに陥らせることで犯人のコントロール下に置く”ことが、そのカギとなっていることから、「パニックに陥れることを直感的に理解できる新たな名称案」を公募しているようだ。
応募は郵送またはTwitterで可能。締め切りは、平成25年4月10日(水)の消印(送信)分までだがいい案があれば応募してみては・・・。応募の仕方は以下参照。
「振り込め詐欺」の新名称募集について :警視庁

ディズニーアニメ『ピノキオ』の主題歌としてオープニングクレジットとラストで、クリフ・エドワーズが歌い、その年のアカデミー賞の歌曲賞を獲得した。

上掲の画像は、ジミニー・クリケット。画像はWikipedia掲載分借用。歌詞は『ピノキオ』テーマソング「星に願いを」。

星に願いを懸けるとき
君が誰でも関係ないさ
心を込めて望むなら
きっと願いは叶うでしょう

何を示唆しているかというと、子供に恵まれなかったゼペット爺さんが、「どうか、私が作ったこの人形が本物の子供になりますように」と流れ星に願いを託し、それが叶って女神さまがピノキオに魂を与えるこの物語のあらすじを伝えている。
ゼペット爺さんは素敵なおもちゃをたくさん作って、人々に幸せを与えたので願いを叶えてもらえたのだ。
また、命を与えられたが、まだ身体は木のままであるピノキオには「正しいことと間違っていることの区別がついてこそ、本当の人間になれる。」と女神さまに課題を残される。そして、人間の世界に溢れる様々な誘惑にまどわされながらも、最後には勇敢で正直な行動をしたピノキオは無事、本物の人間になることができたのだが・・・。
さて、今の時代の本当の人間はどうなのだろう?本当の人間になりきれてない人が、多いのではないだろうか?

私たち年配の者は、昔から、「うそつきは泥棒のはじまり」。うそは悪いことだと子供の頃から教えられてきた。
ピノキオはうそをつけば鼻が伸びる。うそをつかなければ鼻は元のままだ。そのピノキオが「ボクの鼻が伸びているよ」と言ったとしたら、それは本当なのかうそなのか?
面白い記事が、日経BPネットの調査に見られる。
20〜30代のビジネスパーソン200人を対象に、仕事上で「うそ」をついた経験の有無を尋ねた結果、上司や同僚に対して「ある」と答えた人が47%、取引先に対して「ある」と答えた人は30%だったという。
編集部は当初、「ある」という回答がもっと多いのではないかと予測をしていたし、他の問3では「うそも方便、うまく使えば仕事にプラスになる」「、相手の気分を害さないために必要なこともある」という回答が6割を占めており、問4でも「ハッタリは相手次第で有効なこともある」といった回答が上位を占めていたという。
この様に、うその有効性を認めつつも、自分はそれほどうそはついていない。・・・との回答は、整合性が取れない気がしませんか!・・・と首をひねっているのだが・・・(※9参照)。
恐らく、ここの回答者にとって、問3、4にあるようなことに関しての「うそ」は、悪いこととは思っておらず、これらの場合に「うそ」をついても、本人たちは「うそ」を言ったとは自覚していないということであり、言い換えれば、「うそ」をつきながら「私はうそをつきません」といっているということだろう。
そんな人たちが、「エイプリルフール」の今日は、どんな巧妙な「うそ」で騙してやろうか手ぐすね引いているかもしれない(×_×;)

最後に、うそをついても許される日だからと言って、どんな嘘をつこうが、たちの悪いものでなければ、それをするのも人好き好きだが、せっかくだから、ジミニー・クリケット(クリフ・エドワーズ)が歌う『星に願いを』を聞いてみるのも良いのでは・・。
こんな素敵な曲を聴いていると、本当に願いが叶いそうな気にもなるよ。ここでは、他に「困ったときには口笛を」(Give a little Whistle)の曲なども聞ける。
「星に願いを」クリフ・エドワーズ:When You Wish Upon A Star ? Cliff Edwards

参考:
※1:ピノッキオ(ピノキオ) コッローディの童話 <福娘童話集 きょうの世界昔話>
http://hukumusume.com/douwa/pc/world/08/01.htm
※2:「ピノッキオの冒険」における考察
http://takasi.at.webry.info/theme/d03875ffa7.html
※3:Wikisource:宗教:キリスト教綱要- Wikisource
http://ja.wikisource.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E7%B6%B1%E8%A6%81
※4:追想錯誤とは - 介護110番
http://www.kaigo110.co.jp/word/%E8%BF%BD%E6%83%B3%E9%8C%AF%E8%AA%A4
※5:便乗犯罪を防ぐテクニック|原一探偵事務所
http://www.haraichi.co.jp/tantei110/tantei110_technique14.php
※6:「医療費の還付金があります」甘言に注意 急増、府内で昨年50件超 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20130105ddlk27040180000c.html
※7:特殊詐欺(振り込め詐欺等)公式ホームページ:警視庁 犯罪抑止対策本部の
http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/han_furikome/1_top.htm
※8:時事ドットコム:【図解・社会】振り込め詐欺の推移
http://www.jiji.com/jc/graphics?p=ve_soc_tyosa-jikenfurikome
※9:上手な「ウソ」のつき方・見抜き方
http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/associe/lie/060110_1st/
嘘を見破るには、巧妙な嘘つきの10の特徴を知ろう : ライフハッカー
http://www.lifehacker.jp/2010/06/100601howtobealiar.html
ず's - デマの検証サイト一覧
http://wiliki.zukeran.org/index.cgi?%A5%C7%A5%DE%A4%CE%B8%A1%BE%DA%A5%B5%A5%A4%A5%C8%B0%EC%CD%F7
ピノッキオの冒険 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%8E%E3%83%83%E3%82%AD%E3%82%AA%E3%81%AE%E5%86%92%E9%99%BA