今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

五月雨忌(村下孝蔵の忌日)、ヒット曲「初恋」に因み『恋』について

2015-06-24 | ひとりごと
今日6月24日は『五月雨忌』。歌手・村下孝蔵の1999(平成11)年の忌日。
Wikipedia によれば、村下孝蔵は、1953(昭和28)年2月28日、熊本県水俣市の生まれ。子供の頃、ロカビリーに夢中になっていた。ベンチャーズに憧れ、12歳の時映画『エレキの若大将』(1965年公開)で加山雄三の『夜空の星』を聴いたことをきっかけに「ボクも作曲する。歌う。エレキギターも持つ」と言うようになったという。
当時東宝の若手看板スターとして大活躍していた加山の娯楽映画『若大将シリーズ』の一つ『エレキの若大将』では、加山の代表曲である『君といつまでも』(歌詞J-Lyric.netのここ参照)と『夜空の星』(歌詞J-Lyric.netのここ参照)の2曲が挿入歌として歌われていた。いずれも、作詞は岩谷時子で、作曲は弾厚作(加山自身の作曲家としてのペンネーム)である。
いずれも『恋』の歌であり、映画では、『君といつまでも』は戦場ヶ原で若大将の雄一(加山)と恋人役の澄子(星由里子)がデュエットするシーンで歌われ、『夜空の星』は、エレキ合戦のシーンと日光でのシーンに使用されていた。
どちらの曲も大ヒットしたが、当時としては、ちょっと恰好良すぎてキザにも感じられたが加山のような良い男が照れながら言っているから良いのだろうが、「幸せだなァ・・・」の有名なセリフで知られる、『君といつまでも』は350万枚の大ヒットになり、1966(昭和41)年の第8回日本レコード大賞の大本命とされていたのだが、結局大賞は同曲に比べ売り上げ面で劣る橋幸夫の『霧氷』が受賞することとなり、「君といつまでも」は特別賞に留まった。当時それまで、格好良い男性としては石原裕次郎などがいたが、タフガイの石原などとは全くタイプの違う清々しい感じの若大将・加山だからこそ似合う恋の歌という感じである。当時としてはモダンすぎた。まだまだ、橋幸夫や舟木一夫の歌が大もての時代であった。

高校を卒業した村下は得意の水泳で実業団・新日本製鐵八幡製鐵所入社するが9月には、退職し、当時父親が東洋工業に転職して広島市に転居したのを機に、自身も広島へ移り、1972(昭和47)年、日本デザイナー学院広島校インテリアデザイン科へ入学。友達がいなかった村下は、平和公園で一人でギターを弾くことが多かったという。
『エレキの若大将』に憧れ、ベンチャーズに心酔していた村下が、広島でエレキ・ギターフォークギターに持ち替え、曲作りを始めた理由は、当時の広島は吉田拓郎のコピーをやる人が多く、フォークギターを持たなければ仲間が作れなかったためであったという。
日本デザイナー学院卒業後ヤマハ広島店に就職し、2年間、ピアノ購入契約で実績を挙げ、1975(昭和50)年からはピアノ調律師として勤務する傍ら、ホテルのラウンジで弾き語りのアルバイト等で地道に音楽活動を継続.1979(昭和54)年、26歳の時、ヤマハを退社し自主制作レコード『それぞれの風』を発表。これが地元テレビのディレクターに認められたのがプロとしてデビューするきっかけとなったようだ。
同じ頃、知人のライブハウス店主から勧められ、当時のCBSソニー(現在のソニー・ミュージックエンタテインメント)の全国オーディション(第1回CBS・ソニーオーディション)に応募し、グランプリを獲得。これがきっかけとなって27歳にしてシングル『月あかり』でプロ歌手としてデビューすることになったという。
その後、『春雨』(1981年)、『ゆうこ』(1982年)を発売、そして、1983(昭和58)年、30歳にして発表した5枚目のシングル『初恋』が、オリコンチャートで最高3位を記録する大ヒットとなった(※1参照)。
『初恋』は村下がバラードとして作ったものを編曲家の水谷公生がテンポを上げてポップ系に編曲し、村下がそれを受け入れたことで完成をみた楽曲であったという。
『初恋』発売の前後に村下は肝炎を患い、『初恋 』がヒットしてもテレビ番組にはほとんど出演できなかった。また、肝炎が原因で広島と東京の往復が出来なくなり、1984(昭和59)年末には生活の拠点を東京に移し、同年秋から全国ツアーを開始したが、翌1985(昭和60)年に再び体調が悪化し、入退院を繰り返していたようだ。
その後、1989(昭和64.平成元)年、『陽だまり』、アルバム『野菊よ 僕は…』を、1992(平成4)年シングル『ロマンスカー』を発売するが芳しくはなく、この時期の村下は試行錯誤の末、「自分には"初恋"を越える曲はできんかもしれん」「時代は追いかけるものではなく、巡りくるもの。向こうからやってくるのよ」という境地に至っていたという。
1999(平成11)年6月20日、駒込のスタジオでコンサートのリハーサル中に突然体調不良を訴え、入院。診察で「高血圧性脳内出血」と判明した直後、意識不明の昏睡状態に陥り、僅か4日後の6月24日に死去したという。<享年46歳>。
命日である6月24日は、ヒット曲『初恋』のワンフレーズより、五月雨 (さみだれ。梅雨)の時期であることから「五月雨忌」と呼ばれ、10年以上経過した今でもメモリアルイベントが開催されているそうだ。また、村下の死去から14年を経た2013(平成25)年、故郷水俣市の商店街『ふれあい一番街』に「初恋」の歌碑が建立され、商店街ストリートの名称もこれにちなみ『初恋通り』と改名されたという。
ただ、正直私は村下のことは余り良く知らないのでこれ以上彼自身のことを書く材料がない。従って、今日の「五月雨忌」が彼の最大のヒット曲『初恋』から名付けられたものと言うので巨はそのことに因み、『恋』をテーに書くことにする。まずはそのヒット曲を聞くことから始めよう。


上掲は、村下孝蔵のヒット曲 『初恋』。歌詞は、以下を参照されるとよい。
村下孝蔵 初恋 歌詞- J=Lyric.net

五月雨は緑色
悲しくさせたよ一人の午後は
恋をして寂しくて
届かぬ想いを暖めていた
好きだよと言えずに初恋は

・・・と続く『初恋』の歌の冒頭の歌詞「五月雨は緑色」。どんよりとした梅雨時の景色から、この時期の色としては、はなんとなく薄いグレーを思い浮かばせたりするかもしれないが・・・・。
卯の花月(卯の花の咲く月の意。旧暦4月の 異称)に取って代わる五月雨(旧暦5月に降る雨)は、「卯の花腐(くだ)し」とも呼ばれる。そんな露雨(つゆあめ=梅雨)によってこそ「新鮮な若葉」が映えて来るのだとすると、「五月雨」にふさわしい色は「緑色」と言えるのかも知れない。
そんな梅雨時に一人でいると何となく悲しくて、そして、特に恋をしていると淋(さび)しくもなるものだろう。
【淋】という字にはもともとは「さびしい」という意味はない。元来は水が注いだり、したたるさま、さらに転じて長雨のことを指すようになった(ニコニコ大百科参照)。【淋】を「さびしい」意味に用いるのは日本独特の用法で、おそらくは淋雨(梅雨などの長雨)に降り込まれて行き場のない侘(わび)しさから連想したものだろうといわれている。
「好きだよと言えずに初恋は…」と、青春の甘酸っぱさが曲全体に広がるこの『、初恋』の歌。「30にもなって何を青臭い歌を歌っているんだと思うかもしれないが、今だからこそ歌える歌でもある。中学生の頃の感覚を残しておきたいんです」・・・と村下は言っているそうだ。
歌詞は村下の実体験に基づいたもので、熊本の中学時代、テニス部の女の子を好きになった。放課後の校庭をラケットを握りながら、走り回る可憐な少女。それを校舎の窓から見る孝蔵少年。「好きだよ」のひと言が言えないまま、彼女は転校してしまった。その面影がいつまでたっても忘れられない…。・・・のだと。
この曲、梅雨時の6月に有線放送やラジオのヒットチャート上位に入り、レコード売り上げもアップしたが、切ないフォーク調の歌は、レコードを普段あまり買わない中高年にも支持されたという(※1参照)。
叶わなかった初恋の苦い経験は私にもあるが、それは誰にでもあるのではないか。梅雨時に、バーで独り侘しく飲んでいる時などに有線でこのような歌を聞いていると、いい年したおっさんも若い時のことを思い出して、ちよっとおせんち(sentimental)になったりするものだ。

“初恋”といえば前にも、このブログ10月30日「初恋の日」でも書いたのだが、島崎藤村が『文学界』(1896年)に発表した『初恋』というタイトルの詩を思い出した。この詩を収めた処女詩集『若菜集』(※2「青空文庫」の藤村詩抄参照)は翌1897(明治30)年8月に刊行されている。藤村のこの詩は日本の近代詩を代表する傑作と言われており、多くの人が一度は、中学か高校生の頃に読んでいるのではないだろうか。

まだあげ初めし 前髪の 林檎のもとに 見えしとき
前にさしたる 花櫛の 花ある君と 思いけり

やさしく白き 手をのべて 林檎をわれに あたへしは
薄紅の 秋の実に 人こひ初めし はじめなり

わがこころなき ためいきの その髪の毛に かゝるとき
たのしき恋の 盃を 君が情に 酌みしかな

林檎畑の 樹の下に おのづからなる 細道は
誰がふみそめし かたみぞと 問いたまふこそ こひしけれ

藤村の「初恋」の詩に、若松 甲が曲をつけ、歌手・舟木一夫により歌われた同名の歌『初恋』がある。NHK紅白歌合戦(1969=昭和44年第20回)でも歌われていた。「初恋」は七五調のリズムで書かれていて日本人には馴染みやすい歌だ。「初恋」の詩は4番まであるが、歌では4番は歌われていない。


上掲は、舟木一夫 初恋(昭和46年)
「まだあげそめし前髪」は、「髪をあげてまだ日がたたない少女の前髪」のことであり、髪をあげるとは明治時代では、少女が12、3歳頃になると、肉体的な成熟を迎えたとして、大人になった印に、それまでの振り分け髪(今で云う「おかっぱ」)から(まげ)を結い髪形を変えた。
藤村の『初恋』は、単に初々しい恋を詠った作品というよりは、そんな成人を迎え、大人の仲間入りをした女性に、あこがれと淡いエロスを感じている少年の姿を描いた、つまり、この初恋は「禁断の恋」であったようだ(詳しくは、上記の私のブログ「初恋の日」また※3参照)。

「恋をしましょう 恋をして
浮いた浮いたで 暮らしましょ
熱い涙も 流しましょ
昔の人は 言いました
恋はするほど 艶がでる(繰り返し)

・・・と詠ったのは、演歌歌手畠山みどりの『恋は神代の昔から』(作詞:星野哲郎 作曲:市川昭介)。


上掲は、恋は神代の昔から 畠山みどり (1978)
1960(昭和35)年、素人のど自慢番組『トップライトショウ』(ニッポン放送)で優勝したことでレコード会社の関係者の目に入り、日本コロムビアに入社。入社後1年4ヶ月間、船村徹の下でレッスンに通う傍ら、島倉千代子などコロムビアの看板歌手の前座を努めた後、1962(昭和37)年にこの曲でデビューした。扇片手に袴姿という奇抜さもあいまって、畠山の名は一躍、全国に知れ渡ることとなった。
村下が、加山の『夜空の星』を聞いた3年前のこと。歌のタイトルじゃないけれど、“恋は神代の昔から”・・・とはよく言ったもの。
【恋】とは、一般には、特定の異性に強く惹(ひ)かれ,会いたい,ひとりじめにしたい,一緒になりたいと思う気持ち(大辞林 第三版)。また、切ないまでに深く思いを寄せること。恋愛(デジタル大辞泉)。…と解説されている。
「恋に上下の隔てなし」と云うことわざもある。つまり、恋をするのに、家柄(家系や地位)や、貧しさ、豊かさなどの、区別はなく、 お互いの心に、思い抱く気持ちしだいであるということ(「恋に上下の差別なし」とも)。老若男女を問わず昔から誰もが“恋をし、心をときめかせ、また、それが実らず悩んだりしてきたものだ。
現存する日本最古の歌集『万葉集』には、数々の恋の歌がある。その恋・愛の形はさまざまで、その時代を生きた 人たちの心を知る事ができるとともに、今の私たちの気持ちと何ら変わることのない恋の 喜びや苦しみを共有することができる。日本語の中にまだ仮名と呼ばれるものができる前に書かれたもので、 原文は全部漢字で書かれているが、ここでは現代語訳文で大伴坂上郎女の歌を2~3紹介しておこう。訳文等は、※4:「やまとうた」の千人万首:大伴坂上郎女を参照)、
坂上郎女は、大伴安麻呂石川内命婦の間の子。稲公の姉。大伴旅人の異母妹。家持の叔母、姑でもある。
額田王以後最大の女性歌人であり、『万葉集』には、長歌・短歌合わせて84首が収録されており、女性歌人としては最多入集であり、全体でも家持・人麻呂に次ぐ第三位の数にあたる。

我あれのみぞ君には恋ふる我が背子が恋ふと言ふことは言ことのなぐさぞ(万4-656)
【通釈】私の方が一方的にあなたに恋しているのです。あなたが恋していると言うのは、口先だけの慰めなのですよ。

思へどもしるしも無しと知るものを何かここだく我あが恋ひ渡る(万4-658)
【通釈】いくら恋しく思っても、何の甲斐もないと知っているのに、どうしてこれ程私はずっと恋し続けているのだろう。
やるせないね~、片思いの苦しさがよく伝わってくる歌だ。

黒髪に白髪しろかみ交じり老ゆるまでかかる恋にはいまだ逢はなくに(万4-563)
【通釈】黒髪に白髪が混じって、これほど年寄るまで、こんな恋にはまだ出逢ったことはありませんことよ。
【補記】この歌は、天平元年から二年頃の作と推測され、郎女は30歳前後。この時代の結婚年齢は、 一般的に男性が17~8歳前後で、女性は13歳くらいで結婚していたと言うから、30歳と云えば、おばあちゃん扱いされる年代。
例え女性でも、おばあちゃんと云われる年代になっても、色恋だけは、なくならないもの。いや、相手にされないと思うと余計に恋しさはつのるのかもしれない。これは、男性であっても同じことだろう。
『万葉集』の多くはじつは恋愛の歌である。以下参考※5「たのしい万葉集」では、そんな“恋の歌”を分類し、まとめている。どんな歌があるか興味のある人は覗いてみるとよい。今の私たちの気持ちと何ら変わることのない恋の喜びや苦しみを共有することができるだろう。

たのしい万葉集:恋の歌

○ある一人の人間のそばにいると、他の人間の存在などまったく問題でなくなることがある。それが恋というものである。
ツルゲーネフ(ロシアの小説家 / 1818~1883)

○誠の恋をするものは、みな一目で恋をする。
シェイクスピア(英国の劇作家、詩人 / 1564~1616)

○わたし、おりこうな女になんてなりたくないわ。だって、恋に落ちたんですもの。
リリアン・ヘルマン(米国の脚本家 / 1905~1984)

○恋をして、しかも賢くあることは不可能だ。
フランシス・べーコン(英国の哲学者、神学者、法学者 / 1561~1626)

○我々は恋をすると、現在はっきりと信じているものまでも、疑うようになるということが、しばしばあるものである。
ラ・ロシュフコー(フランスの貴族、モラリスト文学者 / 1613~1680)

○真の恋の兆候は、男においては臆病さに、女は大胆さにある。
ヴィクトル・ユーゴー(フランスのロマン主義の詩人、小説家 / 1802~1885)

○恋は全て初恋です。相手が違うからです。
中谷彰宏(日本の作家、俳優 / 1959~)

昔から、恋にまつわる名言は無数に存在する。先に挙げた名言は、以下参考の※6:「e恋愛名言集」にあるものを引用させてもらった。
日本では、
「恋は盲目」(恋は常識や理性を失わせてしまう,の意。)
『恋は思案の外』(恋は常識や理性では割り切れないものだ。)
『恋は闇』(恋は人の理性を失わせるということのたとえ。また、恋の逢瀬(おうせ)には暗闇が好都合の意にも用いる。)
なんて言葉があるように胸を焦がすような恋に落ちると、人は冷静ではいられなくなる。恋は昔から、人の心を掻き乱し、周りを見えなくさせて、常識や理性を失わせて判断力を狂わせてしまう・・・。これは、誰でも一度は経験があるのではないですか?
最新の科学研究では、どうやらこれらのことが本当あることが明らかになっているのだという。
人は恋に落ちると脳内麻薬といわれる脳の中で分泌されるホルモン”ドーパミン”(快楽ホルモン)が放出され、脳が快感を感じ、これが、→全身に興奮が伝わり、鼓動が早まって胸がドキドキする→恋愛特有の症状が起こる。・・・ことにつながっているのだと言う。つまり、このようなのメカニズムが関係しているのだそうだ(※7、※8参照)。
そして、男女の結び付きに重要となるドーパミンを意図的に増やことは可能なのだという。ええ・・・!ドーパミンを増やすことができるの?・・・ちょっと気になりませんか。そんな人は、参考※8を参照されるとよい。
ただ, 脳科学的な側面からは、恋がもたらす人体の影響についてわかり始めているが、恋愛に関する心理学の専門家は「恋の感情が雪だるま式に暴走した結果、ストーカー行為を生じることもあるが、残念ながらその原因を突き止めるにはいたっていないらしい(※7参照)。
ストーカー行為にまで行くのは別として、恋に燃えてしまうほど、相手しか見えなくなり、それ以外が見えなくなってしまうことはよくある。好きであるほど、相手一点に集中しすぎてしまうために、脳内バランスが悪くなってしまうのだが、恋に燃えている本人には、「それがなぜ悪い」と分からなくなってしまう。そのため気づかないうちに、友人関係、家族関係、勉強や仕事に集中ができなくなり、学業にも専念できなくなってしまったりする。このようなことは結婚前のまだ若いときであれば、「若気の至り」で許されもするが、結婚後では痛みが大きい。そのため、「恋は盲目」という恥ずかしい経験は、できれば早いうちに経験しておいた方が良いのだろう。
人生80年の時代、健康で長生きするのには、老いても恋心はなくしたくないが、えてして、「老いらくの恋」は行き着くところまで行ってしまうこともある。なかなかうまくゆかないものだが、恋をしたい人は、恋愛にかんする心理学的なものをまとめたブログもあるので、興味があれば、以下参考の※9や10など参照されるとよいだろう。

冒頭の画像は村下孝蔵の CD『初恋~浅き夢みし』ジャケット。絵は村上保の切り紙絵。

参考:
※1:365日 あの頃ヒット曲ランキング 【1983年6月】初恋/村下孝蔵
http://www.sponichi.co.jp/entertainment/yomimono/music/anokoro/06/kiji/K20110624001067080.html
※2:青空文庫/作家別作品リスト:島崎 藤村
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person158.html
※3:誤解される初恋・・
http://poemculture.main.jp/touson01.html
※4:やまとうた
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/index.html
※5たのしい万葉集
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/index.html
※6:e恋愛名言集
http://rennai-meigen.com/koi/
※7:「恋は盲目」「恋は麻薬」は本当だった! 最新研究で恋がおよぼす影響が明らかに
http://rocketnews24.com/2012/11/19/266596/
※8:蓮香先生の「恋愛」クリニック
http://www.sunmarie.com/msn_renka/index18.html
※9:心理学:恋愛心理(ガールズ)- NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/topic/1M63K
※10:恋愛初心者のための30の基本基本 | HappyLifeStyle 
https://happylifestyle.com/2865
村下孝蔵-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8B%E5%AD%9D%E8%94%B5

酒豆忌」「怪談映画の巨匠」中川信夫(映画監督)忌日

2015-06-17 | 人物
今日6月17日は、『東海道四谷怪談』(1959年公開新東宝映画)など「怪談映画の巨匠」として知られる映画監督中川信夫の1984(昭和59)年の忌日である享年79歳。
日本酒の肴にはもってこいの食材豆腐。豆腐を肴に日本酒を飲むことを終生愛したといわれる中川信夫監督の忌日は、そんな生前の好物に因んで「酒豆忌」と呼ばれている。監督が亡くなって後、関係者たちが監督を偲ぶ集いとして行ってきたものだが、1987(昭和62)年以降は忌名を「酒豆忌」として現在に至っている。

中川信夫は、1905(明治38)年4月18日、京都洛西'(京都市右京区)の嵯峨二尊院門前町に,父・中川竹次郎(嵐山の料理旅館「嵐峡館(※1参照)」のシン=板前の主任)と、母・ソノ(同旅館の仲居頭)の長男として生まれる(※2参照)。
4歳の頃、一家は大阪へ出て父親が考案した煮豆の店を開いていたようだが、1909(明治42)年キタの大火で店を消失し、翌年には神戸市兵庫区の荒田町に移って、煮豆屋を開く。1911(明治44)年6歳の時、新開地の横丁に店を移し、後に鰻屋にかえたのが大当たりし、翌年には福原遊郭に近い新開地の一角に料亭を出すまでになったという。信夫少年は1919(大正8)年私立育英商業学校(現育英高等学校)に入学し、1924(大正13)年卒業(19歳).。この間父は布引の滝へ移り、大料亭「巌水」を開いていたが、この年には、元町相生橋(日本最初の跨線橋。※4参照)畔の木造三階建の家を惜り「巌水鰻食堂」をはじめたという。我が地元神戸のことであった為、幼少時の中川信夫の父親のことを少し詳しく書いてしまったが悪しからず。

中川は、父に「映画監督になりたい」と言うと、「好きな道へ行け」と言われて、1925(大正14)年20歳の時、大阪の帝国キネマ小阪撮影所に入社したという。私のブログ「映画の日」でも書いたが、神戸は映画発祥の地なので影響を受けたかな・・・・。しかし、まずカメラ助手をし、現像の仕事をするが、2週間ぐらいでやめたらしい。
翌1926(大正15・昭和元)年21歳の時、父が、喘息発作に因る心臓麻痒で死去し、母に家業を手伝わされ、家業の手伝いをしながら、文学者になることを目指し、1928(昭和3)年23歳の時、同人誌『幻魚』に小説を執筆するが、文学者になるには大学を出ていなければ駄目だとその道をあきらめ、再度映画の道に進むことにしたという。
そして、キネマ旬報読者寄書欄の素人映画評論家を経て1929(昭和4)年24歳の時マキノ・プロダクションに入社し、助監督となる。この時代には山上伊太郎伊丹万作小津安二郎らに強い影響を受けたという。
1930(昭和5)年8月、世界大恐慌による不景気によりマキノ撮影所が給料遅配になり争議に突入すると、従業員(組合)側の記録係をつとめた。同年12月にマキノが製作を一時中断した後は無職で1年間過ごし、その時間をシナリオ執筆に費やした他、1931(昭和6)年には神戸の三宮神社裏の生田筋に喫茶店「カラス」を開業している。私は神戸っ子なので、当時の喫茶店「カラス」のマッチがあるのを見つけたよ(※5参照)。
1932(昭和7)年27歳の時、マキノ時代から親しかった稲葉蛟児監督(すでに市川右太衛門プロダクションで仕事をしていた)から誘いを受け市川右太衛門プロダクション、(奈良市の「あやめ池遊園地」内)へ助監督の身分で移籍し、1934(昭和9)年の時代劇弓矢八幡剣』(主演:田村邦男)で監督に昇進した。本作を製作した同プロダクション第二部は、市川右太衛門主演作以外の作品を製作する部門であり、この作品は昇進試験として監督したものであるが、社内的に好評をえて監督の道が開ける。
そして、本格的な監督デビュー作は翌・1935(昭和10)年の右太衛門主演による若き日の清水次郎長物語『東海の顔役』である。この作品はサイレント映画サウンド版で、その主題歌「旅笠遣中」(作詞:藤田まさと、作曲:大村能章、唄:東海林太郎)が大ヒットして股旅物の歌謡の先駆けとなる。股旅物特有のテンポの良い曲ですよ。以下で聞ける。

旅笠道中: 二木紘三のうた物語

しかし、中川はデビュー作は自作シナリオ『鉄の昼夜帯』(のちに『悪太郎獅子』に改題して実現)の映画化)を望んだが認められず、陣出達朗脚本による本作品のシナリオだった。あてがわれた陣出のシナリオが気に食わない中川は、親友でのちに映画評論家となる滝沢一を借家に招いて、2人でシナリオを改変したそうだ。
滝沢の回想によれば、中川はこの頃すでに伊丹万作の影響で「映画の出来栄えは、一にも二にもシナリオ(脚本)の段階で決まる」という信念を持っていたという。しかし、シナリオ段階でこの作品を構成段階からまったく作り変えようとしたが、若き日の次郎長の姿をスピード感あふれる演出で見せるように軌道修正するのがやっとだったと滝沢は回想しているという。
中川は後に脚本家・桂千穂を聞き手としたインタビューにおいて、本作品についての感想を聞かれて「それが僕は気に入らないんだな。僕の人生が裏街道へ行く初めだから」と答えているそうだ。滝沢は、この頃の不満が中川を酒びたりにしたと語ってもいるという。
東海の顔役は、本作品において市川の演技を抑制することに専念し、滝沢の回想によれば、それは見事に成功したという。
中川念願の『悪太郎獅子』は右太衛門主演で1936(昭和11年)1月に完成したが、ようやく実現した矢先、今度は右太プロが松竹に吸収合併されることになったために、中川は「意気消沈した作品である」と語っている。作品は同年2月7日、松竹キネマ配給により大阪劇場で公開されているが、同日右太プロは撮影所を閉鎖。右太プロのメンバーは、右太衛門をはじめとして多数の人材が松竹に移ったが、中川は解雇されたそうだ(『自分史 わが心の自叙伝』、p.23)。
中川はいったんマキノ正博が設立したマキノ・トーキーに移り(監督としては『槍持街道』を製作している。※6参照)、1938(昭和13)年33歳の時に東宝に移籍した。
時代劇やエノケン(榎本健一)主演作を主に監督(監督映画作品参照)したが、戦時期の映画製作本数の減少で、1941(昭和16)年に東宝を契約解除となる。


上掲は、中川信夫監督『エノケンの森の石松柳家金語楼とのかけあい場面が懐かしい。

同年松竹京都撮影所製作部長の渾大坊五郎に招かれて同撮影所に移籍するが、間もなく松竹京都撮影所は製作体制を縮小して松竹大船撮影所に合併されることとなる。生活のために助監督をする覚悟で上京して大船に赴くが、不調に終わり、松竹京都撮影所に籍を置いたまま、次の企画を待つている間に、太平洋戦争がはじまる。
翌1942(昭和17)年37歳の時、中国上海にあった国策映画会社中華電影に監督として採用され、日中戦争の記録映画『浙漢鉄道建設』を監督した。途中結婚のための帰国を挟んで2年間撮影が続けられるが、映画は完成することなく終戦を迎えて『浙漢鉄道建設』のフィルムは焼却されたという(浙贛線(せっかんせん)とは - コトバンク参照)。
1946年(昭和21年)、上海から帰国。同年、池田富保が設立した大同映画に入社するが、仕事はほとんどなく生活に困窮する。中川は戦後、映画界に復帰する前から、詩の同人誌に参加していた。1945(昭和20)年上海にいるとき、日本人向け新聞「大陸新報」(※7参照)に投稿した長篇詩「しらゆき」が特別賞を受賞している。
上海で終戦を迎えた中川は、1946 (昭和21) 年日本へ引揚げてきて、妹・千代の嫁ぎ先の小笠原家(兵庫県西宮市)に落着き、3カ月後には、隣の質屋の二階を借り、千代の夫が戻るまで一年問住んでいたそうだ。
そして、神港夕刊新聞社公募「新憲法公布記念文芸」の詩部門)で、「地ならし」(※2の中川信夫詩集・業 目次参照)が第一 席(知事賞)に入選(12月1日)。翌、1947(昭和22)年兵庫県が新憲法公布を記念して公募した「県民歌」に投稿し、佳作に入選して、2百円を貰っていたという(※2の中川信夫・人間として映画監督としての79年参照)。選ばれた歌詞は、有馬郡生瀬国民学校(現西宮市立生瀬小学校。明治6年創立)教員の故野口猛さんが作詞したものだそうだが、同じ兵庫県民の私もこんな兵庫県歌があるのは今まで知らなかった(兵庫県下のことは※8を参照)。
中川は同年、中華電影時代に親交を持った筈見恒夫と京都で偶然再会し、当時新東宝のプロデューサーだった筈見の勧めで新東宝に移籍して(一家で東京に上京)、1948(昭和2)年『馬車物語』(石坂洋次郎原作の文藝春秋所載『馬事物語』を館岡謙之助が脚色したものを中川が演出。※9参照)で映画監督に復帰した。
そして、翌1949(昭和24)年9月榎本健一 主演で『エノケンのとび助冒険旅行』を公開しているが、この作品は、冒頭に徳川夢声の、「怖くて、ためになって、面白いお話をしましょう」という意味の語りが入ったファンタジー映画であり、中川自身は後に子供向けの作品として製作したことを明かしている。また、冒頭で徳川夢声のナレーションは本作品が目指す物語の特徴を、コメディと泣ける話とホラーの混ざり合った冒険物語と語っており、主人公の旅の途中に現れる目が光るクモの精や美女に姿を変える人食い鬼、森に潜む数々の化け物などのホラー描写も数多く見受けられ、中川怪奇映画に焦点を絞った『地獄でヨーイ・ハイ! 中川信夫怪談・恐怖映画の業華』を編著した鈴木健介は、同書で本作品を中川怪奇映画8本の中の一つに加えているようだ(物語など詳しくは※10のここ参照)。
続いて同年12月公開の、『私刑』で時代劇の大物嵐寛寿郎と初めて仕事をしている。この映画は、戦前から終戦直後にかけての、一人のやくざの半生を描いたもので、『地獄』(1960年)までつづく、中川と嵐寛のコンビ第1作でもあるが、GHQによる俗に言われる「チャンバラ禁止令」(正式には、「十三カ条の映画製作禁止条項」。※11参照)の影響下で製作されたもので、本作品に出演した池部良のインタビュー本を著作した志村三代子と弓桁あやは、本作品の嵐演じるやくざを「『網走番外地』シリーズをはじめとして、晩年に多数出演したやくざ映画の原点」であると指摘しているそうだ。
また、1953(昭和28)年11月公開の『思春の泉』は、新東宝と俳優座の製作提携作品であり、当時、俳優座に所属していた宇津井健の映画デビュー作品でもあり、提携していた俳優座が、千田是也岸輝子など俳優座のメンバーも多く出演している。公開当時の朝日新聞夕刊(日時不詳)で高評価を受け、日本以外にソ連でも一般公開されるなど、中川が監督した文芸映画の中では評価が高い作品の一つである。気をよくしてか、続いて、翌年、題名を啄木の代表小説(※12:青空文庫)にとった石川啄木の映画化『若き日の啄木 雲は天才である』、石坂洋次郎の東北を舞台にした明るくユーモラスな青春ドラマの映画『石中先生行状記 青春無銭旅行』(※10のここ参照)などを公開している。
新東宝が大蔵貢のワンマン体制に移行した後も、中川は同社で大蔵プロデュースの作品を量産し、1957(昭和32)年の『怪談かさねが渕』以降は同社の夏興業の定番である怪談ものを一手に引き受けるようになった。中川も映画のプロとしていろいろと実験を試みたのだろう。
1961(昭和3)年に新東宝が倒産した後は、東映京都撮影所国際放映と専属契約した後、1966(昭和41)年にフリーとなる。東映東京撮影所製作の『妖艶毒婦伝 お勝兇状旅』(1969年10月公開)を最後に映画から離れ、テレビドラマの監督を経て1979(昭和54)年に第一線から離れる。

1973年(昭和48年)68歳の時、東京世田谷の借家から神奈川県大和市に家を建て、3月に移っているが、1977(昭和52)年から1982(昭和57)年まで神奈川県芸術祭演劇脚本コンクールに自作脚本6本を応募、いずれも入賞している。1982(昭和57)年、磯田事務所(東京都渋谷区元代々木町にあった映画制作会社))とATGの提携作品『怪異談 生きてゐる小平次』(原作は鈴木泉三郎の同名戯曲)で、13年ぶりに映画監督に復帰(製作は1981年)。1984年(昭和59年)にはイタリアのペサロ映画祭で代表作『東海道四谷怪談』(1959年公開)などが上映されることになり招待状を受け取るが、同年1月10日風邪から脊髄炎、更に3月には脳梗塞を発症し意識不明に陥ったため、映画祭への出席はかなわなかった。1984(昭和59)年6月17日、心不全のため死去。満79歳没。

怪談怪奇映画の巨匠といわれている中川信夫。しかし,、全作品中、怪談怪奇映画は『地獄』など8本程しかない。時代劇、喜劇、シリアスな社会劇、文芸作、恋愛物、歌謡ドラマなど仕事のジャンルの幅は広い。この中に、中川信夫が貫いたものがある。弱者の視点から、理不尽な者たちをうつ「心」である。
彼は、生活に困窮した若き日のことや、家族のこと、友のこと、人が生きることなどに思いを馳せた詩を書き綴り、1981(昭和56)年にそれらをまとめて『業』というタイトルをつけた詩集を出版した(※2のここ参照)。生前の中川と親しく接した脚本家の桂千穂は、欲望などおのれの””の深さから逃れ得ない人間の悲喜劇こそ、中川映画のテーマであると語り、「生活の辛酸を嘗めつくし人生修羅の深淵を見極めた末に、一種の諦めに到達した」とその姿勢を表現している。
中川は自作について「(他の監督が断る)変なもんはすぐ僕のところへ来る」(インタビュー『全自作を語る』p.207)作品をこなし続けた「裏街道人生」(『全作品を語る』、p.197)と表現しているようだが、新東宝時代にはカメラマンの西本正や美術監督の黒澤治安など優秀なスタッフの協力を得て、次々と実験的な演出に挑戦した。
「怪談映画の巨匠」と呼ばれるようになる彼が初めての怪談映画『怪談累が渕』を発表したのは、先にも書いたように1947(昭和22)年に新東宝へ移籍して10年目の1957年(昭和32年)52歳の時、新東宝の夏興業の定番である怪談ものを一手に引き受けるようになってからである。
『怪談累が渕』の原作は三遊亭圓朝の『真景累ヶ淵』で、川内康範の脚本は発端部の『宗悦殺し』から『豊志賀の死』までをまとめて一本の作品にしている。
冒頭をワンシーン・ワンカットで描いて観客を物語に引き込む手法、若杉嘉津子の顔の崩れた幽霊役、沼に沈んでいく死体と浮かび上がってくるその亡霊、邦楽を基調としながら時折ジャズの旋律をはさみこむ渡辺宙明の音楽、そして人間の“業”の深さが呼び寄せる亡霊と因果応報(因果応報についてはここ 参照)の悲劇など、後の中川信夫怪談映画と共通するテーマや手法がこの作品ではじめて描かれている。

上掲は、中川信夫監督『怪談かさねが渕 』のDVD。女優は豊志賀(お累)役の若杉嘉津子。

1958(昭和33)年には怪談物『亡霊怪猫屋敷』を発表した。橘外男の小説及びそれを原作とした、この作品も大蔵貢ワンマン体制のもとで、夏定番の怪談・怪奇映画興行の1本として製作されたものである。
化け猫”もののジャンルに属する作品だが、幽霊屋敷のアイディアも盛り込まれ、江戸時代の呪いが現代まで受け継がれるという現代篇と時代篇の2部作構成になっているのは原作同様であり、登場人物もほぼ共通である。
現代篇を白黒映画、時代篇をカラー映画と、物語に応じてフィルムが分けられたパートカラーの手法が使用されている。当時各社で画面の大型化(シネスコ)、カラー化がはじまっていた時に、シネスコであるが、パートカラーの手法を選択した理由について、晩年の中川信夫作品で助監督をつとめた鈴木健介は、「オールカラーが予算的に無理な時代(新東宝にとって)に許されたパートカラーの条件を逆手にとった、実験精神に富んだ中川流演出」と解説しているという(ストーリーは※10のここ参照)。


上掲は映画「亡霊怪猫屋敷 」予告編

同年公開の『憲兵と幽霊』(※10のここ参照)は、『憲兵とバラバラ死美人』(新東宝 1957年、並木鏡太郎監督。※13参照)のヒットを受けて同傾向の作品を作ってほしいと大蔵貢から依頼を受けた中川信夫が「売国奴と愛国者」というテーマを出して、石川義寛が脚本化した作品である。『憲兵とバラバラ死美人』同様、天知茂中山昭二が主演している。怪談の味つけをされた憲兵隊の内幕ものというキワモノながら、軍隊という強者とそれに翻弄される一兵士とその家族という弱者、そして軍隊やそれに支配されたマスコミの流す情報に翻弄されて弱者を苛める無責任な大衆という多様な視点から戦時中の世相を描いている。元々は硬派な軍事サスペンスであったが、大蔵が強引に怪談要素を盛り込ませたという。

1959(昭和34)年3月公開の『女吸血鬼』(おんなきゅうけつき)は、新東宝が企画委員会を設けて発表した怪奇映画第1弾だそうで、元々は「裸女吸血鬼」の題名で公開される予定だったという。映画のモチーフが実在の人物であるため、グロテスクな印象をなるべく避け、照明やメイク、美術等で怪しげな雰囲気づくりをした。舞台となった水晶の城塞は江戸川乱歩の『パノラマ島奇談』のイメージを参考にしたという。
本作は日本初の本格吸血鬼映画であり、迫力ある吸血鬼を演じた天知茂も日本で初めての吸血鬼俳優となる。しかし、一方でタイトルロールである女性の吸血鬼は登場せず、題名と内容が合致しない作品となっている。そして、公開当時、新東宝では以下のような「宣伝ポイント」が興行館に通達されたという。
「従来の怪奇映画には見られなかった新型式の異色怪奇映画である点、つまり躍進目覚ましい新東宝がこの種の映画として“邦画界最初の企画”による傑作であるという点を売っていただきます」・・・と。同映画の予告編と動画は以下で見られる。

 新東宝 映画「女吸血鬼」(1958) 動画 

1959年(昭和34年)7月54歳の時発表した『東海道四谷怪談』は、怪談映画の最高傑作として知られている。
四世鶴屋南北の原作21回目の映画化であり、新東宝としても毛利正樹監督『四谷怪談』(1956年)につづいて2度目の映画化となるが、本作は四谷怪談ものとしては初のカラー映画である。
大蔵の発案によりオープニングには歌舞伎の様式美を採り入れ、また監督の中川がこだわっていた「人間の業の深さ」をテーマとしており、関連作品のの中でも際立って評判が高い、「戸板返し」や、お岩が醜く腫れ上がった顔の髪を梳く場面、など、原作の見せ場も忠実に映像化された。中川信夫と彼にインタビューした桂千穂は、「戸板返し」について、本作がおそらく初の映像化であろうと語っているという。
また、キネマ旬報1974年10月下旬号に中川自らが寄稿した『怪奇映画問答』では、新東宝時代に製作した怪奇映画について「まァまァという出来だと思いましたら、フタを開けてみますと世評が割に良く、(中略)オーバーに申せば伝説的にまで持ち上げる人もあり、今日に至った」と、怪談映画の巨匠と持ち上げられることに戸惑いを覚えたと書いているそうであり、少なくともこのころには怪談映画の巨匠と言われるきっかけを作った作品と言えるだろう。



上掲は映画『東海道四谷怪談』(1959年)

そして、1960(昭和35)年7月には『地獄』を発表した。この作品は、日本古来の地獄絵や人間の罪の意識をリアルに描写した怪奇傑作。
定番となっていた怪談ものに「地獄の責め苦の映像化」を持ってきた作品で、企画や原案も中川信夫によるものである。
仏教の八大地獄の映像化がテーマとなっているが、ゲーテの『ファウスト』やダンテの『神曲』など、西洋思想における悪魔や地獄(ここ参照)のイメージも盛り込まれている。新東宝の看板俳優だった嵐寛寿郎が、閻魔大王役でカメオ出演(ゲスト出演して端役を演じること)している。
この映画は、前半で業が深い現世の人間ドラマ(現世の地獄)を描き、後半は、彼らが墜ちたあの世での地獄を、シュールな映像で表現している。娯楽映画というより、全体が「動く地獄絵図」になっているかのような、独特の美意識に貫かれた観念的な映像であるが、いかにも「大蔵的」、見世物小屋的エログロの世界は,馴染めるか否かによって、作品の評価も違ってくるだろう。



上掲は映画『地獄』(1960)特撮ダイジェスト版

本作が封切られた同年の12月に大蔵貢が新東宝社長を解任されたため、本作は結果的に中川が手掛けた最後の新東宝怪奇映画となり、同時に大蔵貢プロデュースによる中川作品の最後を飾るものともなった。
良し悪しはともかく、中川も映画のプロとして実験精神を失わず、作品に才能を傾けた結果が、これら新東宝倒産寸前の佳品誕生に繋がったのであろう。

1961(昭和36)年3月、中川は、前年(1960年)の『地獄』で描こうとしたテーマをより突きつめた『神曲』地獄篇のシナリオを書きながら、一方でそうした怪奇映画とは180度趣きの異なる『「粘土のお面」より かあちゃん』を監督している。白ら代表作の一つとするこの作品は、豊田正子の原作『粘土のお面』を、前年の12月に大蔵貢が新東宝社長を解任され、圧倒的な支配力を誇る大蔵のようなプロデューサーが不在の中で製作された作品であり、どん底の生活ながらも明るく生きぬく庶民の姿を描いたものであり、反面、大蔵カラーが薄められたことによって初期の新東宝映画を思わせる文芸映画の色彩が強くなっている。脚本を執筆した館岡謙之助は『思春の泉』(1953年)や『若き日の啄木 雲は天才である』(1954年)など主に中川の文芸作品を担当した脚本家であり、本作は『青ヶ島の子供たち 女教師の記録』(1955年)以来6年ぶりの中川作品への参加である。


上掲は映画は、中川信夫監督『粘土のお面」より・かあちゃん』.予告編

1961(昭和36)年東宝が倒産した後フリーになった中川は、1968(昭和43) 年、東映(東京撮影所)に招かれ、久々に劇映画『怪談蛇女』(1968年※10のここ参照))を監督している(翌年宮園純子主演『妖艶毒婦伝』シリーズの2作品『妖艶毒婦伝人斬りお勝』(1969年妖艶毒婦伝お勝兇状旅』(1969年※10のも監督している)。
また、中川信夫が77歳の喜寿を迎えた年である1982(昭和57)年9月公開の『怪異談 生きてゐる小平次』は、日本アート・シアター・ギルド(ATG)の「1千万円映画」の1本として製作されたもの。
原作は鈴木泉三郎の同名戯曲である。この原作は、幽霊役で名を馳せた役者が殺されて幽霊となる小幡小平次の怪談話をアレンジし、「殺したと思ったのに何度でも生きて舞い戻ってくる」というシュールな味わいを持っている。歌舞伎では今もたびたび公演される定番の芝居のひとつであり、第二次世界大戦後の1957(昭和32)年には、青柳信雄監督、二代目中村扇雀芥川比呂志八千草薫主演による『生きている小平次』がすでに東宝で映画化されており、本作は、2度目の映画化である。
二代目中村扇雀が演じていた小幡小平次(役者)役は、:藤間文彦藤間勘十郎夫妻の長男)が、太九郎(囃子方)役は、石橋正次が、おちか(太九郎の女房)役は宮下順子が演じている。
中川はこの作品を遺作として、2年後の1984(昭和59)年に死去した。
中川の監督した怪奇・怪談映画は新東宝時代の6作品と当作品で計7本しか見当たらないが・・・。本人が8本というのなら、鈴木健介が言っているように1949(昭和24)年9月公開の『エノケンのとび助冒険旅行』を加えるのか、また、東宝へ来る前の東宝時代の1956(昭和31)年公開の『吸血蛾』・・・かな?
『吸血蛾』は、横溝正史原作(小国英雄+西島大脚本)の金田一(耕助) ものの一つで、本作での金田一役は二枚目俳優池部良が演じており、コートや背広姿で、金田一というよりも、ハンフリー・ボガード演ずるハードボイルド探偵のようなイメージの主人公が狼男と対決するという、中川信夫監督のエログロ満載映画で、東宝というより、何だか新東宝みたいな雰囲気の映画だというから・・・(※10のここ参照)。当時の東宝らしく出演者は非常に多彩で、金田一耕助 役の池部良など下の方に列挙されている(Movie Walker 参照)。


上掲は、『吸血蛾』ポスター。
それとも、新東宝時代のヤコペッティ監督による1962年公開のイタリア映画『世界残酷物語』をヒントにした小森白、高橋典と共同監督したドキュメンタリー映画『日本残酷物語』(1963年公開)かな・・・。内容は日本の風俗、自然現象、社会問題、食生活、性風俗といった当時の日本の残酷世界を見せてくれるモンド映画らしい・・・が。
他にフリーになってからは、「怪談映画の巨匠」として名が売れていたからであろう、多くの怪談物を手掛けている。(テレビドラマ参照)。

酒豪として知られる中川の詩集『業』所載の詩『死酒(しにざけ)』には、以下のように記されている。

おれが
「死んだら
おれの 死顔(しにがお)の上に
一升の酒を
ぶっかけろ
けちけちせずに
一升ぶっかけろ
一級酒がいい
特級酒はいやだよ
二級酒もごめんだ

中川信夫生誕102(トーフ)記念番組(1905年生まれなので+102で2007年の番組)のドキュメンタリー『映画と酒と豆腐と ~中川信夫、監督として 人間として』(国際放映製作),では、この詩を「特級酒のような高級世界は窮屈だし、二級酒のような苦しい生活も実体験から拒否をした。ごく普通の世界で生きたいという願望」と解釈している。中川信夫の長男の中川信吉は毎年、正月か命日が近くなると父の墓参に訪れ、酒と豆腐ともうひとつの好物だったというアンパンを中川の墓前に供えることもあるという。また、この詩を読んだと思われる墓参者が、たびたび墓を訪れては、一級酒を供えたり墓石にかけたりしているという。

(冒頭の画像は、中川信夫監督映画、「東海道 四谷怪談」(1959年公開、新東宝映画、主演:天地茂)画像はWikipediaより。)



「酒豆忌」「怪談映画の巨匠」中川信夫(映画監督)忌日(参考)へ

「酒豆忌」。「怪談映画の巨匠」中川信夫(映画監督)忌日(参考)

2015-06-17 | 人物
「酒豆忌」。「怪談映画の巨匠」中川信夫(映画監督)忌日 本文へ戻る

参考:
※1:休業中の老舗旅館「嵐峡館」、星野リゾートが再生-12月開業へ(烏丸経済新聞)
http://karasuma.keizai.biz/headline/792/
※2:中川信夫公式ホームページ - NIPPONEIGA.COM
http://www.nipponeiga.com/nakagawa/
※3:しじみ川旧跡(大阪市北区)
http://www12.plala.or.jp/HOUJI/shiseki/newpage989.htm
※4:OLD PHOTOS of JAPAN: 相生橋からの眺め 1900年代の神戸
http://www.oldphotosjapan.com/ja/photos/507/aioibashi-jp
※5:三宮及び周辺の店の特集(第4回) - 神戸・兵庫の郷土史Web研究館
http://kdskenkyu.saloon.jp/ml27san.htm
※6:加賀見山 槍持街道 - Toy Film Project 玩具映画プロジェクト
http://toyfilm.jp/2009/09/post-69.html
※7:資料庫(新聞)-日本上海史料究会
http://shanghai-yanjiu1.sakura.ne.jp/mysite2/archives-newspaper.html
※8:神戸新聞NEXT|社会|布く新憲法 ゆくては明かるし…幻の兵庫県民歌
https://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201501/0007625977.shtml
※9:馬車物語とは - 映画情報 Weblio辞書
http://www.weblio.jp/content/%E9%A6%AC%E8%BB%8A%E7%89%A9%E8%AA%9E
※10:幻想館:映画評
http://www.ne.jp/asahi/gensou/kan/index.html
※11:「表現規制とのたたかい」について - 日本映画監督協会
http://www.dgj.or.jp/freedom_expression_g/index_4.html
※12:青空文庫-石川啄木 雲は天才である
http://www.aozora.gr.jp/cards/000153/files/4097_9491.html
※13:おねえちゃんは悪魔憑き
http://www5b.biglobe.ne.jp/madison/worst/occult/kenpei1.html
中川信夫 - 日本映画データベース
http://www.jmdb.ne.jp/person/p0272830.htm
資料室>MOVIE DATABASE>|東宝WEB SITE
http://toho.co.jp/library/system/
中川信夫 詩集『業(ごう)』 - 荻野洋一 映画等覚書ブログ
http://blog.goo.ne.jp/oginoyoichi/e/80cd4f1994762f225c22ea5b76aefa84
中川信夫- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B7%9D%E4%BF%A1%E5%A4%AB


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夢の日

2015-06-10 | 記念日
日本記念日協会(※1)には、今日・6月10日の記念日として「夢の日 」が登録されている。
由緒書きを見ると、夢をかなえてくれた人(夢の実現に力を貸してくれた人)に感謝し、自分の夢について考え、語り合う日をと,香川県直島の女性が制定したものだそうだ。日付は6と10で「夢中」(むちゅう=むじゅう)と読む語呂合わせと、「夢は叶う」(む=6+10の字の形)などに由来する。・・・・からだそうである。
この記念日を設定したという香川県直島の女性がどんなを持っていて、その夢の実現に力を貸してくれた人が誰のことかは、何も書かれていないのでよく判らないのだが、私には、少し思い当るところがある。まずは香川県の直島という島のことから紹介していくと、皆さんも私と同じようなことを考えるようになるのではないだろうか。
香川県は、瀬戸内海に面し、四国の北東に位置する県であり、令制国讃岐国に当たる。
県庁所在地は高松市。県名は、讃岐のほぼ中央に存在し、かつて高松が属していた古代以来の郡「香川郡」から取られた。全国一小さい県(※2参照)だが、北部に広がる瀬戸内海には、小豆島など多くの島々が点在している。
本州の岡山県とは島々を伝う形で架けられた瀬戸大橋により、道路・鉄路で結ばれている。瀬戸内海を越えた岡山県や、鳴門海峡を越えた近畿地方との繋がりが深い。
直島町(なおしまちょう)は、そんな香川県香川郡に属する町であり、高松市の北に約13km、岡山県玉野市の南に約3kmの瀬戸内海上に浮かぶ直島本島を中心とした直島諸島の大小27の島々で構成されている。
余段だが、そのような地理的な位置の関係から、1988(昭和63)年10月1日に国土地理院が全47都道府県の面積算定法を見直し、岡山県玉野市との間に境界未定部分がある香川郡直島町の面積(14.2km²)を県全体の面積に算入しないことになったため、面積が減少し、それまで全国一小さい大阪府と逆転し香川県の面積が最下位となった経緯がある。
湖のように静かな海面、点在する多くの島々、白砂青松の浜、段々畑などの親しみ深い景観と豊かな自然が息づいている瀬戸内海。この『瀬戸内海』という言葉や観念は、明治初頭に至るまでは日本人が持っていなかったもののようであり、現代のような『瀬戸内海』(The Seto Inland Sea)の美しい風景を感動的に描写し始めたのは、ドイツ人医師シーボルトら、幕末から明治にかけて来日した欧米人であったようだ(※3:「ART SETOUCHI」のコラム世界第一ノ景 瀬戸内海の再発見また※4参照)。
日本では、1934(昭和9)年には、雲仙国立公園(現・雲仙天草国立公園)、霧島国立公園(現・霧島錦江湾国立公園)とともに、『瀬戸内海国立公園』として、日本初の国立公園に指定された。
その当時の指定区域は東から小豆島の寒霞渓、香川県の屋島、岡山県の鷲羽山広島県鞆の浦沼隈町周辺の備讃瀬戸を中心とした一帯のみであった。その後、過去数回にわたり、区域の拡張がなされ,、現在は、西は北九州市、東は和歌山市にまで及ぶ広大な公園となっている。
また、瀬戸内海は、海上交通路としても重要な役割を果たしてきた。古代から大陸文化が伝わるルートとして、近世には北前船が往来する航路として、人や物資が行き交う大動脈であった。島々や沿岸では、人・もの・情報を柔軟に受け入れながら、それぞれの文化や伝統を形成してきた。瀬戸内海の魅力は、こうした自然と人々の営みとの両方により形作られている。
一方、1960年代以降、この美しい風景地の一部では、高度経済成長とともに、大規模な工業開発が進められ、経済発展と引き換えに深刻な環境汚染を引き起こす・・・と、いった負の側面もあった。
例えば、香川県の直島町の直島本島の面積は7.81平方km、人口が約3,400人。島内にはフェリーの発着港を擁する宮ノ浦(※5参照)、日本戦国時代の海城村を原型とした本村(ほんむら・高原家の城下町。※5 のここ参照)、古くからの漁港である積浦(※5のここ参照)という3つの集落がある。
本島北部では、大正時代から三菱マテリアル直島製錬所(※6)が操業。銅の製錬が行われており、周辺の関連企業と合わせて大規模な工業地帯となっている。その為、直島町のいくつかの島は煙害で禿山となっていたが、戦後まもなくから植林の努力が続いている。特に荒神島の緑は近年見事なまでに復活しており、北側一帯の木が枯れたように見えるのは2004(平成16)年1月の山林火災のためであり、現在は、煙害は無いに等しいようだ。(※7参照)。
中部は直島小学校、直島中学校のある文京地域。南部は、緑豊かな海岸となっており、同島南部は、隣の同じ直島諸島の豊島( 1990年代に産業廃棄物の不法投棄問題があった[豊島問題参照])と、男木島女木島などと共に瀬戸内海国立公園に指定されている景観の地となっている。

失われた20年と云われる長い経済の沈滞の中で、地方自治体が苦労を重ねるなか、地方改革に取り組んでいる自治体があった。
直島町は、島の南端の風光明媚な地区を秩序だった文化的な観光地にしようと藤田観光を誘致し、キャンプ場を1960年代後半の観光ブームの時期にオープンさせたが、瀬戸内海国立公園内のため大規模レジャー施設にするには制約があり、石油ショック後は業績が低迷し撤退した。
その後に島を文化的な場所にしたいという意向で当時の町長・三宅親連(ここ参照)と福武書店(現:ベネッセコーポレーション)創業者の福武哲彦との間で意見が一致。急逝した福武哲彦の跡を継いだ息子で、2代目社長の福武總一郎が1987(昭和62)年に一帯の土地を購入し、1989(昭和64)年に研修所・キャンプ場を安藤忠雄のマスタープランでオープンした。
福武總一郎は「直島南部を人と文化を育てるエリアとして創生」するための「直島文化村構想」を発表し、1992(平成4)年に安藤忠雄が全体設計した直島文化村プロジェクト「ベネッセアートサイト直島」の中核施設となるホテル・美術館の「ベネッセハウス」(英名:Benesse House)建設などへと拡大した。尚、直島南部、通称・琴弾地と呼ばれる地区の丘の上の本館・ミュージアム棟(旧称直島コンテンポラリーアートミュージアム)は1992(平成4)年、宿泊専用棟「オーバル」は1995(平成7)年、海辺の宿泊専用棟「パーク」「ビーチ」は2006(平成18)年に開館した。
●(冒頭の画像は、ベネッセハウス・ミュージアム棟屋上庭園から瀬戸内海を望む光景)。
当初美術館は浮き気味で町民の関心も薄かったが、島全体を使った現代美術展(スタンダード展)、本村の無人の古民家を買い上げて保存・再生し現代美術のインスタレーションの恒久展示場とする家プロジェクトなどを重ねることで、徐々に活動が町内の理解を得られるようになったという。
現在は、ベネッセハウスは町民の宴会や結婚式場の二次会場ともなっている(家プロジェクト第1弾の本村で一番大きい家屋「角屋(かどや)」)を創る時、アーティストの宮島達男は町民125人を公募して、作品を構成する125個のデジタルカウンターの点滅速度を一人一人にセッティングしてもらい、地域住民参加という手法を取ることで現代アートという異質なものが保守的な土地に入って来ることに対する町民の反感、抵抗を払拭したという。
その後、2004(平成16)年にはクロード・モネウォルター・デ・マリアジェームズ・タレルの3名の作品を収めた地中美術館が建設されるにいたっている。

●上掲の画像は、角屋(山本忠司&宮島達男)1998年。
このプロジェクトを通して日本の多様な建物・生活・伝統・美意識を再現。つまり、自然と建築と芸術を共生させた文化産業が直島を観光の名所として発展させ、今やいくつもの雑誌で特集が組まれるアートの聖地となった「直島」は、アメリカの旅行雑誌『コンデ・ナスト・トラベルラー』で「生きているうちに行ってみたい世界7大旅行地の一つ」として紹介されるなど、海外からの注目も集まるようになった。
1969(昭和44)年には直島製錬所が近代化することに決まりに同新製錬所が稼動。この頃を境に金属製錬事業の高度化と平行して合理化が進み、以来従業員数や島の人口は減少し続けていた。そんなかつての過疎化と産業廃棄物(豊島からの受け入れ)に悩まされていた直島(※8参照)が、アートの聖地としての今の姿になるまでには、元町長・三宅親連、福武書店(現 ベネッセ・コーポレーション)、そして地域住民によって築き上げられた20年の歳月があった(※9:「朝日新聞社 :AJWフォーラム :アジア人記者の目」の地域社会の生存戦略(3)参照)という。
恐らく、今日の記念日を制定した直島の女性の「夢をかなえてくれた人(夢の実現に力を貸してくれた人)」というのは、今の直島を築くのに努力した先に挙げた人たちのことを言っているのではないだろうか。

古来より人々が行き交い、文化交流の舞台となった瀬戸内海で、アートの島として、多くの人々が訪れるようになった「直島」。
この「直島」という名は昔、崇徳上皇がこの島を訪れた際、島民の素直さ・素朴さを賞賛されたことに由来しているのだとか。
小倉百人一首の中でも、もっとも有名な恋の歌「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ」。
これを詠んだのが崇徳上皇である。

●上掲が小倉百人一首77番「崇徳院」
【歌意】滝の水は岩にぶつかると二つに割れるが、すぐにまた一つになるので、現世では障害があって結ばれなかった恋人たちも、来世では結ばれましょう。・・といったところ。ロマンチックなこの歌とは裏腹に崇徳上皇は悲運な運命を辿る。
崇徳天皇は、歴史の教科書では保元の乱を扱う際に登場するため、崇徳上皇と記載されることが多く、退位後は崇徳院・讃岐院などとも呼ばれる。
<ahref=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E7%BE%BD%E5%A4%A9%E7%9A%87>鳥羽天皇中宮藤原璋子(待賢門院)の第一皇子として生まれるが、『古事談』には、白河法皇と璋子が密通して生まれた子であり、鳥羽は崇徳を「叔父子」と呼んで忌み嫌っていたという逸話が記されている。
崇徳上皇は鳥羽天皇の譲位を受けて5歳にして即位し第75代天皇となる。幼少で曾祖父の白河法皇が実権を握っていたが、大治4年(1129年)白河法皇が崩じ鳥羽上皇が実権を握ると情勢は一変し、鳥羽上皇が院政を開始した。
院政開始後の鳥羽上皇は藤原得子(美福門院)を寵愛し、保延5年(1139年)得子が体仁親王(後の近衛天皇皇)を出産すると、即、崇徳天皇の皇太子とし、2年後の永治元年(1141年)には鳥羽上皇は崇徳天皇に譲位を迫り、わずか2歳の体仁親王を即位させた(近衛天皇)。これなど、鳥羽上皇が崇徳天皇を実子ではなく、白河法皇のご落胤だと信じていたためだろうが、崇徳院にとって、この譲位は大きな遺恨となった。この時から崇徳天皇は鳥羽上皇(本院)に対し新院と呼ばれたりした。
久寿2年(1155年)近衛天皇が17歳で崩じると、崇徳上皇は皇子重仁親王を即位させようと画策したが、鳥羽上皇によって、美福門院のもう一人の養子である守仁親王(後の二条天皇)が即位するまでの中継ぎとして、その父の雅仁親王(崇徳の同母弟)が、立太子しないまま29歳で後白河天皇として即位した。
鳥羽法皇や美福門院は、崇徳院に近い藤原頼長の呪詛により近衛天皇が死んだと信じていたといい(『台記』)、背景には崇徳院政によって自身が掣肘されることを危惧する美福門院、父・藤原忠実と弟・頼長との対立で苦境に陥り、崇徳院の寵愛が聖子から兵衛佐局に移ったことを恨む藤原忠通、雅仁親王の乳母の夫で権力の掌握を目指す信西らの策謀があったと推測されている。
夢破れた崇徳は、保元元年(1156年)に鳥羽法皇が崩御すると摂関家の藤原頼長、源為義平忠正(平忠盛の弟、平清盛の叔父)らと語らい後白河天皇から皇位を取り返すべく蜂起した。しかし、備えをしていた後白河天皇側に源義朝や平清盛らが参集し、源義朝の献策により素早く夜襲をかけた(これが「保元の乱」である)。
崇徳上皇は、平清盛と同じ乳母に息子を預けたほど縁が深かっただけに、清盛の支援を待ち望んでいたが、清盛は後白河天皇に味方してしまった.。これが最大の誤算であった。
敗れた崇徳上皇は捕らえられ、武士数十人が囲んだ網代車(牛舎の一。車の屋形に竹または檜の網代を張ったもの。)に乗せられ、讃岐国に配流された。
天皇もしくは上皇の配流は、藤原仲麻呂の乱における淳仁天皇淡路国配流以来、およそ400年ぶりの出来事だった。同行したのは寵妃の兵衛佐局と僅かな女房だけだったという。崇徳上皇は都に帰りたいと切望しながらもその後、二度と京の地を踏むことはなく、8年後の長寛2年(1164年)8月26日、46歳で崩御した。
遺体は白峯御陵(坂出市。.白峯寺白峰宮、参照)に葬られた。帰京を許されなかった崇徳上皇への後ろめたい思いが、のちに「怨霊」という形で、後白河天皇と清盛を悩ませることになったと言われている。
怨霊として定着した崇徳院のイメージは、近世の文学作品である『雨月物語』(「白峯」)、『椿説弓張月』などにおいても怨霊として描かれ、現代においても様々な作品において怨霊のモチーフとして使われることも多い。

●上掲は、讃岐に流された崇徳上皇.歌川国芳画。
その一方で後世には、四国全体の守り神であるという伝説も現われるようになる。承久の乱土佐国に流された土御門上皇(後白河院の曾孫)が途中で崇徳天皇の御陵の近くを通った際にその霊を慰めるために琵琶を弾いたところ、夢に崇徳天皇が現われて上皇と都に残してきた家族の守護を約束した。その後、上皇の遺児であった後嵯峨天皇が鎌倉幕府の推挙により皇位に就いたとされている。また、室町幕府の管領であった細川頼之が四国の守護となった際に崇徳天皇の菩提を弔ってから四国平定に乗り出して成功して以後、細川氏代々の守護神として崇敬されたと言われている(ともに『金毘羅参詣名所図会』・『白峰寺縁起』、※10、※11又金毘羅権現参照)。
保元の乱は、兄・崇徳と弟・後白河との権力の座を賭けた争いに、貴族の藤原一門と、源氏・平家の武士たちが参戦したいわば、政治的パワーゲームだった。この後、勝った後白河天皇は清盛とともに力を伸ばしてゆくが崇徳上皇は讃岐に廃瑠され当時は、配流先の地名をとり「讃岐院」と称されていたのであり、崇徳院とは、崩御後、怨霊鎮魂のために与えられた諡号である。
漢風の諡号(帝号)は平安期の光孝天皇まで続いたが、その後、律令政治の崩壊と共に途絶えていた。これ以降の天皇では、平安末期から鎌倉初期における75代崇徳院(讃岐院から改める)、81代安徳天皇、82代顕徳院(隠岐院から改め、後に後鳥羽院に改める)、84代順徳院(佐渡院から改める)の4例を見るのみである。
崇徳天皇は応仁の乱で敗れ、讃岐の地で悲惨な死に方をしたが、安徳天皇は平清盛の外孫で、8歳にして壇の浦に沈んだ。順徳天皇は承久の乱に敗れ、北条義時によって佐渡に流されたまま亡くなった。この3人は平安後期から江戸中期までの諡号が絶えた時代にあって、わざわざ例外的に諡号を贈られた天皇である。彼らに贈られた「徳」諡号は、霊を慰め、怨霊化を防ぐために贈られた諡号であり、「徳」をもってを張るな、民を安んじてくれ、という願いが込められていたのではないだろうか。
明治天皇は慶応4年(1868年)8月18日に自らの即位の礼を執り行うに際して勅使を讃岐に遣わし、崇徳天皇の御霊を京都へ帰還させて白峯神宮(京都市上京区)を創建した。
後白河法皇は、朝廷の威信保持のために政治的計略を巡らし、源頼朝からは「日本一の大天狗」と評される一方で、仏教を深く信仰し、熊野詣は34度にわたったという。また今様を熱愛し、『梁塵秘抄』(※12参照)を編纂するとともに、その解説書ともいうべき『梁塵秘抄口伝集』を著しているが、その歌詞集である『梁塵秘抄』の中には以下の歌が掲載されている。
(406)侍藤五君、召(め)しし弓矯はなど問(と)はぬ、
弓矯(ゆだめ)も箆矯(のだめ)も待ちながら、
讃岐の松山へ入りにしは。
(431:)讃岐の松山に、松の一本歪みたる、
捩(もじ)りさの捩(よじ)りさに、嫉(そね)うたるかとや、
直島の、さばかんの松をだにも直さざるらん。
侍五藤君とは、従者(おもに武士系)の藤原氏の五男坊。弓矯とは、弓の調整具。曲がりを直す。箆矯(のだめ)とは矢の調整具。同じく、曲がりを直す。・・・ことで、歌意は、以下のようになるようだ(以下現代役等は※13:「今様ラプソディ」梁塵秘抄ものづくし篇(その五)参照)。

(406)従者藤原の五郎君 お持ちの弓矯をどうして確かめないの
    弓を直す弓矯も 矢を直す矢矯も持ってたのに
    あんな戦にあっさり負けて 讃岐の松山へ行っちゃったの
(431:)讃岐の松山に 性根の歪んだ松が一本
    ねじまがって身もだえして 妬んでるんだってさ
    直しま(直島)しょうとか 天の裁きを待つ(松)とかいうのに
    歪んだ生え方は何で直さないんだろう

406番の讃岐(現・香川県)の松山は、崇徳院の流刑地のことであり、保元の乱で負けて流され、生き残りの重臣たちもそれぞれ土佐などに配流された。この歌は崇徳院方についた摂関家の一系統をはじめとする藤原氏を揶揄したものだろう。なお、実際の戦闘はわずか数時間で決している。
431番も、同じく、崇徳院にまつわる諷刺歌。「性根の曲がった松」は、都に向けて恨みをつのらせると讃岐配流中の崇徳院を皮肉ったもの。
直島は、松山に近い瀬戸内の小島で、崇徳院が立ち寄った際、出迎えた島民の素直さ素朴さに感動して「直島」と命名した。しかし、ひそかに「世直し」の意味を込めたのではないかと言われていた。これに対してこの歌は、「直したいのなら、まずはアンタの性根から」と、痛烈なツッコミを入れている。もし後白河の作詞だったらけっこう恐い。・・というが、そうかもしれない。
そう考えると、以下の歌も意味深であろう。

(405 )鷲(わし)の本白(もとじろ)を、
    くわうたいくわうの箆(の)に矧(は)ぎて
    宮の御前を押し開き、
    ふとう射させんとぞ思ふ。

「箆」は「矢の竹で出来た枝の部分」。「矧ぐ」は「竹と羽根を合わせて弓矢を作る」の意味で、「くわうたいくわう」はよく判らない(※14参照)そうだが、これは、「皇太后」と読めて、それなら崇徳天皇が父の鳥羽天皇に嫌われ、ひいては保元の乱の遠因ともなった、崇徳・後白河両天皇の生母の待賢門院璋子ではないかという推測も成り立つ。そうすると、この歌(405)の歌意は以下のようになる。

鷲の羽根の元白の矢羽根を
皇大神宮の竹でもって
箆(の)に矧いで
宮のとびらを押し開いて
道理をわきまえない無道者を
射させようとこそ思う

崇徳院は、後白河院と母を同じくする実の兄であるが、この兄を、弟は保元の乱で打ち敗かして、断乎島流しにして生涯都へ帰さなかった。また、崇徳天皇は、鳥羽院の祖父白河法皇が、養女であり自身で鳥羽天皇の中宮にした待賢門院璋子その人 に産ませた「子」であったらしいという噂もあった。それで鳥羽院は息子である崇徳天皇を「叔父御」「祖父子」とかげで言っていたという。嫌われる道理であるが、そうすると、「宮のとびらを押し開いて道理をわきまえない無道者を射させようとこそ思う」・・とは、如何にも意味深な歌ではある。

なにか回りくどい話になってしまったが、最後は、「夢」の話で締めくくろう。
保元の乱その後の平治の乱勝利後の平家の栄華と没落を描いた『平家物語』は、巻第一冒頭の「祇園精舎の鐘の声……」の超有名な文で始まるが、それに続く最初の物語(6祇王)には、以下のような言葉が出てくる。
「つくづく物を案ずるに、娑婆(しゃば)の栄華は夢の夢、楽しみ栄えて何かせん。」
妓王とは、平清盛に寵愛されていた白拍子であるが、ある日、名を仏と名乗る年16の舞の上手な遊女が飛び込みで清盛の前に現れ、芸を売り込もうとしたが清盛の逆鱗に触れ門前払いをくらうところを祇王に取りなしてもらったのだが、それが裏目となり、以降、清盛の寵愛は仏御前に移り、妓王を寄せ付けづ、ついには追い出してしまった。そんな祇王は、清盛からの経済的援助も打ち切られ困窮の果て自殺を図ろうとしていたが母に説得され母と妹とともに出家し嵯峨往生院(現・祇王寺)へ仏門に入った。当時21歳だったとされている。
そんな哀れな祇王の前に現れた仏御前の言葉である。『平家物語』に出てくる文としては長めなのでここでは詳しく書けないので以下参考の※15:「祇園精舎」の妓王9のところを参照するとよい。
上記の訳文は、「つくづく物思いにふけってみると、俗世の栄華は夢の夢で(人間世界の栄華はきわめてはかないもので)、裕福になり栄えても何になろう、いや、何もなりはしない。」・・・といったところで、『平家物語』の祇園精舎と同じく仏教(『仁王経』)にある人生観で、この世の無常を表している言葉「盛者必衰の理(ことわり)」を表しているのだろう。
古来、日本では、数え切れぬ人々が、幸福を求め、悩み、苦闘し、生きてきた。 しかし、生涯を振り返り、夢や幻のごとし、と述懐する人が、あまりにも多い。それは、家康と同様、「生きがい」を「人生の目的」と誤認した悲哀にほかならない(家康公遺訓)。
貧しい農民のせがれから、一躍、天下人に上りつめた男、豊臣秀吉。世界史をひもといても、彼ほどの成功者は少ない。
 しかし、秀吉は、最期に意外な言葉を残している。
「露とおち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢」(秀吉辞世句)
「露」とは、早朝、葉の上につく水滴である。太陽が昇ると、瞬く間に蒸発し、どこに露があったのか、跡形も残らない。 「難波」とは、自分が威勢を張った大坂のことである。天下を統一し、関白になった、大坂城を造り、聚楽第を築いた。そして、金と女にたわむれて遊んだ……。
それは、夢の中で夢を見ているような、はかない一生だった、とのこの告白。彼の辞世は、一体何を意味しているのだろうか。武士を目指し、家出した貧農の子が、一国一城の主となり、時流に乗って天下の主へと上りつめた。それでも満足せず、次には、唐、天竺へと、野望は尽きず、事実、2度も朝鮮半島へ大軍を送り、非道な殺戮を繰り返している。彼は求めても、求めても満足しない心、一時の満足は、さらに大きな欲望を生む。人は、を得たら、いつまでも離したくない、と願う。しかし、現実には長続きしない。いや、頂上まで上れば、あとは落ちるしか道のないことを、知っているがゆえに、不安、苦悩(苦しみ悩むこと)はつのるのである。
秀吉は、人間の本性を赤裸々に見せている。五欲も参照)に追い回され、あくせくしている我々の姿と、重なるところがないだろうか。求めても、求めても満足しない心、一時の満足は、さらに大きな欲望を生む。秀吉の辞世は、「人生の目的」は、これら「生きがい」のほかにあることの明証であるのだが・・・・。あなたはどこにその生きがいを求めますか・・・。

今NHKの朝の連続テレビ小説「まれ」が始まっている。東京で生まれ育った10歳の津村希は夢を追う父・徹に振り回される苦労のため、子供ながらすっかり「夢」を持つことが大嫌いになり、幼児期に抱いていたケーキ職人への夢を封印。そして津村一家は父の事業失敗に伴い、夜逃げ同然で能登半島の外浦村(架空の漁村)にやってくる。地名は能登半島の日本海に面した海岸を指す「外浦」に由来しており、外部から来た人々を「まれびと」として歓迎し優しく接する文化のある土地柄であるとして設定されている。
稀に来る人と言ふ意義から、珍客をまれびと、マレビト(稀人・その転化からまらうど=客人)は、時を定めて他界から来訪する霊的もしくは神の本質的存在を定義する折口学の用語。民俗学者折口信夫の思想体系を考える上でもっとも重要な概念の一つであり、日本人の信仰他界観念を探るための手がかりとして民俗学上重視されている。
陸の交通網は発達しており、幹線道路から外れた「半島や島」というと、行き止まりという感覚が強いが、だからこそ昔ながらのものがたくさん残っているとも言える。それは目に見えるものばかりでなく、むしろ目には見えない精神的な土壌が人々の身ぶりや遠い記憶の中に残されているともいえる。秋田の男鹿半島や日本海側の村々や、九州や沖縄の島、そして、瀬戸内の香川県直島他の島々もそうである。陸地から見ると辺境であるが、海から見るとそこは入り口としてネットワークの基点になっている。日本列島に暮らす人たちは、海の彼方からやってくる見知らぬ他者を拒絶したり排除したりするのではなく、恐れながらも言葉を交わし、時に受け入れてきた。そうした身ぶりが、日本列島に伝わる、数多の来訪神を迎える儀礼に表れている。香川県地方に守護神として崇敬された崇徳院信仰もその一つであろう(※15、※16参照)。

朝ドラの津村希は外浦村へきて夢に向かっている若い人たち人たちと接しているうちに、また封印してきたケーキ職人への夢を求めて苦労して横浜のケーキ店に務めることができた。しかも稀のアイデアが採用されて何とかクリスマスケーキを作ることができたのだが、稀は自分は作ってはいけないといわれていたので友人のアイデアとしてケーキを作った。それを聞いた大悟社長からは不合格を宣告された。日本一のケーキ屋を目指している稀にたいして「何かを得るためには、何かを捨てろ」と言われたのだ。家族や友だちを大事にしてきた希にとって、「何かを捨てろ」というのは理解できなかった。そして、店を首になり意気消沈してまた輪島の親の家に帰ってくる。稀の母親藍子は、家族生活のために、自分の夢も捨てだらしなく不本意な仕事をしている、夫徹に離婚を要求する。家族から離れて思う存分自分の求める夢に向かって仕事をして欲しいとの愛情からであった。そんな姿や高校生の弟が高校を出たら大学にはゆかず結婚して自分のしたい仕事をやろうとする姿など見て、ケーキ屋の大悟社長が言いたかったのは、「今やらなければいけないことに覚悟をもって集中しろ」ということではないかと気づいてまた、横浜のケーキ屋へとでいったのだが・・・・。
さて、どういう展開になってゆくのか・・・。

もし、人生に夢や目的がなかったら、どうなるか。 生きる意味も、頑張る力も消滅してしまうだろう。1度きりしかない人生、後悔しないためにも、まず、どう生きるかを考えることは大切だ。
」とは、睡眠中にみる一連の観念や心像、幻覚などは別として、人の将来実現させたいと思っていることや願望。願いをいうが、夢には、はかないこと、たよりないこと、という意味もある。そして、その内容があまりに現実から遠く、はかないことを形容するためにしばしば用いられている。
稀の父親・徹も駄目人間の代表で、実体のない大きな夢ばかり見ては失敗を繰り返し、ちっとも地道にコツコツできない性分であった。女房から離縁され、東京へ出て本当に「夢」を実現できるだろうか。このドラマ、私にはあまり面白くないドラマだが、これからの展開は気になるところである。

「為せば成る為さねばならぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」。
どんなことでも強い意志を持ってやれば必ず成就するというこの言葉、米沢藩主の上杉鷹山が言った言葉である(※17参照)。幕末の長州藩士、思想家、教育者、明治維新の精神的指導者でもある、吉田松陰
「夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし。故に、夢なき者に成功なし。」・・と言っている。
他にも世界の有名人の名言格言がある(※18参照)が、その中で、一番わかりやすく好きなのが米国のエンターテイナー、実業家ウオルト・ディズニーの以下の言葉である。

・夢見ることができれば、それは実現できる。
・夢をかなえる秘訣は、4つの「C」に集約される。それは、「Curiosity ? 好奇心」「Confidence ? 自信」「Courage ? 勇気」そして「Constancy ? 継続」である。
・成功する秘訣を教えてほしい、どうすれば夢を実現することができますかとよく人から尋ねられる。自分でやってみることだと私は答えている。
・若者の多くは、自分たちに未来はない、やることなど残っていないと思っている。しかし、探検すべき道はまだたくさん残っている。

どうか良い「夢」を見つけて行動してください。

夢の日(参考)


夢の日(参考)

2015-06-10 | 記念日
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参考:
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:東京書籍
http://kids.tokyo-shoseki.co.jp/kidsap/downloadfr1/htm/jsd38797.htm
※3:ART SETOUCHI
http://setouchi-artfest.jp/about
※4:伊予歴史文化探訪 よもだ堂日記 シーボルト、瀬戸内海の美を嘆賞する
http://yomodado.blog46.fc2.com/blog-entry-844.html
※5:アートの島 - 宮浦/直島
http://wasatyu.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/--001d.html
※6:三菱マテリアル直島製錬所
http://www.mmc.co.jp/naoshima/
※7:鉄塔巡視路を行く(荒神島 前編): シーカヤック・メモランダム
http://tukara.way-nifty.com/blog/2012/04/post-7971.html
※8:新瀬戸内海論:島びと20世紀:第3部豊島と直島3
http://www.shikoku-np.co.jp/feature/shimabito/3/3/
※9:朝日新聞社 :AJWフォーラム :アジア人記者の目
http://www.asahi.com/shimbun/aan/kisha/
※10:金刀比羅宮 - 本地垂迹資料便覧
http://www.lares.dti.ne.jp/hisadome/honji/files/KOMPIRA.html
※11: 白峰寺縁起
http://www.shiromineji.com/engi/
※12:『梁塵秘抄』 後白河法皇撰
http://homepage2.nifty.com/zaco/text/ko/ryojin.txt
※13:今様ラプソディ
http://homepage3.nifty.com/false/garden/kuden/index.html
※14:梁塵秘抄、今様の朗読と朗詠
http://reservata.s123.coreserver.jp/poem-ryouzin.htm
※15:祇園精舎
http://greenleaflat.web.fc2.com/mailmagazine.html
※15:視点・論点 「日本列島で"まれびと"と出会う」
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/174782.html
※16:折口信夫 「とこよ」と「まれびと」と - 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/47176_37072.html
※17:為せば成る、為さねば成らぬ何事も - 故事ことわざ辞典
http://kotowaza-allguide.com/na/nasebanaru.html
※18:夢・志の名言・格言集。夢を追うとき支えとなる言葉
http://iyashitour.com/meigen/theme/dream
詞華集鑑賞『梁塵秘抄 愛欲と信仰の歌謡』 - 作家 秦 恒平の文学と生活
http://umi-no-hon.officeblue.jp/emag/data/koten12.html
朝ドラ まれ ネタバレ,あらすじ,感想 最終回まで掲載続行中 | 朝ドラPLUS
http://hublog.net/11872.html
金毘羅参詣名所図会 - 古典籍総合データベース - 早稲田大学
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/search.php?cndbn=%8B%E0%94%F9%97%85%8EQ%8Cw%96%BC%8F%8A%90%7D%89%EF
: 夢 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A2

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