今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

クリスマス・イブ

2011-12-24 | ひとりごと
クリスマスの日の前日、今日12月24日の夜は「クリスマス・イヴ」(英語: Christmas Eve)。単に「イヴ」とも呼ばれるこの日のことは、以前にこのブログでも書いた(ここ)。
私たち夫婦は、仏教徒なので、本気でクリスマスを祝うことはないが、それでも毎年イブには、クリスマスの真似事のように、鳥の手羽を焼いたものなど食べながら夫婦でワインをかたむけたりして楽しんでいる。
思い起こせば、私など飲兵衛は、若い頃、行きつけのバーなど数件のマダムや馴染みの女の子などから「必ず来てくれ」と誘われるので、同じ飲兵衛仲間と一緒に出かけて、バーでもらった赤いとんがり帽子などかぶせられて、夜通し、騒ぎながら、はしご酒で夜を明かしたものだ。
しかし、今の若者は、私たちの年代の者のようにバーなど飲み屋で馬鹿騒ぎ等せず、イブは彼女とホテルのバーなどで、しっとりとデートをしたりして、楽しく過ごしている人が多いのだろうと思いながらも、実際にはどのようにして、イブを過ごしているかちょっと気になり、今朝、ネットで検索してみたら、昨・2010年、2000人のインターネットユーザーに「クリスマスイブの夜は誰と過ごす?」とのアンケートを実施したところがあった(ここ→ガジェット通信)。
又、同じところが、今年・2011年11月にも、同じように500人を対照に調べた結果(ここ)もあるが、それを見ると、イブを半数近くの人が1人で過ごしており、恋人と過ごしている人は非常に少ないようだ。
統計など、どのような人を対象に調べるかで結果は違ってくるものだし、クリスチャンでもない日本人が、クリスマス・イブをどのように過ごすのも自由だが、思っていたよりは、少々寂しい現実・・・。今の世知辛い世相を見てしまったような感じもするのだが・・・。
今夜も夫婦二人での簡単なチキン料理とワインでの夕食の楽しみごと・・・イブ。
阪神・淡路大震災の発生を契機に鎮魂と追悼、街の復興を祈念して始められた神戸ルミナ­リエは、17年目の今年、3月の東日本大震災に遭遇された人達の鎮魂と追悼も同時に行なわれた。
その祭典も12日に終ると、町にはクリスマスソングが響き渡るが、東北には、それどころではない人たちも大勢いるが、幸いにも、今日も、普通に生活の出来るしあわせを感じると共に、一日も早い震災復興を、神様にも御願いしたいと思っている。
以下は、阪神・淡路大震災からの復興を願って作られた臼井 真さんのすばらしい曲、今私は、クリスマスソングの変わりに、この歌の神戸を被災地に変えてうたっています。
「しあわせ運べるように」ー YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=oIfMOPz8s98&feature=related

(画像はl神戸北野異人館街のサンタさん)

詩集『にんげんだもの』で知られる書家・詩人相田みつを の忌日

2011-12-17 | 人物
今日12月17日は書家・詩人、相田みつを(本名:相田 光男)の1991(平成3)年の忌日である。
相田 光男は、1924(大正13)年5月20日、栃木県足利市に生まれる。生家は、同市家富町にある名刹、鑁阿寺(ばんなじ。「足利氏宅跡(鑁阿寺)」として国の史跡に指定)の東に位置していたされている。
旧制栃木県立足利中学校在学中に書や短歌、絵に親しみ、同中学卒業後は歌人・山下陸奥に師事。1942(昭和17)年、歌会で生涯の師となる曹洞宗高福寺(鑁阿寺の西となりに位置するお寺)の武井哲応と出会い、在家しながらを学んだという(。※1参照)。
1943(昭和18)年、書家を志して岩沢渓石に師事、本格的に書の修行を積み、30歳のころ、独得の世界観を独特の書体で、短く平易な自らの言葉で表現する作風を確立。1954(昭和29)年第1回古典を足利市で開催。その後も足利市などで毎年開催されるようになった。
1974(昭和49)年、紀野一義のベストセラー『生きるのが下手な人へ』(※2)で紹介され、1984(昭和59)年、詩集『にんげんだもの』(文化出版局)を出版、のちにミリオンセラーとなる。つづく第2詩集『おかげさん』(1987年、ダイヤモンド社)の出版を機に、広く作品が知られるようになる。1991(平成3)年の今日(12月17日)67歳にて、永眠するが、最期まで仕事への意欲は衰えず、「一文字を書いた大作だけを集めた展覧会を開きたい」というのが、長男・一人との最期の会話であっという( Wikipedia-相田みつを)。今、「書の詩人」、「いのちの詩人」とも称されている。
東京・有楽町の東京国際フォーラム地下1階に相田みつを美術館(※3)がある。
今年、没後20年を迎えた相田みつを超有名人し、それまで相田の詩を読んだり、書を見たことのない人をも、本屋また美術館に駆けつけさせたのは、現民主党・党首そして、首相にも上り詰めた野田佳彦であった。
「ズル菅」と酷評され、まわりから止めろやめろと言われながらも首相の座に居座り続けていた菅直人が退任決意後の今年(2011年)8月29日の民主党代表選での勝因の一つが、同代表選投票前の演説だった。
「どじょうはどじょうの持ち味がある。金魚の真似をしても出来ません。」と自らを「どじょう」に例えたくだりは、相田みつをの作品を下敷きにしたものであった。
原典は、先にもあげた相田の第2詩集『おかげさん』に収録されている「どじょうがさ 金魚のまねすることねんだよなあ」という作品。この詩で、自らをどじょうのような泥臭い人間に例え華やかな金魚と対比させたことで、一歩一歩良い国にしてゆくという今の日本で一番大切なことを訴え、中間派の多くの票を獲得し、見事民主党党首に選ばれ、新首相にも指名された。この詩は、同じ民主党の輿石東参院議員会長(当時)の紹介で知ったという。
しかし、民主党代表選第1回目の投票では小沢グループが推す海江田万里経済産業相に破れながら、過半数を獲得した候補がいなかったため決選投票となり、「ドジョウ演説」で反小沢派が野田側に回ったため勝つことができたといわれているが、その実は、民主党代表選前より、増税推進派の野田を財務省が一丸となって後押ししたからこそ民主党代表選に勝て、首相の座をも掴めたと言われている。決選投票で、野田側に回った議員は、第1回目の投票では小沢グループと同じく、この円高とデフレの中での増税は反対していたはずの者たちである。
世界一の借金大国日本の野田政権は、与党内の意見も纏められないため、国会で論議する前に外国へ出て行って増税を公約し、その上で、国民に増税を押し付けるような強権的政治手法採用をしている。
そして、問責決議を2つ残したまま国会を閉じ、重要法案は先送り。無駄減らしも増収策も全く進展がない。今の激動の世界とは別の時間が流れるかのように、内向きな政策ばかりである。もう少し、「どじょう演説」でしたように、真っ当な政治を泥まみれになってして欲しいのだが、相田の詩の引用も、所詮は、イメージ戦略としての「どじょう演説」でしかなかったということだろう。もともと小物の政治家が出来ることはそんなことであったのだろう。だってそれだけの「にんげんだもの」・・・。口先だけでは政治は出来ない。・・・しかし、今の大変な時代に、日本の首相になろうとする人物にこの程度の人しか現れない現実は非常に悲しい。しかし、そうなったのにもいろいろと原因が、あったのだろうが、政治の道具として詩を引かれた相田にすれば、いかにも不本意・・と泣いたかも知れない・・・。

私は、相田みつをの詩の書かれたカップや小さな一輪挿し(上掲の画像)など人から貰って持っているし、詩も読んだことはあるが、それほど真剣に読んだことは無いので、どじょう演説で超有名になって以降、改めて、菩提寺のお上人から、『にんげんだもの』と、『一生感動 一生青春』の詩集2冊があるので読まないかとの話があったので、お借りして読み直してみた。
私には、相田の作品の詩がどれだけ素晴らしいのかについて、その文学的価値判断をする能力は無いが、「良い言葉」を集め書又詩集だとは思っている。
私は、子供の頃から新人熱心なお祖父さんや母親に連れられて頻繁にお寺参りをし、お坊さんから仏の教えを色々と説いてもらい、仏教の勉強会にも参加し、自分でも本を買って、仏教について浅はかではあるが勉強もしたこともあることから、相田の詩集を読むと、どうしても、詩を読んでいるというよりも、簡単な分かりやすい言葉で書かれた仏教の教本のように見えてしまう。

例えば、上掲に掲載のものは、私の信仰しているお寺の本山が、本山並びにその末寺のお坊さんに、1人1つづつ仏の教えを簡単な言葉で書き表したものを綴じこみ式ではなく、腹式の折りたたみ方で綴った教本『心の宝』というもののなかから、相沢のものに近い感じの一文を抜き出したものである。
これを日めくりのように1日1ページづつめくって読み、繁忙な日常生活のなかでつい仏の教えを忘れて行動をしないよう心がけているものであるが、ただ、簡単な言葉で語りかけるように書いてはいるものの、相田のもののように、世間一般の人を対象に、詩集として発行したものではなく、あくまでも、仏教を信じている私たち宗派の信者を対象にしたものであるため、簡単に書いてはいるものの、相田の書いた詩といわれるものよりは、多少、説法臭いところがあると感じる人がいてもそれは仕方の無ことだろう。
相田の作品については、作家の立松和平も、相田を「思想の語り部」と評し、「難しい言葉を一つも語らないで、仏教の根本的な哲理のようなものを語ってしまう。そして、それを読んだ人に『なにかが残る』んですね。残る――ということは、その先の世界があるということです」( “特集- 「こころに響くことば~書の詩人 相田みつを展」 「あなた」への応援歌”. 毎日新聞. 2011年4月2日。Wikipediaより) と語っているようだ。
仏教は、どの宗派であろうと、仏(仏陀として目覚めた仏教の開祖釈迦)の教えを説いているが、釈迦は、人の生き方(死に方にも通じる)を教え、この教えは、「この世(現世)に偶然に起こることは何もない。」という基本の上に成り立っている。
つまり、すべてのことには原因と結果があるということ。だから、今の自分やここにあるすべてのことに原因があるのなら、すべての原因を変えなければ良い結果は生み出されないということを言っているのだが、仏教ではこれをカルマの法則という。カルマとはサンスクリット語で行為という意味である(カルマ⇒参照)。
しかし、釈迦は、又、全てのものは何一つとして単独で生起する独立した存在ではなく、必ず他の力を借りて起るものであり、他のものとの関わりにおいて成立している。つまり、原因だけでは結果は生じないとし、直接的要因()と間接的要因()の両方がそろった(因縁和合)ときに結果はもたらされるとする(因縁果)。
そこで、縁起と呼ぶによってすべての事象が生じており、「結果」も「原因」も、そのまま別の縁となって、現実はすべての事象が「此」と「彼」とがお互いにもちつもたれつの相依相関して成立していると説いているのである(※5)。
だから、人と人との出会い、夫婦になるような「縁」も然り、ご互いに同じような心のレベル(因縁・縁起・徳【仏教の徳=波羅蜜の遵守】)により一緒になったことになり、そうでなければ、二人は引き合わされることはなかったことになる。そんな二人の間にもしなにかあれば相手をせめる前に自分の心(仏性)に悪いところがないか考えてみる必要がある。自分が変われば相手も変わる。相手の心を変えたければまず自分を変えることの大切さを知っておかなければいけないのではないか。
相田みつおの初版の詩集『にんげんだもの』も、最初のページに掲載された以下の一行の詞から始まっている。

「そのときの出遭いが 人生を根底から変えることがある よき出逢いを」(5p)・・・と。そして、10P目には、

「いいことは、おかげさま わるいことは 身からでたさび」・・・の詩が掲載されており、この詩に続いて、

“縁起十二章 おかげさま人生”と題して以下のように書かれている。

一、 ばかのおかげでお利口がひかる 利口ばかりじゃ世の中は成り立たぬ。
二、 落ちてくれる人のおかげで合格できる のぼせ上がるとバチが当たる。
三、 負けてくれる人のおかげで勝たせてもらう どっちか負けなければケリがつかぬ。勝つことばかりが人生じゃない。
四、 脇役のおかげで主役が生きる 主役ばかりが人生じゃない。
五、 職場があるから働ける 職場のおかげでストもできる。
六、 後輩のおかげで先輩になれる 威張ることはないんです。
七、 子供のおかげで親になれる 子供がいなければいくつになってもただの年寄り。
八、 嫁のおかげで親になれる あんまりありがたくないけれど・・・・
嫁という字は「女が古い」て、書くんですねえ・・・よくもまあ ・・・。
九、 相手(縁)がなければケンカもできぬ 一人じゃ夫婦ゲンカもできません。
十、 聞いてくれる人のおかげでぐちもこぼせる あなたのぐちを聞いてくれる人は あなたにとって観音さまです。
十一、下水のおかげで水も流せる 汚いもの、いやなものをみんな引き受けて・・・下水はいつも土の中。
十二、読んでくれる人のおかげで書かせていただく この下手な文章も。

この詩の注釈として、以下のように書かれている。
“世の中、役に立たぬものは一人もいない。だから仏典にもあります。
「生きとし生けるもの、一切の存在は、みんな仏だ」(一切衆生悉有仏性=いっさいしゅじょうしつうぶっしょう.。仏性参照)と。
そして、“縁起について、この世の物ごとは、すべていろいろな関係の中で、起こったり、消えたりするということ。単独に存在するものはひとつもないということ。(中間略)お互いが関係しあって、生かし、生かされている・・・(中簡略)それが縁起であり、縁起は仏教の根本的な考え方です。”・・と補足している。

仏教では、仏性を開発し自由自在に発揮することで、煩悩が残された状態であっても全ての苦しみに煩わされることなく、また他の衆生の苦しみをも救っていける境涯を開くことができるとされる。
菩薩とは、サンスクリットのbodhisattvaを音写した「菩提薩(ボダイサッタ)」を省略した言葉で、その意味は「悟り(菩提、bodhi)を求める衆生(薩埵、sattva=菩薩)」といわれており、一般的に菩薩といえば観音菩薩地蔵菩薩などを思い浮かべるが、最高の悟りを獲得しようと願う心(菩提心)を起こした人は、実はみな菩薩である。
そんな自分の心を豊かにし仏に近づこうとする菩薩行のあり方において、仏教には基本的に、自力によって本願を達成しようとする考えと、他力本願で達成しようとする考えの二つの考え方があるが、自力によっての方は、自分の努力によって、つまり、厳しい修業をすることによって悟りを開けるとする考えで、禅宗(日本では鎌倉時代に始まった曹洞宗と臨済宗など)がそれである。一方、後者の他力本願は、言葉からすると人任せと取れるかもしれないが、そうではなく、救いは人間の力だけでは達成不可能なので、努力だけでなく、仏の力(慈悲)に助けられる(すがる)しかないとする考えで、浄土宗法然)や浄土真宗親鸞)それに法華宗日蓮)などもそれである。
相田は、生涯の師となる曹洞宗の住職から禅(曹洞宗)の教えを学んでおり、彼自身は、自力で本願を達成しようとしたのであろう。そして、又、多くの読者に、それを理解してもらおうと多くの作品を書いたのであろう。だから詩も、出来るだけ優しい言葉を使って非常にわかりやすく書かれているものの、仏教の言葉は、一つ一つを理解するだけで大変難解なものである。私なども分かったようなつもりで分かっていない。だから、正しい教えによる神仏への祈りは必ず通じることを信じて、他力(仏の力)を借りながら少しでも自分の心を豊かにしようと日々精進している。
仏教の教えを基礎とした詩を読んで頭で理解しようとするのも悪くはないが、頭で理解したのと心で理解したのでは大きな違いがある。

相田の詩集『一生感動一生青春』の“はじめに”に以下のように書かれている。

「理屈では人間は動かない」・・・と。

人間を根底から動かすものは、むずかしい理論や理屈ではなくて、全身(いのち)の感動であり、腹のそこからの納得であると思います。理論や理屈では人間は本気で動きません。その証拠に《理動》と言う言葉は辞書にありません。(中間略)
感動こそ人間が人間として生きている証(あかし)だと思っております。・・・と。
そして、「いまここ」と題した以下の詩が掲載されている。

人間が人間として
生きるときに時は
いつでも いま
昨日(きのう)でも明日(あした)でもない
今日(こんにち)ただいまの いま!!
(中簡略)
いつでもどこでも
いま ここが
自分のいのちの正念場
自分の一番大事なところ

いのちのあるかぎりは、いま、ここ、を、自分のいのちの正念場として『一生感動、一生青春』の自分の旗をかかげていきいきはつらつ、いのちいっぱに、生きてゆきたい、と希っております。・・・・と。
そして、第一章の最初に掲載しているのが、先にも書いた初版の詩集『にんげんだもの』の最初にも書かれている「その時の出会いが・・・・」の詩である。

くどいが相田の詩は仏教の教えを詩にしたものだ。相田は、「人間のいのちの根底から動かすものは、理屈や理性や知識ではない人間として深い感動だ。感動には損得計算は一切混じりません。どうか、感動の日々を生きてください」と書いているが・・・日本人ほど自分の宗教を持たない・・・、つまり、宗教心のない民族も珍しい・・・と聞いているが、このような詩だけを普通に読んで、「いま ここに いきる」とはどういうことか・・・など理解し、本当に生きていることの感動を心から感じ取れる人がどれほどいるだろうかな~・・・と思ったりもする・・・。仏教の言葉を、頭で理解するのは大変。「生きる」を理解するには、仏教上では「生かされている」のだということを感じ取れなければいけないのだが・・・・、仏教の本当の言葉の奥深い意味内容はそんなに簡単に誰にでも理解できるはずのもので無く、実践修行しかないのだが・・・。
仏教の教えを取り入れたこれらの詩を読んでいる人たちが、早くそのことに気づき、自力であろうが他力であろうが信心の道に入ることを願って詩を書き続けたのではないか・・・。そう思っていたら、そのことは、以降で述べる詩集『一生感動 一生青春』の中で述べられていた。

もう、今年も後半月足らずで年が明ける。今年は色々大変な年だった。だが、時の立つのは早いものだ。
相田の『一生感動 一生青春』の中に「正月の正の字」について書いてあるページがある(66p)。そこに以下のことが書かれている。
正月の「正」という字を字引で引くと「何ヘン」で引くか知っているか?・・・。
昔の漢和辞典では「止」と言うへん(辺)で引く。「正」と言う字(※6、※7参照)は、「一に止まる」ということ、つまり、「一を守る」それが「正」であり、それでは、「一」とは何か?
一とは、原点、一とは自分、一とはこの私です。自分が人間としての原点に止まる。それが、正。自分が人間としての原点に立ち帰る、それが正です。そして、自分が自分の原点に立ち帰る月、それが正月だ。つまり、自分が自分になる月、それが正月。自分が自分になるということは、人間としての本来の自分になること。それでは、本来の自分とは何か?
それは今までに何回と書いたこと「そんとく」「勝ち負け」お金の「有る無し」等という比べることをやめた自分、それが本来の自分です。子供のことでいうなら柿の落ち葉を見て「わア、キレイ!!」と感動し、その落ち葉を大事に拾ってきた子供の心、それが子供本来の心です。感動することに金はかからない。感動にそんとくはない。そんとくを離れた人間本来の自分に立ち帰る月、それが正月です。
普段私たちの現実生活は、いつも「そんとく」「勝ち負け」という「比べっこ」にふり回されているから、一年に一ぺんそういう世間的な「比べっこ」をやめて本来の自分に帰ろうというのが正月です。正月になると。寺によっては「修正会」という行事をします。何をどう修正するのか?
昨年やってきたことのあやまち、失敗を反省し、同じことをくり返さないように、自分の原点に立ち帰って、自分のことばかりでなくて、世の中の平安や世界の人々の倖せを祈願するわけです。つまり、正月とは「そんとく」で歪められた自分の軌道修正をする月である・・・・と。
そして、正月になると思い出すのがお釈迦様の言葉「自灯明・法灯明」である・・・と。
お釈迦さまの臨終のお世話をされた釈迦の十大弟子の中でも多門第一といわれるアナン(阿南)尊者が「お釈迦様が亡き後私は何を依りどころに生きゆけばよいのでしょうか?」と聴いたところ、その時の答えが、この「自灯明・法灯明」であり、つまり、「自分を灯とし、自分を依りどころとして生きなさい。法(真理・お釈迦様の教え)を依りどころとし他を依りどころとしてはいけない。」言われたという(※8、また、Wikipedia-釈迦の入滅も参照)。
「自帰依(じきえ)・法帰依(ほうきえ)とも仏典に書かれている。・・・。当てにならないものを当てにするから私達は不安になる。もし、正月の初詣をして、神社やお寺でおあかり(灯明)をみたら、「これが自灯明か」「ううんこれが法灯明か」「自分の依りどころは自分なんだな」「釈迦最後の教えはこれだったのか」「自分の軌道修正をする月、それが正月なのか・・・」と心の中でつぶやいてみてください。いまここに生きている。同時に生かされている、自分のいのちを改めてかみ締めてください。 自分のいのちの尊さを本当に自覚したとき、すべての人の命の尊さが分かるんです。その自覚が平和の原点だと私は思います。・・・と。そして、次の詩が掲載されている。

「うつくしいものを美しいと思えるあなたの心がうつくしい」

ここに、相田の言いたいことが集約されていると思う。正月に、一人でも多くの人が、そのような相田の思いを理解し、釈迦の教えを実践(信仰)しようと心がける人が出てきたら、今は亡き相田が一番喜ぶことだろう。
詩を読むだけなら以下参考の※9で、朗読を聴くなら※10で、又一部解説なら※11で見ることが出来る・・・。
それでは皆さん良い、お正月を・・・・。今年は気まぐれな私のブログを見てくれ有り難うございました。私も今日から正月準備と休養で松の内(1月15日)頃まで約1月このブログはお休みします。又、再開の際は宜しくお願いします。

(画像は相田みつお 著「にんげんだもの」表紙。)
参考:
※1:高福寺
http://www.mamiuda.jp/tera/tera02.html
※2:Amazon生きるのが下手な人たちへ (PHP文庫) [文庫] 紀野 一義
http://www.amazon.co.jp/%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8C%E4%B8%8B%E6%89%8B%E3%81%AA%E4%BA%BA%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%B8-PHP%E6%96%87%E5%BA%AB-%E7%B4%80%E9%87%8E-%E4%B8%80%E7%BE%A9/dp/product-description/4569579353
※3:相田みつを美術館 Mitsuo Aida Museum
http://www.mitsuo.co.jp/museum/index.html
※4:どじょうはお好き!・・・今日のことあれこれと
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/ed4b9e7ff34a38a43657511ad7cebba2
※5:縁起・六波羅蜜(ろくはらみつ)
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Soseki/6299/repo1.htm
※6:命名字解【促】
http://mei2jikai.blog113.fc2.com/blog-entry-139.html
※7:「正」という字
http://www.bellpo.org/kaicho-blog/vol1-20/vol8.html
※8:自灯明・法灯明
http://www.geocities.jp/chandi1813/ess20jitoumyou.html
※9:相田みつを詩集
http://www.d4.dion.ne.jp/~hanami2/e04/08aida/aida.htm
※10:相田みつを 「にんげんだもの」詩の朗読 1ーYouTube(※2,3.4もあり)
http://www.youtube.com/watch?v=f62LdkgZLuk&feature=related
※11:『生きていてよかった』相田みつを
http://www.din.or.jp/~honda/book8-102.htm
仏教の教えの基礎とは何か
http://hachisu-net.com/issei/kiso.html
第33回 救いは自力本願か他力本願か
http://www1.cncm.ne.jp/~toguchi/ozaki_philosophy/33.htm
根本仏教講義
http://www.j-theravada.net/kogi/index.html
悟りを開く仏教の言葉!
http://www14.plala.or.jp/kesakando/komer.html
『法華経』梵漢和対照・現代語訳 松岡正剛の千夜千冊・遊蕩篇
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1300.html
相田みつを - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E7%94%B0%E3%81%BF%E3%81%A4%E3%82%92

皆既月食

2011-12-11 | ひとりごと
昨日(2011年12月10)は、皆既月食を見ることが出来た。
月食(lunar eclipse)とは、太陽地球の順に一列に並んだときにおきる天文現象で、望(もち。満月)のときにしか起こらない。 普段、月は太陽の光を反射して輝いているが、月食のときは地球が太陽と月の間に入るため、地球の影の中を通るため月面が暗くなる。
月は地球の周りを公転しているので、時間経過とともに欠けて行き皆既(全面が隠される現象。「皆既食」の略)となる。そして、また満月へもどる。
太陽の光が完全にさえぎられる本影に月のすべての部分が入ると皆既月食 (total eclipse)となる。また、一部分だけが本影に入った場合を部分月食 (partial eclipse) という。
月が半影(地球が太陽の一部を隠している部分)に入った状態は半影食(もしくは半影月食。penumbral eclipse)と呼ばれるそうだが、半影に入った月面部分の減光の度合いは注意深く観察しなければ分からならない程度であり、事前の予告なしに肉眼で見ても気がつかない場合も多いそうだ。
満月のたびに月食にならない理由は、月の軌道黄道面(地球の軌道平面)に対して約5°傾いているためだそうで、月食になるためには、満月の時に月の軌道と黄道面の交点の近くに月がなければならない。
皆既月食中の月は地球の影に入っても完全な真っ黒にはならず、赤っぽい色(赤銅色)をしている。理由は、太陽のが地球の大気によって屈折や散乱され、うっすらと月面を照らすためであり、赤くなるのは、朝焼けや夕焼けの原理と同じように波長の長い赤い光のほうが大気中を通過しやすいためだが、皆既月食の時の月面の様子は、地球の大気中の塵の量によって異なり、塵が少ないと、太陽の光が大気中を通過する際の散乱が少なくなり、月面は黄色っぽく明るく見える。逆に、塵が多いと、大気中の散乱が多くなり、月面は暗く見えるそうだ。ただ、火山爆発等で大気中に特に多量の微粒子が浮遊している場合には、月が非常に暗くなり灰色かほとんど見えなくなるそうで、月食時の明るさは、「ダンジョンの尺度」(0~4までの5段階)などで表されるようだ(※1参照)。
冒頭に掲載の写真は昨夜の皆既月食(神戸)だが、これを見て、どの尺度に該当するのか私には良くわからないが、中間の尺度2「暗い赤または赤錆色の月食。月の中心はとても暗く、周辺ぶはやや明るい」・・・・くらいに該当しているのだろうか・・・。
今回の月食の月が欠け始めてから終わるまでは約3時間30分あり、空の高い所で皆既の最大を迎え、時期的にも澄んだ天候だったので始まりから終わりまでの全過程を日本全国で誰もが観測を楽しめたようだ。
今回の月食の始まりから終りは以下のようだ。
部分食の始まり 21時45分
皆既食の始まり 23時05分
皆既食の最大 23時31分
皆既食の終わり 23時58分
部分食の終わり 01時18分
昨日、皆既月食のある事は知っていたのだが、カメラの準備もせず、夕食時気分よく晩酌をして、TVなど見ているうちにうとうとと居眠りをしていた。そんな時すぐに起すと私のご機嫌が良くないのを知っているので、暫く眠らせ、皆既食の最大 の頃、家人が、見に行った後、今が一番綺麗よと起してくれたので、慌ててカメラを持って表に飛び出し、2枚ほど写真を撮っただけで、準備の不手際からカメラの電池切れ。慌てて、そこらにおいてあった電池に入れ替え、外に出て撮ろうとすると、何と言うことその電池も切れていた。処分せず放っておいてあったものだったのだ。それで、大騒ぎをして、家人に新しい電池を持ってきてもらい、急いで撮ったのだが、それが23時45分くらいだったので、皆既食の最大から終わりの中間という時間帯か・・・。 数年前に買ったデジカメで、慌てて望遠レンズも三脚も使わず、撮ったものだから、手振れのものが多く。掲載のものも少々手振れ気味である。
このような月食が全国で観測できたのは、2000(平成12)年7月16日以来、11年5ヶ月ぶりのことだという。次回の皆既月食は約3年後の2014年10月18日だそうだが、その時はちゃんと準備しておかないといけないな~。
参考:

※1:皆既月食中の月の色について(国立天文台)
http://naojcamp.nao.ac.jp/phenomena/20101221/color.html

※2:asahi.com(朝日新聞社):皆既月食 スカイツリーとランデブー
http://www.asahi.com/national/update/1210/TKY201112100510.html

月食 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E9%A3%9F

ウェザーニューズ、皆既月食観測可能エリアを公表
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111210-00000001-inet-inet

ジュニアシェフの日

2011-12-08 | 記念日
日本記念日協会に登録されている12月08日の記念日に「ジュニアシェフの日 」がある。
由来を見ると、“「ジュニアシェフ」とはこどもを対象とした料理の教授、教室の企画・運営・開催を指すもので、福岡県久留米市に本社を置き、食品卸売業・レストラン事業・旅館業・農業などを手がけるベストアメニティ株式会社が有する登録商標。記念日は食育の一環として、食文化、作法、食材などの知識を広めるために同社が制定。日付は12と8で「ジュニアシェフ」と読む語呂合わせから。“ ・・・とあった。
ベストアメニティという会社は、色々な事業を手掛けているようだが、雑穀米などの食料品の販売を主にを行なっている会社のようだ。
縄文時代晩期から弥生時代早期にかけて大々的に水稲(すいとう)栽培が行われ始めて以来、米は、十分な食料がなかった時代の日本では重要な主食であったが、一般庶民までにはなかなか行き渡らず、国民が食べていたのは雑穀玄米などを混ぜ合わせた雑穀米であった。国民が雑穀米ではなく、全米飯を容易に食することができるようになったのは、今から約70年ほど前の1939(昭和14)年。米穀配給統制法(※1、※2参照)等が制定され、米の流通が政府により管理されるようになってからのことある。
昭和期に米が増産されるとともに雑穀の消費と栽培は廃れた。現代の日本では、家畜、家禽、ペット(ハムスター、小鳥など)の餌など飼料用としての利用が多かった。
しかし、飽食といわれる時代を迎えた今日この頃、雑穀類には現代人に不足しがちなミネラル(mineral)や食物繊維も豊富なことから健康食品として見直されてきている。
記紀に登場する、米・麦・粟・豆・黍(きび)または稗(ひえ)(※『古事記』稲・麦・粟・稗・豆。『日本書紀』稲・麦・粟・大豆・小豆。)を指して五穀としていることが多いが、五穀の内容は、時代や地域によって違っており、一定していない。
五種の雑穀をブレンドした米を五穀米と呼ぶが、五穀は、具体的な五種を指さず、「五穀豊穣」(穀物が豊かに実ること)のように穀物全般の総称として用いられることもある(※3)。
雑穀米ブームにのってこれら雑穀を米とブレンドした五穀米や十穀米などが食用として多く販売されるようになってきている。
ただ、 “五穀米”と言う呼称(名称)は、日本初の五穀米商品として石川商店(千葉県君津市。※3)から発売されている商品に使われている登録商標であり他社が、商品名としては使えない。同商店HPを見ると同社の“五穀米”の説明には「栄養価の高い九種の穀物をバランス良く配合」としており、縁起の良い「五穀豊穣」にちなんでの命名であろう。
余談だが、民主党の連方議員が、民主党の売り物事業仕分け(行政刷新会議)で、「仕分け人」として、次世代スーパーコンピュータ開発の予算削減を決定した時。要求予算の妥当性についての説明を求めて格好良く?「世界一になる理由は何があるんでしょうか?2位じゃダメなんでしょうか?」といった発言が話題になった(後に顰蹙を買う)が、私は、若い頃商社やメーカーでの仕事もしているが、商品開発面では先発のメリットが非常に大きいものなのだ。先発企業は機械類の減価償却も進んでいるし、特に発明などの特許や、それほどでなくても意匠登録のようなものでも、その取得した権利は大きく、このような雑穀米の名称にしても、誰でもが思いつく五穀豊穣に因む“五穀”の名が独占的に使えるのは大きいだろうと思うよ。世の中のこと何もわからないただのタレントが議員、そして大臣になり、大きな顔をしていること事態が仕分けされなければいけないのではないですか・・・?
今日の記念日登録をしたベスト アメニティは、日本国内の契約農家から仕入れた純国内産穀物8また16種類を配合した雑穀米を「国内産八種雑穀米」「国内産十六雑穀米」(同社の商標登録商品)などという呼称で販売しているようだ(他の種類の商品もあり)。
今日の記念日「ジュニアシェフの日 」にどのようなことをしているのかは同社HPに具体的なことは無いので良くわからないが、“現在飽食の時代を迎えた子どもたちがアトピーやアレルギー、さらにはかつて成人病と言われた生活習慣病に、子どもたちまでもがむしばまれているが、貧しかった時代は、雑穀米でバランスのとれた食生活を送っていたことを知ってもらおうと努力していることや体の問題だけではなく、「キレる子ども」たちによる凶悪犯罪など心の問題も増えているのは、そのような問題が食生活と全く関係ないといえるではないか?”との疑問も呈しており、そのようなことを前提に、「体にやさしい、おいしい健康」をテーマに品質の高い商品づくりを目指しているという同社が食育の一環として、食文化、作法、食材などの知識を広めるのが目的で、こどもを対象とした料理教室の企画・運営・開催をしているのが「ジュニアシェフ」ということなのだろうと勝手に思っているが、そうなれば結構なことである。勿論、その中には当然自社開発の雑穀米の販売促進の意図も潜んでいるだろうが・・・。
“カルチャー”は、「文化教養の意味での外来語」として定着しているが、カルチャーの英語“culture”の語源は、ラテン語の ”cultūra” → “cult”(耕す)に由来する「土くさいもの」、つまり、「畑を耕し、作物を育てる」というのが本来の意味するところのようであり、英語やフランス語には、“文化”と区別される“教養”という語を日本の言語のようには持っていないので、一体的に把握されておりその間の区分が明示的でないようだ(詳しくは※5参照)。
ところで“文化”と言えば、日本文化や東京の下町文化、室町文化など地理的、歴史的なまとまりによって文化を定義するもの、おたく文化のように集団を構成する人を基準に文化を定義するもの、出版文化や食文化のように人の活動の種類によって定義するものなど、個々の文化は様々な形で定義、概念化されている(文化参照)が、その中でも、「瑞穂国」といわれる日本の食文化の中心である稲作はまさに文化そのものと言え、日本にとって、米の存在ぬきに日本の食文化は語れないだろう。
食の多様化が進んでいる中、米だけでなく米にいたるまで日本の重要な食料源であった穀物も含めて、日本食文化の伝承を通じて、豊かで健康的な文化人の育成、ひいては田園を中心とする環境の保全、日本独自の食文化の明るい未来を創造してゆかなければいけないだろうと思う。
政府も“21世紀における我が国の発展のためには、子どもたちが健全な心と身体を培い、未来や国際社会に向かって羽ばたくことができるようにするとともに、すべての国民が心身の健康を確保し、生涯にわたって生き生きと暮らすことができるようにすることが大切である。子どもたちが豊かな人間性をはぐくみ、生きる力を身に付けていくためには、何よりも「食」が重要である” ・・・。そして、“家庭、学校、保育所、地域等を中心に、国民運動として、食育の推進に取り組んでいくことが、我々に課せられている課題である”として、2005(平成17)年7月15日には「食育基本法」を施行し、推進している(※6)。
そのような流れの中で、「ジュニアシェフ」のようなこどもを対象とした料理教室の企画・運営・開催も食育の一環として行われているとすれば結構なことではある。
日本では「シェフ」を、フランス料理など西洋料理の料理人のことを言う場合があるが、この言葉はフランス語の「シェフ」“chef ”からきているが、その元は、ラテン語の名詞“caput”から来ており、もともとの意味は「動物の頭部」という意味で、“caput”には「リーダー、長、かしら」という意味もあり、これが、フランス語に入って、「chef de cuisine」(料理の頭)を省略したもの“chef”という風に形を変えたぼだという。フランス語の “chef” が英語に入って“、chief ”になったのであるから、 “シェフ(chef)”とは、フランス語で、「組織の長」と言う意味であり、レストランやホテルなどの「料理長」、つまり、調理場を統括する責任者のことになる。ただ、英語の “chief ”は組織の「長」という意味が強く、「料理長」という意味はなく、英語の“chef”は、階級に関わらず、プロの料理人すべてを意味するために使用されるようになったようだ(※7又、Wikipedia-調理師 参照)。また、料理人。ホテル等の調理場で実際に調理を受け持ち、作る人のことを「コック」“cook”とも言うがこれは、オランダ語のの“kok”がその後英語に入ってきたようだ。
日本料理店・料亭で和食の料理をつくる人、つまり、日本料理人で、シェフに相当するのが通常板前といわれる人たちであろう。
料理とは食物調理または調理された食物の意であるが、日本における料理」は、貴族や武士などの食事作法に発祥し、時代とともに洗練され、発展してきたため、日本料理は、日本でなじみの深い食材を用い、日本の国土、風土の中で独自に発達した料理を言っており、この場合、日本人が長い間食べてきた食事であっても、それが日本独特なものでなければ「和食」とは呼ばれないことになる。
そして、日本料理が他の料理と大きく違うところは、素材の新鮮さが特に尊重され、一般的に米をはじめとする穀物、野菜、豆類、果物、魚介類や海藻といった海産物を中心に、昔は4つ足(4足歩行動物の肉)のものは使わないのが基本で、肉といえば鶏肉ぐらいのものであった(しかし、時代の変遷と共に牛肉や豚肉なども使用するようになってきたが)。
それに、季節感は日本料理の重要な要素になっており、の素材に余り手を加えず、選ばれた素材そのものの風味、味を最大限に引き出す。
そして、盛付けの美しさも、日本料理の大きな特徴である。調理した食材を彩りよく並べるだけでなく、器の質感や絵柄なども吟味し、四季に合わせた季節や風情を盛り込むことも、調理の一つとされている。
一口に和食と言っても、和食には各時代のなかで生まれた伝統的な様式料理である、本膳料理、に始まり、有職料理普茶料理精進料理会席料理や、懐石料理などは、その本質を失うことなく受け継がれ、さらに現代の趣向に合わせつつ進化を続けているが、これら伝統的な様式料理のほか、郷土料理それに大衆料理の代表である、寿司なども含まれ奥行きも幅も非常に広いものである。
これら、和食を提供する割烹料亭といわれる料理屋など日本料理店にある調理場のことをまな板が置いてある場所であることから、板の前に立つと言うことから料理場、又その前で仕事をする料理人のことを板前と呼ばれるようになったといわれており、「板」のみでも板前と同じ意味で使われ、親しみを込めて「板さん」とも呼ばれる。

包丁一本 さらしに巻いて
旅へ出るのも 板場の修業
待ってて こいさん
哀しいだろが
あゝ 若い二人の
想い出にじむ 法善寺
月も未練な 十三夜

1960(昭和35)年、藤島桓夫の歌で大ヒットした「月の法善寺横丁」である(以下参考の※8で、藤島の懐かしい曲が聴ける)。
「こいさんが私を初めて法善寺へ連れて来てくれはったのは藤よ志に奉公に上がった晩やった。早う立派な板場はんになりいや言うて、長い事水掛不動さんにお願いしてくれはりましたなァ。あの晩から私(わて)は、私はこいさんが好きになりました。」・・・と、次の唄との中間に挿入されたせりふにもあるように、19世紀に多くなった料理屋の料理職人のことを、主に関東が「板前」と言うのに対して、関西では板前のことを「板場」、「板場はん」と呼んでいる。もともとは年季を積んだ料理場での差配役のことであった。
Yahoo百科事典によれば、15世紀に生まれた庖丁師(ほうちょうし、※9参照)という魚鳥を料理する職人は宴会の席で客の前で料理する出職(でしょく注文に応じて他に出かけ仕事をする職業)であり、なま物の料理法にいくつかの流派ができた。

上掲の画像は、4本足のまな板の上で真魚箸(魚や鳥を料理するときに使う、柄のついた長い木または鉄製の箸)と包丁刀を使って鯉をさばく包丁師。『七十一番職人歌合』 五十七番「包丁師」より (1500年頃。Wikipedia包丁より)
また、精進(しょうじん)物の料理職人の調菜(ちょうさい)は17世紀には刻肴師(きざみさかなし)となった。18世紀には庖丁師は刻肴師の技術を取り入れ、いっさいの料理の担い手となった。板前は自分で店を開くか、料理屋に雇われるか、とにかく居職(いじょく。自宅で仕事をする職業。⇔出職)となった。
一般に一流の料亭や料理屋は専任の板前(板場)を抱えているが、Wikipediaによれば、 板場を仕切る最上位者は「花板」また、「板長」とも呼ばれ、その次の者が、「立板」-また「にばん」(二番・二板)とも呼ばれて、以上の二者がカウンターに立つ事が多いのだそうだ。以下、
「椀方」 - 椀(お吸い物など)を作る人。料理全体の味を引き立て調える汁物作りの統括。
「煮方」 - 煮物を作る人。・・・が続き、「板前」と言えるのはここから上を言うのだそうだ。この下に、
焼方(やきかた) - 焼き物(焼き魚)を作る人。鮎の塩焼きや、田楽などを作る。
揚場(あげば) - 揚げ物(天ぷらの事)を作る人。焼方と同程度の位。
追い回し - 盛り付けなどを担当する雑用係。「ボウズ」(坊主)とも呼ばれる一番低い位の階層があり、一人前になるまでには、皿洗いや食材の仕込から覚え、長い期間を経て修行していかなければいけない厳しい世界のようだ。古い時代だけでなく、今なお徒弟制度の残っている代表的な業種の1つが板前だろう。
そのため、この歌の唄われた昭和30年代でも、中学を卒業して住み込みで修行をするといった人が珍しくは無かったようで事実私の中学時代の同級生にも1人、板前になると言って、中学を卒業後、名前は聞いていないので知らないが京都のどこか老舗の料理屋に住み込みで入ったようだが、今の時代中学卒業と同時に料亭などへ住み込みで入る人はどの位いるのだろうか・・・。
かって、徒弟制度といえば、親方・弟子という丁稚(でっち)制度のことであったが、今では、労働基準法(第7章技能者の養成法第69条徒弟の弊害排除。)で戦前にみられた徒弟制度の中での丁稚奉公のような低賃金での過酷な労働条件下での使用は出来ないことになっている(。※10参照)のだろうが、将来独立して自分の店を持ちたいという人などにとっては、料理職人としての技を身につけるために、現代の徒弟制の中で基本をみっちり修行するのは良いかもしれない。特に、大学を出たからと言って、必ず就職の出来るといった次代ではなくなり、革新を行なわない会社の寿命は例え大会社であろうと、30年いや10年しかもたない(※11参照)といった今日では、サラリーマンも今までのように定年まで安心して同じ会社で仕事が出来る保障はなくなった。板前だけでないが、手に職をつけておくのは悪くないだろう・・・。
今は、日本料理人に関係する資格として、「調理士」の資格があり、この資格を持つ人を調理師と呼ぶようだが、調理師資格を得るには2つの方法があるようだ(※13)。1つ目は厚生労働大臣の指定した調理師養成施設(料理の専門学校など)で学んで取得する方法。この方法だと費用はかかるが、実習もあるし、卒業と同時に調理師免許が確実に取得できることから、今では、高校を卒業後、調理師専門学校に通い、学校に来る求人票を見て料亭に就職するケースが多いようだ(※12)。
もう1つの方法は、調理師試験に合格して調理師免許取得を取得する方法。この場合、受験資格として、中学校卒業以上で2年以上調理の実務経験がある人との条件が就いている。
以下参考に記載の※13:「調査研究成果データベース - JILPT 調査研究成果DB」の”図表6-20 見習い期間の義務づけ(SA)”では、職業資格を取得する要件として、見習い期間が義務づけられているかどうかを調査の結果、「一定期間の実務経験が求められる」のは、1位:理容・美容(92,2%)、2位:介護士・寮母(90,6%)、3位:保全・整備(86,5%)に続き、4位:コック・板前(84%)となっており、技術を必要とする職業は、勉強だけでは修得できないので最低限の実習なり、実務を経験を必須要件とするのは仕方が無いだろう。                   
前述の参考※14の中の調査「一人前までになった後は、会社を変えるのは、1位:理美容(34.6%)に続いて2位:コック・板前(34.6%)、3位:弁護士(25.0%)、4位:設計技術(24.4%)などが上位を占めているが、技能資格要件を満たすために働いていたところから資格を取得後、更に良い条件のところへ職場を変える人も多くなるだろう。
それに、本格的な日本料理やフランス料理といった高いレベルの技能を身につけようと思えば、調理師の資格を取得したぐらいではダメなので、やはり、伝統ある割烹や料理店の徒弟制の中で、修行を積無必要があるのだろう。
又、「月の法善寺横丁」の歌に、「包丁一本 さらしに巻いて 旅へ出るのも 板場の修業」・・・とあるように、板前は一ヶ所である程度の技能を身につけると更なる技能修得のために旅に出て、腕を磨く人が今でも多くいる世界なのだろう。ただ、この歌のように板場の修業に出かけるのに、包丁一本では足りないだろうと思うのだが、他人のものは使わないというのが板前気質であったらしいから、実際には、最低3本ぐらいはもって、旅に出たのであろうが、もし1本を選ぶとすれば板場にとって最も大事な刺身包丁(関東では柳刃)ではないだろうか・・・。
私が現役時代兵庫県の姫路で、仕事をしているとき、ひょんな関係で、料亭の板前などの手配師をしているといわれる人と知り合った。ちょっとヤクザな感じはあったが、陽気で気のいい人で、変な組関係と直接関わっている風ではなかった。私自身その人に特に興味があったわけでもないし、その人もその仕事の詳しい話をしてくれないのでよくわからないが、その人を知る人の話では、どうも時代劇やテレビドラマなどに出てくる昔からあった口入れ屋のようなものらしい。それが今では、表の仕事なのか裏の仕事なのかなどは知らないが、本人自身は暇なのでそちらの方は誰か他の者に任せて自分は片手間の別の仕事をしているようなのだが、関西一円の料亭などを相手にしている大物であったらしい。
以下参考※15:「板場の話」を見ると、“かっての料理人は「部屋」、別名「入れ方」という組織に所属していたようだ。この組織は、一つ一つの店を超える存在だった。機能的には「調理師紹介所」とも言えるものだが、そこで紹介される一人一人の板前の地位は、今では想像もできないほど高かったという。部屋を取り仕切る親方から声がかかると、全国の「名代の店」、つまり有名店に、通常二人一組で出掛けて行って仕事をこなしたという。”・・・・とあり、「入れ方」とは、口入屋のことだろう。
日本は古来より、大工、鳶、土方などの建設業団体・沖仲仕などの港湾労働団体や籠屋、渡し、馬方などの運輸荷役団体など、様々な生業においては「組」と言う徒弟制度や雇用関係があり、親分子分の関係を基盤としていたことは良く知られていることだから、板前など職人を抱え、調理師を専門に仕事の請負をしていた組織だったのだろうと思う。
博徒・香具師といわれる人たちに限らず板前など色々な職人の多くが昔は雇われ職人として旅に出ることは多かったようで、そのような職人には結構気性が荒く、旅先でのトラブルを起こす者も多くいたようだ。そんな旅先での職人を管理するのも親方の仕事だったろう。
そんな、職人たちを昔はヤクザな稼業などと言ったりもしたようだが、それは、そんな職人たちの気性と職人たちが派遣された地の親方などと初めて顔を合わせたときに挨拶ぐらいきちっと出来ないといけないということから仁義を切らせたことによるからかもしれない。
映画「男はつらいよ」では父親と大ゲンカをして家を飛び出し、テキヤ(的屋)稼業として日本全国を渡り歩く渡世人となった主人公、“フーテンの寅”こと車寅次郎が仁義を切っていたが、このような、任侠・テキ屋などが仁義を切ることで有名になるが、職人たちがしなくなって後も、このような習慣が任侠・テキヤの世界にだけ残ったようだ。
なにか、気の荒い板前が長ドス(長脇差)の変わりに、晒しに巻いた包丁を懐に仁義を切っている姿を見れば渡世人と変らない姿に見えるかも知れない・・・と苦笑いしたくなるが、そんなのは大昔の話である。今では、包丁も、専用の鞘に収納されているのでサラシに巻いて持ち運ぶ人はいない。
現代でも料亭などで働く板前の多くは恐らく、将来独立して割烹の店などを持ちたいとの考えで、何人もの親方から学び、そのいいところをとって独立していくのだろう。時間はかかっても夢のある世界だとは思うが、それはなかなか辛抱のいる厳しい世界にはちがいないのだろうな~。
日本料理はこうした厳しい組織と板前職人たちの意識によってその技術が保持されてきた。現代では、板前は、法律上、西洋料理職人(コック)とともに調理師と呼ばれるようになったが・・・。
西洋料理のシェフの話ではなく、私自身が和食党なもので、結局最後まで、日本料理の調理師の話になってしまったな~。(*_ _)人ゴメンナサイ

(冒頭の画像は、ウィリアム・オーペン、『パリ、チャタムホテルのシェフ』。Wikipedia-調理師より)

参考:
※1:全米販|コメ知識 | コメ流通の歴史
http://www.zenbeihan.com/data/history/
※2:昭和前半期閣議決定等収載資料及び本文日付順リスト(昭和14〜15年)
http://rnavi.ndl.go.jp/politics/entry/kakugi-date03.php
※3:五穀豊穣
http://www.maff.go.jp/j/tokei/kikaku/saiziki/pdf/vol35.pdf
※4:石川商店
http://www.gokokumai.co.jp/index.php
※5:リベラル21 文化とカルチャー:文化は土くさいもの!?
http://lib21.blog96.fc2.com/?mode=m&no=1565
※6:食育基本法
http://www8.cao.go.jp/syokuiku/about/law/law.html#zen
※7:英単語を語源で学習 語源学習法:スペースアルク
http://www.alc.co.jp/eng/vocab/etm-cl/etm_cl085.html
※8:月の法善寺横丁 藤島 桓夫 - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=kspzGizSdcY
※9;資料-1B 四条流包丁書 北伊醤油
http://park11.wakwak.com/~kitai/Kitai_Shoyu/MAME/reference-1b.html
※10:【会社の寿命】今や"寿命"はわずか5年:日経ビジネスオンライン
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20090212/185916/
※11:労働基準法詳説
http://web.thn.jp/roukann/roukihousyousetumokuji.htm
※12:あしたをつかめ学校放送:日本料理・板前
http://www.nhk.or.jp/shigoto/zukan/073/top.html
※13:調理師専門学校ガイド!
http://chef-license.net/
※14:調査研究成果データベース - JILPT 調査研究成果DB/全文情報
http://db.jil.go.jp/cgi-bin/jsk012?smode=zendsp&detail=E2000014048&displayflg=1&pos=96920&num=260923
※15:板場の話 その6 - MUTSUKARI Lab. 六雁研究所
http://blogs.yahoo.co.jp/mutsukarilab/24831595.html
老舗の日 - 今日のことあれこれと・・・
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/c756dde97f168bd252b8728cc52dc2c9
Yahoo!百科事典トップ
http://100.yahoo.co.jp/
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html
調理師 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%BF%E7%90%86%E5%B8%AB
味の素KK 日本料理の歴史
http://www.ajinomoto.co.jp/activity/shokuiku/library/japanesefood/index.html

カイロの日

2011-12-01 | 記念日
月日の経つのは早いもので、今日からもう12月。1年最後の月12月(旧暦)は「師走」(しわす)または極月(ごくげつ、ごくづき)とも呼び、現在では師走は、新暦(グレゴリオ暦)12月の別名としても用いれているが、その由来は僧侶(師は、僧侶の意)が仏事で走り回る忙しさからという説や言語学的な推測として「年果てる」や「し果つ」等から「しわす」に変化したなど諸説あるが、それらは、明治政府により編纂された類書(一種の百科事典)『古事類苑』)で解説されている(※1の歳時部一>歳時總載>月第 1 巻 35 頁の〔古今要覽稿 時令〕の前後を参照)。
日本書記』卷第三 神武天皇 即位前紀 太歳甲寅十二月の項には以下ののようにある。
「十有二月(しはす)丙辰(ひのえ・たつ)の朔(ついたち)壬午(みずのえ・うま)。 安藝國(あきのくに)に至り、埃宮(えのみや)に居(いま)しき。」(※2)
又、万葉集巻8冬雜の、紀少鹿女郎梅歌一首には以下のように書かれている。
「十二月爾者(しはすには) 沫雪零跡(あわゆきふれど) 不知可毛(しらぬかも) 梅花開(うめのはなさく) 含不有而 (ふふめらずして)」(1648。※3=万葉仮名)
このように、万葉集や記紀時代には12月を「シハス」と読み、「師走」とは表記しておらず、従って、「師走」は後世の当て字であることがわかる。
なお、上掲の万葉集巻8冬雜の紀少鹿女郎(きのをしかのいらつめ)についてと、この歌のことは、以下参考に記載の※4:「紀女郎 千人万首」で解説されているが、歌については以下のように解説している。
【通釈】十二月には沫雪(あわゆき)が降ると知らないのだろうか、梅の花が咲き始めた。蕾のままでいないで。
【補記】陰暦十二月は春間近で、早梅が花開くことも珍しくないが、まだ雪の降ることの多い季節。早咲きの梅の花に親身に心を寄せている。・・と。
旧暦12月は、新暦では12月下旬から2月上旬ごろに当たるため1年でも最も寒いころである。
上掲で紹介した『古事類苑』には、“「シハス」の「シ」とは「トシ」といふ詞の転じたものである。「ハス」は「ハツ」の転じたもので我國の語に、凡事の終りを、「ハツ」とも「ハテ」ともいい、萬葉集では、「極」の字を「ハツ」とも読むので俗に極月の字を用ひて、「シハ」ともいふのももっともなことだ”と書いてある。だから、12月を漢字で書くとしたら、「極月」とかいて「シワス」と書くのが本当は妥当なのだろう。
12月になると、もうぼちぼちと、正月の準備と共に、その一環としての年賀状作りもしなければならず、何かと、気ぜわしくなってきた。12月が、何かとせわしないという意味では、後世に当てられた「師走」がもっともらしくは見える。
今日、このブログで何を題材に書こうかと思って、Wikipediaで調べてみたら、“1949(昭和24)年 の今日は初のお年玉年賀はがきが発売された日なのだそうで、これをネタに書こうかと思ったのだが、新聞で、今年は、東日本大震災の起きた被災地では年賀状のかわりに挨拶状を送る動きが広がっている。そんな中で、年賀状の話は少し気が引けたので、他に面白そうなネタはないかと調べていたら「カイロの日」があり、注釈には“日本使いすてカイロ同業会(現在の日本カイロ工業会。※5)が1991年に制定。カイロ(懐炉)の需要が高くなる時期である12月の最初の日を記念日とした。”・・・とあった。
昨・2010(平成22)年から今年・2011(平成23)年にかけての冬の気温は、暖冬と予想されていたが、非常に顕著な北暖西冷の特徴が現れた年となり、北・東日本では3年連続の暖冬となったようだが、西日本全体では2月の気温が高かったためにトータルでは並冬となったが、1月までは記録的な寒冬となった。特に12月下旬から1月末にかけて、ほぼ一貫して寒気に覆われ非常に寒い思いをした。
吉田兼好(兼好法師)の書いたとされる随筆『徒然草』(※6)第五十五段には、「家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬は、いかなる所にも住まる。暑き比わろき住居は、堪へ難き事なり。」(※5)とあるように、我が家は、一寸高台の木造建築であり各部屋には窓も2ヶ所ずつ設けてあるので、夏は通気性もよく涼しいので非常に住み良いのだが、その反面、冬は、どこからか隙間風などが入ってきて寒い。一応、隙間風など入らぬよう断熱カーテンやドアの隙間を埋める工夫などもしているが、それでも、年のせいか、年々寒さが身に堪えるようになってきた。
2004(平成16)年 から 2008(平成20)年頃にかけて起こった原油価格高騰では、光熱費の大きな値上げによって企業や家庭で省エネムードが高まり、2010年4月1日、改正省エネルギー法(※7、※8参照)も施行され、工場など企業だけでなく、我々庶民にも協力が訴えられ、昨年は、家電エコポイント制度(※9)を使って省エネ対応の「エアコン」や扇風機他節電のための省エネグッズなどのブームも起こった。
今年、2011(平成23)年3月以降は、東日本大震災によって福島第1原子力発電所事故の影響で電力供給力が大幅低下したことにより、企業だけでなく家庭での節電が推進されたが、夏の危機だけではなく、この冬も更なる節電が要請されている。
しかし、節電/″\と言わても、家の中の設備面は、昨年中に、ほぼ省エネ商品に切り替えられるものはきり変えているし、もともと、我が家では普段から無駄な電気は使わないような生活をしているので、これ以上特に大きな節電をするところはないのだが、それでも、出来るだけ電力を使用しないよう協力はしなければいけないだろうから、暖かい食べ物で身体のうちより身体を温め、ヒートテックの肌着や綿入れの半纏などの衣類、ルームソックスや、ひざ掛けなどの防寒グッズなど最大限に活用するしかないだろう。
そんな防寒グッズの中で、寒がりの我々夫婦には、使い捨てのカイロ(懐炉)などは欠かせない一品となっている。最近はドラッグストアーなどで非常に安く売っているので有難い。
このブログなどは日当たりの良い2階の私の部屋で書いているが、寒い日でもエアコンなど使わずに、腰と背中に使い捨てカイロを貼り、パソコンを置いている机の椅子には小さないす用電気座布団を敷いてやっている。
現代のような「エアコン」のなかった時代、昔から何処の家でもつかわれていた暖房器具に、火鉢こたつ(炬燵)がある。
歴史的に日本では、室内で使われる火は、煮炊き用と暖房用に分化し、一方はかまどに、一方、暖をとるための室内の暖房も土間の穴で薪を焚くところから始まったことから農家の囲炉裏 (いろり)になっていった。このような暖をとるための室内のは、書院造茶屋造(※10の中の茶屋も参照)の建築物に残り、近世の町家でも座敷に炉をきった家がある。
この(火入)の上に櫓(やぐら)をのせ、小袖などの衣服をかぶせて暖をとったのものが「こたつ」(炬燵)の始まりのようだ。
歴史は古く室町時代に登場するが、一般に普及したのは、木綿布団の出回る江戸中期以降と見られている。「こたつ」は炬燵の他に火燵・火闥などとも書かれていた。

こたつには掘り炬燵と置き炬燵の2種類に分かれるが、上掲の画像は、江戸時代の大坂の浮世絵師高木貞武が 著した『絵本和歌浦』に描いた掘り炬燵(切り炬燵とも呼ばれる)と呼ばれるものである(絵は、NHKデータ情報部ヴィジュアル百科『江戸事情第1巻生活編』より借用)。
置き炬燵(岡炬燵とも呼ばれる)は、火鉢と櫓を一体化して布団を掛けたもので、こちらは可動式が最大の長所であり、現代の電気炬燵はこの系譜にあたる。
この置き炬燵が登場したのも、畳が一般に普及した江戸時代であり、土火鉢という瓦製の安物の火鉢を、初めは壊れやすいので木箱に入れて使っていたものを、後に櫓に替えて布団をかけるようにしたものである。炬燵は、部屋全体を暖めることはできないものの熱源を布団で覆うため熱効率が非常に良く、現代の私たちのように洋風の居間でも椅子に座らず床に座って生活しているものにとっては非常に心地よい暖房器具である。
この置き炬燵の一種に、櫓の代りに焼き物や石で囲った小型のあんか(行火)がある。
「行火」の「行」は「あん」と読ませているがこれは「行燈」(あんどん)、「行脚」(あんぎゃ)、「行宮」(あんぐう)等が同じ用法で、漢音では「こう」、呉音では「ぎょう」と読ませるが「行」は「持ち運びが出来る」と言う意味で、炭火を入れて手足を暖める可動式の道具、つまり「行火炉」(あんかろ)の略語である。
元は仏教用語で、修行僧も寒い季節には絶えられず「移動式暖房器具」を工夫して足を暖めたようだ。一般には、室町時代に禅僧によって広められ、江戸時代には夜の町を見張る「辻番」(つじばん)が同様の物を盛んに使ったので「つじばん」また、もっぱら足を暖めることから「足焙」(あしあぶり)とも呼ばれたようだ。これは、後に炭火を入れる「炉(火入)」と「蒲鉾型蔽(かまぼこがたおおい)」を合わせたたものと、炉(火入)の本体に灰と炭火を直接入れる「火鉢」に蓋をした形式のものとに分かれていたようだ。
「行火炉」には櫓炬燵」(やぐらこたつ)とそっくりな形をした小型のものがあるが、歴史的には、やぐら炬燵より「行火炉」が古くから使用され、「行火炉」から「炬燵」が考案されたようである。
また、江戸時代初期に中国から移入された布団の中に入れて足を暖める湯たんぽも熱源が手軽に手に入るお湯なので、簡便な暖身法として人気があったようだが、この「あんか」も小型で火持ちの良いことから、湯たんぽと同じように就寝時には敷布団の端の方に覆いを掛けて置くことで足を暖める可動式暖房器具としてよく用いられた(参考の※11又※12の中の陶磁火道具木質火道具 行火炉(1)参照)。
長いこと囲炉裏の時代が続くが、平行して煙や煤を嫌って炭火で暖をとることになりここで火鉢が生まれてきた。火鉢の歴史は古く、平安時代から貴族など上流階級の間では火桶(ひおけ)、火櫃(ひつ)、炭桶(すみおけ)、炭櫃(すひつ)などと同様のものが考案され、江戸時代から金属製、木製、陶製の火鉢が使用された。
「こたつ」が家庭用だったのに対し、火鉢は接客用に用いられたため様々に意匠を凝らしたものがある。町家では、長火鉢の改良が進んで、下に引き出しがついたり、そのまま食卓になるもの、銅製の酒の燗が出来る銅壷(どうこ)をつけたものなどが出現した。
余談だが、この長火鉢を自分の家に置くのが夢だったが、いいものが手頃に手に入らかったのが酒器などコレクションとしている私にはちょっと残念である。
普通の火鉢は、戦後エアコンに変わるまで、ずっと普通の家庭で、使われてきたが、簡単なものの煮炊きにも利用されたし、五徳の上に水を張った鉄瓶等をかけておくと加湿器代わりにもなり、便利な暖房器具だった。
ところで、肝心の話が最後の最後になってしまったが、先に述べた移動式暖房器具「行火」をさらに小型化し、懐中に入れたまま持ち運べるようにしたものが懐炉(カイロ)である。
日本には、古くから懐中に入れて暖をとる道具として温石(おんじゃく)といわれるものがあったそうで、これが、懐炉のツールであるとも言われており、懐炉は日本生まれの日本独自の保温具なのだそうだ。
以下参考に記載の※13:「財団法人京都市埋蔵文化研究所・京都市考古資料館」の”各種資料情報/これまでの各種資料情報/177生活・文化11 温 石”によると、
、“京都御苑内の発掘調査で出土した中世の遺物を整理していると滑石製石釜(石を積み上げてつくった堅炭製造用のかま)と思われる破片が4 6点見つかり、これらを調べていくうちに、これは滑石製石釜を転用した「温石」である事がわかり、この石には紐を通したり石を加熱した後に火箸などで取り扱いやすいようにあけられたと考えられる穴がある。ためしに、これらの石を熱湯につけて温め、タオルにくるんで温度の変化を調べてみると、室温2 4℃で2時間後でも3 8℃を保ち、保温力のある事がわかった。「温石」は、その字の通り、石を直接炉や火鉢等の火で熱したり熱湯に入れたりして温め、布などに包んで温度を調整して暖をとる携帯の暖房具として使用していたらしい。
しかし、近世になると、石に限らず土製品や瓦、塩を焼き固めたもの、塩を混ぜて炒った糠(ぬか)なども用いられたようだ。また、「温石」は暖をとるだけではなく、江戸の文献で寛政元年(1789年)に出版された『頭書増補訓蒙図彙大成』(かしらがきぞうほきんもうずいい)という子供のために書かれた事典には温石の解説に、「火に温めて、火のしとしても使え、長い病気を回復させ、悪い血をちらす」とあり、「火のし」とは、今で言うアイロンのように、衣類のしわ伸ばしや形なおしに用いられたり、腹痛や神経痛の患部に当てて温熱治療用具としても使用したようだ。
石を使った保温は古くは平安後期の『大鏡』に、「焼き石のように御身に当てて持ち給へりけるに・・・」とあり、「焼き石」と呼ばれて温石と同じ使われ方をしていたようだ。保温性が高く加工しやすい種類の石を利用した温石は、江戸時代に「懐炉灰」が発明されるまで、形を変えて長く利用されていた。“・・・という。
元禄時代の初め頃には、木炭末に保温力の強いイヌタデ(犬蓼)やナス(茄子)の茎などの灰(懐炉灰)に点火し、金属性の容器に密閉して燃焼させる懐炉が発明された。この木炭末に混ぜる灰としては他に麻殻や桐の灰なども使われたようだ。
近代になると、桐灰・麻殻灰・ゴマ殻灰・わら灰・ヨモギ灰などに助燃剤を加え紙袋に詰めた懐炉灰や、また、これを練り固めた固形のものが登場。
大正時代の末(1923年)には、矢満登商会(現:ハクキンカイロ。※14)の創業者・的場仁市により、気化したベンジン(揮発油)をプラチナ(白金)の触媒作用で徐々に酸化発熱させる原理を利用したカイロが発明され、「白金懐炉」と命名し売り出された。
ベンジンが稀少であった戦前・戦中は、軍隊など一部での利用が中心だったようだが、戦後はハクキンカイロ社以外の製品も登場し一般にも広く普及した。
現在は使い捨てカイロが主流だが、この使い捨てカイロは、鉄粉の酸化作用を利用したカイロであり、袋の中には、発熱体である鉄粉、触媒作用のある食塩水、それを保持する高分子吸水剤活性炭などが混ぜられている。安価で簡便なことなどから、ベンジンカイロに取って代わり現在はカイロの主流となっている。
この使い捨てカイロは、1978(昭和53)年にお菓子のロッテの子会社・旧ロッテ電子工業(現ロッテ健康産業=平成18年、ロッテ本体の健康食品事業を統合し社名変更)が携帯カイロ「ホカロン」という名前で発売した。同社が最初これを発明した経緯は、お菓子の脱酸素剤が空気に触れると発熱するところからヒントを得たらしい(※15)。また「ホカロン」 の名前は、温かいホカホカの「ホカ」と、当時(1978年)ロート製薬の胃腸薬「パンシロン」など、最後に「ロン」とつけた賞品がヒットしていたため、これを合わせて「ホカロン」としたそうだ(※5のカイロの名前参照)。この商品が大ヒット商品となって一般に普及したことから使い捨てカイロの元祖として「ホカロン」を思い浮かべる人が多いと思うが、実際には、これより早く使い捨てカイロは作られており、1975(昭和50)年には、アメリカ陸軍が使用していたフットウォーマーを元に、旭化成工業(現:旭化成)が、九州でのみで「アッタカサン」の名称で試験販売していたそうだ。
しかし、この米軍のフットウォーマーの原型とされるものの基本特許が明治時代に成立していた古いものということもあり、はっきりしない(Wikipedia)ようであり、それをあちこちの会社が研究して、いくつもの後追い製品ができるのだが、旧ロッテ電子工業もそのうちの1つであり、それを原型にして、三菱瓦斯化学(株)の子会社である日本純水素(株)(現・日本パイオニクス【株】)が1978(昭和53)年に開発し、その販売協力をロッテ電子工業に仰ぎ、ロッテ電子工業が「ホカロン」の商品名で使い捨てカイロを全国発売したものがヒット商品となって一般に普及した。
日本純水素は、その後、ホカロン等の携帯カイロメーカーに同社の不織布「スパンボンド」を独占的に供給することで、大きな利益を挙げていったという。同社は、1974(昭和49)年に内袋の包材に不織布を用いる「発熱性保温袋」を実用新案として出願していたそうだ(※16)。
私が住んでいる神戸を代表する地場産業に、ケミカルシューズがあり、その生産工場は長田区須磨区、中でも長田区に集中しており、私も神戸に長く住んでいる関係からケミカルシューズ関係の会社で仕事をしている人達も多く知っている。
私の母と同郷で幼い頃からの友人、母親同様に、神戸に出てきて結婚した人のご主人が関係している会社で今面白いものが実験的に作られているといって持ってきてくれたものがあった。それが、今でいう使い捨てのカイロであり、当時まだ、神戸では、使い捨てのカイロなどなかった時代、つまり、「ホカロン」など売られていなかったときのことである。
その製品がそこの工場独自に開発していたものであったのか、それともどこか大手の要請をうけての下請けで開発中であったのかは、ただ、開発中のものということしか教えてくれなかったので良く知らない。又、まだ完成品として出来上がっているものではなかったようなので、製品名等の書かれた正式な包装(パッケージ)もされておらず中身の内袋の状態のものをくれた。サイズは、今の使い捨てカイロの普通サイズのものとほぼ同じだったと記憶している。
ただ、そのカイロは、手に持って振っただけでは暖かくならず、カイロの両端を持って揉むようにすると次第に熱をおびてきたが、それが温かくなるには今のものなどに比べると大分時間も要した。カイロの内袋の中に何が入っているのかなど当時知る由も無いが、今のカイロよりも厚みがあり、カイロを振ると中身がカサカサと音を立て袋の中のものが異動していたのを記憶している。
それまで、寒い日など、会社への通勤時には白金触媒式カイロ(ハクキンカイロ)を、服のポケットなどいれて使用していたが、コンパクトで携帯が便利で揉むだけで暖かくなり、使いたいときにすぐ使用できる便利もので重宝したので、近所の親戚などの人にあげると皆欲しいというので、工場で買ってきてくれと頼んだが、何度もは買えないと言いながらも2回ほど買ってきてくれた。工場の関係者が直接製造しているところから買っているので、価格のことなどもう忘れてしまったが非常に安かったことだけは覚えている。
使い捨てカイロは登場後、技術の進歩により、使い始めてから温かくなるまでの時間も短縮され、肌着に貼れるタイプのものも出来ピンポイントで身体を温められるようにもなった。
現在使い捨てカイロは、様々なメーカーから数多くの種類の製品が作られ、「くつ用」「座布団用」「くつ下用」「中敷用」「スリッパ用」など用途別のカイロも発売され広く一般に普及している。
また、古来養生訓として身体を冷やすことが良くなことはよく知られていることであるが、慢性の腰痛や、膝痛などは患部を温めることによって血行よくすることが良いことも知られており、カイロは温湿布代わりとしても有効だ。
正直、年を重ねるごとに寒さがこたえ、若いときのように薄着ではいられなくなる。年齢から来る代謝量減少などにより身体の熱量が下がっているからだろう。足先から体の芯までジンジンと冷たさが身にしみる。これからの寒さの厳しい冬に、節電が要請される中、一般的には、冬の防寒対策として、服を1枚多く着るとか、保温効果の高い素材のものを着て寒さを防ごうということになるのだが、厚着をすれば肩も凝るし身体の芯からの冷えは防げない。
寒い時、体の内側から温まるには“陽性”の食べ物(※17参照)と言われているつまり冬野菜や、大根、人参、ゴボウ、蓮根といった根菜に、トウガラシ、ネギ、ショウガなどは体を温める作用があると言われているので、積極的に摂りたい。そして、外側から体を温めるとき、近年の研究では38~39℃の温度で筋肉を温めるのが理想的と分かっているそうだ。例えば、使い捨てカイロの使い方にひと工夫し、単に手足を温めるだけでも悪くはないが、お腹、太腿、二の腕など気になる部分に当てて30分ほど動くと、その部分の細胞が活性化し筋肉量も増えるという。
それに、基礎代謝量が増えれば脂肪が燃焼されやすい身体になり、身体が早く温まるという。基礎代謝を上昇させるには褐色細胞(脂肪組織参照)を温めると良いらしいが、褐色細胞は背中や首筋、わきの下などに多く分布しているので、出来れば、軽いウォーキングやヨガ、ストレッチなど、背中やワキの下など、褐色脂肪の集中しているゾーンを意識しながら行うと着実に効果が期待できるが、どうしても出来ない時はその部位にカイロを貼って温めるだけでも効果があるという(※18、※19参照)。
世界的に何処の国の経済状況も混沌としてきた現代、省エネ・節電もしながらの寒い冬は、適度な運動をして、食事のとり方、防寒衣料や防寒グッズそれにカイロなどを有功に使って乗り切りましょうね。
画像は、桐灰化学小林製薬の子会社)「桐灰はる」
※1:古事類苑
http://base1.nijl.ac.jp/~kojiruien/index.html
※2:古代史獺祭::列島編/日本書紀
http://www004.upp.so-net.ne.jp/dassai1/shoki/frame/m00.htm
※3:万葉仮名で読む万葉集
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/manyoushuu.txt
※4:紀女郎 千人万首
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/osika2.html
※:5日本カイロ工業会
http://www.kairo.jp
※6:「徒然草」H. Shinozaki『日本古典文学テキスト』
http://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/turez_1.htm
※7:住宅:改正省エネルギー法関連情報(住宅・建築物関係) - 国土交通省
http://www.mlit.go.jp/jutakukentiku/house/jutakukentiku_house_tk4_000005.html
※8:ECCJ :改正省エネ法の解説 (平成22年4月1日施行)
http://www.eccj.or.jp/law06/info/index.html
※9:家電エコポイント制度とは
http://eco-points.jp/index.html
※10:桂離宮 京都通百科事典
http://www.kyototsuu.jp/Sightseeing/HistorySpotRikyuuKatsuraRikyuu.html
※11:日本の暖房の歴史
http://www.netmuseum.co.jp/satou3/history.html
※12:火道具と炭火文化
http://blog.livedoor.jp/hidougu/
※13:財団法人京都市埋蔵文化研究所・京都市考古資料館
http://www.kyoto-arc.or.jp/
※14:ハクキンカイロHP
http://www.hakukin.co.jp/index.html
※15:ロッテ健康/ホカロン
http://www.lottekenko.co.jp/products/hokaron/index.html
※16:「環」第166号 九州は携帯カイロの故郷
http://www1.ocn.ne.jp/~knight00/kan166.htm
※17:食べ物で冷え性改善|冷え性ドットコム
http://www.hiesyo.com/tabemono/index.html
※18:正月太りを楽して解消。冬に溜まった脂肪にサヨウナラ(日経トレンディ)
http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/special/20090108/1022605/?P=3
体温と褐色脂肪細胞 - 基礎代謝を高めるための99の技法
http://taisya.denze.net/saibo.html