1980(昭和55)年の今日(5月30日)は、宝塚歌劇団団員天津乙女(あまつ おとめ)の1980(昭和55)年の忌日である。
天津乙女(あまつ おとめ)、本名:鳥居栄子は1905(明治38)年10月9日生まれ、東京・神田の生まれで、青山小学校卒。1918(大正7)年最初の東京都出身の劇団員(6期生)で、彼女は、宝塚歌劇団で最初の東京都出身の劇団員(生徒)で日本舞踊に優れた名手であったが、彼女の個人的な経歴などについてはよく知らない。
そのくせ、今日、天津乙女のことを書く気になったのは、今は、バラの季節でもあるが、そのバラの品種の1つに彼女の名前に因んでつけられた「天津乙女」がある。この花は“伊丹市でバラの苗木の生産販売を手掛ける「イタミ・ローズ・ガーデン」の寺西菊雄(ブリーダー=育種家)の手で誕生(1960年作出)し、今年でちょうど「50歳」を迎えることになった」との記事を新聞(朝日朝刊)で観たからだ。バラ「天津乙女」は、ハイブリッドティー(HT)系の黄色の花(以下参考の※1バラの図鑑参照)で、樹性も強く、上品な花色も手伝って、今なお国内外でファンの多い品種だそうで、寒さに強いことから、特に冷涼な欧州で広く愛育されているという。
Wikipediaによると、「イタミ・ローズ・ガーデン」は、”戦後まもなくリノリュームで財をなし東洋リノリューム(現在の東リ)の創業者、寺西福吉の子の致知が兵庫県伊丹市に「伊丹ばら園」を開園し、世界中からバラを蒐集し、苗木を増殖し販売した。その一方で新しい品種改良にも乗り出し、「天津乙女」を出し”・・・となっているが、作出者の名前は記入されていないが、寺西菊雄氏は寺西致知のご子息ということだろうか。同園は、“2000年に寺西致知死後、イタミ・ローズ・ガーデンに再編され、今に至る。“とあるが、ここでいう再編がどういった意味かはよく判らないが詮索はしないことにする。
イタミ・ローズ・ガーデンは、2004(平成16)年にも、元宝塚歌劇団月組男役トップスターで、現在は女優として活躍している大地 真央の芸能生活30周年を記念して、彼女の名を冠した品種「DAICH MAO」を発表したという。これは、彼女の実姉がイタミ・ローズ・ガーデンとゆかりがあったかららしいが、美しいバラの名前には、古今東西、昔から美しい女性の名前が沢山つけられており、バラにその名を冠せられた女優は、それだけ美しく人気も高いと言うことだろうから、女優にとっては名誉なことだろう。
余談だが、以下参考の※4:「ひょうごローズクラブ:関西のバラの歴史」を見ると、“日本で本格的なバラの園芸品種の栽培が始まったのは、明治6~7年ごろ、政府が作った開拓使が36品種の苗を米国から輸入したのが最初で、その苗を接ぎ木して民間に払い下げ、そこから一般に広まったようだが、日本の園芸が盛んな地域は、いずれも特産の鹿沼土や日向砂等の土壌があるところで、関西では、宝塚の山本の天神川砂(兵庫県宝塚市、伊丹市などを流れ武庫川に注ぐ河川の砂)があって、これがバラの接ぎ木に役立ち、宝塚は大きな生産地となり、明治25年ころにバラ園と牡丹園でバラの栽培がはじめられた“と言うから、宝塚とバラとの縁は深いのだね~。宝塚市山本の南の隣接地が伊丹市である。
バラ名前「天津乙女」は、宝塚歌劇の人気スターであった天津乙女の芸名にちなんだものであることは冒頭に書いたが、天津乙女の芸名そのものは、百人一首にも詠まれている僧正遍昭(そうじょうへんじょう)の詠んだ以下の歌からとられたもの。
「天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ 乙女の姿 しばしとどめむ」
平安時代前期の歌人で、六歌仙の1人である遍昭は、桓武天皇の子・大納言良岑朝臣安世の8男・良岑宗貞(よしみねのむねさだ)である。嘉祥3(849)年、寵遇を受けた仁明天皇の崩御により出家した。
「天つ風・・・」の歌の通釈は“天空を吹き渡る風よ、雲をたくさん吹き寄せて、天上の通り路を塞いでしまっておくれ。天女の美しい姿を、もうしばらく引き留めたい(舞姫たちが退出する道を閉ざしてしまってくれ。もう少しその姿を見ていたい)といったところらしい。
この歌の内容は、お坊さんの歌とは思えないが、それもそのはず、古今集(872)は作者名を「よしみねのむねさだ」としており、遍昭の出家前の在俗時代の作であり、宮中の五節舞の舞姫を見て詠んだ歌である(以下参考の※3「やまとうた」の遍昭(遍照)千人万首参照)。
タカラジェンヌたちの芸名は様々であるが、古い団員達の芸名には、万葉集の歌に因んでつけられたものが多い。
天津の先輩で、大阪(現池田市)出身、宝塚退団後映画俳優となった有馬 稲子(1916年入学、4期生)の芸名は、大弐三位の「有馬山猪名の笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする」から。大弐三位は『源氏物語』の作者と考えられている紫式部の娘・藤原賢子である。
歌の通釈は“有馬山、その麓に広がる猪名野の笹原――山から風が吹き下ろせば、そよがずにはいません。さあ、そのことですよ。音信があれば、心は靡(なび)くもの。あなたのことを忘れたりするものですか。」
後拾遺集(709)のこの歌の詞書には、”途絶えがちになった男が、「お気持ちが分からず不安で」などと(手紙で)言っていたので詠んだ歌”とある(以下参考の※3「やまとうた」の大弐三位 千人万首参照)
絶世の美女・有馬 稲子は、私も大ファンであった。そのような美しい彼女に心冷たくなっていた恋人が便りが途絶えると、「あなたの心が分からない」などと気をもんでいる万葉の時代の情景が目に見えてきそうだ。
因みに、有馬山は、摂津国の歌枕で、今の神戸市北区有馬町である。猪名の笹原、またの名を猪名野笹原。猪名野は今の伊丹市から尼崎市あたりの平野であり、「摂津名所圖會」に描かれている「猪名寺の図」にある猪名寺の廃寺跡が尼崎市猪名寺にある。飛鳥時代から室町時代にかけて存在した仏教寺院遺跡であり、1958(昭和33)年までの発掘調査の結果、東に金堂、西に五重塔、これらを回廊が囲む伽藍配置が法隆寺とほぼ同等の寺院であったという(猪名寺廃寺跡のことは、以下参考の※5:摂津猪名寺廃寺参照)。
又、天津の1期後輩で、東京都出身の、やはり宝塚退団後映画・舞台俳優で活躍の淡島 千鳥(1919年入学、7期生)の芸名は源兼昌の「淡路島かよふ 千鳥のなく声に いく夜ね覚めぬ須磨の関守」の歌に因んでいる。
源兼昌は、生まれた年もなくなった年もはっきりしないが、宇多源氏(近江源氏とも呼ばれる)。美濃守従四位下・源俊輔の子だそうだ。
歌の通釈は、“夜、須磨の関の近くに宿っていると、淡路島との海峡を通って来る千鳥の鳴く声に、目を醒まされる”
淡路(あはぢ)島は、大阪湾と播磨灘のあいだに横たわる島で、動詞「逢ふ」(逢はむ・逢はじ)を響かせる。須磨は神戸市須磨区の南、海に面したところ。古く畿内と西国を隔てる関があった。「金葉和歌集」巻四冬歌。関を詠んで旅情も釀すが、独り寝の辛さを詠んで恋の情趣も纏綿する。また源氏物語・須磨の巻を意識した作であることが指摘されているという(以下参考の※3「やまとうた」の源兼昌 千人万首参照)。又、須磨と源氏物語については、以下参考の※6:須磨観光協会 - 源氏物語を参照。
淡路島と千鳥を組み合わせて和歌に詠むことはよくあるようだが、そういった例の最初の歌のようである。私は酒器を少々収集しているが、その中に地元神戸の須磨焼の盃があるが、その盃には、千鳥が描かれている。
これらの歌は、いずれも小倉百人一首にも選ばれている有名な歌ばかりであり、中でも有馬や須磨の出てくる歌は、私など神戸生まれの者にとっては、百人一首の中でも一番最初に覚えた歌である。このような少女歌劇と言われた宝塚歌劇団の女優の万葉の歌に因んでの芸名は、歌劇の新しさと古典との融合、可憐な少女と歌の雅やかさ・・・。これらが上手くマッチしており、独特の雰囲気をかもしだす。このほかにも多くの団員が百人一首にちなんだ芸名をつけているが、最近は芸名のつけかたもいろいろで、先に書いた元月組男役トップスターであった大地 真央(1973年入団、59期生)の芸名は、「大地を踏みしめまっすぐに進む」の意味からつけられたものと聞く。このように万葉の歌とは関係のないものが多くなっているが、長い歴史の中で、多くの人が入団していることから、後から劇団に入って芸名をつける方も、先輩達の芸名とあまり似すぎていないことを条件に名をつけるのはなかなか大変なことだろうが、時代と共に現代的な芸名にもなっており、凝った名前をつけようとするのか、最近はすぐにはどう読めばよいのか判らない芸名も増えているようだ。
最後になったが、ここで、宝塚と天津乙女のことをわかる範囲で簡単に書いておこう。
宝塚歌劇団の幕開け年は、1914(大正3)年のこと。その3年前に阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌の創始者小林一三によって設立された宝塚新温泉と呼ばれる遊園地への誘致企画として、少女のみの出演者による「宝塚唱歌隊」が組織され、同年12月に宝塚少女歌劇養成会に改称された。1914(大正3)年4月1日に初めて公演を行い、歌と踊りによる舞台を披露したのが始まりである(プールを改造した劇場で年4回)。その後、1918(大正7)年5月に、東京帝国劇場で初公演を行なっている。その翌・1919(大正8年)年に、少女歌劇養成会は解散し、新たに、予科1年・本科1年と研究科からなる学校組織である宝塚音楽歌劇学校生徒と卒業生による「宝塚少女歌劇団」が誕生した。
この年、箕面にあった箕面公会堂を移築した新歌劇場(通称公会堂劇場)が完成した。1921(大正10)年、公演の増加により花組・月組に分割。翌年から年8回公演をするようになる。1924(大正13)年7月、3,000人を収容することのできる宝塚大劇場がオープンし、それに合わせて新たに雪組が誕生。各組が1ヶ月ごとに交代で12回の常時公演を行うという現行のスタイルが確立したのがこの時代であった。その後人気と共に組が増えるが、「宝塚少女歌劇団」が現在の「宝塚歌劇団」に改称したのは1940(昭和15)年10月のことである(詳しくは、以下参考の※7:宝塚歌劇団ホームページ参照)。
天津乙女が入団したのは、1918(大正7)年のこと。生年月日から逆算するとまだ、13歳と言うことになり、小学校卒業の年代だ。劇団がまだ「宝塚少女歌劇養成会」と呼ばれていた頃であり、この年5月、初めて東京公演が行なわれているが、この際に、東京で彼女と初瀬音羽子ら4名が採用された。そして、同年7月、宝塚少女歌劇第18回公演が行なわれた時、歌劇のほかに「管絃合奏」もあり、これに天津ら東京組が初舞台をふんでいる。当時は入団すぐに舞台に上がっていたようだ。そして、翌・1919(大正8)年1月の第20回公演では、早くも歌劇「鞍馬天狗」(小説鞍馬天狗参照)に初主演している(以下参考の※8参照)。なんでも小卒の少女に大卒者同等の給与を払う厚遇だったようだ(Wikipedia)。
1921(大正10)年に花組・月組に分割されるが、天津は、1928年~1933年の間、月組組長として、男役を務めていた。
日本舞踊に優れ、6代目尾上菊五郎に私淑し、6代目譲りの踊りは、女六代目の異名をもとった。死の前年まで舞台に立ち、その60余年の舞台生活を通じて、後輩の春日野八千代(神戸市出身。18期:1929年入学)とともに「宝塚の至宝」とまでいわれていた。彼女の数々の舞台の中でも.6代目譲りの「鏡獅子(かがみじし)」は、格調を崩すことなく洋楽で上演し、それまでの宝塚の日本物レベルをつき抜けたものと高く評価されている。1948(昭和28)年には、歌劇団理事に就任し、 紫綬褒章(1958年)、勲四等宝冠章(1976年)などを受章している。自伝に『清く正しく美しく』(1978)がある。「清く正しく美しく」は、宝塚歌劇に深い情熱をもち、生徒たちをこよなく愛した創業者小林一三の遺訓である。1980(昭和55)年の今日(5月30日)、在団のまま満74歳で没し、東京・谷中霊園に墓がある。
すみれの花咲く頃(天津乙女 門田芦子)
天津乙女と門田芦子の懐かしい歌「すみれの花咲く頃」,、今の女性は男のような低音であるがかっての女性は高音で歌っていた。
以下では、タカラヅカのタカラヅカ81年の歴代をしょってきた数多くの団員たちの姿が見れる。最初に、天津乙女の得意とした「鏡獅子」の踊りが出てくる。その他退団後、映画に舞台に活躍した多くの懐かしい舞台姿が見れる。私の大好きだった有馬稲子の写真も出てくるが、超綺麗ですよ。勿論天津乙女と共に「宝塚の至宝」とまでいわれていた若い頃の春日八千代の舞台姿も見れる。「タカラヅカ 夢と愛を求めて」は(1)~(7)まであるので、これを見れば、歴代のタカラジェンヌのことがわかるよ。貴重な画像だ。時間のある人は序でに見られるとよい。
タカラヅカ 夢と愛を求めて(4)
http://www.youtube.com/watch?v=34VZ0qwQENs
(画像は、「4つのファンタジア」(中央が天津乙女)※「4つのファンタジア」は、1955(昭和30)年第1回ハワイ公演 の演目でもあるが、この写真は、日本での上演の紋だそうだ。Wikipediaより)
塚歌劇団団員・天津乙女の忌日:参考 へ