今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

お掃除の日

2014-05-30 | 記念日
日本記念日協会(※1)の今日5月30日の記念日に「オーガナイズの日 」というのがあった。
由緒を見ると、「片付けや整理、収納が楽になる仕組みづくりである「ライフオーガナイズ」を普及させることを目的に、一般社団法人日本ライフオーガナイザー協会(※2)が制定。
オーガナイズ(organize)とは住居・生活・仕事・人生などのあらゆるコト、モノを効果的に準備・計画・整理することで、アメリカでは以前から認知されている概念。日付は5と30で「ゴミゼロ」と読む語呂合わせと、一年で最も片付けや整理に適した季節であることから。」・・・・とあった。
よく判らないので、同協会HPを覗いてみると、同社「理念」には、
「もっと楽に、もっと生きやすく 」
ライフオーガナイズにより、捨てるからはじめない心地いい暮らしづくりを応援する
ライフオーガナイザーを職業として確立することにより、日本人の幸福度を向上させる」・・・とあった。
どうやら、オーガナイズや整理収納の仕事を職業としようとする人たちに協会認定のライフオーガナイザーの資格者養成講座等を開催しているところらしい。
又、日本記念日協会の今日・5月30日の記念日には、「お掃除の日」もあった。
由緒を見ると、「5月30日で530(ゴミゼロ)の語呂合わせから、関東地方知事会空き缶対策推進委員会が1982 (昭和57)年に設けた日。また、日本電機工業会のお掃除を見直す会でも、1986 (昭和61 )年から同様の日を設定している。空き缶公害や梅雨時に向けて掃除の大切さを呼びかける。」・・・とあった。
5月30日は、その後、「530(ゴミゼロ)の日」として、1993(平成5)年に厚生省(当時)が制定したごみ減量化推進週間の初日とされている。
当初は空き缶の持ち帰り及び不法投棄防止の呼びかけと一斉清掃の実施を呼びかけていたが、社会情勢の変化から廃棄物の再生利用(リサイクル)推進の啓発も併せて行われるようになったようだ。

物余りの昨今、家には物が溢れている。最近、テレビなどで、よく、余り使用しないもの(使用頻度の少ないもの)などは捨ててしまうなどして、家の中をすっきり整理し、居住空間を広げて快適な生活をしようといった女性の整理屋さんのような人が、TV番組などでよく紹介されているが、あのような整理の専門家をライフオーガナイザーとか云うのだろうか・・・?
なにか、あのような整理屋さんたちなどにかかると、普段余り使われていないものは、まるでごみのように扱われているが、私の家など、そんなごみといわれるものに埋もれているという感じ・・・。
私の趣味で苦労して集めたコレクション類などでも、家人や息子:孫達に言わせれば、まるで塵(ごみ)扱い、買うときは高い値で買った骨董品類にしても、売るときは余程の価値あるもの以外は二束三文の屑物扱いで買われてしまう。残念だが、私が死ぬまでには、整理して、売れるものは売ってあとは塵(ごみ)として処分するしかないのだろうね~。骨董品とかコレクション類はそうして処分されてゆくから年数がたつほどに価値は上がるのだがね~。
空き缶の不法投棄など、最近の日本人は、マナーも悪くなって、何でもかんでも、ポイポイと町や川などどこにでも捨てる人が多くなっている。
そのようなことで、今日は何を書こうかと迷ったが、これらいずれにも共通する課題お掃除(「 お掃除の日」)について書くことにした。

掃除は、ある対象からゴミや汚れを取って綺麗にする事で清掃とも言われる家事労働のうちの一つでもある。
昔からといっても文献に見られる江戸時代の掃除は、水拭き、(ほうき)かけと現在と同じようであった。
商家や町屋では、毎朝必ず掃除をしたが、農家では毎日ではなかったようだ。箒は,屋内用、土間用、庭用と三種類に分かれていた。(わら)、もろこしほうき草は、座敷用、スベ(藁の芯)、棕櫚(しゅろ)などが土間用、竹は庭用とされていた。
箒売りなども来たが、長屋や農家では柄のつかないものが使用されたようで竹やほうき草を束ねたものを自分で作り、背をかがめながら無理な姿勢で掃除をした。はたきも現在と同じであるが、使う部分は使い捨ての和紙を縦に細く切って束ねて作った。
●冒頭の画像は、黒川真道著、西川祐信画、『日本風俗図絵』(大正3-4年)の中の『絵本鏡百種』に見られる雑巾拭きの光景である。この中で、『影映る鏡のがごとく磨きなさい』・・と言っている。拡大画像等は以下参考※3:「近代デジタルライブラリー 『日本風俗図絵』の第4輯のコマ番号100にて見ることが出来る。
『日本風俗図絵』第4輯

●上掲の画像は山東庵京山著、 香蝶楼国貞画『大晦日曙草紙』の煤(すす)払いの様子。
江戸では、師走13日が大方の煤払いの日であった。大きな商家では出入りの鳶職などの職人の手を借りて大がかりな煤払いを行う。この図は家じゅう総動員で働く様子を描いている。画像は、参考※4:「早稲田大学図書館 古典籍総合データベース-大晦日曙草紙. 初,2-25編」の右から3冊目九ヨリ十二(十二編下の巻)90カットで見ることが出来る。
編山東庵京山著、香蝶楼国貞画大晦日曙草紙. 初,2-25 3冊目九ヨリ十二

この画には作業用のさまざまな服装が描かれているが、女たちはいずれも姉さんかぶりに襷(たすき)がけ、粗末な着物を着て煤払いに精を出した。間食には甘い餅が出されたようだ。掃除が終わると手伝い人一同に馳走を出すが、食事は下の図(参考※5:「東京都立図書館:江戸東京デジタルミュージアム」の江戸の催事記>[ 冬(10月~12月) ]に掲載の三代歌川豊国(=初代歌川国貞)画『冬の宿 嘉例のすゝはき』)のように、手軽な握り飯、煮しめ、そばなどが準備されたようである。最後には、その家の主人の胴上げをして〆たとも・・・。
この画像の拡大図は以下のページの[ 冬(10月~12月)]のところで見ることが出来る。
江戸東京デジタルミュージアム:江戸の催事記

また、伝統的な煤払いの際には、『大晦日曙草紙』図の畳に立てかけてあるような大型の箒が笹や藁などで新調され、天井をはじめとした家屋の構造物、器物の掃除などにハタキのごとく用いられ、役目が終わった箒は、川に流されたり小正月のときに燃やされたりした。

思い起こせば、子供の頃、私が通っていた神戸の中学校は、六甲連山須磨アルプスの麓にあり、たしか有馬男爵屋敷跡に建てたと聞いている(同中学校の校庭近くに有馬家墓所もある【※6参照】し、有馬 頼咸の八男有馬頼多は分家し、男爵に叙せられたというが・・・これがそうであるとの確証はない)。ただ、校庭の庭には築山や小川が流れており、桜他、色々多くの種類の木々が周りの山と一体になって植えられており、校庭だけ見ていると、とても学校とは言えない素晴らしい庭園と言えるものであった。しかし、そのため運動会のできるようなスペースのグラウンドがなく、運動会は毎年市民球場を借りてしていた。
そして、自慢の校庭の枯れ木の掃除や夏場の水やりなどの手入れは、学生が交代でしなければならなかった。また、同校校舎は、学舎としては2階建ての木造建物が2棟あったが、学舎には靴を脱いで上がらなけれなならなかった。この廊下の手入れも又、生徒が交代で担当し、『絵本鏡百種』に見られる雑巾拭きのごとく、ピカピカに磨き上げられ、廊下を走ったりしようものならよく足をすべらせてひっくり返ったものであった。
春など前に小川のせせらぎのある築山の桜の木の下で昼の弁当を食べたり、季節によっては隣接する山の中にちょっと入るとヤマブドウの実や野イチゴなども採れ、掃除の苦労など忘れさせてくれた。都会の中学校にいながらまるで、別天地にいるようであった。
このような、雑巾拭きや、ハタキがけ、箒での掃除は、私たちが若い頃は原則、毎日のようにしていた。昭和30年代初め、私が大阪の商社にに入ったころ等、男子でも新入社員は交代で、毎朝出勤すると自分たちの課の全テーブルなどをぞうきん掛けするのが日課になっていた。
れっきとした一流の商社であったが、伝統的な習慣を大切にし、仕事場は、きっちりと清掃した後仕事を始めるのが当然と考えられていた。床などの清掃は夜のうちに業者がしているので、仕事のためのテーブルぐらいは自分たちで毎朝清掃しろということであった。

掃除(そうじ)は、ある対象から(ほこり)やゴミなどによる汚れを取って綺麗にする事で,清掃とも言われる家事労働のうちの一つでもあったが、年末などに行われる大掃除と呼ばれるものは、一年分の汚れを除去し、新たな年に歳神を迎える準備をし、新年を新たな心持ちで始められるようにする意味がある。
近年は掃除用具の多岐や高機能化により、掃除も楽になり、また、日頃から多くの場所を掃除できるようになったためか、大晦日前の住宅街などでも、私たちが若いころ見た家族総出の大掃除風景も見られなくなり、大掃除をしない家庭も増えてきた。これは常に掃除し、汚れをすぐに綺麗にしておけば大晦日前に慌てて掃除をする必要はないという考えによるものだろう。
今、学校での「掃除教育」が脚光を浴びているようだ。小学校で児童が掃除に1日に15分ほど取り組む。しかし年間で考えると約60時間になり、1つの教科に相当する時間になるとのこと。
糞尿や雑菌の繁殖元、動植物の遺骸などは「きたないもの」として忌避すべきことは幼少のきわめて初期に教育されるが、一方で「触れたくないもの」「忌避すべきもの」を適正に処置したり管理することは社会的協調性を獲得する手段として重要なことであり、その体験を通じて自己育成させてゆくことも教育目標としてあってよいことだと私は思う。
いま、学校における校舎・教室の掃除を、単なる清掃技術の習得だけではなく、ものを大切にする意識や仲間と協力する気持ちを養い、道徳感美意識の醸成にも繋がる重要な活動とされているようだ。
このような、学校の生徒が毎日学校を掃除している国は日本はじめ韓国、中国タイ、インドなど仏教的な思考を持つ国が多いようで、仏教の教えからくる掃除をすることによって自分を磨く・心を磨く意味で、掃除をするということを修行(教育)として考えていたことによるようだ。(※7、8参照)。

釈迦の弟子の一人(また十六羅漢の一人でもある)で、釈迦の弟子中、もっとも愚かで頭の悪い人だったと伝えられている周利槃特(チューラ・パンタカ)の以下のような話がある。。
兄・摩訶槃特(マハー・パンタカ)が資質聡明なのに対し、周利槃特は愚かであったといわれるが、その因縁は、過去世の昔、彼は迦葉仏(かしょうぶつ)という如来が出世された時、賢明な弟子であったが、迦葉仏の説法を暗誦できなかった他の比丘を嘲笑した業報(前世や過去におこなった善悪の行為による報い。果)により、釈迦如来の出世の時には、愚鈍に生れついたといわれる。
仏弟子となったのは兄・摩訶槃特の勧めであるが、四ヶ月を経ても一をも記憶できず、兄もそれを見かねて精舎から追い出し還俗せしめようとした。
釈迦仏はこれを知って、彼に一本の箒(あるいは一枚の布とも)を与え、東方に向かって、「塵や垢を除け」と唱えさせ、精舎(もしくは比丘衆の履物とも)を払浄せしめた。彼はそれにより、汚れが落ちにくいのは人の心も同じだと悟り、ついに仏の教えを理解して、阿羅漢果を得たとされている(参考※9,、※10も参照)。
菷は掃除の道具ではあるが、日本では祭祀等にも用いられてきた神聖な道具でもあり、又、日本の庶民の間においては菷神(ははきがみ・ほうきがみ)という神が宿るとされた。
菷神は産神(うぶがみ)のひとつである。掃除の行為である「掃き出す」ということが出産と結びついたためといわれるが、古名である「ははき」が「母木」に通じるところからともいわれる。また箒の形が依代(よりしろ。神道において神事の際に一時的に神が宿るもの。たとえば榊の束)に似ているために信仰対象になったともいわれる(詳しくは参照)。
昔は、家庭でも毎日のように掃除がされ、掃除の大切さなどは親からも教えられてきた。しかし、最近は、エアコンなども整備され部屋の環境は昔に比べてよくなり、毎日家庭で掃除をしているところも少なくなったし、同時に、、掃除の大切さなど教えている家庭も少なくなっただろう。
それに、家庭用の掃除道具の改良などによって箒や雑巾などの扱いに慣れていない子どもが増えたことに教員の多忙化も重なり、しっかりとした掃除の指導が行われているとは言いがたい現状から、清掃関係のいろいろな企業も掃除指導に協力しているようであり、例えば、今では清掃業務を中心に、外食産業なども展開しているダスキンは小・中学校における掃除教育の独自の「掃除教育カリキュラム」を開発し、教員向けのセミナーや学校への出張講義もしているようだ(※11参照)
Wikipediaによれば、「ダスキン」は、英語の「ダストクロス(dust cloth)」と日本語の「雑巾」の合成語だそうで、当初は「株式会社ぞうきん」という社名にしたらどうかという提案も創業者の鈴木清一から出たといわれるが、社員の「人に言いにくい」「嫁が来ない」などの反対により、この社名になったという。これに対して、鈴木は、「自分が汚れた分だけ人が綺麗になる『ぞうきん』で何が悪いのか」とも言ったといわれる。
もう一つの説は創業者の経営理念『喜びのタネをまこう』(ダスキン経営理念)の中にある一節、「新しく生まれ変わるチャンスです」=「脱皮」から脱(だ)+皮(スキン)=ダスキンになったとも言われている。・・・そうだ。
業績を上げている優良企業は、立派な経営理念を掲げ、その理念達成の為に全社員が一丸となって行動している企業である。私が現役時代務めていた企業も同様で経営理念追求の為に全社挙げて行動してきたお蔭で、地方の一中小企業が、東証一部上場を果たし、今ではその業界で日本を代表する企業となり、国際化の波に乗って世界のトップ企業を目指して行動している。
優良企業とそうでない企業との差は、理念や政策を掲げているだけではなく、どれだけ全社挙げてそれに取り組んでいるかであろう。要するに、企業の経営理年、政策の徹底度と行動力で差が出てくるものである。ここのところ、日本の政治がうまくゆかないのも、ただ念仏を唱えているだけで、本気でやる気がないから出来ていないだけのことだろう。

近年、社会では「ノーマライゼーション(normalization)」の理念が普及しつつる。
ノーマライゼーション」とは、人々が社会生活を送るうえで障がい者や健常者など区別をされないことが本来のあるべき姿であり、そうした社会の実現を目指す取り組みなどをいう。
こうした考えを後押しする形で2004(平成16)年には障害者基本法が一部改正され、その後、障碍者自立支援法が成立した。
これに合わせて2007(平成19)年には学校教育法が改正され、従来の養護学校から特別支援学校へと名称が変更となり、教育内容も「特別支援教育」が学校教育法に位置づけられ、現在、「特別支援教育」の一環としては、様々な職種が職業教育(作業学習、「キャリア教育」)として取り入れられているようだが、「清掃作業」もその中の一つとして採用されているようだ(※12参照)。
そして、経済産業省は、文部科学省、厚生労働省との共同主催により、「キャリア教育」の推進に向けたシンポジウムを開催して、産業界による優れた教育支援活動を表彰。最も優れた取組には、経済産業大臣賞が授与されている。
そのような流れの中で、清掃業務を専門としているところが、特別支援教育に従事する教員のほか、民間企業で障がい者を雇い入れた際の参考となるよう支援活動をしており、※12の東京ビルメンテナンス協会も特別支援教育「清掃マニュアル」を発刊しているようだが、ダスキンは、第4回キャリア教育アワードで活動名「学校掃除教育支援活動~みんなでつくろう キレイをいっしょに~」により【優秀賞】(大企業の部 )を受賞している(※14参照)。
また、環境整備の技術を高めることと、良い習慣づくりをすることを目的」としてつくられた日本そうじ協会(横浜市 今村暁理事長※15参照)が、全国で「掃除教育」「おそうじ教室」を広めており、同協会が「おそうじの全国大会」なども主催している。
同協会では『掃除道』を掲げており、同教会は「社会的意義」の中で以下のように書いている。
「掃除に関わる認定講師」を増やすということは、世の中で掃除教育の啓蒙活動をする人が増えるということです。その結果、掃除に対する意識が高い人が増え、生活習慣が改善され、個人も組織もより豊かな未来につながっていくことでしょう。

自分の部屋を掃除すると、自分が輝く。
家を掃除すると、家庭が輝く。
職場を掃除すると、職場が光り輝く。
地域を掃除すると、地域コミュニティが光り輝く。
街を掃除すると、街が光り輝く。
国を掃除すると、国が光り輝く。

この連鎖によって、個人も家庭も職場も街も国も、キレイであたたかくなることでしょう。」・・・と(ここ参照)。

この言葉を聞いた気のする人は結構いるかもしれませんね。私は、この言葉を聞いて、私の良く知っている、ある地方の食品スーパーマーケットチェーンストアー。今は上場会社)の創業社長がいつも口癖のように言っていた『ヒンズー教の教え』を思い出した。その教えは以下のようなもの。

『心が変われば、態度が変わる。
態度が変われば、行動が変わる。
行動が変われば、習慣が変わる。
習慣が変われば、人格が変わる。
人格が変われば、運命が変わる。
運命が変われば、人生が変わる。』

幸せのヒントは、「まず心を変えることから」始めなさい。そうすればこの連鎖によって、あなたの人生も良い方向へ変わってゆきますよ・・・という教えである(※16:名言から学ぶ幸せのヒントのここ参照)。
幸せには、幸せであろうと、一生懸命努力した人がなれるもの。汗をかく努力もせずに
一攫千金を夢見るような人に本当の幸せは来ないだろう。
私の知っている先にも述べたスーパーの社長は、店の清掃には非常にうるさかった。特に客用の便所の掃除は「客が便器内に10円玉を落としたら何のためらいもなく拾えるようにピカピカに磨け」と指示し、ひどい汚れがなくても、1日3回以上は当番制で掃除をさせていた。
そして、客用のトイレは、営業終了後店舗入口を閉めていても、店の前を通った人がいつでも使用できるように店舗外側に設置するようにしていた。細かな気遣いである。
トイレの掃除と言えばトイレ掃除を歌って大ヒットした歌があったね。

「トイレ掃除だけが苦手な私に
おばあちゃんがこう言った

トイレには
それはそれはキレイな女神さまがいるんやで
だから毎日キレイにしたら
女神さまみたいにべっぴんさんになれるんやで」

植村花菜トイレの神様」の歌詞の一部である(歌詞は以下参考の※17参照)。
以前このブログで、天台密教台密)において五大明王の一尊とされている烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)や濱口國雄(国鉄詩人連盟 詩人)作詞「便所掃除」(※18参照)など紹介しながら『トイレの神様』について書いたが、不浄とされている便所を綺麗に掃除すればその大きな功徳(普遍的に意味のある善行為結果)として、心の浄化と共に、不浄なものをすべて取り去り、清浄な心と、体を得る事が出きるのだという仏教の教えは、十分に納得の出来る教えであり、昔から、お寺などでは、トイレ掃除はとても大切な仕事として修業僧のトップが率先してやってきたことだと聞いている。
私と家人の見合い話を持ってきてくれたのは家人の叔母であったが、その叔母とわたしの母は親友で、その叔母が私の家へ来た時にはいつでも、玄関に入り挨拶をした後は、いきなり「はばかり」をお借りしますと便所に行っていた。「便所}とあからさまに口にする ことが「はばかられる」ために昔の人は「はばかり」という人が多かった。家人の叔母も古いタイプの人間であり、まず不浄とされているトイレがいつでもきれいに掃除されてているかを点検していたようである。
私の母も三井本家で花嫁修業などして来てるので、そのようなことはしっかりとしていたので、そんな母親に育てられた子と言うことで自分の姪の結婚相手に私を選んだのだろう。
そんなトイレの掃除を率先して企業が行ったのは、1987(昭和62)年4月、国営の国鉄が法律によってJR7社に分割・民営化された時である。JR各社がまず取り組んだのが、利用客に対する挨拶とトイレの清掃であった。此の時以来多くの会社がJRを見習えと会社のトイレ掃除を徹底するようになった。
もう27年も前のことである。もし、いまだに出来ていない会社があったら、そんなところはいつまでも存続するのは難しいだろう。
部屋は、心の状態を映すもの。物を捨てられないことの背景には、人間関係で悩んでいたり、過去のことが潜んでいたりすることがあるようだ。以下で、掃除のこといろいろ取り上げている。参考にされるとよい。
掃除 - NAVER まとめ


参考:
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:一般社団法人日本ライフオーガナイザー協会
http://jalo.jp/
※3:近代デジタルライブラリー 日本風俗図絵
http://kindai.ndl.go.jp/search/searchResult?searchWord=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%A2%A8%E4%BF%97%E5%9B%B3%E7%B5%B5&facetOpenedNodeIds=1%3A00&filters=1%3A00%7CK%3A%E9%BB%92%E5%B7%9D
※4:早稲田大学図書館 古典籍総合データベース-大晦日曙草紙. 初,2-25編
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he13/he13_03049/index.html
※5:「東京都立図書館:江戸東京デジタルミュージアム」
http://www.library.metro.tokyo.jp/Portals/0/edo/tokyo_library/index.html
※6:川上地蔵 : 散策とグルメの記録
http://seiyo39.exblog.jp/tags/%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E5%9C%B0%E8%94%B5/
※7:学校だより
http://www.hatsukaichi-edu.jp/miyauchi-e/data/h2509gakkoudayori.pdf#search='%E6%8E%83%E9%99%A4+%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%95%99%E8%82%B2%E3%81%AE%E4%B8%80%E7%92%B0'
※8:学校掃除も大切な学習時間! 掃除教育の広がり - 明治図書出版
http://www.meijitosho.co.jp/eduzine/kaigi/?id=20100177
※9:法話:周利槃特
http://www.gujo-tv.ne.jp/~tyouzenji/syurihanndoku.htm
※10:松下幸之助はなぜ掃除を勧めたのか - PHPビジネスオンライン
http://shuchi.php.co.jp/article/908
※11:掃除教育カリキュラム | 学校教育支援活動 | 株式会社ダスキン
http://www.duskin.co.jp/torikumi/gakko/curriculum/soujikyouiku/
※12:東京ビルメンテナンス協会―特別支援教育「清掃マニュアル」を発刊(Adobe PDF)
http://www.tokyo-bm.or.jp/syougaisya-jigyou/pdf/sienseisou.pdf#search='%E6%8E%83%E9%99%A4+%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%95%99%E8%82%B2%E3%81%AE%E4%B8%80%E7%92%B0+%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%BC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3'
※13:キャリア教育(METI/経済産業省)
http://www.meti.go.jp/policy/economy/jinzai/career-education/
※14:キャリア教育アワード
http://www.career-award.com/
※15:掃除道 日本そうじ協会
http://www.soujikyoukai.jp/
※16:名言から学ぶ幸せのヒンート-幸せのホームページ
http://meigen.shiawasehp.net/
※17:トイレの神様 植村花菜 歌詞情報 - goo 音楽
http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND88524/index.html
※18:詩  便所掃除-住職日記
http://www.hasedera.net/blog/2011/01/post_256.html
国際障害者年
http://tamutamu2011.kuronowish.com/yougoipaan4.htm
トイレの日 - 今日のことあれこれと・・・
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/9ce2dd8787ae63efb361b716dae81188
トイレの神様-今日のことあれこれと・・・
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/33241d32c5878b2d4773536feae09c4d

伊藤博文が 初代兵庫県知事に就任した日

2014-05-23 | 歴史
天智天皇の治世に兵の武器の倉庫の意味である「つわものぐら(兵庫)」があったことが地名の由来とも言われる「兵庫」(兵庫県のことは※1を参照)の地に、国際貿易港としての「神戸港」が開港(「兵庫」として開港)したのは、1868年1月1日(慶応3年12月7日)のことであった(神戸港のことは※2参照)。
この開港は、1858年(安政5年)、日米修好通商条約により、1863年1月1日(文久2年12月7日)に開港が定められていたが、兵庫は天皇のいる京都御所に近かったこともあり、朝廷の反対によりなかなか開港が許可されなかったがロンドン覚書によって5年後のこの日、「兵庫津」(かつての大輪田泊)より東にある「海軍操練所」があった辺りを事実上の「兵庫港」として開港が実現したものであった(兵庫開港要求事件)。
1868年(明治元年)鳥羽・伏見の戦い- の勃発(慶応4年1月3日[1868年1月27日])、幕府軍の敗北((慶応4年1月27日[1868年1 30日])、を知った徳川慶喜はまだ兵力を十分に保持しているにも関わらず大坂城を脱出し、開陽丸に乗り込み、海路を執って江戸へ向かった。
鳥羽での薩摩との衝突が戊辰戦争の始まりであり、五稜郭落城(
詳細は箱館戦争を参照)をもって終わりをつげるが、「鳥羽伏見の戦い」は、3 倍以上の兵力を擁する幕府軍が惨敗に終わったが、これを機に近畿以西の諸藩の殆どが新政府方につき、世に言う「三百年の天下をたった三日でつぶした」戦いであり、正に、NHKで放送されていた歴史情報番組『そのとき歴史が動いた』・・・であった。その敗因等は以下を参照。

「鳥羽・伏見の戦い - 旧幕府軍の敗北」 そのとき歴史が動いた(1/4 .)(
「鳥羽・伏見の戦い - 旧幕府軍の敗北」 そのとき歴史が動いた(2/4 .)
「鳥羽・伏見の戦い - 旧幕府軍の敗北」 そのとき歴史が動いた(3/4 .)
「鳥羽・伏見の戦い - 旧幕府軍の敗北」 そのとき歴史が動いた(4/4 .)

「鳥羽・伏見の戦い」の敗戦を知った知ったイギリス公使ハリー・パークスは、幕府から各国外交団の保護不可能との通達があったため兵庫へ移動した。
この時、「神戸事件」(備前事件とも呼ばれる)が勃発した。
神戸事件とは(1868年2月4日(慶応4年1月11日)に神戸(現・神戸市)三宮神社前において備前藩(現・岡山県)兵が隊列を横切ったフランス人水兵ら2人を負傷させた事件である。
この時、自らも現場に居合わせたイギリス公使ハリー・パークスは激怒し、折しも兵庫開港を祝って集結していた各国艦船に緊急事態を通達、アメリカ海兵隊、イギリスの警備隊、フランスの水兵が備前藩兵を居留地(現・旧居留地)外に追撃し、生田川の河原で撃ち合いとなった。
そして、神戸に領事館を持つ列強諸国は、同日中に、居留地防衛の名目をもって神戸中心部を軍事占拠し、兵庫港に停泊する日本船舶を拿捕(だほ)した。
この事件は、兵庫開港(現・神戸港)に伴い、大名行列と外国人の衝突を避けるために徳川幕府によって作られた「徳川道」(=西国往還付替道)を通らず、西国街道を進んだことが事件の引き金の一つとなってしまった。以下参照。

徳川道 ~幻の西国街道のバイパス~

このパークス駐日英国公使とは下関での会談等もあり知己関係にある長州藩士の伊藤俊輔(後の伊藤博文)が、下関発の小蒸気船で兵庫港に着いたのは、その翌日のことだった。
この事件が起きた時点では、既に大政奉還していたとは言え、まだ朝廷は諸外国に対して徳川幕府から明治政府への政権移譲を宣言しておらず、伊藤俊輔(博文)が折衝に当たるも決裂するに至るが、伊藤は事の重大さを正確に掴んだでいた。
この事件で、フランス人水兵らが武家の行列を横切ろうとした行為「供割り」は不吉な行為として固く禁じられていた行為であった。日本側から見ると禁を犯した無礼者は切り捨て御免、つまり、切り殺してもよいと武家諸法度に定められていたことをしただけのことであった。したがって、この事件の外交交渉において、日本の武士社会の慣習と国際慣例(万国公法)に無知な誕生したばかりの政権の中にあって、如何に対処すべきかは非常に難しい問題があったのである。
伊藤は、国禁を破って、藩命(萩藩の命令)で攘夷実行のために西欧列強の軍事を学ぶために英国へ留学する途中、上海アヘン戦争に負けた清国の人民が奴隷のように酷使されている様をみて、強い衝撃を受けていた。
そのようなことから、彼は、この神戸事件でも、まかり間違えば、清国同様の憂き目をみることになりかねないと憂慮していた。
同年1月15日(2月8日)、急遽、開国和親を朝廷より宣言した上で明治新政府への政権移譲を表明、東久世通禧を国の代表として、兵庫島上町(神戸市兵庫区。)の運上所(開港と同時に開所していた諸問屋会所においた仮事務所「兵庫役所」)にて交渉が開始された。
東久世は、京都の新政府で参与兼外国事務取調掛で、外国との間に起こった事件の最高責任者であった。その東久世に、いちはやく事件を知らせ、外国に王政復古を宣言し、事件を解決にむかわせたのは伊藤であり、元論この交渉メンバーの中に、英語の堪能な伊藤も参加しており、中心的役割も果たしたことだろう。
一戦を辞せずとする備前藩を説得し、2月9日(3月2日)事件関係者の滝善三郎永福寺において切腹させるにあたり、外国公使にも処刑に立ち合わせると共に、今後の外交問題は、万国公法にのっとって対処することを宣告して、何とか神戸占領を解除させることに成功した。ただ、結果として諸国列強に押し切られる形で滝善三郎という1人の命を代償として問題を解決する形にはなったが、これ以降、明治政府が対外政策に当たる正当な政府であるということを諸外国に示すことになった。
明治新政府ができると、外国と交渉を行い、神戸港や神戸港周辺の旧幕府領を管理するために、慶応4年1月11日、兵庫島上町の諸問屋会所においた仮事務所「兵庫御役所」(運上所)は、1月19日になると神戸港や神戸港周辺の旧幕府領を管理するために兵庫切戸町(兵庫区)の旧大阪町奉行の兵庫勤番所へ移転。
軍隊のあるところが役所にふさわしいとして慶応4年(明治元年)1月22日には兵庫鎮台と改称され、兵庫鎮台東久世が外国事務総督を兼務。伊藤は英語が堪能なことから東久世の下で参与兼外国事務掛となり、2月政府の職制改革に伴って兵庫鎮台が兵庫裁判所と改称されると東久世が兵庫裁判所総督に任命(摂津播磨河内の旧幕府領谷町代官支配地を統治)されると、伊藤は、外国事務局判事に任ぜられた。
さらに、慶応4年5月23日(西暦1868年7月12日)には、兵庫裁判所を廃し、兵庫県を設置。第1次兵庫県が発足した。
江戸時代の末期、現代の兵庫県域には大名が支配していた大名領の外、幕府直轄領(天領)、旗本領(旗本知行所)、公家領寺社領など、130を超える領主によって支配されていた。
慶応4年(1868)5月、旧幕府直轄領等を管轄地として兵庫県(第1次)が設置されたが、配地は徳川天領の域をでていない。多くの大名領は明治4年(1871)まで存続していた(※1の幕末の大名領参照)。
現在の兵庫県庁(神戸市中央区下山手通五丁目10番1号)は繁華街近くにあるが、当時は、江戸時代兵庫津と呼ばれていた神戸市兵庫区中之島周辺にあった兵庫城のあったところである。
兵庫城は花隈城の戦い織田信長に謀反した荒木村重を破り落城させた信長軍の武将池田恒興がその功により、兵庫の地を与えられ築城したものであるが、池田恒興はわずか2年で美濃国大垣城に移封され、兵庫城下は豊臣秀吉の直轄地となり片桐且元が代官として入城していた。そのとき呼称も兵庫城から片桐陣屋と称されていた。
1615年(元和元年)大坂城落城後は尼崎兵庫津一帯は尼崎藩に組み込まれ兵庫城址には陣屋(兵庫津奉行所)が置かれていた。
1769年(明和6年)、上知令により兵庫津一帯は天領となり、尼崎藩の兵庫陣屋は与力同心の勤番所に改築されていた。以下参照。
兵庫勤番所絵図(写)|神戸市立中央図書館 貴重資料デジタルアーカイブズ
明治になってこの勤番所のあった城跡の一部に兵庫鎮台を設け、それが兵庫裁判所に名前が変更、「兵庫県」が成立すると、これが初代の兵庫県庁になったということである。ただし、同年9月に県庁は現在の神戸地方裁判所がある所(神戸市中央区橘通二丁目2番1号)に移動、更に明治6年に現在の兵庫県公館の所に移動している。戦後県庁は違う建物に移り、こちらは現在でも兵庫県の迎賓館として利用されている(現県庁は公館の目の前にあるビルである)。

当時の県域は、先にも書いたように「、神戸港を中心にした小さなもので、いくつもの飛地からなる島のような形をしていた兵庫県。
初代知事に任命されたのは後に初代総理大臣となる伊藤俊輔(博文)であった。英国留学で体得した英語を生かし、開港事務を取り仕切ってきた実績を評価されての登用だったが、任期は1年余りと短かった。
冒頭の画像は兵庫県知事当時の伊藤博文(山口県光市伊藤公資料館蔵。)画像は、2009・6・10付、朝日新聞「ひょうごを託す09知事選」特集記事掲載時のものより借用。
憲政2年目の1969年は、2~5代目まで4人の知事(久我通城中島錫胤陸奥宗光税所篤)が次々と送り込まれた(兵庫県知事一覧参照)。当時、港のある長崎、兵庫、神奈川の知事を次々とこなすのが外交畑の出世コースの様であったらしいが、中には1度も兵庫を訪れなかった知事もいたようだ(第5代、税所は、権知事となっているが、権知事は知事がいないところへ置かれたようで、兵庫県には居なかったということだろう)。第4代の陸奥宗光は知事退任後、第2次伊藤内閣で外務大臣として活躍している。
伊藤博文は、天保12年9月2日(1841年10月16日)周防国に出生。したがって、伊藤が、兵庫県知事になったときは、まだ27歳という若さであった、伊藤は、ニツ茶屋村の庄屋 橋本藤左衛門の別邸である橋本花壇(後の花隈の料亭吟松亭)を仮住居としていたそうだ。橋本花壇の所在地は、旧住居表示では神戸市生田区北長狭通6-78(現:中央区花隈町3に該当)。明治2年 (1869年)7月 伊藤が知事を辞し神戸を去るまでの間この地で風雅な生活を送っていたようである(※3参照)。
以前このブログ「首相官邸で伊藤博文主催による仮面舞踏会が開催された」でも書いたが、JR元町の少し西北あたり、「花隈」(もと花隈城の跡地)には明治時代から昭和40年代くらいまでは賑ぎわいだ料亭街であった。そこには、料亭、お茶屋、仕出屋など戦前は120軒を超える店があり、最盛期には「千人近い芸者衆で華やだいといわれる。初代兵庫県令であった伊藤も毎晩花隈に入り浸っていたといい、伊藤に贔屓にしてもらっていたという元芸者のお婆さんのインタビュー記事を神戸新聞で読んだことがある。
何でも、伊藤の妻・梅子は賢夫人のほまれ高かったそうだが、元々は下関の芸者「お梅」だったという。伊藤には英国留学前に結婚した「おすみ」という女がいたが離婚して、お梅を正妻にして梅子と名のらせた。伊藤が思いきって女道楽のできたのは、梅子の内助のおかげで、梅子は女遊びについて一切文句をいわなかったという。伊藤は、私的蓄財はほとんど残さなかったとされているが、女遊びには相当入れ込んでいたのであろう。
そんな伊藤だが、兵庫県知事に抜擢されてからの1年余の短い期間だが色々なことに着手している。
貿易の振興が、国家隆盛の唯一の手段と考えていた伊藤は神戸での国際貿易の振興をはかり、その為、工事なかばの居留地建設の再開と待遇改善、さらに第二の運上所(税関)を作った。また、神戸開港で、外国人との取引を商いにする人もでてくる。
先に開港した横浜では、手真似による意思表示で契約したことで、違約金をとられるなど困ったことのあることは知られていたことから、県は官吏に外国語を身に着けさせるため、早くも洋学傳習所(英学校)を開設した(8月)。校舎は、鳥取藩が藩士教育のため使っていた神戸村(海岸通西ノ町。※4参照)の校舎が兵庫裁判所へ寄付されたものを利用したようだ。資金難から、兵庫町会所(岡方総会所)に移転し明治5年10月明親館に併合されている(※5参照)。
また、宇治野村(現中央区下山手通7丁目)に貧院を建設している。福澤諭吉は『西洋事情』初編 巻之一の中で、老院(今の老人ホーム)、幼院(今の保育園や幼稚園のこと)又、 それに加えて、「身体不具なるか、若(も)しくは虚弱なる者」(今の障害者センターの機能も合わせて持っていた)もの]のことを貧院とっている.(※6参照)。
神戸ではこの時、神戸病院(神戸大学附属病院の前身)を開設し、医学伝習所(のち神戸医学校と改称)を併設している。兵庫県公館の県政資料館(歴史資料部門)には、神戸病院を建てるために寄附金を集めた「病院購金録」に「伊藤俊介」の名前が見られる(※1の病院購金録参照)。
開港により内外人の流入で、新開港場神戸の風紀と治安は乱れ勝ち。居留地外国人の慰安所として「福原遊郭」が開設されたといわれている。又、伊藤の知り合いのイギリス人から馳梅院を建てること注意されたことが病院建設の動機だったらしい。兎に角、神戸における伊藤の行動と治績はスピーディーであり、めざましいものがあった。しかし、政府に提出した郡県制の建白書『国是綱目』(兵庫論とも)がいれられられなかったことから、わずか11ヶ月の在任期間で憤然と辞表を叩きつけ辞職(明治2年4月10日)した。
今は亡き米花稔氏(べいか・みのる=神戸大名誉教授、経営学)が、神戸新聞に寄せた「まちづくりのちえ」と題する一文には、五つの特徴をとらえ、
「第一は、新興の都市としてのまちづくりが、多様な人々のかかわりあいのなかで進められたこと」
「第二は、古くからの都市に、新しい機能によって規模の大きい新しい部分が加わる時の新旧対立のおそれを、新旧都市の接点を中核とすることによって克服、一体として発展へ進めたこと」
「第三は、まちづくりに区画整理という手法を、地元の人々みずからはじめたこと」
「第四は、まちづくりに必要で、かつ厄介な公的事業のいくつかを、資金の乏しい中で他からの思惑を防ぎつつ進めるために、当時としては新しい株式会社制度を活用するという、一種のシステム化を工夫したこと」
「第五は、港湾都市であり、港湾関連の産業をもって、経済変動の振幅がとりわけ大きいことによって、このような難題が結果的には市民生活の安定、福祉向上についてのきわめて特徴的なとりくみ方を創出することとなったこと」
をあげており、とくに第二のなかで
「すなわち兵庫という古くからの人口二万五千の都市の東に、開港場を中心とする新しいまちづくりが始められた時、旧湊川(今日の新開地)と宇治川との間、当時の坂本村など新旧地域の中間地域をこれからの都市の中核として、ここに次々と公共的施設を設置するという工夫をした。このことは神戸の歴史の中で印象深い部分のひとつである」・・・・それを伊藤俊輔は実行した。・・・と(※7:「海鳴りやまず」の開港と伊藤博文参照)。
当時まだ、27歳の青年がやったことである。立派なものだ。それを讃えて神戸には、伊藤町(いとうまち)の名も残っている。
又、JR神戸駅から楠正成を祀る湊川神社を北上すると大倉山公園と呼ばれるところがある。名称は、明治維新の動乱の中で御用商人として活躍し一代で財閥を築いた大倉喜八郎が、日清戦争後、安養寺山の約八千坪の土地を買い取り広大な別荘を建てた後、神戸市に寄贈したことに由来している.(※8参照)。
当時の安養寺山は松の木が繁り、瀬戸内海や淡路島が望めたそうだ。しかし、この景勝地に建てた別荘に、喜八郎自身はあまり滞在せず、彼と懇意であった伊藤博文が、「昼夜涼風不断、神戸第一の眺望且避暑地に有之」と専ら利用していたという。
その伊藤博文が、明治42年(1909年)ハルピンで射殺され、喜八郎は、伊藤が愛したこの地に彼の銅像を建てて公園として市民に解放する条件で、土地と別荘を神戸市に寄付した。2年後の明治44年10月銅像が建設され、大倉山公園が開園。
湊川神社に立っていた伊藤博文の銅像が明治38年、日露戦争の講和に不満の暴徒に持ち去られていたものを大倉山のシンボルとして再建したものだ。彼の銅像台座には階段状ピラミッドのモチーフが使われている。そして伊藤博文の銅像台座のモチーフは、彼が初代内閣総理大臣であったことから、国会議事堂の屋根の形に採用されるまでになる。
銅像は戦時中に供出されて今はないが、銅像の台座と大倉山の名称が当時を偲ばせている。

上掲の画像は、在りし日の大倉山公園の伊藤博文の銅像(絵葉書。年代不明)である。


参考:
※1:兵庫県HP:歴史資料
http://web.pref.hyogo.jp/pref/cate3_642.html
※2:神戸市HP:神戸港の歴史
http://www.city.kobe.lg.jp/life/access/harbor/rekishi.html
※3:初代兵庫県知事 伊藤博文寓居跡
(Adobe PDF)
http://osaka-siseki.cocolog-nifty.com/blog/files/vol.2-2006-5-21-6.pdf#search='%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%8D%9A%E6%96%87+%E6%A9%8B%E6%9C%AC%E8%8A%B1%E5%A3%87'
※4:神戸の歴史とその歩み:神戸の歴史とその歩み: 「神戸」という地名の由来について
http://haikara.kimec.ne.jp/01/001.html
※5:神戸元町商店街>HISTORY:洋学伝習所
http://www.kobe-motomachi.or.jp/cont08/cont08-165.htm
※6:情. 初編 巻之1貧院 - 近代デジタルライブラリー - 国立国会図書館
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/761234/42?tocOpened=1
※7:海鳴りやまず
http://singetu.ddo.jp/uminaritamazu/
※8:神戸市:KOBEの本棚 第20号
http://www.city.kobe.lg.jp/information/institution/institution/library/bunkodayori/hon_20.html

日本初の号外『別段中外新聞』が発行された日

2014-05-16 | 歴史
号外 (ごうがい。英:newspaper extra)とは、突発的な事件、事故、災害やスポーツの試合結果など、世間の関心度が高いと判断されるニュースを逸早く伝えるために、街頭で販売または配布されている新聞であり、その性質上、発行は不定期であり、日本では通常無料で配布される。
通常の新聞とは異なり、特定のニュースのみを報道する目的で発行されるため、2ページないし多くて4ページとなるのが大半で、片面のみの印刷である場合もある。そして、新聞は通常、発刊の度に通し番号が付番されるが、号外の場合は緊急特別の発刊であるため、発刊番号の対象外であるとされ、このため「号外」と呼ばれ、本紙では発刊番号が記載されている欄などには「号外」と記載されている。
日本には現在の新聞と似たものとして瓦版(読売とも呼ばれていた)が江戸時代以前から存在し、木版製のものが多かった。現存する最古の瓦版は1614年〜1615年(慶長19年~20年)の大坂の役(大坂の陣)を記事にしたもののようである(※1:「かわら版のはじまり」の図1、6参照)。
現在の紙媒体の新聞は、幕末から明治時代に欧米を真似て作り、国民に広まった。新聞という言葉は明治時代に作られた造語である(ここ参照)。
江戸時代後期の幕末には、手書きの回覧文章を「新聞」と称するケースがあった。1861年6月22日(文久元年5月15日)には英字新聞として『ナガサキ・シッピング・リスト・アンド・アドバタイザー』、同じ年の11月23日(10月21日)には横浜で英語の週刊新聞『ジャパン・ヘラルド』が発行された。この新聞が本邦最初のものということになる。
そして、1862年1月1日(文久元年12月2日)には初の日本語の新聞として『官板バタビヤ新聞』が刊行される。これはバタビヤ(インドネシアの首都ジャカルタのオランダ植民地時代の名称)にあったオランダ総督府の機関誌『ヤパッシェ・クーランド』を、幕府の蕃書調所が和訳し、海外事情を国別に紹介したもので、3月には『官板海外新聞』と改名するが、一般には「バタビヤ新聞」として知られている。これが日本人発行の最初の新聞とされている。また、播州(播磨)の水夫であったジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)が、1864年(文久3年)に出した『海外新聞』(のちに『新聞誌』に改名)が、日本での新聞第2号とされている。
明治時代に入ると、文明開化の流れに乗って新聞が多数創刊されるが、その中で1868年(慶応4年)2月、幕府の開成所(蕃書調所を改称)頭取・柳河春三ここも参照)が木版の小冊子形態の新聞『中外新聞』を創刊した。
最初は、外字紙、外国紙の日本記事の抄訳が多かったが、やがて幕府や新政府・官軍の動向、布令、人事などの国内情報を載せるようになった。新聞の名称は、外国新聞を翻訳して外国事情を紹介しつつ国内事情をも報道するという意味で「中外」と名づけたようだ。形こそ冊子型だが戊辰戦争が緊迫するなか国内のニュースに重点を置いた内容、売れ行き、影響力から見て日本人発行の初の本格的新聞と言えるものであった(※2参照)。
なお、この年の閏4月3日には、福地桜痴(本名:福地 源一郎等による『江湖新聞』も創刊された。そして、1870年(明治3年)には日本最初の日刊紙である『横浜毎日新聞』が創刊されるようになる。この間の新聞事情は、参考※3:「新聞と神奈川」を読まれるとよい。

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上掲の画像は、1868年(文久2年)発行の『官板バタビヤ新聞』と1868年(慶応4年)2月に創刊した中外新聞(第1号)である。画像は、朝日クロニクル週刊20世紀“メディアの100年”より借用。
明治という年代は、1868年1月25日(明治元年1月1日=慶応4年1月1日)から始まるが、実際に改元詔書が出されたのは明治天皇が即位した慶応4年9月8日(グレゴリオ暦1868年10月23日)で、慶応4年1月1日に遡って明治元年とすると定めたものである。
慶応4年1月1日(1868年1月25日)は、江戸幕府最後の第15代将軍徳川慶喜が討薩表を朝廷に提出した日であり、これが契機となり、王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力佐幕派)および奥羽越列藩同盟が戦った内戦・戊辰戦争が始まる。
この緒戦となった戦い・鳥羽・伏見の戦いが1868年1月27日(慶応4年1月3日)に、翌1月28日(慶応4年1月4日)には阿波沖海戦が始まるが、慶応4年1月4日には旧幕府軍は淀方向への後退が続き、同日、仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍と為し錦旗節刀を与え出馬する朝命が下った。
これにより、薩長軍などは正式に官軍とされ逆に、旧幕府の中の反乱勢力は賊軍と認知されるに及び、佐幕派諸藩は大いに動揺した。
こういった背景により慶応4年1月5日、藩主である老中・稲葉正邦(当時江戸詰)の留守を守っていた山城淀藩賊軍となった旧幕府軍の入城を受け入れず、旧幕府軍は淀城下町に放火し、石清水八幡宮の鎮座する男山・橋本方面へ後退した。また、この戦闘で新選組隊士の3分の1が戦死した。
1月6日、旧幕府軍は八幡・山崎で新政府軍を迎え撃ったが、山崎の砲台に駐屯していた津藩が朝廷に従い旧幕府軍への砲撃を始めた。旧幕府軍は山崎以東の京坂地域から敗北撤退し大坂に戻った。
この時点では未だに総兵力で旧幕府軍が上回っていたが、開戦に積極的でなかったといわれる慶喜は1月6日夜、自軍を捨てて大坂城から少数の側近を連れ大坂湾に停泊中の幕府軍艦開陽丸で海路江戸へ退却した。
慶喜の退却により旧幕府軍は戦争目的を喪失し、各藩は戦いを停止して兵を帰した。また戦力の一部は江戸方面へと撤退した。
江戸へ到着した徳川慶喜は、慶応4年1月15日、幕府主戦派の中心人物・小栗忠順(小栗上野介)を罷免。さらに2月12日、慶喜は江戸城を出て上野の寛永寺に謹慎し、明治天皇に反抗する意志がないことを示した。
一方、明治天皇から朝敵の宣告を受けた松平容保は会津へ戻った。容保は新政府に哀訴嘆願書を提出し天皇への恭順の姿勢は示したが、新政府の権威は認めず、武装は解かず、求められていた出頭も謝罪もしなかった。
その一方で、先の江戸での薩摩藩の騒乱行為(江戸薩摩藩邸の焼討事件)を取り締まったため新政府からの敵意を感じていた庄内藩主・酒井忠篤と会庄同盟を結成し、薩長同盟に対抗する準備を進めた。旧幕府に属した人々は、あるいは国許で謹慎し、またあるいは徳川慶喜に従い、またあるいは反新政府の立場から会津藩等を頼り東北地方へ逃れた。
新政府は有栖川宮熾仁親王を大総督宮とした東征軍をつくり、東海道軍・東山道軍・北陸道軍の3軍に別れ江戸へ向けて進軍。旧幕府軍は近藤勇らが率いる甲陽鎮撫隊(旧新撰組)をつくり、甲府城を防衛拠点としようとしたが、新政府軍の板垣 退助が率いる迅衝隊が甲陽鎮撫隊より先に甲府城に到着し城を接収していた。
甲府城へ向かっていた甲陽鎮撫隊は慶応4年3月6日(同3月29日)新政府軍と戦い完敗。近藤勇は偽名を使って潜伏したが、のち新政府に捕縛され処刑されている。一方、東山道を進んだ東山道軍の本隊は、3月8日に武州熊谷宿に到着、3月9日に近くの梁田宿(現・足利市)で宿泊していた旧幕府歩兵隊の脱走部隊(後の衝鋒隊)に奇襲をかけ、これを撃破した。
駿府に進軍した新政府は3月6日の軍議で江戸城総攻撃を3月15日としていたが、その後の幕府の全権を委任さていた陸軍総裁の勝海舟と東征大総督府参謀の西郷隆盛の江戸開城の交渉により、15日の総攻撃は中止となった。
結果、慶応4年4月4日 (同4月26日)に勅使(先鋒総督・橋本実梁、同副総督・柳原前光)が江戸城に入り、「慶喜は水戸にて謹慎すること」「江戸城は尾張家に預けること」等とした条件を勅諚として伝え、4月11日(同5月3日)に江戸城は無血開城され、城は尾張藩、武器は肥後藩の監督下に置かれることになった。同日、慶喜が水戸へ向けて出発。4月21日(同5月13日)には東征大都督である有栖川宮熾仁親王が江戸城に入城して江戸城は新政府の支配下に入った。
日本の新聞の先駆者の1人である柳川春三が『中外新聞』を創刊したのは、慶喜が江戸城を出て上野寛永寺に謹慎し、明治天皇に反抗する意志がないことを示した1868年(慶応4年)2月のことであるが、その後も江戸無血城に従わぬ旧幕臣の一部が千葉方面に逃亡、船橋大神宮に陣をはり、閏4月3日(5月24日)に市川鎌ヶ谷船橋周辺で両軍が衝突した(市川・船橋戦争)。
又、宇都宮藩兵をはじめ野州(下野国の異称)世直しを鎮圧するために板橋から宇都宮に派兵された東山道総督府軍を中心とする新政府軍と、下総市川の国府台から次期戦闘地日光廟へ向けて行軍中の伝習隊を中心とする旧幕府軍の間で起きた「宇都宮城の戦い」などが起こっている( ※4:「上杉家の戊辰戦争」の野州戦争第一章~第五章参照)。
又、江戸城の無血開城を決定して官軍による江戸総攻撃は回避されたが、抗戦派の幕臣や一橋家家臣の渋沢成一郎( 渋沢栄一の従兄)、天野八郎らが彰義隊を結成していた。
彰義隊は当初本営を本願寺に置いていたが、後に上野に移した。旧幕府の恭順派は彰義隊を公認して江戸市内の警護を命ずるなどして懐柔をはかっていたが、徳川慶喜が水戸へ向かい渋沢らが隊から離れると彰義隊では天野らの強硬派が台頭し、旧新選組の残党(原田左之助が参加していたといわれる)などを加えて徳川家菩提寺である上野の寛永寺に集結して、輪王寺公現入道親王(後の北白川宮能久親王)を擁立した。
そして、慶応4年5月15日(1868年7月4日)、長州藩の大村益次郎が指揮した新政府軍が攻撃し1日で彰義隊を撃破した。上野戦争と呼ばれるものである。
戦争後、逃走した彰義隊残党の一部は、北陸や常磐、会津方面へと逃れて新政府軍に抗戦し、転戦を重ねて箱館戦争に参加した者もいる。

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上掲の画像は、「本能寺合戦之図」 さくら坊芳盛(歌川 芳盛)画 1969年(明治2年)錦絵3枚続き。
上野戦争を明智光秀織田信長を襲撃した本能寺合戦に名を借りて描いた錦絵である。右手の黒門口はすでに破られ、新政府軍は既に奥まで侵攻している。

上野戦争で新政府軍が彰義隊を攻撃し撃破したその翌日の慶應4年5月16日(旧暦。グレゴリオ暦1868年7月5日)に『中外新聞』は、本紙とは別の『別段 中外新聞』と外題した上野東叡山(寛永寺)に立て篭もった彰義隊を撃破する様子を、8 ページにわたる記事で報道している。この角書きの別段が号外を意味しており、これが日本最初の号外であるといわれている(冒頭掲載の画像が日本初の号外である)。
形態は当時の日本の他の新聞と同じく和紙に木活字刷りの冊子型で本文は 4 丁(ちょう=綴じた紙の一葉)、そこに「一昨日 大総督府より左の通り御内達ありしよし風聞の侭写し留む・・・(以下略)」として本文は、以下のような書き出しで書かれている.。
「昨十五日朝未明より太鼓の音処々に聞えて、官軍繰出しに相成り、御門々々皆〆 切となり出入を止めらる。間も無く砲声少々相きこえ、湯島通り出火あり、此頃中 の大雨にて十分しめり之有る折柄なれば、手過ちの出火にはあるべからず、何様只 事ならずと思えども往来留なれば火元見の者を出す事も叶わず、只あつまりて此頃 中の風聞を語り合い出火方角を眺め居たり。 ・・・・以下略」(旧漢字、旧かな使いは変えてある。)
尚、5月16日付『別段 中外新聞』の原文は以下参考の※5:「早稲田大学-古典籍総合データベース」の別段中外新聞. 戊辰五月十六日 / [柳川春三 編]にて、また、その現代文での読み下し文は、参考※6:「会津の歴史」の戊辰戦争百話・第五話之二:上野の戦争で読むことが出来る。
また、先にも書いた福地 桜痴(福地 源一郎)が発行した『江湖新聞』第 20 号(5月18日付)では、「去ル十五日東叡山の始末ハ中外新聞に記し別号として之を刊行せり故に我新聞には之を載せず」と書かれているという(※7参照)。
福地は、江戸開城後の慶応4年閏4月3日(1868年5月)に『江湖新聞』を創刊したが、その翌月彰義隊が上野で敗れた後、同誌に「強弱論」を掲載し、「ええじゃないか、とか明治維新というが、ただ政権が徳川から薩長に 変わっただけではないか。ただ、徳川幕府が倒れて薩長を中心とした幕府が生 まれただけだ」と厳しく述べたという。これが新政府の怒りを買い、新聞は発禁処分、福地は逮捕されたが、木戸孝允が取り成したため、無罪放免とされたという(Wikipedia)。明治時代初の言論弾圧事件である。
法学者(専門は法制史)であり、明治文化研究者でもある尾佐竹猛が、1920年(大正9年)に、柳川春三を論じた論文「(新聞雑誌之創始者)柳川春三」(※8参照)を発表し、その中で、柳川春三の功績を讃えている。
この中で、「中外新聞は大体4日めぐらい間隔をおいて発行し、創刊の年1868年(慶応4年)6月8日出板の第45号限りで消滅し、明治2年には『官准中外新聞』と改題し、号を新にして発行しているが、これは『江湖新聞』の福地 源一郎の筆過事件以来新聞は厳禁せられ、其の後禁は解かれたが厳重なる 新聞紙条例の発布があったからで、此時は幾多の新聞社が倒産しているが、中外新聞独りが異彩を放って居た」・・・ことなどが書かれている。
新聞紙条例は、自由民権運動の高揚するなか、新聞・雑誌による反政府的言論活動を封ずるため制定したものだが、この条例に準拠して発行したのが『官准 中外新聞』である。
各紙は、新聞を再刊する為に、政府の許可を得て、このように新たに「官許」「官准」を誌名に冠して発行したのであった。つまり、官の規制下で再生メディアとして登場した種々の官許新聞等は、ジャーナリズムとしての活力=反権力性を失ったと言える。
以降佐幕的傾向の記事は全く跡を絶ち、新政府の施策を謳歌し、政府系新聞への対抗性を喪失したメディアとして、新聞の通史では序章されており、『中外新聞』についても条例の監視下で慶応4年当時の「柳川の筆勢がすっかりキバを抜かれた」感じになったという(※9参照)。
ただ当初『中外新聞』を筆頭に、江戸の新聞がいずれも佐幕的にならざるを得なかったのはその地理的条件もさることながら発行責任者が会訳社開成所など幕府関係のブレーン的要職にあったことや海外事情に詳しいエリートであったこと、などのほかにこの内戦は薩長両藩による幕府打倒の戦いであると見て、開国策をとる幕府を心情的に支持したものだったとも云われている(※10参照)。
江戸時代末期、日本に定期性を持った新聞が誕生して以降、何か大きなニュースや事件が起った際に、それをいち早く報道するための手段として、その定期発行の枠を外して臨時に発行される「号外」というものが誕生した。号外は朝刊や夕刊発行までの時間差を埋めるための速報媒体として、また新たな読者を獲得するための手段として、様々な変化を遂げつつ発展してきた。日本の新聞史の中で、新聞が商業的に成功するために号外は必要不可欠な存在であったといっても過言ではないともいう。
そして、日本の新聞史上、最も号外で報じられたニュースは「戦争」であった。特にラジオが登場する以前は、遠く離れた戦場の様子を知ることができるのは新聞だけであり、とりわけその中でも号外は、刻一刻と変わる戦地の状況をいち早く知ることができることで人々に歓迎されてきた。
しかし、大衆に宣伝し、煽動し、組織するためには新聞を発行しなければ、といった新聞の機能については国民は、全然と言ってよいくらい無知なものが多かった・・・とも言えるだろう。
号外による競争が最も激しかったのが1904年~1905年(明治37年~明治38年)の日露戦争だろう。このときの『大阪朝日新聞』と『大阪毎日新聞』の号外合戦はすさまじいもので戦争中の両社の号外発行回数は『大阪朝日新聞』が389回、『大阪毎日新聞』が498回という記録が残っているという(※7参照)。
大衆に宣伝し、煽動し、組織するための報道は、そのマス媒体が、新聞からラジオ、テレビへと変わってきた現代でも意識的に行われているように思われる。
例えば「安倍政権集団的自衛権の行使容認に向けた姿勢を強めるなか、朝日新聞社は憲法に関する全国郵送世論調査を行い、有権者の意識を探ったところによると、集団的自衛権について「行使できない立場を維持する」が昨年の調査の56%から63%に増え、「行使できるようにする」の29%を大きく上回った」・・・と伝えられている(※11参照)が、一方、「政府が目指す集団的自衛権の行使に関して、「必要最小限の範囲で使えるようにすべきだ」とした“限定容認論”を支持する人は63%に上ることが、読売新聞社の全国世論調査で分かった。「全面的に使えるようにすべきだ」と答えた8%と合わせて計71%が行使を容認する考えを示した」・・・とも報じられている(※12参照)。
このように、同じような国民の世論の調査でさえ、マスコミの機関によって、全く違った意見が取り上げられ報道されているのである。この様に、当初より、政府側を後押ししようとする機関と、それに批判的な機関では、同じような世論調査でも、その機関の恣意的な質問書によって行えば、その機関の期待する意見が導き出され、それを国民の声として報道されることになるのである。つまり、マスコミがよく使う「世間の意見」など質問書の作成の仕方や、アンケートのやり方でどうにでもなるということである。この様なことは、新聞、雑誌、ラジオ、テレビなど、毎日接している報道の中で、それとなく如何にも真面目顔で報道されていることを、心しておかなければいけないだろうと私は思うのだが・・・。

(冒頭の画像は日本最初の号外と云われる慶應4年5月16日付『別段 中外新聞』)

参考:
※1:かわら版のはじまり - 東京大学総合研究博物館  
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1999news/02/0201.html
※2:柳河春三 - 日本新聞博物館 NEWSPARK(Adobe PDF)
http://newspark.jp/newspark/data/pdf_shinbunjin/b_30.pdf#search='%E6%9F%B3%E6%B2%B3%E6%98%A5%E4%B8%89'
※3:新聞と神奈川- 有隣堂
http://www.yurindo.co.jp/static/yurin/back/395_1.html
※4:上杉家の戊辰戦争
http://www7a.biglobe.ne.jp/~soutokufu/index.html
※5:早稲田大学-古典籍総合データベース-中外新聞
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/search.php?cndbn=%92%86%8AO%90V%95%B7
※6:会津の歴史
http://aizu.sub.jp/index.html
※7:戦争と号外(1) - 立命館大学(Adobe PDF)
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/ce/2012/km02.pdf#search='%E5%88%A5%E6%AE%B5%E4%B8%AD%E5%A4%96%E6%96%B0%E8%81%9E.+%E6%88%8A%E8%BE%B0%E4%BA%94%E6%9C%88%E5%8D%81%E5%85%AD%E6%97%A5'
※8:近代デジタルライブラリー - 新聞雑誌之創始者柳河春三
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/958097/2
※9:官許・官准」新聞の成立と機能 : 明治2年(1869)刊『中外新聞』を軸に
http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/18821/1/shomotsu0000900230.pdf
※10:近代新聞への胎動-中外新聞から内外新聞まで(Adobe PDF)
http://www.kwansei.ac.jp/s_sociology/kiyou/20/20-ch04.pdf#search='%E8%BF%91%E4%BB%A3%E6%96%B0%E8%81%9E%E3%81%B8%E3%81%AE%E8%83%8E%E5%8B%95%E4%B8%AD%E5%A4%96%E6%96%B0%E8%81%9E%E3%81%8B%E3%82%89%E5%86%85%E5%A4%96%E6%96%B0%E8%81%9E%E3%81%BE%E3%81%A7'
※11:集団的自衛権、行使容認反対63%に増 朝日新聞調査:朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com/articles/ASG3L72L6G3LUZPS007.html
※12:集団的自衛権、行使容認71%…読売世論調査 : 政治 : 読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/politics/20140512-OYT1T50017.html
新聞・雑誌の部屋
http://www.nagumosyoten.jp/image1top/bunya/(14)sinbun.2014.2.12.pdf
江湖新聞【PDF】
://newspark.jp/newspark/data/pdf_yokoso/a_008.pdf
近代デジタルライブラリー - 彰義隊戦史(著者: 山崎有信 隆文館出版)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773365/127

コクの日

2014-05-09 | 記念日
日本記念日協会に、登録されている5月9日の記念日に「コクの日」があった。同協会由緒書には以下のように記されている。
「コクとは複雑に折り重なった心地良い味わいのこと。コクのあるコーヒーとして知られるBlendyブランド(ここ参照)などを手がける味の素ゼネラルフーヅ株式会社が制定。コクのあるコーヒーが毎日のほっとひといきタイムを演出してくれることを知ってもらうのが目的。日付は5と9で「コク」と読む語呂合わせと、初夏の穏やかな日にBlendyでリラックスしてもらいたいとの願いから。」・・・と。

一杯の コーヒーから
夢の花咲く こともある
街のテラスの 夕暮れに
二人の胸の ともしびが
ちらりほらりと つきました

1939(昭和14)年3月コロムビアレコードから発売された流行歌『一杯のコーヒーから』。
我々のような戦前に生まれた年代の者には、コーヒーと云うとこの歌が出てくる。作詞は藤浦洸で、作曲は服部良一。歌は霧島昇ミス・コロムビア(本名・松原操=後に本名を芸名とする)。全歌詞はうたまっぷ.cpmを参照。また、歌は以下YouTubeで聞ける。

一杯のコーヒーから 霧島昇・ミスコロムビア - YouTube

この歌を作詞した藤浦洸は、酒の飲めないコーヒー党であったそうだが、一方の作曲をした服部は酒好きなビール党で、当初この曲のタイトルは「一杯のビールから」というタイトルであったが、お酒の飲めない藤浦が「一杯のコーヒーから」と直してしまったという裏話が残っているそうだ。曲調は、この時代には珍しくジャズ調のモダンな歌である。
歌を歌った霧島とミス・コロムビアはこの曲を歌った1939(昭和14)年に結婚している。まだコロムビアに入社したばかりの霧島が、前年に公開され大ヒットした川口松太郎原作の松竹映画『愛染かつら』(主演:田中絹代上原謙)の主題歌『旅の夜風』を当時既に大スターだった彼女と吹き込み、当時としては80万枚を超す驚異的なヒットを飛ばした。これにより、霧島とミス・コロムビアの名が全国的に広まるとともに、2人を結びつけるキッカケにもなった。

旅の夜風-霧島昇 ミス・コロムビア- YouTube


上掲の画像は、右:霧島昇と左:ミス・コロムビア(松原操)
コーヒーを題材にした音楽は多く、私たちの年代なら次に懐かしく思いだされるのが、『コーヒールンバ』(Moliendo Café, 作詞・作曲:Jose Manzo Perroni)だ。ベネズエラアルパ奏者ウーゴ・ブランコ(Hugo Blanco)が録音し世界的にヒットした曲である。
多くのカバー曲があるが、日本では1961(昭和36)年に西田佐知子(作詞:中沢清二)がルンバのリズムで歌ったものが大ヒットしたが、実際には曲のリズムはルンバではなく、オルキデア(Orquidea:ウーゴ・ブランコが生み出したリズム形式)である。
なんでも、「コーヒールンバ」のヒット当時、西田本人はコーヒーを飲む習慣がなく「(歌詞中の)モカ・マタリって何?」といった調子だったのが、結婚後は夫の影響で飲むようになった・・・、という。
モカコーヒーは、フルーティーな香りと強い酸味が特長で、比較的高価なイエメン産のものは「モカ・マタリ」(Mokha Mattari)と呼ばれ、日本では人気が高く、比較的高価なモカ・マタリはストレートで飲まれることが多い。
ウーゴ・ブランコの曲は以下で聞ける。西田の曲と聞き比べてみるのもいいね。

西田佐知子-コーヒー・ルンバ(1961) - Pideo
ウーゴ・ブランコの楽曲は「コーヒー・ルンバ」だけじゃない

コーヒーは歌曲の中で取り上げられることも多く、コーヒーそのものを題名に入れた曲も少なくないようだが、特によく知られているのが、おしゃべりはやめて、お静かに』(独:Schweigt stille, plaudert nicht、別名:コーヒー・カンタータ、BWV 211)のようだ。Wikipediaなどによれば、J. S. バッハにより1732年から1734年にかけて作曲された世俗カンタータであり、小喜歌劇でもある。バッハは歌劇を書いておらず、このカンタータも演奏会形式のために書かれたものであるが、今日では衣裳を着込んでの上演が多いようだ。
本作の初演は、ゲオルク・フィリップ・テレマンが1702年に設立したコレギウム・ムジクムによって、ライプツィヒの街にあったゴットフリート・ツィンマーマンの経営するコーヒーハウスで執り行われたという。
18世紀当時、本作の初演地のライプツィヒではコーヒー依存症が喫緊の社会問題となっており、本作はこれを題材としたものだそうだ。
作詞は、当時の人気詩人・ピカンダー(Picander。本名:クリスティアン・フリードリッヒ・ヘンリーツィ 1700-1764)によるもので、「日に3度のコーヒーを欠かせば、苦しさのあまり、干からびた山羊肉のように萎んでしまう」などといったような歌詞が書かれている。歌詞は、教会オルガニストの神学者川端 純四郎歌詞対訳カンタータ第211番(参考※1:「バッハ・平和・教会音楽」のA.バッハのページ)また、※2:「アンサンブル・バッハ」の楽曲解説:BWV21=Schweigt stille, plaudert nicht カンタータ211番などを参照されるとよい。

さて、日本記念日協会には、10月1日の記念日として「コーヒーの日」も登録されている。設定したのは、全日本コーヒー協会(※3)で、国際協定によって、コーヒーの新年度が始まるのが10月で、この日がコーヒーの年度始めとなることからだという。
記念日の「コーヒーの日」については、既にこのブログでも取り上げ、その時には、コーヒーについての一般的なことや世界のコーヒー需要、コーヒの生産地の現状、などについて書いたので、そのようなことについては前のブログ(ここ→「コーヒーの日」)を見てください。
コーヒーはアラビア語でコーヒーを意味するカフワ(qahwa) が転訛したもので、元々ワインを意味していたカフワの語が、ワインに似た覚醒作用のあるコーヒーに充てられたのがその語源だそうである。一説にはエチオピアにあったコーヒーの産地カッファ (Kaffa) がアラビア語に取り入れられたものとも云われているようだ。
この語がコーヒーの伝播に伴って、トルコ(トルコ語: kahve)、イタリア(イタリア語: caffè)を経由し、ヨーロッパ(フランス語: café、ドイツ語: Kaffee、英語: coffee)から世界各地に広まったという。
コーヒーの生豆には多糖を中心とする糖類、アミノ酸タンパク質脂質の他、コーヒーに含まれるポリフェノールであるクロロゲン酸アルカロイドであるカフェイン(豆重量の1%程度)やトリゴネリンジテルペンであるカフェストールカーウェオールなど、特徴的な成分が含まれている。
これらの成分は焙煎されることによって化学変化を起こし、その結果数百種類にのぼる成分が焙煎豆に含まれるようになるという(※3のコーヒーの成分も参照)。冒頭に掲載の画像は、焙煎したコーヒー豆。

朝の“目覚めの一杯”としても愛飲している人も多いコーヒーは、発見当初からコーヒーに含まれるカフェインの効果により眠気防止や疲労回復などの覚醒作用を持つことに注目され薬用植物として扱われてきた。
しかし、『コーヒー・カンタータ』の曲に見られるように、コーヒーにはカフェイン中毒があり、知らず知らずのうちに軽度の習慣性や依存症に陥りやすいと言われている。また一日に300mg以上(コーヒー3杯に相当)のカフェインを常用する人には、カフェイン禁断頭痛と呼ばれる一種の禁断症状が現れることもあるようだ。だから、コーヒーの飲みすぎには注意しなければいけないだろう。
※3「社団法人 全日本コーヒー協会」の「コーヒーと健康」の中では、毎日飲むコーヒーが、脂肪肝を抑制する」、「コーヒーで下がる、脳卒中のリスク。」「コーヒーを飲む人は糖尿病になりにくい」「コーヒーを飲めばシミは防げる!」・・・といった具合に、コーヒーに含まれる、カフェインによる脳の覚醒作用や利尿作用などの他、さまざまな効果(おいしい)が書かれている。
血糖を下げるインスリンが不足することにより持続的に高血糖がみられる慢性の病気である糖尿病は、1型と2型に分類されるが、生活習慣と遺伝的な素質が影響して発病し、糖尿病患者の多くを占めているのは、この「2型糖尿病」であるとされているが、近年、この2型糖尿病の予防に効果的としてコーヒーが注目を集めている。
そのため、私も、最近は、食前にブラックコーヒーを1杯飲むようにしているのだが、本当にその効果はあるのだろうか・・・?次のメタポ検診の結果を楽しみに待っているのだが・・。(※4、※5、※6等参照)。
いずれにしても、コーヒーなどというものは、本来が嗜好品であり、何がよくって何が悪いのかの効能などは、人ぞれぞれ、自分の体のことも考え、カフェイン摂取のメリット・デメリットを知ったうえで、ティータイムを楽しむのが本筋だろう。
ところで、人にとっての「美味しさ」って、なんだろう。人はなぜ、美味しいと感じるのだろうか?
最近はテレビ番組などでも、タレントなどを使っての、うまいものの食べ歩き番組が流行っており、食べた人の多くが口にする味の表現は、ただ、目をむいて「うま!」とか「おいしい!」、「メッチャウマ」、人によっては「マイウー」などと感嘆詞の連発はしていても、それがどのようにおいしいのか、どんな味に感激したのかなどほとんど伝わってこない。食べ物の美味しさの表現を言葉にする難しさはわかるが、せめて何か表現できないのか・・・と毎回感じているところではある。
そんな場面での殺し文句としてよく使われるのが「コクがある」とか「キレがある」とかいった言葉だろう。「あの人はコクのある人だ」などと言われたりするように「コクがある」と言われれば、何となく、単なる美味しさよりも、もう少し深みのある味なのだろうと、また、反対に「あの人はキレる人だ」などともいわれるように、「キレ」と言えば刃物の鋭い切れ味を連想し、しつこさを残さないちょっと冴えた味なのだろ・・・と、納得した気になっているが、じゃ~その「コクって何なの?」と突っ込んで聞かれるとなかなか一言では説明が出来ず、なんとなく暗黙の了解で使われているといった感じだろう。
では、味とは何か?。甘味、酸味、塩味、苦味、辛味、渋味、刺激味、無味、脂身味、アルカリ味、金属味・・・など、様々な形容でそれは示される.が、食べ物の味については昔からケンケンガクガク議論が戦わされてきた歴史がある。
前漢代に編纂されたもので、現存するものでは中国最古の医学書と呼ばれている『黄帝内経』では、陰陽五行説にのっとって記述されており、この書のなかで、味は鹹味(かんみ=塩味)、甘味、酸味、苦味、辛味の五味 からなることが記されている(参考※7、※8参照)。
又、西洋では、ギリシャのアリストテレス(紀元前4世紀)が味を7つに分類した。塩味、甘味、酸味、苦味、厳しさ、鋭さ、荒さである。この最初の4つの味は生き残り、ドイツの心理学者ヘニング(Hans Henning)は、1916年に、塩味、甘味、酸味、苦味の4つの味とその複合ですべての味覚を説明する4基本味説を提唱した。つまり、彼は、すべての味は4基本味のブレンドなのだと考えたのであった。
この説に異議を唱えたのが1908年に旨味物質グルタミン酸モノナトリウム塩(クエン酸一ナトリウム)を発見した日本の化学者・池田菊苗であった。
西洋ではこのうま味が長らく認められなかったが、今では認められ、現在の生理学的定義では、狭義の味覚とは味覚受容体細胞にとって適刺激である甘味酸味塩味苦味旨味(umami)の5種(5基本味)が位置付けられている。
前述のアリストテレスの7つの味の最初の4つ以外の3つは、厳しさ、鋭さ、荒さとしているが、これを、辛味、収斂味(渋味に相当する味)、ざらざらした味と訳しているところも多く見かける(※9参照)。むしろ味の説明としては、こちらの方が判り易いように私は思う。また、荒さは粗さ(舌触り)のことではないか・・・とも考える。
辛い物好きの人などこのような基本味の話を聞いて、「どうして辛みが含まれていないの?・・と、不思議に思う人もいるだろう。
約5千年の歴史があると言われるインド医学の古典『アーユルヴェーダ』による味の種類は、甘、酸、鹹、辛、苦、渋の6種類に分けられている(※10参照)ように、東南アジアなど、辛みに対して長い食の歴史を持つ地域では、「辛み」は、主要な「味覚」の一つである。
多くの脊椎動物とヒトにおいて、味覚の感知には「」が最も重要な役割を担っている。
舌上面(舌背)の表面には、舌乳頭と呼ばれるざらざらした小さな突起が多数存在し、実際に味を感知する器官である味蕾(みらい)は、この舌乳頭の部分に集まっている。


上掲の画像は、舌や軟口蓋にある食べ物の味を感じる小さな器官「味蕾」

実はこの「辛み」というのは、生理学的には味蕾で感じ取る他の味の要素とは異なり、舌や口腔に存在するバニロイド受容体(カプサイシン受容体)という味蕾とは別の受容体で感じる痛覚(痛みの感覚。疼痛参照)に由来する5味とはまた別のカテゴリーにあるものなのである。
また、その食べ物の温度によっても辛さの感じ方は違い、熱ければ辛味を強く、冷めていれば弱く感じる。このように、私たちが総合的に感じている「味」というものは、必ずしも味蕾が感じ取っている基本味だけで説明できるものではなく、例えば、歯応えや舌触り、また、においなどもおいしさを形成する重要な要素であることは、皆様もご存知の通りである。そして、味を最終的に判断しているのが脳である以上、その人の体調や心理的要因(・見た目の印象,・食べる場所,・食べ物を盛りつける食器類、その食べ物に関する情報[誰が作ったか、どんな材料が使われているか,価格など])。と言った具合で、味覚というのは、それを引き起こす食べ物の成分とは必ずしも1:1で対応しない、曖昧で主観的な要素を含んだものである。この辺の詳しいことについては、日本うま味調味料協会のサイト(※11)の「旨みってなんだろう?」などに詳しく書かれているので、参考にされるとよいだろう。

最初は不快感を感じても、何回か口にするにしたがって「おいしさ」を感じ、クセになる「味わい」とも言うものがある。コーヒー、ビール、ウイスキー、チーズ、納豆、コーラ、からし、燻製・・・ などなど数え上げればきりがない。このような 「苦味」「酸味」「辛み」「臭み」という成分を持った食品の味覚を「アクワイアード テイスト」(英語: Acquired Taste =後天的味覚)と言うそうだ(※12参照)。
動物は本来生まれながらにして自ら食べ物を選択し、獲得する能力を備えていると言われている。
例えば、大腸菌などを含む生物群である真正細菌、つまりバクテリア(Bacteria)と呼ばれる単細胞生物は苦い物質から逃げ、甘い物質に近寄っていくという。
苦い物質は一般にそれが毒だからであり、甘い物質は分などの取り込み可能なエネルギー(生理的熱量)源だからだそうである。
高等動物であるヒトにも先天的に好きな味がある。子供の頃、文句なしに「うまい!」と感じるのは、「甘み」と「塩み」だと」いう。「甘み」は、ネルギー源」だ。エネルギーがなければ人間だって生きて往くのに必要だし、また、「塩み」も同様に生命維持に不可欠だからだ。
だが、苦味と酸味は先天的にその味を楽しむことが出来ない。理由は、苦味が意味するのは毒であり、酸味が意味するのは腐敗で、これらを拒絶するように身体が反応することによる。
しかし、ヒトの場合はその上に、より強い身体を得ようとエネルギーとして効率のいいものを求め、色々なものを「食べること」を覚えていった。つまり、学習によって、味覚が少しづつ発達してきたと考えられている。
赤ちゃんも苦いものを避けていたが成長にしたがって好むようになる。味覚が後天的な学習によって形成されるということは、離乳期の頃から親に何をたべさせられてきたかによって形成されるともいえる。食べ物の種類が多ければ、子供は多くの味覚の体験が出来、食体験が乏しければ味覚は貧しくなり、食べ物に対する適応性も低くなる(※13参照)。大人になっても好き嫌いの多い人は、生まれたときからの食に対する学習経験が少ないからだという。
そうして、大人になると本来嫌いだった、コーヒーなどの苦いものも好きになる。しかも、コーヒー依存症になるほど一日に何杯も飲まないとすまない人さえ出てくるのだから不思議なものだ。
それでは5基本味以外の「コク」とはどんなものか?なかなか説明するのが難しい。これについては、以下参考の※13:「農林水産省」HPの“食文化” >我が国の食文化 > 日本人の味覚と嗜好 “IV 日本の食の特徴:たべものの「こく」”のところで以下のように書かれている。

「コク」という言葉は日本では非常によく使われる。「コク」は日本の食嗜好を理解するための最も重要なキーワードの1つである。特定の成分や物質ではなくて複合的な味わいである。食べ物の味わいに「厚みがある」「ボディ感がある」「濃厚である」などがやや近い表現である。「コクのある」という形容詞は、熟成、豊富な経験、豊潤、円熟などからもたらされる複雑な深みと浅薄でない魅力のようなものをイメージして使われる。「コクがある」というのは料理を褒める言葉である。曖昧ではあるが、おおよそのニュアンスを国民が共有している。
一般的にコクがあるという場合、多くの成分が複雑に絡み合って、味わいの厚みをもたらしている場合を指すことが多い。単独の味が強く感じられてしまうとコクでは無くなる。酸味を加えると食べ物はさっぱりすると言うが、酸味の突出でコクが消えるとも言える。
コクがあると認められている食材や料理はいくらでもある。フォアグラ、あんこうの肝等の内臓、生クリーム、チーズ、バターなどの乳製品、生ウニ、キャビアやからすみ、イクラなどの魚卵。味噌や醤油、カレー粉、マヨネーズなどの調味料、霜降り牛肉、鮪のトロなどの動物脂、日本で流行しているラーメンの複合的なダシや背脂(豚の背の部位の脂。ラード参照)など無数にある。
コクの特徴に、時間的および空間的な拡がりがある。空間的な拡がりは、口のなかの多くの部位や神経経路で味わいが感じられていることで説明できる。食品を口にしたときに、舌の先ですぐに感じられる甘味や塩味は鼓索神経(顔面神経が3番目の分枝する神経(1番目、大錐体神経、2番目、アブミ骨筋神経。※15参照)を介した味覚、舌の奥やその両側で感じるうま味や油脂のおいしさは舌咽神経で伝えられる味である。舌触りには舌だけでなく歯茎なども動員される。味わいの感覚や部位が総動員されることが、コクにとって重要のようである。
コクには時間的な拡がりも大切である。口を近づけるだけで香る匂いから始まり、舌の前半部分で瞬時に立つシャープな味わいと、一呼吸おいてから舌の奥で感じられる味わい。さらには口のなかに留めている間にじわりと顔を出す味わい。飲み込んでからも続く余韻のような心地よい味わい。時間をかけて得られる味わいが十分に納得させられると、コクがあると強く感じる。
日本人の使うコクという言葉には様々な対象やニュアンスがあるが、整理すると三層の構造をしていると考えている。中心部はエネルギーに富む油脂や砂糖の甘味。栄養素そのものの味で、動物ならば誰でもうまいと感じる。実際に、食品開発の立場から見ると、砂糖と油脂は食品にコクを与える切り札である。したがって、コクの本義は生きてゆく上で生理的に大事な栄養の味わいであると言える。動物はこれらにやみつきになる。いわゆる報酬系を刺激する物質である。
その外側に第2層のコクとして、粘度、魅力的な香り、重厚感、うま味、濃厚な色調などが、栄養素のリッチな分厚い感じを想起させるコクとして存在する。それ自体は「中心のコク」のように強いコクではないが、人間の食体験によってコクを強める作用がある。いわば、学習によって濃厚さを連想する仮想的なコクである。
最も外側の第3層には、実体を離れた比喩的なコクが位置する。コクのある演技とかコクのある表情とか、コクのある生き方などである。感性に依存する抽象の世界であり、極度に洗練された吸い物の風味のコクなどは第2層と第3層にまたがるのかも知れない。
ラーメンやカレーや焼き肉などは中心部のコクを有する。誰にでもわかりやすい濃厚さである。一方、日本の伝統的な料理のコクは香りや食感、色合いなどが関わる第2層に集中している。第2層や第3層のコクは外側に行くほど実体が薄れる。極限まで削ぎ落として無駄なものがなくなったなかに残る豊かな味わいを高い品位として日本の料理は重視してきた。誰にでもわかるような濃厚なコクを高く評価してこなかった点は欧米の料理と大きく異なる。日本の料理が「引き算の味わい」であるという言葉はここから生まれる。・・・・と。

日本の料理の味わいとして最も重要なのは出汁(ダシ)であり、このダシは、昆布と鰹節を使うことによって、うま味を相乗的に強化したものである。そして、ダシは吸い物のベースとしてだけでなく、煮ものなど様々な日本の料理の下地として使われている。日本料理のコクの本体は油分と糖分とダシ成分であるということのようだ。そして、コクというのは、単一の成分ではなく、多くの成分が複雑に混ざり合ったものであり、いわばコク本体そのもので、ここではそれを「コアーのコク」とし、その正体は油、糖、ダシの3つの成分とのこと。第2層は、食感や香りなど、コアーのコクのおいしさを倍増させる役目をするものであり、第3層には、さらに抽象的で文化的な要素が存在しているとしているのである。つまり、コクとは「味の総和」であり、これらの組み合わせがやみつきになる味になるということのようだ。
しかし、一口に「コク」「キレ」と表現している内容も決して一様ではない。「ダシのコク」「味噌のコク」「ビールのコク」「コーヒーのコク」、あるいは「ビールのキレ」「日本酒のキレ」「コーヒーのキレ」などは、おそらくそれぞれ別々の要因から成り立つ、別々の「味わい」だと考えた方がよく、すべてを統合して考えるのには無理があるだろう。
ただ、コクとは「味の総和」のことだから、ひとつひとつの味は濃くなくても、これらがうまく合わされば、結果的には濃い味になり、コクがあることになるが、逆に、味が濃くても何かひとつの味だけが強く、その他の味がしないような場合は、コクがあるとはいえない。一方のキレは「後味がどれだけ早く消えているかで測る味」のことを指すようだ。この言葉は、もともとは、日本酒の醸造技術者が使っていた表現で、後味がスッと消えればキレがあり、長く残るようであればキレが悪いということになる・・・・。
よく判らないが、こういうことで、納得しておこう。

参考:
※1:バッハ・平和・教会音楽
http://www.jade.dti.ne.jp/~jak2000/index.html#総目次
※2:アンサンブル・バッハ
http://www.ebach.gr.jp/index.html
※3:社団法人 全日本コーヒー協会
http://coffee.ajca.or.jp/
※4:コーヒーの飲みすぎは危険?カフェイン依存症|ヘルスケア情報|eo健康
http://eonet.jp/health/healthcare/health59.html
※5:コーヒーの飲みすぎは、カフェイン中毒? [依存症] All About
http://allabout.co.jp/gm/gc/302152/
※6:[79]循環器病と気になる嗜好品 - 国立循環器病センター
http://www.ncvc.go.jp/cvdinfo/pamphlet/general/pamph79.html
※7:おいしさの科学 1) 五つの基本味 -- 都甲 潔
http://www.natureinterface.com/j/ni08/P080_081/
※8:食治と営養学
http://www.kanpow.net/index.php?data=./data/cl1/
※9:苦味から味覚を考える
http://www.bitby-bit.com/~gohyah/bariki/bariki1-03.html
※10:アーユルヴェーダの六つの味
http://www.ayurvedalife.jp/column_201303_003.aspx
※11:日本うま味調味料協会
https://www.umamikyo.gr.jp/
※12:そのウィスキーをもう一杯: なぜウィスキーは最初から美味いと思えないか? 前編 (via petapeta)
http://onemore-glass-of-whisky.blogspot.jp/2013/02/blog-post_11.html
※13:子どもの味覚【前編】食べ物の好き嫌いはどうして起こるのか ...
http://benesse.jp/blog/20121213/p2.html
※14:農林水産省: 食文化
http://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/index.html
※15:顔面神経[Ⅶ]
http://www.anatomy.med.keio.ac.jp/funatoka/anatomy/cranial/cn7.html
『うま味とコク』
http://www7b.biglobe.ne.jp/%257erakusyotei/sawakai50.html
AGF:コーヒー大事典
http://www.agf.co.jp/enjoy/cyclopedia/index.html
「コーヒーの日」-今日のことあれこれと・・・
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/0787254be10974f1a4c0cd54fe36a6a0
コーヒー - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%92%E3%83%BC


八十八夜は「新茶の日」

2014-05-02 | 記念日
日本記念日協会(※1)に登録されている5月2日の記念日に「新茶の日」がある。
登録しているのは、静岡県掛川市にあるお茶を扱う山啓製茶の山啓会が制定したものらしい。
立春から数えて八十八日目の日となる雑節の「八十八夜」。
この日に摘んだ新茶は上等なものとされ、この日に新茶を飲むと長生きすると伝えられていることから、新茶の試飲や販促活動を行うのが目的とか。

1.夏も近づく八十八夜
野にも山にも若葉が茂る
「あれに見えるは茶摘みぢやないか
あかねだすきに菅(すげ)の笠」
2.日和(ひより)つづきの今日このごろを
心のどかに摘みつつ歌ふ
「摘めよ摘め摘め摘まねばならぬ
摘まにゃ日本(にほん)の茶にならぬ」

文部省唱歌『茶摘み』。
1912(明治45)年に刊行された『尋常小学唱歌 第三学年用』が初出らしい。2007(平成19)年に「日本の歌百選」に選ばれている。
また、小児が2人組で向かい合って行う、「せっせっせーのよいよいよい」で始まる手遊び歌としてもしばしば用いられる。この手遊びでの繰り返しの動作は、茶葉を摘む手つきを真似たものとも言われる。
1・2番とも、第3・4節は京都府綴喜郡宇治田原村(現:宇治田原町)に伝わる茶摘み歌「向こうに見えるは茶摘みじゃないか。あかねだすきに菅の笠」、「お茶を摘め摘め摘まねばならぬ。摘まにゃ田原の茶にならぬ」から取られたのではないかという説があるそうだ。
しかし、その根拠となっているのは『日本の唱歌(上)』(明治篇講談社 1977年金田一春彦編)らしいが、この本も、実際に宇治田原を取材したりした結果 に基づくものではなく、人の話の聞き書きであり、宇治田原起源説を後押しするような有力な証拠(「事実」)の裏付けがあるわけではないという。同じような茶摘み歌は京都府内に限らず各地に伝承されている。
そして、宇治田原町の隣り、京都府内産「宇治茶」の最大の生産量を誇る町、相楽郡和束町や、同じく隣りの滋賀県大津市田上(高砂町)、宇治田原ではなく、奈良県奈良市の田原地区、そして、宇治茶の本場とされている宇治市に残る民謡などに、この唱歌の引用によく似た表現が見られるという(各地に伝わる歌の内容などは※3「宇治田原ふるさと歴史クラブ」の茶摘み歌の考察参照)。
上掲の宇治田原町「お茶を摘め摘め摘まねばならぬ。摘まにゃ田原の茶にならぬ」は、京都宇治田原村ではなく、奈良田原の茶摘み歌(奈良県)の伝承歌に出てくるものであり、宇治田原にも伝承の残る「田原天皇(施基皇子)」の陵墓があったり、お茶の産地であったりと共通点がある。又、「和束の茶摘み歌」では、「摘まにゃ田原の茶にならぬ」ではなく、「摘まにゃ和束の 茶にならぬ」になっている。
そして、宇治市の茶摘み歌では文部省唱歌に見られる「 あれに見えるは茶摘みぢゃないか 茜襷に菅の笠」が見られる。大津市田上の歌の「 お茶をつめつめ つまねばならぬ つまにゃ日本の茶にならぬ 」とあわせてこれらが唱歌に採用されたのではないかという。
昔は各地を渡り歩き農作業などを手伝う人々がいて、茶摘みの時期が早い地区から遅い地区へと渡り歩いていた。そういう人たちが作業時に歌っていた歌がその土地に合わせた歌詞にアレンジされて歌われていたと思われる。そうした人から人に伝承されていた茶摘み歌を基に文部省唱歌が作られたのだということだろう。

さて、茶摘み歌には「茜襷に菅の笠」とあるように、茜(あかね)色の襷(たすき)を懸けて、 菅(すげ)の笠(かさ)を被って作業することを歌っているのだが、よく民謡踊りでも見かける赤い色の襷は、単なるファッションではなく、アカネ(茜)は、止血剤として知られているそうだ(※4参照)。茶摘みは素手の作業なので、指先にケガを負いやすい。そのため、ケガに効く茜の成分を擦り込みながら作業を続けるといううのだが・・・。
このような知恵が広まり、民謡踊りの衣装として定着してしまったのかどうかは知らないが、茜の襷は静岡の『ちゃっきり節』を踊るときにも見られる。
北原白秋:作詞、町田嘉章:作曲『ちゃっきり節』は、現在では静岡県民謡と見なされているが、新民謡のひとつで静岡市の花柳界のお座敷唄であり、1927(昭和2)年に、静岡市近郊に開園した狐ヶ崎遊園地(後の狐ヶ崎ヤングランド 1993年閉園)のコマーシャルソングとして、静岡電気鉄道(現・静岡鉄道)によって制作されたものである。
大正時代から昭和時代初期にかけては、地域おこしや観光宣伝のため、旧来からの民謡を広く紹介し、あるいはPRソングとして民謡風の新曲を作るなどの動きが日本の各地で見られた。ちゃっきり節もその一つとして作成されたものである。
作詞依頼を受けた白秋は、当初、「私は民謡をつくったことがないから」と断っていたらしいが、当時の、静岡電気鉄道の遊園部長より、「園内には料亭兼旅館(翠紅苑[すいこうえん])があり、名産のお茶やミカンの買い付けのため、全国各地から訪れる人々にも広く利用されるよう願っていること、したがって、その利用客や入園者にも愛唱されるサービス用の唄が、どうしても必要なこと、その唄を通じて特産品が認識され、輸出産業として発展すれば国策にもかなうこと」などじっくりと熱意をこめて説明した結果引き受けてもらったという(※5参照)。なんとこの歌30番まである長い歌だ。その全歌詞は※5「静鉄グループHP」のちゃっきりぶし全歌詞を参照されるとよい。
この『ちゃっきり節』。北原白秋作詞によるものにもかかわらず作成当時は、座敷を中心に、花柳徳太郎振り付けによる踊りと合わせて歌われている程度で、それほど広く歌われはしなかったようだ。それは他の民謡とちがって『ちやっきり節』が手拍子では歌いづらく、三味線で聞く調子の唄だったせいかもしれないという。それが全国的に大流行するようになったきっかけは、戦後、芸者歌手市丸がレコードに吹き込んで以来のことという。私たち年代には懐かしいきれいな声だ。以下で聞ける。

ちゃっきり節(市丸) - YouTube

ただ、この『ちやっきり節』、先にも述べたように、その起源は、静岡ではなく、京都の宇治茶の産地周辺である。
『ちゃっきり節』は「茶切節」ないし「茶切ぶし」「などと表記されることもあるが、「ちゃっきり、ちゃっきり、ちゃっきりよ」、という軽快な囃子ことばからの命名であり、この「ちゃっきり」とは静岡の言葉で、茶を刈る鋏(はさみ)の音に因んだものだそうだ。
この歌は絣(かすり)の着物に赤いたすきの茶摘み娘が踊るように振り付けられているから、伝統的な茶摘み風景を歌ったものと思われがちだが、その所作をよくみると、お茶を摘む手つきではなく、両手を前にだして大きな鋏(はさみ)を使う様子を表していることに気がつく。以下参照。

金谷茶まつり総踊り20120415「ちゃっきり節」1 - YouTube

白秋は静岡周辺の方言や伝説を参考にして作詞したようだが、まさにその頃、静岡の茶畑では、従来の手摘みにかわって、効率のよい鋏の使用が増えていた。白秋の故郷の九州ではあまり見ることのなかった茶鋏に興味を抱いた白秋が、早速にその様子を織り込んだものと思われるという(※6:「お茶百科事典」:「ちゃっきりぶし」は時代の子参照)。茶鋏の刃先には切り取った茶葉が収まるように布袋が取り付けられている。茶鋏での茶刈りの光景を以下で見られる。

茶鋏1 - YouTube

それでは以下の絵葉書を見てみよう。
静岡 日本茶 茶摘み娘 - 鵜の目・鷹の目・絵葉書の目

同絵葉書説明文にもあるように、時代はわからないが、雄大な富士山をバックに広々とした茶畑ということで静岡の茶畑の様であるが、合成写真のようにも見える。そして、この絵葉書は手彩色を施したものであるが、娘たちのつけている襷(たすき)には赤く色が付けられている。正に、風景としては『ちゃっきり節』の情景なのだが・・・。
この娘達は出稼ぎの”茶摘み”かもしれないが、下部のタイトル(NATIVE GIRLS PICKING TEA LEAVES)にもあるように、娘たちは茶葉を鋏を使わず手で摘んでいる。この絵葉書が『ちゃっきり節』のできたと同年代であれば鋏で刈っていたはずだが、それ以前のものであれば手で摘んでいてもおかしくない。
当時、日本茶もシルク同様に立派な輸出品だった様であるし、右上に ”JAPAN TEA” とあり、下部のタイトルも英語で書かれており外人向けの絵葉書であると思われる。当時、静岡茶は輸出策を取っていたという話を私は聞いた記憶がある。何となく演出された感のある絵葉書ではある。

『日本三大茶』と云われるのは、静岡茶と宇治茶狭山茶のことであるが、狭山茶は生産量が少なく、省かれる事もあり、宇治茶が、静岡茶と共に『日本二大茶』とも言われている。
宇治茶は、宇治市を中心とする京都府南部地域で生産される日本茶の高級ブランドをいう。
一般的に「宇治のお茶」とイメージされているが宇治市の茶園面積は80ha未満であり、「自治体内に100haの茶園面積を有すること」が条件となっている「全国茶サミット」には特例でメンバーとなっている。現在の京都府内における「宇治茶」の生産について、以下参考の※7:「茶業統計/京都府ホームページ」の平成25年度京都府茶業統計を見れば、昨・平成25年の京都府内の茶園面積は 1,624,2ha、在来種茶157,7ha、優良品種茶園率90,3%。平均経営面積148,8 aであり、茶園面積を地域別に見れば以下の通りとなっている。
1位、相楽郡和束町在来種茶21,4ha、優良品種551,8ha、計573,2ha
2位、相楽郡南山城村在来種茶28,0 ha, 優良品種258,4 ha計286,4ha
3位、綴喜郡宇治田原町在来種32ha,優良品種197,6ha計229,6ha
4位、木津川市在来種茶25,1ha、優良品種133,3ha計137,5ha
5位、宇治市 在来種17,3ha、優良品種58,4ha計75,7ha
このように現在、京都府内における「宇治茶」の主産地は、相楽郡和束町・相楽郡南山城村、綴喜郡宇治田原町などの周辺地域であり、宇治市の生産量は5位と、意外に少ないことが分かるだろう。

わが国のお茶は、遣唐使が往来していた奈良・平安時代に、留学僧が、唐よりお茶の種子を持ち帰ったのが始まりとされているが、平安初期(815年)の『日本後記』には、「嵯峨天皇に大僧都永忠が近江の梵釈寺において茶を煎じて奉った」と記述されているのが、わが国における日本茶の喫茶に関する最初の記述といわれている(※8 :「お茶街道」・ お茶の書物と記録2 参照)。しかし、このころのお茶は非常に貴重で、僧侶や貴族階級などのごく限られた人々だけが口にすることができたものであった。
このお茶の栽培は鎌倉初期に栄西(えいさい)禅師が宋(南宋)から帰国する際、茶を持ち帰り、その種子を佐賀県脊振山に植えたのが始まりだといわれている。
その後、京都の明恵(みょうえ)上人が栄西より種子を譲り受け、京都栂尾(とがのお)に蒔き、宇治茶の基礎をつくるとともに、全国に広めたとされている。
南北朝時代の成立になるとされる『異制庭訓往来』(虎関師錬著とされる)には以下のように書かれている。
「我が朝の名山は梶尾を以て第一となすなり。仁和寺・醍醐・宇治・葉室・般若寺・神尾寺は是れ補佐たり。此の他、大和室尾・伊賀八鳥・伊勢河居・駿河清見・武蔵河越の茶、皆是れ天下指言するところなり。仁和寺及び大和・伊賀の名所を処々の国に比するは、瑪瑙(メノウ)を以て瓦礫(がれき)に比するが如し・・・。」(※8:「お茶街道」お茶の歴史年表参照)とある。
また、「分類草人木」(利休時代の茶書)に宇治七名園の存在が記されており、宇治七園までの流れと当代の茶風を説き、茶道具の名が出てくることから、 この当時、既に、今日で言う抹茶を用いた喫茶法が行われていたことが判るという。
栄西は『喫茶養生記 』の中で茶の種類や抹茶の製法、身体を壮健にする喫茶の効用などを説いているが、その栄西が宋で身近に体験した抹茶法は、お茶の葉を蒸して乾燥させるという単純なものであり、これが日本国内に普及し、のちに茶の湯(茶道)となったことは、以前このブログ「お茶漬けの日」でも書いた。
栄西禅師が宋から持ち帰った茶の実を明恵につたえ、山内で植え育てたところ、修行の妨げとなる眠りを覚ます効果があるので衆僧にすすめたという。その最古の茶園は清滝川(京都府北区・右京区を流れる淀川水系桂川支流の一級河川)の対岸、深瀬(ふかいぜ)三本木にあった。
中世以来、京都栂尾の茶を本茶、それ以外を非茶と呼ぶそうだ。「日本最古之茶園」碑が立つ現在の茶園は、もと高山寺の中心的僧房・神護寺の別院とされる、神護寺十無尽院(じゅうむじんいん)があった場所と考えられている。現在も、5月中旬に茶摘みが行われるようだ(※9参照)。

1690(元禄3)年、オランダ商館付きの医師であるエンゲルベルト・ケンペルは、約2年間出島に滞在中、将軍徳川綱吉に謁見するため長崎と江戸を往還している。その行程の詳細については『江戸参府旅行記』(※10)に記されているが、元禄4年(1691)2月28日の条にはこの日夜明けより大阪方面から京に向かい宇治に入り、「宇治の村は開放的の小さき市にして、日本にて最佳茶を産ずるによりて名高し。(△□茶の風味世の常ならず美にして、且多量に製出するを以て)毎年将軍の宮廷に献上す。」(※10のコマ番号193参照)とあるように、この記述からも、宇治茶が将軍家に献上される高級茶の産地として広く知られていたことがわかる。おそらくはオランダ人たちに随行した役人らがわざわざこのように紹介したのだろう。宇治=茶どころのイメージは江戸時代中頃にはすでに定着していたのである。
それから100年ほど後、1780(安永9)年に出版された京都に関する地誌『都名所図会』(全6巻11冊。※11参照)は(秋里籬島)による文章と竹原春朝斎による挿画によって宇治の名所を紹介している。


先ず上掲の画像を、見てください。『都名所図会』の巻之五 「前朱雀再刻」 宇治の里 (宇治里)の図である(※11の49頁で原寸大の図が見られる)。
将軍家に献上されるような良質の茶を育てるために、上掲画像に見られるように宇治の茶園の多くは、茶摘み前に茶園を日覆いを掛けてすっぽりと隠す、覆下(おいした)と呼ばれる栽培が行われ、他の茶産地と違う茶園風景を作り出している。
この独特で手間のかかる栽培方法を継承し、宇治茶は安土桃山時代から天下にその名声をはせてきたのであった。
宇治茶の覆下栽培は、新芽が育つ4月頃に茶園に覆いを施して日光を遮ることで、茶葉の渋み成分であるタンニン生成を抑え旨味成分テアニン生成を促進させる方法で、宇治茶伝統の碾茶抹茶の原料)や玉露などの高級茶に製茶される。これに対して、露天園は主に煎茶用の茶葉を栽培することとなる。
覆下は、本来丸太杭と竹で棚を作り、その上に葦簀(よしず)を広げて藁(わら)を敷くものであり、「本簀(ほんず)」と呼ばれる。現在は効率化の中で、化学繊維製の黒い寒冷紗の覆いが普及したが、伝統的な本簀も全体の1割ほどで継承されているという。
覆下栽培の初期の様子を知る史料に、安土桃山時代のイエズス会宣教師ジョアン・ロドリゲスが書き残した『日本協会史』があり、この中に、宇治では茶園に「棚をつくり、葦か藁(わら)かの蓆(むしろ)で全部をかこう」とういう記述があり、これが、現在の覆下栽培の史料所見となっているようだ。
ロドリゲスは、覆下の目的は、繊細な新芽を 霜害から防ぐためと記しているようだが、確かに遅霜は茶葉の大敵であり、覆いによる霜害対策は説得力があるが、現在状況を踏まえるとこの覆いによる味の変化を経験的に知ることにより宇治では品質向上を主目的として覆下栽培が改良されつつ継承されてきたと考えられているようだ。宇治の茶摘み見物は、宇治を代表する初夏の風物詩として知られており、今なおこの季節になると、多くの「茶摘みさん」が覆下園に集まり、朝早くから日暮れるまで覆下の中で茶摘みに勤しむ姿がうかがえるという(※12参照)。特徴的なのは、茶ノ木が丸く刈り上げられず1本1本立っていることだ。
尚、余談だが、『都名所図会』の巻之五 「前朱雀再刻」 宇治の里 (宇治里)の図には以下の芭蕉の句が書かれている。

「木がくれて茶摘(ちゃつみ)も聞(きく)や子規(ほとゝぎす )」
句意としては、「いま一声鳴いて渡っていったホトトギスの声を、茶畑の茶ノ木に隠れて見え隠れする茶摘女達も聴いたであろうか。 」と言ったところらしい(※14)。
本来茶摘みと時鳥(ホトトギス.)は季重なりなのだが、夏の季語(初夏五月)の「時鳥」と春の季語(四月上旬)の「茶摘み」を芭蕉は「木がくれて」で「季と季との時候の取り合わせ」としているのだそうだ。
宇治市の西側には、かつて宇治川、木津川、桂川が流れ込んでいた巨椋池があり、現在は干拓田としての広大な農地と自動車交通の要所となっている。
宇治の場合、茶摘みの風景のほかに、宇治川での鮎汲みの挿画(※11の宇治川の網代 59p参照)や、蛍狩りの挿画(※11の宇治川の蛍狩り55p参照)が収載されている。宇治は茶どころであるばかりでなく、当時の人びとを惹きつけるに足る遊興の地として認知されていたことがわかる。
こうした『都名所図会』にみられるような宇治のイメージは、幕末期の1861(文久元)年に出版された地誌『宇治川両岸一覧』(乾,坤 / 暁晴翁 著、松川半山 画)の最所の絵にもあらわれている。特に、宇治川に関して「当国(山城)第一の大河」としたうえで、「まことに当国南方の奇観なり」と紹介している。
以下の画像は『宇治川両岸一覧』の宇治の茶摘み風景。
ところで、先に紹介した『都名所図会』や『宇治川両岸一覧』の図に見られる宇治茶の茶摘み風景には、「白い襷」あるいは「白手ぬぐい」をしているが、1917(大正6)年5月.26日付の国民新聞には「山城宇治の茶摘は今が丁度盛りである、「君に別れて何時又逢うぞ明けて五月の茶摘時」、と鄙びた名物の茶摘歌は絣の着物に赤襷白手拭を姉様冠りの若い女の群から茶園の●●(字不明)を透して聞えて来る・・・」・・・とあるように、このころには、赤い襷をするようになっていたようだが、やはり、『ちゃっきり節』の影響があったのだろうか?。
また、この新聞には、このようなことが書かれている。
後陽成天皇(1571年-1617年の頃より宇治の献茶は恒例であった。
目下本邦以外宇治から茶の輸出される販路は支邦各地印度南洋方面より墨西哥まで及んで名声を馳せている、この多量の茶は彼の姉様冠りの若い女の手で一葉々々と摘まれ小さな焙炉(ばいろ)に蒸芽八百目宛をいれ大の男が一時間もかかって漸く出来上るのである、若葉の風薫る宇治郷の昨今は野も山も見渡す限り●●の藁屋根が架けられ、例の茶摘歌が聞え焙炉小屋からは「お茶よ揉め揉め」と焙炉師がどら声を挙げ新茶の香りが鼻を衝く 。
久世郡だけでも茶摘女が約一万人、焙炉師が千四百人その七割が土地の者で三割が河内大和丹波地方から輸入されてくる、それが例年定った雇主を需(もと。漢字の意味は※16参照)めて五月の始めから入込んで来る、賃銭は女の手職として賃金は上の部である、故に茶摘女はそれで陽気に歌いさざめいて宇治一帯の地を賑わしている。
製茶家は久世郡で約七百、茶商人は約九十戸ある、これが全国及び海外へ供給する、かくして名物宇治茶は世界の人々の前に黄金の色を出し、高き香りを発するのである、今や五月の光りは若葉の上に照り渡り、宇治郷一帯の地は一年の書入時として陽気にさざめいている、新緑の候この地に●を曳き茶摘歌を聞くも一興である」・・・と(●は不明字)。なかなかの名文である。

上掲の画像は、『日本山海名物図会』(平瀬補世著、蔀関月挿画。1799年刊5巻5冊。※17参照)第二巻に掲載されている焙炉の図である(拡大図は※17焙炉参照)。
茶摘みでは、摘んだ芽や葉を、蒸して、焙炉で熱を加えて乾燥する。乾燥する間に揉んで葉を巻く。刈茶は洗ってから大鍋で炒(い)る。洗った時の水気で葉もじくも茹でたように柔らかくなるが、柔らかくならぬじくは取り捨てる。上掲の図の右は、焙炉で乾かす作業で左上は石臼で挽いて抹茶にする作業をしているところである。
同図には、茶名物大概宇治茶摘茶製法などの図が説明入りで描かれている。

この頃の一般の人たちが飲んでいたのは煎じ茶(煎茶)であった。これは覆いのない茶園の若葉・古葉を残らず摘み取って、 灰汁 あく で湯がいて冷水で冷やし、よく絞って筵に干し、筵の上であらく揉んでつくった。今から見れば番茶のようなもの。しかし、 永谷宗円 は煎茶の製法に工夫を凝らし,抹茶の製法に則り、若芽だけを摘んで蒸籠で蒸し、焙炉で揉みながら乾かして、香味ともによい青色の煎茶の製造に成功した。
この宗円が発明した「青製煎茶製法」はその後の日本緑茶の主流となる製法となった。宗円は完成した茶を携えて江戸に赴き、茶商の山本嘉兵衛(現:山本山の先祖であり、現社長は9代目)に販売を託したところ、たちまち評判となり、以後「宇治の煎茶」は日本を代表する茶となった。
宗円の煎茶を販売し大きく利益を得た「山本山」では、明治8年(1875年)まで永谷家に毎年小判25両を贈ったという(Wikipedia)。
宗円は自身が発明した製茶法を近隣にも惜しみなく伝えたため、「永谷式煎茶」「宇治製煎茶」は全国に広がることとなった。また、宗円の子孫の一人が東京で「永谷園」を創業したのだという。
日本の文化の一つともいえる「日本茶」。
この日本茶も紅茶ウーロン茶も植物としては、すべて同じツバキ科の常緑樹チャノキ。違うのは茶を作るときの「発酵の違い」だけ。茶という植物、つむと同時に発酵を開始する特殊な酵素が含まれている。
ぼやっとしていると発酵が進み、十分に発酵させると紅茶に、発酵をとめると緑茶(日本茶)に、その中間でウーロン茶やジャスミン茶など半発酵茶となる。
日本茶の多くは、蒸すことで加熱処理をして酸化・発酵を止めたのち、揉んで(揉まないものもある)、乾燥させる製法をとる。この方法は日本独自で発展したものであり、世界的にみても製茶過程で"蒸し"という工程が行われている国は他に類を見ないという。一説によると、時代の古代中国において少数派であった製法を、たまたま日本が持ち帰ったものだといわれている。
渋み、苦み、旨みなどの独特な味わいをもつ緑茶には、人間の健康によい影響を与えるとされる成分が多く含まれており、実に多様な効果・効能があるという(※20のお茶(緑茶)の成分と効果・効能参照)。
私はお茶が大好きなので、若い頃、少しお点前を習っていたこともある。焼き物も好きなので、茶碗類も古いものや新しいものを少しはもっているのだが、最近は、自分で茶をたてることはなく、家人に入れてもらった物を飲むだけ。今、食事券などをくれる株主優待のある株を少しづつ買っているが、去年買った株に、静岡県を地盤に、神奈川・山梨・愛知で展開するイオングループの食品チェーンマックスバリュー東海がある。ここは、最低単位の株式数で5000円相当の「静岡県産銘茶セット」がもらえる。今月中には届くはずなので、それを楽しみに待っているところだ。これから、また、これを機会に、ちょっと、品質の良いお茶を飲むようにしようかな~・・・。

冒頭の画像は、茶摘5円切手(1949年発行)。当時(1948年~1950年50頃)の通常切手は戦後復興期の日本を支えた様々な産業、農婦・炭鉱夫・印刷女工 ・紡績女工・捕鯨・植林などを図案にした切手が発行された。これは収集家の間では“産業図案切手”と総称されている。他の切手図案などは※21を参照。この戦後発行の切手でも茶摘みの女性は白い襷に、白地の手ぬぐいの姉さんかぶりであることだ。

参考:
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:二十四節気および雑節 平成26年 (2014) - 国立天文台 天文情報センター
http://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/yoko/2014/rekiyou142.html
※3:宇治田原ふるさと歴史クラブ 
http://www.geocities.jp/uji_tawara/
※4:艾葉,茜根及び三七根の止血作用に就て - J-Stage
https://www.jstage.jst.go.jp/article/fpj1925/39/3/39_3_328/_pdf
※5:ちゃっきり節誕生秘話-静鉄グループHP
http://www.shizutetsu.co.jp/column/column_cya_story_01.html
※6:お茶百科事典
http://www.o-cha.net/japan/dictionary/japan/culture/culture10.html
※7:茶業統計/京都府ホームページ
http://www.pref.kyoto.jp/nosan/11700012.html
※8:「お茶街道」
http://www.ochakaido.com/index.htm
※9:日本最古の茶園 - 世界遺産 栂尾山 高山寺 公式ホームページ
http://www.kosanji.com/chaen.html
※10:『ケンプェル江戸参府紀行』 - 近代デジタルライブラリー
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1876448
※11:都名所図会データベース - 日本文化研究センター
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/c-pg1.html
※12:第2章(変更) - 宇治市(Adobe PDF)
http://www.city.uji.kyoto.jp/cmsfiles/contents/0000011/11321/2syou-1.pdf#search='%E9%83%BD%E5%90%8D%E6%89%80%E5%9B%B3%E4%BC%9A+%E5%AE%87%E6%B2%BB%E3%81%AE%E8%8C%B6%E6%91%98%E3%81%BF'
※13:『宇治川両岸一覧』
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru04/ru04_03762/index.html
※14:木隠れて茶摘みも聞くやほととぎす-芭蕉db
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/tyatumi.htm
※15:宇治の茶摘 - 神戸大学 電子図書館システム
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00717235&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1
※16:「もとめる(求、索、需、要…)」の漢字の違いを使い分ける
http://mmm-o.seesaa.net/article/225466323.html
※17:日本山海名物図会 - 九州大学デジタルアーカイブ
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/meibutu/
※18:文献資料に見る製茶
http://www.geocities.jp/uji_tawara/chabunka/bunken.html
※19:山本嘉兵衛撰 九代目商品 - 山本山
http://www.yamamotoyama.co.jp/products/kudaime.html
※20:お茶百科(伊藤園)
http://ocha.tv/varieties/
※21:郵便学者・内藤陽介のブログ 茶摘み
http://yosukenaito.blog40.fc2.com/blog-entry-339.html

宇治新茶・八十八夜茶摘みの集いが開催されます/京都府ホームページ
http://www.pref.kyoto.jp/yamashiro/ocha/news/ujicha-news2.html
茶 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%B6