今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

野菜の日

2005-08-31 | 記念日
今日(8月31日)は「野菜の日」。
1983年(昭和58年)に全国青果商業協同組合連合会が野菜の栄養価やおいしさを見直してもらおうと制定した日だそうだ。
野菜を食べている人で、心から好きという人はどれくらいいるだろうか?。野菜を食べている人の大半は、健康に良いから、ダイエットの為、美容の為といった理由で食べており、美味しいと思って食べている人は少ないのではないかと思っている。私も最近こそ、健康の為にと言う理由で極力食べるようにしているが、若い頃は、嫌いで余り食べなかった。一般に、味覚は大きく分類すると、甘い、辛い、酸っぱい、苦いの4種類(最近ではこれらにうまみを加えて5種類とすることもある。)に分類されているが、野菜が美味しくないと感じる最も大きな原因には、野菜に「苦い」と感じる苦味成分が含まれているからだろうと言われている。この苦味の素となるのはフィトケミカル(phytochemicals)とよばれる化学物質によるものなんだそうだ。ところが、このフィトケミカルについて面白い話が、参考に記載の「野菜が嫌いな別の理由」に載っていた。
このフィトケミカルが体にいいことは事実であるが、何も野菜は私たちの健康のためにこのフィトケミカルをつくってくれているわけではないと言う。植物がはじめて地上にあらわれたときから、植物が光合成をおこなった結果、大気中には酸素の量が増え、そのお陰で動物は地上で進化し繁栄することができたことは、誰もが知っていることだよね。しかし、私たちの老化現象も酸素によるところが大きいと考えられているように、実は植物にとっても、酸素の量が増えすぎることは脅威であり、酸素に対する耐性が弱い原始の植物にとって、これは一種の大気の「汚染」であったとも言えたという。そして、この酸素による「汚染」に対し、植物は身を守るべく、酸化防止物質を作るようになり、それがフィトケミカルなのだそうだ。このおかげで、植物は、現在の植物のように酸素に対して耐性を持つようになっていった。そして酸素に対して耐性をもつことができなかった、動物も、植物がつくったこのフィトケミカルを摂取することで進化してきたというのである。しかし、植物だって動物に食べられたいわけではなく、植物は動物に対しても自己防衛能力をもつ必要があった。だから、「苦さ(まずさ)」をもって動物に食べられないように進化し、その役割を果たしたのがりフィトケミカルなのだそうである。それと対照的なのが、果実部分であり、果実部分は動物に食べてもらって、種を別のところに運んでもらう為に、動物に対し「甘味」で誘惑をしているのだとか・・・・。う~ん。分かり易い説明だよね~。野菜なくして、動物は生きられない。植物は、動物に食べられないよう、自己防衛で自らの味を苦くしている。人間の味覚の中で、この苦味を美味しいと感じられるようになるのは、一番最後だからね~。この話を聞くと野菜を食べなくていけない必然性が判るね。もっと、詳しく知りたい人は、同HPを見て・・・。
この野菜の中でも、豆の歴史はとても古く、人類の文明が起こるとともに栽培が始まったそうである。豆が、大昔から人々の身近にあったことは、世界中の遺跡から、いろいろな豆が見つかっていることからも証明されており、古代文明が発生したメソポタミアやその周辺では、今から7500年ほど前の遺跡から、えんどう豆などが見つかっている。また、大豆は、4000年以上も前から中国の広い地域で栽培されており、日本には、弥生時代に伝わったそうだ。
この大豆。物の本によると、大豆の胚芽部分に多く含まれてるイソフラボンは、カルシウムが骨から過剰に溶け出るのを防ぐ作用を持っており、骨粗鬆症を予防。豆に多く含まれているレシチンは、体内で脂質の代謝を促進する物質を生成し、肥満を予防、改善する作用がある。また、動脈硬化を防ぎ、肝臓のコレステロールなどの脂肪を分解し、再合成して脂肪肝を予防したり、記憶力を高める作用もあるそうである。そして、大豆に含まれているえぐみ、渋み、苦味の主成分にサポニンがあり、大豆サポニンには、過酸化脂質を抑制し、代謝を促進する作用がある。また、大豆のたんぱく質が、傷ついた肝細胞を再生する働きがあり、肝機能を向上させる作用があるともいわれているんだよね。家人も野菜や果物を食べないといけないと言って、毎日の食事に結構気を使ってはくれているが、どうしても不足がちになるね~。それで、我が家では毎朝パン食なので、野菜ジュースを必ず飲むことにしている。それに、飲兵衛の私には、大豆のレシチンやサポニン・たんぱく質の摂取が必要と、大豆の煮物を常備してくれている。
かあちゃん・・・気をつかってくれて有難う。感謝、感謝の毎日です。(ーー;)
参考:
いいお野菜ドットコム
http://www.110831.com/
旬の素材を使用したレシピ、野菜の保存方法、見分け方、下処理等を紹介。
野菜が嫌いな別の理由
http://www5.ocn.ne.jp/~report/news/ihateveggies.htm
農林水産省
http://www.maff.go.jp/


冒険家の日

2005-08-30 | 記念日
今日の記念日を、「今日は何の日~毎日が記念日 」で調べると、今日(8月30日)は「冒険家の日」だそうである。記念日の根拠は、1970(昭和45)年に植村直巳(うえむら なおみ)がマッキンリーに単独登頂し、1965(昭和40)年には同志社大学南米アンデス・アマゾン遠征隊がアマゾン川の源流から130kmを世界で初めてボート下りし、1989(平成元)年に堀江謙一(ほりえ けんいち)が小型ヨットで太平洋を横断した日・・・・とあった。
私の所蔵の「週刊20世紀・朝日クロニカル」で調べてみると、日本山岳会のエベレスト登山隊(松方三郎隊長)は1970(昭和45)年5月11日の朝、エベレスト最高峰の8848メートルを東南尾根からの登頂に成功した。史上6度目の快挙。として、同エベレスト登山隊の上村直巳隊員が撮影した日の丸をもつ松浦輝夫隊員の勇姿が写真に撮られていた。また、同登山隊は引き続いて未踏の南極への登頂をめざすが失敗。植村さんは同年8月30日、北米最高峰のマッキンリー初の単独登頂にも成功したとある。又、初の太平洋単独横断から27年。1989(平成元)年4月16日にサンフランシスコ港を出航した堀江謙一(当時50歳)の超小型外洋ヨット「マーメイド」(長さ2.8m)は1万2000キロの航海を無事終えて同年8月30日に兵庫県西宮港へ136日の旅だったとあった。しかし、1965(昭和40)年の同志社大学南米アンデス・アマゾン遠征隊がアマゾン川の源流から130kmを世界で初めてボート下りしたことについては、残念ながら記事がなく確証が得られなかった。ただ、植村直巳さんは、1941年、兵庫県城崎郡国府村上郷(現・日高町)生まれ又、堀江謙一さんは、1938年大阪生まれであるなど、これらの冒険家が皆関西の人達であることが、同じ関西人である私にとってはなんとなく嬉しい。関西人にはチャレンジ精神の旺盛な人が多いということだろう。これらの冒険家といわれる人達は、臆病とも思えるくらいに、用意周到で準備万端整え、目標までのスケジュールを綿密に立てるのだという。そして、それをきっちりと行い、初めて「冒険」なるものに実現の可能性がでてくるものなのである。しかし、そのような緻密さをもってしても、人知を超える自然の驚異という不測の事態が、訪れることもあるのだろう。植村直巳さんという不世出の冒険家も、冒険かとしての「宿命」に抗うことができず、1984年1月、世界で初めて北アメリカ・マッキンリーの「冬季単独登頂」に成功したが、無線交信で登頂を伝えたあと消息を絶つてしまった。一方、堀江謙一さんは、1962年単独太平洋横断。1972年小型ヨットによる西回り単独無寄港、世界一周。1982年4年間にわたる挑戦の末、初の縦回り、世界一周。1985年世界初、太陽電池によるソーラーボートにて単独太平洋横断。1989年の今日、全長2.8メートルの超小型ヨットにて単独太平洋横断に成功したわけであるが、その後も、次々とチャレンジを行い、昨2004年10月にも、兵庫県西宮市の新西宮ヨットハーバーから出航、ヨット「SUNTORY マーメイド号」で「単独無寄港による世界一周(東回り)」に挑戦、今年(2005年)の6月、新西宮ヨットハーバーに帰還を果たしたところである。「東西両回りヨット単独無寄港世界一周」を達成したのは日本人初であり、世界でもオーストラリア人に次ぎ2人目という偉大な記録である。
植村直巳さんのような山などを相手の冒険家にしても、堀江謙一さんのような海洋冒険家にしても「彼等には「孤独」という文字はないのだろうか?と考えることがあるが、孤独というものは、恐らく、”自分の周囲に話し合える人達が誰もいない”ということではなく、”自分には何もすることがない、できることがない”状態になった時に感じるものではないだろうかと感じるようになった。冒険家といわれる人達は、毎日を生と死の境に置いて「生きる」為に戦っているのだから、孤独なんか感じている暇はないのだろうね~。私も、現役を退き、第二の人生は、悠々自適で過ごしているが、こうして、毎日、ブログを書くために、歴史本を読んだり、図書館に通ったり忙しい。まだ、することのある間は、孤独は感じなくて済むね~。これが、何よりの幸せだろうな~。
(画像はエベレスト登頂時、植村隊員が撮影した日の丸を持つ松浦輝夫隊員の勇姿。週刊20世朝日クロニカルより借用)
参考:
植村直己冒険館
http://www3.city.toyooka.lg.jp/boukenkan/index.html
堀江謙一さんのホームページ
http://www.suntory-mermaid.com/
asahi.com:堀江謙一の世界一周ひとりぼっち - 関西
http://www.asahi.com/kansai/horiekenichi/




ベルばらの日

2005-08-29 | 記念日
今日(8月29日)は「ベルばらの日」
1974(昭和49)年、宝塚歌劇でベルサイユのばら 」 が初演された。池田理代子原作の劇画を脚色したもので、1976(昭和51)年の上演打ち切りまで、同歌劇団の各組(1974年月組、1975年花組、1975年雪組、1976年星組)によってに上演され、延べ140万人の観客動員を記録したという。特に、1976年の宝塚大劇場にて公演された星組の舞台は、原作の脚本演出には植田紳爾、その演出にはあの二枚目映画俳優・故長谷川一夫 が参加しており、出演者も貴族フェルゼンに鳳蘭、フランスのルイ16世妃マリー・アントワネットに初風じゅん、男装の麗人オスカルに汀夏子など・・・戦後最大のヒット作品に相応しい規模と豪華キャストによるものであった。
ベルサイユのばら」は、少女向け漫画雑誌「週刊マーガレット」(集英社)に1972(昭和47)年から翌1973(昭和48)年まで連載された。
大革命前から大革命前期を舞台に、近衛兵である男装の麗人オスカルとフランス王妃マリー・アントワネットらの生き様を描く。ベルサイユとはヴェルサイユ宮殿のこと。池田理代子がオーストリアの作家のシュテファン・ツヴァイクの小説『マリー・アントワネット』に感動して、この小説を参考にして描いたと言われているそうだ。宝塚歌劇団による舞台化の大成功(1974年初演)が作品の大ヒットに拍車をかけた。さらにテレビアニメ化され、アニメシリーズは1979(昭和54)年10月10日から全40話が日本テレビ系列で放送され、「ベルばら」ブームが起こった。その後、1989(平成元)年に星組によって再演された。その後は2001(平成13)年にも3回目の再演があったが、これからも、繰り返し上演されることだろう。恐らく、宝塚の長い歴史の中でも、この「ベルばら」は過去最大のヒット作品といえるのではないだろうか。私は、宝塚歌劇が好きで家人と何度か宝塚大劇場へ見に行ったことがあるが、男の私が一人では、見に行く勇気もない。そこで、自分のHP[よーさんの我楽多部屋」の中の「nostalgia神戸」の中に「宝塚歌劇みたいね!」というページを作った。人に見せるというよりは、自分が時たま、覗くために作ったものだが、興味があれば覗いてください。ここです。
(画像は、宝塚大劇場宙組公演「 ベルサイユのばら2001」チラシ~フェルゼンとマリーアントワネット編~)
参考:
長谷川一夫 (ハセガワカズオ) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/107601/


民放テレビスタートの日

2005-08-28 | 記念日
今日(8月28日)は「民放テレビスタートの日」である。
1953年(昭和28)2月1日にNHKが放送を開始し、続いて8月28日には、日本テレビ放送網 ( NTV ) がテレビの本放送を開始した。
最初に放送したのは日本テレビで、午前11時20分からの放映で、初のテレビコマーシャルは、服部時計店(今のセイコー)の正午の時報スポットであったが、フィルムが映写機に裏返しにセットされたため、3秒ほどで中止されてしまったということである。テレビ放送開始直後は受像機(テレビ)の価格が高く、なかなか普及しなかったので盛り場や、駅、公園などにテレビを設置した。これらの街頭テレビには大勢の人が集まり、プロレスやプロボクシングに熱狂した。
このテレビは、その後、日本の経済成長と価格の低下により、やがて電気冷蔵庫や電気洗濯機とともに、3種の神器として家庭のなかに取り入れられた。そして、ニュース、ドキュメンタリー、教養番組、ドラマなどの多彩な番組が放送されるようになり、テレビは、急速に普及し始める。特に、1959(昭和34)年は、皇太子(現天皇)ご成婚の年であり、ご成婚の模様を見たいと、白黒テレビの普及は200万台を超えた。このビッグイベントでテレビは広く国民に認知され、テレビ放送開始から半世紀、初期の街頭テレビの時代から一家団欒の時代、そして今は一人一台の時代へと普及したのである。今思い出すと私が子供の頃など、テレビは扉つきで床の間に鎮座していたな~。
ただ、テレビが普及したのは良いが、最近は、テレビの内容がかなり、低俗化してきており、私は、最近、ニュースやスポーツなど以外は余り見ることが少なくなってきた。しかし、それでも見もしないのに、テレビはつけっ放しになっている。見なくてもテレビがついていないと寂しい。テレビは、ひとつの中毒現象まで起こしているのではないだろうか・・・(ーー;)。
TV番組も時代によって、流行がある。一時は流行った歌謡番組などは最近殆ど見られなくなった。これには歌謡曲の低迷、それと、それぞれの価値観の変化、音楽業界の著作権の問題などもあるのだろう。そのため、今の時代には、昔のようにみんなで歌える歌がなくなってしまったのは寂しい。しかし、変らないのが、料理番組だね~。美味しいものが食べたいと思う気持ちは誰しも共通なのだろう。この料理番組は、我が家でも役に立っており、食卓にTVの料理番組で紹介されたものが並ぶことも多い。それと、最近、健康ブームにより自分の健康に対し気を配る人たちが増えてきた。そのため、テレビでも「サプリメント」ブームである。「Supplement」とは本来「補足」という意味で、今ではそれが転じて「普段から不足している各種栄養素を補うための食品」と解されているが、TVなどでは、頭の方のボケ防止的なサプリメントの番組が多くなってきた。一時流行ったクイズ番組的なもので、例えば伊東四朗(サプリマスター)の「脳内エステIQサプリ」のような番組。引き金となったのは大人気となった日本テレビの「伊東家の食卓」なんかじゃ~ないかな~。ちょっとお役に立つ番組が視聴者に受けることに気がついたのではないだろうか。それと、最近は癒しのための犬や猫などのペットブームから、動物を扱った番組も増えてきた。これも心が癒されるのでよい。昔、「TVを見ていると一億総白痴化する」と誰かが言っていたが、私も、ここのところのバラエティーを中心とする馬鹿げた番組が多くなってきたのを憂いていたが、ほんの少しでも、何かの役にたつ番組へ転向してくれるのは喜ばしいことだ。特に、日本テレビの昨日の夜から今日の夕方にかけて放送されている年に一度のチャリティー番組「24時間テレビ」は良いね~。今年は第28回目となるようだが、メインテーマーは「愛は地球を救う」。SMAP他多くのタレントもこの日は、奉仕精神で協力している。最大の見ものはチャリティマラソン。ランナー には今、TV界でも大人気の丸山和也弁護士 が挑む。今までの最高齢59歳という。凄いよ。この番組、第1回目は 1978年8月26日・27日に行われ、そのときのメインテーマー は「 寝たきり老人にお風呂を!身障者にリフト付きバスと車椅子を! 」だったそうだ。チャリティーで寄せられた寄付金などで、第1回目より特別仕様の福祉車両などの贈呈が続けられてきた。このチャリティー番組に刺激されてか、他の放送局でも、年に一度大掛かりなチャリティー番組を行っている。このような良いことはどんどん真似してやって欲しい。しかし、こうして、TVのことを振り返ってみると、やはり、日本TVには、パイオニア的なところがあるね~。民間テレビはCM収入によって、成り立っている。だから、視聴者(見てくれるもの)や企業の顔色を見ながら番組を制作しなければならない弱みもあるだろう。しかし、どこかの人気番組で今人気の出っ歯のお喋りタレントがやっているような、ちょっと記憶力の薄れ掛けた高齢者を集めて、いろいろ簡単な質問をし、それにまともな答えが出来ず頓珍漢な答えをしている年寄りを笑いものにしているのを見ると、反吐がでる。最低の番組だ。それを提供している企業も最低なら、そんな番組を見て笑う視聴者がいることを情けなく思う。人間誰しも高齢になると身体は元気でも記憶力などは衰えていく。それを笑い者するような馬鹿げた番組は是非作らないようにしてもらいたいものである。それは、放送側のモラルの問題だ。今日(8月28日)は「テレビCMの日」でもあるそうだ。このことについては又、次回に触れよう。唯一つ、言えることがある。「中身の良い番組、質の良いCMを流している会社は良い会社だ。その逆、低俗な番組、低俗なCMを流している会社は低俗な会社である。」・・・これは、絶対に、間違いない!。
(画像は、「05年の24時間テレビTシャツ」。)
参考:
日本テレビ
http://www.ntv.co.jp/
サプリメントの定義
http://cgi28.plala.or.jp/genki-ag/main/main_2/what_supplement.html
CMのCMキャンペーン - 日本民間放送連盟による。8月28日の「テレビCMの日」にちなんだキャンペーン。
http://www.enjoy-cm.com/

『男は辛いよ』の日、「寅さんの日」

2005-08-27 | 記念日
今日(8月27日)は『男は辛いよ』の日、つまり、「寅さんの日」である。
1969(昭和44)年、山田洋次監督・渥美清主演の映画『男はつらいよ 』シリーズの第1作が公開された。「フーテンの寅」が最初に登場したのはテレビドラマで、この時は最終回で寅さんは死亡した。しかし、あまりの反響の大きさのため映画で復活し、以来48作にも及ぶ世界最長の長編シリーズとなった。
1995年正月に上映された「男はつらいよ」シリーズ最終作(48作)、「寅次郎紅の花」では、冒頭、茶の間でテレビを見ていたさくらが、阪神大震災の特集番組の中で、兄寅次郎の姿を見つける。壊滅的な被害を受けた神戸市長田区の菅原市場周辺で、寅さんがボランティアとして活躍していたと言う設定である。被災地からの強い要請を受けて山田洋次監督が岡山、鹿児島を舞台に出来上がっていたシナリオに書き加えた。ラストは震災1年後の新春に市場に舞い戻った寅さんが商店主たちと再会を喜ぶ場面。おなじみのテーマー曲とともに、市場を上から写していたカメラは、ゆっくりと引き始める。そして、六甲の山々を背景に広がった神戸の町に「終」の文字が重なる。これが、シリーズ48作全体のラストシーンともなった。神戸っ子の私には感激的なシーンであった。
寅さん映画に登場するマドンナは、いつも寅さんにとって高根の花で彼の恋が実ることはなく、出会いと別れを繰り返してきたが。11作目の「男はつらいよ 寅次郎忘れな草」(昭和48年)で浅丘ルリ子が演じたリリーだけは違っていた。彼女は地方巡業の歌手で、寅さんと同じ世界の住人。しかも、明らかに寅さんにほれていた。そして、その後も、第15作「寅次郎相合い傘」(昭和50年)、第25作「寅次郎ハイビスカスの花」(昭和55年)と続けて登場している。そして、シリーズ第48作「寅次郎紅の花」にリリーが15年ぶり、4度目の登場を果たし、結果として最終作となってしまったのは、極めて象徴的な出来事でもある。
その寅さんを演じた渥美清は1996年8月4日、肺ガンのため亡くなった。(68歳)味のある渋い役者だったのに・・・。
今思えば、この最後の48作目の映画では、主演の渥美清さんには、今までの寅さんらしい元気さが感じられなかったような気がする。「僕はつらいよ」(ーー;)
今年は、寅さんがなくなって最終作(の第48作)「寅次郎紅の花」が上映されてから10年目にあたる。NHKのBSで「男はつらいよ」シリーズ48作を全て再放送してくれる。私も寅さんシリーズは、映画でもたくさん見ているが、飛び飛び、映画・TVでバラバラに見ているので、シリーズを第1作から順に見せてくれるのは有難いが、このシリーズ見終わるには2年近くかかるらしい。ちょっと、息切れしそうだから、コレクションの渥美清さん追悼の雑誌でも見て、見る映画をマークしておかなければね。勿論、最後の第48作「寅次郎紅の花」は見るよ・・・・。それと、渥美清の名セリフ・・・
「わたくし、生まれも育ちも葛飾柴又(かつしかしばまた)です。
   帝釈天(たいしゃくてん)でうぶ湯を使い、
   姓は車、名は寅次郎、
   人呼んで、フーテンの寅と発します」
で、始まる作詞:星野哲郎、作曲:山本直純、唄:渥美 清の「男はつらいよ」のテーマーソングも情緒があって良かったね~。
以下に記載のものは歌詞付のMIDIだよ。皆さんも一緒に寅さんを偲んで歌ってみては・・・。
「男はつらいよ」(二木絃三のMIDI歌声喫茶)

(画像は朝日グラフ「増刊」8/25追悼渥美清)
参考:
Cinema Clip:寅さん追悼特集(産経新聞)
http://www.sankei.co.jp/mov/db/movie_0808tora01.html
葛飾柴又寅さん記念館
http://www.katsushika-sangyo.or.jp/kanko/spots/torasan.html