今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

小松菜の日

2016-05-27 | 記念日
日本記念日協会(※1)の5月27日の記念日として登録されているものに「小松菜の日」があった。
由緒を見ると、大阪府堺市の小松菜を専作している有限会社しものファーム(※2)が制定したものだそうだ。
小松菜の消費拡大が目的で、日付は5と27で「小松菜」と読む語呂合わせから。
小松菜はカルシウムがほうれん草の5倍も含まれ、ビタミンも豊富など栄養面の評価の高い野菜として知られている。…とあり、いわば、今はやりのPR用の記念日ではある。
小松菜(コマツナ、学名Brassica rapa var. perviridis。※3のここも参照)はアブラナ科アブラナ属に属するツケナ(漬菜)類(野沢菜チンゲンサイなど非結球葉菜の総称)の一種ある。
ツケナ(漬菜)は、字のごとく、広義には漬物に用いるアブラナ科の葉菜類をさすが、農学上ではアブラナ(油菜)(Brassica campestris L.(n=10)のうち、結球種のハクサイ(※3のここ参照)、根を利用するカブ(※3のここ参照)、種子を油料とする在来ナタネ(※4参照)を除いた葉菜類の総称だそうである(ここ参照)。
最も歴史の古い非結球性菜類の一種といわれる小松菜の歴史は諸説あるようだが、中国から渡来したカブの一種「茎立菜(クク〔キ〕タチナ)」がその祖先であり、ソノカブの子孫が各地に広がり、一部は葉を食べる漬け菜となった。
万葉集東歌には、茎立(ククタチ)を詠んだ歌がみられる(※5:「たのしい万葉集」巻第十四参照)。
3406:「上つ毛野(上野)佐野の茎立ち(くくたち)折りはやし我(あ)れは待たむゑ来とし(今年)来ずとも」(作者: 不明)
上野国は、現在の群馬県。東山道の一国で、もと下野国(現在の栃木県)とともに毛野国と称したが,のち上下に分かれ,上毛野 (かみつけぬ。上毛とも略する) となった。
「茎立」とは(とう)(花をつける台のような茎)のたったアブラナ・カブなどのことで、両毛地区で古くから栽培されていた伝統野菜で、現在は栃木県佐野市付近で盛んなようだ。
秋に播種(はんしゅ)し、冬から春にかけて伸びてくる植物の若芽を掻き取って食用とする事から「かき菜」の名がついたと言われている。
この歌の意味は、※5:「たのしい万葉集」巻第十四のここにも書かれているが、古代の歌のこと、「茎立ち(ククタチ)」の「クク」には『古事記』・『日本書紀』の神産み神話に登場する木の神(木霊)「ククノチノカミ」とのかかわりもあるようだが、そのことは、以下参考※6を参照。
とにかく、アブラナ属の植物が延ばす花芽(茎葉の茎)は、古くから春先の野菜として重用されてきたようだ。
「茎立(ククタチ)」は、やがて各地の風土に合わせて改良され、それぞれの地に適した野菜となって定着してゆくが, そのひとつ江戸の小松村のあたりを流れる小松川(この川が江戸へつなるとして 「 江戸川 」とよばれるようになった。現:東京都江戸川区)付近で、それを品種改良して栽培されていた。
そのことは、江戸時代後期文化・文政期(1804年から1829年、化政文化の時期)に編まれた武蔵国の地誌『新編武蔵風土記稿』」には、「菜は東葛西領小松川辺の産を佳作とす。世に小松菜と称せり」とあり、小松菜が広く江戸っ子に賞味されていたことがわかるという。
また、享保4年(1719年)に、鷹狩りに来た将軍が鷹狩りの昼食時に何も料理するものがなくて、東・西小松川村あたりでとれた冬菜の入った餅のすまし汁をさしあげたところたいそう喜ばれ、そのときに地名から小松菜の名がつけられた、・・という話があるようだが、八代将軍吉宗が命名したといわれているが五代将軍綱吉という説もあるようだ(参考※7のこまつなくん豆知や地域情報を参照)。
江戸川区西小松川町にある浄土宗寺院「仲台院」(ここ参照)は鷹狩りに来た将軍が昼食をとったりする御膳所(休息所)という。江戸川区にある香取神社境内には、小松菜ゆかりの里という石碑もある(ここ参照)。
現在の江戸川区のほぼ全域は、江戸時代には<ahref= https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%B9%95%E5%BA%9C>幕府御料所(※7のここ「葛西御厨」も参照)であり、江戸に暮らす人々、さらには徳川将軍家に対して、たいへん重要な役割を担っていた。その役割のひとつが“野菜の供給地”として、そして、もうひとつは“御鷹場”つまり、鷹狩を行うために設けられた“狩猟場”としてであった。「小松菜の命名伝説」には、そんな江戸川区の歴史が背景にあるようだ。

「さしこもる葎(むぐら)の友か冬菜売り」松尾芭蕉
この歌は、深川芭蕉庵近くの小松川辺りでとれた小松菜をうたったもので。「さし籠る葎(むぐら)」とは、の宿の意で、隠遁している者のすみかをいっており、ここでは芭蕉庵のことを言っているそうだ。
深川の草庵で冬籠りをしている。そんなところへ冬菜売りが菜を売りに来てくれると、旧友に会ったような気分になる。といった意味だそうだ(句の解釈などは参考※8:芭蕉dbのここ参照)。
この冬菜が小松菜だった。「冬菜」は小松菜の冬の季語にもなっている。
「摘みそへよ膳のむかひの鴬菜」 加舎白雄(かやしらお。江戸時代の俳人)
「小松菜」は古くから収穫期によって冬には「冬菜」・「雪菜」、初春に出回るまだ若くて小さい菜は「鴬(うぐいす)菜」とも呼ばれており、春の季語となっている。
今、江戸川区の小松菜収穫量は、都内では一位を誇っているようで、同地域の特産野菜ともなっている。
「小松菜」は、最近は愛知県や大阪府などでの生産も行われているようだが、国内生産量のうち関東の生産量が大半を占め、東京都も生産量トップ2 に入っている。ちなみに、※9:「野菜ナビ」の、2013年 野菜の作付面積ランキングを見ると、
1位、いも 7万9,700ヘクタールに対して小松菜作付面積6,450ヘクタールと21位にあり、じゃがいもの作付面積を100%として、8%を占めているようだ。
そして、※9:「野菜ナビ」の小松菜の収穫ランキングを見ると上位ベスト10に入っている埼玉県/東京都/茨城県/神奈川県/群馬県/千葉県の6県で51,8%のシェアを占めている。その詳細は以下のようになっている。
(出荷量ベース、単位トンの後ろの数字は全国シェア率)
1 位  埼玉県 14,600トン 16.03 %
2 位  東京都 7,810トン  8.57 %
3 位  茨城県 7,520トン  8.25 %
4 位  福岡県 7,460トン  8.19 %
5 位  神奈川県 6,120トン 6.72 %
6 位  群馬県 6,000トン  6.59 %
7 位  千葉県 5,120トン  5.62 %
8 位  大阪府 3,840トン  4.22 %
9 位  京都府 3,350トン  3.68 %
10 位 兵庫県 2,490トン  2.73 %
これは、農林水産省の2013年(2014年12月15日公表)の作物統計の都道府県別のこまつな出荷量(※10参照)から作られたものである。
大阪が上位8 位に食い込んでいるし、兵庫がギリギリベスト10に入っているのは~結構頑張っているな~。
小松菜の栽培は関東一円から全国へ広がり各地でいくつかの系統が誕生している。そして、地域や収穫時期で呼び名が異なり、新潟の「女池菜(めいけな)」や「大崎菜」(※11参照)、福島の「信夫菜(のぶな)」(※12参照)なども小松菜の仲間である。
大阪府内には伝統的に優れた栽培技術で生産された、泉州の「水なす」や「大阪ふき」のように全国にも誇れる農産物がたくさんあり「なにわ特産品」として選定されているが、平成18年(2006年)からは「大阪こまつな」が加えられ、大阪府内全域で栽培されるようになり、それがあったからかどうかは知らないが、上記のような小松菜のランキング入りを果たす結果となったようだ。
栄養面では、カロテンカルシウムを豊富に含んでおり、葉にやや丸みがあり、表は濃い緑色で裏はやや薄い緑色が特長だそうだ (冒頭の画像が「大阪こまつな」)。詳しくは※13:「阪府/なにわ特産品」参照。
ちなみに、「ツケナ」(漬菜)はアブラナ科の非結球葉菜の総称で、交雑が容易なため、いまでは国内で100近い品種が作られているようで、よく知られるところではノザワナ(野沢菜)、ミズナ(水菜)、ミブナ(壬生菜)などもその仲間である。
野菜には体によい栄養がたっぷり詰まっているというので、近年、生活習慣病予防に効果があると人気上昇中のようだが、それぞれの野菜に実際にどんな栄養素が含まれているかを知っていることは健康管理には役立つことだろう。ただ、栄養成分といっても色々種類が多いのでどんな野菜を取ればよいかなどは、人によって違ってくるだろうから難しい。

冒頭、日本記念日協会の今日の「小松菜の日」の設定理由に、「小松菜はカルシウムがほうれん草の5倍も含まれ、ビタミンも豊富など栄養面の評価の高い野菜として知られている」…のでとあったので、先ずは、「小松菜」が、「栄養成分トップ30」の野菜に入っっているかを※9:「野菜ナビ」でみるとその中には入っていない。
では個別にみるとどうなるか ?
ではカルシウムについてみてみよう。可食部100g中カルシウム含有量を同じく、※9:「野菜ナビ」でみると、主要野菜の栄養成分の1位は、「こまつな/ゆで」で、含量は 150 mg で、「ほうれんそう/ゆで」が8位で含量69 mgとなっており、1位:「こまつな/ゆで」の含量を100%とした割合は「ほうれんそう/ゆで」の含量は46%。となっている。確かに、小松菜の含量はホウレンソウより多いが、5倍はちょっとおオーバーすぎるのではないか。
そこで、※9:「野菜ナビ」の野菜図鑑で、コマツナの栄養と効能を見ると、
「ゆで:βカロテン当量(3100mcg)、ビタミンC(21mg)、ビタミンK(320mcg)、カルシウム(150mg)、鉄(2.1mg)、食物繊維総量(2.4g).とあった。
「期待される効能」としては、
「小松菜はβカロテンやビタミンCを豊富に含んでいます。βカロテンは体内で必要な分だけビタミンAに変換され、皮膚や粘膜を保護する作用があるといわれます。また抗酸化作用(生体内で、酸素が関与する有害な作用を抑制するはたらき。このはたらきをもつ物質を抗酸化物質という抗酸化物質参照)により老化やがん(悪性腫瘍参照)、風邪,などの予防効果もあるとされ、ビタミンCとの相乗効果で免疫力アップや美容効果も期待できます。
カルシウムも多く含まれているので、歯や骨の健康維持にもよいでしょう。さらには貧血予防に効果がある鉄分や、血圧の上昇を抑制する作用のあるカリウムも含まれています。中でもカルシウムや鉄分の含有量は、ほうれん草の約2倍です。・・とある。ここでは、ちゃんとホウレンソウの5倍ではなく2倍と正しく書かれている。
この内容を見ていると、確かに、女性や、我々のような年寄りには効果がありそうだね~。
そういえば、下のようなブログもあった。 
意識して食べることにしようか。クックパッドにいろいろおいしそうな「小松菜レシピ」があったので、家人に見てもらっておこう。

冒頭の画像は、「大阪こまつな」※13:「大阪府/なにわ特産品」より借用。
参考:
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:有限会社しものファームHP
http://www.sakai.zaq.ne.jp/shimonofarm/
※3:野菜図鑑-農畜産業振興機構
https://vegetable.alic.go.jp/panfu/zukanmokuji.html
※4:ナタネはどんな植物か 食農教育 2004年9月号 - 農文協
http://www.ruralnet.or.jp/syokunou/200409/09_natane.html
※5:たのしい万葉集
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/home.html
※6:「茎立折りはやし」 菜の花供え「あなた」待つ : 地域 : 読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/local/gunma/feature/CO004071/20140209-OYT8T00010.html
※7:花と野菜の豆知識・カレンダー:江戸川区公式ホームページ
https://www.city.edogawa.tokyo.jp/san_jigyosya/nogyo_suisan/hana_calendar/index.html
※8:芭蕉db-芭蕉俳句全集:季題別順
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/index_kidai.htm
※9:※野菜ナビ
http://www.yasainavi.com/
※10:農林水産省:作物統計 > 作況調査(野菜)
http://www.maff.go.jp/j/tokei/kouhyou/sakumotu/sakkyou_yasai/index.html
※11:とう菜 | 新潟・食品名産図鑑
http://nigata.japanfoods.net/specialty/touna/
※12:信夫菜 (しのぶな)|地方特産食材図鑑
http://g-foods.info/zukan/product/product_203.html
※13:大阪府/なにわ特産品
http://www.pref.osaka.lg.jp/nosei/naniwanonousanbutu/tokusanhin.html
食品成分データーベース-文部科学省
http://fooddb.mext.go.jp/search.html
旬の食材百科
http://foodslink.jp/syokuzaihyakka/index.htm

ココモ(Kokomo)=カクテルの日

2016-05-13 | 記念日
ココモ(Kokomo)」という曲知っていますか。
アメリカのロックバンドザ・ビーチ・ボーイズが1988年に発表したシングル。厳密にはビーチ・ボーイズのシングルでなく、リトル・リチャードとのスプリット盤という形でリリースされたもの。
ロジャー・ドナルドソン監督、トム・クルーズ主演の映画『カクテル - KINENOTE参照)の主題歌で、バンドは「グッド・ヴァイブレーショ」(1966年)以来22年ぶりにBillboard Hot 100での1位獲得を果たした。

今日(5月13日)は、「カクテルの日」で、アメリカの雑誌『バランス』の1806年5月13日号に、「カクテル」という名称が初めて登場したことによるそうだが、この記念日「カクテルの日」のことは依然このブログで書いたことがある。
ここ → 「カクテルの日

それなのに、また今日書いたのは、「ココモ(Kokomo)」という曲が非常にいい曲なのだが、前回はこのブログにまだ、YouTubeの貼り付け方を知らなかったから、すごく良い曲なのでここに、貼り付けて聞いてみたくてまた書いただけ。




「Kokomo」の歌詞はこちら→Kokomo

タイトルの「ココモ」(Kokomo)は、以前はココモ島と呼ばれていた現在のSandals Cayに当たるジャマイカのリゾート地のことらしい。
映画『カクテル』は題名の通り、バーテンダーである登場人物の手によって様々なカクテルが登場する。
田舎の青年、兵役あがりのブライアン(トム・クルーズ)が一攫千金を夢見てニューヨークにやってくるところから始まるこの物語の内容は、主人公の青年ブライアンが、就職活動が難航し、ふとしたきっかけから、一時しのぎのつもりでバーテンダーのアルバイトを始める。オーナーのダグラス(ブライアン・ブラウン)とコンビを組み、派手なバーテティングで評判を呼んで快調な滑り出しをみせるが、やがて二人は仲違いし、別々の人生を歩んでいく。…といったもの。
映画のカテゴリーとしては、青春群像劇といえるもので、野望、出世、金、挫折と成功、師弟関係、友情、恋愛、幸福感などのテーマが入り混じった物語構成で、主人公が人生のアップダウンを繰り返しながら、大切な愛を掴むまでが描かれているが、作品自体の興行成績は各国で良好であったそうだが、この作品、毎年アカデミー賞授賞式の前夜にその年の「最低」の映画を選んで表彰するゴールデンラズベリー賞の作品賞と脚本賞に選ばれており、単なるアイドル映画として扱われることが多いようだ。主演のトム・クルーズも自身の出演映画ワースト4に入れているそうで、この映画に関して多くを語りたがらないという。

しかし、映画の内容評価はどうでもよい。私も大好きな運動神経抜群のトム・クルーズ(当時まだ20代)とブライアン・ブラウのふたりがカクテルを作る時の、あのフレアバーテンディングをする場面は最高。このシーンを見て、ウットリさせられた女性も多かったのではないかな・・・。
このシーンがもう一度見たい。先に揚げた動画は「ココモ」(Kokomo)の演奏シーンだが、以下は、映画『カクテル』での恰好良いフレアバーテンディングシーンが堪能できる。これが見たくて、今日もこのブログを書いた次第。みなさんも一緒に楽しんでください。

!-- Cocktail - Tom Cruise (カクテル) -->

国際ノーダイエットデー

2016-05-06 | 記念日
今日・5月6日の記念日に「国際ノーダイエットデー」があった。
イギリスのフェミニストのメリー・エヴァンス・ヤングが提唱。世間のダイエットへのプレッシャー(pressure=圧力や精神的重圧)に対抗し、ダイエットによる健康への影響を訴える日だそうである( Wikipedia-5月6日参照)。

フェミニスト(英: Feminist)とは、社会における伝統的な女性概念による束縛からの解放を唱え、女権獲得・女権拡張・男女同権を目指すフェミニズムを主張する人の事であるが、メリー・エヴァンス・ヤングって人って、一体どんな人なのだろう?
良く知らないのでネットで検索してみると、ウィキペディア英語版の「International No Diet Day」があり、その「和訳」を見ると、直訳のためよく理解できないところも多く、正確でないかもしれないが、
「国際ノーダイエットデー」は英国のフェミニスト、メリー・エヴァンス・ヤング(Mary Evans Young)によって、1992年に作られ英国で祝われたのが最初のようだ。
彼女は『ダイエットブレイキング』(Diet Breaking)という本を書いており、それがイギリスでベストセラーになっているそうだ。肥えていたために学校でいじめられた経験を持つ彼女は、ダイエットのやり方を間違って自身も拒食症を経験したようだ。そんな彼女がダイエットのし過ぎで拒食症になる危険についてのことを書いているようだ。

上掲の画像はメリー・エヴァンス・ヤングとその著書『ダイエットブレイキング』(amazonより)
当時は特に記念日の日付までは決まっていなかったようだが、どうせなら国際的に、特に大きな記念日と重複しない方が良いということになり、5月6日としたが、この日は、偶然にもメリーの誕生日と一緒ということで決まったそうだ。

ダイエットとは、英語の diet の音訳であり、本来、「規定食」(一定の計画に従って調製する食事という意味)のことであり、美容健康保持のために、食事の質や量を制限することである。
先進国の人々は統計的に見ると栄養過多の傾向があり、肥満に陥ってしまう人が非常に多くなり、結果として diet を行う人の比率を見ると痩せるために行っている人が多いので、「diet」が "痩せるための規定食、という意味で使われている比率が多いようだ。そのことからか、日本では、「ダイエット=運動や食事制限によって痩せること」と解釈している人が多くいるようだが、これは誤解であって「運動や食事量を管理して、適正な体重にしていくこと」が「ダイエット」の本来の意味であり、ダイエットには、肥満対策以外に、健康のためにも行われることがある。
また、拒食症とは、正しくは「神経性無食欲症」(英: Anorexia nervosa ; AN)という病気のことであり、神経性やせ症とも呼ばれる、病的な痩せを呈する摂食障害(中枢性摂食異常症とも呼ばれる※1参照)であり、厚生労働省の難治性疾患(難病)の一つに指定されている精神疾患の一種である。無理な食事制限や絶食(食物摂取の不良または拒否)をくり返した結果、自分の意思とは関係なくカラダが食べ物を受けつけなくなり、極端な体重減少を特徴とするが、一般には拒食症ともよばれている(※2のこころの病気を知る>病名から知る >摂食障害 ,専門的な情報>摂食障害や※3参照)。
本来、摂食障害は大きく拒食症と、過食症に分類される。拒食と過食は相反するもののように捉えがちだが、拒食症から過食症に移行するケースが約60 - 70%みられたり、「極端なやせ願望」あるいは「肥満恐怖」などが共通し、病気のステージが異なるだけの同一疾患と考えられている。よって拒食症、過食症を区別する指標は、基本的には正常最低限体重を維持しているかどうかのみである。アメリカでは平均体重の85%以下が拒食症に分類されているが、日本では80%以下とされている((※3 の診断基準、)。
摂食障害患者は、特に10代~20代の女性が圧倒的に多い(全体の90%が女性)のが特徴だそうだが、これら若い女性のもつ重大な症状のひとつに、自分の身体像の捉え方に歪みがある場合が多いと考えられている。自分の身体像とは、自分がどういう体型をしているか、など自分自身の見た目に対する客観的なイメージのことであるが、自分の身体像を正確に認識できないことを「ボディーイメージの障害」というらしい。
特に若い女性などの場合、自分の体型がやせ細っているにもかかわらず、それを正確に認識できない。つまり、 細い体を見ても細いとは思えず、太く見え、「自分は太っている」と考えてしまうようである。「やせたい」という強い思いがあるため、本人はなかなか治療もしたがらないそうだ。
テレビなどに登場する最近の美人女優やモデルなど見ていても昔などから比べると、本当に細い人が多く、現代社会では痩身イコール女性美と考える社会風潮があるような気がする。
女性が綺麗になりたいと感じた時、まず最初に取り掛かることの多いのがダイエットではないか。そんな女性の永遠のテーマである「ダイエット」。
一口にダイエットと言っても、人にはそれぞれの体質があり、その人に応じたダイエットが必要なはずなのだが、何かそれを誤って、美しくなりいたい一心から「ボディーイメージの障害」に陥り、拒食症になる女性を増やす要因になっているという見方があるようだ。
では、そもそも日本のそんなダイエットの始まりいつごろからだろうか?
1920年代(大正末期から昭和初期頃)、世界経済の好調を背景に、海外では食生活、ダイエットにも影響を与え、スリムで若々しいことが理想とされはじめた。
日本でもこのころから、女性の社会進出は進み、仕事、娯楽などで外出する機会の増えた一般の女性に化粧の習慣が普及した。そして、フラッパーモダンガールなどと呼ばれる、新しい価値観を体現した女性が出現。同時に、これら日本女性の性的魅力も重要となり、スリムで若々しいことが理想となった。
1930年代、海外の女性の理想像は、グラマーといわれ、成熟した大人の魅力が理想とされていた。よりいっそうのダイエットと体型をつくるコルセットなどの下着が必要となり、ダイエットが、身体だけでなく、心・魂の問題であることが強調されるようにもなる。
この当時の日本女性は柳腰が美しいスタイルといわれてはいたが、大根足に短足、腰にクビレはなく、お尻は扁平という
安産型(※4参照)であり、コルセットなどまだまだ苦しくて多くの人は身につけられなかったであろう。
その後大戦で、女性も、おしゃれどころではなくなった。戦後もやっと落ち着き始めると、
1950年代、アメリカ人のような顔立ちに憧れる女性が増え、目を二重にする手術や鼻を高くする手術などの美容整形の需要、ダイエット・エステなどの需要も高まっていき、身体は「つくられるもの」となり、それが自己表現とされるようにもなった。
当時、男性はギリシア彫刻にみられるような肉体や筋肉を、女性はマリリン・モンローが時代のシンボルとなり、女らしいシルエットが理想とされた。
1960年代にはいると高度経済成長とともに物流が発展し、モノが溢れ、日本の暮らしは豊かになるが、一番の変化は町が明るくなったことである。
そして、服飾の華やかさも目立ってきた。街を歩く女性の健康一杯の足がミニスカートからのぞくようになったと思うといつのまにか、男子もオシャレになり、街から大学生の角帽が姿を消し黒い詰襟もなくなった。と、同時に肥満が問題となり始めた。
以前このブログ「ミニスカートの日」でも書いたことがあるが、ミニスカートは、1959年にイギリスのファッション・デザイナーナーマリー・クワントがロンドンの若者向けに売り出し、1965年にはパリコレで発表。その後、イギリス出身のモデルツイッギー(TWIGGY)が着用してブームを呼び起こし、60年代に入ってミニスカートは世界中に広がった。そして、ツイッギーはミニの女王と呼ばれるようになる。
日本でもクレージュのコレクションに触発されたアパレルメーカーがミニスカートを採り入れたが、一大ブームのきっかけとなったのは、同じくイギリスのスーパースタービートルズ(1966年)の来日に続く、翌・1967(昭和42)年10月18日の「ミニの女王」“ツィギー”、の来日であった。空港にはキュロット姿で現れたが、来日記者会見では最先端のひざ上30センチの超ミニ姿で現われ注目を集めた。

上掲の画像は、ミニスカートのツィッギー。10月19日東京永田町のホテルで。『朝日クロニクル週刊20世紀』1967年号より。
ファッションモデルとしては、168cmと背が低く、体重41キロ、バストはたったの79センチしかないかぼそい妖精のような女の子(デビューは15歳)で、しかもファニー・フェイス(funny「おかしな」+face。)で美貌というわけではないが,個性的で魅力ある顔立ちで、その名“ツィギー(TWIGGY、「小枝」という意味)”の通り小柄で華奢な体型に、ミニスカートやAラインの服は本当によく似合った。そして、ショートカットの彼女には中性的な魅力もあり「アンドロギュナス(両性体)」とも呼ばれていた。
ツイッギーの来日の影響を受け、ミニスカートが、中高年の女性も巻き込んで日本で爆発的に流行するのは翌1978(昭和53)年からだが、1967(昭和42)年には、すでに町の風俗として定着している。町を歩く女性はミニスカートばかり。ヒップボーンやAラインのミニスカートなど様々なデザインのミニスカートが、町を華やかにしていた。
このツィッギーの出現はそれまでの女性の身体意識をも大きく変えた。その1つは、BWH(スリーサイズ)のめりはりのあるカラダが女らしいというそれまでの「常識」を打ち破り、やせていることがおしゃれでかっこいいといった価値観を高めたこと。そして、もう1つは、従来の「成熟」した美しさよりも、「若さ=未成熟」こそがすばらしいことを認知させたことである。
そのスカート丈は年々短くなり、1966年には膝上10cm、1968年にはマイクロミニと呼ばれる膝上30cmのスカートが登場する。と、同時に肥満が問題となり始めた。こんなミニスカートに、大根足、短足、安産型の体系が気になるのは仕方がないだろう。
そのスカート丈は年々短くなり、1966年には膝上10cm、1968年にはマイクロミニと呼ばれる膝上30cmのスカートが登場する。と、同時に肥満が問題となり始めた。こんなミニスカートに、大根足,短足、安産型の体系が気になるのは仕方がないだろう、
神経性無食欲症(拒食症)が爆発的に増加したのは、1960年代から1970年代にかけてと言われている。つまり、ツイッギーが登場した頃からである。
「妖精」と謳われた華奢な体型の彼女は、ロンドンで行われた人気アンケートで年々順位を上げ、1976年には首位になっていたという。
社会の価値観がそれまでのグラマラスな女性像から、スリムな女性が理想像として迎えられるようになり、「やせることが女性にとって価値があること」になってしまった。摂食障害の人にとっては、この「価値があること」がキーワードなのだそうだ。
自分には何の取り柄も無いという自己不信を根底に抱える人は、その抑うつを防衛するために、人とは際立って違う、優れた、特別な自分であり続けなければならないそうだ。彼女らは幼い頃から常に「自分が自分以上でなければならない」という強迫観念に支配されているのだそうである。
やせを実現するには、食欲を抑え、自分に打ち克つ必要がある。やせる事に成功した時には、自分をコントロールすることが出来たという万能感(※5も参照)が得られる。幼い頃から課題に挑戦し、自分に打ち克って結果を得てきた彼女らは、結果を出す事で得られる賞賛と万能感により、中核にある自己不信(ここを参照)を救済するのだという(市橋秀夫「肥満恐怖の社会文化的影響」、『精神科治療学』第12巻第12号、1997年、 1405-1412頁)。
私などに病状の詳しいことはよくわからない。詳細は※1,2,3また「摂食障害#病理学」を参照されるとよい。
昨・2015(平成27年)年10月日、 NHKのクローズアップ現代で、「ニッポンの女性の“やせすぎ”!?」問題が取り上げられていた(※6の ここ参照)。
その中で、「今、日本人女性の8人に1人は “やせすぎ”ており、その割合は戦後最多を記録。中でも20代女性の平均摂取カロリーは食糧難だった終戦直後を下回る1628kcalで、世界的にも異例の低水準にあることが国の調査で判明した。なぜ飽食の時代に日本女性はやせるのか。やせ女性の全国実態調査に乗り出した民間団体によると、その背景には、生活スタイル変化の中での「長時間労働」や「孤食」があるという。さらに本来は男性市場をターゲットにしたメタボ予防商品が忙しい女性に売り上げを伸ばし、結果的に「やせ」を促進していることなどが見えてきた。・・・という(※7ではもっと詳しく書かれている)。
やせすぎの女性は若い時に蓄えておくべき「骨の貯金」がないため、年をとると骨が弱くなり、骨粗鬆症(こつそしょうしょう)になりやすい。そして、問題は女性本人の健康だけには終わらず、危険は次世代にも及び、やせて栄養状態の悪い母親から生まれた赤ちゃんは低出生体重児になる可能性も高くなるともいう。
今やダイエットに関する情報などはありすぎるほどある。テレビなどの報道だけでなく、インターネットでダイエットとを検索をすると様々なダイエット方法がヒットし、本屋に行けばダイエットに関するレシピ本もたくさん並んでいる。しかし、ダイエットと一口に言っても、人にはそれぞれの体質があり、医者などにも相談しながらどのようなダイエットの仕方をするかを間違えてはいけないだろう。
まずは「国際ノーダイエットデー」のこの日に、無理なダイエットをしていないかを考えてみるのもいいかもしれない。
肥満度を表す指標として国際的に用いられている体格指数にボディマス指数(Body Mass Index)、一般に「BMI 」と呼ばれているものがある。この指数は、[体重(kg)]÷[身長(m)の2乗]で求められている(身長はcmではなくmで計算)。
計算方法は世界共通だが、肥満の判定基準は国によって異なり、WHO(世界保健機構)の基準ではBMI:25以上を「過体重 (overweight)」、30以上を「肥満 (obese)」としており、欧米諸国は大体がこの基準と同様だそうであるが、日本肥満学会の定めた基準では、BMI:
18.5未満が「低体重(やせ)」、18.5以上25未満が「普通体重」、25以上が「肥満」としているようだ。
因みに、1967(昭和42)年10月に、来日した時のツイッギー(18歳)の当時のサイズは身長168cm、体重41kgだと言われている。
それでは彼女の痩せ度はどのくらいだったのだろうか。
計算結果は、BMI:14.5 kg/m2。肥満度-34.1 %。肥満の判定:低体重。
身長168cmの人の理想体重は、62.1 kgなければならなかったのだから、彼女は単に痩せ型というよりも、超痩せ型である。
一日摂取カロリーの目安は、超痩せ型の彼女は、生活活動度が軽労作でも、1863 kcalは必要、生活活動度が中等度なら、2174kcalは必要ということになるようだ。
それでは、皆さんも、以下で自分のBMIを計算してみてください。※2厚生労働省の摂食障害のサイン・症状のところでも計算できるがこちらの方が細かくできる。
肥満度の計算
そして、判定結果を「BMIと肥満の判定基準」と照らし合わせてみよう。普通の人(18~49歳)なら、18.5未満なら低体重(痩せ型)です。あなたは、どうでしたか?
「1日に必要なカロリー」については、あまり違いはないが、慎重に以下の日本医師会のものでやっって見た方が良いかも・・・。
「1日に必要なカロリー」 -日本医師会

ファッションの中心地フランスでは、2015年4月に、痩せすぎたモデルの雇用を禁止する法案が可決されており、この法案の可決に先立って、「過度の細さ」を扇動した者に対し、1年以下の禁錮刑と1万ユーロ(約130万円)以下の罰金を科す修正法案も可決されていたというのだが・・・(※8参照)。

日本では、1990年代には、ともさかりえ宮沢りえが拒食症による極端なやせ方をしていたことがあったし、鈴木明子(フィギュアスケート)、女優の釈由美子なども拒食・過食嘔吐体験をマスコミにカミングアウトしていた。
私はあまり、最近の若いタレントのことはよく知らないが、テレビなどでは、今でもやせ過ぎの人を見かけるのだが・・・。日本の対応は遅いなきがするが・・・。
いろいろ検索していると、面白いユーチューブが見つかった。『Perceptions of Perfections』と名付けられたプロジェクトが、女性の完璧なボディの認識を確認する実験を行ったそうだ。この実験では、世界18カ国のデザイナーが、ある女性の写真をフォトショップで「完璧な女性」に加工するというシンプルなものだが、さて、実験に使われたオリジナルの写真を、18カ国のデザイナーが加工した完璧な女性のボディとはどんなものだったと思いますか?以下をご覧あれ。


これを見て、日本女性は「ウソ!」と思う人が多いかもしれない。今でも、男性は痩せ型より、グラマラスな女性を好んでいるのではないかな?。
今の日本では女性だけでなく男性でも痩せ型が流行っているようだ。昔と比べてひょろひょろと細くて背は高くなったが、顔は小さい。
私など一世代前のものは、背が低くて顔も大きかった。そんな時代八頭身か理想とされた。八頭身というのは、頭(顔)が身長の1/8ということ。 身長160cmなら顔の長さが20cm。 それぐらいが1番バランスが、良いと言われた。 しかし、現代風の小顔なら9頭身かそれ以上になっている人も多いのでは?
もうそうなれば、 バランスが悪くて、かえって貧弱に見える。背が高くなったのなら、もう少し顔も大きければよいのだが・・。それにお尻(骨盤)が小さくなった。男性でも女性でも外人などはお尻が大きいので、バランスが取れているのだが、日本人の場合は尻すぼみで、足も細すぎ、股の間から向こうの景色が見える感じで、本当に貧弱に思える人が多いのは、7頭身の私だけのひがみだろうか?
男性は意外に、ぽっちゃり形が好きだと思って、あまり、細身にこだわらず、美味しいものを食べた方が得だと思うのだがね~。

参考:
※1:難病情報センター | 中枢性摂食異常症に関する調査研究
http://www.nanbyou.or.jp/entry/1552
※2摂食障害|病名から知る|こころの病気を知る|メンタルヘルス - 厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/kokoro/know/disease_eat.html
※3 :摂食障害ガイド
http://sesshoku.org/
※4:安産型ってどんな体型?おしりや骨盤が広いだけではなかった
http://ikejo.net/anzangata-taikei-4007
※5:万能感とは何か~「自由な自分」取りもどす心理学
http://www.kanshin.com/keyword/327571
※6:クローズアップ現代-NHK
http://www.nhk.or.jp/gendai/archives/201602/index.html
※7:日本女性「やせすぎ」で限界寸前 摂取カロリーは戦後の食糧難より低い
http://www.j-cast.com/healthcare/2015/10/31249249.html
※8:フランス、「痩せ過ぎ」モデルを禁止する法案可決-AFP
http://www.afpbb.com/articles/-/3044509
国民健康・栄養調査
http://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/kenkou_eiyou_chousa.html
摂食障害の死亡率 - 井出草平の研究ノート
http://d.hatena.ne.jp/iDES/20060628/1151491169

「昭和の日」その1

2016-04-29 | 記念日
熊本・大分地震(※1)で被災された皆さまに対して、心からお見舞い申し上げます。
私の地元神戸を中心に発生した20年前の阪神・淡路大震災と同じクラスの大規模地震、日が経つにつれてその被害状況が明らかになっていますが、今回の地震は、何時までも大きな揺れが継続して発生しており、住民の方は本当に不安な毎日をお過ごしのことでしょう。ただただ、一日も早い復興をお祈りするばかりです。

いつもこのブログを書く時、参考にしているのが日本記念日協会(※2)登録の記念日であるが、同協会に登録されている今日・4月29日の認定記念日には、「豊後高田昭和の町の日」(大分県豊後高田市が制定)や 「歯肉ケアの日」(花王株式会社が制定)、 「歯肉炎予防デー」(花王株式会社が制定) 、「Piknikの日」(森永乳業株式会社が制定)、 「クレープの日 」(株式会社モンテールが制定)、 「キン肉マンの日」(集英社が制定)、「畳の日」(全国畳産業振興会が制定)、 「羊肉の日」(ジンギスカン食普及拡大促進協議会が制定)が登録されており、その他の記念日として、「昭和の日」が登録されていた。
この認定記念日の「Piknikの日」(ここ参照)や,「クレープの日 」(ここ参照)、「畳の日」(ここ参照), 「羊肉の日」(ここ参照)は、すでにこのブログ「今日のことあれこれと・・・」で、取り上げたし、 「歯肉ケアの日」や「歯肉炎予防デー」に代わりに、似たような記念日としては「歯の日」「歯ブラシの交換日」(毎月8日. サンスターが制定。ここ参照)や、虫歯予防デー (6月4日、日本歯科医師会や厚生労働省が設定していたものを日本記念日協会が再設定。ここ参照)で取り上げたことがある[()内のこことあるのは当ブログで取り上げたページ]。あとは、「キン肉マンの日」と「豊後高田昭和の町の日」だけがまだ取り上げていない。
「豊後高田昭和の町の日」は、大分県豊後高田市が制定したもの。
同市が2001年から商業と観光の振興のために、商工会議所、商店街とともに進めてきた昭和30 年代をテーマとした「豊後高田昭和の町」をさらに多くの人に知ってもらうのが目的だそうで、日付は国民の祝日の「昭和の日」からだそうだ。
「豊後高田昭和の町」は、その懐かしい街並みや商品、人々の温かい対応などで全国から多くの観光客を集めているそうだ。


ただ、今回の地震の風評被害などで大分地方の大した被害のない観光地も旅館予約な取り消しなどが相次いでいるところがあるとも聞く。困ったものですね~。
そのようなことからというわけではないが、今日は、日本の国民の祝日の一つである「昭和の日」をテーマーに書くことにしよう。
国民の祝日である「昭和の日」は、もともと昭和の時代には、帝国憲法時代の戦前・戦中では「天長節」、戦後の日本国憲法(新憲法)下の国民の祝日に関する法律(略称「祝日法」、昭和23年7月20日法律第178号)では「天皇誕生日」という祝日であった。
「祝日法」第2条によれば、天皇誕生日は、「天皇の誕生日を祝う」ことを趣旨としており、日付は昭和天皇の誕生日である4月29日があてられている。
それが、昭和64年(1989年)1月7日に昭和天皇が崩御され、今上天皇即位により、同年以降の4月29日はそれまでの天皇誕生日としては存続できなくなり、「祝日法」の天皇誕生日に係る項を改正する必要が生じた。
孝明天皇明治天皇大正天皇の場合は崩御日が先帝祭として 戦前は太政官布告年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」や勅令「休日ニ関スル件」により、法定の休日とされていたが、昭和天皇の場合は現行の「休日法」により崩御日が休日とならない(「休日法」施行と同時に前述の法は廃止)ため、当初から誕生日を活かして「昭和記念日」など昭和に因んだ新祝日として存続させる案が出ていたようだが、その案は見送られ、天皇誕生日は、今上天皇の誕生日である12月23日に改められることとなったが、同時に、同年(平成元年=1989年)以降の4月29日は「みどりの日」という名称の祝日に改めた上で祝日として存続させることとなった。
「みどりの日」の名前の由来は、各界識者をメンバーとする小渕恵三官房長官(当時)の私的諮問機関(皇位継承に伴う国民の祝日に関する法律改正に関する懇談会)において、「昭和天皇は植物に造詣が深く、自然をこよなく愛したことから『緑』にちなんだ名がふさわしい」という主旨の意見が多数を占めたからであるとされている(Wikipedia)。参議院での審議などは以下参考の※3:「参議院会議録情報 第162回国会 内閣委員会 第9号」参照。
「祝日法」第2条には、「自然にしたしむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ」ことを趣旨としている(「祝日法」条文※4参照)。
その後、平成12年(2000年)3月、自由民主党自由党公明党の連立与党が改正法案を参議院に提出。参議院は通過したものの、同年5月に内閣総理大臣森喜朗の「神の国発言」の影響で衆議院での採決が見送られた後、衆議院解散(神の国解散)により廃案となった。
平成14年(2002年)に自由民主党と保守新党が再提出。公明党・自由党が賛成、平成12年(2000年)の法案に反対した民主党も賛成に転じて、平成15年(2003年)7月に衆議院を通過した。参議院で継続審議に入ったが、衆議院の解散により審議未了のまま廃案となった。
平成16年(2004年)、自由民主党・公明党が3度目となる改正法案を提出、翌平成17年(2005年)4月の衆議院内閣委員会で自由民主党・公明党・民主党の賛成多数により可決。参議院での継続審議を経て、5月13日の参議院本会議で成立した。同改正法は平成19年(2007年)から施行され、同年以降の4月29日は「昭和の日」、従前の「みどりの日」はそれまで「国民の休日」であった5月4日に上書き的に移動した。なお、同改正法にはこの二つの祝日設置のほかにも付随する改正(振替休日や国民の休日の重複を避けるための条文の変更等)が盛り込まれている。
これらの経緯を見ていても、4月29日という日はゴールデンウィークの一角を構成する祝日を廃止することによる国民生活への影響も配慮されたようであるが、昭和天皇の誕生日をとりあえず「みどりの日」という名の祝日で存続させておいて、後に改めて「昭和の日」と名称を変え、何が何でも存続させたかったという執念のようなものが感じられる。
祝日法」第3条第3項に「その前日及び翌日が「国民の祝日」である日(「国民の祝日」でない日に限る。)は、休日とする。」とあり、これらの祝日に日曜日が当たる場合は休日が増えることになるのだが、残念ながら、今年は、4月29日の後の4月30日、5月1日(日曜)の後の5月2日も平日と、飛び石連休になっており、有給などで休める人は良いが、ちょっと残念な人も多いだろうね。

日本国憲法(新憲法)の時代になり、宗教政治は切り離さないといけないと決められれている(政教分離の原則参照)。
戦前は「天皇」はとして崇められており、その誕生日は「祝日」として扱われていた。しかし戦後、天皇は神ではなく「日本国民統合の象徴」(象徴天皇制)という新しい意味を持つようになった。その事を受け、天皇を神格化した行事では無く天皇の誕生日を純粋にお祝いし、国民と天皇との距離を縮めることを目的とした日として「天皇誕生日」が設けられた。
戦前までの天長節は、「天皇誕生日」と名をかえ「天皇の誕生日を祝う日」として今上天皇の誕生日12月23日に設定され、明治天皇の誕生日、旧暦(嘉永5年)の9月22日は新暦(1852年)の11月3日に、「自由と平和を愛し、文化をすすめる」日として、現在の「文化の日」として残されている。
この日は新憲法公布の日(1946年11月3日。因みに施行は翌1947年5月3日)にもあたり、前半はそのスローガンである「自由平和」をとり、後半の「文化をすすめる」は明治時代の近代化政策により、飛躍的に社会の生活・文化が発展したことをふまえている。新憲法の公布日をこの日に設定することには色々とGHQにも気を使わねばならなかったようだ(※5参照)。この日は、まさに明治と新生日本を記念する日ではある。そして、昭和天皇の誕生日は、亡くなられた後に現在の名称に改名され残されている。
ただ、なぜか、昭和天皇の父君である大正天皇の天長節由来の休日(8月31日か8月は酷暑のため10月31日にずらして実施されたことあり)が現在祝日として残っていない。
大正天皇は、明治45年/大正元年(1912年)践祚後1915年(大正4年)に即位の礼を行っているが、明治天皇と異なり政治的な判断が不得手でこの面の力が無かったたようであり、また、生まれて以降病弱であったため大正6年(1917年)頃から、公務や心労が病の悪化に輪をかけ、公務を休むことが多くなり、大正10年(1921年)末には、当時二十歳であった皇太子裕仁親王(昭和天皇)が摂政となり、それ以降公務は、ほとんど皇太子が行なっていたという事実がある。
この頃、第一次世界大戦(1914年~1918年)末期の1917年(大正6年)ロシア革命(二月革命や十月革命)や1918年(大正7年)のドイツ革命(11月革命とも言う)などによって次々と帝政(帝国)は崩壊し、その影響はヨーロッパや日本にも及んでいた。そして、国内でも「大正デモクラシー」による労働運動・小作争議の高まりで「革命」の危機感があった時代でもある。天皇が病弱であることで、国内の統治秩序に問題が生じれば、天皇の権威を失墜させることにもなるので、元気で聡明な皇太子裕仁親王(昭和天皇)に公務をゆだねざるを得なかった・・・。この辺のことが原因になっているのかも知れないが、本当のところはよくわからない。
「祝日法」第一条には、「自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために、ここに国民こぞつて祝い、感謝し、又は記念する日を定め、これを「国民の祝日」と名づける。」としている。
「憲法」や「天皇」の話になると、戦後いろいろな意見も出てくるのだが、ここは、あまり難しく考えずに、「祝日法」の趣旨や意義を考える日にしてもよいのではないだろうか。
祝日法における「昭和の日」は「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす。」ことをその意義としている・・・。
それでは、1年に一度は廻ってくるこの日に、昭和天皇とともにあった昭和の時代を改めて見つめ直してみよう。
昭和の時代は、「昭和」の元号を冠した時代(1926年~1989年)を指すが、「昭和」は、日本の歴代元号の中で最も長く続いた元号であり、元年と64年は使用期間が共に7日間であるため実際の時間としては62年と14日にもなり、外国の元号を含めても最も長く続いた元号であり、歴史上60年以上続いた元号は日本の昭和(64年)と、康熙(61年)と乾隆(60年)しかない。
その特徴は,明治時代,大正時代のように,ある特定のイメージで語られる時代とはいえないだろう。それは、第2次世界大戦の敗北とその後の改革による変動があまりにも大きく,戦前と戦後(1945年=昭和20年以降)とは,まったく違った時代といってもよいほどの大きな変化を遂げているからである。
急速な技術進歩を続ける20世紀は、2度の世界大戦(第一次、第二次世界大戦)に象徴されるように、それまでの時代と異なり、国土そのものを破壊する大規模近代戦争を伴う動乱の時代でもあった。
日本は国内的には立憲君主制の体裁をとり、当初の藩閥政治を脱して、1920年代には政党内閣を構成するようになった。
しかし、政党政治がその一面で見せた腐敗は、相次ぐ不況(第一次世界大戦後の戦後恐慌昭和恐慌も参照)下で困窮する国民の不信と怒りを買い、大陸(満州)への進出(侵略と呼ばれている)による事態の打開と国家改造を志向する勢力の台頭を招く。
1920年代末から独立性を強めた軍部は、昭和5年(1930年)以降は政府の意思に反した軍事活動や戦闘を多数引き起こし(1931年の 柳条湖事件をきっかけに[ =満州事変が起こる])、相次ぐ軍事クーデター(1932年五・一五事件から1936年二・二六事件)により、ついには政党政治を葬り去った。
この事件の後、社会主義者だけでなく、自由主義者に 対する取り締まりも行われ、国家主義に反するとみられた思想や言論は、強く制限を受けるようになった(言論統制)。
昭和55年(1980年)に、高倉健吉永小百合の初共演により話題を呼んだ森谷司郎監督作品映画『動乱 』の背景は、昭和7年から昭和11年。経済恐慌と凶作が重なり苦しみを強いられる庶民たち、皇道派統制派に分裂する陸軍内部、昭和維新の声が高まる皇道派の青年将校たち、そして決起される二つのクーデター(昭和史の起点となった五・一五事件[犬養毅首相暗殺]から二・二六事件[クーデター未遂])までの風雲急を告げる動乱の中、時代の波に翻弄されながらも信念を貫き生きる寡黙な青年将校(高倉健演じる宮城啓介大尉{ モデルは実在の安藤輝三})と、その妻との愛と生きざまを、一大叙事詩として二部構成の雄大なスケールで綴った感動のドラマとして描かれている。


二・二六事件収束の後、昭和12年(1937年)3月末内閣総辞職した岡田内閣の後の林銑十郎内閣は、成立2か月後の5月31日には総辞職となり、6月4日に第一次近衛文麿内閣が成立する。
中国では西安事件で拉致された蒋介石周恩来の間で国共合作が成立して、抗日闘争が進めら(第二次国共合作)、同年盧溝橋で日中両軍が衝突し(盧溝橋事件)、停戦協定後も通州事件第二次上海事変などが続き、日中戦争支那事変)が始まった。
戦線の拡大に従って, 思想統制が導入され、国家総動員法も成立。
その後、昭和14年(1939年)1月に平沼騏一郎内閣が誕生後、2月に軍部は南支那海海南島を占領し、3月にはフィリピン西方海上の無人諸島の領有を宣言して新南群島(南沙諸島参照)と名付け領土として、台湾高雄市に編入される。
この軍事行動は英米を大きく刺激した。また6月には天津の英仏租界を封鎖した 。天津事件という(※6;「クリック 20世紀」のここ参照)。
その間満洲では5月には、ノモンハン事件などで衝突している。そして、7月になるとアメリカが日米通商航海条約を破棄したのでイギリスの対応も変わり日英会談も決裂した(日英関係)。
ここから日本による米英敵視が顕在化した。そして、 昭和16年(1941年)イギリスからも日英通商航海条約を破棄され、日本国内では「ABCD包囲網による経済封鎖」への対抗として開戦論が高まり、12月8日、太平洋戦争が勃発すると、東條内閣で参戦が閣議で決定され今でいう第二次世界大戦へ突入した。
結果的に、昭和20年(1945年)硫黄島の戦いに敗れ、硫黄島が陥落。 その前年から、アメリカ陸軍航空隊のボーイング B-29爆撃機による日本本土空襲が本格化し,、低高度による夜間無差別爆撃焼夷弾攻撃が行われるようになり、東京、大阪、名古屋、横浜、そしてわが地元神戸神戸大空襲参照)の百万都市の他、仙台、福岡、岡山、富山、徳島、熊本、佐世保など、全国の中小各都市も空襲にさらされる事になった。
それでも一億総玉砕を掲げた東條内閣は戦争をやめようとはせず、8月6日に広島市への原子爆弾投下、8月9日には長崎市への原子爆弾投下により、何十万人もの死傷者を出して、やっと、8月14日の昭和天皇臨席の御前会議で、ポツダム宣言受諾を承認。
この決定は8月15日正午に、昭和天皇自らの日本放送協会のラジオ放送(いわゆる玉音放送)により内地・外地の国民に伝えられ,やっと終戦にこぎつけたのである。,
私は、当時神戸に住んでいられなくなったので、父型の親戚のある高砂市疎開し、そこで幼稚園に入ったが、その高砂も軍事工場のある工業都市だったので攻撃が激しくなり危険になった為、今度は母方の実家徳島へ疎開し、そこで小学校に入り、終戦を迎え、誰もが、玉音放送を聞きながら泣いていたのを覚えているが、まだ、小学校の私などには 、酷い戦争が終わってやっと、暗い毎日から解放され嬉しいはずなのに、皆が泣いているのを、その時は、奇妙にさえ感じていたのを覚えている。





冒頭の画像は旭日旗を持つ、迪宮裕仁親王
参考
※1:平成28年(2016年)熊本地震の関連情報 - 気象庁
http://www.jma.go.jp/jma/menu/h28_kumamoto_jishin_menu.html
※2:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※3:参議院会議録情報 第162回国会 内閣委員会 第9号
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/162/0058/16205120058009c.html
※4:国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)
http://www.geocities.jp/nakanolib/hou/hs23-178.htm
※5:新憲法の公布日をめぐる議論 | 日本国憲法の誕生 - 国立国会図書館
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/04/002_44shoshi.html
※6;クリック 20世紀
http://www.c20.jp/index.html

「昭和の日」その2完

2016-04-29 | 記念日
昭和の前半においては、このように、世界恐慌などの厳しい国際環境の中で、困難な状況に直面した日本は,結局、軍部が独走し、第二次世界大戦に突入。日本だけでも300万人を超える死者(第二次世界大戦の犠牲者参照)を出し、大都市を焼け野原にし、何もかもなくすなど大きな犠牲を払って戦争に終わりを告げた。
第二次世界大戦後においては,経済的には、国際環境にも恵まれ,国民の叡知と努力を生かして,戦後の復興から高度成長を達成し、昭和43年(1968年)には国民総生産(GNP。※7参照)が、当時の西ドイツを抜き第2位となり、石油危機,円高不況をも克服して,自由世界第二位の経済力を実現(名目GDP、名目GNI共に1位米国、2位中国、日本は3位・※7のここ及び※8参照)。
今や,豊かな所得・消費水準を享受するとともに,質量両面において,世界最高水準の工業国として世界経済の運営に重要な役割を担うまでに発展をとげいる。
その意味では、「昭和の時代」には明暗両極があり、この日を祝日とするには無理があるとの説があるのもわからぬではない気もする。。
戦時中家を守るためまた仕事もあり、一人神戸に残っていた父から、神戸に帰ってくるように言われ、徳島から帰ってきたときには、住んでいた家は、焼失し、苦労して駅近くに半焼した家を買い取り修理してそこを仕事場としていた。その家は、年寄りの大工の棟梁が女房と二人だけでが住んでいた家だけに、木造住宅だが大黒柱や、とても太い丸太を利用した丸太を多数使っており、非常に丈夫にできており、一部火災で焦げていたが大工が、もう田舎へ帰るというのでそれを買い取ったものである。もう駅近辺は、焼夷弾攻撃で焼け野原となっており、何とか焼け残った家が数十件残っていただけである。
戦後経済が成長したといっても、復興期に至るまでの戦後混乱期、つまり、戦争終結の昭和20年(1945年)~昭和25年(1950年)6月25日に勃発した朝鮮戦争の特需景気(※6の朝鮮特需参照)で経済復興の糸口を掴む頃、また言い換えれば、GHQに占領されていた時期(占領時代)までは、700万人にも及ぶ在外日本人の引揚者もあり、庶民は合法的に配給された食糧だけでは生活財に事欠き、生活が困難であり、焼け跡には闇市が立ち並んだ。
町には、物乞いする人や傷痍軍人GI(在日米軍人)を相手の「パンパン」と呼ばれる街娼が登場。悲しいことに、親を失った戦災孤児などは、喰うために、ガード下で靴磨きをしたり、かっぱらい(掻っ払い)を、してその日をしのいだ。
戦後、食糧難で飢えて餓死した人の数は戦死者よりも多かったといわれるが、何とかその日の食事は出来ても、おやつどころでない時代、「ギブ・ミー・チョコレート」(※9:「昭和毎日」のここ参照)が流行語になったのもこの時代である。当時の小さな子供が最初に覚えた英語がこの言葉であったのではないだろうか。
野坂昭如自身の戦争原体験を題材した短編小説『火垂るの墓』は、わが地元神戸市と西宮市近郊を舞台に、戦火の下、親を亡くした14歳の兄と4歳の妹が終戦前後の混乱の中を必死で生き抜こうとするが、その思いも叶わずに栄養失調で悲劇的な死を迎えていく姿を描いた物語である。
愛情と無情が交錯する中、蛍のように儚く消えた二つの命の悲しみと鎮魂を、独特の文体と世界観で表現したこの物語は、漫画や映画、ドラマにも取り上げられた。以下は、ドラマ版「火垂の墓」の映像をX JAPANの「Tears」にのせて編集している。結構良いものだよ。

この戦後の復興期、新憲法制定下で,大戦による経済困難からの脱却を図るため,政府は、「経済安定本部」設置(21年)による傾斜生産方式の実施、財閥解体農地改革といった民主化政策の推進、インフレ抑制のための緊縮財政(「ドッジ・ライン」)、360円レートの設定(昭和23年。※9:「昭和毎日」のここ参照)等相次ぐ政策を打ち出した。
こうした中で我が国経済は「朝鮮特需」もあり,戦前水準に向かって回復を続け、昭和31年(1956年)7月に発表された日本初の『経済白書』(※10)では「もはや戦後ではない」と明言するまでに復興した。
復興をとげた日本経済は,「国際収支の天井」(※11も参照)による引締め,景気後退をはさみながら,神武景気(昭和30年代前半),岩戸景気(昭和30年代半ば)、いざなぎ景気(昭和40年代前半)と平均10%以上の高度成長をとげた。
第1次池田勇人内閣の策定(昭和35年)した「所得倍増計画」の下で,「投資が投資を呼ぶ」設備投資ブームと三種の神器(洗濯機,テレビ,冷蔵庫)から3C(乗用車,カラーテレビ,クーラー)へという消費ブームがこれを支えた。
この間,「IMF8条国」(ここ参照)への移行(39年)など,開放経済体制の整備が行われるとともに,昭和40年代に入ると次第に国際収支の黒字が定着していった。
よく「昭和はよかった」・・と回顧されることがある。その場合思い起こされているのは、この昭和30年代のことではないだろうか。
戦後の復興が進み、街は活気を取り戻し、日本の人々の暮らしも戦前、戦後に比べれば大分豊かになった。まだ残業も多く、有給どころか休日の休みさえもなかなか取得出来なかった働き蜂サラリーマンもインフレと所得倍増計画の中で、給料も上がり、気分もよくなり、クレージーキャッツ植木等が歌い大ヒットした「スーダラ節」やそれに続く歌を「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ・・」(「ドント節」以下参照)と居酒屋などで、陽気に歌いだしたのも昭和36・7年ごろのことである。
ハナ肇とクレイジーキャッツ ドント節 歌詞

平成17年(2005年)に上映され大ヒットした昭和30年代を舞台にした映画『ALWAYS 三丁目の夕日』や、大好評のため2年後の平成19 年(2007年)にも公開された『ALWAYS 続・三丁目の夕日』などを見ていると、あの頃は今のように便利な世の中ではなかったが、そこに暮らす人々が生活を共有するようなところがあって非常に心豊かに暮らしている。それが若い人にも感動できたからこそ、昭和が見直され、それ以後、全国各地で昭和の町づくりななども盛んになっていったように思う。豊後高田市の「昭和の町」や「昭和」の雰囲気が漂う東京都青梅市などが評判を呼ぶようになったのだろう。

当時集団就職で地方の多くの若者が、東京へ出てきてたが、私自身も、この時代、大好きな歌手フランク永井の「有楽町で逢いましょう」の歌に誘われてという訳でもないが、大阪の商社を辞めて、当時あこがれであった東京で急成長していた会社へと転職し、花の銀座や、ちょっと渋い街渋谷、その当時何か大阪の下町通天閣周辺や新世界と同じような雰囲気のあった新宿で大いに青春を堪能していた。
いわば、生活が豊かになることが幸せになることだと信じられた時代。すべてが幸せだったわけではないにしても、人々は未来に希望が持てた。頑張ることで報われた最後の時代と言えるかもしれない。
今振り返って見ると、まだまだ貧しく、街も清潔とは言えず、暮らしは依然として不便なままだったが、それでも、昭和30年代を生きた私を含め多くの人達が「あの時代は良い時代だ」と懐かしく振り返るのは、あの暗くてひもじくて辛い戦中・戦後の長い時期を必死に耐え、何とか生き抜いてきた人間が、やっと、その苦しいことや辛かったことも忘れかけ、明日への希望を見出せるようになってきてからこその感慨に違いないような気がする。
戦中、戦後の辛い時代を知らない、戦後生まれの豊かな世の中に生まれてきた世代の人たちにとっては、つまらぬ時代であったかもしれない。私たちの年代のものとは違って、ただ、当時のものや街並みにレトロノスタルジーを感じさせているだけではないだろうか。
今の時代とは違って、まだまだ、男らしい男が男であり、女らしい女が女であった時代、私たちが感じる昭和の男や女は、もう、古臭い男や女になってしまっている。
昭和30年代が過ぎ40年代に入ると、必ずしも夢や希望だけで生きていける時代ではなくなったようだ。自由主義の進化は、当然に強いものが弱いものを駆逐し2極分化してゆく。
私が会社へ入った時代などは、年功序列終身雇用の時代でもあり、私たちは先輩や年配者のいうことをよく聞き、それに従って行動してきものだが、何時の間にか、新入社員など若い人からは、そんな考えは古い、これからは「能力主義」だと言って笑われたのを思い出す。
昨日があって今日があり、そして明日が来る。原因がなくて結果はない。すべての今は過去のなせる業である。よくなったこともあれば悪くなったこともある。昭和の時代の何が良くて何が悪かったのか・・・,振り返ってみるのもよいだろう。
もし、昭和30年代のことにだけ興味があるのなら、YouTubeに沢山動画がある。以下参照。




参考
※7:世界ランキングー経済と産業についてのランキング
http://top10.sakura.ne.jp/listp14.html#rank1
※8:今なぜ「GDP」ではなく「GNI」が日本経済にとって重要なのか?
http://diamond.jp/articles/-/38153
※9:昭和毎日
http://showa.mainichi.jp/
※10:経済白書 昭和31年度-経済企画庁編
https://www.komazawa-u.ac.jp/~kobamasa/lecture/japaneco/innovat/ecwhpp_inv.htm
※11:国際収支の天井とは? | 証券取引用語集 - 投資用語集
http://www.glossary.jp/sec/economy/balance-of-payments-constraint.php
宮内庁:主要祭儀一覧
http://www.kunaicho.go.jp/about/gokomu/kyuchu/saishi/saishi01.html
Global Note(グローバルノート )
http://www.globalnote.jp/
日本の歴史 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2#.E6.98.AD.E5.92.8C.E6.99.82.E4.BB.A3