今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

柔道整復の日

2016-04-14 | 記念日
日本記念日協会に登録されている4月14日の記念日に「柔道整復の日」がある。
柔道整復」が東洋医学に基づく医療として広く認識してもらうことを目的に、NPO法人・全国柔整鍼灸協会(※1)が制定したもの。日付は1970(昭和45)年4月14日に「柔道整復師法」(通称「柔整法」)が公布されたことからだそうだ。
この「柔道整復師法」(昭和45年4月14日法律第19号。条文はここ参照)は、柔道整復師全般の職務・資格などに関して規定した法律であり、1970(昭和45)年7月10日に施行された。1964(昭和39)年には「あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師、柔道整復師等に関する法律」という名称で交付されていたものが、1970(昭和45)年に単独法として成立したものである。
ところで、皆さんはこの「柔道整復師」という名称を知っていましたか?



“私の家の近所に整骨院があって、そこの主人は柔道五段か何かで、小さい道場も設備せられてある。夕方、職場から帰った産業戦士たちが、その道場に立寄って、どたんばたんと稽古をしている。私は散歩の途中、その道場の窓の下に立ちどまり、背伸びしてそっと道場の内部を覗いてみる。実に壮烈なものである。私は、若い頑強の肉体を、生れてはじめて、胸の焼け焦げる程うらやましく思った。うなだれて、そのすぐ近くの禅林寺に行ってみる。この寺の裏には、森鴎外の墓がある。・・・”

上掲の文は太宰治の小説『花吹雪』(※2:青空文庫参照)からの引用である。この作品にはさらに、
“男子の一生は戦場です。諸君が、どのような仕事をなさるにしても、腕に覚えがなくては かなわぬ。何がおかしい。私は、真面目に言っているのです。腕力の弱い男子は、永遠 に世の敗北者です。”
“男はやっぱり最後は、腕力にたよるより他は無いもののようにも思われる。”
“明治大正を通じて第一の文豪は誰か。おそらくは鴎外、森林太郎博士であろうと思う。あのひとなどは、さすがに武術のたしなみがあったので、その文章にも<ahref= http://dictionary.goo.ne.jp/jn/233205/meaning/m0u/ >凜乎(りんこ)たる気韻(きいん)がありましたね。あの人は五十ちかくなって軍医総監という重職にあった頃でも、宴会などに於いて無礼者に対しては敢然と腕力をふるったものだ。(まさか、という声あり。)いや、記録にちゃんと残っています。くんづほぐれつの大格闘を演じたものだ。鴎外なおかくの如し。いわんや、古来の大人物は、すべて腕力が強かった。”・・・とある。

男の腕力の重要性、そして体を鍛えることの必要性等が語られているが、太宰は、生涯疎外意識に悩まされ、多くの作品の中で疎外者、弱者を描き出している。
この文中の「産業戦士」とは、戦時下、労働者を戦争を支える存在として使った言葉だが、太宰は、ここで「産業戦士」を戦時下の時代が求めていた“健康で力持ちの象徴”として描写している。戦時下は強制的に国民の同質化が行われ、戦時体制に適合するにふさわしい人的資源だけが優遇されるが、その反面、多くの疎外者を生み出した時期でもあった。
因みに、戦時下に、うたわれていた「産業戦士の歌」(作詞:大日本産業報告会、作曲:林伊佐緒)の歌詞は→ここで、また、少々雑音が入っているがレコードは以下で聞ける。
産業戦士の歌 小野巡 服部富子 鬼俊英 中村柾子 – YouTube

少々、回り道をしてしまったが,太宰の『花吹雪』じゃないが、私の家の近所にも接骨院があって、私も子供のころはやんちゃ坊主だったもので、足の捻挫や骨折などで整骨院にはよく通ったものだが、そこの先生も柔道をやっていた人だったが、当時整骨院の先生といえば柔道をやっていた人が多かったような気がする。
講道館柔道の創始者であり、柔道・スポーツ・教育分野の発展や日本のオリンピック初参加に尽力するなど、明治から昭和にかけて日本に於けるスポーツの道を開き、「柔道の父」と呼ばれ、また「日本の体育の父」とも呼ばれている嘉納治五郎)も、まさに、太宰の『花吹雪』にある“いわんや、古来の大人物は、すべて腕力が強かった。”・・・に該当する人物だと思うのだが、この嘉納が柔道を始めたきっかけが柔道整復師(接骨院)にあったというから面白い。
治五郎は1860年12月10日(万延元年10月28日)、摂津国莵原郡御影村(わが地元、現:兵庫県神戸市東灘区御影町)で、父・嘉納治朗作(希芝)と母・定子の三男として生まれた。

その前年には安政の大獄がおこり、続いて桜田門外の変が勃発。300年続いた武家政治が倒幕運動により終焉を迎え新しい時代(明治)が始まろうとする激動の時代であった。

治五郎が生まれた摂津御影は日本有数の清酒業地(現在でいう「灘五郷」の一つ)で、実家の嘉納家 も代々酒造業を営んでいた(「菊正宗」も「白鶴」も嘉納本家や分家白嘉納家から誕生したもの)。
祖父の次作は当時酒造・廻船にて各方面に名声を博した人物で、その長女定子の婿として後を託されていた(婿入りした)のが父次郎作であった。
初め祖父の治作は治朗作に家を継がせようとしていたが、治朗作はこれを治作の実子である義弟に譲り、自らは廻船業を行い、大阪に出て幕府の廻船方御用達を勤め, 同時に, 1862年(文久2年)勝海舟のもとで和田岬砲台西宮の砲台などの築造工事を請け負っており、また ,1867年(慶応3年)10月には,出願によって幕府所有の汽船長鯨丸,奇捷丸,太平丸などを託され、江戸―神戸―大坂間の定期航路を開き、これがわが国の洋式船による定期航路の端緒となるなど、大いに活躍をしている。
幼少の頃から英才教育を受けていた治五郎は、1870年(明治3年)、明治政府に招聘(しょうへい)された父に付いて上京し14歳の時の烏森町(現:新橋2丁目)にあったという育英義塾(のちの育英高校)に入塾後オランダ人やドイツ人の教師から英語、ドイツ語などを学んだ後、1875年(明治8年)16歳の時官立東京開成学校)に進学。開成学校は1877年(明治10年)に東京大学となり、同大学文学部1年に編入された嘉納は政治学、理財学および哲学を専攻。1881年(明治14年)、政治学、理財学は卒業して残り、1年を道義学と審美学を学ぶ為に哲学選科に入り、1882年(明治15年)7月東大文学部を卒業したという(※3)。
この嘉納治五郎が、柔術をやろうと思い立ったのは、育英義塾・開成学校時代のことだそうで、その動機について、後年彼は次のように書いているそうだ。

「(自分は)学科の上では他人におくれをとるようなことはなかったけれども、当時少年の間では、とかく強いものが跋扈(ばっこ)して、弱いものはつねにその下風に立たなければならない勢いであったので、これには残念ながらつねにおくれをとった。自分は今でこそ普通以上の強健な身体を持ってはいるが、その当時は、病身というのではなかったがきわめて虚弱なからだであって、肉体的にはたいていの人に劣っていた」。
そのため、他の塾生から軽んじられたことを悔しく思っていた治五郎は、
「日本に柔術というものがあり、それはたとえ非力なものでも大力に勝てる方法であるときいていたので、ぜひこの柔術を学ぼうと考えた」(『嘉納治五郎 私の生涯と柔道』)。・・・といっているそうだ。
したがって、治五郎が、柔術を始めたのは、決して日本の伝統的な武道が廃れていくのを嘆き、その復興を図ってなどという高邁な理想から出発したわけではなく、あくまで、「強くなりたい」という、当時の男子なら誰もが一度は抱く素朴な願望が、柔術を習おうという動機であったようだ(※4、※5:「柔道チャンネル」の柔道お役立ち情報>柔道整復師情報を参照)。
しかし、親の反対により許されなかった。当時は文明開化の時であり, 在来の剣術や柔術は衰退し、全く省みられなくなっており、師匠を探すのにも苦労したが, 当時柳生心眼流の大島一学に短期間入門したりした後、あるとき、日本橋人形町通りの整骨師で、昔天神真楊流の柔術を修めた八木貞之助(磯 正足の弟子)を介して、同門の幕府講武所師範をもしていた福田八之助道場を紹介してもらい念願の柔術入門を果たしたという。
熱心に道場に通って稽古をしていた治五郎は、福田が52歳で死んだ後は、天神真楊流の家元(三代目)磯正智(本名:松永清左衛門)道場に学ぶ。
上達に伴い関心も広がり幕府講武所教授起倒流飯久保恒年師に師事した。柔術を通して強さを身に付けた治五郎は、やがて、柔術二流派の技術を取捨選択し、「崩し」の理論などを確立して独自の「柔道」へとさらに発展させていったのである。柔道の基本「崩し」、興味のある人は以下参照。

崩し解説 日本視覚障害者柔道連盟 選手強化合宿

そして、治五郎が、下谷北稲荷町16(現・台東区東上野5丁目)に、「柔道を講ずる館」として講道館を設立したのは、翌・1882年(明治15年)のことであった。福田八之助のもとで天神真楊流柔術を習い始めたのが、18歳のころ(1877年明治10年)だというから、柔術を始めてたった5年で、柔術を改良した柔道場「講道館」を設立したのだから、治五郎は文武両道の天才少年だったのだろう。そして、「柔道」という武術を高い精神性をもったスポーツにまで高めたのだから立派である。

私もあまり耳にしなかった言葉「柔道整復師」は、その名の通り「柔道」から派生したものである。
“戦国時代の武道の書物には「殺法」、「活法」に関する記述があるが…として、”殺法は武技そのもので、柔術でいうところの、当身技、投技、絞技、関節技、固技はすべて殺法に属する。活法は、傷ついた者の治療法、手当てであり、骨折、脱臼、打撲、捻挫などの外傷を治すもので、出血、仮死者に対する蘇生法なども含まれている“・・などと書かれている(例:※6の柔道整復師の今昔のところ参照)が、古い武道の書物には「殺法」、「活法」などは出てこず、このような記述が書物に出てくるのは明治以降のことでありこれは誤記であるという説がある(※7参照)。
詳しいことは参考の※7を見てもらうとして、1894年(明治27年)東京神田区の弘文堂から守永兵治が出版した『日本柔術活法詳解』では、
日本の伝統武術である柔術に伝わる仮死者に対する蘇生法として「活法」を詳解しておるつもりであるが、第九章「結論」に至りて「生理解剖の学理実際に通熟したる者に非ずんば之を悟了(すっかり悟ること)する難しとす」とある。またこの活法を習得するにあたっては比較解剖学(コンペラティブアナトミー)を勉強しなければならないと説く。最早柔術ではない。また、第八章「殺法」に於いては「殺法又曰く當身之法」とある。・・・そうだ。
活法とは水難での溺者や、高所からの落下者が仮死状態に陥った際に施される蘇生法で、傷ついた者に対する治療や手当は医法が施され、活法は仮死者に対してのみ施された。すなわち、活法を治療法とすることには医学の範囲的に無理がある。仮死者を復活させた方法だから、復活法という意味で活法と称したとも考えられるという。また、武道書の中で「殺法」が出てくるのは、この当身術だけである。
1893年(明治26年)出版『天神眞楊流柔術極意教授図解』(吉田千春, 磯又右衛門 著※8)を見ると、
「背活法 死者の後に図の如くかまえ、両手にて肩を持ち我が膝節にて死者の背中を二三度うち、水を与えて大声にて呼ぶと同時に中をたたくと蘇生す不思議なり。」・・・とあり、これを読むと「活を入れる」というのは「を入れる」という言葉の方が本来である。
同時に「殺法」に対しての「活法」なのではなく、仮死者を復活させるための法である意味で「活法」と命名されたのがわかるという。
そもそも「活法」「殺法」という言葉は、古来日本には見受けられない言葉であり、武に対しての医という相関図ではなく、これを伝承した者の誤解であったと推察される。
明治以降の柔術書籍には、ほぼ「活法」に対して、当て身技の急所図解としての「殺法」 が記載され、二極的発想から生み出された現代語である事もわかった。「殺」という語は我が国民性が敬遠する語であり、古典では、殺す法をあえて「兵法」と呼んでいた。・・と結論付けている。

1882年(明治15年)、嘉納治五郎が講道館を設立すると、多くの柔術道場は講道館を目の敵にし、自分の道場の有効性や有能性を宣伝しなければならなくなった。ここに、柔術界の医学的伝承論における講道館設立以前と以降に違いが出ている。設立以前には「殺法」「活法」など無かったはずなのに、設立以降には出現するようになる。・・といっているが、それまでの、武芸者が柔術、柔道の道場を構えるようになって以降、道場生の怪我を治せる技術があることが道場主に必要な要素となっていたのだろう。
明治維新後の西洋万能の風潮の中、1881年(明治14年)の漢方医学廃止によってそれまでの接骨術が顧みられなくなった。これに対して1912年(明治45年)、柔道家・柔術家の職業として認められるよう柔術家(嘉納 治五郎と繋がりの深い天神真楊流の門人が中心)を中心に運動が起こり、1920年(大正9年)の内務省令によって「あんま術営業取締規則」を準用するという形ではあるが「柔道整復術」として公認された(※9参照)。その際の資格では、「柔道の教授をなす者」が打撲、捻挫、脱臼、骨折に対して柔道整復術を行えるとなっていた。つまり、この技術をもつ者は柔道整復師として認定され柔道家、柔術家の収入源となったのである。
1970年(昭和45年)「あんま、はり灸柔道整復師法」(法217号)から「柔道整復師法」として単独法となった。しかし、内容的には、一部罰則等に変更はあったものの、法217号から単純に柔道整復師を分離したのみであった。業務内容の法的規制は、1920年(大正9年)当時のものがそのままとなっているが、柔道家のための柔道整復術という面はだいぶ後退し、従来、学校に入学しようとする者に求められていた「柔道の相当の実力」は、「柔道の素養」となったようだ。
以降法改正により、現在「柔道整復」は、厚生労働省の業務独占資格となる国家資格のひとつとなっており、厚生労働省ではこれを、医業類似行為として扱っており、医療法に基づく医療行為ではないことには留意を要する。
今、「柔道整復術」は、骨・関節・筋・腱・靭帯などの原因によって発生する骨折・脱臼・捻挫・挫傷・打撲などの損傷に対し手術をしない「非観血的療法」という独特の手技によって整復や固定を行い人間の持つ自然治癒能力を最大限に発揮させる治療術。日本独自の治療技術とされているが、WHO(世界保健機構)の『伝統医療と相補・代替医療に関する報告』では、日本の伝統医療民間療法として柔道セラピーという名称のみ紹介されているが具体的な内容の記述はないようだ。
「柔道セラピー」を行う施設といえば今どんなところがあるのだろうか。
犬も歩けば棒に当たる」ではないが、今、町を歩けば、接骨院、整骨院、整体、整形外科などの施術所や診療所医院,などにぶち当たると言っていいほで乱立している。
昔からある あん摩マッサージ指圧師はり師灸(きゅう)師などの鍼灸院なども含めて、いったい正式には、どのような違いがあるのかよくわからない人も多いのではないだろうか。
少子・高齢化時代の今の日本の社会では、私の住んでいる町にも高齢者が溢れかえっているが、高齢者は、いろんな病を持っている。中でも、足腰の悪い人が非常に多く、家人なども週に何日かはリハビリに通っているが、どこも大盛況のようだ。

結論から言えば、接骨院も整骨院も同じで「柔道整復師」に基づく国家資格で按摩、マッサージ、指圧などの施術を行っているそうだ。
いわゆる骨を接ぐと書いて 「ほねつぎ」 の接骨院。柔道整復師の 「整」の字をとって整骨院を名乗っているようだ。厚生労働大臣認可の専門学校や大学で専門知識を身につけ、卒業時に財団法人 柔道整復研修試験財団(※10)が行う国家試験の受験資格が与えられ合格することによって、厚生省から「柔道整復師」の資格が与えられている。
では、整体院というのはどうなのだろう?
整体とは日本語では主に手技を用いた民間療法、代替医療を指し、日本語としては、大正時代に用いられるようになった用語で、アメリカで誕生したカイロプラクティックオステオパシー・スポンディロセラピー(スポンディロ、英:Spondylo=「脊髄」と、 セラピー英:therapy=「療術=療法=治療」※11 、※12 ;日本武道医学会のここ参照)などを日本古来の武術柔術>の「活法」(広義には、殺法に対して存在する法すべてを指す。狭義においては、柔術[古武術]の裏技として継承されてきた医術のことを指す(※13参照)や骨法などの流派に伝わる手技療法と組み合わせ、「整体」や「指圧」と名付けたのが始まりのようであり、現在の日本で俗に用いられる整体という用語は、手や足の力を用いてカイロプラクティック(脊椎指圧療法)に似た骨格の矯正(主に脊椎)を目的とした手技療法をさしているようだが、骨格を矯正し、筋肉や内臓など各部のバランスを整えて、本来の状態に戻すことを目的とした手技療法をさして使われることも多いようだ。これを、「整体術」・「整体法」・「整体療法」 とも呼ばれている。
ただ、各団体の独自の理論や思想などを加えた整体などが存在するともいわれており、整体に定まったやり方はなく、人によって理解・解釈は異なるようだ。
「柔道整復師法」や、「あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律」に定められるものではないため、国家資格も不要であり、そのため、医療制度から見れば補完代替医療の一種であっても、保険適用外であるため、通常医療(一般的な病院で受けられる、いわゆる西洋医学を用いた医療)と共に病院で補助療法として用いられることはなく、法制度からは医業類似行為の一種とされているようだ。その代り、治療内容に制限はないようだ。それが、整体の他との違い(特徴)でもあり、短所でもあるようだ(詳しくは整体を参照)。
整体が、このように「整骨院」と同じように、日本古来の武術である柔術などを基本に発展してきたにもかかわらず、法的資格制度のある「柔道整復師」の柔道整復(接骨・整骨)とは区別されているのは統一基準のなさや組織力の弱さというべきか・・・。
それに対して、昔からある、あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師などは、彼らの資質を向上し、もって医療及び公衆衛生の普及向上を図ることを目的とする法律「あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律」(昭和22年12月20日法律第217号、通称:あはき法)に基づく国家資格をもって行っている。
また整形外科」は肢体の機能障害をおもな対象として,その病理診断,予防,治療法を研究する外科学の一分科、つまり、正式な「医師」である。
臨床医学としては,骨,関節,筋肉,靭帯粘液包筋膜,神経,血管,皮膚などの組織の疾患,たとえば,骨や関節の炎症,腫瘍先天性奇形後天性の変形などの予防や治療,リハビリテーションなどを行っている。
医師と柔道整復師は全く違う。整形外科はレントゲン検査、手術、投薬を行うことができるが、柔道整復師にはこれらは出来ない。には使用の仕方によっては副作用があるし、レントゲンは放射線なので、生物にとって有害であり、浴びた放射線の線量に応じて何らかの放射線障害内科もあるので、患者を総合的に管理してくれているので、町では一番人気があり、家人もずっと、ここで診てもらっている。
その代り、ここは、毎日のように来ているお年寄りのサロン的存在になっており、朝早くから出かけても家に帰ってくるのは昼すぎてからである。15分ほどのリハビリは後期高齢者なら100円なので、年中休日の高齢者には気持ちもいいし暇つぶしにもなる良いサロンには違いないだろう。私もパソコンのやりすぎなどで首が吊ってしようがないのでしてもらったことがあるが、ウオーターベッドや首の牽引器など本当に気持ちが良い。100円でしてくれるのだから今でも毎日でも行きたいのだが、私はりサロン的雰囲気が嫌いなので行っていない。もし、空いているところがあれば行きたいものだ。しかし、こんな気持ちがいいというだけで行かれると健康保険料はパンクしてしまうだろうね~。腰が痛いとか、首がこるとか背中が痛いとかいうことは、本人がそう申告すれば、そうじゃない、痛いはずがない・・などという人はほとんどいないだろうから、だれでも、やってもらえることになる。
戦後、わが国の平均寿命は著しく伸長し、2001年には世界第1位の水準にる(台湾を独立国とすれば台湾に次いで2位となるが・・・※14、※15参照)。それに伴い超高齢化社会の到来により、今後増え続ける高齢者の中で介護が必要な人を社会全体で支えるため、2000年4月より介護保険制度が実施されている。その中で高齢者が日常生活を営むのに必要な機能の低下を防止するための訓練を指導する機能訓練指導員や介護サービス計画の作成や介護支援サービスを担当する介護支援専門員(ケアマネージャー)の資格を取得し、地域医療の中核を担う柔道整復師も増えていると聞く。
柔道整復を業とする職業は、、最も今の時代のニーズに合った職業と言えるかもしれないが・・・。私の知人の息子も最近、独立して、このような診療院を開業したと聞いている。
それでは、今、どれくらい、これらの業種があるのだろうか・・・?
厚生労働省の「平成22年衛生行政報告例(就業医療関係者)結果の概況」(平成 23 年7月12 日)(ここ参照)を見ると、
(1)就業あん摩マッサージ指圧師等数[()内は平成12年の人員]は、
就業あん摩マッサージ指圧師(以下「あん摩マッサージ指圧師」という。)は104,663 人(96 788)となっている(108,14%増)。
就業はり師(以下「はり師」という。)は92,421人(71 551)となっている(129,17%増)。
就業きゅう師(以下「きゅう師」という。)は90,664 人(70 146)となっている(129,25%増)。
就業柔道整復師(以下「柔道整復師」という。)は50,428 人(30 830)となっている(163,57%増)。
(2) あん摩、マッサージ及び指圧等を行う施術所数は、
「あん摩、マッサージ及び指圧を行う施術所」は19,983 か所となっている。
「はり及びきゅうを行う施術所」は21,065 か所となっている。
「あん摩、マッサージ及び指圧、はり並びにきゅうを行う施術所」は36,251 か所となっている。
「その他の施術所」は2,693 か所となっている。
「柔道整復の施術所」は37,997 か所となっている。

上記のように、いずれも120%以上の像であるが、中でも、「柔道整復師」は163,57%増と激増している。「柔整法」は昭和45 年、「あはき法」に至っては昭和22 年の制定だから、これだけ治療院が乱立してしまうことを予測していただろうか。今でも、「柔整法」受験希望者は非常に多いようだが、過当競争から、いろいろな問題も起こってきそうな感じがするのだが・・・(※16、17など参照)。

冒頭画像は、こどもや赤ちゃんのイラストわんパグより借用。
参考:
※1:NPO法人 全国柔整鍼灸協会
http://www.jusei.gr.jp/znpo/
※2:青空文庫:作家別作品リスト:No.35(作家名: 太宰 治)
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person35.html
※3:名著・快言紹介:嘉納治五郎 私の障害と柔道
http://www.ishiryoku.co.jp/user/takuwa/takuwa01/ser09_p01.html
※4:嘉納治五郎の柔術修行(1) ─ 強さへの抑え難き願望
http://blog.goo.ne.jp/rekisisakka/e/14b8704ec7c15e047941e95399d1c33b
※5:柔道チャンネル
http://www.judo-ch.jp/
※6:解説!柔道整復師―柔道整復師クラブ(JPC)
http://www.kojimachi-shiraishi.com/jpc/jusei/jusei.html
※7:活法殺法(柔道整復術の源)の歴史と医術武術の歴史
http://www.teikyo-jc.ac.jp/jyoho/periodical_pdf/journal2014/journal2014_141-147.pdf#search='%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3+%E6%AD%A6%E9%81%93%E3%81%AE%E6%9B%B8%E7%89%A9+%E3%80%8C%E6%AE%BA%E6%B3%95%E3%80%8D%E3%80%81%E3%80%8C%E6%B4%BB%E6%B3%95'
※8:近代デジタルライブラリー - 天神真楊流柔術極意教授図解
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/860406/1
※9:柔道整復年 表
http://kaigo-net.com/htm/sinkyu/nenpyo.htm
※10:財団法人 柔道整復研修試験財団
http://www.zaijusei.com/
※11:現代語訳『脊髄反射的療法』(スポンディロセラピー)について
http://www.nihaku.com/contents/2016/11/post-30.php
※12 ;日本武道医学会
http://www.budoigaku.org/index.html
※13 :活法とは»活法とその歴史 - 活法研究会
http://kappolabo.jp/modules/content02/index.php?content_id=2
※14:世界の平均寿命ランキング(過去: 2001年) - 世界経済のネタ帳
http://ecodb.net/ranking/old/wb_le00in_2001.html
※15:拡がる「平均寿命」と「健康寿命」の差を考える - GE Reports Japan
http://gereports.jp/post/129273309414/healthy-life
※16:無資格者によるあん摩マッサージ指圧業等の防止についてー厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/isei/i-anzen/hourei/061115-1.html
※17:悪質な不正請求 詐欺事件 柔道整復師
http://blogs.yahoo.co.jp/motorboy39/32390863.html
公益社団法人日本柔道整復師会
http://www.shadan-nissei.or.jp/

農林水産省創立記念日

2016-04-07 | 記念日
1881(明治14年)年の4月7日、農商務省が設置された。明治政府の殖産興業政策の一翼を担った国家機構(行政機構)である。
現在の農林水産省経済産業省 (2001年の中央省庁再編までの通商産業省)の前身である。

1854年3月31日(嘉永7年3月3日)、日米和親条約調印により徳川幕府開国に踏み切ると、日本各地の政治家(大久保利通等)たちは西洋との圧倒的な国力の差を意識した。
欧米では、1830年代に産業革命を既に完了していたイギリスをはじめ、欧米では資本主義経済を確立していたからである。
1868年1月3日(慶応3年12月9日)の王政復古の大号令によって、210年もの鎖国を布いた徳川幕府を倒し権力をにぎった藩閥政府(明治新政府)は、先進資本主義諸国の外圧に対抗するための「富国強兵」をスローガンに、また、そのための日本産業の経済的基盤固めのために「殖産興業」を政策目標に掲げて、欧米の工場制機械工業の移植を中心とする資本制生産様式の採用に踏み切り、急速な資本主義を促進することになった。
政策を推進するための、行政面での明治維新律令制の復活劇でもあった。幕藩体制の崩壊に伴い、中央集権国家の確立を急ぐ必要があった新政府は、律令制を範とした名称(例:太政官、大蔵省など)を復活させたのである。
江戸幕府摂政関白等の廃止と五箇条の誓文を交布し天皇親政が定められ、天皇の下に総裁議定参与三職からなる官制(日本の官制参照)が施行された。
その最高職である総裁には有栖川宮熾仁親王、議定には皇族公卿薩摩長州土佐越前などの藩主が、参与には公家と議定についた藩主の家臣が就任した。
しかし、明治天皇はまだ年少(当時16歳)であるため、それを補佐する体制がすぐに必要となった。そこで、1868年6月11日(慶応4年閏4月21日)、政体書の公布により、中央政府である太政官に国家権力を集めた三権分立制をとる太政官制(七官制、政体書体制)が採られ、さらに翌年(明治2年)7月には、版籍奉還により律令制の二官八省 を模した二官六省制(六省:民部省大蔵省兵部省刑部省宮内省、)が発足した(近代日本の官制の明治8年の官制参照)。
そして、明治政府は国家権力による日本産業の資本主義化を達成するため,殖産興業政策をその課題に掲げ,農・商・工の各分野での具体化が進められた。
まず、1870年12月12日(明治3年閏10月20日)には、民部省の一部が独立する形で工部省を設置し、欧米からお雇い外国人を多数採用し、岩倉使節団(1871年)に合わせて留学生を派遣するなど産業技術の移植に務め、欧米の工場制機械工業の移植や官営事業としての鉄道、造船、鉱山、製鉄、電信、灯台など近代国家に必要なインフラストラクチャー整備などを促進した。
1871年8月29日(明治4年7月14日)には、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化(廃藩置県)により中央集権化が実現。
岩倉使節団が派遣されていた間の留守政府においては制改革が行われたが、後の秩禄処分などはこれを基準として実施されたものである。
また同年9月政府収入の確保のための地租改正案が大蔵省により作成され、1873年(明治6年)地租改正条例が制定され翌年から着手された。
その間、1872年(明治5年)には、群馬県に富岡製糸場などの官営工場(官営模範工場参照)を開設している。また、官営鉄道や汽船が発足し、国内の交通網が発達した。
1871年に金融では新貨条例を、1872年に国立銀行条例を布告している。
岩倉使節団に副使として参加していた大久保利通は、1873(明治6)年5月に帰国し、日本の政治体制のあるべき姿として先進国のイギリスではなく、フランス第二帝政の国内省(内務省)と、ドイツ(プロイセン王国)の帝国宰相府(※2参照)をモデルに、同年11月10日には、強い行政権限を持つ官僚機構として、官営事業を統括する内務省を設立。北海道には開拓使を置き、屯田兵を派遣した。

大久保利通を初代の内務卿として設置された当初の内務省は、地方行財政などのちの所管事項に加え、殖産興業や鉄道・通信なども所管し、大蔵省・司法省・文部省三省の所管事項を除く内政の全般に及ぶ権限を持ち農政も所管していた。
当時の産業行政および殖産興業政策は、内務省、工部省、大蔵省などに分散していたが、官業政策の破綻と殖産興業経費の過重が明らかになったので、政策の転換と産業行政の一元化を図るため1880年(明治13年)には工場払下概則を達し、諸省に分離されてきた農・商・工行政事務を1省に統合することが行・財政改革の点から要望され,参議の伊藤博文大隈重信の建議にもとづき、1881年(明治14年)4月7日、農商務省が設置されることになったのである。冒頭の画像は東京農商務省(絵葉書:1890年)である。

新設の農商務省には、これまで内務省・大蔵省に属していた商務局を移管引継ぎ、書記、農務・商務・工務・山林・駅逓・博物、会計の八局及び農・商・工上等会議などの政策諮問機関を設けた。
太政官制の元、初代の卿に河野敏鎌が就任(農商務省の長のことについてはのちに述べる)。
鉱山、鉄道、工作関係は工部省の所管に残されたが、1885年(明治18年)12月22日、太政官制度が廃止され新たに内閣制度(※1参照)が成立(初代:内閣総理大臣には前参議伊藤博文が任命される)すると工部省は廃止された。
工部省の鉱山事務・工作事務を農商務省に統合。農商務省の駅逓事務・管船事務は新たに設置された逓信省に移管し、農商務省は唯一の産業主務官庁となった。なお、この時より、農商務省の長は農商務大臣とし、谷干城が初代大臣に就任した。
1882年(明治15年)2月8日の開拓使廃止に伴い、函館県・札幌県・根室県が設置され、また、北海道にはこの3県のほか、1883年(明治16年)、北海道事業管理局(農商務省の一部局)が設置されて(三県一局時代参照)以降1886年(明治19年)にかけては北海道の官営諸事業をも管理し、農事・水産の各試験場や工業試験所などを有していた。
1896年(明治29年)4月1日、製鉄所(八幡製鐵所)を官営組織として創設(1901年(明治34年)2月5日操業開始)。
1925年(大正14年)4月1日、農商務省が廃止され、農林省(第1次)と商工省(第1次)の二つに分離された。
農商務省の2分割は農業関係団体からの「農務省」設置要求の建議が数年間にわたって繰り返されてきたことによる。その契機は大正期にはいってからの米価高騰により外国産米輸入措置に対しての農業関係者からの反発が主原因である(1918年米騒動参照)。
第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)11月1日、いわゆる行政運営の決戦化を目ざす大規模な行政整理及び機構改革が行われ、軍需省運輸通信省とともに、農商省が新設された。これに伴い、商工省・逓信省・鉄道省・企画院・農林省(第1次)が廃止された。
「農商省」は、それまでの「農商務省」と異なり、務の文字がなくなり、長も農商大臣である。これは、商工省の主要部門が軍需省に移動したため、商工省の残存部門を農林省に統合して「農商省」としたものである。この時のいきさつ等詳しくは、参考の※3、※4等参照。
終戦後、軍需省という組織は存在意義を喪失したため、1945年(昭和20年)8月26日、再び農商省が農林省(第2次)と(法令上は農商省を改称)、軍需省が商工省(第2次)と(法令上は軍需省を改称)に分離・復活した。ただし、軍需省設置時に逓信省から移管された電力行政は商工省にとどまることとなった(ただし、電力供給に関する経済政策全般は経済安定本部によって司られた。日本発送電参照)。また、外局の馬政局は農林省畜産局馬産課設置に伴い、廃止された。
その後、農林省、商工省とも再編を繰り返し、農林省は、現農林水産省、商工省は1949年(昭和24年)の国家行政組織法(昭和23年7月10日法律第120号)施行直前に通商産業省に改組し、2001年(平成13年)1月6日の中央省庁再編により、通商産業省から移行する形で経済産業省が設置された。

政商」とは「政府や政治家と結びつき、特権的な利益を得ている商人」(『大辞林』)をいうとすれば、明治初期は「政商の時代」であったともいえるだろう。
民間資本の発達が遅れた状況下で、欧米列強の圧力を受けて急速に資本主義を図らねばならなかった当時の日本では、国家が主導して資本主義形成の担い手を保護・育成せざるをえず、そこに政商が生まれた。
明治期における殖産興業政策の展開過程を政商資本とのかかわりのなかでみる時、三つの時期に分けて考えることができるようだ。
その第一段階は1868(明治元)年の「明治維新政府成立」から1873年(明治6年)の「明治6年政変」までの大蔵省・工部省中心の時期(由 利公正 が主導したいわゆる由利財政 と第一次大 隈(重信)財政期)、第二段階は「明治6年政変」から1881年の「明治14年政変」までの内務省中心の時期(大久保利通政権下での第二次大隈財政期)、第三段階は「明治14年政変」から1889(明治22)年の「大日本帝国憲法発布」までの農商務省中心の時期(伊藤博文参議兼参事院議長と大隈の参議罷免後,参議兼大蔵卿に任ぜられた松方正義を中心に始まる財政期)に区分することができる。詳しいことはここでは避けるが知りたければ、※5:「日本工業の黎明-遣隋使から工部大学校まで-」のⅣ 維新政府の政治経済政策や参考欄の★印のところを参照されるとよい。

要約だけ書くと、冒頭から書いてきたように、明治時代の殖産興業政策は、工部省→内務省→農商務省へと変転する中央勧業機構のもとに、欧米先進諸国から進んだ生産技術と経済制度を導入し、財政・金融・貿易・教育などの諸分野とも関連させながら、工鉱業の発展、農牧業の育成、鉄道の建設、貿易の進展、技術者の養成その他について、政府の指導下に、資本制生産の体系をつくりだそうとした。
しかし、当時、新政府は、その一部が外国資本の管理下に入りつつあった旧幕府・諸藩の軍事施設や洋式工場を官収し、外国勢力や外国資本の侵入を排除して、その利権を回収する必要があった。また、幕末以降、入超が続く貿易において、輸入阻止の目的から、蚕糸(さんし。絹糸)・製茶業を中心に民間産業を育成する必要もあった。
こうして、当時の殖産興業政策は、利権回収と民業振興を支柱に進められた。以上の基調を背景に、国家権力による資本制生産様式の具体化は、第一に工部省(陸・海軍省も含む)中心の移植産業部門における工鉱業と軍事工業の展開、第二に内務省→農商務省中心の在来産業(農業と農産加工)部門における再編、という二つの経路をもって、相互に関連しつつ進行した。
このような「上から」の資本主義の育成策は、1880年代を中心に、官営事業(官営工場と官営軍事工場、鉱山・鉄道の経営など)を生み出したが、工部省所管の官営工場を中心に赤字損失が重なった。
その結果、1880年(明治13)布告の工場払下概則をきっかけに、官業払下げを実施するが、「工場払下概則」布告の払下げ条件には、政府資金の回収をおもなねらいとして、営業資本の即時納入その他、厳しい規定が含まれていたため、払受け希望者がきわめて少なかった。そこで4年後に同法令は廃止され、以後、払下げは個別に承認される形で実現することになった。
その結果、官業払下げは炭坑、鉱山などから始まり、工場や一部の鉄道などに及んだ。こうして1880年代以降、進行する払下げは、政府に必要な軍事、通信、また資金や技術を必要とする精錬冶金などの諸部門を除き、1896(明治29)年に生野銀山三菱合資会社に最後に払い下げられるまで、多くの官営鉱山や官営模範工場に及んだ。そのため、政府財政を節減する目的で実施された官業払下げは、官営軍事工業部門を強化する結果になった。
そして払受け人に有利となった払下げは、払下げを受けた三井三菱古河(ふるかわ)その他の政商に対して、払下げの施設を基礎に、後年、彼らが財閥に発展する条件を保証することになった(※5の財閥と払下げを受けた者との関係など参照)。
西南の役による紙幣の濫発はインフレをまき起こし、その影響は深刻であった。その整理にあたったのが、明治14年の政変で大蔵卿の座にすわることになった松方正義であるが、政府紙幣(不換紙幣)の全廃と兌換紙幣(※6参照)である日本銀行券の発行による紙幣整理、煙草税や酒造税や醤油税などの増税や政府予算の圧縮策などの財政政策、官営模範工場などの払い下げによって財政収支を大幅に改善させ、インフレも押さえ込んだ。
ただ、これらの政策は深刻なデフレを招き、このデフレでの価格や米の価格などの農産物価格の下落を招き、農村の窮乏を招いた。そして、このデフレ政策に耐えうる体力を持たない窮乏した農民は、農地を売却し、都市に流入し、資本家の下の労働者となったり、自作農から小作農へと転落したりしたために「松方デフレ」と呼ばれて世論の反感を買うことになった。
明治期の政府誘導による殖産興業政策はこのように全体として成功したとは言い難いのだが、民間払下げがこのような財閥から初期資本(政商資本)家が現れる契機となり、その結果、資本集中により、民間の大規模投資が可能になって日本の近代化を進めることになったこと、また、民間払下げからも除外された軍事工業(※7参照)は、松方財政下での軍備拡張政策を背景に、産業発展の基軸を構成するキー産業として展開し、以後の日本資本主義の軍事的性格を持つようになったという意味で重要である。

最後に、太政官制の元、明治政府の殖産興業政策の一翼を担った重要な行政機構である農商務省の初代の卿に就任した河野敏鎌について書こう。
彼は、文部卿として、今日まで続く日本の教育制度の根幹を築いた人でもある。

画像は河野敏鎌

河野敏鎌は、1844年(天保15年)10月、土佐藩郷士の長男として生まれる。幼名は万寿弥(ますや、旧字体:萬壽彌)。
1858年(安政5年)3月、江戸へ遊学して儒学者安井息軒の門下となり、1861年(文久元年)に帰国。余談だが、有名な言葉「一日の計は朝にあり。一年の計は春にあり。一生の計は少壮の時にあり。」は安井息軒の開いた私塾「三計塾」の設立主旨(三計の出自はここ参照)。
同年、武市瑞山(通称:武市半平太)らによって結成された土佐勤王党に加入して坂本龍馬とも交友関係を持つ。五十人組(※8参照)に参加し、尊攘派として活動したが、1863年9月30日(文久3年8月18日)の政変で前藩主・山内容堂佐幕派に鞍替えしたことから藩論が転換、武市らが失脚すると、捕縛・投獄され6年間の獄中生活を送ることになる。
1868年(慶応4年)に江戸幕府が崩壊して明治維新がはじまると、ようやく赦免され、同藩の後藤象二郎の手引きで大坂に上り、「維新の十傑」、「佐賀の七賢人」と称される江藤新平の知遇を得る。
1869年(明治2年)4月に侍詔局出仕、8月には弾正台に務め,のちに広島県大参事、司法大丞大検事となる(※9参照)。
その後、1875年(明治8年)に元老院議官、1878年(明治11年)には元老院副議長となる。1880年(明治13年)、文部卿として教育令改正(第2次)の推進をした。1881年(明治14年)、農商務省設立に伴って初代農商務卿に就任するが、明治十四年の政変で大隈重信らに同調して下野した。
1882年(明治15年)4月、大隈らとともに立憲改進党を結党して副総理(副党首)になる。1888年(明治21年)に枢密顧問官として憲法の審議にあたる。その後第1次松方内閣で内務大臣、司法大臣、農商務大臣を歴任、第2次伊藤内閣では文部大臣に就任して文部行政の基礎を確立した。1893年(明治26年)子爵を叙爵して華族に列すが、1895年(明治28年)4月20日に死去している(享年52歳)。
華やかな経歴ではあるが、彼にはあまりよくないエピソードもある。

河野敏鎌と同じ、佐賀藩出身の蘭方医相良知安は、佐倉順天堂(現:順天堂大学)で佐藤泰然、長崎精得館でオランダ人医師ボードインにより医学を学び、明治政府に、イギリス医学ではなくドイツ医学の採用を進言しその説が採用される。
明治初期の医療行政において文部省医務局長などの役職を経験したが、強引なドイツ医学の採用の進言の経緯でイギリス人医師ウィリス(お雇い外国人)を推していた西郷隆盛(薩摩藩出身)や山内容堂(土佐藩15代藩主)らの体面をつぶしたことで薩摩閥、土佐閥の恨みを受けた。
1870年(明治3年)9月に、知安は、大学(大学東校)の会計事務官森之介 ( 薩摩. 出身) が官費を消費したことに連座して嫌疑がかかり、突然弾正台に捕らわれ投獄された。この時の弾正台長が、旧土佐藩出身の河野敏鎌であった。
そして、この知安の危機を救ったのが、知安と同郷で親友の江藤新平らであった10参照)。
江藤新平らの支援が実り、その後の知安は裁判で冤罪が判明し、一年二ヶ月ぶりに出獄が適い復職したが、1873年(明治6年)には、第一大学区医学校校長と文部省医務局長兼築造局長を罷免されている。この理由は前述のドイツ医学採用の経緯や、明治6年政変(征韓論争)で下野した親友の江藤新平を支持したことなどの理由が考えられる(※11参照)。
河野敏鎌は、1874年(明治7年)の佐賀の乱(佐賀戦争)では、大久保利通に従い、鎮定のため九州に赴いた。
河野は、江藤新平の書生をしていた人物で、江藤の推薦で司法省の官吏となり、江藤に命じられて西欧視察に序列筆頭の団員として参加もした。
それが、乱後の裁判では、大久保の命により、佐賀の乱における法廷を主宰し、彼を抜擢した上司であり、恩人である元司法卿江藤新平を取り調べ、釈明の機会も十分に与えないまま死刑の宣告を下したという。
訊問に際し河野は江藤を恫喝したが、江藤から逆に「敏鎌、それが恩人に対する言葉か!」と一喝され恐れおののき、それ以後自らは審理に加わらなかったそうだ。巷では大久保が金千円で河野を買収して江藤を葬ったという風評が立ったらしいが、河野自身は晩年になって友人であり、立憲改進党掌事の牟田口元学に、自身の行動に関する弁明を試みているというのだが・・・。
同年4月8日,河野により除族(華族・士族の身分をとり上げ,平民とすること)の上、梟首の刑を申し渡され、その日の夕方に嘉瀬刑場(佐賀)において処刑された。 
ここには、大久保利通が撮影させたという獄門に処せられた江藤新平の画像がある。ここをクリックで画像が見られる。
河野の江藤に対する最初から死刑ありきの暗黒裁判ともいうべき不当な裁判も、大久保らの差し金によるものだろうが、そこに、相良知安の医療行政問題での恨みがからんでいるものだとしたら、恐ろしいことだ。また、がそれを実行した河野敏鎌が、その後、周りから引き立てられて、とんとん拍子で出世をし、第2次伊藤内閣では文部大臣に就任して文部行政の基礎を確立して行くのである。今の時代、このような人が文部大臣になったらマスコミはどのように騒ぐのだろうか・・・。

参考:
★11:明治前期殖産興業政策と政商資本(Adobe PDF)
★2:2:明治前期殖産興業政策の修正と政商資本(Adobe PDF)
★3:3明治期殖産興業政策の終局と日本資本主義の確立(Adobe PDF)

※1 : 内閣制度と歴代内閣 - 首相官邸
http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/
※2:ドイツ帝国憲法 - 世界史の窓
http://www.y-history.net/appendix/wh1202-121.html
※3:国内行政運営の基礎軍需省中心に確立す - 神戸大学 電子図書館
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10034003&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1
※4:法政大学大原社研_崩壊期の戦時経済と経済統制〔日本労働年鑑 特集版〕
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/senji1/rnsenji1-013b.html
※5:日本工業の黎明-遣隋使から工部大学校まで-
http://ktymtskz.my.coocan.jp/ueda/u0.htm
※6:兌換紙幣 - 金融大学
http://www.findai.com/yogo/0013.htm
※7:戦前期日本軍事工業史研究の再検討(Adobe PDF)
http://human.cc.hirosaki-u.ac.jp/economics/pdf/treatise/19/treatise_19_03.pdf#search='%E6%88%A6%E5%89%8D+%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E5%B7%A5%E6%A5%AD'
※8:五十人組-幕末期の土佐藩 - 龍馬堂
http://ryomado.in.coocan.jp/Bakuto/BTprofile/tosa_profile03-04.html
※9:詳細 - アジア歴史資料センター 収蔵データ一覧
http://www.jacar.go.jp/siryo/ichiran/K_S01/m23250.html
※10:本文ファイル - NAOSITE(Adobe PDF)
http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10069/6595/1/100_03_16.pdf#search='%E5%BC%BE%E6%AD%A3%E5%8F%B0+%E6%B2%B3%E9%87%8E%E6%95%8F%E9%8E%8C'
※11:相良知安と東京大学医学部
http://sagarachian.jp/main/90.html





体内時計の日

2016-03-31 | 記念日
日本記念日協会(※1)に登録されている今日・3月31日の記念日に「体内時計の日 」があった。
「からだと社会をつなぐ。」を企業ビジョンとするドコモ・ヘルスケア株式会社(※2)が制定したもの。同社の健康的な体づくりを支援する サービス「からだの時計 WM」により、体内時計を整え、健やかな24時間の使い方と、体が持つ本来の力を引き出してもらうのが目的だそうだ。
日付は入社や入学などの新生活の変わり目に、 生活リズムを省みる日として、新年度が始まる前日の3月31日にしたとのことである。

寒くなったり暖かくなったりを繰り返しながら春めいて来ることを、我々は「三寒四温」と言ったりしているのだが、実は、俳句歳時記(※3参照)などでは冬の季語となっている。
三寒四温は、もともとは、中国北東部や朝鮮半島におけることわざであって、シベリア高気圧の勢力がほぼ7日の周期で強まったり弱まったりするからと考えられているが、実際には、日本付近の天候はシベリア高気圧だけでなく、太平洋高気圧の影響も受けるので、三寒四温が日本でははっきりと現れることはなく、一冬に一度あるかないかという程度なのだそうである。
そのため近年では本来の意味から外れて、春先に低気圧高気圧が交互にやってきたときの気温の周期的な変化、という意味合いで使用されることが多くなっており、私などもそのつもりで使っている。
このような季節になると、桜前線も南の方から順に北上してきて、桜(主にソメイヨシノ)も開花する。わが地元神戸の平均的な開花は3月28 日、満開は4月6日ごろとなる。今年は、もう少し早めに花見が出来そうだ。
桜の中でもソメイヨシノのような人工 的に作られた品種の桜は弱くて病気になりやすいので、全国の樹木医達が枯れないように、そして、健やかに花を咲かせるように、地道な努力を重ねておられるようだが、人の体も季節時間の移り変わりには体調を崩しやすいものだ。
それは、花や樹木と同様に、人の体も季節や時間の移り変わりに従って「生物時計」という時のリズムを刻んでいるが、そのリズムが変調をきたしやすいからである。

地球上の生物は全て地球の自転による24時間周期の昼夜変化に同調して、ほぼ1日の周期で体内環境を積極的に変化させる機能を持っており、この約24時間周期のリズム「概日リズム」を形成するための24時間周期のリズム信号を発振する機構(時間測定機構)を生物時計と呼んでいるが、一般的には「体内時計」と呼ばれており、(※4:「e-ヘルスネット 」の休養・こころの健康 > 体内時計参照)。ここではこれ以降、基本的に「体内時計」の語を使うことにする。
なお、概日リズムとは、約24時間周期で変動する生理現象で、動物、植物、菌類、藻類などほとんどの生物に存在している。英名である「circadian rhythm」は、ラテン語の「約、おおむね」を意味する「circa」と、「日」を意味する「dies」から名付けられた。つまり「おおむね1日」の意味である。
簡単に言えば、「体内時計」は、生物が生まれつきそなえていると思われる、時間を測定するしくみのことであるが、通常、人の意識に上ることはない。しかし、睡眠の周期や行動などに大きな影響を及ぼしており、夜行性・昼行性の動物の行動も「体内時計」(生物時計)で制御されている。
以前こ、のブログ「現在の暦「グレゴリオ暦」を編纂したグレゴリウス13世 (ローマ教皇)の忌日」でも書いたことがあるが、人間は、なぜ、どのようにして自然を測るようになったのだろうか?
時間と空間を測り、それによって日常生活を調整しているのはなにもわれわれ人間だけではない。地球上に住むほとんどすべての生物は様々な形で周期性を示す。
その周期性は、地球が自転公転することなどの惑星運動(ケプラーの法則)によって生み出されたものだとされている。
生物の体内は24時間に近い周期に従って短期的な活動を繰り返す仕組みになっている。
生物が生活をしている地球上では、24時間の周期で昼夜が交代し、明るさや温度が変化する。太陽の出没によって生ずるこの周期は、自然環境そのものの時間の節目であり、区切りである。
太陽はいうまでもなく、地球上のあらゆる生物のエネルギー源であり、その出没は生物の一日の生活に基本的な枠組みを与える。かりに体内時計の周期と太陽出没の周期(※5)とがはじめから一致しているとしたら、そこには、時間を測るなどという問題は生じない。同じ時間のリズムで動いてゆくだけのことである。
ところが、両者の周期は異なる。ちなみに、それが故に現代人の概日リズム睡眠障害などは概日リズム機能の低下と結びつけて考えられてもいるのである。
生物はいつも遅れるか進む時計を持っている。生物が太陽エネルギーをもっとも効果的に利用しようとするならば、体内時計は、一日の周期に合わせて動くよ うに自己調整(同調)しなければならない。つまり、周期の差を測り、時間のずれをなくす。生物はこの自己調整能力のお蔭で、環境にある程度の変化が生じ ても適応してゆけるのである。
例えば、毎年移動を繰り返す渡り鳥は、体内時計に照合して太陽の位置を見定め、一方向に飛んでゆくことが知られている。つまり、太陽コンパスを使って、角度を測っているのだそうである。しかし、人類は進化とともに、言語を獲得して後、生物として単に体内時計に依存する生態から脱出し自然に関する知識をつかって、時間測定を計量化し、天文観測(天文学)に基づくを作成するまでになるが・・・。 .
ヒトの生体機能や疾患においても様々な周期性が見出され、そのメカニズムの解明が進められているが、現在、生体内の固有の時計がリズムを形成しているものとして認知されているのは、地球の自転によりもたらされる約1 日(概日)のリズム、月の公転と地球の自転との関係がもたらす潮の満ち干き(概潮汐;24.8 時間)のリズム)、月の満ち欠けによってもたらされる約1ヶ月(概月)のリズム、地球が太陽の周りを公転することによる約1 年(概年)のリズムなどがあり、また、上記以外にも、体や生命現象を現すリズムとして、様々な周期のリズムが存在するようである(※6参照)が、なかでも、最も研究が進んでいるのが日内変動、すなわち、約24 時間周期の概日リズム(体内時計)に関する研究のようである(※5:「生物時計研究グループ」の生物時計研究の年表など参照)。

それでは、体内時計はどのようにして周期の差、すなわち時間を測るのだろうか。
人間においても体温 や、ホルモン分泌などからだ(体)の基本的な機能は約24時間のリズムを示すことがわかっており、その体内時計の本体は、の中心部下面にある視床下部の視交叉上核に存在することが分かっているそうだ。

※上掲の画像は、体内時計。体内時計と不眠の総合情報サイト 武田薬品株式会社より借用したもの。

この、体内時計をつかさどる時計遺伝子は中枢だけでなく肝臓、腎臓、心臓などの末梢臓器にも存在が見られ、ローカル時計として機能しており、生物は体内時計の階層構造をうまく利用し、その内部環境を一定の状態に保ちつづけようと恒常性(英:Homeostasis。ホメオスタシス)機能を維持している。
なぜなら、体内時計の発信周期は、必ずしも正確な24時間周期ではなく、ヒトの体内時計の周期は24時間よりも若干長い(約25時間とも言われているが、24時間より短い人も少数ながらいるなどまちまち)ため、体内時計のタイミングを外界の24時間周期の明暗周期に一致させるため、日常生活において、受けるさまざまな刺激(、また、食事や運動、仕事や学校などの社会的な因子=同調因子)、その中でも最も強力な同調因子は光であり、この同調因子によって地球の公転による日長時間の季節変化や、時差地域への急速な移動にともなう明暗周期の変化に体内時計を一致させることができる。
ヒトを含む哺乳類では網膜から体内時計への直接の神経繊維連絡があり、これにより目から入った明暗環境の情報が体内時計に伝達されるが、人の場合は、朝の強い光は体内時計を早める方向に、夜の光はこれを遅らせる方向に働くそうだ。
要するに、人間はこの1日周期でリズムを刻む「体内時計」の支配の中で、生命の営みを続けており、意識していなくても、日中はカラダも心も活動状態に、夜間は休息状態に切り替わり、体内時計の働きで夜になると自然な眠りに導びかれる。そして、体内時計は毎朝光を浴びることでリセットされ、一定のリズムを刻んでいるということなのだ。
体内時計が同調するのは第一に明るさ、そして、第二は温度(※8参照)に対してだといわれている。
ヒトは毎日、太陽が昇ると起床し、食事(栄養)を摂り、暗くなれば睡眠をとるが、現代生活はシフトワークや長時間通勤・受験勉強・インターネットやゲームをしての夜型生活など、睡眠不足や睡眠障害の危険で一杯である。
不規則な食事や睡眠といった生活習慣により、「時計遺伝子」は狂ってしまい、肥満高血圧糖尿病などの生活習慣病から、ガンなどの原因になったり、進行の早い老化うつ病などにも繋がってしまう。
健やかな睡眠があってこそ十分な休養をとることができる。
睡眠が不足すると、生命にとって大切ないわゆる「免疫力」「自然治癒力」などに悪影響があり、成長ホルモンの分泌にも悪影響があり乳幼児・幼児・青少年では身体の成長にも悪影響があり(身長が伸びにくくなる)、睡眠不足では胃や腸の調子が悪くなる人も多い。
そして、精神的には気分に悪影響があり鬱状態になりがちで人間関係も悪くなり、また脳の知的面での基本機能である記憶力、集中力などに悪影響があり勉学仕事にも悪影響を及ぼす。したがって、不健康にならないためには寝不足にならないように気を付けなければいけないのだが・・・・。

厚労省が、世帯面から基礎的な情報を得ることを目的として平成12年に“心身の健康” をテーマとして行った「平成12年・保健福祉動向調査」(※9参照)の睡眠についての調査によると、
「朝起きても熟睡感がない」人が 24.2%で最も多く、以下、「朝早く目が覚めてしまう」(22.0%)「夜中に何度も目が覚める」(19.5%)と、日本人の約5人に1人は睡眠に問題を抱えているという。そして、
1日あたりの“睡眠時間の状況”をみると、「7~8時間未満」「6~7時間未満」の者が多く、年齢階級別にみると、25歳から54歳までは「6~7時間未満」が最も多く、「55~64歳」では「7~8時間未満」が最も多くなっている。
それでも、睡眠時間別にみた休養充足度の状況をみると、「十分にとれた 」人は、9時間以上睡眠を絶った人で45.6%、8~9時間未満では33.7%、7~8時間未満では、19.0%となっており、多くの人が睡眠に満足を得られていないようである。
また、睡眠による休養の充足度が「やや不足」「まったく不足」としている者について、“睡眠不足の理由”をみると、男性は「仕事・勉強・通勤・通学などで睡眠時間がとれないから」が 40.2%と最も多く、特に44歳以下では 50%前後の割合を占めている。一方、女性は「なやみやストレスなどから」が 30.4%で最も多いが、24歳以下では「仕事・勉強・通勤・通学などで睡眠時間がとれないから」「自分の趣味などで夜ふかししたから」の割合が多くなっている。
このような状況に対して、“十分な睡眠をとるために実行した事柄”をみると、「入浴した」が 43.1%で最も多く、以下「規則正しい生活を心がけた」「本を読んだり音楽をきいたりした」となっているが、これを、睡眠による休養の充足度別にみると、“休養が「十分とれた」としている者”では、「規則正しい生活を心がけた」43.2%、「入浴した」41.8%となっており、一方、「全く不足」としている者では、「入浴した」 41.6%、「アルコール飲料(酒)をのんだ」35.4%となっている。
厚生労働省のe-ヘルスネット -(※4)の“休養・こころの健康”の、“快眠と生活習慣”を見ると、快眠のための生活習慣には、2つあり「運動」や「入浴」のように習慣そのものが直接的に快眠をもたらす場合と、もうひとつは、間接的な役割で、良い習慣で体内時計を24時間にきっちりと調節すれば、規則正しい睡眠習慣が身に付いて快眠が得られる。そのための習慣として「光浴」があるが、これらの習慣はそれを行うタイミングが重要だという。
つまり、「光」の効果は体内時計を24時間に調節することにあるが、ヒトの体内時計の周期は24時間より長めにできているため、長めの体内時計を毎日早めないと、ずるずると生活が後ろにずれてしまう。
朝の光には後ろにずれる時計を早める作用があり、起床直後の光が最も効果的なので、朝起きたらまずカーテンを開けて自然の光を部屋の中に取り込むことが必要。そして、“禁物なのが夜の光”だそうで、朝の光と反対に、夜の光は体内時計を遅らせる力があり、夜が更けるほどその力は強くなるため、家庭の照明でも(照度100~200ルクス)、長時間浴びると体内時計が遅れる。また日本でよく用いられている白っぽい昼白色の蛍光灯は体内時計を遅らせる作用があるため、赤っぽい暖色系の蛍光灯(あかりの色の選び方参照)が理想なのだそうだ。その他、朝の食事なども簡単でもよいが脳のエネルギー源として糖分を補給し、体内時計を整えるためにも規則正しい食事が望まれるという。詳しくは※:4 e-ヘルスネットんの快眠と生活習慣参照されるとよい。

睡眠といえば、昔から、8時間睡眠がよいといわれ、私たちは人生の3分の1を眠って過ごしてきたのだが・・・。
本当は、どれくらいの睡眠時間をとればよいのだろうか・・・?
この睡眠時間は人それぞれらしく、日本人の生活習慣とがん(癌)との関連を明らかにすることを目的として、文部科学省の助成を受けて設置され、大規模コホート研究をしているJACC Studyの2004(平成16)年に報告された日本人の「睡眠時間と死亡」の危険率を調べた調査結果(※10参照)では、睡眠時間が7時間(6.5-7.4時間)の人がもっとも危険率が低く、睡眠時間が長い人でも短い人でも7時間の人に比べると死亡しやすいことがわかり、その程度は、4時間未満(4.4時間まで)の睡眠時間では、男性で死亡率は、1.62倍、女性で1.60倍、また10時間以上(9.5時間以上)の場合には男性で1.73倍、女性で1.92倍になっていたという。
また、これに心理要因などを加味すると男性では短い睡眠時間は死亡のリスクを上げないことがわかったが、女性では、4時間未満(4.4時間まで)の睡眠時間の人は7時間の人と比べ2.0倍のリスクとなっており、また、7時間より長い睡眠時間は、男性でも女性でもやはり死亡リスクを上げているという。
ここで、男性では短い睡眠時間が死亡のリスクを上げないのに、女性の死亡リスクが高くなるのは、その背景にある病気や不健康の結果として睡眠時間が短くなっているだけではなく、男性では女性に比べて仕事をしている人が多いことから、何か仕事に関係する要因が睡眠時間を短くしている可能性もあるようだというが、残念ながら、今回の研究だけで結論を出すまでにはまだ至っていないそうだ。
睡眠といえば、昔から、8時間睡眠がよいといわれ、私たちは人生の3分の1を眠って過ごしてきたのだが・・・。
本当に4時間くらいの睡眠で、疲労は回復できるのだろうか?
ヒトは通常、昼間に活動し夜間に睡眠をとるが、ヒトが眠くなるのには、2つの理由があるという。
ひとつは、日中動いて疲れたから、もう一つは、先にも書いた体の中にある「体内時計」が、約24時間で「眠くなる/目が覚める」のリズムを刻んでいるから・・・・。
考えてみれば、ヒトの働き方も昔とはずいぶん変わってきた。ヒトが働く時の「働」の漢字は人偏に動くと書く。昔は、田を耕したり、猟(漁)をしたり、重労働で肉体を酷使したが、時代とともにその働き方も昔とは様変わり、現代のサラリーマンの働き方や、女性の家事労働にしても電化製品の進化等により非常に楽になっているし、また、昔に比べて、休みも多くなり、一日の労働時間も減ってきた。労働の質も量も減ってきたので、日中の労働によるからだの疲労は半減しているのではないか。だから、肉体疲労回復のための睡眠時間も少なくなって当然といえば当然な気がする。
それに比べて、現代社会では肉体疲労よりも 脳の疲労が大きくなっている。
厚生労働省は「健康づくりのための運動指針2006-生活習慣病予防のために-(エクササイズガイド2006)」 (平成18年7月)で、メタボリックシンドロームをはじめ生活習慣病発症を予防するための身体活動量・運動量・体力の基準値を示しており、これにあたって、今までは肥満等にBMIでの測定が普通であったが、新たな指標として、「METs(メッツ)」を使用している(※11の過去の運動基準・指針よりここ参照)。
METs(メッツ)は、身体活動の強度を表す単位であり、運動によるエネルギー消費量が安静時の何倍にあたるかを示しており、1METs(メッツ)は、座って安静にしている状態であり、通常歩行をしている状態は、3METs(メッツ)に相当する(生活活動では 歩行:20分で3METs)。
もう少し具体的に書けば以下のようになる。
1.0メッツ:、静かに座って(あるいは寝転がって)テレビ・音楽鑑賞、リクライニング、車に乗る
1.2メッツ:静かに立つ
1.3メッツ:本や新聞等を読む(座位)
1.5メッツ:座位での会話、電話、読書、食事、運転、軽いオフィスワーク、編み物・手芸、タイプ、動物の世話(座位、軽度)、入浴(座位)
1.8メッツ:立位での会話、電話、読書、手芸
2.0メッツ:料理や食材の準備(立位、座位)、洗濯物を洗う、しまう、荷作り(立位)、ギター:クラシックやフォーク(座位)、着替え、会話をしながら食事をする、または食事のみ(立位)、身の回り(歯磨き、手洗い、髭剃りなど)、シャワーを浴びる、タオルで拭く(立位)、ゆっくりした歩行(平地、散歩または家の中、非常に遅い=54m/分未満)

これを見ると我々の普段の生活は1,5~2メッツといったところだが、、本や新聞等を座って読むだけで1.3メッツと単に座ってテレビ・音楽鑑賞などをしている状態の30%ものエネルギーを使うのだから、ビジネスマンなどが頭や神経を使ってやっている仕事は体を使っている仕事よりも非常に疲労しているということになるだろう。したがって、現代では脳疲労の恢復のための睡眠が重要なのだといわれている。
この脳疲労を回復する即効性のある運動としては、 ストレッチ、体操などの軽い運動、散歩などが適しており、これらの運動習慣は脳疲労回復効果以外に、脳そのものを強化し、疲れにくくする働きがあるとも聞いている。また栄養や食事によって、脳疲労を回復することができる。
とにかく朝起きて、寝るまで、自分では意識をしていなくても脳は、いつも働いて(覚醒おり)、睡眠時でも、浅い睡眠時には覚醒している。
睡眠の状態は、脳波を調べることでわかる。
睡眠時の脳波は、レム睡眠とノンレム睡眠(レム睡眠参照)の2つのタイプに分かれていることは誰もが知っていることだろう。レム睡眠はまぶたの下の眼球運動をともなう睡眠で夢をみている状態であり、脳が活動して覚醒状態にある。
ノンレム睡眠は、レム睡眠でない眠りという意味であり、本当に脳を休ませる眠りで、さらにS1~S4の4段階に分かれる。なかでもとくにS3とS4は、脳波の振幅が高くて周期の小さい波(徐波)が現れる状態で徐波睡眠とよばれるが、いわゆる、ぐっすり寝ている状態で、多少の物音がしたり、軽くゆさぶられても目が覚めることのない深い眠り(熟睡)である。
レム睡眠とノンレム睡眠は、一晩のうちに約90分周期で交互にくり返し現れ、一晩の平均的な 6 - 8 時間の睡眠では 4 - 5 回のレム睡眠が現れる。脳を休めるためには、しっかりと、このノンレム睡眠をとることが重要なのである。
また、体内時計は、睡眠だけでなく「体温」のリズムも作っており、体温の高低のリズムと、睡眠のリズムは連動しているそうだ。
起きている間の体温は高く、夜は体温が低くなる。体温が下がるタイミングにあわせて、眠気が始まる。このときの特徴は、眠いとき、赤ちゃんの手が暖かくなるのと同じで特定の皮膚部位(ここでは手足の甲)から熱を外界に逃がすことで体全体の代謝を下げ、これに引き続いて脳の温度も下がって眠りに入るのだという。
人間の脳はほかの動物とくらべて、高い機能をもっており、昼間は脳をフルに使って生活している。そこで疲れた脳が オーバーヒートしないように、脳の温度を下げて休ませ、脳の疲労を回復させるのが睡眠(※12参照)であり、その対策として、一番簡単で効果的な方法が眠る1時間位前に38〜40度の「ぬるめ」の風呂に20分位入ることのようだ。
体温が下がれば、眠気が出てくる。深く寝入ったら、成長ホルモンがたっぷり出る。そして光を浴びると、眠りは去ってパッチリ目覚める。

体内時計に基づくリズム(周期)は、実は一つだけではなくもうひとつある。眠りの基本は約24時間の周期で動くリズムだが、このほかに約12時間周期のリズムもあるといわれており、これが「昼間に眠くなる」作用を起こすそうだ。昼食の後眠くなるのは満腹のためではなく、このリズムが原因であり、だいたい午後2時~4時ころにかけて起こる自然な生理現象なのだそうで、南ヨーロッパや南米の「シエスタ」という昼寝の習慣があるのもそのためのようだ。20~30分程度の昼寝は脳と体をリフレッシュし、生産性を向上させることがわかっているという。
私なども、昼食後よくうつらうつらしているが、これは年のせいかと思っていたのだがそうではなかったのだ。午後の眠気対策に短時間の仮眠(昼寝)はいいことのようだ、ただ、長く居眠りすると夜寝れなくなるので気を付けなければいけないが・・(※13のここ参照)。

年齢とともに体力が落ち、老眼になり、白髪が増えるのと同じように睡眠にも以下のような変化が生じる。
その第一は、若い頃にくらべて早寝早起きになる。これは体内時計の加齢変化によるもので、睡眠だけではなく、血圧・体温・ホルモン分泌など睡眠を支える多くの生体機能リズムが前倒しになるのだそうだ。したがって高齢者の早朝覚醒それ自体は病気ではなく、眠気が出たら床につき、朝方に目が覚めて二度寝ができないようであれば床から出て朝の時間を有意義に使った方が良いのだそうだ。
第二の変化は、私などもそうだが、睡眠が浅くなること。睡眠脳波を調べてみると、深いノンレム睡眠が減って浅いノンレム睡眠が増えるようになっているからだそうで、そのため尿意やちょっとした物音などでも何度も目が覚めてしまうことになる。
昔から、「早起きは三文の徳」という諺があり、私たちもそれを良しとしてきた。しかし、この諺、元々は「早起きしても三文ほどの得しかない」という意味で使われていたともいわれている。
眠気もないのに「やることがないから・・・」と言って、寝床に入ると、寝つきは悪くなるし、中途覚醒が増えてしまう。若い人のように、労働でエネルギーを消費することもなくなっているのだから、眠れる時間が短くなるのは当然なのだろう。そのくせ、高齢者ほど睡眠時間が短くなるのに寝床にいる時間が長くなっている…(※4:「e-ヘルスネット」の高齢者の睡眠参照)。結果として夜も眠れぬままに寝床でうつらうつらしている時間が増えて睡眠の満足度も低下しているわけだ。反省しなければいけない。
現代社会では、仕事の関係などもあるのだろう、「宵っ張りの朝寝坊」も多くなったようだ。睡眠時間やリズムは、人それぞれ。少なくとも、睡眠に関する限り、 朝型か夜型か、どちらの型であっても昼夜リズムが社会の時計と同調し、生活が規則的に繰り返されている限り問題はないようだ。したがって、睡眠のメカニズムや、自分の睡眠特性を知って、「良いねむりと良い目覚め」を目指したいものである。


参考:
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:ドコモ・ヘルスケアHP
http://www.d-healthcare.co.jp/
※3:俳句歳時記 季語
https://sites.google.com/site/haikukigo/
※4:e-ヘルスネット - 厚生労働省
http://www.e-healthnet.mhlw.go.jp/
※5:出没にまつわるはなし|天文・暦情報|海上保安庁海洋情報部
http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KOHO/faq/astro/sunrise.html
※6:生体リズムと時間薬理学 - 早稲田大学(Adobe PDF)
https://www.waseda.jp/wias/eng/achievement/bulletin/data/y_edagawa_2010.pdf#search='%E6%BD%AE%E3%81%AE%E6%BA%80%E3%81%A1%E5%B9%B2%E3%81%8D+24.8+%E6%99%82%E9%96%93+%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0'
※7:生物時計研究グループ 花井修次HP
https://staff.aist.go.jp/s-hanai/index.html
※8:体内時計をつかさどる「時間の定規」を発見 | 理化学研究所
http://www.riken.jp/pr/press/2009/20090901/
※9:平成12年 保健福祉動向調査の概況(心身の健康) - 厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/hftyosa/hftyosa00/index.html
※10:睡眠時間と死亡との関係-JACC Study
http://publichealth.med.hokudai.ac.jp/jacc/reports/tamaa1/index.html
※11:運動施策の推進 |厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/kenkou/undou/index.html
※12:睡眠と体温|体温と生活リズム|テルモ体温研究所
http://www.terumo-taion.jp/health/sleep/01.html
※13:ねむりラボ-オムロン
http://nemuri-lab.jp/
Webナショジオ睡眠学
http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20121127/332007/
元MRが語る・医療と生物の信じられない実態2
http://www.unlimit517.co.jp/repomedi2.pdf#search='体内時計 太陽の出没'
睡眠学の1 短時間睡眠の方が長寿?!武田邦彦 (中部大学)
http://takedanet.com/archives/1053522401.html
日本睡眠学会
http://jssr.jp/data/kiso.html
日本時間生物学会
http://chronobiology.jp/
「早起き」すると寿命が縮む!オックスフォード大学の研究で判明現代ビジネス
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/45782



ホスピタリティ・デー

2016-03-24 | 記念日
今日・3月24日は「ホスピタリティ・デー 」
思いやり、もてなしといった意味のホスピタリティの精神を広めるためにNPO法人日本ホスピタリティ推進協会(旧称・日本ホスピタリティ協会※1:参照)が1994(平成 6) 年3 月24 日に制定したそうだ。
この日を日常生活の中で他人に対して思いやる心をほんの少しでもあらわす実践の日として位置づけ、その普及することが目的だそうで、日付は「3」は新しいものを創り出すエネルギー、自己表現を表し、「2」は思いやり、協力、を意味し、「4」は全体を作りあげる基礎の数字とされることから、その組み合わせである3月24日としたのだという。

さて、「ホスピタリティ」の話の前に、数字の話だが、数字には、「数字、一つ一つに固有の意味がある」のだといった話は聞いたことがあるが、私はそのようなこと良く知らないのでネットで調べてみると、以下参考の※2:「THREEの由来と数秘術」には、 “数秘術”では「3」という数字に「果てしない創造性、表現力、バランス」といった意味があるらしく、他の1~9までの個々の数字にも、上記に書かれていたような数字の意味が書かれていた。
この数秘術というのは、西洋占星術易学等と並ぶ占術の一つで、生年月日(西暦)や姓名などから、固有の計算式に基づいて運勢傾向や先天的な宿命を占う方法としても利用されているらしいが、
、数秘術の創始者は一般的にピタゴラスの定理で有名な古代ギリシャの数学者・哲学者のピタゴラスだと言われているそうだから、それなりに意味はあるのかもしれないね~。
ま、余談はこれくらいにして、本題へ入ろう。

日本記念日協会(※3)には、10月30日の記念日に「マナーの日」が登録されていたので以前にこのブログで「マナー」について書いたたことがある(ここ参照)。
ビジネスマナー、一般マナーなど、あらゆる場面において必要不可欠な「マナー」について見直し、生活に役立ててもらうことを目的にNPO法人・日本サービスマナー協会が制定(※4 参照)したものであった。
“企業が成り立つ重要な要素として、「ヒト」「モノ」「カネ」「情報」があると言われる中で、この不況を乗り切るために一番重要とされているのが人材教育だと言われている。 特に最近は「人は財産」という考え方から「人財」とする企業も多くなってきた。
現代の社会では今まで以上に顧客に対する現場の対応力が問われるようになり、相手先の企業やお客様とどのように接することが出来るかということが顧客満足度(CS)を高める重要な要素となってきているからだ。
「お客様は神様です」は三波春夫の有名なフレーズであるが、確かに、サービス業 (サービスを取り扱う産業)のビジネスマンにとって、相手先の企業担当者やお客様に満足度を高めなければ、成果は得られないし、そのために必要なビジネスマナーは当然身に着けておく必要があるだろう。
マナー (英語:manners) は、一般的に礼儀、行儀・作法を指すが、このマナーは、日常生活をしていく中で自然と身につけていく作法であり、戦前生まれの道徳躾(しつけ)教育にはそれなりに厳しかった環境の中で育てられてきた私などの世代の者から見ると、業務上必要とされるビジネスマナーなどは企業で教育もされておりこれは別として、今の時代の人の普段の行動には、そのマナーの悪さが気にかかる人も多いのではないだろうか・・・。私だけがそんなことを思っているのかと、ネットで検索してみると以下のようなアンケート結果もあるようだ。

礼儀正しいなんてウソ!? 日本人のマナーを日本在住の外国人に聞いてみた!

私は、海外旅行は仕事柄アメリカ中西部、ハワイなどへの研修や視察を兼ねて、1週間単位で3度ほどは行ったが、世界の国々と比較して日本人のマナーが実際にどの程度良いか悪いかなど比較出来るほどの見識もない。
ただ、良し悪しは別にして、日本人には、誰にでも昔から、やたらぺこぺこと頭を下げて低姿勢で応対をする習性が今でも残っているようであり、そういった面では、初めて会った外国人などから見て好感は持たれるかも知れないし、平均的な外国人に比較して見れば、まじめで親切な面もあるのだろう。
私が若い頃仕事をしていた商都大阪の商人などは、客を相手にいつもにこにこ笑顔で揉み手をしながらお愛想を言っていたが、サービス業に携る者は、誰しもたとえそれが演技であれ.他人に喜ばれるような立ち居振る舞いやリップサービスを行うのが常であるが、日常の人間関係においても、この精神作用は自覚に関わりなく、多かれ少なかれ常に働いているものと考えられている。
仮に相手に喜ばれようとする気持ちが全くなく相手に接した場合は、エゴイズム(利己主義)の衝突となり、良好な人間関係は成立しないからである。また、他者に喜ばれることが当事者の喜びになる心理作用や、人に嫌われたくないという気持ちが働くため、この精神作用はごくありふれて見られる。このため、通常よりこの精神作用が強い場合を指して、「サービス精神」が旺盛などと呼んだりする。歴史的に「和をもって尊しと為す」を信条してきた日本人には、このサービス精神は外国人よりは多いかもしれない。
20世紀の工業を中心とした経済社会における企業の役割は、優れた価値のある製品・サービスを提供することであった。モノが不足している時代であったから、良いモノを安く大量に作れば、売上も利益も向上したが、21世紀の知識・情報・サービスが重要な役割を果たす経済社会は、モノあまりの時代でもあり、単に、良いモノが安いからと言っただけでは買ってもらえない時代になった。それだけモノ余り時代の競争は激しいのである。
そんな時代にどうしたら、消費者にモノを買ってもらえるのか・・・?そこで求められるのが、「サービス」から「ホスピタリティ」への移行だという。

毎日いただくおは香りとにがみを頂くのである。おうす(薄茶の丁寧語※4のコラム参照)にしろお濃い茶(※4のコラム参照)にしろ、あの甘いにほひとにがみがなかつたら、茶道なんてものはないのだらう。ほうじ茶やばん茶、これは香ばしいだけでにがみがない、ずゐぶん間がぬけてゐるやうでも、それはそれで、温かい香ばしい飲物である。コーヒーのやうな強烈な香りの飲物を毎日いただく余裕のない時や胃の弱いときに、コーヒーの身がはりにほうじ茶を濃く熱く煮出して飲むと、ほんの少しだけ咽のどこかの感じがたのしくされる。たいそうほうじ茶とばん茶の悪口をいふやうだけれど、出からしのおせん茶のなまぬるいのを飲むよりどんなにおいしいか分らない。これはやはり贅沢な関東人の智慧が考へ出したものに違ひない。地方の質素な古風な家庭で育つた人なぞはお客さんの咽の感じなぞを考へることは教へられてゐないで、その生ぬるい薄いおせん茶を何度でも何度でも注いで出す。お茶を出すといふことが昔から日本人のホスピタリティであつて、奥さんみづからが立派な古めいたきうすに銀びんのお湯を注いで替へてくれるお茶は大へんなホスピタリティにちがひない。

上掲の文は、大人気だったNHKの朝ドラ『花子とアン』の主人公のモデルとなった村岡花子や同ドラマに登場し脚光をあびた柳原白蓮と同じ東洋英和女学院を卒業し、歌人・随筆家・翻訳家として明治・大正・昭和の三時代を生きた片山 廣子(※5参照)の随筆『アケビ』(※6参照)からの抜粋である。
彼女は、芥川龍之介などから、人の陰口などは一切言わないことから「くちなし夫人」と呼ばれたという。片山の身のこなしの優雅さ清楚な外見をクチナシの花になぞらえてのことだろう。

「思い遣る心」を【形】として表わすことが「マナー」であれば、「ホスピタリティ」(hospitality)とは、「思いやり」「心からのおもてなし」という意味である。
2013年9月アルゼンチン・ブエノスアイレスで開かれたIOCの夏季東京五輪誘致の最終プレゼンテーションでは、滝川クリステルが日本の「お・も・て・な・し」の心を印象的にフランス語と日本語でアピール。東京への招致に一役買い、この言葉が2013年の「新語・流行語大賞」の年間大賞を受賞した。




石田三成の性格を表す有名な逸話に「三献の茶」の話がある。
長浜城主となった羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、ある日、鷹狩りから帰る途中のお寺でお茶を所望したら、寺の小姓が、まず最初に大ぶりの茶碗にぬるめのお茶をたっぷり入れて出した。喉の乾いていた秀吉は、それを一気に飲み干し、さらにもう一杯頼むと、今度はやや小さめの碗に、やや熱めにしたお茶を出した。秀吉は試みにもう一杯所望したところ、今度は小ぶりの碗に熱く点てたお茶が出てきた。
相手の様子を見て、その欲するものを出す。秀吉は茶の入れ方ひとつにも気を配る小姓に感動し、城へ連れ帰った。それが後の石田三成であるという逸話である。
ただこの逸話の信憑性は乏しいが、滋賀県のJR長浜駅前には、この三献茶に因んだ三成と秀吉の像が設置されている。以下参照。
秀吉公と石田三成公 出逢いの像

片山の随筆やこのエピソードには「おもてなし」の心「ホスピタリティ」が色濃く息づいている。以下参考の※7 :「「接客マナーは心の礎」 おもてなしの「礎」語源」に詳しく解説されているが、「おもてなし」は、「もてなし」に丁寧語「お」を付けた言葉で、「もてなし」の語源は「モノを持って成し遂げる」という意味であり、別に、お客様に応対する扱い、待遇とも言われている。また、「おもてなし」のもう一つの語源は「表裏なし」、つまり、表裏のない「心」でお客様をお迎えすることで、 接客業、サービス業に限らず、人の生活する場、すべての家、人に必要なもの。そして、この「おもてなし」には目に見える「もの」と、目に見えない「こと」があるという。
この「もの」「こと」を、お茶の世界(茶道)で例えると主客一体の心の元、お見え頂いた「お客人」をもてなす際に、季節感のある生花、お迎えするお客様に合わせた掛け軸、絵、茶器、匂い(御香)など具体的に身体に感じ、目に見えるリアルなものが「もの」であり、もてなす人の瞬時に消えてしまう言葉、表情、仕草など、目に見えないバーチャルな心を「こと」と言いあらわしているそうだ。
日本の懐石(茶懐石)料理での「もの」には上記した意外に、飲み物、料理やお菓子(デザート)が加えられ、接客時にもお客様の五感を取り巻く、全ての「もの」の知識(グラス、器、料理、素材、デザート等々) と共にお客様の状態を素早く察知し、 目配り、気配り、手配り、身配り、気働きなどの動作で応える気遣い、お料理を楽しんで頂く会話や日本文化の心わびさびの余韻を与えるなど、「三味一体」(この場合人・料理・場)でお客様の五感と心に満足、感動と余韻を与えることが「おもてなし」だと言っている(詳しくは同HP=※7参照)。やはり「おもてなし」の心は日本の伝統ともいわれる茶道の世界に一番色濃く見られるようだ。
形や行動などで示す「マナー」は相手に不快感を与えないための最低限のルールであるが、そこに「心」が加わると、「ホスピタリティ」になる。
深い心地良さが加わることで、信頼、安心感そして感動が生まれるわけである。
NPO法人日本ホスピタリティ推進協会のHP(※1)にも、
ホスピタリティとは接客・接遇の場面だけで発揮されるものではなく、人と人、人ともの、人と社会、人と自然などの関わりにおいて具現化されるものである。
狭義の定義では、人が人に対して行なういわゆる「もてなし」の行動や考え方について触れていて、これは接客・接遇の場面でも使われるホスピタリティのことである。 主人と客人の間でホスピタリティが行き交うが、それは一方通行のものではなく、主人が客人のために行なう行動に対して、それを受ける客人も感謝の気持ちを持ち、客人が喜びを感じていることが主人に伝わることで、共に喜びを共有するという関係が成立することが必要だ。すなわち、ホスピタリティは両者の間に「相互満足」があってこそ成立する。つまり、主客の両方がお互いに満足し、それによって信頼関係を強め、共に価値を高めていく「共創」がホスピタリティにおける重要なキーワードなのである。
広義の定義では、ホスピタリティが主人と客人の二者間の話にとどまらないことを言っている。社会全体に対して、その構成員である人々が、ホスピタリティの精神を発揮することで、相互に満足感を得たり、助け合ったり、共に何かを創りあげることができ、それによって社会が豊かになっていくという大きな意味でもホスピタリティは重要である。
ホスピタリティは一般的にはサービスを提供する企業と、それを受け取る顧客との領域で論じられることが多いが、決してそれだけにとどまるものではない。例えば企業活動においては、顧客以外のステークホルダーである従業員や、地域社会に対してもホスピタリティを発揮することが大切で、それによって社員の働きがいを高め、社員同士がチームとして創造性を高めたり、地域社会との関係性を高めたりすることで好ましい経営環境をつくりあげることができる。・・・と。

重要なことは、狭義の定義で、“ホスピタリティは両者の間に「相互満足」があってこそ成立する”ということである。「相互満足」は、顧客満足と従業員満足を区別して考えるのではなく、一体として考える立場から生まれたものである。そして、さらに経営者の満足も取り入れた概念と解すべきだろう。
1995(平成7)年の阪神・淡路大震災では全国から大勢の善意のボランティアが被災地に駆けつけたことから、「ボランティア元年」とも呼ばれるようになったが、一方で、例え善意のボランティアであっても、現地で必要とする技能がなく、そのため、現地が望んでいる必要とする事はできず、逆にその日の食事が満足に食べられない地域において、残り少ない食品や飲料水をコンビニで消費していったためますます現地の人の食糧不足に拍車をかけた・・といった不満から「ボランティア迷惑論」が出て問題となったこともあった。ここには、例え善意の行為であっても、それが必ずしも相手の望むことではない時の典型的な問題が見られるだろう。これは、「ホスピタリティ」の場合も同様である。
又、もっと重要なことは、広義の定義で書かれているように、お客様が満足し、お客様に喜んでいただくためには、お客様の要望を超えるサービスを提供し続ける事が重要であるが、同時に、そのような仕事をする、社員も満足し、さらに、その企業が存在する地域社会の皆様にも満足していただける、そのようなホスピタリティでなければいけないということだろう。これは非常に難しい。
牛丼チェーンのすきやは労働生産性を追求するあまり、労働問題(詳細は「ゼンショー#諸問題」を参照)からアルバイトやパートタイマーの不満が噴出し、経営が揺らぎかけたこともあったように、先ず、従業員がイヤイヤ働いて、お客様に心からのサービスが提供できるわけがない。これはもう最低の条件がそろっていない。
これに反し、「夢と魔法の王国」と呼ばれているディズニランドのホスピタリティには定評がある。楽しいから客がディズニーに集まるのである。それはディズニーのリピート客の多さでわかるだろう。
私も現役時代、東京ディズニーランドが開業して間なしの頃、すでにディズニランドのホスピタリティは話題になっていたので、アメリカ西部を研修で視察に行った時、本場アメリカのディズニーランドも視察を兼ねて遊びに行ったが実に楽しかった。平日ではあったが日本のディズニーランドなどと違って年配者が多かった。
兎に角ディズニーでは、あらゆることが、ただただお客様が楽しめるよう企画・演出され、キャストと呼ばれる従業員は社員もアルバイトもお客様を楽しませるために日々働いており、会社(ディズニー)自体も、自らの仕事に誇りをもってサービスをお客様に提供してもらえるようすべてのキャストへのホスピタリティ教育や動機づけを行っているからこそ顧客満足を産み、長きにわたり、多くのお客様を世界中から惹きつけているのだろう。(参考の※8 、※9 参照)。

「思いやり」「心からのおもてなし」という意味の「ホスピタリティ」。この言葉は、サービス業のみならず、最近では医療現場などでも頻繁に使われるようになっている。
医師山崎章郎の『病院で死ぬということ』が日本エッセイストクラブ賞を受けたのは、1991(平成3)年だった。1993(平成5)年にはこの作品を市川準監督がドキュメンタリータッチで描いた同名映画を製作されている。
この本が人々の心をとらえたのには、一般病院における終末期医療の現場の悲惨ともいえる状況が生々しく正確に描かれていたからであった。
「苦痛と絶望、不信と怒りの連続の中で、告知もされず、痛みに顔を歪め「物いわぬ物体」となって、病院のベッドで死んでゆく患者の姿は、読者にとって明日の自分の姿であり、肉親でもあった。多くの人の中にある医療不信がこの悲憤の書をベストセラーにした。
山崎は本の中で「僕はホスピスを目指す」と宣言し、1991(平成3)年10月聖ヨハネ会桜町病院(※10参照)のホスピス科部長となった。、それ以降、日本のホスピスが充実を見せ始めたのは自分の全存在を注ぎ込む山崎や現場を支えるたくさんの人々の志の集積が貢献している。山崎氏は、2005(平成17)年に、在宅診療専門診療所ケアタウン小平クリニック院長(※11参照)を務め現在に至っている。

「ホスピス」(英: hospice)とは、ターミナルケア(終末期ケア)を行う施設のこと。または在宅で行うターミナルケアのことをいう。
英語の、「ホスピス」(hospice)は、ラテン語のホスペス(hospes:主、客の両者を意味する)を語源とし、ラテン語のホスピティウム(Hospitium:客を厚遇すること)に由来するホスピスは、「客を暖かくもてなす」ことを表し、元来、中世の初めヨーロッパ西部で巡礼や旅行者、病人たちを休ませた宿泊施設を意味している。これが今日のホテル(Hotel)や病院(Hospital)の原型となっている。

日本ホスピス緩和ケア協会編(NHK厚生文化事業団発行) の小冊子『 ホスピスってなあに?-困っているあなたのために』(※12参照)の1ページの冒頭に以下のように書かれている。

治すことを目標にひた走っている医師と患者。その同じ病室で、同じ目標をめざせなくなっている私のからだ。 途方に暮れるたびに、私のなかの病院砂漠がひろがっていき、いつしか私は疲れきった旅人になってしまった。 そんなある日、 「ホスピスはあなたのオアシス」、砂漠の向こうから吹く風が、そう私におしえてくれた。 ・・・と。

そして、この小冊子にはさらにホスピス誕生の理由を次のように解説している。

これまでの医療は、治癒させることに専念するあまり、治癒できない場合の対応がほとんど考えられていませんでした。治癒できなければ延命策を講ずるという図式が連綿と続けられていました。「検査・診断・治療・延命」という4つの働きが近代病院の目的と考えられてきたからです。 
 しかし、たとえば、症状の進行した患者さんの何割かが直面する激しい痛みや息苦しさ、変化する症状への不安に対しては、この4つの流れの中で対応するには限界があります。 このような状況におかれた患者さんの痛みと不安を、何とかやわらげてあげたい・・・。 それがホスピスを誕生させたときの願いでした。
 この考え方を本格的に実践してみせてくれたのが1967年、シシリー・ソンダース医師が率いるイギリスのセント・クリストファー・ホスピス(聖クリストファー病院。※13参照)です。 ・・・と。  
シシリー・ソンダース医師によって全世界に広まった「近代ホスピス」は、「病気の治癒を目指した治療がもはや有効でなくなった患者の苦痛を緩和し、最期までその人らしく生き抜いてもらえるるよう、命の質とか、生活の質(Quality of Life)を高く生きられるよう、チームで援助していこうというプログラムのことをいい、そして、「ホスピス」に入院せずに、自宅で同じような「ホスピスケア」を受けて家族と過ごすことを「在宅ホスピス」と言っている。
日本の「入院ホスピス」の場合は「進行癌(がん)とエイズ(AIDS)」だけが治療対象のようだが、「在宅ホスピス」の場合はどんな病気の人でも対象となるようだ。
ホスピスは、人間がどれだけ「 人間らしさ」を保って生きられるか、つまりは、尊厳死の問題にもかかわってくることなので、これにはいろいろ意見もあるようだ(※14参照)。

私達夫婦ももう80歳に近くなった。今は元気であるが、平均寿命まではそう長くはない。
それ以上の余命はできるだけ元気で長生きてはしたいものの、もし、癌その他重い病で寝たきりになった場合、ただ息をしているだけの状態で、何時までも苦しみながら生きようなどとは思わない。
だから、常日頃から、夫婦でそのような状態での延命治療だけは絶対にしないようにと、確認し合っている。もしそのような状況になったら、私は、ホスピスなのお世話になりたいのだが・・・。、

参考:
※1:NPO法人日本ホスピタリティ推進協会
http://hospitality-jhma.org/
※2:「THREEの由来と数秘術」|THREE TREE JOURNAL
http://tree.threecosmetics.com/2015/11/features023-1/
※3:一般社団法人 日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※4:はじめての茶道ガイド
http://sadou.info/
※5:片山廣子が芥川龍之介に抱いた“文学への恋” | NHKテキストビュー
http://textview.jp/post/culture/14057
※6:作家別作品リスト:片山 広子
<ahref=http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1346.html> > http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1346.html
※6:接客マナーは心の礎」 おもてなしの「礎」語源
http://projectishizue.blog60.fc2.com/blog-entry-154.html
※7:ホスピタリティの極意
http://www.hospitality-gokui.com/index.html
※8:知ってるだけで100倍楽しい!「ディズニーランド」の豆知識 - M3Q
http://m3q.jp/t/120
※10:社会福祉法人 聖ヨハネ会
http://www.seiyohanekai.or.jp/
※11:ケアタウン小平クリニック 山崎章郎 ホスピス
http://caretownkodaira.net/clinic/
※12:ホスピスガイドブック※配布終了 | NHK厚生文化事業団
http://www.npwo.or.jp/library/hospice/
※13:シシリー・ソンダースとホスピス | 在宅ホスピス医 内藤いづみ
http://www.naito-izumi.net/archives/60.html
※14:QOL の問題点
http://www.saiton.net/ethics/kc06.htm














































いのちの日

2016-03-11 | 記念日
日本記念日協会に、今日3月11のる記念日として登録されているものの中に「いのちの日」があった。
2011(平成23)年3月11日に発生した東日本大震災では多くのが失われた。の尊さを思い、命の大切さを考え、震災で学んだことを風化させることなく災害に備えようと「災害時医療を考える会(Team Esteem)」(※1)が制定したもの。
設定の趣旨は、災害時医療の改善を図るとともに、9 月1 日に防災訓練が行われるように、3月11日には健康、医療、災害時の体制などを考える機会を設けたいとの思いから。…だという。

いのち短し 恋せよ少女(おとめ)
朱(あか)き唇 褪(あ)せぬ間に
熱き血潮の 冷えぬ間に
明日の月日は ないものを
この歌は、1915(大正4)年に発表された中山晋平の歌謡曲『,ゴンドラの唄』(作詞:吉井勇)の歌詞(一番)である。
芸術座第5回公演『その前夜』の劇中歌として生まれ、松井須磨子らが歌唱、大正時代の日本で大流行したものだ。随分古い歌と思われるかもしれないが、私がまだ子供の頃でもよく唄われていた。
作曲の中山によれば、母のの直後、悲しみに暮れる帰りの汽車の中で「『ゴンドラの唄』の歌詞が語りかけて」きて、「汽車の揺れとともに、自然と旋律がわいてきた」 のだという。
この『ゴンドラの唄』は森鴎外が翻訳した『即興詩人』(アンデルセン著)の一節を基にして吉井が作詞したそうだ(*2参照)。
黒沢 明監督の映画 『生きる』 のなかで、主演の志村 喬扮する一市役所の市民課長・渡辺勘治が、この歌を口ずさみながらブランコをこぐシーンが思い出される。
30年間何もしないまま、勤め上げようとしていた彼は、ある日、自分が胃ガンであることを知らされる。早くに死に別れた妻との間にできた息子にも冷たくされ、絶望と孤独に陥った彼は、街へさまよい出て、飲みなれない酒を飲む。
ああ、自分の人生はいったい何だったのか?・・・。 余命の短さの苦悩の中から、彼は生きることの意味を考えはじめる。そして、人生の最後の時間に、ほんの少しでも市民の役に立つことをしようと考え、小さな公園の建設に奔走、彼の努力により児童公園が完成した。 小雪の舞う夜、完成したばかりの公園のブランコに揺られながら、この『ゴンドラの唄』を楽しげに歌う・・・・。
死に直面した人間の心を通して、生きることの意味を優しい眼差しで表現したこの映画は、1953年度、ベルリン国際映画祭シルバーベアー賞を受賞している。
上掲の画像は、マイコレクションの絵葉書、那覇中央郵便局発行黒澤明監督全30作品絵入り絵葉書(ここ)の中の『 生きる』:ブランコに乗りゴンドラの唄を歌っている主演の志村喬)。『ゴンドラの唄』の試聴は以下で出来る。


今の時代、人間楽して、楽しく生きる事が理想のように考えている人が多くなったかもしれないが、そんな人は、一度この映画をDVDででも見てみると良い。『生きる』の主人公に限らず、誰だって享楽的な生活を送りたくなるだろうが、この映画の主人公は、それでは、何も満たされることがなかった。「生きる」とは、そういうものではないと思ったのだ。
仕事や人間関係に疲れたとき人は、自分の存在が否定されたように感じ、「私はなぜ生きているんだろう」という疑問を感じ、悶々としているうちに「生きている意味なんてない」と自分の人生に否定的になってしまうこともあるようだがそのような時、歴史上の哲学者や文学者が考えた「生きる意味」や「人生の意味」が私達を励ましてくれるかもしれない(※3参照)。
「生きる」とは、この世でいちばん稀(まれ)なことだ。たいていの人は、ただ「存在」しているだけである」(オスカー・ワイルド 
ただ存在するためには、息をして死なないでいるだけで十分であるが、生きるためには自分の意志で積極的な活動をしていかなければいけないのかもしれない。自分が「生きている」のか、「存在している」だけなのか、時には、自分に問いかけてみることも必要ではないだろうか(以下参考の*3参照)、
「敷かれた道を進むより、道なきところに自ら道を築いて進め」
「絶えずあなたを何者かに変えようとする世界の中で、自分らしくあり続けること。それがもっとも素晴らしい偉業である」
「人生は短い。だが親切を行う時間はいつだって十分にある」
いずれも私の好きなアメリカの思想家、哲学者であり作家・エマーソンの言葉である。何をしようかなど考えることはない。自分がしたいことを思いっきりしたらよいのである。少なくとも、人に親切をことをするぐらいはしようと思えばいつでもできるのだから・・・。そうすれば人生は変わるだろう。
思えば、私など、特別に何も考えずに今まで生きては来たが、振り返ってみると、自分としては、すばらしい青春時代をすごしてきたことを今、しみじみと幸せに感じている。生来が馬鹿な私は難しいことなど何も考えずに、ただただ、自分のしたいと思うことだけを夢中になって思う存分にやってきた。
もし、他の人よりほんの少し劣ったり遅れをとっただけで悩んだりしている人は、以下参考の青空文庫の北条 民雄「いのちの初夜」(※4)など読んでみるとよい。
昭和初期では不治の病とされたハンセン病(癩病)、患者は一般社会から隔離されて専門の施設に隔離された。自身も癩病患者であった作者の体験的な作品『いのちの初夜』は、癩病院への入所という絶望の中から不死鳥のような命の叫びを感じさせてくれる。生命(いのち)ってなんなんだ。?・・・深く考えさせられる。

ある種の現象が人間社会に負の影響を与える時、その現象及び影響(現象の拡大,他の現象の誘発)を「災害」という。
いくら真面目に一生懸命頑張っていても人を不幸に陥れる災害に遭遇することがあるが、その現象には自然現象による災害「天災」と人為現象による災害「人災」がある。
災害対策基本法」にいう天災とは、自然現象としての災害」であり、 震災津波高潮火山の噴火、暴風,豪雨,豪雪,洪水,その他の異常な自然現象であり,人災とは「大規模な火事もしくは爆発」などの人為現象であるとしている。
災害は、忘れたころにやってくるとは、よく言われるが阪神・淡路大震災は、まさにそのことばをまざまざと思い出させてくれた自然災害である。
1995年(平成7年)1月17日に起こった「兵庫県南部地震」は「ナチュラル・ハザード」(自然現象)であるが、その結果引き起こされ、数年にわたり大規模な人的被害や経済的被害などが続いた「阪神・淡路大震災」は「ナチュラル・ディザスター」(「自然災害」)である。
なお「ナチュラル・ハザード」という言葉は将来起きる可能性のある脅威(たとえば発生が予想される地震や、大雨が降った場合の洪水)を指す場合に使われるが、「ナチュラル・ディザスター」(自然災害)は過去に起こった、あるいはいま起こっている社会的出来事に関連付けて使われるそうだ。
戦後最大(発生時点では)のこの地震災害(震災)は、1995年(平成7年)年1月17日未明に、地震とはまったく縁がないと思われていた阪神、淡路地区を襲った。
これまで我が国が経験したことのない大規模な都市型震災であり、兵庫県全体で、死者・行方不明者が6,437 人、被害総額が約10 兆円にのぼった。特に震源に近い我が地元神戸市六甲山南側の市街地を中心に広範囲かつ大規模に被災。人的被害では、死亡者4,571 人(2000.1.11)に達した。
その中で、高齢者(60 歳以上)が死亡者の約59%を占め、家屋倒壊による死者が多数(窒息・圧死が全体の約73%)を占めた。
また、物的被害では8 万戸を超える住宅が喪失し、さらには、神戸の街が営々と築き上げてきた神戸港、高速道路、橋梁、鉄道施設、ライフラインなどの都市基盤や、さらには産業基盤が甚大な被害を受けた。この物的被害の総額は約7 兆円弱と見込まれている。
その結果、道路であれば、利用できた数少ない幹線道路に自動車が集中して大渋滞が発生し、人命救出や消防の部隊の現場到着が大幅に遅れたり、その後の被災地への救援物資(水、食糧、日常用品等)の輸送に大きな影響を与えた(第二の災害とも呼ばれる)。また、水道管の破断等による断水は、消火用水不足による延焼拡大を引き起こし、その後の飲料水不足や水洗トイレの使用不能にもつながった(※5の阪神・淡路大震災の概要及び復興 - 神戸市参照)。

よく大きな被害が発生すると、「異常な自然現象」の為と云われるが、自然現象というものは,あくまで「自然の摂理」そのものであって決して「異常」ではない。「災害対策基本法」は,おもに災害が発生した場合の行政的措置(行政行為)を定めた法律であるが、その前提には,災害つまり自然現象に対する対応策(技術)のための予測がある。例えば,各種の建造物の設計基準を与えるものであり、過去の災害事例から,確率論的に災害規模を設定している。
その災害の規模は,それが人間社会に与えた負の影響の大きさ,つまり「被害」の大きさによって測定されるが、例えば、過去の地震事例を見ても分かるように、地震現象自体は同程度であっても,災害規模(被害の大きさ)は異なる。よく言われる、「異常」は其の予測値を超えた被害が出たときに使われているだけである。

震災は、津波の発生や、建物・施設等の倒壊、同時多発火災延焼、ライフライン等の途絶による被害の複合性・波及性、情報連絡、避難生活、災害後の復旧対策など、総合的な防災行政全般に関連しているだけに、日本ではとくに防災行政の中心的な目標におかれてきた。
そして、関東大震災をはじめ、その時々の地震によって顕在化した弱点を教訓にしながら対策を積み上げていくことで、今日ある防災行政が進んできたともいるが、とくに、この阪神・淡路大震災は、地震による人的被害の規模の大きさ、高層建築物都市施設の衝撃的な被害など、直下型地震の怖さを人々に焼き付けた。
震災地域の被害は、その震度などに単純に対応したわけではない。同じ震度地域であっても、倒壊した家屋もあれば倒壊しなかった家屋もある。震災に伴う火事は、木造・密集住宅地で、そうではない地域に比べ延焼が顕著であった。「被害」は、老朽住宅居住者・高齢者・一人暮らし・低所得者層など、いわゆる社会的弱者に、より深刻に現れた。震災被害は、そうした「階層性」を伴っていたが、震災後も被災者の生活再建の程度において、比較的に早く進んでいく者とそうではない者のふるい分けが、階層性を含みながら進行した(※6参照)。
災害時、社会的弱者はこのようにより厳しい状況に置かれやすい。防災行政の領域では、従来からこうした特別な配慮を必要とする人達を「災害弱者」として概念化してきたが、阪神・淡路大震災において、、災害時における弱者保護の必要性が改めて認識される事となった。
そして、この震災では、地震によって倒壊した建物から救出され生き延びることができた人の約8割が、家族や近所の住民等によって救出されており、消防、警察及び自衛隊によって救出された者は約2割であるという調査結果がある(※5参照)。
このような状況の中から災害ボランティアの活躍もあり、日本の市民運動史上では1995年のことを意味する「ボランティア元年」という言葉も誕生するなど、今までの災害現象では比較的注目されなかった、やや質の違う社会的課題を提起したといえる。

一年の世相を表す漢字一字を選ぶ「今年の漢字」(日本漢字能力検定協会主催)は、阪神・淡路大震災が起きた1995年から始まった。そして、この年の漢字は「」であった。1月に阪神・淡路大震災、3月にはオウム真理教による地下鉄サリン事件オウム真理教事件参照)が起きるなど、まさに世間を震撼させる出来事が起きたことによる。
先にも述べたように、阪神・淡路大震災には、今までの災害現象では比較的注目されなかった現代社会ならではの社会的課題が多く提起されており、今後の大型震災発生に対してその教訓を生かして、国、地方行政、そして、各個々人がそれなりの防災対策を講じていなければならないはずであったのだが、マスコミの報道は、阪神・淡路大震災のことについてはオウム真理教事件に埋没され、震災のことも、崩壊した高速道路や家屋、また火災で燃えている家など映像による悲惨な状況を、何か大きな事件といった感じで報道されていただけのような気がするのだが・・・。

阪神・淡路大震災では6千5百人の尊い生命が失われ、4万5千人が負傷し、最大時の避難者は32万人に達したが、被害の中心となった死傷者の多くは圧死や挫滅症候群(クラッシュ症候群)だった。
又、この大震災の後遺症が少しずつ癒えてきた2004年(平成16年)10月、新潟県中越地震が発生し、死者68人、負傷者は4千8百人を記録した。
地震発生後、余震も頻発し揺れも強く、山間部では多くの被災者が自家用車で暖を取りながら長期間の避難生活を余儀なくされたことで、深部静脈血栓症:: いわゆるエコノミークラス症候群が多発し、死者の少なくとも10人はこれがもとであったともいわれている。
そして、2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震とそれに伴って発生した津波、およびその後の余震により引き起こされた大規模地震災害である東日本大震災の地震の規模はマグニチュード(Mj)は,9.0、最大震度は7を記録し2016年(平成28年)2月10日時点で、死者・行方不明者は18,456人、重軽傷者は6,152人、警察に届出があった行方不明者は2,562人であると発表されている。
被害は南北500キロに渡り、過去に経験しなかった巨大地震とともに大津波福島第一原発事故,に襲われたが、死傷者の大多数は津波による溺死・溺水だった。被害を大きくした原因は,、被災地に通じる交通網が土砂や瓦礫で遮断されてしまったことで、人的物的支援が空路でしかできなくなってしまったことである。同時に電話やインターネットなどの通信網が完全に崩壊し情報の往来が不可能になったことも被害を増大させてしまった。この2件は阪神大震災でも同様のことが見られたことであった。
歴史的には中規模地震は10年に1回、大規模地震は100年に1回の割合で発生すると言われており(地震の年表 -日本参照)、国では10年から100年単位での長期的な地震発生の可能性と、今後30年以内に震度6弱以上の揺れに見舞われる確率を公表している(*7参照)。
災害が発生した場合、最も重要なことは人命救助である。人命救助にあたって、被災地内の医療機関は、自らも被災者となるものの、被災現場において最も早く医療活動を実施できることから、その役割は重要なものである。
災害(地震、火災、津波、豪雨水害豪雪、火山噴火、または航空機事故などの大規模な事故、その他)により、対応する側の医療能力を上回るほど多数の医療対象者が発生した際に行われる、災害時の急性期・初期医療を指す「災害時医療」(災害医療)については、阪神・淡路大震災を契機として、災害拠点病院の整備、広域災害・救急医療情報システム(Emergency Medical Information System:EMIS.*8参照)の整備、災害派遣医療チーム( Disaster Medical Assistance Team の略語「DMAT」(ディーマット)と呼ばれる)の養成等を行ってきたが、東日本大震災での対応において、これまで整備してきた体制等につい今なお対応しなければならない課題が明らかになり、その課題について、厚生労働省が、被災地を含めた災害医療関係の有識者が検討する場として「災害医療等のあり方に関する検討会」を開催し、報告書が取りまとめられているのでそこを見られるとよい(※9の平成24年3月21日医政発0321第2号参照)
救急医療は、患者に対して十分な医療を供給できる環境下で行われる医療であり、例え突発的な発生であったとしても、いわば 「日常的に行われる医療」 の一部であるが、これに対して災害医療は、事前に予測困難な災害の発生時において、急激な傷病者の増加に対して医療の供給が全く追いつかない状況下で行われる医療であり、場合によっては 電気・水道などのインフラ施設も被災し停電・断水 といった状況の中、医療機関への医薬品や衛生材料の供給もストップするなど、想像以上に過酷な状況の中でも行わなければならない。
このような混乱する現場・殺到する傷病者に対して、手元の 「限られた医療資源」 を有効に活用することで、何とか1人でも多くの人命を救うことを求められる医療である。実際の災害発生時に 災害医療を主に担当するのは、平時に救急医療に携わっている医療関係者である。しかし 「災害医療」と「救急医療」は このように本質的に全く異なる医療であり、傷病者一人ひとりに対して、平時のような100%の医療は、現実的には提供できない。
災害医療では、一人の患者にかける医療の「質」よりも、いかに多数の患者に対して、限りある医療を効率的・効果的に提供できるか、という観点が 常に要求される、という点でも特殊である。 また、災害が長期化した場合には、必要とされる医療の内容が変化する、というのも大きな特徴のひとつである。 
大規模災害時の被災者は、見知らぬ人を含めた多数の人との避難生活という、通常とは異なる環境下に置かれる。これにより十分な休息ができなかったり、トイレに行くことをためらったり、避難生活への不安や不満を抱えたりする場合がある。また、家族の安否を気にしたり経済的な不安を抱えたりといった心理的負担も大きい。
こうした環境要因により、不安や悩みを抱え、それが胃腸症状やうつ傾向のような身体症状として現れる例が多く見られる。“災害時の要介護者(要介護認定された者)へのケア”をどうするかなどはそのガイドラインが内閣府より出ており(※10参照)、また、厚生労働省の補助を受け、日本赤十字社が実施している災害救助調査研究・研修事業の一環として作成されたガイドライン(※11参照)などがあるので参照されるとよいだろう。

東日本大震災が発生した2011年(平成23)の「今年の漢字」は「絆」(*12参照)が選ばれた。
日本国内では、東日本大震災や台風(2011年の台風)による大雨被害、海外では、ニュージーランド地震タイ洪水などが発生。大規模な災害の経験から家族や仲間など身近でかけがえのない人との「絆」をあらためて知らされたことによる(*13参照)。
人と人との小さなつながりは、地域や社会などのコミュニティだけでなく、国境を越えた地球規模の人間同士の「絆」へ。
SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)をはじめとするソーシャルメディアを通じて新たな人との「絆」が生まれ、旧知の人との「絆」が深まった(*14参照)。
この震災以降、人と人のつながりが増えたことは、不幸中の幸い、非常に喜ばしいことではあった。

(冒頭の画像は、 日本赤十字社の災害時要援護者対策 ガイドライン より。)
参考
*1:災害時医療を考える会
https://esteem311.wordpress.com/
*2:レファレンス共同データーベース:「ゴンドラの唄」は・・・
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000167707
*3:人生とは何か?を教えてくれる名言24個
http://estorypost.com/%e5%90%8d%e8%a8%80%e3%83%bb%e6%a0%bc%e8%a8%80/quotes-about-life/
*4:図書カード:「いのちの初夜」 著者名: 北条 民雄 
http://www.aozora.gr.jp/cards/000997/card398.html
*5」神戸市:阪神・淡路大震災 震災復興資料集(50音順)
http://www.city.kobe.lg.jp/safety/hanshinawaji/data/keyword/50/
6:大震災いまだ終わらず - 佛教大学
http://www.bukkyo-u.ac.jp/mmc01/naito/cyosa/sinsai/1999/20000517.html
*7:特集 地震を知って地震に備える! - 内閣府
http://www.bousai.go.jp/kohou/kouhoubousai/h21/05/special_03.html
*8:広域災害救急医療情報システム: Home
https://www.wds.emis.go.jp/
*9:災害医療|厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/iryou/saigai_iryou/index.html
*10:災害時要援護者の避難支援 ガイドライン - 内閣府(Adobe PDF)
http://www.bousai.go.jp/taisaku/youengo/060328/pdf/hinanguide.pdf#search='%E3%80%81%E3%80%8E%E7%81%BD%E5%AE%B3%E6%99%82%E3%81%AE%E8%A6%81%E4%BB%8B%E8%AD%B7%E8%80%85%E3%81%B8%E3%81%AE%E3%82%B1%E3%82%A2'
*11:災害時要援護者対策 ガイドライン - 日本赤十字社(Adobe PDF)
http://www.jrc.or.jp/activity/saigai/pdf/saigaikyugo-3_document.pdf#search='%E3%80%81%E3%80%8E%E7%81%BD%E5%AE%B3%E6%99%82%E3%81%AE%E8%A6%81%E4%BB%8B%E8%AD%B7%E8%80%85%E3%81%B8%E3%81%AE%E3%82%B1%E3%82%A2'
*12:漢字辞典-OK辞典 ー「絆」
http://okjiten.jp/kanji46.html
*13:公益財団法人 日本漢字能力検定協会:「今年の漢字」一覧
http://www.kanken.or.jp/project/edification/years_kanji/history.html
*14:ソーシャルメディアの効用と可能性 : 平成23年版 情報通信白書 - 総務省
http://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/h23/html/nc232330.html