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記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

千代の山雅信(41代横綱)の忌日

2007-10-29 | 人物
今日(10月29日)は千代の山雅信(九重親方[元]、41代横綱)の、1977年 の忌日 <51歳>
千代の山雅信(ちよのやま まさのぶ)は、大相撲の力士で第41代横綱。本名杉村昌治。1926年6月2日北海道松前郡福島町に生まれる。双葉山への入門を希望していたが、相撲協会映画部の伊勢寅彦の目にとまり、双葉山に勝てる男になるためにと稽古台に不自由しない角界一の部屋に入らなけれいけないと言われ、1942(昭和17)年出羽海部屋に入門したという。筋肉質の長躯(ちょうく)は一門の注目を集め、入門当時から横綱昇進を期待され、戦中、戦後における食糧難の時代に、当時の出羽海親方(元・両國梶之助)の方針でただ一人、腹一杯の食事を与えられるほどの逸材だったという。1942(昭和17)年 1月場所、杉村の本名で15才初土俵。しかし、膝を化膿させて入院し、少し出遅れたが、同年 5月場所新序からは16連勝して期待通りの強さを見せ、初土俵から全て勝ち越して入幕。双葉山の引退の方が早くて顔を合わせることはできなかったが、新入幕の1945(昭和20)年11月場所には、10戦全勝をするが、この当時は、優勝決定戦制度はなく、番付上位優勝制度つまり、同成績者が出た場合は番付上位の者が優勝者としていた。したがって、この場所では、横綱羽黒山も全勝であったため優勝は逸したが、一躍新時代のヒーローとして注目を集めた。(※1947〔昭和22〕年6月の場所から優勝決定戦が実施された。)千代ノ山の堂々たる体格から繰り出す猛突っ張りは非常に威力があった。1949(昭和24)年5月場所は戦後初の15日間興行で、横綱の照国東富士前田山を倒し、12勝3敗の好成績で殊勲賞を受け場所後大関に推挙された。同年10月場所、新大関として13勝2敗で初優勝。翌場所も12勝3敗で連覇を達成するが横綱昇進は見送られた。1951(昭和26)年5月場所14勝1敗で3度目の優勝を果たし、ようやく横綱となったが、これは、日本相撲協会横綱審議委員会の諮問を仰ぎ推挙した初めての横綱である。
この横綱審議委員会設立のきっかけは、1950(昭和25)年1月場所、3日目までに東富士、照國、羽黒山の3横綱が途中休場したため横綱の格下げが論議され、場所中に協会は「2場所連続休場、負越しの場合は大関に転落」と決定発表した。しかし粗製濫造した協会が悪いとの世間からの反発により、決定を取り消すことになった。そこで、横綱の権威を保つためにもそれまでの横綱免許の家元である吉田司家による推薦ではなく、相撲に造詣が深い有識者によって横綱を推薦してもらおうということになり、1950(昭和25)年4月21日に横綱審議委員会が発足したものである。(この相撲の優勝に関しての番付上位優勝制度の問題や横綱決定の複雑な問題は大相撲を参考にされると良い)
残念ながら、横綱昇進後の千代ノ山は腰や膝関節の負傷に加えて精神的動揺に苦しみ、1953(昭和28)年1月場所には、成績不振で休場の折に横綱返上を申し出、物議を醸したが、当時、千代ノ山は横綱・大関のなかで一番若かったこともあって協会は再起に期待の方針を出し横綱返上は認めなかった。「千代ノ山」は再起を期し、名前も「千代の山」に改め、休場明けの同年9月場所には総てをかけて11勝を上げ、再起を果たす。また、この場所からNHKの大相撲テレビ中継が始まり、相撲の映像が茶の間に流れ、相撲を名まで見る人が減るのではとの心配を他所に観客動員数は増加し、戦後大相撲の黄金期金の幕開けを告げた。そして、1955(昭和30)年には見事連続優勝を果たし完全復活を証明し、1957(昭和32)年1月場所には全勝優勝をも達成した。
しかし、その後も、膝関節や腰の故障のなか懸命に頑張ったが、1956(昭和31)年 9月場所から故障が再発して休場がちとなり、1960(昭和34)年1月場所6日目を最後についに引退に踏み切り、年寄九重を襲名した。優勝は6回だが実質7回と言える。全勝2回。得意は突っ張りと右四つ、寄り。脇が堅く、相手に容易に左を差させなかった。得意の突っ張りの強烈さは並外れており、稽古台にされた栃錦の歯ががたがたになったほどである。192cm120kg(112kgしかなかったとも)の細身軽量ながら筋骨隆々とした体型で「鉄骨のやぐら」と称されたほどだが、新弟子の頃膝に重症の関節炎を患い骨に穴を開けて膿を抜いたそうでこの影響は最後までついてまわった。独走すると強いが混戦はどうも苦手だったらしく1958(昭和33)には僅かな差で優勝を逸すること3回(3場所連続)で結局昭和32年1月場所の全勝優勝が最後の賜杯になった。
好不調の波が大きくて持てる実力を思う様に発揮できず一時代を築くまでには行かなかった。戦跡表などは以下参考に記載の横綱千代の山・千代の富士記念館ホームページや[大相撲 記録の玉手箱]などを見られると良い。
千代の山が去った後、番付の三役に出羽海部屋の力士の四股名が消えた。1900(明治33)年(年)1月、常陸山が関脇に昇進した場所から60年間138場所にわたり、出羽海部屋は役力士を欠かしたことが無かった。
1960(昭和35)年に師匠出羽海が亡くなると、出羽海部屋を継承するつもりだったが、元平幕力士出羽ノ花の武藏川親方が継承、当時九重は次の出羽海だと本人も周囲も思っていたが、後、当時大関の佐田の山が出羽海の婿養子となったため、佐田の山が継承がするものと諦め、当時の部屋では伝統的に分家独立不許という不文律に悩みながら独立を申し出ると弟子13名中10名までを連れて独立することを許されたが、一門からは破門され、高砂一門に身を寄せた。(この辺は複雑な事情があったようだ)
独立して最初の場所である1967(昭和42)年3月場所に弟子の大関北の冨士が初優勝し、その後、横綱に昇進した。また、出身地も卒業した小学校も同じ千代の富士をスカウトし、幕内力士にはしたが、大成(史上最多の通算勝星・1045勝など、数々の栄光を手にした史上有数・昭和最後の大横綱となる)を見ることなく51歳で没しった。九重部屋は独立して井筒部屋を興していた北の富士が両部屋合同の形で継承した。
日本相撲協会公式サイトでは、以下の動画が見れるよ。
①千代の山、大関になって最初の場所。昭和24年、秋場所 千秋楽 対 神風戦。 うるさい神風を寄り切りで勝ち、13勝2敗で初優勝を遂げる。
②昭和32年 1月場所 千秋楽。 対 松登戦。」 突き落としで破り、千代の山は、六回目の優勝を全勝で飾った。
日本相撲協会HP蘇る名横綱のページ。
http://sumo.goo.ne.jp/kiroku_daicho/mei_yokozuna/chiyonoyama.html
(画像:千代の山雅信の銅像。横綱千代の山・千代の富士記念館前。フリー百科事典Wikipediaより)
参考:
千代の山雅信 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E4%BB%A3%E3%81%AE%E5%B1%B1%E9%9B%85%E4%BF%A1
Category:大相撲 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E5%A4%A7%E7%9B%B8%E6%92%B2
関節炎
http://www.kirishimacho.com/HouseCall/encyc/123/46/175_0_0_0.html
横綱千代の山・千代の富士記念館ホームページ
http://www.town.fukushima.hokkaido.jp/sumo/memory/
日本相撲協会公式サイト
http://www.sumo.or.jp/
[大相撲 記録の玉手箱]
http://www.fsinet.or.jp/~sumo/sumo.htm
両国国技館 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%A1%E5%9B%BD%E5%9B%BD%E6%8A%80%E9%A4%A8
タマローの相撲コラム2001
http://www2.tba.t-com.ne.jp/tamaro/newpage2-1-10.htm


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2 コメント

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Unknown (Linda)
2007-10-31 08:57:17
よーさん、お早うさんです。
僕の小学校の頃は千代の山ファンが圧倒的に多かったです。僕のような栃錦ファンは少なく、皆で相撲をする時には千代の山になりたがる奴に比べ、簡単に栃錦になれました。皆で番付を決めてノートの後のページに星取表を作って遊びました。
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千代の山 (よーさん)
2007-11-01 08:50:59
Lindaさん、最後の方は足の故障でよい成績を残せなかったが、膝の故障がなかったら凄い記録を残したでしょうね。痩身で筋肉質であったがやはり膝への負担が大きかったのでしょうね。
しかし、私も栃錦のファンでしたよ。(^0^)
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