今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

米国最初期のジャーナリスト(暴露報道の開拓者)ネリー・ブライの忌日

2011-01-27 | 人物
アメリカの有名なジャーナリストにネリー・ブライと呼ばれる人がいたのを知っていますか?
正直言って私も彼女のことはよく知らなかったが、フリー百科事典Wikipediaによると、ネリー・ブライ(Nellie Bly)は、アメリカのジャーナリスト・エリザベス・ジェーン・コクラン(Elizabeth Jane Cochran)のペンネームで、彼女は最初期の調査ジャーナリストであり、暴露(ばくろ)報道の開拓者であったそうだ。
1864年5月5日、米国ペンシルベニア州・ミルズというところで生まれ、洗礼時に着ていた明るいピンク色の服から「ピンク Pink」の愛称で呼ばれていたそうだが、彼女は、ピッツバーグ・ディスパッチ紙の性差別主義のコラムに反論を投稿し、その投稿の質が高く、同紙の編集長が彼女にリポーターとして記事の執筆を依頼したところ、彼女は当時職を探していたことから、その依頼を引き受けることとなり、編集長より、スティーブン・フォスターのヒット曲中のタイトル・キャラクター、ネリー・ブライ(Nelly Bly、1850年)を彼女のペンネームとして与えたという。
ペンシルベニア州には、自由の鐘独立記念館で有名なフィラデルフィア市と、重要な河港を持つピッツバーグ市の、2つの主要都市があるが、フォスターは1826年7月4日、ちょうどアメリカ独立記念日の50周年目にあたる記念すべき日に、ペンシルベニア州ピッツバーグの隣町ルイスヴィルで、アイルランド移民の曽祖父の家系を引く比較的裕福な家庭に生まれた。フォスターは、奴隷制をめぐる論議真っ只中でアフリカ系アメリカ人の苦悩を微妙な歌詞で描いている。
フォスターの曲「ネリー・ブライ」は彼が23才のときの歌であるが、この曲に出てくるネリーのモデルは誰なのかについては諸説あるようだが,やはり、アフリカ系アメリカ人であろう。この曲の前年にも「ネリィはレディ」(Nelly Was a Lady。「やさしいネリー」とも訳される)と言う曲がつくられている。
「ネリー・ブライ」は幸せいっぱいの恋の歌なのに対し、「ネリィはレディ」は淡々とした長調であるが、たいへん悲しい別れの歌である。「Nelly Was a Lady」のLadyというのは貴婦人ということで、奴隷身分の男の妻には使われることはない呼び方だが、ここでは妻に先立たれてしまった男の悲しみの深さを表す言葉としてフォスターがあえて使ったのだろう。フォスターの妻ジェーンの実家に仕えていた黒人の老僕ジョーを歌ったものとされている有名な「オールド・ブラック・ジョー」 (Old Black Joe。1860年作)ほど知られてはいないが、フォスターのプランテーションソング(大規模農園)ものの中でも名曲の部類ではないだろうか。(フォスターの曲は以下参考に記載の※1:「スティーヴン・フォスター/歌曲集」で聴ける。日本語訳歌詞もあり、また、※2:Nelly Bly 「ネリー・ブライ - 三宅教授とみんなでえいごうた」では、簡単な解説もある)。
しかし、英語の「Nelly」には” 女みたいな男”“めめしいやつ”といった侮辱的な意味もあるようであり、ピッツバーグ・ディスパッチ紙の性差別主義のコラムに反論を投稿してきた彼女の能力を買ったといわれる同紙の編集長が何故このようなペンネームを彼女につけたのかはについて、私は少々腑に落ちないところがあるが、逆に、“男のような女”といった皮肉を込めたものであったのかも知れないと思っている。
ブライは同紙でいくつかの調査記事を執筆したが、その後同紙を離れ、1887年にはニューヨークでジョーゼフ・ピューリツァーのニューヨーク・ワールド紙に職を得たという。
ピューリツァーが1883年にニューヨーク・ワールド紙を買収したときは、年間40,000ドルの赤字を出していたことから、彼はワールド紙の焦点を、人間の興味の物語、スキャンダルおよびセンセーショナリズムへ移していたという。
そして、1885年、彼は下院議員に選任されたそうだが、その頃、その購読者数は彼が同紙を買収した時点の15,000から600,000に達し、アメリカで最大の新聞になっていたという。
そこへブライが入社したわけだが、彼女が同紙で最初に担当した記事は、ブラックウェル島(ルーズベルト島)の女性精神病院を取り扱った記事であったそうで、彼女は自身を患者達が病院で扱われたように委ね、その事実を明らかにした・・・というから、要するに、記事を書くために患者のふりをして精神病院に潜入してのレポート記事を書いたのだろう。良く言うところの自分を犠牲にした囮(おとり)捜査的な取材ということになるだろうね~。どうも、この企画は彼女の提案によるものらしいが、このような秘密を調査し暴露するという手法は彼女のトレードマークとなったそうだ。
「暴露」とは、さらけだすこと。むきだしにする。悪事・秘密などがあらわれること。露見・・・を言い、ジャーナリスト流にいえば、このような悪事や秘密を暴く、摘発、すっぱ抜くことになるのだろう。
最近日本では、尖閣諸島中国漁船衝突事件の発生時に海上保安庁石垣海上保安部が録画し、同庁および那覇地方検察庁が保管していたと思われる映像が海上保安官によってインターネット動画共有サイトYouTubeに公開され流出した尖閣諸島中国漁船衝突映像流出事件(「尖閣ビデオ流出事件」とも呼ばれる)があった。
又、「WikiLeaks(ウィキリークス)」という内部告発サイト(URL:http://www.wikileaks.org/)が今話題になっている。
ハッカーでオーストラリア人のジュリアン・アサンジュ主宰のウイキリークス(これまでアフガン戦争イラク戦争に関する文書を公開)は米国務省公電を自らのウエブに掲載し始めるとともに、事前にニューヨーク・タイムズ紙、ガーディアン紙など特定のメディアに情報を提供したという(アメリカ外交公電ウィキリークス流出事件参照)。その量は25万件を超えるというだけに世界中に大きなショックを与えると共に、このようなインターネットの世界に突如として現れた内部告発サイトは、人々の知る権利に応える「正義のメディア」といえるのか?、それとも国家の安全保障を脅かす「危険な存在」なのか?・・・その解釈・評価は大きく分かれるところだろう。
これは、日本で起きた先の「尖閣ビデオ流出事件」についても同様である。
日本では、このような「内部告発」や「機密漏洩」行為を「卑怯」だとか「裏切り」だとする考えも多く残っているが、インターネットの発達した現代において「報道の自由と国家機密の保持」のバランスを何処に置くかは難しいところであるが、内部からの漏洩が生じるのは、機密管理の不備と犯罪を犯す人の問題であり、インターネットの発達とはほぼ無関係であり、これは切り離して考えなければいけないのだろう。
テレビで報道されているウイキリークスから漏洩した、米軍アパッチヘリコプターからのイラク人への銃撃シーンなど見ていると、非常にショックであり、そのような事実があったとしたら、尖閣ビデオ流出事件同様国民はその真実を知る権利があるだろう。しかし、ブライのようなジャーナリストが内部に潜りこんで秘密を暴くのと、その機関に所属する人が機関の内部情報を勝手に暴露するのとは、大分事情は異なり、内部情報を暴露した人の機関に対する忠実義務などは当然問われることにはなるだろう。
2007年 米軍ヘリによるロイター記者とイラク市民銃撃映像
http://www.youtube.com/watch?v=LkEuxKI9v0g
ただWikipediaにはピューリツァーのワールド紙のライバルであるニューヨーク・サン紙の編集者は、1890年に彼を「信仰心を放棄したユダヤ人」と呼んで、紙上で攻撃した・・・とあるがそれがどのようなことなのかは良くわからない。ただ、ブライの囮(おとり)捜査的な手法を使って調査し秘密を暴露するというようなやり方は当時の権力者に嫌われたであろうことは想像できる。
いずれにしても、私は彼女がそのような暴露報道のパイオニアだったということに興味を持ってこのブログを書いたが、このことは、これ以上書くことをやめるが、もう1つ、彼女が世界初の女性単独世界一周旅行者であった・・・ということにも興味を持った。
世界一周と言えば、フランスの小説家ジュール・ヴェルヌの小説『八十日間世界一周』(Le tour du monde en quatre-vingt jours。1872年発表)がある。この物語は、「80日で世界一周できるはずだ」という主人公のイギリス人資産家フィリアス・フォッグに対し、ロンドンの紳士クラブ「リフォームクラブ」のメンバーは「無理だ、できるものか」という意見が多数。「では、やってみせよう」ということで、主人公は、全財産の半分を旅費に当て、残りの半分はクラブの仲間たちとの掛け金にし、執事のパスパルトゥーを従え、後期ビクトリア朝時代の世界を80日で一周しようと試みる波瀾万丈の冒険物語であるが、このヴェルヌの描いた世界の虜になって、主人公フィリアス・フォッグを真似ようとした人々が多くいたようだ。
1888年、このヴェルヌの小説『八十日間世界一周』をモデルとして実際にリポーターを世界一周させるという企画がワールド紙で決定し、ブライがそのリポーターに決定。1889年11月14日に彼女はニューヨークを出発し、24,899マイルの旅に出た。そして、その旅を彼女は、72日と6時間11分14秒で成し遂げたという。数カ月後に、62日で世界一周を成し遂げたジョージ・フランシス・トレインによってこの記録は破られたものの、ブライの地球一周の記録は当時世界記録であったそうだ。
このヴェルヌの小説をもとに1956年に米国ハリウッドで製作された「Around the World in 80 Days(日本語題名はそのまま「八十日間世界一周」)」は、トッド・AOワイドスクリーンで撮影され、主演のフォッグ氏役には品の良い紳士的風貌の持ち主である名優デヴィッド・ニーヴンが、パスパルトゥー役には「カンティンフラス」のニックネームで知られた世界的コメディアンのマリオ・モレノ、アウダが充てられたほか、登場人物に各国有名スターを総動員して製作費も700万ドルを費やした大作である。ビクター・ヤングの格調高く優雅なテーマ曲「Around the World」にのって展開され、日本を含む世界各国の多彩な風景をカラー撮影で楽しめるこの観光映画はプロデューサーのマイケル・トッドがアカデミー賞・最優秀作品賞 を受賞したほか最優秀撮影賞、最優秀映画編集賞、最優秀脚本賞、最優秀音楽賞 ( ビクター・ヤング)を受賞している。私もわくわくしながらこの映画を観たが素晴らしい映画である。
ネリー・ブライは1895年に富豪のロバート・シーマンと結婚し、ジャーナリズムから引退し、1904年に夫が死んだ後はその会社の管理を引き継いだが、その後ジャーナリズムの世界に復帰し、第一次世界大戦のヨーロッパ東部戦線のレポートなどを行ったそうだが、1922年1月27日、肺炎により57歳で死去したという。ネリー・ブライは、やはり、“男のような女”であり、強い意志と行動力を持った根っからのジャーナリストだったのだね~。
(冒頭の画像はネリー・ブライ。Wikipediaより)
参考:
八十日間世界一周 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/p7061/
ネリー・ブライ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A4
WikiLeaks
http://www.wikileaks.org/
NHKクローズアップ現代【ウイキリークス機密告発サイト】詳細情報
http://topicsnow.blog72.fc2.com/blog-entry-882.html
ウイキリークスによる米国務省公電の漏えい -国際情報センター
http://blogs.yahoo.co.jp/kokusaijoho_center/36604484.html
「告発」する勇気 -ウイキリークス事件と日本
http://agora-web.jp/archives/1150973.html
公開文書、戦争犯罪の可能性示唆=ウィキリークス創設者
http://jp.wsj.com/US/node_85798/
YouTubeー尖閣諸島 国民の疑問と内部告発情報と複数証拠 国民で海保隊員を守ろう
http://www.youtube.com/watch?v=pWp2ZEMBf2U

初の外国人横綱(第64代・曙)が引退した日

2011-01-22 | 歴史
曙 太郎(あけぼの たろう。1969年5月8日生まれ )は、アメリカ合衆国ハワイ州オアフ島ワイマナロ出身で、東関部屋の元大相撲力士である。
ハワイではバスケットボールをしていたが、その体格をハワイ出身の先代東関親方(元高見山)に見込まれ、相撲界入り、1988(昭和63)年3月場所に初土俵。同期入門には「花の六三組」と言われる横綱・若乃花(現タレント・花田勝)、貴乃花、大関・魁皇、小結・和歌乃山、前頭・力櫻(現プロレスラー・力皇猛)などそうそうたる力士がいた。下半身のもろさをつかれ舞の海(現:スポーツキャスター、タレント)や貴闘力(野球賭博問題が起こるまで15代大嶽親方を襲名していた)など小兵に破れることもあったが、初の外国人横綱(第64代)となり、横綱不在を救った横綱である。長身を活かした突き押しが特徴で、貴乃花が昇進するまで一人横綱としての重責を果たし、以後同期の若乃花・貴乃花のライバルとして1990年代初期から後期まで名勝負を演じ、相撲界をささえてきたが、2mを超える長身といかつい容貌、また若貴の人気が突出していたことや外国人初の横綱となったことなどから悪役的な位置づけをされることが多かったが、関取に昇進して以降ハワイの両親の元に送金を欠かさなかった易しい性格であったようだ。
しかし、手足の長さから重心が高く、半月板損傷などで足の故障が多かった。そして、1994(平成6)年5月に両膝を故障した後は、若貴らの活躍もあって優勝間隔が空くことが多くなり、2001(平成13)年1月場所は全休。同場所終了直後の22日、持病となった両膝のケガの悪化を理由に、突如現役引退を表明した。
2001(平成13)年1月場所の引退までのおよそ6年間で幕内優勝は4回のみに留まったが、幕内での通算成績は、566勝198敗181休(63場所)、横綱としての成績は、432勝122敗166休 勝率.780、幕内優勝は11回を数えている。引退後、若乃花・貴乃花とともに相撲人気を高めた貢献者として、日本相撲協会から功労金1億円が贈られた。礼儀正しさや謙虚な態度は「日本人以上に日本人らしい」と評され、部屋や一門の別なく下位の若手に積極的に稽古をつける第一人者としての責務を真面目に果たしたことなど、親方衆・力士からの評価はとても高かったようだ。
その四股名(しこな)は、関脇時代までは「天下をとる」を「点をとる」になぞらえ、点のない「曙」だったが、大関になって以降は点のある正字を用いていた。旧名はローウェン=チャド=ジョージ=ハヘオであったが、現在は日本に帰化したので日本名は曙(こちらは点がない)太郎である。引退後、格闘技K1などを経て今は、チーム・ヨコヅナ所属の現役プロレスラー、タレントとして活動している。
近年の大相撲界は、ご存じのように、かっては、ハワイ出身のアメリカ人力士が多く、高見山(先代・東関親方)が外国人力士として初めて十両に昇進し、関脇にまで到達したのを皮切りに、小錦が大関まで昇進して人気を集め、曙が外国人初の横綱昇進を果たした。これに武蔵丸が続き、若乃花そして貴乃花の兄弟横綱の引退(貴乃花2003年1月場所引退)以後は、番付から日本で生まれ育った横綱が姿を消してしまい、横綱は外国出身力士が務めており現在もその状態が続いている。
そして、今の角界は、ご存じのように、色々横綱としての品格を問題にされていた朝青龍(横綱。昨・2010年1月場所中の暴行問題での責任を取る形で2月に現役引退。)や、白鵬(横綱)、日馬富士(大関)をはじめとするモンゴル勢、把瑠都(大関。エストニア出身)などの東欧勢が活躍し、今や幕内力士の3人に1人は外国人力士という時代になっている(現在角界で活躍している外人力士については、以下参考に記載の※1:「日本相撲協会公式サイト」の大相撲名鑑・出身地別紹介を参照)。
横綱は、江戸時代に誕生し、当初、横綱免許を持つ大関に対する名誉称号に過ぎなかったため番付では大関が最高位であったが、1909(明治42)年2月には相撲規約改正に伴い横綱の称号が地位として定められることになったため、「横綱は大関の中の強豪」という考え方が一般的になると、本場所での成績によって横綱を免許されるようになった。
その後、近代スポーツとしての体裁を整える中、横綱免許の家元である吉田司家ではなく、相撲に造詣が深い有識者によって横綱を推薦してもらおうということとなり、1950(昭和25)年以降は横綱免許は姿を消し、現在は日本相撲協会横綱審議委員会の諮問を仰ぎ、独自に推挙する仕組みとなっている。
横審での横綱推薦基準は以下のようだ。
1、品格、力量が抜群であること
2、大関で2場所連続優勝した力士を推薦することを原則とする
3、2場所連続優勝に順ずる好成績を上げた力士を推薦することができる
しかし、1909(明治42)年2月の相撲規約改正に伴い横綱の称号が地位として定められて以降、番付で横綱が存在しない時期、つまり「横綱空位」と言われた時期が2回ある。
1931(昭和6)年5月~1932(昭和7)年10月、宮城山福松の引退から玉錦三右エ門の昇進までと、1992(平成4)年5月~1993(平成5)年1月、北勝海信芳の引退から曙太郎の昇進までである(場所ごとの取り組みなどは、以下参考に記載の※2:「大相撲星取表」を参照)。
横綱力士は現役を退くまでその地位を保証されるが、その代償として、出場する際には常に最高レベルの相撲内容・成績が求められる。それに対して、大関以下の力士は、体力が衰えて実力が落ちてもそれ相応の番付で比較的長く現役を続けることができるが、横綱にあってはこれは許されず、横綱の地位に見合った高レベルの成績を出せなくなれば後は引退するしかないのである。そのため、負傷等により若くして引退に追い込まれる横綱も少なくない。
北勝海が引退した1年前の平成3年5月(夏)場所の番付表には一応豪華にも4横綱(北勝海・大乃国旭富士千代の富士)の名があった。
しかし、1981(昭和56)年9月場所から10年横綱を張ってきた千代の富士が、1991(平成3)年5月夏場所初日に当時18歳の新鋭貴花田(貴乃花 光司)、3日目に貴闘力に敗れ、35歳11か月で気力・体力の限界を表明して引退後、その翌7月名古屋場所には、不調の大乃国が引退。残された2横綱に期待を寄せられるが、その翌9月秋場所からは、1人が全休、出場したもう1人も途中休場といった場所が3場所も続き、1992(平成4)年1月初場所に旭富士が引退、3月春場所には、北勝海が引退し、あっという間に一人も横綱がいなくなってしまったのである。北勝海が引退した3月春場所には大関霧島と争っていた同じく、大関の小錦が3度目の優勝をするなど活躍し、横綱になってもよかったように思えたのだが、当時、まだ、外国人横綱への抵抗があったのか昇格はしなかった。その後、突き押しに右四つの相撲も覚え安定感を増した巨漢の曙が、優勝を重ね初の外人横綱となった。その後、若・貴兄弟が大関に昇進してくるが、特に活躍した貴ノ花が1994(平成6)年11月九州場所にて全勝で7度目の優勝を果たし横綱に昇進。1995(平成7)年初場所より、番付表に日本人横綱が登場するが、これは、1992(平成4)年5月北勝海が引退してから、2年6か月を要したことになる。その後、横綱・大関は、ハワイ出身の外国人である曙と武蔵丸、日本人の貴乃花・若乃花・貴ノ浪らが競い合いそのうちに、若乃花が、1998(平成10)年3月・5月場所と2場所連続優勝(5度目の優勝)を果たし横綱に昇進。兄弟横綱が誕生。多くのファンから史上初の兄弟横綱の活躍に期待された。また、大関武蔵丸が1999(平成11)年5月・夏場所、前3月場所に続いて、13勝2敗の2場所連続通算5度目の優勝を果たして横綱に昇進。1999(平成11)年名古屋場所からは4横綱となり、土俵を賑わした。そして、これ以降体力に勝る武蔵丸時代が来る。同時に、体力の劣る若乃花は2000(平成12)年3月春場所満足な相撲が取れず、5日目に栃東戦で敗れたのを最後に、現役引退を発表。横綱在位は11場所、その内皆勤したのはわずか5場所であった。
そして、翌・2001(平成13)年1月場所、曙が引退した後、同年5月夏場所、貴乃花は、14日目の大関武双山戦で巻き落としに敗れ右膝の半月板を損傷し出場が危ぶまれた千秋楽に強行出場。本割りでは横綱武蔵丸に突き落としで不甲斐なく負け、優勝決定戦となる。この優勝決定戦では鬼のような顔をして横綱武蔵丸を上手投げで豪快に下し、通算22回目の優勝を果たした。観戦に訪れていた当時の首相・小泉純一郎は、表彰式で内閣総理大臣杯を直接手渡し、「痛みに耐えてよく頑張った!感動した!おめでとう!」と祝福したのをよく覚えている。しかしながら、右膝の故障は見た目以上に重症で、この後7場所連続全休で治療に努めたものの十分に回復せず、結果的にこの優勝が貴乃花最後の優勝となった。その後、貴乃花は2002(平成14)年 9月秋場所、8場所ぶりに出場。進退をかけて臨んだこの場所で、6日目からの9連勝を含む12勝を挙げ、最後まで横綱武蔵丸と優勝争いを繰り広げたが、千秋楽相星決戦を寄り切りで敗れ優勝を逃した。そして、2003(平成15)年 1月場所8日目限りで現役を引退した。
一方、2002(平成14)年9月場所で、長期休場明けの貴乃花を倒して、幕内優勝を果たした横綱武蔵丸の方は、その優勝のインタビューで「今までの優勝の中で一番嬉しい。貴乃花に敗れたままだったので、これまでは優勝しても心が痛かった。」と笑顔でコメントするが、皮肉にもこの一番が、貴乃花と武蔵丸にとって現役最後の対戦となり、又、2人共に15日間皆勤した最後の場所となってしまった。同年11月場所中、武蔵丸は持病の左手首の故障が悪化したため6日目から途中休場した。この11月場所、モンゴル出身の大関朝青竜が14勝1敗で初優勝している。この場所後武蔵丸は手術を決意し、その後全休と途中休場が続いたが、手術した左手首は結局全快する事は無かった。そして、2003年(平成15年)1月場所限りで引退した最大のライバル・貴乃花の後を追うように、武蔵丸も同年11月場所限りでついに現役を引退した。貴乃花の引退した2003年(平成15年)1月場所も朝青竜が、前場所に続いて2度目の優勝を飾り横綱に昇進した。次の春場所より横綱として土俵に上がる。しかし、その場所は、日本人大関千代大海が意地の3度目の優勝をしている。その後、日本人大関の魁皇(2003年7月、2004年9月)や栃東(2003年11月、2006年1月)が意地の優勝を果たしている他は、モンゴル出身力士朝青竜の独断場となった。朝青竜の引退後は同じモンゴル出身の白鳳に優勝をさらわれ続けているのが日本の相撲界の現状である。
兎に角、日本人より圧倒的に体力面で勝っていた曙が初の外国人横綱となった時から、相撲界は、いずれ今のような外国人力士によって、占拠されるであろうことは予想されていたが、モンゴル出身の朝青竜や白鳳など日本人との体格面での差はあまりないが、それでも圧倒的に強いのは、過去の日本人力士ような力士としての素地のあるものが他のスポーツに流れ、相撲界に入ってこないことや、子供のころから肉体的、精神的に鍛えられていないこと、又、ハングリー精神もなくなっているからだろう。これから何時日本人横綱が誕生するか・・・?
かって大の大相撲ファンであった私には残念で仕方がないが、あまり期待はできそうにないね~。
(画像は曙 太郎。Wikipediaより)
参考:
※1:日本相撲協会公式サイト
http://www.sumo.or.jp/
※2:大相撲星取表
http://gans01.fc2web.com/index.html
大相撲パラメーターサイト
http://www.geocities.jp/buffie7wolf/index.htm
相撲人名鑑(曙 太郎)
http://www.fsinet.or.jp/~sumo/profile/1/19900904.htm
横綱の時代
http://www.geocities.jp/buffie7wolf/column-yokozuna.htm
曙太郎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%99%E5%A4%AA%E9%83%8E
横綱審議委員会:岐路に立つ大相撲
http://asasyoryu.yoihanashi.net/
K-1 OFFICIAL WEBSITE | 曙 | 選手データベース
http://www.k-1.co.jp/jp/fighter/player.php?index=akebono
曙太郎のくらべて年表
http://spysee.jp/history/year/1965,10504



神戸賛歌

2011-01-17 | ひとりごと
1995年(平成7年)1月17日。今から16年前の今日、阪神・淡路大震災が発生し、兵庫県南東部の淡路島・同じく兵庫県南東部で本土部の阪神地区・東播磨地方中南部、姫路市・大阪府豊中市を中心に甚大な被害を与えた他、近畿圏の広域に渡って大きな被害を与えたが、特に、震源に近いわが街である神戸市市街地〔特に東灘区・灘区・中央区(三宮・元町・ポートアイランドなど)・兵庫区・長田区・須磨区〕の被害の様子は、日本国内のみならず世界中に衝撃を与えた(被害の状況はここ参照)。
神戸市では、今日は各地で朝から震災の追悼式典が行われる。私も今朝は朝食の前に、仏壇の前で被災で亡くなった方々のご冥福をお祈りした。
当時の自社さ連立政権時代の頼りにならない村山富市内閣による政府の支援が遅々として進まない中、神戸市に本社を構えていたスーパーマーケット大手のダイエーや、セブン-イレブン・ジャパンなど民間企業が地震発生3時間以内に救援物資や食料などを他地域からヘリ空輸するなど、非常に早い対応を行った。
又、 Wikipediaによれば、皮肉なことに、これら支援活動の一番乗りの救世軍は、神戸に総本部を置く日本最大の暴力団組織・山口組や、阪神地域で強い影響力を有する宗教団体のPL教団天理教創価学会金光教・2ヵ月後には地下鉄サリン事件を起こすオウム真理教といった組織・団体が、食料や飲用水の供給・便所・風呂・避難場所の提供などの積極的な支援を行っていたようであり、これらの団体の対応が、政府・警察・自衛隊よりも迅速であったため、海外メディアからは「日本では、大地震が起きると、政府や警察よりも先に、マフィアやカルト宗教が手を差し伸べてくれる」と、皮肉られていたようだ。
もし、現在、同じように頼りにならないことでは村山首相に引けを取らない民主党の管直人政権だったらどうだっただろう。全く決断力・実行力もなく人気が低迷している管政権のことだから、これから先の財政赤字など考えもせず、ただただこの時とばかり人気取りのために、神戸市民のために支援金をばらまいてくれたかも知れないな~…。神戸市民にとって、管ほどのずるさもなく、ただただお人よしだけが取り柄の村山内閣であったことが、政府からの支援もほとんど得られず不幸であったと言えるかも知れない・・・と、私などは思っている。
これら暴力団や宗団体の他、渡哲也・渡瀬恒彦兄弟(現・淡路市出身)や、河島英五(大阪市出身)・嘉門達夫(大阪府茨木市出身)・ジャイアント馬場(元子夫人の実家が明石市)と言った関西にゆかりがある芸能人・タレント・文化人が現地入りし、炊き出しや支援を個人単位で行ってくれていた他、地震直後に現地において、被災者支援のボランティア活動に参加してくれていた人の数は1日平均2万人超、3ヶ月間で延べ117万人とも言われ、この年は、ボランティア元年とも呼ばれているが、神戸市民は、これらのボランティアの人たちには本当に感謝をしている。
これらボランティア活動とともに神戸の被災市民を勇気づけたものに地元のスポーツ団体があった。当時40年以上も本拠地としていた西宮球場から神戸市須磨区緑台のグリーンスタジアム神戸に本拠地を移していたプロ野球・オリックスブルーウェーブ(現:オリックス・バファローズ)は、震災のあった前年・1994年から仰木彬が監督に就任。仰木の下でレギュラーとして起用されたイチローが初の規定打席到達にして日本新記録の年間210安打を樹立。チームの最終順位は2位に終わったが、イチローフィーバーに後押しされたチームは優勝争いにも加わり、観客動員も球団記録を大幅に更新していた。このような、震災の影響を受けた中で頑張ってきたのはプロ野球のオリックスブルーウェーブだけでなく、JFLヴィッセル神戸がある。
ジャパンフットボールリーグ(JFL)の川崎製鉄(現・JFEスチール)を母体とし、本社を神戸に置くスーパーマーケットのダイエーがメインスポンサーとなり、Jリーグ入りを目指して1995年1月1日、正式にヴィッセル神戸として結成されたが、不運なことに、初練習を予定していた1月17日に阪神・淡路大震災に遭遇したことから、選手らは母体となった川崎製鉄サッカー部の本拠地であった岡山県倉敷市での練習開始を余儀なくされ同グラウンドで2月6日に初練習を行うが、神戸では練習場の確保もままならならず、練習場を転々とせざるを得なかったが、やっと、神戸市西区 室谷の市営公園(いぶきの森公園) 内に練習場「いぶきの森球技場(旧)」が完成したのは7月のことだった。チームのメーンスポンサーのダイエーも震災の影響で撤退後、市民チームとなるが、メインとなるスポンサーも現れず存続が危ぶまれたが、街や人の復興とチームの成長を応援するサポーターの熱い思いに応えて1997年にJリーグ昇格を果たした。しかし、その後の成績は下位に低迷し、観客数も伸びず業績が悪化していた。
現在のヴィッセル神戸のオーナー企業は、ネットショッピングをはじめとしたインターネット総合サービスを提供している楽天の創業者である三木谷浩史がオーナーであるクリムゾングループである。
ヴィッセル神戸に関しては、あくまでも楽天グループの三木谷が個人的に「神戸に貢献したい」という意向を示していたことから、2004年、三木谷家の個人資産管理会社であるクリムゾン社がが買収し、再建にかかわっているものであり、楽天はあくまでもユニフォームスポンサーなどにとどまっている点で、楽天の100%子会社であるプロ野球の東北楽天ゴールデンイーグルスとは異なっている。
私は、サッカー発祥の地と言われている神戸(以下参考に記載の*1:「VICTORIOUS☆KOBE」のヴィッセル神戸、設立の経緯・1参照)にふさわしい強力なチームが誕生するのではないかと期待していたのだが、チーム設立当初からその選手層の薄さなどもあり、いつも最下位を低迷していることを非常に残念であったし、そのようなことから、特にサッカーファンでもない私は正直、同チームには余り大きな関心を寄せていたわけではないのだが、震災の日にチームが生まれたことを祈念するため、ホームスタジアムでの試合では、ヴィッセルを熱心に応援しているサポーター達が、試合前に歌い続けていたという『神戸讃歌』という応援歌を聴くとやはり同じ神戸市民として胸が熱くなる。
♪俺たちのこの街に
お前が生まれたあの日
どんなことがあっても
忘れはしない

共に傷つき
共に立ち上がり
これからもずっと歩んでいこう

美しき港町
俺たちは守りたい
命あるかぎり
神戸を愛したい

この歌は、フランスのシャンソン歌手・エディット・ピアフの名曲というよりも、日本では岩谷時子の訳詞により越路吹雪が歌って有名である「愛の賛歌」のメロディーにオリジナルの歌詞をつけたものであるが、その歌は以下のYouTubeで聴ける。
YouTube - 神戸讃歌
http://www.youtube.com/watch?v=U85j9GCjN7s&feature=related
この応援歌の詩は、2005年、古参サポーターのアイデアで生まれたもので、応援のリーダー役を務める男性サポーターは、「神戸にかかわる人たちが一番思いを共有できる歌」だと話しているそうだ(1月8日朝日新聞)。
昨・2010(平成22)年も、16位で迎えた最終節の浦和レッズ戦に勝利し、15位だったFC東京が敗戦したことにより勝ち点でFC東京を上回り、最終順位15位となりなんとか2年連続でJ1残留を果たしている。
ヴィッセル神戸のチーム名の由来である「 VISSEL」は英語のVICTORY(勝利)とVESSEL(船)から生まれた造語だそうで、「勝利の船」「勝利の船出」を意味し、国際港神戸をイメージするとともに、市民の夢を乗せた「大きな船」であること、勝利に挑戦し続けるチームであることへの願いが込められているようだ。
昨年途中からチームを率いるようになった本拠地神戸出身の和田監督は自身が震災経験もあることから、どうしてもチーム結成の原点である17日からの練習開始にこだわり、震災から16年たった今日・17日から、上位で戦い続けることにより応援者を勇気づけようと始動しているはずだ。頑張ってほしい。
(画像は、ヴィッセル神戸のホームズスタジアム神戸[神戸市御崎公園球技場]。Wikipediaより)
参考:
*1:VICTORIOUS☆KOBE
http://plaza.rakuten.co.jp/vissel12/
ヴィッセル神戸 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%AB%E7%A5%9E%E6%88%B8
ヴィッセル神戸公式サイト
http://www.vissel-kobe.co.jp/
Jリーグ公式サイト:クラブガイド:ヴィッセル神戸
http://www.j-league.or.jp/club/kobe/
震災発 | 阪神・淡路大震災の資料データベースリンク集
http://kobe117.ciao.jp/link/data.html
asahi.com(朝日新聞社):響け「神戸讃歌」 J1神戸、震災復興と歩んだ16年(1/3ページ)
http://www.asahi.com/sports/update/0108/OSK201101080065.html