今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

カメラの日

2006-11-30 | 記念日
今日(11月30日)は、「カメラの日」
1977(昭和52)年の今日(11月30日)、小西六写真工業(現在のコニカミノルタホールディングス)が世界初の自動焦点(オートフォーカス)カメラ「コニカC35AF」を発売した。「ジャスピンコニカ」という愛称で呼ばれ、誰でもピンぼけせずに撮れるということで、それまでカメラに縁のなかった女性や中高年層の市場を開拓した。
カメラ (camera) とは、写真撮影する為の道具であり、被写体の像を感光材料(写真フィルムなど)の上に投影し、適正な露光を与える為の装置を備えている。
カメラのはじまりは、壁に穴が開いただけの暗い部屋からであった。窓のない暗黒の部屋の壁面に小さな穴を空けると、反対側の壁面に外の景色が映し出される。これを応用して、日食の観察を行ったり、絵画の下絵を描く目的に使われた道具で、それは、カメラ・オブスキュラ と呼ばれたもので、「カメラ(camera)」は「部屋」、「オブスキュラ(obscura)」は「暗い」つまり、ラテン語で「暗い部屋」という意味だそうだ。6世紀には小穴の代わりにレンズを用いてより鮮明な像が得られるようになり、反射鏡によって箱の上面に像を結ばせるようにした小型のカメラ・オブスキュラが作られた。これは絵画に於ける遠近画法の確立に寄与したと言われている。その箱はさらに改良され、箱の中に映った景色を人間が写し取るのではなく、科学的な方法で写し取るための研究が重ねられ、そして1826年にフランスのニエプスが8 時間もかけて1枚の写真をとったのが、写真の始まりとされている。そして、1839年、フランスのL・J・M・ダゲールダゲレオタイプ(Daguerreotype。銀板写真と呼ばれるもの)について発表し、発売された「ジルー・ダゲレオタイプ・カメラ」が世界で初めて発売されたカメラなのだそうである。
現在私たちが使っているカメラは、ほとんど自動化されていて、シャッターボタンを押すだけで、手軽に鮮明な写真を撮ることが出来る。カメラの原理そのものは古く紀元前から判っていたわけだが、その光をつかまえる”という人類の長い間の夢が、やっと、このタゲレオタイプで実現し、その後も、カメラの光をコントロールするための、技術開発が行われ、19世紀後半に発明された乾板によって、シャッターが生まれ、レンズの性能が大幅に向上した。そしてロールフィルムの出現は、写真の普及を早めただけでなく1枚の写真から連続写真へ、さらに映画の発明をもたらし、映像文化をより豊かなものにしてきた。そして、小型で扱いやすくなったカメラは、工場生産による商品化を促進させ専門家だけのものから一般市民へと広がり、急速にアマチュア写真家層を形成させた。
これらのカメラの歴史的なことは以下参考のカメラの歴史① 「カメラのはじまり ~カメラって何?~」が子どもでも分かるように簡単に分かりやすく解説しているよ。
日本に写真が伝わったのは、1848(嘉永元)年とされているが、明治に入ると、「指物師」 達が作ったボディ(カメラ本体)に輸入品のレンズを組み合わせたカメラが作られ始めた。この日本で最初にアマチュア向けに発売されたカメラが、1903(明治36)年に、小西六写真工業(現在のコニカミノルタホールディングス。(以下、文章上は略して単ににコニカと書く)から発売された、「チェリー手提暗函(てさげあんばこ)」というカメラだそうである。そして、この年には、国産初の印画紙も発売している。1940(昭和15)年には国産初のカラーフィルムであるさくら天然色フィルム(後のサクラカラーフィルム)を販売。日本の写真用カメラフィルムのトップブランドの1つとして成長。1987(昭和62)年に海外のブランド名であるコニカに統一。
同社は、もともと薬種商小西六右衛門として、江戸の文化年間に始まった薬品店であったが、19世紀の末になると写真機の輸入はこの店の重要な部門となっていたそうだ。その関係から、私が前に書いたブログ1899(明治32)年の今日(6月20日)は初の日本製映画が歌舞伎座で公開 された日 でも触れたが、同社の店員の浅野四郎がその時の日本人映画カメラマン第1号でもあるのだよ。
カメラの製造販売にも力を注ぎ、1903年の「チェリー手提暗函」を発売そして、戦前から「ミニマムアイデア」、「パール」シリーズや「パーレット」シリーズ、「リリー」シリーズなどの大衆~上級者向けの高品質カメラを数多く作り名を馳せた。戦後は「コニカI」から出発し、シャッターを押すだけで誰でも簡単に写真が撮れる「ピッカリコニカ(フラッシュ内蔵)」、「ジャスピンコニカ(世界初のオートフォーカス機構採用)」、「現場監督(防塵、防水機構採用)」で知られるコンパクトカメラ、ワインダーを内蔵した一眼レフカメラFS-1、FT-1など、後に主流となる機能・機構を盛り込んだ数多くの名機を世に送り出した。私は、写真機のことは余り知らないので、写真機のことはフリー百科事典Wikipediaの記載を引用しているが、写真愛好家の中では「ヘキサー」「ヘキサノン」レンズのブランド名で馴染みがあるそうだ。
3年前の2003(平成15)年4月に事業子会社を設立し持株会社化した。同年8月に写真機・複写機大手のミノルタを完全子会社化し、コニカミノルタホールディングスを発足させた。同年10月1日、ミノルタ株式会社をコニカミノルタホールディングスに合併させて、その事業をコニカミノルタホールディングスの事業子会社に分割した。
しかし、今やデジタル化が著しく、カメラ界の名門コニカミノルタも、加速した優勝劣敗の世界に生き残れず、不振のカメラ・フォト事業から完全撤退することとなった。そして、「αマウント」はソニーが継承し、同マウント準拠のデジタル一眼レフカメラが近く発売する計画だという。
コニカミノルタ、カメラから撤退 ソニーが「α」を継承↓
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0601/19/news047.html
ソニー、レンズ交換式デジタル一眼レフに参入 - αマウントで
http://journal.mycom.co.jp/news/2005/07/19/008.html
思えば、1951(昭和26)年9月7日、ラジオ放送で日本初の歌を使ったCM ソングがオンエアされたが、それは、灰田勝彦 が歌う「僕はアマチュアカメラマン」。提供は、小西六写真工業(現在のコニカ)の「さくらフイルム」の宣伝のためにつくられたCMだった。
日本のカメラ界を絶えずリードしてきたカメラメーカーが次々と消えていくがコニカも例外ではなかった。(倒産、カメラ事業から撤退、等で消滅 した主なカメラブランドはここを参照。)このような現状は、アマチュアカメラマンにとっては、さぞ、寂しい事だろうと思う。・・・しかし、私のような、バカチョンカメラしか扱えないものにとっては、今使っている、ミニの「デジカメ」は非常に重宝していま~す。
(画像は、日本で最初の35mm判一眼レフカメラ。フリー百科事典Wikipediaより)
参考:
コニカミノルタホールディングス
http://ca.konicaminolta.jp/
カメラ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%A1%E3%83%A9
ダゲレオタイプ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%B2%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%97
カメラの歴史① 「カメラのはじまり ~カメラって何?~」
http://www.jcii-cameramuseum.jp/kids/rekishi/rekishi01.html
レンズマウント - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%BA%E3%83%9E%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%83%88
NOWEST カメラの歴史
http://www.nowest.com/photo/history.html
人とカメラと写真の歴史(1)
http://www5a.biglobe.ne.jp/~outfocus/tyyle-camera/history(1)/history-(1).htm
国立科学博物館-産業技術の歴史
http://sts.kahaku.go.jp/sts/set_brws_01.php?id=1033
コニカミノルタ、カメラから撤退 ソニーが「α」を継承
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0601/19/news047.html
コニカミノルタ「Old and New」
http://ca.konicaminolta.jp/oldnew/
ソニー
http://www.sony.co.jp/


「金属バット殺人事件」の有った日

2006-11-29 | 歴史
1980年の今日(11月29日 )は、 「金属バット殺人事件」の有った日。
1980(昭和55)年11月29日、神奈川県川崎市のベッドタウンに住む20歳の予備校生の男性が、両親を金属バットで殴り殺した。
予備校生(事件当時)は、16歳の時、都内から事件が発生した住宅地へ引っ越した。野球が得意で、母親からは手間のかからない子供といわれた。父親は上場企業の支社長で、東大卒ということもあって厳格な性格であった。兄も事件の前年に早稲田大学を卒業後に上場企業に入社している。高校入学時から成績が落ち始め、早稲田大学などの受験に失敗、予備校へ通うが成績は伸びなかった。このため二浪していて、精神的負担が増大し、レコードを買うために父親のキャッシュカードを無断で使用したり、飲酒をするようになる。両親の銀婚式が取り行われた事件前夜にこの行為が両親に見つかり、父親に叱責、足蹴にされる。そして、父に「明日中に追い出してやる」と言われ、自分の居場所を失ったと感じた予備校生は数時間後の翌朝未明、酒を大量に飲んだ上で両親を金属バットで撲殺した。予備校生は、犯行後、強盗の仕業にみせかけるために金属バットや血の付いた衣服を隠すなどの偽装工作を行った後、朝が明けてから警察に通報、「強盗による殺害」と証言した。しかし、犯行の翌日、親類からの追求によって、犯行を肯定して、親類から警察に通報され、逮捕された。逮捕後は、犯行を素直に認め、自ら詳細を供述した。・・・と言うものであった。原因は、受験戦争、父や兄への劣等感(学歴コンプレックス)、家庭内でのコミュニケーション不足が原因とされ、マスコミ各紙も、この事件は加熱した受験戦争、偏差値教育を象徴する事件として、大きく報道した。
思えば同じ1980(昭和55)年の10月、三重県の尾鷲中学で、多数の生徒が教師たちに暴力をふるって負傷させ、学校の要請で警察官が出動、24人の生徒が検挙されるという事件が発生し、社会的に衝撃を与えた。1979年から国公立大学共通一次試験がスタートし、これを契機に一次試験の広域データーを握る大手予備校への進学指導依存が強まり、大学の序列化が進んだ。こうして、受験戦争が一層激化するなかで、戦後教育の歪みが集中的に現れたのが当時の公立中学校であった。この頃から教師への暴力や校舎破壊などの校内暴力が荒れ狂った。
前に、私のブログ今日(11月20日)は、「世界のこどもの日(Universal Children's Day)」の中でも簡単に触れたが、戦後の「第一次少年犯罪多発期」(「貧しさ」ゆえの少年犯罪多発期)から、第二次少年犯罪多発期」(共稼ぎ、核家族化による「寂しさ」ゆえの少年犯罪多発期)経て、第三次少年犯罪多発期」(「落ちこぼれ」ゆえの少年犯罪多発期)を迎えたのが、1983(昭和58)年である。この年は戦後の中で、最も学校での非行・犯罪が多発した年だった。校内でのいじめ、暴力行為、器物損壊など、全国各地で学校が荒れた。日本は1970年代中頃から、高度経済成長も軌道に乗り、「一億総中流」といわれる時代を迎えた。この経済的な安定の中で多くの親たちが、「教育ママ」「教育パパ」と化し、又、その多くの親たちが我が子を少しでもいい学校に入れ、少しでもいい会社に就職をと血眼になった。そして、「受験戦争」を迎えた。本来、子どもたちは無限の多様な可能性を持った存在であるはずだが・・・。この頃から、人間をはかる物差しが、学力や知識量に偏重してしまった。その結果、学業の成績の悪い子は「落ちこぼれ」にさせられ、その子どもたちが、学校内を中心に非行・犯罪を繰り広げたのがこの時期であった。そのような中、」この頃、武田鉄也主演の学園ドラマ『3年B組金八先生」が10代の子どもを中心に子を持つ親まで、幅広い層の支持を集めていたのを覚えておられるだろう。
「金属バット殺人事件」の話から、今年(2006年)、奈良県田原本町の医師(47)方で6月に母子3人が死亡(医師の母親と小学2年の弟、保育園児の妹が死亡)した放火殺人事件を思い起こされる人もいるだろう。殺人と現住建造物等放火容疑で逮捕されたのは、16歳の長男(当時高1)であった。
容疑者の少年は、小学校時代から成績は優秀で、スポーツも得意、性格も明るい人気者であった。小学校の卒業文集では、医師である父親にあこがれ、自分も大きくなったら医者になりたいと語っている。小学校卒業後、関西でも有数の進学校である奈良市の中高一貫の進学校に入学した。しかし入学後は、学校内では中程度の成績にとどまり、教育熱心な父親からたびたびしかられていたという。父親は夜遅くまで「集中勉強室」で少年の勉強を指導しており、時に体罰を与えることもあったそうだ。警察の調べによれば、少年は、「成績が下がると父親はすぐ殴ってくる」「父親の暴力が許せなかった」と語っている。少年は両親と同じ医師になることを過度に期待され、プレッシャーを感じ、家庭内で孤立感を強めた結果、異常な破壊衝動に至ったと考えられている。
いずれにしても、父親の暴力が原因となっているように見えるが、実際には、もっと深い家庭内の要因があるだろう。
これらの事件は、いずれもその一因として、受験戦争の問題があるが、最近は、どうしてと思われるような「親殺しや子殺し事件」が頻繁にマスコミによって報道されている。この「親による子殺し事件」も恐らく基本的には、「子どもの親殺し事件」と共通したものなのだろう。
このような悲惨な事件が異常に増えている気がするのはテレビなどが発達し、マスコミの情報合戦、スクープなどの影響で、 犯罪事件をより身近に見られ、また感じ取る事が出来る様になったためと思われるが、増えてきつつあるのは事実だろう。
その最大の要因は、教育、道徳や一般常識の欠如、自分本位の考え、親子間のコミュニケーション、住民の横のつながり、我慢ができない、政治と社会、などが上げられ、原因は多様で、一言でどうのこうのと言える簡単な問題ではないが、共通している事は、目の前にある快楽に惑わされ、何でも手に入る時代になり、それが満足できないと我慢できない。そして、金さえ出せば何でも簡単に手に入る事から、物事を軽視してしまうことにありそうだ。
以下参考の「東京の児童相談所における非行相談と児童自立支援施設の現状。― 子どもの健全育成と立ち直り支援の取組 ―」の中の「はじめ」にも以下のように書かれている。
”フランスの思想家J・J・ルソーは、その著書「エミール」の中で、「子どもを不幸にする一番確実な方法は、いつでも何でも手に入れられるようにしてやることだ。」と記述しています。
 戦後の社会的混乱と経済的貧困の中から、日本は「奇跡の経済復興」を成し遂げ、豊かな社会を実現しました。大量消費社会と高度情報社会の中で、子どもたちの周りには、様々な「もの」と「情報」が氾濫し、お金さえ出せば欲しいものは何でもすぐに手に入るようになりました。しかし、こうした世の中で子どもたちは本当に幸せになったのでしょうか。
 近年、小学生や中学生による特異な事件が世間を騒がせておりますが、その背景には、子どもたちの規範意識の希薄化や家庭、学校、地域社会における教育力の低下、子どもを取り巻く環境の悪化などの要因が複雑に絡み合っていると考えられています。」・・・”と。私もその通りだと思っている。
1960年代から始まった高度経済成長期が終わり、緩やかだが、確実に発展する経済成長期を向かえ、豊かになった日本では生活様式も大きく変化し、大家族から核家族へ、地域との接触もなくなり、個別化、個室化を求める生き方の時代に入っていった。そして、他人と係わると必要以上にストレスを感じ、自分と同年齢、同じ趣味、同じ考え方の人としか、最小限度の人との係わりをもてない人が増えた。そして、今では、「隣の人は何をする人?」から「互いに顔を合わせない配慮」をするまでに変わってきている。そして、、家族の個食化も進み、同じ家に住みながらまるで擬似家族のようなスタイルまでもが生み出されていると言っていいだろう。そのような中で、いくら困ったことがあっても話し合える相手も世話を焼いてくれる人もいなくなっており、我慢の出来ない子どもやそんな子どもの延長線上の大人が、すぐに、プッツンと切れて、考えもできない犯罪を犯してしまうのである。
戦後の誤った自由の考え方と無責任主義、・・・これを治そうと教育基本法を改正しようとしているが、戦後70年も誤った事をしてきたものは、これから70年はかけないと元には戻らないだろう。もう、私の人生も先は長くないが、孫や子どもにだけは殺されたくないね~。
(画像は、Amazon.co.jp: 「金属バット殺人事件―戦後ニッポンを読む」佐瀬 稔 :著)
参考:
神奈川金属バット両親殺害事件 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%A5%88%E5%B7%9D%E9%87%91%E5%B1%9E%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%88%E4%B8%A1%E8%A6%AA%E6%AE%BA%E5%AE%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
岡山金属バット母親殺害事件 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E5%B1%B1%E9%87%91%E5%B1%9E%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%88%E6%AF%8D%E8%A6%AA%E6%AE%BA%E5%AE%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
参議院会議録情報 第151回国会 文教科学委員会 第16号
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/151/0061/15106280061016c.html
犯罪心理学:心の闇と光
http://www.n-seiryo.ac.jp/~usui/news/hannzai.html
奈良・田原本町の放火殺人:中等少年院送致を決定 家裁、未必の殺意を認定
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/jiken/news/20061026dde001040019000c.html
東京の児童相談所における非行相談と児童自立支援施設の現状
― 子どもの健全育成と立ち直り支援の取組 ―平成17年3月・東京都福祉保健局
http://www.fukushihoken.metro.tokyo.jp/syoushi/hikou/0/index.html
Category:平成時代の事件 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E5%B9%B3%E6%88%90%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E4%BA%8B%E4%BB%B6
今日(11月20日)は、「世界のこどもの日(Universal Children's Day)」
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/9d17c19e74171090871f3379de605cde
金属バット殺人事件への解釈--倫理学的な問題としての少年犯罪
http://www.ethics.bun.kyoto-u.ac.jp/kato/juvenile.html



太平洋記念日

2006-11-28 | 記念日
今日(11月28日)は、「太平洋記念日」
1520(永正17)年、ポルトガルの航海者マゼランが、後に「マゼラン海峡」と命名される南米大陸南端の海峡を通過して太平洋に出た日がこの日(11月28日)とされている。天候が良く平和な日が続いたため、この海を"Pacific Ocean"(平和な・穏やかな大洋=「太平洋」)と名附けたそうだ。
大航海時代に、最初に世界一周をしたことで有名なマゼラン。このマゼラン(フェルディナンド・マゼラン=Ferdinand Magellan )は英語名であり、ポルトガル語ではフェルナン・デ・マガリャンイス (Fernão de Magalhães)であるが、ここでは、日本で呼びなれているマゼランを使用する。マゼランは、ポルトガルのオポルト村の近郊で下級貴族の子として生まれる。少年の頃に小姓として宮廷に入り、1505年、25歳でアルメイダの艦隊に入って初めてインドへ航海している。この頃、バスコ・ダ・ガマのインド航路発見を契機として、ポルトガル国王は、東方諸国の制圧をアルメイダ提督に命じ、20隻の艦隊を派遣し、エジプト、インドの要所を次々に手中に収めた。そして、1506年3月、アラビアやペルシャの商人たちの協力を得て反撃に移ったインドのカリカットのツムリア王のひきいる200隻の急襲をはね返し勝利を収め、インド沿岸の支配権を獲得。この戦闘をカナノーレ大海戦というが、この海戦の船乗りの一員としてマゼランが参加していたのである。
当時、「マラッカ海峡を制する者は世界を制する」といわれていたこともあり、ポルトガルは、こしょう、クローブ、ルビー、陶器、象牙、カシミヤ、白檀、じゅうたん、奴隷などの交易でにぎわっていたマラッカの領土化を目指していたが、1511年、このマラッカ攻略の船団にもマゼランは参加している。このように、ポルトガルの東方征服の航海に参加して、数々の貴重な試練を積んだマゼランは、1512年に一旦リスボンに帰還したが、翌年のモロッコでの戦闘に参加し、この時に右足を負傷して以後は右足が不自由になったという。
当時、ポルトガルとスペインによる新航路開拓と海外領土獲得競争が白熱化。両国間に激しい紛争が発生していたが、さらに他のヨーロッパ諸国も海外進出を開始したため、独占体制崩壊に危機感を募らせた両国は仲介をローマ教皇に依頼して、1494年にトルデシラス条約を締結して、各々の勢力範囲を決定し、両国で世界を2分。ポルトガル海上帝国を築いていた。
マゼラン等が、南海の暑い太陽のもとで戦い、苦しみ、血を流して宝物を集めている間に、リスボンの街はアレキサンドリアやベネチアに代わる商業都市となっており、110年前の一小都市から豪華な世界の中心都市に変貌し経済繁栄にわいていた。
航海者としての自信を付けたマゼランはポルトガル王・マヌエル1世に対してへの西回り航路の開拓とそのために船長にしてもらえるように要請した。モルッカ諸島は別名香料諸島と言い、香辛料の産地であった。このマゼランの案は、受け入れてもらえず、また今までの航海(功労)に対する報酬の増額を訴えたが、これも受け入れてもらえず、その上、モロッコでの戦利品を独占したとの疑いまで受け、嫌気が差したマゼランは、ポルトガルを出て、スペインセビリアの親戚の家に移り住み、この時に居候先の娘ベアトリックスと結婚した。
1517年、ポルトガルでかなえられなかった野望を遂げるべく、スペイン王・カルロス1世(後の神聖ローマ帝国皇帝・カール5世)に面会したマゼランは、モルッカ諸島への西回り航路を熱心に宣伝し、カルロス1世はこれに大いに心を動かされ、マゼランを艦隊の長に任命した。
1519年9月20日、セビリアから旗艦トリニダード号以下5隻のナオ船は、277名(ツヴァイクの記述によると提督以下265名)の乗組員を乗せて出港した。南アメリカ大陸に沿って南下していき、そして1520年10月21日、遂に西の海へと抜ける道を発見(マゼラン)。その後、艦隊最大の船であったサン・アントニオ号が反乱分子の手に落ち、多くの食料を積んだまま本国に向けて逃亡したが、1520年11月28日、艦隊は遂に海峡を抜けて大海に達する。マゼランはこの海が穏やかな事を喜んでマール・パシフィコ(平和の海、太平洋)と名づけた。しかし、海峡を抜けた後はひたすら何も無い海が続き、途中ふたつの無人島を発見したが、100日ほどに渡って食糧補給の機会を得られず、飢えに苦しんだ。1521年3月6日、太平洋に出てから実に99日目にして遂に有人の島を発見、島の村落を襲って島民らを殺して食料を強奪するが、現地住民によって奪還され、怒ったマゼランは焼き討ちをかけ、ここをラドロネス諸島(泥棒諸島)と名づける。現在のグァムだとされる。
3月16日には、フィリピンのサマール島最南端のホモンホン島に上陸しフィリピン諸島への第一歩を記し、それから、レイテ島を回りまっすぐ西へ進み、3月28日にフィリピンのセブ島に上陸。先に上陸させたマライ人奴隷が現地の言葉を理解できたことから、マゼランがかつて東回り航路でやってきたマライ語圏に再びやってきたのであり、マゼランは世界一周を成し遂げたのであった。セブ島で現地の指導者ラジャ・フマボンに面会し、彼をキリスト教に改宗させ、そして彼を王として認めるように周辺の島々に要求したが、これに隣島のマクタン島の酋長ラプ・ラプが反対し、マゼランとの戦闘になった。マゼランこの戦闘に敗北し、4月27日戦死した。残された乗組員もひどく人数が少なくなったが、再び航海を続け1521年11月8日、当初の目的地であったモルッカ諸島に何とかたどり着くことができた。
マゼランの死後、艦長となったフアン・セバスチャン・デル・カーノが率いるヴィクトリア号1隻がセビリアに帰港したのは1522年9月6日のことであった。生き残り無事に帰りついた乗組員は、わずかに18名であったという。
結局、初めて世界を一周して地球が丸いことを証明したのは、マゼランというよりもその生き残った乗組員だったのである。また、この世界一周航海によって日付に一日のずれがある事が実証された。(国際日付変更線参照)
1565年にはスペインミゲル・ロペス・デ・レガスピがセブ島を征服したのを皮切りに、徐々に植民地の範囲を広げ、1571年にはマニラ市を含む諸島の大部分がスペインの領土となった。マゼランが発見した群島(フィリピン)は、当時の皇太子フェリペ2世にちなんで「フィリピン」と名付けられたと言われている。
マゼランはフィリピンにキリスト教を持ち込みスペインの領土宣言をした人間であるが、その行為に怒り勇敢に戦ったマクタン島の首長ラプラプは、侵略者と戦った英雄として今もフィリピン人に崇拝されている。その敵味方として戦った2人の記念碑が隣り合って建てられているのは皮肉と言うものか・・・。
今は、スペイン、その後のアメリカの植民地からも独立したれっきとした国ではあるが、その国名には、今だに侵略した国の王の名前が付いているというのもかわいそうな話だね~。
(画像は、マゼランの航路。フリー百科事典Wikipediaより。拡大図。)

参考:
フェルディナンド・マゼラン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%BC%E3%83%A9%E3%83%B3
スタンプメイツ・切手で綴る 大航海の物語
http://www.k5.dion.ne.jp/~a-web/framspecl.htm
大航海時代- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%88%AA%E6%B5%B7%E6%99%82%E4%BB%A3
スパイス&ハーブ総合研究所 | スパイスの歴史
http://www.sbsoken.com/jiten/history_05.html
ヴァスコ・ダ・ガマ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%9E
セブ島旅行ガイド。・セブ島の歴史・ラプラプ像とマゼラン記念碑
http://www.cebuguide.net/index.htm
マゼランの世界一周
http://www.actv.ne.jp/~yappi/tanosii-sekaisi/06_kindai/06-06_magellan.html

池田勇人通産相が衆議院で「中小企業の倒産・自殺もやむを得ない」と発言した日

2006-11-27 | 歴史
1952(昭和27)年の今日(11月27日)、池田勇人通産相に対して、日本社会党加藤勘十の「中小企業発言」(1950年3月の「中小企業の一部倒産もやむを得ない」発言)の確認に対し「経済原則に違反して、不法投機した人間が倒産してもやむを得ない」と再発言。翌日、不信任案が提出され可決。29日に辞任した。
池田勇人(いけだ はやと)は、京都帝国大学を卒業して大蔵省に入り、主計局長、大蔵事務次官等を務めて、1949年衆議院議員に当選。 翌年2月16日成立の第3次吉田内閣で、1年生議員でありながら吉田茂が党内の反対を押し切って大蔵大臣に抜擢。1950年2月には通商産業大臣を兼務。1949年3月ジョゼフ・ドッジと会談し、ともにドッジ・ラインを実施。 1954年自由党幹事長に就任。1958年6月12日第2次岸内閣成立。岸信介内閣の蔵相、のち国務相、通産相を歴任。1960年7月岸信介内閣総辞職。 第58代内閣総理大臣に就任から第60代と3期にわたり内閣総理大臣を勤めた。同じ大蔵官僚であった野田卯一福田赳夫と共に、「大蔵省の3田」と呼ばれれた人。戦後、吉田茂の側近の一人として、連合国との講和、冷戦下における日米関係の構築にかかわると同時に、 戦後日本経済の再編成においても指導的な役割を担い、首相就任後は1960年に、所得倍増計画を打ち出して、日本の高度経済成長の進展にもっとも大きな役割を果たした政治家の一人として知られている。1960年11月20日の第29回総選挙に先立って自民党のテレビCMに登場した際は「私は嘘は申しません」と発言。この言葉は「所得倍増」と共に一躍流行語にもなった明言といえるだろう。
所得倍増計画は、1960年、池田内閣の下で策定された長期経済計画であるが、閣議決定された際の名称は国民所得倍増計画という。この計画では、翌1961年からの10年間に実質国民所得国民総生産)を26兆円に倍増させることを目標に掲げたものであり、この計画は、岸信介内閣の安保政策重視から一転、経済政策を前面に押し出す格好となった。
国民所得倍増計画の目的は、輸出増進による外貨獲得を主要な手段として国民所得(国民総生産)を倍増させ、これによって雇用を拡大し、失業問題を解決する(完全雇用を目指す)ことで生活水準を引上げることにあった。またこの過程で地域間・産業間における所得格差の是正もその目的とされていた。 具体的には、農業近代化、中小企業の近代化、経済的な後進地域の開発(工業の分散)である。
計画の数値目標は1960年度の国民総生産額である13兆6千億円の2倍、26兆円を10年以内に達成するというものであり、1960年度から年間平均9%の経済成長率を維持し、以後3年で17兆6千億円に到達させることが中期目標とされた。しかし日本経済は予想以上の驚異的な経済成長を遂げ、実質国民総生産は約6年で国民1人当り実質国民所得は7年で倍増を達成。計画2年目の1961年度には早くも目標が達成されてしまった。ただし物価の方も倍になったのでは・・・?。
「私は嘘は申しません」と発言したとおり「所得倍増」を達成した池田であるが、このような明言と実行力は別に、「中小企業の一部倒産もやむを得ない」「貧乏人は麦を喰え」や「中小企業の五人や十人自殺してもやむを得ない」などの迷言も残っている。
ただ、これらの迷言については、「貧乏人」という言葉も、「麦を食え」という言葉も使ってはいないのであり、マスコミなどにより、かなり本人の言わんとする趣旨とは違った形で報道されているようだ。
実際には、1950(昭和50)年3月1日の記者会見の際に、大蔵大臣だった池田は、「中小企業の経営が最近厳しくなったことは認める。しかし、一度は通らなければならない関門だ。信用が無くて銀行から金を借りられないのは経営者の責任で、政府の責任ではない。その為企業がつぶれても仕方がない」というものだったといわれる。翌日の予算委員会で各新聞紙上に報道された談話について聞かれ「5人や10人倒産し、自殺してみても国民全体の数から見れば、大したことではない。今は企業の整理期で財政事情を変える時ではない」と話したことなどが、マスコミには池田の答弁が、「中小企業の五人や十人、倒産してもやむを得ない」とだけ報じられる事になったようだ。又、野党の社会党や民主党は一斉に反発し、4日の衆院本会議に池田蔵相兼通産省の不信任案を提出。与党自由党内にも責任を問う声があったが、吉田首相はこれを抑え、不信任案は否決された。
そして、同年12月7日の参議院の予算委員会においては、木村禧八郎議員の米価および麦価に関する質問に答弁する際に「御承知の通りに戰争前は、米一〇〇に対しまして麦は六四%ぐらいの。パーセンテージであります。それが今は米一〇〇に対して小麦は九五、大麦は八五ということになつております。そうして日本の国民全体の、上から下と言つては何でございますが、大所得者も小所得者も同じような米麦の比率でやつております。これは完全な統制であります。私は所得に応じて、所得の少い人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような、経済の原則に副つたほうへ持つて行きたいというのが、私の念願であります」。」と発言したものを、これが「貧乏人は麦を食え」と伝わったため、失言として、マスコミから強い批判を受けた。この発言の真意は、池田が小さい頃から麦食であったため、お互いに苦しいときは麦飯を食べて頑張ろうではないかというものであったよいうだ。
その2年後の、1952年11月27日 には、日本社会党加藤勘十の「中小企業発言」の確認に対し「中小企業者が倒産し、思いあまって自殺するようなことがあってもやむをえない」と再発言。これに対して、翌日、野党が不信任案を提出。与党の中の反主流派(反吉田色のつよい三木、河野、石橋派など)の一部欠席もあり、不信任案が衆院で可決されたのを受け、通産相を29日に辞任した。
このことは、以下参考の「衆議院会議録情報 」や「現実無視の陥穽は避けつつ」を見ると良くわかる。「現実無視の陥穽は避けつつ」によると当時は以下のような状況だったのである。
1945年に戦争が終わり、日銀引受の公債による復興が図られた結果、日本経済は劇的な物価高騰に見舞われた。1948年、GHQ は経済安定9原則を指令、1949年のドッジ・ライン施行によって物価は安定したものの、徴税強化と通貨供給量の減少により安定恐慌に陥っていた。そして1950年、朝鮮戦争が勃発。再びインフレが加速しつつあり、景気好転の兆しが現れたため政府財政の大幅な改善が見込まれ、減税が計画された。一方、インフレから庶民の最低限の生活を守るため、1950年当時、政府は米価の統制を行っていた。その結果、日本米の価格は諸外国と比較して異常に安価となっていた。そして、安価な小麦・大麦の価格は、概ね諸外国と同等であった。こうした価格統制の結果、各自の収入に関係なく国民の米・麦消費比率が一定となっていた。米価統制は農民に大きな負担となっており、また生産者価格のみ引き上げて消費者価格を据え置けば政府の負担が大きい。
そこで、経済が好転してきた機会を捉え、政府は減税の実施とともに米価の段階的引き上げを画策する。これに対し、野党ガ米価引き上げに異議を唱えていくことになる。
そして、消費者物価の上昇があるのでインフレであるから引き締め政策を採るべきだとする議員に対して、経済に強い池田は「卸売物価が上がっていないのでインフレではない、消費者物価が上昇するのはサービス価格の上昇によるもので経済が豊かになるにつれて当然起こる正常なもの、コメの値段が上がって困るというがムギの値段は上がっていない」と回答。これを野党とかマスコミが「貧乏人はムギを食えと言うことか」と大反発し、それがいつの間にか「池田勇人が貧乏人はムギを食えと言った」と言うことになってしまったもののようである。マスコミの報道にはややもすると扇動的なところがあるのは今も昔も変わらないようだね。
でも、今は、貧乏人よりもむしろ、お金持ちの人の方が健康などに配慮して麦飯を食べているのではないかな?
(画像は、池田勇人肖像。首相官邸HP歴代総理の写真と経歴 より)
参考:
池田勇人 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E5%8B%87%E4%BA%BA
ドッジ・ライン- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3
衆議院会議録情報 第007回国会 予算委員会 第19号/昭和二十五年三月二日(木曜日)
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/007/0514/00703020514019c.html
衆議院会議録情報 第007回国会 本会議 第21号/昭和二十五年三月四日(土曜日)
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/007/0512/00703040512021c.html
現実無視の陥穽は避けつつ
http://deztec.jp/design/05/11/25_real.html
1950年当時の主なできごと.事件年表
http://www.gameou.com/~rendaico/toshi/nihonkiyosanto_nokenkiyu_toshi_12.htm
ドッジ、経済安定9原則実施について声明 / クリック 20世紀
http://www.c20.jp/1949/03dodge.html
経済安定9原則の実施に伴う物価政策の方針
http://www.ndl.go.jp/horei_jp/kakugi/txt/txt00951.htm
データベース『世界と日本』 戦後日本政治・国際関係データベース 東京 ...演説種別] 経済演説
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/em/19490404.SZJ.html
所得倍増計画
http://study.masm.jp/%BD%EA%C6%C0%C7%DC%C1%FD%B7%D7%B2%E8/
首相官邸・内閣制度と歴代内閣
http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/souri/showa20.html
楽しく学ぼう大麦のこと「大麦探検島」|大麦歴史博物館
http://www.oh-mugi.com/tankenjima/history/index.html


宇宙戦艦ヤマトが太陽圏を脱出した日(架空)

2006-11-26 | 歴史
今日は何の日によると、2199年の今日(11月26)日は、 宇宙戦艦ヤマトが太陽圏を脱出した日(架空)だそうだ。
『宇宙戦艦ヤマト』は、1970年代に日本で作成された「テレビアニメ」および、「劇場用アニメーション映画」に登場する架空の宇宙戦艦の名称である。
第1作テレビアニメ「宇宙戦艦ヤマト」は1974(昭和49)年10月6日より 読売テレビ系 で放映された(全26話) が、放映当初は同じ時間帯の裏番組『アルプスの少女ハイジ』などのあおりを喰って視聴率が上がらず翌・1975(昭和50)年3月30日打ち切られた。しかし放送終了後、当時の若者文化の中心だった深夜ラジオなどで取り上げられて静かなブームを呼び話題となり、再放映を求める声もあがった。そして、テレビ放映版を再編集した同名の劇場映画「宇宙戦艦ヤマト」が、1977(昭和52)年夏に公開された。
この映画は、テレビ放映では商業的に失敗に終わったヤマトを海外輸出向けに舛田利雄と山本暎一らの協力で再編集したもので、ファン向けに1週間だけ劇場公開するつもりだったという。ところが、東急系の劇場4館のみで公開したところ、公開初日から徹夜する人が現れるなどマスコミでも一躍話題になり、日本の映画史上で初めて徹夜組が出た第一作だと言われている。この反響により、公開は東映系に拡大されて、全国ロードショーとなり、9億円の配収をあげたという。
私にとっても記憶に残る映画であるが、それは、この映画が、息子と一緒に見に行った最初の映画だからである。私は当時仕事が忙しくて、休日でもなかな息子とあそんでやることもできない状況だったが、まだ小学生だった息子がどうして見たいというので、家人からも頼まれ、休暇を貰ってつれて見に行った。映画に感動した息子と暫くの間は、良くこの映画の話をしたものであるが、あにょうに子どもと共通の話題について話をしたのは初めてのことであった。
内容は、もう、よく覚えていないので、以下参考の「フリー百科事典Wikipedia」の記載をそのまま引用しよう。
時に西暦2199年、地球は宇宙の彼方の謎の星ガミラスからの侵略を受け、遊星爆弾による無差別攻撃に晒されていた。すでに海は蒸発し尽くし地上の全生命は死滅、残された人類は地上の放射能から逃れるため生存圏を地下に求め、「人類の奴隷化か死か」を要求するガミラスに必死の抵抗を続けていた。しかし圧倒的な科学力の差の前になす術もなく、放射能汚染の進行による全人類の絶滅まであと一年余りと迫る中、最後の地球防衛艦隊が冥王星付近でガミラス宇宙艦隊との交戦により壊滅し、人類生存の希望は完全に潰えたかに見えた。
そんな折、遠く離れた星イスカンダルから救いのメッセージが届いた。そこで人々は、イスカンダルから送られた波動エンジンの設計図を元に、沈没していた旧大戦の戦艦大和を極秘裏に超光速宇宙戦艦に改造、「宇宙戦艦ヤマト」を完成させる。ヤマトは放射能除去装置コスモクリーナーDを求め、14万8千光年彼方の大マゼラン星雲イスカンダル星に向けて、最後の希望を託して発進する。
着々と放射能汚染が進行していく中で、人類滅亡を防ぐために、僅か1年以内に帰還しなければならないという状況のもと、ガミラス帝国との壮絶な死闘を繰り広げながら「宇宙戦艦ヤマト」がイスカンダル星へと向かい、放射能除去装置を受け取り地球に帰還する様子を描いたものである。
この劇場版公開によって日本全国で“ヤマト・ブーム”が爆発的に発生。原作は漫画家の松本零士。彼の描く壮大な宇宙ロマンが、子供は勿論、それまでアニメを見る事のなかった大学生まで多くの若者に受け入れられと同時に、それまでテレビ漫画・漫画映画と呼ばれていたものが、テレビアニメ・アニメ映画と呼ばれることになる。“アニメ”という単語を一般に浸透させ、今に続くアニメブームを築いた功労者といえるだろう。
「さらば地球よ  旅立つ船は 宇宙戦艦ヤマト  宇宙の彼方イスカンダルへ ・・・・」
阿久悠作詞、宮川泰作曲「宇宙戦艦ヤマト 」の主題歌。朗々と歌うのは、ささきいさお宮川泰によるフルオーケストラ(当1作は、正確にはビッグバンド型式というそうだが・・)による壮大でスケールも大きなこの曲も、ミリオンセラーとなった。
ヤマト・ブームは翌1978年夏、続編の「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」が日本映画の年間第3位となる配給収入20億円突破の特大ヒットを記録して頂点を迎える。その後も3本の劇場映画を公開、いずれも大当たりしている。また、当時公開された『スターウォーズ』と並んでSFブームの牽引役となった。
このスターウォーズも息子にせがまれて一緒に見に行ったが、両映画ともに、大の大人が一人で見に行くのも気恥ずかしい事だが、息子にせがまれて一緒に行ったお蔭で、私自身も十分楽しませてもらったよ。(^0^)
第筆致した「宇宙戦艦ヤマト 」の曲は以下で聴けるよ。
『宇宙戦艦ヤマト』(OPテーマ) ↓
http://members.at.infoseek.co.jp/pit_work/mid-v1.html
宇宙戦艦ヤマト
『真赤なスカーフ』(EDテーマ)↓
http://members.at.infoseek.co.jp/pit_work/mid-v2.html
(画像は、宇宙戦艦大和・1977年劇場版チラシ)
参考:
宇宙戦艦ヤマト- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/宇宙戦艦ヤマト