今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

「あーやんなっちゃった」(牧伸二忌日)

2014-04-29 | 人物
1960~70年代、「あゝやんなっちゃったあゝ驚いた」というフレーズで社会風刺したウクレレ漫談「やんなっちゃった節」で一世を風靡し お茶の間の人気者になったウクレレ漫談家牧伸二(本名:大井 守常)が亡くなったのは、今からちょうど1年前・2013(平成25)年4月29日のことであった。
彼は、15年戦争の只中、1934(昭和9)年9月26日、東京・目黒区に生まれる。
定時制高に通いながら東亜計器製作所に勤務。高校1年の頃牧野周一漫談をラジオで聞き、浅草の話術同好会「話術クラブ」に入る。この頃は楽器を持たない声帯模写を得意としていたようだ。
高校卒業後の1957(昭和32)年にラジオ東京(現TBSラジオ)の『しろうと寄席』で7週連続で名人位を獲得。この実績をもって牧野に正式入門を許され、牧伸二の芸名をもらう。
当初の芸名は「今何度」(いま なんど)。当時勤務していた東亜計器が温度計を製造していることに由来する。貰った芸名は、「俺より脳(野)が少ないからな」と云われ、数も「二」。だが「伸」の字に師匠の期待が込められていたようだ(2013・6・22朝日新聞)。そして、ウクレレ漫談を薦められ、ウクレレは自己流で習得したようだ。
そして、1960(昭和35)年には、文化放送の『ウクレレ週刊誌』でレギュラー司会者を任され歌うボヤキ漫談『やんなっちゃった節』が爆発的な人気を呼ぶ。早くも1960(昭和35)年に文化放送でレギュラー番組『ウクレレ週刊誌』を持たされる。
1963(昭和38)年には日本教育テレビ(NET、現テレビ朝日)の人気演芸番組『大正テレビ寄席』の司会に起用され、番組終了の1978(昭和53 )年まで15年にわたり司会を務めた。
一世を風靡した、ボヤキ漫談『やんなっちゃった節』。山手線の中で耳にした乗客のぼやきがヒントになったという。
ハワイアン風の旋律に軽妙な社会風刺を乗せて、最後は「あ~あんあ やんなっちゃった あ~あんあ おどろいた」と朗らかに締める。
『やんなっちゃった節』は、『タフア・フアイ』(TAHUWAHUWAI)をアレンジしたもので、時世に応じ「2000曲近く作った」が自慢だったそうだ。
因みに、この『タフア・フアイ』別名(英題)“Hawaiian War Chant"(ハワイの戦争の歌)という題名がついている。
なぜ 戦争なのかというと実は、原曲は「Kaua I Ka Huahuai」(二人はしぶきにぬれて)というラブソングで、ハワイ王国最後の女王(第8代)リリウオカラニの弟、レレイオーホク王子が1860年頃作曲したメロディだそうだ。
ハワイ王国時代、カラカウア王をはじめ、兄弟はいずれも音楽の才能に優れ、宮廷内で「音楽合戦」をでやっていたそうで、<ハワイの戦争>とは、宮廷内の音楽大会のことだったそうだ。
この原曲のラブソングの訳は パライ(パラパライ、Palapalai。ハワイ語で「黒い茎」を意味する、ハワイ固有のシダ植物)の茂みで愛する二人が抱き合って…といったベタベタのラブソングなのだだそうだ(※1参照)。
『タフア・フアイ』は、2006(平成18)年9月公開の日本映画「フラガール」でも、ウリウリというマラカスの様な楽器を振りながら踊っている。
この映画は、1965(昭和40)年、大幅な規模縮小に追い込まれた福島県いわき市常磐炭鉱。危機的状況の中、炭鉱で働く人々が職場を失う現実・苦悩に立ち向かい、町おこし事業として立ち上げた常磐ハワイアンセンター(現:スパリゾートハワイアンズ)の誕生から成功までの実話を元に描いたもの。ハワイアンミュージックと本格的なフラダンスショーが描かれている。第80回キネマ旬報ベストテン・邦画第1位、第30回日本アカデミー賞最優秀作品賞受賞作品にも選ばれている。
のりの良い曲で、よく聞くと確かに『やんなっちゃった節』と似たところがあるね~。以下で聞いてみるとよい。

フラガール タフワフワイ Ta-Hu-Wa-Hu-Wai - YouTube

●上掲の画像は、リリウオカラニ女王。
リリウオカラニ女王といえば、あの『アロハ・オエ』の作曲者としても知られている。ハワイ音楽ではカラ-カウア王、リリウオカラニ女王、リケリケ王女、レレイオーホク王子は、ハワイ王室の四天王と呼ばれている。

牧伸二は、1965(昭和40)年に第2回日本放送作家協会賞・大衆芸能賞を受賞し、喜劇映画・バラエティ番組などにも活躍の場を広げた。
1989(昭和64)年には、デビュー以来在籍した佐藤事務所の解散に伴い、株式会社牧プロダクション(社長は弟子の牧ひろし)に所属(※2参照)。1999(平成11)年には、同年3月に死去した前会長・桜井長一郎の後を受け、東京演芸協会(※3)の第6代会長に就任していた。
2002(平成14)年に脳出血で入院。左半身が動かなくなっていたが懸命のリハビリで復帰し、2003(平成15)年に文化庁長官賞を受賞している。
そして、昨・2013年4月28日、に上野広小路亭で舞台に出演し、その後午後4時10分から浅草東洋館でも舞台に出演する予定だったが、「少しお茶を飲んでくる」と言って席を立ち、午後3時頃に喫茶店を出た後行方不明に・・・、それが、生きている最後の姿であった。
その10時間後、翌・4月29日自宅近くを流れる多摩川に飛び込み、78歳の人生に幕を下ろした。死因についてはよく判らないが、警視庁は自殺とみている。不名誉な話としては、会長を引き受けた「東京演芸協会」の使途不明金(500万円)問題が死因に関連しているといった話もあるようだが、彼には、十分な資産もあり、そんなにお金には困っていなかったという(※4、※5参照)。
ただ、退院後も病気(脳出血)の後遺症で、指が思うように動かず満足な演奏ができなかった。また、高齢からの認知症にも悩んでいたと云う。
漫談の歌からは楽天家のようにもみえるが、彼とは50年来の友人という漫談家のケーシー高峰は「外見とは裏腹にナイーブな人だった」・・と言っている(20123・6.22朝日新聞)。
遺書も残さずの突然死には、第三者には判らないさまざまな要因が入り混じっているのだろう。
厳しい世の中を風刺した、人生を生き抜くための歌だったが、本当に世の中が「やんなっちゃった」と嫌気がさしての自殺だとしたらとても悲しいことである。
くしくも亡くなった日の4月29日は「昭和の日」。昭和の日本で、多くの人に愛された茶の間のスターの最後としては、なんともやるせない思いである。
「東京演芸協会」の使途不明金問題についてもその責任を牧さんに押し付けようとする何ともきな臭い匂いがするという(※4、※5参照)。ひょっとしたら認知症状を利用されているのかも・・・・?そんな話を聞くと余計に「「やんなっちゃった」・・・・よ。

Wikipedia-によると、日本における自殺者数は、諸外国と比べ大きく、2002(平成14)年の水準では日本の自殺率はアメリカの2倍に相当するという(※6参照)。
主要国G8諸国、OECD加盟国、双方でも日本は上位で、国別の自殺率でみると日本は4位、日本以外の上位は旧社会主義国(旧ソ連)が占めているようだ。特に日本の男性中高年層の自殺率は世界でもトップレベルであるという(※7参照)。
そこで、最近のデーター「平成25年中における自殺の状況」を警察庁の統計(※8参照)で調べてみると以下のようになっている。

平成25年中における自殺者の総数は27,283人で、前年に比べ575人(21%)減少。平成10年以来、連続して3万人を超える状況が続いていたが、一昨年15年ぶりに3万人を下回り、昨年は一昨年よりさらに減少したという(参考図表参照)。
しかし、この数字は、余りマスコミなどでも報道されていないのでよく知られていないが同年中の交通事故死亡者数4,373人(昨年4,411人0,9%減)の6,24倍にもなるのである(※8の交通事故死者数について参照)。
自殺者の性別では男性が1万8, 787人で68,9%を占めており、年齢階層別では「60歳代」が4,716人で全体の17,3%を占め、次いで「40歳代」(4,586人16,8%)、「50歳代」(4,484人16,4%)、「70歳代」(3,785人13,9%)の順となっており、60歳代、70歳代の高齢者が8371人(31,2%)と3割に達しているのである。
職業別自殺者数では「無職者」が1万6465人で全体の60,3%を占め最も多く、次いで、「被雇用者・勤め人」(7,272人26,7%)、「自営業・家族従業者」2,129人13,9%)、「学生・生徒等」(918人、3,4%)の順となっており、この順位は前年と同じである。
原因・動機別自殺者数では、原因・動機が明らかなんもののうち、その原因・動機が「健康問題」にあるものが1万3,680人で最も多く、次いで「経済・生活問題」(4,636人)、「家庭問題」(3,930人)、「勤務問題」(2,323人)の順となっており、この順位は前年と同じである(※8の資料参照。年齢階級別、原因・動機別自殺者数は※8付録参照)。
各国の経済・社会・文化・宗教などでの違いは見られているものの、自殺の大きな要因(原因)として近年あげられるのは、うつ病などの精神疾患との因果関係だと言われている(日本の自殺も参照)。
先の警察庁の統計の付録を見ても21,3%とうつ病による自殺が最も多い。中でも060歳代が4%と最も高い。ただし、うつ病は自殺の根本要因ではなく、他の根本要因がうつを引き起こしているようである。
今の時代、年寄は住み難い時代になってきた。高度経済成長期以降、核家族化が進み、夫婦だけ、また、孤独な一人住まいの生活者が増えてきた。
体が不自由になっても、周りには、面倒を見てくれる人もおらず、老人ホームへ入りたくても入れない。孤独な暮らしに耐えているうちに、うつになったり、認知症になったり・・・。
誰も面倒見てくれない一人暮らしの老人が誰にも看取られず孤独死していく人も増えている。また、老老介護に疲れ果て、病床で苦しんでいる夫を妻が、妻が夫を殺すなどという悲劇さえ生まれている。そんな老人を、振り込め詐欺などの悪質業者が狙っている。
2013(平成25)年の特殊詐欺全体の認知件数11,998件は前年(8,693件)に比べて約4割増加し、被害総額約486億9,325万円は、前年(約364億3,611万円)に比し約3割増加しているという(※10参照)。
平成の元号の由来は、『史記』五帝本紀(五帝参照)の「内平外成(内平かに外成る)」(※11:「史記」五帝本紀の舜帝参照)、『書経』虞書3大禹謨(だいうぼ)の「地平天成(地平かに天成る)」(※12参照)からで「内外、天地とも平和が達成される」という意味なのだが、この平成の世の老後社会は、老齢者にとって、けっして、住みやすい社会とは言えなくなった。

♪あ~あんあ やんなっちゃった あ~あんあ おどろいた
 牧伸二は77歳 高齢社会の仲間だよ
 だけど虫歯が1本も無いよ だから全部入れ歯だよ
 あ~あんあ やんなっちゃった あ~あんあ おどろいた♪
 
藤村俊二から年賀状
今年は辰年立つように たつたつたつといいましょう
いってみたらだめだった                                  
あ~あんあ やんなっちゃった あ~あんあ おどろいた♪

♪日本はこれからどうなるの? ヨタヨタしている自民党
 モタモタしている民主党 参議院じゃなくて養老院
 あ~あんあ やんなっちゃった あ~あんあ おどろいた♪
(以下省略)
2012(平成24)年2月6日渋谷区神宮前のライブハウス 「クロコダイル」(※12)での公演時のもの。
牧が亡くなる前年2012年は77歳の時のもの。もう高齢社会の仲間入りだが、虫歯が1本も無い、だから全部入れ歯だ・・・なんて、ジョークを云ってる。
又,牧とは同じ「昭和九年会」の仲間で俳優の藤村俊二。「おヒョイ」とあだ名のある女性からモテモテの枯れオヤジも彼と同い年だから77歳。辰年にあやかって立つ立つと言ってみても年で立たないとからかいもする。
そして、2012(平成24)年2月と言えば、まだ、モタモタとして何とも頼りにならない、ちょっとうんざりとした民主党野田佳彦内閣の時代。しかも、野党に落ちていた自民党総裁谷垣禎一がなんとも頼りない。そんな時代の参議院は養老院だと批判している。なかなか痛快で面白い。この時の動画を以下で見ることが出来る。

あ~あぁ やんなっちゃった - 牧伸二 - YouTube

この動画では、『やんなっちゃった節 』に続いて、『 アロハ フラ』(作詞、作曲 牧伸二) と『朝日のあたる家』の2曲を歌っている。

牧は、漫談の『やんなっちゃった節 』だけでなくレゲエ (reggae)やロックンロールのシンガーソングライターそして歌手としての顔も持っている。ロックンローラーとして、「クロコダイル」などのライブハウスのステージに立つ時は、シンジ・マッキーを名乗りサングラスをかけたりして歌っている。
『The House Of The Rising Sun』(邦題:朝日のあたる家)は、イギリスのロックバンドアニマルズが1964年にシングルとしてリリースしたものが最大のヒット曲として知られている。
これはアメリカの伝統的なフォーク・ソング(作者不詳)を、ブルース的な解釈でカバーしたもの。娼婦に身を落とした女性が半生を懺悔する歌で、暗い情念に満ちた旋律によって注目された。"The House of the Rising Sun" とは、19世紀に実在した娼館、または刑務所のことを指すという説もあるそうで、「朝日楼」とも表記する。
カヴァーは多く、日本でもダニー飯田とパラダイス・キングをはじめ浅川マキちあきなおみなどが日本語詩によってレコーディングしている。しかし、やっぱり、ちあきなおみは上手いね~。本家アニマルズも含めて、興味があれば聞いてみるとよい。

朝日のあたる家 (アニマルズ) - YouTube

朝日楼(朝日のあたる家) ちあきなおみ UPC‐0003 - YouTube

浅川マキ - 朝日のあたる家 (House of the Rising Sun) - YouTube

ダニー飯田とパラダイスキング のものは以下のHPで聞ける。、
【パラキン】ダニー飯田とパラダイス・キング関連の曲 - nicozon
http://www.nicozon.net/watch/sm2216709

♪フランク永井は低音の魅力
 神戸一郎も低音の魅力
 水原ヒロシも低音の魅力
 漫談の牧伸二低脳の魅力
 ・・・
  やんなっちゃったあ やんなっちゃったあ やんなっちゃったあ おどろいた♪

今日は、牧伸二が主人公なので最後に彼の若かりし頃の歌など聞いて、在りし日を偲ぶことにしよう。

ダンスホールでヤンナッチャッタ / 牧伸二 - YouTube

レゲエあ~やんなっちゃった / シンジー・マーキー - YouTube

牧伸二だよ!- YouTub


冒頭の画像は、ウクレレ漫談家牧伸二。(2013・6・22朝日新聞掲載のもの借用)
参考:
※1:タフアフアイTAHUWAHUWAIの成り立ち 訳!
http://huladance.seesaa.net/article/162865818.html
※2:株式会社牧プロダクション-牧 伸二
http://www.maki-pro.com/talent/s_maki.html
※3:東京演芸協会ホームページ
http://www16.ocn.ne.jp/~tek/
※4:牧さんの死で闇に葬られる?使途不明金の真相 | 東スポWeb
http://www.tokyo-sports.co.jp/entame/entertainment/140339/
※5:「あーやんなっちゃった」牧伸二、自殺の理由
http://blog.livedoor.jp/aokichanyon444/archives/54473438.html
※6:自殺対策支援センター ライフリンク 「自殺実態白書2008」第三章 (PDF)
http://www.lifelink.or.jp/hp/Library/whitepaper2_1.pdf
※7:内閣府経済社会総合研究所「自殺の経済社会的要因に関する調査研究報告書」報告書本文1 (PDF) 、p15
http://www.esri.go.jp/jp/archive/hou/hou020/hou18a-1.pdf
※8:統計|警察庁
http://www.npa.go.jp/toukei/index.htm
※9:【統計表一覧】(警察庁)
http://www.npa.go.jp/toukei/koutuu48/ichiran.htm
※10:警察庁振り込め詐欺対策HP
https://www.npa.go.jp/safetylife/seianki31/1_hurikome.htm
※11:史記(五帝本紀・楚元王世家・司馬穣苴列伝・田単列伝)中国最初の紀伝
http://www.1-em.net/sampo/siki/#五帝
※12:書經虞書_メイン
http://mokusai-web.com/shushigakukihonsho/shokyou/shokyou_1_gusho_main.html
※12:LIVE PERFORMANCE___CROCODILE
http://crocodile-live.jp/index2.html
文祥堂フォーラム 第299回 ウクレレ人生(2010年8月18日)
http://www.bunshodo.co.jp/pre/forum/backnumber/299.html
牧伸二 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A7%E4%BC%B8%E4%BA%8C

大人の日

2014-04-22 | 記念日
日本記念日協会の今日・4月22日の記念日に「大人の日」があった。
ケチャップ、デミグラスソースなど、洋食の分野の世界的ブランドとして知られるハインツ。その日本における企業、ハインツ日本株式会社(※2)が制定。
自社商品の「大人むけパスタ」「大人むけスープ」などをPRし、「大人な時間・気分」の演出を食卓から応援していくことが目的だとか。日付は4月22日が「よい夫婦の日」、11月22日が「いい夫婦の日」として知られている「大人の日」であることから、この両日を記念日に登録している。
同社HPを覗くとこのようなことが書かれていた。
「「大人むけ」のブランドは、誰もがもっている“大人な気分を楽しみたい”というニーズに着目し、“食にこだわる楽しみを知っている大人が満足するクオリティー”というコンセプトで展開するブランドです。
こうした“大人ニーズ”に注目し、「夫婦でも大人同士」の楽しみ方を提案するため、この度、“よい(いい)夫婦の日”として知られる4月22日と11月22日を『大人の日』という新しい記念日として、日本記念日協会に登録しました。
『大人の日』は夫婦やパートナー同士が日頃の子育て等を離れ、2人で“ちょっと大人な気分”を味わい、互いの関係をより良好なものにするための記念日です。夫婦が大人同士でちょっとだけ贅沢な時間を過ごす、そんなおしゃれな演出を食卓から応援します。将来は家族の役割を記念する「父の日」や「母の日」と同様に、社会的に重要な記念日として認知されることを目指します。」・・・と。

ケチャップ(英: ketchup)とは、野菜、キノコ、または魚などを原料にした調味料であり、トマトを用いたものはトマトケチャップと呼ばれる。
このトマトケチャップは、現在ケチャップを代表するものとなっており、単に「ケチャップ」と言えばトマトケチャップを指すことが多いが、これは海外でも同様のようである。
歴史的に「ケチャップ」という言葉は、必ずしもトマトケチャップのみを意味してきた用語ではなく、過去にはキノコなどで作られたソースや魚醤などを含む、ソース全般を指していた言葉であったようだ。
そんなケチャップがトマトと劇的な出会いをしたのが新天地アメリカで、18~19世紀にアメリカに渡ったヨーロッパ人たちが、当時ようやく食用として普及し始めていたトマトでケチャップを作ったという。
Wikipediaによれば、最古のレシピは1795年の "Receipt Book of Sally Bella Dunlop" とされているが、切ったトマトに塩を振り、2・3日置いてからしみ出した果汁を香辛料と煮詰めたもので、酢も砂糖も加えていない(現在とは違い、調理中に隠し味として使ったと考えられている)ものだったという。
その後、1876年に世界で初めて、アメリカのハインツ社(H.J.Heinz)の創業者であるヘンリー・ジョン・ハインツ(ドイツ系アメリカ人。ここ参照)が瓶詰めトマトケチャップを販売し、広く普及した結果、これが、ケチャップの代表になったといわれている。
日本にケチャップが登場するのは明治時代。当時すでにトマトケチャップが主流になっていたアメリカから伝わったため、日本では当初からケチャップといえばトマトケチャップであった。
トマトケチャップの国産製品は、1896(明治29)年に横浜で清水與助が創業した清水屋が、1903年(明治36年)に製造販売を開始したという記録が横浜開港資料館所蔵の資料に残っており、これが最初の国産ケチャップであると考えられているそうだ。
1908(明治41)年には現在のカゴメがトマトケチャップの発売を開始(※4)。
トマトケチャップの世界流通・販売量世界第1位と云われているハインツだが、国内シェアでは、カゴメ(50%)と「デルモンテ」ブランドのキッコーマン(30%)の2社が大勢を占めており、ハインツは日本では約3%と苦戦しているのが現状だという(Wikipedia)。
世界の偉人の名言格言集(※5の中の創業者参照)を見ていると、ハイツ社の創業者ヘンリー・ジョン・ハインツ(H. J. Heinz )の名言が掲載されていた。

「地道に普通のことを行っていれば、驚くほどの成功がもたらされる」

良い言葉だね~。私はいろいろな名言がある中でもこのような言葉が大好きだ。何事を成すにも日ごろの小さな努力の積み重ねが大事であることを説いている。大きな成功を収めている人が、必ずしも特異な才能を持っているわけではない。きっちりとした自分なりのヴィジョンを持ち、地道な努力や苦労を惜しまない。そのような姿勢こそが成功者に必要なのだろう。
ただ、そのような地道な努力でケチャップの販売量世界第1位となったハイツでも、日本国内でのシェアーがこれほど低いというのは、やはり、日本人の嗜好にはあっていないということなのだろうね~。今日は、トマトジュースの話を書くのが趣旨ではないので、この話はこれまでにしよう。

今日の本題の記念日「大人の日」ではハインツは「大人むけパスタ」「大人むけスープ」などをPRし、「大人な時間・気分」の演出を食卓から応援していくことが目的としている」・・・というのだが、ここでいう「大人」・・・ってどんなことを言っているのだろう。
ハインツでは、大人の日のページに以下のようなことも書いている。

「たまには、夫婦ふたりだけで、ちょっと贅沢な大人の時間を過ごして欲しい。
そんな時間を叶える新たな記念日として、「大人の日」が制定されました。
その日は、父でも母でもなく、夫でも妻でもなく、大人同士として、いつもとはひと味違う過ごし方をしてみるのはいかがでしょう。
もちろん、大人のためのパスタやスープをいただきながら・・・。
普段は照れくさくてできない、夢や生き方の話をするのもいいかもしれません。
ちょっといいワインを空けたりして、大人同士の特別なひとときを。」・・・と。

「大人」とは、もともと日本の固有語の「和語」である「おとな」に漢字をあてた熟字訓であるが、造語成分(語素)と結合して、「大人ぶる」「大人びる」「大人っぽい」「大人しい」などの動詞や形容詞として使われたりもする。和語は一部を除き音読みはなく、また、身近な基礎的な言葉に多く、漢字と違って一般に意味が広いのが特徴である。
日本では、「大人=おとな」は、一般には、子供に対して、成人した人を意味する。さらには、精神構造が熟成していて目先の感情よりも理性的な判断を優先する人、もしくは自立的に行動し自身の行動に責任の持てる人の事を指す場合もある。また、理性を優先するという点から、妥協や周囲への迎合、事なかれ主義などを、「大人の考え」「大人の都合」「大人の事情」「大人になれよ・・・。」などと揶揄して言う場合もある。

もともと「大人」は、日本固有の「和語」であった「おとな」に「大きな人」と書く漢字をあてたものだが、中国語の「大人」(たいじん、ダーレン[daren])とは、日本語の「大人」(おとな)とは少々概念が違う言葉、名詞 (尊敬語) で、「立派な人=人格者」というのが本来の意味であり、転じて、目上の人に対する敬称として使われている。したがって、歳を取っているだけでは中国語の「大人」にはなれないのだ。
弱肉強食の論理が優先される戦国時代に、軍事力による覇道政治を戒めて、による王道政治の理想を説いたのが儒家孟子であった。

●上掲の画像は孟子。

孟子と戦国諸侯の含蓄のある対話や孟子と高弟たちの言行・思想を集積して編纂した『孟子』の『離婁章句(りろうしょうく)下』には「大人」への言及が3ヵ所見られ、以下のように書かれている(読み下しは※6、読み直しは※7を参照)。
第六章
「孟子曰、非禮之禮、非義之義、大人弗爲。」
【読み下し】孟子曰く、非禮の禮、非義の義、大人はせず、と。
(読み直し)孟子は言った。礼に似ているが礼でないことや、義に似ているが義ではないことを、立派な人格者(大人)は決してしないものだ。
第十一章
「孟子曰、大人者言不必信、行不必果、惟義所在。」
大人は、言信[まこと]あらんことを必とせず、行果たさんことを必とせず、惟義の在る所のままにす、と。
(読み直し)孟子は言った。大徳のある人(大人)といわれる人は、云ったことを必ずしも実行するとは限らないし、やりかけたことを是が非でもやり遂げるとは限らない。ただ、義に従って適宜に行うまでのことだ。
第十二章
「孟子曰、大人者、不失其赤子之心者也。」
【読み下し】孟子曰く、大人は、其の赤子の心を失わざる者なり、と。
(読み直し)孟子は言った。大徳の人と言われる人(大人)は、いつまでも赤子のような純真な心を失わずに持っている者だ。

上記中、第十一章の「言不必信、行不必果」“言ったことを必ずしも実行するとは限らないし、やりかけたことを是が非でもやり遂げるとは限らない”という言葉には、少し、引っかかる人もいるかもしれないが、何事も“義に従って適宜に行う”のであって、一度言ったことにいちいち拘束されない。やりかけていたことであろうとも効果がないと見切ればスッパリと中断するのが大人だと言いたいのだろう。
孟子の考え方は、『離婁章句上』第四章に書かれていることでわかる。
第四章
「孟子曰、愛人不親、反其仁、治人不治、反其智、禮人不答、反其敬、行有不得者、皆反求諸己、其身正而天下歸之、詩云永言配命、自求多福。」
【読み】孟子曰く、人を愛して親しんぜざれば、其の仁に反る。人を治めて治まらざれば、其の智に反る。人を禮して答えざれば、其の敬に反る。行うて得ざること有れば、皆反って諸を己に求む。其の身正しうして天下之に歸す。詩に云く、永く言[おも]うて命に配す。自ら多福を求む、と
(読み直し)
孟子は、「人を愛しても相手から親しまれない時には、じぶんの仁愛の心が足りないからではないかと反省するがよい。人を治めてもうまく治まらない時には、自分の知恵が足りないからではないかと反省するがよい。人に礼を尽くしても相手が答礼しない時には、自分の敬意が足りないからではないかと反省するがよい。このようにすれば、自分の身も心も真に正しくなって、必ず天下の人もみな帰服してくるものだ」と言った。
詩経に言う、
とこしえに、天命に従い、自らの手で、福を呼び寄せなさい。・・・と。

孟子は、「人の性の善なるは、猶(なお)水の下(ひく)きに就くがごとし」(※6、※7の『告子章句上』第一章、第二章参照)と述べ、人の性は善であり、どのような聖人も小人(しょうじん=「君子」「大人」の対義語。)もその性は一様であると主張した(性善説)。そして、
『告子章句上』第十五章では、大人、と小人について以下のようなことが書かれている。
告子章句上 十五
「公都子問曰、鈞是人也。或爲大人、或爲小人、何也。
孟子曰、從其大體爲大人。從其小體爲小人。
曰、鈞是人也。或從其大體、或從其小體、何也。
曰、耳目之官不思、而蔽於物。物交物、則引之而已矣。心之官則思。思則得之、不思則不得也。此天之所與我者。先立乎其大者、則其小者弗能奪也。此爲大人而已矣。」
【読み下し】
公都子問うて曰く、鈞[ひと]しく是れ人なり。或は大人爲り、或は小人爲ること、何ぞ、と。
孟子曰く、其の大體に從うを大人とす。其の小體に從うを小人とす、と。
曰く、鈞しく是れ人なり。或は其の大體に從い、或は其の小體に從うは、何ぞ、と。
曰く、耳目の官は思わずして、物に蔽わる。物物に交わるときは、則ち之を引くのみ。心の官は則ち思う。思うときは則ち之を得、思わざるときは則ち得ず。此れ天の我に與うる所の者なり。先ず其の大いなる者を立つるときは、則ち其の小しきなる者奪うこと能わず。此れを大人とするのみ、と。
(読み直し)
公都子が孟子にたずねた。「同じ人間でありながら、偉大な人物(大人)となったり、つまらぬ人物(小人)となったリするのはどういうわけでしょうか」
「良心に従っていけば偉大な人物(大人)となり、欲望のまま従っていけばつまらぬ人物(小人)となるのだ」
同じ人間で、良心に従う者もあり、欲望に従うものもあるというのは、どういうわけでしょうか」
「耳や目は考える働きがないので誘惑されやすく、心で考えさえすれば、物の道理が分かるのである。よって、心をしっかりと確立してさえおけば、偉大な人物(大人)になれるのだ。・・・と。

このように、孟子は、性が善でありながら人が時として不善を行うことについては、この善なる性が外物によって失われてしまうからだとした。そのため孟子は、『離婁章句下』第十二章でも書いているように、「大人(たいじん、大徳の人の意)とは、其の赤子の心を失わざる者なり」とも述べているのである。

ここらで、中国の大人(たいじん)の話は横において、別の話へ行こう。
大人(おとな)のことを、アパレルファッション関係などでは、英語(adultのカタカナ語)の「アダルト」を好んで使う。これは、子供服に対して成人向けの衣類を指す他、成熟したイメージを演出するデザインについて用いており、子供と大人の中間を「ヤングアダルト(英:Young Adulthood)」などともいう。
普通は「ヤングアダルト」とは、発達心理学では成人期前期のこと。自分は子供ではないと思い始めているが、周囲からは大人と認められない時期。思春期を過ごす年代で、自我の芽生え、進路の選択、大人や社会との葛藤がある時期でもある。
以下参考※8:「Aとは(YAの定義) - 静岡市立図書館」では、以下のように書いている。
「ヤングアダルト(以下YAと呼ぶ)の定義について、日本では公式の規定はないものの「公共図書館におけるヤングアダルト(青少年)サービス実態報告」(日本図書館協会・1993)では、13歳から18歳(中学生と高校生にあたる学齢)の利用者とみなしている。
この年代は「第二の誕生」(ルソーの言葉※9参照)とされるように、子どもから大人への脱皮を遂げなければならない。にもかかわらず身体的、知的、社会的な発達がそれぞれ並行して進行せずに、葛藤と矛盾が共存する特異な時期といえる。
具体的には、自分を子どもとは思っていないのに、社会からはまだ大人ではないと思われている年齢の利用者であり、YAは周囲の世界が非常に気になるのに、同時に激しく内省的であり、自己中心的である。誰にも負けないと思う一方で、物凄く不安でもある。親から自由になりたいと願った次の瞬間には、もう両親や大人の指導を求めているということがあげられる。」・・・と。
それに対して、以下参考の※10、「ファショコン通信」のファッション用語集には、「ヤング‐アダルト」( young adult)について、こう書いている。
「“若い大人”の意。ファッション業界では男女でやや違いがあり、男性が23~35歳くらい、女性が23~27歳くらい。最近では、女性のこの年代を「OL」と称する傾向にある。」・・・と。
国語辞書には、「ヤングアダルト」とは、
1、10代後半の若者。20代前半を含めることもある。
2、若々しい雰囲気をもった大人。
と言ったように年代的には結構幅が広いようだが、用語に対する公式の規定がなければ、それぞれの業界によって、対象年齢が違ってくるのも仕方がないだろう。
日本図書館協会でいう「ヤングアダルト」は子供から大人への脱皮を遂げなければならないにもかかわらず身体的、知的、社会的な発達がそれぞれ並行して進行せず、子供自身は自分は大人だ・・・と思っているのに、社会からはまだ大人と認められていないと感じている年代を言っているようだが、ファッション業界の場合は、本人はまだ大人と自覚していない子供じみた人達(青年世代)、・・・年齢的にはもう十分大人のはずなんだが…と言える世代を言っているのかも・・・。
そんなこと考えていると、日本では2012年公開のアメリカ映画『ヤング≒アダルト』(※11)が思い出される。
●上掲のものはマイコレクションより映画『ヤング≒アダルト』のチラシ。
この映画の内容は解説にもある通り以下のようなもの。
仕事も恋愛もうまくいかない30代の女性が、妻子のいる元恋人と復縁しようと大騒動を繰り広げる人間ドラマであり、2007年公開のアメリカ・カナダ合作映画『JUNO/ジュノ』の監督・脚本コンビ、ジェイソン・ライトマンディアブロ・コーディが再びタッグを組み、「真の幸せとは何か」というテーマを辛らつな笑いと共に描き出したもの。大人に成り切れずイタい言動を繰り広げるヒロインを、オスカー女優シャーリーズ・セロンが熱演している。
この映画の中でセロン演ずるメイビスは「田舎町は、大嫌い」と田舎から都会へ出て来て、本を書いているキャリアと、自分の容姿に絶対の自信を持っているバツイチの37歳。今の日本でも多く見かけられる女性像ではないか。
しかし、自称作家といっても、実はヤングアダルト向け小説のゴーストライターであり、今はその仕事も行き詰まり、しかも、恋人もできず何もうまくいかない。こんなはずではなかった。高校時代は憧れの的だったのにッ。
落ち込んでいる時、何故か届いた元カレからの子供の誕生を祝うパーティーの案内状。
高校時代の人気者気分がアラフォーになっても抜けきらない見栄っ張りの彼女には、「自分が思う現実」と「他人から見た事実」の間に落差があった。精神が大人になりきれていない彼女は、こともあろうに妻子もおり、子供が生まれて幸せいっぱいの高校時代の元彼・バディとヨリを戻すために帰郷し、大騒動を巻き起こす。果たして、真実から逃れられなくなったメイビスが、たどり着いた境地とは・・・?
以下参考の※12の映画感想に書かれている。
この映画では、デブという理由だけでいじめられ、暴行を受けて下半身不随になったという暗い過去をもつメイビスの同級生だったマットの存在が大きい。
元彼バーディーの誘惑に失敗し大暴走するメイビス。自分の行動がうまくいかないと、メイビスはすぐにマットを飲みに誘い、愚痴りまくる。心優しいマットはそんなメイビスの誘いを断らない。ボロボロに傷ついたメイビスは、マットを訪ね、戸惑うマットと一夜を過ごす・・・。メイビスを心の底から理解し、受け入れてくれるのはマットだけだった・・・。
マットの妹に、「あなたの気持ちは分かるし憧れている。こんな田舎町から私も連れ出して」と懇願されるメイビス。
その言葉を拒絶するメイビスのハッとした表情・・・。メイビスが自分の生き方にひとつの答えを出した瞬間である。幸せは何か?それは映画を見た人が感じること。
この映画ではタイトルを『ヤングアダルト』ではなく『ヤング≒アダルト』としている。数字記号「≒」はほぼ等しい。だから、「x ≒ y」は x と y がほぼ等しいことを表す。その意味するところは?・・・よく判らないが、見かけは大人でも大人になっていない人の映画ということだろうか。
最近の流行語「アラフォー」。なにか、得意げに「私はアラフォーよ」などと言っている人を見ているとこの映画の主人公とダブってくるのだが・・・。
先日(4月19日土曜)に、NHKテレビ「週刊ニュース深読み」で「“配偶者控除”見直し? どうなる女の生きる道」と題し、“日本に“専業主婦”がいなくなる!?政府は成長戦略の一つ「女性の就労拡大」を実現させるため、「所得税の配偶者控除」などの制度見直しを検討しています。これまで女性に期待されてきた「家事、子育て、介護の担い手」という役割が、「働き手」へと大きく転換していくかもしれません。 でも本当に企業や社会で女性を支援する仕組みがつくれるの?男性の意識は変えられるの?そして、女性たちはどう生きていくことが幸せなの?“・・・について、視聴者からのメールなど受け付けながら専門家やゲストを交えて討議をしていた(ここ参照)。
私は、用事があり途中の一部しか見ることが出来なかったので、どのような結末になったのかはわからないが、NHKらしい非常に良いテーマーを討議してると思った。
見た範囲の中で、最近の若い女性は社会で頑張っているアラフォー世代の人達を見て、「自分達はそのようになりたくない。早く結婚して主婦になりたい」と願っている人たちが増えてきているのだと言っていた。そのような意見は確かに多いようだ。以下参照。
配偶者控除 | ついっぷるトレンド HOTワード
実際、内閣府が、2012年12月、「男女共同参画社会に関する世論調査(10月調査)」(※13)をした結果を発表しているが「夫は外で働き、妻は家庭を守るべきだ」という考え方について、賛成が51,6%、反対は45,1でこの質問を始めた1992年から前回調査の2009まで一貫して賛成が減り、反対は増える傾向が続いていたが、この年初めて反転している(参考※13の2.家庭生活等に関する意識について(1) 家庭生活に関する意識。図14 を参照)。面倒であれば、以下参照。
時事ドットコム:「妻は家庭」5割が賛成=初の増加、反対上回る-内閣府調査

少子高齢化社会の今の時代、高齢化が悪いことではない。医療も発達し元気で長生きできるなら、みんなが長生きできるようにすべきだろう。根本的な問題は少子化である。
男女機会均等法に従って、女性の社会進出は進んだが、子供を産み・育てることのできる社会環境・生活環境の整備が出来ていない。そのような環境整備が出来ていない現状で、だれもかれもが仕事仕事と言っていたら、誰が家庭を守り、子供を産み育てるのか?
そして、今のように、結婚もせず子供も産まないまま、年を取り、高齢化社会の中で、安心して老後を過ごせる社会も、社会保障の整備もできていない中で、孤独な一人暮らしをしながら80歳、90歳までも生きている姿を想像してごらんなさい。若い女性が早く結婚して家庭で子供を育てたいと専業主婦願望になるのもごく自然なことだろう。女性の社会進出には、男子の働き方や賃金も含めて働きながら子供を育てられる土壌づくりこそが急がれるべき問題であろう。

人は生まれ年と共に身体は大きくなり、社会経験を積みながら精神的にも成長する。
戦中・戦後の食べるものに不自由した時代に幼・少期を過ごしてきた私たちの世代と比較すると、今の豊かな時代に育った子供たちは、もう中学生くらいになると身体的には私たちと同じ位に成長している。また、私たちの世代の者では、戦後5年経った昭和30年頃でも、義務教育である中学生を卒業する(15歳)と社会人として就職してゆく人がクラスに何人かはいた。
『学校基本調査:年次統計』(参考※14の9 高等教育機関への入学状況参照)を見ても分かるように、高校を卒業する18歳人口のうち昭和30年には、大学・短期大学、高専4年制等、専修学校などの高等教育機関への入学状況(過年度卒業者等含む)は10,1 %であったものが、昨・2013(平成25)年には77,9%(内大学。短期大学55,15%、高専4年制等0,9%、専修学校21,9%)となっているなど、私たちの年代の人達よりは知識も多く身につけている人が増えている。また、メディアも発達し情報も豊かになって知りたいことは何時でも調べればわかる時代になった。
そのような中で、20歳になると成人式を迎え、この日を境に、法的には、単独で法律行為も行えるようになり、酒を飲もうがタバコを吸おうが自由となる。世間的には、一人前の大人になった・・ということになっている。
しかし、私は時代劇ファンでよく時代劇を見るが、昔の男の子はおおよそ数え年で12 - 16歳で元服していたが、もうその頃になると、精神的にはしっかりとした大人に成長していたと言える。
今の時代はどうだろう。年齢的にも教養(知識)的には昔の人よりも成長しているかもしれないが、年齢に応じて精神的にも大きくなっていなければならないと思うのだが、こちらの方は少々未熟な人が多い様な気がする。これは、20歳を過ぎて、30代40代の人にも言える気がする。
戦前というか戦後間なしまでの、まだ豊かでないだれもが貧乏な時代に生きた人間は、小さい子供のころから家の手伝いなどをしながら苦労して苦労して育った。そんな苦労をしてゆく中で精神面でも鍛えられ、また、自分が苦労しているからこそ、人の苦労も自然と理解が出来るようになり人間的に成長していった。
しかし、戦後の高度経済成長と共に、家庭も随分と豊かになり、子供は何の不自由もなく欲しいものを買い与えられ自由にのびのびと育ち、就職も今の時代、「3K」と呼ばれる「きつい、汚い、 危険」な仕事には見向きもしなくなり、思う仕事がないと愚痴ばかり言っているのを聞くが、労力さえ惜しまなければ仕事は十分にあるのである。
高学歴化した故に、望みが高く、自分が満足できない仕事には見向きもしないだけのこと。これは、就職だけのことではなく他のどのようなことにも言えそうだ。就職した後の職場での仕事への取り組み方、会社内での上司や同僚との付き合い方、ひいては、結婚しようとする相手や友人、親などのとの間でも。いわんや、地域社会との付き合いにおいておやある。
人間年を取り成長するにつれ知識も増えるが、また社会における責任も増し、要求されることも高くなってゆく。つまり立場はますます複雑かつ難解になっていく。
そのような中にあって問題なのは、「大人とはどうあるべきか」・・・ということではないだろうか。逆に言えば、どうある人が「大人」というに値するかであろう。
私には、これが「大人」だなんていう資格はない。ただ、なにかあればすぐに切れてしまったり、気に入らないことがあればふてくされてしまう。いつも欲なことばかり考えている、そして 自己中な人、また、人に対する慈しみの気持ちや気遣いも持たない人を、単に年をとっているからといって私は、その人を「大人」とは呼びたくない。
理想的な大人とは、孟子が言うように、いつまでも赤子のような純真な心を失わず、現実とまともに向かい合って生きている人だと言えるかもしれない。
そうすれば、一緒に生活をしている夫婦もご互いに相手の立場を理解しあって、仲よく老後を過ごせるだろう・・・。私も、これを肝に銘じてこれから「自分のわがまま」ばかり云わないように気を付けよう。

冒頭の画像はマイコレクションよりJR西日本のチラシカット:グリーン車が乗り放題となる、熟年および老年夫婦(2人の年齢合計が88歳以上の夫婦)を対象とした特別企画乗車券(「トクトクきっぷ」)「フルムーン夫婦グリーンパス」の俳優二谷 英明と同じく俳優でもある白川由美夫妻。
参考:
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:ハインツ日本株式会社
http://www.heinz.jp/
※3:トマトケチャップの歴史
http://www.dole.co.jp/5aday/about/column/column_104.html
※4:国内初の「トマトケチャップ」を再現-横浜・清水屋-. ヨコハマ経済新聞
http://www.hamakei.com/headline/2922/
※5:名言の王国:名言格言集
http://meigennooukoku.net/blog-category-175.html
※6:黙斎を語る:朱子学の基本となる書
http://mokusai-web.com/shushigakukihonsho/shushigakukihonsho.html
※7:孟子:離婁章句上・下他
http://www006.upp.so-net.ne.jp/china/book8-2.html
※8:Aとは(YAの定義) - 静岡市立図書館
http://www.toshokan.city.shizuoka.jp/?page_id=206
※9:青年期の特徴とは / 倫理
http://manapedia.jp/text/index?text_id=2205
※10:ファショコン通信
http://www.tsushin.tv/
※11:ヤング≒アダルト - Yahoo!映画
http://info.movies.yahoo.co.jp/detail/tymv/id341318/
※12:「ヤング≒アダルト」 - 浪花のゾンビマン、映画館に現る!!
http://blogs.yahoo.co.jp/room304zombie/29595464.html
※13:男女共同参画社会に関する世論調査 -内閣府
http://www8.cao.go.jp/survey/h24/h24-danjo/index.html?utm_medium=referral&utm_source=pulsenews
※14:学校基本調査:年次統計
http://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/List.do?bid=000001015843

ひよ子の日

2014-04-15 | 記念日
何時もこのブログを書くのに参考にさせてもらっている「今日は何の日~毎日が記念日~」(※1)に毎月15日「ひよ子の日」があった。由緒が書かれていないのでネットで「ひよこ」を検索すると、Wikipediaで見つかった。
福岡には辛子明太子などとともに博多(福岡市)土産の定番となっている「ひよ子饅頭」がある。愛くるしいひよ子の形をした立体形の饅頭であることが特徴。
製造・販売をしているのは現在本社を福岡市南区(工場は飯塚市など)に置く株式会社ひよ子(ひよ子本舗吉野堂。※2参照)。記念日の日付は、毎月14日と15日となっているが、ひ(1)よ(4)こ(5)」の語呂合わせらしい。本当は14日にこのブログアップしたかったのだが出来なかったのが残念。
私も現役時代仕事でよく福岡へは出張する機会も多かったし、後半の2000(平成12 )年くらいまで約5年ほどは福岡へ転居して、仕事をしていたので、神戸へ帰る時などよく土産に買ったものだ。
上掲の画像がそのひよ子饅頭。画像は同社HP掲載のものを借用した。
同社HPなどによると、元々は筑豊炭坑地帯であった飯塚市の菓子屋で、屋号である「吉野堂」は、福岡から飯塚に抜ける八木山に咲く「染井吉野」に由来したものだという。私も福岡に住んでいた時、八木山展望公園の桜を見に行ったことがあるが、ミニ吉野と言った感じの素晴らしい景観だったのを記憶している。
江戸時代に、現在の飯塚市域に長崎街道が整備された。現在の飯塚市中心部に飯塚宿が、市南部(旧・筑穂町町域)に内野宿が整備され、それぞれ宿場町として栄えた。
長崎街道(正式には長崎路)とは、江戸時代に整備された脇街道の一つで、豊前国小倉(現:福岡県北九州市小倉北区)の常盤橋を始点として、筑前六(む)宿(黒崎・木屋(こやの)瀬(せ)[北九州市]、飯塚・内野[飯塚市]、山家(やまえ)・原田(はるだ)[筑紫野市])を経て、肥前に入り、天領の日見(ひみ)、長崎に至る25宿、57里(228キロ)の道のりは、筑前・筑後・肥前・肥後・薩摩の諸大名の参勤交代のほか、長崎奉行や西国筋郡代の交代、さらにはオランダ人や中国人の江戸参府や交易・献上品の運搬にも用いられたほか、様々な物・技術・文化を海外から日本へ、また、日本から海外へと伝えていった街道でもあった(長崎街道マップは、※3参照)。
例えば、食文化に大きな影響を与えた「砂糖」。南蛮貿易で長崎に入ってきた砂糖は、この街道を通り、大阪や江戸など日本各地へと広まった。
この砂糖が船運によって、経済発展していた長崎街道地域に大量に運ばれてきたため、この一帯は、菓子文化が他の地域と比べて発達しており、南蛮菓子を起源に持つ「丸ぼうろ」「カステラ」「鶏卵素麺」といった菓子が誕生した。
また、広義の長崎街道周辺には小城や飯塚といった菓子製造業が盛んな地域や、伝統行事に砂糖をふんだんに使う地域が多く、この事から、長崎街道は俗に「砂糖の道」「シュガーロード」とも呼ばれている(※4参照)。
長崎街道飯塚宿があった飯塚は、このような伝統に加えて、炭鉱開発で大手資本が進出し、豊富な財力を使った贅沢な文化が栄えた。また、炭鉱での重労働の疲労を回復するために甘いものが求められたことも、菓子の発達につながったようだ。
1897(明治30)年より飯塚で菓子屋をしていたというひよ子本舗吉野堂の2代目が夢で見たという“ひよこ”にヒントを得て、立体的なひよこの形をした饅頭がこの飯塚でうぶ声をあげたのは1912(大正元)年だ・・というから、2年前の2012(平成24)年に100周年を迎えていた勘定になる。
吉野堂は、1957(昭和32)年に、福岡市内(天神)に進出、ここでも人気となり福岡市内一円に進出、辛子明太子などとともに博多(福岡市)土産の定番に育っていったというわけだ。
ひよ子発祥の地吉野堂飯塚本店は、現在は、旧長崎街道飯塚宿の街道筋がそのままアーケードになっていると云う本町通り商店街の中にある(※4参照)。
1964(昭和39)年に開催された東京五輪をきっかけに東京へも進出し、東京駅や羽田空港などターミナルを中心に出店、現在では東京土産としても有名になり、関東以北では「東京銘菓 ひよ子」と宣伝して知名度を獲得した経緯から、福岡発祥の菓子であることを知らない者も多く「東京から来た人が福岡の人に東京土産として『ひよ子』を持ってきた」などという笑い話もあるそうだ。

1963(昭和38)年、詩人・作詞家のサトウハチローに依頼し作られた 『ひよこの歌』は、当時提供した天気予報(RKBテレビ)のバックミュージックとして、テレビを通じて親しまれ、またソノ・シートを製作して、幼稚園や保育園などにも配布し、子どもたちや先生方からたいへん喜ばれたという(ここ参照)。
又、1965(昭和40)年には それまで「ひげ文字」で表現されていた ひよ子の文字も その当時の 女性書道家 町春草により かわいい 「ひよ子文字」 (ここ参照)となり高度経済成長の中での 広告デザインの 先駆けともなった。
先に書いたサトウハチローの 『ひよこの歌』、作曲は、あの有名な童謡『ちいさい秋みつけた』や『めだかの学校』の作曲家中田喜直のものであり、一度聞いてみたいと思ったが、同社HPにも掲載がなく聞けないのが残念。
そういえば、サトウハチロー(作詞)と、中田喜直(作曲)による童謡に『可愛いかくれんぼ』(1951年)があった。1番の歌詞だけを以下に書こう。

「ひよこがね
お庭でぴょこぴょこ かくれんぼ
どんなにじょうずに かくれても
黄色いあんよが 見えてるよ
だんだん だれが めっかった」

この歌今もよく歌われているようだが、歌は以下で聞ける。↓
かわいいかくれんぼ - YouTube
【童謡】かわいいかくれんぼ-

貝原益軒の『日本釈名』(元禄12年)には、「卵(カヒコ) 鳥の玉子也、かへる子也、かへるとは玉子の変わりて、ひよことなるを云」とあり、又、寺島良安の『和漢三才図絵』(正徳2頃年)四十四 鳥の用には、「卵 和名 加比古 音敷 (ふ)・・とある(※5:「古事類苑.」 動物部のコマ番号62-63参照)
卵を玉子とも書くのは形が丸いところからきたと思われるが、魂(たま)の入ったものと考えたためとも解されている。古語は「カヒコ」で、カヒコは単にカヒとも云つた。其のカヒと云ふは、『和名抄』によると貝や虫の皮甲などをも云ひ、要するに、殼である。故にカヒコは「カヘルコ」のつまったものと、貝のような石灰質の殻に入った子という意味からきたとも解されているようだ(ここ参照)。

上掲の画像は循環する原因と結果

ところで、 鶏が卵を産みヒナになりそれがひよこになる。この循環を繰り返しているが、どちらとも判定がつかないことの「たとえ」に「タマゴが先かニワトリが先か」という言葉がある。
現在家禽となっている鶏(ニワトリ)の祖先は今でも、インドからマレー半島、スマトラ、フィリピンなど東南アジア熱帯地域のジャングルに生息している「野鶏(ヤケイ)」と呼ばれる野生のニワトリのひとつである「セキショクヤケイ」だとする説(単元節)とセキショクヤケイとハイイロヤケイの雑種の子孫であるとする多元説(交雑説)があるようだ。
いずれにしても、ニワトリの身体的特徴の一つとして、ニワトリの足をよく見ると「鱗(ウロコ)」の跡が観察できる。これは、鳥類爬虫類から進化したことを物語っているそうだ。そうであれば、爬虫類の産んだタマゴから鳥類の祖先が生まれたと考えるのが自然だとされている。
また、現在のように様々な種類のニワトリ(鶏種)に分かれたのは、あるタマゴから新しい種類のニワトリが産まれたからで、生物の進化からいうとニワトリとタマゴでは、やはり「タマゴが先」ということになりのだそうだ(ここ参照)。

ニワトリ(鶏)は肉と卵を食用に、羽を衣服(特に防寒具)や寝具に利用するため、世界中で飼育されている家禽である(養鶏)であり、東南アジアから中国南部において家畜化された後、日本においては4世紀から5世紀ごろに伝来したと言われる。
ただ、天武天皇 4年4月17日(675年5月19日)の肉食禁止令において、ウシ・ウマ・イヌ・ニホンザル・ニワトリを食べることが禁じられている(※6参照)が、ニワトリは神の使いとする神道に配慮したからだと考えられており、その後は時を告げる鳥として神聖視され、また、愛玩動物としても扱われていた。
武士の誕生とともに鍛練として狩猟が行われ、野鳥の肉を食すようになったが、まだ、ニワトリは生んだ卵も含めて食用とは看做されていなかった。
江戸時代でも、人間の食料がやっとという時代。貴重な穀物をエサとする鶏を「鶏肉」として飼育するのは至難の業。中期以降野山に生息する野鳥を捕食していたところ、乱獲で野鳥が絶滅することを恐れた幕府によって野鳥の食用を禁止する措置がとられた。そしてこのころには、無精卵孵化しない事が知られるようになると、鶏卵を食しても殺生にはあたらないとして、ようやく食用とされるようになり、採卵用としてニワトリが飼われるようになった。しかし、江戸時代でも鶏の肉はまだあまり食べられてはいなかったようだ。

上掲の画像は、『和漢三才図会』の巻第四十二の原禽類 鶏の項。

先に紹介した1712(正徳2)頃年に出版された寺島良安著図説百科事典『和漢三才図会』の巻第四十二の原禽類 鶏の項、冒頭には、以下のように書かれている。

鶏 (ニワトリ)和名加介 又云う久太加介 又云う木綿附(ユフツケ)鳥 俗云庭鳥。
本綱に鶏は者也 能く時を稽(カンカフ)也 其の大なる者を蜀と日ふ 、小なる者を荊と日ふ、其の雛をヒヨコ(日與子)と日ふ…(以下略)・・と(詳細は参考※7のコマ番号81。また※8のここ 参照)。
ここで、和名加介 又云う久太加介についてはよく判らないが、何故「綿附(ユフツケ)鳥」と言ったかは参考※9 :「ゆふつげどり【木綿付鳥】 | 情報言語学研究室」には、いろいろと、「木綿付鳥」の現れる文献を例示し、《補助》として、小学館『日本国語大辞典』第二版、角川『古語大辞典』を引用しているが、それらによると、
「ゆうつけ‐どり[ゆふつけ:]【木綿付鳥】〔名〕(後世「ゆうづけどり」「ゆうつげどり」とも。古代、世の乱れたとき、四境の祭といって、鶏に木綿(ゆう)をつけて、京城四境の関でまつったという故事に基づく。木綿をつけた鶏。また、鶏の異称。木綿付の鳥。*古今集〔九〇五(延喜五)~九一四(延喜一四)〕恋一・五三六「相坂のゆふつけどりもわがごとく人やこひしきねのみなくらむ〈よみ人しらず〉」の歌がある(小学館『日本国語大辞典』)。
鶏は鬼気や妖怪の活躍する夜の時間の終る晨(あした)を告げる鳥として、古くから邪気を払う力があるとされた。中世の霊気祭には、鶏の絵に唾をかけて祓(はらへ)をしたり(看聞御記・永享八・三・二七)、近世にも節分の夜、厄払(やくはらひ)が厄を払った後に鶏の鳴き声をなして去ったという(日次紀事・十二月)。院政期以後「逢坂のゆふつけ鳥」の形が多く用いられるが、「たがみそぎゆふつけとりか唐衣たつたの山にをりはへてなく(古今集・雑下)」の竜田山(たつたやま)も、平城京への西の入り口にあり、古く鶏に木綿を付けて祓をすることが行われたのであろう(角川『古語大辞典』)。・・・ということであり、結論としては、古くニワトリに木綿を付け、ニワトリの鳴き声をなして祓をすることが行われていたことからつけられた名前ということのようだ。
又、『和漢三才図会』に出てくる蜀・荊・・と呼ばれる鳥は何か?

以下参考※10の【鷄】では、『塩鉄論』には以下のようなことが記されているという。
郭璞曰く、「鷄大なる者蜀とは、今の蜀鷄なり。鷄、蜀魯荊越の諸種有り。越鷄は小、蜀鷄は大。魯鷄は又其の大なる者なり」と。『荘子』に曰く、「越鷄は鵠卵を伏する能はざるも、魯鷄固より能くす」と(ことわざ辞典参照)。成玄英(※10の【鷄】の注釈5参照)曰く、「越鷄は荊鷄なり。魯鷄は今の蜀鷄なり」・・・と。
中国ではニワトリは「時を告げる鳥として神聖視されていたので「蜀鷄」は体も大きいが大きな声で長く時を告げたので珍重されたのだろう。それに反して、越鷄は体も小さく鳴き声も小さかったのだろう。江戸前期の食物本草『本朝食鑑』巻5 禽之二原禽類十三種の鶏項には、「大なる者を唐麻呂と称す 是れ素華自り来るの之謂ひか乎 麻呂は者古へ男子の之通称也」とあり、江戸初期には「大唐丸」(蜀鶏)他、数種のニワトリが中国大陸から日本へ渡ってきて在来種と混じり合ったのだろう(参考※11のコマ番号25。また、※8のここ参照)。

現在の日本の家禽(※12のここ参照)に、世界的に有名な天然記念物の長鳴鶏「蜀鶏(トウマル)」がいる。三長鳴鶏(唐丸、東天紅、声良)の中で、最もニワトリらしい鳴き声をする。主たる飼育地は新潟県で、中国渡来の大唐丸と小国系統の長鳴鶏種とを交配したものという、体重は雄3,750gと大型だ。以下で一度その鳴き声聞いてみたら・・・、すごく長い間鳴いているよ・・・。

蜀鶏

『和漢三才図会』巻第四十二の原禽類の項の最後には、以下のようなことも書かれている。
「小児五歳以下にして鶏を食えば、かい虫を生ず。鶏肉と糯米(もちごめ)と同じく食えばかい虫を生ず。鶏肉を葫(にんにく)・蒜(ねぎ)・芥(からし)・李(すもも)と合わせて之を食ふベからず。鶏肉と生葱(なまねぎ)と同じく食えば虫痔となる。鶏肉を鯉魚と同じく食へば癰癤(ようせつ。ここ参照))と成る」・・・と。
これらの記述から、今では常識のようになっているニワトリとネギを一緒に食べると寄生虫を生ずると信じられていたようだ。これらの食い合わせのほとんどは迷信だろう。現在では食用の鳥といえばニワトリだが、江戸時代にはニワトリは中国同様、「時を告げる家禽」として食用にすることを忌避する傾向があり、食用の鳥といえば鴨が一般的で、また最も美味しいものとされていたようだ。しかし、先にも書いたように、採卵用としてニワトリが飼われるようになり、卵は食べられるようになっていた。そして、天明年間(1781年-1789年)には「万宝料理秘密箱」という鶏卵の料理書も出版されているという(※13参照)。
又、江戸時代後期の『守貞漫稿』(喜多川守貞著、 嘉永5年-1853年)の近世風俗志 第五遍生業下 “揚出し鶏卵売” には、以下の記載がある。(参考※14の.109コマ参照)。 
「鶏卵の水煮売る。価大約廿文。
詞に「たまごたまご」と云。必ず二声のみ。
一ト声も亦三声も云はず。
因に云。
四月八日には鶏とあひるの玉子を売る。
江俗云ひ伝ふ。
今日家鴨(あひる)の卵を食する者は
中風を不病(やまざる)の呪と。京阪此事無き也」。
とあり、文化年間以降京都や大阪、江戸においてニワトリとあひるの玉子が食されるようになったとの記述がある。また、文化以来、京阪はかしわという鶏を葱鍋にして食べているが江戸では、しゃもという闘鶏を同じように煮て食べていたことが書かれている(※※14の80コマ参照)。

「苞にする十の命や寒鶏卵(かんたまご)」 (太祗 「太祗句集後篇」)
江戸時代中期の俳人 炭太祇の作で、句集として『太祇句選』、『太祇句選後編』(※15参照)などがある。
寒卵は寒玉子のことで、季語は、三冬。「にする」は、「お土産にする」でもよいが、「藁苞(わらほう」にして卵を包み込んだもの」と解したほうがよさそう。まだ生きている寒卵、ほのかに温いのかもしれない。寒の卵は滋養があると言われている。太祇は、藁苞に10個玉子を包んでどこの土産にするのだろうか。ひょっとしたらその相手は病気でもしていたのだろうか・・・。
当時のニワトリは、今のブロイラーのように毎日卵を産まなかった。卵は、江戸近郊の百姓家が、庭で放し飼いにしている地鶏が自然に産んだ卵を、野菜の商いのついでに売りに来るものだったようで、価格も今とは違って高価であったようだ。江戸末期には生卵やゆで卵の行商人もいたが、八百屋の一角などにもみ殻を敷き詰めた板箱を置き、そこに卵を一つずつ立てて売られている様子が当時の浮世絵に描かれていたのを見たような気もする。
『守貞謾稿』には、「うどんの上に卵焼き、かまぼこ、しいたけ、慈姑(くわい)などを具に食べる」「卵とじうどんにする」などといったことも書かれており。卵の値段も書かれているが、かけそばやうどんが一杯十六文のところ玉子とじうどんとなると三十二文と、ぜいたくな食べ物だったのかも・・。。

さて、「ひよこ」の語源は、先に書いたサトウハチローの 動揺『可愛いかくれんぼ』の歌詞「お庭でぴょこぴょこ かくれんぼ」の「ぴょこぴょこ」は「ひょこひょこ」と同じこと。小きざみにはねるさまや気軽に出歩くさま(ひょいひょい)をいう。だから、そんな「ひょこひょこ」から「ひよこ」になった・・・なんて説も聞くが、あまり信ぴょう性はないようだ。
広義では、「ひよこ」は、孵化して間もない鳥の子。狭義では、特にニワトリ(鶏)のひな鳥のことを言う。だから、「ひよこ」は漢字で「雛」と書く。『和漢三才図絵』には、和名比奈(ヒナ)、今比興古(ヒヨコ)と云うとある。
「雛」は雛人形の「ひな」で、「雛人形」は鳥の雛のごとく小さい人形の意。古くはひひな、あるいはひいなといった。生まれたばかりの鳥の子がヒヒと鳴く、即ち「ヒヒナク」のつまったのが語源という。したがって、幼い子の意味から、幼稚な者や未熟な者をさす言葉としても使われている。また、広義では、他の鳥(特にアヒル)のひな鳥の呼称としても用いられることがある。
 
現代は、鶏の肉は、焼鳥や、唐揚げ(フライド・チキン)、ロースト・チキン、水炊きや親子丼の具などに、また、卵はゆで卵だけでなく、目玉焼き、オムレツ、玉子焼き、だし巻卵、茶碗蒸しや、各種卵とじなどに、そして、最近では新鮮な生たまごも美味しいと評判だ。この様に、鶏肉と鶏卵は、今の私たちの食生活には、無くてはならない食材となっており、重要なタンパク質源でもある。
この様な、鶏肉として食べているニワトリも卵を産むニワトリも、かつては、卵肉兼用種(※16のここ参照)の同じニワトリであった。
戦時中、私は母方の田舎徳島のへ疎開をしていたが疎開先は徳島では大手の農家で、田畑だけではなく山も持ち、家には牛やニワトリなども買っていた。それで、卵をとるだけではなく、祭りの時など飼っているニワトリを家の庭先で首を締めてさばいているのを見て、都会育ちの私など、しばらく鶏肉を食べるのが嫌になったのを思い出す。また、戦後神戸へ帰ってきても焼け野原となっているところにバラックを建てて鶏を飼っているところが家の近所にあった。
戦後のアメリカ駐留軍の影響から鶏肉料理の需要が増大し、農家が内職的に食肉用としてニワトリを飼育するようになったのをきっかけとして昭和20年代後半からブロイラー産業が開始され、昭和40年にはアメリカからブロイラー用(肉専用種)のヒナ鶏が輸入され、それに伴い生産量も急速に増加。
ブロイラーは、ひなを殆ど運動させず、配合飼料で育てた若鶏を言い、その生育がとても早い。したがって価格も安くなる。それに、自然のニワトリに比べれば肉が柔らかいことも特徴で、かえってその肉の柔らかさが気に入られ、鶏肉用としては、今では、一部地鶏のもの以外卵肉兼用種は鶏肉用としての役割を失い、鶏肉用としてはアメリカ発祥のブロイラーがすっかり日本に定着し、日本人の食を支えるようになった。
ところでニワトリは交尾をしてもしなくても卵を産むのですよ・・・。
ニワトリは交尾をしてもしなくても約25時間に1個の割合でたまごを産むそうだ。 交尾をしていれば「有精卵」(受精した卵)が産まれ、交尾をしていなければ「無精卵」(未受精卵)が産まれる。
最近は有精卵が特殊卵(※のここ参照)として売られているが、スーパー等で売られている普通のタマゴは、ニワトリが「ケージ」と呼ばれる(鳥かご)の中に1羽ずつ入れられて、無精卵を産んでいる(ケージ飼い) 。
「有精卵」を産ませるためには、オス鶏1羽にメス鶏10羽くらいの割合で混飼(こんし)する放し飼いまたは平飼いが行われる(養鶏、また、※17のQ&A参照)。
一般に鶏卵は調理後のものを「玉子」とし、生の場合「卵」としていうるようだ。だから、これ以降は、タマゴをこの呼び方で書く。上記で説明したように、今では、料理で単に「卵」と言う場合は鶏卵の無精卵を指していると思えばよい。

それでは、日本全国で、一体どれくらいの採卵用ニワトリが飼育されているのだろう。
平成25年2月1日現在の農林水産省統計「畜産統計」平成25年7月2日公表によれば、
全国で卵鶏の飼養戸数は2,650個で、飼料価格の高騰による廃業等で前年に比べ160戸(5,7%)減少している。又、使用羽数は1億7,223万8,000羽で前年に比べて271万1,000羽(1,5%)減少しているそうだ。尚1戸当たり成鶏めす飼養羽数は5万2,000羽で、前年に比べて239万2,000羽増加している。
又、ブロイラーの飼養戸数は2,420戸で、飼養羽数は1億3,162万4,000羽で、一戸当たり飼養羽数は5万4,400羽。出荷戸数は2,440戸で、出荷羽数は6億4,977羽で、1戸当たり出荷羽数は26万6,3000派であった。なお採卵鶏の飼養戸数、羽数の多い地域上位4か所を見ると以下のようになっている(単位:羽数は千羽、飼育戸数は戸)
飼育戸数では、愛知県 186、鹿児島県147、千葉県14茨城県 144の順。
飼養羽数では、茨城県13, 151、千葉県11,757、鹿児島県9,539、愛知県9,222  の順となっている。

上記統計を見ても分かるように、採卵用のニワトリは当然全て雌鳥(めんどり)である。雌鶏は、先にも書いたように約25時間に1個の割合でタマゴを産むというから、雌鳥は狭い折に入れられてほぼ毎日1個の卵を産まされていると言ってよいだろう。全国でブロイラーの飼養羽数は1億3,162万4,000羽もいるというから日本の人口とほぼ同じであり、日本人は毎日1人あたり玉子1個は食べている勘定になる。それに、地鶏も食べているのだからすごい量を消費していることになる。

上掲の画像は近代的なブロイラー飼育場。

ニワトリは孵化(ふ化)して4ケ月前後でたまごを産みだすそうだが、初玉子は、その産み始めの小さい卵のことをいい、地方によっては、お産をする女性に食べさせると安産になるということで親しまれているようだ。
受精した卵をふ卵器に入れ、摂氏38度位で温めると、21日目位に、自らの力で殻を割り、ヒナが誕生をする。それがひよこというものだ。生まれたばかりの元気良くピヨピヨと鳴いているひよこは実にかわいらしい。

「苗売のとなり子どものひよこ売 」(星野麥丘人。※18参照)

私たちが子供の頃、戦中戦後など、縁日ではよくひよこを箱に入れて売っていた.小さい頃の話なのでよくは覚えていないが、1度は買ったものの、数日は可愛い可愛いと言いながら遊んでいたものの数日で冷たくなって死んでいた記憶がある。可愛そうなことをしたものだ。 以来、余り動物や昆虫類など生き物は買わなくなった。
この様な縁日などで売られていたひよこは、卵を産めない雄(おす)ばかりだということを知ったのは成人してからのことである。卵を産むことのできない雄が子供のおもちゃのように売られていた。大きくなると、世話に困るし餌代もかかる哀れな雄のひよこであった。
買ったひよこの値段などとんと記憶にないが、いずれにしても小さな子供が買うのだから大した値段ではない。そんなひよこを1日で何匹売っていたかしれないが大した額にならないだろう。江戸時代の卵売りの方がよほど商売になったかもしれない。そんなひよこを売ってひよこ売はどんな暮らしをしていたのだろうか。そんなことでしなければ生きられなかった戦後は誰もが非常に貧しかった。

雌は卵を産む鶏だ、生まれて卵が産める間は大事にされる。しかし、卵が産めなくなるとどうなるのだろう・・・。
孵卵場は「卵をヒナに孵化させる所」であるが、卵の孵化は養鶏場がしていると思われがちなのだが、今の時代専門化が進み、卵の孵化は孵卵場と言う専門の業者が担当している事がほとんどのようだという。
そんな孵卵場では、卵からひながかえると、まず、「雌雄鑑別」が行われ、雌のひな(雄鶏)が、選り抜かれる。孵ったひなの約半数は雄である。卵を産むことのできない雄は、塩化ビニール製の箱の中にポイポイと放り込まれ、箱がひなで一杯になると、その箱は場内の片隅に無造作に積み重ねられ、次々と重ねてゆくと下段に積み重ねられた箱は重みで、押しつぶされて行くだろう。何段も重ねられた箱の中にいるひよこの運命は・・?考えただけでゾットする。
人間の都合で、どんどん卵を産まされ、役に立たない雄は食用にもされず育てるだけ無駄と圧死させられ、最後は廃棄物処理されるそうだ。
圧死させられるひよこ
一方処分されずに残った雌のニワトリも卵を産みはじめてから、養鶏場では約1年6ケ月ほどの間、卵を産ませられる。
その養鶏場の雌のニワトリの一生は、誕生してから約2年という短い期間で幕を閉じ、最終処分業者が引き取るらしい。これを「淘汰(とうた)する」といい、処分される鶏を「淘汰鶏」と呼ぶのだとか。
毎日健康の為とかなんとか言って食用にされている玉子。その卵からかえった可愛いひよこは雄・雌ともに可愛そうな運命が待っている。なんたる人間の身勝手さか・・・。
人が生きるということは・・・、他の生あるものを食べるということに通じる。人が生きてゆくために多くの生物が犠牲になって、人を生かしてくれているのだ、そう思うと、生きていけることに心から感謝しなければいけないだろう。「有難う!」。この感謝気持ちだけは忘れてはいけないだろう(卵のことは参考の※17を参照)。


※1:今日は何の日~毎日が記念日~
http://www.nnh.to/04/15.html
※2:ひよ子本舗吉野堂
http://www.hiyoko.co.jp/
※3:長崎街道内野宿:長崎街道マップ
http://www.nagasakikaido-uchinoshuku.jp/nagasaki-kaidou.html
※4:シュガーロード長崎街道(1)~飯塚生まれのお菓子たち
http://futatsumekusa.air-nifty.com/blog/2005/12/post_62de.html
※5:古事類苑. 動物部3-近代デジタルライブラリー
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/897896
※6:日本の肉食禁止の歴史 食の雑学 補足12
http://www.in-ava.com/hosoku11.html
※7: 和漢三才図会. 中之巻(第37巻-54巻)-近代デジタルライブラリー
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898161
※8:高知のにわとり:サイトマップ
http://ameblo.jp/tachibana2007/theme1-10006420121.html#main
※9:ゆふつげどり【木綿付鳥】 | 情報言語学研究室
http://club.ap.teacup.com/hagi/1064.html
※10:加納喜光研究室: {土+卑}雅の研究-中国博物誌の一斑-
http://chubun.hum.ibaraki.ac.jp/kano/peper/piya/index.htm
※11:本朝食鑑 12巻-国立国会図書館目次
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2607234?tocOpened=1
※12:日本家禽学会
http://jpn-psa.jp/index.html
※13:余録:「万宝料理秘密箱」。何やら… - 毎日新聞
http://mainichi.jp/opinion/news/20131218k0000m070156000c.html
※14:類聚近世風俗志 : 原名守貞漫稿-近代デジタルライブラリー
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444386/065
※15:太祇句選後編
http://www.geocities.jp/haikunomori/taigi2.html
※16: 畜産Zoo鑑:鶏
http://zookan.lin.gr.jp/kototen/tori/index.htm
※17:たまご博物館
http://homepage3.nifty.com/takakis2/index.htm
日本釈名(原本)
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=XYA8-04801&IMG_SIZE=&IMG_NO=2
ひよ子 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B2%E3%82%88%E5%AD%90




ロータス(蓮)デー

2014-04-08 | 記念日
日本記念日協会(※1)に4月8日の記念日として登録しているものに「ロータス(蓮)デー」がある。
ロータス(蓮)は、仏教では泥水の中から生じ清浄な美しい花を咲かせる姿が智慧慈悲の象徴とされ様々に意匠されている。例えば、如来像の台座などの三昧耶形は蓮の花(金剛界曼荼羅では開花した蓮華)をかたどった蓮華座である。
日本の各地の寺では、4月8日に、釈迦の誕生を祝う仏教行事潅仏会」(花祭り、仏生会、浴仏会)の法要などが行われる(寺によっては月遅れの5月8日に行われるところもある)。
日本各地の寺院で行われる潅仏会では、いろいろな花で飾った花御堂という小堂を境内に設け、その中に銅製の誕生仏を潅仏盤と呼ぶ水盤上に安置し、その像の頭上から柄杓で甘露(アムリタ,amṛta)にみたたて甘茶を注ぐのが一般的。
釈迦様は摩耶夫人の右脇から生まれると、七歩すすんで右手を挙げてを指し、左手を垂下してを指し、「天上天下唯我独尊」と唱えられたといわれるが、誕生仏とか誕生釈迦仏とか呼ぶ仏像は、この姿をあらわしたもの。
誕生仏に甘茶を注ぐのは釈迦の誕生時、産湯を使わせるために八大竜王が天から清浄の水を吐きそそいで産湯をつかわせたという伝説に由来すると言われている。
インドでは王の即位や立太子での風習であった灌頂の一例であろう。
一方、花御堂の謂れについては、摩耶夫人がお釈迦様を出産したのは、釈迦の父である釈迦族 (シャーキャ族)の王シュッドーダナ(浄飯王)の居城、カピラヴァストゥ(カピラ城)の東方にあった藍毘尼園(ルンビニー園)の無憂樹の下であったとの伝説があり、花御堂は、これになぞらえたものであると考えられている。(冒頭に掲載の画像は奈良東大寺 誕生仏)。

その釈迦族の王子、シッダールタ(釈迦の出家以前の名前)の僧としての生涯を描きあげた仏教物語の大作が、潮出版社の少年漫画雑誌『希望の友』(後に『少年ワールド』→『コミックトム』と改題)に連載された漫画『ブッダ(BUDDHA)』であった。
この漫画『ブッダ』は、Wikipedia によれば、2010(平成22)年12月時点で単行本の発行部数が2000万部を超える売上となっており、アメリカでも高い評価を受け、2004年および2005年のアイズナー賞最優秀国際作品部門を受賞しているそうだ。
その超大作が、2010(平成22)年7月に『手塚治虫のブッダ』の題名で全3部作として東映でアニメ映画化されることが発表され、2011(平成23)年5月に第1部『手塚治虫のブッダ 赤い砂漠よ!美しく』が公開され、翌・2012(平成24)年第35回日本アカデミー賞の優秀アニメーション作品賞に選ばれている。そして、今年・2014(平成26)年2月8日に第2部『BUDDHA2 手塚治虫のブッダ -終わりなき旅-』が公開された。以下はそのカンヌ国際映画祭用特別映像である。
『BUDDHA2 手塚治虫のブッダ -終わりなき旅-』カンヌ国際映画祭用特別上映=YouTube

この仏教の祖であり、人々をしあわせへと導くお釈迦様の誕生日(花まつり)であるこの日を「し(4)あわ(8)せを分かち合い、感謝する日」として、その象徴の蓮から「ロータスデー」として記念日登録をしたのは映画『手塚治虫のブッダ 赤い砂漠よ!美しく』(※2)を手がける東映(株)だそうである。今日の記念日「ロータス(蓮)デー」は、この映画の宣伝用のものなのだろう。

インドは仏教発祥の地であり、その仏教の開祖と呼ばれる「釈迦」は、釈迦牟尼(しゃかむに、[zaakya-muni](Śākyamuni)、シャーキャ・ムニ)の略で、彼の部族名もしくは国名でもあり、牟尼は聖者・修行者の意味。つまり釈迦牟尼は、「釈迦族の聖者」という意味の尊称であり、他にもいろいろな称号で呼ばれるが、称号だけを残し、世尊、仏陀、ブッダ、如来とも略して呼ぶが、日本では、一般にお釈迦様と呼ばれることが多い。
その本名(俗名)は、パーリ語形 ゴータマ・シッダッタ(Gotama Siddhattha)またはサンスクリット語形 ガウタマ・シッダールタ([Gautama Siddhārtha])、漢訳では瞿曇 悉達多(クドン・シッダッタ)と伝えられる。シッダッタ」とは古代インドパーリ語で「目的を成就した者」という意味だそうである。
ただ、釈迦の生きた古代インドの状況もよくわからない上に、余りにも神格化された為、ブッダがその時代にどのような苦悩や喜びの感情を持って生きていた人なのか、そして何を悟ったのか等、その歴史的な人間としての面がよくわからず、一時期はその史的存在さえも疑われたことがあった。
日本のインド哲学、仏教学の権威であった中村元(はじめ)は、パーリ語聖典『スッタニパータ』の韻文部分が恐らく最も成立が古いとし(『ブッダのことば スッタニパータ』 中村元訳注・解説、岩波書店)、日本の学会では大筋においてこの説を踏襲しているが、釈迦の伝記としての仏伝にはこれと成立時期が異なるものも多い。
しかし、1868年、イギリスの考古学者A・フェラーがネパール南部のバダリア(現在のルンビニー、Lumbini、藍毘尼)で遺跡が発見され、そこで出土した石柱には、インド古代文字で、「アショーカ王が即位後20年を経て、自らここに来て祭りを行った。ここでブッダ釈迦牟尼が誕生されたからである」と刻まれていたそうで、この碑文の存在で、釈迦の実在が史上初めて証明され、同時にここが仏陀生誕の地であることが判明している(仏教の八大聖地の一つとされている)。
ただ、釈迦の没年、すなわち仏滅年代の確定についてアショーカ王の即位年を基準とするが、仏滅後何年がアショーカ王即位年であるかについて、異なる伝承があり、いずれが正確かを確認する術がなく、よって歴史学の常ではあるが、伝説なのか史実なのか区別が明確でない記述もあるようだ。
従来、釈迦の生涯を取り扱った著書は多いが、そんな中に中村元博士の『ゴータマブッダ Ⅰ・Ⅱ』(※3参照)があり、この著書は、仏典だけでなく、ジャイナ教文献、ウパニシャッド文献などを援用して生々しい釈迦の実像を描き出ししており、その研究成果の果たした役割は非常に評価されているようであり、恐らく、手塚治虫もこの著書を参考にしているものと思われる。

手塚の漫画『ブッダ』は、実在した人物と手塚の創作した人物が入り乱れ独自の世界観で貫かれているが、元々は、手塚の漫画『火の鳥』の一編として「火の鳥 東洋編」の名前で潮出版社から企画されたものであったらしい。
『火の鳥』は、手塚が漫画家として活動を始めた初期の頃(1954=昭和29年)から晩年(1986=昭和61年)まで手がけられており、手塚がライフワークと位置付けた漫画作品であり、古代からはるか未来まで、日本を主とした地球や宇宙を舞台に、生命の本質・人間が、手塚自身の独特な思想を根底に壮大なスケールで描かれたもの。物語は「火の鳥」と呼ばれる鳥が登場し火の鳥の血を飲めば永遠の命を得られるという設定の元、主人公たちはその火の鳥(不死鳥)と関わりながら悩み、苦しみ、闘い、残酷な運命に翻弄され続ける。
『火の鳥』の連載は1954(昭和29)年の「黎明編」を初めとする「〇〇編」と名の付く複数の編から成り立っている。
しかし、漫画雑誌『 COM』が休刊時に、連載の『火の鳥』をそのまま中断してしまうか、どこか別の雑誌へ移すかが問題となった時、『希望の友』編集者より、連載希望があったが、同誌は少年雑誌であり、連載するには内容の程度をすこし下げねばならず『火の鳥』のような漫画マニア向けのものは、『希望の友』のほかの作品とは全然あわず「火の鳥」のカラーが変わってしまうだろうから、それでは、テーマは同じだが、別のほかの作品の大河ドラマを描いてみようということになったようである。
そして、「お釈迦様の伝記」を書こうということになったが、仏教臭くならないよう、少しフィクションを入れた手塚流の釈迦、つまり,シッダルタをめぐる人間ドラマを描こうということになり、タイトルも釈迦ではなく英語タイトルの「ブッダ」にしたという。この件に関して、手塚は、以下のように語っているという。
「シッダルタのありがたさとか、シッダルタの教えよりも人間そのものを掘り下げたい。
仏陀の生きざまを、ぼくなりの主観を入れて描きたかった。
しかし、仏陀の生きざまだけでは、話が平坦になってしまうでしょう。
その時代の色々な人間の生きざまというものを並行して描かないと、その時代になぜ仏教がひろまったか、なぜシッダルタという人があそこまでしなければならなかったか、という必然性みたいのものが描けません。ですから、仏陀とまったく関係ないような人を何十人も出して、その人たちの生きざまをもあわせて描く。そのことによって、あの時代にどうしても仏教が必要だったというところまでいきたいのです。
そして、仏教と人間が生きるということを結びつけて、一つの大河ドラマ、大げさにいえばビルドゥングス・ロマン(主人公の内面的な人間形成の過程を描いた作品のこと)のようなものを、描きたいと思っています。」・・・と(参考※4:潮出版社-手塚治虫「ブッダ」の手塚治虫と「ブッダ」より引用)。
そのため漫画『ブッダ』は『火の鳥』と作風・テーマ性が共通し、鼻が大きな人物(猿田彦)など共通の登場人物が数人出てくる。
『ブッダ』は、シャカ族の国の王子として生まれたゴータマ・シッダッタが、その身分を捨てて29歳で出家し、6年間の激しい苦行を行い、そして、苦行を捨てた後に35歳で悟りを得て、人々に教えを広め、80歳で亡くなるまでの一代記を描いている。
全12巻からなる漫画『ブッダ』第1巻 背表紙には、
紀元前6世紀、今のネパールの小族シャカ族の王族として生まれた釈尊。だが、彼の周りにはカースト制の厳しい身分差別の中で苦しむ人々がいた。「身分を決めたのは人間、身分で苦しむのも人間」人はなぜ生きるのか、人はなぜ苦しむのか・・・。命の神秘な謎を解くため、彼は修行にはげんだ。」とあり、
第1章 バラモン の冒頭プロローグとして、バラモンによる差別の発生とバラモンの堕落、人々が新しい教えを待ちのぞんでいることが語られる。
そして、いきなり、次のような物語が語られている。
吹雪の中で行き倒れになった僧を、熊とウサギと狐が発見し、熊は魚を、狐は木の実を僧に与えるが、ウサギは何も持ってくることができなかったので、みずからを火の中に投じて僧に与え、神となって天にのぼった。アシタの師ゴシャラは、この体験によって悟りをひらいた。アシタは弟子のナラダッタに、ウサギが自分で身を焼いたナゾがとける偉大な人を探してくるよう命じた。そして、ナラダッタはあてのない救世主探しの旅に出た・・・・。(物語あらすじは※4参照)、このウサギの話は、仏教説話 『ジャータカ』(※6の兎の話参照) や 『今昔物語』(※7の三の獣、菩薩の道を行じ、兎身を焼く話を参照)に出てくる。
『ブッダ』全体のストーリーは仏典に沿いながらも、仏典に登場する人物の改変を行ったり、また、手塚が創造した架空の人物を登場させたりして、物語がドラマチックに進行する中で、ブッダの悟りとは何か、ブッダの教えとはどういうものなのか・・・が、自然に語られていく展開となっている。
歴史上実在した人物であるゴータマ・ブッダの一生が、手塚の卓越したストーリー展開で、生き生きと描かれており、先にも手塚が語っていたように、抹香くさいと敬遠されがちな一般のブッダ伝をこの漫画『ブッダ』 はそれを打ち破り、壮大な、大河ドラマに仕立てあげているのは流石だ。

古代インドは、インド・アーリア人の部族のひとつバラタ族が征服したとも言われており、インド人は自分たちの住む国のことを彼らの名でもある「バーラタ」とか「バラタ族の地」という意味で「バーラタヴァルシャ」と呼んでいた。
「古き物語」を意味する言葉の略称で呼称される一群のヒンドゥー聖典の総称である『プラーナ』(prāṇa)は、その多くの著述を、天の啓示を受けて伝えた大叙事詩『マハーバーラタ』((Mahabharata) の登場人物でもあり、著述者でもあるとされる伝説上のリシ(聖仙)ヴィヤーサ (vyaasa) のものとされている。


上掲の画像はヴィヤーサ。

この大叙事詩『マハーバーラタ』(※8参照) はヒンドゥー教の聖典のうちでも重視されるものの1つで、グプタ朝(西暦320年-550年)ごろに成立したと見なされている。
「マハーバーラタ」はパーンダヴァ族とカウラヴァ族族(この二つを合わせてバラタ族=バーラタ)の争い・・・つまり、バラタ族の王位継承問題に端を発して同族の間で起こった対立と抗争と戦闘を綴ったものである(※11 参照 )。
同叙事詩は、世界の始まりから始まる。その後、物語はバラタ族=バーラタの争いを軸に進められ、物語の登場人物が誰かに教訓を施したり、諭したりするときに違う物語や教典などが語られるという構成で、千夜一夜物語と似た構成になっているが、大きな相違点としては、バラタ族の王位継承問題に端を発して同族のあいだでおこった対立と抗争と戦闘を綴った“戦記物語”である。しかし、同門が骨肉相争ったとはいえ、全体としては王族バラタの波瀾万丈・栄枯盛衰の物語なので「マハー」(大いなる)と形容され、「マハーなるバラタの一族の物語」と名付けられてきた。

画像:クルクシェートラの戦いを描いた図 。五王子と百王子の戦いを表現している。

『マハーバーラタ』は、全部で18巻10万詩節20万行から成る長大な物語となっているが、その理由はこの叙事詩の成立にはおそらく紀元前4世紀ごろから紀元後4世紀くらいまでの、ざっと800年もの編集がかかっており、その間に数多(あまた)の尾鰭がついた。
聖書や仏典の場合は、それらを創世記、民数記、ヨブ記、般若経、華厳経、法華経などとクラスターごとに切り出して自立させたが、ヒンドゥイズム(狭義では宗教=ヒンドゥー教を意味するが、広義では、インドの社会、インドの心ともいうべき概念である。※9参照)はそれをせず、そのまま延々と繋げていったからだという(※10:「松岡正剛の千夜千冊」の1021夜『インド古代史』1512夜『バガヴァッド・ギーター』等参照)。
インドの民族主義者で、教師、社会改革者、そして、最初期のインド独立運動で活躍した政治指導者であるティラクやインド独立の父として知られるグジャラート出身の弁護士、宗教家、政治指導者ガンジーの座右の書だったというヒンドゥー教の重要な聖典の一つで古代インド至高の「神の歌」ともいわれる『バガヴァッド・ギーター』は、『マハーバーラタ』(全18巻)の第6巻に編入されている短い一章分の詩編である(※12の原作台本、※8の24.クルクシェートラの戦い1参照)。
この『マハーバーラタ』はヒンドゥー教におけるヴィシュヌ神の第8の化身(アヴァターラ)であるクリシュナと主人公でパーンダヴァ兄弟5人のうちの第3子アルジュナ王子の対話の形を取る。
クリシュナは戦いに迷う王子アルジュナに「戦え、行動せよ、」と激励。
『バガヴァッド・ギーター』はクリシュナ(=ヴィシュヌ)と一体化し、我を捨て持って生まれた義務(ダルマ)を遂行すること。放擲(ほうてき)を説いた。神が激しく道徳の危機に瀕した人間を宥め、導く様を記録したものであり、クリシュナが王子アルジュナに説いてみせた格別のギーターになっている。
ギーターは神がもたらした詩歌のこと。「バガヴァッド」はサンスクリット語で「神」をいう意味。クリシュナはインドの神統譜では最高のバガヴァッド(=崇高神。ヴィシュヌ神)が変身した神格であるから、このギーターはすなわち「バガヴァッドのギーター」であり、ここではクリシュナがそのギーター「神の歌」を説いた。
インドにおいては『バガヴァッド・ギーター』の占める地位は大きく、時にヴェーダより重要とされることもある。バガヴァッド・ギーターの成立年代は定かではないが、世紀後一世紀頃として大過はないといわれる。
また、ヴィシュヌ派の創世神話によると、宇宙が出来る前にヴィシュヌは竜王アナンタの上に横になっており、ヴィシュヌの臍(へそ)から、蓮の花が伸びて行きそこに創造神のブラフマー(Brahmā)が生まれ、ブラフマーの額から破壊神シヴァが生まれたとされている。ということはヴィシュヌが天地創世以前の最高神なのである。以下YouTubeの画像は、アンコール遺跡の中でも人気の高いクバールスピアン。その魅力は川底に彫刻があること.。その中に、横たわるヴィシュヌ神の彫刻がある。
Cambodia Kbal Spean 川底に眠る遺跡「クバールスピアン」 - YouTube

静止画は以下参照。
聖地クバールスピアンの神々 - クメールの誘惑 

アナンタ竜の上に横たわるヴィシュヌ神。妻であり神妃であるラクシュミー(Laksmi)と臍から生えた蓮の花の上でブラフマー神が瞑想している。ラクシュミーの顔ガ盗掘されてないのが残念。

このヴィシュヌには多神教独特の性質がある。アヴァターラと呼ばれる10の姿に変身して地上に現れる。これは、偉大な仕事をした人物や土着の神を「ヴィシュヌの生まれ変わり」として信仰に取り込む為の手段であったと考えられており、よく「化身」と訳されるが「権化」「権現」「化現」と言った方が正しいようだ。『マハーバーラタ』のなかではいろいろと身を変じて、戦争や人生の戦略家あるいは指南役としての相貌を与えられている。

『マハーバーラタ』第VI巻の巻頭には バラタ大戦争(英:クルクシェートラの戦い)開戦直前の場面で、盲目の老王ドゥリタラーシュトラ( Dhrtarstra)とサンジャヤ(Sanjaya)の対話があり、サンジャヤが古インドので大地の形態や山岳・河川・民族の名称等を詳細に述べているがそれはインドの古代の宇宙論でもあるが、そのことはここでは、省略する。別表を作っているので興味のある人は以下で見てください。

別表:『マハーバーラタ(Mahabharata)』 第VI巻の巻頭で述べられるインドの大地(宇宙観)へ

しかし、そこに書かれているインドは途方もなく広い。その王がバラタである。『リグ・ヴェーダ』ではバラタ王はアーリア人の一族だということが、はやくも謳われている。母がシャクンターラだった。そのバラタ王の統治する世界が、すなわちバラモン教発祥の地となった。ということは、この国は政治領域として確立されたのではなく、宗教領域として形成されていったのだということをあらわす。
ヴェーダには多数の神が登場するが、神々はまとめてデーヴァ(天)である。ヴェーダという名詞は「ヴィッド」(知る)という動詞の語根から派生した言葉で、知識を意味するそうで、そのころの知識といえば、すべからくが聖なる知識だそうだ。
やがて天の恩恵を司るデーヴァ神族と宇宙の法を預かるアスラ神族とに分かれた。
デーヴァは現世利益を司る神々とされ、人々から祭祀を受け、それと引き換えに恩恵をもたらす存在とされた。代表的なデーヴァは雷神インドラ(日本では帝釈天)であり、実に『リグ・ヴェーダ』全讃歌の4分の1が彼を讃えるものである。
アスラ神族を代表するのはヴァルナであった。現在では前述のヴィシュヌ神等に押されて影が薄い。ヴェーダの宗教がバラモン教と呼ばれる。
現在のヒンドゥー哲学の基本となる「因果応報」「霊魂不滅」「輪廻転生」などの諸観念の淵源は、ウパニシャッドが完成した頃まで遡れる。ウパニシャッドの時代では、そのヴァルナとミトラが社会の原理として称揚された。ウパニシャッドは紀元前800 - 500年頃にガンジス川流域で作られたインド古代哲学の総称である。
バラモン教はインドを支配するアーリア人の祭司階級バラモンによる祭儀を重要視する宗教であった。紀元前5世紀頃に、バラモン教の祭儀重視に批判的な仏教とジャイナ教が成立した。
更にインド北西部は紀元前520年ころにはアケメネス朝ペルシア、前326年にはアレクサンダー大王に支配された。その後仏教はアショーカ王(在位紀元前268年頃 - 紀元前232年頃)の帰依などにより一時期バラモン教を凌ぐ隆盛を示した。この時期にヴェーダを基本とする宗教であるバラモン教は「支配者の宗教」からの変貌を迫られ、インド各地の先住民族の土着宗教を吸収・同化して形を変えながら民衆宗教へ変化していった.。
紀元後4世紀頃、グプタ朝がガンジス川流域を支配した。グプタ朝はチャンドラグプタ2世(在位紀元385年 - 413年)に最盛期を迎えるが、このころに今もヒンドゥー教徒に愛されている叙事詩『マハーバーラタ』と『ラーマーヤナ』がまとめられるなど、ヒンドゥー教の隆盛が始まった。
バラモン教は具体的な目的に対して神に「供犠」を捧げる、いわば「ギヴ・アンド・テイク」の宗教であったのに対し、ヒンドゥー教ではヴィシュヌ神のような至高の神への絶対的帰依(「バクティ」と呼ぶ)に基づく信仰態度が多くの大衆に受け入れられ始めた。この時期に六派哲学と呼ばれるインドの古典哲学が確立し、互いに論争を繰り広げた。
5世紀〜10世紀の南インドでは「至高の神への絶対的帰依」、「自己犠牲をいとわない神への奉仕」を信仰の柱とするバクティと呼ばれる信仰形態が顕在化し始めた。このバクティに関して、12世紀から13世紀にかけてヴェーダーンタ学派の学匠達によって「ヴィシュヌ神」を崇拝する信仰が理論化された。、
バクティー(信仰行法)とは、無条件の心の状態になることだそうである。無条件になるために、自己を他に捧げることであり、理屈抜きですべてを行なうことなのだそうである。
そして、正確なことはわからないが西暦紀元前5世紀頃、シャーキャ族王・シュッドーダナ(漢訳名:浄飯王 じょうぼんのう)の男子として、釈迦が現在のネパールのルンビニにあたる場所で誕生したとされている。
釈迦の生涯や釈迦が何を悟り説いたか、又、日本の法華経など仏教で説かれているものと教えがどのように違うかなどほとんど何もかけていないが、以下参考の※13:「環境イーハトープの会」で、いろいろ詳しく書かれているので興味のある人は、そこを見られるとよい。

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参考:
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:映画「手塚治虫のブッダ-赤い砂漠よ!美しく-」オフィシャルサイト
http://wwws.warnerbros.co.jp/buddha/
※3:山陰中央新報 - 中村元・人と思想(27) 「人間ブッダの発見」
http://www.sanin-chuo.co.jp/edu/modules/news/article.php?storyid=534797249
※4:潮出版社-手塚治虫「ブッダ」
http://www.usio.co.jp/html/buddha/
※5:マンガ「ブッダ」1「うさぎが火に飛び込んだ理由」/私の読書録(あらすじ・感想)
http://readingbookcom.seesaa.net/article/386913649.html
※6:ジャータカ物語 目次 jataka index - 日本テーラワーダ仏教協会
http://www.j-theravada.net/jataka/
※7:今昔物語集
http://yamanekoya.jp/konzyaku/index.html
※8:U-DARA’S YARD
http://www.geocities.jp/u_dara/udara/index.html
※9:インド理解のキーワード---ヒンドゥーイズム - 京都産業大学
http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~yamakami/hinduism.html
※10:松岡正剛の千夜千冊:全読譜INDEX
http://1000ya.isis.ne.jp/souran/index.php?vol=102
※11:マハーバラの概要:マハーバラタの主要登場人物の紹介とあらすじ
http://www.tufs.ac.jp/blog/ts/g/aoyama/seaclcul-20111201.pdf#search="%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%A9%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84"
※12:『バガヴァッド・ギーター』とはなにか
http://chitobunmei.com/bhagavadgita/index02.html
※13:環境イーハトープの会
http://kankyo-iihatobu.la.coocan.jp/index.html
倶舎論 (くしゃろん)
http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/kusharon.htm
※10:【補註10】Saṅkassa(サンカッサ) - 原始仏教聖典資料による釈尊伝の研(Adobe PDF)
http://www.sakya-muni.jp/pdf/mono15_s02_10.pdf#search='%E4%B8%89%E9%81%93++%E5%AE%9D%E9%9A%8E'
手塚治虫『ブッダ』の世界
http://60.43.152.48/buddha/buddha.html
漫画で学ぶ【仏陀・仏教】 - NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2133615721793721501

ロータス(蓮)デー :別表インドの大地

2014-04-08 | 記念日

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別表:インドの大地(宇宙観)

マハーバーラタ』第VI巻の巻頭は、開戦直前の場面を描いている。
クル族(Kuru )の長老でもある聖仙 ヴィヤーサ(vyaasa) が、盲目の老王ドゥリタラーシュトラ( Dhrtarstra)に大戦の帰趨に関して予言を与えて去った後、王とスータ (suta.。王の車に陪乗し補佐役・伝令役を勤める)のサンジャヤ(Sanjaya)の対話が始まる。その始めの部分 は、大地のありさまに関する王の問いに、ヴィヤーサによって特殊な眼力を与えられたサンジャヤが答える体裁をとっている。
サンジャヤは先ず生物(二元論)の分類と五大元素説を語り、次いで大地の形態や山岳・河川・民族の名称等を詳細に述べているがプラーナ文献。「第5のヴェーダ」とも呼ばれている)で陸海は次のように描かれる。
中央に円形の大陸ジャンブー・ドヴィーパ( Jambudvipa)がある。その中心にメル山(Meru山=須弥山。) がそびえ、大陸を東西に横断して六つの山脈が地を区切っている。中央の区画は、 メル山の東西にそれぞれ一つの山脈が南北に延びることによって三分される。山脈によってジャンブー・ドヴィーパは九つの領域 (varlila)に区切られていることになり、南端のバーラタヴァルシャ(Bharatavarsa)が「我々の領域である。
又、 ジャンブー・ドヴィーパの周囲は、ドーナツ形の海陸が順次同心円状に取り巻いており、大陸の数はジャンブー・ドヴィーパ を含めて七つである。これらのさらに外郭には黄金の土地があって、その上を "Lokaloka山"が巡っている。・・・と(※1参照)。
ここに描かれている "Lokaloka山"がよくわからないが、まさに古代インドの世界観=宇宙観宇宙論)が描かれたものである。
古代インドで編纂された一連の宗教文書ヴェーダ(紀元前1000年頃から紀元前500年頃)の時代から、すでにからの発生、原初の原人の犠牲による創造、苦行の熱からの創造、といった宇宙生成論があったという。また、地上界・空界・天界という三界への分類もあったという(仏教用語の三界についてはここ参照)。後の時代、繰り返し生成・消滅している宇宙という考え方が成立したという。これには(ごう、カルマン)の思想が関連しているという。
ごう【業】は行為を意味するサンスクリットの漢訳語。善人も悪人も死んでしまえばみな同じだというのは不公平だという考えをもとに、インドでは業はその善悪に応じて果報を生じ、死によっても失われず、輪廻転生に伴って、アートマンに代々伝えられると考えられた。
これに関し、ブラーフマナ文献あたりから因果応報思想が見え始め、ウパニシャッド文献で、輪廻思想の成立とともに急速に理論化され、のちに一種の運命論となった。
行為は,身体的な行為(身業),語るという行為(口業),思うという行為(意業)に分類されるが,それらの行為はその場かぎりで消えるのではなく、不可見のいわば潜勢体(功徳と罪障,法と非法)として行為の主体につきまとう(※2)。
この無限の反復の原因は、比較的初期の仏教においては、衆生の業の力の集積として理解されていたという。それが、ヒンドゥー教においては、創造神ブラフマーの眠りと覚醒の周期として表象(シンボライズ)されるようになったという(ブラフマーは後にヴィシュヌに置き換わった)。
このインド仏教の宇宙観の体系を示す書物の1つに、インド5世紀の仏僧ヴァスバンドゥ(世親)の『倶舎論 』(※3参照)があるが、この論書が書かれたのは釈尊入滅後900の事であり、『マハーバーラタ(Mahabharata)』 第VI巻(Bhi~maparvan) の巻頭でサンジャヤが述べているような宇宙観を仏教的に整理し体系化したものと思われる。冒頭の画像は須弥山の概念図。
因みに、『倶舎論』の中の1章 「世品(せほん)」に述べられているいわゆる須弥山(しゅみせん)説は以下のとおりである。

『倶舎論』によれば、世界は相重なる三輪、つまり、風輪の上に水輪、その上に金輪がある。また、その最上層をなす金輪の最上面が大地の底に接する際となっており、これを金輪際(こんりんざい)という。なお、このことが俗に転じて、物事の最後の最後までを表して金輪際と言うようになった。
我々が住むのは海水をたたえた金輪に浮かぶジャンブー・ドヴィーパ(閻浮提)であり、須弥山中腹には日天と月天(どちらも天部十二天の一人)がまわっている。須弥山の高さは八万由旬(yojana)といわれ、中腹に四大王天(とう利天主・帝釈天の外臣)がおり四洲を守る。
さらにその上の山頂のとう利天欲界における六欲天の第2の天部である。意訳して三十三天ともいう)にはインドラ帝釈天)が所有し住居とする善見城がある。
尚、須弥山の四洲を守る四大王天のうちの一人、東勝神洲を守護する持国天 の梵名はドゥリタラーシュトラ・・・・冒頭の『マハーバーラタ(Mahabharata)』・・・つまり、 第VI巻の巻頭に登場している盲目の老王のことである。
この 須弥山には甘露(アムリタ,amṛta)の雨が降っており、それによって須弥山に住む天たちは空腹を免れる。・・・という。

上掲の画像は、アンコール・ワット第1回廊、浅浮き彫りにみられる乳海攪拌(一部)。中央にヴィシュヌ、その下に彼の化身の亀クールマがいる。ヴァースキを引っ張っているアスラが左側に、神々が右側に描かれている。
また、釈迦の母が死後とう利天こに生まれたため、釈迦が彼女に説法するため一時ここに昇り、帰りに三道の宝階によって地上へ降ったといわれる(※4参照)
三道の宝階について、
僧院を持つ都城で、ウッタル・プラデーシュアーグラの東にあるサンカーシャは、仏教の八大聖地の一つだが、ここだけが伝説に基づいた聖地だそうだ。
ここに、三道宝階降下の地とされる丘の上には、何かが崩れてできた煉瓦の小さな山と、釈迦の生母マヤ夫人を記念する小さな祠、ヒンドゥ教の神ハヌマーンを祀った小さな祠がある。
釈迦は、生後7日目に死別して天界にいる母マヤ夫人に無上の法(※5)を説くことを念願していた。ある時、祇園精舎サヘート)を訪れていた釈迦は、祇園精舎近くのオラジハール(Orajhar)の丘から三十三天(忉利天)に昇天して、雨安居の3ヶ月間、マヤ夫人に法を説き、報恩を果たしたと伝えられている。
釈迦は、三道の宝階を下って、再び、地上界のサンカシャに帰ってきたといわれている(※5)。降下する時、インドラが造らせた天界と地上界を結ぶ三つの階段が築かれた。釈迦は中央の金の階段を通り、右側の白金の階段をブラフマ神(梵天)が白い払子(ホッス)を手にして降下し、左側の瑠璃の階段をインドラ神(帝釈天)が天蓋を釈迦にかざして、多くの天人たちを従えて降下したとされている。
釈迦が地上に降り立つ時、少し先に降下したブラフマ神とインドラ神が合掌して、また、比丘尼が仏足の所で跪いて迎えたと伝えられているそうだ。

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参考:
※1:Maha bha rata VI.5-13の世界観
http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/bitstream/11094/10785/1/mrp_031-043A.pdf#search='%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%8A+%E4%B9%9D%E3%81%A4%E3%81%AE%E
5%9C%B0%E5%9F%9F%E4%B8%96%E7%95%8C'

※2:永遠のダルマと顕在化(Adobe PDF)
http://www2.lit.kyushu-u.ac.jp/~kkataoka/Kataoka/Kataoka_1999d.pdf#search='%E6%BD%9C%E5%8B%A2%E4%BD%93'
※3:倶舎論 (くしゃろん)
http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/kusharon.htm
※4:【補註10】Saṅkassa(サンカッサ) - 原始仏教聖典資料による釈尊伝の研究(Adobe PDF)
http://www.sakya-muni.jp/pdf/mono15_s02_10.pdf#search='%E4%B8%89%E9%81%93%E5%AE%9D%E9%9A%8E'
※5:大乗無上の法
http://www.geocities.jp/fuw145/01-busseki-10.html
%8C%81%E5%9B%BD%E5%A4%A9/>http://busson.jp/busson/%E6%<8C%81%E5%9B%BD%E5%A4%A9/</a>
※6:仏跡 聖地 表紙
http://www.geocities.jp/fuw145/01-busseki-10.html
持国天 | 仏尊.jp - 仏像

仏教の宇宙観
http://rikanet2.jst.go.jp/contents/cp0320a/contents/rekishi/answer01/main.html#top

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