今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

オバマ大統領カンカン

2009-01-31 | 記念日
今日・2009年1月31日朝日新聞朝刊経済面に「オバマ大統領カンカン」と題した記事が掲載されていた。
同紙の伝えるところによると、オバマ大統領は29日、ホワイトハウスで、ガイトナー財務長官らと金融危機対策などを協議する際、経営難で政府の支援を受けている金融機関の経営者等が高額報酬を得ていることについて「無責任の極み。恥ずべきこと」「規律と責任感を示して貰う必要がある」と厳しく批判し、報酬削減を求めたという。
詳細は、以下参考のasahi.com「金融トップ1.8兆円ボーナス オバマ大統領怒りあらわ」を見られると良い。
これは、怒って当然のことだろう。2008年、サブプライムローン問題に端を発するアメリカ発の世界的な金融不安に対処するため、米国では、最大7000億ドル(約75兆円)の公的資金で金融機関から不良資産を買い取る金融安定化法案(以下参考に記載の「緊急経済安定化法 - Wikipedia」参照)が、政府と議会が合意していたにもかかわらず、民間の金融機関を公的資金で助成することには疑問視する議員も多く、9月29日1度は、下院で否決されたものの、そのことによって、世界の金融市場が、大混乱したことに加え金融危機が米国民の生活に深刻な影響を及ぼし始めていることから法案を修正し、10月1日上院で可決された。しかし、同法が救済対象金融機関幹部の高額報酬の制限に有効かどうかは当時から疑問が出ていたことであった。
今回、ニューヨーク州当局の発表によると、「ウオール(金融)街の銀行家達は2000億ドル(約1兆8千億烟)相当のボーナスを得ていたと言うのだから・・・、オバマ大統領の言う通り、無責任の極み。恥ずべきこと」であろう。
昨年末(11月)、経営危機に陥り、公的資金による救済を米議会の公聴会で訴えたビッグスリー(アメリカ三大自動車メーカーの ゼネラルモーターズ、 フォードモーター、クライスラー
のトップ3者が、プライベート・ジェット機で首都ワシントンに乗り付けていたことが議会でやり玉にあがっていたことを思い出すが、その後、彼等は、経営ミスを認めたうえで政府の救済を受けるために、GMとクライスラーの合併策など次々と経費節約を発表、ビジネスジェットの売却ほか、役員報酬についても1ドルにするなんてことを発表をしていた。
しかし、日本の企業の経営者などとは異なりそれまでの報酬額は、とてつもなく大きかったのだから、今までに、しっかりとした蓄えをしてあるだろうから、たとえこれから、暫く、役員報酬が1ドルになったからと言って、特別に困るわけでもないだろう。それにしても、この危機的状況のときに、アメリカの経営者の危機感不足は驚くばかりだ。アメリカの資本家は、世の中がどうなろうが、国民がどうなろうが、自分達さえがよければそれで良いのだろう。これから、オバマ大統領に頑張ってもらって、もっと、弱者を大切にした世の中に変えていってもらわないとね~。
麻生首相それに、今の自民党など与党の議員達の危機感の欠如もそう変らないのではないか・・・。今の経済危機に対しては有効な対策をスピーディーに打ち出してゆかねばならないが、何ら有効な対策を立てられず、又、そのスピードの遅さはどうしたことか・・・。
ねじれ国会が問題と言うのなら、1日も早く、総選挙を行い、国民の信判を得た上で、今の経済危機を乗り越えるための有効・的確な政策をスピーディーに遂行していって欲しいよね~。
(画像は、今朝の朝日新聞より。激しい口調で、金融機関経営者に対する不満を記者等にぶちまけているオバマ大統領。)
参考:
asahi.com・「金融トップ1.8兆円ボーナス オバマ大統領怒りあらわ」
http://www.asahi.com/business/update/0130/TKY200901300230.html
緊急経済安定化法 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%8A%E6%80%A5%E7%B5%8C%E6%B8%88%E5%AE%89%E5%AE%9A%E5%8C%96%E6%B3%95
ビッグスリー - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%83%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%BC

逸話の日

2009-01-28 | 記念日
日本記念日協会の今日(1月28日)の記念日を見ると協会認定記念日というのはなかったが、その他の記念日として「逸話の日 」があった。
同協会の説明によると「逸話の日 」は、 ”まだ世の中にはあまり知られていない興味深い話(逸話)を語り合う日。人物や物事のエピソードから本質を探ることの大切さを知るのが目的の日。日付は1と28で「いつわ」の語呂合わせから。 !・・とあった。
「逸話」の「」の字源は兎が「はしる・のがれる(のがる)・するりとぬけさるさま」などから来た語で、記録からもれている、世間には伝え洩れている話と言うことになり、広辞苑にも「ある人についての、世人に余り知られていない、興味ある話。」とあるように、人のこと以外にもいろいろな逸話はあるが、やはり、人物についての話であるという要素が強いようだ。
ある人物の「世間に余り知られていない、興味のある話」は、マスコミが最も興味を持ってとりあげている題材ではないだろうか。
今のマスコミは、記者室に屯する記者クラブの人達が得た情報にそれぞれの意見を少し付け加える程度でのものが報道されているといってよく、従って、どこの社のものを見ていてもその内容に大差はない。テレビなどでも、積極的に、取材活動をしていると思えるのは、芸能記者とか言われる人達ぐらいではないか。人気のあるタレントやアスリートを隠れようにしてまで追廻し、どこの誰が、誰と一緒に歩いていたとか何とか・・・、私などにはどうでも良い個人のプライバシーに関わるものを熱心に報道している。
最近、個人の問題で、面白い話題と言えば、安部、福田、麻生と続く日本の国を代表する政治家、最大の党派である与党・自民党総裁にして、内閣総理大臣の政権たらい回しと、それに纏わる各人についての報道であった。
中でも福田総理は、その発言で色々楽しませてくれたが、福田氏の政権投げ出しの後、首相に選ばれ、その後、国民の審判も仰がず政権の座にしがみ付いている麻生太郎氏の発言は、福田氏以上に、国民を楽しませてくれている?。・・・本当は怒っているのだが・・・日本を代表する政治家の発言としては余りにもバカらしくて、笑っているより仕方がない。
いつか、テレビで麻生氏は、"我々庶民のことを「下々のもの」と言っていた"という話しを聞いたことがある。今回の1人12千円ほどの定額給付金(総額では2兆円にもなるらしいが)配布について、高額所得者が受け取るのは「さもしいと」とも言っていたが、いろいろ迷走の果て、麻生氏も受け取るそうである。
今世界中が100年に1度とも言われる経済危機に見舞われ、それは日本も同様であり、失業者が続出するなど大変な事態になっているのだが、そのような状況下、定額給付金を貰うよりも、我々の大切な血税は、もっと、有効に使ってほしいと思っている賢明な国民が70%以上も居るのに、与党は、強引に支給することを議会で決めてしまった。何故、そこまで支給にこだわるのか・・・これもテレビなどマスコミの伝えるところによると、麻生氏はどうも、下々の者は、口先では定額給付金などいらないいらないなどとえらそうなことを言っていても、いざ、実際にお金を貰えば、我々に感謝し、その後に解散総選挙をすれば、必ず、自分達の党に票を入れてもらえると本気で考えているそうだ。
世論調査の結果でも「貰えるものなら貰う」と答えた人が80%と居るというが、それは、当たり前だろう。何も貰うわけではなく、自分が払った税金を一部返してもらうだけなのだから・・・。何か、我々下々の者には少しお金を恵んでやればでどうにでもなるお馬鹿さん・・・ぐらいに、思っているのだろうが、そうかどうかの結果は、選挙後に明らかになるだろうね。
ところで、この麻生太郎氏は、福岡県飯塚市麻生太賀吉・和子(吉田茂元首相の三女)の長男として生まれた。妻は故鈴木善幸元首相の三女である。そして、社会人となってからは、元麻生セメント(その前は麻生炭鉱。現・株式会社麻生)社長に就任し実業経験も経て、政界に入り、今日に至っている。
経歴を見れば、本当に立派な家系に育ったお坊ちゃんであるが、「生まれはいいが、育ちは悪い」と麻生氏本人は語っているそうだ。
本人がそういわなくても、唇の薄い口を歪めて、時に人を睨み付けている顔など見ていると、私には、どちらかと言うと、少々貧相な顔をした、余り上品な人には見えないよ。
普通「お爺さん」と言う場合には父方と母方の祖父がある。
彼の母方の祖父つまり「外祖父」は、強いリーダーシップで戦後の混乱期にあった日本を盛り立てた故吉田茂氏であり、葉巻をこよなく愛したことから「和製チャーチル」とも呼ばれた超大物であった。麻生氏は、その孫であることを、誇りにし自らの行動も意識しているのであろうか・・・、彼も又、おじさんと同様に葉巻をくゆらせているようだ。
父方の祖父は「内祖父」と言い、通常、日本の場合、普通に「お爺さん」というと、こちらの方を言うことが多い。彼の父・麻生太賀吉は、九州の炭鉱王といわれた麻生太吉氏の三男・太郎氏である。んん・・・・?。何と、今の首相・麻生太郎氏は「内祖父」と同じ名前だったのだね~。
筑豊炭田は、日本最大の産炭地として、明治から大正にかけては国内の石炭生産量の50%を担っていたといわれる。現・福岡県飯塚市は、筑豊を構成する自治体であり、筑豊三都(飯塚市、直方市、田川市の)の一つであり、かつ、筑豊で最大の人口を擁し、筑豊の政治・経済の中心機能を持つ都市である。石炭の採掘がはじめられた江戸末期には、黒田氏の治める福岡藩も小笠原氏の豊前藩(小倉藩)も、「仕組法」という一種の統制経済を敷いて石炭の採掘、販売を規制していたが、1869(明治2)年に鉱山開放令が布告され、それまで藩制下にあった石炭の採掘が、地場資本や中央資本家に解放された。
麻生首相の内祖父(太郎氏)のことは良くわからないが、その親つまり、麻生首相の曾祖父(そうそふ)は、1857(安政4)年に、筑前国嘉麻郡立岩村字栢ノ森(現・福岡県飯塚市)に村の庄屋の子として生まれ、鉱山開放令が公布されると、1872(明治 5)年、目尾(しゃかのお)御用山を共同で採掘し、初めて石炭鉱山事業に着手。その後、次々と炭鉱を開坑し、1889(明治22)年、鯰田炭坑を三菱に、1894(明治27)年、忠隈炭坑を住友家に、1907(明治40)年には、藤棚本洞両炭坑を三井鉱山に譲渡している程である。又、1906(明治39)年7月には、南満州鉄道株式会社設立委員となって居るなど、石炭王と言われるようになり、1911(明治44)年筑豊石炭鉱業組合総長にも就任。渋沢栄一など政府有力者とも大きなコネを持つようになる。そして、1927(昭和 2)年には、朝鮮総督府より安眠島の払い下げを受け(以下参考に記載の【※1】参照)、5月、安眠島林業所を開設していたという。 麻生家の鉱山事業は、太吉の息子の太郎が太吉より早く先立ったようで、事業は孫の太賀吉に継承され、太賀吉は、自分の息子に父と同じ名をつけたようである。そして、太賀吉がより事業を発展させ、太賀吉は、ロンドン滞在中、白洲次郎の紹介で、当時駐英大使であった吉田茂の三女・和子と知り合い、帰国後結婚したという。そして、首相となった岳父を補佐するため1949(昭和24)年第24回衆議院議員総選挙に郷里の福岡県から立候補し、当選。3期当選し、吉田の側近として吉田の政治資金を捻出したほか、政界と財界の連絡役を務め。あの、田中角栄も麻生に接近し、田中、麻生、根本龍太郎の三人組で池田勇人大蔵大臣(後、第58代から第60代まで内閣総理大臣)を誕生させる原動力となったという。その麻生家が息子太郎(現首相)にと継承されてきた。外祖父の吉田茂の活躍も、麻生家の財力があってのものだっよーだね~。だから、2世議員の阿部~福田~麻生への今の政権譲渡も、前々から、予約されていたのかも・・といった感じさえするね。
時代は進み、石炭から石油の時代に代ると、次々と鉱山は閉鎖された。私は現役時代仕事の関係で飯塚など炭鉱のあった街にもよく行ったが、かって日本の近代化を支えた石炭産業の象徴であるボタ山などを見るに付けその当時のことをよく想像もした。
明治年間、殖産興業の名の下、鉱山開発が盛んに行われたが、当時の鉱山の安全対策は劣悪な場合が多く、特にガス爆発や粉塵爆発が発生しやすい炭鉱においては、しばしば大規模な事故が発生した(日本の主な炭鉱事故参照)。
又、戦前の筑豊などの炭鉱経営には納屋制度などがあり労働環境は劣悪で、朝鮮人炭鉱労働者等による労働争議もよく起きていたと聞くが、麻生炭鉱でも同様ではなかったのだろうか。
そして、炭鉱閉山後はどこの自治体でも財政基盤が失われ、多数の失業者が発生し、人口の流出が急激に進んだ。また、生活保護受給者が急激に増え、福岡県は日本でも屈指の受給率であるという。
私が、訪れたかっては大いに栄えた飯塚市の大きな商店街も、目を覆いたくなるほど寂れていた。そして、その商店街にあった大手のスーパーの店長に聞いたところによると、この辺の町には仕事もなくただ、生活保護を受けてぶらぶらしているだけの人が大勢おり、それらの中には、精神状態にも異常をきたし、故意に電気のコンセントに指を突っ込んで負傷するといった奇妙な行動をする人も多く、そのような事故防止対策も大変なんです・・といっていたのを思い出す。
そんなこんなを考えながら、ネットで検索していると以下参考のところに記載の(※2、※3のマークのついている)ものがあった。・・・かっての麻生炭鉱と炭鉱労働者にかかわる記事である。そこに書かれている内容の真偽についての判断は、私には出来ないが、当時の炭鉱の状況などを考えると、このようなことがあっても特別に不思議でもない気はする。
こんな話、今日の「逸話の日 」に因んだ「逸話」・・つまり、広辞苑にある「ある人についての、世人に余り知られていない、興味ある話。」としては、余り、適切な話題ではなかったかな・・・。
(画像は、飯塚駅から望む飯塚市忠隈のボタ山。フリー百科事典Wikipediaより)
参考:
逸話 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B8%E8%A9%B1
逸 - ウィクショナリー日本語版
http://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%80%B8
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
今日は何の日~毎日が記念日~(1月28日)
http://www.nnh.to/01/28.html
記者クラブ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%98%E8%80%85%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%96
内閣総理大臣 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E9%96%A3%E7%B7%8F%E7%90%86%E5%A4%A7%E8%87%A3
会社沿革/株式会社麻生
http://www.aso-group.co.jp/aso/profile/history.html
筑豊炭田 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%91%E8%B1%8A%E7%82%AD%E7%94%B0
麻生の足跡-地域とともに-〈麻生グループ〉
http://www.aso-group.jp/history/achievement.html
日本の鉱山・福岡県の炭鉱探訪マップ
http://hasiru.net/~maekawa/mine/fukuoka.html
麻生首相「さもしい」発言を事実上撤回 定額給付金(Yahooニュース)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090113-00000586-san-pol
新聞記事文庫:筑豊石炭の由来 (一~五)
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=00105949&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA
【※1】North Korea Today - 南牛 北朝鮮問題家を斬る:108
http://www.pyongyangology.com/index.php?option=com_content&task=view&id=496&Itemid=1
【※2】マスコミが書かない麻生財閥の深い闇-JanJanニュース
http://www.news.janjan.jp/media/0810/0810229959/1.php
【※3】朝鮮人強制連行と麻生炭鉱 -上-〉 労働争議に警察、暴力団を動員
http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2006/01/0601j0405-00002.htm



朝青龍優勝

2009-01-26 | ひとりごと
昨日(2009年1月25日)、東京・国技館で大相撲初場所の千秋楽が行なわれた。
ここ3場所連続休場から復帰したモンゴル出身の西横綱朝青龍は、場所前の横綱審議委員会(横審)による稽古総見では16番取って6勝10敗と著しく精彩を欠き、進退問題も取り沙汰される状況で臨んだが、初日から14連勝と次第に調子を上げ、千秋楽を迎えた。
その朝青龍を1差で追って来た同じモンゴル出身の東横綱・白鵬との本割りでは寄り倒しで簡単に破れ、14勝1敗で並ばれた。しかし、その15分後の優勝決定戦では、その前の取り組みからは考えられないような力強い相撲で一気に寄り切って破り、5場所ぶり、通算23回目の優勝(貴乃花光司を抜いての歴代単独4位となる)を果たし、土俵上で、両手を上げて横綱らしからぬガッツポーズを見せた。
そして、優勝インタビューでは、涙を浮かべながら「朝青龍は帰ってきました」と語り、館内をおおいに沸かせた。
場所前、一部の横審委員から場所後の「引退勧告もありうる」との意見もでていた朝青龍の今場所に掛ける意気込みは並々ならぬものがあったのであろうが、全試合が終わってみると、あの場所前の稽古総見は何だったのだろうか・・・?、ひょっとして、“私は、稽古も十分出来ていないので調子が悪いんです”・・と皆の目を欺くための演出だったのだろうか?・・とさえ思われた。又、あれだけ、調子も良く、絶対に優勝するだろうと言われてもいた同じモンゴル出身の横綱白鵬が、本割りでは簡単に勝ちながら、優勝決定戦では、簡単に左差しを許して一気に寄り切られている。劇的と言えば、これぐらい劇的なショーはなかなかないだろうね~。
朝青龍の勝負への集中力と執念、気力が、白鵬を上回ったということなのだろうが、3場所連続休場していた朝青龍に、このような型で優勝をさせてしまった関脇や大関陣のふがいなさはどうだろう。
兎に角、今場所は、朝青龍人気で、国技館は大いに沸いた。日本相撲協会は、これからも、朝青龍の人気に頼って興業してゆくしかないということか。
今場所の朝青龍の優勝には、初日稀勢里戦での逆転勝ちが大きかったと、相撲評論家の杉山邦博氏も言っていたが、同時に、初日稀勢里戦での左右の突きでの顔面への「だめ押し」や千秋楽優勝決定戦後の土俵上での両手を上げてのガッツポーズなどは、横綱らしくない行為であり反省すべきと批判もしていた。
朝青龍の今場所中の試合には他にも、気迫の現われかどうかは知らないが、相手を睨み付けたり、腕を振り回したりとまるで、日本の国技ともいわれている相撲を見ているというよりは、なにかプロレスまがいの「喧嘩相撲」を見ているような感じがした。朝青龍の強さそのものは十分に認めるものの、やはり、よく言われているところの横綱としての品格には問題が感じられた。
一日本人として、相撲を見るとき、相撲には相撲の美学があるはずだと私はおもうのだが・・・。。
横綱審議委員会で脚本家の内舘牧子さんも“相撲の最大の魅力は伝統の様式美であり、感情をむき出しにする力士は好きじゃない”と言っているが、私も同感である。かっては、私も大の相撲ファンで、野球その他どんなスポーツよりも相撲が大好きであったが、若・貴時代の終わりごろからは、もう、相撲を見なくなった。と言うよりも、見たくはなくなったというのが本音である。
かっての日本には、「相撲に勝って勝負に負ける」の慣用句があるように、相撲のみならずどんな勝負ごとの世界でも、勝ち方・負け方の美学があり、単に勝ったとか負けたといった結果だけを良し悪しするものではなかった。だから、特に伝統のある相撲など、戦後人気を得たプロレスなどの格闘技などとは違って、勝ったからと言って、ガッツポーズをしたり、負けたからと言って大げさに残念そうな素振りを見せない威風堂々とした態度や取り組み内容そのものが評価されたものだ。
これは、日本の武道でもある柔道や剣道などのにも通じるものだろう。
だが、今・初場所は相撲ファンといわれる大勢の人達が観戦に詰め掛け、国技館は満員御礼。それらのファンが勝負強い朝青龍に感動をしている。
私には、かっての相撲ファンと今の相撲ファンとでは相撲の見方も感じ方も随分違ってきたように思うのだが、それも、時の移り変わりと言えばそれまでだが、日本の伝統や文化はどうなってしまうのだろうかなどとつい考えてしまう。
漫画家で日本相撲協会外部委員もしておられるやくみつる氏も、今の相撲ファンの相撲についての見方・考え方は「随分とハードルが低くなった感じ・・・」・・と受け止めているようだ。
では、21世紀の今の時代に褌だけを身につけた裸で、しかも髷を結った伝統的な姿態で行なわれている現在の大相撲は、日本の伝統芸能なのか?。それとも、近代スポーツなのか・・・?。
現在行われている相撲が本来のどうあるべきかなど私には分からないが、以下参考に記載の”「日本社会における相撲の変容」―文化史としての日本相撲史―”など読んでいると、日本の相撲の歴史なども振り返り、「これからの相撲はどうあるべきか」・・について、よくよく考えないといけない時期に来ているのではないかとは思うよな~。
画像は、千秋楽の優勝決定戦に勝ち、両手を上げてガッツポーズをとっている朝青龍。朝日新聞1月26日朝刊より)
参考:
相撲 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E6%92%B2
朝青龍明徳 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%9D%92%E9%BE%8D%E6%98%8E%E5%BE%B3
国技 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%8A%80
美学 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E5%AD%A6
「日本社会における相撲の変容」―文化史としての日本相撲史―
http://www.beemanet.com/essay/sumo/
やくみつる – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%84%E3%81%8F%E3%81%BF%E3%81%A4%E3%82%8B

喜劇俳優・三木のり平の忌日

2009-01-25 | 人物
今日1月 25日は、喜劇俳優・三木のり平の1999(平成11)年の忌日
三木のり平は、1924(大正13)年4月11日、現東京・日本橋浜町生まれ。
1947(昭和22)年、日本大学専門部芸術学科卒。在学中から演劇活動を開始していたようで俳優座などを経て、三木鶏郎グループに参加。コメディアンを目指すようになる。
戦前から鎌倉で活躍していた久米正雄や、大仏次郎らの鎌倉文士が、戦後の1947(昭和22)年になって鎌倉カーニバルを復活、仮装パレードやダンスなどが町中で繰り広げられるようになるが、朝日クロニクル「週刊20世紀」の1947年号を見ていると、その仮装パレードに、“個人参加の若者がめっぽう面白く、ダントツで仮装コンテストの第1位に選ばれた。その若者は、後に「三木のり平」を名乗るコメディアンとなる」・・といった記載があったので、このころ(23歳当時)は、まだ本名で芸を磨いていたのだろう。この年・1947(昭和22)年から始まったNHKラジオの『日曜娯楽版』に出演する傍ら、日本劇場の舞台に立つていたという。
『日曜娯楽版』そのものは、NNHK史上最高の番組と言われる名番組で、風刺のきいた歌やコントで人気を集めていたので私も番組のことは良く覚えているが、この頃の三木のり平のことはよく覚えていない。
1950年、清水金一主演の喜劇『無敵競輪王』で映画デビューし、1956年東宝と専属契約し、『のり平の三等亭主』で映画初出演以後、森繁久弥と共演した『社長シリーズ』や、森繁、伴淳三郎フランキー堺と共演した『駅前シリーズ』などで人気を博した。これらの映画は本当に面白かったので、私も良く見に行ったので、この頃になると三木のり平のことも良く知っている。『社長シリーズ』は、高度経済成長期の企業を舞台に、浮気者の森繁社長に謹言実直な秘書(小林桂樹)や慎重な総務部長(加東大介)、それに、宴会好きの営業部長(三木のり平)らを配してのてんやわんやの仕事ぶりを描くのが基本パターンで、森繁社長がバーのマダムや芸者と浮気をしようと試みる様(浮気は必ず寸前で失敗する)と、森繁、のり平らによる宴会芸が繰り広げられるのが毎度の約束事であった。その中で、宴会好きな部長のり平は「パァーッといきましょう、パァーッと」「パッ、パッといきましょう」が口癖で、何かあるたびに宴会をセッティングし、それを取り仕切ることを生き甲斐としている。そして、その宴会シーンでは森繁社長ととどじょうすくいを踊るなど珍芸を披露するのが、このシリーズの名物のひとつでもあった。この映画での「パァーッといきましょう」は、当時の流行語にもなった。映画・舞台での喜劇役者としての軽妙な演技で人気の高かった三木のり平だが、森光子主演の「放浪記」をはじめ「雪之丞変化」などの演出も手がけ、菊田一夫演劇大賞、読売演劇大賞最優秀演出家賞などを受賞している。
この他特によく知られているのが、「ごはんですよ!」に代表される海苔製品等を製造する食品メーカー「桃屋」のアニメーションCMだろう。
桃屋の「のり平アニメCM」の放映が始ったのは、日本でテレビ局が開局(1953年、民間放送初のテレビ本放送を日本放送が開始)した5年後の1958(昭和33)年のことであり、もう、50年以上となる長寿CMである。登場するキャラクターすべてが鼻先まで下げた丸い眼鏡をかけているのが特徴であり、よくコメディアンの大村崑と間違えられるそうだが、当時、三木のり平は、黒ブチの大きなメガネがトレードマークであった。
桃屋HPによると、戦時中、休眠状態だった、桃屋は、1950(昭和25)年に「江戸むらさき」を発売。新聞に「江戸むらさき」のおいしさを有名人が語るシリーズ広告をはじめ、1953(昭和28)年、これを三木のり平に依頼したところ、のり平は、「私がとやかく言うより、絵でも描きましょう」と自分の似顔絵を入れ、シャレたコピーを添えてくれたのだという。そして、この新聞の縦:新聞一段分、横:およそ6~7センチの小さな「突き出し広告」が評判を呼び、「のり平漫筆」というのり平が描く広告シリーズとなり、1958(昭和33)年からのTVCMは、この新聞の突き出し広告で好評だった“のり平の直筆のイラスト”をアニメ化したものだそうだ。
だから、彼は、絵のセンスもいいんだよね~。
以下桃屋のHP「桃屋CM博物館」を覗くと、懐かしい、当時のCMが見れる。HP入口からして、のり平漫画が出てくるので楽しいよ。
株式会社 桃屋
http://www.momoya.co.jp/
彼は、1998年9月、別役実作「山猫理髪店」を、最後の舞台に、翌・1999(平成11)年の今日(1月 25日)腫瘍のため死去。享年74歳であった。葬儀委員長は親友の森繁久彌が務めたというが、その森繁も最近は表には出てこなくなった。
このような個性の強い昭和期を代表する芸人や俳優が次々と姿を消してゆくが、今の時代には、いつもおふざけてばかりしている駄洒落タレントはいても、真の意味でのお笑い芸人と言われるような人はでてこなくなったな~。
(画像は、コレクションの東京宝塚劇場のチラシ。「喜劇・雪之丞変化」1991年2月公演のものと思う。三木のり平が演出も手掛けている)
参考:
久米正雄 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E7%B1%B3%E6%AD%A3%E9%9B%84
riety Japan | FILM SEARCH - のり平の三等亭主
http://search.varietyjapan.com/moviedb/cinema_24810.html
読売演劇大賞 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%AD%E5%A3%B2%E6%BC%94%E5%8A%87%E5%A4%A7%E8%B3%9E
別役実 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A5%E5%BD%B9%E5%AE%9F
『山猫理髪店』三木のり平、最後の舞台
http://blogs.yahoo.co.jp/e_yosida55/5690364.html
菊田賞受賞者リスト
http://www.tohostage.com/kikuta_list.html
三木のり平 (ミキノリヘイ) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/86279/
三木のり平(映画)
http://www.jmdb.ne.jp/person/p0140650.htm
のり平資料室
http://past.momoya.co.jp/anime/norihei_siryousitu.html

イギリスの英雄・政治家・ウィンストン・チャーチルの忌日

2009-01-24 | 人物
1965年1月24日の今日、イギリスの英雄であり、元政治家サー・ウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチルが病没した。1月30日には、エリザベス女王列席のもと、平民としては、史上初となるチャーチルの国葬が、ロンドンのセントポール寺院で行なわれた。
彼は、1940年から1945年にかけてイギリス戦時内閣の首相としてイギリス国民を指導し、第二次世界大戦を勝利に導き、大戦終結後に再び首相となった。
フリー百科事典Wikipediaによれば、彼の家名(ファミリーネーム)は単に「チャーチル」と呼ばれることが多いが、正式には「スペンサー=チャーチル」という複合姓(二重姓)だそうであり、第32代アメリカ大統領であった フランクリン・ルーズベルトや、第二次世界大戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ / SCAP)の総司令官として日本占領に当たったダグラス・マッカーサーとは遠戚関係にあるそうだ。 2002年、英国放送協会(BBC)が行った「偉大な英国人」投票では第1位にえらばれている(以下参考に記載の※印BBC『 最も偉大な英国人 Greatest Briton』100参照)。
彼は、1874年11月30日にオックスフォードシャー州ウッドストックのブレナム宮殿に生まれる。同宮殿は、スペンサー=チャーチル家の祖先マールバラ公ジョン・チャーチルが、スペイン継承戦争中のブレンハイムの戦いで立てた戦功によって当時のアン女王から贈られた大邸宅だそうである。
1895年にサンドハースト王立陸軍士官学校を卒業後、各遠征軍に参戦。1899年のボーア戦争への従軍記者を経て、1900年、保守党下院議員に当選。1904年、自由党に転じ内相など歴任。第1次世界大戦(当時海軍相)後、保守党に復帰。1929年、保守党が選挙に敗北後は政権から離れ、文筆活動をしていたようだが、1939年9月アドルフ・ヒトラー率いるドイツのポーランド侵攻に対して、英国は、ドイツに宣戦布告。第二次世界大戦が始まると、彼は内閣に招かれ再度海軍相に就任。1940年に首相に任命されると、自ら国防相を兼任して陸海空の幕僚長を直接指揮する形をとり、挙国一致内閣を率いて戦時指導にあたり、彼はラジオや議会での演説を通じて国民に戦争協力を呼びかけ、総力戦を組織化してバトル・オブ・ブリテンを勝利に導くなど、強力な指導力を見せ、米国のルーズベルト、トルーマン両大統領、ソ連のスターリン首相らと共に大戦終戦処理に当たった。
彼は、当時の西側の英雄であり、偉大な政治家でもあるが、文筆家としても有名であり、幾多の名台詞も残している。
1946年3月、彼が、米国トルーマン大統領に招かれ、ミズーリ州フルトンの大学で行った演説の中で、ソ連を表現した新語「鉄のカーテン」は極めて有名になった。又、晩年の大作『第二次大戦回顧録』(24冊)では、1953年度ノーベル文学賞をも受賞している。私は、この本を読んでいないので、内容は良く知らないが、以下参考に記載の、”YOMIURI ONLINE:チャーチル英元首相の回顧録「第二次世界大戦」の舞台(ロンドン )”によると、”ドイツ軍は当時、フランスを降伏させ、欧州大陸を席巻し、英国侵攻に乗り出す勢いだった。チャーチルは演説で、国民を鼓舞した。ナチスに占領されていた国の人々も、ひそかにBBCラジオでその演説を聴いた。その中でもよく知られ今でも引用されるのは「もっとも輝かしい時」という表現だ。千年後に人々が振り返った時に、あの戦争の時が英国民の「もっとも輝かしい時だった」と言われるように、行動しよう――と呼びかけたのだ。この言葉は、チャーチルの主著「第二次世界大戦」第2巻の題名にも使われた。”・・・とあった。
かっての大英帝国(イギリス帝国参照)も、第一次大戦の疲弊によりかなり衰退しており、ドイツのポーランドが侵攻し、英国がドイツに宣戦布告してからも英国自身は全力でドイツと戦うことを避けていたようだが、ダンケルクの撤退(ダンケルクの戦い参照)からバトル・オブ・ブリテンに到って、チャーチルは本格的に戦うことによって大英帝国が滅亡するかも知れない恐れがあることを覚悟した上で、本気で、ドイツとの全面戦争を決断する。そして、国民に名演説で呼びかけ国家を挙げて一丸となって戦い、バトル・オブ・ブリテンを勝利したのだが、この年の暮れには英国の外貨準備は殆ど底を付く状態となる。その後、アメリカ、ソ連の協力を得て、大戦には勝利するが大英帝国は終焉していた。
このブログ冒頭の画像では、チャーチルが葉巻をくわえて、得意のVサイン(ピースサイン参照)をしている。
第二次世界大戦中、下院での首相就任演説で、彼は、ドイツ・ヒトラーの威嚇に対し、断固たる決意で"We shall never surrender!"(我々は決して降伏しない)と演説し、Vサインを示しながら爆撃に耐え抜いて英国を勝利に導いたといわれる。つまり、このVサインは、本来のピースサインではなく、戦争の継続と勝利への強い意欲を表現するために使用したもので、勝利を意味するVictoryの頭文字Vをあらわしたものであるが、1960年代になって、世界中に平和運動が高まり盛んに平和集会が行われるようになると、参加者が自らの健在ぶりと平和への願いを表す意思表示の手段として広く用いられるようになった。
以下では、”下院での首相就任演説 (May 13, 1940)”を 見ることが出来る。
ウィンストン・チャーチル:出典: フリー引用句集『ウィキクォート(Wikiquote)』
http://ja.wikiquote.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%AB
この演説を読んでいると、「イエス ウイ キャン」の有名なキャッチフレーズで、絶大な国民の支持を得て、見事、アメリカ初の黒人大統領となったオバマ氏が、20日の就任演説で今の経済危機を乗り切るために国民それぞれがアメリカ建国時の精神を思い出し、国民の間にある自己本位な考え方を改め、それぞれが、責任を分かち合い、それぞれの責任を果たして、この難局に立ち向かおうと訴えたいた名演説のことを思い出した。
何時の時代でも、どんな状況でも、難局に立ち向かうためには、その国の国民が一丸となって取り組まなくてはいけないだろ。そのためには、国民を説得し、どれだけ纏めきれるか・・。一国のリーダーの国民への説得力(話術)は非常に重要であるが、皆さんは、日本の現首相を、どうだと思います・・・?
チャーチルは、1965年の1月24日、91歳で亡くなるが、最後の日に近い誕生日に「私は随分沢山のことをやって来たが、結局何も達成できなかった」と娘に語ったという。そして、臨終の際の最後の言葉は「何もかもウンザリしちゃったよ」であったとか。
英国の救世主といわれ英雄視されてきたチャーチルの最後の言葉としてはなはだ寂しい言葉であるが、実際に幾多の戦いに参加し、戦い・・それによって得られたものは一体何だったのだろうか・・・?。第1次に続き第2次大戦戦い、多くの犠牲を払って、栄光は得たものの、大英帝国が疲弊し終焉を迎えるという・・空しい結末でしかなかったのではないだろうか。これでは、「うんざりしても仕方がないのような気がするね~。
(画像は、朝日クロニクル「週刊20世紀」表紙のウィンストン・チャーチル。)
参考:
ウィンストン・チャーチル - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%AB
セント・ポール大聖堂 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%A4%A7%E8%81%96%E5%A0%82
中野文庫 - 国葬
http://www.geocities.jp/nakanolib/giten/kokuso.htm
死の総合研究所(デス・ウォッチング)
http://www.osoushiki-plaza.com/institut/
※BBC『 最も偉大な英国人 Greatest Briton』100
http://www.h7.dion.ne.jp/~noripo/great/02britonj.html
ピースサイン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%B3
YOMIURI ONLINE:チャーチル英元首相の回顧録「第二次世界大戦」の舞台(ロンドン )
http://www.yomiuri.co.jp/tabi/world/abroad/20060206tb05.htm
鉄のカーテン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E3%81%AE%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%86%E3%83%B3
映画 「空軍大戦略」1969年 に見る大英帝国の衰亡
http://blog.goo.ne.jp/rakitarou/e/55210062158403b4e235afdde5794d4d
イギリス帝国 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%8B%B1%E5%B8%9D%E5%9B%BD