今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

芙美子忌

2011-06-28 | 記念日
今日・6月28日は、作家・林芙美子の1951(昭和26)年の忌日である。
林芙美子は明治、大正、昭和初期の日本の女性が未だ多くの制約に縛られ、社会的な地位も低い時代に、身をもって道を開いた先駆者の一人といえる。その作品は当時の庶民の女性達の姿と息吹をつぶさに語っており、日本文学史に輝く業績を残した。
1930(昭和5)年、27歳の時、自らの日記をもとに放浪生活の体験を書き綴った自伝的小説『放浪記』(これ以降も出てくる彼女の作品は参考に記載の※1:青空文庫を参照されると良い)がベストセラーとなり、文壇にデビューした彼女は、人気女流作家となってからも執筆依頼を断らず、締め切りに追われるままに書き続け、敗戦後も『うず潮』や『浮雲』『茶色の眼』などを発表し常に女流作家の第一線で活躍し続けたが、心臓を患っていた彼女は、主治医の忠告を聴き入れず、朝日新聞に『めし』を連載執筆中の1951(昭和26)年の6月26日の夜分、『主婦の友』の「私の食べあるき」という連載記事のため料亭を2軒回り、帰宅後に苦しみ、翌27日払暁、心臓麻痺で急逝した(※2)。
流行作家が花の盛りの続くさなか48歳という若さで生涯に幕を閉じたわけだが、彼女の余りの多忙さに、当時作家たちの間では、「林芙美子はジャーナリズムに殺された」という話が流れていたという。

「私は北九州の或る小学校で、こんな歌を習った事があった。

更けゆく秋の夜 旅の空の
侘(わび)しき思いに 一人なやむ
恋いしや古里 なつかし父母

私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない。父は四国の伊予の人間で、太物(ふともの=綿織物・麻織物など、太い糸の織物の総称)の行商人であった。母は、九州の桜島の温泉宿の娘である。母は他国者と一緒になったと云うので、鹿児島を追放されて父と落ちつき場所を求めたところは、山口県の下関と云う処(ところ)であった。私が生れたのはその下関の町である。――故郷に入れられなかった両親を持つ私は、したがって旅が古里であった。それ故、宿命的に旅人である私は、この恋いしや古里の歌を、随分侘しい気持ちで習ったものであった。――」・・・・・『新版 放浪記』はこのような書き出しで始まっている。
ちなみに、ここに引用されている「更けゆく秋の夜 旅の空の・・・」の歌は、私なども学校で習ったので、よく知っている歌であるが、これは詩人である犬童球渓が1907(明治40)年に訳詞をした翻訳唱歌「旅愁」である(原曲はジョン・P・オードウェイ(John P. Ordway)による“Dreaming of Home and Mother”〔家と母を夢見て〕という作品。※3参照)。
林芙美子はもともと詩人であり「秋沼陽子」の筆名で、地方新聞に詩や短歌を載せていた。冒頭にこのような歌を引用し、「私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない。」と続け、「それ故、宿命的に旅人である私は、この恋いしや古里の歌を、随分侘しい気持ちで習ったものであった。――」と綴ってゆく技法は、彼女が詩人である証でもあり、この小説には彼女のつくった短歌が多く挿入されている。
この導入部には、彼女が1903(明治36)年12月31日、山口県下関生まれと明確に書いているのだが、実際には旧門司市大字小森江555番地(現:北九州市門司区小森江2丁目2-1)に生まれ、出生地は付近の人の証言や除籍簿謄本発見により、現在の神鋼リードミック株式会社(※4)内にあったブリキや板屋忠嗣の2階で誕生したとするのが通説となっているようだ。このことは又後に触れる。
出生地には「林芙美子生誕地記念文学碑」が建てられおり、碑には、1933(昭和8)年出版の第二詩集『面影』に収められている詩「いづくにか吾古里はなきものか・・・」(「草紙の詩」)が刻まれている(※5参照)。
しかし、彼女が下関生まれとしたのにはそれなりの理由があるのだろう・・・・。
鹿児島の桜島の南岸に古里温泉というのがあるが、芙美子の母キクは、鹿児島の桜島で家庭を持っていたらしいが、実家の宿屋に逗留していた愛媛県周桑郡吉岡村(現・東予市)生まれの行商人(扇屋という屋号の雑貨商の長男)で22歳の宮田麻太郎と恋仲となり結ばれるが、麻太郎はキクよりも14歳も年下の男であり、他国者と一緒になったということで鹿児島におれなくなった2人が、門司に出てきて芙美子(戸籍上:フミコ)を生んだが、麻太郎が認知せず私生児として届けられたことから、娘は林フミ子として、母方の叔父の戸籍に入ったようだ。
入籍する気はないまま、3人の生活は続いたが、1910(明治43)年事業に成功していた父麻太郎が、別の女・芸者(おハマ)に靡(なび)き同居させたことから、母親キク当時43歳は8歳の芙美子を連れて20歳も年下の男・沢井喜三郎(麻太郎の下で番頭をしていた)と一緒になり家を出る。このキクさんは多情な女のようで、成長した後に男遍歴をする芙美子もこの母の血を確り継いでいるようだ。
家を出た後、喜三郎が芙美子の養父となり、一家は九州一円を行商しつづけ、毎晩が木賃宿の暮らしであったことから、幼い少女の心に大きな傷が残され、林芙美子に故郷がなかったというのであろう。故郷だけではなくて、芙美子は、小学校も転々と転校を重ねることとなり、4年の間に、7度も学校をかわったため親しい友達が一人も出来なかった彼女は、直方の炭鉱町に住んでいた12歳のとき学校へ行くのが厭になり小学校をやめてしまい幼いながら色んな仕事をしていたという。
その後、直方を離れた芙美子親子は、1916年(大正5年。芙美子13歳の時)広島県尾道へ辿り着く。
この尾道で再び小学校に編入した芙美子はそれまで各地を転々とし、あまり教育を受ける機会がなかったにも拘らず、優れた文才を発揮し始めたという。
翌・1918(大正9)年、2年遅れで小学校を卒業(15歳のとき)することになるが、彼女の文才を認めた訓導の勧めで尾道市立高等女学校(現・尾道東高校)に進学。ここで文学の手ほどきを受け、18歳のときから『秋沼陽子』の筆名で、地方新聞に盛んに詩や短歌を投稿、また絵にもその才能を見せた。女学校時代の芙美子は、明るく才気ある少女で周りには絶えず笑いの輪ができていたという。また、文学少女の彼女は女学校在学中に、最初の恋人となる東京の大学に通っている因島出身の岡野軍一(『放浪記』には“島の 男”として登場)と出会った。
2人は小説のような恋愛の虜になり淡いときを過ごした。親友たちに恵まれ、少なくともこの尾道にいたころだけは彼女にとって弾けるような生き生きとした時代であったようだであり、後年もしばしば「帰郷」している。
この時期のことは短編『風琴と魚の町』(※1:青空文庫参照)に鮮やかに記されている。
1922(大正11)年、女学校を卒業した彼女は、大学に通う恋人を追って上京し彼と同棲。生活費を懸命に稼ぐ。しかし、翌年岡野は大学を卒業すると、因島へ帰ってしまい、親が反対し婚約が解消され、結局2人の恋は実らなかった。
9月の関東大震災で、芙美子親子の3人は暫く尾道や四国に避けていたが、彼女は再び東京で放浪生活を始めることとなる。
生きる目的を見失った彼女は、そんな寂しさを紛らわすために日記をつけ始める。この頃から筆名に『芙美子』を用い始める。
困難な生活の中で、文筆がはじめて彼女の心の支えになっていく。
俳優田辺若男と結婚し田辺氏の紹介で萩原 恭次郎岡本潤壺井繁治アナキストを紹介される。
この頃は一番苦しいときでカフェーに住み込んだりして暮していたが厭になると、平林たい子の住んでいる酒屋の2階へ転がり込んで2人で住んだりしていたこともあるという。
田辺には同棲2~3ヶ月で去られ、詩人の野村吉哉とも同棲をするなどしていたが、1926(昭和元)年、23歳の時、画家修業中の手塚緑敏と内縁の結婚(事実婚的同棲)。正式に婚姻届を出したのは、敗戦前年の1944年になってからのこと。緑敏が林家に入る形をとり、以後、林緑敏と名乗った)により、同郷の恋人との婚約解消後、男遍歴の激しかった芙美子のアナーキーな生活はここにようやく安定を得た。緑敏はそれまでの男と違って、性格も穏やかで、その懐に飛び込んでゆけたようだ。
画家の緑敏は、結婚後は自分の仕事をセーブし、もっぱら彼女が執筆活動に専念できるようサポート役に回り、彼女の死を見届けるに至った。いわば、彼女の秘書役に徹して芙美子の文学を開化させた影の功労者でもあったといわれている。この辺の事情は、『文学的自叙伝』に、『清貧の書』(この中に出てくる画家の夫与一は、3人目の男で最後の夫手塚緑敏との新婚生活をつづったもの)には芙美子の心情が見事に描かれている。
最も、結婚しても生活は以前より何層倍も辛く、米の買える日が珍らしい位で苦しく、作品が直ちに売れたわけではない。
この頃、彼女はもう詩が書けなくなっており、文芸戦線から退いて、孤独になって雑文書きに専念していたようだが、そんな彼女にチャンスが到来した。
1928昭和3)年7月創刊の『女人芸術』の第2号に詩「黍畑(きびばたけ)」が掲載され、それが主宰者・長谷川時雨の夫である雑誌のスポンサーでもある三上於莵吉の目に留まった。
「黍畑」は“二十五の女心の迷い“を訴えた作品であるが、これは後に詩集『蒼馬を見たり』の冒頭に自序として掲載されている。※1:青空文庫にあるので参照されると良い)。
三上に次作を要求された芙美子が数年前から雑記帳に書き溜めていた日記を送り、同年『秋が来たんだ―放浪記―』(放浪記〔初出〕。※1:青空文庫参照)と題して10月号から掲載された(期間は1928〔昭和3〕年10月号~1930〔昭和5〕年10月号迄)。
この日記スタイルの作品は、連載を重ねるごとに評判が上昇し、『女人藝術』に連載されている途中の、1930(昭和5)年7月に改造社から単行本化された。これが好評を得たことから、その後の連載分に書き下ろしを加えて、『続放浪記』が同年11月、同社から刊行される。
1939(昭和14)年には、「決定版」を謳って新潮社から刊行された際、改造社版より10年の歳月が経っており、作者は最初の放浪記時代とは違って食べるものも不自由しなくなったし、旅行も自由に出来るようになっている流行作家となっているので、彼女自身がこの作品を現在の目から見て不備だったところを大幅に書き直したようである。さらに、1946(昭和21)年5月からは、『日本小説』に第三部の連載が始まった。現在流布している『新版放浪記』は、改稿後の第一部、第二部に、第三部を加えたものである。一方青空文庫に掲載されている『放浪記(初出)』は、「女人藝術」に連載されたものをまとめた、同作品の原型だそうであり、その両方が読めるので、比較して読み比べるのも面白いだろう。
初版本は、観念的な言葉は極力避け、漢字より片仮名を多用して、日記形式のセンテンス(文)を短くした文章が特徴であるが、それは、彼女がカフェーで働きながら、寸暇を惜しんで書き付けたという執筆事情によるのだろうが、その分、人間林芙美子が生き生きと描出されている。又、決定版と比較すると表現も稚拙で、作者の若さゆえのセンチも鼻につくところがあるが、それが、欠点を越えて、主人公(作者でもあり)の“生”と“性”と対決する真摯な姿が結果的には、読者の胸を打ち親しみ深いものとなったようだ。
しかし、決定版では、説明不足の描写は整えられるが、逆に初版本で躍如としていた生の彼女ははるかに後退してしまっているといえるだろう。
タイトル『放浪記』の意味するところも、主人公が、あてどもなく職を転々と変えては生活の苦労をする、この苦労に耐えかねて、時には母のいる故郷に無けなしの金をはたいて旅行をし、心の充電をする。・・・そのような姿を描いているのが”放浪”なのだが、初刊本では、この”放浪”という意味そのものがダイレクトに使用されている。のみならず、”放浪”の意味は、”男に放浪”することでもある。
この作品『放浪記』は、“生”と“性”の”放浪”が繰り返し表現されながも、作品世界はそのような暗い雰囲気を濃厚にしていない。その理由は、主人公の楽天的な性格もその1つであるが、最大の理由は彼女に”物を書き、読む慰み”、言い換えれば文学に執着する心が強く存在していたことが、堕落しがちな彼女を救い、作品世界に向日性を付与しているからであるからではないかと言われている(※6)。
生前、芙美子が好んで色紙に書き残した「花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき」という箴言(しんげん=戒めや教訓となる短い言葉)も、「書き続けることの業」をこのように思っていた実感なのかも知れないし、「男に放浪し、職業に放浪する私」を書いた芙美子自身が自分へのイメージを「苦しいことばかり多い中を生き続けている」という装いにしたいが為のエピグラフだったのかも知れない。『放浪記』により、大衆の熱狂的な支持を得た林芙美子は、その反面、彼女の成功を妬んで、悪口を言触らす旧知の人々に苦しめられることにもなり、彼女にはその死以後まで“放浪者”としてのイメージがついてまわった。
フリー百科事典ウイキペディア(Wikipedia)の林 芙美子の解説では、冒頭には、「物心ついた小学生時代に貧しかった生い立ちからか、底辺の庶民を慈しむように描いた作品に、ことに名作がある。」・・・と書かれているが、確かに、『新版 放浪記』第一部:放浪記以前にも、8歳のとき、家を出た後、母と養父の3人で、九州一円を行商しつづけ、毎晩が木賃宿などを転々する悲惨な幼女時代だったことが書かれている。
だが、実際には、“芙美子の幼年から少女時代は、『放浪記』に書かれているような悲しい生活ではなく、実父の宮田麻太郎は、なかなか商才のある人で羽振りもよく、一家の生活は、経済的にかなり恵まれていた。し芙美子も可愛がっていたようだ”・・とするのは、芙美子の出生地が下関生まれでなく門司生まれであると立証した門司文化団体連合会会長の井上貞那氏であり、井上氏の義母佳子さんが芙美子と幼いときから姉妹のように仲良しであったという。
この佳子さんの父の横内種助が井上氏の義理の祖父になり、この種助氏が芙美子の実父の宮田浅太郎と親しい縁があって、彼女の誕生のこともよく知っていたというのである。そのことは、私が現役時代の最後に福岡で仕事をしていたときに、取引銀行であった福岡シティー銀行で手に入れた北九州に強くなろうシリーズNo2として同行が発行していた“林芙美子の実説「放浪記」”という小冊子に書かれていた。
その小冊子が以下の画像である。ネットで検索すると、同じ内容のものがアップされていた。それが以下参考に記載の※7「林芙美子の実説「放浪記」」なので詳しいことを知りたければそこを参照されるとよい。

芙美子は尾道女学校を卒業し少なくとも尾道時代は仕合せだったというが、当時、昔の高等女学校をアルバイトをして卒業などと言っているが、とっても木賃宿で生活しているような人が通えるなど考えられず、井上氏は、恐らく、実父の麻太郎からの仕送りがあったのだろうといい、“『放浪記』は事実のままもあるが昇華させている事も多い。文学作品だからフィクションも多いのです。”・・・と言うが、小説などと言うものはもともとそういうものだろうと私も思う。
ただ、実母のキクが芙美子の出生地については口をつぐんで何も語らないので何かキクさんだけの秘め事があるのだろうと推測している。甲斐性もあるが良く遊びもした実父の麻太郎に惚れて追いかけてきた芸者(おハマ)を、世帯が2つだと不経済だから一緒でも良いと自分たちの本宅に住まわせてしまったのは太っ腹な母キクだったそうだが、そのために、次第に、14歳も年上のキクが麻太郎に疎まれるようになり、キクに同情していた番頭の沢井喜三郎(後の養父、キクより20歳も年上)に因縁をつけて2人が良い仲だといって追い出してしまったという(キクと喜三郎の間は同情だけだろうか?)。それで、芙美子も2人について出てゆくことになったが、その後、長崎と佐世保でうまくいかなかったので、1年後の1911(明治44)年には、出生地の門司とは対岸(関門海峡の北岸に面した)の山口県の下関へ帰り、古手屋(古着や古道具を売買する店)をはじめそれなりの生活はしていたようで、よく海をわたって、実父とおハマさんのいる門司の家へ遊びにきていて、佳子さんとも遊んでいたということが書いてあったが、これなど読んでいると、多感な少女が実の父が芸者を家に入れ母親を追い出した門司より、養父と一緒に住んでいた楽しかった思い出のある下関を出生地としたかったのかも知れない(ただ2年ほど後には少々お人好しの喜三郎は貸し倒れが重なってどうにもならなくなり、下関から親子3人行方が知れなくなるのだが・・・)・・・。それは、さておき、この昭和中期の小説を読んだことも無い人たちでも、今日知らない人がいないほど有名にしたのは、演劇界の帝王といわれていた菊田一夫脚本、森光子主演の舞台『放浪記(戯曲)』ではないか。
大阪でお笑いの世界で知られていた程度の森光子が出演していた大阪テレビの「ダイラケのびっくり捕物帖」が、1958(昭和33)年春から、日本テレビによって東京でも放送された。これが、日本の民間テレビ局の上方コメディ番組としては初の全国ネット番組となり、これにより、光子の名も初めて東京で知られるようになる。
そして、幸いにも、この年の夏、光子は「びっくり捕物帖」で共演していた中田ダイマル、ラケットと、大阪の梅田コマ劇場(現:梅田芸術劇場の前身)で、トリオを組んだ「あまから人生」という舞台に出演中の演技を、翌月公演の打ち合わせで梅田コマ劇場に出張していた菊田が仕事を終え、あわただしく飛行機で帰るところ、空港へ向かうハイヤーの到着が遅れ、時間つぶしに3分間だけ客席の後ろからステージを覗きに来ていたその目に留まった。
そのようなことから。1958(昭和33)年に誘われて東京・日比谷の芸術座の舞台(「花のれん」)を踏んだのがきっかけで、光子の東京進出と舞台女優としての道が開けた(※8、※9参照)。
その恩師でもある菊田に『放浪記』 の主役に抜てきされて芸術座で 『放浪記』 が初上演されたのが1961(昭和36)年もことであった。
作家・芙美子が尾道から上京し、貧困の中で、恋をして、棄てられながら、詩と小説を書き続け、人気作家へたどり着くその波乱の半生を、かって、身近に接した経験を持つ劇作家・菊田が自らの視点で劇化した舞台である。哀歓とリアリティーが各場面でにじみ出るこの舞台劇は、初上演から大好評を博し、初演は7ヶ月のロングラン上演となった。
森光子は初演のこの演技により芸術祭賞文部大臣商を、テアトロン賞(※10参照)を受賞し、彼女自身の芸能活動の代名詞的な役どころとなった。

上掲の画像は、1961(昭和36)年初演の森光子である。画像は、2008年10月23日~11月4日、フェスティバルホールでの『放浪記』上演広告特集記事からのものであり、同年4月27日朝日新聞広告面より抜粋したものである。
この時、彼女は既に41歳。しかし、若く見えるよね~。なんでも、梅田コマ劇場で「あまから人生」に出演中の森を見たとき、菊田の目には当時38歳の光子が10代に見えたというらしいので、これは驚きだね。
この初演以来、『放浪記』は森光子の代表作となり、以後芸術座で公演を続け、1973(昭和48)年菊田が死去すると、1981(昭和56)年から三木のり平の潤色・演出により受け継がれ、1990(平成2)年9月23日に通算上演回数1,000回を突破した。冒頭に掲載のものが芸術座での1000回公演を行なった時の芸術座のチラシ(マイコレクションより)である。
このときは9月1日~12月27日の4ヶ月間の長期公演である。チラシ中央には芙美子の言葉「花のいのちはみじかくて苦しきことのみ多かりき」が記載されている。
初演の舞台で森光子が冒頭に「花の命は短くてーー」の一節を朗読し、今日までこの言葉が受け継がれている。『放浪記』は森光子の「でんぐり返り」がある舞台作品としても有名であったが、体力も衰え、2008(平成20)年の舞台(この時88歳)では、それまでのでんぐり返しを取りやめ、万歳三唱にしたが、その後も公演は続けられ、2009(平成21)年5月9日の彼女の89歳の誕生日には2000回公演を達成し、千秋楽時点で2017回に及んでいる。なお、2005(平成17)年の公演を最後に芸術座劇場が閉鎖されたため、2008年はシアタークリエ、2009年は帝国劇場にて上演されている。
最後になったが、森光子による初期の『放浪記』の舞台冒頭で朗読された『花の命は短くてーー』は、原作にも見られない言葉であり、長い間原典が謎とされていたものだが、今では、林芙美子より友人の『赤毛のアン』の翻訳で知られている村岡花子に贈った未発表の詩であったことがわかっっている。
それは、村岡花子のお孫さんである恵理さんによる村岡花子の評伝『アンのゆりかご』が出版された中にも、原稿用紙に万年筆で丸いクセのある字で書かれた直筆の詩を額装して花子の書斎の壁に飾られていたことが書かれており、現物が、村岡花子記念館にも展示されているが(※11)、その詩は、恵理さんが、北九州市立文学館に調査を依頼し、全集未収録の直筆作品と確認されているようで、又、知られている言葉は、その12行の詩の一部であるようだ(※12)。その詩を以下に抜書きしておこう。

風も吹くなり
    雲も光るなり
    生きてゐる幸福(しあはせ)は
    波間の鴎のごとく
    漂渺(*)とたヾよい

    生きてゐる幸福(こうふく)は
    あなたも知ってゐる
    私もよく知ってゐる
    花のいのちはみじかくて
    苦しきことのみ多かれど
    風も吹くなり
    雲も光るなり

 (※文中の漂渺は縹渺(ひょうびょう。=幽〔かす〕かではっきりと分からない様)のこと。
この詩には、よく言われるような暗さはなく、第一次大戦後の暗い時代の東京で、露天商、女工、売子、カフエの女給などの職を転々し、飢えと忍従の逆境にあえぎながら、俳優や詩人らとの恋の遍歴もしながら、明日に向かってしたたかに生き抜いてきた芙美子の力さが窺える。そんな、芙美子は、酒を飲んで苦労の慰みにしていたことが、彼女の詩「命の酒」や「酔いどれ女」から伺える。以下参考に記載の※14:「酒の詩歌句集」の中にある林芙美子の詩を見られると良い。
参考:
※1:青空文庫:作家別作品リスト:No.291 林 芙美子
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person291.html
※2:ねえ、料理は呼吸してゐなくちやいけませんよ: 文-体・読本
http://www.asthnonclub.com/buntai/2004/06/post_137.html
※3:旅愁(ふけゆく秋の夜) 日本の唱歌
http://www.worldfolksong.com/songbook/usa/dreaming_home_mother.htm
※4:神鋼リードミック株式会社
http://www.shinko-leadmikk.co.jp/contents/development.html
※5:林芙美子生誕地文学碑- たわいもないブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/drfcr421/25171037.html
※6:KURA:「放浪記」論:その基礎的研究
http://dspace.lib.kanazawa-u.ac.jp/dspace/bitstream/2297/7343/1/AN00044182-33-mori-3.pdf
※7:林芙美子の実説「放浪記」
http://www.ncbank.co.jp/chiiki_shakaikoken/furusato_rekishi/kitakyushu/002/01.html
※8:女優 森光子 (著者:森光子)試し読み
http://books.shueisha.co.jp/i/tameshiyomi/978-4-08-781388-3.html
※9:誰か昭和を想わざる 昭和放浪記
http://www.geocities.jp/showahistory/history04/36b.html
※10:テアトロン賞とは?
http://www.geocities.jp/chiemi_eri/chiemi_sub6-02.htm
※11:映画「浮雲」
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD1486/index.html
※12: La Vie
http://duolavie.blog117.fc2.com/?mode=m&no=175
※13:おのみちだより:、「赤毛のアン」のファンの方から教えていただきました。
http://fujiwara-chaho.jp/blog_category/onomichi_monogatari/399.html
※14:酒の詩歌句集
http://www.h6.dion.ne.jp/~jofuan/myhaiku_008.htm
ポカポカ春庭の言葉と文化逍遥記 
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/kotoba0506a.htm
尾道観光旅館 千光寺山荘 林芙美子
http://www.senkojisanso.com/bungaku/index.htm
「花のいのちはみじかくて、苦しきことのみ多かりき」未発表詩全文草稿発見!
http://blogs.yahoo.co.jp/dolphin_onomichi/34032680.html
林芙美子の主な年譜 - 400 Bad Request
http://park23.wakwak.com/~hotaru2/hayasifumikonenpu.html
芙美子-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E8%8A%99%E7%BE%8E%E5%AD%90



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