今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

ビスケットの日

2012-02-28 | 記念日
日本記念日協会の記念日に「ビスケットの日」がある。
全国ビスケット協会(※1)が1981(昭和56)年に制定したもの。
ビスケット(biscuit) の殆どは、小麦粉を主材料に牛乳、ショートニング、バター、砂糖など副原料を混ぜて、サクサクした食感に焼いたものであるが、使用される副原料の組み合わせによって種類は様々。ビスケットの仲間には他に、クラッカー乾パン、カットパン(乾パンと同じような製法で水分がやや多く、砂糖ミルク等の副原料も多く、乾パンとパンの中間的な製品。)、プレッツェルパイ、またこれらの加工品がある。
加工品には、クリームサンド、ジャムサンドなどのサンドもの、チョコレートや砂糖をかけたものなど、すべて加工品として分類されている。これらのビスケット類は、小麦粉を主原料として練った生地を成熟して焼くという点が共通している。
日本では、ビスケットとクッキー両方の名前が使われているが、実はこれは同じ意味。ただ、菓子業界では糖分や油分が多めの、手作り風のものを、クッキーと呼んでもよいという決まりがあり、区別して使われることもあるが、海外では日本でいうところのクッキーの区別は存在せず、英国では両者をビスケット、米国では両者をクッキーと呼んでいる。
ビスケットの名は、フランス語のビスキュイ(biscuit)から来ている。フランス語においてbisは「2」を意味する接頭語もしくは「2度」を意味する副詞であり、cuitは動詞cuire(「焼く」を意味する)の過去分詞形であるため、全体として「二度焼いたパン」という意味を表ているという。これをさらに遡っての語源はラテン語のビスコクトゥス・パーニス(biscoctus panis)「二度焼いたパン」からだとか・・。
これは保存食として作られた堅パンを指ししているそうだ。 ビスケットをフランスでは「ビスキュイ」、ドイツでは「ビスキュイート」イタリアでは「ビスコッティ」などと呼ばれているのも、ここからで、いずれも2度焼かれたという意味をもっている。
「クッキー」の語源はオランダ語の「クオキエ」(koekje又略式のkoekie)「小さなケーキ)」からで、アメリカに渡ったオランダ人が自家製の菓子をクッキーと呼んだのが始まりだとか。
米国でいうビスケットは、生地にショートニングやラードを加え、重曹ベーキングパウダーで膨らませた、外側はサクサク感で内側はふっくらとした食感のあるパン/ケーキのことをいい、英国のプレーンのスコーンとよく似ているが、動物性油脂のバターを使うスコーンに較べて植物性油脂のショートニングを使うビスケットは油気が少なくあっさりしているようだ。
朝食として供されるほか、料理の付け合わせや菓子類に加工されることもある。料理ではグレイビーをかけたり、焼いたハムやソーセージを挟んで食べることもあり、アメリカ南部料理によく使用されているようだ。また本来のショートケーキはスポンジケーキではなくこのビスケットを土台に用いたものを指すという (ショートとは「サクサクしている」「崩れやすい」という意味だそうだ)。
日本ではケンタッキーフライドチキンがこのタイプのビスケットを販売している(※2)。
つまるところ、小さなケーキを意味するオランダ語のkoekjeまたは(略式の)koekieから、北米にてオランダ語から英語に派生。アメリカ英語から、ビスケットが一般的な語であるイギリス英語に広まったようだ。だから、クッキーは北米だけで使われる言葉で、それ以外の英語圏では一般的にビスケットと呼ばれている。
このように、クッキーとビスケットは国・地域や言語によって、混同されていたり異なるものであったりと定義はまちまちのようであるが、日本では、先にも書いたように、ビスケットとクッキー両方の名前が使われているが、日本でのクッキーとビスケットの違いについては、1971(昭和46)年に施行された「ビスケット類の表示に関する公正競争規約」(※3)において、明確な定義づけによる区別をし、ビスケットのうち、クッキーと表示することができるものとして、施行規則第3条には、以下のものを掲げている。
(1) 「手づくり風」の外観を有し、糖分、脂肪分の合計が重量百分比で40%以上のもので、嗜好に応じ、卵、乳製品、ナッツ、乾果、蜂蜜等により製品の特徴づけをおこなって風味よく焼きあげたもの。
(2) その他、全国ビスケット公正取引協議会の承認を得た場合。
では、なぜ日本だけ、こんな定義づけをしたのか・・?
それは、当時の日本にあって、「クッキー」は「ビスケット」よりも高級だと思われていたため、安価な「ビスケット」を「クッキー」の名称で販売するのは、消費者に誤解を与える恐れがあるとの判断から、定められたものだそうである。
ただ、この規約は日本ビスケット協会による自主ルールであるため、協会に加盟していなければこれに従う必要はないらしい。日本で協会に加盟のところは冒頭に述べたビスケット類の製造物には、袋又はパッケージの商品名にその区分を併記することが義務づけられている。まあ、このような国内での規約はあるものの、複雑であり、輸入品も多く、実際には、消費者のイメージで分けられているのが実状ではないかという。
ビスケット工場が、近代企業として独立するまで、パン工場に従属していた。その理由は、その出発点がパンの仲間と考えられていたからのようだ。
人類がパンを作り始めたのは、石器時代後期のこと。今から1万年も昔にさかのぼる。当時のバビロニア人は、小麦粉を発酵させる原理も知っていたそうで、チグリスユーフラテス河一帯に栄えたバビロニア遺跡からは、小麦粉をこねてパンを作った道具や、その様子を描いた壁画が発見されているという。
ヨーロッパでは古代から航海や遠征のための食糧として、日持ちをよくするために、パンを乾燥させてもう一度焼いたもの(堅パン)を持って出かけたという。当時の言葉では食糧としてのパンと、菓子としてのビスケットとは明瞭に区別されていなく、混用されていた。これがビスケットの始まりと伝えられている。
ギリシャを経てヨーロッパに広まったビスケットは、探検家のコロンブス(1492年出航)やマゼラン(1519年出航)も長い航海にのり出す時に、大量のビスケットを積み込んだという話が残っている(参考4、※5、又※6:「不思議館」の~史実に隠された衝撃的な話~>“コロンブスの真実”や~海にまつわる恐ろしい話~>“大航海時代の実情”を参照)。
尚、※5:の「グロリア・スコット号事件」とは、コナン・ドイルによるシャーロック・ホームズシリーズの短編小説の一つである。
「堅パン(ビスケット)」の歴史は古いが、それが何時生まれたのか正確なことは定かではないが、コロンブスの時代以前から航海用また軍隊用の保存食として必須食品だった。
Dr. Johnson(サミュエル・ジョンソン。Samuel Johnson)の英語辞典(1755年初版)には「遠洋航海用に(保存性を高めるため)四度焼く」との説明があるらしい(Wikipedia)。
同じビスケット類の「乾パン」は堅パンの亜流で堅パンは、乾パンと比べ非常に堅いのが特徴。別名ハード・タック(Hardtack)と言い、南北戦争(1861年 - 1865年)時に米兵の間ではアイアンプレート(鉄みたいに堅い)と蔑称されたというから、「ハードタック」はまさしくハード・ビスケットの中のハード・ビスケット(まさしく硬派)だったのだろう。
現代に近いビスケットが本格的に作られるようになったのは16世紀になってからで、ヨーロッパの宮廷で盛んに食べられるようになり、色々な味やおいしさが工夫されるようになったようだ。
イギリスのエリザベス女王は、技師オスボンに命じて宮廷に焼き釜を作らせ、ビスケットを焼かせたといわれており、また、フランス王妃、マリー・アントワネットも宮廷でビスケット作りをさせていたそうで、ビスケットにオスボン、マリーという名が残っているのも、そのためだといわれている(※7)。
やがて産業革命(1760年代)が起こり、製造機械も高度化して大量生産されたため、一般にも普及し、ヨーロッパからアジア他世界各地へ伝えられた。
日本には、戦国時代の16世紀の中頃ポルトガル人によって、鉄砲やキリスト教などとともに、カステラ金平糖、等いろいろな南蛮菓子と共にビスカウト(ビスケット)が日本に伝えられた(年代は諸説あり)といわれている。
ところで、よく知られている長崎名物として有名なカステラという名の菓子は、ポルトガルには無く、その原型とされるものは、ポルトガルの隣、当時の大国カスティーリャ王国(スペインの前身)のポルトガル語発音である「カステーラ」(Castela)からとされているそうだが、カステラの基本材料は、小麦粉と卵と砂糖であるが、これに近いスペインの伝統菓子を探してみると、ビスコッチョ(BISCOCHO)という菓子があり、ビスコッチョそのものは、現在のスペインではごく普通のスポンジ菓子だが、その発生は、遥か中世に遡ると、歴史的な菓子であり、その名は“BIS+”COCHO“で、二度焼いたパンの意味である。
冒頭にも書いたように、ビスケットと同様、元は乾パン状の非常に堅く、日持ちのよい物であったが、時代の経過とともに多少とも柔らかいスポンジ状の菓子もビスコッチョと言ったのだろうという。しかし、日本に渡来した当時のカステラ=ビスコッチョは、現在のものよりは、かなり堅く、ぼそっとして、甘さが少ない物であったと思われるという(参考※8参照)。
この様なビスコッチョ=カステラは、その後日本人の嗜好に合わせて、配合、形態等に創意工夫が加えられ、技術の改良が重ねられ、特に明治以降水飴を多量に配合した今日見られるしっとりとしたビスコッチョとは似て非なる我が国独自の「カステラ」が完成されるに至っている。
日本は、稲作農業の国であり、古くから米などで作った糒(ほしい・ほしいい:乾飯とも書く)と呼ばれる保存食・非常食(アルファ化米)が存在していた。
例えば『伊勢物語』第九段…”から衣”の「東下り」の段で在原業平が糒の上に涙をこぼしてふやけてしまうという場面は良く知られている。

上掲の画像は、『伊勢物語』東下りの段で、“ある沢のほとりの木陰におりて、乾飯食(かれいひ)を食べている”くだりの図である(画像は、以下参考に記載の※9:「関西大学電子図書館:伊勢物語」より借用)。
乾飯は、読んで字の如く、蒸した米(ご飯)を天日に当てて干し、湯や水に浸し、ふやけさせて食べたり、あるいは水を加えて炒めたり、茹でて戻したりして食べた。
乾燥させてあるので軽く、雑菌も繁殖しにくい上、水を加えさえすればすぐに柔らかくなるので、旅先での携行食料品としてとても便利な現代のアルファ化米の元祖のような優れものであったと言っていいだろう(※10「:つれづれ化学草紙_乾飯の巻_伊勢物語」で伊勢物語のこの段と“乾飯”の詳しい解説がされている)。
鎌倉時代よりは「糒」の漢字が使われるようになったが、それ以前には「干し飯」(ほしめし・ほしいい)とも呼ばれていた。
大人数の食糧をまかなう上で、糒は保存性がよく軽量で運びやすいこともあって、軍事用の携帯食(兵糧)などで戦国時代などに広く盛んに利用されていたが、多少調理しないとそのままでは食べにくいため、各藩はその他にもいろいろな保存糧食を研究していた。
そのようなとき、ポルトガル人によって持ち込まれたビスケット(堅パン)は当時日本人にはちょっと異質な味だったので、あまり人気がなく、長崎周辺で外国人向けにだけ作られていたようだが、面白いことに、16世紀末から17世紀初めにかけて、日本で作られたビスケットがルソン(フィリピン)に輸出されていたという。以降、江戸時代に、パンやビスケットが日本人に食べられたという記録がないのは、当時のキリシタン禁制(バテレン追放令)も関係していたのであろう。
日本に入ってきたビスケット(堅パン)が、日本人の手によって作られたのは、1840(天保11)年に中国で起こったアヘン戦争がきっかけであった。東洋一の大国であった清国が敗戦して植民地化されていったことに、日本人はかなりの衝撃を受けるとともに、次に狙われるのは日本かもしれないという危機感を強く感じていた。
そのため、徳川幕府は、日本にも外国軍が攻めてくることを恐れ、兵糧としてパンを作らせたという。米飯では炊くときの煙が敵方にとって格好の標的になりかねないが、それに比べ、固いパンは、保存性と携帯性などの面で「糒」よりもよりすぐれていると考えたからだ。幸い、この非常食は活用されずにすんだが、このときパン作りの指揮をとったのが反射炉で有名な伊豆韮山の代官江川太郎左衛門(英龍)だとされ、パン業界では、彼を、日本のパン祖と呼んでいるようだ(※11)。
ここで、保存性と携帯性の面ですぐれている固いパンというのは、ビスケット(堅パン)のことだろうが・・・。初めて堅パンが焼かれたのが1842(天保13)年4月12日であることから、この日を記念して、パンの業界では毎月12日を「パンの日」としている。しかし、それがどのような資料的根拠によっているものかは明示されていないのでよく判らない。
江戸にいた江川が、どうして、パンのことを知ったのかは知らないが、長崎町年寄高島茂起(四郎兵衛)の3男として生まれた高島 秋帆が、出島のオランダ人らを通じてオランダ語や洋式砲術を学び、このころ、幕府からは砲術の専門家として重用され、江川らに師匠として砲術を伝授していた。だから、彼は、当然、長崎で堅パンが焼かれていたことを、知っていただろうし、それが、非常食にて適したものとして目をつけていただろうから、彼が江川に乾パンの製作を奨励したのではないかと言うことは類推できるので、それを聞いて、江川がパンの製造を指揮した・・ということは考えられる。
日本で、はじめてビスケットに関する記述が文献上に登場するのは、幕末に長崎で開業していた水戸藩の蘭医柴田方庵の日記である。水戸藩は、ビスケットが“保存のきく食糧であることに注目。
1854(安政元)年、水戸藩から兵糧になる西洋の保存食として「パン・ビスコイト製造」を習得し報告するよう依頼を受けた彼は、オランダ人からビスケットの製法を学び、1855(安政2)年にその製法書を送ったことが方庵の日記に書かれており、これが日本でビスケットが作られたことが明確にわかる最も古い記録であり、その日記が2月28日であったことから社団法人全国ビスケット協会は、この日を「ビスケットの日」と定めている。
又、幕末の名君といわれた島津斉彬は、新日本建設の理想をいだき、幕政および藩政を改革し西洋文化の輸入に努め、日本の最先端を行った集成館事業により洋式の軍艦や大船を建造し、紡績、硝子、陶器、その他各種の近代的産業に着目し、その製造に当たったが、その一環として「蒸餅(むしもち)」をも製造していたという。「島津斉彬言行録」では、斉彬が、軍用のため、蒸餅数千個の製造を命じ、1~2年は虫が付かない備蓄方法を研究するよう言及している。日本では、「パン」のことを古くは「蒸餅」ともいっていたようで、この「蒸餅」はその目的からいって乾パンに近いものであったろうといわている。なお、薩摩藩出身に大山巌元帥がいるが、この人は、パン祖と言われている江川太郎座衛門(英龍)の弟子である。
そして、明治元年6月、江戸の風月堂は薩摩藩の兵粮(ひょうろう・兵糧)方からの要請によって、東北征伐(戊辰の役)用の兵粮パン(兵粮麺包【めんぱお=中国語で「パン」】)を焼いたが、当時の記録によるとそれは黒胡麻入りのパンであったという。斉彬がつくらせた「蒸餅」の製造ノウハウが薩摩藩から風月堂に伝えられたのかもしれない。ただ、明治時代の風月堂のビスケット広告には「乾蒸餅(ビスケット)製造之要趣」と題しているように、この時、薩藩兵粮方より製造を命じられたとき作った黒胡麻入りの麺包はビスケットであるとしている。(※12、※13参照)。
その後、江戸幕府が大政奉還し、明治政府が樹立した時に、富国強兵政策により日本にも近代的な軍隊が創設され、外国の軍隊を模範とする様になった。
新生日本帝国軍は食事も西洋風を取り入れるようになるが、日清戦争(1894【明治27】年7月-1895年【明治28】年3月)を経て、海外にも進出した日本軍は、国内とは違って戦線が拡大し補給線が延びると、末端まで糧食をスムーズに配給するのが難しくなるという兵站上の問題が発生し、そこで、手軽に食べられる携行食の重要性を痛感した軍は、技師を欧州に派遣し、ドイツ式の横長ビスケットを参考にして、簡易携帯口糧として開発したものが「重焼麺麭 じゅうしょうめんぽう (意味は二度焼いたパン、すなわちビスケットのこと)」であり、日露戦争(1904【明治37】年2月- 1905【明治38】年9月)後、軍用食の改良が行なわれ、5%ほどのもち米を入れたり、おにぎりのような感覚で胡麻をまぶすようにった。
「重焼パン」の名称は“重傷”にも通じるとして忌み嫌い、その後「乾麺麭(かんめんぽう)」と改められた。昭和期には更なる改良が行われ味形共に現在の姿と変わらないものとなり、同じく名称呼称も「カンパン(乾パン)」となった。カンパンは、その性格上味付けがされていない。旧陸軍が研究開発した当時は、7年半の保存を目標としたため、糖、脂肪を除く必要があったからである1920(大正)年に、糖分を補う目的で金米糖をカンパンと一緒に入れるようになった。
現在でも、カンパンは自衛隊の非常用糧食に使われており、大型と小型の2種類がある。大型のものは海上自衛隊で採用されており、大きさはおおよそ縦8cm、横5.5cm、厚さ1.5cm、重さ23g。表面に15個の針穴がある。これを10枚1包として1食としている。チューブに入れられた水飴も配布される(カニヤ製、※14参照)。小型のものは、陸上自衛隊と航空自衛隊で採用されており、大きさはおおよそ縦3.2cm、横1.8cm、厚さ0.7cm、重さ3g。表面に2個の針穴がある。これを150g分、そして金平糖15gを同梱して1食としている(三立製菓製)そうだ。なお。「カンパン」のことについては、参考※15:「THE戦闘糧食」の “帝国陸軍伝統の非常食”の項に非常に詳しく記されている。
ポルトガル人によって、持ち込まれた菓子類は南蛮菓とよばれていたが、その中のビスケットは改良され、日本では戊辰戦争以降の軍事用の携帯食料「カンパン」として発展し活躍した。これを日本で、ビスケットとして本格的に販売を始めたのが風月堂・・・。※16:「お菓子@おやつ情報館!ICHIGO村」によると、1875(明治8)年、米津風月堂(当時の番頭の米津松蔵が、風月堂総本店より暖簾を分けしてもらい起した店)で機械を使い本格的なビスケットの製造を開始した・・・とある。
南蛮菓子は、明治時代になって鎖国令が解かれると、海外からビスケット、クッキー、キャンディー、チョコレート、スポンジケーキなどが輸入されるようになり、和菓子と区別するために洋菓子とよばれようになるが、日本の菓子は革命とも言える大転機を迎える事になった。
大航海時代からの経済発展により完成の域に達したフランス菓子などが伝えられる一方で、産業革命により機械化効率化した菓子製造法まで一気に伝来し、日本の「洋菓子」として幅広い発展を見る事となった。
日本での洋菓子の生産は1900年(明治34年)ごろ、ビスケットやドロップの生産から始まった。
大正期に入るとキャラメルやチューインガム、マシュマロなど種類も増え、メーカーが競って販売するようになり、工場の量産体制も整って安く買えるようになり、ハイカラなお菓子として庶民に好まれるようになっていった。

山のおくの谿(たに)あひに
きれいなお菓子の家がある
門の柱は飴ん棒
屋根の瓦はチョコレイト
左右の壁は麦落雁(むぎらくがん)
踏む鋪籍石がビスケット
あつく黄色い鎧戸も
おせば零(こぼ)れるカステイラ
静かに午(ひる)をしらせるは
金平糖の角時計

西条八十童謡全集』(1924年新潮社刊)に掲載されたお菓子の家のくだりである(全文※17参照)。お菓子に寄せる子供たちの夢そのものを顕わしている。
この頃、つまり、第1次世界大戦が勃発した1914(大正3)年、創業(1899【明治32】年)から16年目に、今の森永製菓が、芝田町工場内にビスケットの焼き窯を新設し、東南アジア市場への輸出用ビスケットの試作にとりくみ、翌1915(大正4)年から、ビスケットの生産販売を開始し、ビスケット分野への進出を果たしたが、当初は輸出向けで、国内向けは1923(大正12)年から。国内向けのビスケットは一切販売しなかった理由は、当時国内では、外形のみにこだわった品質上問題のある粗悪品のビスケットが多く出回っていたからだとか・・・。それは品質へのこだわりで、本格的に国内でビスケットを製造販売するために1920(大正9)年、新工場『塚口工場』(塚口:兵庫県尼崎市塚口町)を建設し、欧米の製菓会社に匹敵する近代的生産設備を設け、最新鋭の機器を集め行った。その生産量は、当時東洋一だったそうだ(※18)。その後、多くの製菓会社が創立された。
現在日本の国内問題としては、以前から少子高齢化の影響が言われて来たが、2005(平成17)年前後から実態経済、各産業分野でその影響が顕在化ており、各企業の経営者たちも難しい舵取りに迫られている。従来からの生産の海外シフト戦略から、販売も海外市場を重視するようにその経営戦略を転換させてきた企業も数多く見られるが、菓子の国内市場も1992(平成4)年をピークに減少傾向にあるようだ。菓子業界は昔から小規模な生産者が多いが、チョコレート、スナック菓子、ビスケット、チューインガムなどの分野でも、大手の寡占状態と言って良いほど競争が激しい。その中で、ビスケットでは、ブルボン22.7%、森永製菓9.4%、不二家8.6%となっているようだ((2006年。※19参照)。
なお、2010(平成22)年時点での日本国内の菓子市場全体の推定生産数量および金額推移(全日本菓子協会)は、参考※20をみると判る。
(冒頭の画像、クッキーとビスケット及び、中間でのカンパンの画像はWikipediaのものを使用)
参考:
※1:社団法人・全国ビスケット協会
http://www.biscuit.or.jp/top.html
※2:ケンタッキーフライドチキン|商品情報|
http://www.kfc.co.jp/menu/detail/index.cgi?pid=OR_side_01
※3:ビスケット類の表示に関する公正競争規約 規 約 施 行 規 則(Adobe PDF)
http://www.jfftc.org/cgi-bin/data/bunsyo/A-15.pdf#search='ビスケット類'
※4:異文化に出会う時Part3:ピガフェッタの不思議な旅前篇 | 高畑由起夫
http://kg-sps.jp/blogs/takahata/2011/06/13/4514/
※5:《グロリア・スコット号》事件の食卓風景
http://homepage2.nifty.com/shworld/21_dining_table/19/glor.html
※6:不思議館
http://members.jcom.home.ne.jp/invader/
※7:豆知識:イトウ製菓
http://www.mr-ito.jp/trivia.html
※8:カステラ物語 - カステラ銀装のホームページ
http://www.ginso.co.jp/sweets/story/main.html
※9:関西大学電子図書館:伊勢物語
http://web.lib.kansai-u.ac.jp/library/etenji/isemonogatari/ise-top.html
※10:つれづれ化学草紙_乾飯の巻_伊勢物語
http://chem-sai.web.infoseek.co.jp/sosi_kareii.htm
※11:パンのはなし【パン食普及協議会】
http://www.panstory.jp/index.htm
※12:九州地方パン業界の暦譜
http://www.panstory.jp/books/100nennshi/data/kyusyu.pdf#search='島津斉彬言行録 蒸餅'
※13:風月堂のビスケット事始 - 鹿児島の情報は南日本新聞
http://373news.com/_bunka/jikokushi/131.php
※14:カニヤhome
http://www.yin.or.jp/user/kaniya/
※15:THE戦闘糧食
http://10.studio-web.net/~phototec/
※16:お菓子@おやつ情報館!ICHIGO村
http://www.osmkj.com/
※17:赤い鳥の童謡: お菓子の家
http://redbird-tatsu.blogspot.com/2007/08/blog-post_2730.html
※18:ビスケット|森永製菓
http://www.morinaga.co.jp/biscuit/
※19:成熟する国内市場と日本の 洋菓子メーカーの経営戦略(Adobe PDF)
http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/32179/1/WasedaSyogaku_417_00_002_Miyashita.pdf#search='ビスケット メーカー別 販売シェアー'
※20:日本の菓子推定生産数量および金額推移
http://phototec.hp.infoseek.co.jp/kanpan2.htm

伊勢物語 現代語訳 群論編付
http://teppou13.fc2web.com/hana/narihira/ise_story.html
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html
ビスケット - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%82%B9%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%88

「雨水」(うすい)

2012-02-19 | 行事
2月19日「雨水」(うすい)
「雨水」・・・を国語辞書で引くと、①あまみず。②二十四節気の一「雨水」(うすい)の2つが出てくる。①は空から降る雨のことだが、この話は後に回し、②のことから始めよう。
二十四節気とは、節分を基準に1年を24等分して約15日ごとに分けた季節のことで、雨水(うすい)は、旧暦正月 (睦月)の中気で立春から15日目にあたり、現在広まっている定気法では太陽黄経が330度に達するとき、新暦では2月18日か19日ごろ(今年2012年は今日・2月19日)。
ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間(時)とする。期間としての意味もあり、この日から、次の節気の啓蟄の前日までである。
ニ十四節気にはさらに約5日ずつの3つに分けた、七十二候という分類があり、各気各候に応じた自然の特徴が記述されているが、それは、中国の気候に合わせたものである。日本では、江戸時代に入って渋川春海ら暦学者によってこれを日本の気候風土に合うように改訂された「本朝七十二候」が作成され、暦注など生活暦において使われるようになった。現在では、1874(明治7)年の「略本暦」に掲載された七十二候が主に使われているようだ。
略本暦(日本)の雨水の期間の七十二候は以下の通り。
初候:雨が降って土が湿り気を含む
次候:霞始靆(かすみ はじめて たなびく):霞がたなびき始める
末候:草木が芽吹き始める
雨水の頃、旧暦で節句を祝う中国では、旧暦のお正月を「春節」として盛大に祝う。神戸の「南京町」では、今年も1月23日の春節(初一=元旦)から、賑やかに春節祭(※1)が催されていた。
薩埵(さった)富士雪縞あらき雨水かな(風生)
うすい【雨水】を調べていると国語辞書(goo辞書)に上記の富安風生の句が載っていた。
静岡県静岡市清水区にある薩た峠(さったとうげ)は、歌川広重の浮世絵東海道五十三次では16番・由比宿と17・興津宿の間に位置し、この峠からの富士山と駿河湾の景色は、東海道五十三次にも残されるほどの絶景である。しかし、雨水といっても関東ではこの時期くらいまで富士にはよく雪が降るのだと聞く。
『暦便覧』(※2)には「陽気地上に発し、雪氷とけて雨水となればなり」と記されており、空から降るものが雪からに変わり、雪が溶け始めるころとされている。それゆえ、この時節から寒さも峠を越え、衰退し始めると見ることもできる。
が降りやすくなるが、春の雨は暖かさの後にやってくるものだ。そして、一雨ごとに暖かくなる。このころ、雨水ぬるみ、草木の発芽を促し、萌芽(ほうが)のきざしが見えてくる。昔から、農耕の準備は、この雨水を目安に始められた。
今年は寒波の影響で日本海側は記録的な豪雪が続いた。まだまだ寒さの厳しい2月だが、気候は、確実に春へ向かって動いてはいるのである。
日本の食の根幹となるをはじめとする五穀を生産する農業にとって、水はなくてはならないものであり、干害や冷害は農民にとって一番の敵となった。干害が続くと農民達は神社へ祈願したり、雨乞い踊りをした。日照りが続くと分水を巡って争いも起こった。
江戸時代の農業は栽培法や農具などに発達を見ることが出来るが、それでも自然に頼る部分も多く、神に頼る様々な行事があった。日照りが続いたときに雨を神に祈る雨乞いは江戸時代末期にも行なわれていた。

上から1枚目は、雨乞いおどり 『御問状答書』 国立公文書館蔵。2枚目の画は山東京伝『近世奇跡考』(文化元年刊)所載の物で江戸の隅田川堤上を向島三囲社に雨乞いをする農民の一行である。(画像は、NHKデーター情報部編ヴィジュアル百科『江戸事情』第三巻政治社会編より1枚目、第二巻産業編より2枚目を借用)。
1枚目の画『御問状答書』は福山藩の思想家・菅茶山の書いたもののようだ。また、余談だが、向島三囲社(三囲神社)は、元禄6年(1693年)、旱魃(かんばつ)の時、松尾芭蕉の一番弟子と言われる俳人宝井其角が偶然、当地に来て、地元の者の哀願によって、この神に雨乞いする者に代わって、「遊(ゆ)ふた地(=夕立のこと)や田を見めくり(三囲)の神ならは」と一句を神前に奉ったところ、翌日、降雨を見た。このことからこの神社の名は広まり、京都の豪商三井氏が江戸に進出すると、その守護神として崇め、三越の本支店に分霊を奉祀したという(Wikipedia)。
同社には、「雨乞いの碑」なるものもあるらしいが、この神社や其角(きかく)の雨乞いの句の伝説はよく出来すぎているというので当時からそれを揶揄した川柳も多くあるらしい。そのようなことに纏わる面白い話は、参考※3:「森川和夫のホームページ」の廣重の風景版画の研究(1)-12佐野喜 東都名所之内 隅田川八景三囲暮雪に詳しく書かれているのでそこを見られると良い。
雨水は冒頭で、書いたように国語辞書でも、①あまみずのこともいう。これからは、雨と、水のことについて触れてみよう。
先ず、参考※4:「常用漢字:読み書き使い方字典」の「」の字を見てみよう(部首 雨)。
「雨」字は空から地上へと降ってくる水滴である雨を意味している。天にある雲の間から水が落ちてくる様子に象(かたど)っている。
偏旁の意符としては気象や天候に関わることを示す漢字が作られ、多くは冠の位置に置かれ、上下構造を作っている。
雨部はこのような意符を構成要素にもつ漢字を収めており、常用漢字で雨冠の漢字は、「雪・雲・雰・電・雷・零・需・震・霊・霜・霧・露」など12だが、これ以外「雹(ひょう)」「霰(あられ)」「霙(みぞれ)」「靄(もや)」「霞(かすみ)」「雫(しずく)」などのほか、私などには読めない漢字がまだまだたくさんある。
雨が多く、稲作など行なう農耕民族にとって、水は最も重要なものの一つであり、水の状況によって収獲が左右されることから、日本においても古くから雨のことを草木を潤す水神として考えられ、田の神と結びついている。
雨が少い場合は、雨乞いなどの儀式が行われ、雨が降ることを祈った。「天」には「天つ神のいるところ」との意味があり、このようなことから雨の語源は、「(あめ)」の同語とする説と「天水(あまみづ)」の約転とする説とがある。
万葉集』には、大伴家持の以下の長歌が掲載されている。
「この見ゆる、天(あま)の白雲(しらくも)、海神(わたつみ)の、沖(おき)つ宮辺(みやへ)に、立ちわたり、との曇(ぐも)りあひて、雨(あめ)も賜(たま)はね・・・・」(第十八巻-4122)
「沖(おき)つ 宮辺(みやへ)」は、「沖にあるという海神の宮殿のあたり」といった意味、日照りのなか、山の低くなったところに見える天(雨)の白雲が沖にあるという海神の宮殿のあたりまで伸びていって雨を降らせてください・・・と祈るような気持ちで歌っている(※5参照)。
日本神話には、水に関する神として、罔象女神闇龗神闇罔象神のような神が登場する。
今流に言えば、雨(あめ)とは、大気中に含まれる水蒸気が、気温が下がったり上昇気流に運ばれたりすることで凝結して、細かな水滴(雨粒)となったものが、空から落ちてくる天候のこと。また、その水滴のことをいうが、気象学的には、雨は降水現象の一つと位置づけられる。この降水現象の中で、雨は最も頻度が高い。雨および降水現象は、地球上で水が循環する過程(水循環)の一部分に位置づけられ、生態系や地形といった地球の自然に深く関与している。
上掲の図は「水循環のモデル図」(Wikipediaより)
この水循環に影響を及ぼす人間の活動として古来一番深く関わっていたのが農業 といえるだろう。
水は、人が生命を維持するには必要不可欠なものであり、それは、農業だけでなくさまざまな産業活動においても同様である。
そのため、古代ギリシャでは哲学者タレスが「万物のアルケー(根源)は水」とし、自然哲学者エンペドクレス四大元素のひとつで基本的な元素として水を挙げている。又、古代インドでも水は、五大のひとつとされ、中国の五行説でも基本要素のひとつと見なされている(水の知識の歴史概略参照)。
最も、現代の元素解釈とは異なるものの、水が人間にとっと必要不可欠な要素であることは、古代人によっても考えられていたということだ。
「万物を生かす水、降ったら降ったで不平を言う」・・・とは、人の身勝手さを言う言葉であるが、「万物を生かす水」は、このような哲学的思想から来ているのだろう。雨が降らず日照りの干ばつも困るが、豪雨による自然災害(干ばつや水害など)も困ったものだ。
古来より、人類は、限りない欲求を満たす為に、自らの知恵が生み出した科学により大いなる自然を犯し、破壊してきた。そのせいなのだろう、今、地球温暖化などによる異常気象から、世界の各地で、局地的な干ばつや集中豪雨による大災害をもたらしている。これからは、今発生しているような局地的集中豪雨なども異常気象とは言えなくなってしまうのかもしれない。これは、人間の自然破壊への天(神)の戒めということかも知れない。
「人類は農業を発明することによって都市文明を創(つく)ったきたが、その農業の性質が、ユーラシア大陸の東と西では違う。 夏に雨の多い東のモンスーン地帯には稲作農業が、雨の少ない西には小麦農業が興った。この気候の違いが農業の違いになり、それが東と西の文明の決定的な違いになっている。」・・・と、哲学者であり、国際日本文化研究センター名誉教授 でもある梅原 猛は説く。
そして続いて、「小麦農業は牧畜を伴い、約一万二千年前に今のイスラエルの地で興り、約五千年前、今のイラクの地で都市文明を生んだ。 稲作農業も、最近の研究によって小麦農業と同じころ長江中流で発生し、養蚕を伴い、約六千年前に都市文明を生んだことがほぼ明らかになったという。
この二つの文明は、その農業生産の方法によっても思想を異にしており、 小麦農業は人間による植物支配の農業であり、牧畜もまた人間による動物支配である。 このような文明においては、人間の力が重視され、一切の生きとし生けるものを含む自然は人間に支配されるべきものとされる。 そして集団の信じる神を絶対とみる一神教が芽生える。
それに対して稲作農業を決定的に支配するのは水であり、雨である。 その雨水を蓄えるのは森である。 したがってそこでは自然に対する畏敬(いけい)の念が強く、人間と他の生き物との共存を志向し、自然のいたるところに神々の存在を認める多神教が育ちやすい。
西の文明の優位は決定的であるように思われる。 なぜなら近代ヨーロッパは科学技術文明というすばらしい文明を生み出したからである。 この文明によって多くの人類はかって味わったことのない豊かで便利な生活を享受することができるようになった。
しかし、この文明の限界も二十世紀後半になってはっきりみえ始めた。 人間による無制限な自然支配が環境破壊を起こし、やがて人類の滅亡を招きかねないという危惧がささやかれる。」・・・と(※6)。
多神教の現存している代表例としては、民族的要素の強い日本の神道やアイヌの信仰(カムイ参照)、インドのヒンドゥー教や中国の道教もそうだというが、今では現存しない例として、古代エジプエジプト神話参照)やメソポタミアメソポタミアの神々参照)、古代ギリシャの神々(ギリシア神話参照)、中南米のメソアメリカ文明(※7参照)やアンデス文明(※8参照)で信仰されていた神々などがある。
そもそも、一神教が生まれるまでは世界中いたるところで多神教が信じられ、むしろそれが普通の宗教ではなかったのではないか。
中でも、四季の変化、緑豊かな自然に恵まれた風土に生きてきた古代の日本人は、地上の森羅万象(宇宙に存在する一切のもの。あらゆる事物・現象)は、神々によって生み出され、神々が司っていると考えてきた。そのもっとも素朴な形態は、山や森、岩や水などの自然物に精霊が宿ると信じてきた、自然崇拝アニミズムである。
やがて、山や森に宿る精霊は、どこからやって来たか、どういう存在なのかを人々が知ろうとするようになり、そして、名もない精霊は『』として意識され、人間の生活に直接関係するようになり、八百万の神(やおよろずのかみ)として発展してきた。八百万神の文献上の初見は『古事記』上巻に「天の岩戸」の段にある「八百万神々、天(あめ)の安(やす)の河原に神集(かむつど)ひて」であり、『日本書紀』第七段にも「八十萬神」として登場する。
そのような太古の日本から信仰されてきた固有の文化に起源を持つとされる宗教が神道などである。
そこでは、どうしても人間と自然との共存(同時に二つ以上のものが、争わずに生存すること。共有しないで、独自性を守る住み分け。)という思想が起こる訳である。
その後、日本に仏教が公式に伝来した(仏教公伝)のは、 欽明天皇の戊午の年(西暦538年)であるとされているが、それ以前に私的な信仰として入ってきている。
日本の仏教は古来より、様々な宗派の仏教が伝来してきた。その中からさらに多種多様な宗派が生まれ、そのほとんどが現在まで継承されている。世界の中でも希な形での宗教が受け継がれている国が日本とも言えるだろう。
仏教の中にも、古来から日本人が持ってきた「人間と自然との共存」といった思想がきっちりと根付いている。
その代表的なものが「縁起」(えんぎ)である。
仏教における「縁起」は、仏教の根幹をなす思想の一つで、世界の一切は直接にも間接にも何らかのかたちでそれぞれ関わり合って生滅変化しているという考え方である。この縁起の語は「因縁生起」(いんねんしょうき)の略で、因とは果(結果)を生じさせる直接の原因、縁とは外的・間接的な原因を示している。
つまり、ある結果が生じる時には、直接の原因(近因)だけではなく、直接の原因を生じさせた原因やそれ以外の様々な間接的な原因(遠因)も含めて、あらゆる存在が互いに関係しあうことで、それら全ての関係性の結果として、ある結果が生じるという考え方である。
現代の日本人の多くは「神」も「仏」もそれら全部を混合して、自分にとって都合のいいものだけをとっている。いや、神道に於ける「神」や仏教における「仏」だけでなく、キリスト教その他も単なる宗教としてうけいれ、これらすべてが混在している・・・外国人から見れば日本人は何とも理解しがたい不思議な民族に見えるだろう・・・。
ここのところ、環境汚染や環境破壊を未然に防ぐ・また起こってしまった環境汚染や環境破壊の状況を改善し現状回復に努めるための環境保護(自然保護)、いわゆるエコロジー(Ecology)が言われて久しい。
環境を「Ecology」と認識したのは、19世紀半ばのドイツのヘッケルの主張にさかのぼる。アンナ・ブラムウエルが「エコロジー 起源とその展開」(河出書房出版1992年。※9参照)で、ヘッケル以来のエコロジーの歴史を詳述しているようで、この書物はエコロジーに多神教の一翼をなすアニミズム的要素を認めているという。
エコロジー(Ecology)とは本来は「生態学」(英: ecology)を意味するものらしいが、近年では人間生活と自然との調和などを表す考え方として、「eco」が接頭語としてしばしば用いられている。
かって世界の多くの国の人達がたくさんの神々に祈っていた頃、人間は自分の無力を承知し、自然を神々として畏敬してきた。それが、梅原 猛が言っているように、その後、一にして全なる神に祈る人々が科学技術を発展させ、この世では人は別格の存在であり、その他の動物や自然を支配する資格のある者であるとの考え方から、自然を支配し始めそれが、やがて自然(環境)破壊にもつながってきた。この一神教的考えに対し、すべてのものに精霊(魂)が宿るというアニミズムなら、人も動物も自然も対等だから、エコロジー(自然保護)に繋がる。
だから、今日のように文明化した人々が忘れてしまったアニミズム(多神教)の考え方を復活させようではないかといった考えが今広がりつつあるようだ。
しかし、かつてはアニミズムのあった日本とはいえ、自然とはかけ離れた都市化した環境に住む現代の日本人にアニミズムが残っているとは考えにくいが、それでも、一神教の人達よりも日本人の心の底にはわずかだが残っているように思う。環境保護(自然保護)のためにも、日本人の持つアニミズム思想を世界人類と共に共有し、実践するなら、争いごと(戦争など)や自然破壊も、もう少し抑えられたのではないかと思うのだが・・・。
日本人は、小雨、にわか雨、時雨、春雨、穀雨、五月雨、梅雨、虎が雨、夕立、雷雨、秋雨、長雨、氷雨、寒の雨、霧雨、小糠雨、煙雨、細雨、そばえ(戯)、涙雨、篠突く雨、鉄砲雨、淫雨、恵みの雨、慈雨…等々、日本の独特の地形・風土、四季折々の自然の移り変わりの僅かな微妙な変化を捉えて雨には実に多くの名前をつけているが、これは、古より日本人が雨に親しみ、雨を愛で、感謝し、畏怖してきたことの表れでもある。この雨は、万葉の時代には100首を越える歌が詠まれ(※5の雨を詠んだ歌参照)、江戸時代には、すばらしい雨の風景画が多く描かれている。
江戸時代、当初、美人画や役者絵として出発した浮世絵だが、やがて、道中絵・名所絵をもう一つの柱とするようになった。その中に、すばらしい雨の風景画が多く含まれている。
歌川(安藤)広重も始めは役者絵から出発、やがて美人画に手をそめたが、南宋画も学んで、天保3年(1833年)、保永堂版「東海道五拾三次之内」を刊行し、これが大評判となり、以後「名所絵」の広重として名声を得ていく。
広重の絵は、四季や朝夕の季節、時間の移り変わりと風物の情趣に、自然現象である雨、風、雪、霧、月等の叙情性を盛り込んで、日本人の心の内にある日本の情景を見せてくれる。日本には雨を表す言葉が豊富にあるが、広重の雨の表現はこれらの言葉に応じるように多彩である。
例えば、「東海道五十三次之内」で、雨の画は3種3ヶ所。
8番目「大磯虎ケ雨」は、歌舞伎でも有名な曽我十郎が、仇討ちの果てに命を落とした陰暦5月28日、その愛人、大磯の遊女・虎御前が流した涙が「虎ヶ雨」。それを題材に梅雨時のしとしと降る雨を描いている(画像はリンクの大磯参照)。
45番目の「庄野の白雨」の「白雨」とは、夕立やにわか雨のこと。突然の風を伴った激しい夕立のにわか雨に、坂道を往来する人々を生き生きと描写したこの絵は、広重の最高傑作の一つとして知られている。風に揺れる二重の濃淡の竹薮に、激しく音を立てて降る雨の角度を変えるなど新しい技法が考え出されている(冒頭掲載の画)。
49番目の「土山の春の雨」は、京に向かう最後の難所の鈴鹿峠「坂は照る照る、鈴鹿は曇る、あいの土山雨が降る」と鈴鹿馬子歌から題材を取ったもので、しとしと降る春雨に打たれながら、大名行列が続いている絵が描かれている(画像はリンクの土山参照)。
尚、冒頭掲載の「庄野の白雨」の画、それに、「大磯」「土山」にリンクされているところにあるものはWikipedia掲載のものであるが、余りきれいなものではない。これら画像は、以下参考に記載の※10:浮世絵のアダチ版画研究所:歌川 広重 「東海道五十三次」の物が綺麗なのでそこを見られたほうが良いよく理解できるだろう。又、上掲3種3ヶ所の説明文は、そのアダチ版画研究所での説明文を引用させてもらっている。
これら広重の雨の絵は、特徴的で、いずれも点ではなく線として雨を描き記号化されているが、それぞれに微妙な違いを表現している。浮世絵は西洋の印象派の画家たちにも影響を与えているが、ゴッホが模写したとして有名なのが、広重晩年期の傑作名所江戸百景の中の雨の作品「大はしあたけの夕立」である。ここ参照。
向かって右がゴッホの絵だが、ゴッホにしても、広重の微妙な雨の表現は出来ていないよな~。
因みに、この絵は、日本橋側から対岸を望んだ構図である。「あたけ」というのは隅田川にかかる新大橋の河岸にあった幕府の御用船係留場にその巨体ゆえに係留されたままになっていた史上最大の安宅船でもある御座船安宅丸(あたけまる)にちなんで、新大橋付近が俗にそう呼ばれていたからだそうである。
参考:
※1;南京町 春節祭
http://www.nankinmachi.or.jp/event/shunsetsu/2012/schedule.html
※2:吉田光由の古暦便覧について
http://www5.ocn.ne.jp/~jyorin/kirisitankoreki.pdf#search='暦便覧とは'
※3:森川和夫のホームページ
http://homepage3.nifty.com/morikawa_works/index.html
※4:常用漢字:読み書き使い方字典
http://www.geocities.jp/ssiq160/
※5:たのしい万葉集: 大伴家持(おおとものやかもち)
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/poet/yakamochi.html
※6:東アジア文明の語るもの( 出典 : 2004年7月20日 朝日新聞 )
http://www.geocities.jp/sugiurajunzou/inbanuma_higasiajiabunmei.html
※7:メソアメリカの宗教
http://yottyan.blog.sonet.ne.jp/2007-02-08
※8:アンデス・シャーマンの世界
http://www.sizen-kankyo.net/bbs/bbs.php?i=200&c=400&m=260497
※9:『エコロジー-起源とその展開-』アンナ・ブラムウェル著/河出書房新社
http://homepage3.nifty.com/martialart/bramwell.htm
※10:浮世絵のアダチ版画研究所:歌川 広重 「東海道五十三次」
http://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/item/hiroshige_tokaido53.htm
雨が育てた日本文化(Adobe PDF)
http://www.skywater.jp/pdf/20050630_no2.pdf
一神教と多神教
http://www9.wind.ne.jp/fujin/rekisi/onryo/onryo03.htm
日本神話における南方的要素
http://japanese.hix05.com/Myth/myth01.html
日本の神話 古事記
http://www15.plala.or.jp/kojiki/
知恵と駄文の神殿
http://www.moonover.jp/bekkan/mania/index.htm#4
五元集 - Waseda University Library - 早稲田大学
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he05/he05_04419/index.html宗教における共生と教育の意義(Adobe PDF)
http://www.lib.u-bunkyo.ac.jp/kiyo/1999/kyukiyo/MINESIMA_380.pdf#search='宗教における共生'
双魚宮 ‐ 通信用語の基礎知識
http://www.wdic.org/w/CUL/%E5%8F%8C%E9%AD%9A%E5%AE%AE
二十四節気(にじゅうしせっき)
http://jinennjo.web.fc2.com/z1zatu/spot/sekki24.html
二十四節気 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%9B%9B%E7%AF%80%E6%B0%97


文化 (元号)

2012-02-11 | 歴史
享和4年2月11日(グレゴリオ暦1804年3月22日)は、 甲子革令(かっしかくれい)に当たるため文化(ぶんか)に改元された。
日本の元号文化」は、享和(きょうわ)の後、文化15年4月22日(グレゴリオ暦1818年5月26日) 「文政」に改元されるまでの期間を指す。
この時代の天皇は光格天皇仁孝天皇であり、当時の江戸幕府将軍は第11代徳川家斉であった。
17世紀終わり頃から18世紀初頭にかけて、元禄時代(1688年 - 1707年)を中心として、主に京都・大坂(大阪)などの上方を中心に発展しいたた元禄文化に代わり、江戸を中心とした町人文化(culture)が顕著に発展した時期であり、後続する文政期とあわせ、化政文化という。これ以降、文中に多くの元号名が出てくるが、すべてをリンクしていないので、元号や改元理由等について知りたい時は、以下参考の※1:「Category:日本の元号」を参照してください。
元号は一般には年号と呼ばれている。中国を中心とする東洋の漢字文化圏に広まった紀年法で、紀元前140年、前漢の武帝の時に始まった。
日本に於ける正式の年号の初めは皇極天皇4年(645年)蘇我氏蘇我蝦夷入鹿親子)の討滅を機(乙巳の変大化の改新)に天皇の禅(ゆず)りを受けて、皇弟・軽皇子が即位し、孝徳天皇となり、数日後、『日本書記』に「天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと=皇極天皇)の4年を改めて、大化元年と為す」と記されているのがそれである。
このとき以前にも法興と言う年号などがあるが、これは私年号である。大化6年(650年)穴戸(長門国の古称)国司より白雉(しろきぎす。はくち。=白色のキジ)を献上されたのを祥瑞(しょうずい。瑞祥【ずいしょう】と同じ。めでたいことが起こるという前兆。吉兆)として、白雉(はくち)と改元したが、同5年孝徳天皇崩御して以後行われず、天武朝の末年、朱鳥(あかみとり、しゅちょう、すちょう)の年号が定められたが、その年天皇が崩御してこれも続かず、文武天皇5年(701年)に至って対馬から金が貢上されたのを機に大宝の年号が建てられた。大宝律令において初めて日本の国号が定められ、本格的な中央集権統治体制を成立した。
この年施行された大宝令には、公文に年を記す時はすべて元号(年号)を用いることが規定されていたことから、律令制度と年号は切り離すことの出来ないものとなり、次第に国民の間に浸透。年号は、大宝以降絶えることなく現代に及んでいる(※1参照)。
大宝から平成まで、天皇の代数は83代(北朝を含めると89代)を数えるが、その間の年号は244、(このうち北朝の年号は17)を数える。この代数に比べ年号の数が多いのは、一代のうちに幾たびも改元される場合が多いからである。
例えば、文化・文政の頃の天皇の時代の改元状況を、見ると、以下のようになっており、光格天皇の代では4度も改元をしているのである。

光格天皇 
改元年元号(年数と改元理由)
1781年天明(9年、光格天皇の即位のため代始改元)
1789年寛政(13年、辛酉改元 )
1804年文化(15年、甲子改元辛酉改元
改元時の天皇仁孝天皇
1818年文政(13年、仁孝天皇即位のため代始改元)
1830年天保(15年、災異改元)
1844年弘化(5年、災異改元)

改元は、①君主の交代による代始改元、②吉事を理由とする祥瑞改元 、③凶事に際してその影響を断ち切るための災異改元が行なわれるほか、注目すべきは、平安時代より、江戸時代末期まで行なわれていた④革命改元といわれる・辛酉(しんゆう)と、甲子(きのえね)の年の改元がある。
④の辛酉と甲子の改元は昌泰4年(901年)の辛酉の年にあたり、文章博士三善清行が、中国で発展した讖緯(しんい)説による辛酉革命、甲子革命の思想により、改元の勘文(意見書。革命勘文参照)を上奏し、これにより「延喜」と改元したことから辛酉改元が始まり、甲子改元は、康保の改元(964年)から始まり、以後幾つかの例外はあるが、江戸時代の末まで、辛酉と甲子の年には改元するのが例となっている。
上掲の通り、光格天皇の代にも辛酉と甲子の改元が行われている。ただ“中国では辛酉改元・甲子改元などは、行われていない。その意味では、日本のの歴史の上に現れている特異な現象である。”・・・ともいう(※3、※4参照。尚、※4にはちょっと面白いことも書かれてるよ)。
日本の改元は概ね①か②であり、②の早い例が「白雉」の改元であり主として、奈良時代か平安時代に行なわれた。この祥瑞改元に代ってあらわれるのが③の災異改元であり、これは災難を天の戒めとみるもので、奈良時代にも天平神護の改元(765年、藤原仲麻呂の乱を神霊の護りによって平定したことによる)例はあるが、平安時代に入って水潦(すいろう。=雨、水災)、疾疫によって延長の改元(923年)が行なわれて以後、地震、暴風、火災、飢饉、兵乱など③の災異による改元は江戸時代まで行われた。光格天皇、仁孝天皇の代でも③の災異による改元が多いのがわかるだろう。
代始改元の場合、奈良時代には即位と同時に改元する例が何度かあるが、平安時代からは「大同」の改元(806年)以外は、即位の翌年に改元するのが例となった。皇位継承の年に改元するのは先帝に対して非礼であるとする考えに基づくようだ。
もともと天子(日本では大王・天皇の別名)が特定の時代に元号という名前を付ける行為は、天子の在位期間を基準とした在位紀年法に由来し、天子が空間と共に時間)を支配するという思想に基づいており、「正朔を奉ずる」(天子の定めた元号と暦法を用いる)ことがその王権への服従の要件となっていた(天子参照)。
元号が政治的支配の正統性を象徴するという観念から、改元は朝廷の権限によるところのものであり、改元手続きは、平安時代中頃では、天皇の仰せにより、式部大輔や文章博士などの儒者が中国の経史(経書と史書)から字を選び出典を付して提出された年号勘文が天皇に奏上された後、公家たちが先例や文字の吉凶などを難陳(非難したり弁解したり、互いに議論をたたかわせること)した結果最善と思われるものが天皇に奉上され、勅裁(詔勅参照)を得て、公布され、この手続きは、武家政権が確立した後も、改元はほとんど唯一天皇大権として残され、後世まで引き継がれる。
ただ、中世(平安末期)以降、朝廷の権力が低下し、武家の権力が強くなると、武家側の意向が改元の上に影響を及ぼすようになり、江戸時代に入ると幕府によって出された禁中並公家諸法度第8条により「漢朝年号の内、吉例を以て相定むべし(中国の元号の中から良いものを選べ)」とされ、幕府が元号決定に強く介入することになった。
その最初が、「元和」であり、この改元は、家康の命により、唐の憲宗の年号を用いたものだという。改元の直前に発生した大坂夏の陣によって豊臣氏は滅亡した(5月8日)。元和は長く続いた戦国時代の終わりと平和の始まりを意味するそうだ。
兎に角、一人の天皇の在世中に頻繁に年号が変わっていては、天皇の在位期間も非常に判りづらく、親しまれるわけもなく、何かと不便なので、庶民のほとんどは干支に頼っていだ。
そこで、わが国では「明治」の改元に当たり、旧制を改めて一世一元の制が採用された。一世一元制は、中国では、両朝において行なわれ、我が国でも、江戸時代に学者によって論じられていたが、明治元年(慶応4年)9月8日(グレゴリオ暦:1868年10月23日)の改元勅書に「慶応4年を改めて明治元年と為す、今より以後旧制を革易(かくえき)し、一世一元を以て永式と為す」(原文は漢文。※5参照)と明示された。改元の手続きも、旧来の難陳の儀が廃止され、年号勘問の中から2,3の佳号を選び、天皇が賢所(かしこどころ)の神前で籤(くじ)を引き「明治」がきめられたという。
改元が年の呼称を改めるということから、慶応4年1月1日(1868年1月25日)に遡って適用された。法的には慶応4年1月1日より明治元年となる。在位中の改元は行わないものとなった。このことは、明治22年(1889年)の皇室典範でも確認されている。その後、同42年公布の「登極令」にて、「践祚後は直ちに元号を改める」 「元号は枢密顧問官に諮詢を経て勅定し、詔書で公布する」と規定して改訂手続きの大綱を定め、これに基づいて、「大正」「昭和」の改元が行われ、この元号の告示は内閣によって行なわれた。
第二次世界大戦後、日本国憲法施行皇室典範改正により、元号の法的根拠は一旦消失したが、昭和54年(1979年)施行の元号法(新)によって新しい根拠を持つに至り、皇位の継承があった場合に限り元号を変更すること。また、「元号は政令で定める」として、内閣の権限となった。
さて、元号そのものの話はこれまでとして、最後に本題の「文化文政」の時代について簡単に触れておこう。
光格天皇及び仁孝天皇の代は第11代徳川家斉の治下である。家斉は、天明6年(1786年)第10代将軍・徳川家治急死を受け、天明7年(1787年)に15歳で第11代将軍に就任。
将軍に就任すると、家治時代に権勢を振るった田沼意次を罷免し、代わって徳川御三家から推挙された陸奥白河藩主で名君の誉れ高かった松平定信を老中首座に任命。これは家斉が若年のため、家斉と共に第11代将軍に目されていた定信を御三家が立てて、家斉が成長するまでの代繋ぎにしようとしたものだという。この定信が主導した政策が「寛政の改革」と呼ばれるものである。
松平定信による、「寛政の改革」では積極的に幕府財政の建て直し(幕政改革)が図られたが、厳格過ぎたため次第に家斉や他の幕府上層部からも批判が起こり、さらに朝廷と江戸幕府との間に発生した閑院宮典仁親王への尊号贈与に関する尊号事件なども重なって次第に家斉と対立するようになり、寛政5年(1793年)7月、定信は家斉に罷免され、家定による6年余りに及ぶ寛政の改革は途絶えた。
ただ、定信の失脚後、ただちに幕政が根本から転換したわけではなく、家斉は定信の元で幕政に携わってきた松平信明を老中首座に任命。これを戸田氏教本多忠籌ら定信が登用した老中達が支える形で定信の政策は継続されていった(彼らは寛政の遺老と呼ばれた)。しかし、文化14年(1817年)松平信明が病死すると、家斉は自らの手で政治を始めたが、寛政の改革に対する反動的な政治をしたと言われている。
家斉は、天保8年(1837年)退隠し、世子家慶に将軍職を譲りはしたものの、その後も、天保12年(1841年)1月、69歳で死去するまで西丸で大御所として強大な発言権を保持し政治の実験を握り続けていた。ことから、後の人から「大御所時代」とも呼ばれるようになった。
本来幕府が重視してきた農業を基本とする社会形態を、 商人達による商業を中心とした資本力によって社会の活力を求め、幕府の財政を立て直す政策に転換した事により、景気は上昇し社会は活況を呈していた。
寛政の改革は、「江戸幕府の三大改革」のひとつにも数えられる一大事行であるにもかかわらず、何故か、この時代を「寛政期」とは呼ばれずに、「文化・文政期(化政時代)」と呼ばれている。 
徳川家斉の下でこの改革に携った定信は将軍徳川吉宗の孫にあたり、吉宗の行った「享保の改革」」を理想として掲げ、政治改革を断行(1716-1745年)を理想としたため、田沼意次時代の重商主義によるインフレを収めるため、本来幕府が重視してきた農業を基本とする社会形態(重農主義)に戻すべく、質素倹約・風紀取り締まりを進め、超緊縮財政で臨んだ。
寛政の改革の倹約令では、武士の華美な生活を規制するだけではなく、町人や百姓の華美な生活も規制の対象としたことにより、単なる武士の家計の収支を安定させる政策に留まらず、貨幣経済の進展に伴う経済活動全般を規制するという、極めて時代錯誤的なものとなった。
又、多額の借金を抱えた旗本御家人の債権放棄・債務繰延べを債権者である札差に対しさせた武士救済法令でもある「棄捐令」も当初、借金を棒引きに感謝していた武士達も、札差達の一斉締め貸し(金融拒否)により生活が困窮し逆に幕府の政策を恨むようになり、化政期を経て札差は再び隆盛し、旗本・御家人たちの借金は寛政の頃と同じかそれ以上に増大。社会にモラルバザーをもたらせ結果になった。
そこには、この改革の性格が、田沼時代の全否定にあり、華美な文化がすべての悪の元凶であり、昔に戻すことが改革の根本であるという定信の復古主義的政策の基調が経済政策の失敗を招いたといえる。この時代には、町人や百姓の華美な生活はすでに、江戸時代の経済を回すに不可欠な需要創出機能を担っていた。
そして武士の華美な生活もまた、その一端を担っていたのであり、寛政の改革の経済政策に対する批判は、それが有効需要を削減して深刻な不景気をもたらすという面において、批判されるものであった。
結局、田沼時代に健全化した財政は再び悪化に転じ、もはや倹約令ごときでは回復不能になっていた。改革も人心収攬にも失敗。綱紀(国家を治める大法と細則。また、一般に起律)は弛み風俗は頽廃、江戸市民は遊楽を事としたが、その一方で、町人芸術は爛熟の極に達し、小説(山東京伝式亭三馬滝沢馬琴)、戯曲(鶴屋南北)、俳諧(小林一茶)、浮世絵(喜多川歌麿東洲斎写楽葛飾北斎)、西洋画(司馬江漢)、文人画(谷文晁)など優れた作家を輩出した。江戸から発生した文化は、商人などの全国的交流や、出版・教育の普及によって各地に伝えられていった。
この期間は家斉が在職中の天明、寛政、享和、文化、文政、天保の各元号のなかで、「寛政の改革」(天明7年【1787年】-寛政5年【1793】)と「天保の改革」(文政13年【1830年】 - 天保14年【1843年】)の間の期間、つまり、文化から天保までをさす。寛政・天保は、財政的な改革の時期であり、この時代は緊縮財政のために、文化はあまり発展しなかったが、江戸時代の文化を考えるとき、文化・文政は元禄とともに特徴的な時代であることから、文化文政時代(略して化政時代)とも呼ばれている。
しかし、この時代は江戸を中心に、化政文化が栄えた一方、江戸幕府が衰退する始まりでもあった。貨幣経済の発達に伴って逼迫した幕府財政の再興を目的とした天保の改革の影響は大きく、厳しい統制の時代になったため、昔を懐かしんだ人々がこの時代を大御所時代と呼び始めたともいわれる。
ただ、松平定信主導による経済政策では、改革の直前に、近世最大の飢饉といわれる「天明の大飢饉」があったことから、低下した幕府の指導力を取り戻すために、儒学のうち農業と上下の秩序を重視した朱子学を正学として復興させ、思想統制を行い、 幕府組織の強化を図った。
この中では仁政(為政者が人々をいたわりいつくしむよい政治)を担う人材を育てる政策も行なわれており、それが、後には、農政面で生かされるようになり、又、それが、武士だけでなく二宮 尊徳のような、民を慈しむべきものと捉え、自らが代官となって村の再建に尽力する固い信念をもった百姓が生まれる背景ともなった。ただ、皮肉なことに、この朱子学の台頭によって天皇を中心とした国づくりをするべきという尊王論と尊王運動が起こり、後の倒幕運動と明治維新へ繋がっていくのである。
農業に関する経済面では、飢饉に備える為の囲米と「七分積金」の制度により、困窮した人に対する救済金の制度を設けた。又、「旧里帰農令」により、江戸へ大量に流入していた地方出身の農民達に資金を与え帰農させ、農村の復興と農業人口の確保を狙った。
そして、江戸石川島(東京都中央区)には、罪を犯した軽度犯罪者や無宿人、浮浪人を収容して職業訓練を行なう更生施設として「人足寄場」を設置し、治安対策も兼ねた。 これら者に対して教育的・自立支援的なアプローチを取り入れた処遇を行った点は当時としては画期的ものだったが、これは、なんと、あの池波正太郎の時代小説またそれをテレビ化してよく知られている「鬼平犯科帳」に登場する火付盗賊改方長官・長谷川平蔵(宣以)が定信に提案し設置されたものである。
寛政の改革自体はわずか6年程度であったが、定信の老中退陣後も彼の同志寛政の遺老たちによって継続して進められ、一定の成果を挙げ、一時的にせよ社会の安定には役立っていた。
定信主導によるこの改革は、封建領主が主に村からの年貢によって暮らす社会体制の安定と維持をねらったものであったが、この頃既に、貨幣経済の進展によって、社会の分解と貧富の差の拡大、そして政治の機能不全がさらに進展し、封建的領主権に基づく武家の支配が、経済的にも政治的にも弱体化し、封建社会とそれを基盤とした幕藩政治そのものが立ち行かなくなっていたのであり、打ち続く社会危機にも無策であった幕府や藩の権威は地に落ちつつあった。
このような、内政的な面だけでなく、この時代は、ヨーロッパ勢力のアジアへの侵出が拡大していた時期であり、ロシアをはじめとして日本に対して新たな通商を求める動きが活発化し、幕府は鎖国体制を見直すかどうかの、大きな問題もあり、内政の危機と外交の危機とが一体となって進んでいた。
その上、朝廷・天皇の権威が次第に上昇し始め、同時に幕府が行う全国統治にほころびが見えてくるや、幕府に統治権限を委任した朝廷に頼って幕府の政治を改めようという動きや、直接的に幕府に代わって朝廷が全国を統治するべきだとする動きさえ生まれてきつつあった。
そんな中、文化への改元を行なった光格天皇は、天明の大飢饉の際には幕府に領民救済を申し入れて、ゴローニン事件の際には交渉の経過を報告させるなど、朝廷権威の復権に務めていた。
また、朝幕間の特筆すべき事件として、先にも書いた、尊号一件が挙げられるが、この事件では、天皇になったことのない父・典仁親王に、一般的には天皇になったことのある場合におくられる太上天皇号をおくろうとした天皇の意向は、幕府の反対によって断念せざるを得なかったが、この事件の影響は尾を引き、やがて尊王思想を助長する結果ともなった。
明治天皇は典仁親王の玄孫であり、典仁親王は直接の祖先にあたるということで、明治17年(1884年)には、慶光天皇(慶光院とも)の諡号と太上天皇の称号が贈られている。
この寛政の改革についてどのように見るかについては、以下参考の※6の中の「第3章:近世の日本」批判31 貨幣経済の進展に翻弄される封建領主体制ー寛政の改革と改革政治の弛緩に詳しく書かれている。文化とは何かについては、又の機会に書いてみたい。
(冒頭の画像は、正倉院の宝物容器。715年、元正天皇即位、左京職より瑞亀(背に北斗七星のある亀)が献上され、和銅から霊亀に改元された。祥瑞による改元。この宝物は、その記念品との見方もあるそうだ。正倉院蔵。画像は、週間朝日百科「日本の歴史47」古代-⑤暦と年号・度量衡より借用)
参考:
※1:Category:日本の元号- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%85%83%E5%8F%B7
※2:「大化」は日本最初の年号ではない!!
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/html/history/honbun/nengou.html
※3:こよみのページ>暦のこぼれ話> 2008/09/18辛酉革命
http://koyomi.vis.ne.jp/doc/mlwa/200809180.htm
※4:日本書紀の謎を解く鍵=菅原道真
http://www.geocities.jp/yasuko8787/0x-t9.htm
※5:中野文庫 - 詔書(明治元年)
http://www.geocities.jp/nakanolib/shou/sm01.htm
文化人類学入門
http://cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/0-culanthro.html
※6:新しい歴史教科書・その嘘の構造と歴史的位置:徹底検証:「新しい歴史教科書」の光と影
http://www4.plala.or.jp/kawa-k/rekishi.htm
文化 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%8C%96
改元思想背景及びその実態についての一考察
http://203.72.2.115/Ejournal/AI02001705.pdf#search='改元思想背景及びその実態についての一考察'
皇紀2600年(三浦佑之)
http://homepage1.nifty.com/miuras-tiger/kouki2600nen.htm
れきしのおべんきょう
http://rekishiiroiro.blog130.fc2.com/archives.html
文化とは何か(目次)
http://www.asahi-net.or.jp/~yg5t-ssgc/page003.html


平 清盛 忌日

2012-02-04 | 人物
治承5年閏2月4日(1181年3月20日)は、平安時代末期の武将公卿政治家である、平 清盛(たいら の きよもり)の忌日である(享年64歳)。
清盛の命日とされる4日午後1時から、清盛とゆかりの深い神戸市兵庫区 北逆瀬川町にある能福寺で清盛の追善供養と歴史講演会、琵琶演奏会が行われている。
清盛は、元永元年(1118年)伊勢平氏の棟梁・平忠盛の嫡子として生まれ、平氏棟梁となる。母の出自は不明で、白河院の寵姫祇園女御の妹とも。
若い頃は、中納言藤原家成に仕えて鳥羽上皇の恩顧を得、(保元元年(1156年7月)の保元の乱 の武功で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱(平治元年12月9日=1160年1月19日)、で最終的な勝利者となって以降、清盛は、その後、譲位後の白河上皇と、二条天皇親子の対立の間に立ってアナタコナタ(彼方此方。『愚管抄』。※2の愚管抄第五巻参照)しつつも目覚しい進出をとげ、仁安二年(1167年)、武士では初めて従一位太政大臣の極官にまで昇りつめ、翌仁安3年(1168年)、妻時子の妹建春門院(平 滋子)を仲介に、高倉帝に娘徳子を入内させ、言仁親王(安徳帝)の出生により天皇の外戚としての地位を固め、「平氏にあらずんば人にあらず」(『平家物語』 [これは平時忠の言葉であり、清盛自身はこのようなことは言っていない。])と言われる時代を築いた(平氏政権)。
そして、鹿ケ谷の陰謀を摘発した翌々年治承3年(1179年)のクーデター(治承三年の政変)で、陰謀事件に関与した後白河院政を停止し、政権を完全に掌握し全盛の極みに達するが、平氏の独裁は貴族・寺社・武士などから大きな反発を受けていた。
そんな中、翌・治承4年(1180年)2月、清盛は、高倉天皇に譲位させ、娘徳子との間に生まれたわずか3歳の安徳天皇を即位させたことから、これに不満を持ったのが、即位の望みを全く絶たれてしまった後白河法皇の第三皇子の高倉宮以仁王であり、安徳天皇即位の3ヶ月目には、源頼政を誘って平氏政権に反旗を翻し、平氏追討を命ずる令旨を諸国の源氏に発令したことに始まり、東国武士団の挙兵が始まった。
諸国での叛乱が激化する中、治承5年閏4月4日(1181年3月20日)、清盛は、九条河原口の平盛国の邸で死亡。そして、保元・平治の乱などの武功により朝廷の政治世界に武家の地位を急速に確立させてきて、10年も経たない、寿永4年(1185年)、源頼朝が派遣した鎌倉源氏軍との最期の決戦である壇ノ浦の戦いで平氏一門は海に没し滅んでしまった。
祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす
 おごれる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし・・・・」
(『平家物語』序文・抄より。参考の※1の平家物語参照)
平家物語』序文に見られる沙羅双樹は、インド原産で、別名サラノキ。釈迦入滅ゆかりの聖木として、日本では、ツバキ科落葉樹の「ナツツバキ」のことをいっているようだが、本当は正しくないようだ。この白い花は朝咲くと夕方には散るというところから「一日花」とも言われているようでだ。『平家物語』序文では、“沙羅双樹の花の色は、まるで盛者必衰の道理を表しているかのようだ。
驕り高ぶっている人も、いつまでもそれが続くものではない。”・・・と、平氏一門の慌しい、盛衰の中に人間の如何ともしがたい運命の厳しさを見出し、沙羅双樹の花を世の無常を象徴する花として登場させている。
戦後学説の多くは、草深く未開な原野の広がる東北に身を起こして武家政権を起立した源頼朝と東国武士に対して、京都の宮廷生活、貴族文化にひたって栄華を極めた清盛と平氏一門の没落を当然とし、所詮は院の傭兵隊長でしかなかった平氏のあり方に、武家政権としての未熟さが現れている。・・・としてきた。
これに対して、最近では、ついには、滅びたといえ、平氏政権がのちの鎌倉幕府に継承されるさまざまな軍事制度や独自な支配原理をそれなりに生み出している事実がむしろ強調されようになっている。
そのようなこともあるからだろうか、今年(2012年)1月8日から放送が開始されたNHKの大河ドラマ「平清盛」(※3)“第一話ふたりの父”では、鎌倉で父・義朝の菩提寺の立柱儀式に臨んでいた源頼朝の元に政子壇ノ浦での平家一門の滅亡を知らせるところから始まっている。そして、狂喜する御家人や政子を「清盛がいなかったら今の武士の世はなかった」と頼朝が窘(たしな)めている。
この平家滅亡の回想から始まった今年の大河ドラマの原作はなく、脚本は藤本有紀のオリジナル作品だという。作品紹介で、”「平家物語」ではアンチヒーローとして描かれていた男に新たな光をあて、歴史絵巻から解放された、躍動感とエネルギーにあふれる男として描く。“・・・と、その意気込みが感じられるが・・・。
しかし、放送早々、井戸敏三兵庫県知事から、大河ドラマ「平清盛」について、「画面(映像)が汚い。鮮やかさがなく、チャンネルを回す気にならない」と酷評。主演の松山ケンイチ演じる清盛像について、NHKは番組ホームページで、「武士の子と思えない汚い格好で、庶民に混じり、やんちゃを繰り返す」と紹介しているが、ゆかりの地の知事として、演出が気に入らなかったようだ。NHK広報部は、「リアルな時代表現を目指しており、武士は汚く、貴族は可憐に描いている。清盛も今後は美しくなっていくので、長い目で見てもらいたい」と話している(1月11日朝日新聞朝刊)・・・と、NHKは、この苦言に対し現行路線で行くと強気のようだが、清盛は現在の神戸市福原京を置くなど兵庫県はドラマの主要な舞台の1つ。不満には、番組とタイアップしながら観光客誘致を進めたいと考えていたのに、同回の放送が大河ドラマの初回放送としては過去3番目の低さ(17.3%)だったことに対する苛立ちもあったようだ。これに対して、最近の噂では先行き不安な幕開けに局内は動揺しているようで、大幅な脚本の手直しがあり今後、これまでの大河ドラマにはなかったような過激で激しいシーンも予定されているというのだが(※4)・・・。一体、これからどのような演出がされてゆくのだろう・・・か。
このような歴史上の人物について、小説を書いたり、ドラマ化するとき、それぞれの立場や方法があってよいのだが、ある人物の史実を史料によって構築することと、その人物について伝えられる物語や説話が生まれた過程を追うこととの間に軽量はなく、史実がすべてと言うわけでもないだろう。
この大河ドラマの主人公平清盛と言えば、『平家物語』や戦前の『国定教科書』などによって、権勢を誇る悪役としてイメージが広く知られている。
鹿ヶ谷の変後、清盛が後白河法皇を法住寺殿に幽閉しようとした際の嫡男重盛の「忠ならんとすれば孝ならず孝ならんとすれば忠ならず」の名セリフ前で、「衣の下の鎧」をかくす悪逆歩非道の清盛像があった(※5)。
しかし、戦後、この清盛の衣の下に国際感覚に富んだ新しい人物像が発見されている。
音戸の瀬戸を修築し、船の航行を可能にしたのは、若き日の安芸守清盛であり、遣唐使を廃止して閉鎖的な国粋主義が横行していた時代に、西に大宰府をおさえ、日本で最初の人工港を博多に築き貿易を本格化させ、東には神戸の港(摂津国福原京の外港大輪田泊)を修復・拡張したのも清盛である。音戸はそれを結ぶ海路であった。そして、雄大な彼の構想にあったのは中国貿易(日宋貿易)であった。(※6の第21回 平氏でなければ人ではない? 海に目を向けた平清盛参照)。
私の大好きな作家の1人である吉川英治の小説に『新・平家物語』がある。
この小説が書かれた当時は、戦時中の国粋主義に破れ、世界に目を開いた。こうした世相を反映して、 『新・平家物語』の清盛は、貧困と荒廃を乗り越え、因習にとらわれないで、新しい魅力的青年として再登場した。
この小説は、1950(昭和25)年から1957(昭和32)年まで『週刊朝日』に連載されたものだが、元朝日新聞に在籍していた評論家、編集者、ジャーナリストである故・扇谷正造は、『日本史探訪』6源平の争乱(角川書店文庫本)の中で、昭和22年、初めて吉川と連載小説の打ち合わせをした時『平家物語』が浮かびあがり、『新・平家物語』は、壇ノ浦から始まる予定だったという。
つまり、戦後の追放(公職追放のことを言っているのだろう)などひっくるめた日本の世相というのが、壇ノ浦で平家が散り散りになって「木の葉が沈み、石の浮かぶ時代」、価値転換の時代と重なって、吉川の念頭にあった、“人間の運命は、はかりがたい“・・・に合っていたからだという。
ところが、当時、吉川が自宅で構想を練っているときに、村の青年たちが次々復員してきて、彼らが、これから自分達はどうなるんだろうと毎晩のように心配してやって来る。それを聞いているうちに、吉川は、日本はこのままで良いのだろうかという様なことを考え出し、急に構想を変えて、青年清盛から始めることになったという。それによって、若い人に生きる希望と方向を与えられるのではないかと考えたのだろう。だから、青年清盛が、京の雑踏の中を歩く描写などは、当時の闇市を思わせたりするのだという。
清盛の青年時代については、歴史家の間でいろいろ説があるだろうが、吉川は、戦後の窮乏時代の青年を思い浮かべていたので、清盛をグンと落として、地下人、つまり、貧しい平家一門の青年として書いたのだという。
ただ、「歴史的には、平家一門は、急速に成り上がったとはいうものの、清盛の代になると吉川が小説家の自由な想像として書いたよりはかなり金持ちで、しかも、白河上皇の御落胤と言うようなこともある。清盛は、吉川が書いたより、かなり華やかな教養ある生活をしている」と対談相手の劇作家、評論家、演劇学者山崎正和は言っている(『平家物語』では清盛は祇園女御となっているが、今では古文書などから、歴史家の間では、祇園女御のもとに通ううちに、その妹にも魅かれ、妹との間に出来たという説をとる人が少なくないという)。
『新・平家物語』第1巻わんわん市場には、「じつは若い清盛の身なりの方がおよそ一目を引くものだった。よれよれな布直垂(ぬのひたたれ)に、垢じみた肌着ひとえ。羅生門に巣くう浮浪児でも、これほど汚くはあるまい。もし腰なる太刀を除いたら、一体何にまちがわれるかだーー。」・・と、この時 二十歳になった青年清盛の風体を羅生門に巣くう浮浪児より汚いと書いているが、吉川も歴史的なことは承知の上で書いたことだろう。
この風体は、今回始まった大河ドラマ「平清盛」とそっくりだ。先にも書いた兵庫県知事の清盛が汚いという苦言に対して、NHK広報部は、リアルな時代表現を目指しているというが・・・本当にこれがリアルな表現と言いたいのだろうか・・・?
ところで、一般的に治承・寿永の乱のことを「源平合戦」とも言い天下を二分した源氏と平家の戦いとのイメージがあるか知れないが、これは源氏と平氏の戦いという訳ではなく、平清盛一族と源為義の孫達との戦いであった。
例えば、あの保元元年(1156年)の皇位継承問題や摂関家の内紛により朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し双方の武力衝突に至った政変・「保元の乱」でも、摂関家(藤原家)では、藤原頼長が上皇方に、頼長の兄藤原忠通が天皇方に、これに、天皇方には、藤原通憲(信西)という藤原頼長と並んで評判の学者が参謀としてついている。
武家では、源氏の源 為義が、頼賢為朝ら一族を率いて上皇方につくが、為朝の長男の義朝が東国武士団を率いて天皇方に参陣。
平家では平清盛とは早くから不和であった清盛の叔父平忠正が上皇方についたのに対して、清盛一家が天皇方について争った。つまり、藤原も、源氏、平氏も同じ氏同士が、そして、親子、兄弟が骨肉の争いをしているのである。
この戦いは後白河天皇方が勝つが、戦後、崇徳上皇は讃岐に配流された。武士に対する処罰は厳しく、薬子の変を最後に公的には行われていなかった死刑が復活し、28日に忠正が、30日に為義らが一族もろとも斬首された。
そして、絶対的な権勢を誇っていた藤原氏が保元の乱の鎮圧に平清盛と源義朝を用いたことで時代の担い手が藤原氏から源平両氏に移った。
しかし、乱後の、藤原通憲(信西)が論功行賞を取り仕切ったが、源義朝が左馬頭への任官に留まったのに対し、清盛が播磨守・大宰大弐(だざいのだいに。この当時では、大宰府において実質の長官の役割を担うもの)と差が付いたのが、義朝としては面白くない・・・ということで、同じように出世に不満を持っている藤原信頼と手を組んで、源義朝と平清盛・・・源平両家が競い合い、その争いが平治の乱となり源氏敗退となった。藤原信頼は斬首され、源義朝は東国へ逃れようとするが、尾張国で長田忠致に誘い出されて殺されてしまう。こうして、天皇方は反対派の排除に成功したが、宮廷の対立が武力によって解決され、数百年ぶりに死刑が執行されたことは人々に衝撃を与え、実力で敵を倒す中世という時代の到来を示すものとなった。
慈円は『愚管抄』においてこの乱が「武者の世」の始まりであり、歴史の転換点だったと論じている。そして、平氏の・・・といっても、平氏にも色々諸流があり、伊勢平氏・平清盛一族の天下がやってきたのであった。
清盛は特に後白河上皇に重用され援助を受け官位を昇進させたが、その後の清盛の行動は慎重で「アナタコナタ (彼方、此方)しける」(『愚管抄』(※2の愚管抄 第五巻又、※7の清盛出世物語>3.平大相国清盛。※8参照)といわれるように、諸方に細心の気配りをし異常な速さでの昇進であったにも関わらず、この当時は比較的、敵対する人も少なかったようだ。晩年の行動を思うに、清盛は大変横暴な人物とされているが、もともと如才の少ない人柄で、その点は父祖の伝統・血筋を継いでいたといえるのかも知れない。
ただ、ひとつ、清盛に甘い面があった。それは、平治の乱の後、義母の池禅尼に「亡くなった息子に似ている。殺さないで欲しい」と懇願されたとはいえ、折角捕まえた源義朝の嫡男、源頼朝を助命し、伊豆への流刑に。さらに、後に源義経と名乗る牛若丸などの義朝の子供達も、その母親である常磐の美しさに惚れ助命し、鞍馬寺に入れてしまったことである。これが、平家一門の滅亡に繋がってゆくのだが・・・。
保元・平治の乱後では、京都での戦に敗れ、敗走する源氏の武将たちは、しばしば坂東に逃れようとするが、坂東という地は源氏ゆかりの地、源氏が基盤をなした地であるいうだけではない。足柄・碓氷の坂より東に位置している坂東(東国参照)という地は、中央の勢力が及ばない言わば半独立国家のような地だった。
平安京遷都が行われて以来、その後数百年にわたって公家・貴族たち特殊階級の人たちによって絢爛豪華な王朝絵巻物語が繰り広げられていた時代は、平安時代と呼ばれているが、この時代を動かしていたのは一部の公家・貴族たち、中でも藤原氏一族が、時の朝廷をも動かす大きな勢力を有していた。
家柄・氏・素性がものをいっていたこの時代、政治の中心の特権階級以外の者達はいかに活躍しようとなかなか出世することもなく、せいぜい都の護衛(検非違使)くらいの仕事しかなく、特権を有しない人々は家族、一族らとともに生きる場所を求めて新天地を求めて都から地方へ生活の場を求めるようになり、特に、 大化改新前後を通じて一種の異域とみられていた坂東に終結しはじめた。
そんな中、地方の武士団を統率し、その棟梁として勢力を拡大していった勢力がある。その二大勢力が、源氏と平氏である。
源氏も平氏も没落貴族の子孫である皇族が臣籍降下する際に名乗った氏の一つであるが、桓武天皇の皇子たちの子孫で平姓を給わって臣下にくだった家を桓武平氏と言うが、このように皇室の出自でありながら、臣籍降下した、平氏には、桓武平氏のほか仁明平氏、文徳平氏、光孝平氏などがあり、武家平氏として活躍が知られるのはそのうち高望王坂東平氏の流れのみで、常陸平氏伊勢平氏などがこれに相当する。
源氏では、もっとも有名なものは、幕府を開き将軍の家柄となった清和源氏であるが、家格が最も高いのは村上源氏であるとされるが、流派はこのほか多数ある。また、平安以降臣籍降下が頻発すると源、平の二姓ばかりになる。
この坂東という地は中央からの監視の目を逃れて、自由に振舞える絶好の地の利を有していたが、その分秩序が乱れやすいということでもあった。平将門高望王の三男平良将の子)の乱はまさにこの盲点を巧みに利用しようとした事件であり、ほかに藤原純友の乱など(承平・天慶の乱)、地方で不穏な動きが広がっていった。
平将門の乱は、平貞盛平国香の長子)ら追討軍の攻撃を受けて関東に独立勢力圏を打ち立てようとする目的は果たせず2ヶ月で滅ぼされた。
平家の棟梁平清盛の一族は、この将門と激しい戦いを繰り広げた、平貞盛の子のうち、平維衡(4男)を始祖とするグループで、伊勢(三重県)に移り住んだ伊勢平氏中の一流であり、それも清盛の祖父・平正盛からである。そのほかの平氏の多くは関東に土着している。
又、平将門の乱以来平穏だった関東地方では長元元年(1028年)に房総三カ国(上総国、下総国、安房国)で大規模な「平忠常の乱」が発生するが、この乱の追討使を命じられるほどの剛の者であった平直方の父は、平貞盛の直系の孫(長男維将の子)平維時である。
鎌倉に本拠を置き、摂関家の家人として在京軍事貴族でもある直方は、源頼義の舅でもあり、直方の娘と、頼義の間からは源義家、源義綱、源義光の兄弟が生まれている。八幡太郎の通称でも知られる義家は後に武家政権鎌倉幕府を開いた源頼朝の祖先に当たる(※9の武士の発生と成立>兵の家各流>平氏の流れの中の平氏の系図参照)。
直方は、本拠地の鎌倉を娘婿である源頼義に与えたことから、源氏隆盛の礎を築いた功労者と言えるが、子孫はそれほど源氏から優遇されていない。
平治の乱で父・源義朝が敗れると伊豆国へ流されれた源 頼朝は河内源氏(清和源氏為義流)であり、平清盛は伊勢平氏中の一流であるが、両者の家系を辿れば、同じ坂東平氏平貞盛へと繋がっていく。その両家の戦いが源平の戦いであり、清盛から義朝の時代へと武家政権が継承されていったのである。
実力で政権を奪う“中世”の時代を切り開き、朝廷の政治世界に武家の地位を確立させた平清盛の功績は大きい。・・・が、では源平合戦(治承・寿永の合戦)でなぜ平家が源氏に敗れたのだろうか?
歴史家は、その要因の一つに、源平武士団結成の仕組みの違いをあげている。源氏は「御家人の利益獲得を厳しく管理する」兵団であったのに対して、平氏は固い主従関係に基づく兵団ではなく、むしろ当時の武士は貴族社会を守るための「駆武者(かりむしゃ=諸方から駆り集めた武者)。傭兵」に依存していた。そのため、負け戦となれば、金の切れ目が縁の切れ目になり、兵団は霧消してしまったという。このような西国武者(平氏)と東国武者(源氏)の武士の違いを、『平家物語』では、治承4年(1180年)に駿河国富士川で源頼朝、武田信義平維盛が戦った際に、従軍していた東国出身の斎藤実盛は、維盛との会話の中で、「親が討たれ子が討たれても、その屍を乗り越えて戦うのが合戦というものだ。ところが西国では、親が死ねば供養をし、忌が明けてから攻め寄せる。子が討たれると歎き悲しんで攻め込んでこない。兵糧米がなくなれば、春には田を作り、秋には刈り取ってから攻め寄せてくる。夏は熱い、冬寒いといって戦を嫌う。東国ではこのようなことはない。」と、西国の武士は伝統的な秩序がありそれを重んじているが、東国にはこのような秩序:習慣はなく、戦いになると、敵を倒すために遮二無二(しゃにむに。なりふり構わず)に戦っている、。だから強いのだ・・・と語らせている。(参考の※1、※11の平家物語巻第5富士川の段を参照)。ただ、斎藤実盛がこの合戦に従軍していた史実はなく、この話は東国武士の優越さを誇張するための虚構と考えられる。
最後に、このブログで、先に武家としての清盛について触れた学説上の対立については、実は、平氏一門の中に実在した矛盾の表現ではないかという。鎌倉幕府を樹立した頼朝が京都の天空に駆け上がろうとする志向と、東国の大地に深く根を下ろすことを求める動きとの葛藤の中で苦悩したのと同様に、清盛も「二つの魂」の相克―京都の宮廷に強く心引かれ、その中で地歩を確立することを求める人々と、独自な足場に立って自立した政権、国家の起立に突き進もうとする人々との対立が平氏一門の中にもあったのではないかというのだが・・・。 これからの大河ドラマ「平清盛」が史実に基づいて、どのような展開をしていくのか見ていくことにしよう。 
文字数の制約上中途半端なブログになったが、参考の※10:「一 輪 奏 :平家物語」や※11:「風の音 総目次」を見ておくとドラマが楽しくなるかも・・・。
(冒頭の画像:平治の乱の終幕に間近い六波羅合戦の一場面。源氏軍の闘将悪源太義平は、平氏の本邸六波羅を猛攻する。これをよくしのぎぬいた清盛は、今度は逆に手勢を率いて六波羅の大門から出撃。激しい戦いが開始される。この絵は、清盛が黒馬に乗り、大声でおめいて出ようとする、その「清盛出撃」の情景である。『平氏物語絵巻』個人像。部分。この画は週間朝日百科「日本の歴史Ⅰ。中世ーⅠー①源氏と平氏掲載のものを借用)
参考:
※1:Cube-Aki 【保元物語、平治物語、平家物語、吾妻鏡の原帖そして現代語訳等】
http://cubeaki.dip.jp/
※2:義経デジタル文庫
http://www.st.rim.or.jp/~success/bunko_yositune.html
※3:2012年大河ドラマ「平清盛」の公式サイト
http://www9.nhk.or.jp/kiyomori/
※4:痛いニュース(ノ∀`) : NHK大河「平清盛」低視聴率挽回へ、濡れ場シーン投入・・・
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1692932.html
※5:忠を選ぶか孝を選ぶか、平重盛が下した決断 - 西野神社 社務日誌
http://d.hatena.ne.jp/nisinojinnjya/20081122
※6:日本史-歴史研究
http://www.uraken.net/rekishi/rekijap.html
※7:平家礼賛
http://www6.plala.or.jp/HEIKE-RAISAN/index.html
※8:二条天皇と後白河上皇の応保元年
http://www2.ngu.ac.jp/uri/gengo/pdf/genbun_vol2202_08.pdf#search='愚管抄 清盛 アナタコナタ'
※9:北道倶楽部
http://www.ktmchi.com/index.html
※10:一 輪 奏 :平家物語
http://ichirinso.web.fc2.com/heike_ind.html
※11:風の音 
http://kazeoto.com/kaze-oto.sakuin.html
日本史・世界史の事象と人物
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/vision/history001/world_history.html
神戸市文書館源平特集目次:
http://www.city.kobe.lg.jp/information/institution/institution/document/genpei/genpei.html
大河ドラマ「平清盛」あらすじ&歴史背景
http://unmeican.seesaa.net/

LG21の日(ヨーグルト)

2012-02-01 | 記念日
日本記念日協会の今日・2月1日の記念日に、「LG21の日」があった。
由来を見ると、”明治乳業株式会社が発売しているLG21乳酸菌(正式名称・lactobacillus Gasseri OLL2716株)を使用したヨーグルト「明治プロビオヨーグルトLG21」のPRを目的とした日。日付は「LG21」にちなんで2と1から。”・・・とあった。
記念日と言っても最近多くなってきた企業の製品PR用の記念日のひとつだから、そんなことには、余り関心はないのだが、先週の月曜日(1月23日)、いつも見ているNHKの朝ドラ「カーネーション」のあと番組・NHKの あさイチ(※1)で、“新発見続々 すごいぞ!ヨーグルトの力”のタイトルで、ヨーグルトの効用の話をしていたのを見て、改めて、ヨーグルトに興味を持ち、書いてみようかと思った次第。
このブログでは、「LG21」のことは、直接的に書いていないので、この製品「明治プロビオヨーグルトLG21」のことに興味があるなら、以下参考に記載の同社HP(※2参照)を見られると良い。
先ず、Wikipedia他、検索で得た情報を元に、ヨーグルトの基礎的なことに触れていこう。
ヨーグルトは、牛乳などの乳に乳酸菌酵母を混ぜて発酵させて作った発酵食品であり、ヨーグルトに相当する食品は世界各国に存在し、それぞれの国で色々な名で呼ばれているようだが、欧米や日本でこの乳製品を指すのに用いられる「ヨーグルト」という言葉は、トルコ語でヨーグルトを意味する「ヨウルト(yoğurt)」に由来するものだそうだ。
ヨウルトは「攪拌すること」を意味する動詞yoğurmakの派生語で、トルコにおけるヨーグルトの製法を反映しているという。この名称が広まったのは、ロシアの医学者イリヤ・メチニコブルガリア(当時はロシアの支配下だが、直前までオスマン帝国領)訪問の際に、現地の伝統食のヨーグルトを長寿の秘訣として、世界中に広めたからであり、ヨーグルトにたまる上澄み液は乳清、英語ではホエイ、またはホエー(whey)という。
又、FAO(国際連合食糧農業機関)とWHO(世界保健機関)によって1977(昭和52)年に定められたヨーグルトの厳密な定義によると、「ヨーグルトとは乳及び乳酸菌を原料とし、ブルガリア菌(ラクトバチルス デルブリュッキー 亜種 ブルガリクス)とサーモフィルス菌(ストレプトコックス サーモフィルス)が大量に存在し、その発酵作用で作られた物」と定められているそうだ(乳酸菌については参考※3:「社団法人全国はっ酵乳乳酸菌飲料協会」の学術情報>”乳酸菌”って、どんな菌?を参照されるとよい。)。
人の(ちょう、intestines)は食物がで溶かされた後、その中の栄養や水分を吸収する器官であり、末端は肛門であり、消化された食物は便となり、排便により体外へと排出される。

上掲の図は、「人の腸の構造」(1:食道 、2: 、3:十二指腸、 4:小腸、 5:盲腸、 6:虫垂、 7:大腸、 8:直腸、 9:肛門。Wikipediaより)である。
体外へ排出される便には、単なる栄養素が吸収された後のカスだけではなく、消化液(※4)、粘液粘膜などの消化器管から出てきたもの、古くなって腸壁から剥がれ落ちた細胞、不要なミネラル腸内細菌が含まれているそうだ。
腸内細菌とは、ヒトや動物の腸の内部に生息している細菌のことを言うが、人の腸内には一人当たり100種類以上、100兆個以上の腸内細菌が生息しているという。そして、体外へ排出される糞便のうち、約半分が腸内細菌またはその死骸であると言われている。
この分野に知識のない私など、糞便の殆どが、消化器官で消化しきれなかった食べ物のカスだろうと思っていたものだが、まず番組冒頭で、食べ物の消化し切れなかった残りカスは、口から摂取した食べ物の3分の1程度であるといって、上記で述べたようなことを話していた。
ヨーグルトに含まれている乳酸菌には整腸作用(腸内環境の改善)があり、一般に便秘解消や美肌につながると人気があることは私も知ってはいるが、当番組では、焼き物の里として知られる佐賀県有田町で昨年乳酸菌の働きを見る調査が行われ、「R-1乳酸菌」入りのヨーグルト(飲料タイプ)を1日1本(112グラム)、半年間、飲み続けた結果、参加した小中学生のインフルエンザの感染率が、周辺地域や佐賀県全体と比べて極めて低いことが分かったことを紹介。この「R-1乳酸菌」の働きを突きとめたのは、神奈川にある食品メーカーで、これまでに3500種類もの乳酸菌を探し出していて、およそ10年をかけてR-1乳酸菌の優れた働きを発見。このR-1乳酸菌は発酵の過程で「多糖体」と呼ばれる糖を含んだたんぱく質を大量に作りだす。この「多糖体」(糖質には単糖類、少糖類、多糖類があり、単糖類が多数結合したもの。を参照)が、体の中に入ると、免疫機能で重要な役割を果たすナチュラルキラー細胞(NK細胞)を活性化させる。そのため、インフルエンザウィルスも撃退できたのはないかと考えられている・・・というのである。
ここで言っているR-1乳酸菌とは、正式には、ブルガリア菌の一種「1073R-1乳酸菌」のことで、もっと具体的に云えば明治ヨーグルトR-1のことを言っているのだろう( 2011-01-14付け明治乳業:プレスリリース参照)。
NK細胞とは、がん細胞(悪性腫瘍)を殺す免疫細胞(※5参照)のエース(ここ参照)だと言われているそうで、そうなら、がんに一番恐れを抱いているといわれる日本人にとっては、がんの免疫力が活性化出来るなどといわれれば、どうしても摂りたくなるよね~。
それに、当番組によれば、去年、行われた調査では、ヨーグルトに含まれる乳酸菌の一種「ガゼリ菌SP株」には内臓脂肪低減効果があるので、メタボの改善にも良い他、乳酸菌の機能として、「LB81乳酸菌」には、肌の弾力やキメ密度など、皮膚機能の改善効果があること(※6参照)や、「ビフィズス菌BB536」などには花粉症の症状を緩和する効果が期待できる(※7参照)ことも紹介されているという。
ただ、内藤裕子アナは、「ヨーグルトはではないので、誰にでも必ず効くというわけではなく、乳酸菌との相性や周りの環境によっても効果は違う」・・・ことを一言付け加えていた。
それに対して、同番組にゲストとして招かれていたこの分野の専門家で、免疫系に対する食品の作用について研究を行っている日本大学の教授・上野川修一(※8参照)は、「乳酸菌は元々免疫力を高める性質があり、その中でもR-1乳酸菌は多糖体を外に出すので、それによって更に免疫力を高めたのでは・・・」と言っていた。
そして、内藤裕子アナから、潤いのある乾燥肌知らずの十和子肌で知られる元女優君島十和子が、ヨーグルトに不足している食物繊維を補うために、ヨーグルトにきな粉を入れて効果をアップし、毎朝欠かさず食べているといい、そのヨーグルトの作り方、他、最近話題のギリシャヨーグルト(※9参照)など、色々なヨーグルトを使ったレシピを紹介していた。
我が家は、家人が便秘気味であり、私ももともと腸の調子は余りよくない方。それに、夫婦とも年齢的にも肌が乾燥気味なので、番組を見て、早速、ヨーグルトにきな粉を入れたものを作って食べてみようかと言うことになり、翌日、近くのスーパーに買いに行くと、評判の良いヨーグルトやきな粉は、売り切れていたと云って、普及品の物を買ってきていた。最近は、テレビで、これが美味しいとか、これが健康や美容に良いとちょっと話題になると、誰もがワッと買いに行くので、近くのスーパーなどでは放送があった後直ぐに、店頭の商品が消えてしまう。テレビの人気番組などで健康や美容・料理などが話題になると必ず起こる現象だが、我が家も世間様同様だがね(^0^)。
日大の教授・上野川修一は、確か前にも、NHKの番組に出ていたのを見た記憶があり、調べてみたら、それは、約5年ほど前に、NHK総合TVで放送されていた漫才コンビ爆笑問題が、各分野の専門化のもとへ赴き、その専門分野と本質についてトークを繰り広げる「教養」をテーマとしたバラエティー番組爆笑問題のニッポンの教養(略タイトル:「爆問学問」。公式サイト※10のFILE014:「人間は考える腸である」2007年10月23日放送分参照)であった。
そのとき上野は「動物は管(くだ)である」といっていた。
前掲の「人の腸の構造」を見ても判るように、人の身体には、口から始まって、胃、小腸、大腸、肛門へと連なる「管」が一本通っている。その管と連なっている胃とか腸の内側は、口から摂ったものが通っている管の内部から見ると「外側」になる。
このような胃腸などの消化器管のほかにも気管血管など人間の身体は「管」で成り立っており、その点については、他の動物と変わりはない。
そんな「管」の中でも、人体の外部より摂取した食物を人体の内部へと吸収してくれる重要な働きをしてくれているのが、「腸」であるが、腸は体に必要な物は取り入れ、逆に有害な物は排泄するという善悪の判断をするのような働きをしており、これは、腸が、脳や脊髄からの指令がなくとも反射を起こさせる内在性神経系を持っている臓器であるからで、我々の先祖は、そのアメーバ原生的生物から進化して脊椎を獲得した時、頭蓋と腸の両方にそれぞれ別の感情を持つ脳を発達させたからだという。だから、腸は、「第二の脳」だと言われており、それほど大事な器官だということになるのだそうだ(※11参照)。
ただ、常に、外部から体内に入ってきたものに最初に接触し、その影響を受けやすいところでもあるし、又、食べ物などだけではなく、ストレスなどによる精神による影響も大きいのだという。
ネットで色々検索していると、毎週月曜日に朝日新聞に掲載される「朝日俳壇」の選者やNHKの「俳句王国」の主宰などで活躍していた事もある国文学者・俳人の故・川崎展宏の代表句の中に以下のようなものがあった。
「人間は管(くだ)より成れる日短(ひみじか)」  
そこには、この句(※12参照)の説明はないが、川崎は、上野が言っているような“人間の体は「管」で成り立っていることを実感していたのだろうか?
生物進化の歴史を溯れば、今この地球上には、多くの人種がいるが、元を辿れ、アフリカ人であり、さらに溯れば猿類と、どんどん溯ると菌類(バクテリア)にたどり着く。菌類-藻類-魚類-両性類-爬虫類-ほ乳類-霊長類-人類と約40億年もの時をかけて大きく変異してきた(地球史年表、又、参考の※13、※14参照)。
私達の体には無数の細菌が住み着いているが、その中でも腸内には最も多くの細菌が住んでいることは先にも述べたが、これら腸内細菌などの菌は、“地球の生命誕生の時”の生き物であり、私達人類は、地球の歴史から見れば、まだほんの一瞬の時を生きているだけの生き物だともいえるだろう。だから、川崎は、管(くだ)より成れる・・・人間は「日短(ひみじか)」と読んだのかも知れない・・・。
人の免疫細胞の60%は腸管に集中して、腸管免疫系を支えており、腸がうまく働くと免疫力も高まる。つまり、腸は免疫の司令塔といえる存在なのだ。この「腸」には数100種の腸内細菌が絶妙なバランスでひしめき合い、病原菌病原体も参照)やウィルスなどの異物の侵入を防ぐ極めて精密な免疫システムを作り上げているそうだ。
腸内細菌には身体に良い働きをする善玉菌、身体に悪い物質を作る悪玉菌が熾烈な勢力争いをしているが、どちらつかずの日和見菌もおり、この菌は、その時々の腸内の状況に応じて、勢いのある方に味方する性質を持っており、数の上では一番多くいるのだとか・・。そして、この腸内細菌全部の量はほぼ決まっているので、善玉菌がふえると悪玉菌が減ることになるので、善玉菌を増やして日和見菌を味方につけないといけないね~。ただ、善玉菌が悪玉菌を駆逐してくれた方が健康には良いと思うのだが、必ずしもそうともいえないらしい。
それは、悪玉菌の中にも摂取した食物を腐敗させたり分解させたりする役立つ働きをしている菌もあるらしく、又、腸内の善玉菌は悪玉菌を餌にして生きているが、悪玉菌が消滅してしまえば善玉菌も生きていけないので、見方によっては悪玉菌も必要不可欠な存在であり、要は、腸内細菌が、バランスよくいることで健康が保たれていることになるということのようだ。
逆に、偏った食事や、運動不足、それに老化や 精神的ストレスなどでバランスが崩れると、悪玉菌が優勢になり便秘・下痢・血液の汚れ、免疫力の低下などが起こることになる。つまり、共生と寛容で成り立つている世界なのだそうだ。これは、人間の世界でも見習うべきことだろうね。
免疫とは、人の健康を守ってくれる働きで、自然治癒力という体の防御システムのひとつであり、この自然治癒力を高めるために、乳酸菌に代表される善玉菌を食品から摂取することで、消化器系のバランスを改善し、病気の発生を未然に抑えようと考えられるようになった。そのような人体に良い影響を与える微生物また、それらを含む製品、食品をプロバイオティクス(Probiotics)と呼んでいる。
ヨーグルトの乳酸菌の多くは、実は胃酸などで死んでしまう。それでも腸の中の乳酸菌と同じ種類のもののうち、いくらかは生きたまま腸に届き、比較的長い間そこで活躍してくれるものもいる。ビフィズス菌などの「定住菌種」と呼ばれるものがそうだ。乳酸菌などの善玉菌は個々の人によって生まれたときから持つ「固有種」しか定着しないため、それ以外は腸内定着することができず、便となって排出されてしまうが、その代謝物などがゆっくりと通過する間に酸を作り出し、酸性に弱いウェルシュ菌大腸菌などの悪玉菌をおさえ、腸内ビフィズス菌などの善玉菌が活躍しやすいように手助けするという整腸作用をもつているのだそうだ。
乳酸菌といえば、直ぐに、この ヨーグルトのような発酵乳製品だと思われがちだが(勿論、 発酵乳製品は代表的な乳酸菌食品です)、他にも、植物性乳酸菌でできるぬか漬け・納豆・味噌など日本食の乳酸菌も酸に強く腸まで届くプロバイオティクス食品であることを知っておこう。
兎に角、臭いウンチやおなら、便秘や下痢は、腸内細菌のバランスが乱れているサイン。善玉菌は自分の持っている菌しか増えないが、外から補充していれば、その間だけでも悪玉菌は減るので短期的にみれば効果はある。ただ、先にも言ったように乳酸菌などの善玉菌はたくさんの種類があり、人それぞれの「固有種」しか生き残れない、また、せっかく食べても、腸まで行き着く前に胃酸などでほとんどが死滅し、わずかしか、腸までたどり着かないなどもあり、時間をかけて時分に合った乳酸菌を色々試しなが毎日根気よく続けなければいけないようだね。
それと、これらを外部から補充をすることも良いのだが、何よりも先ず、偏った食事のとり方を止めて、肉食を減らし、繊維質の多い穀物野菜などを多く摂るように努力することや、運動不足、それに、ストレスをなくすように努めることが肝要だろうね。

(冒頭の画像は、日本で最初のプレーンヨーグルト「明治ブルガリアヨーグルト」。Wikipediaより)
参考:
※1:NHK あさイチ
http://www.nhk.or.jp/asaichi/
※2:meiji-LG21
http://catalog-p.meiji.co.jp/products/search/index.html?key=LG21&x=23&y=4
※3:社団法人全国はっ酵乳乳酸菌飲料協会
http://www.nyusankin.or.jp/index.html
※4:消化液 | 学習百科事典 | 学研キッズネット
http://kids.gakken.co.jp/jiten/4/40003490.html
※5:免疫細胞 とは - コトバンク
http://kotobank.jp/word/%E5%85%8D%E7%96%AB%E7%B4%B0%E8%83%9E
※6:LB81乳酸菌を使用したヨーグルトの皮膚機能改善効果に関する検証
http://www.meiji.co.jp/corporate/r_d/report/pdf/2_02.pdf#search='LB81乳酸菌'
※7:花粉症緩和作用 - ビフィズス菌研究所
http://bb536.jp/frontline/index-06.html
※8:食品生命機能学研究室紹介 - 日本大学
http://hp.brs.nihon-u.ac.jp/~kinou/info.html
※9:ギリシャヨーグルト - GREEK YOGURT LIFE.
http://greekyogurt.jp/
※10:NHK:爆問学問公式サイト
http://www.nhk.or.jp/bakumon/
※11:腸の不思議な話
http://www.nyu-sankin.net/intestinal/
※12:俳句俳話ノート
http://nobu-haiku.cocolog-nifty.com/haiwanoto/
※13:人類歴史年表:地球と生命の歴史
http://www.eonet.ne.jp/~libell/tikyuu.html
※14:生命誕生
http://contest.thinkquest.jp/tqj1998/10098/noframe/2.html
腸内環境研究会
http://www.popuri.info/seityou/index.html
明治ブルガリアヨーグルト倶楽部|株式会社 明治
http://www.meijibulgariayogurt.com/
腸内細菌のあれこれ
http://www.seiwa-bussan.co.jp/chonaisaikin.htm
healthクリック: 腸内ビフィズス菌応援団!ヨーグルト
http://www.health.ne.jp/library/3000/w3000447.html
ヨーグルトは脳に効く:心と身体の謎/不安や心的苦痛に苛まれる現代人 への朗報
http://adhocrat.net/adhocblog/2011/10/post-968.html
ヨーグルト - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%88
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/